始まりはいつも突然だ。それは僕に関しても例外ではなく。
僕が目覚めてから、時間にして79時間49分が経過したときのこと。珍しいことに、僕のカプセルがあるこの部屋には誰もいなかった。
ティアーユはこの研究室で仕事をすることはあまりないし、トルネオだっていつもここにいられるほど暇じゃない。尤も、僕の体を隅から隅まで舐めまわすような目つきでじっくりねっとり見つめた後、下品な笑みを浮かべて去っていくことは何回かあったけど。
ただ、常駐の研究員がいつもなら二人はいるはずなのに、それすらもいないというのはおかしな話だった。
実を言うと、今から一時間ほど前に、常駐の研究員がなにやら騒ぎ立てたかと思うと、脱兎のごとく研究室を飛び出して行ってしまったのだ。僕も面白そ……もとい、何事かと思って情報を集めたけれど、それらしいものは影も形もなかった。どうやら、インターネットで探れる範囲の事情ではないようだ。
十中八九、この屋敷内でさっき起こったばかりのことだろう。しかも、電子機器を使用するようなことではない。
……痴話喧嘩かな? ティアーユか、トルネオ絡みの。
ひょっとすると、トルネオとティアーユが……? 常識的に考えるなら、想像するだけで吐き気がする類の組み合わせだとは思う。
しかし、あの二人が誰と恋愛しようが別に個人の自由だし、あまりぼくには関係ないことでもある。
まあ、それはそれとして。
(暇だなぁ……)
僕の体を見て興奮する変態のデブでも、そもそも僕を空気かなにかのように扱う研究員でも、いないよりはマシだ。誰もいない空間で、身動きすら取れないまま置いていかれるというのは、退屈極まりない。
研究員の単調な動きを見ていれば楽しかったのかというと、別にそういうわけではないのだけれど、完全な孤独というのは、やっぱり少し寂しいものもあった。
というわけで、どうせ暇だからハッキングをしてみることにした。
内容は至って簡単、ここのパソコンにかけられたファイヤーウォールを潜り抜け、ナノマシンで情報を奪うというミッションだ。
前回は必要不可欠な情報しか集めていなかったから気にも留めなかったけど、ここのデータベースの中、分類で言うならプラン『ジェネシス』に分類される部分に、やけに厳重なロックがかけられた一角があった。ティアーユが使用中だったにも関わらず、そのロックは小揺るぎもしなかった、一角が。
あれから三日ほど経過したわけだけど、その間にむくむくと好奇心が育っていたのだ。
そもそも、ここのパソコンには厳重すぎるほどのロックが予め施されている。指紋認証、網膜スキャン、音紋照合、最後の砦にパスワード入力という周到さだ。
その過剰なまでの守りの中、その一角にアクセスしようと思えば最初とは違う6ケタのパスワード入力と、もう一つの防御――おそらくは最後の砦だろう――を潜り抜けなければならない。その砦は文字通りデータベースの最奥に位置していたので、どんな防御を施しているのかは知ることができなかった。
そして、プラン『ジェネシス』についてのデータは、ネットと繋がっていない。重要性から考えると当然の措置ではある。――要するに、ここのパソコンを介してしかアクセスできないようになっている。
つまり、トルネオの私兵と監視カメラで固められたこの屋敷に忍び込み、データを抹消する暇すら与えずにこの地下研究所最深部まで潜り込み、指紋も網膜も音紋も誤魔化して、ティアーユとトルネオと他数人しか知らないであろうパスワードをどうにかして奪取し、さらに誰が知っているのかすら定かではないパスワードをまた入手して、最後の関門も突破するような人間がいる。しかもそいつはここの情報を狙っている可能性がある――そう、トルネオが考えているということだ。
……どこからどう見ても被害妄想だよねぇ。
たとえば、僕が知り得た知識の中で最も危険度が高い組織といえば、世界の三分の一を支配する巨大秘密結社『クロノス』だ。そのクロノスだって、そこまでする理由がどこにもない。そもそもクロノスに狙われた時点で、こんな防御を何枚重ねようが無駄な足掻きにすぎないだろうし。
しかし、その被害妄想は裏を返すまでもなく、それだけの情報があそこに眠っているということの証だ。それは、僕のことに関する情報である可能性が非常に高い。
そんなわけで、意を決した僕はナノマシンをチューブ伝いに送り込む。
(アクセス、開始っと)
この三日で学んだ、ナノマシンを最も有効に動かす術。
