死んだはずの人間が再び目の前に現れたらどうなるか。
まともな人間なら腰を抜かすだろうし、まともでない人間でも驚愕するだろう。
気の弱い人間なら失神するかもしれないし、心臓の弱い人間には致命的になる恐れすらある。
だが、そんなことは実際には起こらない。
死んだ人間は生き返らないし、大体の場合、それは思い込みで死んだと勘違いしていたとか、そういうものだ。
目の前ではっきり死んだものが蘇る道理はない。
道理を捻じ曲げねばありえない。
まして、ソウルジェムを噛み潰され、肉体を食いちぎられた彼女が復活するなど、ありえないことだ。
・
「久しぶりね、鹿目さん、キュウべえ」
キュウべえを連れた鹿目まどかは、そのありえない現象に遭遇した。
夜中の路傍に、それは突如として現れたのだ。
巴マミ。金色の魔法少女。そして死んだはずのもの。
「うひゃぁああ!?」
予想通り腰を抜かした。倒れて、しりもちをつき、そのままのけぞる。
巴マミの側からは、キュウべえが見えている。
ならば、別人ということは、ありえない。
「ま……マミさ…ん?」
「ごめんなさいね、暗がりでいきなり声をかけたりして。大丈夫?」
ころころと笑う仕草は間違いなく巴マミのものだ。
生前とそっくり変わりない。服装も学校の制服で、差し伸べられた手も、間違いなく巴マミのそれ。
「?」
違和感を感じる。いや、感じないほうがおかしいのだ。
まどかの脳はデッドロックを起こし掛けていた。
マミさんが帰ってきた。嬉しい?いや、本当に目の前のこれはマミ先輩か?
たぶん、そうだろう。手を取られ、起き上がると互いの顔が接近した。マミさんだ。そう、読み取る。
「無事、だったんですか?」
かろうじて喉から声を絞り出す。
「この通りよ。未来の後輩に無様なところを見せちゃったけれど」
マミの顔が曇った。そんなことはない。慌ててフォローを入れるのはお人よしか、と、そんな考えが脳裏を過ぎる。
「……ねえ、キュウべえ?」
はたと気づく。
そういえば、先ほどからキュウべえが一切発言していないことに気づいたのだ。
『マミ、君は』
「あれからのこと、いろいろ聞かせてもらったわ。私たちのこと、騙してたんでしょう?」
騙していた。
歩道橋の一件で露見した、魔法少女の実態のことだ。それ以外に考えられない。
だが、あの場にマミはいなかった。であるなら、誰から聞いたのだろう?
――ほむらちゃん。否、彼女はマミさんと仲が悪い
――さやかちゃんと戦ってたあの娘。可能性はあるが、マミさんと親和性があると思えない。
――さやかちゃん自身。いや、もしそうだったらすぐに連絡がくるだろう。
何が、誰が?
その疑問はキュウべえが代弁する。
『君のソウルジェムは間違いなく消滅した。今も存在しない。君の魂はどこにもない』
「いやね、いつからそんなに突き放すようになったの?」
マミが首を振って肩をすくめたそのときだ。違和感の正体に気づいたのは。
ひらひらと振られる手、その指。そこに嵌められた指輪。形状を換えたソウルジェム。
それが、光を灯しているのだ。
次々色が変わる、光を。
「私は間違いなく此処にいる。それでいいじゃない」
『君はマミじゃない』
「そう?じゃあ、何だっていうの?」
マミが、キュウべえに歩み寄る。
違和感。音だ。靴の裏を床に押し付けて歩いているような音。
「そうね。私や美樹さん、鹿目さんを欺いたのには、お仕置きが必要よね。でもそれより」
指輪がソウルジェムに変体する。それは異常な光を宿していた。
穢れが見当たらない。透き通った光も見当たらない。
中に見えるのは紫色の螺旋状の光の渦。
まどかにも解った、あれはソウルジェムではない。
「マミさん、マミさん?」
まどかの声は二人に届かず、マミの変身が完了する。
『君が何者なのかは現時点では解らない。でも君は魔法少女でも、巴マミでもない。これは動かしようのない現実だ』
「目の前の現実が受け入れられないの?可愛そうに、疲れているのよ。流動食でも食べる?私みたいに」
螺旋はソウルジェムばかりではなかった。
マミの、魔法少女の服、その端々に、紫色の……いや、赤に変わった……縞模様が浮き上がって蠢いているのだ。
違和感が確信へと変わる。ちがう、あれはマミ先輩ではない。でも、何故?なら、何?
