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[29988] 厨二病ランナー【習作】【チラシの裏より】【ネギま】【主人公が微鬱】
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:338f5103
Date: 2011/12/08 13:43
どうも、初投稿です。

おれつえええええ成分は、たぶん含まれておりません。
ギャグも少ないです。
主人公は転生してません。
脱テンプレです。
ですが、もしかしたら、ネギま!である必要はないのかもしれません。

ネギま!の世界設定で、日本ではマイナースポーツの陸上競技です。
あと主人公は特殊性癖風味です。

作者はネギま!の読み込みが足りないのでたまに設定ミスをやります。気付いたら教えてやってください。

あとこの作品について良い点悪い点など、やんわり教えていただけたら幸いであります。

2011年12月7日
ちょっと疲れてきました。ネギま!の必要性がまるでないことに気付きました。でも書き続けます。
文章に起こすって難しいですね。書いては消し、書いては消しの繰り返しです。



[29988] 世界記録(偽)
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:338f5103
Date: 2011/10/04 20:00
 どのスポーツも基本をは走ることから始まる。野球でもサッカーでも、卓球でも。水に入ったりしない限りはほぼ必ず、走ることが必要になる。走跳投である。その基本をとことんまで突き詰めるスポーツが、陸上競技だ。
 ぼくはその中でも、中距離種目、八〇〇メートルと一五〇〇メートルが好きだ。短距離並みの爽快なスピードを、長く感じていられるから。
 しかし八〇〇、一五〇〇と聞くと、たいていの友達は辟易する。きついだけの拷問、ただの体力勝負、ただの根性比べだと言う。
 それは違うと思う。
 確かに厳しいトレーニングに耐える精神力、根性は必要だが、それはどのスポーツにも言えるだろう。
 第一、『走る』という行為一つとっても、満足にできる人間は少ない。腰が落ちてバタバタしていたり、着地時の足の着き方がおかしかったり、動きそのものが硬かったり。走りの効率が悪いから拷問としか思えない。
 自転車にでも乗ればいい、と思うかもしれない。だがそれは間違いだ。道具の力を借りず、自分の肉体で生み出す速さであるから意味がある。速さの全てを己の身で感じ取ることこそが快感なんだ。
 だからぼくは――走りたい。

 八〇〇メートル決勝。
カラっとした暑い炎天下のトラックで、火薬の炸裂音が一つ。八人の選手が一斉に走り出した。
 ぼくは滑るような動きで最初のコーナーを曲がった。
 コーナーを抜けると、コースはオープンになり、選手が内側へ一斉に流れ込んでくる。八〇〇メートルにおいて最初の位置取りは重要だ。いい位置を維持してエネルギーのロスを減らし、この後、集団から飛び出す機会をうかがう。特に、誰もが勝利に闘志を燃やしている決勝の位置取りは、喧嘩のように激しい。
 ぼくは二番手につけることができた。トップを走る選手は先行逃げ切り型なのか、かなりのペースで飛ばしている。大丈夫、ぼくはラストのスプリントには自信がある。
 バック・ストレートから少しスピードが落ちて、ホームまでは中だるみだった。一周の手前で少しペースが上がり、四〇〇メートルの通過は五五秒。中学生のレースとしてはかなり速い。三番手以降は、五、六ほど後からついて来ている。鐘が鳴った。
「大会記録の更新も期待できます」
 アナウンスが興奮気味に言った。
 再びバック・ストレートに入った時、前の選手がギアを一つ上げた。フォームは柔らかで、まだ余裕を感じさせる走りだ。二メートル、三メートルと差が開く。ぼくはそれに喰らい付いた。
 ここで離される訳にはいかない。
 負けるのは嫌だ。
 しかし、その気持ちとは裏腹に動きは苦しくなってきた。ペース変化で酸素負債が予定以上に蓄積したのだろう。この速度から更に上げられたらぼくに勝ち目はない。
 負けたくない。

 ――勝ちたい。
 ――こいつをぶち抜き、一着でゴールしたい。

 その瞬間、全てが噛みあった気がした。
 呼吸、腕振り、足のピッチ、全身のリズムが完全一体となって、言い表せないような快感が全身を包み込む。
 身体が軽くなる。
 呼吸の苦しさ、全身をめぐる乳酸の辛さが、どんどん消えていく。まるで最初の五〇〇メートルを無かったことにしてしまったみたいだった。
 長大なストライドで、ぐんぐん飛ばし前の選手を抜き去る。抜かれた選手は必死に喰らい付こうとして、リズムが崩れていくのが背中で感じられた。
 残り二〇〇メートル、ぼくは独りになった。きっと観客席の応援はすごいことになっているだろうが、そんなものは耳に入らなかった。体に風が当たる音、激しくなった呼吸音、オール・ウェザーのラバーのトラックにスパイクピンが突き刺さる音、身体の悲鳴。走りを左右する要素だけが、ぼくの世界にいた。
 あごを引き、腕振り、足の緩急を鋭くする。体の中心で生み出された力が末端に伝わる、流れるようなフォーム。
 全身が熱く煮えたぎる。
 コーナーを抜けてホームストレートに入る。
 もうあと一〇数秒でこの走りは終わる。ほんのわずか一〇数秒だ。この一〇数秒に残りの全てを爆発させるのだ。
 体に羽が生えたようだった。重力を忘れてしまったように、手足が、身体(からだ)が動いた。
 視界にはもう、自分が走り抜けるレーンしか入ってこない。
 フィニッシュで胸を突き出すではなく、そのまま駆け抜ける。
 勢いのまま突っ込み、トラックのはずれに倒れこんだ。
 けたたましく観客が騒いでる。顧問の吉田先生が鼻息を荒くして、ぼくに何かを言っていた。酸欠で体を起こせない。寝ころんだまま、デジタル時計の数字を見た。
 一分四九秒……その後ろの数字は見えない。
「よんじゅうき――?」
 夢かと思った。
 今の中学記録は一分五三秒一五。それをはるかに上回っている。時計の故障かと思った。
 でも、周囲の歓声が、先生や仲間の表情が、それが事実であるとぼくに告げていた。

1

「うおおおおおおお!」
 ぼくは両手を突き上げ、その勢いで起き上る。
「おおぉぉ……ぉ?」
 しかしその雄たけびは虚しく、部屋に響いた。
「あれ?」
 なんで? 八〇〇の決勝は? なんでぼく自分の部屋にいるの?
 そこは慣れ親しんだ自分の部屋だった。朝の陽光が窓のカーテン越しに差し込み、その向かい側にあるの猫のカレンダーに当たっていた。まだ六時をちょっとすぎた頃。いつもなら寝ている時間だ。
 ――夢かよ。
 自覚すると急に決まりが悪くなった。夢の中とはいえ、やり過ぎだ。一分四九秒なんて、日本選手権のレベルじゃないか。何を先走っているんだ、ぼくは。
 部屋のドアが開いた。
「おい、どうした」
 通勤前の父がいた。白いワイシャツと黒いパンツのきちっとした服装。
「いや、別に。ちょっと変な夢を見てさ」
「へえ、どんな」
「全中で決勝に出た夢」
 すると父はぼくと目を合わさず「……そうか」とため息をつくように言った。どこか後ろめたさを抱えている印象を受ける。
 ぼくは蒲団を跳ねのけ、ベットに腰かけた。
「もう起きるのか?」
「完全に目が覚めた。それより、なんか今日はフォーマルな格好だね、なんかあるの?」
「ああ、ちょっと埼玉の方にな」
 ふーん、とぼくは生返事をすると、父は部屋を出ていった。ぼくは夏休みなのに大変だ、と思いながらも照れくさいので口にはしない。
 ふと、床に散らかった物に目がいく。陸上のスパイクやらユニフォーム、腕時計。スパイクは土がついたままだ。片づけないまま寝てしまったのだろうか。後ろめたさを感じた。
 今、ぼくにとって一番大切なものは陸上競技だ。中学に上がって三年になった今まで、ずっとそれにばかりエネルギーを注いできた。トラック競技の友と言えるスパイクを、雑に扱っていた自分に若干腹が立った。

 手入れは朝食の後にしようと、玄関にスパイクを置いた。
 台所に行くと、母が朝ごはんの用意をしていた。
「今朝は早いじゃない」
「うん、なんか二度寝する気になれなくて」
 ぼくは言いながら、人数分の食器を棚から出していく。いつもなら母は、後から起きてくるぼくと一緒に食べるのだが、たぶん今日は三人で食べるだろう。
 手早く用意された食事を、父はせっせと食べる。ぼくと母はゆっくりと食卓につく。
「今日は練習ないんでしょ? 庭の手入れ、手伝ってよ」
 いやだなあ、とぼくは思った。夏場の暑いときに庭の手入れって。虫よけスプレーも切らしてたはずだし、やぶ蚊がでるから、本当嫌になる。
「いや何言ってるのさ。全国大会目前にして練習ないとかないでしょ。芝刈りだったら夕方やるよ」
 母は、わざとらしく首をかしげた。
「何言ってるのよ、大会だったら先週終わったでしょ?」
「え」ぼくは一瞬、母が冗談を言っているものだと思った。呆けていると、母はぼくの後ろを指差す。振り向いて、目に飛び込んできたのはその証拠だった。
 全日本中学校 陸上競技選手権の賞状と盾とメダル。賞状には『1'54"20』『二位』の結果。
 え?
 ぼくは硬直した。今朝の夢とまるで違う。五〇〇メートル過ぎの〝あの感覚〟、あのスピード感、ゴールした時の高揚感、全てが嘘だというのか。
「最後惜しかったわねえ」
「……惜しかったって、どうして」
「あんた喰らい付いて行ったんだけど、結局差が縮まらなくて。でもすごいじゃない――」二番でも、全国で二番なのだから凄いじゃない、と言う。
 言っていることが理解できなかった。
「何言ってるんだよ、全国大会……え、終わったって……一体どういう……」
 走った覚えがない。
 母はテレビのニュースを付けた。ちょうどスポーツニュースがやっている。アメリカの世界的な陸上選手がドーピング検査で陽性反応が出たらしい。
 天気予報に変わる。
「ほらね」
 日付は……八月二九日、確かに大会から一週間後だ。ぼくはテーブルの上にあった新聞を手に取る。八月二九日。居間を飛び出した。「ちょっと」母の声が背後に残る。父の部屋を勝手に開け、パソコンの電源を入れる。パスワードを打ち込み、ネットニュースを開いた。八月二九日。
 それを皮切りに、他の競技の記憶が蘇ってきた。男子百メートルが混戦だった。投擲種目が熱かった。女子の走り高跳びに可愛い子がいた。ぼくは予選をヒヤヒヤしながら通過した。
 だがどういうことか。決勝の記憶がごっそりなくなっている。ウォーミング・アップをしてスタート地点に向かって――そこから今までの記憶がごっそりと抜け落ちている。
「ちょっと、慧《けい》」母の声だ。
 ぼくはパソコンの電源を切ると、居間に戻った。
「あんた、本気で覚えてないの」
「うん、まあ」
 ぼくの抜けた応答とは対照的に母は大げさに驚く。
「何のほほんとしてんのよ。病院は……脳だから……ああ、何科かしら」
 のほほんとはしていない。ただ現実に頭が追いつかない。
 ぼくが記憶喪失? 冗談じゃない。一年のときから目標にしてきた大会の、中学の三年を捧げた一番大切なレースを忘れるなんてありえない。
 その後病院に連れて行かれた。脳神経外科の先生は、過酷な運動で低酸素状態が続き、脳に障害が起こったのかもしれないと言う。しかし検査の結果はシロ。異常は見当たらなかった。
 もしかしたらぼくが、二位だったことを認めたくないために、無意識下で記憶に蓋をしているのではとも言われたが、どうにもならなかった。結局その日の収穫はなく、評判の心療内科医を紹介しもらうだけだった。

 次の日、学校に行くと、部活に出ている三年生は、ぼくだけだった。他の三年生は受験勉強に切り替えて、図書館やら塾やらエアコンの効いた部屋で参考書と格闘していた。
 ぼくも近くの公立高校を受けるので他人事ではない。だが、週一ぐらいでスパイクを履いて走らないと欲求不満になってしまうので、こうして引退した後も吉田先生に白い目で見られながら走っている。
 体の調子はすこぶる良かった。別の体に生まれ変わったみたいに。走りだせば夢の中の決勝レースで感じた〝あの感覚〟が蘇ってくる。今なら夢のレースより、さらにぶっちぎりでゴールできる気がする。
「ナオミン、最近、動きがさらに良くなったんじゃないん?」と後輩(♂)が練習が終わった後に言った。
 傍から見ても、それは一目瞭然だったらしい。
 ぼくは部員たちが帰った後、一人で二〇〇メートルのタイムを取ってみた。結果は二十二秒六、ベストタイムより一秒余り早い。中学生の中距離ランナーとしては化け物クラスのタイムだ。地区大会なら短距離でも通用する。
 ……計り間違い?
 ストップウォッチを押すのが遅かったのか、それとも止めるのが早かったのか、あるいは両方で失敗したのか。ぼくには表示されたデジタル数字が信じられなかった。
 もう一度……、と思ったが、筋肉疲労が思いのほか辛くて出来なかった。
 いや、本当は疲労ではなく、怖くて出来なかった。
 今のぼくは、いわゆる脳のリミッターが外れてしまった状態なんじゃなかろうか。よく漫画やアニメで見るあれだ。人間は無意識のうちに筋力をセーブして三〇パーセントしか使えないが、ぼくは残りの七〇パーセントの領域を使っているのかもしれない。そして、このまま走り続ければぼくの体は……。

 記憶が曖昧なまま二学期が始まり、数日が経った。
 ぼくの通う公立中学は、スポーツがそれほど盛んではない。
 陸上部も数年前に出来たばかりで顧問の吉田先生はほぼ素人、陸上経験者ではない。そんな中で全日中で二位、というのは出る所を間違えた突然変異みたいなものだった。いまじゃぼくは学校じゃちょっとした有名人である。だが二学期が始まり、ちょっとしたお祭り騒ぎみたいになると、辟易した。特に女の子。普段話しかけて来ないのに、こういう肩書を手に入れた途端、『前から君のことが好きでした』、『センパイ……付き合って下さい』とか言ってくるからホント胡散臭い。お前らぼくのこと、いっつも走ってるだけの変人とか言ってただろうが!
「直海って、どこ受けんの」
 昼休み、速水(陸上部 部長 短距離♂)がぼくの机に腰掛けて言った。
 速水とは中学で陸上部に入って以来の付き合いだ。締まりのない陸上部を一緒に盛り上げてきた仲間だ。身長はあまり高くない。彼の兄の成長過程を見ると、もう少ししたら伸びるらしい。「高校入ったら本気出す」とよく言うのだが、練習はいつも真剣に取り組んでいる。
 そして日本の陸上人気が今一つなことに憂いを抱いている奇特な奴だ。彼曰く「走る才能がある奴が野球やサッカーに流れるのは許せない。もっと陸上やれ」
 ぼくは社会の教科書を読みながら高校名を言う。
「へえ、俺とおんなじか。ちゃんと受験するんだ。てっきりどっかの私立から誘いが来てんだと思ってたんだけど」
 確かにスポーツで有名なところから、いくつか来ていた。しかしぼくが受ける公立高校も、陸上競技においては負けていない。歴史があり、OBやOGの支援もあったりして練習設備も整っている。ここ数年は全国大会の常連なのだ。偏差値が高くて少々大変だが、がんばる価値は大きい。
「当然だろ。いくら学校側の推薦があっても、学費が安くなるわけじゃあるまいし」
 我が校に入って下さい、ではなく、入れてあげます、なのだ。熱烈な歓迎をしてくるコーチや監督もいたが、彼らの意見はぼくの学費とは何の関係もない。また私立の多くは市外県外にあり、通うのに難がある。
「マジで? スポーツ枠で安くなるとかねえの?」
「少なくとも、ぼくのところに来た推薦にはなかった。ほら、ぼくの成績があんまし良くないの知ってるだろ。一人にしてくれよ」
 そう言ってぼくは速水を追い払おうとする。
「へえへえ、天は二物を与え過ぎだよマッタク」
 速水は既に合格圏内に入っているので余裕綽々だ。彼の言葉は、きっとぼくが『スポーツできて、勉強もできる凄い奴』ということを皮肉っているのだろう。
 だが実際は違う。勉強は人より時間を割いているし、運動も走ったり跳んだりは良くできても、球技や水泳はからきしだ。
「ミヤハラも振っちまうし。あーあ、もったいねーの」
 ミヤハラさん、というのは前述の『前から君のことが好きでした』である。顔とスタイルがいいだけの、腹の中は真っ黒そうな女の子である。将来、『男=ATM』とか言っちゃいそうな女の子である。速水はその実態を知らないから、こんなことが言えるのだ。
 それに告白(笑)をされた時、ぼくは滅茶苦茶に緊張して、
「ばばばっ馬鹿言ってんじゃねえよ、い、いい、嫌に決まってんだろが。つーかお前より猫の方が好きなんだよ! つーかドッキリだろこれ!」
 みたいなことを言ってしまったのだ。後半は本音だけど。
 ミヤハラさんは女子連中にそのことを泣いて触れまわった。ぼくは女子の間で悪者になった。男子の間ではハード・ボイルドになった。
 真実を告げるのはよそう。羞恥心がぼくの頬を染めかねないし、なにより速水はミヤハラさんの幻想を抱いたままでいいのだ。面白いから。
 おもむろに速水は言う。
「なあ、始業式の表彰、おまえ呼ばれなかったけど、どうなってんだよ」
 学期の初めに部活動などで優秀な成績を収めた者は、壇上で表彰される。ぼくはそれを断った。ただ断るんじゃなくて、校長先生を前にして「ぜぇったいに嫌だ!」と強く断った。吉田先生に叱られたが、粘って拒絶した。
「断ったよ。だって全校生徒の前に出るとかハズイじゃん。レース前より緊張するよ」
「なんだよそれ」と速水は笑った。
「だって嫌じゃん。校長も吉田先生も周りの評価気にしてるんだよ。そんなプロパン……なんだっけ」
「プロパガンダな」
 英単語がなかなか出て来ないと、速水がぼくの言いたいことを読んで注釈を付けた。
「でもさ、一応世話になってんだから、そういうのは訊いといた方がいいんじゃね?」
 速水が中学生らしからぬことを言うので、ぼくは眉をひそめる。速水は続けて言う。
「確かにヨッシーもいまいちなんだけど」
 吉田先生は普段あまり練習を見に来ない。しかも最近の練習メニューは、ぼくや速水が陸上競技の情報誌から引っ張ってきている。ときどき差し入れにやってくる父兄の方が面倒見がいいと思う。
「直海ってさ、陸上のことになるとシビアだよな」
「おまえは自分とこにコーチがいるからそんな余裕なんだよ」
 速水の五つ上の兄は陸上の短距離でインターハイ出場経験がある。大学でも陸上を続けていて、練習についてはよく口出し(アドバイス)をするらしい。
「おま、そんないいもんじゃねえぞ。口うるさいだけだって」速水は照れ隠しなのか否定する。
 口うるさいほど言うのはたぶん、彼の兄は嬉しいんだと思う。自分と同じものを弟が目指してくれているのが。ぼくの勝手な想像だけど。
「それにしても、すげえよな」
「ん?」
「だって全国二位だぜ? ホントすげえよ、おまえ」
 ぼくは速水の顔を盗み見た。彼もぼくが二着でフィニッシュした場面を見ていたのだろうか。
「なあ、速水」
「なんだよ」
「おまえさ、決勝のレースって見てたよな」
「何言ってんだよ、陸部の連中ならほとんどが応援で見てただろうが」
「……どう思った? あのレース展開」
 速水は少し考えてから、言う。
「飛び出すタイミングを間違えた、かな。一周終わったところで、お前が先行してれば、また違ったかも。でも、上出来なんじゃね。決勝で自己新だし」
 返ってきた答えは、母の言っていたことの範疇に収まっていた。それから速水は少し言いにくそうにして、
「でもさ……、ゴールした後だけど、俺、ああいう態度は……良くないと思うな」
 ぼくには何のことだか分からない。
「ああいう、ってどういう態度だよ」
「ゴールの後に他の選手がよく握手とかしてたじゃん。おまえ、それ全部無視して……」
 全国大会の決勝、そこまで勝ち上がってきたランナー、普通は互いを称え合うものだ。ぼくは底意地の悪い態度を取ってしまったらしい。
「先生も呆れてたぜ。いくら負けたのが悔しいからって、アレはよくないって」
 ぼくは黙り込んだ。何と弁明したらいいか、言葉が浮かばない。なにせ覚えていないのだから。
 返答に困っていると、丁度そこで助け船が現れたように校内放送が鳴り響いた。
『三年一組 直海慧《なおみけい》くん、三年一組 直海慧くん 至急職員室まで――』
 教室中の視線がぼくに集まる。好奇のものから、僻み混じりの視線まで。この場から逃げだしたくなる。
「ごめん速水、後でその話、詳しく聞かせてくれよ」
 そう言ってぼくは教室は出た。速水は何とも釈然としない表情をぼくに見せた。

 呼び出されたのは校長室だった。
 悪いことをしたわけでもないのに、ドアをノックする手は震える。まるでこのドアを開けたら、大切な何かが失われてしまいそうな、そんな感覚に陥る。
「失礼します」よかった、声は震えなかった。
 中に入るとソファーには名前も知らない校長と陸上部顧問の吉田先生、それから来客と思われる男性が二人、座っていた。男性二人はきちっとしたスーツ姿で、とてもぼくのような子供に用があるようには見えない。
 ぼくが軽く会釈をすると、校長先生が言う。
「それじゃあ、我々は席をはずしますので」
 校長と吉田先生は重そうに腰を持ち上げ、退室する。去り際に吉田先生はぼくを一瞥して、それからすぐに目を逸らした。
 急に心細くなる。知らないオトナと対面させられるのは、結構プレッシャーになるのに。先生は毎日、ぼくたち生徒の視線に晒され続けているからわからないのか。
 ぼくが身を強張らせていると、男性のうちの一人が座るように促した。校長が座っていた後にかけると、生温かいのが尻から伝わってきてなんとなく気持ち悪かった。
 それから話が始まる。
 二人の男性はぼくに名刺を渡して、それぞれ自己紹介をしていく。秋山さんと土谷さん。
 名刺を貰った。秋山さんは陸連医事委員会の役員、土谷さんの名刺には麻帆良大学 医学部 教授とあった。
「陸連……と大学教授?」
 医学部で教授といったら医者だ。ぼくの知る限り、医者は多忙な職業だ。陸連の役員だって暇じゃない。
 陸上関係者と、医者。大のオトナ二人が、足が速いだけの子供に時間を割いて、出向いてくる理由が分からない。
 秋山さんが言った。
「ええと、ご両親からお話を伺ってないのかな?」
「あの、何のことですか」
「おかしいな。今日、君と話をすると伝えてあったはずなんだけど」
「……聞いてません」
「困ったな」
 と言いつつも、困っているようには見えない。秋山さんは土谷教授に言う。
「とりあえず、説明だけしましょう」
 それから二人は向き直り、秋山さんがぼくに言った。
「端的に言うとね、君はもう、大会に出て走ることはできない」

「何言ってんすか?」
 走ることはできない、って昨日の部活にも出て、気の済むまで走っていたというのに。怪我をしているわけでもなければ、持病もない。健康体そのものだ。
「より正確に言うと、『公式の大会に出ることはできない』、だ。地方大会から全国大会すべてね」
 校長室が静けさに包まれた。風が突然ぴたりとやんだような静寂。ぼくは目を丸くし、息をするのも忘れて次の言葉を待った。
 土谷教授が口をきる。
「最近、体の調子がいいんじゃないですか? 例えば、走るときとか」
 背筋に冷たいものが奔った。「……ええ、まあ」とぼくは曖昧に答える。
 図星だった。あれから走るときだけでなく、常に〝あの感覚〟に準ずるものを感じている。
 土谷教授はぼくに質問を続ける。
「〝気〟というものを知っていますか」
「……キ?」
「そう、気功や中医学、合気道の〝気〟です。最近じゃ漫画とかテレビでよく出てるでしょう?」
「手からビームとか出る奴ですか」
「そうそれ」
「……」
「〝気〟というのはね、自在に操ることができれば、大きな力を得ることができるんですよ」
 ぼくは眉間に寄ったしわが固まり、開いた口が塞がらなくなった。
 どうしよう……この人、危ない人なのか。四十過ぎたおじさんが、〝気(かめは○波)〟だなんて。
「信じていないようだね。まあ、最初は無理もない。とりあえず、率直に言うとね、私たちは魔法使いなんだ」
 むしろ騙そうとしているとしか思えない。ぼくが訝しげな視線を送っていると、秋山さんが言う。
「何か実演してみては?」
「そうですね」
 土谷教授はそれから人差し指をぼくの前に立てて、何やら理解できない言葉で呪文らしきものを唱える。すると、指先に百円ライター程度の小さな炎が灯った。
「――!」
 信じがたい光景を目にして、ぼくはますます彼らを疑った。
 手品か何かだろう当たりを付け、違う角度から土谷教授の指を観察する。しかし、種と仕掛けは見つけられない。土谷教授は見透かしたように微笑みながら言う。
「これは手品じゃありませんよ、魔法です。まあ、気ではなく魔力を使っているんですが、得られる結果に大差はありません」
「仮に、それが本当だとして……その、何が(大会の)出場禁止につながるんですか」
 秋山さんが答えた。
「全日中の決勝、覚えているかい?」
「……はい。ラストの直線で離されて、二着でした」
「実をいうとその記憶は正しくない。本当は君は一着でゴールしていた。二着以降を三十メートル以上引き離してね。タイムは一分四九秒〇六、高校記録に迫るタイムだ。
 だがね、普通はありえないんだよ。確かにケニアやエチオピアに行けば、君くらいの年齢であのレベルで走る選手はいる。だが君の体格、筋肉量じゃまずあり得ない。
 直海君、君はあのレースで、何かを感じ取ったはずだ。限界を超える何かを」
「限界を超えたって――」
 それの何がいけないのか。そう言おうとした。だが言えなかった。
 夢で見た決勝の光景がフラッシュバックする。ゴールを走り抜けた時の言い知れぬ快感が蘇る。あれは現実だったのか。
 そして血の気が引いた。
 真実があの夢の通りだとするなら――。
 ぼくは大罪の告白をする前であるかのように、頷くのをためらった。――違う。これは罪の告白だ。彼らの話が事実であるならば、ぼくはルールを破っている。ルールを破って試合に勝っている。鼓動が早くなり動悸がして苦しい。のどがカラカラになり、胸が締め付けられた。今ぼくが感じているのは、罪の意識だった。
「〝気〟は生命エネルギーだ。それによる身体強化は素人が見ただけでは分からない。
 私たちも、君がそこいらにいる才能のない凡庸な人なら見逃していたのだがね、いかんせん君は運が悪かった。走りの素質がトップクラスな上に、レース中に〝気〟を無意識下で発現させた。君の身体能力は、いずれ人間を大きく超えたものになるだろう。そうなると認められないんだよ、公《おおやけ》の場で走るのは。情報社会の現代、いつどこから漏れてしまうか分からないからね。
 悪いがゴールした後、我々は魔法で、会場にいた人間の記憶を操作させてもらった。君の記憶が間違っているのはそのためだ」
 勝手な記憶操作、理不尽な行為だ。いつものぼくならこれに嫌な感情を抱いていただろう。だが今はそんなこと、気にも留めなかった。
 故意ではなく、無意識ではあったがぼくは不正をして、勝利を得ていた。たとえそれが既に剥奪された後だったとしても、ぼくにとって一番大切で、絶対に正直で公正であらねばならない場所で、ズルをした。その事実が重くのしかかった。
 秋山さんは説明を続ける。
「魔法使いは世間に対して、魔法や魔法に準ずる神秘を秘匿する義務があるんだ。もちろん、気を操れる人間も。これを破れば厳罰になる」
「ならぼくがその、〝気〟ってやつを使わなかったら!」
 とっさに口から出ていた。
 使わなければ、不正もない。素人が見た限りで分からない、ということは玄人が見れば分かるということだ。大会にそういう不正を監視している魔法使いがいることは、今のぼくの身に起こっていることからすれば想像するのは容易だ。
 秋山さんはぼくと目を合わせずに言った。
「さきほども言った通り、君の記憶は操作してある。レースの後、急激な覚醒で気を失った君は、麻帆良の病院で検査を受けたんだ。覚えていないだろうがね」
 間髪いれず、土谷教授が鞄から取り出した診断結果を参照しながら言った。いちいち丁寧に言うのが、無性にぼくを苛立たせる。
「安静時にも〝気〟の発現が確認されていますね。運動時になるとそれが増大して、全身の強化につながるようです。ああ、この全身強化というのはね、筋肉や血管の柔軟性や伸縮性、骨の硬度なんかが増すんですよ」
「安静時って、今も」
「そうですね……私たちには君の体にまとわりついている〝気〟が目視できます。見えませんか?」
 自分の両手を目の前に持ってきたが、そんなものは見えない。ぼくは首を振る。
 土谷教授は秋山さんと顔を合わせて言った。
「やはり、ほぼ完全に無意識だ。もはや反射の一部と言っていいでしょうね」
「……そうですか」秋山さんは小さなため息をついた。
「あの、ぼくは一体どうなるんですか」
 答えたのは秋山さんだった。
「気っていうのは、本来は無意識じゃ扱えないものなんだ。『気を練り上げ、活用できる』というだけなら協会の、魔法使いのカテゴリに名前を登録して、監視すれば十分なんだが。君は、〝気〟を使っているときの自覚がないだろう?」
「……はい、たぶん」
 はっきりと、はいそうです、とは言えない。ただ〝あの感覚〟は意図して起こしているわけではない。走りだしたら勝手になるのだ。
「君が走れば、必ず誰かがその異常さに気付くだろう。――言い難いんだが、やはり出場は認められない」
「でも! 使えなくする方法とかないんですか?」
 秋山さんはもう一度ため息をついて「なあ、君は走るのが好きだろう?」と。
「……」
 ぼくは黙った。好きだ、と言ってしまったら涙線の堤防が決壊してしまいそうだった。
「君の顔をみれば分かる。私が走るなと言ったらとても酷い顔になった」
 言われて自覚する。顔の筋肉が強張って、鏡を見なくとも硬く見苦しい表情であることがわかる。
「気を減らす方法は簡単だ。怠ければいい。体を衰えさせてしまえば気も減少する。でもそんなことできないだろ? それに減るといっても、完全になくしてしまうことは難しい」
 どの道、君はもう陸上競技として走ることはできない。直接そう言ったわけじゃないが、ぼくにはそう聞こえた。
「直海くんの場合は大変珍しいケースですからね。
 気がまったく発現しなくなった例はあるにはあるんですが、私の知る限りでは、肉体の減退、深刻な損傷以外では見たことがありませんね」
 土谷教授の声は腹が立つほど冷静だった。穏やかに、情を移さず、それはぼくにとって末期ガンの宣告にも聞こえる。
「最近アメリカで、気を発動させたランナーがいたんですよ。君とは違って意図的に、ですが。ええと、名前は……」
 土谷教授は名前を言う。聞いたことのある名前だ。陸上競技の雑誌にも載っていたし、なによりこの間テレビで、ドーピングで陽性反応が出たと報道されていた。
「彼は魔法使いが再三通告したにもかかわらず、競技を続けようとした。そこで陸連は仕方なく、禁止薬物の使用を捏造した。これが事の真相さ」と秋山さん。
「〝気〟や〝魔法〟というのはね、ドーピングと同じなんですよ。しかも薬物なんかによるそれよりも、ずっと副作用が小さい。認めてしまったら、今の世界記録は軒並み塗り替えられてしまうでしょうね。一〇〇メートルなんて一秒もかからんでしょう」と教授。
 人は限界にぶち当たると必ず何かに縋《すが》りたくなるものだ。世界のトップでしのぎを削っているスポーツ選手ならば尚更。個人のプライドやお金、果ては国の威信も絡む。どんなに強靭な精神を持っていたとしても、所詮人間の心、いくらでも付け入るすきはある。だからドーピングはなくならない。
 でもそんな不正は認められない。ルールは絶対でなければ公平さを保てなくなり、スポーツは成り立たない。
 ぼくもそれは理解できる。
 〝気〟なんていうトンデモな力は禁止薬物以上に認められない。認めてしまえば世の中のスポーツというスポーツは滅茶苦茶になる。
 サッカーは少林○ッカーになり、野球はアスト○球団になり、格闘技はドラ○ンボールになってしまう。
 ――理解できる。
 理解はできるが、納得がいかない。
 怪我や病気の方がまだ納得できた。
 秋山さんは、まるで自分の事のように、本当に同情しているようだ。
「残念だ。君はちゃんとしたコーチの下で練習しているわけでもないのに。この先トレーニングを積めばもっと伸びるだろう。世界のトップに食い込んだもしれない。日本の陸上に名前を刻んだかもしれない。本当に残念だ」
 目の奥が熱くなった。
 君には才能がある、でももう、トラックでは走れない。無意識のうちに不正をしているから。
 ――うるさい。
 心が叫ぶ。
 気がつけばぼくの中にあったのは、行き場を失ったとても大きな黒い感情だった。

