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ザ・特集:「福島第1」20キロ圏内から避難中 原発推進者の悔恨

 ひとりの「原発推進者」が、東京電力福島第1原発事故で家を追われた。敦賀原発(福井県)などを稼働している「日本原子力発電」(原電、本社・東京都)元役員で、原発事業に長年関わってきた北村俊郎さん(66)だ。今秋「原発推進者の無念」(平凡社新書)を出版した。寒風の吹く福島へ、その「無念」を聞きに向かった。【江畑佳明】

 ◇原子力は行き詰まると思った。まさか大規模汚染とは。

 ◇「事故の可能性1/10000」。今考えれば確率論は誤り。

 ◇電源喪失の可能性排除し、現場で確認しなかった。

 北村さんは現在、同県須賀川市の借り上げ住宅で暮らしている。JR須賀川駅に乗用車で迎えに来てくれた北村さんと、郡山市にある大型イベントホール「ビッグパレットふくしま」を訪れた。

 「ここ、本当に寒かったなあ」

 車を降りた北村さんは、そうつぶやいた。原発事故の直後、ここに富岡町、川内村の住人ら、最大約2500人が避難した。12年前から富岡町に住む北村さんも、3月16日から約1カ月半をここで過ごした。「すぐ帰れる」。そう思っていた。

     ■

 原電入社は、1967年。東京五輪後の「いざなぎ景気」のまっただ中で、若者たちはラジオから流れるグループサウンズに酔いしれていた。

 原電は66年、日本初の商業用原発、東海発電所(茨城県東海村)の営業運転を開始した。67年には、福島第1原発1号機の建設も始まった。高度成長は、電力のさらなる安定供給を求めていた。

 実は「学生時代は原子力に全く関心がなかった」そうだ。経済学部出身だが、商売よりももっと社会に役立つ会社はないか、と探し当てたのが原電だった。

 原電を退職後、05年から、原発事業に関するシンポジウムや原子力産業への就職活動セミナーなどを行う「社団法人 日本原子力産業協会」(東京都)の参事を務めている。すでに一線からは退き、富岡での暮らしを楽しんでいた。

 原電時代は、東海原発、敦賀原発で長く勤務。主な仕事は、原発労働者の安全管理。原発建設や定期点検の現場で、足場の悪いところの有無、手すりの強度など事故予防に努めた。原発全体の構造も自然に覚えた。「原子炉から何から、原発全体を見ないと安全管理はできないですから」

 目の当たりにしたのは、それだけではない。メンテナンスを請け負っている下請け、孫請けの多重構造。大手電力会社や原子炉メーカーの閉鎖的な体質……。「トイレのないマンション」と例えられるように、使用済み核燃料は蓄積される一方。その再利用を狙った高速増殖炉「もんじゅ」は、度重なる事故で軌道に乗らない。「電力の安定供給」という錦の御旗(みはた)の下で、いくつもの懸案が先送りされていた。「負の側面」が気になり、業界誌に原稿を書いては、警鐘を鳴らした。「原発事業はいつか行き詰まると考えていた。でも、まさか、放射能汚染が大規模に広がる事態は予想していなかった」

 原発の安全性を、住民集会で説明したこともある。「事故発生の確率は1万分の1と極めて低い」と解説すると、ある住民が「それは明日起こる可能性もあるということですよね」と指摘した。返す言葉がなかった。「今考えると、あの確率論は誤りだった」

 事故後、妻に「これまで『スリーマイル島レベルの事故は日本では起きない』とさんざん言っていたじゃないの。原子力業界に苦言を呈したのはわかるけれど」と何度も叱られた。重く響いたという。

 結果論かもしれないが、地震大国で海岸線の長い日本で、大地震や大津波で原発が破損する可能性は、素人でも想像できる。専門家はなぜ、思いが至らなかったのか。

 「それはね」と、ひと呼吸置いて答えた。

 「『世界に冠たる無停電の実績がある日本で、長時間の電源喪失は考えにくい』と統計だけで判断し、そういう発想を排除したからです。現場に足を運び、『本当に電源回復できるか』などを確認していない。そこに最大の問題がある」。また、チェルノブイリ事故の教訓も「政府や電力会社は『炉のタイプが違う』という線引きをしてしまった」と指摘する。事故の可能性を少なく見積もった結果、日常の避難訓練は簡素化され、住民も危機感を持たなかった。

 厳しく批判するその視線は、どこか寂しげだった。

     ■

 「ビッグパレット」の敷地には、川内村、富岡町のプレハブの臨時庁舎があり、原発事故で避難した人たちの仮設住宅も隣接している。周囲を歩きながら、避難生活の話になった。

 消費期限切れのパンが提供されるほど貧しい食糧事情。行政からの情報不足。誠意を感じさせない東京電力の賠償対応。元の生活に戻れるかわからない不安……厳しい現実と向き合ううちに、原発への考えを変えざるを得なくなった。「いったんこんな大事故が起こった以上、原発はもう、経済的に割に合わないことが明白になったのではないか。これから人口減の時代に入り、エネルギー需要も減少へ向かう中、どう考えても説得力のある論理形成は難しい」

 自然と庭のある暮らしを求め、妻とネコたちと、いおりを結んだ富岡町。福島第2原発の所在地で、交付金で行政サービスが充実しているのも魅力だった。自宅は福島第1原発の半径20キロ圏内の警戒区域に含まれ、立ち入り制限されている。事故後一時帰宅できたのはわずかに3回。放射線量は北村さんの推計で年間40ミリシーベルト以上、とても元の暮らしに戻れる見込みはないという。「自宅の不動産価格はゼロでしょう。老人ホームに入る資金に、と考えていたんですけどね」とぽつり。

     ■

 長年携わった原発によって、現在の生活と老後の未来予想図が奪われる--。何と皮肉な現実だろうか。

 「それでも」と北村さんの声が大きくなった。「私は原発を推進した者として、また被災した立場として、自分の経験を発信し続けるべきだと思っています。その責任がある」

 事故後、講演に招かれることが多くなった。被害者となって初めて、無批判な原発推進の怖さを再認識した。自分もその流れの中にいた自責の念が、発言の原動力になっている。

 参事を務める日本原子力産業協会は原発関連企業や自治体で構成されている。脱原発派から見れば原発推進側だ、と言われるかもしれない。「批判は予想しています。しかし内部にいながら原発の問題点を指摘してこそ、意味がある。これまでは内部の批判を受け入れる体質が業界になかった。出版後原発OBから『よくぞ書いてくれた』と激励の手紙をもらいました」

 取材を終えると、すでに日は沈み、冷たい風が吹き付けていた。

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 「ザ・特集」は毎週木曜掲載です。ご意見、ご感想はt.yukan@mainichi.co.jpファクス03・3212・0279まで

毎日新聞 2011年12月8日 東京朝刊

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