牧太郎の大きな声では言えないが…

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牧太郎の大きな声では言えないが…:母子一体性の哀れ?

 昭和20年代後半、東京下町、明治生まれの母は小学生の僕を連れ、芝居見物に行くのが楽しみだった。

 何度か見せられたのが歌舞伎の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。伊達騒動をモデルにしたドラマである。

 主君の子、鶴千代の乳母(めのと)・政岡は幼君を家中の逆臣から守るため、鶴千代と同年代の我が子・千松とともに身辺を守っていた。その御殿に“悪者”が次々に現れる。

 毒殺をおそれ、台所からの食事を食べさせてもらえない鶴千代と千松は腹をすかせ、政岡は茶道具を使って飯炊きを始める。食事も満足に取れない鶴千代に心を痛める政岡。

 そこへ、逆臣側の奥方・栄御前が現れ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りではないか?と疑う政岡。だが、それを止めることができない。

 そこに駆け込んで来た千松が菓子を手づかみして食べてしまい……突然、苦しみ出す。

 “悪者”がいなくなり“母親”に戻った政岡は、常々教えていた“毒味の役”を果たした千松を褒める。武士の子ゆえのふびん。千松の遺骸を抱きしめる。

 この場面に来ると、母はいつも涙ぐんでいた。

 大義のため、我が子を犠牲にする筋書き。朱子学が幅を利かせた江戸時代。歌舞伎や人形浄瑠璃は権力者が市民を教育する常とう手段?だった。

 特に欧米人には「雇用主に取り入るため、我が子の命さえ差し出す冷酷な母親」としか思えないだろう。

 でも「明治生まれの昭和の母」は泣いた。

 「天皇陛下のため」という大義の下、世界大戦を戦い、数多い犠牲者を出した日本人だから「母・政岡の心中」が理解できたのだろう。大義のために、母子が運命を共にする「母子一体性」を母は意識していたのかもしれない。

 いま平和で、形だけだが「豊か」になった日本。戦う大義はなくなったが「母子一体」はなぜか強固になっている。

 その典型が受験シーズンを迎えた教育ママ。「いい学校に入る」のが大義? 「勉強させる母、良い成績を出す子」の関係から、我が子が逃げ出そうとすると必死で邪魔をする。

 子の恥は親の恥、子の誉れは母の誉れ、子の成績は母の成績?

 これは「ゆがんだ母子一体性」。教育ママの自己満足ではないのか?

 僕は「勉強しろ!」と言わなかった母を尊敬している。(専門編集委員)

毎日新聞 2011年12月13日 東京夕刊

 

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