秋田県に標準語を話す村がある

平成の大合併によって、現在は横手市の一画になってしまいましたが、秋田県の旧西成瀬村の西成瀬小学校の卒業生の故郷は、澄んだ音声の標準語に近い言葉を話し、標準語を話す村と呼ばれています。実際には標準語に近い言葉を話すと言うべきかも知れません。それを可能にしたのは遠藤熊吉氏と言う正しい言語教育のできる先生の存在があります。外国の言葉を習うのは大変なことですが、言葉の訛りを直すだけでも容易な事ではありません。明治の開国と共に日本政府は全国的に共通語である日本語の教育を進めましたが、標準語を話す事に成功したのはわずかしかありません。この成功例は英語の発音学習の参考になると思います。

この西成瀬小学校のある地は、かつては交通の難所ともいわれた。国鉄の駅から遠く、雪が深く、耕地は山にへばりつき狭く、貧しい村でありました。秋田県人は、ズーズー弁といわれるが、口を大きく開かないし、舌の動きが滑らかでないので、シとス、チとツ、ジとズの区別がはっきりしないのです。寿司(スシ)と煤(スス)を区別して発音できないそうです。 東北出身の兵士が軍隊で「ススメ」を「シシメ」と発音して、「それでは軍は進めない」と上官から殴られたという話をよく聞いたそうです。

明治以前の藩体制では、日本全体を視野に入れた共通の話し言葉の必要はありませんでした。薩摩藩のように意図的に違う言葉を使う藩もありました。しかし、明治以降に近代国民国家を形成していくためには、日本全体で使える共通語が必要でありました。教育の普及にはもちろんですが、社会も自由民権運動、言文一致運動を推進するために国民各層に通ずる話しことばを必要としました。

文部省は、1900年(明治33年)4月に、前島密を委員長とした国語調査委員を任命し、国語の研究と改良を目ざした国語調査委員会の発足を準備しました。このように政府は全国規模で次々と国語、特に話し言葉の標準語化を進めていきました。これに呼応して、秋田県も標準語教育には熱心であり、小学校令施行規則が発布された年にはすでに秋田県師範学校教諭の小泉秀之助が「東北地方教科適用発音と文法」を1900年に刊行しました。同書には英語の発音教則本にはおなじみの口形図を掲げ、秋田方言を直そうとしました。口形図とは今でも一部の英語に教材に使われている口の形を示すものです。秋田の小、中学校の教師は、この時すでに発音指導の必要性を感じておりました。

しかし、秋田県のズーズー弁は一向に改良されなかったようです。1908年(明治41年)の秋田県森知事の秋田県教育基本方針には次のごとくあります。「本県の初等教育たる近来一般に進歩の跡を認めたりといえども、教授上においてはなお発音の不良、読書力の不足、算数理化学の不成績等深く遺憾とする所なり。」とあります。結果的には日本政府の思惑とは別に共通の日本語を話させると言う教育はほとんど成果を上げておりません。

またなお伊沢修二は1901年(明治34年)に「視話法」出版しており、世界的に有名なグラハム・ベルからの直伝の教えに基づいて音声教育を説いています。それらの本は当時としてはかなりの影響力があったと思われます。1899年(明治32年)に本格的に発音教育を始めた遠藤熊吉氏も十分に研究していたと思われます。音声学的に見れば視話法と口形図は同じ考えに基づく音素理論ベースの方法であります。しかし、西成瀬小学校の遠藤熊吉氏は伊沢修二の視話法を、「聞くところがない」と批判し取り入れませんでした。その音素的な教えを取り入れなかったのは大変な先見性を持っていた事であり、発音学習の本質を理解していたものと考えられます。

このような環境の中で遠藤熊吉氏は「言語教育は、始めに生活あり」で、「言語教育は具体的な言語生活の積極的指導である」と主張しました。この「言語教育の理論及び実際」は、1895年(明治28年)に教職について1929年(昭和3年)に退職を機に33年の経験をもとに著述した書であり、上はその冒頭だけに彼の理論の根幹をなします。音素ベースを否定していた彼は訛音を矯正するのに音声を体系的に取り入れ訛りを矯正しようとはしませんでした。小泉秀之助の「発音と文法」のように発音を文法と結びつけようなどとはしなかったのです。遠藤は西成瀬村の人々が陥っているなまりの部分だけに焦点を当てて次のように具体的に矯正したのです。