それは、“祈り”、“願い”、“信じる”ことだ。
僕の信仰が、信念が、信頼が強ければ強いほど、ナノマシンも強く作用する。
勿論、それだけで決まるというわけではないけど。
(……うん、よし)
ナノマシンによるアクセスを開始すると同時に、僕の脳内で新たな視点が浮かび上がる。白にも黒にも、はたまた無色にも見える混沌とした城塞。
これが、このパソコンの中……いわば電脳世界だ。
ジパングのアニメに『ポップマンエグゼ』というものがあるけど、それに出てくるのと同じようなものだ。あれは、人間が作った疑似人格を持つデータ達が、ネットやパソコンの中にある電脳世界で大活躍する少年向けアニメだった。
ただし、こっちはあんなにファンシーでもファンタジーでもない。底の知れない、即死トラップや警報満載の迷宮を探索するようなものだ。下手をすると、アクセスに使ったナノマシンが破壊されるかもしれない。
まあ、僕にとっては蚊が刺したほどにも感じないほど微小な損害だけど。
「とはいえ、まずは城門だよね」
城門の前に立つ。この世界なら、声を出しているような錯覚を持てるし、両足でしっかりと立っているような気にもなれる。
見るからに頑丈そうな城門。周りの城壁は首が痛くなるほどに高く、城門の正面以外には、赤外線センサーのような光が虫の一匹も通すまいという風情で張り巡らされている。こいつらは、不正アクセスを阻むファイヤーウォールだ。
そして城門にはごつい南京錠が三つかかっている。これが、網膜、指紋、声紋の三つ子ロック。
「まあ、楽勝だよ、っと」
今の僕は、いわばチートを使っているようなもの。だって、ナノマシンでマシンの内部から干渉しているから。
だから、ステルスモードになってセンサーをすり抜けるくらい造作もないし、現実じゃ不可能なくらい高くジャンプして城壁を飛び越えることだって朝飯前だ。
そうして僕の分身――いわばウィルスは、中庭に降り立った。あっという間に第一関門突破。
まあ、網膜、指紋、声紋あたりなら誤魔化すのは楽だ。所詮は身体データを読み取って開くシステムだし、融通も利かない。逆に、パスワードなんかは単純ゆえに頑強で、難易度が跳ね上がる。
これも三日前の侵入で意図せずに知ることができた。なにも知らずにアクセスしていたら、今頃は警報がビービーと鳴り響いていただろう。
(さて次は……あらら)
次の関門、最初のパスワード入力は、鋼鉄で作られたドーム型防壁という形で現れた。
ただ一つ存在する入口には、0から9までの数字がある入力装置。
(これはステルスじゃ無理かな……無理だな)
おそらく、このドーム――ファイヤーウォールを破壊することは可能だろう。僕という異物が侵入した形跡を残しても構わないのなら。
残念ながら、それは構う。
「1,6,9,1,1,2,8、と」
しかし、僕はしっかりと記憶していた。三日前、ティアーユ博士が僕に関するレポートを更新するためにファイルを開くときに入力したパスワードを、はっきりと見ていた。
1691年12月8日――検索結果は、ティアーユの古巣、名門アシュフォード大学の創立日。やっぱり、母校にはそれなりに思い入れがあったようだ。
パスワードを入力し終わると、重々しい音を立ててドームが左右に開き、地下への階段が現れる。
そこを下れば、ようやくプラン『ジェネシス』の領域内だ。僕は躊躇無く階段に地下に踏み入り、僕に関する様々なデータが眠る部屋を無視してひたすら階段を下り続ける。
そして、階段の終わりにあったのは鉄の扉。
ドアノブを掴んでみると、案の定動かない。施錠されている。
そしてドアノブのすぐ上には、パソコンのキーボード。
ここのパスワードは、0~9の数字とA~Zのアルファベットの組み合わせらしい。難易度が跳ね上がった。
候補としては、僕の名前であるADAM、検体Noの254、それらを組み合わせてADAM254、アスフォード大学の記念日、ティアーユの卒業日、誕生日、家族の誕生日、年齢、スペル、足し算、組み合わせ……。
しかし表示されたメッセージは、『パスワードが間違っています』だった。幾らなんでも、ノーヒントでのパスワード入力は無理だ。
(うーん……手がかりかなにか、ないかな……)
そう思って、一時的に意識をウィルスから本体に戻し、部屋の中をカプセルから見る。
殺風景な黒い壁。
コードだらけの黒い床。
なにもない。
(……そうだ、ティアーユの部屋を見ればいいじゃないか!)
