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『科学的社会主義』 2008年3月号(第119号)


追悼 横堀正一(よこほり まさかず)さん




        告 別

                                        川村 壽子

   幕張駅の改札を出ると
   長い跨線橋を左に下った左先にその会堂があった
   とりわけ風の冷たい夜
   左へ、左へ、だな
   式場は一杯で、階段の途中に並ぶ
   程なく、その階段の列も後尾が見えなくなる
     岩手に行って…
     戻って急にだったって…
     一週間前に電話で話したんだよ
     お酒が好きだったから…
     煙草も…
     あ、どうも、おひさしぶりです…
 
   新社会党のある年の大会で
   横堀さんが二号議案を提案した
   〇七年問題が言われていた時期
   これから地域に戻る団塊の世代の退職者たちに
   どう、仲間になってもらうか
   地域労働運動の構築、という視点を改めて強調された
   聞いているうちに
   準備していた「日の丸・君が代」強制とのたたかいの報告が、頭の中で組み直されていくのを感じていた

   文体も、筆跡も美しかった
   そのせいか現国か社会科の教員だったかと思っていた
   英語の先生だった
   たくさんの教員が動員された東京オリンピックでは
   選手づきの通訳もしたのだそうだ
   そんなことは何も知らなかった

   退職の年に新社会党が出来た
   以降党人としての生活
   だからたった十二年
   でも、その十二年にどれほど多くの方々が
   信頼を寄せたことだろう
   横堀さんのおっしゃる事なら…
   横堀さんはこう書いている…
   横堀さんもいたんだ…
   横堀さんに聞いてみたら…
   横堀さんになら…
     臆病な鶫も自分の巣の在処を教えたのだ

   教育基本法改悪とのたたかいで見知った顔ぶれ
   沈痛な面もちの参列者の間を
   菊の花を受け取り献花台へ歩を進める
   少し若い横堀さんの遺影に相対していた前列の方が
   振り向きざまハンカチで顔を覆った
   受け容れられない…というように首を振って
   続いた私も、ありがとうございましたの言葉は
   口の中でくぐもり、目からあふれ出た



  横堀さんを悼む

                                        社会主義協会代表 坂牛哲郎

 突然の訃報

 横堀さん、あまりにも早い、突然の死であった。私があなたの訃報に接したのは、一月十五日早朝であった。朝おきて書斎に入ると、留守番電話がチカチカと光っていた。すぐ受話器を耳にあてると、上野さんの声で、横堀さんが、つい先刻逝去したという。一月十四日八時半である。私は絶句し、すぐ上野さんに電話した。
 「岩手に講演にゆき、帰ってきたが、胸が苦しいといって次の日、救急車で病院にはこばれたが、だめだった」という。
 なんということだろう。私は昨年十月から体調をくずし、十二月終りやっと地獄の門から脱出してきたというのに。十才も若い横堀さんが、亡くなったとは。人の命運つき難しと、しばし、呆然としていた。
 思えば横堀さんとの付き合いは長い、三十余年にもなる。六十年代、私は日教組、総評本部にいた。この頃日教組各県組織は校長組合であった。それまでの都高教委員長は、例外なく、有名校の校長なり、全国校長会の会長になった。千葉高教組も例外ではない。このとき、渡辺さんが書記長になり、高教組の体質改善にとりくんでいた。
 総評の太田、岩井は、「いま資本、権力が全力で攻撃をかけてくるならば、持ちこたえ得る組織は少数だ」と語っていた。日教組は、小林、宮之原時代で、勤評、安保の大闘争を闘い、「丹頂鶴」といわれていた。赤いのは頭だけで、体は真白だというのである。
 私は電産パージ後、都立高の教員になったので、都高教の校長体質には我慢できず、役員選挙にでて、日教組中執となった。当時の日教組はうちつづく大闘争の最中で、官権の弾圧はきびしく、我々中央執行委員は、席のあたたまえるいとまもなく、全国各県、各職場のオルグに忙殺されていた。近いこともあり、千葉高教組には、ひんぱんにでかけ、泊りがけで有志の人々と対策を練り、学習を深めていた。

