忠臣蔵で有名な赤穂義士四十七士の一人で、岡山県津山市出身の茅野和助(1667〜1703年)が吉良邸討ち入り前に家族に書き残した自筆とみられる遺書が、津山市内で見つかった。津山洋学資料館(同市西新町)などによると、従来、茅野の遺書とされた他の史料にない一文が入っており、「よりオリジナルに近い遺書ではないか」という。
当初の討ち入り予定日前日の元禄15(1702)年12月5日に書かれた遺書(縦29センチ、横38センチ)は、母と兄弟宛て。「この機会を逃せば一家の面目が立たない」と討ち入りへの決意を述べる一方、「母上様に孝行を尽くされ、兄弟仲良くなさってください」と家族を気遣っている。
今回の遺書には「武次郎をも取立人となし可申奉存候所(もうすべしとぞんじたてまつりそうろうところ)」と、これまで確認された遺書の写しとされる史料にはない記述がある。幼い息子の後見人に推した甥・武次郎が一人前になるまで見守れなかった無念がつづられている。
自由民権運動に尽力し「美作の板垣退助」と呼ばれた津山出身の医師・仁木永祐(1830〜1902年)の顕彰事業のため、子孫が3月に所蔵資料を整理中に発見。同資料館が東京大史料編纂所に鑑定を依頼し、故郷の津山に保存されていたことや内容から「自筆の可能性が高い」と判定された。
鑑定に当たった同編纂所の山本博文教授は「(従来の資料では)これまで文章の流れが悪かった部分が、新しい一文が見つかったことで、つじつまが合うようになった。討ち入り前の心情がよく分かる貴重な史料」と話している。
同資料館で一般公開されている。
【茅野和助】津山藩士の父が政争に敗れ追放された後、次男の和助が元禄10(1697)年に赤穂藩に仕官した。同15(1702)年12月14日の討ち入りに際し、母を赤穂から津山の実家に帰しており、遺書は赤穂の兄弟を経て母の元に送られたとみられる。
(2011/12/13 09:00)
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