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古市憲寿の「若者は生活に満足」の勘違いと世代間援助
週刊エコノミストの11/29号を読んでいたら、古市憲寿の『20代の若者は現在の生活に満足-格差や貧困に当事者意識ない』と題された記事が載っていた。この号の週刊エコノミストは、表題が「国債ドミノ暴落」と大きく出ていて、その関連情報を収集すべく購入したのだが、国債特集の記事は甚だしく無内容で、何の知見も分析もなく、日経はおろか朝日の経済面以上の中身もなかった。看板に偽りありで、大失敗の買い物。最近の購読で、エコノミストや東洋経済の商品に満足を覚えた試しがない。中身はスカスカのくせに表紙や目次のマーケティングだけは達者で、消費者の購買意欲にミートした仕立てになっている。売ることだけは熱心で上手だ。そういう人間が編集をやっている。私の実感として、日本に経済誌のジャーナリズムが消滅していて、需要は旺盛にあるのに供給がない。購買して後悔した経験が積み重なり、懲りたため、結局、エコノミストや東洋経済に手を伸ばさなくなった。以前は、最新号の表紙や目次情報を必ずチェックしていたが、最近はその習慣がなくなった。編集部にも問題があるが、記事を書いている人間に問題がある。外資やメガバンクやそのシンクタンクの人間、まともに経済学を研究したとは思えない彼らの国債論とは、要するに1%が1%の仲間内で論じ合っている浮薄な雑談以上のものではないのだ。


批判的視点が全くない。経済原論と経済学史を修めて独自の方法と視角を体得したエコノミストがいない。次は日本国債が市場の標的になるから、そうなる前に消費税増税で財政再建しろ、とそれのみ。年金の支給年齢を引き上げろというのもあった。こんな愚論のオンパレードなら、NW9の大越健介の説教で十分ではないか。さて、その国債特集号の中に、紛れ込むように古市憲寿の若者論の記事があったのだが、その中身は、前にBSフジの番組に出演して披露した話を文字に並べたものである。結論は、①日本の若者は「格差社会」に対して現実感を持っておらず、特に不満を感じていない。②米国と違って日本は失業率も低く、就職先も十分で「若者に優しい社会」であり、だからOWSのような運動は発生しない。である。この主張を証明する根拠として古市憲寿が提示するのが、内閣府の「国民生活に関する世論調査」の統計データで、世代別の「生活満足度」の推移が1970年代から2010年まで記されたグラフだ(P.90)。それによると、20代の生活満足度は1990年からどんどん上昇し、現在は65%が生活に満足だと答えている。逆に、生活満足度が下がっているのが50代で、時代を追うほどに満足度が下がり、現在は全世代の中で最も不満の多い層になっている。この数字を示した後で、古市憲寿は得意顔で次のように言っている(BSフジでもそっくり同じ台詞を喋っていたが)。

「『若者が立ち上がって社会を変えてくれる』という勝手な期待をしている人には悪いが、当の若者はどうやら今の日本社会を、そこまで悪いものだとは考えていないようだ」。これが小僧の古市憲寿が最も言いたいメッセージで、OWS運動の日本での不発と合わせて「ざまあみろ」と快哉しているのである。いかにも歪んで腐った脱構築の発想であり、支配階級の子弟が集まる東大らしい保守思考であり、現状を肯定して変革を頓挫させたい動機に満ち、新自由主義体制を防衛する反動言説の開発に意欲を燃やしている心理がよく見える。今回、このデータの解説に反論するべく記事を立てた。簡単に結論を言えば、20代の若者が現状に満足なのは、彼らの生活の面倒を親が見ているからである。よく言われるところの日本の世代間の資産格差とか所得格差の問題、すなわち、高齢世代に冨が偏在していて裕福な生活をしているのに、働く若年の世代に分配が行き届かず不公平だという立論がある。だから、高齢者の年金を削減しろとか、もっと負担を増やせとか、現役世代に負担を押しつけるなという主張がある。こうした話を聞きながら、いつも私が思うのは、そうではないということだ。親が貧困の子の世代を支えている。親の懐に入る所得が子の生活を支えている。本来、親が感じるべき生活満足度を子に与えているのである。親が手にしているインカムを子がスペンドし、親の世代の「裕福」を子が「実感」する構図になっているのだ。

ここで想起すべき理論は、戦前の講座派経済学が残した分析であり、女工哀史と小作農の世界の家計補完の概念である。女工の低賃金(インド以下的賃金)は小作農の家計と一つであり、両者が相互依存関係にあり独立していない。女工の低賃金が一家の現金収入を支え、同時に、労災で重病の身となった女工(大竹しのぶ)を兄(地井武男)が背負って野麦峠を越えて実家に連れ帰る。企業は保障しない。コスト負担しない。今、20代の若者の非正規労働の実態には、わが子を懸命に支えている親の世代の援助がある。それが経済の真実であり、日本経済における労働力の再生産構造の重要な側面に他ならない。高齢の世代の自立と安定があるから、若者の世代の貧困があっても、社会に動揺が起きず、若者の意識が「満足」で完結するのである。二つは分割され隔絶されておらず、経済主体たる生活者として一体なのだ。高齢世代が日本経済の成長期と安定期に溜めてきたストック、退職金や年金や資産が、一つの家計として子や孫の消費と生計を支える源泉となっている。このことは、昨年だったか、湯浅誠がNHKの「無縁社会」の論調を批判して論じていた。日本は決して「無縁社会」ではないのだと。逆だと。むしろ、欧米社会に較べて凄絶に家族が助け合うのが特徴だと。最後の最後まで、ギリギリの限界まで家族の中で助け合い、共倒れになるまで、人(外)に知られぬよう必死に護り合い、救助を外部に求めようとしないのだと。この指摘は当を得ていると私は思う。

