「診療できる看護師」という特定看護師(仮称)の新資格を設ける案がいよいよ法制化に向かう段階のようだ。一種の危機感を覚えるのは私だけではあるまい。
「チーム医療」の推進を目的としてスタートし、医師不足緩和策の狙いが組み込まれたこの議論には看護という領域の専門性を揺るがしかねない危うさがある。これからの医療のあり方を考える上でも再考を求めたい。
現在、看護師の医療行為は法律上あくまで「補助」にとどまる。これに対し特定看護師案は「医行為」すなわち、医師法第17条に規定する「医業」--医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、または危害を及ぼす恐れのある行為--の一部を、看護師に負わせようとするものだ。
もともと、この案はチーム医療を充実させるとのふれこみで議論がスタートした。しかし、そもそもチーム医療とは医療従事者が共通目的に向かい、それぞれの専門性を発揮し連携する医療のあり方をいう。特定看護師案はそれとは反対の、他職種への侵犯行為である。
特定看護師制度を肯定する意見はその理由として過労で疲弊した医師の負担軽減や、介護など今後の急激な社会の高齢化への対応を挙げることが多い。だが、看護師不足を放置したままで看護師を看護の専門性から遠のかせ、新体制を作ろうというのは本末転倒だ。
医業は古くから“医術を用いて病気を治すこと”とされてきた。これに対し看護は19世紀のナイチンゲール以来、人間にそなわる「自然の回復過程を整える」ことに価値をおき、その人固有の自然治癒力を引き出し高めるケアをその本分としている。
看護学はいまだ若い学問ではあるが、独自の理念と方法論を基盤にした看護実践の方法も種々編み出している。医薬品や機械を用いず、痛みや恐怖や心配などを起こさせない方法など症状緩和や治癒に向かうプロセスは、看護独自のものだ。他の医療行為に見られない優位性がある。
現在日本では、看護系大学・学部が200を超え、38の看護系学会が毎年学術集会を開催し、看護学研究の成果を発表している。そうした看護の教育・研究的背景も独自の役割も認めず「医師が指示さえすれば少々危険な行為をやらせてもよい」というような発想を感じてしまう。旧態依然たる医師・看護師関係にとらわれ、その延長線上にあるとさえいえよう。
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今後の日本医療のあり方の方向性に逆行しかねないとの懸念もつきまとう。
近代医療は高度医療に名を借りた効率優先の道をひた走り、まるでオートマチックな人体修復工場と化し、医療従事者も機械に巻き込まれて疲弊し、患者の人間疎外も進めてきた。そうした中で、今回の東日本大震災は医療行為と看護が車の両輪となる大切さ、機械以上に人的な活動の大切さを痛感させた。
キュア(治療)からケア、医学モデルから生活モデルへのギアチェンジこそ「医療復興」の課題であるとともに、これからの医療のあり方ではないか。だとすれば、医療と看護それぞれの専門性をわきまえずに効率だけを求めて垣根を取り払うような方向性には首をかしげてしまう。
看護師が本来持つ力を十二分に発揮させることが大切なのだ。その機動力を生かして医療モデルの転換を図ることこそ、政府が追求すべき道である。
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■人物略歴
看護師、日本赤十字看護大学教授などを歴任。健和会臨床看護学研究所長。
毎日新聞 2011年12月15日 東京朝刊
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