この記事は、「魔法少女まどか☆マギカ」に関する、私個人としての考察を紹介するものです。文中、キャラクターに対して悪意的な表現も含まれますので、そういう表現が許せない方は、お読みにならないようお願いします。
魔法少女まどか☆マギカを読み解く
番外編
さて、第3回ではここのキャラクターやストーリーの部分部分について掘り下げるつもりだったのだが、ブログを使って大々的な反論を戴いたので、先にそれに対して反証をしておきたい。
ごく個人的な反証に対する、さらに個人的な反証なので、今回はかなり大胆な個人攻撃ととられる可能性のある文章になるかと思う。そういうのが嫌いな方は、今回は読み飛ばしていただきたい。
読んでからアレコレ言うのはなしでお願いします。
さて、問題のブログ記事はこちらである。
http://killingtruth.jugem.jp/?eid=98
http://killingtruth.jugem.jp/?eid=99
「その通りなんだよ」
まずまどかの本題に入る前に、氏があげている「バットマン」の例について言わせてもらおう。
正直……お話にならない。
彼は、アメリカ合衆国という国がどういうお国柄を、まず理解していない。かつて東西冷戦時代は、「共産化するくらいなら、メチャクチャにしてしまえ!」と言わんばかりに、東南アジアから中東にかけて、戦禍をばら撒いた国である。そして冷戦が終わったかと思えば、そのメチャクチャにしてしまった国にテロ支援国家のレッテルを貼り、土足で入り込み、自国の主張する体制を押し付ける。その上で、自国は正義の国だと名乗っているのだ。
もちろん自分も、旧ソ連や中共よりは、アメリカの方がいいに決まっている。だが、それは比較論でしかないのだ。三大海軍国と呼ばれた戦前のように、日本が軍事的にも外交的にも、真に独立した強国であるのなら、それがモア・ベターであることに間違いないはずだ。
テロ支援国家であったアフガン・タリバン政権やイラク・フセイン政権を決して肯定するわけではないが、そもそもそうしたのは、他ならぬアメリカなのである。これらの国々は、なりたくてなったのではなく、そうならざるを得なかったのだ
幸いにして、東南アジアでは、カンボジアを除いてアメリカのばら撒いた戦禍を長期間引きずることはなく、安定した状態になった。だが、アフガニスタンや中東は、今でもあの通り、荒れ放題、もしくは西側先進国の搾取対象になっている。それがアメリカの「正義」である。
バットマン、またスーパーマンを代表するマーブル・スーパーヒーローは、この「アメリカの正義」の象徴であると言っても過言ではない。戦前から存在したスーパーマンなど、対戦中はナチス・ドイツや日本と戦い懲らしめる作品があるのだ。いや、マーブル・スーパーヒーローだけではない。ディズニーのドナルドダックも、ヒトラーをぶん殴ったり、日本海軍と戦ったりしている。もっとも、彼は(日本では知られていないが)設定上職業軍人なので、戦時下において敵国と戦うのは当然の事だ。個人的には、兵役拒否したミッキー・マウスのほうが問題だと思う。
と、ここまでくれば言うまでもないが、彼があげたバットマンの曲解例は、実のところ曲解でもなんでもなく、ありえて当然の解釈なのだ。
ややこしいことに、日本はこの点、勧善懲悪が好きという部分でアメリカと似通っているため、ひねくれた見方に見えてしまう。だが、今なお対立関係にあるロシア人や、中国人、あるいはベトナム戦争で泥沼のゲリラ戦を繰り広げたベトナム人から見て、アメリカ流の正義を体現したこれらのヒーローを全肯定できるだろうか? 100%の否定も出来ないが、疑問が残るのが当然だろう。
「視聴者は神ではない」
よく、視聴者は神の視点で見ているから、結末を知っているから、という反論が来る。だが、視聴者は神ではない。真に神の視点で見られるのは、制作に携わったスタッフだけである。
本作品において、視聴者が見ているのは、第10話を除けば、あくまで第1話から始まった時間軸でしかないのである。このことは重要なので、この先を読み進める前に、まず頭にしっかり記憶しておいて欲しい。
さて、氏は「(ほむらは)世界を滅ぼすキッカケを作ったと言うだけで、ほむらがそれを望んでいたと決めつけてしまうのは、全く論理的ではありません」と主張しているのだが、これは、氏が『おりこ』を読んでいないか、読んでいてもまったく理解していないかのどちらかだと思う。個人的には、前者であって欲しい。
『おりこ』を前提にすれば、少なくとも本編の時間軸の時には、ほむらは自分の時間遡行の結果がどうなるかを知っていたはずである。
さて、ほむらが望んでいなかった、と言うのは、自分も別にこれに異はない。だが、望んでいようがいなかろうが、解っててやった以上、“未必の故意”が成立するのだ。これは、日本の刑事裁判でも立派に成立する動機である。ほむらがそれを望んでいたか否かの議論は、まったく意味がないのだ。問題は、解っててやった、と言うことなのである。表現からして、どうも第2回には目を通していただいていないようだが、ほむらは「確信犯の悪党」ではなく、「確信犯ぶった小悪党」なのだ。つまり、この自己正当化に入ってしまっているのである。“未必の故意”の罪悪感から逃げるために、悪党ぶっているのだ。
ヒトラーと一緒にするな、確かに正論だ。ただしそれは、きちんと確信犯であることを認識したヒトラーの方がマシである、という意味に捉えるしかない。
ついでに言っておくと、悪意がなければ何でも許されると言うのは、これもまた間違いである。日本の刑法には、過失罪が存在している。先進国のほとんどが同様である。増してほむらは、地球人類60億の虐殺の共同正犯である。過失だろうが、故意だろうが、罪に問われて当然なのである。
『魔法少女おりこ☆マギカ』は、確かに本編ではない。だが、たとえどんなやり取りがあったにせよ、公式チェックが入り、出版された以上、受け取り手は、それが『魔法少女まどか☆マギカ』の世界の一部だととるしかない。
かつて、『宇宙一の無責任男』シリーズの吉岡平氏が、著書のあとがきの中でこのように書いていた(原書が手元にないので、趣旨になるが、ご容赦願いたい)。
「過去の話を書ける外伝は楽しいけれど、本編にあわせて差し引きゼロにしなければならないから、難しいんですよ」
まったくその通りで、それが不都合になる外伝なら、はじめから出すべきではないのである。
さて、ほむらが冷静かどうか否かについては……議論するまでもなかろう。さやかの契約の危険性は充分に認識していたはずなのに阻止せず、まどかが無断欠席しても自分は授業を受けている(例え杏子が連れ出したと知らなかったとしても、どこかでほっつき歩いていれば、いつキュゥべえの甘言に弄されるか解ったものではないはずだ)。冷静と言うより、何も考えてないとしか、言いようがない。
こうしたほむらの行動の矛盾の一つ一つを追っかけていくと、ほむらは狂人以外の何者でもなくなってしまい、ストーリー自体も破綻していることになってしまう。だから、ほむらに対する評価は、その目的の究極を以って、「悪党」と位置づけるしかないのだ。
よって、第1回、第2回で述べたとおり、ほむらはその存在と、第10話で明らかにされたその過去が重要であり、それ以外の点における些末な行動の矛盾などは、どうでもいい、と評価していいのである。
「履き違えられた『公式』」
さて、氏は「「平行世界がその後も続いていく」というのは、厳密には公式設定ではありません」という記述をしている。
だが、前述したとおり、作品を「真に神の視点から見ることが出来る」のは、スタッフだけである。その中でも、虚淵氏は、世界を形作る脚本担当である。本来ならシリーズ構成の仕事だが、本作にはそれはいない(これは、本作のように1人の脚本家が全話を担当する作品では珍しいことではない)し、最高責任者である新房監督も岩上プロデューサーもそれで通したのだから、本作の世界の形は、虚淵氏の頭の中にあるものがすべてである。
その彼の発言が公式と取られるのは当たり前のことなのだ!