「キュウべえは、私たちが理解できないと言っていたけれど、私も貴方が理解できないの。だから」
後方から足音、途中を飛ばすように接近してくる。振り向く前にそれが誰なのか解った。
「理解させてよ、キュウべえ!」
マミの叫びと共に、周囲に異変が生じた。
景色が、緑色に濁っていく。いや、濁ったところから、まるで絵をペンキで上塗りするかのように、別の景色が現れた。
紫色の空、金属光沢の樹木、そして血のように紅いオーロラ……
まどかは自分が突き飛ばされたことを理解した。突き飛ばしたのは、さっきの足音の主。
「ほむらちゃん!」
「逃げなさい、鹿目まどか!あれは、あれは巴マミじゃない、それどころか人類ですらない!」
「酷いわね、みんな揃って。私は人間なのに」
キュウべえが走り出す。金属光沢の森の中に。
マミはそれを、恐ろしい勢いで追う。縞模様の光を曳きながら。
爆発音。少なくともマスケット銃のものではない。それどころか、縞模様の物体はマミだけではないようだった。
森の影から、鋭角的なものが飛び出した。キュウべえを狙って何かを発射する。
爆発の衝撃波がまどかを襲い、走って逃れようとしていた彼女は転倒した。
「あぐ!」
足を捻ったらしい。苦痛に顔をゆがめる。転がった最中、ほむらが既にかなり離れた場所に居るのが見えた。
飛行物体はそちらにも攻撃を仕掛けている。
何が、起こっているのだ。マミさんは、どうなってしまったのだ。
確かめる術はない。ともかく、生き延びねばならない。ふらつく足をどうにか制御し、まどかはその場を後にした。
無我夢中で走り、疲れても一生懸命に歩いた。どれほど時間が経過したのかわからない。
ふと気づくと、建物があった。白い立方体で、窓もドアもないが、まどかにはそれが建物だと理解できた。
理由はわからない。遮二無二、入り口を探す。ドアは見当たらない。と、違和感。
・
入った覚えはないのだが、気づくと部屋の中にいた。
「あれ」
まるで部屋の中に転移したかのようだった。
たぶん、あの立方体から繋がっている場所なのだろう。中は寒色系の照明で照らされ、明るかった。
ディスプレイが沢山ある。その中央の椅子に、一人の男がいた。魔女空間ではないとみえる。
初老というほど老けてはいないが、それなりの年齢を感じる風貌、眼鏡と後退した頭髪が知性を物語る。そして軍服。
彼はまどかを一瞥するなり、言った。
「面白い。言語を異にする人間の思考も読み取れるわけだ」
男が喋っているのは英語と思われるが、早口で聞き取れなかった。
にも関わらず、内容は理解できるのだ。まどかは言葉を失った。
「ああ、レディに失礼だったな。何か淹れよう。コーヒーかね、それとも紅茶かね。フムン、その年齢でアルコールというわけにもいくまい」
「あの」
混乱しきりの頭を整理して、どうにか言葉を構築する。だが、何から聞けばいいのかわからない。
そもそも、自分が経験した概念が通じるか自信がなかった。
「此処はどこですか。さっき景色が変わって、日本にいたのに」
「リアル世界、とでも言っておこう。おっと、紅茶は安物しかないようだな」
慣れた手つきでマグカップに湯を注いでいる男は、どこか超然とした雰囲気を漂わせていた。
いや、むしろ足りない感じもするのだが、それについて言及できるほどまどかの頭の中はまともではない。
「リアル世界?」
「感覚器や先入観に左右されない生の世界、といえば理解しやすいか。"ジャム"が存在していると思しき場所だよ」
テーブルに紅茶が置かれる。椅子を勧められたので、まどかは素直にそれに従った。
紅茶を啜る。生き返る感じだ。今までの脳がパンクするような認識が薄らいで、少し冷静さを取り戻したような気がした。
ジャムか。ジャムだって?
「ジャムって、まさか、あの」
「君は知っているようだな。そうだ。南極に超空間『通路』をぶちこんで、30年も前に攻めてきた、あのジャム」
直感的に全てが繋がった気がした。顔に出ていたらしい。男は不敵な笑みを浮かべて、続ける。
「君の想像の通り、あの魔法少女は、インキュベーターを理解するためにジャムが作った魔法少女のコピーだ」
「マミさんが……ジャム?」
男は、アンセル・ロンバートと名乗った。
・
ジャムはふたたび戦略の変更を行ったのだ。
どうやらジャムは人間を直接感知することができないらしい。
人間よりコンピュータに親和性があるらしく、コンピュータのことを感知するほうが簡単のようだ。
ジャムは地球のコンピュータに宣戦布告し、戦闘機を繰り出して地球を攻撃した。
コンピュータの主人たる人類は、南極から出てきたジャムを撃退し、そして『通路』の向こう側――惑星フェアリイ――へ押し込めることに成功した。
だが、いつまでたっても勝てないジャムは、その原因を探り、ついに人間に行き当たった。
ジャムはそのままでは人間を知覚できないため、自分の支配下に人間のコピーを作り出し、それをFAFに送り込んできた。
人類が兵器のセンサーでジャムの戦闘機を探すように、ジャムはコピーした人間によって、人類を探すのだ。
地球防衛のためフェアリイ星に展開したフェアリイ空軍、FAFには既に多くのジャム人間が潜入し、破壊活動とクーデターを実行、FAFは大きな損害を蒙り、大部分がもはや戦闘不能であるという。
「本当に存在したんですか、ジャムって」
大佐は含み笑いを混ぜて答えた。
