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2011-12-13

圧倒的な天才的内容の本を書いて恍惚とするぼく

こんな記事があった。

ぼくの本がベストセラーになったことと、反比例的にはてなブックマークツイッターで批判的なコメントが多いことについて論じられているのだが、これを書いたfromdusktildawn氏の論説には、毎度のことながら巧妙に詭弁が織り込まれている。

今回もそうだ。それは、冒頭の一文に現れる。

2000万人に嫌われ、200万人に熱烈に支持され、1億人に無視される本を書いたら、その作者はミリオンセラーの大ベストセラー作家になる。


あのぅ……さすがに2000万人に嫌われる人は200万人に熱烈に指示されたりしませんけど? 嫌う人が支持者の10倍もいて、まともな商活動などできるわけがありません。同数でも無理です。この数字は逆じゃないと。

つまり――

20万人に嫌われ、200万人に熱烈に支持され、1億人に無視される本を書いたら、その作者はミリオンセラーの大ベストセラー作家になる。


というところでしょうね、せいぜい。


そもそもfromdusktildawn氏を初めとしてぼくを批判するほとんどの人たちが、自分を「マジョリティ」だと勘違いしていることが図々しい。それは違います。ぼくを嫌うあなた方は、圧倒的な「マイノリティー」なのです。もちろん、マイノリティーだから悪いというわけではありませんが、しかし少なくともあなた方の声は、fromdusktildawn氏の言うようにマジョリティであっても「構造的に無力」なのではなく、単に「マイノリティだから(少数派だから)力がない」に過ぎません。そこのところの事実誤認を修正しない限り、あなた方には永久に社会を正しく見通す目は養われないままでしょう。


だから、fromdusktildawn氏の言い方を実際の状況に当てはめるとこうなります。

2000人(のブログ読者)に嫌われ、100万人に(本を)熱烈に支持され、5000万人に(無視されるのではなく)名前だけは聞いたことがあると言われるような状態になったら、その作者はミリオンセラーの大ベストセラー作家になる。


ところで、fromdusktildawn氏の論説には、実は当を得ているところもなくはありません。例えば、二作目以降の評価は「内容が何よりだいじ」というのはまさにその通りで、特に『もしドラ』(つまりぼく)の場合には、作家そのものを支持した人よりも内容を支持した人の方が多かったので、なおさらその傾向が強いと言えるでしょう。これは、いわゆる一般的な小説家とは異なるところです。


だから、ぼくが内容で勝負をしていかなければならないのはその通りなのですが、この二作目以降の内容に関して今のところ全勝状態なのが、岩崎夏海という作家のお城しいところなのです。


なぜどう全焼なのか?

なぜどう全勝なのか、以下に具体的に解説していきましょう。


まず二作目の『甲子園だけが高校野球ではない』。

この本は廣済堂出版のTさんという方がはじめお電話で監修のご依頼をくださって、そこでぼくが「目標部数は?」とお尋ねしたところ、力強く「10万部です」とのお返事を頂きました。それでTさんの意気を汲み取ったぼくは、タイトル、構成、装丁、組み、デザイン、字体に至るまで、トータルでプロデュースさせて頂き、同時に20本以上のコラムも執筆しました。

そうしたところ、見事10万部の目標をクリアすることに成功したのです。この本は、ぼくの執筆者としてもそうですが、プロデューサーとしての力を発揮できた作品になったのかなと思っています。

甲子園だけが高校野球ではない

甲子園だけが高校野球ではない


続いて三作目の『エースの系譜』。

こちらは、まともに日本語を読める人なら面白いと思わずにはいられない内容となっています。

この小説の最大の特徴は、『百年の孤独』のパスティーシュになっているところですね。くり返される悲劇。くり返される名前。くり返される超現実的なエピソード。家族たちの相克。百年ならぬ十年の孤独。そして循環していく歴史。ガルシア=マルケスは『百年の孤独』の最も正しい読み方を「書き写すことだ」と言いましたが、書き写さないまでも内容を換骨奪胎した本書は、「二番目に正しい読み方」にもなっていると言えるでしょう。