 そこからの話は断片的にしか覚えていない。
 彼らの言うことは右から入り左から抜けて、頭の中にはっきり残っていたのは『陸上競技の大会に出てはならない』『気を体内から完全に無くすのは実質不可能』『魔法、気、それに準ずる異能には秘匿義務が発生する』だけだった。
 午後の授業、五時間目が終わる頃、その話も終わった。
 ……今日はもう、帰ろう。
 廊下に出て、一番にそう思った。
 教室のドアを開けると、クラスメイトの視線が一斉に集まる。ぼくは黙って自分の席に戻る。
「よう不良生徒、校長室初体験おめでとう。どうだったよ」速水が茶化してきた。
 ぼくは返す言葉が見つからない。
「……いや、なんでもない」
 気がつけば苦しい誤魔化しが出ていた。
「ちょっと素行について注意されてさ」
「え、お前何かやったわけ?」
「まあちょっとね」言いながらぼくは鞄に教科書を詰めていく。
「ちょっとで呼び出されるのかよ」
 速水は面白がるような笑みを浮かべる。
「ほんとにちょっとしたことなんだ。夜遅く走ってたのが、誰かに見られてたみたいでさ」 
「ふうん」
 速水はつまらなそうな返事をして、それから呼び出される前の続きのことを言った。
「決勝のあとの話だったけか」
「ああ、それ、もういいんだ」
「は? いいってどういうことだよ」
「もういいんだよ、思い出したから。うん、アレはぼくが悪かった。他の選手(やつら)に悪いことしたな」
 一瞬でも早くこの場から離れたかったがために、小さなウソを並べたてる。ジャージの入った袋を担ぎ、鞄を手にさげるとぼくは速水に言った。
「今日はもう帰るよ」
「六時間目は?」
「サボる。先生にもサボりって言っておいて」
「マジかよ、本気か?」速水の中のぼくは、結構な優等生だったらしい。それくらい驚いていた。
 ぼくはそのまま黙って教室を出た。

 校門を出て、空を見上げる。薄暗い曇天は今のぼくの心を映しているようだ。
「走るか……」
 帰って、走ろう。足腰立たなくなるくらい、疲労困憊になるまで走ろう。そうすればこの曇天のようなぼくの心も晴れるかもしれない。
 帰ると家にいたのは母だけだった。学校はどうしたの、と聞かれたが、ぼくは無視した。スパイクと財布をリュックに詰め、「走ってくる」と一言だけ言って、また家を出た。
 近所の陸上競技場に着いた時には、曇天は更に黒くなり、今にも降り出しそうだった。
 ぼくはすぐにウォーミング・アップを始める。温まってくると、体がうずいてきた。神経が過敏になり、全身の状態が手に取るように分かる。体はこう言っている。「もっと速く動きたい」
 軽いダッシュを繰り返し、体をスピードに慣らしていく。風が少しあったが、そんなもの今のぼくには関係ない。誰にも邪魔はさせない。
 二〇〇メートルを五本ほど走ると、筋肉が程よくほぐれた。
 青いタータントラックのスタートラインに立つ。
 左手に着けた腕時計のスイッチに、右手を置き、左足を前に出す。
 パァン! とピストルの音が聞こえた気がした。実際は幻聴だったのだが、ぼくは時計のスイッチを押し、走りだした。
 リラックスしたフォームで、しかしペース配分を完全に無視した速度で突っ込んでいく。バック・ストレートの向かい風を切り裂き、突っ込んでいく。
 コーナーを滑るように曲がる。ホームストレートに出ると追い風になった。無謀なペースは更に上がった。決勝の〝あの感覚〟が全身に満たされたからだ。これが〝気〟というやつか。
 一週目のラップを見ようとしたが、腕時計を見ることができない。気になったが、諦めた。ただ、体に染みついたペースをはるかに超えていたことは分かる。
 二回目のバックの直線。向かい風の場合、いつもならこの辺から体が重くなり始める。しかし今回は、本気に近いペースで飛ばしているのに、三〇〇メートルも走っていないような疲労感だった。
 不意に息が詰まる。つばがのどに引っ掛かった。呼吸が乱れると、〝あの感覚〟も乱れる。
 苦しくなった。酸素が足りなくて思考はぼんやりとしているし、乳酸は全身に運動停止の命令を強行している。だがぼくの意思は、「もう少し、あとほんのちょっと」とそれに抗う。
 ゴールを駆け抜けざまに、腕時計のスイッチを押し、走るのをやめる。酸欠と乳酸地獄がどっと襲って来て、仰向けになって倒れた。大きく息をすると、胸が上下するのがわかった。
 空は晴れない。心は二つの思いが交錯して、もやもやしている。強いて言うならば理性は鬱屈とし、本能は爽快、そしてその二つが重なり合っている。
 もう試合に出られなくて悲しい。
 でも走るのは快感だ、やめられる訳ない。
 時計の数字を見る。
 一分四〇秒八九。
 異能の力に頼って出した、インチキの世界記録。
「はっ」湿った笑いがこぼれた。視界がぼやけて、眼には湿り気を感じる。
 雨の滴がぽつぽつと、地面に染みを作っていく。次第に雨脚は強まり、気がつけば空がひっくり返ったような大雨に、ぼくは打たれていた。
 ――走れさえすれば、他に何もいらない。
 そう言えたら、心の底からそう思えたらどれほど楽だったろうか。
 陸上競技とはぼくにとって、唯一、堂々とできる自己表現だった。端役が主役になれる手段だったのだ。それを失っていたことに気付いた。



[29988] 少ない友達を騙すってこと
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:338f5103
Date: 2011/10/04 20:02

 家に戻ると父が帰ってきていた。後で聞くと、母が連絡をしたらしい。ぼくの様子がおかしいと。玄関で出迎えられ、雨でびしょぬれの姿を目にした母は言葉を詰まらせていた。
「話がある」父は言った。
 シャワーを浴び、着替えた。
 テーブルを挟んで、二人と対面する形で座る。
 二人の口から出てきたのは、まず謝罪の言葉だった。
「すまん」「ごめんなさい」と。
「……知ってたんだ」
「ああ、悪かった」ともう一度、父。
「慧にとって、陸上ってものがどれだけ大切かって考えたら、言いだせなくてな」
「母さんは、知ってたの? 病院って言ったときのあれは演技だったの?」
「ううん、つい一昨日、お父さんから聞いたのよ。それで――」
 ぼくはまくしたてて母の言い訳を遮る。
「もういいさ。もともと、二人のせいじゃないんだし。たまたま運が悪かったんだ。
 さっきトライアルやったんだ。世界記録だよ、世界記録。中学生が世界記録だよ? 本当、笑っちゃうよな。だって魔法だぜ? 幻想《ファンタジー》のくせに現実《リアル》だったなんてさ」
 声が震える。泣きそうになる。こらえる。
 完全文科系の母は黙ったままだ。学生時代、スポーツに打ち込んだことがなかったせいだろう。本当だったの……、というような顔をしている。
「確かに、実際見せられたらうなずくしかないよなあ」と父はうなずく。
「この間な、埼玉行くって言ってただろ。あれ、仕事じゃなくて、お前のことで呼ばれてたんだ。関東魔法協会、だってな。200キロのバーベルを片手で持ってたよ。軽々とね。父さんと同じぐらいの体格の先生がだぞ」
「うっそだぁ」
 重い空気にいたたまれなくなったのか冗談めかす母。でもぼくは非難するような視線を向ける。母は、しまった、と口に手を当てる。
「いや、本当なんだって」
 父は決勝レースの状況について話し始めた。
 その日、父と母はホームストレート側のスタンドで応援していた。ぼくがゴールする瞬間を写真に収めようとしたらしい。
 ゴール後、試合会場には記憶を改ざんする大規模な魔法がかけられ、気を失っていたぼくは麻帆良の大学病院に運ばれた。検査には数日がかかって、結果は今の通りだ。また、ぼくは記憶改ざんの後遺症として、レースから一週間、機械のように生活していた。ランニング、飯、風呂、寝る。
「変に思わなかったのかよ」
「だから、そこのところも記憶を操作されてたんだって」
 どうやら、魔法使い(自分で言うのもなんだが、ぼくはまだ信じてない)がこの家に派遣されて来て、ぼくを監視していたらしい。ぼくが目覚める前、一人だけ暗示を解かれた父がそれを聞かされた。
「最初は不法侵入だ、なんだと叫んでしまったがな、実際話してみると、逆らう気なんて起きなくなったよ。魔法使いっていうのは国家の中枢から末端までいるらしい。ほら、公園前派出所の田崎さん、彼も魔法使いだそうだ」
 田崎さんは近所でも割と評判のいいおまわりさんである。学生時代は柔道が強かったらしく、うちの学校にも時々教えに来る。
 魔法使いは多い。ぼくたちの日常を容易に包囲することができるくらいには。
「……なんだか物騒ね」
 母は言った。
 アメリカの銃社会が危険だと言われているが、日本も例外ではないのかもしれない。なにせ近所には銃よりも危険な武器を持った人たちが、わんさかいるのだから。
 なんかピンとこなかった。実際まだ、危険な魔法――大きな炎を口から吐いたり、雷を起こしたりするような――を見たことはないし、最初に出会った魔法使いが秋山さんと土谷さんという、真面目な大人だったせいもあるだろう。危ないと言われても、ピンとこない。
「田崎さんとも一度、酒の席で話したんだがな、魔法はやはり隠しておかなければならないモノらしい」
 確かに、魔法が現実に存在するとしたら、それは、決して小さくない混乱を社会に招くだろう。
 ただ、魔法使いたちは魔法という拳銃をちらつかせて脅しているのではないのだという。
 秘密にすることは魔法使い自身が身を守ることにもつながるらしい。人間は未知のモノに恐怖や憧れを抱くものだ。
 魔法という未知のモノを持つ隣人、それに対する不安や恐れが、暴力に変換され彼ら魔法使いを襲う。いわば自衛のための秘密。父の聞いた話はこんなところだ。
 だからうちもその方針に従う。
 だから、と父はぼくに言う。
「――本気で走るのはしばらく控えなさい」
 強い命令口調だった。控えなさい、とはっきりと切られた。
 ぼくはその瞬間、沸騰した。いや実際、頭の温度は平熱だったけど、心に血が昇って、吐き気を催すような嫌悪と怒りをその発言に対し、感じていた。
「やだ」
 ダメなのだ。たとえどんな悪意ある言葉を浴びせかけられても、怒らず我慢できるのに、「走るな」、その一言でぼくは冷静さを保てなくなる。
「しばらくってどのくらい? 一日や二日、一週間とかじゃないでしょ? そんなに長い間我慢するなんて、できるわけない」
「だったらどうするんだ。街中で走って、誰かに見られて、オコジョにされるのか」
 魔法で犯罪を犯せば、オコジョにされる。オコジョ刑○○年、終身オコジョ刑。それもいいかもしれない。オコジョの小さい脳では、こんな苦悩感じることもないだろうから。
「いいよ。人目の付かない場所で走るから」やけになって言う。
「そんな場所ないだろう」
「深夜の八浦霊園」
 山に囲まれた広い霊園だ。不法侵入になりそうだが、本当に深夜は人が来ない。夏休み、肝試しをする変わり者たちがいるぐらいで、おまわりのパトロールも滅多にない。
 母はああ、なるほど、というように手を叩く。
 父は認められないと頭《かぶり》を振る。
「ずっとそうする訳にもいかんだろう」
「嫌なものは嫌なんだ!」
 ぼくは小さな子供のように癇癪を起こす。
 久しぶりに声を張り上げた。思えば、陸上に打ち込み始めてから、怒りを表に出したのはこれが初めてなのかもしれない。
 ぼくは居間から出て、部屋に引きこもると鍵をかけた。

 ベッドに倒れこんだ。
 走ってきてからまだ何も食べていない。血糖値が低いせいか、とてもイライラする。胃がキリキリと痛み、四肢には力が入らない。ごはんも食べずに部屋に入ったのは失敗だったか。
 走るなと言われた。
 不思議だった。冷静になってみると、たかが一言だ。それだけでここまで嫌な気持ちに落とされるなんて。
 でも。
 ――あの二人は悪くない。
 走るなと言った父は悪くない。ぼくに魔法と気の存在を伝えた陸連の人も、あの医者も。悪いのはぼくなんだ。
 ぼくが〝気〟なんていうドーピングでレースを穢してしまったから。ズルをして勝っていたから、こんな惨めな気持ちになっている。
 ごろりと寝返ると、視線の先には本棚があった。漫画と小説が少しと、中学に上がってから買い始めた月刊陸上競技が三十冊ほど。
 走り始めたのは小学生に上がってからだったか。
 遊びたい盛りのぼくは、学校が終わると家までの三キロ余りを走って帰っていた。体力も体格も未熟なぼくはすぐ疲れてしまい、それでも止まりながら何度もダッシュした。おかげでかけっこはいつも一番だった。
 陸上競技を意識し出したのは一九九六年、アトランタオリンピックのテレビ中継を見てからだ。二〇〇メートルで驚異的な世界記録をマークし、四〇〇メートルも圧勝したマイケル・ジョンソン。五千と一万で同じく二冠を達成したハイレ・ゲブレセラシエには、こんなに速く、そして長く走れる人間がいるのかと感心した。
 中一で初めて出た八〇〇メートルのレースは、散々だった。一周でへばって、六〇〇過ぎでまだあと二〇〇メートルもあるのか、と。意識が途切れそうになりながら、動かない身体を無理やり運んでゴールした。
 理想は遥か遠く、夜空に輝く星々~地球間ぐらいあった。
 でもやめようとは思わなかった。悔しくて、むしろ闘志が湧いた。絶対に速くなってやる、と大会の帰り道を走った。
 月刊陸上競技にはお世話になった。大会結果や先週の情報のほかに、トレーニング方法や科学的に走りを分析したりするコーナーがある。ぼくはそこを何度も読み、練習計画を考えた。吉田先生は名ばかり顧問だし、部員たちもどことなくやる気がなかったので、好きなら一人でやるしかなかったのだ。
 陸上は個人競技だが、チームというくくりは結構重要なんだと思う。強豪校を見るとわかる。みんなが一つの目標に向かって、個人技を鍛え上げていく、という流れがチーム内で出来上がっているんだ。
 でもうちの中学はそれが三流で、チームの空気は練習だるいとかで、一五〇〇や三〇〇〇で一周抜かされる奴なんてざらで、短距離は速水以外全員ぼくより遅かった。
 そんな緩い雰囲気に、ぼくはやる気のある速水とともに流されないよう踏ん張っていた。まあその結果、二年生のとき関東大会で上位入賞、全国に足が引っ掛かったのだ。
 とにかく速くなるためにいろいろやった。他の陸上部員との温度差は激しかったが、孤独だったとは思わない。試合を通じて他校の選手と知り合えてよかったし、それが切っ掛けで他校の練習に混ぜてもらうこともあった。
 そうして辿りついた全国大会決勝。
 また目の奥が熱くなった。

 何時間か経って、ドアのノック音が響いた。
 身体が重く、起き上るのが面倒だった。こういう時、ぼくに話を試みるのは父だ。ドアの向こうには父がいる。ガチャガチャとドアノブを捻っていた。カギがかかっている。
 なんとなく顔を合わせたくなかった。
 時間が流れる。壁にかけられた時計の音がカチカチと頭に響く。それよりもゆっくりのテンポで心臓の音が身体に響く。
 腕に力を入れて重い体を起こす。空腹が気持ち悪かった。何かお腹に入れてから寝よう、とベットから降りる。
 ――父さんはもう行っただろうか。
 と考えながら、そろりそろりとドアに忍び寄る。フローリングに足の裏がへばりつく音がうっとうしい。
 カチ、とドアのカギを回す。ドアを開く。
「よう」
 廊下には父が座っていた。
 ぼくは小さく息を吐いた。もう諦めるか。いや、走るのをじゃなくて、父さんから逃げるのを。
 廊下の、父の向かい側に座り込み、口を切る。
「やめないからな」
 最低限の主張だけ。
「わかってる」
「明日も走る。…………墓地の裏山で」
「わかった」
 深く息を吸い込む。吐く。
「陸上はあきら……あき……諦める、けど、走るのは、やめないから」
 声が震えた。涙がこぼれそうになるのをこらえながら、言った。
 沈黙。
 父は深く息を吐き出して言う。
「予想外だったな。おまえがこんなに速くなるなんて思わなかったよ」
「がんばったからね」
「でも普通、こうはいかない」
「うん」
「普通はどこかで壁にぶち当たって、伸び悩んで、いつの間にかしぼんじまうもんだ。オレもサッカーやってた時はそうだった」
 壁がなかった訳じゃないよ、ぼくの方が熱心だっただけだ、と言おうとしたが飲み込んだ。ぼくに父の何がわかると言うのだ。ぼくが産まれる前の、父のことは聞いた話でしか知らないのに。
「全国どころかレギュラー争いに必死でな、後輩に抜かれた時は悔しくて、部活終わってからもボール追っかけてた」
 初めて聞いた。同じ高校の生徒だった母の話から、もう少しカッコいい父親を想像していただけに、だけに…………今のぼくの方がカッコ悪いか。むしろその泥臭い精神は、カッコよく聞こえる。
「慧も速いけど、オレもサッカー部じゃ速かったんだぞ。でもボールタッチのセンスがなくてなあ」
「ぼくも、ない」
「サイドやってたんだけどな、結局スタメンは取れなかったよ。オレも陸上やってたら違ったのかなあ……ああ、でも無理か、きついの苦手だからなあ」
 いつの間にか父が父さんからオレになっていた。なんだか『ぼくが知らない男の部分』を持った父がそこにいるような気がした。
 父はサッカーの話をしない。ワールドカップのテレビ中継は見るけど、Jリーグは見ない。だからてっきりサッカーはそこまで好きじゃないと思っていた。
「父さんは、慧みたいに強かった訳じゃないから、そういう気持ち、よくわからないが――慧がどれだけ走ることが好きかは、何となくわかる。父さんも慧ぐらいの時、サッカーが好きだった。今も。だからな、陸上ができなくても、走ることだけはどうにかしてやりたいと思う」
 そう言って、いくつかの冊子をぼくの前に置いた。
 麻帆良学園本校 男子高等部の入学案内と願書。
 埼玉県の麻帆良学園都市は生徒数三万の学園都市だ。幼稚園から大学まで各種教育機関、研究機関が設置されており、また一般住民も住んでいる。
 そして非公式ではあるが、組織の運営は魔法使いがしているらしい。
「ここなら、慧が本気で走っても大丈夫だそうだ。試合には出れないけどな」
「……遠いじゃん」県外だ。
「寮に入ればいい」
「いいの?」
「ああ」
 父は深く頷いて、
「ほら、ごはん食べよう」
 とぼくの背中を叩いた。大人の、ぼくよりも幾分しっかりとした分厚い手だった。
 親っていうのは不思議だ。こうして背中を叩かれただけなのに、少しだけ元気が出た気がした。親の手には何か魔法でもかかっているんじゃないのか、思ってしまうほどに。

 昨日の雨は続いていた。風はやんで小雨がしとしとと降るだけだが、ひんやりとした空気が秋を思わせる。廊下の窓ガラスは曇っていた。
 気分が重い。すごくしんどくて、何もかもが嫌になっちゃうような重さじゃなくて、時々ふと感じる面倒くさい重さが、肩にのしかかる。
 職員室に呼び出されたぼくは、昨日のことをひたすら謝り続けた。
「〝気〟でドーピングしてたので、走るなって言われた。むしゃくしゃした。フケた」
 なんてバカ正直に言えるわけがない。ぼくは優等生でハード・ボイルドなのだ。
 余計な言い訳を挟まなかったのがよかったのか、沖田先生にはあまり叱られなかった。さすが数学教師、単純明快な結論が好きなんだな、と勝手な想像をしていると、
「おい」
 と声が聞こえる。ぼくは無視して、廊下の先、三年一組の教室に向かう。
「おい、てめえだよ。ナオミ」
 内心でため息をつきながら、振り返った。
 中山(帰宅部 ♂)とその取り巻きたちが階段にたむろしていた。彼らはこの中学の不良グループ筆頭で、飲酒喫煙は基本、噂では万引きや恐喝なんかもしている。
 リーダー格の中山はぼくより少し背が低いが、筋肉質な体格をしている。空手か何か格闘技をやっているそうだ。ワックスで固めた髪はライオンのたてがみのようで、耳にはピアスをいくつも付けている。その中山が「ちょっと来いよ」と手招きした。
 ちょっと考えてやっぱり無視した。早く行かないと三時間目が始まってしまう。
「全国二位だからってチョーシこいてんじゃねえぞ!」
 チョーシこくってなんだよ。ぼくはいまいち彼らの、調子に乗る、調子こくのニュアンスがつかめない。辞書通りに、いい気になって浮ついている、というのは違う。むしろ今のぼくは沈みっぱなしだ。この後どうやって、志望校の変更を速水に伝えるかすら決めていない。
 やっぱり無視して、教室へ向かう。
「来いって言ってんだろうがぁ!」別の声が背中に浴びせられる。ぼくは教室に入っていく。
 無視されるのが我慢ならなかったのだろう。中山は鼻息を荒くしてキレた。
「なめてんじゃねえぞっ」
 舐めたら汚い。おまえは特に。
 中山は教室に大股で入ってくると、ぼくに掴みかかろうとした。ぼくはその手がブレザーに触れる前に身をひるがえす。窓の方へダッシュした。
 袋のねずみだ、と誰もが思っただろう。ここは三階で、教室の扉は中山の取り巻きが押さえている。窓の外にベランダはない。
 でもぼくは跳んだ。
 窓枠に足を掛けて、校舎の外に。
 落ちる恐怖で股間がきゅっと締まる。
 二階と一階のひさしに足を引っ掛けて衝撃を分割し、それから膝のサスペンションで衝撃を吸収して、校庭に着地した。着地と同時に、泥が跳ねてワイシャツを汚した。
 三年一組の教室はざわついている。校舎を見上げると、窓から顔を歪ませてぼくを見下ろす中山がいた。

 三時間目は数学で沖田先生の授業なのに、またやってしまった。
 教室に戻ると興奮した男子たちにバシバシと背中を叩かれ、女子連中には妙な視線を浴びせられた。チャイムが鳴った後もそれは続き、「またおまえか」と沖田先生にはたかれた。それが漫才のボケとツッコミのようで、教室が笑いに包まれる。数分前の物々しさはどこかに忘れ去られた。
「おまえ、いつの間にあんなことできるようになったんだよ」
 三時間目が終わると、速水が詰問してきた。
「ハードリングの技術と微妙な接地の感覚があれば、速水でもできるだろ。能力的に。要は度胸だよ」
「ムリだろ」
「でもできた」怖かったけど。
 速水は呆れ気味になってため息をついた。
「直海ってチートだよなあ」
「ちーと?」初めて聞く言葉だ。英語なのだろうか。
「cheat。ズルって意味だよ」
 ――凍りついた。
「才能がチートだよな、おまえ」
 もう一度言われて解凍される。
 でも背筋には悪寒が奔り、手足の感覚は鈍い。苦しい言い訳が出てくる。
「……こんな運動音痴つかまえて何言ってんだよ、球技とか死ねよ」
「違う違う、身体の使い方が上手いってこと。線が細いくせにスピードあるし。ボールの扱いじゃねえよ」
 速水は笑い飛ばす。
 ぼくも笑って返した。ちゃんと自然に笑えているだろうか。

 昼休み、中山は再び一組の教室にやって来た。周囲が見ている中で、右手でぼくの胸倉をつかむ。
「ツラかせ」
「先に要件を言ってよ」
「いいから来いよ」
「やだ」
 中山は低い声で凄む。胸倉をつかむ力も増す。
「来いつってんだろ、ナメてんじゃねえぞ」
「舐めてないだろ」
 ついて行くことはできない。こいつのことだ、きっと集団で袋にするぐらいのことは考えているのだと思う。
 ぼくは中山の手首を掴む。
「離してくれよ。ボタン、取れちゃうだろ」
「だから来いって」
 平行線だ。なんだか面倒になってきたし、お腹も空いてきた。
「なあ、ここじゃ言えないことなのか? 腹減ってるんだけど」
 その言葉が引き金となり、くわ、と中山の目が開かれた。左肩が動くのが見える。ぼくの右手はほとんど反射的に、中山の拳を受け止めていた。
「いったいなあ。殴るなよ」
 中山は左手を引き離し、再度ぼくに殴りかかる。身をよじると、拳が右肩に突き刺さった。
 痛みより先に身体が揺れる。それを中山の取り巻きが入ってきて、ニヤニヤと見物している。
 彼らがこういうことをしている場面には覚えがある。気に入らない奴を囲んで、表情が歪むまで痛めつけて、歪んだ欲望を満たす。数でかかれば負けることはないし、学校側もいじめを黙っているから、やめない。
 似ているな、とこんな時に思う。ぼくが走るのが好きなように、中山も人を殴るのが好きなのかもしれない。殴って従わせることが大好きなのかもしれない。
「来いよ、童貞ガリ。ビビってんのか」
 中山が挑発する。乗ってきた取り巻きも「ビビってるぜ、こいつ。おもしれえ」と笑う。ちっとも面白くなんかない。
 ビビってる。たしかに怖くて、速水に陸上をやめると言いだせない。速水は本当に陸上が好きで――自惚れでなければ――ぼくが強くなるのを心から喜んでくれる仲間だ。そんな奴を裏切るような真似を、ぼくはしているから。その裏切りが知られて、幻滅されるのを怖れている。
 速水と視線が合う。逃げろと目が言っていたのに、身がすくんで動けなくなった。
 中山の蹴りがふくらはぎに当たる。
 痛い。重いハンマーを叩きつけたような衝撃が足に広がる。
 速水に対して抱くのとは別の恐怖が湧きあがってくる。足を怪我したら走れなくなるじゃないかという恐怖。
 キレた。
 キレて〝あの感覚〟が身体中を巡る。ぼくは中山の手首を掴んだ。
「何が気に入らないんだよ。はっきり言ってくれよ」
 握力が、通常では考えられないくらい強くなり、中山の腕の骨が折れそうに軋むのがわかる。中山は弱みを見せまいと、表情を変えず、再度ぼくの足を蹴る。でもぼくの足は打ち込まれた杭のように硬く、動かない。
「なあ、なんでこんなことすんだよ。ぼく、走ってただけじゃん。おまえに迷惑かけてないだろ」
 ミシ、と変な音がした。
「あ」ぼくは腕を離した。
「ッッ!!」中山は手首を抑えてうずくまった。

 数日後、腕に包帯を巻いた中山がぼくをにらんできた。手首の骨にひびが入っていたらしい。
 ――やってしまった。
 暴力で人を傷つけた、という意味ではない。むしろ中山のような連中には時折、殺虫剤でもぶちまけたくなるような嫌悪を抱く時さえある。
 問題なのは、走る以外で〝気〟を使ってしまったことだ。徐々に人間から外れ、陸上競技からどんどん離れていくことに焦りを感じる。
 速水に聞かれた時は冷や汗ものだった。
「なあ、おまえの握力ってそこまであったけ。おれが覚えてる限りじゃ確か五十ちょっとだったと思うんだけど」
 速水はこういったパーソナルデータをよく覚えている。陸上の記録なら、世界記録はもちろん、部員全員のベストをそらんじることができる。
「さあ、シンナーでもやってんじゃないの? あいつ怒りっぽいしさ」
「そりゃねえよ。シンナーやってて、格闘技なんかやれねえよ」
「練習中にやった場所をたまたまぼくが掴んだとか」
 憶測の域を出ない、と速水は話を打ち切る。
 中山とのケンカ騒動でぼくにおとがめはなかった。それに加え、彼の取り巻きはばらばらになりかけており、いくつかのグループに分裂する、かもしれないのだそうだ。
「先生、たぶん喜んでるぜ」
「まあ、喜ぶよなあ、普通」
 頭痛の種でしかなかったグループの筆頭が潰れそうなのだ。先生の仕事はかなり減るだろう。
 それから事なかれ主義な先生に対する不満を二人してぶちまけていると、背後から高い声。
「なんの話してんのー」
 相沢(陸上部 ♀)だった。練習熱心ではないので、ぼくとはあまり親しくない。背後にはミヤハラさんの姿があった。
「志望校の話」ぼくは平気でうそをつく。速水は吹き出しそうになる。
「へえ、そう」
 わざとらしい相槌だ。
「あたしK高なんだけど、速水くんはどこ?」
「J高だよ。陸上強いし」
 速水が答えると、相沢はぼくの方を見る。
「直海くんも、J高でいいんだよね」
「……うん、まあ」変えたんだよ、の一言が出て来ない。
「高校でもやっぱ、陸上続けるんだよね?」
 なにが、だよね? なんだ。肯定するのが前提のような口調に、むかっ腹から罵声が飛び出そうになる。
「……まあね」
 でもキレない。中山みたいに面倒じゃないから、キレずにすむから、とっておいて放課後爆発させる。もちろん走りで。
 そして他愛のない質問をいくつかして、相沢は元の集団に戻っていく。ミヤハラさんと笑いあっていた。まだ諦めてないのかあいつ。ぼくは諦めたのに、不公平じゃないか。
 でもよかったな、速水。ミヤハラさんもたぶんJ高志望だ。高校になって背が伸びるんだったら、かっこいいおまえの兄貴みたいになれるなら、可能性あるじゃないか。彼女もきっとおまえの魅力に気付くよ。いやきっとそうなる。きっとやめるさ。ぼくのことが好き、そういうのをやめる。
 そんなことを考えていると速水から横やりが入る。
「露骨すぎだよ、直海」
「ニガテだからってあれはねえ……」やれやれと肩をすくめた。「カロリーと時間の無駄なのはわかるけどさ」小声。
 おまえの方がひどい。いつもならそう笑い返すのだが、できない。
 速水はぼくが陸上やめたとしたらどう思うだろう。青春友情スポーツ漫画のようにぼくを殴り飛ばして引き戻そうとするだろうか。〝気〟なんてドーピングをしていることを知ったら、怒るだろうか。



[29988] 初対面の無邪気な言葉
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:338f5103
Date: 2011/10/10 11:44