「地球ではそう考えているものがもはや多数派だ。君がそう思うのも仕方はあるまい」
当然だが、まどかにとってその話自体、初耳であった。
ジャムなど、もはや地球の一般市民が耳にする機会は殆どなく、半分幻想のように語られていたからだ。
むしろ、FAFが自己保存のためにジャムをでっちあげているのではないか。
あるいは、強国が軍事力の拡大のために共謀しているのではないか。
そういった論調が、主流だった。しかもそれ自体、ほとんど語られる場面はない。
この間、南極に派遣された日本海軍の艦隊が攻撃を受け、多数の死者を出したという事件もあったが、
それすらマスコミは事故の隠蔽にジャムを利用しているのではないかと、疑ってかかる始末だ。
南米ではじまった戦争にジャムが絡んでいるという説は、まったく相手にされなかった。
地球に、既にジャムが侵入しているなど、誰も思いつきはしない。
「私はインキュベーターという存在のほうを、むしろ知らなくてね」
「魔法少女も……ですか?」
「然り、だな。ジャムより信じられん存在だ」
ジャムは人間を観察する過程で、人類と古くから付き合ってきた、あのインキュベーターという種族を発見したらしい。
感情を持たない機械のようなやつだ、ジャムにとっては、むしろ地球型コンピュータと同じく、人間よりも把握しやすい相手だったのだろう。
しかし、ジャムがインキュベータを狙う理由が何なのかについては、ロンバート大佐も把握していないようだ。
そもそも、時間や空間すら操作することのできる、神のような力を持ったジャムが、地球型コンピュータと戦争を始めた理由からして謎なのだ。
気まぐれに、あるいは目に付いた自分以外の存在はすべて征服する気なのかもしれない、と推測してはいたが。
「私は……契約して、魔法少女になって、魔女と戦って欲しいって言われて……原因不明の自殺とか失踪事件はみんな魔女の仕業だって……私の友達も魔女に殺されそうになったり、魔女と戦って死んだ魔法少女の先輩もいました、わたしっ……」
ロンバート大佐が、インキュベーターについて話すよう促すと、堰を切ったようにまどかの喉から想いが流れ落ちた。
「私の親友も魔法少女になっちゃって、でも魔法少女って本当はもう人間じゃなくなってて、その子すごく苦しんでて……助けてあげたいのに、何もできないんです、どうしたらいいかわからないんです……」
それを興味深そうに聞く大佐の眉に、同情や義憤は現れない。
彼は言った。
「人の心の弱みにつけこむ連中か。伝承の悪魔に似ているな。情報戦の基本ではある。いずれにせよ、ジャムのようなもどかしさは感じていないらしい」
ジャムは人間の興味を引くことすらうまく理解していないからな。大佐はそう付け加えた。
まどかは、一人で全てを知っているかのごとく振舞い、他人の不幸に興味を示さないこの男に、どこかほむらに近いものを感じていた。
唐突に、一番聞かねばならないことを思い出す。
「あの、貴方は、一体」
「ジャムに与している男だ」
こともなげに述べる大佐。まどかは混乱した。ジャムに、与する?
何を言っているのだ、この男は。
「そんなことが、可能なんですか?」
「私はジャムに、人間以外の、人間以上のものになりたいのだ。ジャムを支配する、でもよい。むしろ、私は既にジャムであるともいえる。この間、地球人の代表宛に、ジャムの宣戦布告文書を代筆した。間違いなくジャムの側の存在だ。君の敵であるかもしれないな。ああ、話が逸れたか」
一呼吸おいて大佐は続ける。
「君は私やジャムを恐れるかね」
多少の間があった。まどかは首を横に振る。
「だろうな。目の前でジャムの力を目の当たりにしたこともなければ、私も丸腰だ。脅威を感じる理由がない」
「怖い経験は、沢山しました。いやなくらい」
「フムン」
唐突にこんな言葉が切り出された。
「君はジャムになりたいと思うかね」
「え?」
「この部屋に入ることができるのは、限られた人間だけだ。ジャムの空間操作によって制限されている。君が入室できたのは、ジャムが君に何らかの利用価値があると判断したからだろう。その利用価値が何なのか想像をめぐらせてみるといい」
再び混乱しかけるまどかの脳だが、しかし、ここまでの経緯を思い出すと、なんとなく理解することができた。
「魔法少女のサンプル……」
「惜しいな。君はまだ魔法少女ではないし、既にジャムは巴マミをコピーした。魔法少女適合者のサンプル、と考えるべきだろう」
「……私をコピーするつもりですか、ジャムは」
「ジャムは魔法少女をコピーした。次はインキュベーターをコピーしようとするはずだ。しかし、そのためには餌が必要だからな」
たじろぎ、後ずさる。
はじめて目の前の男に、いや、どこかで見ているかもしれないジャムに、恐怖を覚えた。
「取って食おうというわけではない。ジャムは人間をよく理解できないのだ。私もジャムに操られているわけではない。ジャムが人間を見るためには、ジャム人間を使う必要がある」
「ジャム人間、ジャムのコピーがここに?」
「いや、居ない。私はジャム人間から殺されそうになっている。ジャミーズというのだが、私が彼らを組織したにも関わらず、彼らは私を殺しにかかってきた」
「マミ先輩も?」
「私が関与したわけではないが、多分、似たりだろう。あれは記憶と外見は巴マミだろうが、実はゾンビと変わらない。ジャム人間は、生きている人間が妬ましくて破壊衝動に突き動かされるのだ。インキュベーターに対する攻撃は、その恨みからだろう。次は君や私が殺されるかもしれないぞ」