この本を読んだ人にもたらされるのは、通常の小説とはまるで異なった読書体験です。現代の日本のどの小説を読んでもそれは味わうことができませんが、しかし一方でそれは、小説が本来持っていた魅力でもあります。『ドン・キホーテ』や『レ・ミゼラブル』といったいわゆる世界的名作が持っている「トータルな体験の場としての読書」というものを、本書はもたらしてくれるのです。

この本は初版が3万部でしたが、現在まで2万5千部が売れたそうです。まだ増刷はしていませんが、これから長い時間をかけて読み継いでいってもらえればと思っています。なにしろ13年も前に書いたものなのに、今読んでも全く古びていないのが驚異的ですね。

エースの系譜

エースの系譜


四作目がマンガ版『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』。

このマンガは凄いです。ぼくは『もしドラ』の続編は『もしドラ』を書く前から書かないことに決めていましたが、その代わり自分が書いた物語世界にもう一度潜り込んで、そこで何が行われたかを詳らかにすることには興味を持っていました。というのも、小説版の『もしドラ』を書くにあたってぼくはその数倍はあろう設定やエピソードをあらかじめ作りあげていたのですが、小説版では紙幅の関係でそれらのほんとんどを描くことがなかったのです。

それはそれで、小説という表現スタイルにとってはいい具合の省略・割愛となり、満足のいく出来になったのですが、いつかはその割愛したエピソード群を、また別の形式で発表したいという思いがありました。ただ、アニメや映画では上映時間という制約があってそれが叶わず(小説版からさらに省略しなければなりませんでした。そのことが、映像化に際するぼくの一番の悔恨です。あれは、もう少し長い時間をかけて表現する必要がありました)、しかしマンガにおいては、そうした制約が全くないために、それを今、余すところなく注ぎ込んでいるのです。また、そのことはマンガという形式にもマッチしており、何より、マンガを描いてくださっている椿あすさんの超絶的な技巧や表現力とも相まって、魅力が何倍にも増幅され、凄い作品になっているのです(書籍の価値を軽く上回っています)。

このマンガ版『もしドラ』が完成した暁には、「このマンガがすごい!」を初めとするマンガ賞の数々を総なめにすることは必定であり、もしそうならない場合には、このブログにおいてこの作品に賞を与えなかった人々を、可能な限りとことんまで糾弾していくことを、ここにあらかじめお約束しておきます。


さらに五作目となるのが『小説の読み方の教科書』ですが、ぼくはこれを自分の一生をかけて売っていくことをすでに決めています。

この本は、ぼくの中の真の天才性がまさにスパークした世界文学における一つ記念碑的到達点であり、今後四百年は読み継がれていくであろう歴史的名著です。今はまだほとんど誰にも発見されるには至ってませんが(夢が丘小学校のみんなを除く)、ここに予言をしておきますと、本書を最初に発見するのはおそらくアメリカ人でしょう。なぜなら、本書はアメリカの全ての文学関係者にとってはアイデンティティとも言える重要な作品であるところの『ハックルベリー・フィンの冒険』をテーマに文学論を展開しているのですが、そこでは当のアメリカ人でさえこれまで気づかなかった、『ハックルベリー・フィンの冒険』における新たな価値や読み解き方を行く通りも発見・開発しているからです。これは、白川静先生の中国文化における諸発見にも匹敵する偉業と言っても過言ではなく、やがては日本の宝として評価される時代が来るだろうと自負しております。

小説の読み方の教科書

小説の読み方の教科書


そして六作目がマンガ版『エースの系譜』。

これも凄いです。このマンガは、やがて『エースの系譜』をマンガ化した作品というよりも、栗田あぐりという一人の偉大なマンガ家のデビュー作として記憶されるようになるでしょう。

小説版の『エースの系譜』は、もともとは伝記や歴史書を意識して書かれたものなので、多様な読み解き方が可能になっています。読んだ人それぞれが、その行間にまた別の物語、異伝や外伝をイメージしやすいような形式になっているのです。今風な言葉を使えば、二次創作しやすくなっています。

そうしてマンガ版『エースの系譜』を一言で表すとするならば、それは「栗田あぐりさんによる小説版『エースの系譜』の二次創作」です。栗田あぐりさんが小説版『エースの系譜』を読んだ際に、その行間に幻視した少年たちのアナザー・ストーリーを、小説とはまた別の「マンガ」という形式で表現しているのです。