 年末の都道府県別対抗駅伝の選手選考や、県の強化指定選手、選抜合宿は全部白紙に戻った。おかげで勉強ははかどり、麻帆良学園の合格圏内には余裕で入ることができた。
 年が明けても速水には相変わらず、言いだせないままだった。彼は今でもぼくがJ高に行くものだと思っている。
 それをずるずる引き摺って、一月末、とうとう麻帆良学園入試、本番当日になってしまった。ぼくは父が車で送って行ってくれる、というのを断り、まだ暗い早朝の身を切るような寒さの中、家を出る。
 なんとなく独りになりたかった。自分を知るものが誰もいない所へ行って独りに。トップを独走するランナーのように孤高というのは無理かもしれないけど、砂漠の真ん中でポツンと独りになることは簡単なはずだ。
 白い息を吐きながら、速足で駅へ向かう。誰もいない道を歩きたかったのに途中、犬の散歩をしている近所のおばさんに遭遇する。おばさんはぼくを見るや「あら受験? がんばってね」と。
 元気いっぱいの犬は全力で走りだしてたくてリードを引っ張っている。でもおばさんはまだ体が寝ているのか、足取りは重かった。
 名前も知らない君、同情するよ。ぼくはおばさんでなくて犬の方に「がんばれ」と呟きを吹きかけた。がんばってもリードの長さより先には進めないけど。
 始発から二時間ほど電車を乗り継ぐと、麻帆良学園都市前中央駅。ちらほらと受験生らしき人たちが見られた。
 ここから路面電車に乗って入試会場に行くのだが、試験までまだ時間がある。歩いて行くことにした。
 改札を抜けると、大通りが伸びている。尖塔がそこかしこに見られ、テレビの中のヨーロッパの建造物を思わせるものが多い。「ホントに日本かよ」きちんとしたキリスト教の礼拝堂なんか初めて見た。
 受験生が道を間違わないようにと、プラカードを持った大学生のボランティアが誘導している。『本校男子部』の文字を見つけた。ボランティアの男の人と目が合う。
「がんばれよ」
 ぼくはリードを引き千切りたくなる。

「お疲れさまでした、帰りは混み合っていますので、気を付けてお帰り下さい」
 試験官が解答用紙の枚数をチェックした後、言った。受験生たちは一斉に席から立つ。会場の教室から一気に出て廊下に列を作って、一緒に来た友達と出来具合いの確認や答え合わせをしながら、帰っていく。ぼくはまだ席に座って、持参したおにぎりを食べながらそれを観察する。なんでわざわざ混んでる時に帰るんだ、とクールを気取ってみる。
 試験は英数国の三教科だけなので、昼過ぎに終わった。出来は上々、倍率は結構高いけどたぶん合格している。「終わった……」と悲壮感漂わせている声が聞こえて、ほくそ笑んだ。
 三十分もして人ごみが切れ始めると、ぼくは校舎の外に出た。
 大きく伸びをした。深呼吸をしてひんやりとした酸素を取り込むと、脳の疲労がいくら抜けていく気がした。こういった試験ていうのは、走った後に感じる解放感に通じるものがあるな、とつくづく思う。
「足りないな」
 朝食を食べたのは四時半だったし、三つ持ってきたおにぎりは試験の合間に、それからさっき最後の一個を食べてしまった。
 もの足りない。
 今から電車に乗ろうとすれば並ぶだろうし、乗ってしまったらしばらく何も食べられない。腕時計を見ると、PM1:45、微妙な時間。
 ちょっとふらついてみようか。

 少し歩いてみると広場に出た。
 中央に噴水があり、それを円形に囲む石畳、さらにそれを囲んで枯れて茶色くなった芝生が広がっている。芝生の淵に沿って、まだつぼみも付いていない桜の木とベンチが十余り、セットで並び、散歩に来ているおじいちゃんおばあちゃんがそこで休んでいたり。また、噴水の横にはクレープの屋台が出ていて、ぼくと同じような受験生や近隣住民らしき人たちが並んでいた。
 腹の虫が鳴る。でも。
 混んでる。並ぶのめんどい。
 そして穏やかな陽光が広場に注いでいるせいだろうか、もやがかかったように眠気が意識を覆い始める。ぼくは広場の隅にある日当たりのいいベンチを選んで、リュックを脇に置き、腰かけた。腕を組んで目を閉じると、すぐにうとうとし始めた。
 噴水の水の音、風の音、鳥の鳴き声、家族連れだろうか子供の笑い声、それから受験生の答え合わせ(うるさい)。それらが胡乱《うろん》な頭の中に流れ込んでくる。
 なんてことはない。魔法使いが運営する都市、と聞いていたのに、ちょっとおしゃれなだけの普通の街じゃないか。
 ――本当にここで走れるのだろうか。
 ぼくの体は変調をきたしていた。走るときの〝気〟はますます増大し、全力疾走は競争馬とそう変わらないスピードまで上がる。一般道なら車両と一緒に走れるほどになっているのだ。シューズ底の減りは激しく、距離を走りこんでいるわけでもないのに、一月で一足を履き潰してしまう。
 止められない。あのスピードを己の体で生み出す快感はこたえられない。オーガズムなんかめじゃない。たぶん今のぼくはどんな麻薬中毒者よりも酷く、『走る』という麻薬に依存している。
 止めるべきだ。気も筋肉と同じように鍛えれば鍛えるほど増大する。ぼくの限界はどこなのかまだわからないが、今は間違いなく増大し続けている。普通の人間から外れ続けている。ケモノのようなモノになろうとしている。
 ケモノ臭かった。
 膝に重さを感じた。
「……」
 目を開けると、そこには灰色の猫がいた。ぼくの膝の上に四肢をたたんで乗って、目を閉じようとしている。
 心の毒気が抜かれ、少しだけなごんだ。
 猫は、ベンチが冷たいから温かい膝に乗ったのだろうが、それにしても初対面のくせに人懐こい。首輪はないので誰かに餌付けされているのか。
 自由なケモノ。今朝の飼い犬よりもいくらか過酷な世界で生きているが、心は自由。特定の何かに執着を抱くことなく生きることができる。こいつの悩みは明日のごはんをどうやって手に入れるかぐらいのもので、人間のようにいろんなしがらみに絡め取られることはない。〝気〟が使えてもたぶん、儲けもの程度にしか思わない。と勝手な想像を繰り広げる。
 半目で猫を見ていると、ぼくも自分に視線が刺さるのを感じる。
 顔を上げると、制服姿の女の子が居た。背が高く、黒く長い髪を後ろで一つに結わえている。ポニーテールというやつだ。ぼくの膝の上のものを見ていた。
 猫は新たな人間の接近を感じたのか、急に目を開く。女の子の姿を確認すると、膝から跳び下り、そのまま走り去った。
「ああ……」
 女の子は残念そうにその後ろ姿を見送る。
 そろそろ行くか。ぼくは組んでいた腕を解き、欠伸をしながらベンチを立つ。
「あ」女の子の間抜けな声。
「ん?」ぼくはリュックの肩ベルトをとる。
 微妙な間があった。きっと女の子には、「あ」っていう声を上げる予定なんてなかったんだろう。
「あの、し、試験できなかったんですかっ」
 苦し紛れの繋ぎだった。このまま終わらせたら、この子、後で相当決まりが悪いだろうな、とぼくは話に付き合うことにする。

 彼女、大河内アキラは女子中等部一年で、さっきまで屋内プールで泳いでいたらしい。髪が湿っていて、微妙に消毒剤の匂いがする。――別にそんなことどうでもいい。
「あの猫、ちっとも触らせてくれないのに。直海さん、一体どんな方法使ったんですか」
「特に何も。寝てたら向こうが勝手に乗っかってきただけ。あと敬語は使わなくていいよ」
「え、でも」
「いいんだよ。二つしか違わないんだし、大河内さんデカイから年下に見えないし」
 というのも理由がある。一年生のとき、三年生がやけに大人びて見えて、けど、実際自分がなると、思っていた以上に子供で。だから部活でも後輩には敬語を使わせないようにしていた。上辺だけの敬語って、なんか虚勢を張っているみたいでカッコ悪いから。
「でかくないよ! っていうか女の子にそんなこと言っちゃだめだよ」大河内さんは必死に反論する。
「ごめん、言い方が悪かった。とにかく敬語はいいよ」
「そ、そう」
 初対面でいきなり声を張り上げたのが恥ずかしかったのか、大河内さんは少し頬を染める。無理に話題を変えてきた。
「どうしてあんなところで寝てたの?」
「猫が膝枕を要求してきたから」
「本当!?」大河内はさっきの話を忘れてしまったのか。それにしても無理がある理由に喰い付く。
「嘘。駅が混んでたから時間つぶし」
「そうなんだ……」とてもがっかりした。
「大河内さんがベタベタし過ぎるからじゃないの? 猫ってそういうの、敏感だから」
「かわいいのに」
 大河内さんはきっと、ごはんあげて、なでなでして、じゃれあって、とかそういうのを期待していたのだろう。
「気持ちはわかるけど猫って、そういう生き物じゃないからなあ。気まぐれな動物だから、向こうからよって来たときじゃないと」
「……よって来ない」
 重い。そんなに猫に好かれたいのか、この子は。
 ぼくはため息をつく。ついでに、忘れていた腹の虫が鳴きだした。グルグルと。滅多に鳴かないのに、こんなときに限ってよく鳴く。
 大河内さんはきょとんとして、それからくすくすと笑った。ぼくは特に恥じることなく、言う。
「この辺でなんか腹にたまる美味しいもの知らない? そこのクレープ以外で」

 広場から少し入って行った場所に、その喫茶、スピード・キングはあった。ホットドッグがおいしいらしい。コーヒーも評判だそうだが、ぼくにあの苦味は理解できないだろう。
「本当なら友達と来るはずだったんだけど、予定が合わなくて」
「ぼくは一緒に来る友達がいません」
 大河内さんは冗談と取ったのか、
「じゃあ、私がその友達一号だね」と。
 本当なのに。走ってばかりだったから、友達と呼べるのは速水ぐらいのものだ。ちなみに他校の選手はライバルだ。友達じゃない。
 昼時が過ぎたいまは丁度空いていて、マスターらしき口ヒゲの立派な中年男性が、暇そうに雑誌を読んでいるのが外から見えた。コーヒーの豆を焙煎する香りが、店の外まで漂ってくる。コーヒーは好きじゃないが、これはいい匂いだ。
「いらっしゃい」
 マスターは穏やかな声で二人の客を迎えた。
 ぼくと大河内さんはカウンターの端に座るとホットドッグを注文する。
 マスターは手慣れた調子で調理を始める。
 切り目を入れたパンにバターをひき、オーブンレンジに入れた。十数秒もすると、チンとベルが鳴る。お湯に入れて温めてあったソーセージを取りだし、玉ねぎとピクルスのみじん切り一緒に挟み、ハニーマスタードをかける。
 出来あがったホットドッグはお冷とともにカウンターに置かれた。ケチャップはお好みらしい。大河内さんはかけたが、ぼくはそのままかじりつく。
「うん、おいしい」つい言葉に出てしまう。
 大河内さんは笑う。女の子なら甘いもの、と思っていたが例外もある。それくらいの味だった。
「でしょ?」
「かんたんだけど、うん、これはおいしい。このソーセージかなりいいやつでしょ。パンもおいしいし」
「単純なものほど奥が深いんだよ」大河内さんは聞いて知ったようなことを言う。
 単純。例えば、二本の足で速く走るとか。
「……」
 ホットドッグの断面を見つめたまま黙ってしまう。
「直海さん?」
 大河内さんがぼくの顔を覗き込む。
「ごめん、なんでもない。あんまり美味しいから、家でも再現できないかって考えてた」
「へえ、直海さんって料理するんだ」
「簡単なものはね。母親の手伝いとかしてると覚えるんだよ。栄養は走りに影響するし」

「走り?」
 完全に無自覚だった。
「……ごめん。本当なんでもない」
「直海さん、さっきから謝ってばっかりだよ」
「ごめん」
「ほら、また」
「あー、今のなし。本当、何でもないから。走りじゃなくて健康ね。料理は健康」
 変なの、と大河内さんは小さく呟いた。本当、変だ。というか病気だ。こういう時は走って発散するのが一番…………やっぱり病気だ。
 ホットドッグが半分くらいになった頃だろうか、
「やっぱり」ヒゲのマスターが言った。
「失礼だけど、君、ナオミくんじゃないか?」
 大河内さんは突然ぼくの名前が呼ばれたことに驚き、はっと顔を上げる。ぼくもびっくりしたけど、平常を装う。
「はあ、確かにぼくは直海ですけど」
「おお、やっぱり」
 ヒゲのマスターは「ちょっと待ってて」と裏手に引っ込んで、すぐに戻ってきた。手には見覚えのある雑誌を持っている。
 月刊陸上競技、去年の九月号だった。全日中の記事が載っている。マスターはページをめくってぼくに見せた。
「ほら、ここ」
 写真には腕を突き上げてゴールしている一着の奴と、苦しい表情でゴールラインを踏んでいるぼくがいた。
 知っている。いつも発売日と同時に買っているから、それはもう読んだ。
「わあ……」大河内さんは驚きの声を上げると、そのままぼくの顔を見た。
「息子が長距離やっててな」マスターはヒゲをつまみながら言う。「関東大会のレースは見たよ。すごいよなあ。細いのにどっからあんなスピード出てるんだい」
 世界はなんて狭いんだろう。日本じゃマイナースポーツである陸上で、しかも中学生なんていう更にマイナーなジャンルで、ぼくが知らない人がぼくの名前を知っているなんて。独りになりたかったのに。独りになるために麻帆良に来たのに、ここまで先回りされてるなんて。
「……直海さん、顔、青いけど大丈夫?」大河内さんが言った。
「あ、ああ、大丈夫」頷く。
 それからマスターに言う。
「すいません。こんなふうに、知らない人から言われるのって、初めてだったんで」
「まあそりゃあね。高校野球と違って、陸上マニアのオヤジぐらいにしか知名度ないからね」
 マスターは茶化した。「ですよね」とぼくも苦笑する。
「すごいですもんね、高校野球。地区大会からテレビ入るし。陸上なんか全国の決勝だけで、しかも全部の競技映すことなんてないのに」
「まったくだ、いかんよいかん。野球野球って、少しは陸上にも出番まわして欲しいもんだよ」
 速水みたいなことを言うヒゲのマスター。
「そういえば水泳は、ほとんど全部放送してるよな」とぼくは大河内さんに振った。
「ええ!? え、と……ご、ごめんなさい?」
 冗談なのに、大河内さんは慌てる。別に悪くないのに謝る、というその仕草が可愛らしくて、またちょっとなごむ。
「今日は……入学試験かい?」ヒゲのマスターは言った。
「まあ」
「推薦じゃないんだね」
「いろいろありまして。あ、でも素行不良とかじゃありませんよ?」
「そりゃそうさ。お母さんの手伝いするような、いまどき珍しい子がそんなね。で、どこ受けたんだい?」
「本校男子部です」
「へえ、すごいじゃないか」
 麻帆良学園のブランドをお高く見せるつもりなのか、高校からの入学だと、確かに結構難しい。偏差値も無駄に高い。でも中学からエスカレーターしてくるから、平均すると全体の学力はそんな高くない。そんなことが塾業界では言われてたりする。
「まだ結果出てませんよ」
「受かってるさ」マスターは軽く言った。
「そうですよ」と大河内さんは続けて、

「なんたって本校陸上部期待のルーキーなんだから」

 ちくり、ではなく、ドスり、とやってきた。そしてえぐった。なごんだ分も全部、根こそぎ。
「気が早いよ」
 笑うのがきつかった。
 大河内さんはぼくに尊敬の眼差しを向ける。
 それはなんだか照れくさくて、嬉しくて、反面、とても後ろめたくて、陸上が出来ない事実を再認識させられて……。
 ぼくはなんだかわからなくなった。
 何で陸上競技なのか、何で四〇〇メートルトラックで走りたいのか、なぜ〝気〟でドーピングしてはいけないのかも、わからなくなった。
 わかるのは一個だけだ。ぼくはもう、スピード・キングにホットドッグを食べに来ることはない。それだけ。



[29988] 仲間が友達にランクダウンするとき
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:af0197cb
Date: 2011/10/10 11:21

 数日後の休日、合格を伝える封書が届いた。
 あまり嬉しくはなかった。「セーフか」と詰まっていたものが喉から吐き出されるだけで、ぼくは通知書を母に渡す。
「ん、セーフね」
 母も喜ぶというよりはほっと一安心という感じで、別段お祝いという雰囲気ではなかった。続いて父に見せると「セーフだったか」と。
 次の日も普段通りだった。普段通り、朝六時五十分に起きて、ごはん食べて、学校に行く。普段通り、ぼくはまだ受験生のフリを続けるために、学校へ行く。
 二月に入ると公立高校の推薦入試が終わり、一般受験がいよいよ本格的に始まる。教室ではもちろん、通学路でヒーヒーヤバい言っている奴もいる。推薦を勝ち取った奴、私立に合格した奴はおしりに火がついた一般受験組を励ますか、または冷やかす。
「直海、ちょっと」
 下駄箱で吉田先生に呼び止められた。
「そろそろ発表だろう?」
 ぼくが麻帆良学園を受けたことを、この学校で知っているのは担任と校長、それから吉田先生だけだ。
「受かってましたよ」抑揚のない声でぼくは言う。
 先生は、よかったな、と顔を緩ませる。
「まったく、志望校のレベル上げると聞いた時はどうなるかと思ったが」
 吉田先生はまるで担任みたいなことを言う。
 レベルが上がったといっても、社会と理科なしの三教科じゃ勉強のやり方も違うのに。ぼくは苦手科目の社会がなくてむしろほっとしていたくらいだ。
 やっぱり担任とは違ってぼくに対する責任ってものがないからか。ぼくの成績を把握してる担任は、心配なんてしてなかった。
「それはそうと、陸上のことなんだけどな、もう一度事情を聞いときたいんだよ」先生は調子を改めた。
 吉田先生と校長は、記憶を改ざんされている。秋山さんと土谷教授のどちらかが、魔法をかけたんだと思う。二人の記憶でのぼくは、陸上を自主的にやめたことになっている。
「本当にやめるのか?」
 まあ、とぼくは曖昧な返事をする。
「素人のオレから見ても、おまえは他の奴とは違うモノを持ってると思ってたんだがな」
「気付いちゃったんですよ。努力込みの才能のゲンカイってやつに」ぼくはうそぶく。
「このまま走ったとして、将来、どうなるかって想像したら、急にアホらしくなっちゃって。知ってます? 日本の中距離選手って、世界だと同じ土俵ですら戦えないんですよ。レベルが違いすぎるんです」
「世界レベルと比べてどうする。先生が言ってるのは高校レベルの話だぞ」
「ぼく、負けず嫌いなんで。得意なことは一番になれないと気が済まないんですよ」
 そして大ウソを吐く。
「だから走りは趣味程度にとどめて、勉強の方、がんばってみようかなって」
 何が趣味だ。ぼくにとっては走るということは、生きているって実感することなんだ。走らなければ、内側から腐ってしまう。
 ぼくは胸のあたりがじくじくと痛むのをこらえる。
 先生は、そうか、おまえがちゃんと考えているなら、とうなずく。ちょろいな。胸が痛むけど、ちょろい。
「それじゃあ」とぼくは、階段の方を向く。
 中山がいた。ちょうど階段から降りてきたところで、ぼくを見つけると敵意をむき出しにして睨んだ。「ッチ」とよく聞こえる舌打ちを、ぼくに向かってする。それも先生に見せつけるように。そしてぼくと先生の間を強引に通り抜けていった。
 先生はがっくりとしながら、言う。
「まあ、あと少しだ、がんばれよ」
 先生、なに言ってんだよ。中山のことなんて、どうでもいいんだ。別に怖くもなんともない。怖いのは、速水だ。速水がぼくのことを嫌悪とか軽蔑するようになったり、「ああ……こいつってこんな奴だったんだ」って思ってしまうのが、怖いんだ。

 授業は午前までしかなく、午後は完全に時間が空く。合格組は卒業式の準備を手伝わなきゃいけないんだけど、ぼくは受験生のフリをしている。なので午後も学校に残って速水たちと勉強をしていた。
 苦手な社会の一問一答問題集を黙々と解き、間違えた所をノートに書き写していく。正解率はよくない。思考が散って、覚えているはずの問題でも間違ってしまう。
 ――早く言わないと。
 速水に「もう麻帆良学園受かったんだよ」「陸上やめるんだ」って言わないと。
「直海、直海ってば、ちょっと聞けよ」
 その他の内の一人、坊主頭の丸山くんがぼくの肩を叩いた。
「おまえはどうなんだよ」
 何がどうなんだよ。ぼくはわからない、と首を振る。
「ずりーぞ、俺たちに言わせといて、自分だけ言わねえなんて」
「何をだよ……」
 ぼくは疲れた声で言う。
「だからさぁっ……好きなやつが誰ってこと」
 『好き』の『す』の部分がとても小さくて聞き取れない。「……きなやつが誰ってこと」って聞こえた。どれだけテレてんだよ。
 丸山くんはクラスに必ず一人はいるエロ少年だ。エッチな本やアダルトビデオの元締めでもある。ぼくの知らないエロ用語をたくさん知っている。でも、こういう現実的な話になると途端に顔を赤くする。
「それは誰かに恋してるってこと?」
 ぼくが言うと、速水を除く全員(といっても三人だけだが)が「うわ、ハズ……」「ハズイ」「……ハズイよ」と一様に取り乱す。
 でも一度言ってしまうと、恥ずかしさも吹き飛んだのか、丸山くんがからかうように言う。
「なに? 直海って、恋とかって普通に言っちゃう人なわけ?」
「やめとけよ、直海はそういうの、興味ないんだから」速水が助け船を出してくる。
「コイ……ねえ」ぼくはしみじみと、中年のおばちゃんが呟くように言った。
「ほら、丸山のせいで変になっちまったじゃねえか」
 速水は丸山くんの頭を軽く小突いた。
 恋というモノをしたことがない。いや、したことはあるか。それっぽいのを一度だけ。
 1997年のアテネ世界陸上、八〇〇メートル決勝。ケニアからデンマークに帰化した、ウィルソン・キプケテルの走りに。
 陸上を始めて間もないころのぼくは、深夜のテレビ中継でそれを見ていた。スタートしてからゴールまで一度も先頭を譲らずに一着。ぼくはその走りを見て思ったのだ。
 ――なんて綺麗なんだろう。
 五千か一万の選手かと見紛うほどの細い身体が描く、極限まで無駄のないフォームは、それこそ地球の引力から解放されたような印象さえ与えた。
 後でわかったことだが、当時、彼は世界の中で見ても頭一つ飛び抜けていた。八〇〇メートルの屋外と室内の世界記録を更新して、出る試合は負けなしだった。
 寝ていた頭はすっかり冴えわたり、テレビの前に釘づけになった十二歳のぼくは思った。
 ――あんな風に走れたら。
 骨格レベルで土台無理なことは後になってわかったが、その時はできると思っていた。
「ミヤハラ? ミヤハラなんだろ」と言う丸山くんの声で引き戻される。
「ない、それはない」
「でも、もうすぐバレンタインだろ。多分あいつ、チョコ用意してくるぜ」
「じゃあ学校休む」
「うわ、鬼だ。鬼ハード・ボイルドだな」
「もういいから。その話やめろよ、つまんねえよ」
 本当、つまらない。丸山くん、見ろよ、速水が笑ってるぞ。本当は笑ってないのに、無理して笑ってるぞ。たぶん、胸のあたりがズキズキしてるはずなのに。ミヤハラさんはこの後、速水のこと好きになる予定なんだから、余計なこと言うなよ。

 八浦霊園は広い。山あいにあるこの墓地には、父方の祖父の墓が入っており、毎年正月や彼岸は掃除しに行くことになっている。
 敷地内には立派な桜並木道があり、春になると一面が淡い桃色に染まる。飲み食い的な花見は禁止だけど、本当に見るだけでも価値がある。食べる方が好きなぼくが思うんだから、たぶん。
 霊園への入口は三つある。二つは公道から少し入ったところにある門で、そのうち一つは、門の横が芝生になっていて、自動車は通れないが、バイクなら乗り上げて敷地内に入ることができる。ここにはよく警備の人が見回りに来ているので注意しなければならない。残り一つが、崖のような山道を下りていく入口である。
 ぼくはこの山道をよく走っている。夏場は木が日光をさえぎってくれるし、風が強い日なんかは林が風避けになってくれてとても走りやすい。それに地面が土だから足に優しいし、起伏があるからいろんな筋肉を使い、いいトレーニングになるんだ。でも走ったことがあるのは、太陽が出ている間だけだ。
 太陽が出ているうちは地面に奔っている木の根っこ、小さな段差、崖になっている場所、そういうのが良く見えるんだけど、夜は違う。本当に真っ暗になる。ぼくの目は深い黒で塗りつぶされ、何も見えなくなる。住宅街の光も、星の光も届かない。地面から出っ張っている根っこも石も、踏み外したら終わってしまいそうな崖も、みんな見えなくなる。

 閉園してから、二時間後、午後七時。ぼくは山道を抜け、霊園に侵入した。山道と違って人工の光がある。懐中電灯を切り、背負ってきたバックパックに詰める。
 もう何度目になるだろうか。去年の九月から週に一度か二度、こうして夜の霊園に侵入し、走っている。もちろん不法侵入なのだが、別に何かを盗ったり壊したりしてるのではない。走っているだけだ。見つかったとしても、「ごめんなさい。あんまり魅力的な直線だから、走ってみたくて」とでも言えば一発だろう。ただの、走ることが好きなだけの少年なんだから。
 道のわきに真っ黒な犬(♂)が座っていた。田崎さんの使い魔だ。墓場の闇にまぎれて、じっとぼくを見ている。
「おまえも大変だな」
 犬は尻尾を左右に一振りして答えた。
 彼の視界は田崎さんと共有されている。監視だ。おそらくはその上の立場にいる魔法使いも、今日ぼくが走っている姿を見ることになる。
 保温性の高いウィンドブレーカーをシャカシャカとさせながら、ぼくは桜並木の直線を流す。肌が切れそうなほど冷たい空気が頬に当たり、ピリピリする。
 気持ちいい。
 特に今日は爽快だ。雲が少なく、丸い月がはっきりと見える。気温はたぶん、0℃より少し高いくらい。街灯の光が吐く息の水蒸気に当たり、白い。麻帆良はここより北だから、冬はもっと寒いんだろうな。そんなこと思いながらぼくは、身体を前へ前へと運んでいく。
 飛ばし過ぎる。〝あの感覚〟が全身にまわる。体が熱くなった。
 ウィンドブレーカーの上を脱ぐ。速乾性のシャツが一緒にめくり上げられ、同年代よりもごつごつと引き締まったお腹があらわになる。女の子はこういうのに、男らしさを感じたり、いいなとか思ったりするらしい。
 どうでもいい。腹筋だけ強くても意味がない。個々の筋肉が強くても、それを連動出来なければ贅肉と一緒だ。
 ウィンドブレーカーの上下を取り去り、半袖短パンの格好になる。街灯が体から立ち上る湯気を映し出す。ぼくは走りだした。
 わからない。
 友達がわからない。
 クラスメイトはもっとわからない。
 男子はみんないつも女の子のことばっかりだ。スポーツやってる奴もしやってない奴も。セックスに異常なくらい関心があって、エッチな本とかビデオを友達の間でやり取りして。グラビアの女の裸や、ビデオの中で男が女に覆いかぶさっているのを思い出して。みんなそういうことばかり考えてる。
 でもぼくは、あれからずっと、トラックのスタートラインに立つ自分を想像している。入りの二〇〇メートルを突っ込んで二六秒、一週目は二番か三番で通過して五三秒、五〇〇メートルでギアを一つ上げて、六〇〇メートル過ぎてから勝負をかける。筋肉に乳酸がたまって辛くなるのに耐えきって、ゴール。そういうことばかり考えてる。マスターベンションを最後にしたのはいつだっただろうか。

 けたたましく響くエンジンの爆音が、霊園の静寂を破壊する。
 表門の方からだ。ここは暴走族がよく通るから、今日もその類なんだろう。と、ぼくはまた並木道を飛ばす。
 しかしどうだろうか、いつもなら通り過ぎるだけの爆音が、ぼくがいる方へと近付いてくる。
 振り返ると、派手でだらしない格好をした少年が原付に乗っているのが見えた。バカみたいに大声で笑いながら、バカみたいに大きなエンジン音をばらまく。墓の下から起き上がってきたらどうするんだ。困った不良どもだ。気まぐれでどこにでも出てくる奴らは特に困る。
 ぼくはこの場を立ち去るべく、バックパックと一緒に置いてあるウィンドブレーカーを取った。上着をさっと羽織って、下のズボンを履こうとする。上手くいかない。ズボンのすそが靴につっかえてなかなか入らない。
 早く逃げないと。
 でもそれはもう無理になっていた。
「あっれえ、直海じゃん」聞き覚えのある、太い声が耳についた。中山だった。手首は完治していて、包帯はない。
 不良たちはバイクの数よりも多かった。改造したと思われる原付に二人乗りでヘルメットも被っていない。中山は五台あった原付のうち、一台に乗っていた。前には彼の先輩らしき、高校生がハンドルを握っている。
「どおしちゃったのよ、こんなところで」中山のわざとらしい声色にイライラする。絶対こいつ、ぼくがここで走ってるってこと、知っててやってる。
 ブレーカーのすそに足が通る。
 ぼくはバックパックをひったくるように拾うと、その場から飛び出す。
 また爆音が鳴る。別の原付が素早くぼくの進路方向を塞いだ。
「こいつがシュウのガッコで調子こいてるヤツ?」
「そうなんすよ、陸上で全国二位だからって、チョーシこいてるんすよ」
 中山の下の名前はシュウという。どういう漢字だったかわからないけど、かなり難しい字だった。
 中山はバイクを降りる。歪んだ優越感を浮かべてぼくの周りを歩く。五台の原付がぼくを取り囲む。ぼくはバックパックを背負いこみ、脱出の機会をうかがう。
「第一公園で見た時は笑っちまったよ。おまえ、山ん中入ってくんだもん」
 第一公園とは山道の入口になっている公園だ。早朝はおじいちゃんおばあちゃんのウォーキング集団が、準備運動をしているのをよく見かける。
「中山……ストーキングはやめてよ。ホモじゃないんだよ? ぼく」
 不良たちがどっと笑った。「おいおい、ナメられてんじゃん」「ぼくだってよ、ぼく。カワイーイー」
「スカしてんじゃねえぞっ、てめえ! その足、折ってやろうかっ」
 出たよ、意味がわからない不良用語。
 中山は息がかかりそうなほど、顔をぼくに近付ける。息が臭い。それに醜い顔だ。顔の造形が、ではなく浮かんだ侮蔑がとても。
 シュウだ。醜だ。今日からおまえは中山醜だ。
 中山は張り切っている。いつものように多対一で、絶対的な優位があるから、その声には歪な自信が溢れている。
 ぼくは胸中でため息を吐く。
「何度も言うけどさ、走ってるだけなんだよ。別に迷惑かけてないだろ」
「はあ? 何言っちゃってんの、メーワクもいいとこだよ。二酸化炭素出してんじゃん。ハアハアいってさ。死ねよ、ソッコー死んで地球に詫びろ」
 すごい屁理屈だ。学校で言ったら間違いなく、大半の生徒がクスリと笑う屁理屈だ。
「すっげーナカやんすっげー」「エコじゃん」バカに理屈は通じない。結局のところ、中山はぼくを下に敷きたいだけなのだ。
 ここで「地球温暖化の原因が二酸化炭素っていうのは、学会ではまだ確定してないんだよ」なんて言ってみろ、「何熱くなっちゃってんの、地球があったまるだろ。死ね」ぐらいは言いそうだ。

