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[28467] 【R15】コッペリアの電脳(第二章「ポルカドット・スライム」連載中)
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/25 21:00
あらすじ。
オリキャラ兄妹(not 転生者)が暴れたり暴れたり暴れたりします。
たぶん。

もう少し詳しいあらすじ
第一章 ハンター試験
 エリス・エレナ・レジーナの能力は強力すぎ、それ以上に危険すぎた。
 人類が彼女を踏み潰す事を恐れた父と義兄は一計を講じる。
 ハンターライセンスという名の特権を得る為、彼と彼女は試験を受けた。

第二章 ポルカドット・スライム
 雨が降ると人が死ぬ。通称、雨天集団窒息死事件。
 事件解決に協力する事になったエリスは、カイト達ハンターチームに迎えられた。
 彼女は知らない。水面下で蠢く黒い双眼の存在を。幻影旅団という名の欲望の化身を。
 荒野に荒れ狂う豪雨の中、血と鉄が混じりあう惨劇が幕を上げる。

第三章 闇の中のヨークシン
 暗闇の中、アルベルトはひっそりと耐えていた。
 命より大切なものを取り返す為に。彼女の笑顔をもう一度この目で見る為に。
 拳に頼る事はできなかった。情報を司る事もできなかった。
 1999年9月4日、夜半、ヨークシンでは雨が降っていた。

外伝  御子を見守り奉り
 彼は願った。たった一度の人生なら、せめて納得して死にたいと。
 彼女は願う。たった一年だけでいいから、あなたの人生を下さいと。
 そして、間違いが起こってしまった。千年は、あまりに短すぎたのだ。

最終章 女王の薔薇
 それは、具現化した人類の希望だった。
 突如発生したキメラアントに関する事件は、最悪の結末を迎えようとしていた。
 開いてしまったパンドラの箱は、鮮烈な絶望で世界を飲み込みつつあった。
 絶対零度の外套を纏ってアルベルトは駆ける。
 海が見える丘に小さな白い家。かつて、そんな夢を見た少女がいた。

※注意。
この物語はフィクションです。実際の個人・団体・事件等とは一切関係ありません。
また、如何なる思想、良心および信仰等を肯定もしくは否定する趣旨のものでもありません。



[28467] 第一章プロローグ「ハンター試験」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:54
 昔、死にかけた記憶がある。

 念能力の修行中だった。それまで覚えは誰よりも早く、体術でも燃でも道場の誰より先んじていた。弟子が総勢10人ほどの、至極小さな道場だったけど、それでも天才の名をほしいままにしていた。念も、精孔を開く所までは誰よりも早かった。

 それが、一日で崩れ去った。

 精孔を開き、全身から吹き出すオーラを認識した。あとはこれを体へ留めるだけだ。四大行でいう纏の習得の修行だった。事前の座学もイメージトレーニングも完璧で、失敗するはずがないと、そう思っていた。いや、もしかしたら失敗という概念すら忘失していたのかもしれない。

 結果としてオーラは一向に留まらず、一晩中瞑想しても手ごたえさえ掴めず、幼き天狗の鼻は見事に折れることになった。纏の習得どころではない。噴出する量が多すぎて生命維持さえ危ぶまれる事態だった。元通り精孔を閉じる事さえできなかった。朦朧とする意識の中、冥府へと落ち行く実感があった。

 生命力の極端な不足で生死の境をさまよった僕を、道場の皆は必死に看病してくれたらしい。特に師匠の娘さん、今の義妹には世話になったらしいと、後から皆に教えられた。1週間以上もの間、昼夜問わず付きっきりで側にいてくれたのだ。

 なんとか目覚めた僕に、師匠は選択肢を与えてくれた。生涯絶の状態ですごすか、一か八かの賭けで修行をするか。僕さえ良ければ師匠はいつでも絶にする発を修得してくれるつもりらしい。制約も誓約もどんと来い、だそうだ。この人は本当に馬鹿だ。師匠、強化系なのに。馬鹿だ。

 1時間ほど考える時間をもらった後、水見式に挑戦した。我ながら無駄な事を、と今でも思う。一秒一刻が生死を分つほど危険な状態だったのに。悔しかったのかもしれない。せめて自分の系統ぐらいは知ってから、今まで鍛練してきた念というものを捨てたかったのだろうか。練すら修得してない僕の拙すぎる水見式は師匠の強化した目でようやく分かるほど微かに葉が揺れ動いて、操作系だと判明した。

 それを聞いてトスンと、憑き物が落ちたように感じたのを憶えている。

 結論は、実に簡単なものだった。



 1999年1月7日 ザバン市

 嫌な夢を見た。あの頃の夢だ。生きている事が地獄で、死んでしまうのが怖くて、失われていく生命力に怯えながら必死に修行したあの当時。自分の系統が操作系とわかって、命を捨てたつもりで発を覚えて、それがなんとか形になって九死に一生を得た。

 その間、多くの人に支えられた。なかでも師匠と彼女には、いくら感謝してもし足りない。

「大丈夫? アルベルト、目が覚めた?」

 見れば、隣で寝ていたエリスが心配そうに顔を退き込んでいる。僕より1つ年下の、淡い金の髪を背中に流す繊美な少女。エリス・エレナ・レジーナ。この世で最も愛しい家族の一人。

「うなされてたわよ。水、飲む?」
「ああ」

 ベッドの脇にあった水差からコップに汲んで、エリスはそっと差し出してくれた。飲むと、寝汗で乾いた体に染み込んでいく。

 僕と彼女はつい先日、戸籍上の兄妹になった。そのときにあった悶着は、正直あまり思い出したくない。はっきり言って意外だった。僕と彼女はもうずっと前から兄妹同然の間柄という認識だったのだが、まさかあそこまで嫌がられるとは。

「ごちそうさま。ありがとう、エリス、もう大丈夫だよ。ちょっと夢見が悪かっただけだから」
「よりにもよって今日に? ついてないのね。アルベルトはほとんど夢を見ないのに」

 幼子を慈しむ様に僕の頬を撫でて微笑むエリス。推測だが、嫌ってる相手への反応ではないようだ。師匠が、彼女の親父さんが僕を養子にしてくれる手続きを完了したと明かされたときの般若の相とは比べ物にならない。常々思う。まったく、この世に女心ほど理解しがたいものはないものだと。師匠がエリスに、僕を名実共に本当の家族として迎えないかと確認したときは、それはもう嬉しそうな様子だったそうなのだが。

「そうだった、今日は7日か。時間は……、受付開始までだいぶあるね」
「そうね。まずは汗でも流しましょうか」

 シーツを纏い、浴室へ向かうエリスを追って浴室へ入る。思えば、エリスと共に寝るのは久しぶりだった。幼い頃から兄妹同然に過ごしてきただけあって、昔は毎日だったのだが。

 チャーターした飛行船でザバン市に到着後、ホテルにチェックインした時の事だった。2部屋とっていたはずの予約がなぜか1部屋しかとれてないというのだった。こちら側の手違いかとも考えたが、申し込みしたのはエリスだ。こういう事にはしっかりしてる彼女がそうそう間違えるはずがない。

 しかし、ないものはないで仕方なかった。ハンター試験を間近に控えてごった返すザバン市のホテルに余分な部屋がないのは誰でも分かる。幸い、女性であるエリスが男の僕と同室でも構わないと言っていたのだ。ならばと僕は納得して、昨夜は数年ぶりに彼女と同じベッドで眠ったのだった。

「どうかしたの?」
「うん。エリスと寝たのも久しぶりだと思ってさ。相変わらず裸で寝る癖はなおらないみたいだね」
「ふふっ、そうね。お風呂はあなたがうちに泊まる度に一緒に入ってるのにね。最近、アルベルトったらせがんでもつれないんですもの」
「お互い、体が大きくなったからね。寝床が狭いと眠りが阻害される。睡眠不足はよくない事だろう?」
「もう。相変わらずなんだから」

 お互いに体を洗いながら、心を預けきった者同士のたわいない会話を楽しんでいる。その根底にあるのは、きっと家族間の愛情だろう。しかし、だからこそ解せない事がある。エリスとは幾度も喧嘩をした。幼少期は数えきれないほど罵りあった。取っ組み合いに発展した記憶さえある。だが、しかし、決して、いや、だからこそ、心底嫌いになった経験はないし、心底嫌われた経験もないと断言できる。

「エリス。いいかな?」
「真面目な話? ええ、いいわよアルベルト」
「僕が君の兄に、師匠の養子になるのは、そんなに嫌かい?」

 僕の背中を流していたエリスに、ここ数日ずっと気になっていた問いを投げかけた。即座の返答はない。エリスの動きは止まったが、しかし心を乱した気配はなかった。

「僕は今年で19。君は18になる。お互いまだまだ未熟だけど、責任ある判断と無縁でいられる年齢でもないと思う。だからこそ尋ねたい。そして尊重したい。お前の希望に、僕は従うとここに誓おう」

 しばしの静寂の後、エリスは僕の背中に体重を預けて、呟く様にいった。

「嫌よ」
「そうか」

 やっぱり、そうだったのか。なんて節穴だったのだろう。僕のこの目は。

「なら、白紙に戻そう。手続きは既にすんでしまったけど、ハンターライセンスの力を使えば融通は効くはずだから。僕達が合格したら問い合わせてみよう。今すぐが良ければ、僕から師匠に頼んでみよう。いいね?」
「だめよ、だめ。勘違いしないで。その必要はないわ。残念だけど。いまのところは……、だけど」

 僕の背中に顔を埋めてエリスがいう。無理はしてない。そう感じた。しかし、本当にそうだろうか?

「ねえアルベルト、クイズよ」
「クイズ?」
「正解できたら答えてあげる。どうしてわたしが、あなたの妹になりたくなかったのか」
「ああ、わかった」

 唐突だな、と僕は思った。思ったけれど口には出さなかった。エリスは僕の胸に腕を廻して、切ないほどに抱き締めていた。あまり大きくない乳房が押し付けられて潰れ、背中に鼓動が伝わってくる。僕は両の掌をこの手に取って、指と指をからませた。後ろにいる彼女はたった一つ違いのはずなのに、幼い少女のような錯覚をおぼえる。

「挑戦するよ。出題して?」

 こう見えて、クイズにはいささか自身がある。半分以上は能力のおかげだけど、エリスもそれを承知である以上、遠慮なく活用させて頂こう。

「まず前提として、わたしが一緒に眠りたがる人には誰がいるかわかるわね?」
「……僕だけかな。エリスは師匠とは寝たがらない」

 エリスが7歳の頃、師匠の寝相にベッドから蹴り落とされた事件以後は。

「わたしが一緒にお風呂に入りたがるのは?」
「それも僕だけだと思う。師匠がたまには俺と入らないかと誘った時は、冷たい嘲笑で却下されてた」
「よく見てるわね」

 くすり、と笑うエリス。そして彼女は僕の前に回って、真剣な目で見つめて言った。

「わたしのファーストキスのお相手は?」
「僕、なのか? 僕がアマチュアとしてはじめてのハントに赴く前の日の。もっとも、君からのタックル、いや、すまなかった。あの歯と歯の衝突をキスと表現するのならだけど」

 念のため確認すると、ええそうよ、と肯定された。

「なら、問題よ。そんなわたしの行動は何を意味しているのでしょうか? どう、簡単でしょう」
「うーん……。そういうクイズか」

 自慢ではない。自慢ではないが僕は他人の心理の繊細な部分にいささか疎い。これも念能力の影響だ、と開き直ってしまえばいいのかもしれないけど、大切な人の心情を裏切って傷つけてしまうのを望むはずもない。

「難しいならヒントあげる。わたしが父さんの事を嫌いじゃないって知ってるでしょ?」
「もちろんさ。師匠とエリスは誰からみても仲のいい親子だよ。……ああ、なるほど」

 頷いた僕の膝の上に、エリスが座った。至近距離からの見つめあい。瞳の中に宿る光は悪戯っぽくて、期待していて、だけど隠しきれない怯えがあった。

「わかっちゃった?」
「うん、完璧だ。実に理論的で的確な正解を得たと自負できるよ。エリスは師匠より僕と触れあっている。だけど師匠の事は嫌いじゃない。それが意味する事はただ一つ。エリスは師匠の事が大好きなんだね」

 非の打ちどころのない正答だった。人間は好きな人に素直になれない事があると聞く。仮にエリスが師匠のことをとても好きで直接的に表現できないのなら、彼女の行動は全て説明できるといえるだろう。

「……残念。間違いよ、アルベルト」

 僕の膝に座ったまま、エリスの腕が頭を撫でる。あやすように、慰めるように。母が子にする仕種のようだと僕は思った。まるで、答えが外れる事は分かっていた、とでもいうかのようだった。

「ね? 入りましょう? 体が冷めちゃうわ」

 立ち上がったエリスに誘われ、湯舟の中に身を沈めた。エリス自身は僕の膝の間に入り込み、僕の体に寄り掛かる。そんないつも通りの仕種は、しかし、この話題は当分お預け、と言外に主張していた。

 だけど、最後に一つだけ伝えたかった。

 細い肩を包み込むように抱き締め、心の内をそっと吐露する。

「エリス、女々しいけど、最後に本心を明かしたい。僕は義理とはいえ師匠の息子になれると知って嬉しかった。あの人は僕を拾ってくれた人だ。救ってくれた人だ。アマチュアハンターとして独立するまで、養い導いてくれた人だ。……だけどね、エリス。それ以上に嬉しい事があったんだ。君の兄になれた事だ」
「うん、知ってた。知ってたわ。だから、ありがと」

 そっか。知られていたのか。それは少し、恥ずかしいかもしれない。

「……ねえ、アルベルト」
「なんだい、エリス」
「もしさっきのクイズに正解できて、それでも妹になってほしいってあなたが望むなら、アルベルト、あなたをお兄ちゃんって呼んであげても、いいよ」

 嬉しかった。嬉しさのあまり、エリスを抱く腕に力が入る。

「それなら、早くそうなるように頑張るよ」

 前向きなはずの僕の答えは、何故だろう、エリスの肩を悲しげに揺らした。



 風呂上がり、僕とエリスはそれぞれの装備を整えていた。僕の装備は特に捻ったものではなく、普段行う都市型ハントと同じ傾向でまとめてある。

 服は上下とも特注品をあえて避け、大量生産の品の中から不自然じゃない程度に丈夫なものを、具体的には紺のジーンズと鼠色の長袖シャツを選択した。インナーは綿のものを選んである。

 武器はワイヤーカッター付きの多機能銃剣を用意してあるが、はっきり言ってサバイバルツールとしての期待が主である。火器は発火と硝煙によるシグネチャの増加が深刻すぎるため、よほどの事情がない限り持ち歩かない事に決めている。あとはリュックに水と非常食、医療キット。各種通貨、金貨、毛布にロープなど数日間行動するために必要最低限の荷物をいれておいた。

 外見上は身軽な旅行者、といった風情だろう。

 武器が足りない、と思うかもしれない。だけど僕達ハンターは兵士ではないのだ。ハンターにとって戦いは目的ではなく、ハントに際して選択する可能性のある手段の一つにすぎないのだから。無論、戦闘主体のハントであれば僕も武器の選択を視野に入れる。

 ところが、エリスの装備は凄かった。

 黒いドレスを基調に、黒の長手袋と黒のストッキング、黒の靴。ドレスの背中は大胆に開いていて、全体的に黒い分、長い髪の毛の影から見える白い肌がたまらなく眩しい。胸元には古い古いネックレス。球形に磨いた翡翠を一つ、首から下げただけのシンプルなものだった。聞くと、これは亡くなった母親の品だそうだ。そういえば、エリスの母親は彼女の出産と引き換えに他界していると師匠から話を聞いている。最後に髪を僕に結い上げさせて、帽子を冠ればエリスの装備も完成だった。

 断言しよう。エリスは別にふざけてない。

 ハンターには大きく分けて2種類いる。常識的な方法でコツコツと地道にハントする奴と、絶大な能力やバックボーンに物を言わせて短期間で獲物を手に入れていく奴。優劣の話ではない。傾向の話だ。

 アマチュアとして僕が経験してきたのは前者のハント。ところが、エリスには後者の才能しかない。

 そもそも、エリスにはアマチュアハンターとしての経験はない。それどころか体術の技量すら一般人並、護身や教養の範囲内だ。ハンター志望者として見た彼女のアドバンテージはひたすら念能力に片寄っている。あえて言葉を選ばなければ念能力馬鹿だ。逆にいえばそれだけで師匠が受験を許可できるほどの才能があり、他の全てを捨てても念能力に専念しなければならないほどの才能をもって生まれてしまったという事でもある。

 だからこそ今回のハンター試験で、エリスは念能力でぶっちぎるしか道がない。この服装はその覚悟を自他に示す象徴であり、念能力の邪魔にならないためのものでもあった。

 もちろん、僕もエリスを全力でサポートするつもりではある。が、試験官が見たいのはあくまでエリス本人だろう。僕の隣にいる少女、なんてものではないはずだ。必然的に個人の素質を試す試験内容があるだろうし、そうなれば僕のサポートにも限界はある。それでも、是が非でも彼女にはライセンスをとってもらわなければ困るのだ。

 そして、もし……。

「エリス、最後にこれを。師匠と僕からの贈り物だ。ハンターを目指す君の旅路に、お守り代わりに添えてほしい」

 この時、僕は罪を犯した。

 手渡したのは青く輝く卵だった。大きさは鶏のものより少し大きい。約1000万年ほど昔に生息したと言われるヒスイクイドリの卵の化石。破片や状態の悪い物を含めてもここ500年間で50個未満しか発掘記録がない希少品だった。贋作も多く出回っているが、もし本物を手にした者は類い稀なる幸運を手に入れるという伝説がある。

 説明と一緒に携帯用のポシェットも渡す。ヒスイクイドリの卵がちょうどぴったり収まる大きさと形で、黒く上品な皮製で所々銀糸の装飾が入った特注品だった。専門の強化系術者によって自身と中身を保護する念までかけられている。

 分かっていたはずだ。渡せば絶対に後悔すると。

 感激して、抱きついて喜びの言葉を口にするエリス。そんな彼女の前で不審な態度を取らないように、僕は全身の動作を抑制する。罪悪感で引き裂かれる本心は体の置く深くへと沈んでいった。お守り代わり、僕の口からそう言えばエリスは決して手放すまい。

 もしも、これに貧者の薔薇が仕込まれてなかったら、仕込む必要がなかったら、どんなに幸せだっただろうか。



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【無色透明な黒色塗料(ファントム・ブラック) 具現化系】
使用者、アルベルト・レジーナ。
「黒い塗料であること」という概念以外の性質を持たない物質を具現化する。
質量も体積も存在せず、人体にとって毒にも薬にもならない。
能力者から離れると著しい速度で劣化を始める。

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次回 第一話「マリオネットプログラム」



[28467] 第一話「マリオネットプログラム」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/25 23:47
「やあ、キミ達も使えるみたいだね♠」

 地下通路に入って早々、にこやかに近付いてきたのはヒソカと名乗るピエロだった。こういう奇抜な格好をするハンターは、プロアマ問わず時々見かける。その大半が何かを勘違いした駆け出し連中だが、もしそうでなければ相当の猛者である確率が高い。並み大抵の者が激しい自己主張を試みても、あっという間に潰れるのがオチだからだ。

 そして、目の前の男に限って前者であるはずがない。なぜなら、オーラが、やばすぎる。

 ビリビリと肌を焼く禍々しい邪気。

 内心で舌舐めずりしているのだろう。濁りきった視線が僕とエリスの全身を舐め廻す。男性器が盛大に勃起していた。まずい。欲望に素直な奴の念は手強い。この男を動かすのが食欲か性欲か別の何かかは知らないが、とにかく片手間にあしらえる相手じゃない。僕は常駐タスクの自動防衛管制を呼び出し警戒度を3/6「厳重警戒」に引き上げると、隣にいるエリスの肩を軽く抱いた。

「どうも。アルベルト・レジーナです。こいつは妹のエリス。あなたも受験生ですか?」
「ククッ♥、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか♣」
「よろしくね、ヒソカさん」
「呼び捨てでいいよ♦」

 差し出される手をあえて無視して、エリスの肩をそっと押した。

「エリス、僕はヒソカともう少し話をしたい。その間、せっかくだし、自分一人でこの場の空気を感じておいで。これもハンターの勉強だよ」
「そうね、アルベルト。お言葉に甘えてちょっとその辺回ってくるわ」
「あ、待った」
「え?」
「いいかい? 拾い食いはいけないよ。知らない人にもついていっちゃ駄目だよ。飴ちゃんあげるって言われてもちゃんと断るんだよ? いいね?」
「分かったわ、心配しないで」

 くすっと笑って他の受験者たちがいる方向へと向かうエリス。……さて、どうしたもんか。

「仲のいい兄妹じゃないか♠」
「ああ、もちろんさ」

 ヒソカの瞳からは、出会った瞬間のぎらついた欲望は影を潜めてるように見える。が、だからといって油断できるほど余裕はない。僕の能力は比類なき応用力を誇ると自負してるが、その分、致命的な弱点がある。

「彼女、ボクに気付かなかったみたいだね♣」
「あいつはその部分の経験が足りなくてね。なまじ素質があるだけに害意のあるオーラにも苦にせず向き合えるから、どう経験を積ませたらいいか困ってる」
「いいのかい? ボクにそんなこと話しちゃって♥」
「すぐにばれるさ。いや、もうばれてたよね」

 楽しげに、喉を鳴らして笑うヒソカ。

「彼女もいいけど、君もいいね♦ オーラの流れがたまらなく静かだ。これだけ挑発してもさざ波さえ立たない♥」
「そいうアンタは禍々しいな。僕と戦いたくて仕方がないってオーラをしてるよ。バトルマニアによくあるタイプだ」
「さて、どうかな♣」

 しかしその目は肯定していた。

 そのあとしばらく、取り留めもない会話をして、ヒソカという男の性格は大体把握した。酷く気分屋な戦闘狂。差し当たり、今すぐ戦う事はないだろう。今はそれで十分だった。ついでに携帯電話の番号も交換しておいた。実力者なのは確かなので、何かに役立つかもしれないから。



 ところでエリスはどこにいるのだろうか? ヒソカと別れてしばらく会場をさまよった僕が見つけたのは、ピンクの帽子を被った少女と話題を弾ませる妹の姿だった。声をかけて邪魔したくはなかった。同業者の友人が増えるのはいい事だ。ハンターにとって、人とのつながりはそれだけで強力な武器になる。

 第1次試験は耐久走だった。サトツ、という試験官の後ろについていくのは、はっきり言って退屈すぎる。エリスも件の少女と一緒にいるわけだし、ここは少し休憩してもいいかもしれない。体内の乳酸操作の優先順位を上げ、自動防衛管制を2/6「通常警戒」に設定し、エリスの様子をオートで監視するスクリプトを即行で仕上げて走らせてから、僕は自分の能力の世界に埋没した。

 半径30mほどの球形の空間の中心に浮かぶ椅子に腰掛ける。ここは念空間というわけではない。自分自身をコントロールする僕の能力、【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】が神経系を操作する事で形成した、いわば高度な自己催眠による白昼夢だ。

 脳内管制空間の脳内指令席に座り、視覚情報を脳内球形スクリーンの背景設定に。正面の脳内メインスリーンには以前見て記録領域にストックしてある映像作品のリストアップを展開する。ついでに脳内アイスコーヒーと脳内ポテチを出現させた。カロリーもなければ腹も膨れない、いくらでも調達できて値段もただ、いろんな意味で夢の飲食物だ。いや、満腹感は満腹感で自由に操作できるのだが。

 ポテチを摘みながら映画を眺める。手元に浮遊させている情報ウィンドウにはエリス監視スクリプトからの情報がリアルタイムで入ってくる。どうやら心配していたような問題はなさそうだ。肉体が一般人としては鍛えているというレベルでしかない彼女は莫大な生命エネルギーにまかせて持久走を続けているわけだが、しょせん肉体は肉体、念は念。オーラで肉体を補う事は可能だが、弱い肉体ではその真価を発揮するのは不可能だった。戦闘型強化系を極めた連中が見せるような人外の領域にある怪力などは、肉体とオーラの両方を研鑽した果てにあるものだ。だがそれでも、この程度のスタミナ維持ならなんとでもなるらしい。理論では分かりきっていた事だが、いい結果だった。

 そうなると、残る問題はただ一つ。エリスの大胆に開かれた背中や走る度に揺れる尻を彼女の真後ろで美味しそうに眺める変態ピエロだけか。さっきまであの位置は大勢の野郎共が壮絶な争奪戦を繰り広げていたはずなのに、今では奴一人が占有していた。

 ちらりとメインウィンドウに目をやる。全裸で銃を振り回す刑事が麻薬の売人をばったばったと蹴散らしていくシーンだった。いいところなのだが仕方がない。映画と大切な妹で比べ物になるはずもなく、僕は管制空間からの離脱を選択した。

「ヒソカ、ちょっといいか」
「やあ♥ お兄様のお出ましかい♦」

 軽口を叩く道化を制して、僕は耳元で囁いた。どうでもいいが、あまり頻繁に接触してると僕もこの奇術師と同類に思われやしないだろうか。

「エリスに戦闘を仕掛けるな、とは言わない。……いや、大いに言いたいが今はそれとは別の話だ。いいか? 仕掛けるなら大災害に巻き込まれるぐらいの覚悟をしろ。軽い気持ちで味見するのは、やめてくれ」
「そんなに凄いのかい?」
「ああ。忠告はしたぞ」

 期待に震えるヒソカを見る。やはり説得力はあったようだ。エリスの纏をじっくり見れば、よっぽどの初心者じゃない限り分かるはずだ。その奥に、「何かが」潜んでいる事を。

 この忠告で手を引いてくれる事を、僕は全く期待してない。思う存分戦えるとっておきの機会まで、じっくりと楽しみにしていてくれればそれでいい。そのとっておきが来る前に、機会を見て僕がヒソカを潰す。できるかできないかじゃない。やる。ただそれだけだ。

「いい目だ♣ 妹が関わると好戦的になるようだね、キミは♦」



 トンネルを抜けると湿原だった。

 ヌレーメ湿原。別名を詐欺師の塒というらしい。ランニングの試験はまだ続くようだ。試験官の説明を遮って乱入した猿は、サトツ自身の攻撃によりあっという間に正体を現し退散した。そんな茶番も、この湿原の特性を一目でわからせる寸劇としては悪くなかった。だけど。そんなことはどうでもよかった。

 ヒスイクイドリの卵には発信器も一緒に仕込まれていて、僕の携帯画面から確認できる。エリスに先にゴールに辿り着いてもらえれば、試験官から逸れても到達できる寸法だ。

 機会が来た。こんなに早く。絶好の好機が。

「いいか?」
「もちろん♠」

 隣も見ずに確認して、内容も聞かれずに了解された。

 エリスにはサトツのすぐ後ろをぴったりと追うよう、既に携帯で言い含めてある。湿原で靴が汚れると愚痴をこぼしていたが、それも余裕がある証だろう。

 長く思い描いてきたハンター試験だからだろうか。柄にもなく熱くなりすぎてる。自覚はある。それでも。

 やがて受験生達がどかどかと走り去った。並んだまま微動だにしない僕とヒソカ。何人かが怪訝な顔で眺めていた。試験序盤から必要以上に目立ってしまった事になるが、それを気にしている余裕は既になかった。

 リュックを地面において、ナイフを鞘ごと腰につける。

「ヒソカ、胸を借りるぞ」

 二人だけが佇む地下道出口で、僕は分かりきった宣言をする。

 釣り上がった唇が応えだった。



 【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】。

 この能力は万能だ。およそ、人間が可能な行動なら何でもサポートしてくれる。人間の生命力を原動力にした念という技術は、それ故に人間自身に対して最も効果を発揮する。僕の能力はそれを更に突き詰め、自分自身の念が最も効果を発揮する人間、すなわち自分自身を相手にする事に特化したものだった。自分の体という愛着溢れる道具は、操作する対象としても絶好だった。

 加えて、神字によるサポートがある。【無色透明な黒色塗料(ファントム・ブラック)】は、体内に効率的に神字を描くため編み出した能力だった。自分のオーラに満たされている場所ならどこにでも出し入れ自由なこの塗料なら、体の中といえど自在に神字を描く事が可能だった。自分の体は一生付き合いどこにでも持ち運ぶ道具だ。手塩にかけすぎて困る事はない。

 しかし、この能力は全能ではなかった。



 並行して疾走する。ヒソカの堅はたまらなく美しい。力強さもさることながら、弾けるほどの躍動感、歓喜に踊る未熟な歪さ。機械的に精密な堅しかできない僕には生涯辿り着けない、あまりにも価値ある「無駄の極地」だ。