訛音「イ」は稍々舌頭を下げ、下歯を圧して発音する。之を矯正するには、標準音の口形舌動を示し、舌の前部を高める事によく注意させる。訛音「エ」はともすればイ、エの中間音であって標準音「イ」を訛音「エ」の如く聞取り、歯を離す者がある。此の「イ」音を言はせるには、必ず児童の歯を見て、開くことのない様に注意する事が肝要である。之でも、なほ了解しないものには、下歯の齦を箸などにてつき、此の部分を舌で圧さない様に注意してやらねばならぬ。
訛音「ウ」は唇音なれば、唇を使はない様にすること。標準音の如く舌の後部を高く上げることをよく説明せねばならぬ。幼年児童は特に舌を引込め、舌の先を下げるといふ方が分り易い。カ行の「ク」音が出来た時に「ウ」を練習すれば「ウ」音の発音に困難する者も容易にできる。

通常の言語教育は、「話す」「書く」を重視するものですが遠藤熊吉氏は「聞く生活が、話し、書く生活に先行する」として聞く教育を重視しました。遠藤熊吉氏は言語教育でありますが、氏は、聞方指導とは、「言語を言語活動そのものの姿で聴き、語彙を収得し、言語の意味話の内容を適確、迅速に捉へる」ように啓発すべきだとしました。さらに彼は、「言語の生命である微妙な語感、語調は専ら聞方によって捉へる」として「言語活動の真実相は聞方によってのみ把握される」としました。言語指導においてこれほど聞き方を重視する指導法は他に類を見ません。

しかし、考えてみれば、言語生活の中で聞く生活が私達にとって一番多い時間です。また遠藤熊吉氏は、話し方の様式を「対話」、「独演」、「討論」の三つとして、「対話」を最重要視しました。これも彼が話す場面の実際は、対話が一番多いからという考えからでした。彼は「対話形式が言語生活の常態である」として、「言語活動の実相は、対話形式に最もよくあらわれる」としました。さらに彼は「対話において言語は特に精彩を帯び、一層能動的になる」として対話の心理活動で「言語機能、言語活動が発達し、複数、微妙となるので、特に対話を重視」と言いました。「言語教育の理論及び実際」には話し方の実践例が多数ありますが、対話の例が圧倒的に多く、「対話が出来れば独演も出来る様になる」と遠藤は言いました。正しい発音のできる1年生は作文でもその能力を発揮して、彼の話し言葉教育の徹底が作文指導にも有効であることを証明しています。

遠藤熊吉氏発音学習は、特に生徒の入学と共に直ちに発音矯正を始めました。入学時、生活の転換期には、総てものを、容易且つ自然に受容する事が出来ると考えこの時期に矯正を怠る事は、虚しく矯正の好機を逸するに等しいと信じていたからです。彼は百年も前に今で言う臨界期を現場教育で感じていたのかも知れません。

遠藤熊吉氏の指導が実を結んだのは、この地域に吉乃鉱山という全国から人々が集まる場があったことも一因ではありますが、日本においてそのような地域はたくさんあっても標準語を話しておりませんので、遠藤氏の教育が正しかった事が大きな要因に違いありません。最大の要因としては遠藤熊吉氏の教育の特徴として聞く事を重視した点です。テープレコーダーのような録音機が無い100年前に正しい発音を身に付けるのは大変難しい事ですが、聞く事が最善であったと思われます。そして彼は入学した小学1年生から始める事により、臨界期前に発音を矯正させたことも成功の一つです。そして彼は常に言葉には書き言葉と話し言葉があり、話し言葉がより重要である事を認識しておりました。

彼は訛りを矯正するのに口の形などを強調して矯正しようとせず、遠藤は西成瀬村の人々が陥っているなまりの部分だけに焦点を当てて矯正した事です。体系的な音素をベースに矯正するのは、英語の発音矯正でも効果的でありません。

遠藤熊吉氏の標準語教育は、単に発音指導ではなく、独話、対話、討論を通じ、「生活内容の自由表現を目的」としたものでありました。特に遠藤熊吉氏は対話を重視しました。対話を重視する事により、話す事の喜びを体験させたかったのかもしれません。

訛りのある日本人が標準語の日本語を話すのがこれ程大変なのですから、日本人が英語の発音を身に付けるとか、英語の発音を矯正する事はどれ程大変かが理解できると思います。

しかし、残念ながらこの遠藤氏の聞くことや対話を重視した標準語を話す教育は現在では音素理論を取り入れた、体系的な言葉の学習の本となってしまいまたした正しい評価がなされていないのは大変悲しい事だと思っています。この件を北条常久氏に質問してみると「現代の先生は体系化したものが欲しいと言う事で音素理論を取り入れた。」との答えでしたが、せっかく正しい事を始めた遠藤氏の考えは、新しい知識を持った現代の人により方法論とすれば改良ではなく、改悪されてしまいました。

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