「何やってんだコラッ!」大人の男の声だった。警備員だ。魔法使いたちの手引きかどうかは知らないけど、助かった。
 スタートのピストルにも似たその声で、集団は一気に散る。「やば」「逃げるぞ」「乗れ」と不良たちは一斉にエンジンをふかし始める。
 隙が出来た。
 ぼくははじき出された弾丸のようにその隙を駆け抜ける。「はっえー」という不良の声が背中に残った。
 山道へと延びる坂道を駆け上がる。下では原付の騒音が響いている。上手く逃げてほしい。捕まったら、絶対、連中はぼくのことを言うだろうから。もし警備員が魔法使いじゃなかったら、と思うと鳥肌が立つ。
「上手くいかないな」
 懐中電灯を点けて、呟く。
 中山のことは小学生のときから知っていた。
 クラスが一緒になったことはない。中山は当時から体が大きく、ボス的存在で常にみんなの中心にいた。ボスといっても昔懐かしのガキ大将ではなく、一人のターゲットをよってたかっていたぶる、いわゆるリンチ集団だった。問題になっていたのがなんとなく思い出される。
 また、中山は野球をしていた。ポジションはどこか知らないけど、瞬発力があり、短距離なら結構速かった。たぶん、クラス内じゃ一番だったんじゃないだろうか。
 一番よく覚えているのは六年生の運動会だ。特に一〇〇メートル競争とクラス対抗リレー。
 一〇〇メートル競走はタイムで組が分けられる。当然ぼくは一番速い組で、中山もそこだった。狭い校庭に描かれた一〇〇メートルのコースはきついカーブがあり、曲がり切れずスピードを出しきれないのが、ぼくは不満だった。でも、そこそこ差をつけて一着。中山は二着だった。
 アンカー同士だったクラス対抗リレーは歓声が沸いた。中山は一着でバトンを受け取った。ぼくのクラスは三着だった。でもぼくが勝った。一周一五〇メートルちょっとのトラックで、二〇メートルほどの差を一気に縮めて勝った。
 勝ったけど、ぼくは不満だった。走りがイメージとはほど遠かったから。ハイレがジョギングするレベルだったから。そりゃあ、みんなにちやほやされていい気になったけど、やっぱり不満だった。中山に勝ったことなんて、それこそ帰る頃には忘れていた。
 中山がいつ野球をやめたかは知らない。
 野球をやめた原因はこれじゃないかもしれない。けど、中山がぼくを目の敵にするのはここから始まっているんだと思う。
 いつも独りでいるぼくが一番で、みんなの中心にいる自分が二番であるという屈辱。
 一番には、なれない。
 そして勝手にライバル意識を持ち、勝手に潰れた。
 だから中山はバカらしくなって走るのをやめた。やめて、止まって、ぼくの邪魔をする。そっちの方が面白いから。
「ねーよ」
 ああ、今夜は月が綺麗なのに、台無しにしやがって。おまえこそぼくに詫びろよ。

 当たり前だけど、夜遅く走ったらその次の日は体が重い。いくら若くても、十時間足らずの休息じゃ疲れはとれない。
 案の定、ぼくは寝坊して、始業ギリギリの教室に駆け込む。
 すいません、遅れました、と後ろからこそこそと入ると、教室の雰囲気がいつもと違うことに気付く。視界の右隅に黒板が入る。黒板には文字が書いてあって、その前には担任の先生が立っていて、クラスメイトは全員ジッとぼくを見る。黒板の左側には『直海は』、右側には『を使っているから早い』とそれぞれ白いチョークで太く書かれている。左と右の間にはちょうど先生が立っていて、そこの字だけ見えない。
 急に背筋が寒くなった。間に入る文字が、もし、アレだったら……。
 でも、別に問題ないことに気付く。アレを信じる人間がどこにいるんだ。漫画やアニメの中のアレを現実に信じるバカは。
「直海……」先生が疲れた声を出す。早く消しておくべきだった、という後悔の声だ。
 先生の体が揺れる。間に入っていたのは『薬』の文字だった。
「『早い』の使い方、間違ってますね」ぼくは言う。
「それだ!」丸山くんが手を叩いた。クラス中が毒気を抜かれたように、ぷっと吹き出す。
 たぶん、中山だ。『早い』の使い方間違えるぐらいの成績で、ぼくに突っかかって来るのは中山しかいない。取り巻きも同じような成績だから、間違いに気付かなかったんだろう。
「先生、それやったの、多分このクラスの人じゃないです」
 ぼくが言うと、先生の表情が柔らかくなる。「そうなのか」と黒板の字を消し始める。『このクラスにいじめはありません』ってね。うん、いいことだと思う。
 席に着くと、前の速水が苦笑した。ホント困っちゃうよな、と言っている顔だった。

「ちゅうもーく!」
 一時間目が終わった後だった。中山が取り巻きとともにいきなりやって来て、ぼくの机を叩いた。
「ただ今より記者会見を始めまーす」
 取り巻きの一人が握り拳をマイクに見立てて、ぼくの前に出す。ぼくは頬づえを付いたまま、目の焦点を宙に泳がせる。無視だ。
 でも、次の瞬間ぎょっとすることになる。
「直海選手、引退の切っ掛けはやはりドーピングなのでしょーか」
 中山が言った。『引退』って所を強調して、教室中に聞こえるような、甲高い声で言った。
 焦点が中山の顔を捉えた。答えてみろよ、と小声で挑発してきた。
「何のことだよ」
「オレ、聞いちゃったんだよね。昨日、おまえが吉田と話してるとこ。陸上やめんだって?」
 ガタっ、と椅子が動く音がした。速水が席を立っていた。
 急に心臓が締まる。喉の奥ががたがたと震え、手足の反応が鈍くなる。速水の姿を見ていられなくなる。
「でもさー、おかしくね? やめるくせに、なんであんながんばって走っちゃってんのよ。しかもメチャクチャはええの」
 悔しさで奥歯を噛みしめる。ギリ、と歯がこすれる音が頭に響く。中山はぼくの表情が硬くなるのを楽しんでいる。付き合いがなまじ長いばっかりに、ぼくの嫌がるポイントを把握している。
「えー昨日《さくじつ》、午後八時、ワレワレ取材班が八浦霊園に突撃しましたところ、出たんですよ。これが」
 中山が滅茶苦茶な実況をすると、取り巻きが相槌を打つ。
「へえ、何が出たんです?」
「ええ、それがね、直海クンが出たんですよ。オカしいですよね。あんな時間に、クソ寒い中のに、お墓の横で走ってんですよ? ええ、そりゃもうオドロキましたよ。先生には、アホらしいだの、走るのやめて勉強ガンバルだの言ってるくせに、メッチャ走ってんですもん」
「おや? 直海選手、発言がムジュンしていますね」
 バン、と机を叩いた。〝あの感覚〟ではないから、壊れない。けど、身をすくませるには十分大きな音だった。教室は静まり返る。
「黙れ」ぼくはようやく声を出すことが出来た。でも、中山だけはやめない。
「クスリ、やってんだろ。でなきゃ、あんなに速く走れるワケない」
 人間から外れたスピードは見られなかった。中山が見たのはたぶん、逃げる際のダッシュだけだ。
「黙ってくれよ」声が上ずった。中山はますます増長した。
「だからさあ、やってんだろ? 吐いちゃえよ。吐いてラクになっちゃえよ」
 取り巻きがはーけはーけ、とはやし立てる。
「クスリはやってない」
 こんな時でも、屁理屈が出てきてくれた。
「じゃあさ、なんでやめんの?」
「おまえには関係ない」
「いや、オレにはかんけ―ねえけど、速水は違うよなあ。それともナにか? 口じゃあ言えねえようなことでもしてんのかぁ」
 速水。
 もうほとんどがバレている。去年の九月から積み重ねた嘘は決壊した。もう限界だったのだ。嘘をつき続けることに、ぼくは疲れていた。
 ふと、強張っていた顔の筋肉が緩んだ。いつか来る時が、今やって来たのだ。もう後は受け入れる以外ない。そう思ったら、急に軽くなった。
「おいてめえ、ナニ笑ってんだ」
「相変わらず、一人じゃ何もできないんだな、おまえって。いっつも誰か後ろにいるのな」
 中山の顔色が変わる。赤くなって、しわが寄る。
「笑ってんじゃねえ! ボッチがっ、ぶっ殺すぞ!」
 ダメだった。我慢できない。声は出ないけど、くくく、という堪えるような笑いが止まらなかった。まさか、こんなクソ野郎に覚悟を決めさせられるなんて。
 中山はがなり立てた。
「ムカつくんだよ、いつもスカしたツラしやがって。他人にも女にも興味ねえって、孤高気取ってんじゃねえよ!」
「ああ、そうかい。ごめんね、かまってあげられなくて」
 その一言で中山はキレた。ぼくがキレたようにキレて、殴りかかって来た。
 ぼくは逃げた。中山の一撃目をかわして、教室から廊下へと走った。中山とその取り巻きをおちょくるように、笑いながら逃げた。痛いのは嫌いだから、一発も貰ってやらない。

 ぼくが陸上をやめた、というのは学校中に知れ渡ることとなった。学校中、というのは語弊があるかもしれない。クラスと陸上部と職員室中に知れ渡っただけだ。明日以降、大きな噂になるのかもしれない。噂にもならないのかもしれない。噂になるほど、みんな陸上に関心があるかどうかも疑わしい。
 担任の先生に呼び出され、職員室に行ってみると、先生たちはなんとも微妙な視線をぼくに向けた。女の先生は特に。近所の噂好きなおばちゃんみたいだった。
 担任の言葉は「あと少しで卒業なんだから、がんばってくれ」だった。くれってなんだよ、くれって。ぼくは嫌だ。あんな奴の相手。
 廊下に出ると、速水が立っていた。
「どこで話す? 教室でいいか?」ぼくが聞くと、速水は黙ってうなずいた。
 移動する間、一言も口をきかなかった。ただ、速水の視線が針みたいに背中に突き刺さる。痛い。痛い場所はわからないけど、とにかく痛かった。
 午後の三年一組には誰もいなかった。多くは塾か図書館へ、最後のあがき、もしくは仕上げに行っている。
 速水は適当な机に腰掛けた。肩を落として、目線を落として、なかなか上げようとしない。やがて、ぼくが切りだそうとするのだが、
「なあ」
 第一声は速水に取られる。
「本当なのか」
「うん」
「本当に、陸上やめるのか」
「うん、やめる。志望校も変えた。実はさ、もう受かってるんだ。埼玉の麻帆良学園」
 言えた。声は震えていない。顔も強張っていない。
「どうしてだよ」
「ごめん、それは言えない」
「言えないって、本当に言えないようなことしてんのかよ」
 我慢弱いぼくは、やっぱり震えてしまう。
「……おまえには、言えないんだよ。ごめん」
「俺にはって、じゃあ言える人はいるのか」
「親」
 速水はそうか、と再び目線を落とした。それから頭をかきむしった。それが、親じゃあ仕方ないよな、と諦めているようだった。
「怪我、してないんだな」
「してない」
「陸上、嫌いになったのか」
「いいや」
 また頭をかきむしった。ぐしゃぐしゃとかき回して、「ああ……」と嘆くような声を漏らして、またうつむく。
「なあ、速水」
 ぼくは聞いた。あらかじめ二通りの答えを用意して。
「おまえは魔法使いなのか」
「は? 急に何言いだすんだよ」
 その反応で十分だった。速水は魔法使いじゃない。〝気〟のことは、やっぱり言えない。
「いやさ、おまえが部長になった後さ、陸上部、明らかに変わったじゃん。それが魔法みたいだなって」
 速水は部活を変えた。わかってると思うけど、陸上から別のスポーツってことじゃない。部の雰囲気というか流れというモノを変えた。
 三年生が引退して部長になると、全体的な練習量を増やしたり、練習日誌をつけることを提案したり。よく練習中、気合いを入れるために「声出してこー!」と激を飛ばしたり。まだ部活に入って日の浅い一年生は順応するのだが、ぼく以外の二年生は反発した。きつい練習なんかやってられない、と速水を無視し始めた。でも、だんだん強くなっていく一年生を見て焦ったんだろう。結局二年生も戻ってきた。まだまだ弱小もいい所だが、その時から間違いなく陸上部は変わった。
 でもそれは魔法じゃない。
 筋と理屈を通したから、変わったというだけだ。でもぼくはそのことを言わない。過程をすっ飛ばした魔法みたいだってことにしておく。
「魔法って、おまえ……そんな大層なもんじゃねえよ」
 やっぱり速水は否定した。こういう風に褒めるといつも否定する。向上心が強いから、否定して更に高いところを目指そうとする。勉強もスポーツも。ぼくにはどっちもなんて無理だ。陸上に関係ないと今一つ向上心が持てない。速水はそういうところがすごい。
「すごいよ。だってダレてた連中が急にしゃっきりし出すんだもん。吉田先生よりずっとすごい。ぼくが速くなれたのってさ。速水のおかげによるところっていうのが、結構大きいんだ」
「……だったら恩、返せよ。もっと速くなってもっとわくわくさせてくれよ。トラックを沸かせろよ」
 ぼくも速水もハズイ言い回しだ。でも二人とも笑わない。真剣だ。
「なんでだよ。やっぱ理由、教えてくれよ。納得できねえよ」
「ごめん、それ、無理なんだ」
「なんで……」
「おまえが魔法使いじゃないからさ」
 なんだよ、それ。速水は茶化されて怒るでもなく、力なく笑った。



[29988] 周囲の無理解と理解
Name: ヌスーピー◆f03ad1a9 ID:af0197cb
Date: 2011/10/10 10:27

「総量が増えているね」
 土谷教授、もとい土谷先生は、もう何度目かになるその言葉を口にした。
「増加スピードも以前より、いくらか伸びてるし。君、ここの所、相当走っていたでしょう?」
 以前は丁寧だった口調も、何度か診察でやって来ていると、だんだん砕けてきている。ぼくは低くどもった声で答えた。
「……ええ、まあ」
 毎度毎度、わかっていても肩が重い。視線を診断書に移すと、そこには続け字で『慢性活動性気炎』とあった。慢性ってなんかネガティブな名前だ。でも害はないらしい。漢字を少し変えるだけで別の病名が出来上がるのに。
「以前は垂れ流しだった気も、体内で安定しているね」
 安定してないで消えろよ。
 三月の第三週、もうだいぶ暖かくなってきた。
 もうすぐ春だ。意味もなく希望を抱いてしまう季節だ。ぼくも例外ではない。心のどこか、ではなく半分以上で、〝気〟が使えなくなる方法が見つかると思っている。でも、売っている医学書に〝気〟の項目は無いし、インターネットでも武術や中医学の、「常識的な」気の説明しかなかった。そして麻帆良大学病院での検査も、ぼくの望みに応えてはくれない。
 検査は長かった。費用はかからない。症例が珍しいから、いろいろ調べさせてほしいとのことで謝礼を貰った。MRI、血液や尿検査、それからスポーツ科学センターでは、変な管を着けた状態で、高速ルームランナーの上を走らされたり、動体視力テストから、反射速度、筋力の測定なんかもやらされた。ルームランナーって嫌いなんだよな。走ってるって感じがしなくてさ。
 よほど落ち込んでいるように見えたのか、土谷先生はぼくの背中を叩いた。
「まあ、そう気を落とすな。まだ若いんだから、いくらでも道はあるさ」
 嫌だ、と心の中で叫ぶ。今はまだ一本道なんだ。枝分かれなんてない。

 卒業式までの時間は思っていたよりも普通だった。
 ぼくが陸上をやめることについては、噂になったけど一過性のものだった。一週間もすると、ほとんど誰もその話をしなくなり、未だに聞いてくるのは速水を除く陸上部の部員だけだ。
 あれほどぼくに執着していた中山は、満足したのかもう何もしてこない。取り巻きたちも、あと少しで卒業なのかで大人しくしている。
 卒業式当日も平和そのものだった。
 ちょいワルの男子や、女子はほとんどが涙し、またそれを見た女教師が鼻をすすり、目元をハンカチで拭う。典型的だ。テレビで見た金八先生と同じだ。何で泣くんだろう。そんなにおまえら悲しいことがあったのかよ。卒業できなくて泣くならわかるけど、金八先生みたいに感動する話もないだろ。
「バカみたいだな」速水が言った。
 あれから速水は、ぼくを特に嫌悪も軽蔑もすることなく話しかけてくる。ただ、陸上の話を一切しなくなり、またお互いに流行に疎いので、共通の話題といえばニュースぐらいだった。ちょうど去年、アメリカで同時多発テロがあったので話題には事欠かなかった。行き過ぎた宗教は危ないだとか、キリスト教とイスラム教の対立だとか、キリスト教とユダヤ教はどう違うだとか、そういったことを無理に調べて、中学生には似つかわしくない会話を成立させていた。
 数日前、速水は言った。
「宗教なんて、心の弱い奴が頼るもんだ」
 速水、ぼくらも『陸上競技』の信者みたいなものだろ。
 ぼくは速水に返す。
「今日はみんなでバカになる日だからね」
「今日だけかよ」
「今日はバカになって、明日からまた現実に引き戻されるんだよ」
「今日はファンタジーか」
 ぼくの現実と幻想は逆転しそうだけど。
「おまえはバカにならないのか」
「去年泣いたからもういい」
「は? 去年の卒業式つったら、おまえ笑ってたじゃん。ようやく口うるさい三年が消えるってさ」
「そのときじゃないよ」九月に泣いたんだよ。
 速水との会話は、バカになったミヤハラさんに中断された。集合写真を撮るから来いと手招きしている。
「帰ろうかな」とぼくが言うと、速水は肩を叩く。「今日はバカになっとけよ」
 ぼくがいつ、どんな理由で泣いたか、速水は無理に聞こうとしなかった。これが今のぼくらの距離なんだろう。
 速水は仲間であり、友達だった。でもぼくたちは仲間をやめて、友達になった。ただのクラスメイトよりは親しい、でも仲間と呼べるほどの関係ではない、友達。卒業した後、時々連絡を取って、だんだんと互いのことを忘れていく。
 友達、ともだち、トモダチ……。
 これから先、ぼくはそういうものを作ることができるだろうか。ただのクラスメイトで終わらせてしまわないだろうか。初めて持たされた携帯電話のアドレス帳には、まだ、両親のメールアドレスと番号しか登録されていない。

 四月の始め、ぼくは麻帆良に移る。

 麻帆良学園都市はおかしい。麻帆良の常識は、一般における幻想に近いものがある。何度か大学病院に行っているうちに、「本気で走れる」理由をぼくは理解した。
 スポーツ科学センターで使ったルームランナーの最高時速は百二十キロだったし、研究員もぼくが六十キロを超える速度で走っていたのに、ちっとも驚かなかった。ただ、〝気〟の運用効率が云々と、しきりにしゃべっていた。土谷先生は「これがここの『普通』なんだよ」と軽く言う。
 この麻帆良には、人間の認識を改ざんしてしまう阻害魔法が結界の内側に張り巡らされていていて、その中にいると異常を異常と思わなくなるらしい。
「異常の基準って、どういうモノなんですか?」とぼくが聞く。
「一言では説明しづらいな。結界と阻害魔法の制御は工学部のスパコンがしているからね」土谷先生は少し考えて「まあ簡単なとこで言うと、体育祭の一〇〇メートル走で、ある選手が九秒台が出したとするだろ。でもそれはおかしいから、あらかじめ登録された個人の能力情報から、常識の範囲に収まるタイムを算出して、それを見ている人間に植え付けるんだ。で、九秒台、という記憶は残らないで、その人が速いって事実だけが残る、ってとこかな」
 ぼくの眉間にしわが寄る。
「わかる?」
「技術が進みすぎてるってことぐらいは」
 土谷先生は苦笑いした。格闘技とかだと、もっと複雑なプログラムで制御しなくてはならないらしい。ぼくは理系でなく、文系に進んだ方がいいのかもしれない。
 四月、入学式の今日も、その異常性は留まることを知らない。
 式の会場に向かう途中、男子校エリア方面と女子高エリア方面に別れている交差点だった。
 肌の浅黒い女の子が、道着姿の筋肉質な大男のこぶしを受け止めていた。女の子はチャイナ服を着ていていて、髪は短く切りそろえてある。体重差は四、五十キロはあるように見えた。しかし、顔色が悪かったのは大男の方だった。女の子は涼しげに男の拳を放す。大男は地面に膝をつき、悔しそうに女の子を睨んだ。
 ああ、なるほど。女の子の方が〝ズル〟してるんだ。
 男が低い姿勢で跳び出す。それに合わせて、女の子は右こぶしを突き出した。男の頬にめり込む。ついで、残像が見えるほど速い回し蹴りが左から、その横っ腹に叩きこまれる。男は地面を二転三転して止まった。
 周りから鼓膜を刺すほどの歓声が上がった。みなさん、その女の子、ズルしてますよ。試合だったらズルなんですよ。真実を知った時、彼らはどんな顔になるんだろう。
「なあ、何があったんだ」騒音に紛れて隣から声が聞こえる。
 ぼくと同じく、黒い学ランを着た奴がいた。
「ケンカ、かな? ぼくも今来たばかりだから」
「へえ、すごいな、あの子」
 うん、すごい。常識を覆すことばかりが起こって、頭が追いつかない。
 普通、強さっていうモノは見た目に比例する。細い腕より筋肉がついた太い腕の方が、普通は強い。もっと極端な例を言えば、大きなライオンと小さなネズミが、真正面からぶつかりあったとして、どちらが勝つか、やってみるまで分からないのだ。〝気〟で全身を強化したネズミが、普通のライオンを突き飛ばすこともあるから。
「すごい、ってそれだけ?」ぼくは尋ねる。
「ん、よく見るとカワイイな、あの子」
 彼の感想はそれだけだった。
 勝負がつくと、何事もなかったかのみたいに野次馬は散った。

 学ランの彼、石蕗純《つわぶきじゅん》は、ぼくと同じく外からの入学者だった。親離れしたくて、ここを受験したらしい。セットされた茶髪と胸元を開いた服装に、少し軽い印象を受ける。でもまあ、勉強して入って来たのだから、中山のようなバカではないはずだ。
「うちのじじばばがさ、後継ぎのジカク後継ぎのジカクってうるせえの。あと親も」
「ふうん、石蕗くんちって、どっかの名家なんだ。そういうのって初めて見た」
「いや、名家ってほどじゃないんだけど、そこそこ、かな」
 石蕗くんは頭をかく。おまえは? と聞き返してくる。
「普通だよ」それからここの『普通』に適用されないように「父親は会社員で、母親が専業主婦。じじばばの方は農家」と付け加える。
 ぼくは石蕗くんを観察する。背中が若干猫背で、歩き方はややがに股。スポーツはやってなさそうだ。
「おまえも親がウザくなったクチ?」
「違うよ。むしろここ受けたらって、勧められたんだ。あとうちの親はウザくない」
「ウッソ、マジかよ。ウザくない親がいんのかよ」信じられねえ、と石蕗くんは繰り返す。
 その辺は受け止め方の違いなんだと思う。中学でも、親の干渉が鬱陶しくて鬱陶しくて仕方がない、というのを何度も見たことがある。ぼくはというとウザいどころか、親に干渉してた。頼っていたから、そういうのがなかった。むしろウザいのは、ぼくの方かもしれない。今だって自分が走るために、歪なファンタジーを親に押し付けている。
 昇降口前に張り出されたクラス分けの掲示、一年D組の欄には、直海慧と石蕗純の名前があった。
「偶然だな」
「ああ、偶然だ」
 クラスでの自己紹介は、無難だった。言ったのは出身地、趣味にジョギング、猫が好き。失敗したのは、あまり社交的ではありませんが、視界の隅にでも置いてやってください、と自虐的になってしまったことくらいだ。
 石蕗くんはかなりのお調子者だった。クラスで自己紹介のとき「彼女募集中で~す」と言ったのだ。男しかいない教室で。笑って済んだけど、ゲイがいたらどうするつもりだったんだろう。

 男子寮は造りかけのビルだった。実際、五階建ての屋上は、壁と柱の骨組みとなる鉄筋が突き出ている。六階まで造るはずだった物が、中止になり、そのまま使われているのだという。住宅街の外れに位置するこの寮は一番人気がなくて、一番寮費が安い。
 でも、裏手には山が広がり、ハイキングコースがある。これが決め手で、ぼくはこの寮を選んだ。さっそく明日にでも走ってみたい。
「お」
「お」
 寮の玄関ホールには、石蕗くんがいた。
 ホールには荷物の段ボール箱が積まれており、石蕗くんはギターケースを担ぎながらぼくの姿を確認していた。
「直海もここなのか、クラスといい、なんか不条理のようなものを感じるな」
「なんでネガティブなんだよ」
「だっておまえ、男じゃん。女の子だったら運命を感じてるね」
 何で男子校受けてるんだよ。ここ共学もあるのに。
「部屋割ってどうなってんの?」
「いや、オレも今来たトコでさ」
 ぼくはエントランスラウンジを見回した。
 くたびれた茶色いソファーとウレタン塗装の黒い光沢を放つテーブル、その向かいには、チャンネルが摘まみになっているタイプのブラウン管テレビ。室内の暗さもあってか、前時代的な不良のたまり場を連想させる。リーゼントとかよく映えそうだ。
 そんな感嘆を覚えている所に、なんだかだらしのない、間延びした声が聞こえてきた。
「おー新しい、寮生か」
 角刈りの白髪頭のおじいさんだ。紺のツナギを着たこの人が、寮の管理人らしい。部屋のカギらしきものをいくつも持っている。
 ぼくらが自己紹介とあいさつをすると、名簿を取り出して、またやる気のない声で読み上げる。
「えー、あ、あったあった。直海慧と、石蕗純、同じ部屋だな。四階の四号室」
 なんだか嫌な数字だ。四○四と言えばいいのに。
 部屋は思いのほか、すごかった。床と壁、天井は灰色のコンクリートがむき出しで、夏は暑く冬は寒い、という感じの部屋だった。縦長の部屋は、入って右側に冷蔵庫と洗面台があり、その奥にパイプの二段ベッドがある。左側には机が二つと本棚が置かれている。刑務所の囚人部屋みたいだ。管理人のおじいさんは看守だ。今度白黒のシマシマパジャマを探しに行こう。
 看守のおじいさんは「下に敷くカーペットは後で取りに来い」と言って、再び下に戻って行った。
「はは、ちょっとこれは予想してなかったな」
 ぼくは気の抜けた声で笑う。石蕗くんは逆に気に入ったようで、ギターケースを下ろすと、冷たいコンクリートの壁を触りながら目を輝かせていた。
「いいじゃん、なんかイカしてるぜ、この部屋」
「石蕗くん、趣味悪いよ」
「ダメだな」
「ダメなのは君の趣味だろ」
「違う、その話し方。ルームメイトなんだから『くん』なんてつけんなよ。気持ち悪い」
 そうは言っても、これは癖だから直すのは難しい。ぼくは、初対面の人にはいつも『くん』や『さん』を付けてしまう奴なのだ。頭の中でも口にするにも、それはなかなか変えられない。
「あ、なるほど、じゃあ、純」とりあえず口先だけでも合わせておく。
「キモイから不可」
「石蕗?」
「おう」
「じゃあ、石蕗。おまえの趣味は悪い」
 これから暖かくなるっていうのに、こんな通気性の悪い部屋じゃ蒸し風呂もいいとこだ。それに冬のコンクリートの床は氷みたいになる。
「こういうアウトローなのがいいんじゃねえか。ロックだろ」
 法律は守っといた方がいいよ、と言おうとしたら言葉に詰まった。ルールは守らなければならない、と厳しい言葉が頭の中で繰り返し響く。

 夕方、ぼくは荷物整理を途中で切り上げ、寮を出た。
「またなのか……」ぼくは半ば呆れ口調になる。
「またみたいだな」
 寮の玄関を出た所に石蕗くんはいた。彼は苦笑する。どうやら目的地は同じみたいだった。
 寮の前を走る二車線道路を下り、河に沿って進む。都市はこの河を境に商店街と学園、住宅街にわかれており、寮と多目的ホールは学園と住宅街の側にある。
 途中、受験のときに時間をつぶした広場を通った。スピード・キングのマスターや大河内さんに会わないだろうか、と無用の心配がよぎり、自然、速足になる。
 道中、石蕗くんは言った。
「意外だな。直海も魔法生徒だったのか」
「違うよ」
 魔法なんて使えない。
「じゃあ、なんで会合のこと知ってんだよ」
「片足だけ突っ込んじゃってるの。それに、魔法使いのルールっていうのを、ちゃんと知っておかないといけないからさ。知りませんでした、じゃすまないことになったら大変だろ」
 今日の会合は、学園で生活を送る上で必要な裏の注意事項、というモノの説明会である。
 ぼくは自分の体質のことを話す。陸上のことは伏せて。
 石蕗くんはかなり驚いた様子で、「なんだよ、それ……そんな体質、初耳だ」と小さく言った。
「珍しい症状なんだって、病院の先生は言ってたよ。それにぼく、そんな危ない世界、入る気なんてないし」
「でも魔法生徒やらないって、陰陽師とかでもないんだろ? うわあ、もったいねえ」
 裏で戦いを生業とする人間からすれば、この体質は眉唾ものなのだそうだ。術の詠唱効率が云々、……わからないよ。
 でも、勿体なくない。
「痛いの嫌いなんだよ」と誤魔化す。
 痛いのは嫌いだけど、陸上が出来ないのは、もっと嫌だ。

 麻帆良は通常では考えられないような超人、超能力者、または超常現象を数多く抱えている。一般市民を完全に誤魔化すのは苦しい。
 電子制御の認識阻害の魔法がいくら優秀でも、やはり最後には人の手が必要になる、ということだ。またここには外部からの、害意ある侵入者なんかもあるらしく、そういうトラブル専門の人たちが学園には常駐している。魔法先生と魔法生徒である。
 石蕗くんは代々、陰陽師の家系なのだそうだ。親離れも目的の内らしいが、本当は魔法生徒としてこの学園に修行に出されたからだ、と彼は言った。「もしかしたらさ、クラスも部屋割も、上の人が決めたのかもしれねえな。ルームメイトが魔法に理解のある奴だと、隠す必要ないし」
 多目的ホール前は、まだ五時前だというのに、人払いの魔法がかかっているせいで、全く人気《ひとけ》がなかった。
「おまえ、本当に魔法使いじゃないんだな?」石蕗くんは疑うような視線をぼくに浴びせる。
「だから違うって。人払いの方は、術者に許可されてるからだろ。たぶん」聞きかじった程度の知識だから不安になる。
 入口で薄い冊子を受け取り、先へ進むように促される。
 五百人は入りそうなホールの観客席には、前の方に六十人ほどしか座っていなかった。年齢は様々で、小学生とその保護者、ぼくと同じような中高生、それから大学生までいた。石蕗くんによると、ほとんどが今年、外部からやって来た人で、魔法使いじゃない関係者も混ざっているらしい。
 適当な席について、冊子を開く。最初のページは学園長のあいさつと、魔法使いとしての在り方のようなことが書かれていた。次のページには今年と以前から在籍している魔法先生、魔法生徒の名前がびっしり。魔法使いの掟なるものはその次のページから始まっていた。そして巻末には、『この冊子は回収します。持ち帰らないでください』とあった。
「……」情報漏えいを防ぐには仕方ない。
 項目は三十個ほどある。これは覚えなければいけないモノらしい。ムリだと思う。
 ステージ上に白いスーツの魔法先生が上がると会場が騒がしくなった。「タカミチさんだ」「あれが高畑・T・タカミチ……」「ランクAAか、オーラが違うな」有名人らしい。
 眼鏡をかけ、無精ひげが良く似合う精悍な顔立ちだ。女の人からモテそうだ。ああいうのをオジサマというんだろうな、とぼくは勝手に思う。
 高畑先生がマイクなしで言う。
「全員集まったようなので、始めたいと思います。ええと、既にみなさんの中では常識であると思いますが、すぐ済みますので、復習するつもりで軽く聞いてください」後で石蕗くんに聞いとこう。