「どうした、おいでよっ♣」

 挑発する奇術師を黙らせるよう、牽制の念弾をばらまいた。当然の如く避けられる。それでいい。その一瞬の隙を狙って、次手を打つ。出し惜しみするつもりはさらさらなかった。

 瞬間的にオーラを超圧縮し、人指し指の最先端で極小の硬、念弾としてそのまま放出。狙うは眉間、速さは閃光。だけど、それが当たるかどうかはどうでもいい。待機させていた戦闘用体術タスクを最大レベルで実行。全身がオーラの隷下に入った。単純な肉体強化とは訳が違う。腱、筋繊維、骨格、血管、神経系。その他全てを個別かつ総合的に強化し操作する。

 これまでとは違う速さでヒソカの懐へ入り込む。勢いを載せて鳩尾に拳を叩き込み、インパクトの瞬間に硬。即座に解除して全身の強化。浮き上がるヒソカを捕らえて湿原の地面へ頭から投げ落とす。バウンドする頭部。そのちょうど中心を捕らえ、サッカーボールの要領でトゥーキックを想いっきり振り抜いた。腰を中心にゆっくりと回転しながら飛んでいくヒソカの体。それは玩具のように空を舞って、着地後、2度、3度と弾んでから、ようやく止まった。

 そして、ぞくりと、恐怖した。

 ヒソカは倒れたまま動かない。オーラが増したわけでもない。実のところ何一つ変わってない。マリオネットプログラムもなんら異常を報告しない。ヒソカはなにも変わってない。ただ、理解した。僕は今、自分の中のどうしょうもなく本能的な部分で、生物としての原初の恐怖を味わっているのだと。

 その恐怖の名を、未知と呼ぶ。

 ゆっくりと、まるで気怠げにゆっくりと、ヒソカの体が起き上がる。

 ああ、なんて。

 なんてきれいな、微笑みだろう。



 僕の能力は二つしかなく、実質的には一つしかない。そして、マリオネットプログラムには本質的で致命的な弱点が存在する。

 系統ごとの念能力による戦闘は大きく二つに大別される。己の肉体を強化するのは強化系やそれに近い系統が得意とする戦い方だ。一方で特質系側の系統は百花繚乱の特殊能力でそれに対抗する。言い方を変えれば正攻法に強いのが強化系側、裏技を得意とするのが特質系側と表せるだろう。

 しかし、操作系である僕の能力は裏技がない。必然的に正攻法、苦手な系統の戦法で勝負を挑む事になる。確かに精密さは比類ない。小器用には戦える。しかし小器用なだけだ。端的に言って、僕の念には破壊力が足りない。それが致命的な弱点だった。

 この欠点は、特に格上の相手と戦う際に決定力不足として表面化する。推測はしていた。実際戦って、短いやり取りだが嫌というほど確信した。ヒソカは紛れもない格上だった。

 しかし、負けるつもりはさらさらない。それでも、この化け物を倒すには決め手がいる。強力な正攻法か、必殺の裏技が。

 僕の能力には、どちらもない。

 ヒソカの足音が、近付いてくる。



##################################################

【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム) 操作系】
使用者、アルベルト・レジーナ。
能力者自身を機械に見立てて精密に制御するための能力。
身体内部のオーラを使用するため絶の状態でも稼働する常時発動型。
事前にプログラムを組めば複雑な操作もオートで可能だが、過剰な処理による負荷は脳にダメージを与える危険がある。

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次回 第二話「赤の光翼」



[28467] 第二話「赤の光翼」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:55
「やるじゃないか♦ 驚いたよ♠」

 頭からぼたぼた血を垂らしながら、異形の奇術師は楽しそうに笑う。とても綺麗な笑顔だった。無邪気でおぞましく純粋だった。今の彼を人間と呼ばないのなら、一体誰がそうなのだろう。

「でも、そうだな。大体分かっちゃった。君のそのオーラ、戦いの最中なのに整いすぎてるよね。そう♦ 不自然なほど♥ そういう能力なんだろ?」

 圧倒的な戦闘センス。異常なまでの慧眼。こと、戦いという一点に限っては、ヒソカのポテンシャルは今まで会った誰をも凌駕している。

 しかし、それでも。最善を尽くす。僕はやるべき事をやるだけだ。

 最低目標として、このピエロを試験から排除する。最悪はそれでいい。エリスに最後まで付き合えないのは残念だが、元々僕の合格は次善目標なんだ。師匠と幾度も話し合って決めた最優先目標は、エリスにハンターライセンスをとらせる事。プロハンターという確固たる立場を手に入れさせ、人類が彼女を踏み潰す可能性を少しでも減らす事だった。

 エリスという少女を辺境の田舎町に隔離し続ける期間は、もう十分に長すぎた。

 周囲を見渡す。使えるものは全て使おう。腰元のナイフは恐らく無駄だ。本職の強化系ならともかく、操作系な上に自分の体の強化に特化した僕の周では、このレベルの男には通用しまい。いや、むしろはっきりと足手纏いだった。

「今度は、こっちからいくよっ♦」

 強化されたトランプが飛来する。その軌道計算を自動防衛管制にまかせ、僕はヒソカの観察に専念した。どうにかして突破口を探さなければいけない。僕の能力で格上の能力者と戦うには、どうしたって頭脳勝負や裏のかきあいで勝つする必要があった。

「どうしたっ? 逃げてばかりかいっ?」

 よく喋る道化だ。余裕があって羨ましい。僕はステップも自動防衛管制にまかせてある。勝つ道筋が浮かばないのに逸っても負けるだけだ。僕のオーラは気合いや根性では絶対に増えない。逆に落ち込んでも絶対に減らない。マリオネットプログラムが動作し続けている限り。

 ヒソカが距離を積めてくる。操作系の僕は放出系の戦いのほうが得意だが、あまり距離を開ける事にこだわっても選択肢が狭くなるいっぽうだ。それに、近付いてみれば見えるものもあるかもしれない。僕は自動防衛管制に接近戦闘を命令し、同時に緊急離脱プログラムのタスクを立ち上げた。

 唸り来る拳をいなす様にかわし、続く上段蹴りを紙一重で避ける。しなやかな柔軟性。パワーを秘めた体躯。まったく、ヒソカの肉体の性能は舌を巻くほど素晴らしい。

「そらっ、捕まえたっ♠」

 異常警報が出されたときには遅かった。ヒソカの左ジャブをガードした腕に、彼のオーラが張り付いていた。あからさまに怪しい。分析より先に緊急離脱プログラムを実行した。両足が地面を次々と硬で蹴り、一瞬で数十メートルの距離をとる。

「やあ、また会ったね♥」

 が、目の前にいたのはヒソカだった。移動したのは僕だ。僕の腕とつながったまま伸びたヒソカのオーラが突然強力に収縮して、離脱した距離を一気に引き戻された。

「ぐっ!」

 出迎えた拳に思わず息が漏れる。顔面を殴られ後頭部を地面に打ち付けられた。その顔面にオーラが張り付く。その事実を認識するより遥かに早く体が浮いて、今度は全力の左ストレートに迎撃された。

 凄まじいラッシュが始まった。やむをえず痛覚を遮断する。これで体の異常は無機質な情報でしか得られなくなったが、今はそれも仕方がない。怒濤の如く繰り出される重い衝撃を直で味わって、冷静でいられる自信は僕にはなかった。

 自分の肉体が壊されていく光景を冷静に眺めるのは妙な気分だった。拳の当たる瞬間、該当箇所に硬をあわせるのだが、それでも衝撃は殺せない。その上、ヒソカの体術の変化自在さに、数発に一発軌道予測が超越される。それには硬が間に合わず、堅のまま耐えるしか術はなかった。

 あちこちの骨にヒビが入り、折れ、少しずつ少しずつ砕けていく。内臓がいくつも機能障害を報告している。自己修復プログラムに廻すオーラがない。防御だけで精一杯だった。

 しかし、仕掛けは分かった。ヒソカの体から伸びる粘着力と弾性に富んだオーラ。それこそがこの男の能力だろう。十中八九、変化系。強化系との相性は僕より一段高い上に、彼の能力は嫌になる程よくできてる。

 内心で憂鬱になりながら変化系総合制御を立ち上げ使用するタイプを選択。指を覆うオーラを鋭利な刃に変えるプログラムだ。タイミングを見てそれを発動させ、ヒソカのオーラを断ち切って離脱した。残存オーラが急激に減る。僕にとって最も苦手なのが変化系だ。ヒソカほどの能力者に対抗できる切れ味が、何度も出せるはずもなかった。

 追撃が来る前にさらに後退。浮遊ウィンドウを幻視し設定を変える。

 自動防衛管制、5/6「緊急最大警戒」。

 この設定は脳に負担をかけるため5分以内の使用を推奨します。5分経過後に自動的に終了しますか?
 はい/いいえ

 はい。

 全感覚遮断、アラート管制、重要損害レベル4まで無視。
 警告レベル5以外の全ての重要損害を無視するように設定しました。

 「オーバークロック1」始動。
 この設定は脳に著しい負担をかけるため5分以内の使用を強く推奨します。5分経過後に自動的に終了しますか?
 はい/いいえ

 はい。

 ギアが上がった。脳の処理速度が加速する。頭部に血液が集中する。奥歯を強く噛み締めた。オーバークロックは正真正銘の緊急手段だ。命の危険も確実にある。だが死ぬつもりはない。死んでやるはずがない。死んでたまるか。

「いいね、やればできるじゃないか♠」

 何かが変わったのが分かったのだろう。間延びして聞こえるヒソカの言葉には答えずに、今度は僕から積極的に間合いを積めた。

 あの粘着性のオーラはとても手強い。が、ヒソカの体捌きの鋭さでは、遠距離からの放出系では埒が明かない。僕の念弾程度がそう簡単に当たってくれる相手じゃなかった。

 身の丈ほどもあろうかというガム状オーラの迎撃を避けると、その裏には拳を振りかぶったヒソカがいた。

 剛腕がゆっくりと唸り来る。それをゆっくりと紙一重で避ける。風を切る音すらとても遅い。なにもかも減速したこの世界で、僕の思考だけが加速していた。続いて炸裂する怒濤のラッシュに、防御も反撃もせずにポジション取りに専念する。オーバークロックだからこそ可能な捌き方。唇を引き締める。何かを狙っている事はばれてるだろう。果たして見破られる前に決められるか。今だ。

 前方広範囲にファントム・ブラックをぶちまける。どうせこんなものはすぐに消える。稼げる時間は刹那以下。だけど、それだけあれば今のマリオネットプログラムは大抵の処理をなしてしまえる。

 右手の人指し指に直径1cmの超高密度念弾が出現する。普通の念使いでは為せない凝縮密度。それを実現させる僕の能力も異常なら、当然の様に避けるヒソカも異常だ。しかしさすがに体勢は崩れた。そこを狙い、しがみついて首筋に噛み付いた。噛み切るためではない。固定するためだ。口の中には、溜めに溜めた渾身のオーラがある。

 絶対に避けられない密着距離。ヒソカの能力は、少なくとも粘着性のあるオーラは、この状況で全く役立たない。僕は勝利を確信して、迷うことなく念弾を、ぐっ———!?

 一瞬の異常。それが何かを致命的に変えた。噛み付いていた首筋はどこかへ消えた。射出された念弾は湿原の風を切り裂いて、遠方へ虚しく飛んでいった。

 体の浮遊を感知し、状況把握を試みて理解した。

 あの時、ヒソカは避けるでも防御するでもなく、強烈なボディーブローで体軸を僅かにずらしたのだ。大部分のオーラを使い果たし、宙に浮き無防備な僕の腹部を、ヒソカは思いきり蹴飛ばした。

 飛んでいる。冗談みたいにゆっくりと、空を。オーバークロックの悪影響か。増強された処理速度の無駄遣いも甚だしく、地面に激突すらする前に体のダメージを伝えてきた。浮遊ウィンドウがオートで開き、致命的損害を知らせるレベル5のアラートがいくつも踊る。視界が赤文字で埋まってしまう。邪魔だ。

 アラート管制、重要損害レベル5無視。
 全ての重要損害を無視するように設定しました。

 自動防衛管制、0/6「無警戒」。

 「オーバークロック2」始動。
 この設定は脳に重大な損害を 警告スキップ
 いいえ。

 空中で姿勢を制御する。地面に激突している暇はない。地上のヒソカと目が合った。ひどく嬉しそうな笑みだった。そして、どうしてだろう。僕も笑っていると実感できた。高度統制中、表情が変わる事はないはずだけど。

 まあ、それも悪い気分ではない。着地して四肢を確認する。動く。今はそれだけで十分だった。ヒソカを見遣る。何も言わず、笑っていた。同感だ。言葉はいらない。ただ、拳があればそれでいい。

 瞬間、湿原を真紅の閃光が貫いた。

 ヒソカと僕のちょうど中間。地面が綺麗に陥没している。新手なら相手をしている余裕はない。即座に発射位置を座標計算。眼球を望遠モードで強化し、稜線近くの空を観測する。

 エリス。背には眩しく輝く一対の赤い翼が。忌わしくも美しい、太古の悲願の結晶が。

 意識があったのはそこまでだった。ブツンと電源が落ちるような不自然な暗転。どうやら、オーバークロック2を実行するには、オーラの量が足りなかったらしい。



「目が覚めた?」

 気が付けばエリスが心配そうに覗き込んでいた。馴染みのある感触だった。エリスの膝を枕にしているようだ。ここはどこかと聞いてみると、二次試験会場前の木陰だと帰ってきた。

「エリス、帽子は?」
「どこかに落としちゃったみたいね」

 嬉しそうに目を細めて俺の頬を撫でるエリス。そうか。彼女が気にしてないならそれでいい。

「ヒソカは?」
「彼なら、あそこよ」

 エリスに頭を持ち上げてもらって視線をやると、さっきまでやり合っていた奇術師がいた。目が合ってニコニコと手を振られたが、無視だ。返答しようにも腕が動かない。

 自己診断が全身のダメージを次々と報告している。メッセージウィンドウの表示は顔をしかめるような内容ばかりだった。これでは、少なくとも数日間は痛覚を接続できないだろう。自己修復プログラムをフル稼働させる羽目になりそうだった。

 エリスは何も言わない。そっと撫でてくれる手の感触が心地よかった。赤くぼんやりと輝く掌から、優しくて暖かい匂いがした。微かだがオーラが回復していた。

 力を抜き、ごろりと寝転がって景色を眺める。空と梢とエリスだけが占める視界。

 今はなにも考えたくない。

 根源的な欲求は全て能力で統制しているはずだが、何故か眠気を感じた気がした。無論、現状で休息に異論はない。次の試験までのしばしの時間、このまま寝かせてもらう事にした。



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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】
使用者、エリス・エレナ・レジーナ。
 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に■■■■■■■■。
 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。
 青の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。
長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

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次回 第三話「レオリオの野望」



[28467] 第三話「レオリオの野望」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:56
 リュックをなくした。気付いたのは仕留めた豚を焼くときだった。たぶん、湿原の地下通路出口に置いてきたままなんだろう。残ったのはナイフと携帯電話だけで、替えの下着までなくしてしまったのは、何よりもエリスに申し訳ない

 あれだけ激しい戦いでも、携帯電話は壊れてなかった。頑丈さを第一に選んだかいがあったのだろう。こうでないと、貧者の薔薇を起爆する時、電話を探して右往左往する羽目になりかねない。それではあまりに無責任すぎる。

 仕方なくよく乾いた枯れ木と落ち葉を探し出して、原始的な方法で火を着けた。まあ、これ自体は大した手間じゃない。能力で無理矢理動かしている体にも負担ではなかった。グレイトスタンプを仕留めるのはエリスが二人分やってくれたし、僕の方が彼女にサポートされてる気になってくる。

 そして、前半戦を難無くクリアすると、元気な少年二人組に話し掛けられた。

「あら、ゴンくん」
「ん? 知り合いかい?」

 なんでも、僕がヒソカと戦ってるとエリスに教えてくれたのが彼等らしい。特にゴンという少年は人間離れした野生児で、その優れた聴覚で戦闘の様子を大まかに把握できたそうだ。そうであるなら彼等は僕の命の恩人という事になる。

「そうだったのか。ありがとう。君達のおかげでこうして生きてる」
「わたしからももう一度お礼をいうわ。本当に、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
「あんた、すげーな。あのヒソカと戦ったんだろ?」

 キルアという少年は言葉とは裏腹に、自分に対する自信に満ちあふれていた。『あんたもすごいが、オレもすごいよ』と、内心はそんな所だろう。そしてそれは確固たる実力に裏付けられての事らしい。この歳でこの体裁きができるとは末恐ろしいにもほどがある。

 陰と陽に別れてるとはいえ、二人とも、戦慄するほどの才能だった。

 二人と話してるうちに試験官の説明が始まって、どうせだからと、二次試験後半は一緒に挑戦する事になった。彼等曰く、仲間がもう2人ほどいるらしい。

「どうも、はじめまして」
「よっしゃ! ゴンでかした!」

 常識的な挨拶をするクラピカ、ガッツポーズをとるレオリオ。彼等とも一通り自己紹介をすませ、試験の攻略に取りかかった。いや、取りかかろうとしたのだが。

「なあ、アルベルト。お義兄さんって呼んでもいいか?」

 肩を叩かれ、いい笑顔のレオリオに尋ねられた。もう片方の手でサムズアップ。彼の意思はよく分からないが、とりあえず僕も返しておく。

「別に呼称にはこだわらないから構わないが、どうしてか聞いてもいいかい?」
「おいおい、つれないな。素敵な妹さんじゃないか」

 ちらりとエリスを見るレオリオ。

 僕とレオリオ以外の面子はといえば、クラピカを中心に、酢と調味料を混ぜた飯に、とか、新鮮な魚肉を加えた、とか、魚? 川から捕ってくっか、とか、あーだこーだと議論している。その中に混ざっているエリスは目立っていた。確実に周囲の視線を集めている。大多数が男で占められたこの試験で、ドレスで着飾った女がいれば当然のことだ。

 なるほど。僕を義理の兄と呼びたいというレオリオの言葉の意味は分かった。それが吊り橋効果だろうが掃き溜めに鶴だろうが、魅力的に見えれば求愛する。年中通じて繁殖期の人間には、いかにもふさわしい行為だろう。パッと見、レオリオは不潔そうな風体でもない。衛生面の問題はないと推測できる。性格も、個人的には好感が持てる。

「エリスの同意があれば異論はないよ。まっててくれ。本人に尋ねてくる」
「あ、おい! ちょっと!」

 僕に恋愛感情はない。肉体が本格的な生殖本能に目覚めるより早くマリオネットプログラムを身につけてしまった影響で、性欲とそれに起因する異性間の愛情や子孫を残したいという願望が実感として理解できない。これは他の生理的欲求とは根本的に異なっている。食欲や睡眠欲は昔の事とはいえ、実感として理解していた頃のデータを再現可能状態で保存している。単に念能力で統制しているだけだった。

 しかし、性欲は前提が違う。知識では知っていても実感できない。僕に分かるのは幼児的な好きか嫌いかという単純な好意と、その強固なものとしての家族愛だけだった。しかし、だからといって他人の恋愛感情を否定するつもりはさらさらない。エリスがレオリオとの生殖行為を望むのであれば、僕は喜んで祝福しよう。

「エリス、レオリオと恋愛してみるつもりはないか?」
「レオリオさんと?」

 突然の提案に戸惑ったのか、エリスは目をぱちぱちと瞬かせ、やがて何かに思い当たったのか、レオリオを招き寄せて内緒話を始めた。ぽりぽりと頬をかいて困ったように話すレオリオ。合点がいったのか、クスクスと笑うエリス。ちらりと僕の方を見たその目は、困った人ねと言ってるようだった。

「アルベルト、レオリオさんはお友達よ?」
「つまり、恋愛感情に発展する可能性は低いという事かな?」
「ええ、そうね。ごめんなさいレオリオさん。アルベルトが失礼な事を言ってしまって。こういう人なの。悪気はないからゆるしてあげて」
「ああ、僕に悪気はなかったけど、もし不快になったなら謝罪したい。すまなかった」
「お、おう」

 僕が頭を下げると、レオリオは困惑した表情ながらも許してくれた。気のいい人のようだった。

「でも、何でまた突然そんなことを?」
「うん、エリスもそろそろ年頃だと思い当たったからね。世間的には、いい男は早めに捕まえておいた方がいいそうだよ。見る限り彼はいい男だ。少なくとも僕は好みだと思う」
「アルベルトの好みにまかせたらヒソカみたいな人と結婚しなきゃならないじゃない。それに、いい男ならもう捕まえてるのよ」
「そうか。知らないとはいえすまなかったね。エリスの選択なら間違いはないだろうけど、兄として顔ぐらいは知っておきたい。今度僕にも紹介してくれないかな」
「そうね。考えておくわ」

 腕に抱きついてにこにこするエリス。頬が少し赤い。腕に伝わる心音などの諸元からは、体長不良というわけではないようだった。

「どうした? 急に抱きついたりして」
「捕まえてるのっ」
「そうか」

 意味はよく分からないが、エリスが満足ならそれでいい。

「諦めろレオリオ」
「ありゃぜってー無理だって」

 ところで、クラピカとキルアはなぜレオリオの肩を叩いているのだろうか。ゴンに視線で尋ねても困ったように目を逸らされた。



 いつまでも関係ない話題に花を咲かせているわけにもいかない。ニギリズシの試験は一見して料理の知識を問うものだが、その内実は典型的な情報ハントだった。試験官のちりばめた情報を頼りに未知の料理という名の獲物を捕獲せよという事だろう。流石はシングルハンター。いい試験だ。エリスに経験を積ませるにもちょうどいい。

 僕達は多人数の利点を活かすため役割分担を決め、30分後に合流する事にした。具体的な分担は、ゴンとレオリオが魚の調達、残りの各自が各々情報を集める担当だった。

 そして、30分後。

「酢と調味料を混ぜた飯に新鮮な魚肉を加えた、っていうとこうなるよな」

 キルアが持つ皿にこんもりと盛られたのは、刻んでソテーした魚肉を飯に混ぜたものだった。試食してみたが味は悪くない。メンチのもつ皿に注がれていたのと同じ、大豆の醗酵ソースをかけるとうまかった。冷たい飯と温かい魚肉ソテーの温度が混じりあうのが気になったが。

「いや、それだと試験官のスタイルにあわない。料理を待つ格好を見るに、恐らく完成品は一口大だろう」

 クラピカの指摘はもっともだ。僕は自分のデータベースの中から、使えそうな知識を提供する。

「ジャポン発祥の携帯食にオニギリライスボールというものがあったはずだ。こうやって、ご飯を握り固めて手で持って食べるらしい。サンドイッチみたいなものかな」
「よし、やってみよう」

 ゴンが怪力を活かしてぎゅっと握る。たちまちのうちに空気が抜け、かつて飯だった塊が残った。なるほど。ニギリズシという名にふさわしい。

 が、まずい。食感がやばいぐらいネチネチしてる。

「握りすぎじゃないかしら? もっと量を少なくして、軽く握る感じにしてみたら?」

 エリスがいう。彼女の料理の腕はかなり高い。そんなエリスの直感なら、かなりの信憑性があると見ていいだろう。

「だーかーらー。お前ら、レオリオスペシャルを無視するなよ」
「却下だ」
「明日がありますよ、レオリオさん」
「えっと、あはは……」
「つーかそんなに自信があるなら勝手に見せに行けばいいじゃねーかよ」
「おう、行ってくらぁ!」
「……あれって、中身は寄生虫だらけだけどね」

 ちなみに僕が試食した実体験である。食べたのが消化器内に円を展開したり体内に向けて念弾を飛ばしたりできない人間なら確実に大騒ぎになっていたと思う。あれ食わされたら試験官ぶちきれるんじゃないかな。

「ま、それはそれとして。やっぱり全体的に温くなるのが気になるね」
「素材が魚って前提は間違ってないの?」
「大丈夫だ、恐らく間違いないだろう。先ほどからマークしているハンゾーという受験者だが、彼が調達した食材は明らかに魚に片寄っている」

 クラピカの視線の先には、キョロキョロしながら必死に笑いを堪える受験者がいた。彼は先ほどからずっとあんな感じだ。きっと、本人は知らない振りでもしてるつもりなんだろう。

「なんかもうさ、あいつ拷問しちゃうのが手っ取り早くねーか?」

 キルアが僕とハンゾーを交互に見ながらいう。相当頭に来てるようだ。その気持ちは分かる。そういう意味で頼りにされてもあまり嬉しくなかったりするが。

「うーん。いっそ魚とご飯をわけてみるのはどうかな。こんなふうに」

 ゴンが掌の上に握りこぶしを置いて提案した。魚肉の上に握った飯をのせるというのだろう。いいアイディアだ。加えるといっても、なにも直接混ぜることに執着する必要はないわけだ。試作してみる価値はある。

「どうせなら天地を逆にした方がいい。その方が熱が移りにくいはずだ」

 新しい魚肉ソテーを用意しようとフライパンを火にかけるエリスに、僕は熱流束の観点から提案した。暖められた空気分子は重力の影響が相対的に小さくなり、統計的に上昇する傾向となる。簡単な理屈だった。

「いや、ちょっとまってくれ」
「おかえりなさい、レオリオさん。どうでした」
「だめだった。世界が俺に追い付く日はまだまだ遠いわ。いや、それよりよ。なんか生の魚肉を使う料理っぽいぜ」

 レオリオ曰く、帰りにハンゾーとすれ違ったが、その後で目をやった彼のスペースには、火を使った形跡が微塵もないと言う。また、試験官のメンチもレオリオスペシャルの形にこそ論外の評価を下したものの、素材が生のままだった事には触れなかったそうだ。生のままというかレオリオのあれは元気にピチピチ跳ねていたが。

 確かにハンゾーはフライパン等を用意していなかった。単に周囲を見て笑うのに忙しいのかと思ったが……。しかし、魚を生で食べるとは。キルアなど露骨に顔をしかめている。一方でゴンは割と平気そうだ。

「こんな感じか?」

 とりあえず、クラピカが手近な食材で簡単に作った。手の中で軽く握った一口サイズの飯にスライスした魚肉を生のまま載せて、形を全体的に整えてあった。見た目はそれほど奇怪ではない。伝統料理として『あってもいい』とは思う。試験の課題にしてはいささか簡単すぎるような気もするが。

 と、そのとき。

「メシを一口サイズの長方形に握ってその上にワサビと魚の切り身をのせるだけのお手軽料理だろーが! こんなもん誰が作ったって大差ねーべ!」

 クラピカが自分の手元を見る。近い。凄く近い。そして全く意味がない。

 全てが無駄になった瞬間だった。

 結局、紆余曲折の末にマフタツ山の山頂から紐なしバンジーを敢行する事になるのだが、ヒソカとの戦いで痛んだ僕の体には、少しだけ負担が大きかったとだけ記しておく。



次回 第四話「外道!恩を仇で返す卑劣な仕打ち!ヒソカ来襲!」



[28467] 第四話「外道!恩を仇で返す卑劣な仕打ち!ヒソカ来襲!」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:56
 初弾命中。体内炸裂、———発動。撃破確認。体内データ異常無し。環境データ微修正。次弾装填。投射。

 掃射される飛礫の嵐。絶叫を上げる人面鳥。念で強化および操作された石塊を喰らって無事で済むはずもなく、重力に負けて大地に次々と吸い込まれていった。蜘蛛の糸を切られた亡者達のようだなと、なんとなく、その光景をみて考えた。

 襲われかけた受験者が蒼い顔で戻ってくる。幸い目立った外傷はなく、人面鳥も既に遠巻きに眺めるだけだったが、念のため、トリックタワーの外壁をもう少し砕いて予備弾を確保しておく。一流のロッククライマーを自称するだけあって、こんな状況でも速く、しかし焦らず的確に壁を掴むのは流石だった。

 すぐに頂上まで辿り着いた彼に、ありがとう、ありがとう、とこちらが困惑するほど頭を下げられた。実のところ、僕に感謝されるいわれはない。横から手を出したのは、エリスに必要ない人死にを見せたくなかったから。それだけだ。

 しかし、これで実際に確認できた。僕のコンディションは悪くはない。昨晩、飛行船でじっくり休めたのが大きかった。完全回復まで、もうしばらくといった所だろうか。

「どうする? 降りようか?」

 今し方一人の受験者が食われかけた外壁を見下ろして、僕はエリスに聞いてみた。その背から生み出される翼は本来空を飛ぶためのものではないが、しかし飛行するという機能を立派に果たす程度の融通は効いた。この程度の高所から滑空して軟着陸するぐらい、彼女にとっては容易いだろう。もっとも、能力の発動自体がリスキーなのだが。