 逸材 横堀正一

 このとき、私の前に現れたのが、横堀さん、君だった。性寡黙にして、沈着、文は正確にして、無駄がない。逸材である。渡辺さんに「良い人を掘り出したね」ときくと、「習志野高校での教え子だ」と答えた。やがて彼は病に倒れた渡辺さんを助けて、書記長、委員長となり、千葉高教組の再生にとりくんだ。
 七九年私は妻の大病のため、委員長の職を辞し、職場に帰り、八一年再度出馬したとき、目にしたのは、総評「労働戦線統一推進会議」の「基本構想」である。その内容は目を疑うような文言がつらなっていた。情勢分析、方針は「日経連方針」となんら変るところがない。これにもとづいて、再編成が行われるなら日本労働運動の潰滅は必至である。
 私はただちに、都高教執行委員会、中央委員会、定期大会で「基本構想反対」を決定し日教組全国戦術会議に提起し、全国各県に働きかけた。このときただちに賛同したのが、千葉高教組である。横堀さんは、当時書記長であったが、大病で倒れていた渡辺さんに代り組織をとりしきっていた。
 当時日教組委員長は槇枝氏であったが、総評議長を兼ね、富塚事務局長と共に一路「右翼再編成」にのめりこんでいた。これは定期大会で明確に反対を決定する以外に道はないと思い、高校部総会で反対を決定し、左派系諸県と大会対策にとりくんだ。北海道、福岡、長崎等ただちに賛同し、会を重ねるごとに、基本構想反対諸県が拡大していった。
 そして八二年第五六回定期大会では、左派系共同修正案が大会決定されたのである。しかし総評は臨時大会で、基本構想容認を決定しようとした。日教組は総評臨時大会直前に臨時中央委員会を開き、左派系諸県の修正案を採決に付し、一票差で基本構想反対を決定した。このため総評は臨時大会で何も決定できず、流会となり、後に規約に違反し、日本の命運を決定するこの重大事項を拡大評議委員会で決定することになる。
 この間、横堀さん、君の奮闘はめざましかった。資料を整理しての文章づくり、各県への周到な連絡、大会での冷静にして剛胆な討論、思い出しても私のまぶたに焼きついて離れない。横堀さん、この世を去っても永久に日本労働運動の再生を見守り後輩をはげますことを、心から願う。



