菩薩の道を記していきます!
 
「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み
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    「 魔法少女まどか☆マギカ」というアニメについて解説して欲しいという要望があったので、サラッと見てみた。なるほど、これは如来と菩薩のハタラキを説明するのに良い教材だ。

    ヒットするものには裏がある。そこには不変の法則が組み込まれている。その法則を知るのが如来だ。時代は変わり表現方法が変わったとしても、法則は時代を越える。そして、菩薩は如来からの信号を一つ受けたとすると、そこから何倍にも広げて意味を理解し、それを時代に適した表現にして伝えていく。如来と菩薩のタッグは最強だ。このコンビは確実に時代を創っていく。そうでなければ、ただ時代魂があって、たまたまその時だけヒットしたという一発屋になる。この製作者には如来がついているのか、はたまた時代魂なのか、菩薩なのかは、この先の結果でみえてくる。ここでは敢えて触れない。

    ちなみに、菩薩でも時代魂がないと、なかなか実践する場がなくて苦労する。だから真菩薩と呼ばれる菩薩の周りに菩薩が集まるのだ。そして、時代魂だけでもいずれ失墜する。そういう法則なのだ。

    アニメの世界に限らず、小説でも映画でも、登場する人物の精神的葛藤は、普通の人なら一生あるかないかのことが濃縮しておきる。普段なら有り得ないことを濃密に短時間に体験するから、物語は成り立つ。現実世界においても、それに近い体験ができるのが如来、菩薩である。以前、菩薩は生き様の強烈バージョンと書いたことだ。人より濃い体験をするからこそ、辛さも喜びも人一倍の苦悩と歓喜になる。大衆は大きな感情の波を求めている。命のエッセンスを欲している。精神が試される体験をしたいのだ。表面意識では嫌がりながらも、本当は濃い人生を望んでいるのだ。だからこうした作品にハマるのだ。

    本作品も法則通り。如来的要素を持つインキュベーターという知的生命体が解説して見せたように、時代を変えたり、創ってきたのは魔法少女、それはつまり菩薩だ。菩薩は表に出て働きかけるが、如来はあくまでも陰の存在だ。如来の働きは、大衆に知られることがない。たとえ知ったとしても、そんな話は大衆の常識外のことだから信じられない。例えば、インキュベーターのことをクラスメイトに話すようなものだ。

    インキュベーターは魔法少女たちに、よく状況を解説してくれていた。その視点は小さな因縁を超えた、不変の法則から見た視点だから、普通には理解しにくい。しかし真理とはそのようなものだ。小さい世界にハマっていると大きい世界から見た世界が理解できないのだ。

    魔法というと、対象物そのものを変えることを想像するが、本当の魔法は、視点を変えることだ。今までの概念から解き放たれるとするならば、魔法を解除したということだ。新たな概念を入魂することは魔法をかけるということだ。特別な世界の人間は、特別な世界の魔法にかかっているようなものなのだ。だから現実をみてしまうと、特別な魔法は解けてしまう。ジョイントは、普通の世界という魔法を解くことから始まるのだ。

    インキュベーター(如来)は、善悪を超えていた。そして、自分にできることに徹し、自分では直接社会と関わることができないことを知っているからこそ、菩薩(魔法少女)を必要としていた。如来と菩薩のタッグを組もうとする。お互いに必要なのだ。

    如来はときおり、変化を加速させる。それを表現しているのが、インキュベーターが仕掛けて、きょうこがさやかを救おうと行動したことだ。結果、きょうこ本人にとっては死を迎えることとなり、ほむらにしてもワルプルギスの夜という最終決戦での貴重な戦力を失った。危うく、まどかも魔法少女になるところだったが、間一髪で逃れている。この間一髪が肝だ。ギリギリのところで救われるようになっている。それを救ったのがほむら。これも意味がある。

    そしてここが大事なところだが、結果だけを見ると、誰も報われていない。しかし、その加速がなければ、危機に直面し進化することが遅くなっただろう。ほむらしか魔法少女がいないという状況が、まどかの内面の葛藤には必要だったし、そのままワルプルギスの夜を迎えていたら、きょうこの存在が少しだけ厄介だ。最後はほむらもきょうこも負けるにしても、その経過はまた違った意味となるし、加速しないときと比べたらクライマックスへの時間が余計にかかる。