これが凄い。「良い」のではなくて「凄い」です。ぼくは栗田あぐりさんによって、『エースの系譜』の登場人物たちがどういう顔をし、どういう会話を交わしながら、どういう動きをするのかというのを初めて知りました。それは、小説版の表紙を久米田康治さんに描いて頂いた時にも感じた感覚なのですが、栗田あぐりさんの場合はマンガなので、それが数十倍、数百倍の物量で感じられるのです。

異なる二人の人間が共通に幻視したものが異常なまでに強い訴求力を発揮するというのを、ぼくは今回あらためて認識いたしました。マンガにおいて原作つきの作品がある種の価値をこれまで連綿として保ってきたことの背景には、複数の人間がコラボレーションして作られたものが、時に一人の人間が作ったものよりも強い訴求力を持つということがあったということを、ぼくは今回再発見したのです。

エースの系譜(1) (ライバルKC)

エースの系譜(1) (ライバルKC)


そして七作目は『鮭はここまで約束守ってんのに』。

この本は、雀鬼こと桜井章一さんとの対談本ですが、桜井さんのこれまでのご本とも、あるいはよくある対談本とも異なった目的を持って作られました。

では、どういう目的だったかと言うと、一人の「教わる人間の姿」をそこに描ければと思ったのです。

今、多くの人が求めている情報が「教わる姿勢」や「教わり方」だと思います。情報化社会になってこれだけ知識が溢れ、なおかつそれがほぼ平等に行き渡るようになった時代に、人々の能力を分けるものがあるとすれば、それは他ならぬ「教わる力」があるかないかでしょう。そこでぼくは、「教わる力」とは一体どういうものかということを伝えていくため、まずはぼくがこれまで培ってきた「教わる力」というものを発揮する現場を、多くの人に見て頂こうとしたのです。そうして、桜井章一さんというぼくが私淑する師から教わった現場をそのまま活字に置き換えることによってそれを伝えようとしたのですが、そのことによって、これまでにない魅力を持った全く新しい魅力を持った本が誕生しました。これは、ビル・モイヤーズがジョーゼフ・キャンベルに教わった歴史的名著『神話の力』にも匹敵する、最高の「教わり方の教科書」になったのではないでしょうか。

鮭はここまで約束守ってんのに

鮭はここまで約束守ってんのに


おまけとして、ぼくが寄稿した『あの企業の入社試験に、あのひとが答えたなら。』についても触れておきます。

この本の中で、ぼくはNHK入社試験問題に答えているのですが、読んで頂けると分かるように、ぼくはベストセラー作家としてではなく、あくまでも名もなき一個人としてそれに答えています。それはもちろん、ぼくが愚鈍だからそうなってしまったことではあるのですが、しかしこうして本になってみて初めて分かったのは、そのことが一種異様な迫力を醸し出していて、それはそれで面白い回答になっているということです。「馬鹿と鋏は使いよう」で、愚鈍も時にはプラスの作用をもたらすようで、ぼくの答えはどうあっても落とされない完璧な内容となっているので、興味がおありの方はぜひ読んで頂ければと思います。


こうして振り返ってみると、我がことながらぼくはぼくの本の圧倒的な天才的内容の前に恍惚とさせられてしまって、fromdusktildawn氏の指摘にあるように、たとえ二作目以降に最も重要なのは内容だという事実があったとしても、ここまで何の過ちをおかさなかったばかりか、とてつもない成功を収めながら、キングスロードを歩み続けてきたのです。そのため、そんなぼくに一つだけ弱点があるとすれば、それはまさにその過ちをおかしてないということで、失敗は成功の母と言いますから、明日の成功の種については、これまで得られなかったのかもしれません。

そこで今後の課題となるのは、成功を狙いつつもいかにして失敗をしていくか――ということになるのではないかと思います。ですから、読者の皆さんにお願いしたいことは、もちろん図書館ででもかまいませんので、まずはぼくの本を読んでほしいということです。そして読んだうえで、ご不満やご批判があれば、ぜひとも忌憚なくお聞かせください。そうすれば、それがぼくの失敗としてやがて成功の母となり、さらなる発展をぼくにもたらしてくれるように思うのです。