ジャムに警戒せねばならない。だが誰がジャムなのかは、わからないということだ。
ロンバート大佐からの言葉を受け、まどかは安心してよいのか、恐怖したらよいのか、複雑な気分になった。
ともかく、マミ先輩からは逃げねばならないということだ。一度死んだはずなのに、再び現れたものにも、警戒せねばならない。
しかし、初見の相手がジャムだったら、逃げることはできないだろう。
「どうしたら……」
「存在価値があるうちは殺されんよ。ジャムはジャミーズの五感を制御できるらしい。私もやられそうになったが、その途端にジャミーズは私を見ることができなくなったようだ」
ジャムについては解ったし、ジャムがインキュベーターと魔法少女をコピーし、征服するつもりのこともわかった。
しかし、ここから先はまだわからない。少なくとも自分は、元の世界に戻る必用がある。
なにしろ、ジャムが地球に潜入しているのだ。これは只事ではない。知らせなければ。
大佐は壁を示した。オートロック式のドアがある。
「そこから外へ出られる。どこへ出るのかは不明だが、ジャムがどうして君を呼んだのか、出た結果次第でわかるだろう。私と接触させた結果を見たかっただけか、あるいはコピー工場へ一直線か。ずっとここに居ても構わないが、ここには食い物はあまりない」
まどかは大佐の両目を見る。そこにジャムはいない。マミの持っていた光る螺旋はどこにもない。
まだ、大佐は人間なのだろう。まどかはそう結論を出した。
「私、いきます。みんながどうなったか心配だから」
「幸運を祈ろう。もしジャムと戦いたいのなら、ジ・インベーダーの作者にでも連絡を取るといい。喜んでお相手する」
「……未来の敵に塩を送るんですか?」
「まだ、わからんよ。どう転ぶのか。それに相手が何者かわかっていたほうが、やりやすい」
退室しようとしたまどかの眼に、無造作に床に転がったサバイバルガンが映った。
ブルパップ式の小型。セレクタにはフルオートがある。
「警備兵の忘れ物だな。珍しいかね」
何個か落ちているシースルーの弾倉は、中身が一杯に詰まっている。手に取ってみると、案外軽かった。
「持っていっても」
「取り扱いと警察に気をつけることだ」
「ありがとう、ロンバート大佐」
「コンピュータには気をつけたまえ。ジャムになるつもりなら――」
シャッターが閉じるまでに全てを聞くことはできなかった。
・
そこはフェアリイ星でも、リアル世界でもなかった。
自分の住んでいた場所、自宅。
外が騒がしい。なんだろう。いや、それよりやるべきことが残っている。
部屋に戻る。端末を起動、検索、『ジャム』……いや、その前にこの銃の扱いを心得ておこう。
検索システムからたどり着いた図説を見つつ、弾丸が薬室に装填されていないか確認し、安全装置を入れる。
簡単だった。実銃とはこんなものかと、肩透かしを食らった気分になる。
ともかく、ひととおり理解し終えた。そのあたりで、頭の中にあの声が響く。
「そんなもの持たなくても、君が魔法少女になればどんな願い事でも叶えられるのに」
「キュウべえ」
照明はないが、窓から差し込む紅い光がキュウべえを照らし出していた。
チャージングハンドルを引き、セレクタをFIREに。
慣れない手つきでアイアンサイトをキュウべえに向けるが、人間工学に優れた設計は照準を正確にした。
「撃たないのかい」
「マミさんを返して。さやかちゃんを元に戻してよ」
「だから、魔法少女になれば、どっちも蘇らせることができるじゃないか」
蘇らせる?その言葉が引っかかった。
こちらが口を開くより早く、キュウべえの言葉が脳裏に流れ込む。
「さやかは死んだよ。君がいない間にね」
思考が停止する。
「ソウルジェムの濁りを浄化しきれなかったんだ。彼女は魔女を倒しても見返りを求めなかった。だから――」
銃声、二発目を発射する前にまどかはセレクタをフルオートにしていた。
激昂したまどかに、周りのものはもう目に入らなかった。マズルフラッシュで部屋が昼間のように明るくなる。
白いバケモノが穴だらけに。問答無用。出血らしきものはない。硝煙の香りが鼻にこびりつき、壁に穴が開き、破片が舞い、薬莢の転がる音が部屋に木霊する。
「はぁっ、はぁっ!……ッ、インキュベータぁッ!!」
マガジンの空になったサバイバルガンを死骸に投げつけて絶叫する。
もはやまどかの脳裏に、キュウべえに対する憎悪以外の何かは存在しない。
小口径とはいえフルオートで1マガジン全弾を撃ち尽くした衝撃は、女子中学生には重たすぎた。
肩で息をしながらも、まどかはキュウべえの言葉を反芻し、やらねばならないことを思い出した。
「死んだ?死んだって、さやかちゃんが?そんなの嘘だ……嘘に決まってる……」
走り出す。銃声に驚いた母が居間から飛び出してくるところだった。しかしこちらのほうが早い。
「おい、どうしたんだまどか!待ちな!待てって!」
玄関を飛び出る。
何処へ向かえばいいのかもわからないが、それでいい気がした。
そうだ、ロンバート大佐が言っていた。暁美ほむらを大事にしろと。
・
暁美ほむらはすぐそこにいた。まるで待ち構えていたかのようだった。
「来なさい」
「どこに」
「美樹さやかの最期について説明する」
従わない選択肢はなかった。
・
まどかはほむらと共に彼女の部屋へ向かう。いや、これは部屋だろうか。
