所謂「本門戒壇の大御本尊」彫刻写真の解析(1)

かなり鮮明な所謂「本門戒壇の大御本尊」彫刻の写真を頂戴した。提供者のプライバシーを守るために、出所は敢えて公表しない。その限定に基づく考証であることは、まずおことわりする。
また、ネットでの公開に就き、画像はモノクロに、解像度も下げて、考証内容も限定してのことであることも注記したい。
今回は予告。追って記していく所存である。
・奉安堂内での撮影。
・ほぼ、正面から、至近距離で撮影されたもの。
・彫刻の手前にものを置いたり、本尊写真を厨子に合成したりといった手は加えていない。
・たぶん、いままで、発表されたどの所謂「本門戒壇の大御本尊」写真より鮮明であると思う。
・いくつか、わかったこと。
中央首題の「南」字は、先に発表された大石寺所蔵の日禅授与本尊…不鮮明だが…より、わたしがそれ以前に発表し、また、北山本門寺・本間師も発表した同寺蔵日禅授与本尊に近いこと。
「南」字の光明点(髭)は、けっして鮮明ではない。その上に彫られた諸尊に隠れている。
いまさら、記すことでもないが、間違いなく日禅授与本尊を原本とし、臨模作為したものであること。
殊に「大廣天玉」の“天玉”の書き様は、同様であること。
「經」字‘乙’様の最後の画は大廣目天玉に係り、その筆の終わりは、明確に確認できない。
愛染明王は、まったく日蓮の筆法ではないこと。
また、先に発表された異本と、現在、奉安堂にある彫刻は、いくつかの点で相違していること。
等、記していこうと思う。
―(
2)につづく―
Posted by saikakudoppo at 20:26│
Comments(27)│
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先程、PCで画像を拝見させて戴きましたが、これまで公開されたどの画像よりも、鮮明な彫刻写真ですね。腰書きの部分がはっきり確認出来るのが凄いですね。特に彫刻の腰書き部分の筆跡の解析が進めば、当彫刻の造立者(石山歴代)の特定も可能ではないかと期待します。
こんばんは、いつもお世話になっております。こちらには、はじめて書き込ませていただきます。今後もよろしくお願い申し上げます。
画像の方拝見させていただきました。ここまで鮮明な写真は、はじめてみました。今、かなり興奮しております。次回のブログとても楽しみです。
独歩さん
今晩は、毎回勉強させて戴いております。
>ネットでの公開に就き、画像はモノクロに、解像度も下げて・・・
ほんなら、お手元には?とワクワク楽しみです。
皆さん、コメント有り難うございます。
今後とも、ご批正、ご意見を頂戴できれば嬉しく存じます。
わたしは元大石寺塔中坊信徒です。講頭が独歩さんの写真は合成写真と証明したと聞かされましたが、何の証拠も提示されませんでした。先般、ある法華講員がSNS内で独歩さんの写真は合成写真と上記の講頭により証明されたと公言していたので、その法華講員に問い合わせたところ、どうやって証明したかは講頭に聞いてくれとの答えでした。大石寺はこんな信徒向け説明やってるんですね。
たっくんさん
コメント、有り難うございます。
大石寺はさんざん、わたしの上記の写真を「盗撮」だと大騒ぎしていました。その講頭の言と併せると、では、わたしは合成写真の盗撮を使ったとでも言うのでしょうか(笑)
盗撮というのは、本物を取ったものであるからこそ言ったことでしょう。
仲間内で、辻褄の合わないでたらめを言っていますね。
なんともはや、一笑に付すとは、このようなことですね。
はじめまして。
粛坊と申します。
これは極めて貴重な戒壇本尊の写真ですね。
ここまで鮮明な画像は初めてです。
金原氏著「日蓮と本尊伝承」の戒壇本尊
の解明写真とこれは明らかに違います。
一体、石山は戒壇本尊を何体所有しているのか?