 僕の方も全く問題ない。指の筋力を強化するなり指先のオーラを鍵爪に変化させるなり、外壁を伝う方法はいくらでもあった。なんならエリスを背負ってもいい。怪鳥も、念能力者の前では小鳥に等しい。加えて72時間という余裕ある時間設定。少々オーラを消費した所で、回復に困る道理がない。ヒソカ戦でのダメージを考えても余裕があった。しかし……。

「別の道を探しましょう? 飛ぶと目立っちゃうし、なりより、あまりズルはしたくないわ」

 友人知人と対等でありたいのだろう。稚拙だが、とても純粋な願いだった。エリスの意見を採用する理由はその一言で十分だったけど、あえて付け足せば、外壁攻略は試験の裏事情という面からみても難があった。

 なぜなら、この試験は明らかに外壁以外のルートで攻略することが試験官の思惑と推測できるからだ。この程度の高さの壁面を伝って降りるのに、72時間という設定は明らかに過剰だった。であれば、正規の道であるはずの塔内部を進ませたい試験官からすれば、外壁ルートはかなりリスクの高い設定にしているはずだ。それが怪鳥以外の直接的障害などであればまだいいが、最悪なのが試験の評価そのものに関わるリスクだった。この試験自体は下に降りればクリアだそうだが、今後仮に、同着者の振り落としやシード権の選考、ハンターライセンス取得後の初期評価などに関わってくるなら話は異なる。

 そしてもう一つ。

 ちらりと後ろを伺ってみる。そこには例の奇術師がいた。外壁攻略が僕程度の念能力者で容易いのなら、ヒソカにはもっと容易いだろう。粘着性のオーラも大いに役立つ。再戦を求めて追ってこられたら、明らかに僕に不利だった。

 さて。塔内部から攻略するなら、侵入口を開けるか隠し通路を見つける必要がある。足下へ向けて円を展開しながら歩いてると、ゴン達のグループに声をかけられた。

「隠し扉があと一人分?」
「うん、あるみたいなんだ」

 足下に深く円を伸ばした所、それら5つの穴は10mほど下にある単一の部屋につながっていた。彼等の話も総合すると、5人用のルートいった所だろうか。エリスと目を合わせる。ゴン達なら人格的にも能力的にも、妹を任せるのに不満はなかった。

「エリス。僕はいい機会だと思うけど、どうする?」

 しかしエリスは首を振った。

「残念だけど、遠慮するわ。心配だもの。アルベルトを一人にするときっとまた無茶するから」

 ヒソカのいる方向に視線をやってからいう。

「ごめんなさい。そういうことだから、二人で進める道を探すわ」
「仕方ないな。んじゃ、俺達はさっさと行くとしますか」
「どれを選んでも恨みっこなしでね」
「みんな、地上でまた合いましょう」
「おうよ」
「じゃーな」
「そちらも気をつけて」

 エリスと二人で、次々に消えていくゴンに手を振る。まあ、10m下で合流する運命だが、それは詮無き事だろう。しかし……、あと一人、か。

「エリス、同じような入り口が他にもあるはずだ。手分けして探そう」
「そうね。そうしましょう」

 エリスに先にいかせて、僕は携帯電話を取り出した。ヒソカ宛のメールを作成し、送信する。彼等の、特に二人の少年の資質は、きっとヒソカのお眼鏡にかなうはずだ。僕と戦ったときの記録から見て、奴には才能や将来性を愛する傾向がある。ヒソカの視線がこちらを向いたのを確認して、この場所からの去り際に爪先でコツンと床を蹴った。

 名付けて、バトルマニアの興味を分散しよう大作戦。

 現在の実力差からして、彼等が殺される事はないだろう。……気に入られれば。それに、ヒソカみたいなのと関わる事も、ハンター志望の少年にはいい経験だよね、と心中で誰に聞かせるでもなく言い訳した。



 結局、1次試験の時にエリスと一緒にいたポンズという帽子の少女、そしてポックルという小柄な男と共に5人向けの部屋に向けて飛び込む事になった。どうやら我が妹君は、僕がヒソカとどつきあってる間に随分と幅広く交流していたようで、兄としては喜ばしい限りである。

 残る一人として降ってきたのは、受験番号303、体中を待ち針状のピアスで埋めた男だった。彼もまた念能力を使えるようだが、これまではお互いに暗黙の了解で不干渉の立場を貫いていた。途中からはヒソカの対処に忙しくてそれどころではなかったのが本音だが。

 しかし、同じルートを歩むとなればそうは行かない。最低でも意思を明示的に確認しておく必要がある。

「やあ、どうも。アルベルト・レジーナです。よろしく」
『基本的に不干渉でいいですか?』

 一歩踏み出し手を上げて挨拶、と見せ掛けてファントム・ブラックを掌に具現化する。頷く彼。周りからは僕の挨拶に返しただけに見えただろう。とりあえず今はこれでいい。

 しかし彼については、その言動の全てを記録しておく事にした。必ずしも用心のためだけではない。むしろ、僕自身の向上のためだった。ヒソカと戦ったあと、キルアやハンゾーといった裏の世界の出身者達を見て考えた事がある。今まで僕はハンターとしての体の使い方ばかりをインプットしてきたが、もしかしてそれは、あまりにも視野が狭すぎたのではなかろうか、と。今後のためにも、是非とも彼等のデータを入手しておきたかった。

 そしてそんな裏出身の受験者達で頂点に立つのが、恐らく303番なのだろう。当初は念能力者としてしかマークしてなかった彼だが、動きを分析して驚いた。体裁きは擬態も含めて極めて高度なものだった。できれば直接戦ってみたい。そんな想いさえ抱いた自分に対して、ヒソカに毒されているなと苦笑した。



 裏切りの道。僕達に課された試練はそれだった。なんともおどろおどろしい名前だった。どうやらこの試験の発案者はかなり陰湿なようだった。まあ、いざとなれば裏切らせてあげればいいのである。僕達の試験内容は地上に辿り着く事なのだから。

「ま、始める前から気にしても仕方ないや。とっとと進もうぜ」

 ポックルの気楽な提案に同意して僕達は通路を進み出した。とりわけ変わった様子はない。僕と303番は円を展開してあちこち舐める様に走査しているが、壁の内部にも少々の罠があるだけで、これといって特異な仕掛けも存在しなかった。隠し扉や分岐すらない。なお、罠については先頭を進むポックルが大いに張り切って解除していったので、僕達が指摘する回数は最小限で済んだ。ありがたい事である。

「おや? 広い部屋だぜ」

 一辺50mほどの部屋の正面には頑丈そうな扉があり、その隣に何らかの装置と端的な言葉があった。

『扉の鍵はプレート1枚』

 なるほど。裏切りの道か。

「そういう事ね。悪趣味だわ」
「プレートを失ったら失格ってルールはあった?」
「無いけど、去年は第3次試験でプレートの奪い合いをしたわね。今年も似たような試験が控えてないとは言い切れないわ」

 ポンズが少し不安そうにいう。ポックルは辺りを見渡している。広い部屋。開かない扉。少々あからさますぎる気がするが、まあ、戦えという事なんだろう。ハンター試験に挑む受験者達がこんなところで足踏みするはずがない。そしてその想いを嘲笑う様に、戦った事を後悔させる仕掛けがこの後に待ってる。

「おい、いいか。オレは……」
「ちょっと待った。議論はこの部屋をクリアしてからにしよう。その方が集中できていいだろう?」
「え? できるの?」

 ここで取り乱されても無益だ。安心させるため、ポンズの疑問には頷いておく。303番は無言だ。その役は僕が引き受けろという事だろう。まあ、異論はない。僕は正面の扉を無視して部屋の中央辺りの床を調べ、予想された仕掛けを発見した。

「つまり、扉を開けても進むべき道があるとは限らないという事さ」

 跳ね上がる床板。現れる隠し階段。カクンと落ちる3人の肩。

「大喧嘩の末、誰かのプレートを犠牲にして扉を開ける。でもそこには通路がない。大慌てで辺りを探したらノーコストで開けられる隠し階段。険悪になるよね?」
「ほんっと! 悪趣味っ!」

 エリスの叫びが、彼らの心を代表していた。

 しかし、これは前座だろう。こういう甘い条件の部屋を見せられると、次からも同じ傾向を期待する。だからこそ必ずあるはずだ。本当に、誰かを犠牲にしなければならない難関というものが。

 もっとも、試験官の思惑通りにいけばの話だが。

「階段を降りた途端に分岐ばかりで罠がないのね」
「全くないのも無気味ね。なんでかしら?」
「簡単さ。分岐があった方が意見が分かれていいだろう? 罠は、今までの1本道に沢山あったのは共同作業をさせてメンバーの絆を深めさせるためだろうね。裏切りのショックがより効果的になるように。今後は、忘れた頃に僕達に負担をかけるための罠が現れるはずだ。だから、二人ともポックルを頼りにしてやってくれ。彼の調子次第でこの迷宮の難易度が変わってくる」
「わかった。まかせて」
「ええ、それがアルベルトの頼みなら」

 必要ない所で面倒な事にならない様に、あらかじめ女性陣をポックルにけしかけておいた。分岐点では目立たない箇所にファントム・ブラックで目印を付けておく。このような使い方は苦手な能力だけど、風雨の影響のない室内で他人のオーラに干渉されなければ数時間位はなんとか持つだろう。

 それにしても303番。彼は念・体術共にとても凄い。総合的にはヒソカと同じレベルじゃないだろうか。増々その技術が欲しくなる。いっそこちらから積極的に話し掛けてみるべきだろうか。

「悪いけど、ちょっといいかな?」
「……キルア」
「え?」
「キルアとは、友達なの?」

 思ったより若い声だった。声紋解析は20歳から25歳程度の男性と分析している。

「どうだろうね。少し話はしたから知人ではあるだろうけど」
「……そう」

 キルアの関係者なのだろうか。その態度はあまりに素っ気なくて掴みにくい。

「で、なに?」
「ああ、良かったら体術を少し見せてほしいと思って。もちろんお礼はする。アマチュアだから予算にあまり無理は利かないけど、僕に払える対価で教えてもいい技術があれば是非頼みたい」
「見せるだけでいいの?」
「もちろん。修得するのは自分でやる」
「暇な時で、有料ならいいよ」
「ありがとう。本当に助かる。あ、これ僕の連絡先」

 想像していたより気さくな人のようだった。303番、ギタラクルと名乗った彼と携帯番号を交換した僕は、思わぬ幸運に感謝した。



次回 第五話「裏切られるもの」



[28467] 第五話「裏切られるもの」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/25 20:49
 極論すれば、試験官は蹴落とすために存在するのであり、受験者は蹴落とされるために存在するのである。トーナメント戦で敗者が脱落するのが当然なように、裏切りの道と名付けられたこの試験も、割り切ってしまえばそれとなんら変わらない。トーナメントで負ける奴が悪いように、ここでは裏切られる奴が悪いのだ。

 しかし、裏切るには相手が必要である。

 僕は仲間と協力しなければならない。裏切るべき時に裏切れるよう、できる限り仲良く攻略しなければならないのだ。

 現状、リスクなく裏切れるのは2人だけ。これから控える関門が裏切られた人物の試験続行に支障がないものばかりである筈がない。仮に2人とも不可逆的状態に追いやってしまったら、3人目から先はギタラクルとの戦闘を覚悟しなければならないだろう。2人しかいない貴重な裏切られ要員をいつ使うか。どれだけ2人を裏切り尽くせるか。いかにして2人で済ませるか。それが僕に課せられた命題である。

 というのが、試験官が考えたこのルートの正攻法だと推測される。

 まあ要するに、僕は正攻法で攻略する気はさらさらないのである。強いていえば最後の手段。保険扱い。精々そんなところだろうか。しかし、それは正義感に起因する選択ではなかった。

 そもそも、僕は裏切りの道に反感を抱いてない。ハンター試験の課題としては、これはとても適切な内容だと思う。試験官にしてみれば実戦に近い環境で総合的な能力を評価できる。心身のタフさ、冷静な判断力、状況把握力、対人技能に戦闘能力。その上、受験者にとっては精神的な予防注射にもなる。現実のハントで裏切り裏切られる前に、試験という危険が比較的少なめの環境下で予行練習できるのだ。試験官個人の嗜好を除外すれば、実に考え抜かれたいい試験だった。だが、それだけに。

 もし仮に、この試験をクリアできる人数の上限が1人に設定されていたら?

 裏切りの道で、裏切られる側が常に1人とは限るまい。どうでもいい人物ではなく、絶対に裏切りたくない人を裏切らせる事こそ、この試験の真の趣向だろう。その意味では、僕達がこの道を選択したとき、試験官は小躍りしたはずだ。

 たとえ試験とはいえ、エリスに僕を裏切らせたくなかった。だから早いうちに対処する。僕が正攻法をとらない理由はそれに尽きた。彼女のためなら喜んで脱落しよう。しかし、きっとエリスは、裏切りを良しとしないだろうから。

 裏切りを演出したければすればいい。裏切りたい受験者は裏切ればいい。僕はエリスに別の選択肢を用意しよう。彼女が裏切らなくて済むように。



 2番目のポイントは楽に通過できた。誰か一人の衣服全部を捧げろと主張する扉の鍵は、しかしその要求を満たす前に、ポンズが発見したカードキーにより無力化された。発見の難易度は一つ前よりはるかに低い。確実にわざとなのだろう。都合のいい裏技のないポイントでも、希望に執着して仲間割れするように。

「また分岐……? 一体いつになったら次に着くのかしら」

 ポンズが心底うんざりしてこぼした。先頭を進むポックルにも焦りが見える。しかし、現状、彼の進路選択は致命的な間違いを犯してない。オートマッピングの報告する所によると、僕達は確実に未知のエリアを開拓している。ポックルの勘は的確だった。優れた嗅覚とでもいうのだろうか。ハンターとしてよほど優れた素質を持っているのだろう。

 しかし、同じような分岐をしつこく見せられ続けると、どうしても不安になるのが人間である。どうやら第2ポイントと第3ポイントを繋ぐ通路はそれまでより遥かに長いようだった。これも揺さぶりの一つだろうが、実現するためには塔の全体的な構造を考慮して計画しなければならない大掛かりな仕掛けだ。ここまで演出に凝る試験官であれば、僕の撒く餌にも食い付いてくれるかもしれない。

「よし……、今度は右だ」
「右ね。わかったわ。……大丈夫よ。まだ前の部屋を出てから5時間しか経ってないもの。のんびりいきましょう。ね? ポンズも」
「ああ、すまない。大丈夫だ。焦って失敗なんてつまらない事はしないさ」
「そうね、ごめんなさい。私もちょっと軽卒だった」

 この場所にもファントム・ブラックで目印を付けてから、ポジティブに先を進む3人の後ろをついて行く。とりあえず手っ取り早い方法として要所ごとにマーキングを施しているが、これだけではいささか心もとない。他にも何か考えるべきか。

 その様子を静かに見つめるギタラクル。彼にはそろそろ、悪巧みの相談をした方がいいのだろうか。

 彼と小声で相談しているうちに分岐。すぐその後に分岐、上下左右、階段と分かれ道の組み合わせ。そんな通路を進んでく途中、とある分岐に差し掛かった所で、ポックルがふと立ち止まった。

「風が鳴いてる。何かあるぞ」

 結論からいえば、その予感は真実となった。



 部屋の壁面には金属製の無骨なレバー。隣には感電注意と大書きされた虎柄の看板。そんな、誰もが躊躇する身体機能の根本に関わる凶悪な仕掛けは、ギタラクルによって一瞬で解除された。唖然とする僕達に目をくれず、開いた扉の先を見つめたギタラクルは、しかし微かに顔をしかめた。

 扉の向こう、少し進んだ通路の先に、今よりも大きな広間があった。

 二重関門。なんともまあ、心に揺さぶりをかけたがる事だ。

 その広間には床がなかった。深い深い奈落への入り口。そんな大穴に四方を囲まれた中央に、闘技場と思しき円盤がある。直径が80mはあるだろうか。巨大な空間に浮かぶリング。そこには、多くの男達が控えていた。

「ようこそ! 100対1デスマッチへ!」

 中央にいた大男が叫んだ。彼がリーダー格なのだろう。粗末な上下を着た集団の中でも、人を率い慣れた輝きがあった。

「これより諸君の中から代表者を選び、我々全員と戦ってもらう! 選抜は抽選! 武器の使用は禁止であるっ!」

 咆哮する大勢の男達。それは間違いなく歓喜だった。野獣のような、と形容してもいいような。

「勝利条件は我々全員の打倒か降参! 死ぬかギブアップすると敗北となる! 死亡した場合は次の代表者の選出に入る! ただし! ギブアップした場合は当人のみこの場所の無条件通過権が与えられる! その際、残りの諸君は試験終了までこの場で拘束される! 何か質問は!?」

 僕は手をあげて尋ねた。

「抽選で選抜された者が試合前に行動不能になっていた場合は?」
「その場合っ! ハンター試験の棄権を宣言済みか死亡していれば再度抽選をやり直す! そうでなければ気絶していても試合に参加してもらおうっ!」

 よくぞ聞いてくれたとばかりに男が答える。なるほど、彼等の考えは大体分かった。僕かギタラクルであれば屈強な男を同時に100人相手にするのも至極容易い。だが、僕達は最後まで選ばれない。最初に抽選で選ばれるのは。十中八九エリスかポンズ。そしてもし戦闘になった場合、デスマッチと称しながら死なせるつもりは微塵もない。ギブアップするまでは時間一杯、適当に玩具にするつもりだ。もしかしたら、ギブアップすら許さない算段かもしれないが。

 つまり、戦闘に長けた僕とギタラクルに仲間を裏切らせるのがこの関門の主眼だろう。

「では抽選に入る!」

 男が麻袋の中から取り出したのは、やはりと言うかなんと言うか、エリスのナンバーを示す札だった。皆に僕の推測を説明する。怒りに弓を握りしめるポックル。帽子を爪弾いて蜂を呼び出すポンズ。二人ともエリスの裏切りを懸念しないどころか、妹のために怒ってくれる気持ちはとても嬉しい。ギタラクルは相変わらずな様子だった。そして、当のエリスといえば、無表情で男達を見つめている。

「なんなのよ、あいつら! エリス! 気にする事はないわ! 待ってなさい。今すぐ全員始末してあげるからっ!」

 念能力も使わずそこまで蜂を操るポンズの技量は見事だ。しかし……。

「アルベルト」
「ああ」
「纏を解くわ」
「……あまり無茶するな。お前の情報も、気軽に晒していいものじゃない」
「ごめん、お願い。許せなくて。命がけの厳しい試験内容を課すのはいいけど、こんな嘲笑うみたいなのは違うと思う。だって、今年だけで沢山の人が亡くなってるんだよ!?」

 エリスの怒りは正当だが未熟だ。理不尽に対処する能力を測る試験。嘲笑に耐える冷静さを評価する試験。それらは成立して当然だろう。ハンターとして社会の荒波に晒されれば、そんなもの、日常的に待ち受けている。

 それでも。

「わかった。エリスが望めば否やはないさ」

 最愛の妹の髪の毛に、ぽんと手を置いて僕は言った。呆然とするポックルとポンズを後目に、エリスは現れた通路を渡って行く。

「お前っ! 見損なったぞこの野郎!」
「そ、そうよっ! あんたあの子のお兄さんなんでしょ! 止めなさいよ!」

 二人の危惧はもっともだ。エリスの体術は戦力にならない。たとえ念が使える事を鑑みても、彼女の勝ちは難しかった。エリスの発は大技専用で、この状況下にはそぐわない。対多人数戦闘の経験も技能もない。このような場合、群れに突っ込み掻き回し主導権を握るのが常道だが、エリスの状況把握力では不可能だった。普通にやれば押しつぶされる。それが絶対の真実だった。だが。

「ありがとう。その気持ちは本当に嬉しい。でも大丈夫、あいつは勝つさ。必ずね。それより、僕達の後ろに隠れて、少しの間じっとしていてほしい。あと……、できればでいい。エリスをあまり怖がらないでやってくれないか」

 言って、僕は沈黙を貫くもう一人の人物に視線を向けた。

「ギタラクル」

 無言で続きを促される。

「携帯が圏外だ。振り込みは後でするから頼まれてくれ。僕達の堅で二人を守る。500万でいいかな?」
「ケン?」

 疑問の声を上げるポックルを後ろに下がらせる。ギタラクルが頷くのを確認して、僕達は並んで体勢を整える。そのとき、彼から小声で尋ねられた。

「練?」
「素だよ。エリスは練を修得してない」

 その意味は、きっともうすぐ分かってしまう。

「お待たせしました」
「ギブアップはするかい、お嬢ちゃん?」
「いいえ。合図はまだです? それとも、もうはじめていいのかしら?」

 闘技場についたエリスは、無表情のまま相対した。舌舐めずりをする男達。勝利を確信した顔だった。背中から歯ぎしりが聞こえてくる。狼の群に襲われる哀れな羊。眼前の光景は、それ以外の何かではなかった。男の一人が、ニヤニヤしながらコインをトスする。それが開始の合図だった。

 コインが地面に落ちる。100人の男が殺到する。佇んだままのエリスが、寂しそうな微笑みを浮かべた。

 纏。

 自然状態で垂れ流しになっているオーラを肉体に留める技術。エリスのそれは、その実、絶との複合技に近かった。それが解かれた。それだけで、ただ、それだけだった。

 見よ、蒼ざめた馬がやってくる。

 吹き荒れる生命エネルギー。垂れ流すだけで圧力をもつオーラ。地上に咲いた新しい恒星。今の彼女に比べたら、暴風雨の方が遥かに優しいだろう。次々と倒れ、吹き飛ばされ、あるいは嘔吐する男達。人の纏っていい威圧ではない。人の世にあっていい理ではない。単純に存在の尺度が違う。たったそれだけの事実である。

 こんな、どこにでもいる小娘が。

 加速する重圧。あまりにも暴虐。ドレスの裾が翻り、母親の首飾りがそよいで踊る。何の事はない。自然に垂れ流されるオーラだけで、物理干渉するほどの圧があるだけである。念を使えない一般人が、この中で生きていけるはずがなかった。

 100人が全員倒れ伏したのを確認して、エリスは一つ深呼吸した。途端、暴れ狂っていた生命力が彼女を中心に収束する。自らのオーラを制御できる強固な纏。彼女が師匠から教わり鍛え上げた念の技術は、ほぼ全てがこれを実現するためだった。

 男達は辛うじて生きてる。肉体的には無傷だろう。精神も、しばらくすれば回復するはずだった。しかし、これだけは言える。エリスが纏をするのがもう少し遅かったら、彼等は確実に死んでいた。

 人は、微笑みで殺せるのだ。



 戦いとも呼べぬ戦いが膜を閉じた後、エリスが闘技場に渡った通路が再び現れ、僕達はこの広間を突破する事が出来た。おそらくは試験官が見ていたのだろう。途中、確認した男達は思い思いに倒れ気絶し悪夢にうなされていたが、死傷者は一人もいなかった。

 しかし、エリスが無傷で本当に良かった。

 あれは、実のところあまり戦闘向きではない。ある程度の纏か堅があれば防げるし、同じように貫けもする。正味の攻撃力も大した事ない。エリスは流どころか凝もできないのだから。それでも、彼等の心を折るには十分だった。いざ、万が一の事があれば念弾で援護するぐらいは迷わずしたのだが、懸念ですんだのが嬉しかった。

「なんだったんだよ、あれは……」
「そうだね。ハンター試験に受かれば分かるさ。今教えられるのは、それだけかな」

 宥めるようにポックルにいう。彼は、そしてポンズも真っ青だった。僕達の背中に隠れていたとはいえ、あれは相当ショッキングな事件だったらしい。それでも、エリスを避けないのがありがたかった。むしろ彼等の方からエリスに話し掛けてくれている。妹は本当にいい友人を持った。

「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや、ちょっとな。この場所、さっきも通った気がしたんだが……、いや、まてよ?」

 分岐点に来た時だった。ポックルが突然立ち止まった。何か違和感があるのだろう。腕を組んでじっと考え込んでる。裏切りの道という状況で仲間に素直に相談できる人格。違和感を的確に拾い上げられる直感力。それを気のせいと断じない判断力。それらを駆使し積極的にパーティーメンバーを統率するその姿勢。全て正しい。未熟なアマチュアの戯れ言だが、彼はきっといいハンターになる。そう思った。

 そしてポックルの疑問は的確だった。オートマッピングも内耳の耳石と三半器官を利用した簡易慣性位置システムも、ここを一度通った分岐点だと報告している。ならなぜ彼が違和感を感じているのか。それは、明らかに辿り着いてはいけない順路でこの位置に帰ってきたからだった。

 おそらく、迷路全体を動かす大掛かりな仕掛けが存在する。

「ちょっといいかな? 実はさっきから一度通った場所には目印を残していてね。この辺りに……、あれ? ないぞ?」
「通った事ない場所ってことか?」
「ああ……、多分そうだと思う」

 ファントム・ブラックの痕跡が残されてない事を確認し、ポックルと一緒に首を傾げる。確かに具現化系の能力とはいえ、こうもすぐに完全消滅する程やわではないはずだ。そう、誰かのオーラに掻き消されでもしない限り。

 今の僕の様子を、試験官は監視カメラで見てるのだろうか。

「仕方がない。先へ進もう。どうやらオレの勘違いだったみたいだ」

 決断したポックルに同意しつつ、隙を見てファントム・ブラックで再びマーキングする。今度はかなり強めに念を込めた。簡単に落ちる事のないように。

 横目で確認したギタラクルは、カタカタカタと佇んでいた。



 微かに、カタリと異音が聞こえた。確認するまでもない。隣のギタラクルが爆発した。遅れずに僕も追従する。床を蹴り壁を蹴り天井を蹴る。堅は既に展開してる。疾走。否、もはや既に飛行に近い。踏み締めた壁面が陥没する。景色が滝のように流れて行く。いっそ音すら置き去りにしてしまおうと、僕達二人は全速力で今来た迷路を逆走した。

 先ほどの分岐点まで戻ったとき、そこに屈んでいたのは顔面に傷のある男だった。最高速のまま飛来する僕達。驚いて腰から2本の曲刀を抜く男。反応があまりに悪すぎる。そこは離脱するべきだろう。いや、そんな暇すら与えないが。

 曲刀を投げようとするモーションを視認して、ギタラクルの飛び蹴りが炸裂した。面白いように迷宮を弾む2刀流の男。僕はそれに追い付いて、空中で拘束して床に叩き付けた。

「やあどうも。お勤めご苦労さまです」

 着地し、朗らかな表情を選択する。余裕を演じ、立場の違いを分からせるための常套手段だった。男は唸りながらも堅すらしない。あまりに拙い。恐らく、プロハンターではないだろう。協会に雇われたアマチュアといったところだろうか。

「もうお察しでしょうが、僕が残した念は罠でした。失礼ですが、あれだけ陰湿な試験内容を考えた方々です。意に沿わぬ状況が続き苛立てば、それぐらいはすると思ってました。でも、まさかこんなに早く餌に食い付くとは思わなかったな」

 ファントム・ブラックを劣化させるのは、一般人が垂れ流す生命力でも可能だ。それぐらい弱い能力だけど、しかしさすがに、短時間で消すなら最低でも纏ができる程度の能力者がいる。つまり、試験官はそこそこの手駒を使ってこの場所の目印を消したわけだ。

「確認しておきますが、あなたが試験官ではないですよね。試験官自らがこそこそ暗躍するのはこの試験の趣旨に反するでしょうし、なにより、責任者が管制できる場所を離れるとは思えない。現在進行中の試験は、僕達のルートだけではないのですから」

 試験官に手をあげて不合格になった、という話をヒソカから聞いた。1次試験が始まる前の事だ。さすがにそれは少しまずかった。しかし、試験官が試験のために運用し、かつ直接的な妨害を担当させる人員なら、受験者が排除すべき障害の一つだろう。僕達はそれを正当な手段で実現しただけだった。

「ぐっ……! 畜生っ! 嬲るかッ! 早く殺せっ!」

 伏したまま、悔しそうに唸る男。抵抗は無駄だと分かっているのだろう。しかし……、僕は一つ溜め息をついた。

「勘違いしてるようだけど、僕の目的は貴方の命じゃない。クリア条件はあくまでも、スタートから72時間以内に地上に辿り着く事なんだ。むしろ殺人みたいなマイナス査定を喰らいそうな行為は最小限にしたいぐらいだからね。まあ、命なんてどうでもいいのなら、後ろの怖いお兄さんに身柄を任せるだけだけど」