ロンバート大佐の居た部屋よりもはるかに非現実的な光景が浮かんでいる。何なのだろう。
「あ……」
そしてそこには、さやかと殺しあっていたあの紅い魔法少女がいた。
ほむらが彼女の名を呼ぶ。
「杏子」
きょうこ、か。
ソファに仰向けに寝るさやかの前で、あの赤い魔法少女が俯いていた。
少女がこちらへ向けた視線に、まどかは驚く。
彼女は泣いていた。
「お前……」
まどかを見るなり、杏子は言った。しかし、その力ない声は、傍若無人な言葉を撒き散らして、さやかと殺しあっていた彼女のものとはとても思えない。
「一番大事なときになんでついててやらないんだ」
「……ごめん」
「アタシに謝るなよ、謝らなきゃいけないのは……」
杏子が指差した先にはディスプレイ。映し出されているのは燃え盛る住宅街、繁華街、そして大小さまざまなビルだ。
いくつかの建物は、自分も見慣れたかたちをしていた。背筋に悪寒。目に入ってくるテロップを拒否したくなった。
「さやかちゃん、何があったの……」
ほむらは、まどかの後ろに立ったまま述べる。
「巴マミ。いえ、ジャム」
「え?」
「ジャムがキュウべえを襲ってたんだよ、なんでジャムが、今更……なんだってんだよ……」
ジャムが都市部にいきなり現れたらどうなるか。
簡単だ。パニックに陥る。FAFは何をしている。地球防衛機構を、いや、日本軍を。
日本空軍のF/A-27戦闘機は、ジャムとの空中戦でそのことごとくが撃墜され、地上を燃え盛る地獄に変えた。
最悪だった。そしてジャムは忽然と姿を消し、ふたたびどこかに現れるのではないかと、人々は恐れている。
「ねえ、さやかちゃんは、どうして」
「さやかの奴、憧れの先輩が戻ってきたって喜んだんだ。でも、キュウべえの奴が出るなり、あいつは見境なく攻撃をはじめて」
杏子の声は震えている。
「なにが、あったの」
返事は要領を得ない。
「自分に切欠をくれた人間が、殺戮者になって戻ってきたんだから、おかしくなるに決まってる。ソウルジェムは真っ黒だった。アタシがグリーフシードで浄化しようとしたんだけど、間に合わなかった」
ソウルジェムが割れて中身が全部漏れ出したんだ、と杏子。
漏れ出した中身についてほむらが説明するより先に、まどかはさやかへ歩み寄っていた。
「さやかちゃん」
亡骸にすがりつく。
「ほんとに死んじゃったの?」
杏子は食って掛かるでもなく、奇妙なものをみる目を向けるだけだった。
どこか尋常ならざる気配がある。
「さやかちゃん、こないだと同じだよね。ソウルジェムがどこかへ行っちゃっただけだよね。私探してくるから。絶対みつけてくるから」
「無理よ。砕けてグリーフシードになったソウルジェムはもう元に戻らな――」
「どういうこと?」
ほむらと杏子が顔を見合わせる。意を決したふうに、ほむらは告げた。
「彼女のソウルジェムは、グリーフシードに変化して魔女を生み出し、消滅したわ」
「え……」
「ソウルジェムが、グリーフシードの正体だったんだよ」
杏子の声も震えている。両手を硬く握り締めた彼女は、続けた。
「アイツ、ソウルジェムを浄化しなかったんだ。絶望と怨みで濁りきったソウルジェムが、アタシの目の前でグリーフシードに変わった。そのグリーフシードから魔女が、出てきたんだ」
「さやかちゃん、魔女になっちゃったの?」
「そうらしい。キュウべえが言ってたろ、身体は抜け殻だって。さやかの本体が魔女になっちまったんだ。死体だけあっても、しょうがない……」
死体。その言葉を聞いたまどかは、その場にへなへなと座り込む。
眠っているようなさやかの姿を見て一縷の望みを抱いていたのだろうか。それが崩れたならば、中身がなくなるのも頷ける。
「そんなことない。マミさんはかえってきたよ」
そして、まどかの言葉に、ほむらは絶句した。
「……まどか……アレは巴マミじゃ!」
「マミさんだよ、たとえジャムでも。そうだよ、マミさんが戻ったんだから、さやかちゃんだって戻るよ」
抑揚のない声でまどかは続ける。
「ジャムになれば元に戻れるよ。魔法少女になってももとにもどれるよ。ロンバート大佐がそう言ってた。生者を憎んで生きることになるっていうけど、もとにもどれるよ。さやかちゃんも生き返るよ」
その声は希望を持っていることすら感じさせた。尋常ではない。
ふらふらと、部屋を出て行こうとするまどかを、杏子が羽交い絞めにして止めた。
「お前正気か!コイツがジャムになったら、また人が大勢死ぬんだぞ!」
「いいよ」
「いいって……」
「わたしの大事な人が生きていれば、それでいいよ。みんなジャムになればいいんだよ。だれがジャムかわからないなら、誰もがジャムになればいいんだよ」
魔法少女の正体を知ったショック、親友であるさやかが死んだショック、マミがジャムになったショック、そして見慣れた街が破壊されている光景のショック。
マミやさやかも脆い心の持ち主だが、まどかだって中学生であるには変わらないのだ。
不確定要素が多すぎた。
ほむらは確信した。まどかの心は壊れてしまった。
「いい加減にしなさい、それじゃ、まるで、貴女……」
その言葉を寸でのところで飲み込む。
"まるでジャムだ"
冷や汗が伝う。不穏な単語が急に気になりだした。妄言と片付けようとしていたが、そうではないかもしれない。
あの不可知戦域で彼女は何を見たのだ?そもそも、これは鹿目まどかなのか?