    それぞれにとって、一番魂の学びがあるのは、あのタイミングで如来が加速させた時しかなかったのだ。が、しかしここで一つの法則を忘れてはならない。きょうこは菩薩の道をそれていた。まだ完全に外れてはいなかったが、輩(やから)に近かった。つまり、菩薩でないものが如来の信号を受けると、結果(成果)にならないという法則だ。だから誰も報われなかったのだ。しかし、如来のパワーはすごいから、今までのきょうこなら絶対にしないような、自己犠牲の賭けにでてしまったのだ。そうした決断をさせてしまうパワーが如来にはある。ありえないことが起きてしまうのだ。そしてそのパワーは伝播して、まどかをも巻き込んだ。第三者への波及効果もすごいのだ。しかし、菩薩を経ないで伝わった如来パワーは、一見すごいことが起きるが、結果は何も産まないことになる法則だ。

    逆に、菩薩が如来のパワーを受ければ、どんなことでも実現していく。それが最後のシーンで表されている。先を急ぎ過ぎた、少し話を戻そう。

    魔法少女が魔女になることは、天使が堕天使になることと同じだ。善意や正しさに拘るあまり執着が生まれ、ダークサイドに落ちていく。菩薩からテロリストへと変わるものは多い。以前、三島由紀夫のことを書いたが覚えているだろうか?その象徴が、さやかだ。このまま続けていたら、きょうこもそうなるところだった。そうなる前に今世を終わらせてあげたとも言える。如来の愛は深い。余計なカルマを積ませないために、きょうこの今世を終わらせてあげたともいえよう。普通の概念では理解できない世界だ。

    きょうこもさやかも最初は、人を救いたいという菩薩心でスタートした。それがやがて堕ちていく。ほんの些細なキッカケや試練から、自己欺瞞が始り、人の意見を聞き入れなくなり、独善へとなっていく。菩薩は光も闇も、極端な形としてわかりやすく見せるのが仕事だ。いろんな菩薩がいる。きょうこたちのように、本人が自覚していない場合も多々ある。

    菩薩の道は簡単ではない。魔法少女(菩薩)として普通ではできない体験もできる一方で、常に死と隣り合わせでリスクも高い。死ぬかもしれないという恐怖を常に抱えていたお陰で謙虚に菩薩として歩んでいたが、ほんの些細な油断で死んでしまったマミ。いくら今まで頑張ってやってきたからといって、容赦はない。仲間が増えるというチャンスこそピンチだったのだ。嬉しい時こそ、気を引き締めなければならない。またマミは、選択の余地がなく菩薩の修行をさせられていた。そういう人生もある。

    このアニメの世界においては、まどかによる暁見ほむらへの因縁付けがなければ、この結末は迎えなかった。その因縁を受けてほむらが、時間を戻して何度もまどかを救おうとした。逆にほむらがまどかに因縁付けをすればするほど、まどかの魔法少女としてのポテンシャルは高まった。まどかが大天使だとすると、ほむらはサタンとしての役を引き受け、寂しさや切なさを受け入れて孤独に戦っていた。この二人だけは、世界が変わったとしてもお互いを覚えている。特別な関係だ。それはなぜか?あとで触れよう。

    話はそれるが、暁見ほむらの名前が面白い。暁は、あかつきといい、夜明け前を示している。暁の明星といえば、金星である。金星はビーナスともルシファーとも呼ばれている。マニアック過ぎた。興味ある人は調べてみたらいい。

    最後の最後まで、まどかは特別な力があるわけではない普通の子であった。時間が戻る前は魔法少女として頑張っていたとはいえ、どちらかというと暁見ほむらのほうが修行してるように見える。しかし最後、まどかは菩薩から如来へと進化する。その答えは、ほむらにある。ほむらがセッセとまどかの為に働いて、助けていたのには訳がある。それは、空海の言う不二の思想だ。元々、まどかとほむらは、ひとつの魂なのだ。敢えて分離して、違う体験を別々の人格として積んでいた。元々同じ魂だからこそ、あれだけ信じられ、特別な関係になれたのだ。表層意識を見ただけでは捉えきれない秘密がある。究極は自作自演なのだ。本人すらも忘れてしまう自作自演が最強だ。


    ここからは余談だが、このアニメは萌え絵なので普通の方には抵抗があるだろう。この萌えという言葉は時代を象徴していた。そしてその「萌え」と同じ音の名前を持つ、私の妻の「もえ」は確実に時代魂だ。萌え要素としては欠かせない天然ボケもあった。今後が楽しみだ。

    そして、萌えの聖地の秋葉原を拠点としてブレイクしたAKB48。面白いことを教えよう。私の結婚式の撮影の仕切りをしてくれていたのが、今のAKBの社長だ。当時は自分でも撮ってくれていたが、写真関係の社長でまだAKBがスタートする前だ。こうした不思議な繋がりが時代魂の特徴でもある。だから時代の裏側を知ることができるのだ。



    【2011.05.11 Wednesday 23:11】 author : oz
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