 当たり前といえば当たり前だが、こんな気合いが入った迷路といえども、いや、だからこそメンテナンスハッチは存在するのである。いちいち屋上のあの入り口から入るのでは、人手がいくらあっても足りないからだ。

「悪いけど、諦めて裏切ってもらいたい。貴方の雇い主の思惑を」

 男の顔のすぐ隣に、ギタラクルが針を飛ばした。それがとどめとなった。



「オイ! 大丈夫か! 一体何がどうなってるんだよ!」

 ドタドタと三人が駆け戻って来たときには、男は情報をすっかり吐き出していた。信じられないが、これでもプロハンターらしかった。去年の試験でヒソカに一蹴されたという試験官、それがこの彼らしい。今年この塔にいたのは去年の復讐が目的だったそうなのだが、可哀想だがこの実力では挑戦しても言わずもがなだろう。

「ああ、親切な人がいてね。この人が裏切りの道から途中下車する方法を、隅々まで詳しく解説してくれたんだ」

 言って、念のことをぼかして説明した。ポックルとポンズは終始胡散臭そうにしていただが、どうやら出れるらしいことは分かってくれたようだった。

「それで、どうする? 優等生に徹するならこのまま裏切りの道を進むという手もあるけど、とりあえずギタラクルは抜けるらしい」

 このまま進むかと聞かれて、3人とも嫌そうな顔をした。どうやら結論は一緒らしい。クリアの方法としては変則的かもしれないが、この道をこのまま進みたがるよりは精神的に健全だと思う。

 その後、僕達はエレベーターで地上に直行した。

 道筋全体を変形させ順路を変える機構自体が、管理エリアへのアクセスも兼ねていた。なるほど。これならよほど大きな円を張らない限り見つからないはずだ。

 第3次試験突破記録は15時間34分。地階には、ハンゾーを始め既に数人の受験者がいた。



次回 第六話「ヒソカ再び」



[28467] 第六話「ヒソカ再び」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:57
 第4次試験会場へ向かう船上で、管制空間に入って調節を施した。長丁場に設定されていた第3次試験のおかげで、僕はじっくり休息を取る事が出来た。休んで回復した体を総点検し、設定を調節する機会が欲しかったのだ。また、塔内部で記録したギタラクルのデータも、分析して導入可能にしたかった。それらを一通り完了させた所で、僕はもう一つの確認に取りかかる事にした。

 頭の隅で30時間以上かけてコツコツ計算した結果を具現化系総合制御に受け渡し、仮想展開モードで出力させる。管制空間内の人格フィギュアの眼前に出現したのは、どこにでもあるようなレースのショーツだった。色はドレスに合わせて黒を選択している。無論、エリスのための品である。

 たとえマリオネットプログラムといえど、具現化系は扱いにくい。オーラの消費率が比較的悪いというのもあるが、主な理由は別だった。運用に要求される演算量が他の系統と比較にならないほど多いのである。故に、単体で能力として確立されているファントム・ブラック以外の具現化系は、極一部の例外を除いて使用頻度が格段に低かった。戦闘時の応用は更に難しい。つまり、今は珍しい機会という事になる。

 この程度の体積の小物であれば、ナノ単位の微細構造が重要でない限り、処理機能の占有率にもよるが十数時間から数十時間程度で有限要素法により近似値を数値計算可能だった。僕の手から離れれば劣化するので強度は市販品より劣ってしまうが、データさえあれば再生成も容易い。容量を食う情報なので試験が終わったら破棄するつもりだが、それまではエリスの下着類ならオーラが尽きるまで具現化する事が可能だった。なお、僕の下着は丈夫な綿製である。適当に水洗いすれば十分だった。

 一仕事を終えて管制空間から離脱した所で、僕はこちらにやってくる人影に気が付いた。レオリオだった。緊迫した空気が漂うこの船内には似つかわしくなく、よっ、と気さくに挨拶された。後ろにはゴンにキルア、クラピカも肩を並べて追従してる。

「やあ。エリスなら船内を廻らせてるけど?」
「さっき会ったぜ。いや、それよりアルベルト、お前に話があるんだが」
「僕に?」

 次々と頷く四人。

「まずは一発殴らせろ」

 彼ら全員に殴られた。1/6「軽度警戒」にしてあった自動防衛管制が迎撃を提案したが、僕はそれを却下した。肉体のダメージは皆無だが、なぜ危害を加えられたのか。彼らに説明を要求した。

「ヒソカから聞いたよ。奴を呼び寄せたのは貴方らしいな」
「こちとらひどい目にあったんだぜ? どうしてくれるんだ、あぁん?」
「そうだよ。次やったらエリスに言いつけるからね!」

 ため息をつきつつクラピカ。そしてレオリオは柄が悪い。ゴンの脅迫方法は的確すぎる。

「ああ、その件か。それはすまない。反省はしないが謝罪はするよ。だからエリスに告げ口するのはやめてくれ。頼む」
「つーか下に部屋があったの知ってたのかよ」
「ただの推測さ。確信はなかったから黙っていた。君達を惑わせるつもりはなかったからね」

 キルアの鋭い指摘を嘘でかわす。じっと観察されるが問題はない。表情や声色から嘘がばれる危険は、僕に限っては全くなかった。しかし勘の鋭い少年だ。時々いるが、この子も虚言を皮膚感覚で判別できる人種かもしれない。

「それに、戦力にはなっただろう」
「うん。すごく強かった。アルベルトもあれぐらい強いんでしょ?」

 目を輝かせてゴンがいう。そうか。彼はこういう子か。無邪気に、真っすぐに、善悪の区別すらなく強さに憧れ追い求めている。こういう子供が才能を持っていると、あっという間に成長する。……ただ、少し危うい。

「僕はあれより一段落ちるよ。現に一回負けている。だけど、何度も負けてやるつもりはないかな」

 まあ、つもりだけで勝てたら苦労はないけれど。

「そういえば、ヒソカをご指名の挑戦者はいなかったかな? 顔に傷のある曲刀使いなんだけど」
「うんん。見なかったけど何で?」
「いや、僕達が進んだルートでそういう人に会ってね。そうか、諦めたのか」

 それは今年だけだろうか。振り切る事ができたのだろうか。他人の価値観に口をはさむほど傲慢ではないつもりだけど、それはきっと幸せだ。叶わない復讐に身を滅ぼすより。これからの人生、生きてさえいればいいこともある。ハンターライセンスすら持っているんだ。やり直す方法はいくらでもある。

 そこまで考えてふと思った。もしもエリスを失ったとき、僕は諦める事ができるのだろうか。

 ……やはり、僕は傲慢だったらしい。諦める事などできないだろう。エリスの記憶を消去したら、僕は僕でなくなってしまう。エリスが失われるぐらいなら、彼女の代わりに死にたかった。それが叶わぬというのなら、せめて一緒に散りたかった。願わくば、彼女の人生が幸せな終わりを迎えますようにと、僕は信じてもいない神にそっと祈った。

「見つけた。こっちにいたぞ」
「ほんとだ。探したわよ」

 ポックルとポンズまでやってきた。随分大所帯になってきたなとそう思った。しかしエリスがいないのが違和感があった。今までは、僕ではなくエリスの周りに人が集まってきていたと思ったが。

「ポックル、エリスは?」
「彼女なら向こうでトンパと何か話し込んでたぜ」
「げ、あのおっさんまだ残ってたのかよ」
「むしろお前が知らなかった事の方が驚きだ。他の受験者のチェックは基本中の基本だよ、レオリオ」

 クラピカの言葉はもっともだ。僕の場合、確認した全員の諸情報をデータベースにしてまとめているし、そこまでいかなくても、全員が同じような努力をしているだろうと思っていた。ヒソカのような例外を除いて。

「それよりアルベルト。あなたね、エリスに何を吹き込んでるの?」
「ん、ああ。四次試験の試験の性質を分析した結果を少し。あとは死者が確実に出るであろうことと、誰と永久の別れになってもいいように、残ってる友人知人の顔を見ておいでとも勧めておいた」
「あなたね……」

 ポンズが苦々しい顔をしている。レオリオやポックルも少し嫌そうだった。対して、ゴンやクラピカは顔色を変えない。キルアなど、何を当然の事と呆れてすらいる。

「ちょっとは言い方ってものを考えなさいよ」
「いや、彼の言はもっともだ」

 ポンズと僕の間にクラピカが割って入る。皆の視線が彼に集まった。

「第四次試験は今年初の受験者同士が直接的に争うものだ。いくら言葉を飾っても、そのルールも危険性も変わらないだろう。ならば、我々も覚悟を決めた方がいい」
「うん、そうだね。その方がきっとすっきりやれるよ」
「だよなー。っていうかさ、危険があるのは当然だろ? 1次試験から死んだ奴いるじゃん」

 クラピカの意見に、皆が口々に同意する。

「誰が落ちても恨みっこ無しってやつだな」
「違いない。アンタいい事いうじゃん。オレ、ポックル。よろしくな」
「レオリオだ。こう見えても医者志望でな、怪我したらいつでも言ってくれ」

 受験者同士の対決を目前にして、何故か、新たな友情を育む人間もいるようだ。

「……そうね。腹をくくるわ。みてなさい。私だって立派な幻獣ハンターになるんだから」

 そして、数瞬の後にポンズも目を閉じて正面で拳を握った。納得したのか、単にこの場の空気に呑まれたのか、それは僕には分からない。

「幻獣ハンター志望なのか?」
「うん、そうだけど。おかしい?」

 意外といえば意外だった。僕の専門でこそないが、あれはかなり泥臭い仕事だ。幻獣という名称からイメージされるファンタジックさとは程遠い。生い茂る藪の中で幾夜も息を潜め、動物の糞を舐めて情報を集め、ボウフラの池に潜れる人間。そういう連中にしか勤まらない。根っからの動物好きであるのは前提以前だ。常識的には、若い女性に似合う職業とはいいがたかった。

 しかし、僕はあの塔でポンズの技量をこの目で見ている。念能力を全く使わずに蜂を自在に操る様子は見事だった。自然と心通わせずにできる技ではない。そんな彼女だ。幻獣ハンターの仕事など、僕以上に熟知してるのだろう。ささやかだが、その夢を応援したくなった。

「幻獣ハンターなら、師匠の知り合いに何人かいる。よかったらしばらくアマチュアとしてでも弟子入りしてみたらどうかな。紹介状なら用意できると思うよ」
「なんでっ! 落ちる前提で話を進めてるのっ!」

 ポンズの拳が飛んできた。雰囲気がほぐれ、明るい笑い声がその場に満ちる。僕は彼らに囲まれて、今日はよく殴られる日だと、そう思った。

「アルベルト? あら、みんな集まってどうしたの?」

 エリスが戻ってきたようだ。彼女は僕を囲む皆を見渡して、何を思ったのだろうか、満面の笑みで飛びついてきた。僕はそれを受け止める。エリスは胸板に顔を押し付けて離れない。まるで母親みてーだなと、レオリオが呟いたのが耳に入った。



 僕の獲物はすぐに見つかった。受験番号76番。エリスがトンパに尋ねた所によると、チェリーという名の武闘家らしい。毎年のように試験終盤まで残るベテラン受験者だそうだ。なるほど。その実績、決して伊達ではない。

「いかにも。オレが76番、チェリーだ。……お前には、見つからなければいいと思っていたが、待ってもいた」
「待ってましたか」
「実はな」

 言って、彼が取り出したのは、僕の番号を示すカードだった。なるほど。お互いに目標だったらしい。

「ひとつ、頼みがある」
「なんでしょうか」
「君は強い。今のオレでは勝ち目はないだろう。だが、君が勝っても、オレを殺さないでくれないか。……オレには、強い目的がある」

 臥薪嘗胆。彼ほどの武闘家がどれほどの苦汁を飲み干してその言葉を吐いたのか、僕には生涯分かるまい。無言のままに頷いた。それで良かった。それ以外の全てが余計だった。プレートをエリスに手渡す。僕が負けたら彼に渡すように頼んでから。エリスは、真剣な表情で頷いた。そして、チェリーもエリスにプレートを渡した。それが当然だというように。

 自動防衛管制を0/6「無警戒」に、戦闘用体術タスクをフルマニュアルモードに、体外噴出オーラを0に設定した。心身が流水の心地になる。

「……すごいな」

 チェリーが感嘆の声を洩す。絶。この状態で全力を尽くす。念を知り、高みにいる者の驕りだろうが、これが僕にできる精一杯の誠意だった。ここで負けてもいいと思った。自分の納得できる道を選べ。それが師匠の口癖だった。もし仮に、ここで負けてエリスまで不合格になったなら、僕は永遠に悔やむだろう。それでも。

「いざ」
「ああ」

 お互いに構える。それっきり無言。エリスも何も言わなかった。森にたゆたう静寂の中、木の葉が風に鳴っていた。

 先に動いたのは、僕だった。鳩尾に突き刺さる渾身の掌底。呻き声一つ漏す事なく、チェリーの意識は闇へ消えた。



「いいかい。こうやって偽装した人物を樹上に隠蔽するのは一般の人間及び地上性の動物に対して有効性が高い。また、森林状態さえ良好なら飛行性の脅威に対しても高い隠密性を誇る。しかし赤外線による観測では位置が露見しやすいし、その上、自然の生態系においても考慮しなければならない天敵がいる。なんだか分かるかな? エリス」
「そうね……。樹上生活型の肉食獣とかかしら」
「その通り。猫科の猛獣の一部やヒヒなど大型の真猿類、そしてなにより肉食性の樹上型魔獣が挙げられるね。この島の環境ではこれらを無視して構わないけど、決して万能ではないのは憶えておいてほしい」

 水場から近い位置の大樹に気絶したチェリーを隠蔽するついでに、エリスにちょっとした技術講義を施しておいた。役立つかどうかは分からないが、知ってて損はないだろう。ツタを編んで作ったロープでチェリーの体に安全帯を入念に施し、葉のついた枝をそこかしこに付与して偽装を施す。地中と違って水はけがよく、野犬やイノシシなど嗅覚に優れた動物にも強いのが利点だった。伐採した木を刳り貫いて作った即席の容器に水や果実を入れたものを、側にいくつか吊るしておく。ここまですれば、チェリーが目覚めて自力で動けるようになるまで回復する程度の時間は稼げるはずだ。

 さて。これであとはエリスの目標を捕らえ、プレートを入手するだけだった。くじにより指定された番号は386番。体の動かし方から猟師とみらる大柄な黒人。他の受験者達の会話から、推定名称ゲレタ。僕のデータベースにあった情報は、エリスがトンパから入手したものとほぼ完全に一致していた。

 凄腕の猟師ゲレタ。第四次試験会場であるゼビル島は、彼にとって最良のフィールドだろう。恐らく、大まかな居場所を特定するだけで難しいはずだ。僕が主体となれば補足する方法はいくつか考え付くが、できればエリスに狩らせたかった。しかしいいアイディアが思い付かない。

「……アルベルト、ごめんなさい。わたしちょっと疲れてるみたい」

 そのとき、エリスが疲労を訴えた。無理もない。試験中はずっと緊張の連続だった。見れば、顔も少し赤かった。早めに休ませた方がいいと思った。ひとまずエリスを抱きかかえ、僕はゲレタの捜索に向かった。



 それから数時間ほどゲレタを探したが、手がかりすらも見つからなかった。いや、もっと正確に言おう。僕はスタート地点に戻ってゲレタの痕跡を把握する事から始めたのだ。地を舐める様に足跡を追い、一歩一歩慎重に道筋を解析した。しかし結果は、微か数歩で途方に暮れた。

 嫌というほど痛感した。こと、森林を舞台にしたハントの技術は、向こうが完全に上をいってる。推測だが、彼は自然に溶け込むのが恐ろしく上手い。念能力者でもないのに完全な絶を嗜み、生活痕の消去も完璧に近い。この広い森が舞台では、少なくとも偶然近くに寄らない限り、実力で発見する事は無理だろう。人間の痕跡は飽きるほど見つけたのだが、そこから算出される身長と体重のデータは明らかにゲレタとは別物だった。いかに僕が都市部でのハントを主体とするアマチュアハンターとはいえ、かなり悔しい気持ちだった。

 そうこうしているうちに日が暮れた。こうなれば、今日はもうゲレタを見つけるのは無理だろう。エリスもこれ以上連れ廻したくない。

 乾いた地面のある場所を探して、そこを今宵の寝床に決めた。動くのを禁じていたからだろう、エリスの体調は大分回復したようだった。僕はそれを確認した後、今後の方針を話し合った。ゲレタはエリスの目標なのだ。できる限り本人に考えさせるのが、筋であり彼女の望みでもあった。彼女はしばらく思案した後、一つの作戦を提案した。それは、ゲレタ捜索と平行して他の受験者のプレート3枚分の収集を試みるというものだった。確かに妥当な方針だろう。しかし、そのためには一つだけ確認する必要があった。

「もしエリスの友人を見つけたらどうする。例えばポンズを発見したとするよね。期限まではまだ日数があって、見逃しても他の受験者が見つかるかもしれない。だけど見つからないかもしれない。そういう状況で、この人は狩る、この人は狩らないという基準をあらかじめ明確に決めておかない限り、その作戦には賛同できないな」

 焚き火がエリスの顔を照らし、揺らしていた。この火はいわば罠だった。戦闘能力に限りさえすれば、ヒソカとギタラクル以外の受験者に勝てる自信があったからだった。自動防衛管制は3/6「厳重警戒」を維持している。無論、徒党を組まれても誤差にしかならない。

「……決まってるわ。狩りましょう。例外はヒソカとギタラクルだけ。それ以外の全員が対象よ」

 その覚悟があるのなら、反対する理由はなにもなかった。僕はエリスを腕の中に招き寄せ、少しでも長く眠るように言い含めた。

「ねえ、アルベルト」
「なんだい?」
「もし、この試験に受かったら……」
「ああ」

 とろんと、半分眠った声でエリスがいった。

「……二人で、世界中を巡りましょう。世界中を巡って、素敵な景色を沢山見て、いろんな人とお話しするの。そして、お爺さんとお婆さんになったら、山奥の小さな家に住んで、暖炉の前で、思い出話に花を咲かせましょう」

 それっきり寝息をたてはじめたエリスを、僕はできるだけ優しく抱き締めた。無性に寂しい気持ちだった。その願いが叶わないからではない。エリスは、そんな夢しか抱けないのだ。

 幼い頃、彼女は無邪気な笑顔で語っていた。海が見える丘に小さな白い家を建てて、子供が二人と大きな犬。家族で幸せに暮らしましょう。何度もその設定でおままごとをした。師匠の家から離れる事ができなかったあの頃。絵本で知った海に憧れた少女がいた。

 定住。結界の要石が砕けたあの日、エリスにはそれができなくなった。少なくとも、人のいる場所では不可能だった。この広い世界で、エリスはどこまでいってもよそ者だった。



 翌日からの探索は、あまりはかどったものにはならなかった。原因はエリスの存在だ。彼女は気配を殺すのが極めて苦手だ。息を潜めても殺せない存在感は、ハントに長けたものには大いに分かりやすい目印になる。経験の乏しい者、勘の優れない者、運のない者は時間が経つほどに脱落していく。そして、エリスの近くには僕がいるという情報は、試験期間中に広まりすぎていたのだった。かといって、こんな試験でエリスを一人にできるはずもない。エリスは積極的な囮作戦も提案したが、ヒソカの存在を考えると頷けなかった。

 それでも、僕達は2枚のプレートを入手する幸運に恵まれた。

 一人はソミーという猿使いだった。エリスの姿を見て絶好の獲物を見付けたとばかりに近寄ってきたが、彼女がわずかに纏を緩めた瞬間、顔面蒼白になって狼狽した。エリスの素人拳法が顎にクリーンヒットするぐらいには隙だらけだった。相棒の猿も主人以上に怯えていたので、樹上で見守る僕の出番は全くなかった。

 もう一人、アモリという受験者は常に三兄弟で行動していたと記録に残っているのだが、たまたま各自分散して自分の獲物を狩りに出掛ける所だったようだ。こちらはエリスのオーラに取り乱すも、戦意喪失することなく逆に向かってきた。窮鼠猫を噛むの諺通り、追い詰められて逆上したのだろう。しかし、念が使えない者に纏で守られたエリスを倒しきるのは難しい。恐慌状態になった彼には、逃げるという手段も思い付かなかったのだろうか。しばらく続いた戦いを制したのは、防御力とスタミナで大幅に勝るエリスだった。

 そのように数日かけてあと1点まで迫った所で、僕達はそれに出くわした。森の中にそれはあった。無惨に打ち捨てられて転がっていた。

 首のない、ゲレタの遺体。

 ここでゲレタは殺された。失われた頭部。体に突き刺さった何枚かのトランプ。誰の仕業か考えるまでもなかった。プレートはどこにも見えなかった。恐らくヒソカが持ち去ったのだろう。

 必要なプレートがあと1点分になった時点でゲレタの重要性は大きく下がっていたが、それでも獲物をとられた無念はあった。しかしそれ以上に悲しかった。友を亡くした喪失感に近かった。会話どころか側に寄った事すらなかったけれど、それでも彼は僕とエリスにとって、紛う事なき強敵だった。敬意の持てる高貴な敵であったのだ。

 エリスと二人で遺体を丁寧に埋葬して、僕達はその場を立ち去った。

 あと1点。得点のペースは遅かったが、最悪の場合は僕の分を渡すつもりだった。これが終われば、あとは最終試験だけだった。



 エリスの様子が急変したのは六日目の夜更けの事だった。全身に油汗をかき、真っ赤な顔で僕の差し出した手を握りしめる。体表のオーラが異常に濃い。この症状に心当たりはあった。嫌というほどありすぎた。そして、だからこそありえないと断じたかった。本来なら、纏のまま一ヶ月程度は余裕で持つはずだったから。

 マリオネットプログラムが推測される原因を報告してきた。実戦環境に置かれる事による高揚感。仲間とともに積極的に試験に取り組む事による責任感。未知の状況を楽しむ好奇心。そんな、他の人間なら明らかに良好な状態へ導かれるはずの諸要因が、彼女の生命力を活性化させていた。オーラの生成量を増やしていた。それは、エリスにとっては致命的だった。

 予想はしていた。しかし、予想より遥かに増加幅が大きかった。

 川で汲んだ水を飲ませ、震える体を抱き締めた。一刻も早くオーラを解放する必要がある。僕はエリスを背に乗せて、洞窟を探して島を駆けた。深い洞窟の奥にエリスを配置し入り口を堅で塞げば、オーラの大部分が地中に吸われて人体や生態系の影響は最小限ですむはずだった。

 なのに、どうしてこの道化は邪魔するのだろう。

「いやあ♥ いい夜だね♣」

 現れたヒソカは上機嫌だった。胸元には4枚のプレート。予想通り386番は入手していたが、なぜか44番がない。まあ、それもどうでもいい。今の僕は気が立っていた。しかし、エリスが合格に近付くためには、こんな機会でも活用しなくてはならない。

「ヒソカ、386番を置いていけ。代わりに2枚くれてやる」
「いいよ、これかい♠」

 あっさりと交渉が成立する。お互いにプレートを投げ合って、間違いがない事を確認した、

「それで、何か用か? 見ての通りこっちは火急なんだ」
「クックック。怖い怖い♥ あいにく君には用がないよ。今日の目的はエリスさ♦ 彼女、ボクのターゲットなんだよね♣」
「お前の主目的はプレートか?」
「まさか♦」

 お馴染みの、喉奥での笑いが癇に触る。確かに今夜はエリスと戦う絶好の機会だろう。こいつの嗅覚が恨めしかった。タイミングが余りに最悪すぎる。

「なら、僕を倒してからにしろ。言いたい事はそれだけだ」
「いいよ♠ 前菜に君も味わってあげる♣」

 エリスをそっと地面に寝かせる。涙に濡れる頬を撫で、汗に張り付く前髪を避けてから僕はいった。

「少しだけ、我慢してくれないか。ごめんな」

 濡れた瞳で僕を見つめて、エリスは小さく頷いた。

「さて、またせたな」
「もういいのかい?」
「ああ、後はお前を倒してからだ」
「そんな目で見るなよ♠ 勃っちゃうじゃないか♥」

 戯れ言は無視して指先に硬を施し、超高密度念弾を出現させる。体外に顕在可能なオーラの大部分から全てを集中させたこの念弾は、およそ全ての念的な防御を貫ける上、追加で処理能力をさけば体内炸裂やファイア・アンド・フォーゲットなど諸々の性能を付与できる。しかし、致命的すぎる弱点があった。

 かなりの処理能力を必要とするため、生成する際に一瞬の硬直時間がある。その一瞬は、戦闘中には限り無く長い。オーバークロック中でさえ当たり前に避けるヒソカだ。通常状態ではまずあたるまい。

 逆に、今のようにあらかじめ生成した場合、体外に顕在可能なオーラを費やしてしまっているため、念弾の代償に身体強化の効率および限界値が著しく下がる。ヒソカが身体強化なしでとっておきの念弾を当てられる程度の能力者なら、僕ははじめから苦労してない。

 このため打撃力としての使用は実質的に足留め役がいる場合に限られており、一対一の戦いでは相手に回避を強要する手段として使う事がほとんどだった。だが、今回はこれでヒソカを始末する。

「どうしたんだい? そいつはもう見せてもらったよ?」
「ああ。だけどこの先はまだだろう?」

 言って、僕はファントム・ブラックで全身を漆黒に塗装した。闇色の保護色。人体に毒にも薬にもならないからこそできる使い方だ。更に念弾を再び体内に吸収し、全身を完全に絶にする。

 自動防衛管制、4/6「連続最大警戒」

 戦闘用体術タスク「モード・アサシン」

 ギタラクルの行動記録を分析したデータから開発したモードだった。処理能力を多く食うのが難点だが、スムーズで堅実、かつトリッキーにして威力抜群と、冗談みたいな性能を誇る。そしてなにより、隠密性が異常に高い。足音をたてずに疾走し、空気を揺らさずに拳を振るえた。

「へえ♠」

 とるべきは無型の構え、自然体。肉体を透明に。心を冷水に。自身の全てをヒソカを殺す機械に集約させ、僕は鼓動の中に埋没した。

「なら♦ ボクも見せてあげる♣」

 ヒソカの体を覆う堅が、その様相を少し変えた。粘着質のオーラ。それが幾筋も巻き付いていく。ヒソカの腕に、足に、胴体に。まるで外付けの筋肉だった。知っている、と僕は直感的にそう思った。マリオネットプログラムが回答をはじき出す。

「あのときの、ボディーブローの正体か」
「正解♥」

 予測できなかった衝撃。ありえなかったはずの打撃。それを為したのが目の前のあれだ。収縮した瞬間、恐ろしいほどの瞬発力をヒソカに与える新たな応用技。あれほどポジション取りに専念して反撃を封じたはずの僕を、自分の胴体を強引に捻る事で打撃可能な位置へ持っていった脅威の性能。連発はできないだろう。精密な制御も無理だろう。しかし、パワーだけで全てを補える悪魔の発想。

 あまりの事に戦慄した。推測だが間違いない。僕は確信し、断言する。参考にしたのは僕の能力だろう。前々から何かを掴みかけていたかもしれない。しかし、確実に言える。ファントムブラックをぶちまけた瞬間、僕が何かを仕掛ける事が決定的になったその刹那、あいつはあれを編み出したのだ。

 きっとかなわない。そう思った。

 それでも、エリスを渡すわけにはいかなかった。

 僕の全てを捨ててでも、彼女が笑っていられますように、と。

 音は、なにも聞こえなかった。

 ただ、星空だけが瞬く世界で、僕とヒソカは衝突した。

 念弾はヒソカの肩をわずかに掠め、拳は僕の心臓を打ち抜いた。

「残念♣ いい線いってたけど、ボクに通用させるには経験不足だよ♠ 出直してきな♦」

 崩れ落ち、地面に吸い込まれて倒れるとき、そんな言葉をかけられた、気がした。



 意識を失っていたのは何時間か、何分か、何秒か。マリオネットプログラムに問い合わせても答えがない。心臓の拍動が著しく不安定で、オートで立ち上がった自己修復プログラムが復旧にオーラと処理能力を再優先で割り当てられていた。それでも回復できるか分からなかった。マスター権限でその活動を妨害すれば、数秒かからず不可逆領域を超えるだろう。