「だから、わたし」
・
それでもほむらは望みを捨てることはできない。
このまどかも、彼女が守るべきまどかに他ならないからだ。
「連れてきて本当によかったのかね」
ほむらは杏子の言葉をあえて無視した。それどころではない。
とうとうワルプルギスの夜が出現しようとしている。
杏子とほむら、結局二人で戦うことになったが、まどかをどうするかで意見が割れ、結局ここに置いておくことになった。
幽閉したところでキュウべえはやってくるだろう。まどかに契約されたらまずい。
その認識は杏子も共有しているようで、最終的に折れた。見えるところに置いておいたほうがいい、と。
「そういえば、貴女と一緒にワルプルギスに挑んだことはなかったわ」
「……何のことだ?」
「なんでも」
怪訝な顔をする杏子。ほむらはさらりと流した。
上空には乱流が渦巻き、市域には避難命令が発令された。
これまでの経験から、川の対岸あたりに、あいつは出現するだろう。
「なるほど、本当に来るみてーだな。信用してよかった」
「強いわよ」
「わかってる」
言うなり、杏子は鎖の壁でまどかを囲った。いつもの壁。これでまどかはある程度守られる。
「あいつは結界を必要としない。隠れる必用がないもの。でも普通の人間には見えない――この気象現象によるものと誤解されるだけだわ」
「いつもの通りだな。二人だけで戦う嵌めになるんだな。しゃあねーか。アタシも逃げる腹じゃないし」
いつの間にか食べていた、棒菓子の最期を飲み込んで、杏子は笑った。
「付き合うよ」
――誰も死なず、皆を友人として、魔法少女などいない世界に生きられたら。そんな妄想がほむらの脳裏を過ぎる。
しかし、そんな世界は彼女に用意されていない。彼女に用意されているのは――
・
彼女たちのはるか上空を蠢くものがあった。
『はるばる地球の裏側からご苦労だな。歓迎する、宇宙人……もっとも、無人機が相手では言葉も通じないか』
平坦なシルエットと逆に複雑なディテールを蓄えた、コクピットのない前進翼の戦闘機。
南米の戦場情報を収集していたFAF特殊戦の無人戦闘偵察機『レイフ』だ。
日本にジャムが出現したと報告を受けて、支援と情報収集のために太平洋を無着陸で突き抜けて飛んできたらしい。
開発競争の激化が生んだバケモノ、ジャムを探知できない日本空軍の目のかわり。
『FRX99よりフラッシュ。空間受動レーダーに反応。ベクター260』
もし何も起こっていなかったら、この気象異常もただの災害とみなされて終わりだったのだろう。
『ライデンリードより全機、データリンクを確認しろ。アップル・ジャック、繰り返す、アップル・ジャック。EWスタンバイ、マスターアーム点火』
しかし、今回はそうではない。
気象現象ではなく、ジャムであると、誰もが誤解した結果――
『ソーヘーよりライデン。データリンク正常。ターゲットマージ。タイプ不明。ベクター260、テン・サウザンドより出現……FRX99よりインタラプト、ボギーは一機、大型機と思われる。ミサイリアーの可能性あり』
――実際にそれはジャムとして迎撃されることになった。
本来なら見えないはずのそれを、迎撃することができるのは、FAFが呼ばれたからに他ならない。
『ライデンリード、ラジャー。レーダーコンタクト。ソーヘー、聞こえるか。ターゲットマージをコピー。ライデンはジャムを叩く。全機、続け』
『OK、ライデンリード。ターゲット移動せず』
普通の人間に、魔女を見ることはできない。
しかし、妖精はその限りではない。
・
「何だ、戦闘機?」
出現したその場で攻撃に入ろうとした二人は、予想外の乱入に狼狽した。
上空にあらわれた多数のエンジンの音が、共鳴しながらこちらへ突っ込んできた。
小さな点に見えていたものが、一瞬で戦闘機になり、そしてオレンジの炎を曳く物体がワルプルギスの夜に投げ込まれる。
その主翼には日の丸。日本空軍だ。しかし、何故。どうやって捕捉している?