 大人・横堀正一さん

                                           新社会党副書記長 石河康国

 今新社会党本部の横堀さんのデスクには花がおかれている。「ヤア」と言って入ってくるように思えて、まだ引き出しを片付ける気になれない。
 横堀さんと新社会党本部で机を並べて仕事をしたのは、八年間余だった。とにかくかかってくる携帯電話が多かった。ちょっとでも席をたつと、机上の携帯がブーブー鳴った。普通携は帯番号は教えたくないものだ。横堀さんは分け隔てすることなく誰にでも教えてあげたらしい。
 かけてくるのは実に多彩な人々で、無理難題の頼みごともかなり混じっているらしいのは、応答からもうかがえた。どこやらの巨大な倉庫に倒産会社の衣料品を集積する算段らしき相談、金のやりくりの世話、病気治療の相談などなど、横堀さんの携帯は何でも相談所だった。
 横堀さんのデスクの下は売れ残りのパンフレット類が山積で、大掃除のたびに旧いのはだいたい処分した。いろいろの運動体からのパンフレット販売依頼を引き受け、重いカバンにつめて売り歩くが、しょせん限界がある。最後はたてかえ払いしたのではなかろうか。
 隣でつい官僚的に仕事をこなすことばかり考えているものだから、いいかげんに断ったらいいのにとイライラすることもあった。
 しかし一見無駄に見える労力が、実は横堀さんの大きな仕事を支えていたと思う。
 書記長として、全国によく足をはこんだ。そしてよく相手の言い分に耳を傾けた。説き伏せようとはしない。会議が終われば疲れていても交流につきあった。
 そしてさまざまな問題は横堀さんの雰囲気の中で自然と氷解することが多かった。
 人間関係の摩擦も横堀さんがクッションになった。どちらの言い分もよく聞いたし、人の批判は余程でない限り口にしなかった。対立する言い分をすべて自分の腹に収めたのだから、さぞ悪口雑言がたまっただろう。それを口外しなかったのだからえらい。もっとも一杯入ったときには、当人を前に寸鉄人をさす皮肉が口をつき、いいクスリとなることもあった。皮肉を言われた当人が怒れないのは、人徳である。つい面倒な人間関係や調整などは横堀さんにたよりがちだったが、そのストレスも命を縮めたのだろう。
 これを要するに、横堀さんは誰からも慕われたのである。とりわけ在日朝鮮人のひとびとからは信頼されていた。拉致問題で在日の人びとが謂れなきバッシングを受けているときも、身を粉にして走り回った。教育問題とならび、在日の人権を守り日朝友好を推進するにあたり、横堀さんの果した大きな役割は周知のことである。講演の依頼も多かった。如何なることがあろうとも右顧左眄せず、在日のひとびとに日本帝国主義がなしてきた罪業を償う意思はゆるぎなく、その姿勢は新社会党の国際主義のシンボルでもあった。
 横堀さんの神経の細やかさは執筆活動でよくわかる。ほとんど毎日何かを書いていた。党の機関紙局長だったが、事実上の論説委員長でもあった。『週刊新社会』の主要論評記事をはじめ党の各分野のパンフレット、ニュース類、各方面の雑誌類からの依頼原稿など、週二~三本はかかえていたと思われる。短い原稿でも下書きをしてからパソコンに打ち込んだ。だから文章はよくねれて分かりやすかった。他人の原稿の校閲も神経を使い、いつも多くの赤字をいれていた。執筆は教育や労働、朝鮮問題などが中心だったが、実に多岐にわたる分野に関心があり、よい意味での世間常識がそなわっていた。
 大雑把に見える人ほど神経が細かいのはよくあることだが、横堀さんはその典型的な人だった。横堀さんのストレス解消方法は、酒の飲めない私にはよくわからない。横堀さんは原稿依頼を断ったことはない。私もそうだが執筆への熱中がストレス解消になる人種もいる。また、たまにだが行き先不明でいなくなることがあった。あとでポロリと口をすべらせるものだから、行き先が映画館であることがばれてしまった。鑑賞の対象もかなり幅が広かったようだ。しかし、党務がいそがしく、この二年間はほとんど行けなかったのではなかろうか。
 人の値打ちは棺の蓋を閉じてわかるものだが、大人であったと今しみじみ思う。小人にはとても語りつくせぬので、ここらで筆をおく。


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 横堀正一さんを偲ぶ会 各界から250人 足跡をたたえる       (『週刊新社会』08年7月8日号)

 新社会党前書記長の故横堀正一さんを偲ぶ会が6月29日、ゆかりの日本教育会館(東京都千代田区)で催され約250人が故人を偲んだ。
 世話人会事務局の上野建一氏のあいさつに続き、菅谷貢氏が横堀さんの事跡を綴るスライドを解説。三浦敏夫、栗原君子、除忠彦(ソ・チュンオン)、中小路清雄、槇枝元文、鎌倉孝夫、伊藤成彦、加藤晋介の各氏が在りし日の横堀さんを語った。このなかで栗原新社会党委員長は、この日に閉会した第13回党大会の模様を遺影に伝えた。
 妻の照子さんは、亡くなる直前の夫の息づかいを伝え、「夫は誠実な人でした。常に他人優先で、私には口下手で不器用な人でした。でも多くの人に親しまれ幸せでした。本人の念願は国会に新社会党の1議席を上げることでした」と語った。
 小森龍邦氏が献杯の音頭をとった。