「……アルベルト?」

 エリスの声がする。熱にうなされ蕩けたままの、エリスの声が。返事をしたかった。生きてる事を伝えたかった。心配ないと強がりたかった。

「彼ならもういないよ♦」
「ヒソカ。アルベルトを、殺したの?」
「どうだろうね♠ 心臓は止まったみたいだけど♦」
「……そう」

 エリスの声は素っ気ないほど冷たい。底冷えのする声色だった。

「いつか、こんな日が来ると思ってたわ。いつか、必ず来てしまうと。……本当に、馬鹿なんだから」

 頭は動かず、ぼんやりとした視覚だけで、エリスの様子をうかがおうとした。せめて姿だけでも見たかった。

「クックック♣ それで、キミはどうするんだい?♦」
「もし、それが本当なら。……もう……」

 僕は必死に手を伸ばそうとした。数秒先の死などどうでも良かった。ただ、それだけはいけないと、その意思だけを伝えたかった。お願いだ、どうか。自己修復プログラムが処理能力を占有しすぎていて、介入すらろくにできなかった。エリスのオーラが解き放たれ、蒼白い光が闇を満たした。全ては無意味で、無駄だった。

 青の光翼。あれは単体ではひどく無能だ。しかしエリスの能力の中核でもある。他の二対の翼が出現する前に止めないと、エリスは全てを失うだろう。人の強い意志を実現させる念という力。エリスのそれには、彼女が望まぬ強力な指向性がある。それこそが全ての元凶だった。

 だいぶ視界が戻ってきた。

 エリスは青の光翼だけでヒソカと戦っていた。僕の所へ駆け付けようとするエリスと、それを妨害する形で戦うヒソカ。オーラは圧倒的にエリスが勝り、技量は圧倒的にヒソカが勝る。その結果は、ヒソカが完全に不利だった。歓喜に震えるヒソカが見えた。

 やがて、まとわりつくヒソカを強かに打ち払い、エリスが僕の所まで飛んできた。未だ指先さえ動かせない。抱きかかえられた僕はエリスと目を合わせ、ただただ強く抱き締められた。

「よかった……」

 二人の身体を翼が包む。それはエリスの匂いがした。暖かくて、優しくて、頼もしかった。翼を構成する羽の一枚一枚が、比類なき密度のオーラの塊だ。この中は本当に二人きり。ヒソカに手を出せる道理がなかった。これだけオーラを消費すれば、エリスの体調も戻っただろう。危険きわまりない方法だが、結果としては最良だったのかもしれない。ようやく機能し始めた口でそう伝えると、泣きじゃくるエリスに叱られた。

「仕方ないな。今夜は二人でお幸せに♥ これじゃあ、ちょっと手を出せないしね♠」

 この場を去るヒソカの、そんなセリフが耳に残った。



 第4次試験に合格した受験者は10名だった。そのうちの8名が新人で、これはとても多い数字らしい。合格した僕達は飛行船で最終試験会場へ向かいつつ、3日間の休養をとった。体力の回復、傷の処置、衣類の調達や他の受験者との交流など各自思い思いの時間を過ごしているうちに、3日間はあっという間に過ぎ去った。

 最終試験はたった1勝で合格できる負け上がり方式のトーナメントだという。武器の使用は可、反則無し。ただし相手を死傷させた場合のみその場で負けになる。組み合わせは道中行われたネテロ会長との面接を参考に、これまでの試験の成績等と合わせて決められたそうだ。この試験方法を聞いた時、僕は最良の結果を確信した。

 それを油断と呼ぶのだと、そのときの僕は気付きもしなかった。



不合格┬┬┬┬┬アルベルト(5)
   ││││└ヒソカ(5)
   │││└ゴン(4)
   ││└ギタラクル(3)
   │└エリス(2)
   └┬┬┬クラピカ(4)
    ││└ハンゾー(4)
    │└トンパ(3)
    ├キルア(3)
    └レオリオ(3)



##################################################

【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】
使用者、エリス・エレナ・レジーナ。
 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に■■■■■■■■。
 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。
 青の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。
長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

##################################################

次回 第七話「不合格の重さ」



[28467] 第七話「不合格の重さ」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:58
 秒針が時を刻んでいる。エリスの腰まで届く髪は柔らかく、窓から差し込む陽光を浴びて淡い金色に輝いていた。この優しい髪色が好きだった。優しく丁寧に何度もブラシで整えてから、リクエスト通りの髪型に編み上げていく。袖を通しているのは今朝方届いたばかりの淡い緑のドレスだった。大人びた黒と違い歳相応の可愛らしさのある色だが、同時に落ち着いた上品さも合わせ持っていた。もちろん背中は大きく開いている。

 肩に落ちた糸屑を払い、ネックレスとポシェットを着けて完成だった。姿見の中の自分に満足したのだろうか。エリスも満足そうに微笑んだ。この後に控えた最終試験、それさえ受かれば合格だった。ようやくここまで来れた。後一つ。是が非でもそれを通過しなければならない。僕はエリスの肩に手を置いた。

「アルベルト。その……、心臓はもう、大丈夫?」

 エリスが不安そうにおずおずと聞く。あの夜からずっとこんな感じだ。目の前で直接死にかけたのがまずかったのか。エリスは何かにつけて僕の容態を心配し、安静に休ませようとする。食事もベッドの上でとらされる有り様だった。

 しかし僕の身体に問題はない。あれから三日が経っている。心拍は完全に安定していた。それを証明してみせようと、エリスを腕の中に招き寄せた。

「大丈夫だよ。ほら、聞いてごらん」
「……うん」

 胸に耳をあて、僕の鼓動に聞き入るエリス。その表情はとても真剣で、何かを祈るように厳かだった。しばらくの間そうしてから、ようやく安心したのだろうか、徐々に力が抜けていくのが分かった。

「もう、無理しちゃ駄目よ」
「善処するよ。これでいいかい?」

 僕の返事を聞いたエリスは、何故か、泣きそうに顔を歪ませた。



 ハンター協会の管理するホテル内部の巨大な部屋、最終試験会場で待ち受けていたのは、勝ったものが外れ、負けたものが次へ進むという変則的なトーナメントだった。発案はネテロ会長本人らしい。不合格者はたった1名。もはや選別するつもりがあるとは思えなかった。では、この試験は何を目的としているのだろうか。

 わずか1名といえ10人の内の1割だ。能力を試して選別するには少なすぎ、余興で落とすには多すぎる。今年の新人戦力の1割を削ってまで、協会がやりたい事とは何だろうか。

 今までの試験の目的は明瞭だった。基礎体力およびハンターとして最低限の自己防衛能力。観察力、情報収集能力、決断力。チームプレー時の能力及びより実戦的な環境下での総合力。そして対人ハントの実地試験。しかしこの試験には目的が見えない。それが少し不安だった。

 考えているうちに名前を呼ばれた。第1試合は僕とヒソカだった。

不合格┬┬┬┬┬アルベルト(5)
   ││││└ヒソカ(5)
   │││└ゴン(4)
   ││└ギタラクル(3)
   │└エリス(2)
   └┬┬┬クラピカ(4)
    ││└ハンゾー(4)
    │└トンパ(3)
    ├キルア(3)
    └レオリオ(3)

アルベルト vs ヒソカ

 マスタと名乗った立会人の指示に従い、部屋の中央でヒソカと相対した。これが第一試合という事もあって、周囲は固唾をのんで見守っている。受験者の中でも上位に入る戦闘力の持ち主同士の戦いという事情もあるのかもしれない。しかし、彼らが期待するような展開にはならないと断言できた。

 率直に言おう。僕は負ける気満々である。エリスとの対決まで負け進み、彼女の合格を勝ち取ってから次の試合で勝利する。最終試合で当たる可能性がある受験者はクラピカ、ハンゾー、トンパ、キルア、レオリオ。彼らを侮るつもりは微塵もないが、例え五人が束になっても圧勝できるだけの実力差があった。エリスは確実に合格し、僕も恐らく合格できる。試験の空気は確実に白けるだろうが、もはやそれも些事でしかない。

 ヒソカが一枚のトランプを取り出し念を込めた。振りかぶり、腕に例のオーラを張り付ける。試合開始と同時に仕掛ける気か。その準備も、楽しそうに笑うその笑顔も、もうすぐ無駄になるだろう。

 開始の宣言と同時に僕は口を開き、ヒソカはトランプを投合した。なぜか、真横へ向けて。

 マリオネットプログラムが軌道を予測する。その先にはエリス、着弾予測位置は頸動脈。間違いなく最悪の展開だった。理由を考えてる暇はない。オーバークロック2始動。安全係数の設定が全て解除され、処理速度のみならず筋力とオーラの体外顕在量を極限まで上昇させる。プログラムで再現した火事場の馬鹿力。それがこの設定の正体だった。

 右足の硬で床を蹴り、飛翔するトランプに追い縋った。蹴り締めた床が爆砕される。遅い。速度差があまりに少なすぎた。空気の粘性が強すぎる。乱流が邪魔だ。念弾発射用意、目標撃破まで0.8秒。却下。絶望的に遅すぎる。このまま何もできないのか。皮肉なほど緩やかな時が流れる中、トランプは吸い込まれるようにゆっくりとエリスに迫り、———隠で張り付いていたオーラが収縮し、ヒソカの手元に戻っていった。

 呆然としながらも床を殴り、反作用で軌道を修正、エリスとの衝突を回避した。勢いのまま天井に着地し、表面を盛大に削って減速する。

「まいった♠ ボクの負けだ♥」

 間延びした声を確かに聞いた。誰も彼もが唖然としている。時間が凍った心地すらした。あの奇術師はこの瞬間、間違いなくこの場を支配している。それが無性に悔しかった。

 オーバークロック2 解除

 十分に勢いを減じさせてから、僕は床に降り立った。何が起きたか、考えたくもない愚かな失態。僕はあまりに間抜けだった。油断するにも程があった。なんで、一番重要な最終試験でミスをするのか。今すぐ頭を叩き割りたい気持ちだった。

「しょ、勝者アルベルト・レジーナ!」

 静まり返った会場で、立会人が職務を果たした。周囲がざわつき、視線が飛び交う。この瞬間、僕の合格が確定し、僕の思惑は無惨に散った。なにも言わず、なにも問わず、心底嬉しそうに抱きついて祝福してくれるエリスの優しさが、今はとても辛かった。



クラピカ vs ハンゾー

 その試合は順当に始まり、順当に破綻し、至極順当な結末を迎えた。

 オーバークロック2を使用しつつ最大負荷での戦闘機動という、脳を物理的に損傷してもおかしくない無茶をした僕は、自己診断プログラムをセーフモードでゆるゆると走らせていた。実のところ、立っている事さえ好ましくない。オーラの残存量が四分の一を切っている。処理能力制限で思考領域が圧迫され、さっきから目眩が止まらない。しかしここで座り込んでしまったら、エリスは確実に動揺する。試合を控えた大切な妹に、そんな負担をかけられるはずがなかった。

 部屋の中央ではクラピカがハンゾーに打ちかかっていた。一対二本の木剣を長めの紐で繋いだ特徴的な武器を、縦横無尽に振るっている。あるときは鞭の如くしなやかに、あるときは槍の如く鋭い突きを。あれでは間合いが読みにくい。次々と繰り出される打撃は的確に体重を乗せており、木剣といえども一撃の重さは十分だろう。それを、ハンゾーは全て捌き続けていた。

 分析機能は休止しているが、明らかにクラピカはハンゾーに勝負してもらっていた。クラピカに能力を見極めさせる為だろう。ハンゾーに受け身に廻ってもらえれば勝負が成立するほどにクラピカは強かった。しかし、だからこそ本人は実力差を実感せざるを得ないのだ。

「……頃合いだな」

 呟いて、ハンゾーの動きが切り替わった。全身のバネを使った躍動感のある体術。それで後背に回り込んだ。恐らく、クラピカには消えたように見えただろう。慌てて振り向くクラピカの手中から、一対の木剣が弾き飛ばされた。ハンゾーが踏み込み、強めに腕を振り抜いたそれだけで。

「これだけやれば分かっただろ。オレ達の実力は違いすぎる。早いとこ降参しとかねーか?」
「断る!」
「おいおい、オレはお前さんを話の分かる男と見込んでこんな事をしたんだぜ? 分かるだろ、なあ? ここで体力の消耗を最小限に押さえておけば、あんたなら確実に合格できる。な? お互いその方が得なんじゃねーか?」
「……くっ」

 理性では分かる。しかし納得は絶対にできないとでも言うように、クラピカが奥歯を噛み締める。そんな二人の様子を見て、僕は会長がこの試験でやりたかった事を、だいたい察する事が出来た。

 名付けるならそれは生け贄の宴。僕はちらりと会長を見る。外見は飄々とした老人だが、なんとも性格の悪い人だった。

「……なあ。オレもお前も、この場だけの強いとか弱いとかどうでもいいじゃないか。そりゃ、俺だって実力には自信があったけどよ、世の中にはどうしようもねー化け物がいるんだって思い知ったばかりだしな」

 小指の先で耳の穴をほじくりながら、ハンゾーは僕に対して視線を向けた。否、むしろあからさまに睨んできた。なぜそこで僕なのだろう。返す返すも悔しい限りだが、先ほどの一戦は明らかにヒソカが上手だった。これでハンター試験中、彼にはしてやられっぱなしだった事になる。本当に、悔しい。

 ……いや、派手に動いたのは僕だったか。

 なるほど、確かに分かりやすい例としては僕の方が適切だろう。しかし彼らは遠からず知る事になるのだ。念能力という、僕達が使った奇術の正体を。そうなれば、僕らも楽に勝たせてはもらえなくなる。

 結局、クラピカが降参したのは、それから10秒ほど後だった。



キルア vs レオリオ

「っていうかさ! 組み合わせがぜってーおかしいって! 何考えてんだあの爺さん! ありえねーだろ!」

 試合中だというのに、キルアは盛大に愚痴を撒き散らしていた。レオリオというお父さんにお菓子をねだる駄々っ子のようだ、とは僕だけが抱いた感想ではないだろう。エリスも隣でクスクス笑っている。

「うっせークソガキ! ちっとは真面目に戦いやがれ!」
「わかった、よっ! と」
「ってーな! 蹴る事ねーだろ!」

 もうまるっきり漫才だった。会場のそこかしこから笑い声が漏れる。エリスは口元を隠しつつ、「淑女の笑い」の範疇で納めようと必死になって堪えていた。さぞかし腹筋が鍛えられる事だろう。

 なんでも、キルアは弱い受験者とばかり当たるトーナメントの組み合わせが許せないそうだ。彼の見立てでは最初にレオリオ、それで負ければトンパ、最後に当たるだろう相手がエリスとの事で、ハンター試験に面白さを求めて参加した少年の目論見は、見事に崩れる事となったらしい。だって一番マシなのがレオリオだぜ!? とは本人の弁。クラピカがもうちょっと頑張ってハンゾーを叩き落としてくれてたらなー、とも言っていたが、すぐに何かに気付いたのかトンパを見て、わりぃ! と謝っていたりもした。トンパの頬がひくついていた。

 二人はそうやって数分間、じゃれあいの戦闘を続けていたが。

「ま、いつまでも遊んでいてもしゃーねーか。オイ、キルア。次で最後にしようぜ! 攻撃を先に当てられた方が負け。四の五の言わずにまいったと認める。どうだ?」
「ん? ああ、いいぜ」

 二人の間の空気が変わった。キルアが裏の人間の顔になる。鋭利なナイフを人型に産み、丁寧に研摩し育て上げた姿だった。少年の奥底にたゆたう純正の闇。それに正面から対峙できるレオリオも流石だ。武器、兵器、拷問具。鑑賞するにはいい。しかし使用する意志を持ってそれらを己に向けられたら、誰もが必ず怖気を抱く。

 傷つけることに特化した道具から放たれる殺意はとても怖い。それが人として当然の感性だ。そうでない人間の方が異常だった。レオリオも確実に正常の側だろう。キルアの性能を感じ取れないほど、鈍い人間にも見えなかった。

 しかし、彼は怯まない。

 力も、技も、才も及ばない。もちろん念使いであろうはずもない。彼は特別な何かを何も持たず、自分の人格だけであれに立ち向かっていけるのだ。普通を許容できる人間はとても強い。それは、魂そのものの強さだった。

「はい、オレの勝ちね」
「だーっ、ちきしょー! おい審判! オレの負けだ! こんちくしょー!」

 ほんの少し、彼の強さに憧れた。

 無性にエリスを抱き締めたい気持ちだった。



不合格┬┬┬┬ヒソカ(5)
   │││└ゴン(4)
   ││└ギタラクル(3)
   │└エリス(2)
   └┬┬クラピカ(4)
    │└トンパ(3)
    └レオリオ(3)

ヒソカ vs ゴン

 ヒソカがとても輝いていた。

 なんとも楽しそうな顔だった。奴は少し、人生を謳歌しすぎている気がする。一方でゴンも楽しそうだった。釣り竿を握りしめ、ヒソカと対峙する表情が語っていた。オレは今、ゾクゾクするスリルに身を焦がしているのだと。

「やあゴン♣ 準備はいいかい♦」
「ああ。いくぞっ!」

 愛用の釣り竿をゴンが振るい、重りと呼ぶには大きすぎる鉄球がヒソカを襲う。あやまたず顔面に飛来するそれを避けようともせず、ヒソカは優しく受け止めた。もとより当たるとは考えてなかったのだろう。次の瞬間、既に懐に潜り込んでいたゴンは、釣り竿のロッドで打ちかかる。棒術。いや。ただの子供の思いつきか。それにしては腰がよく入っている。自分の身体の使い方を、あの歳で既に感覚として得ている。

 二撃、三撃と繰り出されるゴンの攻撃を、ヒソカはいなし、受け止め、存分に味わい遊んでいた。ヒソカの顔が愉悦に歪む。なんとも形容しがたい表情だった。まるで美味しそうなお菓子を目の前にして、食べたいがとってもおきたい少年のような。

「あっ!?」

 ゴンの手から釣り竿が滑った。放物線を描いて飛んでいく。見学者が一斉に注目する。が、次の瞬間。

「え、消えた?」
「エリス、上だよ。ほら」

 ゴンは高く跳んでいた。隙をつき、顎を狙った跳び膝蹴り。意図的な武器の放棄による意識の誘導か。それほど斬新な手ではないが、選択のセンスがかなりいい。そして素晴らしいバネだった。躱したヒソカも大喜びで、ネテロ会長も頷いていた。

「あーあっ。もうちょっとだったのに」

 悔しがりながら着地した。これもゴンの強さだろうか。子供らしい柔軟な発想を実戦でどんどん試す事ができる好奇心。ゴンはきっと、戦闘そのものに何の他意も持っていない。だから無邪気に追求できる。彼が暴力に怒るとしたら、それは行為そのものではなく害意と結果についてだろう。

「クックック♥ やっぱりイイね、キミは♦」

 ヒソカも大満足の様子だった。どうやら、僕が予想した以上に気に入ったようだ。無理もない。恐ろしいほどの素質。果ての見えない将来性。それはきっと、高みにいる人間ほど良く見える。僕よりヒソカの方がゴンに興味を抱くのも、至極当然なんだろう。

「さあどうした♠ 今ので終わりかい?」
「まだまだっ!」

 言って、ゴンの攻撃が再開された。勝とうとしてる様には見えなかった。ヒソカという実力者から少しでも盗み、アイディアを試そうとする戦い方。まだ戦えてる事自体に喜びを見出し、自分の成長を喜んでいる。そんな推測さえ浮かんだ二人の戦闘は、やがてヒソカの芯を捕らえたアッパーによりゴンが優しく気絶させられた時点で終了した。

「もっと鍛えな♣ ボクにプレートを返せるように♦」

 意識を失ったゴンにそう投げかけて、ヒソカが敗北を宣言したのだった。



クラピカ vs トンパ

「まいった。オレの負けだ」

 開始して二分も経たないのに、トンパが突然降参した。試合のほとんどが間合いの駆け引きと小手調べの小競り合いだった。両者ともろくな有効打を与えていない。

「……いいのか?」
「ああ、お前とオレとじゃ地力が違う。格下だと油断していれば隙を見て勝負を挑むつもりだったんだが、そんな様子も全然なかったからな。せっかく三回もチャンスがあるんだ。これがオレの戦略さ」
「分かった。ならば私は何も言うまい」

 立会人が勝者を宣言する。お互いに軽く頷きあい、歩み寄って握手を交わした。

「ハンター試験合格、おめでとさん」

 クラピカを祝福するトンパの姿は、妙に小さく、寂しそうに見えた。



不合格┬┬┬ヒソカ(5)
   ││└ギタラクル(3)
   │└エリス(2)
   └┬トンパ(3)
    └レオリオ(3)

ヒソカ vs ギタラクル

 今日はヒソカの日なのだろうか。嬉しそうにギタラクルと対峙するヒソカを見て、僕はそんな馬鹿な事を考えた。

 二人は見つめあったまま何も言わない。オーラも静かに波打っている。

「まいった♠」

 しばらくして、ヒソカが退いて試合は終わった。

 しかし、それからが問題だった。ギタラクルは会長にこれで合格は確定かと尋ね、肯定されると何を考えたのだろうか、寛ぎながら観戦モードに入っていたキルアの元に訪れた。

「や。奇遇だね、キル」
「は?」

 いぶかしむキルアを無視し、頭部の針を抜きはじめるギタラクル。軋み、変形していく頭蓋骨。おもわずエリスの目を隠した僕の判断は、きっと間違ってなかっただろう。死体などとは方向性の違う、常識を冒涜するようなグロテスクさを含んだ光景の後、一人の青年が現れた。後で知ったがこの男、本名をイルミ=ゾルディックといい、キルアの実の兄らしい。

 立派に成長してくれててうれしい、それとなく様子を見てくるように頼まれた、など物騒ながらも家族らしい会話を繰り広げた後、ギタラクルはキルアに問い質した。なぜハンター試験を受けたのかと。

「別に、理由があった訳じゃないよ。ただなんとなく受けてみただけさ」
「……そうか、安心したよ。心置きなく忠告できる」

 お前はハンターに向かない。ライセンスをとってしまったのは仕方がないが、天職は殺し屋だから家に戻れと告げるギタラクル。その言葉はある意味で正しいだろう。ハンターとしてのキルアの才能は未知数だが、殺し屋としては間違いなく一級品だ。門外漢の僕でさえ分かるのだから、真実は更に上かもしれない。だけど、僕はギタラクルの態度が気に入らなかった。エリスが僕の腕にギュッと抱きつく。彼女の頬に掌をあてた。

 家族は、お互いに尊重するべきだと思うのだ。

 二人の話は進んでいく。ゴンと友達になりたいという内心を吐露するキルア。頭から否定するギタラクル。その関係はきっと歪だ。しかし、彼らが殺し屋という家庭事情だから特別に見えるだけで、世の中にはもっと歪な家族関係が五万とある。部外者の僕が横から口出しする理由にはならなかった。

 ただ、説得の技術として見た場合、ギタラクルの手腕は最悪だった。やらない方がマシだった。僕も職業柄、数々の交渉現場を見たり参加したりしてきたが、あれほど高圧的な態度はずぶの素人以外に見た事がない。恐らく彼は生っ粋の殺し屋で、それも実動専門なのだろう。本人としては兄として弟を導くべく精一杯頑張ってるつもりなのだろうが、力技以外でキルアの同意を得れるとは思えなかった。むしろギタラクル自身に力技以外の落とし所が見えてない。

 これではそもそも説得ですらない。相手の同意を得るつもりが全くなく、自分が何を実現させたいかも把握してない。それではキルアは傷付くだろう。それを見たエリスは悲しむだろう。エリスが僕を見上げていた。その瞳が揺れていた。言葉はなにもなかったが、願いを断る術はなかった。

 金の髪をそっと撫でた。エリスは一緒についてきたがったが、僕は首を振って諦めさせた。万が一戦闘になった場合、守り切る自信がなかったのだ。大丈夫、戦う気はないよ。そう囁いてから腕を離した。

 ついにギタラクルはゴンを殺そうと言い出した。実にあっさりした決断だった。試験官の一人を殺しながら情報を聞き出し、隣の控え室へ向かう彼の目は本気だった。クラピカとレオリオ、そして黒服達が扉の前に集う。

 オーラの残量が心許ない。マリオネットプログラムは戦力にならない。それでもいい。行こう。エリスが望んだ。それ以上の理由は必要なかった。

「クラピカ、レオリオ、すまないがここは譲ってくれ」

 扉の前に立ち塞がる二人を宥めて下がらせる。たとえ実力差が明瞭でも、彼らは怯まず立ち向かうだろう。そして必ず死ぬだろう。

「ちょっといいかな」
「なに? 邪魔するの?」
「まあ、そうなるね。エリスが、ゴンを殺して欲しくないそうだから」

 額に針を三本刺された。いや、気が付いたら針が生えていた。全く反応できなかった。セーフモードのマリオネットプログラムで戦える相手じゃない。脳神経の結節が三つ、的確かつ最小限に刺激されていた。自己診断プログラムに一時停止を命令し、バイパス経路を構築させる。与えられたダメージは面倒だが、得られた情報は重要だった。彼自身や試験官に使用した際の事も合わせて考えると、針を刺した対象を操作するタイプの能力だろう。暗殺に関わる何らかの技術、恐らく拷問術と念能力の組み合わせか。使い勝手はよさそうだった。

「気がすんだかな? 残念だけど、僕にこの手のものは効かないんだ。早い者勝ちだよ。知ってるだろう?」

 余裕を装い、面倒くさそうに針を抜きながら言ってみる。僕の動揺は外部に漏れない。周りにいた人間が驚愕し、ギタラクルもわずかに目を見開く。固まっていたエリスが息を吐いた。だが、実際には厄介な攻撃だった。操作ではなく破壊主眼でこられらたら、今の僕には対処できない。今のうちに場の主導権を握りたかった。

「ネテロ会長、よろしいですか?」
「うむ、なにかの」

 この場を預かる責任者だというのに、先ほどからずっと傍観に徹していたネテロ会長に話を振る。

「これから彼、ギタラクル……、は偽名だったよね」
「イルミ=ゾルディック。イルミでいいよ」
「どうも。イルミがキルアの為にゴンの殺害を試みるより、両者共に満足度の高い解決手段を提案したいと思います。そこで一つ、わがままを聞いて頂けませんか?」
「さて。どうだかのう……」

 顎ヒゲをさすり、とぼける会長。だいたい分かった。部下を持つ身が故の優柔不断や世渡りの秘訣などではなく、この人はこういう性格だ。

「ご助力頂けるならプロハンターの方をお一人お貸し下さい。彼らの問題が平和的に解決できるなら、それが一番ではないでしょうか?」
「しかたないの、ワシが行こう。ブハラ試験官、この場を任せる。試験再開じゃ」

 会長の案内で別室に移動する。張本人のイルミとキルアに対しては、あえて確認をとらなかった。キルアはともかく、イルミは現状で話し合いに応じるメリットは低いと思ってるだろう。ネテロ会長と僕が組んだ場合の戦力計算と、本当にゴンを殺すなら立ちはだかるだろうヒソカとの戦いの想定、後は単に話の流れだったからという理由だろうか。そのような状態の彼の前に、話し合いに応じないという選択肢をぶら下げたくはなかったのだ。

 こうして会長と僕を交えつつ、イルミとキルアの話し合いが再開した。僕が司会を勤め、話す役と聞く役を明確に分けたのが良かったのだろう。今度は相手の話に耳を傾け、お互いの立場を知る機会を得た。双方、目の前にいるのが言葉の通じる動物である事を再認識できたのだった。

 元々、兄弟仲はそこまで悪くはなかったのだ。イルミがキルアを心配し、キルアがイルミに内心の願望を吐露できるぐらいには。用意してもらった甘いお菓子も、心をほぐすのに役立ったかもしれない。

 結局、これから控えるイルミの仕事が終わり落ち着いた所で、彼らの父や祖父を交えてもう一度話し合う事でまとまった。

 やっぱり、家族は仲良くするべきだと思う。

「会長、ありがとうございました」
「うむ。悪い結末ではなかったの」
「ええ、全くです」

 彼らを部屋に残したままの帰り道、僕はエリスの事が気になっていた。トンパ対レオリオの戦いが終わったら次はエリスだ。対戦相手がヒソカに決まった時点ですぐに降参するよう言い含めておいたが、何故か本人は不満な様子だった。エリスなら、最終試合で確実に勝てると思うのだが。

 嫌な予感がした僕は、会長にもう一つお願いをした。



トンパ vs レオリオ

「二時間以上外していたはずなんだけど……」
「ご覧の通り、レオリオの試合は続いてるよ。それよりキルアの件はどうなった?」
「エリスが来てから話すよ。ほら、向かってきてるから」
「わかった、頼む」

 会場に入るなり寄ってきたクラピカに促され、僕は事の顛末を説明した。二人ともそれを聞いて大いに喜び、よくやってくれたと感謝された。レオリオもクラピカが見せたサムズアップにより概略を知ったようだ。殴られて腫れ上がった顔でサムズアップを返していた。そう、レオリオにはそれぐらいの余裕があった。

 一方でトンパはぼろぼろだった。顔面こそレオリオ程は腫れてないものの、全身の動きが明らかに鈍い。医者を志望するレオリオならば、身体能力に響く部位へのダメージの与え方も押さえていたのだろうか。

 しかし、僕は内心意外だった。トンパの話はトリックタワー内部を攻略中に、ポックルとポンズから色々と聞いた。10歳の時からハンター試験を受け続け、今年で35回目を数えるベテラン中のベテラン受験者。だがその実態は新人潰し。なにも知らないルーキーを潰し、他者の絶望を間近で眺める事を趣味として、攻略以上に精を出す異色の人物。いや、噂では既に合格する気もないらしい。聞けばエリスも一次試験前に怪しげな缶ジュースを勧められたという。

 そんな人物が最終試験に残ったと知ったとき、僕は何かの作用でひょっこりと勝ち抜いてしまったのだと推測した。であるなら、勝利に固執する事はないとも思った。クラピカ戦の結果もそれを裏付けていた。

 正直に言おう。僕は彼こそを不合格予定者として計算していたのである。

 ところが彼らは二時間以上殴り合いを続けている。若く体格にも恵まれたレオリオは分かる。気力体力共に充実してるし、なにより彼にとってこれは勝てる戦いだ。しかしトンパは違う。四十路を廻って衰え始めた肉体で長時間、勝ち目のない戦いを続けている。何かを企んでいるにしろ、いないにしろ、合格を目指さない男がこれだけの事をできるだろうか?