ましてや、これは商業ベースの雑誌のインタビューに対しての発言である。これが、(それはそれでまた別個に問題だが)ブログやtwitterの発言なら、あくまで私的な発言と切り捨てても良い。だが、この場合はその言い訳は通用しない。雑誌の編集部側も、公式側に内容をチェックしてから発行の運びになっているはずだからだ(そうでなければ、この『オトナアニメ』という雑誌の編集部には倫理的に大いに問題があると言う話になる)。
それがいやなら、無責任なことを口走らなければ良い。第2回で、自分が「作品外でグダグダ発言するな!」と言ったのは、つまり、そういう意味なのである。
一方、氏は「バタフライ・エフェクト」という作品について長文を書いているが、一方で虚淵氏が「(ループは)この作品の主題ではありませんから」とも言っている。つまり、本作では、そんなものは刺身のツマだ、と、書いた本人がはっきり言っているのである。だから、それを議論する意味はないのだ。視聴者は、実際に世に出た作品の表面だけで評価すればいいのだ。
「口実は目的」
さて、まどかに関する考察の反論の部分に移る。
「結果的にさやかを救わなかったのだから、さやかに友情なんか感じてなかったんだろう」という記述がある。これは、曲解されたと言うより、自分の言葉が足りなかったと言うべきだろう。
そもそも、友情を感じていなければそこに目的や大義名分を見出すはずがないのだ。
大切な人間が危機に陥ってる、自分なら何とかできる、これなら周囲を説得できる。
逆に、友情なんか感じていないのだったら、まどかのような主体性のない人間、しかも若干14歳の中学生が、それを大義名分にまで出来るはずがないのだ。ちょっと極端な例えになるが、金銭に困っていない人間が強盗なんかするわけないのと同じである(あくまで例えなので、悪意的に捉えないで欲しい)。
「まどかは普通に「死ぬのが怖くて」一度は魔法少女になることを諦めたのですから」これに関しては、もう1回こっちの本文読み直してみろとしか言いようがない。第4話であれだけマミの死を痛感している場面がありながら、次の第5話、作品内時間で1日しか経たないうちに、またキュゥべえを頭に載せるまでになってしまっているではないか! 本当にマミの死にトラウマレベルのショックを受けているのなら、さやかについていくにしたって、自分を契約させようとするキュゥべえをここまで近くにおけるはずがないのである。怖くなって逃げかけたのはあるかもしれないが、結局のところ、魔法少女になることを諦めきってなどいなかった、としか判断するしかない。あるいはそうでないなら、恐怖の感覚を麻痺させた狂人である。
次、ほむらの発言に対するまどかの反応に対して。
ほむらの言葉が、もし、第8話で始めて出てきた反応なら、氏の言い分が正しいだろう。だが、ほむらはここまでに、似たような趣旨のことを(遠回しにではあるが)何度も言っているのである。挙句の果てには、「さやかのことは諦めて」とまで言い切っているのだ。
それこそ、さやかに友情を感じている、大切な存在だと思っているなら、それへの反論は自然に出てきて然るべき言葉だ。むしろ、「なに言ってんだこいつ」としか思えないような相手なら、ここまでのほむらの言動を鑑みるに、まどかがもう少し快活な人間であれば、先んじてほむらに牙を剥いていてもおかしくない(もっとも、それならこの物語はここまでややこしくなっていないのだが)。100%可能かといわれればそれはまた疑問が残るものの、それを100%否定する以上、矛盾しているのは、どう考えても氏の言い分のほうではないだろうか?
オクタヴィアの考察に関しては、確かに自分の個人的見解であるが、どっちにしろ、さやかが破滅したことに変わりはない。杏子やまどかがそれを認められなかったとして、その点が真か偽かにまったく意味はないのだ。
それを前提に、逢えて自分がこの説を取った理由を説明させてもらうならば、
「使い魔は人を喰らうと、それを作った魔女と同じ魔女になる」
という点である。
この設定からするなら、やがてホルガーやクラリッサがオクタヴィアになる。この時、オクタヴィア≒さやかであれば、さやかが無限増殖してしまうのと同義になってしまうからだ。もし魔法少女と魔女に可逆の可能性が0%でなければ、それが実現したとき、それこそ大混乱になってしまうし、魔法少女が大増殖したら、片っ端から魔女を狩られてシステムが破綻してしまう。
そんなメモリリークなシステムを何万年単位で運用しているとしたら、インキュベーターは人間を超越しているどころか、人間未満のバカである。当然、あり得ない。
だから、魔法少女≠魔女である、と考えざるを得ないのだ。
「まわりくどくて強かです」
さすがに、これは個人的な考察であることを前提にせざるを得ないのだが、まどかはまわりくどくて、強かな人間である。ただし、無自覚に。
自分はまどかを「ゆのコピー」であると言った。主体性がなく、確りとした将来感、目的意識がなく、セルフイメージが弱く、そしてそれらをコンプレックスとしている少女である。
ただし、それと、自己主張しないこととはまったく別のことなのだ。むしろ、コンプレックスを抱いていると言うことは、自己主張がある証拠だと思っていいと考える。
『ひだまりスケッチ』において、まどかのコピー元であるゆのは、意外に突拍子もない提案をしたりしている。ただし、自信がないので、常にテンパり気味だ。
ただ、ゆのの場合、あまりに変な提案をしても、身近にいる、半分社会人の沙英が即座に叱り飛ばしてくれるので、実行に移さないですんでいるだけである。
ところが、まどかには、沙英のように自分にブレーキをかけてくれる人間がいないのである。さやかはどちらかと言うと宮子ポジでブレーキどころかアクセル役だし、仁美も沙英ほどには老練ではないし、担任は40近いはずなのにあの恋愛脳である。唯一いるのは母・詢子だが、常にそばにいない上に、第11話で明らかになったように、まどかは詢子に対して隠し事をし、嘘をつくのである。つまり、親の前ではいい顔をする、まわりくどくて強かな、そしてありがちな中学生なのだ。
ゆのにもそういう一面はあるが、ヒロや沙英が常にごく近くにいる(付け加えるなら宮子もこの点ではかなり鋭い)ために、即座に見破られてしまうため、それに至らないだけなのだ。
また、近くにさらに(単語本来の意味で)ユニークなキャラクターがいるために、そう見えないというのも2人に共通する。ゆのにとっての宮子、まどかにとってのさやかである。
繰り返すが、ゆの、そしてそのコピーであるまどかには、自己主張を持つ強かさはあり、それを“なるべく自分が傷つかないように”実現しようとするまわりくどさもある。
そうでないキャラは、これも『ひだまりスケッチ』にいる。なずなだ。彼女は常に、受動的で、嫌なことを嫌と言えない。だが、まどかはなずなのコピーではない。
「だいたい氏の考察を通したまどかは「ただの憧れのために命を投げ出そうとしている少女」だったり、「死ぬのが怖いだけの普通の少女」だったりと、一貫性がありません」という部分に関しては、やはり、こちらの言葉が少し足りなかっただろうか。
そもそも、まどかのコピー元であるゆのが、一貫性があるキャラクターではない、あってはならないのだ。これは、第1回で書いたつもりなのだが、ゆのに一貫性がないことこそ、『ひだまりスケッチ』という作品を成立させるのに必要なファクターだからだ。ゆのの対極にいるキャラが、『らき☆すた』の泉こなたである、と言えば解っていただけるだろうか?