 一時間ほどの説明は終わり、十分ほど休憩が入る。この後は裏の仕事の顔合わせがあるのだという。情報の機密レベル上、魔法使いでない関係者は退室しなくてはならない。当然、ぼくは席を立つ。のだけど、
「あ、ちょっと君」呼び止められた。
「高等部一年の直海くんだね。君も一応、残りなさい」
 高畑先生が、ステージから下りてきてた。ホール中の視線のほとんどがぼくに集まる。
「え……」なんで、と身が竦みながらも口が動いた。「ぼく、魔法生徒じゃないんですけど」 
「君のことは、土谷教授の報告で聞いてるよ。慢性的に気を練り上げてしまう体質なんだってね」
 ホール内がざわついた。ぼくの胸は粗い目の紙やすりみたいにざらつく。
 事を大きくしたくないのか、高畑先生はぼくをホールの隅へ連れて行く。でも無駄だ。みんなの視線は既にこっちに向いている。
「聞いてないのかい?」ささやくような声で言った。嫌いなタバコのにおいがして、ぼくはうっと息を止める。
「土谷先生には、この会合に参加するよう言われただけです。だから関係者の話だけ聞こうと思って」
 高畑先生は「ふむ」と腕を組んで少し考える素振りを見せる。
「それより、報告ってどんなふうに伝わっているんですか」
「ああ、さっき言った通り、慢性的に〝気〟が体内を巡っているってね。治療は……って変だな」高畑先生は言葉を切る。「〝気〟っていうのは体に害がある訳じゃないから、治療っていうのはおかしいか」
「君は〝気〟を無くしてしまいたいそうだけど、教授の見解だと、それは難しいそうだ」
 何度聞いても苛立たせる言葉だ。ぼくは気が立ってしまい、つい語気を強めてしまう。
「それは聞いてます」
「学園長は君が悩んでいると教授から聞いて、それならこの会合に、とね。聞くと陸上で全国二位だったそうじゃないか。それに運動テストの結果もずば抜けている。他の魔法先生も褒め千切ってたよ――」

「訓練次第では将来、一流の使い手になれる素質だってね」

 ぼくは吐き出す言葉を失った。口の中がカラカラと渇き、喘ぐような声しか出て来ない。
 代わりに胸の中には、高畑先生の言葉を必死に引き裂いている自分がいた。
 ――この足は走るためのものだ。この腕は走るのを助けるためのものだ。
 この手で、殴れというのか。この足で蹴り飛ばせというのか。今朝の女の子のみたいに。
 道ってこういうことだったのかよ、土谷先生。酷いじゃないか。たぶんあなたは、先達として若者に選択肢を与えたつもりなんだけど。でも、余計な御世話だ。無神経だ。無神経だよ、土谷先生。ぼくがどれだけ走るの好きか、陸上が好きか、あなたは知らないだろうけど、それでもあんまりだよ。ぼくはヒーローに憧れる男の子じゃないんだ。
「いやだなぁ先生、あんまりおだてないでくださいよ」やっと吐き出した言葉。よかった、外側はキレてない。内側のは今にも爆発したくてうずいているけど。
 出かかったナニかを呑みこんで、はっきりと言う。
「申し訳ありませんけど、ぼくはそっちの進路には行きませんよ」
 ホールが騒がしくなる。ナマイキとかシツレイナヤツとかウヌボレとか、そんな雑音が背中に届く。頭がぼんやりする。何も考えるな。何か考えたら、キレる。内側から喰い破られてしまう。
 大丈夫だ。ぼくは赤の他人の前じゃ「怒れない」自信がある。走りを否定されると、胸に何かが突き刺さるけど、それ以上はない。足を傷つけられるようなことならない限りは、キレない。
 内側から喰い破られるのは、独りになってからだ。

 結局、見学することになった。
 煌々と照明がついた女子高グラウンドには、以前から在籍している魔法生徒、十数名が待っていた。体格に不釣り合いな長刀を持った女の子や、銀髪で左右の眼の色が違う男子、シスターなど、ざっと見ただけでも普通じゃない人がそろっている。さすがに魔法使いともなると、個性的な人たちが多い。石蕗くんのチャラい格好なんて霞んでしまう。
 朝礼台にすごい頭をしたおじいさん――学園長が立った。後頭部が異様に長い。古代エジプトでは、幼い子供の後頭部を布できつく固めて、長く変形させていたって聞くけど、学園長もそうなのだろうか。
 学園長のあいさつの後、「顔合わせ」が始まった。
「顔合わせ」は「手合わせ」だった。見習いは見学、そうでない者は一対一で模擬戦をする。
 でもその模擬戦は、魔法が、こぶしが地面を抉り、銃弾を刀が弾く、「外の常識」から逸脱した、一歩間違えば死んでしまうような代物だった。二、三メートル吹き飛ばされるなんて序の口で、人間が地面にめり込んだり、的を外した剣線が地面に溝を作ったりと、体格と体重に合わない動きを見せる。
 無理だな、と思った。
 恐怖も驚きもない。心臓もいつも通り、ゆっくりと動いている。音量を最大にしたテレビ画面の向こうみたいに現実味がない。彼らが殴り、斬り、撃ち合っている姿は、遠かった。
 無理だな。絶対に。
 最近の暴力といったら、中山の手首を強く握り過ぎたことなのに、あんな風に戦車の大砲を打ち合うみたいなことなんて。
「どうだい」
 高畑先生がベンチに座っていたぼくの肩を叩く。さっきまで片っ端から新入りの魔法生徒たちを地面に沈めていた、高畑先生だ。ぼくはこぶしを握りしめた。麻痺していた現実感が息を吹き返し、お腹が震える。今、ほんの一メートル先に、とてつもない暴力が立っている。
「どうって……よくわかりましたよ。無理だってことが」
「おかしいな、運動テストの結果だと、あのくらいの動きならはっきり見えるはずなんだけど」
「そういうことじゃなくて。そもそも暴力自体がダメなんです。痛いのは特に」
 高畑先生は面食らった。ああ、そういうことか、という苦笑いが頬を流れる。
「すまないね。土谷教授がどうしても、って勧めるものだからさ。勘違いしてたみたいだ」
 高畑先生は隣に腰掛け、ポケットからタバコの箱を取りだした。手慣れた様子で箱を振ると、一本だけ飛び出す。指でつまんで口にくわえる。「手合わせ」の爆風から、ライターの火を守りながら、タバコの先端にかざした。内臓を壊す一連の仕草はいちいち様になっている。
 先生は少し吸って、タバコを口から離す。紫煙をため息みたいに吐き出した。ぼくは風上にいるので、煙は流れて来ない。
「もう少し血の気が多いのを想像してたよ。報告じゃ、なんかこう、飢えているって感じだったから」
「監視の報告って、他にはどれくらいの人が見てるんですか」
「ここにいる魔法先生は……全員かな。あとは生徒にも少し」
 見まわして確認する。黒い背広でサングラスをかけた、イタリアンマフィアみたいな先生。長刀を携えた若い女の先生。浅黒い肌で髪を短く刈り込んでいる白いスーツの先生。少し横が太い……。
 ぼくが視線を泳がせていると、高畑先生が言った。
「気を悪くしないでくれよ。仕方ないんだ」
「別に、そういうのじゃありませんよ」
 断続的な爆音がやむ。グラウンドに立ち込めた砂煙が徐々に晴れて、魔法生徒たちが肩で息をしている姿が見える。石蕗くんは地面に身体を投げ出していた。
「ついていけない、って思ってただけです」
 席を立った。ここはぼくの居られる場所じゃない。
「この場にいたら、なし崩しになりそうなんで、寮に戻ります」

 生意気な言い草だったからなんだろう。
「ちょっと待ちなさい!」
 後ろからよく通る声がナイフみたいに突き刺さる。ドキッとして振りかえると女の子がいた。聖ウルスラ女子の制服で、長い金髪と青い目をした、日本人離れした容姿の女の子だった。説明会の時からいた。顔合わせ前の自己紹介では、高音……よく覚えてない。なんか英語圏の名前らしきものが続いていて、聞き取れなかった。とにかく、その高音さんが言った。
「さっきからずっと聞いていましたが、なんですかその態度は」
「なんですかって……その、ごめんなさい」
 怒られたらとりあえず謝る。反発しても疲れるだけだし、大抵、ぼくにも非があるし、陸上以外のことで悩みたくない。謝って、さっさと片付ける。悪い癖なんだろうけど、たぶんもう治らない。
 高音さんは予期していなかった謝罪にたじろぐ。でもすぐ盛り返した。
「なんで自分が注意されたか、理解しているの?」
「生意気だったからじゃないの?」
「そうじゃありません。やりもしないで、魔法使いが無理だなんて言うからです。先生方はあなたの才能を評価して下さっているのに!」
 厳しい教育ママが気弱な子供に注意しているみたいだった。お母さんは子供のことをあまり理解していなくて、お母さんがやらせたいことと、子供がやりたいことが一致しない、みたいな。
「痛いのが駄目だなんて、それでも男ですか」
「ごめんなさい。無理なものは無理なんです。殴り合いのケンカだってほとんどしたことないし」
 一番激しくケンカしたのは小学六年生の時だ。理由は覚えていないけど、松本さん(♀)に一方的に殴られたのをよく覚えている。女の子だったけど、殴ろうとした。したんだけど、怖くて殴れなかったのをよく覚えている。先生や親に叱られるからとかそういう理由じゃない。純粋に、人の顔に拳をめり込ませる行為が怖かったんだ。
 高音さんはぼくの腰の低さに呆れてしまったのか、言葉に詰まった。
「だいたい、〝気〟なんて変な力が発動しちゃったから、麻帆良に来たわけで、本当は近くの公立に行くつもりだったんだよ」
 今度は高音さんだけじゃなかった。場が騒然とする。大学生や先生は表に出さないが、中高生、特に小学生の反応が目立った。腰抜け、弱虫、ヘタレ、そういった呟きが混ざって雑音になる。
 どうでもいい。もともとそういうプライドは持っていない。銀髪の奴が「戦う覚悟もない者がなぜここにいる」とか言ってた。覚悟って何だ覚悟って。走りたいっていう欲望ならあるぞ。
「失礼ですけど、私、直海さんの報告を見させてもらいました。その年で、あれだけ自分の体を鍛え抜ける人ってそういないんですよ? それに不良の暴力に対しても、決して暴力で応えませんでしたね。力におごらないというのは――」
「あれは殴らなかったんじゃなくて、殴れなかったんだよ。それに、走るのは好きでやってるの」
「……」
「高音さん、だよね。ぼくはやらないんじゃなくて、やりたくないんだ。できないし。魔法使いとか陰陽師とか、今みたいなドンパチは特に」
「……」
「魔法使いって危ないことばっかりするんだろ。やだよそんなの」
 高音さんは怒り心頭って感じに肩を震わせていた。魔法使いをバカにしてる訳じゃないから、たぶん、こんな情けない奴が先生たちに高評価なのがイライラするんだろう。
「ろくに知りもしないで勝手なこと――」
「知ってるよ」ぼくはその口を塞ぐタイミングで言う。
「立派な魔法使いとか、偉大な魔法使いってヤツだよね。話だけは聞いてるよ。平和のために働いてるって。NGOとかNPOなんかで人を助けたりしてるんだろ。銃弾が飛び交ってる紛争地帯で人助けとか、本気ですごいと思う。けど、ぼくには無理だ。魔法があってもなくても、ぼくにはできない」
 高音さんの感情が冷めたのか、肩の震えが止まる。代わりに侮蔑というか失望の色がその視線に乗っていた。
「麻帆良にはさ、走りに来ただけなんだよ」

 ベッドに倒れこんだ。
「……疲れた」
 走っていないのに、この疲労感。なんだろうか。
 石蕗くんとは帰りも食事も入浴も別々で、まだ何も話していない。陰陽師の跡取りだっていうし、彼もさっきの高音さんみたいな態度になるんだろうか。
 部屋のドアが開いた。石蕗くんがいた。二段ベッドの上で寝ころんでいるせいか、ぼくの姿は彼の視界に入っていない。
「お疲れ」
 とりあえず声をかける。顔を上げてぼくがいるのを確認する。「……お疲れ」ぎこちない返事だった。
 ふぅ、と疲れを吐き出すような深呼吸を繰り返しながら、彼はベッドにもぐりこんだ。
 しばらくして、下でもぞもぞと布がすれる音が聞こえる。ガチャ、ゴソ、べベン、と音が続く。ギターか、とわかるとぼくは目を閉じた。
 ピッチパイプを使ってのチューニングが始まる。弦をはじく音と時々のパイプ音が、曲のようにリズムが刻んでいる。慣れているようだ。
 一分ほどで音が途切れる。石蕗くんが一息ついたのがわかった。
 演奏が始まる。知らない曲だった。おチャラけていた第一印象からは程遠い、なめらかで丁寧な、鮮やかでどこか優しい音が紡がれる。
 ぼくは目を開けて、上から石蕗くんの様子を覗いた。彼はベッドの端に腰かけて、ギターを抱えていた。お世辞にもきれいとは言えない指が、指板の上を踊るように滑る。
 曲が終わる。
「すごいな」ぼくが言うと、石蕗くんはおもてを上げた。「きれいな音だったけど、そのギターっていい奴なのか?」
 ぼくが冗談を言うと、石蕗くんは照れくさそうに笑う。
「ちっげーよ、オレの腕がいいの」
「音楽のことはさっぱりだけど、上手いもんだな」
「知らねーのにわかんのかよ」
「駅前とか、その辺の路上で弾いているのよりかは、いいと思う」
 あったりまえじゃん。と石蕗くんは顔を伏せて、また弾き始めた。今度はちょっとリズムの早い陽気な曲。音がコンクリートの壁に反射してこだまする。
 気がつくと、開け放たれたドアには人が集まっていた。もう十一時をまわって消灯時間なのに、管理人のおじいさんまでいる。
 石蕗くんは調子に乗った。クラシック音楽を速弾きしてみたり、有名なJPOPをジャズみたいにアレンジしたり。しまいにはちょっと息切れするくらい手を動かしていた。
 演奏が終わる。
 拍手がコンクリートの壁一杯に響いた。

「昔、近所の大学生がバンドやっててさ、そこに出入りしてたんだ」
 消灯になって蒲団を被っていると、石蕗くんが唐突に言った。ぼくはベッドから身を乗り出し、上半身を紐みたいに下のベッドに垂らす。
「遊び半分で教えてもらってたらよ、いつも間にか楽しくなっちまって、気付いたら死ぬほど弾いてた」
 石蕗はぼくに両手を見せて「指、さわってみ」、と言った。左手の指先は柔らかいのに対し、利き手である右の五本指の皮は硬く、走りこんだ足の裏みたいだった。
「やり始めはさ、指の皮がボロボロになんの。今でも時々、爪われるしな」
「あ、わかるわかる。ぼくも走ってると、未だに土ふまずのとこがずれてさ、水膨れになるんだよ」
「ああ、見せなくていいぞ。男の足の裏に何か興味ないからな。女の子だったら舐めるけど」
「陸上部のおなごの足は極上じゃぞ」
「じゅるり」
 ぼくは吹き出した。「初日で俺にひかないとはなかなかやるな」と石蕗は親指を立てた。そして彼はベッドの天井を見上げた。何か見えない物を見つめているようだった。
「おまえって結構凄い奴なんだな」
「急になんだよ」
「だってあんなに見てる中でだぜ? 「麻帆良には走りに来た」だぜ? すげえよ。痛いの嫌いは笑っちゃうけどな」
「別にいいだろ」
 改めて聞くと顔から火が出そうなセリフだった。ぼくは体を上のベッドに戻す。
「悪いなんて思っちゃいねえよ」
 ただ、と石蕗は言い淀んだ。
「ただ、なんだよ?」
「いや……やっぱ……」
 石蕗はう~んと唸り始めた。
「直海はさ、陸上がやりたいのか?」
「ああ、うん」
「〝気〟を勝手に練り上げちまうってのは?」
「大会に出ちゃダメだってさ。仕方ないんだけどね。ズルだし」
「そっか……」
 わずかな沈黙の後、石蕗は言う。
「オレもさ、本当は陰陽道なんかじゃなくて、音楽がやりたかったんだ」でも、と一旦息を呑んで忌々しげに言う。
「うちのじいちゃん、厳しくてさ、ピアノ弾いたら軟弱、ギター弾いたら不良だぜ? 高校まででいいから、本気で音楽やらせてくれって言ってもきかねえんだよ。やってらんねえよ」
「ピアノ、弾けるんだ」
「ヴァイオリンとかもいけるぜ」
「マジかよ」
 マジマジ、今度学校でやってやるよ、と石蕗の声が弾む。
 石蕗は彼の祖父がいかにウザいのか、語り始めた。出入りしているスタジオに、使いの者が乗り込んできて連れ戻された。鍛練の休憩中に鼻歌を歌っていたら殴られた。大学生にお古で貰ったギターを壊された。今朝のウザいっていうのも、そういうのが積もり積もった「ウザい」だった。
「他に好きなことができればいいんだけどさ」石蕗は言葉を切る。遠くを見るみたいに言った。「無理だよなあ」
「うん、無理だ」ぼくも笑い返す。いつの間にか、頭の中の『石蕗くん』が『石蕗』になっていた。
 ぼくは自分の体質で陸上への道を阻まれ、石蕗は実家の都合に音楽への道を阻まれている。
 実家を捨ててしまえばいいじゃないか。でも石蕗は駄目だと言う。自分が家を捨てたら、母が実家で孤立するのだと言う。
「うちの母ちゃん、嫁に入った口だからさ。父ちゃんも死んじまってるし。オレまでいなくなったらマズいだろ」
 彼の父は、つい四年ほど前、鬼との戦いの中で命を落としたらしい。
「さっきさ、オレがおまえの体質もったいねえって言っただろ」
「うん」
「アレがあればさ、オレ、死ににくくなるなあって思ったんだ」
「重いな」
「そういうもんなんだよ、魔法使いっていうのはさ」石蕗の声は軽い。
「うん、やっぱ魔法使いとか無理。死ぬのって怖いな」
 父や母の死を想像したら寒くなった。
「ま、どの道、じじいの方がオレより先に死ぬからな。音楽はその後にやればいいんだ」
「ひでえ」
 そういうもんだ、と石蕗は寝返りを打った。もう寝るんだろう。ぼくも体を起してベッドに戻る。
 ふと石蕗の思い出したような声が背中に響いた。
「そうだ、携帯のアドレス教えろよ」 



[29988] 怖くないのに怖い
Name: ヌスーピー◆062fc78f ID:01587b55
Date: 2011/10/18 00:11

 朝五時、下で寝ている石蕗を起こさないように、ぼくはウィンドブレーカーに着替えた。前もって買い置きしておいたM○Xコーヒーをコップに開け、キツイ甘さに顔をしかめつつ一気にあおる。缶は洗ってゴミ箱に入れた。
 一階の裏口から出てる。外で準備体操をする頃には血糖値が上がり始めて、頭がクリアになった。高糖高カロリー万歳。
 軽く伸びをしてから、足を前後に開いてアキレス腱を伸ばす。肩と首を回す。屈伸をする。足を大きく開いて股の筋を伸ばす。思いつく限りの準備体操をでたらめな順番でやって、五時十五分、朝のジョギングを始めた。
 五月の朝、河沿いに植えられている桜は花を散らし、緑の葉を付け始めている。河原には菜の花の黄色が敷き詰められ、何となく食欲がわいてきた。ゆでて胡麻和えにするとうまいんだよな、あれ。
 東の空が白み始めて、橙の柔らかい光が、紺色のウィンドブレーカー越しに体を包み込む。でも既に温まっている体にとって、太陽の抱擁はお節介だった。ぼくは走るのを中断して、ブレーカーの裾をまくった。涼しげで静かな風が、火照った腕の熱を取り去る。冷えた感触が頭に伝わって、集中力が増したような錯覚を得る。自ずと、走りのリズムが速くなった。
 世界樹広場に通じる坂道は芽吹いた草花の香りで満ちていた。走り抜けると、全身を突き抜ける快感が包み込み、同時に堪《こた》えられない虚しさが胸に溜まる。いわば自慰行為の後の賢者タイムのような、する相手がいなくて寂しい、というようなものだ。ぼくは童貞だから、そのへん実際どうだか知らないけど、そんな感じだと思う。
 世界樹広場は高台にあり、麻帆良の全景が見渡せる。北側はすぐ下に森が広がり、その先に女子部の校舎、それからさらに下るとグラウンドがある。東側の湖に浮く図書館島には近いうちに行ってみたい。
 ギリ、と奥歯が噛みしめられる。
 全天候型の赤いトラックがあるグラウンドを見て、羨望が湧く。
 ぼくはあれからまだ一度も、トラックで走っていない。地元の陸上競技場にも、麻帆良の陸上グラウンドにも行っていない。スパイクのピンがタータンに食い込んで、地面を捉えるという感覚を久しく経験していない。
 行かないんじゃない。行けないんだ。想像したら怖くて、グラウンドの前を通ることすらできない。もしあのグラウンドで、気や魔法でズルをしている連中が、カール・ルイスを鼻で笑うような速さで走っているとしたら? 考えると怖くて、そしてキレてしまいそうになる。陸上のトラックはドーピングをしているような奴らが走っていい場所じゃない。
 競技場は神聖な場所。気と魔法で身体強化なんて邪法は許されない。自分の体だけで戦えって思う。
 自分の肉体のみ、というのなら〝気〟や〝魔法〟を使ってもいいじゃないか。肉体から発生しているものなのだから、反則じゃないだろう。と、思うかもしれないけどそれは違う。そんな超能力に頼らずに打ちたてた記録だからこそ、価値があるのであり、だからこそトップアスリートは尊敬されるんだ。

 早朝で人がいないからと油断していた。
 噴水広場を通ったときだ。見覚えのあるヒゲのおじさんが、広場の入口で大きく伸びをしているのが目に入った。ぼくはその姿を確認すると、とっさに踵を返して遠回りしようとする。
 あ、と聞き覚えのある声。
 しまった、とぼくは目を強く瞑って――諦めて目を開き、振り返る。あたかも今気付いたかのように、「あ」を言った。
 喫茶スピード・キングのマスターだった。会いたくなかった人ナンバー2だ。
「おお、直海くんじゃないか」マスターは大げさに両手を広げる。
「お久しぶりです。それから、おはようございます」ぼくは上手くなってきた作り笑いを浮かべて応えた。
 スピード・キングは早朝、朝六時半から開店する。開店してすぐは、通勤のサラリーマンは朝一杯の安らぎを求め、部活で朝錬の学生はホットドッグのカロリーを求める。そして七時半を回ると、朝の散歩ついでのおじいちゃんおばあちゃんが、九時前になると、幼稚園に子供を送り届けた奥様方が、それぞれの息抜きを求めてやってくる。
 六時前の今は、開店準備が忙しいはずなんだけど、今日に限っては。
「たまたま早起きしてね。あとはパンを焼いてソーセージを挟むだけなんだ」
 あんたのソーセージを熱いパンに挟んでやろうか。
 どうでもいいけど、マスターの名前は菅野良治《すがのりょうじ》だ。魔法使い関係者の名簿には載っていない。大河内アキラの名前も。
「ちゃんと合格してたのか気がかりだったんだ」
「や、試験の出来は良かったって言ったじゃないですか」
「でも、あれから一度も来てくれてないじゃない。おじさん、ホットドッグが美味しくなかったのかって、ちょっと落ち込んじゃったぞ」
「それはないですよ。家で試しても全然あの味にならないんで、もう一度行こうと思ってたところです」
 嬉しいこと言ってくれるね、とマスターはぼくの肩を叩いた。ごめんなさい、ウソなんだ。ホットドッグは作ったけど、ここに来るつもりはなかったんだ。
「ああ、そうそう。あれからね、アキラちゃんが何度か来て話したんだけどな」
 会いたくない人ナンバー1の名前が出てドキッとした。加えて、マスターはぼくが言われたくないナンバー3ぐらいのことを続けて言った。
「陸上部の友達経由で聞いたそうなんだけど、直海くん、陸上やめちゃったんだって?」
 誰だよ、それ。なんで知ってるんだ。
「……ええまあ、一身上の都合で」
「アキラちゃん、気にしてたよ。酷いこと言っちゃったって。怪我でもしたのかい」
「いえ……怪我ではないです。ちょっとした病気で、本気で走るのをしばらく制限されてるんです」
 しばらく。しばらくだ。〝気〟をどうにかするまでの辛抱だ。本気で走るのは、確かに制限されている。一般道における自動車の法定速度を明らかに超えているから。
「うわあ、そりゃ大変だ。つらいな、今が一番伸びる時期なのに」
「いや、ジョギングぐらいはできるので、ストレスとかはないです」またウソ。マスターについているのではなく自分にウソをついている。そしてなにか大切なものがウソに削られていく。削られて削られてその後に残るのは、たぶんつらいファンタジー。正直に主張しないと引きずりこまれてしまう。
 マスターは店の方を指差して言う。
「どうだい、久しぶりにうちのホットドッグ」
「いや、いいです。今お金持ってないし」
「いいよいいよ、今日のは入学祝ってことで」
「でも寮の朝ごはんもあるし」それにそろそろ、「時間もこんなですし」と腕時計の画面をマスターに見せる。六時十五分。それを見たマスターは、ああもうこんな時間か、と言って、
「いつでも来てくれよ」
 諦めてくれた。

 六時二十五分、寮前の広場に着くと、所長がいた。所長というのは管理人のおじいさんのあだ名で、何代か前の先輩が考えたらしい。その所長はいつものように紺色のツナギで、古い大型のラジカセを横に置き、一人ラジオ体操をしていた。
「おう、よく続くな」そちらこそ四月からずっとですね、とぼくが返すと、「こちとらもう、十五年は続いてらあ」ぎこちない横曲げの運動を繰り返しながら応えた。昼間のやる気のない雰囲気とは違って、朝は生き生きしている。
「十五年、そんなにですか」
「毎日動かしてねえとな、すぐ固くなっちまうからいかん」所長は硬い動きで屈伸運動をする。
「ですよね、ぼくも走らない日があると、どうも調子悪くって」
 自分が生きた年月よりも長いっていうのは、想像しにくい。ぼくは陸上というものを始めて、まだ五年もたたない。十五年まで、あと十年。走り続けたらぼくは二十五歳になる。肉体的には全盛期に当たる時期だ。でもその時までに〝気〟を体内から消すことができなければ、いや、陸上競技に戻るならもっと早い時期でなければならない。このまま〝気〟消えないまま、ぼくの体は成長し、やがて衰えていくのだろうか。所長みたいに、ぎこちない動きでしかラジオ体操ができなくなるのだろうか。そう思うと、みぞおちの辺りが軋み、背中の産毛が逆立った。
 朝食のごはんを焼き鮭をおかずにかっこんで、みそ汁で流し込む。
「よく食えるな」石蕗が言った。彼は眠い箸の先でごはんを少量摘まんで、口に運ぶ。
「よく動くからね」
 朝にしてはしっかり動いたせいなのか、それとも所長との話がストレスになってのやけ食いなのか。いや、どっちも。両方重なってこの食欲。おひたしに箸を伸ばす。菜の花ではなく、ほうれん草だったけどおいしかった。
 カロリーの消費が増えている。〝気〟を生み出していることにより、走行速度、距離が急激に増加したことが直接の原因だ。といっても、気という力は良く出来ていて、おひつ一杯のごはんを食べなければならないとかいうことはない。せいぜいが一食あたり、ごはんを余計にもう一、二杯食べないともたない、というくらいだった。
「おまえこそ、そんな少しで大丈夫なのかよ」
「昼に食べる。オレ、夜型だし」
 石蕗は魔法生徒として、昼間はもちろんのこと、既に一度、夜中に駆り出されている。どんな事件があったかは、守秘義務だとかで聞いていない。怪我はしていない。していないけど、大変なのはよくわかる。かなり疲れて帰って来たのをよく覚えている。
「直海、今日の一時間目、ノート見してくれ」
「寝るの前提かよ」
「寝ないともたない」
 石蕗は先日の言葉通り、死ぬほどギターを弾いている。放課後になると軽音部の部室か寮の屋上で、放っておくと食事も忘れるほど弾いている。加えて夜には陰陽師としての鍛練まである。ここ一ヶ月見ていて、朝はいつも重そうで、活動を始めるのはだいたい二時間目が終わったあたり、というのがパターンになっていた。
 ぼくも倒れて動けなるまで走ることがあるけど、その後に戦闘訓練みたいなことはない。やっても授業の復習か筋トレぐらいのものだ。
 食べ終わって配膳をしていると、所長が金属製のラックに、読み終えた新聞を差し込んでいった。麻帆良新聞、地域紙だ。
 一面の見出しに『隕石衝突』とあった。場所は麻帆良カントリークラブ、ゴルフ場だ。男子寮裏のハイキングコースから通じる抜け道があって、つい三日ほど前に走った。写真の見覚えがあるはずの草原には、大きなの円形の黒いくぼみで塗りたくられ、青々としていた大地は見る影もない。
 石蕗が背後から記事を覗いた。柔い湿った音。彼が唇を締め直した音だ。
「知ってんの?」
 ぼくが言うと、石蕗は何でもないように「まあな」と、それから眠気を払った声で言う。
「おまえも夜出歩くときは気をつけろよ」
「なるほど」
 真実は隕石の衝突ではないらしい。
「こういう記事ってしょっちゅうあるらしいぜ」
 石蕗の聞いた話によると、困ったときは大抵、地震、地盤沈下か地盤隆起、そしてときどき隕石なのだという。夏場になればほとんど台風のせいになる。
「外の人が読んだらどうするのさ」
「証拠がなければいいんだよ。それに警察とかマスコミとか、国の上の連中がもみ消してるらしいぜ。それにさ、隕石の衝突なんていうのは『地球滅亡』とか『人類存亡の危機』くらいにならなくちゃ話題にならねえだろ。外部でも気付くのは天文マニアぐらいのもんだ」
 そしてそういうマニアの集いにはたいてい、魔法使い関係者が紛れこんでいる。陸連に魔法使いが紛れ込んでいるように。
「それより困るのはさ、協会に入ってないヤクザとかなんだよな」
『魔法使いヤクザ』、一見可愛らしいフレーズだけど、これはよく考えるととんでもなく恐ろしい。ドスと拳銃の代わりに、魔法というミサイルである。そんなものを自分の利益しか考えない犯罪者が持っているのだから、ぼくの社会不安は一気に大きくなる。
「連中、組同士の抗争とかで、ときどき都心でも魔法ぶっ放すからさ、処理が大変なのよ」
 暴追法が施行された後、暴力団から脱却して退魔組織になった所もあるけど、そういうのは本当に稀だ。ほとんどが犯罪組織として未だ活動を続けている。
 魔法の用途は実に幅広い。何も知らない一般人を標的にすれば、犯行は実に簡単だ。魔法で人の心を操って金品を騙し取る。魔法の奇跡を使って新興宗教を興し、金品を騙し取る。
 騙し取るのは何も金品だけではない。人生そのものを奪い取るなんてこともある。変身魔法による成りすましや臓器、人身売買。洗脳魔法による奴隷のような売春。他にも転送魔法による麻薬の運搬など、暴力団の組織犯罪は挙げるときりがない。
 警察もやっきになって取り締まっているのだが、『魔法の秘匿』というものがネックになってなかなか思うように成果が上がらない。人手不足で、協会の助力がないと、隠蔽工作と取り締まりが両立しないらしい。
「うわ……、壮絶なんだな、警察って」
「だろ。うちの分家で警察入った兄ちゃんがいるんだけどさ、休みが欲しい休みが欲しいって、会うたんびに嘆いてるよ」
「きっついな」
 警察って大変だ。魔法使い手当っていうのがあるらしいけど、今の話だと割に合わない。
「直海も気を付けとけよ。マギステル・マギも嫌だろうけどさ、暴力団の勧誘にも乗っちゃだめだかんな」
「金積まれても行かねえよ」
 警察にもね。

