毎月の座談会の形式を排し、対話による懇談の場とするところから、試みてはどうだろうか

「縁」の世界に、単純なものは一つとしてなく、それは複雑を極め、絡み合った糸のごとくほどくことは難しく、それぞれの生き方に悩みや葛藤ばかりか、人生に暗い影すら落としてしまう恐れさえある。

そのようにこじれた関係を修復することは永遠に不可能にさえ見えてしまうものだ。

だれしもが、何度もそうした状況にぶつかり、苦い思いを味わったり、途方に暮れた経験があるに違いない。

しかし、そんな不可能とも思える関係性の打開の鍵は存在する。

それは「対話」だ。

対話によって「順縁」の縁はさらに深みを増し、「逆縁」の縁は、対立ではなく、ある種の触発へと少しずつ変化していく。

歴史家・トインビー博士は、池田SGI会長との対談の折、こう語ったという。

「人類の道を開くのは対話しかありません」「あなたはまだ若い、これからも世界の知性との対話を進めてください」(聖教新聞2007年10月17日付)

この博士の言葉が、SGI会長が進めようとしていた「対話」の闘いの背中を力強く押したことは言うまでもない。

博士の言葉通り、SGI会長は世界と識者のみならず、無名の庶民とも分け隔てなく、寸暇を惜しんで語らいを重ねてきたのだ。

事実、SGI会長が会長を勇退して、まず初めに行ったことは、創価学会草創の功労者宅を訪問しての一人ひとりとの対話だった。

これまでも何度も触れてきたように、現在の創価学会にこの対話が絶対的に不足している。

伝達は対話ではない。

指導は対話ではない。

講義は対話ではない。

対話の不足は一人ひとりの絆を弱め、結果的に組織に温かな血が通わなくなっていく。

師が私たちに命を削って教えてきた対話の価値について、もっともっと追求していくべきなのではないか。

毎月の座談会の形式を排し、対話による懇談の場とするところから、試みてはどうだろうか。

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内部だけにしか通用しない用語や組織的常識に頼らないということはもちろん、私たち自身が社会に属する一員であることをしっかり自覚する必要がある

「創価学会は社会貢献活動についても積極的であるべき」という考え方についてはSGI会長がさまざまな場面において、私たちに呼びかけてこられたことだ。

具体的な実践に臨むに当たって、欠かせないのは、私たちの内実がどこまで充実したものであるかについて、謙虚に自らに問いかけてみるという行為であろう。

なぜなら社会貢献というと、とかく力が入りすぎて、対象にとってありがたくないものになったり、独りよがりの自己満足に終わってしまうことがしばしばだからだ。

社会貢献という活動は、言うまでもなく外に自分たちの命や体を開いていくものから、貢献される側が何を望み、何をされることが喜ばしいことなのかなどについて、慎重かつ注意深く、繊細な感受性をもって事に臨まなければならない。

たとえば、内部だけにしか通用しない用語や組織的常識に頼らないということはもちろん、私たち自身が社会に属する一員であることをしっかり自覚する必要があろう。

そうした意識がないままに、自分たちの論理や常識で社会貢献と大書された錦の旗を振りかざしても、社会に受け入れられるどころか、奇異な目で見られるのが関の山なのだ。

実際、そうした失敗はかつての青年部が、大学校(オープンハウス)運動で痛いほど味わうという経験をしている。

しかし、当時と今は大きく時代状況が大きく変わった。

今や地球規模の諸問題が当時に比べ鮮明に私たちの前にたちはだかっている。

地球温暖化、地域紛争とテロ、エネルギー問題、食料問題と貧困……さらに世界的経済危機、東日本大震災が追い撃ちをかけた。

だれしも社会問題に決して無関心ではいられないという機運が全世界中で高まっていった。

事実、社会や人に役立つ行動をしたいと望んでいることをはっきりと口にする若者が増えている。

ましてや信仰を持つ私たちにとって、社会に正面から向き合い、考え、行動を起こさなければならない時がいよいよ来ている。

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自己における「人間の権利」を意識としての獲得なくして一体、他人のいかなる「権利」を獲得しようというのか

私たちは、どこへ向かって、何に対して、人権の闘争を起こせばよいのか。

それは”自己の内に眠る蒙昧との闘争”であると私は思う。

名誉会長は、”「人間の権利」に鈍感な者”と表現する。

自己における「人間の権利」を意識としての獲得なくして一体、他人のいかなる「権利」を獲得しようというのか。

文豪ユゴーは「人間の権利」をこう語っている。

人の精神から何物をも取り去らないようにしようではないか。除去することは悪いことである。ただ改革し進化させなければいけない。人間のある種の能力は、未知なるものの方へ向けられている、すなわち、思想と夢想と祈祷とが。未知なるものは一つの大洋である。人の本心とは何か? それは未知なるものに対する羅針盤である。思想、夢想、祈祷、そこにこそ大なる神秘的光輝がある。それらを尊敬しようではないか。人の魂のおごそかなるそれらの発光はどこへ向かって進むか。それは影へ向かってである。換言すれば光明へ向かってである。
民主主義の偉大さは、何物をも否認しないことである。人間の権利の側に、少なくともその横手に、魂の権利がある」(「レ・ミゼラブル」 岩波文庫)

人の精神から何物を取り去ってはならない――人権の闘士・ユゴーの面目躍如たる箴言であると思う。

人権の闘争を開始するに当たって、肝に銘ずるべきは、この言葉にあろう。

何も取り去らない、除去しない、否認しない。

「魂の権利」を守る闘いは、ここから始まるのではないか。

つまり、自己の魂を何の制約もなく飛翔させることが必要だ。

さて、次に何が必要となるのか。

それは、自己の魂を善導することにある。

何を基準に? 言うまでもなく、大聖人の仏法であろう。

私は、当たり前のことを言っている。

しかし、各人の「魂の権利」から発するところの、要するに人間として本来あるべき姿、理想の人間像を志向するという前提に立って初めて、「人権」の価値は生まれ、大聖人の仏法が輝きを増す。

その目的観なしには、人間は信仰を持つ意味はない。

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