また、「ただの憧れのために命を投げ出そうとしている少女」だったり、「死ぬのが怖いだけの普通の少女」だったり」というのは、ちょっとこちらの記述を曲解されている、こればかりはそういうしかない。この点について自分は、命を投げ出そうとしている、と書いたつもりはまったくないからだ。むしろ、自分だけはその可能性はないと思い込んでいる、と書いたはずである。
まどかに一貫性がないことに関して、自分は、虚淵氏に最大限好意的に解釈したつもりである。その理由は、また後述するが、本作に対するもっとも一般的な批判は、まどかに一貫性がないこと、特に第9話までと第11話、第12話でまるっきり別人になったかのような言動についてだからだ。虚淵氏が計算して書いたとするなら、こう解釈するのが妥当なのではないか、という一例なのである。
つまり、鹿目まどかというキャラクターの問題点として、『ひだまりスケッチ』という、本作とはまったく共通性のない作品の主人公のコピーである、という点としてあげたつもりなのだ。
確かに反証するのは勝手だが、では第10話の舞台裏でまどかにどんな心境の変化があったのか、こちらを否定するのではなく、作品から要素を取り出して考察していただきたい。そうでなければ、こちらの記述に対するすべての反証は無意味だ。ちょっと挑戦的な物言いになるが、それは反証のための反証でしかないのである。
「奇跡によって解決するしかない」
まずタイムパラドックスに関してだが、これは、虚淵氏の発言どおりだとするなら、確かにそれ以前に遡って歴史改組が行われるはずはない。
ただし、これは、先にあげた虚淵氏の分岐説を肯定することが前提の話だ。あれは公式設定ではない、と言っておいて、別の問題ではそれに頼る、と言うのは既に矛盾している。
ほむらの能力≒平行世界移動に関しては、第1回で述べたとおり、本編でもキュゥべえがさらりとだが肯定しているし、『おりこ』でそれは確定している。つまり、オトナアニメでの虚淵発言を真としなければ、「あり得ない」と言い切れるはずがないのだ。
ただ、自分は真だとしているので、それについては、少々ひねくれた発言であったことは認めざるを得ない。
パラドックスについて、これは第2回で触れたはずで、本編の願いでも結局何らかの大きなパラドックスが発生していなければおかしいのだ。魔女と魔獣、根本が同じだとしても性質的にまったく違うものである以上、同じ未来が描かれているはずがないのである。
それこそ、第二次世界大戦で枢軸が勝利してしまったかもしれない。明治維新に失敗したかもしれない。今でもアナログ磁気テープビデオが主流かもしれない。
だが、実際にそんなことは起こっていないのである。
いや、それどころか、最初から魔女が存在していないのなら、まどかが契約して概念になる必要そのものがなくなっているはずなのだ。まどかが消えているという現在がありえないのである。
また、契約直後の戦いで、隕石のようなクリームヒルトが地球を襲おうとしたとき、まどかのソウルジェムは既に砕けていなければおかしいのだ。にもかかわらず、まどかは魔法少女として健在で、“絶望する必要なんかない!”と言って、クリームヒルトを撃つのである。願いにある通りに、生まれる前に消したのではない。生まれたクリームヒルトを消したのだ。
氏があげている「親殺しのパラドックス」は、本編でも起こっていることなのである。
これについて、自分は第2回でちゃんと書いたはずだ。つまり、「契約によって世界が改変されても、それに直接関係のない事象には遡及して影響するすることはない」システムなのだ。これは「タイムパラドックスにおける時間の自己修復論」として、実際にある理論である。
これを実際に物語として成立させているのが、言うまでもない名作『ドラえもん』である。ドラえもんが20世紀の野比家に来たとき、のび太の将来の結婚相手はジャイ子だった。しかし、後にドラえもんによる歴史改変によってそれが源静香に変わっても、22世紀の子孫であるセワシは存在し、ドラえもんも22世紀の野比家に購入されている。これが「時間の自己修復論」を用いた物語の典型である。
まっとうに考えれば、まどかは自分を魔女化しない方法は端から存在しないのだ。だったら、モアベターな選択をまずぶつけるべきである。否、そもそもやってみもしないうちから諦めることこそ、中学生らしくないのではないだろうか。
タイムパラドックスを現代の人間が実験して実証する方法がない以上、この部分はどうしてもご都合主義に走るしかないのである。
もっとも、第1回で自分が主張したような願いをまどかがしたとして、それで上手く行ったらいくらなんでもご都合主義過ぎるだろう、という意見もあるかもしれない。だが、それでいいのだ。その理由は、後述する。
「キュゥべえは人類を超越しているか?」
氏の反証の本題ではないのだが、インキュベーターが人類の文明をそこまで押し上げたのか、それについての考察を付け加えておきたい。
個人的にだが、断言できる。これは否だ。
インキュベーターは、別に、アブラハムの宗教の聖典にある創造神のように、自らの持ちえるものを地球人類にもたらしたわけではない。
ただ、人間の願いを叶えただけである。
人間、自分の生きる時代の常識から、急激に外れたことは容易には想像できない。自分が知る限り、それが出来たのは歴史上に4人しかいない。産業革命を予言した天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、長距離ロケットの父ヴェルナー・フォン・ブラウン、50年早すぎた全翼機思想に取り憑かれた男ジャック・ノースロップ、科学のターニングポイントとなった偉人アルバート・アインシュタインだ。言うまでもないが、彼らは女性ではない。
私と同じ、30〜40代の人間に問いたい。
私達が子どもだった頃、1980年代の記憶を呼び起こして欲しい。
今日、新幹線が700系のような形をしているとあなたは想像しただろうか?
インターネットが普及し、当時のメインフレームを余裕で凌ぐようなパソコンが一家に1台、そんな時代が、20世紀中に訪れると予想しただろうか?
アナログビデオテープの時代が終焉し、たった5インチのディスクの中にテープよりもはるかに長い時間の録画が出来る時代が来ると確信していただろうか?
人間の想像力と言うのはそんなものなのである。
インキュベーターの奇跡で文明の発展を早めたところで、せいぜい、スキップできるのは5〜10年と言ったところだろう。
まどか世界においても、その人間の希望を叶えているに過ぎないインキュベーターが存在しなかったとして、それはせいぜい、1世紀に満たない誤差でしかないだろう、と言うのが、自分の個人的結論である。
「生きてこそ浮かぶ瀬もあれ」
自分は自他共に認める、所謂“ネット右翼”である。靖国神社は肯定しているし(ただ、申し出られた分詞を認めないのはいささか不可解だが)、天皇陛下の敬称を略してお呼びすることもはばかられるタイプである。
ただし、自分は特攻を決して肯定しない。その気高き志は認めよう。だが、その結果はどうだったか。さんざん以外の何者でもなかった。特殊技能者である航空機搭乗員をあたら一方的に消耗し、挙句一億総玉砕・水上特攻の美名のもと、事実上の最強戦艦たる「大和」を徒に喪失して、屈辱の無条件降伏に追い込まれたのだ。
歴史のifを使うのは卑怯かもしれないが、特攻で失った航空戦力、そして「大和」以下の水上戦力を残した状態で降伏していれば、日本に対する占領政策はまた違ったものになっていたと言われている。事実、「大和」は、それだけの存在感があった。アメリカ側の司令官をして、「ヤマト」とは戦艦同士の艦隊決戦で決着をつけたい、と言わせたほどなのである。
もっともそういう状態にならなければ無条件降伏など受け入れるはずもなかったので、言っても詮のないことではある。ただ、これが日本人のいけないところで、本作の結末に肯定的な評価が存在することは、核攻撃まで喰らったあの屈辱の敗戦から60余年もたって何の反省もないことを暴露しているのだ。
滅びの美学と言うのは、確かにヨーロッパにも存在する。イギリスなどが根強い。だが、それは後進にきっちりと未来を残すための滅びである。日本人の陥りがちな精神論、あるいは背水の陣と言ったやけっぱちではなく、合理的判断に基づいた選択なのである。
だから、まどかの自己犠牲は到底、肯定し得ない。してはならない。後進に何も残していない。まどかの残したものは、インキュベーターの肯定でしかないからだ。後進によりひどい状況を押し付けただけだ。陰惨な玉砕戦法と特攻の挙句に、すべてを失ってアメリカにひれ伏し、精神まで売り飛ばすハメになったあの敗戦と、まったく同じ構図なのである。
と、こう書くと、「じゃあどうすればよかったのか」という反論が必ず来る。だが、これこそが、日本人を特攻に、玉砕に、そしてあの悲惨な戦後の占領体制に追い込んだ元凶なのだ。日本人は認めたがらないのだが、余裕のあるうちに「諦める」という選択肢は、必ずしも誤りではないのである。先の願いが無理だと言うなら、まどかは何もしないのがモア・ベターだったのだ。地球人類はインキュベーターの思い通りにはならない! という意思表示になったし、インキュベーターを肯定するぐらいなら、日本の一地方都市が壊滅した方がまだしも人類の尊厳のためだ(ワルプルギスの夜で人類全体が破滅しないことは、その知識を杏子が持っている、つまり過去にそれが現れていることで証明されている)。と書くと、先に書いた文章に反するように見えるかもしれない。だが、インキュベーターを肯定すると言うのは、地球人類60億が彼らの家畜であると言うことを肯定することに他ならないのだ。それとせいぜいが十数万人、実際に死亡するのはそれ以下だと考えられるから、どちらが重いか、言うまでもないだろう。
中学生にそれを考えるのは難しい、と思われるかもしれない。だが、そこに付け込まれていることは、第9話と第11話で、キュゥべえからえげつなく言われていることなのだ。
「ていうか、本当にまどかの目的が「魔法少女になることそのもの」だったのなら、キュゥべえを目の前で撃ち殺されて取り乱さないのは、おかしいんじゃないかと思いますが。この時点では、まどかはキュゥべえが復活することを知りませんし、そのキュゥべえが目の前で撃ち殺されたとあっては、魔法少女への可能性を永遠に葬られたと考えるはずです。しかし、この後キュゥべえが復活したことを知っても、特に喜んでいるようには思えません。それとも、キュゥべえが復活することも見越していたのでしょうか」
この部分に反論するのは、確かに難しく、明快な答えを持って反論できないということは、認めざるを得ない。
しかし、それであっても、あそこまで聞かされて契約と言う道を選んでしまっている以上、まどかはインキュベーターを否定していない。肯定してしまっているのだ。これは、それを遡って考えなければならない。例えば、ゴキブリが実は益虫だったと知ったら、人間はそれまでの価値観を、短期間のうちに翻せるだろうか? 大方は否であろう。つまり、まどかはインキュベーターも、魔法少女システムも、一度も否定も嫌悪もしていない、と考えたほうが(比較論的に)自然なのである。
さやかに関しては、若干悩むところだ。確かに、彼女は恭介の腕と言うものを残したかもしれない。だが、それは上条恭介にとって可能性のひとつでしかないのだ。もし、彼が少なくとも20歳を超えた大学生ぐらいだったら、また評価も違ってこよう。だが、彼はまだ中学2年生、人生のすべての進路はこれから決めるところじゃないか!