 どうやらぼくは、速水が言うところの「心の弱い人間」らしい。
 放課後になって走りたい気分にもならず、足が向いた先は礼拝堂だった。
 ぼくはおこがましいことに、信じてもいない神に縋ろうとしている。会いたくない人、ナンバー1と2をどうするか、それに対する答えを神の教えに求めている。
 解決方法は明らかだ。会えばいい。会いたくないだけで、会って話せばたぶん問題は片付く。速水で実証済みだ。でもやっぱり会いたくない。一度や二度しか会ってない人なんだから、ぼくのことなんて覚えてるはずなんて……いや、マスターは大河内さんが気にしてるって言ってたし……。
 解決方法は答えじゃない。それに至る覚悟こそが答えであって……こんな風に理屈をこねくり回している時点で、ぼくは心の弱い人間だ。いちいち覚悟を決めないと、ヒゲのおっさんと年下の女の子にも会えないような、弱い人間だ。
 そう開き直って、礼拝堂の扉を開けた。
 入って正面に石柱が立ち並び、その奥には簡素な木製の長椅子がいくつも置かれていた。
 薄暗い。両脇にはそれぞれ、複雑な模様のステンドグラスがある。そこから光が差し込んで、照らしているんだけど、広い室内に対して光の量が足りない。礼拝堂の中は森の中に入ったときの静けさと暗さに近いものを感じる。見回しても日光による照明以外は見あたらない。夜にろうそくかランプでも点けば、とてもロマンチックな雰囲気が出ていいと思う。
「あれえ……男?」
 入口の横から顔を出したのは女の子だった。黒いベールが窮屈そうなシスターの格好をしている。女の子はぼくの姿をしばらく見つめて、
「直海先輩じゃないっすか。何やってんの。ここって女子用の礼拝堂っすよ」
「げ、本当……?」
 名前を言われたことより、「女子用」の方に気をとられた。

 その女の子、春日美空が先日の顔合わせのときにいた見習いシスターだとは、言われるまで気付かなかった。
 彼女がぼくがバツの悪そうな顔をしていると、「別に心配しなくてもいいよ。ここに男子が来たからって罰がある訳でもないし、私も先輩に用があったしね」良く言えば人懐こい、悪く言えば馴れ馴れしい態度で話し始める。「や、この間のアレはシビれたね。「麻帆良には走りに来ただけなんだ」」と丁寧にモノマネまでした。
 春日さんは親の意向で魔法使いの修行をさせられているらしく、
「いやあ、魔法使いがめんどくさい私としては、先輩の言葉がぐっと来てね」
 冗談みたいにそんなことを言う。
 春日さんは、長椅子にぼくと並んで腰かけると身を乗り出して、
「今日はどんな御用向きで? 懺悔とか?」
「近いかな」
「おお、この見習いシスター、春日美空に話してごらんなさい」
 自信に満ちた様子で胸を叩いた。
「神父さまいねえのかよ。しかも見習いって」
「神父さまはちょっと出張中なんだよね。夜になんないと戻ってこないし」それから春日さんは一つ咳払いして「迷える子羊の告解を聞くことも、神のしもべたるこの身の仕事なのです。実を言うと、今ちょっと部活禁止をくらって暇なのです。罰掃除の休憩の口実が欲しいのです」
 小さなため息が漏れた。
「あれ、後半まずった?」
「……そうじゃなくてさ。なんだかね」気が引けるんだ。年下の、それも中学生の女の子に自分の答えを求めるって、なんかすごくカッコ悪い。「なんだかね、春日さんがふざけてるの見てたら、どうでもよくなっちゃったよ」作り笑いと軽いウソで心にふたをする。
「え、何それ」
「よく考えたら、そこまでつらい悩みでもなかったからさ。今のは忘れてよ」出直して、明日にでも男子付属の教会に行こう。
「あ、待って。その悩みって魔法関連じゃないよね」
「違うよ。そっちこそ、部活禁止って何やらかしたの」
 春日さんは頭を掻きながら照れくさそうに、あはは、と笑う。
「ちょっとイタズラが過ぎまして」
 なんでも、複数のイタズラが同時にバレてしまったらしい。
 讃美歌のCDをへヴィメタルに替えておいた。ミサで奉納されるブドウ酒をブドウ酢にすり変えて、それを拝礼のときに飲んだ神父さまが盛大にむせ返った。キリスト教系のサークルで新入生歓迎会のとき、あいさつの原稿にちょっとエッチな文を書き足して、それを高音さんが読み上げてしまった。
「功妙だな。特に最後の」「でしょ?」
 よく通る声で卑猥な言葉を朗々と口にする高音さん。そして気付いて茹でたカニみたいに顔を真っ赤にして……ちょっといいかもしれない。
 話が途切れた。
 静かな教会の荘厳な空気というのだろうか。もしくは女の子と二人きり、ということに気付いたせいなのか。腹の底に居心地の悪さが下りてきて、たまらずぼくは席を立った。
「けっこう長くお邪魔しちゃったね。掃除、がんばって」
「あ、ちょっとタンマ」
 春日さんは学ランの裾を掴んだ。
「先輩に用があるって言ったでしょ」

 春日さんの用事には思わぬ人が絡んでいた。
「大河内アキラって子、知ってる?」
 知ってるも何も、今会いたくない人ナンバー1だ。「ああ、うん」曖昧に二、三度小刻みに頷くと、春日さんはほっとしたようで、胸をなでおろす。
「よかったぁ、知らないって言われたら、最悪な結末になるとこだったよ」
「で、その大河内さんがなんなんだよ」
「クラスが一緒でね。ちょっとあったんだよ」
 僕が急かすと、春日さんは語り始めた。
「まあ話すと長くなるんだけど」
 二年に進級して間もない時期に、春日さんは大河内さんと話す機会があったらしい。それで部活の話題になったとき、大河内さんが言った。「直海って人、知ってる?」と。
「私、陸上部だからさ」と春日さんは言った。
 気分が悪くなる。嫉妬にも似た息苦しさがこみ上げてきた。彼女も強化された体でトラックを駆け抜けるのだろうか。試合の時だけドーピングをカットできるような、便利な体をしているのだろうか。問い詰めて、もしそうなら――。
 そんないけない感情を握りつぶして先を聞く。
「ついそんとき言っちゃったんスよね。直海先輩が陸上やめたって話。それで先輩に口裏合わせて欲しくてさ」
「それだけ? いいじゃない、別に。本当のことなんだから」
「いやいや、それだけじゃなくてね。ほら、私ってアレの関係者でしょ。直海先輩が陸上やめたっていう話、去年から知ってたんだよね。そのこともつい滑らせちゃったんだよ。「去年の九月あたりにやめたらしいよ」ってさ。そしたらアキラ、なんか頭抱えちゃってさ。相当気に病んでるみたいなのよ。「酷いこと言っちゃったかもしれない」ってさ」
 去年の時点でぼくが陸上をやめたことを知っているのは魔法使いを除くと、両親だけだ。ぼくと春日さんが知り合いでなかったら、大河内さんに伝わるはずがない。些細なほころびだ。でもバレたときの罰を考えると、見過ごしていいものでもない。
「わかったよ。ぼくと春日さんは去年から知り合いだった。これでいいんだろ」
 でも春日さんの要望は、そういう自己保身ではなかった。
「や、私がお願いしたいのはさ、アキラに謝るチャンスを与えて欲しいんだよね」
 ぎゅっ、と痛みともしれない窮屈さが胸の奥から喉にせり上がってくる。謝るチャンスってことは、大河内さんに会わなければならないってことだ。会いたくない。一度会ってしまえばこの苦しさから解放されるのに、会いたくない。気がつくと口から出ていたのは、やんわりと断るための言葉だった。
「別にいいんだよ。言われた時はちょっときつかったけど、もう気にしてないし」
「先輩は良くても、アキラは駄目なんだよ」
「でもさ、一度会っただけだよ? 親しい友達ならわかるけど、そういうのってすぐ忘れちゃうもんじゃないのか」
 ちょっとおかしいんじゃないのか。ぼくは自分の中学時代を重ねて思う。もっと酷くて残酷な言葉を笑いながら、たくさんたくさんかけられた。主に中山から。女子連中からは変人扱いだったし、大河内さんが気に病む、というのはどうも理解しがたい。でも春日さんの言葉通りなら、
「アキラはそういうので悩んじゃう子なんスよ」
 大河内さんは存外にいい子で、そして手強いようだ。

 結局三日後、ゴールデンウィークに入る前日に、スピード・キングで会う約束を取り付けられた。大河内さんには春日さんから伝えておくらしい。
 それから話は陸上の方に逸れていった。春日さんは陸上マニア、というわけではなく、海外の選手の名前を言ってもほとんどわからない。中距離に至っては一人も知らなかった。自分や部活内の記録には関心があっても、陸上競技全体に対しては、ない。まあ、競技の世界に入りたての典型的な中学生だった。
 そうして話が盛り上がりを見せようとし始めたとき、礼拝堂の扉がゆっくりと開いた。
 春日さんが慌てて後ろを向いて、またすぐに前を向く。急に張り詰めたように、喉を鳴らした。
「美空」
 背後から凛とした声。同時に怒気を孕んでいて、ぼくは呼ばれていないのに背筋に寒気を覚える。うちの母が怒っているときの「慧、ちょっと座りなさい」というのによく似ている。
 振り向くと、春日さんと同じ窮屈なベールと黒い修道服を着た、褐色肌の若いシスターが立っていた。鋭い眼光で春日さんを背中から刺しつらぬいている。
 隣の春日さんは口を半開きにして、下を向いている。なるほど、後ろにいるシスターは彼女にとって恐い人なのか。
 春日さんは振り向くと、
「シスターシャークティ……お早いお帰りで」
 観念しました、という風に言った。シスターは厳しい声を浴びせる。
「美空、私の言いつけを覚えていますか」
「……シスターシャークティが帰ってくるまでに、ここの掃除を済ませることです」
「で、それは終わりましたか」
「いえ、まだほとんど」
 怖い人だ。同じ修道服だけど、春日さんはなんか緩いのに対し、シスターは着こなしに隙がなく洗練されている。背筋はピンと伸びているし、唇は言葉の間で固く結ばれ、頬の筋肉はピクリとも動かない。総合すると、強すぎる白い光がまぶしくて目が開けられないとか、そんな怖さだ。いや、よくわかなんないけど、厳しくて怖いってこと。
 部外者であるぼくの手前、怒鳴りはしない。でも帰った後、春日さんがどうなるかはその怯えた顔を見れば予想できる。
 シスターの目つきが鋭くなった。春日さんの肩が強張って震えたのがわかる。
「あの」見ていられなくなって口が出た。「春日さんの手を止めてしまったのは、ぼくなんです」
 するとシスターは少しだけ雰囲気を緩めて、ぼくの方を見た。
「あなたは……男子生徒がなぜここにいるのですか?」
 ぼくは間違えてここに来てしまったこと、それから、春日さんに悩みごとを聞いてもらっていたと話す。
「美空が?」シスターは疑わしい、という視線を春日さんに向ける。
「ええ、春日さんて陸上やっているでしょう。ちょっと走ることに関して、悩みというかもやもやというか、そういうことを聞いてもらってたんです」
 春日さんは、ぶんぶんという音が鳴りそうなほどの勢いで頷く。シスターは、ぼくと春日さんをしばらく見比べて吐息をついた。
「……ぼくも掃除、お手伝いします。だから春日さんのこと、あまり叱らないで上げてください」

 気がつけば午後五時を大きく過ぎていた。夕焼けの光が開け放たれた正面の扉から入り、礼拝堂の白い壁を薄い茜色に染めている。
 少し涼しすぎる五月の風が首筋に当たって鳥肌が立つ。ぼくは制服のボタンを一番上まで止めた。
「別に手伝わなくてもいいのに」
 春日さんは雑巾を絞りながら言った。
「まあまあ、二人でやった方が早く終わるでしょ」
 ぼくは壁の高い所を背を伸ばして、雑巾で拭く。掃除は普段からよくされているようで、埃の積もり具合は薄いしカビはほとんど見られない。
 春日さんはぶつくさ言いながら、椅子の背もたれのすぐ下にたまっている埃をふき取っている。
「というか話聞いてもらってたのって私の方じゃん。しかも私じゃなくてアキラのことだし」
「一応、吹っ切れたのは春日さんが冗談言ったからなんだけど」
「えー、あんなんでよかったの?」
「いいのいいの。ほら、さっさとやっちまおう」
 偶然、本当におかしいくらい偶然だけど春日さんは、知らぬ間にぼくを問題解決の入口まで引っ張って来てしまった。それも、スピード・キングに行く、大河内さんに会う、の二つを同時に。
 良いことだとは思えない。
 けどほっとしている。
 本当は自ら向かっていくべきなのに、流されるままに決められて、なのにぼくは安心している。自分で決めたことじゃないのにほっとしている。そういう自分がとても嫌になる。
 この学園都市は広い。これから三年過ごしたとして、知り合う人間よりも知り合わない人間の方がずっと多い。「女子」の名がつくエリアに踏み込まなければ、大河内さんに会うことも、たぶんない。スピード・キングだって、今日みたいにその周辺に行かなければ、マスターに会うこともなかったはずだ。
 これで良かったんだ。春日さんに決めてもらわなかったら、ずっと二人に向き合えないまま、三年が過ぎてしまっていたのかもしれない。胸の内に悪いモノをため込んだまま、卒業して、また別の場所に逃げることになっていたのかもしれない。そんな消してしまいたくなるような未来の自分を想像すると、これは案外悪くなかった。うん、悪くない……はずだ。
「直海先輩」
「ん?」
「その、かばってくれて、ありがと」こちらこそ、どうもありがとう。

 五月某日の午後。
「おまえには失望した」
 ゴールデンウィーク前の最後の授業が終わり、クラスメイト達は部活に遊びと浮足立っていた。
「おまえには失望したよ、直海」石蕗がもう一度言った。
 ぼくは石蕗経由で文化系同好会の連中からカラオケに誘われていた。でもぼくは「いいよ、カラオケってあんまり好きじゃないし、それに用事あるから」と断った。どんな用事、と聞かれて「呼び出された」。誰に、と聞かれて「女子中学生」
「死ね!」石蕗は吐き捨てた。
「本当、おまえには失望させられっぱなしだよ。秘蔵のDVDは世界陸上のDVDだし、写真集はオリンピックのしかないとくる。本当におまえには失望させられるよ」
 石蕗の言い分ももっともだ。十八禁な映像や十八禁なグラビア写真を期待していたのだろう。でも、
「だってぼく、その手のモノって必要ないし」
「草食なのか!? 草食系男子の時代だというのか!?」
 机を強く叩いた。
 石蕗は寮の部屋にいるときと、学校にいるときでは表情が違う。教室ではぼく以外のクラスメイトと女の子の話で盛り上がるのに対し、寮にいるときは音楽か授業の、それからたまにエロ話、と意外に真面目なのだ。授業の復習もまめにやっている。
 でも一度火がつくと手が付けられない。ぼくは今日初めてそれを知った。
「いや待て……貴様もしや、やったのか? 卒業してしまったというのか!」
 石蕗は何かに打ち震えているかのように大げさにのけぞった。
「いや、安心してくれていいよ。ぼくは童貞だ。それと、大河内さんとはそういうんじゃないから」
 石蕗は調子に乗ってどんどんエスカレートする。机の上に立ち、
「聞いたか皆の衆! この直海という男、オオコウチさんとかいう女子中学生を引っ掛けたらしいぞ!」
 マジか、うわあロリコンかよ、ちょっと警察呼んでくる、とクラスメイトたちは悪乗りする。童貞には誰もツッコミを入れない。同類だからなのか。
「このロリコンを我々は許せるのか、許せるはずがない!」
「大河内さんは背、高いから、ロリコンとは違うと思うよ」
「尚のこと許せん!」
 石蕗は教室の中心で喚き立てた。ロリコン! ロリコン! と他のクラスメイトたちもぼくをからかう。
 うるさい。
 けど、嫌じゃない。ステンレスの食器をゆっくりこすり合わせたような、耳の中をギリギリ締めて頭が痛くなる雑音じゃない。自然と笑えてくる、心地の良いうるささだ。ロリコンは嫌だけど。
「ついてくるなよ、見世物じゃないんだから」
 ぼくが言うと、石蕗は当然のように手を上げ、
「よーし、暇な奴、ついて来い」
 いや、本当に来ないでよ。

 河沿いを歩いていると、心臓というか喉の下あたりがもやもやしてきた。
 なんか行きたくない。足はスピード・キングに向かっているけど、なんか行きたくない。
 大河内さん。
 マスター。
 二人はぼくにとって、特別な繋がりなんて何もない赤の他人だ。ぼくに憎しみを抱いていなければ、幻滅もしていない。ぼくが陸上をやっていて、そしてこの前やめたことを知っているだけだ。〝気〟によってドーピングしていることは知らない。でもやっぱり行きたくない。
 交差点に来た。女子エリアへ続く道との合流点だ。
 彼女はもうスピード・キングに着いているだろうか。ぼくの到着をマスターと一緒に待ち構えているのだろうか。今か今かと待ち構えて、ぼくが扉を開けたら襲いかかってくるわけねーよ。
 なのに。
 歩調が遅くなる。歩幅が小さくなって、靴が鉛のアンクルを巻いたように重くなる。
「無理だよなあ」
 人間関係ごときでこんななのに、命をかけたドンパチに入っていけるはずがない。そんなことを考えて、いま直面している問題から目を逸らす。
「何が無理なの?」
 いつの間にか隣に人がいた。横目で見ると、黒髪がぼくの目線と同じ高さにあった。
 首を動かして見ると、長い髪を後ろで一束にまとめている長身の女の子だった。左の胸元に盾模様のワッペンが着いている本校女子中等部のブレザー。歩くとチェックのスカートが少しだけ揺れるのがわかる。そしてシャンプー?のような甘い匂いがするほど近い。
「やあ……久しぶりだね。直海さん」
 大河内さんがいた。彼女はぎこちなくはにかんでいた。
 驚いて足が止まった。つられたのか、大河内さんも歩みを止める。
「……うん、ひさし、ぶり」
 問題は向こうからやって来た。
 しばらくの間、両者の間は沈黙で満たされる。耳に入ってくるのは河を流れる水の音、雀の鳴く声、風で木々の葉がすれる音、自動車が地面にタイヤを転がしていく音、それから彼女のクラスメイトらしき女の子たちのひそひそ声。最後のを除いたノイズが空気を重くする。
「ごめんなさい」
 大河内さんは勢いよく頭を下げた。ポニーが肩から垂れる。
「……なんか、それだけ聞くと、振られてるみたいだな」
 ぼくは痒くなった首筋を掻きながら言った。「行きたくない」は、もう消えていた。
 大河内さんは顔を上げると、どぎまぎしてまくし立てる。見えない冷や汗が見えた気がした。
「あああ、そ、そうじゃなくて! 私、直海さんがやめちゃったこと知らなくて……友達とか言ったくせに……」
「いいんだよ。アレは事故みたいなもんだったんだから。それにそもそもの原因て、ぼくが正直に言わなかったからなんだし」
「でも……」
「いいものはいいの」
 ぼくは大河内さんの泣きそうな顔を無視して、「行くんでしょ?」とスピード・キングの方向を指差した。
「話なら向こうで座ってしよう」
 大河内さんの強張っていた顔に筋肉が緩んだ。
「うん」

「もし自分が泳げなくなったら、って想像してみたんだ。怪我とか病気とか、とにかくなんでも」
 喫茶スピード・キングに着き、カウンターの隅に座ると、ぼくはホットドッグではなくカフェオレを、大河内さんは抹茶ババロアをそれぞれ頼んだ。
 大河内さんは、お冷のグラスの外側に着いた水滴を人差し指でいじりながら言った。
「そうしたら、急に泣けてきちゃって。だから、知ってても知らなくても、ごめんなさいなんだ」
 先にカフェオレがカウンターに置かれた。ぼくはそれを一口含み、飲み下す。ほとんど苦味はなく、コーヒーのいい香りと、牛乳と砂糖の甘さが口に残る。
「……なんか、アレだ。大河内さんていい子なんだな」
「え……」
 大河内さんは爪に乗った水滴を見るのをやめた。
「君ってさ、スポーツやってる人に嫌な人はいない、とか思ってたりする? ぼくが「陸上なんてどうでもいい」、「陸上も水泳もくだらない」って言ったらどうするつもりだったんだよ」
「どうでもいいって思ってるの?」
「思ってないけどさ」
「よかった」
 大河内さんはほっと息をついて、また笑った。
 いい笑顔だ。
 そしてずるい、と思う。
 貶めたくて追い回してくるなら、ぼくは逃げる。でも大河内さんはたった一言のすれ違いに心をわずらわせ、二か月もそれを溜めこんで、謝りたいんだなんて。そんなの逃げようがないじゃないか。
 ぼくはカップの乗った皿を体の前に移動させる。カップを囲むように腕を置いて、両手の指を組んだ。ちょうどカフェオレの甘い湯気が鼻に当たる。ゆっくり吸い込むと、気分がいくらか楽になった。
「走れなくなった訳じゃないんだ」
「あれ、そうなんだ」
 大河内さんは間の抜けた声を出すかと思えば、
「ただ、制限が付くから、陸上はできないんだけど」
「……」
 すぐに重苦しく黙り込む。素直すぎるんだな、とぼくは思う。ウソとかつけなそうだ。
 大河内さんはちょっと苦しいつなぎで間を持たせようとする。
「……じゃあ、学校終わったら暇だね」
「そうだね」
「直海さんて、暇なときって何してるの?」
「筋トレか……たまに読書かなあ。あと最近は、夕方のスーパーで見切り品の物色」
「なんだか……おばちゃんみたい」
 マスターが粒あんと生クリームをトッピングした抹茶ババロアを運んでくる。
 大河内さんは続けにくい会話からババロアに逃げた。フォークでババロアを切りとり、生クリームをつけて口に運ぶ。入っていた力が抜けたように、ほんの少しだけ顔がほころんでいた。
「なに?」大河内さんがぼくの視線に気付いて言った。
「いや、ずいぶんおいしそうに食べるなって」
「!?」
 恥ずかしかったのか、顔を伏せた。
 マスターはぼくらを見て言う。
「お、ちゃんと仲直りしたみたいだね」
「いや、もともとケンカなんてしてませんよ。ちょっと誤解があっただけで」
「じゃあその誤解は解けた訳だ。うん、よかったよかった」
 マスターは腕を組みながら言った。
「それにしても、今日は中学生が多いなあ」
 窓の外、オープンカフェのテーブルには本校の女子中学生がざっと十人ほど、それから離れたテーブルに銀髪オッドアイの魔法生徒がいた。バイトの店員が忙しく注文を取っている。
「あ……」大河内さんはフォークをカウンターに落とした。高い金属音と同時に肩をわなわなと震わせる。勢いよく店の外へ飛び出して、恥ずかしさで泣きそうになりながら「なんでいるの!?」「ついて来ないでって言ったでしょ!」その友人らしき人たちにまくし立てる。彼女たちは反省した様子もなく、大河内さんに何か言った。すると「違う違う! そういうんじゃなくてっ」必死に何かを否定していた。まあ、何となくわかる。そういう勘違い。
 ぼくはその様子を微笑ましく眺めていた。
「そうそう」
 マスターが思い出したように言った。
「直海くん、やることないならうちでバイトしない?」
 どうやらぼくはホットドッグを焼く側になりそうだ。



[29988] 失うモノ 一つ
Name: ヌスーピー◆062fc78f ID:f68cc99f
Date: 2011/12/07 22:32


「――はい。それじゃあお願いします」
 携帯の通話終了のボタンを押した。画面が待ち受けに切り替わって、デジタルの数字が今の時間を表示する。午前一時。
 走る格好に着替えた。速乾性のシャツと短パンには蛍光色のラインが入っている。自動車のライトが当たれば、運転手からもよく見えるだろう。
 部屋を出るとき、石蕗と入れ違いになった。彼は肩にギターケースを担いでいる。さっきまで屋上で弾いていたのだ。
 おう、と石蕗が片手を上げる。
「どっか行くのか」
「うん、ちょっと走りにね」
「つーと、さっきの電話は?」
「ん、工学部の方に、スパコンのメモリーを割り当ててもらってたんだよ」
 結界内で発動する認識阻害魔法は、麻帆良大学工学部のスーパーコンピュータが制御している。
 ぼくは、スポーツ科学センターの運動テストを兼ねて、これから高速道路を走る。
 魔法の秘匿に万全を帰すために、ピンポイントでメモリーを割り当ててもらうのだ。監視ともいう。これによって自動車に乗っている人たちは、ぼくが並走しても疑問に思わない。「なんで人間が走ってるんだ!?」から「ああ、韋駄天の幽霊か」「近頃の子供は速いなあ」「麻帆良なら仕方ない」なんていうモノに置き換えられる。
「なんだ結界か」
 石蕗はつまんねーの、とぼくの横を通り過ぎる。
「なんだったら面白いんだよ」
「甘酸っぱーい夜中の青春電話」
「相手がいねーよ」
「例のアキラちゃんは?」
「またそれか」
「なんでおまえみたいな、草食通り過ぎて絶食してる奴に、あんな可愛い子が寄ってくんだよ」
 だから違う。何度もそう言ったんだけど、石蕗は面白がってやめない。もはや教室でぼくをからかうネタの一つになっている。話題が尽きると大河内さんとぼくがどうしたこうした、とありえない妄想を膨らませて遊ぶのだ。まったく、本人に聞かれたらどうするつもりなんだ。
 ぼくは石蕗の背中を手で押さえて、猫背を無理に直す。
「そのチャラけた格好やめたら、結構変わると思うんだけど」
 石蕗はその見た目でかなり損をしていると思う。茶髪は良しとしても、ワックスやジェルでセットした髪型はいまいち決まっていない。今は風呂に入った後で、もうベッドに入るだけだから髪の毛は寝ている。ぼくはそのことを言うのだけど、石蕗は決まってこう返す。
「これはこのままでいいんだよ」
 また猫背になる。

 夜中の関越自動車道は静かだ。たまに暴走族と警察がバトルを繰り広げているらしいけど、今日はひときわ交通量が少ない。
 道路照明灯の黄色い光が等間隔に立ち並ぶ。
 北東へゆるやかなカーブを描いている道路を、時速一〇〇キロ前後の自動車がまばらに走っている。通り過ぎる度に、エンジン音と風を切り裂く音が混じり合い、耳の中をかきまわす。ゾクゾクと上半身の毛が逆立ち、感嘆のため息が漏れる。
 時速一〇〇キロで移動する鉄の塊。それは人間からしたら、とてつもない暴力性を秘めている。電車のホームとかで試してみるといい。黄色い線の内側に立って、減速しきっていない電車を瞬きせずに見つめる。通り過ぎると風が巻き起こり、髪や服の裾が激しく揺れる。たぶん、普通の神経してたら大なり小なり、恐怖ってものを感じると思う。以前のぼくは下腹部の方とか、自分の性器がきゅっと縮こまった。
 でも。
 今のぼくなら、そんな恐れもない。高速や電車のレール内に、ぽんと背中を押されても死なない自信がある。ケガをするかも怪しい。「痛いなあ」と笑って済んでしまうかもしれない。
 携帯電話や財布の入ったバックパックを置いて、ガードレールを乗り越えた。
 猛スピードの鉄の暴力が目の前を過ぎ去る。気分が高揚してきた。今からぼくは、この鉄の暴力たちと同じ速度を体感する。その快感を思うと、どうしようもなく心が震える。
 道路の脇、路側帯を走り始めた。足は柔らかく大きな回転軌道を描き、動きに緩急をつけると徐々にストライドを増していく。ストライドが限界に近付くと、今度は回転速度を増やす。秒四歩、秒五歩、秒六歩、秒七歩、秒八歩――。体の前面にぶち当たる風が強くなる。体が浮きそうになるのに気をつけながら、最高速の手前で道路に出た。
 集中力を爆発させて走り抜ける。異常なまでのピッチとストライドを制御し、自動車と並走する。視線をずらしてドライバーを見ると、特に驚いた様子もなく、ただぼくの姿を確認しているようだった。
 周囲の景色が目まぐるしく流れる。身体全体に当たる強い風が爆音のようで、速度の異常さを教えてくれる。
 ああ、ヤバい、これ、凄くイイ。
 トップスピードに乗ったのは時間にして、ほんの七秒か八秒だった。すぐに苦しくなって路側帯に逸れる。全身が熱く煮えたぎっている。〝気〟というモノがよく出来ているおかげか、筋肉の発熱量は抑えられているけど、それでも汗が吹き出す。
 シューズの裏を見た。先週まで新品だったはずのそれは、触れられないほどではないにしても、かなりの熱を持ち、粗いやすりで削ったようにささくれいていた。メッシュ部分も少しだけど破けているし、あと数本走ったら、ダメになりそうだ。
 シューズの裏が冷めるまで路側帯を歩く。乳酸の苦しさはすぐに終わって、次が走りたくなる。ジョギングでつないで、二本目。
 ゆったりとしたリズムのピッチから、徐々に激しいリズムのピッチにするのは同じ。今度はストライドよりも、最高速度を意識して駆ける。足の裏、拇指級とその周辺が一瞬だけ地面に触れる。蹴っている感覚が小さい。もどかしい。もっと力を加えることができれば、もっと速くなるのに。そのもやもやした苛立ちが、わずかな力《りき》みを生む。バランスを崩して転倒しそうになった。
 追い越し車線に入り、車を追い抜いたところで、それは起こった。
 向かい風が体の下に入り、腰が後ろに浮いた。身体は制御を失い、前のめりに投げ出され、ガードレールを飛び越えた。高架下の畑に突っ込んで、切りもみする。上下左右が滅茶苦茶になる。ぼくは頭を抱えて何度も回転した。
 一瞬、自分になにが起こったのか把握できなかった。
 ――痛ってえ。
 声が出ない。息ができない。口の中で土の苦味が、次いで血の味がして、混ざって喉に詰まる。べっと吐き出すと、うめくような苦しい呼吸が再開される。痛みを紛らわす強がりなのか、
「サイアク」
 そんな言葉が出て、高揚していた気分は一気に落ち込んだ。
「何やってんだろ……」
 〝気〟を失くしたいはずなのに、速く走れることにこんなにも喜びを感じている。化け物みたいな異常なスピードを感じて、身体が喜んでいる。心も少しだけ。欲望をむさぼるだけの汚らわしいケダモノみたいに、喜んでいる。
 急に腹の下から何かがせり上がってきた。う、と口を押さえるけど、固形物が出てくる気配はない。胃液の酸っぱくてくさいにおいもしない。気持ちの悪い息が吐き出されただけだった。