「おらっ!」

 レオリオの拳が鳩尾に突き刺さる。たまらずにトンパが崩れ落ちた。四つん這いになって床を睨み、体内に反響する痛みに耐えている。レオリオは息を荒くしながらも、隙だらけのトンパを追撃しない。

「レオリオはなんで強引に畳み掛けないのかな? 体力に任せれば可能だと思うけど」
「これは私の推測だが、お互いに満足のいく試合をしたいのだろう。いや、違うな。今の言葉は撤回しよう。奴のあれは性格だ。はじめからあんな戦い方しか頭にない。レオリオはそんな男だよ」

 クラピカの返答に僕も頷く。レオリオとの付き合いは短いが、それが正しいような気がしたのだ。エリスが僕の手を握りしめた。

「っ痛! まったく、後から響く嫌なパンチしてやがるぜ」
「あんたもな。体中痛くてたまんねーよ」
「よせよ。そう効いちゃいないはずだぜ」

 起き上がりながら軽口を叩くトンパに、レオリオも軽い調子で合いの手を入れた。

「本当はな、あんたとは10分以内にケリを着けるつもりだったんだ。10分以内ならオレが有利、30分までならほぼ互角、それ以上時間がかかったらジリ貧だと見ていた」

 クラピカを見ると頷いた。実際の戦闘もそれとほぼ同じ推移だったらしい。正確な目算だったという事だ。これこそ、飛び抜けた実力もない男がハンター試験という舞台に立ち続ける事が出来た理由だろうか。

「それが、あと10分粘ってみよう、あと5分、あとパンチ一発位は、ってな。おかしいよな。最終試験に残っちまったからって、そこそこでやめておく方針は変えなかったはずなのに」

 トンパの視線がレオリオの目を射抜く。レオリオは何をするでもなく、ただ正面から見つめ返した。

「なあ、レオリオ。教えてくれよ。何でオレ、オマエとまだ殴り合ってるんだ?」

 それがトンパの問いだった。35年間試験を受け続けた男がもらした、一つの小さな問いだった。それに答えられるのは、きっと本人だけだろう。他人がいくら賢しげに語っても、トンパの心には響くまい。しかし、レオリオは当たり前の様に口を開いた。

「んなの簡単じゃねーか。納得できてねーんだろ? ならしょうがねえ。オレで良ければいくらでも付き合うぜ」

 その気持ちはよく分かるしな、と付け加えて、レオリオはどんと己の胸を叩いた。そして痛みに顔をしかめる。どうやら肋骨にいくらかヒビが入っていたらしい。そんな二人の様子に、会場の空気が少し変わった。もしかしたらレオリオはハンターより教師の方が向いてるのかもしれないと、僕は益体もない事を考えた。

 トンパが降参を宣言したのは、それから30分ほど経ってからだった。

 試合が終わり、痛む身体を引きずって部屋の隅へ向かうトンパに、ずっと見ていたハンゾーが一つ聞いた。

「なあおっさん。試験に合格したかったのなら、次の試合でエリスって女に勝てば良かったんじゃないか?」

 トンパは立ち止まって少し黙る。振り向いたその顔は微かな笑みを浮かべていた。

「ハンゾー、これからハンターになるお前さんに、試験を35回生き延びたオレが一つ教えてやるぜ」
「あん? なんだよ」
「あのお嬢ちゃんが一番やべーよ」



不合格┬┬ヒソカ(5)
   │└エリス(2)
   └トンパ(3)

ヒソカ vs エリス

 とうとうこの時が来た。僕は会長に視線をやる。向こうも目を合わせて頷いてくれた。ヒソカの意思など確認するまでもないが、エリスの方はどうなんだろう。

「エリス」
「……ごめんなさい」

 そのやり取りだけで僕には分かる。それでも確認せずにはいられなかった。

「戦う?」
「ええ」
「なんでか聞いてもいいかな」
「だって、アルベルトに守られてばかりいたら、またあの時みたいになっちゃうじゃないっ!」

 エリスが僕を見上げて悲痛に叫ぶ。ヒソカに心臓を打たれた夜の事だろう。それを持ち出されると、正直辛い。エリスの為に命をかけるのはいっそ本望だが、心配をかけてしまったのは、言い訳のできない事実だから。

「エリス、一つだけ約束してほしい。危なくなったらすぐ降参する事。これだけは守ってくれないか」
「……うん」

 妹の体を抱き締める。エリスは小さく震えていた。覚悟を決めよう。携帯電話の電波状況は確認してある。この部屋は確実に圏内だった。

「会長、お願いします」
「うむ。そのようじゃな」

 手はずの通りにお願いする。ネテロ会長はこの試合を特例とし、立会人は自らが勤める事を発表した。その上で、当人達以外は待避するよう命令した。理由は周囲の危険が大きすぎることを鑑みてである。それを聞いて、ヒソカの唇が釣り上がった。

「僕も残ってよろしいですか」
「無論じゃ。残りなさい」

 ざわめきが会場に広がるものの、やがて僕達を除く全員が退出する。広い部屋ががらんとした。避難部屋への誘導はプロハンター達が受け持っている。今頃は隣室のゴンも移動されているだろう。

「いいじゃないか♠ 素晴らしいサプライズをありがとう♦」

 ヒソカは上機嫌で笑っていた。既に室内には四人だけ。試合の準備は整っていた。

「アルベルト、ちょっと待って」
「どうしたんだい?」
「もう少しだけ、このままで」

 断る道理はない。右手でエリスの肩を抱き締めて、左手で頭を優しく撫でてやる。見下ろす位置にある白い背中に、何故か、オーラが集まり波打っていた。

「……エリス?」
「大丈夫。平気よ」

 纏が解かれた。淡い緑のドレスが軽やかに揺れる。背中が赤く発光している。そして翼が生えてきた。具現化された真紅の翼。美しくも不吉なエリスの発。大きさは片方3メートルほど。色を別にすれば、天使の姿にも見えただろう。やがて翼が発光を始める。

「ね? 大丈夫だったでしょ?」

 腕の中で微笑むエリス。まさかこれを使うとは思わなかった。しかしそれ以上に問題があった。発現があまりにスムーズすぎる。溢れてくるオーラの量も多すぎず、適切にセーブされていた。今までは、これほど気軽に発現できる能力ではなかったはずだった。エリスは明らかに成長していた。それも、ありえないほどのスピードで。ハンター試験という実戦の場に置かれたからだろうか。いや、それよりも。果たしてこの成長は、本当に喜ばしい事なのだろうか。僕は言い様のない不安に襲われた。

「驚いたよ。あまり無茶はしないでくれ」
「そうね、ごめんなさい」

 頬を撫でて言う。エリスはくすりと小さく笑って、ヒソカと戦うために中央へ進んだ。肩からは例のポシェットが釣り下がっている。貧者の薔薇が仕込まれた卵の化石が。

「もういいのかい♣」
「ええ。待たせたわね。ごめんなさい」

 対峙する二人。ネテロ会長が開始を告げる。その直後、動いたのはエリスの方だった。軽くかざした手が発光する。次の瞬間、ヒソカに向け赤い光が放たれた。無論、ただの光であるはずがない。床と壁が陥没する。あれこそが赤の光翼のもつ特殊能力、光の速さの念弾である。

 ヒソカはそれを紙一重で躱した。相変わらずとんでもないセンスだった。湿原で一度見ているとはいえ、ほとんど初見に近いあの能力を、経験と勘だけで見破ったのだ。光を媒介にした生命力の授与。回避の叶わぬ絶対の暴力を。しかし、エリスの攻撃がそれで終わろうはずもない。

「このっ!」

 太い光での薙ぎ払い。正面がガリガリと削れていき、無惨な状況に成り果てる。ヒソカはそれを跳んで躱した。悪手だ。空中で避けられるはずがない。だが、奴の能力なら例外である。

 オーラを天井に伸ばし収縮、更に上昇して追撃を避ける。直後に天井を蹴り斜め下へ跳躍。エリスの光が天井をひび割れだらけにした。ヒソカの三次元機動は止まらない。床、壁、天井にオーラを縦横無尽に張り巡らせ、あるときは収縮させ軌道を変え、ある時は恵まれたバネで跳躍する。あの男の対G限界はどうなってるのか。そしてフェイント。動きに虚実を混ぜてエリスの思考を翻弄した。

 しかしエリスも負けてはなかった。戦闘経験の無さを能力で補い、頑丈な会場を瓦礫の山に変えていく。両手から赤い閃光を迸らせ、ヒソカを追い詰めようと乱舞した。僕も会長も流れ弾の回避に大変だった。壁際に待避していて比較的安全とはいえ、直撃を喰らったら一大事だった。ホテルが崩壊するかもしれないと本気で思った。果敢に攻撃を仕掛けられるヒソカが異常なのだ。

 いかに光速の攻撃とはいえ、エリスの思考速度は人間並でしかない。故に微かなタイムラグがあり、ヒソカはそこを上手くついていた。しかし反撃は尽く失敗した。投げ付けたトランプは蒸発する。エリスにオーラを粘着させても、発光する掌で千切られた。全身に大きなオーラ塊を被せ行動を制限しようともしたが、ひと撫でされて消滅した。

 エリスの攻撃は逆二乗の法則により距離とともに拡散して威力が弱くなり、逆に近付けば強くなる。光をレーザーの様に集束させる事はエリスにはできない。能力を使う機会に恵まれず、熟達してないためだった。

「なら、これでどうだっ♦」

 ヒソカが辿り着いたのはカタパルトだった。部屋中に転がる瓦礫をオーラで飛ばし、その運動エネルギーで攻撃する。なるほど。あれならエリスも対処しづらい。部屋中を飛び回りながら投石するヒソカと、迎撃と撃破を試みるエリス。圧倒的な展開で始まった試合は、徐々に拮抗に向け傾いていった。

 だがそれでも、エリスにはエリスなりに秘策があった。翼を広げ、四隅の一角に陣取り構える。なるほど、飽和攻撃か。悪くはない。しかしそれは、穴一つあれば回避できる。いや、もしかするとエリスの真意は……。

「建物ごと吹き飛ばしてあげるわ。ヒソカ、降参しなさい」
「クックックッ、やってみな♥ と、言いたい所だけど♠」

 脅迫としては、エリスの脅し方は三流だった。だが、ヒソカは笑って両手を上げた。

「まいった。降参するよ♣ これ以上やると殺しあいになっちゃうからね♦」

 なんとも不吉なセリフだった。心中では殺しあいを望んでやまず、そんな意思を隠そうともしない。しかし、これで試合は終了した。エリスの背から翼が消える。良かった。とにかく良かった。エリスの合格が、やっと確定してくれたのだから。



不合格┬ヒソカ(5)
   └トンパ(3)

ヒソカ vs トンパ

 やむをえぬ事情により試験会場を別の大部屋に移してから、最終試合の運びとなった。両者、中央に進み出て相対する。トンパは緊張で脂汗を流していたが、ヒソカはつまらなそうにトランプをシャッフルして遊んでいる。どうやら、彼には全く食指が動かないようだった。

「最終試合、ヒソカ対トンパ。始め!」

 再び立会人を勤めるマスタが告げる。ヒソカは動かない。冷たい瞳でトンパを見下ろし、無言で早く降参しろと促していた。

「毎年、この時期になるとな、お袋がパンケーキを送ってくれるんだ。果物の砂糖漬けがたっぷり入ってて、子供の頃からオレの好物でさ。ハンター試験を受けるのに最後まで反対した人だけど、受験し続けたら一番応援してくれた人なんだ」

 俯いたまま、トンパがぽつぽつと語りだした。

「出発する日にはかみさんが気合いの入った弁当を作ってくれてさ。最近じゃ娘も一緒に手伝ってくれて。それがまた旨くってよ。だけどオレ、試験に受かる事を諦めてたんだよな」

 これが、会長がやりたかった事だろう。今まで脱落し、踏み台になってきたものを分かりやすいスケールで再現し、脱落した者達に思いを馳せる。ある者は負ける側を体験し、あるものには踏みにじる側を体験させる。そう。最終試験は誰かを選ぶためのものではなく、一人を犠牲にして心構えを刻み付けるためのものだった。

「分かっちまうんだよなぁ。オレがここまで残れたのもただの偶然で、こんな機会、この先二度と訪れやしないって。その一度切りの最終試験が一人落ちるだけ、命の危険もないっていうんだからよ。……思い出しちゃったじゃねーか。合格を目差していた頃の気持ちってやつを」

 トンパとて、ただの嗜好、ただの娯楽で35年間、受験し続けた訳ではないのだろう。衰え始めた身体を引きずり、日常生活と折り合いを付け、そこまでして欲しかった何かがあった。

「エリス、目を逸らしてはいけないよ」
「ええ、わかってる。……でも、こんなのって」

 震えながらも、エリスの視線はトンパから片時も離れない。そんな彼女の手を握って、二人の体温を共有した。

「せめて、来年来る連中への土産話に、あのヒソカを一発ぐらいは殴ってやりたかったんだが、足がすくんじまって動かねぇ……」

 顔をあげてヒソカを見つめる。怯えも恐れも見出せなかった。この瞬間、わずか数秒の間だけ、トンパはヒソカと対等だった。対等の気構えで対峙していた。そしてマスタに、ぽつりと降参を宣言した。

「勝ちたかったな……」

 座り込み、静かに嗚咽を盛らずトンパ。静かに見守る者、胸に何かを秘める者、興味なさそうに立ち去る者。各人の行動はそれぞれだったが、笑う者だけは一人もいなかった。



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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】
使用者、エリス・エレナ・レジーナ。
 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に生命力を付与する。
 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。
 青の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。
長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

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次回 第一部エピローグ「宴の後」



[28467] 第一章エピローグ「宴の後」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/11/28 21:58
「人からもらった食べ物というのは、具体的にどの程度を示すのか聞いてもいいかな」
「あー。そうだな。最低でも、何も混入されてないとオレが確信できるのが条件だな。できれば食材の段階から自分で選びたいんだけどよ」
「それなら多分問題ないよ。ホテルの一室、キッチン付きのスイートルームを借りて皆で持ち寄る型式だから、ハンゾーも好きにやればいい。なんなら、もういくつか部屋を借りてしまってもいいだろうしね」
「おっ、そうか! そいつはありがたいが、いやー、すまんなー! オレまで誘ってもらっちゃって!」
「気にする事はないさ。僕達は同期になったんだ。お互い変な遠慮は無しで気持ちよくいこう。じゃ、開始は20時の予定だから」

 喜び勇んで駆けていくハンゾーに手を振ってから、携帯電話を取り出した。ヒソカとイルミは、特にヒソカは誘うなと事前に強く念を押されているので、これで全員に声をかけた事になる。それにしても陽気なスパイだ。ニンジャとやらの特徴なのだろうか?

「エリス、僕だ」
「アルベルト、どうだった?」
「打ち上げ、ハンゾーは参加するそうだけど、トンパには残念ながら断られたよ。何度か誘ったんだけどね。一人でやけ酒に浸りたい気分なんだそうだ」
「そう、残念ね……。こっちはもうポンズ達と合流できたから、これから買い出しに向かう所よ」
「わかった。会計は僕名義で構わないからね。じゃあ僕は先にホテルに向かってるよ」
「ええ、お願いね」

 ちなみに会場は最終試験の舞台となった協会のホテルではなく、あえて別の場所を選んでおいた。試験が終わった後でいつまでもその気分を引きずるのもどうかと思ったからだった。どの道ライセンスさえ提示すれば冗談みたいな割り引きが受けられるので、反対意見は誰も出さなかった。



 それから数時間後、ホテルに集まったメンバーは僕とエリス、ゴンとキルアとクラピカとレオリオ、そしてハンゾー、落選はしたもののポックルとポンズの9名だった。広いスイートルームのあちこちに料理と飲み物を沢山並べ、思い思いに寛ぎながら交流を深めるという趣旨だった。

 料理の中でも目を引くのは、飴色に焼けた七面鳥だった。ゴンが市場で見つけてきたもので、野生に極めて近い状態で放し飼いにされていたという。色艶も匂いも格別だが、味こそがまさに絶品だろう。これの腹にトリュフを真ん丸になるまで詰め込んでオーブンで焼いたものを、今宵は五羽も用意してある。これらはポンズの力作だった。

 それだけではない。山鼠と豚の肉を合い挽きにして塩と胡桃と香辛料を加え生地で包んで揚げたものはクラピカの出身部族がハレの日に食す伝統料理だったし、ハンゾーは練った中力粉を太く切断した麺にとぐろを巻かせた1本うどんというものを始めとして様々なジャポンの民族料理を並べたてた。僕が担当したのは魚料理だった。本当に質のいい魚は蒸すべきだというのが僕の持論である。焼くより時間も手間もかかってしまうが、なんと言っても旨味が逃げない。素材が秘める滋養分を口中で堪能するためには、それが一番合理的な方法だと信じている。エリスに調達してもらった素晴らしい大きさの舌平目は、塩を振られリーキの葉で編んだ草篭に包まれて、柔らかく弾力に富む状態に仕上がった。

 キルアの料理は豪快だった。どこからか生きた子牛を連れてきて、瞬く間に解体してしまったのだ。血がほとんど流れない妙技だった。それぞれの部位について下ごしらえが施され、後は食べる際に順次焼いていけばいいという。ホルモン焼きは鮮度が命だというが、ここまで新鮮なのは珍しい。テールだけはエリスが譲り受けて、圧力鍋でシチューにしていた。僕の好物を憶えていてくれて嬉しかった。

 ゴンは野性味溢れる品々を用意した。ドングリをたっぷり食べて肥えたリスの干し肉パイ、テラスで燻した川魚、海水を模した塩水で茹でた手長エビ。これは大鍋でざっと湯で上げて、熱々のところにレモン汁を付けてかぶりつくのである。島を訪れる漁師達が好む食べ方だという。それが大皿に山盛りだった。

 レオリオは料理というより酒の調達がメインだったが、彼の披露したサラダは好評を持って迎えられた。飛行船乗りのサラダという、かつての戦争で軍の飛行船乗り達が出撃前に好んで食べた事から名がついたというそれは、レオリオの国では男の料理の代表格なのだという。

 木製の大きなサラダボウルを用意して、新鮮なロメインレタスを手で千切っては次々と放り込む。更に数種類の野菜を入れ、こんがりと焼き目のついたクルトン、すり下ろしたチーズ、ベーコン、少量のハーブ、オリーブオイルにワインビネガーとレモン果汁、刻んだアンチョビを加えて混ぜた。こうして瑞々しいサラダがボウルから零れそうなほど溢れた所で、半熟にしたゆで卵をいくつも割って上から落とした。ほとんど生に近い状態のそれがロメインレタスをとろりと滑り、てらりと濡らした瞬間は、周りで見ていた皆が思わず息を呑むほどだった。

 ポックルが自慢げに振る舞ったのは、故郷に伝わる伝統的なパンの一種だった。小麦粉を練り、発酵をさせずに平たく伸ばして多種多様な具材と合わせる。本来はこれに油を塗ったものを縦穴式の竃の内側に貼付けて焼くのだそうだが、今回はないためにオーブンを使った。注目すべきは具の多様さだった。羊の挽き肉にトウガラシとトマトを刻んで混ぜ、辛さと酸味が際立つものもあれば、腸詰めやチーズ、ピーマンなどを加えて香辛料で味を調えたものもあった。小麦の生地はぱりぱりに焼け、香ばしい油の匂いが広がった。

 エリスは主にオードブルやデザートといった小品を精力的に量産していた。色とりどりの野菜と果実のジュースを若干固めのゼリーに仕立て上げ、味付けした柔らかいゼリーに投じたゼリーサラダ。一度焼いたリンゴにパイ生地をかぶせ、てっぺんの砂糖が溶けかかるまで焼いたタルト・タタン。桃のシロップ煮をバニラアイスとホイップクリームで飾り立て、ラズベリーのジャムをたっぷりとかけて冷やした甘い氷菓。これは周りにもブラックラズベリーが転がされ、賑やかで可愛らしい盛り付けになった。

 キルアの思いつきが発端となったこの企画は、想像以上の熱意をもって開始に至ろうとしていた。

「いや、作りすぎでしょ。これ」

 呆れながらポンズが言う。広いガラステーブルに料理が所狭しと並べられ、それでも全く足りないのでホテル側に頼んで追加で借りる必要があったほどだった。それぞれの皿の間には色鮮やかな草花を生けた花瓶が置かれ、小瓶に入ったキャンドルが料理を官能的に燻らせている。確かに、普通の人間の基準では9人で食べ切るのは無理だろう。しかし目を輝かせる欠食児童達の前では、その心配も無意味なはずだ。

「大丈夫だよ、ほら」

 ゴンやキルア、レオリオなどの面子を見渡し僕は言った。ハンゾーなど今にも七面鳥にかぶりつきそうな勢いだった。忍の習性はどうしたのか。まあ、そんな揶揄は不粋だった。

「……マジで?」
「たぶん、マジで」

 目を丸くしていたポンズは、しかし第2次試験の光景を思い出したのだろうか、苦笑しながら椅子に座った。そうこうしてるうちに飲み物が配られ、乾杯の準備が進められる。僕はエリスに冷たく煎れたフラワーオレンジペコを手渡すと、自分のために手近な位置にあった白ワインを用意した。つでにとポンズにシャンパンを頼まれる。

 エリスはアルコールを飲めないし、僕は飲んでも意味がない。飲んでも酔わない上に、飲まなくてもいつでも酔えるからだ。しかし、こういう席で酒を飲まないと、面倒な事になりかねない。今日集まった人間ならそのような問題はないだろうが、念のため、エリスはともかく、僕は飲んでおくべきだと判断した。

「よーし。それじゃあお前ら準備はいいな! ハンター試験終了と皆の無事を祝してー!」

 ビールジョッキを片手にレオリオが乾杯の音頭をとり、ささやかな打ち上げパーティーが開始された。美味しい食べ物は舌の動きを滑らかにする。ハンター試験が終わったという開放感も手伝って、宴は大いなる盛況を見せた。

「二人とも、残念だったね」

 こちらに歩いてきたゴンがいう。彼が手にする皿の上には、切り分けた七面鳥とほぐしたヒラメの身が乗っていた。僕の手掛けた品も皆に好評だったようで喜ばしい。

「あ、ん、た、が! あんたが言うかこんにゃろー!」
「ご、ごめんごめん! 悪かったってホントごめん!」
「私のプレートを返せー!」

 ……まあ、好評だったようで喜ばしい。

「ポンズはまだいいよ。オレなんかさ、4次試験最後の夜にあいつが現れて」

 手長エビを肴に、舐めるようにワインを楽しんでいたポックルが、どこか遠い目をして呟いた。レオリオが訝しげに反応する。

「あいつ? 誰だよ」
「……ヒソカが」
「よく、殺されなかったな」

 クラピカがごくりと唾を飲む。皆も同じ意見らしい。この試験の間に、ヒソカ脅威の認識はすっかり定着したらしかった。しかし見方によっては彼らは幸運だと言えるのだ。あれほどの実力者の存在を、プロになる前に肌で感じる事ができたのだから。僕はエリス作のテールスープを舌の上で愛でながら、そんなどうでもいい事を考えていた。

「気分がいいからおまけで見逃してやるって……」

 プレート一枚とられて気絶させられただけで済んだよ、と肩を落とすポックルを、皆が次々と慰めている。そうか、僕達と戦った後にヒソカが入手した最後のプレートは、彼から奪ったものだったのか。

 ふと横を見ると、エリスが少し気まずそうだった。



 そんな一幕もあったものの、時間はおおむね賑やかに流れていく。そしていつしか、話題は自然に今後の展望についてとなった。

「オレは故郷に帰って受験勉強だな。やっぱり医者の夢は捨てきれねぇ」

 山鼠と豚の包み揚げを飲み込んでから、ソファーに身を沈めるレオリオがいう。

「今までハンター試験に集中してたからな。これからは猛勉強しねーとなぁ」
「うん、がんばってね」
「おうよ。絶対合格してやるぜ」

 国立医大の高額な授業料は、受かりさえすればライセンスの特権で全額免除されるそうだ。彼がハンター試験を志した主な目的がこれだった。エリスもその決意に耳を傾け大きく頷く。どうやら、彼の目標に大きな共感を得たようだった。

「オレは、まあ。里に帰ってから巻き物探しの旅の準備だな。長老連中に挨拶回りもしなけりゃならんし、これから忙しくなりそうだぜ。お前らも隠者の書についての情報があったら教えてくれや」

 そういってホームコードの記された名刺が配られる。雲隠流上忍とあるが、恐らく所属する組織だろう。なんとも自己主張の激しいスパイがいたものだ。あ、そうだ、ホームコードといえば。

「クラピカ、いいかな」
「私か?」
「ああ。ヒソカからクラピカのホームコードを教えてくれってメールが届いてるんだけど、どうしようか」
「……黙殺してくれ」

 凄く嫌そうに返答された。そこまで嫌なものだろうか。僕など、エリスの事がなければ彼本人にはそれほど悪感情を抱いてないのだが。

「それはそうと、私は雇用主を探すつもりだ。幻影旅団に近しい人物に接触するためにな。皆も旅団について情報があったら教えてくれ。これが私のホームコードだ」
「幻影旅団。クモかな?」
「知っているのか?」
「人並み程度には。ただ、これでもアマチュアのブラックリストハンターとしては繁盛してる方だからね。掘り下げることができそうな心当たりのいくつかはある。その程度で良ければ後でホームコードに吹き込んでおくけど、軽い気持ちで手を出していい相手じゃないよ」
「無論、わかっている。しかし私には必要な事だ」

 ハンターになってまで追うとすれば、それはもちろんそうだろう。僕は軽率だった事を謝罪し、クラピカからも情報について礼をいわれた。

「ブラックリストハンター? あなたが?」

 ポンズがぱちぱちと瞬きをしていた。凄く意外そうな顔だった。他も大体同じようだった。ゴンはよく分かってなさそうだし、キルアは全く驚いてなさそうだったが。

「意外かな?」
「ちょっと、見えないわね」

 そこまで真剣に頷かれると少し困る。エリスが少し拗ねていた。危険な仕事をしてるという自覚はあるが、そこまで危惧されるほどの事でもないと思う。まあ、ブラックリストハンターという仕事も世間では誤解されてる場合が多いから、これも仕方がない事なのだろうか。

 ブラックリストハンターといっても、ドラマのように凶悪犯とカーチェイスをしたり銃撃戦を繰り広げるのが全てではない。そういう戦闘力に優れた連中と直接戦闘を繰り広げるのは、アマチュアの極一部とプロの半分程度だ。僕のようなのはむしろ、指名手配を受けた人間の居場所を突き止めるのが主な仕事だった。

 どこにでもある街の、どこにでもあるアパートの、どこにでもある一室に住む、どこにでもいる顔の犯罪者。それを探し出すのが僕の仕事だ。そういった業務内容だと、戦闘は止む終えない場合の緊急措置でしかなく、大抵はその国の司法機関か元請けのプロハンターに場所を報告して終わりである。