世の中、障害を負いたくて負う人間などいない。彼の腕の問題は、彼自身が負わなければならないものだったし、仮にそれで絶望したとしても、彼が魔女になるわけでもなければ、資産家の息子のこと、食うに困るわけでもなかろう。
大体、才能があり、しかも五体満足でありながら、金銭的、あるいは社会環境的事情でそれを諦めざるを得なかった人間など、この世界にどれだけいると思っているのか!
諦めなかった人間だっている。かのベートーベンだ。彼が極度の難聴だったことはあまり知られていない。9つの交響曲を残した時には、日常生活にも支障を来たしていた。19世紀のこと、現代のような高性能の補聴器などない。巨大なラッパ形の補聴具を使ったり、ピアノの弦を歯に結んで骨伝道の要領で音を聞くなど、血の滲む努力の末に、9つの交響曲と無数の短編曲を残したのだ。
もちろん、事情を知らない恭介にその責めを負わせてもしょうがないだろう(個人的には、さやかに癇癪を飛ばした時点で、充分に許し難いのだが)。
これは、インスタントな奇跡に頼り、挙句生き汚い事を放棄したさやかの責である。別に、杏子のように悪事に手を染めろと言っているわけではない。もう少し、周りに頼ってもいい、それだけの話なのである。彼女が理想とした巴マミだって、学校に通っている以上、まったく人と交流せずに生きてきたわけではあるまい。
だから、さやかについても、彼女の自己犠牲の精神と結末を、自分は肯定しないのである。
「ハッピーエンドは楽なんだよ」
どうも氏は、自分がなぜこの結末に否定的なのか、若干勘違いをしているようだ。
もちろん、キャラクターに救済はあって然るべきだと思ってはいる。
が、もっと根本的な事を言わせてもらえば、アマチュアとはいえストーリーテイラーとして、この結末はプロの作った作品としてお粗末としか言いようがないのである。
最近、どういうわけか、「ハッピーエンドの王道は難しい」という意見が多くなった。すべてを丸く収めるのが大変だからだとか、マンネリに陥るからとか、そういう意見が多い。
しかし、アマチュアなりに10年以上創作を続けてきた身から経験したのは、その真逆だった。ハッピーエンドは楽。手放しのそれなら尚更だ。
これは借りた言葉なのだが、今から何かを創作しようとしても、どうやってもなにかの二次創作になってしまう、と言う。それだけ、世には古今東西の創作物が溢れているのだ。
このような状況でマンネリズムを打破しようとしても、無理だそうなのである。
本作のような結末だと、視聴者にフラストレーションを与えてしまい、結果粗捜しされる原因になってしまうのだ。そうして、2ちゃんねるで批判されるような事態になってしまう。テレビ番組(アニメ、実写とも)の場合、1980年代初頭ごろまでなら、それでも良かったのだが、所謂VHS・β戦争の激化した頃からは、それはよほどうまく処理することが出来ないのなら、避けるべきなのだ。録画で簡単に粗捜しされてしまうからである。
逆に、ハッピーエンドにして、受け手にカタルシスを与えて気持ち良くさせてしまえば、粗捜しされて批判までされることは少ない。多少力技でも、ご都合主義でも、メアリースーでも、構わないのだ。
『キン肉マン』のゆでたまご氏が、長期連載によって発生した数々の矛盾を、“ゆで理論”と揶揄されつつも、決して低い評価を受けないのは、それがあるからである。
本作に限らず、この種のストーリーは、どうしても結末に多少のご都合主義を持ってこなければ成立しない。だったら、ハッピーエンドになる選択をした方が、視聴者からより高い評価を受けられることは間違いないのである。
自分がさやかファンであることを認めた上で言うが、仮に手放しのハッピーエンドが無理だったとしても、さやかがあの気持ち悪い結末を迎えていなければ、ここまで大騒ぎになることはなかっただろう。大方の視聴者は、まどかの自己犠牲によって魔法少女たちが救われた、で誤魔化されたはずだ。
実際、新房監督と岩上プロデューサーは、さやかが救済されるように直せないか打診している。虚淵氏曰く「情が移ったから」だそうだが、自分はそれだけではないと感じる。岩上氏に関しては寡聞にして詳しくないが、新房氏はベテラン中のベテランである。このままではまずい、と感じたからこそ、直しを打診したのではないだろうか。個人的には、そう考える。
ただし、これは虚淵氏1人の問題ではない。第1回で書いたように、虚淵氏の作風には、本来、ささやかだが、中毒的なほど熱心なファンを引き寄せる、強烈なカタルシスがあるからだ。本作にはそれがないから問題なのである。それは、虚淵氏に与えられた素材が問題だからである。その際たるものが、虚淵氏の引き出しにはないまどか、つまりゆのというキャラクターなのである。と、第1回で自分ははそう結論付けている。これもよく批判されていることだが、虚淵氏としては、自分の引き出しから出てきたほむらやキュゥべえを最大限活用して書く以外、できるはずがないのだ。与えられたキャラクターでも、最初からこの世界観、虚淵氏の書きうるストーリーラインにあわせたキャラなら、こうはならなかったろう。だが、繰り返しになるが、まどかをはじめとして、本作のメインキャラクターのほとんどが、長年『ひだまりスケッチ』を描いてきた蒼樹うめ氏の引き出しから出てきたキャラクターなのだから、虚淵氏が扱いあぐねるのは、当然の事なのである。
魔法少女まどか☆マギカを読み解く
番外編
さて、第3回ではここのキャラクターやストーリーの部分部分について掘り下げるつもりだったのだが、ブログを使って大々的な反論を戴いたので、先にそれに対して反証をしておきたい。
ごく個人的な反証に対する、さらに個人的な反証なので、今回はかなり大胆な個人攻撃ととられる可能性のある文章になるかと思う。そういうのが嫌いな方は、今回は読み飛ばしていただきたい。
読んでからアレコレ言うのはなしでお願いします。
さて、問題のブログ記事はこちらである。
http://killingtruth.jugem.jp/?eid=98
http://killingtruth.jugem.jp/?eid=99
「その通りなんだよ」
まずまどかの本題に入る前に、氏があげている「バットマン」の例について言わせてもらおう。
正直……お話にならない。
彼は、アメリカ合衆国という国がどういうお国柄を、まず理解していない。かつて東西冷戦時代は、「共産化するくらいなら、メチャクチャにしてしまえ!」と言わんばかりに、東南アジアから中東にかけて、戦禍をばら撒いた国である。そして冷戦が終わったかと思えば、そのメチャクチャにしてしまった国にテロ支援国家のレッテルを貼り、土足で入り込み、自国の主張する体制を押し付ける。その上で、自国は正義の国だと名乗っているのだ。
もちろん自分も、旧ソ連や中共よりは、アメリカの方がいいに決まっている。だが、それは比較論でしかないのだ。三大海軍国と呼ばれた戦前のように、日本が軍事的にも外交的にも、真に独立した強国であるのなら、それがモア・ベターであることに間違いないはずだ。
テロ支援国家であったアフガン・タリバン政権やイラク・フセイン政権を決して肯定するわけではないが、そもそもそうしたのは、他ならぬアメリカなのである。これらの国々は、なりたくてなったのではなく、そうならざるを得なかったのだ
幸いにして、東南アジアでは、カンボジアを除いてアメリカのばら撒いた戦禍を長期間引きずることはなく、安定した状態になった。だが、アフガニスタンや中東は、今でもあの通り、荒れ放題、もしくは西側先進国の搾取対象になっている。それがアメリカの「正義」である。
バットマン、またスーパーマンを代表するマーブル・スーパーヒーローは、この「アメリカの正義」の象徴であると言っても過言ではない。戦前から存在したスーパーマンなど、対戦中はナチス・ドイツや日本と戦い懲らしめる作品があるのだ。いや、マーブル・スーパーヒーローだけではない。ディズニーのドナルドダックも、ヒトラーをぶん殴ったり、日本海軍と戦ったりしている。もっとも、彼は(日本では知られていないが)設定上職業軍人なので、戦時下において敵国と戦うのは当然の事だ。個人的には、兵役拒否したミッキー・マウスのほうが問題だと思う。
と、ここまでくれば言うまでもないが、彼があげたバットマンの曲解例は、実のところ曲解でもなんでもなく、ありえて当然の解釈なのだ。