 寮の洗面所で「うわ……マジかよ」鏡に映る、体中の擦り傷と青あざにぎょっとした。特に地面に突っ込んだときに擦った右肩。あまり陽に焼けていない白い肌は、削られてピンク色の肉を露出している。血混じりのリンパ液がしみ出ていて、触れると気持ち悪いぬるぬるが指にこびりつく。鼻の前に指を持ってくると、鉄臭くて生臭くて、吐き気がした。
 ぬるいシャワーを浴びた。傷口についていた土が流され、お湯がシクシクとしみる。うつむくと、排水溝に薄い赤色のついたお湯が吸い込まれていくのが見える。だんだんとお湯が傷に当たる痛みに慣れていく。悪い気分まで流してくれないかな、とぼくはしばらくそのままうつむいていた。
 新しいジャージに着替え、再び寮から出た。
 まだ街は眠っている。住宅街も商店街も、二十四時間営業のコンビニを除いたら、ほとんどが寝静まっている。外を歩いているのはぼくだけだ。
 夜中の街は――違う。静かだとか、淋しいとか、うつろだとか、そんな心情に訴えかけるような「違う」ではない。光が少なく暗い街が、太陽に明るく照らされた街と単純に「違う」。慣れてきた男子寮の周辺でも、夜は気をつけて歩かないと、ふとしたとき、どこを歩いているのかわからなくなる。迷うのだ。少しでも見覚えのない道に入ると、昼間は周囲の景色から目的地までの道を予測できるのに、夜はそれができなくなる。急に知らない場所に放り出されたみたいに、道がわからなくなる。
 工学部の研究棟に着くまで、ぼくはずっと河沿いの道を行く。途中で噴水広場と公園を通り抜けた方が近いのに、迷うから河沿いのわかりやすい道を行く。

 大きなケガはなかった。大げさに見えた青あざは、全部打撲よりも軽い内出血だった。
「びっくりしたよ。あそこでいきなり脱線するなんてな」
 深夜の工学部棟、スパコンの制御室で土谷先生が笑いながら言った。彼は工学部のスパコンのモニターからぼくが走る所を、他の研究員と一緒に見ていた。スポーツ科学は専門じゃないけど、興味があるらしい。ぼくが転倒してバックパックを置いた場所に戻ると、携帯にメールが入っていたのだ。「簡単に診るから、できるなら工学部棟に来てくれ」って。
 土谷先生はぼくに簡単な治癒魔法をかけようとしたが、ぼくはそれを断った。気と魔法の側に行かないための意地ってヤツだ。
「……なんで浮いちゃったんでしょうね」
 その問いには明石教授が答えた。この人は結界のプログラムの開発と管理責任者だ。中学に娘がいるらしい。
「そりゃあ、空気抵抗ってもんがあるんだから」
 明石教授はホワイトボードを引っ張って来て、「あれ、高一って運動方程式やってたっけ? まあいいか」何やらよくわからない数式を書き始めた。「本当はもっと複雑な式になるんだけど」コウリョク係数、リュウタイ密度、体の表面積――やっぱりわからない。
 要は「空気抵抗が速度の二乗に比例する」ということらしい。
「一般に一〇〇メートルを一〇秒、平均時速三十六キロで駆ける陸上選手にかかる空気抵抗は、個人差もあるけど、だいたい三キロ弱なんだ。たとえば時速二〇〇キロで走ったとしたら――」
 さらさらと比例式を書く。「空気抵抗はだいたい八六キロだね。この場合、足の裏と地面との間に八六キログラムより大きい摩擦がないと、それよりも速度は上がらないんだよ。ちょっと走って浮いて、ちょっと走って浮いてを繰り返すようになるんだ」
「この理屈でいくと……えーっと、直海くんの体重は五九キロだから――」
 またさらさらと「限界はだいたい、時速一六五キロってことになる」これより速くなるには筋肉か重りで体重を増やすか、空気抵抗の少ない走り方を身に付けなければならない。
「理論上だからね。動きを完全に制御しきるなんて、スパコンレベルのボディコントロールでもないと無理だし、体重をそのまま摩擦力にするってことも不可能だから、実際はこれよりもだいぶ落ちるだろうな」
 明石教授はパソコンを操作して、映像ファイルを開いた。さっき、ぼくが走っていたときの映像だ。二本目、向かい風で体が浮く直前の最高速度が、画面の右上に表示される。125km/h。
「正直言って直海くんの体格だと、人体の構造上もあるけど、このスピードでも難しいんだよ」彼は映像をもう一度、今度はコマ送りで再生する。接地の仕方、空中動作、腰の動き――動きの一つ一つが分解されている。「うん、無駄が少なくていいフォームだ。よく走れてると思う。同じ条件でもうちの魔法生徒じゃ、一〇〇キロがせいぜいだろうな」
 足が空回りしちゃうからさ、と明石教授は言った。
「つまりもう、スピードは頭打ちってことですか?」
「そりゃ魔法も術も使わずに走ってたらな」
 彼らの話によると、魔法や術によって空気抵抗を減らしたり、走りを補助したりするらしい。
「そうしないとむしろ効率が悪いんだよ。騒音とか衝撃波とかね。魔力や気の燃費も悪くなるし」
 どうでもいい。ぼくには意味のないことだ。超能力に頼った速度は追い求めていない。陸上ができる体に戻るまでのつなぎとして、精神の平衡を保つために走っているだけだ。
 しかし中距離ランナーであるぼくは、乳酸の苦しさを感じないと走っている気がしない。いや、練習好きなランナーならみんなそうだろう。でも乳酸を感じるほどの速度では、空気抵抗が邪魔になって足が空回りする。
 これ以上気が増大したら、どうなるだろうか。それは想像に難くない。この限界速度、時速一二五キロが楽になる。有酸素運動の割合が大きくなって、そうしたら乳酸は少しずつ感じなくなっていく。人間らしさを失っていくみたいに、一二五キロが速いと思わなくなる。

 夕方になって、雨が降り出した。
 コンクリートの路面を打ち鳴らすような強いのではなく、空気をじわじわと侵食するようなうっとうしさがある雨だった。空を見上げると、遠くで灰色の雲の間から陽の光が覗く。「直海くん、オーニング出してきて」マスターに言われて、外に出た。
 オーニングっていうのは、店先によくあるビニール製の屋根のこと。これを出すと欧風の街の景観もあってか、ちょっとシャレていい雰囲気が出る。手動ハンドルを回すと、温かい黄と白の縞模様が、雨水で少し冷えた屋外テーブルの上に広がる。黄色って今の季節はいいけど、夏場は暑苦しいだろうな。
 硬い足音が聞こえる。スポーツシューズじゃなくて、革靴のコッコッ、という音。レンガが濡れているせいで響かず、低くくぐもっている。
 視線を元に戻すと、そこには上下グレーのスーツの男の人がいた。
「やあ」
 近所の奥様方に大人気(たぶんそうじゃないかと思う)の高畑先生だった。高畑先生は左手をポケットに突っこんで、右手でぼくに会釈した。
「いらっしゃいませ」
 ぼくは作り慣れた笑顔で迎えた。
 店に入ると、高畑先生は奥側のカウンター席に座った。おすすめのコーヒーを注文するとタバコの箱を胸ポケットから出す。シュポッ。使い古されて塗装がはげてきているメタリックブルーのライターは、淀みなく健康破壊スティックの先端に小さな火をともす。小さく吸って、白煙を吐き出した。タバコの先端から立ち上る煙と一緒に、天井の通気口に吸い込まれていく。少しヤニ臭いけど、気になるほどではなかった。
 店内は沈黙に包まれる。マスターが挽いたばかりの豆をスプーンですくって、ドリッパーに入れる。ザッ、という砂が落ちるような音。BGMのクラシックにまぎれて、ほとんど聞き取れないような音。
 高畑先生は目を閉じ、鼻で大きく空気を吸っていた。焙煎中のコーヒーの香りと、タバコのにおいを混ぜて楽しんでいるのか。二度、三度、と息をついて、また目を開けた。
「……」話したくねえなあ。
 正直言って、どっぷりと魔法使いをしている高畑先生とは、あまり話したくない。この店は基本的にユルいので、店員が客と談笑しても、マスターは何も言わない。むしろときどき常連のおじいさんを交えて、大富豪をやるくらいで、話すことも仕事の内に入ってるみたいだ。
 ぼくはカウンターから離れる理由を探す。お客が少ないので、洗い物はない。各テーブルはさっき布巾で拭いたばかりだし、ゴミ出し、トイレ床掃除も終わっている。こういうときに限って仕事がな――いや、わずかな埃が窓のサッシにたまっているかもしれない。しかしタイミングが悪い。雑巾を取ろうとする前に、高畑先生に口を切られた。
「検査の方はどうだい」
 吐き捨てるような溜息が胸中で渦巻いた。
「特に何もありませんよ。検査と運動テストの種類は増えましたけど」
 週に一度の大学病院の検査は続いている。土谷先生にも別の意味で会いたくなかったけど、自分の体のことは知らなければならない。だから謝礼目当てのバイト感覚でやるようにしている。
「君はまだ走ってるんだな」
「そりゃ走りますよ。そのためにここに来たんですから」
「学校の方はどうだい」
「どうって、普通ですよ。クラスメイトの顔と名前覚えて、最近は図書館行って、気について調べたり、あと中間試験の勉強ですね。他は店の仕事を覚えて――」
 ホットドッグ用の玉ねぎとピクルスをみじんにすること以外はてんで素人なので、コーヒーの淹れ方から接客の仕方までいい勉強になる。
 マスターはコーヒーを高畑先生の前に置いた。そして意外そうにぼくらを見比べる。
「なんだ、二人とも知り合いなのかい」
「ええ、僕のクラスに知り合いの子がいるんですよ。マスターこそ……ああ、そういえばそうでしたね」
 高畑先生は、カウンター横の本棚に並んでいる『月刊陸上競技』を見て頷いていた。
「女子中の知り合いって……」
「アキラ君と美空君だよ。ぼくは彼女たちの担任だからね」
 なるほど、とぼくはうなずいた。たしか高畑先生は女子中等部の英語教師だった。
「先生はここによく来るんですか」
「そうだな、よく来る方だと思うよ。仕事の後とか」
「そういえば、今って勤務時間じゃ」
「これから出張でね。これはその前の一服ってわけさ」
 先生は行儀悪く、タバコを指に挟んだ手でコーヒーカップを持ち上げた。これまたうまそうに飲んで、吸う。
「直海君はバイトなんだね」
「そうです。マスターの覚えが良かったので」
「なるほど」高畑先生は再び本棚の方を見て言った。
 高畑先生はまるで先生みたいな……いや、先生なんだけど、先日の顔合わせの戦闘力とは離れた、穏やかな顔を見せる。いや、そうでもなきゃ担任なんかできないか。チョークの代わりに、岩をも砕くこぶしが飛ぶ授業。ちょっと想像できない。
 きっと使い分けが上手いんだろう。戦うときと、そうでない日常……。スティーヴン・セガールが教鞭をとる、そんなイメージ。
「高畑先生は、なんで先生なんてやってるんですか」
「なんだい急に」
「だってめんどくさいでしょ。ぼくたちみたいな子供の相手って。広域指導員なんて、力加減とか一番面倒じゃないですか」
 広域指導員。学園全体の生活指導みたいなものだ。麻帆良の血の気が多すぎる不良を、殴り飛ばして指導する。デスメガネ、なんてあだ名で親しまれているが、言ってしまえば中山のようなバカを相手にしなければならないのだ。武力鎮圧担当だけど、現場の生徒が警察の厄介になったら付き添うこともあるだろう。
 高畑先生はちょっと疲れた笑みを浮かべる。「まあね」と言ってタバコを咥えた。
「さっき出張って言ってましたけど、それって世間一般で言う、教師の出張じゃありませんよね。世界各地で殴り合いしなくちゃいけない上に、子供の世話って、かなり無理してもできないと思うんですけど」
「変なこと考えるな、君は」
「先生が変なんですよ」
「まあ、でも」先生はタバコを灰皿に押し付けた。
「君の言う所の面倒くさい子供っていうのは、僕の所にはあまり回ってこないからなあ」
「え、そうなんですか」
「そういうのはだいたい、他の先生がやってくれるからね。僕がやってるのは、君みたいにちょっと強すぎるのを、げん骨で黙らせることぐらいだよ」
 高畑先生は握りこぶしを見せて言った。
「ぼく、強くないですよ」
 先生はからかうように笑う。
「暴れないだけだろ」
「イヤな言い方」

 カランカラン。高畑先生が店を出て十分くらいすると、ドアベルが鳴った。カップを洗いながら横目で見ると、本校女子中等部のブレザーが視界に入った。女子中学生が三人。デカイのが一人と中くらいのが二人。え、容姿? そんなことどうだっていいじゃない。重要なのは、速いか遅いか、それだけだ。
 デカイのは大河内さんだった。水泳部なので除外する。中くらいである春日美空は速そうな足を持っていた。足首から太ももまできゅっと締まっている。もう一人のサイドテールで明石教授の娘さん、明石さんは……まあ、ドンマイ。ちょっと速いか人並みだ。
 大河内さんはぼくを見つけると気さくに声をかけて来た。
「やあ、直海先輩」
「いらっしゃいませ」あらかじめコマンド入力されていたみたいに、作り笑顔が出ていく。そしてその後に、
「や、大河内さん」
 と普通のあいさつ。すると、明石さんは訝しげな視線をぼく向ける。彼女はひそひそと春日さんに耳打ちしながら、奥のテーブル席に移動していく。
 喫茶スピード・キングでは、ホットドッグと一部メニューで、麻帆良学園が発行する食券が使える。こういった学校帰りの中学生でも気軽に寄れるのだ。
 しばらくして、注文を取りに行くと訝しげな視線は、好奇のモノに変わっていた。明石さんはぼくの足先から指先、頭のてっぺんまでをくまなく観察する。何を言ったんだ、春日さん。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 彼女たちは各々の希望を述べていく。ホットドッグ、ホットケーキセット、カフェオレ……。当たり前だけど豆にこだわったちょっと高めのコーヒーなんて頼むわけもなく、全て食券用のメニューだった。
 注文を終えると、各鞄から教科書やノートを取り出していた。なるほど、試験勉強か。
 それからメニューをテーブルに運び終えて数分が経ち、
「すいませーん」
 とお呼びがかかった。
 はい、と彼女たちのもとに向かう。何か、と聞くと、春日さんは数学のプリントを広げて、ぼくにシャーペンを渡す。「ここわかんないんだけど」
「おい中学生、自分で考えろよ」
「考えてもわかんないから聞いてるんでしょ」
「聞くなら、明日先生にでも聞けばいいだろ。それに今バイト中だからダメだよ」
「でも、なんもやってないじゃん」
 店の扉の方を見た。外は薄暗く、しとしとと雨が降っている。たまの通行人は、本当にただの通行人で、店に入る気配はない。マスターの方を見ると、月刊陸上競技を読んでいた。まあ、いいんだろう。ぼくは問題集を覗き込む。
「図形の問題か。円周角と中心角の関係を使って角度を……ああ、補助線引けばすぐじゃん」計算用紙のチラシの裏をさらさらとシャーペンが奔る。おお、と彼女たちは感心なのか、驚きなのか、問題の着目点に対する納得なのか、とにかく声を上げる。
 一問解いて、「あ、そうだったんだ。じゃこっちは?」しかし春日さんはもう一問、解答を要求してきた。
 大河内さんが、
「春日、直海さんに悪いよ」
 と遠慮しているけど、
「いいじゃん。暇なんでしょ」
 春日さんは開き直っている。
「そうだけだどさ……」
 大河内さんと春日さんは週一ぐらいでこの店に来る。訪れる時間帯がぼくのシフトと重なっているので、こうして話すのは三度目か四度目だ。彼女たちが連れてくる友人も自然、砕けた話し方になる。ぼくは軽いため息をつきながら、横のテーブルから椅子を引っ張って来て座る。再びシャーペンを持ち、高校入試で手が痛くなるほどやったような問題を解く。
 春日さんが言う。
「ていうか先輩も中間でしょ。バイトやってて大丈夫なん?」
 試験は大学以外、ほとんど一斉に行われる。一週間前からは部活停止期間だ。
「勉強もやってるよ」
 石蕗が意外にも勉強する奴だったんだ。夜、寮の部屋で時間が合えば、だいたい予習か復習に付き合ってる。
 明石さんがニヤリと笑う。
「おお、先輩も私たちと同じく尻に火が付いてるとみた」
「うっさい。一緒にするな。てか、ぼくはいつから君の先輩になったんだ」
「うわ、きつ。先輩、きつっ。先輩って一見さんお断りな人なんだ」
「お断りなのは意味わかんない人だけだよ」
「おし、じゃあ私はセーフな訳だ。私、すごくわかりやすいって言われるし」
 そんな風に言ってると馬鹿認定するぞ。ムカつくバカじゃない、愉快な馬鹿ってさ。
「ていうかさ、先輩そんな風に言ってるけど、実際もう手遅れなんだよね」
「手遅れって何が」
「ほら、先輩って毎朝走ってんじゃん。あれ、女子寮のベランダから見えるんだよ」
 どうやら世界樹に上がる坂が、女子寮のベランダから見えるらしい。早朝、そこを駆け上がるぼくの姿が頻繁に目撃されるようだ。少し恥ずかしくなった。
「ちょっとした話題になってるんだよ。朝、世界樹坂を駆け上がる男子がいるって。直海先輩、チョー有名」
 大河内さんが呆れた風にため息をついた。
「何? なんかあるの?」
 ぼくが聞くと、大河内さんは答える。
 朝の六時前、女子寮では軽い祭り状態らしい。「『今日は通るか通らないか』、『何時何分に、世界樹に手を付くか』って予想して、食券の賭博をやってるんだよ。プラスマイナス何分かで順位をつけて配当って、どこかのテレビ番組みたいに」と大河内さんは言った。良くないな、と思う。小学校のとき、カードゲームで金銭を賭けてる奴らを見たけど、借金だの金払えだのとやって、終いには先生にばれて問題になった。その後、当事者たちは疎遠になって、トモダチをやめた。
「直海さん、見世物になっちゃってるんだよ」
「そうだな。うん、次からコース変えとく」ぼくはうなずく。
「げ、やめちゃうの?」と明石さん。
「仕方ないでしょ。テストのトトカルチョとは違うんだから。ダメだよ、誰かを見せ物にするなんて。直海さん、目立つのあんまり好きじゃないんだよ」
「ほう? アキラ、よく知ってるじゃん」
「だってここの店よく来るし」
「や、そういう意味じゃない」
 明石さんは萎えた声で言う。勘違いするなよ。大河内さんに迷惑だろ。

 話しながらぼくは問題を解き続ける。いつの間にか英語と理科のプリントが追加されている。「なんだよ、覚えれば終わりじゃないか」なんて言えば「直海さんはできない子の気持ちがわからないんだ」こう言う。
 気がつけば客が来ないまま、二十分余りが過ぎている。
「ねえ、先輩」
 唐突に春日さんが切り出した。
「ん」
「来週の土曜さ、暇?」
 大河内さんがピクリと反応した。ぼくは少し考えて答える。
「暇じゃない。バイトある」
「や、定休日だし」
 営業時間、AM6:30~PM9:00 ラスト・オーダーは8:30まで、土曜定休。でも今週は外せない。再実験で関越自動車道をまた走るのだ。夜中にやるから、その日の昼間は寝ているだろう。
 しかし春日さんはそんな事情も知らず、ぼくの嫌がることを言う。
「その日さ、記録会あるんだけど、おうえん来てよ」
「やだ」
「えーなんでなんで」
「うるさいね。テスト前で忙しいんだよ」
「さっきと言ってること違う」
「察しろよ、陸上部」
 わかるだろ。見たくないんだよ、君たちが真剣に走る姿をさ。
「アキラも来るよ?」
 隣接する体育館の屋内プールで大会があるらしい。
「っぶ」大河内さんはぬるくなったカフェオレを吹き出しそうになる。
 大河内さんはあまり自分から話さない。友達とスピード・キングにやって来るときは、たいてい後から店に入ってくる。テーブルで友達としゃべっているときも、だいたいが控えめな態度で、聞き上手というヤツだった。
 大河内さんは珍しくおろおろして、春日さんを止めようとする。
「か、春日っ、私は別にいいから」
「ま、いいからいいから」
 春日さんはその抗議をさらりとかわす。
「いや、だから行かないって」
 すると彼女たちは、盛大にため息のような息を吐いた。「ちぇ、脈なしか」と明石さんが、つまらなそうに肩をすくめた。大河内さんはぎこちなく笑っている。
「見に行ったって、タイムがよくなるわけでもないだろ」
「いやいや、よくなるかもよ。うちの部で先輩に憧れてる子、結構いるからさ」
「嘘付け」
「いやいや先輩、謙遜はよくないな~」
 ぼくはイケメンじゃない。毎日鏡を見ているから嫌というほどわかる。
 特定のスポーツに熱中すると、一般における美醜の価値観から少しずつズレていくのだ。陸上部にとっては、速さこそ善であり正義でありカッコいいモノになる。全国で二位、というのはそれだけ威力のある正義だ。決してぼくの顔がかっこいいとかはない。
「行かない」
「えー、来ないの~? 呼んで来いって言われたのに。全国二位だからって感じワル~」
「後者は関係ないだろ」
 春日さんは再びごね始めた。どうやら彼女はぼくを呼び寄せる刺客として、陸上部から送り込まれているらしい。
 そっちに行くくらいなら、高校総体の地区予選も見に行ってたさ。地元で速水の応援にも行ったさ。無理なんだよ。競技場はモニター越しか雑誌の写真でしか見れないよ。もし生で見てしまったら、胸の内に溜まっている可燃性のモノが爆発してしまう。
「そんじゃさ、アキラの方はいったげてよ」
「いい! いいから! 来なくても大丈夫だからね!」
 大河内さんはひどく取り乱す。顔が近くなって、ちょっと甘い匂いがした。ぼくは顔を逸らす。
「や、こっちはただの記録会だけど、向こうは県大会だからさ」
「大河内さん、県大会でるんだ。すごいじゃない」
「そうだよ、アキラは水泳部のエースだからね」
 すると大河内さんは膝の前で手をギュッと握り、恥ずかしそうにうつむく。耳に血が上って赤くなっているのが見えた。……違うよね、違うに決まってる。褒められてどう反応していいかわからないんだよね。惚れた腫れたじゃないよね。うん、ぼくは絶対に勘違いしない。絶対にだ。
 ぼくはそわそわして逃げる理由を探す。
「でも、ぼくが行ったって、タイムがよくなるわけでもあるまいし」オウムみたいにさっきと同じことを言う。
「張り切るんだって。ほら、いいとこ見せたくって頑張るってよくあるでしょ」
「違うからっ、そういうんで頑張ってるんじゃないからね!」
「じゃあ呼ばなくていいか」春日さんは手の平を返す。
「え……まあ、それは……どっちでもいいよ……」
 大河内さんは急にシュンとする。行った方がいいのだろうか。でも。
 気後れする。中学生、それも女子の応援に男のぼくが行って、白い目で見られないだろうか。女の子の競泳水着姿目当てだとか思われないだろうか。当然、男子中等部の水泳部には知り合いなんていない。
「ああもう! 来い! 来なさい!」
 煮え切らない態度に苛立ったのか、春日さんは机を叩いた。「そうだ行け行けー」明石さんが便乗する。

 土曜の午前一時、再び関越自動車道に来た。
 再実験だ。今度は風に気を付けて、地面から離れそうになる体を意識しながら疾走する。
 今週の体は先週のと比べて明らかに変化していた。二次関数的に気が増大して、先週の限界が今週の限界ではなくなっていた。
 速過ぎる走りにシューズが耐えきれず、何本か走ると破けた。取り替えて走る。またダメになる。取り替えて走る。ダメになる――。そうして持ってきた三足のシューズを全てダメにしてしまった。化繊の短パンとシャツも少しほつれている。しかし体は満足していない。ウォーミングアップが終わって、少し走った程度の疲れしか感じていない。もっと走りたがっている。
 裸足のまま走ってみた。気で強化されているせいか、足の裏に痛みはない。それどころかコンクリートの地面が砕けるような音が聞こえる。止まって足の裏を見ると、黒く汚れていた。触ってみると指紋は金やすりみたいに固く、それでいて皮には弾力がある、不思議な感触。黒いのは削れたアスファルトの粉末だった。
「いけるな」
 ショート・インターバルのように何本も走れば、心地よい疲労を感じられそうだ。

 爆音で空気が震えた。エンジンやマフラーの違法改造車か、とぼくは周囲を見渡す。何もない。続けて断続的に、ドン、ドン、と自衛隊の演習みたいな音が響く。音の方に走ってみるとそれははっきりした。
 高架下の山の谷間がわずかに明るくなっていた。立ち上る煙が照明灯によって映し出される。そしてもう一度爆発。今度は閃光を伴う。爆風で木が焼ける匂いが届く。
 巨体がケモノのような速さで谷を横断した。それに追いすがって小さな影がよぎる。巨体は大きく跳んで、橋柱に取り付き、そしてぼくの目の前にドスン。おおいかぶさるように立つ。
 巨体は鬼だった。赤褐色の体、頭の左右に乳白色の尖ったツノ、ごつごつとした顔の輪郭と逆立った髪、口の端から覗く鋭いキバ。見上げる身長は四メートルほどか、筋肉質な全身は所々に血管が浮き出ている。前もってその存在を知っていたせいか、ぼくは思いのほか慌てずにそれを観察していた。
 踵を返して走りだす。同時に「逃げろ!」という怒鳴り声も聞こえた。
 鬼は速かった。高速を走る自動車ほどではないけど、競走馬の全力程度は軽く超えている。ぼくは速度を上げる。諦めたのか鬼の走る音が消えた。
 足を止めて振り返る。鬼との距離は三〇〇メートルほど。そこには鬼の他に、人間が三人いた。黒い背広を着た背の高い男と茶色のジャンパーを羽織った中背の男、それから黒い学ランの男。気で強化されているのか、ぼくの視界はいつもよりはっきりとしている。
「はあ!?」
 ぼくは学ランが誰であるかわかると、素っ頓狂な声を上げた。
 学ランは石蕗だった。バックに鬼がいる男二人に、一人で対峙している。ジャンパーの方がすごんで「ナメてんじゃねえぞ、てめえ!」と叫んだのが聞こえた。
 石蕗の背後に赤くまばゆい大きな炎が現れる。そこからいくつもの細い炎がナイフのように鋭く伸び、男二人に襲いかかる。鬼が二人を守るように間に入った。金属音のような甲高い音が響いた。鬼の体は石蕗の操る炎よりも硬く、攻撃は通らなかったようだ。
 パンパン、と炸裂音が攻防の音に混じる。ジャンパーの男が銃口を側面から石蕗に向けていた。これも通らなかったようだ。石蕗は炎を側面にも展開して、銃弾を防いでいた。
 少し考えて、魔法生徒だから戦うのは当然なのかという結論に行きつく。「大丈夫……かな」とぼくは呟いた。石蕗は余裕があるのか、笑ってるように見える。でも違和感は拭えない。
 できることはない、と割り切る。荷物の場所に戻って携帯電話を取った。すでに土谷先生から何度か着信があったようで、小走りになりながらリダイヤルする。土谷先生は電話に出るなり、唾が飛びそうなくらいまくし立てた。
『直海くん! すぐそこを離れろ! インターチェンジの方へ行け!』
「いま移動中です。石蕗、同室の奴なんですけど、そいつが今戦ってます」
『……ずいぶん余裕だね』
 緊張が削がれた声になった。
「それよかなんですか、あれ」
『襲撃者だよ。麻帆良には貴重な物が多いからね。今回のはおそらく、近くの寺に奉納されている仏具が狙いだろう。触媒にすれば、強力な妖怪を召喚できるらしい』
「SF映画で言う、小型の新兵器を盗みだすみたいな奴ですか」
『「旧」兵器だね』
 冗談を言った後に、真剣味を帯びた声になった。
『今そっちに魔法先生が行ってるから、君はそこから離れなさい』
「はい。走りながらじゃ喋りにくいんで、いったん切ります」
『ああ、離れたら連絡して』
 通話を切った。携帯をバックパックに詰める。
 ぼくの前を一台の白いワゴンが通り過ぎた。制限速度を明らかに超えて、鬼の方へ走っていった。結界で違和感がないのか、速度を緩める気配はない。それどころかアクセルを強く踏み込んだようだ。エンジン音の質が変わり、さらに速くなる。重さ約一.五トン、時速二〇〇キロの鉄塊は身構えている鬼に突っ込んだ。
 吹っ飛んだのは白いワゴンの方だった。鬼は素早くフロントバンパーを掴むと、速度を受け流すように持ち上げ、放り投げた。ワゴンは、先週のぼくよりも派手に回転し、地面を削りながら転がり、ガードレールにぶつかってようやく止まる。爆発して、オレンジ色の炎と一緒に夜の闇よりも真っ黒な煙が噴き上がる。
 言葉にならなかった。鬼、ヤバい。逃げなければと意識はインターチェンジの方へ向く。
 石蕗を見た。彼はワゴン車が作りだした隙を生かせなかったらしい。鬼と男二人に防戦一方だった。炎は、前衛の鬼と後衛の背広から発せられる魔法に手一杯で、攻撃に転じることができない。また石蕗自身は、側面からの銃弾に苛立たせられているようで、さっきの余裕ある表情は変わり、歯を食いしばっている。
 あれ? ヤバい。魔法先生が向かってるそうだから、時間稼ぎでいいんだろうけど、これでは時間稼ぎすら危うい。
 そしてこれを考えているで数秒で、彼らはぼくの立っている近くほんの数十メートル先まで移動していた。通り過ぎた跡は、中央分離帯のガードレールがひしゃげ、アスファルトの地面がえぐれている。石蕗は鬼に殴り飛ばされたようで、つらそうに立ち上がり肩で息をしていた。鬼の追撃は彼を休ませない。打撃を二度三度と防ぐが、終いには防御ごと殴り飛ばされ、コンクリートで硬く舗装された崖に強く打ちつけられる。まとっていた炎は消えてしまった。高速はまた照明灯の鈍い明かりだけになる。
 死ぬのか。アイツ、死んじゃうのか?
「つわ……」
 声を出しかけて、息を呑みこむ。遅い。ジャンパーがぼくに気付いた。
「一般人《パンピー》か。どうします? そっちもバラすんすか?」
 と背広に聞く。
「油断すんな。さっきの動きからして素人ってわけじゃねえぞ」
「わかってますよ」
 どうやら彼らはぼくを殺す気らしい。ジャンパーは石蕗に注意を払いつつ、ぼくに銃口を向け、だけど。
「……なんで……」
 と目を丸くしていた。
 ぼくは目を凝らす。照明灯のオレンジが上から射し込み、前髪や顔の凹凸で影を作るので、よく見えない。
「シュウ!」背広がジャンパーを叱咤する。その声に押されたジャンパーは発砲した。弾は当たらない。しかし一瞬の火花が、ジャンパーの顔をぼくの目に焼き付けた。
 ジャンパーは中山だった。以前と違う不自然に明るい茶髪のせいで、顔全体を見るまで気付かなかった。
「逃げろ!」
 石蕗が叫んだ。
 声を張り上げたと同時に、鬼のこぶしが彼を襲う。辛うじて間に合った炎の防御とともに、彼はまた殴り飛ばされる。ぐったりと地面に横たわる。
 背広の男が何か魔法を唱えていた。ねっとりとした空気が石蕗を包むと、彼は胸を上下させるだけで動かなくなった。
 中山が引き金を引く。撃鉄の動きまでが視えて、ぼくは射線上から体をずらした。発砲音の後にコンクリートが火花を散らして小さく砕ける。
 驚きも恐怖も、感じる暇がなかった。立て続けに起こる暴力から逃げなければならない、それだけを悟るとぼくは石蕗めがけてスタートを切った。鋭敏になった五感が大雑把に、しかし素早く状況を把握する。鬼とチンピラ二人の動きはスローモーションになり、ぼくは最善のルートを駆け抜ける。石蕗の腹部に腕を引っ掛けた。殴られたように体をくの字に曲がる。石蕗は、ぐえ、と情けない声をひり出す。よかった、生きてる。
 背広の男が無数の魔法の矢を放つ。避ける技術も避けている暇もない。ただひたすらに足の回転させスピードに乗る。
 左足に熱が奔った。おそらく無数のうちの一発がかすめたんだ。興奮しているせいか痛みは薄い。
 鬼が地響きを鳴らして追いかけてくる。魔法が道路に着弾して爆発し、コンクリートの破片が頬をかすめる。両手がふさがっているせいでバランスがとりにくい。しかし石蕗の体重分のおかげか、地面を強く蹴ることができる。周囲の景色の変わり方が速くなる。速度は単独で走る限界を超えていた。奇妙な高揚感がぼくを包みこむ。
 ガードレールを跳び越え橋の下へ落ちて、また走りだす。もう追いかけてくる気配はなかった。
 それから数分走って乳酸に耐えられなくなる。標識を見ると麻帆良を出て隣の市だった。石蕗を降ろす。彼はぐったりして、う、と気持ち悪そうに胸に手を当てていた。激しく揺さぶられたダメージは大きそうだし、露出している肌は擦りむき放題で、血のしずくが垂れて痛々しい。
 土谷先生に連絡を取ると、安堵の声が聞けた。でも、二人の襲撃者は結界の内側にいるらしい。落ち合う場所を聞いて、また通話を切る。
「歩けるか?」
 石蕗は答えない。強情なのか無言のまま立ち上がる。辛そうで体のバランスが取れていない。すぐに諦め、言った。
「わりぃ、肩かしてくんねえか」