 そんな説明を皆に行い、だいたい納得してもらえたのを確認して、アイスティーで喉を潤す。同じような話は何度もエリスにしているのだが、未だ本心からの同意は得られてない。曰く、もっと安全な職業はいくらでもあるそうだ。それは正真正銘の事実だが、実入りは良いしやりがいもある。そして何より、師匠が若い頃にしていたこの仕事は、僕にとって特別なものだった。

「オレは、二月ぐらいに一度実家に帰る他は決まってねーかな。ゴン、お前はどうする?」
「オレ? うーん、やっぱり特に決まってないや。やりたい事は沢山あるけどね。親父を探したり、お世話になった人達に挨拶にいったり、ヒソカにプレート叩き返したり!」
「ヒソカに!?」

 ゴンの当面の目標は凄まじかった。顔面を殴ってお情けで渡された44番のプレートを受け取らせる。傍から見て、それはあまりにも無謀だった。それでも、不可能とは思わせないから心地がいい。ヒソカも上手い事やったものだ。

「じゃー特訓だなー。どっか適当な場所探して修行すっか」
「え? 遊ばないの?」
「おまえなあ」

 じゃれあう二人。仲がいいようで微笑ましい。ゴンと友達になりたいと語ったキルアの願いも、このままずっと壊されずに続けばいいと思う。

「オレも特訓だな。特に戦闘力を鍛えようと思ってる。今年の試験で思い知ったよ。オレは弱かった。だから負けた。もし何かの拍子で今の状態のままハンターになれたとしても、その弱さがネックになるだろう」
「あ、じゃあオレ達と一緒に行こうよ! 人数は多いほど面白いからさ。いいよね、キルア?」
「ん? ああ、いいぜ。よろしく」
「こちらこそよろしく頼むぜ」

 ポックルはゴンたちと同行する事に決まったようだ。輝かしい才能を持つ彼らの成長は、ポックルにとってもいい刺激になるだろう。それに、今回は僕も思い知った。今までは強さより便利さこそ自己の性能として追求するべきだと考えていたが、強い暴力は、時に全てを駆逐する絶大な便利さを発揮すると。

「あ、私も一緒にいいかしら。最近伸び悩んでて困ってたのよね」

 結局、ポンズも加え、4人で当分一緒に行動する事に決まっていた。

「わたしは、うーん。アルベルトがいてくれるならどこでもいいかな」
「はいはい、ごちそうさま。で、あなたは?」
「僕も同じだよ。エリスがいてくれるならどこでもいい。ただ、当面の指針としては、プロとして活動の基盤を再形成する事に力を注ごうと思う。まずは人脈や情報網の見直しかな」

 僕の答えは、あまり面白みのないものだったらしい。ゴン達からは一緒に来るよう誘われたし、ハンゾーにも技術指南という名の引き抜きのお誘いを受けた。なんでも、僕ならニンジャとしても十二分にやっていけるとの事だった。それらを丁寧に断ると、話題はやがて別のものに移っていく。

 皆はまたまき直しに食べた。食べて、飲んで、大いに寛いで会話を楽しんだ。ポックルが弓を弦に狩人の唄を披露する。ふけていく夜にぴったりの、楽しくもどこか物悲しい唄だった。あれだけあった料理もいつしか皆の腹へと消えていて、しかし、宴の空気は冷めそうにない。誰かが空きっ腹を訴えた。

「へへっ。そう来ると思って、実はな」

 ハンゾーが得意げにもってきたのは、米に具をのせて緑茶をかけたものと、オニギリライスボールに大豆の醗酵ソースを付けて焼いたものだった。お茶漬けと焼きおにぎりという、彼の国の料理らしかった。寂しくなり始めた腹の底に、しんとしみる旨さがあった。

 ハンゾーが皆の喝采を浴びた事は、もちろん言うまでもないだろう。



 翌朝、集った皆はそれぞれの志を果たすべく、別れを告げてホテルを後にした。

「まずは師匠に報告かな」
「そうね。父さんも心配してるだろうし」

 手を繋いだままに大通りを歩く。エリスが楽しそうに笑っていて、それだけで僕は幸せだった。海のそば、丘の上の小さな白い家。子供が二人に犬が1匹。それはきっと無理だけど、いつまでもこの手を繋いでいられたらいいと思うのだ。



次回 第二部プロローグ「ポルカドット・スライム」



[28467] 第二章プロローグ「ポルカドット・スライム」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:59
 降りしきる雨は嫌いだけど、私は雨の日が好きだった。

 私を求めるお客さんが、雨の日は少なくなったから。

 しとしと。窓の外では水滴が落ちる。長い髪の毛が湿気を吸って、体にまとわりつくのが憂鬱だった。それでも、私にまとわりつくお客さんはいなかった。

 雨の日はずっとお勉強。賢く見えるように。人気が出るように。商品価値が上がるように。宿の主様や守衛さんに戯れに抱かれる事はあったけれど、お客さんほどには乱暴じゃない。娼婦の人から戯れに苛められる事もあったけれど、お客さんほどには傲慢じゃない。だから、私は雨の日が好きだったんだ。

 だけど、雨の日にやってくる人もいる。そういうお客さんは嫌いだった。雨の憂鬱を私にぶつけるから。雨が上がるまで、暇つぶしに長い間居座るから。齢10にも満たない小娘がこの宿の一番人気なんてちょっとおかしいと思うけれど、世の中そういう趣味の人は大勢いるらしかった。そして、そういう趣味の人は行為の内容も倒錯してることが多いそうだ。私の客さんは殆どが乱暴だった。お腹を殴って、複数人で嬲って、使うべき所じゃない場所を散々使って。

 私はそれにお礼をいう。感謝と真心を込めて奉仕する。それが正しいルールだった。骨や内臓を痛めつけなければ、顔以外は好きにしていい決まりだったから。いくらお客さんを喜ばせても、私には1ジェニーも入らないけど。

 それでも、苛つかれて振るわれる暴力よりはずっといい。

 楽しまれて振るわれる暴力の方がずっと楽だ。体の負担もずっと軽いし、なにより心が痛みにくい。人を傷つけ壊そうとする強い想いは、それだけでとても痛いから。だから私は、どんなお客さんでも隷属する。雨の日の客はとても嫌いだったけど、顔に出す事はしなかった。

 その人も、雨の日にやってきた客だった。

 一目見た印象は、金遣いの荒そうな人だな、とだけ。高そうな葉巻きをくわえていたけど、着ている服は多分安物。そんなに珍しい人種じゃなかった。たぶん、最近小金が手に入ったんだと思う。貯蓄なんて考えずに、パッと使って一時を楽しむ。そういう考えの人達は、こんな場所ではごろごろしていた。

 おかしいなと思ったのは、入れられて数分した時の事だった。口で奉仕していた時は何ともなかった。だけど、突き入れられたとき、妙に痛かった気がした。痛いのはいつもの事だから、そんなに気にした訳じゃなかったけど。

 だけど、気付いたら体から湯気が出ていた。お客さんの体ももやもやしたのに包まれてる。これは一体なんだろう。がつがつと頭に響く営みの中、朧げにそれに目をやった。

「ははっ、なんだよガキ! 開いちまったのか!?」

 葉巻きを口にくわえたまま、お客さんが楽しそうに腰を振る。私に応える余裕はないけれど、その人の顔を少し見つめた。どうして上機嫌になったのか、その意図を察しないと不機嫌になる人も大勢いたから。

「しょうがねーな、オイ!」

 言って、私のお腹に葉巻きを押し付けて、灰皿代わりに火を消した。よくある事だ。呻き声はあまりでなかったと思う。むしろ優しい人かもしれない。敏感な部分に火を近付けて、怯える私に喜ぶお客さんも沢山いたから。

 葉巻きが勿体ないなと、ちょっと思った。

「お前にいい事教えてやるよ。抱き終わるまでの時間でよければな。ほら、さっさと心込めて綺麗にしろ。それが終わったら次はケツだ。犯しながら教授してやんよ」
「はい、ありがとうございます。お客さま」

 反射的に頷いてお礼をいう。お客さんの股間に傅き、体に染み付いた動作で奉仕した。この人は私を気に入ったらしい。笑いながら私の頭をわしゃわしゃと撫でて、これから贔屓にしてやるぜと告げられた。

 しとしと。外では雨が降っていた。



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【ポルカドット・スライム 操作系・放出系】
雨の日限定の能力。
体に触れた水にオーラを流してテニスボール大のスライムを生成する。
スライムはそれぞれが自立した自動型であり、目標の口と鼻を塞いで窒息死させる本能を持つ。
十分な量の水さえあれば膨大な数のスライムを展開可能。
発動は条件を充たした際にオートで行われる。

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次回 第八話「ウルトラデラックスライフ」



[28467] 第八話「ウルトラデラックスライフ」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 22:59
1999年03月02日 早朝

 目覚めると、アルベルトの寝顔がそこにあった。

 笑みがこぼれる。可愛くてあどけなくて懐かしかった。静止したままの端正な顔立ちが彫像のようで、呼吸だけが命の在り処を教えていた。撫でたかった。撫でてあげたかった。撫でさせてほしかった。だけど、起こしてしまうかなって、心配で。亜麻色の髪をくしゃりと愛でてみたくなって、溢れる愛しさで切なくなった。

 いつからだろう。眠るのが怖くなくなったのは。闇に落ちる錯覚が消えて、語りかける声が小さくなったのは。昔は夜が怖かった。子供の錯覚といえばそうかもしれない。だけど、あの頃は生きているのが怖かった。

 そんなわたしだったけど、アルベルトに包まれて眠れば安心できた。幾日も、幾夜も一緒に眠って、やがてわたしは思い知った。ああ、この人がこんなに好きなんだなと。胸の奥が締め付けられた。たとえ一時離れていても、この人がいてくれれば生きていける。幼心にそう悟った。

 だから、あの日の同衾はただの悪戯。もう裸で眠る癖なんてないし、アルベルトがいなくても一人で寝付ける。だけど、あまりに甘美すぎて。結局、試験が終わるまで言い出す事はできなかった。

 アルベルトの幼い部分に付け込んだわたしの卑劣な行いを、それが当然の様に許してくれた。わたしの頭を優しく撫でて、仕方ないな、エリスは、なんて兄の顔で微笑んで。それがとても嬉しくて、ただただ無性に悲しかった。そうして、アルベルトは今でも一緒に寝てくれる。ちなみにパジャマは着るように言われた。理由が風邪の予防というのが、ちょっと悔しかったのは絶対に内緒。

 あれから2ヶ月。兄妹のような幼馴染みから義理の兄妹へ再設定されたわたし達の生活は、新しい距離感を模索しながら営まれている。……模索してるのは、わたしだけのような気もするけど。



 3月初旬。北半球にあるこの国では、陽射しに春の陽気が混じりはじめる季節だった。うららかな午前の街並を歩く。街路樹は楽しそうに新芽を萌していて、道行く人達の足取りもどこか軽い。そんな風がそよぐ中、わたしは一人で歩いていた。午前中に買い物を済ませてしまおうと思ったから。本当はアルベルトも付き添ってくれると言ってくれたけど、あの人にはわたしがお願いした大切な用事がある。それに、一人での買い物も嫌いじゃなかった。アルベルトと一緒に考えるのも楽しいけれど、一人だとどうやって楽しませてあげようかと悩めるから。

「ただいま」
「お帰り、エリス」

 ホテルの部屋に戻ると、アルベルトはソファーに身を沈めて、レンタルした映画を視聴していた。手元にはポップコーンと烏龍茶。うん、よろしい。ちゃんとお願いに励んでくれたみたい。

「どうだった? 父さんのお勧めだからまたアクションだったでしょ」
「いや、友情ものみたいだよ。かつて同窓だった二人の老人のね。派手さはないけど、移り変わる心情が丁寧に描写されていて面白いかな」
「あら、意外ね。でも良かった。アルベルトが楽しめたのならなによりだわ」

 アルベルトの返事に頷いてから、帽子と手袋を外して買い物袋の中身を整理していく。買い物はそんなに量もない。アルベルトとわたしの二人だけで、買い溜めする理由もなかったから。

「だけど、ポップコーンじゃちょっと簡単すぎない? まってて、いま手羽先でも揚げてあげるから」

 わたし達がホテルを選ぶとき、キッチン付きの部屋は条件の一つだ。これはわたしのわがままだった。わざわざ高い部屋を借りるぐらいなら、その分の予算で外食をとったほうが利口かもしれないけど、やっぱり、好きな人には手料理を食べてもらいたくて。

「大丈夫。それよりエリスもこっちにおいで。疲れただろう?」
「もうっ、アルベルトったら。ちょっと買い物にいったぐらいじゃ疲れませんっ」

 口先で軽く否定しつつも、アルベルトの隣に腰掛ける。どれほど独占してみても、この場所に飽きる徴候はなかった。魅力的すぎて困るくらい。アルベルトの肩に寄り掛かったら、優しく頭を撫でてくれた。兄妹になってからこっち、明らかにスキンシップの頻度が増している。ちょっと複雑ではあるけれど、幸せすぎてのぼせそう。

 映画はクライマックスを迎えていた。背の高い雑草の生い茂る廃校の校庭で、お爺さん二人が一心にスコップを振るうシーン。やがて何かを掘りあてて、それが錆に錆びた鉄の箱だと知って落涙してた。多分あれはタイムボックス。ストーリーを始めから追っていれば、きっと感動的な場面なんだと思う。隣のアルベルトの横顔は、画面を真剣な顔で見つめていた。

 娯楽は、この人にとって義務に近い。念能力の影響で、アルベルトは合理性を追求する傾向があった。自分の価値観や感情を判断基準の一つに留め、より高い視点から物事を俯瞰しようとする基本姿勢。それは決して悪い事じゃないかもしれないけど、放っておくとどんどん人間らしさを失ってしまうのが難点だった。楽しい、嬉しい、美味しい、美しい。そんな誰もが持ってる人生の潤いが、アルベルトには無価値になってしまうから。それを悲しむ事さえできないままに。

 本人はそれでいいのかもしれない。人の価値観に横から口出しするのはお節介以前に傲慢だというのは父さんのセリフだ。だけど、それでもわたし達は許せなかった。だってそんなの、あまりに寂しいと思うから。

 一度、長期のハントから帰って来たときは酷かった。喜怒哀楽が薄くなって、無駄のない思考しかできなくなって。まるでロボットみたい、なんて思わず感じてしまうほど精巧に人間みたいな状態で。この人のあんな姿は恐ろしすぎて、再び見たいとは思わない。

 あの時にわたしと父さんがやったのが、自分達の趣味を押し付ける事だった。わたしが料理で父さんが映画。楽しさや嬉しさという感情を外からどんどん補充してあげたかった。強制的に、本人の意思なんて全く無視して。当時のアルベルトには迷惑だったかもしれないけど、いえ、多分確実に迷惑だったでしょうけど、それでも文句一つ言わなかった。アルベルトが元の性格を取り戻すまで、あの時は半年以上かかってしまった。その間、アルベルトはずっと耐えてくれた。

 だからわたしは繰り返さない。アルベルトを決して離してあげない。独りになんてしてあげるものか。もう二度と、絶対に。誰がなんと言ったって、この人はロボットじゃなく人間だ。楽しいときは楽しいと、寂しいときは寂しいと、ちゃんと感じながら生きてもらいたいと切に願った。

 結ばれたい気持ちは偽れないけど、アルベルトが望むなら妹でもいい。恋人ができたら祝福しよう。そして後でこっそり泣こう。好きな人が幸せならそれで十分、という言葉を無理矢理信じ込めるぐらいには、馬鹿な女のつもりだから。



 映画を最後まで見た後は、アルベルトに耳掃除をしてあげた。膝の上に感じる頭の重さが、頼られてるようで密かに嬉しい。アルベルトがわたしを頼ってくれる機会はほとんどない。この人の誰かに向ける感情は、とても一方的なものだった。

 こんなの、ただの自己満足だって、そんな事、誰に言われるでもなく知ってるけど。

「それで、先輩がね、言うんだ。僕がレジーナの家に入ったのは喜ばしいけど寂しくもあるって。アルペンハイムの家の名が消えてしまったのは、あの時代が過ぎ去ってしまったのを改めて感じさせられるってね」
「そうかも、しれないわね。わたし達の世代には、わからないけど」

 わたしに身を委ねて、目を閉じながらアルベルトが言う。

 こう見えて、アルベルトは名家の直系で、しかもお爺さんは救国の英雄だ。でもそのおかげで心ない襲撃に巻き込まれて、幼い頃に全てを失った。家族も、家も、将来も。残された子供は一人っきり。誰もが巻き添えを恐れて遠巻きに見守るだけで、手を差し伸べようとする人はいなかった。そんな状態の彼を引きとったのが父さんだった。だから、アルベルトは父さんを盲目的に尊敬している。それはもう、お風呂上がりにパンツ一丁でビールを飲む姿をみても全然幻滅しないぐらいには。

 この歳になるまで父さんが正式に養子にしなかったのは、責任を持って判断させるためでもあったのだと思う。名実共に家族になるか、自分の家を再興するか。もっとも、こんな人に成長してしまった時点であまり意味はなかったと思うけど。

「終わったわ。反対向いて」
「ああ、頼むよ」

 ごろんと、ソファーの上で寝返りを打つアルベルト。顔がわたしの方を向く。目の前にはわたしのお腹とかお臍とか色々恥ずかしい部分が来るけれど、この人はきっと、何の意識もしてくれないんだろうな、なんて思ってしまった。考えが汚れているのはわたしだけ。だけど、不満を持つには今さらすぎて。

「いくよ?」

 無言で頷かれる。まずは前座のマッサージから。アルベルトに尽くしてあげられる貴重な機会に、手を抜くなんて考えられない。耳たぶとその周り、耳の穴の浅い所を丹念に指圧し揉み込んであげると、十分もしないうちに柔らかくなる。それでも根気よく揉み続けると、マシュマロみたいにふわふわになった。安心しきって目を閉じるアルベルトの顔が、ちょっと可愛いくて微笑みが零れた。

 マッサージを一通り終えた所で、暖めたクリームを塗って蒸しタオルで耳を覆う。会話のない時間が流れていく。それでも沈黙は苦にならなくて、頭を撫でながら数分の時をのんびりと味わう。そろそろ、もういいかな?

 タオルをとり、シェービングクリームを塗ってから。テーブルの上のカミソリに手を伸ばす。耳たぶの上にそれをあてて、産毛に沿って軽く滑らせるように剃っていく。アルベルトは身じろぎもしなかった。寄せてくれるこの信頼は、わたしだけの独占物。剃り終えたらタオルで一通り拭って、アフターシェーブローションを塗ってあげた。ここまで来て、ようやく耳掻き棒の出番になる。

「そういえば」
「なに?」

 耳掻きを動かしながら返事する。開け放った窓から流れる風が、髪の毛を優しくなびかせている。アルベルトの頭をそっと撫でた。もっとわたしを頼って欲しいけど、その願いを伝えたいとは思わない。口に出してしまったら、いたずらに困らせてしまうから。

「ああ、大きな仕事を頼まれたんだ。しばらくエリスを一人にしてしまうかもしれない」
「そう……。どれくらいの予定なの?」

 胸がぎゅっと締め付けられた。押し殺したはずの内心の不安は、きっと気付かれているんだろう。すまなそうに顔が歪んで、上を向いたアルベルトがわたしの頬を撫でてくれた。仕方のない人。急に動いたら危ないのに。

「わからない。だけど1ヶ月ぐらいで終わりそうだよ。3月中に終息させたい事件だそうからね」
「うん、わかった。お仕事じゃ、仕方ないわね」

 本当は、何か手伝えたら嬉しいのだけど、あいにく、わたしではハントの戦力になれなかった。足を引っ張る事だけはしたくないから、おとなしくお留守番がわたしの役目。

「ねえ、アルベルト。無理に早く終わらせる必要はないから、わたしはいくらでも待ってるから、お願いだから、自分を一番大切にしてね」

 それだけは守ってほしいと念を押して、わたしは耳掃除を再開した。今は少しでも長い間、アルベルトとの日常を楽しみたかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 どんよりした鼠色の、今にも泣きそうな空だった。

 その街のスラムは風が流れず、化石となった悪臭が沈澱していた。少女には馴染みのある匂いだった。ギラギラした目の少年達。うずくまったままの痩せた女。薬漬けの男。煙草をくゆらす娼婦達。何もかもが懐かしい。ほんの数ヶ月前まで、少女が売春宿の窓から眺めていたのもこれと同じ光景だった。このスラムは彼女の出身地ではない。訪れた事もない土地だった。単純に、都市部の最下層など何処も似たような有り様だというだけである。

 長い銀色の髪、薄い褐色の肌、赤褐色の瞳、幼いながらも可憐な美貌、かつて客達に人気を博したその容姿は、この場所でもひどく目立っていた。男達の視線が少女に刺さる。裸に透明なレインコートだけという彼女の格好は、あまりにも倒錯的で煽情的だった。陵辱を煽っているとしか見えなかった。いや、事実少女は煽っていた。レインコートを着た理由は、全裸だと押し倒されたときに背中を怪我してしまうからだった。そう、彼女は既に慣れていた。

 男達が集まってくる。ある者は砂漠で水を見つけた様に。ある者は闇夜に浮かぶ幽鬼の様に。向けられた性欲が少女の心を刺激して、彼女を密かに怯えさせた。精一杯の強がりでひたすら耐えた。客には嫌がる顔を見せない様にと、以前の主に繰り返し教育されたからだった。

 少女は気付かない。怯えは外界に漏れていて、それでも必死に強がる彼女の表情こそが、男達の嗜虐心を最も煽っているのだと。

 少女は空を見上げる。ぽたりぽたりと水滴が落ちた。もうすぐ、雨が降る。雨の中で犯される。それは彼女の念能力の、発動条件が整ってしまう事を意味していた。

 きっと大勢死ぬだろう。

 あの男も巻き込まれて死んでくれればと、少女は切にそう願った。

 それが不可能である事は、彼女が一番知っていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



1999年03月24日

 アルベルトが出発してからちょうど二十日後、わたしは異国の空港に降り立った。空気が少し砂っぽくて、気のせいか金属みたいな味がする。お肌にはちょっと悪いかも。だけど、わたしの心は弾んでいた。だって初めてだったから。アルベルトが仕事の件でわたしの力を借りたいなんて、そんな連絡をしてきたのは。

 手荷物を受け取り待合所を見渡すと、求める人影はすぐに見つかった。久しぶりに会えてそれだけで嬉しい。頬が緩むのが止められない。あまり格好よくないな、とは自分でも凄く思うけれど、表情がだらしなく崩れてしまう。

「お待たせ、待った?」
「いや。久しぶりだね、エリス」

 アルベルトの胸にそっと触れる。本当はそのままでいたかったけれど、あいにくとお仕事が控えている。行きましょうとアルベルトを促して、わたしは先へと歩き出した。

 もっと沢山喋りたかった。留守中にあった大切な事。どうでもいい事。ポンズとは電話で長話してしまったし、キルア君からは手紙が来た。だけど、それも全部後にしよう。まずはお仕事が最優先。だってせっかくのチャンスだから、アルベルトに迷惑なんてかけられない。本性はできた女から遠くても、演じる事ぐらいはできると思うから。

「いや、すまないがもう一人迎えの人間がいるんだ。今は外してるから少し待ってくれないかな」
「もう一人? お手洗いかしら?」

 アルベルトは困った様に頬をかいた。この人にしては珍しい仕種。そんな表情をさせるだなんて、どんな方だか興味が涌いた。

「ちょっと、厄介な誓約を抱えていてね」

 わたしが頷いたときだった。揺れる視界。気が付けばアルベルトの腕の中。一瞬遅れて庇われてると理解した時、それはやってきた。

「ぬぅん! 南無阿修羅仏! スーパービックリボンバー!」

 爆発のようなすごい轟音と、それより大きな怒声だった。耳が痛い。だけど、とても嬉しい。本当に久しぶりの感触だった。アルベルトにぎゅっと抱き締めてもらえたのは。さっきの意気込みも忘れてしまって、このまま流されてしまいたかった。だってのに。

「悪を許さぬは我が誓約! ひったくり共は見事成敗してきたぞアルベルト!」

 どかどかと大股で歩いてきた男の人。歳は40代ぐらいだろうか。大柄で、頭を綺麗に剃っている。纏をしてるから念能力者みたいけど、ひょっとしてこの人がアルベルトの言ってた方かもしれない。見上げて視線で尋ねてみると、アルベルトはそうだよと教えてくれた。

「お迎え頂きありがとうございます。エリス・エレナ・レジーナと申します」

 腕の中から出て一礼すると、男の人は上機嫌で頷いた。どうでもいいけど、この人の声はとても良く響く。ちょっと周りに迷惑なぐらい。

「はっはっは! 礼義正しいお嬢さんだ。うむ、私はジャッキー、よろしく頼む」
「ジャッキー、奴らはどうした? ずいぶんと大きな爆音だったけど」
「なに、気絶させただけだよ。なにせ弱者を守るは我が誓約! 罪を憎んで人を憎まず! 無闇に傷つけることはせんさ!」

 素敵な誓約だと思う。気のいい人だとも思う。だけどこの人と一緒に仕事をしてアルベルトは大丈夫かなって、心配してしまうのを止められない。空港を出て、アルベルトの運転する車で拠点に向かっている間も、一抹の不安が消えてくれなかった。

 彼らを率いるカイトさんという名のハンターは、もう少し、その、普通の人だと嬉しいんだけど。



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【法門無尽誓願智(スーパービックリボンバー) 操作系】
使用者、ジャッキー・ホンガン。
能力者のオーラに触れた者に無尽の法門を教え驚愕させる。
この驚愕は神経系を操作する事による純粋な肉体的反応なので、事前情報や覚悟による対処は不可能。
彼我のオーラの量に差があるほど強く驚愕する。

【仏道無上誓願成(ウルトラデラックスライフ) 操作系】
使用者、ジャッキー・ホンガン。
自縄自縛のための能力。
自身に課した人生の目標を諦めた際に発動し、能力者を即死させる。
目標は中途半端なものであってはならず、達成する意義があると信ずるに足るものでなければならない。
上記に準じるものであれば目標はいくつでも増やせるが、減らす事は決してできない。
この能力によって定められた誓約は純粋な戒めであり、念能力に影響を与えることはない。
本人以外を戒める事はできない。

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次回 第九話「迫り来る雨期」



[28467] 第九話「迫り来る雨期」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/12/07 05:02
 車は大きなゲートを潜った。厳重な警戒。多分軍人さんだと思う。首から小銃を下げた制服の人達は、アルベルトの示したライセンスを確認すると、フリーパス同然で通してくれた。

 広い、広い敷地内。わたし達の乗った自動車は建物の群れには向かわずに、離れた場所にあるスロープらから地下に降りて、シェルターのような地下駐車場に吸い込まれた。分厚い鉄の扉を開けた先の通路には、私達以外の人影がなかった。

 深海魚になった気持ちだった。

 リノリウムの廊下に足音が響く。蛍光灯が明々と照らす、無色透明な白い廊下。警備の人さえ一人もいない。観葉植物の一つもない。やや早歩きで進んでいく。3人とも無言。わたしにとって初めての実戦が待ち受けるからだろうか。さっきから肌がぴりぴりしてる。大気の組成が違って感じる。異星に迷い込んだと言われても信じられる。

 張り詰めた雰囲気に息が詰まって、傍らのアルベルトをふと見上げた。そして、理解した。これが普通なんだ。この人が今までくぐり抜けてきた舞台。空気がアクリルでできていて、秒針がアレグロモデラートのステップを刻む。硬質で、真剣で、頼もしいけどちょっと怖い。まだ入り口にも立ってないんだろうけど、きっとこれが、男の人の世界なんだ。

 わたしの視線に気付いたアルベルトが、いつもの優しい瞳に戻った。ほっとする。だけど、甘えるのはまたの機会にしよう。わたしは足手纏いになりに来たんじゃない。安心してもらえるように笑顔を返しつつ、心の中で拳を握った。

 広い会議室に案内された。入り口以外の3面の壁が全て大きなモニターで、木製の円卓にも各席に小さな画面がある。わたし達が入ると、先にいた人達が一斉に振り向いた。何人かの軍人さんとスーツの人達。制服組の中で一番偉そうな人は、色とりどりの略綬を胸に付けている。詳しいわけじゃないけれど、偉い将軍さんなんだと思う。そして、ラフな格好の男女が二人。纏をしてるから、この二人もアルベルトと組んでるチームのメンバーだと目星を付けた。

「どうも。皆さんお待たせしました」

 アルベルトが気さくに挨拶して、わたしも続いて自己紹介する。偉い人を次々と紹介された。スーツの人達は内務司法省の高官や国を代表する程の政治家で、制服の人は国家憲兵隊司令官とか特別機動部隊の隊長さんとか、それはもう、肩書きだけで気圧されるような方々ばかり。あとはいかにも有能そうな専門家や実務者の皆さん。そんな人がこんな小娘に敬意を持って接してくれて、改めてプロハンターという職業の異質さを思い知った。