ティアーユの部屋は、実はここにある。こんな地下研究所に部屋を作るなんて、絶対に気が滅入ることなのに。天才だけど妙に変わっている。
まあともかく、このタイミングで思いつくとはまさに天啓。こうなったら善は急げだ。
流石にここからだと見えないに決まっているので、部屋の中の監視カメラの支配権を奪って視界を共有したあと、めぼしい物はないか見回す。
机の上とPCの周りこそ雑然とはしていたが、以外に片付いた部屋だった。
しかしすぐには見つからない。というか、それっぽい物が多すぎて困る。 いつもはティアーユが使っているのだろう机の上には、雑多な走り書きや小難しい図が描かれた書類などが山積みになっているし、PCの中だって本人にしか見れないメモがあったりするかもしれない。
(まいったな……んん?)
ほとほと困り果てた僕の目に、ある物が飛び込んできた。
その書類の一角、革張りの日記帳が何故か開いていて中の文章が丸見えだった。おそらく、ティアーユの筆跡だ。
カメラを最大までズーム。カメラの性能が悪いこともあり、字は若干ぼやけていて解読が難しかったけど、じっと見つめているとなんとなく書いている単語は分かった。
(ADAM、EVE、第二段階、虚弱、交配、量産、転化……)
段々と嫌な単語が増えてくる。――あの人、実はマッドだったのか。
しかし、EVE……ADAMにかけたのかは知らないけど、もしかしてあの人、僕の成長経過を見ない内に二体目を作るつもりなのかな? 随分とまあ無茶をするもんだ。
そんなことを思いながら意識をウィルスに戻し、EVEと打ち込む。
打ち込んだ瞬間、ガチャリと鍵の開くような音が響く。半信半疑ながらもドアノブを掴み、力を込めると、今まで固く閉ざされていたのが嘘だったかのように、ドアノブはあっさりと回った。
そして、その先にはまた階段が。
これも随分と奥まで続いていそうな雰囲気があるけど、明かりがないのではっきりとは分からない。どんなシステムなのかを外部から調査できないように対策が講じられているようだ。
完全な暗闇の空間というのは、なんとなく入るのを躊躇うものがあった。
(……まあ、このウィルス体がやられても本体に支障ないし……)
そう自分に言い聞かせ、仕方なく、暗闇を手探りで進んでいく。
そのとき。
キィーー…………ン、と。
空気を切り裂くような鈴の音が聞こえた。
同時に、ウィルス体の肌が泡立つような感覚を覚える。
(……なにか、来る)
どうすればいいのか分からず、咄嗟に身がまえた瞬間、風が吹く。
そして、僕の視界は本体へと戻った。
(え……今……)
思わず茫然自失としつつ、なにが起こったのかは分かっていた。一瞬で、ウィルス体が破壊されたんだ。
しかも、こっちにはその正体を掴ませないほどの早業で。
(警報に触れてもいないのに迎撃された……。それに、本体にも異常が?)