ややこしいことに、日本はこの点、勧善懲悪が好きという部分でアメリカと似通っているため、ひねくれた見方に見えてしまう。だが、今なお対立関係にあるロシア人や、中国人、あるいはベトナム戦争で泥沼のゲリラ戦を繰り広げたベトナム人から見て、アメリカ流の正義を体現したこれらのヒーローを全肯定できるだろうか? 100%の否定も出来ないが、疑問が残るのが当然だろう。
「視聴者は神ではない」
よく、視聴者は神の視点で見ているから、結末を知っているから、という反論が来る。だが、視聴者は神ではない。真に神の視点で見られるのは、制作に携わったスタッフだけである。
本作品において、視聴者が見ているのは、第10話を除けば、あくまで第1話から始まった時間軸でしかないのである。このことは重要なので、この先を読み進める前に、まず頭にしっかり記憶しておいて欲しい。
さて、氏は「(ほむらは)世界を滅ぼすキッカケを作ったと言うだけで、ほむらがそれを望んでいたと決めつけてしまうのは、全く論理的ではありません」と主張しているのだが、これは、氏が『おりこ』を読んでいないか、読んでいてもまったく理解していないかのどちらかだと思う。個人的には、前者であって欲しい。
『おりこ』を前提にすれば、少なくとも本編の時間軸の時には、ほむらは自分の時間遡行の結果がどうなるかを知っていたはずである。
さて、ほむらが望んでいなかった、と言うのは、自分も別にこれに異はない。だが、望んでいようがいなかろうが、解っててやった以上、“未必の故意”が成立するのだ。これは、日本の刑事裁判でも立派に成立する動機である。ほむらがそれを望んでいたか否かの議論は、まったく意味がないのだ。問題は、解っててやった、と言うことなのである。表現からして、どうも第2回には目を通していただいていないようだが、ほむらは「確信犯の悪党」ではなく、「確信犯ぶった小悪党」なのだ。つまり、この自己正当化に入ってしまっているのである。“未必の故意”の罪悪感から逃げるために、悪党ぶっているのだ。
ヒトラーと一緒にするな、確かに正論だ。ただしそれは、きちんと確信犯であることを認識したヒトラーの方がマシである、という意味に捉えるしかない。
ついでに言っておくと、悪意がなければ何でも許されると言うのは、これもまた間違いである。日本の刑法には、過失罪が存在している。先進国のほとんどが同様である。増してほむらは、地球人類60億の虐殺の共同正犯である。過失だろうが、故意だろうが、罪に問われて当然なのである。
『魔法少女おりこ☆マギカ』は、確かに本編ではない。だが、たとえどんなやり取りがあったにせよ、公式チェックが入り、出版された以上、受け取り手は、それが『魔法少女まどか☆マギカ』の世界の一部だととるしかない。
かつて、『宇宙一の無責任男』シリーズの吉岡平氏が、著書のあとがきの中でこのように書いていた(原書が手元にないので、趣旨になるが、ご容赦願いたい)。
「過去の話を書ける外伝は楽しいけれど、本編にあわせて差し引きゼロにしなければならないから、難しいんですよ」
まったくその通りで、それが不都合になる外伝なら、はじめから出すべきではないのである。
さて、ほむらが冷静かどうか否かについては……議論するまでもなかろう。さやかの契約の危険性は充分に認識していたはずなのに阻止せず、まどかが無断欠席しても自分は授業を受けている(例え杏子が連れ出したと知らなかったとしても、どこかでほっつき歩いていれば、いつキュゥべえの甘言に弄されるか解ったものではないはずだ)。冷静と言うより、何も考えてないとしか、言いようがない。
こうしたほむらの行動の矛盾の一つ一つを追っかけていくと、ほむらは狂人以外の何者でもなくなってしまい、ストーリー自体も破綻していることになってしまう。だから、ほむらに対する評価は、その目的の究極を以って、「悪党」と位置づけるしかないのだ。
よって、第1回、第2回で述べたとおり、ほむらはその存在と、第10話で明らかにされたその過去が重要であり、それ以外の点における些末な行動の矛盾などは、どうでもいい、と評価していいのである。
「履き違えられた『公式』」
さて、氏は「「平行世界がその後も続いていく」というのは、厳密には公式設定ではありません」という記述をしている。
だが、前述したとおり、作品を「真に神の視点から見ることが出来る」のは、スタッフだけである。その中でも、虚淵氏は、世界を形作る脚本担当である。本来ならシリーズ構成の仕事だが、本作にはそれはいない(これは、本作のように1人の脚本家が全話を担当する作品では珍しいことではない)し、最高責任者である新房監督も岩上プロデューサーもそれで通したのだから、本作の世界の形は、虚淵氏の頭の中にあるものがすべてである。
その彼の発言が公式と取られるのは当たり前のことなのだ!
ましてや、これは商業ベースの雑誌のインタビューに対しての発言である。これが、(それはそれでまた別個に問題だが)ブログやtwitterの発言なら、あくまで私的な発言と切り捨てても良い。だが、この場合はその言い訳は通用しない。雑誌の編集部側も、公式側に内容をチェックしてから発行の運びになっているはずだからだ(そうでなければ、この『オトナアニメ』という雑誌の編集部には倫理的に大いに問題があると言う話になる)。
それがいやなら、無責任なことを口走らなければ良い。第2回で、自分が「作品外でグダグダ発言するな!」と言ったのは、つまり、そういう意味なのである。
一方、氏は「バタフライ・エフェクト」という作品について長文を書いているが、一方で虚淵氏が「(ループは)この作品の主題ではありませんから」とも言っている。つまり、本作では、そんなものは刺身のツマだ、と、書いた本人がはっきり言っているのである。だから、それを議論する意味はないのだ。視聴者は、実際に世に出た作品の表面だけで評価すればいいのだ。
「口実は目的」
さて、まどかに関する考察の反論の部分に移る。
「結果的にさやかを救わなかったのだから、さやかに友情なんか感じてなかったんだろう」という記述がある。これは、曲解されたと言うより、自分の言葉が足りなかったと言うべきだろう。
そもそも、友情を感じていなければそこに目的や大義名分を見出すはずがないのだ。
大切な人間が危機に陥ってる、自分なら何とかできる、これなら周囲を説得できる。
逆に、友情なんか感じていないのだったら、まどかのような主体性のない人間、しかも若干14歳の中学生が、それを大義名分にまで出来るはずがないのだ。ちょっと極端な例えになるが、金銭に困っていない人間が強盗なんかするわけないのと同じである(あくまで例えなので、悪意的に捉えないで欲しい)。
「まどかは普通に「死ぬのが怖くて」一度は魔法少女になることを諦めたのですから」これに関しては、もう1回こっちの本文読み直してみろとしか言いようがない。第4話であれだけマミの死を痛感している場面がありながら、次の第5話、作品内時間で1日しか経たないうちに、またキュゥべえを頭に載せるまでになってしまっているではないか! 本当にマミの死にトラウマレベルのショックを受けているのなら、さやかについていくにしたって、自分を契約させようとするキュゥべえをここまで近くにおけるはずがないのである。怖くなって逃げかけたのはあるかもしれないが、結局のところ、魔法少女になることを諦めきってなどいなかった、としか判断するしかない。あるいはそうでないなら、恐怖の感覚を麻痺させた狂人である。
次、ほむらの発言に対するまどかの反応に対して。
ほむらの言葉が、もし、第8話で始めて出てきた反応なら、氏の言い分が正しいだろう。だが、ほむらはここまでに、似たような趣旨のことを(遠回しにではあるが)何度も言っているのである。挙句の果てには、「さやかのことは諦めて」とまで言い切っているのだ。
それこそ、さやかに友情を感じている、大切な存在だと思っているなら、それへの反論は自然に出てきて然るべき言葉だ。むしろ、「なに言ってんだこいつ」としか思えないような相手なら、ここまでのほむらの言動を鑑みるに、まどかがもう少し快活な人間であれば、先んじてほむらに牙を剥いていてもおかしくない(もっとも、それならこの物語はここまでややこしくなっていないのだが)。100%可能かといわれればそれはまた疑問が残るものの、それを100%否定する以上、矛盾しているのは、どう考えても氏の言い分のほうではないだろうか?