不思議な宗派ですね。
今後の犀角独歩様の究明に期待します。
粛坊さま
はじめまして。ご高覧、有り難うございます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
犀角独歩様
ご返事ありがとうございます。
ここのブログは私が所属する学会の心ある方数人に
紹介しました。さすがに「驚嘆」しておりました。
学会内では様々な憶測が交差し、特に「破門後」は
戒壇本尊については表向き認めてはおりますが、
「分身散対義」でお茶を濁しておる様子です。
しかし「金原本」は明らかに
会員向けで出版されたものでしょう。
いずれ学会も公式見解出さざるを得ないでしょう。
粛坊様
ご高覧、並びにご紹介、まことに有り難うございます。
仰るとおり、創価学会は、大きな方向転換を余儀なくされると思います。
極端な言い方ですが、第三文明、レグルスといった出版刊行物と、創価学会の教学との相違を指摘し、批判を展開することが可能です。
ただ、問題なのは、批判のための批判に終わることではなく、今後の可能性を探るほうが意義は大きいと思えます。
わたし個人としては、創価学会は将来、まずは日寛、次に日興、次に日蓮、教義、本尊、法華経と多段階を経て、それらを捨て去って行かざるを得なくなると考えています。
ただ、昭和42年の正本堂供養では800万人実名名簿をもって375億円の集金をしています。これは、いまわたしが俎上に上げている所謂「本門戒壇の大御本尊」(三大秘法本尊)の絶対視に基づくことだったわけですが、この「供養」をした人々が存命の内に決定的な方向転換ができるかどうか、この点にわたしは着目しています。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
犀角独歩様
コメントありがとうございます。
まずは寛尊教学からどう脱却するかにカギが
ありますね。
私の考えですが、「金原本」の戒壇本尊写真は
もっと鮮明な写真が存在するのではないかと思って
います。
ヒントは「赤澤氏」が提供したと思われる「正本堂」
の「戒壇本尊寶筺」写真であり、その際にも「化粧直し」
をした「戒壇本尊」記録写真が存在し「金原氏」の比較対照としてギリギリの処の公開かと思うのです。
今回、入手した犀角独歩様の戒壇本尊写真は「奉安堂」
安置のでありますから再度手直ししたのではないでしょうか?
粛坊様
仰るところ、同様に考えます。
なお、「戒壇本尊」の写真については、聖教新聞社H氏が正本堂からの移管の際に、詳細な撮影を行ったという話を聞いています。また、八王子牧口会館建造の際には、学会製のレプリカが作られたという話もまことしやかに語られてきました。
日達さんは「半丸太」とその形状を言いながら、寶筺を見る限り、その形状は板。となれば、彫刻は複数存在する可能性もあるように思えます。この点は確証はありません。が、3体を比較する限り、それぞれ相違があることは確認できました。
犀角独歩様。
なるほど。どちらにしても戒壇本尊の模刻は
日禅授与本尊が本になってるのは確かですね。
ある説では戦時中に「戒壇本尊」は東京常泉寺の
境内に油紙で何重にも包んで土中に埋めたそうです。
その後掘り出したところ、塩分を含んだ土中に数年
も埋められたせいで、損傷がはげしく、こっそり
石山に運んで、仏師「赤澤」の手によって修復。
その際に参考にしたのが熊田著「日蓮上人」の写真
と北山の日禅授与本尊の模写だったそうである。
現在、日禅授与本尊の真跡は石山にあるそうだが
秘密主義で公開してない。
よって「戒壇本尊」は益々謎の秘仏に成るのである。
信徒をつなぎとめる手段として。
犀角独歩様。
連続の投稿すみません。
犀角独歩様の下記のコメントが気になったもので。
「なお、「戒壇本尊」の写真については、聖教新聞社H氏が正本堂からの移管の際に、詳細な撮影を行ったという話を聞いています。また、八王子牧口会館建造の際には、学会製のレプリカが作られたという話もまことしやかに語られてきました。」
そのような噂が伝わっていたとは露しらず。たしかに
牧口記念会館の開館時は「破門後」だったのでどの