「おい、何だよ。お前が動かしてるのか」
爆発の中から、平然とワルプルギスの夜が現れ、そして移動をはじめた。彼女たちと反対方向へ。
ほむらは狼狽する。武器を隠しているのと反対方向だ。
「違うわ。私もこんなのは――また来る!」
一撃離脱を行った編隊が、戻ってきて再び攻撃を行う。クラウドシュートだ。誘導はFAF機が行っている。
彼ら自身にワルプルギス……否、『ジャム』の姿は、見えていない。
「どっちにしろ好都合だな。突っ込んで斬る」
「巻き込まれるわ」
「そんなヘマするか!」
次の瞬間には杏子は地を蹴って飛び出していた。ほむらの制止の声はもう聞こえていない。
現用兵器の弾頭の威力を知っているほむらは、あの渦中に突っ込む気にはなれなかった。誤射される恐れがある。
こんな芸当ができるのは――
「……FAFッ!!」
歯軋り。ほむらも杏子を追って走り出す。後にはまどかだけが残された。
「ほむらちゃん、杏子ちゃん」
残された彼女は、鎖の檻の中で友の名を呟く。
何が起こっているのだろう。あれは、ジャムではない。ジャムではないのにFAFが攻撃している。
魔女になるのは魔法少女。魔法少女の成れの果てが、人類に攻撃されている。
魔法少女からも、FAFからも。
魔法少女は人間ではないかもしれない、でも私は人間だ。
「……」
どちらを応援すればいい?自分の親友だって魔女になってしまったのだ。
――ジャムになれば、死んだマミさんも蘇る。
そう言った。確信があった。だからついてきた。
しかし今のところジャムの姿はない。ジャムは、何処だ。
『やれやれ、人間は相変わらず機械に任せきりにするのが好きだね』
そこへ来たのは、予想通り、人類でも、魔法少女でも、ジャムでもない、そいつだった。
・
『ライデン2、ロストターゲット!』
MFD上からターゲットが消えた。攻撃できない。データリンクが途絶えたのだ。
『ブレイク、ブレイク!』
『ライデン2ロスト!糞、何に攻撃されているんだ、ライデンは攻撃中止、全機高度を上げろ、危険だ』
撃墜されたF/A-27がまた市街地に落ちる。今度は避難済みだ、先日ほどの被害は出ないだろう。
しかし……
『FRXが……ECM?いや、なんだ、これは』
『ライデン、FRX99のデータリンクに異常発生……いや、全機離脱しろ、FRX99はライデンをターゲティング、エンゲージコールが出ている、繰り返す、ライデン、退避しろ!』
『馬鹿な……』
妖精が、掌を返してF/A-27に襲い掛かる。管制機のディスプレイにフォックス3のコール。悲鳴。
一瞬で7機のF/A-27が反応を消し去る。FAFの高速ミサイルが相手ではひとたまりもない。
『データリンクを回復させるんだ!』
『やっているのですが……FRX99が進路変更、こちらに……』
『FAFめ……!』
その哨戒機の反応も、すぐ消えることになる。
・
再び街は炎に包まれていた。
何十発ものミサイルを打ち込まれ、ワルプルギスの夜はそれなりに弱っているようだ。
しかし、まだ足りない。
そして、戦闘機は同士討ちでみな堕ちてしまった。ワルプルギスの夜によるものかどうかは、わからない。
「くそーっ、いい加減硬ぇんだよ!」
槍を振り回す杏子が叫ぶ。目の前にビル。回避。
その隙に側面からほむらが対物ライフルで頭部を狙う。命中、しかし航空機関砲ほどの威力のない対物ライフルでは充分なダメージを与えられない。
隠していたロケットを撃ちたいが、足場が不安定な場所に出てしまった。
「ッ!」
光弾を避け、シールドで弾き、ビルの陰に隠れる。
それでも結構なダメージを受けた。しかし、この程度では諦めない。
仕舞っていた対戦車ロケットを取り出し、再び跳躍する。時間停止、照準。
しかしそこでほむらは、状況が不利になったことを知った。
ワルプルギスの夜が繰り出した、人影のような使い魔が、杏子を囲んで攻撃している。
身動きの取れない杏子に、ふたつのビルが突っ込もうとしていた。
「杏子……!」
舌打ちしながらロケットのトリガに指をかけ、引く。一発、二発、三発……。
20発を打ちつくしたところで、発射機を投げ捨て、時間を解除……まだだ。
残った時間のうちで、ほむらは杏子へ突っ込んだ。
「っは!!」
杏子は、意識が一瞬飛んだ錯覚を覚え、次にビルの崩壊する音響で我にかえった。
自分は確かあれに潰されそうになっていたはずだ。ワルプルギスの夜の表面で爆発……戦闘機が戻ってきたのではなさそうだ。
自分をここまで運んできたのが何なのか、即座に理解していたが、頭が受理を拒む。
「おい、アンタ……!」
ほむらの背中は真っ赤に染まり、あの影どもに突き刺されたのは明白だった。
あの瞬間移動で自分を突き飛ばしたのだろう。
「なんだって、こんな」
「……一人じゃ、勝てな……いから」
立ち上がろうとする彼女は血を吐いた。その向こうから影が迫ってくる。もう目くらましは効果が切れたらしい。
杏子は悟った。勝てない。すくなくともこのままでは。
ほむらの腰に手を回す。ほむらの驚いた声が聞こえたが、耳を貸さない。そのまま持ち上げ、跳躍した。
「何処へ!」
「逃げるんだよ、一時撤退だ、とても勝て……」
次の瞬間、ほむらの存在は彼女の腕の中から消え去っていた。
振り返る。戻っていくほむら、小さな赤い水滴がその後を追う。
「こ……のッ!!」
杏子は怒りを覚え、同時に理解できなかった。
なぜ、そこまでして戦おうとするのか。まどかという、あの少女が大事なのはわかる。