オクタヴィアの考察に関しては、確かに自分の個人的見解であるが、どっちにしろ、さやかが破滅したことに変わりはない。杏子やまどかがそれを認められなかったとして、その点が真か偽かにまったく意味はないのだ。
それを前提に、逢えて自分がこの説を取った理由を説明させてもらうならば、
「使い魔は人を喰らうと、それを作った魔女と同じ魔女になる」
という点である。
この設定からするなら、やがてホルガーやクラリッサがオクタヴィアになる。この時、オクタヴィア≒さやかであれば、さやかが無限増殖してしまうのと同義になってしまうからだ。もし魔法少女と魔女に可逆の可能性が0%でなければ、それが実現したとき、それこそ大混乱になってしまうし、魔法少女が大増殖したら、片っ端から魔女を狩られてシステムが破綻してしまう。
そんなメモリリークなシステムを何万年単位で運用しているとしたら、インキュベーターは人間を超越しているどころか、人間未満のバカである。当然、あり得ない。
だから、魔法少女≠魔女である、と考えざるを得ないのだ。
「まわりくどくて強かです」
さすがに、これは個人的な考察であることを前提にせざるを得ないのだが、まどかはまわりくどくて、強かな人間である。ただし、無自覚に。
自分はまどかを「ゆのコピー」であると言った。主体性がなく、確りとした将来感、目的意識がなく、セルフイメージが弱く、そしてそれらをコンプレックスとしている少女である。
ただし、それと、自己主張しないこととはまったく別のことなのだ。むしろ、コンプレックスを抱いていると言うことは、自己主張がある証拠だと思っていいと考える。
『ひだまりスケッチ』において、まどかのコピー元であるゆのは、意外に突拍子もない提案をしたりしている。ただし、自信がないので、常にテンパり気味だ。
ただ、ゆのの場合、あまりに変な提案をしても、身近にいる、半分社会人の沙英が即座に叱り飛ばしてくれるので、実行に移さないですんでいるだけである。
ところが、まどかには、沙英のように自分にブレーキをかけてくれる人間がいないのである。さやかはどちらかと言うと宮子ポジでブレーキどころかアクセル役だし、仁美も沙英ほどには老練ではないし、担任は40近いはずなのにあの恋愛脳である。唯一いるのは母・詢子だが、常にそばにいない上に、第11話で明らかになったように、まどかは詢子に対して隠し事をし、嘘をつくのである。つまり、親の前ではいい顔をする、まわりくどくて強かな、そしてありがちな中学生なのだ。
ゆのにもそういう一面はあるが、ヒロや沙英が常にごく近くにいる(付け加えるなら宮子もこの点ではかなり鋭い)ために、即座に見破られてしまうため、それに至らないだけなのだ。
また、近くにさらに(単語本来の意味で)ユニークなキャラクターがいるために、そう見えないというのも2人に共通する。ゆのにとっての宮子、まどかにとってのさやかである。
繰り返すが、ゆの、そしてそのコピーであるまどかには、自己主張を持つ強かさはあり、それを“なるべく自分が傷つかないように”実現しようとするまわりくどさもある。
そうでないキャラは、これも『ひだまりスケッチ』にいる。なずなだ。彼女は常に、受動的で、嫌なことを嫌と言えない。だが、まどかはなずなのコピーではない。
「だいたい氏の考察を通したまどかは「ただの憧れのために命を投げ出そうとしている少女」だったり、「死ぬのが怖いだけの普通の少女」だったりと、一貫性がありません」という部分に関しては、やはり、こちらの言葉が少し足りなかっただろうか。
そもそも、まどかのコピー元であるゆのが、一貫性があるキャラクターではない、あってはならないのだ。これは、第1回で書いたつもりなのだが、ゆのに一貫性がないことこそ、『ひだまりスケッチ』という作品を成立させるのに必要なファクターだからだ。ゆのの対極にいるキャラが、『らき☆すた』の泉こなたである、と言えば解っていただけるだろうか?
また、「ただの憧れのために命を投げ出そうとしている少女」だったり、「死ぬのが怖いだけの普通の少女」だったり」というのは、ちょっとこちらの記述を曲解されている、こればかりはそういうしかない。この点について自分は、命を投げ出そうとしている、と書いたつもりはまったくないからだ。むしろ、自分だけはその可能性はないと思い込んでいる、と書いたはずである。
まどかに一貫性がないことに関して、自分は、虚淵氏に最大限好意的に解釈したつもりである。その理由は、また後述するが、本作に対するもっとも一般的な批判は、まどかに一貫性がないこと、特に第9話までと第11話、第12話でまるっきり別人になったかのような言動についてだからだ。虚淵氏が計算して書いたとするなら、こう解釈するのが妥当なのではないか、という一例なのである。
つまり、鹿目まどかというキャラクターの問題点として、『ひだまりスケッチ』という、本作とはまったく共通性のない作品の主人公のコピーである、という点としてあげたつもりなのだ。
確かに反証するのは勝手だが、では第10話の舞台裏でまどかにどんな心境の変化があったのか、こちらを否定するのではなく、作品から要素を取り出して考察していただきたい。そうでなければ、こちらの記述に対するすべての反証は無意味だ。ちょっと挑戦的な物言いになるが、それは反証のための反証でしかないのである。
「奇跡によって解決するしかない」
まずタイムパラドックスに関してだが、これは、虚淵氏の発言どおりだとするなら、確かにそれ以前に遡って歴史改組が行われるはずはない。
ただし、これは、先にあげた虚淵氏の分岐説を肯定することが前提の話だ。あれは公式設定ではない、と言っておいて、別の問題ではそれに頼る、と言うのは既に矛盾している。
ほむらの能力≒平行世界移動に関しては、第1回で述べたとおり、本編でもキュゥべえがさらりとだが肯定しているし、『おりこ』でそれは確定している。つまり、オトナアニメでの虚淵発言を真としなければ、「あり得ない」と言い切れるはずがないのだ。
ただ、自分は真だとしているので、それについては、少々ひねくれた発言であったことは認めざるを得ない。
パラドックスについて、これは第2回で触れたはずで、本編の願いでも結局何らかの大きなパラドックスが発生していなければおかしいのだ。魔女と魔獣、根本が同じだとしても性質的にまったく違うものである以上、同じ未来が描かれているはずがないのである。
それこそ、第二次世界大戦で枢軸が勝利してしまったかもしれない。明治維新に失敗したかもしれない。今でもアナログ磁気テープビデオが主流かもしれない。
だが、実際にそんなことは起こっていないのである。
いや、それどころか、最初から魔女が存在していないのなら、まどかが契約して概念になる必要そのものがなくなっているはずなのだ。まどかが消えているという現在がありえないのである。
また、契約直後の戦いで、隕石のようなクリームヒルトが地球を襲おうとしたとき、まどかのソウルジェムは既に砕けていなければおかしいのだ。にもかかわらず、まどかは魔法少女として健在で、“絶望する必要なんかない!”と言って、クリームヒルトを撃つのである。願いにある通りに、生まれる前に消したのではない。生まれたクリームヒルトを消したのだ。
氏があげている「親殺しのパラドックス」は、本編でも起こっていることなのである。
これについて、自分は第2回でちゃんと書いたはずだ。つまり、「契約によって世界が改変されても、それに直接関係のない事象には遡及して影響するすることはない」システムなのだ。これは「タイムパラドックスにおける時間の自己修復論」として、実際にある理論である。
これを実際に物語として成立させているのが、言うまでもない名作『ドラえもん』である。ドラえもんが20世紀の野比家に来たとき、のび太の将来の結婚相手はジャイ子だった。しかし、後にドラえもんによる歴史改変によってそれが源静香に変わっても、22世紀の子孫であるセワシは存在し、ドラえもんも22世紀の野比家に購入されている。これが「時間の自己修復論」を用いた物語の典型である。
まっとうに考えれば、まどかは自分を魔女化しない方法は端から存在しないのだ。だったら、モアベターな選択をまずぶつけるべきである。否、そもそもやってみもしないうちから諦めることこそ、中学生らしくないのではないだろうか。
タイムパラドックスを現代の人間が実験して実証する方法がない以上、この部分はどうしてもご都合主義に走るしかないのである。
もっとも、第1回で自分が主張したような願いをまどかがしたとして、それで上手く行ったらいくらなんでもご都合主義過ぎるだろう、という意見もあるかもしれない。だが、それでいいのだ。その理由は、後述する。
「キュゥべえは人類を超越しているか?」
氏の反証の本題ではないのだが、インキュベーターが人類の文明をそこまで押し上げたのか、それについての考察を付け加えておきたい。
個人的にだが、断言できる。これは否だ。
インキュベーターは、別に、アブラハムの宗教の聖典にある創造神のように、自らの持ちえるものを地球人類にもたらしたわけではない。
ただ、人間の願いを叶えただけである。
人間、自分の生きる時代の常識から、急激に外れたことは容易には想像できない。自分が知る限り、それが出来たのは歴史上に4人しかいない。産業革命を予言した天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、長距離ロケットの父ヴェルナー・フォン・ブラウン、50年早すぎた全翼機思想に取り憑かれた男ジャック・ノースロップ、科学のターニングポイントとなった偉人アルバート・アインシュタインだ。言うまでもないが、彼らは女性ではない。
私と同じ、30〜40代の人間に問いたい。
私達が子どもだった頃、1980年代の記憶を呼び起こして欲しい。
今日、新幹線が700系のような形をしているとあなたは想像しただろうか?
インターネットが普及し、当時のメインフレームを余裕で凌ぐようなパソコンが一家に1台、そんな時代が、20世紀中に訪れると予想しただろうか?