意識を本体に戻して初めて気づいた異変。それは、ナノマシンに伝わる微弱な信号だった。
とっくに分かっていることだけど、僕の体には数限りないチューブやらコードやらがつながっている。バイタルデータを計測するための機材だけでなく、体内のナノマシンを調整するための点滴だったり、あるいは臨床実験をするためのものだったり、色々だ。
で、その内の一本、僕の体とナノマシンの仲介……ぶっちゃけるなら、拒絶反応が起こって僕が死んだり、変身能力が暴走したりないようにチェック、いざとなったら干渉するための機械から、いつもとは違う信号が送られてきた。
この機械は僕のナノマシンに直接の指令を下すことができるから、僕に信号、つまり指令の中身はわからない。指揮系統でいうなら、こっちは少尉で向こうは准将くらいだから、完全に向こうの方が上だ。だから、僕より上位からの命令をナノマシンは教えてくれない。――少なくとも、今は。
ちなみに最上位は、ティアーユ博士が作成、僕の体に打ち込んだ基礎プログラムだったりする。
さて、しかし、僕の体に起きた変化は幾らなんでも分かる。だから、ナノマシンに送られてきたデータを読み取ることならできる。そのデータを使ってどう変化するように指示されたのかは分からなくても、だ。
送られてきたデータは二つ。
(外気と重力についての詳細なデータ……それに、急激な環境の変化に伴う肉体とナノマシンの剥離、自壊、拒絶反応に関する統計と対策……?)
さて、それらが意味するところとは? 残念ながら、それを考える暇は与えられなかった。
(なっ……!?)
唐突に、前触れなく、カプセルから排水が始まった。
無数に纏わりついていたチューブは抜け、コードは落ち、甲高い警告音が部屋中に鳴り響く。
(逆探知!? そんな馬鹿な!)
不可能なはずの逆探知。それが、尻尾切りしたはずのナノマシンを媒介に行われたことで、僕の精神状態は混乱の極みとなった。
今の二つのデータは、排水が始まると同時に僕のナノマシンに送信される仕組みとなっていたらしいけれど、それも誰かの立ち合いがあると想定されての話だ。
(今は誰も、誰もいないのに! このままじゃ……)
ティアーユ博士も、トルネオも、その他の研究員も、誰もいない。こんなときに、この体で放り出されたらまずい。
そもそも、誰の立ち合いもなく自動的に排水されている時点でおかしい。明らかに、あのプログラムによる迎撃だ。おそらく、僕がこんな藪蛇を引き起こすなんて誰も予想していないに違いない。だから助けも来ないだろう。
僕がカプセルでずっと育てられていたのは、決して僕の体が安定しきっていないからだ。人間の体にナノマシンを組み込むというのは、それだけの暴挙でもあった。だからこそ、ある程度まではカプセルで育てるというプランになっていた。“教育”は幼少期からした方が良いのだろうけど、それで僕が死ねば本末転倒。背に腹は代えられなかったらしい。
しかし今、僕の周りにはだれもおらず、僕は残酷にも冷たい外気と重たい気圧に晒されつつある。
「……ぁ……ぅ……! ぁ……ぇ……!」
声を出そうとしても、急には出せるはずがない。生まれてから一度も使われたことがない声帯に、誰かが気づくだけの叫び声を上げさせるのは、あまりにも無茶な話だった。
そうこうしている間に排水は完了し、僕の体は冷たい容器の底に倒れる。
恐ろしく寒い。歯の根が合わない。
目もよく見えない。どこか霞んで、なにもかもぼやけて見える。
浮力を失った体は鉛のように――鉛を持ったことがないのでなんとも言えないけど――重い。指一本を僅かに動かすのに、途方もない努力と意思が必要だった。
明確な死の予感が、このままここに取り残されて朽ちるという予想が、次第に実体を帯びてくる。
(死ぬ……死ぬ。このままじゃ、絶対、死ぬ……)
僕に感情らしい感情はない。良心もない。それを育ててくれるのは、両親の愛だ。ということらしい。ネットによると。
でもやっぱり、そんな僕でも一応は生き物だから、
(死にたく、ないなぁ……)
そんなことを、ちゃっかりと思ってしまうらしかった。
瞼すらも重たくなり、僕が目を閉じる寸前。
さらにぼやけた視界に、金色が映った。