御本尊を安置するのか内外とも注目していました。
妙観講などは「身延から蓮祖真跡本尊を数億で買った」
とか「池田大作書写本尊のお出まし」とか笑えるもの
ばかりでしたが。
ちなみに犀角独歩様は知っておられるかと思いますが
日昇上人書写「学会本部常柱御本尊」紙幅曼荼羅が
現在・八王子牧口記念会館に御安置されています。
粛坊様
ご高覧、有り難く存じます。
> …その後掘り出した…
この話はわたしも聞いています。埋めるのに際し、正模写を取ったという話がしかしあります。実際にこれを見た方が「白黒反転だが、そのものだった」とも聞きました。となると、熊田本写真と日禅授与本尊を参考にしたという点と齟齬を来すことになります。興味がわきました。
> …八王子牧口会館建造
ここに入れるはずだったレプリカはそのままお蔵入りという、これまたまことしやかな話もありました。実際はどうなのでしょうか。
京都本圀寺所蔵の日蓮真筆代漫荼羅が売りに出た話とリンクもしているといいますが、これまた、未確認です。『夕刊フジ』に載った話だったですね。
犀角独歩様。
なるほど。色々と疑惑が付きまといますね。
レプリカ説はあまり信憑性がないです。
何分、模刻(当会では敢えて謹刻)した本尊をわざわざ宗門に意味もなく返したぐらいですからね。
>京都本圀寺所蔵の日蓮真筆代漫荼羅が売りに出た話…
ちまたの古文書買取屋さんでは蓮祖大聖人の真跡しか価値はないそうです。値段はあの日禅授与本尊が相当の価格だった
らしいですから。
つい最近でも某暴力団が「日蓮真筆本尊」を不動産屋のオーナーに売りつけようとして失敗・億単位です。
そのつけをその関係者に300万で買えと脅したところ
捕まったそうです。ネットの映像で見ました。
粛坊様
> レプリカ…模刻…わざわざ宗門に意味もなく返した
なるほど。
個人的な話ですが、昭和56、7年ですが、まだ、会員であった頃、副会長指導を受けに行ったことがありました。控え室が銀舞会館というところだったのですが、そこには正本堂建立の時に学会幹部に頒布された日達さんの特別御形木本尊の、板本尊がありました。
これは、謹刻(模刻)の俎上に、ついに上がりませんでした。そんなことから、実際に作られた学会製の彫刻は、公式発表より、かなり多いと考えています。
また、この特別御形木本尊にしても、原則的寺院授与であるはずが、学会の会館で宗門が知らないところで頒布されたものが多数あることが摘発されました。
つまり、創価学会が独自に水増しで作って独自で頒布したという意味です。
この点については、池田氏が法華講総講頭に返り咲いた日蓮七百遠忌の段階で、日顕氏がなかったことにしましたが、わたしは、それまで見聞した情報から、創価学会は、この特別御形木本尊を独自に数多製造して、会員に頒布し、最低献金3000円以上を集めて、かなりの収益を上げたと考えています。
そうしたことから、大石寺に返納したのは、表向きの学会・宗門口裏を合わした“猿芝居”であると観察しています。
あと、本圀寺本尊を、創価学会に持ちかけた価格は、4億円であったか、ともかく、億単位であったと記憶します。
犀角独歩様。
私も個人的な話ですが、昭和57年1月頃、学会本部
師弟会館で達師書写「賞正本堂建立御本尊」を拝し
ましたが紙幅の御本尊でした。板は本山に「返納」
したあとでしたから当然でしょう。
達師書写の特別御形木は功労者・会場提供者に
下附されました。確かにその際は会館での下附でありまし
たが所謂「第一次宗創問題」でその後は寺院での下附
になったと見受けます。
その達師特別板本尊に関して、私は残念ながら
見聞していません。
>大石寺に返納したのは、表向きの学会・宗門口裏を合わした“猿芝居”であると観察しています
そうですね。まったくの猿芝居です。それは多いに賛同
いたします。当時の執行部の判断は間違っていましたね。
それから昭和49年頃だったと記憶しますが元民音職員
「松本某」が起こした「正本堂ご供養返還訴訟」ですが
その際「松本某」が問題にしたのは「戒壇の本尊は偽物」
であるから「正本堂ご供養は違法」でありご供養は
返還せよといった裁判だったでしょうか?