しかし、なら一緒に逃げればいいじゃないか。ワルプルギスのいないところまで……
・
墜落機が街を赤く染める。まただ。
まどかはそれをどこか茫洋と眺めていた。
このあいだのリアル世界といい、実感がない。どこか夢の中のようだ。
「変えたいかい?」
揺籃者は言う。
「なにを?」
少女は逆に問う。
「この現実をさ。君が望めば、全て元通りにだってできる」
「できない」
「なぜだい?君は友人たちが魔法少女になって願い事を叶えるのを見てきたじゃないか」
「魔法少女の代償も見てきた。あんなの元通りとはいわない」
少女の視線には明らかな軽蔑の色があらわれていた。
揺籃者は気づかない。
「代償は常についてくるものだよ。君たちはそうやって文明を発展させてきたんだ」
「私には関係ない」
「やれやれ……彼女たちはピンチだよ」
その言葉に、少女は僅かに眉を動かしただけだった。
「あの戦闘機は、魔女にやられたの?」
「ちがうよ。同士討ちさ」
「なんで?あなたが仕組んだの?」
「簡単だよ、人間の原始的な機械なんか」
「……やっぱり、あなたがほむらちゃんや杏子ちゃんを殺すのに加担してるんじゃない」
「認識の相違だよ、それは。僕は魔女を倒すのは魔法少女でなければならないという原則に従ったまでさ」
うそぶく揺籃者への、少女の視線はかわらない。
「……契約すると、魔法少女になるんだ?」
「そうだね。僕は君たち人類の魂をソウルジェムにすることが仕事だ。君が望むなら、願い事と引き換えに」
「どんな願い事でも?」
「君なら叶うよ」
少女の眼が細められる。
「ほんとうに?どんなことでも?」
「うん、本当さ」
・
吹き飛ばされたほむらは、空中で杏子にキャッチされ、そのまま後退していた。
もう、魔法を使う余力がない。血を流しすぎた。
それに、そんなことより、まずいことになっている。
「今度のまどかは契約したがらないって思ったのに……」
涙声を漏らすほむらを抱えた杏子は、ひたすら逃げる。
コイツも泣くんだな、と妙に納得していた。納得の理由が、なんとなく、これまでの言葉の節々から、ほむらがどこから来たのか、何が目的なのかわかってきたからだ、と気づくのは、もう少し後のことだったが。
「キュウべえをツブすのが先か」
彼女も背中に手傷を負っている。赤い装束がところどころ破け、白い肌に走る切り傷が痛々しい。
それを容赦なく追撃する影。空にゆうゆうと浮かぶワルプルギスの夜。
「気に入らねーな……」
全てが気に入らなかった。否定してやる。
河川敷へ着地、まどかを閉じ込めた位置が見えた。キュウべえがいる。
「届け!」
次の着地で、対岸へ届く。そしたら鎖を解除して叫ぼう。やめろ、と。
追撃に追いつかれ、杏子がぐらりと姿勢を崩したのは、その瞬間だった。
同時に、抱えていたほむらが、また消えていることに気づく。
今度は許そうと思えた。
「いいぜ、行ってやれよ」
・
司令部は大混乱だった。
投入機のすべてが撃墜された上、それが無人機の暴走によるものだというのだから、当然だ。
その無人機はいまだ空中で遊弋し、『ここにジャムがいる』と報告し続けている。
「狂った妖精め……」
反撃があったということは、ジャムがいるということだ。
次の攻撃を準備しなければならない。
おおわらわになっている司令部で、モニタリング中のオペレータが、何かを叫んだ。
「FRX99が引き返します……対地攻撃モード?」
その声は、あちこちの声に遮られて司令官になかなか届かない。
・
「ほんとうに……それが、君の……願いなのかい?」
揺籃者が絶句している。感情のない揺籃者が狼狽している。
「そんなことをすれば、どうなるか解っているのか、きみは」
「うん」
少女はこともなげに言い放った。
そして、口元をゆがめ、繰り返す。
『すべてのインキュベータ存在およびインキュベータ文明集団は、われに帰順せよ。貴殿らは、われの予定せし本来的性質から逸脱した存在である。われに返れ』
少女は確実にそう述べていた。しかしその声は少女のものではない。
「まどか、君は、『われ』とは何のことだい……本来的存在?わけがわからないよ」
少女なのか、これは?
「そう。言った通り。説明しようか」
「僕達の文明がきみに恭順する、だって?」
「私に、じゃない。われ」
「われ?」
鎖の牢が消える。
少女は揺籃者へ歩み寄った。ゆらゆらと、どこか人間ではないようなそぶりで。
『貴殿らがジャムと呼んでいるものの総体である』
言葉はどうやら鹿目まどかのものではなかった。少女は携帯電話を取り出す。電源がオンになっていた。
あの言葉は、そこから発せられていたのだ。
揺籃者は失敗したことに気づいた。既に契約プロセスは発動している。取り消すことは不可能だ。
ジャムに恭順せよ、などとは受け入れられる内容ではない。インキュベータ文明はジャムに降ることになる。
いや、違う。
われわれは、ジャムになるのだ……
「まさか、まどか」
希望と絶望の総転移エネルギーの回収も無意味になる。ジャムに時間の概念は存在しない。
むろん、ジャムは人類ではない。この契約が、ソウルジェムを生み出すことができるのかも、不明だ。
「些細なことだよ、キュウべえ。ばかばかしいミス。なんで気づかなかったんだろう」
光が全てを包み込んでいく。
「私がこっちに戻ってきた理由。ジャムが私をこっちに戻した理由。考えればすぐわかることなのに――」
すべてを包み込んだ後、光は、消えた。