「悪い、こんなことになっちまって」
「石蕗のせいじゃないだろ」
「つってもさ、オレ、おまえがあそこ走ってるって知ってたのに……」
 石蕗の声は大きくなかった。昼間のお調子者はどこに行ってしまったのかってくらい違う。
「ヤクザ者が魔法使いって、本当なんだな」
「そりゃな。日本全体で一〇万もいるんだ。魔法使いもいるさ」
「一〇万って……」ぼくは驚くしかできない。石蕗のこめかみから垂れている血の臭いがねっとりと鼻につく。
「直海は…………」
 石蕗は詰まった後、ぼくの方を見ないで言った。
「アイツらのこと知ってんのか」
「……少し、ね」
 吐き出す息が震えた。興奮は冷め、変質した緊張と左足の熱い痛みだけが残っている。なぜ中山があそこにいたのか、それを思うと胃の底が重たくなる。アイツもぼくと同じように、何か異能に目覚めたのだろうか。
「アイツら、諦めたかな」
「わかんねえ。けど、オレたちに顔を見られてるからって、消しに来るのは難しいと思う。油断しない方がいいけど」
 石蕗が喉を鳴らす。「直海は……」ってためらっているモノを呑みこんだみたいで、「ええと……」言葉を選んでいる。
「友達、だったのか」
「そんなわけない。ロクな奴じゃないよ。ただ、顔を知ってるってだけで、思い出すのも嫌だ」
「そうか……」
「なあ、石蕗」
「ああ?」
「アイツ、金髪の方だけどさ、魔法使ってた?」
「ん、ああ。初歩的な魔法をちょっとな。でもすぐ魔力切れになって、銃に切り替えたけど。黒いスーツの方は厄介だった。鬼を召喚したのもあっちみたいだしな」
「強いんだ、黒スーツ」
 負けたのが悔しかったんだろう、「……まあ、オレよりはな」と石蕗は言い淀んだ。
「直海こそ、荒事が苦手とか言ってたくせに、ずいぶんと余裕があるみたいじゃねえか。本当に未経験なのか」
 仕返しのつもりか、強い口調だ。
 ぼくは少しカチンときた。
「あそこで放っておいたら死ぬとこだったんだぞ。そりゃ嫌だったけどさ……」石蕗が死んだら……いや、考えたくないな。
「わりぃ」石蕗の声のトーンが落ちる。
「もうこれっきりだよ、こんなこと」
「そうだな。これっきりだ。それが一番いい」
 そうだ。殺し合う世界なんてぼくには無理なんだ。
 だけどそう思ったら、余計に現実味が浮き上がった。彼らと相対したとき、風の音に混じった彼らの呼吸のリズムや、引き金に中てられた指の動きなんかが手に取るようにわかっていた。余裕があったのだ。興奮と恐怖心の麻痺が生み出した、嘘っぱちの余裕。それが覚めてしまった今、ぼくの心臓ははちきれそうなほど暴れ回っている。

 石蕗のケガは治癒魔法ですぐ治った。
 魔法先生による事情聴取の後、大学の部室棟にあるシャワーを借りて、ボロボロになったシューズを廃棄して、七時半。ぼくたちは駅前の二十四時間営業のファーストフード店で、軽い食事を取っていた。窓際の席で、ジャージの裾をめくりあげると左足の傷が覗く。魔法による治療も受けていないのに、もう塞がり始めていた。
「おかしいだろ、それ」
 石蕗が傷を指差して言う。
「……」
 〝気〟のせいだ。気のせいじゃなく。一回目の実験でもこうだった。土谷先生は否定するけど、寿命が縮むとかの副作用があるんじゃないかって思う。
 裾を下ろして顔を上げる。
「おまえこそ大丈夫なのかよ。派手に血が出てたじゃないか」
 石蕗はしれっと答える。
「魔法障壁とか局部強化やってたから、深刻なケガはねえよ。ま、今はちっと体が重いけどな」
 ただの疲労だろ、と石蕗はあまりおいしくなさそうなホットドッグをかじる。
 ぼくはガラス張りの壁から外を眺めた。すでに街は起きだして、駅前は人々の出入りが活発になっていた。
「……」気がつけば石蕗がぼくを見ていた。どこか異質な物を目にしたように、奥歯の強く噛んでいる。ギリ、という歯ぎしりが聞こえる。
「なんだよ」
「いや、なんでもねえ」
 石蕗は視線を外に移す。
 陸上部と水泳部のジャージがちらほらと見えた。そういえば記録会は今日だったか。ここにいたら精神の安定に良くないな、と安っぽいコーヒーを胃に流し込み、荷物をまとめて席を立つ。「そろそろ帰ろう」と石蕗に言う。
 でも、
「よっす、先輩」
 店を出た所で背中を叩かれる。振り返るとジャージ姿の春日さんだった。「石蕗先輩もちーす」と石蕗ともあいさつを交わす。
「うぉぃ」ぼくは唸った。
「わ、何その反応」
 春日さんはたじろぐ。そしてニヤニヤしてぼくに言う。
「行かないとか言ってたのに、やっぱり来るの?」
「……今から帰るんだよ」
 ぼくはできるだけ自然な反応をしようとするんだけど、どうにも声は攻撃的になる。春日さんは、ぼくの態度にちょっとだけ勢いを削がれたみたいだった。
「え……なんで。もしかして……遊びの帰り?」
「ちがうよ、バイトだバイト」
「え、深夜バイト? 禁止されてるんじゃないの」
「……いや……そういうんじゃなくて」
 春日さんは深夜の出来事を知らないらしい。
 周囲を見回して、話して大丈夫なのか確認する。ダメだ、非魔法使いばかりだ。店を素通りする休日出勤のサラリーマンや、店先を掃除しているファーストフード店の店員、隣の大手チェーンのオープンカフェには優雅な一服をしているおじさまなど。ぼくが悩んでると石蕗は横やりを入れた。
「バイトの最中に、空き巣と遭遇してな。死闘を繰り広げることになっちまってさ。警察に事情聴取を受けてたら、朝だったんだよ」
「おい」ぼくは石蕗を小突く。
「あーなるほど」
 しかし春日さんはうなずいてくれる。
「今ので納得するの!?」
 突っ込んだのは大河内さんだった。いつの間にかいた彼女は制服姿だった。ブレザーから夏服のベストなって、チェックのスカートはいつもの。確か今日の予報では、気温が上がるはずだ。
 春日さんは興味深々と急かす。
「で、で? 空き巣ってどんな奴?」
 石蕗は徹夜のテンションの割に冷静らしい。的確に、しかし周囲には理解できないように昨日のことを話す。
「三人組だな。一人は人間とは思えないほどの大男で、すっげえ筋肉質なの。後の二人はエアガンとか、ロケットランチャー装備してたな」
「うおお、やべー。先輩、ピンチじゃん」
「いや、こっちも黙ってなかったね。オレも灼熱のナイフを装備して応戦した」
「朝から想像力豊かだね……」
 大河内さんは眠そうに言った。
 石蕗は手慣れていた。あんな生死の境目を体験していたのに、いつも通り、ぼくが知っている石蕗だ。その裏側にさっきの緊迫した雰囲気があるのだろうか。

 話が盛り上がるのもそこそこに、ぼくは二人に言った。
「そろそろ時間でしょ。行かなくていいの?」
 駅の改札で部活連中が動き出している。
「あ、ほんとだ」
 春日さんは降ろしていたリュックサックを背負うと、改札に走っていく。大河内さんも、ぼくたちにぺこっと軽くおじぎをして、その後に続く。ぼくはようやく普段の態度をとれるようになっていた。
「うん、いってらっしゃい」
 大河内さんは立ち止まり振り返った。
「あれ、直海さん……来ないの?」
 大河内さんは、恐る恐るといった風にぼくの顔色を伺う。
「ごめん、今日はやっぱり無理だよ。疲れてるから、おうえんどころか起きてるのも難しいと思う」
 今はコーヒーのカフェインが効いているせいでしゃっきりしている。けどこの後、寮に帰ってベッドに潜れば、数分で熟睡してしまうだろう。すごく眠くなるだろう。眠い眠い眠い、死ぬほど眠い。だから行かない。そんな建前を頭の中で反芻する。
 石蕗が肘で小突いてきたけど、言い直さなかった。
「あ、そっか、それじゃ仕方ないよね」
「ごめん、行くみたいに言ってたのに」
「いいよ」
 大河内さんの表情は少しだけ陰っている。「そう……、うん、わかった」と自分に言い聞かせるようにして、その後で「また今度、スピード・キング行くね」って笑った。

 二人が行ってしまうと、石蕗が言った。
「作り笑いだな。オレにはわかる」
「うん、そうだね」そんなのぼくだってわかる。得意分野だ。
「うわ、ひでぇ。わかっててやってんのかよ」
 石蕗は軽く引いていた。
「帰ろう」
 ぼくは石蕗を無視して歩き出す。今は何も考えたくない。生きるか死ぬかのこと、大河内さんの気持ちも、そして陸上のことすらも。

 中間試験が終わり、麻帆良祭の準備が本格的に始まって一週間になる。教室では段ボールやベニヤ板がそこかしこに散らばり、埃を舞わせながら学友たちがせわしなく動いている。
 ぼくのクラスにはカレーマニアがいたので、カレーの模擬店をやることになった。ぼくは主に玉ねぎのみじん切りで、調理担当になった。一階の調理実習室で予行演習として、クラスメイトたちと一連の作業を確認している所だった。
「直海。ちょっと」
 午後も少し過ぎた頃、石蕗がぼくを呼びに来た。すでに絶賛されつつあった包丁さばきを止めて、調理室の扉の方を見た。
「呼び出しだってよ」

 噴水広場を通った。
 水の音が聞こえる。ざあざあと。文字に直すと人混みの雑音はざわざわで、ほとんど噴水の音と変わらないのに。どうして人混みの雑音はあんなに濁っていて、どうして水の音はこんなにも澄んでいるんだろう。ざわざわ、とざあざあ。文字にすると似ているけど、実際聞くとその中身は全然違う。
 噴水池の中では、小さな子供たちがパンツ一枚になってはしゃいでいる。それを見ている大人たちも薄着だった。
 横を歩く石蕗が言った。
「いい天気だな」
 意識するとそうだった。六月半ばにしては暑い。白いワイシャツは汗ばんでいる。
 空を見上げる。水色の空に薄い雲が幾重にも重なっていた。ボーっと見ていると、とても高い所にいるような錯覚に陥る。重力が無くなったら自転の遠心力でこの空に投げ出されて――なんて考えてると、何もない所で足がもつれて転んだ。広場で遊んでいる小学生がぼくを指差して笑っている。あまり痛くないけど恥ずかしかった。
「何やってんだ、お前は」
 石蕗が呆れ顔で言った。ぼくは立って、黒いズボンに付いた白い砂を落とす。恥ずかしさを逸らすために聞いた。
「呼び出しってなんの話だか知ってる?」
「十中八九がこのあいだのことだろうな。オレも同席するように言われてるし」
 眉間に力が入る。
 白のワゴン、ト○タのセ○シオが無謀運転で横転し、爆破炎上、乗っていた人々は全員死亡。あの事件はもみ消されて、ただの交通事故として報道されていた。
 石蕗は付け加える。
「お前に戦いを強要する、なんてことはないと思うけどな」
「そうじゃないよ。あのときのこと、思い出してた」
 あれから寝付きが良くない。銃口から散る火花と中山の顔がフラッシュバックして気分が悪くなる。試験にだって響いた。得意科目の数学はケアレスミスが目立って振るわなかったし、苦手な国語に至ってはサイアクの赤点ギリギリだった。
 中山はぼくを殺しに来るんじゃないだろうか。ぼくの周りをまた滅茶苦茶にするんじゃないか、そう思うと脚がぴくぴくと震える。二ヶ月前、中学生だったぼくはアイツをバカにしていたのに、アイツが魔法という実行力を手に入れた途端、こんなにも怖れている。石蕗は「あんな見習い野郎、来たって怖がることねえよ」って言うんだけど、違う。
 ぼくは〝気〟を無くして、普通の人間に戻るんだ。普通に戻って、陸上競技の世界に戻りたい。
 でもアイツは弱い者にはとことん強く、そして残酷になれる。普通になったぼくの夢をぶち壊されるんじゃないか、って思うと不安になって足元がぐらついた。

 女子エリア、とりわけ女子中等部の校舎は針のむしろだった。すれ違うたびに、なんで男がいるの、どこの男子?、本校だよ、なんていう声が耳に入り、奇異の視線が浴びせられる。石蕗はちょっとウキウキしていたけど、ぼくは彼女たちを見ないように目の焦点をずらして精神の安定を図る。
 学園長室は木製の茶色いタイル張りの部屋だった。脇にはハードカバーの本がずらりと並んだ本棚があり、その上を通る階段の上には更に本棚がある。左手にはゼンマイ式の大きな時計や、花が活けられた煌びやかな模様の壺、森林の風景が描かれた油絵、ガラス戸の棚には高そうな皿が二つと歪な形の茶碗が並んでいた。茶碗には人の顔が描かれている。白いもじゃもじゃの毛で覆われ、頭頂部がはげている人の顔。学園長だ。その手前には『木ノ香からおじいいちゃんへ』という札が置かれている。孫?
「珍しいかね」
 話のとっかかりを作るためなのか、学園長は部屋をしげしげと眺めるぼくに言った。
「いえ、特には」本当は、部屋の格式ばった雰囲気に圧迫されていたけど、ぼくはそう答えた。
 学園長は黙った。高畑先生と土谷先生はソファに座って学園長とぼくの反応をうかがっている。なんで土谷先生までいるんだって思ったけど、それについては学園長が最初に「直海君の体質のことについても、話があるんじゃ」と言った。
「ふむ」学園長はしわだらけの指でたっぷりのひげをすいた。茂みのように生えている白い眉毛。その中から二つの穏やかな光が覗く。
「まずは、ようやってくれたの」
「やったって、何をですか」
「石蕗のせがれを助けてくれたじゃろう」
 ああ、そうだった。アレは世間一般で言う、助けるという行為に入るんだった。
 石蕗は決まりが悪いのか、ぼくの横で黙ったままだ。
「それとすまんかったの。偶然とはいえ、一般人である君の力に頼るような事態にしてしまったのは、我々の責任じゃ」
 学園長は頭を下げる。
「襲撃者は逃がす結果になってしまったが、学園に被害がなくて幸いじゃの」
 学園長は事件のあらましを述べ始める。奴らの目的がとある寺の奉納品かもしれないこと。高速の高架下から侵入したこと。結界の警報装置に引っ掛かったけど、近くには石蕗以外の魔法使いがいなかったこと。
 どうでもいいと思った。石蕗から聞いていたからだ。ぼくが知りたいのはそこじゃない。
「直海くんは襲撃者の二人組の、うち一人を知っていたそうじゃな」
 事情聴取から、中山ともう一人の素性は明らかになったようだ。黒スーツの男は指定暴力団傘下の組員らしい。
「中山シュウ、この少年は不良グループのつながりから、暴力団の事務所に出入りしていたようじゃの」
 そしてそこで「魔法と気」というモノに出会い、その力に魅せられた。懇願し習得したわけだ。力を手に入れた中山は、暴力団の下っ端として働き始めた。といってもすることは変わらない。いままで通り、他人から搾取することを繰り返していた。ただ、追加されてしまった行為がある。
「警察が中山という少年の自宅を尋ねたんじゃが…………むぅ」
 学園長はまゆをひそめた。
「そのご両親と思われる遺体が二体、発見されたらしい」
 ぼくは息を呑んだ。
「本当なんですか。新聞とか見ても、そんなこと全然、見かけなかったのに」
「公開捜査はされておらんからの、新聞やテレビには出とらんよ」
「もしかして、そのはんに――」ぼくは言葉を止めて言い直す。「その容疑者って、中山なんですか」
「そうじゃ」
 中山は人を殺している、かもしれない。それも自分の親に手をかけた、かもしれない。不確定だ。けど、ぼくの中では「かもしれない」が簡単に外れてしまう。

 高畑先生は再度、事件当時の状況を、ぼくには特に中山のことを聞いてきた。ぼくは思い出したくもない中山を無理に思い出して、できるだけ客観的に述べてみる。性格、学校での態度、中学時代の交友関係、その他の素行。警察でも弁護士でもないのに、そんなこと聞いてどうするんだ、ってちょっとだけ思ったけど、理由を聞く気にはならなかった。
「よし、ごくろうさん」
 終わると高畑先生はそう言って、メモ用紙を挟んだバインダーとペンを置いた。
 ソファに座ったまま、石蕗は動かない。
「オレもコイツの話、聞いてっていいすか?」
「ああ、直海くんがいいなら、だけど」
 と高畑先生はぼくを見る。
「別にかまいません」
 ありがたかった。知っているとはいえ、魔法使いのオトナに三人も囲まれているのはきつい。理由は知らないけど、石蕗がいてくれるのは心強かった。彼は魔法使いのカテゴリーだけど、それ以前にぼくの友達だ。
 高畑先生は、ぼくが最近、図書館島の、関係者以外立ち入り禁止である区域に出入りしていることについて問いただした。
「気と魔法について調べてるだけです」
「魔道書とかで変な儀式とかしてないよね」
「使い方がわかりませんよ」
「それもそうだ」高畑先生は頭を掻いた。
「なんでそんなこと聞くんですか」
「だってなあ……」
 高畑先生は苦笑する。図書館の司書(魔法使い)に聞いたそうだ。やけに血走った眼で、魔法や気の参考書を読んでいる生徒がいるって。
 土谷先生はちょっと深刻そうな顔で間に入る。
「直海くんは陸上に執着してるだろう? 何か無茶をやるんじゃないかって、そりゃ考えもするさ」
 土谷先生はぼくにどういうものを読んだのか聞く。『魔法入門~基礎編~』『無効化術~これで勝てる!~』『こんな人がいるのか!? 異能体質』etc……。覚えてるだけのタイトルを言うと、渋い顔をする。
「無効化、ね。まったく考えてなかった、って訳じゃあなさそうだな」
「考えていたらまずいんですか?」
 何が悪いんだとばかりにぼくは言い返す。土谷先生は首を振る。
「いいや。でも力の性質上、危険が伴うからな。付け焼刃な知識や技術で、やけどじゃ済まなくなるっていうのはよくあるんだよ」
 ところで、と土谷先生はいったん切る。
「『消気術』についての項目は読んだかい?」
 ドキッとした。だって一番、読み込んだところだからだ。『消気術』は文字通り、気を体内から消し去る術の分野だ。
 土谷先生はぼくを見透かして言う。
「無くならないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないさ」
「じゃあ、どうしてそんな物があるんですか。あるんだから、ぼくの中にある気は消せるんでしょう?」
「それは絶対にダメだ。命にかかわる」
 ぼくは先生を睨む。先生はぼくから目を逸らすことなく言い続ける。
「直海君の症例は特別、ほんとうに稀なんだよ」
 特別。それは耳に残って、頭の中で何度もひびく。
「君の体では、「呼吸をして生きている」と「気を練り続ける」がほとんどイコールになんだ。体の末端まで、血液を媒体にして気が巡っているんだよ。そして相互に作用し合って、いまの肉体を維持している。わかるかい? 君の体にとって気の流れっていうのは、血液の流れそのものなんだよ。
 魔法や術で、急に止めるようなことをしたら、死ぬぞ」
 最も重要で、最も否定したいこと。一瞬意識が飛んだかと思った。
 死ぬ、死ぬ、死ぬ。三度、頭の中で繰り返した。ピンと来ない。なんだコレ。
「死ぬって……そんな…………大げさな」
 かめはめ波の練習をやめたら死ぬとか、そういう理屈じゃないかコレ。
「いいや、大げさでもなんでもないよ。そもそも気っていうのは人の体に元から備わってるんだ。君の体はそれを効率的に使ってるんだよ。いまの状態で気の供給がストップしたら、血管細胞は壊死を始める。内臓もボロボロになる」
 土谷先生はバッグからノートPCを取り出して、電源を入れる。「最近まで調べてて、ようやく見つけたんだよ」ってしばらく弄った後、グロテスクな液晶画面をぼくに向けた。
「これは元サッカー選手の類似ケースだけどね、酷いだろう? 彼は競技に戻ろうとして、術に手を出した。結果、こうなったんだ」
 画像は足だった。右脚の付け根から足全体が映っている。黒い肌が極彩と変色して盛り上がっている。土谷先生が解説していく。気によって筋肉中の血流が速くなっていたところで、消気術を使うと、強化されていた血管や筋肉は元の強さに戻る。でも流れている血液の運動量は消せない。いきなり遅くならないから、その血圧に血管や筋肉が耐えきれなくなって、パン。
 胃の中のものがせりあがってくるような感覚になる。あわてて喉のにぐっと力を入れて耐えた。写真の足を自分に重ねてしまったんだ。
 そして自分の浅はかさを思い知らされた。つい最近まで魔法のマの字も知らなかったガキが考え付くことだ。十年二十年と医者をやっているオトナが考えていないわけがなかったんだ。
「これでも気の総量は君の半分もいってなかったらしい。でも『消気術』を使ったとたん、コレだ。はっきり言ってしまえばね、これから先、増えるか減るかはあっても、〝無くなる〟ってことはない。君はほとんど一生、その力と折り合いをつけて、付き合っていくなきゃならない」
「先生が知らないだけで、安全な術があるかもしれないじゃないですか!」
「そうだね、あるかもしれない。けど私は知らないし、麻帆良《ここ》の大学病院の先生にも知っている人はいなかったよ。これから定期検査を挟みながらさらに調べていくけど、あまり期待しない方がいい」
 全身から力が抜けていく。うつむいて目を閉じる。このオトナを見ていたくなかった。現実味が、いま自分がここにいるという実感が消えうせ、土谷先生の言葉は意味のない音の連なりになる。

 校舎を出た。ぼくは口を聞かない。石蕗も。彼は気まずそうにぼくの後ろを歩いている。
 広い交差点に出た。右手は上り坂で、左手は下り坂。上ると寮の方面で、下ると湖に出る。
 立ち止まった。無言のまま視界の隅から隅までを見渡す。学園祭の準備期間だからか、学生の通りは多い。荷物を持って、露店の設営をして、看板を描いて、それが楽しそうで――。
 石蕗が言った。
「直海……泣いて、るのか?」
 泣いてない。けど、言われた瞬間、せき止めていたものが全部壊れてしまう。目じりが熱くなって、液体があふれ出す。
 石蕗が「おい」って言うのを無視して、ぼくは走り出していた。。泣き顔を見られたくなかったし、この嫌なものから逃げたかった。
 緩やかな下りを加速して、平坦な道になるとトップスピードに乗る。綺麗な直線だ。この速度が法律に触れていることも忘れるくらい。湖の方から吹きつけてくる風を切り裂く。こんな時でも走ることは快感をぼくに与えてくれる。
 堤防の手前、二十メートル弱の所でその存在に気付く。もう止まれない。コンクリートの堤防はぶつかったら――いまのぼくだったら、堤防の方が砕けるだろうけど、たぶんそれは痛い。
 跳んでしまおう。後先なんて考えなくていいや。跳ぼう。なんかもうわけがわからない。跳ぼう。
 踏切で右足に体重を乗せる。左半身を捻り、腰をぐいと前斜め上方に押しだす。右足が離れる。堤防を跳び越え、宙に放り出された。
 スローモーションになんてならない。普通に宙に放り出され、普通の時間感覚で落ちていく。これが九死に一生ものだと違うんだろうな。
 しぶきがあがった瞬間、目を閉じた。急に冷たいものが体の表面を這いまわる。飛び込んだ衝撃で生じた泡の音が聞こえる。
 ――静かだ。
 苦しいとか溺れるとかそういう生命の危機的なことを考える前に、ぼくは思った。
 水の流れる音と泡の音、体を包む水の冷たさ。重力の方向に顔を向ければ、水面から入ってくる光も感じない。うっとうしい世界から切り離されて、独りになる。
 全身の力を抜いて、浮き上がるのを待つ。少しずつ空気を吐いていって、呼吸の無い苦しさをまぎらわす。たぶん一分ちょっとなら我慢できる。
 背中に空気の温かさを感じた。水面から出たんだろう。手足をゆっくり動かして、水面から頭を出した。浮くだけなら泳げなくても案外できるものだ。
 水面から顔を出す。岸へ移動する手段もないままだけど気にならない。ゆらゆらと漂っていると太陽の光が眩しすぎた。
 しばらくして声が聞こえた。聞き覚えのある女の子の声。それはだんだんと近付いて来て、ぼくは目を開けた。
「大丈夫ですか?」
 やけに必死な声で、そう言ったのは大河内さんだった。ボートの縁《へり》に手をかけてぼくの顔を覗き込んでいる。ぼくの顔に影がかかる。
「って直海さん!?」
 ウソ? なんで? としきりに言っていた。同乗していた女の子はぽかん、と口を開けていた。ぼくは舟べりをつかんだ。
「悪いけど、岸まで引っ張ってくれないかな。泳げないんだ」

 ボートに引っ張ってもらっている間中、ぼくは泣き顔を見られたくなくて、ずっとうつむいていた。泣いてるのはバレてるけど、上げられない。
 大河内さんと、もう一人の名前も知らない女の子はひそひそと言い合っている。何で泣いて、先輩、喫茶店の人って断片的な言葉が耳に入ってくる。今は頭の中がぐちゃぐちゃでわからないけど、後で思い返したら恥ずかしいんだろうな。
 水から金魚みたいな臭いがする。当たり前か、麻帆良湖には周辺の生活排水が流れ込んでいるから、そんなにきれいじゃないんだ。濁っている。覗きこんでも、水面の下はちっとも見えない。見えないって怖いな。陸上やってたときは時々こんなこと考えてたっけ。明日勝てるかな、レース運びはうまくいくかな、最後のストレートで失速しないかな……そういう未知の、しかしわくわくする怖さがあったんだ。あったんだ、本当に。バケモノみたいに速くなくて、八〇〇メートルを走るだけで息も絶え絶えになる体だったんだ。もう六月だってのに、ひどく寒い。寒くてカタカタ震えてくる。
 木製の桟橋に上がってうずくまっていると、柔らかい感触が頭にかかった。無地の青いタオルだった。振り向くと大河内さんがかけてくれたんだってわかる。
「貸してあげるから、拭きなよ」
「ありがと……」
 大河内さんは隣に座った。彼女の友達はもう帰ってしまったのか、いない。
 鼻をすすり、涙をタオルでぬぐう。すすってもぬぐっても後から出てくる。みっともないけど止まらない。
 背中に何かが当たる。大河内さんの手だった。彼女は黙ってぼくの濡れた背中をさする。それが恥ずかしくて悲しくて、なんだか胸が痛くて――。
 もっと出てくる。
「ちくしょう」
 苛立って、こぶしを握る。振り上げて下ろそうとするんだけど、
「ちくしょう……」
 やめた。体に〝気〟の感覚が充満していた。大河内さんの前でやっちゃダメだ。
 ちくしょう。
 なんで、なんでなんでなんで。
 なんでこんなにつらいんだ。
 なんでこんなに涙が止まらないんだ。頭の中がひっかきまわされて、とにかくわからない。
 たかだかスポーツができなくなったくらいで、なんでこんなにも心が引き裂かれなくちゃならないんだ。
 いいじゃないか。ぼくは人間を超えたんだ。すごく速くなったんだ。最高に気持ちいい速さを手に入れたんだ。中山が来たって怖くない。
 ちがう。
 そんなんじゃない。そんなものいらない。ぼくが欲しかったのはこんなものじゃない。
 大会に向けて練習している時間。スタートラインに立つ前の不安。立ってからピストルが鳴るまでの程よい緊張感。そしてそれらを爆発させて走りだす。全部出し切ってゴールしたらすごく爽快な気持ちになれる。記録が出たり、勝てたりしたら誇らしい気持ちになる。負けたとき、酷いタイムだったとき。そしてそれらを仲間と分かち合うこと。全部ひっくるめて、ぼくが欲しいものなんだ。
 おまえのせいだ。
 自分の体を罵った。憎い。筋肉や骨格はどこもバランス良く協調しているのに、気、おまえは何でこんな所にいるんだよ。おまえはぼくの中に住んでいちゃいけないんだ。神さまが許しても、ぼくは絶対におまえを許さない。

 ひとしきり泣き終わると、もう西の空が赤くなっていた。貸しボートの営業所はもう閉まって、人通りも少ない。
「ごめん。みっともないとこ、見せちゃって」
 思えば女の子の前で泣くなんて初めてだった。大河内さんはかぶりを振る。「ううん。気にしてないから」
 ずっと座っていたせいで、立つと脚にしびれがはしる。制服のズボンは湿っていたけど、シャツはもう乾いている。腕時計を見ると、七時を過ぎた所だった。もう寮の夕飯には間に合わない。
「送っていくよ」
 まだ明るいけど、ぼくは言った。
「いいよ、その顔で送られたら私が困る」
 それもそうだ。寮の近くで友達とかに会ったら、変な誤解を招く。
「目が充血して鼻水たらしてる男と歩いてたら、ある意味安全じゃないかな?」
 大河内さんは笑った。
「なんだ、もう冗談とか言えるんだね」
「ああ、泣いたらちょっとすっきりした」
「そっか」
 大河内さんはおもむろに少しかがむと、ぼくのズボンの端を摘まんだ。ポニーテールが肩口から垂れる。
「それより服、乾かさないと風邪ひいちゃうよ」
「もうほとんど乾いてるよ。気温、けっこう高いし」
「油断しちゃだめ。濡れてると思ってるより冷えるんだよ」
「うん、帰ったらすぐ風呂入る」
 目元に残る涙をふく。さっきはわからなかったけど、タオルはいい匂いがした。新品のタオルだったようだ。ほとんど使った後がなかった。涙と鼻水、臭い水で汚してしまって申し訳なく思う。
「タオル、洗って返すよ」
「いいよ、そんなに手間じゃないし」
 大河内さんはぼくの手からタオルを取った。
「いや、そういうわけにはいかないって。ちゃんと洗って返すよ」
 ぼくは取り返そうとするんだけど、
「いいって。それより本当、早く帰りなよ。日が沈むと、それじゃ寒いんだから」
 って彼女は離れていく。
「それじゃあね」
「あ」ぼくが呼びとめる間もなく、大河内さんは走って行ってしまった。
 ありがとうが言えなかった。タイミング悪いな。
 ちょっと走れば追いつくのに、追いかけられない。大河内さんにはすっきりしたって言ったけど、ぼくは結局のところわからなかった。泣き終わった後でも、やっぱり陸上はやりたい気持ちは変わらないし、気が邪魔っていうのも変わらない。確かにすっきりしたと思う。でもこのすっきりっていったい何なんだろう。


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