その際に当然宗門は証拠を提示したはずですが、結局
裁判はどういう結果だったか。
その過程での日顕氏の本尊鑑定で「河辺メモ」の発言
ではなかったかと今思います。
犀角独歩 様その辺お判りの範囲で構いませんので
ご教示くださるとありがたいです。
粛坊様
> 達師書写の特別御形木は功労者・会場提供者…会館での下附…寺院
このように創価学会では言われていたと思います。
ところが石山側では、地方で寺院が遠方である例外を除き、会館授与などということはあり得ないという話でした。
そこで会館で授与された本尊を解体して調べたところ、あろうことか、漫荼羅紙の裏打ちに新聞紙が使われており、安普請のものであったという報告を、当時、盛んに正信会がリークしました。
この話が握りつぶされた時期と、池田氏の法華講総講頭再任、七百遠忌慶讃委員長就任は時期が重なっていきます。
> 「松本某」が起こした「正本堂ご供養返還訴訟」
松本師は、わたしに西山相伝を踏まえた玄文講義を下さった方であり、創価学会で言われるような人物ではありません。好い方です。
この裁判については、直接ご本人から伺いました。結論から言えば「供養」から日にちが経っていたために時効が成立してしまっていたということでした。
本尊の真偽については、水掛け論の様相で決着がつかなかった。それ故、わたしが図形鑑別で、これを明らかにしたことに「自分が出来なかったことをしてくれた」と高い評価をくださいました。
> その過程での日顕氏の本尊鑑定で「河辺メモ」の発言
松本師から河辺メモですか。この脈絡は意識したことはありませんでした。
師に確認してみます。
犀角独歩様
ありがとうございます。
そういえば、高橋公純氏がお形木の「解体写真」で裏打ちが新聞紙であったといってましたね。それは宗門の表具屋の手抜きではないかと思います。
松本さんは西山の僧侶になったのですか。驚きです。
きっと石山教学の胡散臭さが厭になって西山の僧籍を得たのかと察します。(違っていたらすみません)
図形鑑別という近代科学での解明は犀角独歩様が開拓した分野です。私は立場こそ違いますがその一貫した姿勢・真摯な研究をば尊敬いたしております。
何度もお伺いしてすみません。
粛坊様
いつもコメント、有り難うございます。身に余るお言葉を頂戴し、恐懼の限りです。
お立場、お考えの相違は、むしろ、当然で、そうであればこそ、意見・情報の交換ができることが大切であると考えます。
この時期は、正本堂建立後、広布第2章という活動方針が前面に打ち出されたときでした。幹部は出世間の誉れ、久遠の師、また、先祖供養を「慧光照無量」といって会館で行ったりして、坊さん方は、眉をひそめていました。そうした時代性ですから、殊本尊のことに関しては、最後の攻防として砦を高くしていました。ですから、会館で本尊を下付することにはかなりの抵抗があったように思います。しかし、実際、行われていました。
石山の坊さんの体たらくは今も昔もという印象ですが、それでも、偽物であると確信できない本尊を解体するほど、彼らとて不信心ではないだろうと思います。
しかし、現段階では、確定的なことはいえません、特別御形木については、ご意見の相違はありますが、この点は、引き続き、わたしも調査してみようと思います。
今後とも、ご高覧、ご批正のほど、よろしくお願い申し上げます。
犀角独歩様
こちらこそよろしくお願いします。
私は幼少のころから教学が好きで、小学校4年生の時に
「折伏教典」を持参し学校で読んでました。担任の先生
から「面白そうだから貸して」といわれ一ヶ月ほど貸出
ました。その頃から「なぜ日蓮宗は有名だけど日蓮正宗は
無名なのか」といった疑問や「身延曼荼羅」と「石山御本尊」の違いとか気になってしょうがない。ちょっと変わった
子ども時代を送りました。そのころから「曼荼羅本尊」
に興味をもち、現在に至ってます。犀角様とはネットが
発達しなければこのような意見交換も到底できないし
何より「創価学会」が「日蓮正宗」から破門されなければ
犀角様のような他門との関わりは不可能でしたね。
今後も有意義な検証を立場を超えて重ねていきたいと
願っております。
粛坊様
ありがとうございます。
よろしくお願い申し上げます。
S.O.S.
始めまして。
現在、
ドラマや映画に出てくるような事を経験しているのは
創価学会の仕業と言われてますが
どうでしょうか?
知恵と力を貸してくれる方を待ってますが・・
よろしくお願いいたします。
コメント、有り難うございます。
お役に立てることがあるかどうかわかりませんが、お声かけください。
興門派の神道との関わりは歴史的に気になる事柄なんですが
明治期の日蓮正宗信徒の生態ってどうだったんでしょうね?
あれだけの廃仏毀釈運動の広がり、神道の国教化
護国神社が日本各地に造られていったわけですが・・・
神社へ参詣することはあったのだろうか?
明治時代の彫刻と比べるとまたわかり易いですよね。
特に車輪のところ、花押のところとか。
これはすごい研究ですね。
ほとんどの方がこれで、あ!弘安2年建立じゃないでしょう。とわかるでしょう。
あとで明治から今の間に作り変えた。ということでしょうな。