アナログビデオテープの時代が終焉し、たった5インチのディスクの中にテープよりもはるかに長い時間の録画が出来る時代が来ると確信していただろうか?
人間の想像力と言うのはそんなものなのである。
インキュベーターの奇跡で文明の発展を早めたところで、せいぜい、スキップできるのは5〜10年と言ったところだろう。
まどか世界においても、その人間の希望を叶えているに過ぎないインキュベーターが存在しなかったとして、それはせいぜい、1世紀に満たない誤差でしかないだろう、と言うのが、自分の個人的結論である。
「生きてこそ浮かぶ瀬もあれ」
自分は自他共に認める、所謂“ネット右翼”である。靖国神社は肯定しているし(ただ、申し出られた分詞を認めないのはいささか不可解だが)、天皇陛下の敬称を略してお呼びすることもはばかられるタイプである。
ただし、自分は特攻を決して肯定しない。その気高き志は認めよう。だが、その結果はどうだったか。さんざん以外の何者でもなかった。特殊技能者である航空機搭乗員をあたら一方的に消耗し、挙句一億総玉砕・水上特攻の美名のもと、事実上の最強戦艦たる「大和」を徒に喪失して、屈辱の無条件降伏に追い込まれたのだ。
歴史のifを使うのは卑怯かもしれないが、特攻で失った航空戦力、そして「大和」以下の水上戦力を残した状態で降伏していれば、日本に対する占領政策はまた違ったものになっていたと言われている。事実、「大和」は、それだけの存在感があった。アメリカ側の司令官をして、「ヤマト」とは戦艦同士の艦隊決戦で決着をつけたい、と言わせたほどなのである。
もっともそういう状態にならなければ無条件降伏など受け入れるはずもなかったので、言っても詮のないことではある。ただ、これが日本人のいけないところで、本作の結末に肯定的な評価が存在することは、核攻撃まで喰らったあの屈辱の敗戦から60余年もたって何の反省もないことを暴露しているのだ。
滅びの美学と言うのは、確かにヨーロッパにも存在する。イギリスなどが根強い。だが、それは後進にきっちりと未来を残すための滅びである。日本人の陥りがちな精神論、あるいは背水の陣と言ったやけっぱちではなく、合理的判断に基づいた選択なのである。
だから、まどかの自己犠牲は到底、肯定し得ない。してはならない。後進に何も残していない。まどかの残したものは、インキュベーターの肯定でしかないからだ。後進によりひどい状況を押し付けただけだ。陰惨な玉砕戦法と特攻の挙句に、すべてを失ってアメリカにひれ伏し、精神まで売り飛ばすハメになったあの敗戦と、まったく同じ構図なのである。
と、こう書くと、「じゃあどうすればよかったのか」という反論が必ず来る。だが、これこそが、日本人を特攻に、玉砕に、そしてあの悲惨な戦後の占領体制に追い込んだ元凶なのだ。日本人は認めたがらないのだが、余裕のあるうちに「諦める」という選択肢は、必ずしも誤りではないのである。先の願いが無理だと言うなら、まどかは何もしないのがモア・ベターだったのだ。地球人類はインキュベーターの思い通りにはならない! という意思表示になったし、インキュベーターを肯定するぐらいなら、日本の一地方都市が壊滅した方がまだしも人類の尊厳のためだ(ワルプルギスの夜で人類全体が破滅しないことは、その知識を杏子が持っている、つまり過去にそれが現れていることで証明されている)。と書くと、先に書いた文章に反するように見えるかもしれない。だが、インキュベーターを肯定すると言うのは、地球人類60億が彼らの家畜であると言うことを肯定することに他ならないのだ。それとせいぜいが十数万人、実際に死亡するのはそれ以下だと考えられるから、どちらが重いか、言うまでもないだろう。
中学生にそれを考えるのは難しい、と思われるかもしれない。だが、そこに付け込まれていることは、第9話と第11話で、キュゥべえからえげつなく言われていることなのだ。
「ていうか、本当にまどかの目的が「魔法少女になることそのもの」だったのなら、キュゥべえを目の前で撃ち殺されて取り乱さないのは、おかしいんじゃないかと思いますが。この時点では、まどかはキュゥべえが復活することを知りませんし、そのキュゥべえが目の前で撃ち殺されたとあっては、魔法少女への可能性を永遠に葬られたと考えるはずです。しかし、この後キュゥべえが復活したことを知っても、特に喜んでいるようには思えません。それとも、キュゥべえが復活することも見越していたのでしょうか」
この部分に反論するのは、確かに難しく、明快な答えを持って反論できないということは、認めざるを得ない。
しかし、それであっても、あそこまで聞かされて契約と言う道を選んでしまっている以上、まどかはインキュベーターを否定していない。肯定してしまっているのだ。これは、それを遡って考えなければならない。例えば、ゴキブリが実は益虫だったと知ったら、人間はそれまでの価値観を、短期間のうちに翻せるだろうか? 大方は否であろう。つまり、まどかはインキュベーターも、魔法少女システムも、一度も否定も嫌悪もしていない、と考えたほうが(比較論的に)自然なのである。
さやかに関しては、若干悩むところだ。確かに、彼女は恭介の腕と言うものを残したかもしれない。だが、それは上条恭介にとって可能性のひとつでしかないのだ。もし、彼が少なくとも20歳を超えた大学生ぐらいだったら、また評価も違ってこよう。だが、彼はまだ中学2年生、人生のすべての進路はこれから決めるところじゃないか!
世の中、障害を負いたくて負う人間などいない。彼の腕の問題は、彼自身が負わなければならないものだったし、仮にそれで絶望したとしても、彼が魔女になるわけでもなければ、資産家の息子のこと、食うに困るわけでもなかろう。
大体、才能があり、しかも五体満足でありながら、金銭的、あるいは社会環境的事情でそれを諦めざるを得なかった人間など、この世界にどれだけいると思っているのか!
諦めなかった人間だっている。かのベートーベンだ。彼が極度の難聴だったことはあまり知られていない。9つの交響曲を残した時には、日常生活にも支障を来たしていた。19世紀のこと、現代のような高性能の補聴器などない。巨大なラッパ形の補聴具を使ったり、ピアノの弦を歯に結んで骨伝道の要領で音を聞くなど、血の滲む努力の末に、9つの交響曲と無数の短編曲を残したのだ。
もちろん、事情を知らない恭介にその責めを負わせてもしょうがないだろう(個人的には、さやかに癇癪を飛ばした時点で、充分に許し難いのだが)。
これは、インスタントな奇跡に頼り、挙句生き汚い事を放棄したさやかの責である。別に、杏子のように悪事に手を染めろと言っているわけではない。もう少し、周りに頼ってもいい、それだけの話なのである。彼女が理想とした巴マミだって、学校に通っている以上、まったく人と交流せずに生きてきたわけではあるまい。
だから、さやかについても、彼女の自己犠牲の精神と結末を、自分は肯定しないのである。
「ハッピーエンドは楽なんだよ」
どうも氏は、自分がなぜこの結末に否定的なのか、若干勘違いをしているようだ。
もちろん、キャラクターに救済はあって然るべきだと思ってはいる。
が、もっと根本的な事を言わせてもらえば、アマチュアとはいえストーリーテイラーとして、この結末はプロの作った作品としてお粗末としか言いようがないのである。
最近、どういうわけか、「ハッピーエンドの王道は難しい」という意見が多くなった。すべてを丸く収めるのが大変だからだとか、マンネリに陥るからとか、そういう意見が多い。
しかし、アマチュアなりに10年以上創作を続けてきた身から経験したのは、その真逆だった。ハッピーエンドは楽。手放しのそれなら尚更だ。
これは借りた言葉なのだが、今から何かを創作しようとしても、どうやってもなにかの二次創作になってしまう、と言う。それだけ、世には古今東西の創作物が溢れているのだ。
このような状況でマンネリズムを打破しようとしても、無理だそうなのである。
本作のような結末だと、視聴者にフラストレーションを与えてしまい、結果粗捜しされる原因になってしまうのだ。そうして、2ちゃんねるで批判されるような事態になってしまう。テレビ番組(アニメ、実写とも)の場合、1980年代初頭ごろまでなら、それでも良かったのだが、所謂VHS・β戦争の激化した頃からは、それはよほどうまく処理することが出来ないのなら、避けるべきなのだ。録画で簡単に粗捜しされてしまうからである。
逆に、ハッピーエンドにして、受け手にカタルシスを与えて気持ち良くさせてしまえば、粗捜しされて批判までされることは少ない。多少力技でも、ご都合主義でも、メアリースーでも、構わないのだ。
『キン肉マン』のゆでたまご氏が、長期連載によって発生した数々の矛盾を、“ゆで理論”と揶揄されつつも、決して低い評価を受けないのは、それがあるからである。
本作に限らず、この種のストーリーは、どうしても結末に多少のご都合主義を持ってこなければ成立しない。だったら、ハッピーエンドになる選択をした方が、視聴者からより高い評価を受けられることは間違いないのである。