この湯浅誠の指摘について、古市憲寿が少しでも注意して聞いていれば、家族内の世代間援助の契機を意識し、数字に外的に表出している「若者の生活満足度」について、若者世代のプアなインカムとの矛盾を説明するべく、その深層を観察する態度を持つはずだ。そして、意味を容易に導き出せるはずだ。ということは、高齢者の年金を削減したり、医療費負担を引き上げれば、それはそのまま子や孫の窮迫に直結するのである。そのとき、日本の若者たちは本当の貧困に直面する。グロスの指標で見たとき、若者の貧困は個人の所得だけで計測され、表面の数字上だけの断定で、親からの援助を含めた支出全体をカバーしていない。だから実感に直接に反映しない。私は別に、「若者が立ち上がって社会を変えてくれる」とは期待していないが、生活に対して不満を持つ若者が増えれば、社会を変えようという気運も自然に起きるだろう。否、実際に、そういう若者は増えている。ただし、日本の場合は、米国のOWSのような運動として現出せず、反左翼反中嫌韓の右翼ファナティシズムに吸収される状況になっているというだけに過ぎない。親の援助を受けられない若者の生活は厳しく、彼らは社会の変革を待望している。その政治的方向が、橋下徹への熱狂であり、2ちゃんねるの狂躁であるということで、OWS的な反資本主義ではないというだけだ。格差社会についての批判意識は、日本では、正社員や労組に対する敵視と憎悪として扇動される。

そして、ストックと社会保障の面で「持てる世代」である高齢者層への反感として動機づけられる。その方面での若者世代の不満や鬱積は、ネットを見ていれば激烈さが手に取るように分かるもので、右翼新自由主義に洗脳された若者たちは、国内の左翼勢力を殲滅し、中国の共産党政権を打倒することで問題が解決されると妄信している。カルトの信者になって怪気炎を上げ、左翼撲滅社会のユートピアに夢想して涎を垂らしている。観念倒錯も甚だしい。私は日本の社会変革を切望する立場だし、しかも「自力」ではなく「他力」の思想だが、そのときの「他力」の対象は、簡単に言えば日本の若者ではなく欧米の若者である。期待するのは米国の若者だ。そして、米国が変われば日本が変わる条件が生まれる。3年前もそうだった。日本でなぜOWSの運動がハプンしないのか。それは、米国でなぜあの運動が起きたのかを考えることで正解が得られる。米国の場合、積み重ねがある。ナオミ・クラインの反グローバリズム運動の試行錯誤があった。候補者中最左翼で黒人のダークホースを大統領に当選させる草の根市民運動があった。思想的にもチョムスキーのアナキズムの理論があり、マイケル・ムーアの『キャピタリズム』がある。それらの土台の上にOWSの運動がある。翻って、日本にはその土台がないのだ。日本にあるのは反貧困運動の経験である。その反貧困は、結局は、霞ヶ関に貧困救済の制度措置をお願いする運動に止まり、社会を根本的に変革する運動にはならなかった。

そして、反貧困運動の面々が著作を出し、講演をし、テレビ出演し、政府で役職を得て官僚や政治家と付き合い、審議会の委員に入って「改革」の行政プログラムを翼賛するという形で結果している。米国のOWSとは対照的だ。OWSが出現して3か月が経つが、OWSの中で本を書いて売る人間は現れない。テレビ出演する人間も出ない。売名や商売でタレントとなり、社会的地位を上げようとする人間は出て来ない。そこが、OWS(米国)と反貧困(日本)の違いではないか。日本の場合、「社会変革」は疑似的な看板であり、人を釣る毛鉤であり、本音は野心家たちの出世衝動の集合体なのだった。原理的な拒絶と否定がない。精神の要素がない。ムーブメントは、左派系のマーケットを相手にしたビジネスとインダストリーの運動と旋回で終始する。そこには出版社の編集者が売上と利益の欲望で蠢いている。ムーブメントを銭儲けにし、銭儲けのムーブメントに東京で仕立てる。マーケットたる左派系も、ムーブメントは政治や運動というより趣味や消費に近くなる。正確に言えば、その二つの属性を相半ばして往還している。反貧困の流行が終われば脱原発へ。左派系のムーブメントの軽薄さは、その場面に常に登場して被写体となる福島瑞穂の表情と口調の軽薄さに象徴されている。もう紙幅がないが、東京で左派の運動の顔になっている連中には大いなる誤解と退嬰があると私は思っている。それは、松本哉の「素人の乱」の発想への評価の問題だ。あれは、資本主義否定でも何でもなく、お祭りイベントだと自他共に認めている。

米国のOWSはお祭りイベントではない。労働者による革命運動である。


 
by thessalonike5 | 2011-12-12 23:30 | Trackback | Comments(0)
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