自分がさやかファンであることを認めた上で言うが、仮に手放しのハッピーエンドが無理だったとしても、さやかがあの気持ち悪い結末を迎えていなければ、ここまで大騒ぎになることはなかっただろう。大方の視聴者は、まどかの自己犠牲によって魔法少女たちが救われた、で誤魔化されたはずだ。
実際、新房監督と岩上プロデューサーは、さやかが救済されるように直せないか打診している。虚淵氏曰く「情が移ったから」だそうだが、自分はそれだけではないと感じる。岩上氏に関しては寡聞にして詳しくないが、新房氏はベテラン中のベテランである。このままではまずい、と感じたからこそ、直しを打診したのではないだろうか。個人的には、そう考える。
ただし、これは虚淵氏1人の問題ではない。第1回で書いたように、虚淵氏の作風には、本来、ささやかだが、中毒的なほど熱心なファンを引き寄せる、強烈なカタルシスがあるからだ。本作にはそれがないから問題なのである。それは、虚淵氏に与えられた素材が問題だからである。その際たるものが、虚淵氏の引き出しにはないまどか、つまりゆのというキャラクターなのである。と、第1回で自分ははそう結論付けている。これもよく批判されていることだが、虚淵氏としては、自分の引き出しから出てきたほむらやキュゥべえを最大限活用して書く以外、できるはずがないのだ。与えられたキャラクターでも、最初からこの世界観、虚淵氏の書きうるストーリーラインにあわせたキャラなら、こうはならなかったろう。だが、繰り返しになるが、まどかをはじめとして、本作のメインキャラクターのほとんどが、長年『ひだまりスケッチ』を描いてきた蒼樹うめ氏の引き出しから出てきたキャラクターなのだから、虚淵氏が扱いあぐねるのは、当然の事なのである。
〜だったら〜な筈がないという机上の空論に近い論調が多く、感情や気分によるゆらぎやキャラクターがそこまで頭がよくないため思い至らないなどの副次的な事象を考慮にいれていないことが多いように感じます。
もっと言えば作者が思い至らず、あるいはわかっていての都合で現実にそぐわないことになったのを根拠としてキャラクターの内面を推し量って批判するのも詮無い話だと思います。
マミさんが死んで次回すぐにまどかがキュゥべえのを、などをその典型です。
勿論そうしてしまったスタッフに対する批判をするなら最もな話、と賛成します。
つぎはぎで破綻していることはわかっているのにその矛盾に論理的な意味を求めるから変なことになるのだと思います。
それではただ単にイチャモンをつけたいだけと言われても仕方ないですよ。
矛盾はスタッフの過失であり、バグみたいなもの。
それを論理にいれてしまうと結果がおかしくなるのは当然の話です。
最も意図した矛盾がたまにあるからややこしくなるんですがね。
それと、感情的に否定しても仕方ないと言いつつほむらやあなたの意見に反論した人に対する発言には明らかにありありと嫌悪感や侮蔑がにじみ出ていて見苦しいです。
ほむらのコミュ能力不足に至った背景にまで考慮が及んでいるのにそれを漏らすのは非常に大人気ない。
まぁやったことの影響が大きすぎて考慮に入れられる限界を超えたというならわかる話ですが。
そのくせ作品の都合で悪役になった、だからどうでもいいなどと言う。
ダブルスタンダードはあなたの発言の説得力を打ち消します。
一切の情や相手の背景、能力を考慮せずに相手の行動のみを批判するのはもはや客観的ではないと思うのですがいかがでしょうか。
その上上記のように悪意がありありと見て取れるならなおさらです。
さて、このように一部のことは気になりますが、ほむらのコミュ能力がないなど、非常に参考になる話を得られました。
特に諦めるのは悪いことではない、というのは非常に強く賛成します。
その思考能力は私などが及ぶところではなく、素直に賞賛します。
今回はポイントを抑えれば充分だと思うので、
コメントでお返しいたします。
まずまどかのキュゥべえに対する反応について。
これは別に自分は論理的思考をまどかに求めていません。
「死に対する恐怖を抱いているなら生理的にするはずの反応をまどかがしていない」
という、特に中学生女子なら当然の反応とそれがないことについて書いたつもりです。
またほむらが作品の都合で悪役になった、というのは、これは良くある批判に対する反証のつもりです。
つまり、ほむらが最初からそう設定されているのならこの点は批判の対象ではない、という主張です。
「どうでもいい」というのは今回の文章にあって言葉が足りなかったのは事実で、
どう「どうでもいい」のかは、第1回、第2回に書いているので、そちらに任せてしまった感はあるかと思います。
つまり、ほむらの存在が「どうでもいい」のではなく、ほむらの行動の些末な点、矛盾点が「どうでもいい」のです。
反論した人間に対する侮蔑の点がにじみ出てしまったことは反省すべき点かもしれませんが、
そちらの方がどう見ても「可愛いキャラの自己犠牲を無駄にするな!」という主張がありありと感じられたので、
こうなってしまったのです。
(コメントで自説を寄せた中にはもっと酷い方もいましたが、それに反証すると罵詈雑言の塊になってしまうので、そちらは申し訳ないと思いつつスルーさせていただきました)
これは所謂信者、アンチの両方に見られる傾向です。
「作品内のキャラクターに対する感情論的評価」(感情論すべてではありません)を削ぎ落として理論的に評価すべきと言う主張なのです。
もっとも、第2回で軽く述べたとおり自分もどちらかと言うと激情型人間なので、
どうしても感情を抑えられなかった点は認めざるを得ないし、
今後の反省点かと思います。
ただ、この考察はあくまで感情論を排除する、と言うだけで、
私の主観的考察であることは前提です。
キャラクターの外見等にとらわれず、ストーリーラインだけで評価できる第三者でない限り、客観的評価は不可能かと思います。
また、シナリオか、演出かどちらかはわかりませんが、
作品にバグがあることは承知の上です。
というか、それに大小あれどまったくない作品はありません。
(創作物に限らず、人間が創造するものすべてに言えることです。0%と100%はありません)
ただ、一度リリースされてしまった以上、
なんらかの(作品本体に対する)アップデートでフォローされない限りは、
受け取り手側はそれを持って評価せざるを得ない、
と言うのが私の考えです。
「誰かのために命を捧げた人たちの精神」の件は私の個人的な考えですが、わたしはそれを「外見が可愛い少女」に限定したつもりはありませんし、あの反証の中で、私はキャラの外見についても言及していません。なので、「可愛いキャラの自己犠牲」云々は、はっきりと「違う」と断っておきます。
最初の記事で述べていたと思いますが、そもそも私はそういう信者やアンチ、及びそれらの人々が繰り広げている不毛な議論が一番嫌いです。
個人的には、ほむらの行動を批判する上では、時間遡行や平行世界についての検証は欠かせないと思います。脚本家が「厳密には考えていない」と言明しているのに、「作者がそう言ったら視聴者はそう思う」としている一方で、その設定については「主題じゃない」という言葉だけ肯定して、「どうでもいい」と片付けてしまうのは、矛盾していると思います。
スピンオフ作品については、私はおりこの方も読んでますし、ドラマCDの方も聞いてます。個人的におりこ☆マギカは好きですが、おりこばっかりとりあげて他の派生作品について触れていない時点で、フェアではないと思います。
しかし、それも「個人的な考察」であるなら、別に問題ではありません。本来なら個人の見解に口を挟むこと自体、私は避けるべきだと思っています。公平な考察をすることがファンに義務づけられているわけでもありませんし、誰だって自分の見解について、こうして他人からあれこれ口を挟まれたら、嫌に決まっています。
反証について返答が得られたのは嬉しいのですが、そもそもなぜ私が反証せざるをえないと感じたのか、その動機について一切触れずに、それについて言及している記事へのトラックバックもせずに、こうして反証の記事のみをとりあげ、反論してトラックバックしてきたことに私は驚きましたし、少なからずショックも受けています。あの反証も、最初の記事を読んでから読むのが前提だし、それ以外の方は読む必要はないと、ちゃんと書いているのですが。
あの件について、ブログの記事でのコメントで「悪ふざけ」と弁解されたこともショックでした。「消されることも予想していた」と仰りますが、あの項目はすぐ消されたわけではありません。ブログでも言及していますが、なんとか角が立たぬように、嫌な思いをしながら編集してくれた人がいるんです。それだけ、あなたのあの意見が尊重されたということではないですか?それを「あれは悪ふざけでした」ですませてしまうんですか?
私の立場から見れば、あなたがそれについて「確信犯ぶっているだけ」のようにしか見えません。軽率すぎると思います。