 世界で600人しかいない探索のスペシャリスト。ライセンスをめぐって人が死ぬ民間資格。わたしの懐に入っているどこにでもありそうなカードが、あまりに重く感じて冷や汗が出た。それでも動揺を表に出さないよう頑張った。滑稽な強がりかもしれないけど、わたしはライセンスを背負っていて、あの試験で亡くなった人も沢山いるんだ。

「そしてこちらがハンターチームのリーダー、カイト君だ。本来であればカキン国で長期契約の最中だったのだが、無理を言って一時的にこちらに廻ってもらった。私の私的な友人で、世界でも最高峰と信じるプロハンターだ」

 そう、将軍さんに紹介されたのは、細身だけど力強い印象を受ける男性だった。最高峰という評価の割にはとても若い。だけど雰囲気は針のようで、生半可な実力じゃない事がよく分かる。

「エリスです。何の経験のない未熟者ですが、どうかよろしくお願いします」
「カイトだ。世界最高峰というのは大げさだが、よろしく頼む」

 一通り挨拶が終了して、話題が本題に移る前に、将軍さんが一つ確認した。

「伝えられているとは思うが、これから説明するのは我が国の重要な機密作戦だ。もし仮に事情を聴いた上で不参加か、もしくはカイト君により不採用の判断を下された場合、失礼だが作戦終了まで軟禁させてもらう。あなたを推薦したレジーナ君は過去にも本件においても重要な功績を上げており、我が国でも多大な信頼を寄せているが、だからこそ厳正に対応したい。無論、待遇については国賓級を用意しているから安心してくれたまえ。それについてはよろしいかね?」

 あらかじめ聞いてた事だ。それを知った上でここまで来た。アルベルトを見ると頷かれた。大丈夫。緊張なんて、してない。

「はい。異論はありません。事件終息後の守秘義務についても、誠実な対応をお約束します」
「うむ。すまんがよろしくお願いする」

 口頭でのやりとりの後、何枚かの書類にサインして、報酬や義務を確認する。その上で具体的な説明がされる運びとなった。モニタに映された資料を見ながら、事件のあらましが解説される。アルベルト達が関わっていた案件。この国を騒がせている現象は、あまりに衝撃的な内容だった。

 雨が降ると人が死ぬ。

 確認されただけで、犠牲者は800人を超えていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ビルの並ぶビジネス街で、少女はひとり空を見上げた。今日の降水確率は10パーセント。穏やかに晴れた一日だった。

 春風の心地よいカフェテラスでアイスココアを飲みながら、少女はのんびりと寛いでいる。わずか200ジェニーの出費ながら、かつては想像もできなかった贅沢である。はじめて飲んだときなど、あまりの甘さに涙が溢れた。もう250ジェニーも払えば最安値のケーキセットに手が届くが、それは男に禁じられていた。あんま急に贅沢に溺れると生きる気力が無くなっちまうからよ。そんなセリフに真剣に頷いた。麻薬中毒者の哀れな末路は、少女もよく知っていた。

 服も、今は真新しいワンピースだった。どこにでもある、誰でも着るような普通の安物。それは余りに贅沢だった。男を誘う衣装ではなければ、普段着代わりのぼろでもなかった。

 幸せだな、と少女は思った。豊かなで清潔な暮らしは寝物語に聞く事こそあっても、スラムの中では夢のまた夢だった。まして、少女はあの宿から出た記憶がない。物心付いたときには拾われていて、ある程度育ったら売り物にされた。ただそれも、特筆するほどの不運ではない。少なくとも少女は食べていけた。売れ筋商品の見栄えを維持するためであろうが、腹の足しになるのは善意ではない。宿側の都合で歪だが熱心な教育も受けられて、忍び寄る麻薬からも遮断された。

 これが一人であったなら、最良でも最下層の花売りとして何度か小銭を手にした後、野垂れ死ぬのが精々だろう。最悪など、想定する事さえ無意味だった。

 だが、それでも少女は男を嫌う。その理由は主に二つあった。どんな境遇に生きようとも、人殺しだけはしなくなかったのがその一つ。もう一つは、男に自分を好くなと命じられているためである。今の少女の奥底には、奴隷としての立場が刻まれていた。自分の念だと男はいった。抱いた女を隷属させ、自在に操る能力だと。

 待ち合わせの時刻までもう少し。男は今や、少女にとって神の声の持ち主だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 わたしが絶句してる間にも、説明は淀みなく進んでいく。去年の暮れ頃から話題になった、ある一つの事件の法則。当初、連続殺人事件と考えられたそれは、不可解な点の多さから事故や自然災害の可能性まで疑われた。

 雨天集団窒息死事件。

 個人の犯行にしては規模が大きすぎ、組織的犯罪にしては形跡が残ってなさすぎる。テロリストなら、犯行声明が出てないのも奇妙だった。絞殺痕はなく、現場が屋外の例も多く、特筆すべき異常気象の痕跡も見あたらない。降っても犠牲が確認されなかった日もあったみたいだけど、確認された場合、小雨の時でも50人以上、雨脚が強かった日は200人を上回る数が亡くなっている。

 様々な対策がとられるのを嘲笑う様に、事件は場所を移しながら犠牲者をこつこつと積み上げていく。秋から冬にかけて乾燥した気候の続くこの国では、恵みの象徴だったはずの雨を凶器に代えて。

「犠牲者の数も事件による政治経済など各分野への打撃ももちろん深刻ですが、それ以上に懸念されてきたのが民衆に蔓延する恐怖そのものです。全国各地で暴動が発生した場合、最悪では社会秩序そのものへの損害すら懸念されました。我々は情報統制に腐心しつつ、大げさに見えない範囲で可能な限りの対策を講じました。捜査そのものはもちろん、諸外国への協力要請、有力な解決方法への懸賞金、科学者による対策委員会の編成。しかし……」

 進行役の人が顔を歪める。理知的な印象の、眼鏡をかけた男の人。その人が中心となって、時々専門の人の補足が入る説明は、わたしにもとても分かりやすい。画面の資料には事件の進行が表示され、犠牲者の数を表すグラフは無慈悲な右肩上がりを描いていた。

「さらに、現状で我々が直面している問題が2つあります。事件発生現場の北上、及び雨期の到来です。まず前者ですが、御覧下さい、これは事件発生現場のプロットです」

 それはランダムにふらふらしながら、北上する傾向を示していた。広域の地図が写し出される。北方、国境線の向こうには、聞き覚えのある地名があった。世界で最も異質な都市。公式な地図には掲載されてない、この世に存在しないはずの場所。流星街。

「最も近い事件現場との間隔は、50kmも離れていません。現状において当現象が流星街の領域に移動する事は避けねばならないというのが、政府内で一致した見解です。彼らに対する攻撃と見なされても、受け入れられても重大な問題となりかねません。外交的にも内政的にもです。現時点では国境警備隊の警戒度を挙げて厳戒体制を敷いておりますが、肝心の原因が判明してないので確実に阻止できるとは限りません。続いて、雨期についての問題ですが」

 あくまで淡々と、事務的に説明が続けられる。だからこそ余計に悲しかった。抽象化された愛国心と呼ばれる感情の有無は分からないけれど、郷里を愛してないわけではないだろう。その気持ちはわたしにもよく分かる。いっそ激昂してくれたなら、わたしも少しは気が楽だったのに。

「我が国には一年に2回、春と夏に雨期があります。春の雨期は期間こそ短いのですが、一度に降る雨の降水量が多く、集中的な豪雨となります。また、春の雨期が終わると初夏にかけて、湿気が多く雨の豊かな季節が訪れます」

 進行役の人が一端区切って、手元の水を口に含んだ。そして、続ける。

「現状で最も懸念されているのが雨期の到来です。例年であればあと1週間程で到来となりますが、今年の気象予測も大きなずれはなく、場合によっては数日早い可能性もあるという結果となっております。雨期より前に事件解決の確証を得る事。それが国家全体の急務でした。が、成果は得られず、時間のみが経過していきました。私達には時間がありませんでした」

 そこからは、進行役の人に代わって将軍さんが説明を引き継いだ。

「そこで我々はプロハンターに直接依頼し、国権の一部を一時的に委ねる事により事態の抜本的解決を図った。カイト君を筆頭に、メンバーは過去、この国に大きな貢献を果たしてくれた人物から厳選した。事件の性質と行使してもらう権限の大きさから人数は最小限の少数精鋭。しかし、従来の懸賞金によるハントの推奨ではない。この国の警察組織である国家憲兵隊に対する最優先命令権を極秘に与え、従来の捜査班も全面的に指揮下に入った。超法規的措置の黙認も密約された。この国の司法は現状、実質的に彼らの手中にある。無論、これも極秘事項だが。
 1ヶ月にも満たない期間だが、彼らはよくやってくれている。素晴らしい成果をあげてくれた。だが、もうすぐ春の雨期だ。もう1ヶ月早く依頼できなかったのは、ひとえに我々の無能さによるのだろう。ならば、泥は我々がかぶるべきだ」

 わたしは辺りを見渡した。色々あったんだと思う。誰も彼もが苦虫を噛み潰したような顔をしてる。その胸の内にあるものまでは、正確に読み取る事はできないけれど。

「さて。ここからは極秘事項中の極秘事項だ。皆、すまないが退室してくれたまえ」

 そういう段取りだったんだと思う。ハンターと将軍さん以外の人達が、ぞろぞろと退出していった。部屋が一気にしんとする。普通の人に話せない話題。それは、きっと。

「改めて自己紹介しよう。国家憲兵隊司令官ワルスカだ。階級は憲兵大将。念能力は使えないが、その存在は先日カイト君から告げられた。この世には、不思議な力があるらしいな」

 それにわたしも頷いた。この事件も十中八九、聞いた話から、わたしも念能力者の仕業だと考えていた。自然現象より遥かに画一的で、唐突に現れた謎の現象。人が生身で起こすには大規模すぎるし、何より手段が不可解だから。

 次は、カイトさんがハンターチームによる調査結果を説明してくれた。

「オレ達が調査した結果、被害者の遺体には口元に微かにオーラの痕跡が見つかった。そこから推測すると、何らかの柔らかい物体で口と鼻を塞ぎ、呼吸を阻害したものと思われる。推測するならば操作系か具現化系の能力者。雨の日のみ事件が発生するのは、能力の規模から見て目くらましではなく制約の可能性が高い。雨や水に強い思い入れのある人物だろう。
 これらの特徴を元にハンターサイトで情報を徹底的に洗ったが、該当する能力を持つ人物はいなかった。また、かなり特徴的な能力ながら過去の事例を見てもこれに類する殺害方法は一つも見つかっていない。これは犯人が表に出て日が浅いか、ごく最近能力に覚醒した者である可能性が高いことを示している。
 だが、それにしては念の使い方がさまになりすぎている。事件発生当初から能力が実用段階にあっただけではない。使うタイミング、隠し方。素人が偶然開眼したにしてはできすぎだ。しかし熟練した能力者が教授したと考えると、それもまた不自然な点が多い。特に問題なのは事件の目的だ。なぜこんな発を修得したのか、どんな目的で使っているのか、動機が全く推測できない。念を使い慣れた者の思考ではないな」

 カイトさんの言う事はもっともだと思う。これだけの事件を起こしておいて、何の目的もないと言うのはおかしすぎる。念とは一生付いてまわる力だから。かといって念が使えるから使った、人が殺せるから殺したという犯行そのものが目的だったにしては、手口が洗練されすぎてる気がした。

「だがな、実は弟子にそんな馬鹿げた使い方をさせそうな人物に心当たりがあった。通称『こそ泥のビリー』。そこそこ有名だから君も知ってるかもな」
「いえ、初耳です」
「そうか。こいつはいくつかの偽名を好んで使い、本名は不明。その本質は渾名の通り、世界一頭の悪いこそ泥だ。はじめはただの直感だったが、ハンターサイトで調べた所、この半年間に国内で確認された痕跡情報が3件あった。入国記録はないから密入国だろう。
 裏付けではアルベルトが活躍してくれた。事件が起きた現場近くを縄張りにする場末の街頭娼婦を片っ端から篭絡してくれてな。おかげで彼女達が憲兵には決して話さないような情報をふんだんに入手できた。もっとも犯行時刻前後に立っていた奴は全員死んでいるわけだが、それでも事件後に周辺の建物に忍び込むビリーらしき男の目撃情報をいくつか得た。その結果を分析して、オレ達は事件にこの男が関わっていると断定した。
 奴はな、つまらない窃盗の為なら何人でも殺す、そんな気の狂った犯罪者だ。目的と手段が逆転してるだけでなく、程度というものを全く知らん。一回に盗む金額は数万ジェニーから精々数十万ジェニー。それ以上の金銭や貴金属が目の前に転がっていても見向きもしない。だが、その数十万ジェニーの為なら大金持ちの屋敷に入り込んで全員惨殺ぐらいは朝飯前にやってのける。
 ただのこそ泥と、それに附随する罪状だけでA級賞金首に指定された男。あまりに馬鹿馬鹿しいが、被害を受ける方としてはたまったもんじゃない。そして何より厄介なのが、奴の実力は本物だという事だ」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「相変わらず最低ですね、マスター」

 2時間も遅刻して悪びれずに座った男を、少女は冷たい目で出迎えた。歳の頃は20歳ほど。健康的に日焼けした肌に短く刈った金髪をのせ、お馴染みとなった安っぽい服に身を包んでいる。そんな男の袖の辺りに、小さく染み付いた血痕があった。どうせまた、いつもの娯楽のためだろう。

「だから娯楽じゃねーよ。仕事だって。俺様自慢のライフワークだぜ。いやそれがな、ここに来る途中でいい形の窓がある家を見つけちまったからよ、懐も軽くなってたし、ついついひと汗流しちまった。ありゃ俺を誘うために建てたとしか考えられんな」

 男は軽薄に笑いながら、アイスコーヒーの氷をガリガリ噛み砕いた。よくあんな苦い飲み物を注文できるものだと少女は思った。一度だけ飲ませてもらったが、美味しいとは微塵も思えなかった。もっと苦いもの、まずいものはいくらでも口にした経験のある少女だが、男はあれを嗜好品として楽しんでいるらしい。はっきり言ってありえない。だから頭がおかしくなるんだと結論付けた。

「で、それよりこれからどうするんです? 世間では雨期の到来について大騒ぎですが」

 少女は読んでいた新聞を見せた。そこでは降水量と犠牲者を比例させた予測がショッキングに舞い踊り、政府の無能さを批判する論調であふれている。数万人規模の犠牲というのは少々大げさすぎる気もするが、二次被害も含めれば、あるいは不可能な数字ではないのかもしれない。富裕層の国外脱出も目立ってきているようだった。

「ん? あー、どうすっかな」

 男はぼりぼりと頭をかき、どうでもよさそうに考えている。この場で天秤にかけられているのは、少女の命そのものだった。雨期の豪雨の中で能力を発動させれば、それは大いに目立つだろう。予測される被害を鑑みれば、当局もこれまで以上の強行姿勢をとるはずだった。どう考えても、虐殺を実行する役である少女が生き残れる道理がない。

「実はな、正直言って迷ってる。別にお前を使い捨てにしてもいいんだが、火事場泥棒にも飽きてきたしな。最後に一発でかい花火を打ち上げるか、別の国にでも行って、もうちょっとお前を引っ張りまわすか。ま、そのときの気分次第ってとこか」

 青く澄んだ目で見据えられる。少女はこれが苦手だった。男の方が十も年上だというのに、何故か年下に感じるから。

「私としては、今すぐ解放してくれるのが一番嬉しいんですがね。あるいはマスターが死んでくれてもいいですよ」

 掛け値無しの本音でそういうと、男は嬉しそうに微笑んだ。変態だ。少女は改めて実感した。女を人形にできるこの男は、人形同然の女が嫌いらしい。少女の好意に、あるいは嫌悪に、男に対する媚が少しでも浮き出た瞬間、あっさりと廃棄処分されるだろう。少女の、他者が自分へ向ける感情に対する優れた嗅覚が、それが正しいと告げていた。

「しょうがねーな。気が向いたら考えといてやるよ。ま、あれだ。逃げ出そうとはしない事だな。俺の系統は知ってるだろ、おい」

 言って、残り少ないアイスコーヒーを男は掲げた。その色が見る見る赤くなる。真っ赤なコーヒーは余計にまずそうだなと、少女はどうでもいい事を考えた。

「教えた通り、水の色が変わるのは放出系だ。俺の能力は複雑な操作こそできないが、その有効範囲には自信がある。昔試したから断言できるぜ。地球の裏側に行っても解除はされねえ。どうしても逃げたければ、ははっ、月行きの宇宙船にでも乗ってみるんだな」

 赤いアイスコーヒーをテーブルに置くと、男は鋭く静かに、力を込めて囁いた。

「何にせよ。お前は俺には逆らえねぇ」

 その通りだった。言葉の持つ意味が少女に深く染み込んでくる。既に嫌と言う程実感していたが、彼女はこの男に逆らえない。それが絶対の事実だった。故に、頷く必要すらないのだった。男はそれに満足したのか、伝票を手にして立ち上がった。

「そろそろ出るぞ。ひと仕事終えたせいか血が騒いでな。適当に女買ってくるからお前はアジトに戻ってろ。なんかあったらいつもの方法で連絡するからすぐ来いよ」

 どうせまた自分が遅刻するだろうに、男は少女に念を押す。が、気が変ったのか、男は前言を翻した。

「もったいねぇからお前で済ますか。今日は晴れてるし、別にいいだろ?」

 決して断れないと知りながら、ヘラヘラ笑って要求された。最低すぎると少女は思った。だが、売春宿にいた時と違い、客に媚びる必要はない。少女は微塵も遠慮せずに、心底軽蔑した視線で睨み付けた。

「どうぞご随意に。マイマスター」

 余計な事は言わなくていい。言っても男を喜ばせるだけだ。そんな少女の内心を察したのか、男は嬉しそうに頭を撫でる。わしゃわしゃと無駄に力強く、少女が嫌いな撫で方だった。会計を済ませ、二人並んで街路を歩く。しかしふと、男は何か引っ掛かったのか立ち止まった。

「そのマスターっての、そろそろ変えねえか? いや、面白がってそう呼ばせたのは俺だけどよ、なんか飽きてきた気がするわ。普通に呼んでいいぜ」
「そう言われても、マスター、私は貴方の名前すら知らないのですが」

 一瞬の沈黙。ぽかんと惚けた数秒後、男は突然笑い出した。それは楽しそうに笑い出した。自分勝手な大股で歩く男の後ろを、少女は早歩きでついていった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「だが、カイト君がそこまで辿り着いてくれたと言うのに、我々は別の方針を立てる必要に迫られた。先ほど説明した通り、時間の逼迫が原因だ。従来の捜査と並行して雨期に犯行が行われた際の反攻作戦も準備せざるを得ない時期に来てしまったのだからな。秘匿名称『第4の段階』。ミス・エリス。あなたを招いたのは他でもない。その作戦の要になってもらいたいからだ」

 将軍さんの重い眼光がわたしを見据える。とても重大な役割だった。手の中にうっすらと汗をかいた。だけど、わたしがいればアルベルトが残りの時間も操作に専念しやすくなら、それを彼が望んでいるなら、迷う理由なんてあるはずなかった。それだけじゃない。事件のあらましを聞いて、わたしも……。

「作戦は我が国が誇る虎の子の最新鋭高速飛行艦によりハンターチームを強襲させる事を主眼にしている。
 このため、雨期の到来までに解決できなかった場合、我々は陸軍空挺師団を投入する事を決めた。国内各所に展開させ、事件が発生した都市を即座に強襲し、ハンターチームが到着するまで犯人の拘束を試みる。この際、該当エリアの住民の安全は優先順位が低くなってしまう事はあらかじめ了解してもらいたい。
 犯人の逃走、特に瞬間移動系の放出系能力者による救援を考慮し、作戦は時間との戦いになる。故に求められるのは確実な決定力。ハンターチームの検討により、作戦の性質上最善であるのが強力な念能力者を遠距離からの一撃で確実に撃破する優れた火力であると判断された。これに該当するのがあなたの能力だという事だ。次善としては単純に決定力に長ける能力者。これは接近型でも止む終えない。
 そこであなたに問いたい。今私が話した任務は、あなたの念能力で可能だろうか?」

 将軍さんの熱い視線が、ハンター達の鋭い眼差しがわたし一身に集中する。わたしはアルベルトを見て、アルベルトもわたしを見据えていた。大丈夫。この人がいてくれれば強くあれる。

「目視できれば可能です。遠距離狙撃はチャージと収束に1分程かかりますが、撃てば外れる事はないでしょう」

 アルベルトと一緒にいたいからだけじゃない。この事件の解決をわたしが手伝いたい。そう思った。誰かを手にかけた経験はないけれど、それはとても怖いけれど、きっとこれは、わたしにしかできない事だから。

 しばらくわたしの目を覗き込んだ後で、将軍さんはほっとした様に力を抜いた。

「その言葉だけで十分だ。我が国はあなたを全面的に支援しよう。あとはハンターチーム内で検討してくれたまえ。必要なものがあれば遠慮なく言ってほしい。可能な限り手を尽くそう。
 今や国民の不安と政府に対する不信は最高潮にある。加えてこの強引な対処。たとえ解決したと発表しても、生半可な方法では納得してはもらえないだろう。かえって混乱を招くだけかもしれない。国民を混乱させる事は容易いが、混乱を収める事は難しい。時間という手段を抜きにしては。
 しかし、プロハンターならそれができる。彼らとハンター協会の優れた実力に対する世間一般の信頼は信仰の域にある。例え突然現れた不思議な人物が事件を不思議な手段で解決したと発表したとしても、主体がハンターであれば説得力を持つ。否、それだけで国民は納得できる。我々がプロハンターに期待する理由は念に対して最高の対処能力をもつが故のみではない。事件解決後も見据えた最高の解決役だと信じるからだ。
 だから、貴方に余計なプレッシャーをかけるつもりではないが、どうかこの国を救ってもらいたい。この通りだ」

 深々と、本当に深々と頭を下げられた。父さんと同じかそれより年上の男の人が、こんなに真剣に。だけど、わたしはそれを黙って受け入れた。この人の行為を否定するのは、かえって失礼な気がしたから。

「一つだけ、伺わせて下さい」

 私に聞かせられない話もあるだろう、後は専門家に任せると言って、一人先に退出しようとする将軍さんにわたしは聞いた。

「なにかね?」
「第4の段階があるのなら、第5の段階もあるのですか?」
「第5段階は全軍を動員した重戒厳令および殲滅戦になる。たとえ国中を灰燼にせしめ跡地をコンクリートで埋め固めようとも、我々は全ての禍根を根絶する覚悟だ」



次回 第十話「逆十字の男」



[28467] 第十話「逆十字の男」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 23:00
 怖いほど人がいない地下シューティングレンジの真ん中で、わたしは目標を確認した。1000メートル先の人型のターゲットを、人だと思って打ち砕け。カイトさんが最初に出した指示だった。

 これは試験。わたしにとってはじめての練。見守るのはハンターチームの人達だけ。リーダーのカイトさん。セクシーなスーツ姿で、いかにもできる女性って感じのパクノダさん。剃髪で逞しいジャッキーさん。そしてアルベルトの計4名。大勢が同時に射撃できる広い空間はがらんとして、だけど満たされた存在感は寂寥を感じさせてくれなかった。

 ポシェットの上から卵の感触を確認して、父さんとアルベルトがくれた大切なお守りの存在に安心する。胸の中にわだかまっていた不安がすっと、卵に吸い込まれていく心地がした。よし、大丈夫。わたしはきっとやれるはずだ。心の中で拳を握って気合いを入れて、この身に施す纏を解いた。

 解き放たれたオーラがドレスを揺らす。血が騒ぐ。意識が熱で浮かされていく。こめかみが少しズギンとした。粘性のある、ドロリとした害意が臓腑から込み上げる。翼の具現化には未だ慣れない。だけど、もうあんな思いはこりごりだから。

 パクノダさんが少し顔をしかめる。この人とは、更衣室で少し話をした。彼女の鋭い視線は少し怖かったりもしたけれど、実際に接してみると意外に気さくでいい人みたい。

 わたしの能力についてもほんの触りだけ話しておいたけど、とても信じられないようだった。でも、それが今から実演される。

 まとわりつくオーラがタールのようだ。体中が純粋に、ただ、痛い。不可視の雷が全身の神経を迸って、痛覚だけが火花を散らす。あまりの痛さに、骨という骨がゴリゴリ削れる気がした。だけど、これもいつもの事。結界が壊れたあの日から、月に一度は経験している。だから平気。耐えられる。顔に出してアルベルトを心配させるようなへまはしない。そよ風に吹かれる様に涼やかに、わたしはオーラの中に立っていられる。それでも、痛い事には変わりなくて。

 飢饉、戦乱、黒死病。

 信仰、社会、寒い冬、どうでもいい死。

 殺人、強奪、陵辱。害意、害意、人間、人間、人間。

 降り積もり濃縮された怨念がわたしに訴える。辛いと。ただ、助けてと。幾重にも伸ばされた誰かの腕がわたしの心に縋り付く。これはとても無垢な願い。生まれたての赤ん坊の様に、ただひたすらに純粋で。抱き締めてくれる人を探して辺り一帯を奔走する。

 苦しみを訴えるオーラと一緒に、頭の中に唄が溢れる。じんわりと優しく、透き通った神聖な旋律。希望の、慈愛の、渇望の詩。人の世を普く照らそうとするそれはとても綺麗な声で、とても純真な救いだけれど。

 ごめんなさい。わたしはそれを願えない。

 心に溢れるタールの奥底、赤い気配に鼓動を重ねる。あの夜に掴んだ感覚のとおり、わたしを飲み込もうとする声ではなく、礎にされた願いの方に。力ずくの制御はもう要らない。自分の中の深い場所で、わたしは喉を震わせた。声帯。意思を伝える器官の名前。その存在理由はとてもシンプル。隣にいる人に、ただ一言を告げたくて。

 はじまりの枷は三つ。

 太古、温もりを欲した動物がいた。

 独りは、とても悲しかった。だから。

 わたしの欲望に呼応して、背中に赤い翼が具現化される。自然と、この手を伸ばしていた。脳裡に浮かぶのは一人だけ。だけど、百億のわたしが、千億の誰かを求めて手を伸ばす。千億の手と願いを重ねて、たった一つの意味を吟じる。

 愛別離苦。数多の星霜の果てでさえも、ヒトはこの手を伸ばすだろう。ただ一言を聞いてほしくて、わたしは喉を涸らすだろう。ずっと叫び続けたいと、滑稽な永遠を、限り無い欲望で求めるだろう。例え、その果てに不可避の別れが待ち受けてるとしても。

 それは決して救いではない。むしろ、苦しみをまた一つ重ねるだけ。それでも、ヒトは。

 掌にオーラが収束する。ターゲットに心で照準して、胸の内で言霊を唱えた。……ねえ、アルベルト。

『わたしは、ここにいます』

 はじまりの枷は三つ。彼方へ、赤い閃光が貫いた。



「これは……、正直想像以上だな」

 カイトさんが目を見開いて言った。1000m先のターゲットを文字通り蒸発させたわたしの能力は、ハンターチームの人達に驚きを持って迎えられた。アルベルトだけは、わたしを心配そうに見てくれてるけれど。

 将軍さんが退出した後、会議室に残ったわたしとチームの人達は、近くにあった地下シューティングレンジへ向かった。作戦の前提となるわたしの練を見るために。

 わたしの能力を知る人間を最小限に留めるため、地下レンジは人払いが済んでいた。もとより、念という怪奇現象を大っぴらにできるはずもない。おかげで大勢の人に注目される事はなかったけれど、歴戦のハンター達の視線は想像以上に重たかった。存在感に背中を押される様に放った能力はすこし力が入りすぎてしまったようで、それでも、ターゲット奥の壁を半壊させただけで済んだのは幸いだった。

「うむ。見事」

 腕組みしたジャッキーさんが重々しく頷いた。パクノダさんはターゲット跡地を無言でじっと見つめている。いつの間にか側に来ていたアルベルトが、わたしの頭をぽんと撫でた。それだけで十分すぎるご褒美だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ブラインドから差し込む朝日で目を覚ました。寝汗と、寝る前の汗にまみれた体を気怠げにシーツにくるませて、少女はベッドから身を起こした。見ると、男は隣で拳銃の手入れをしている。裸の上半身を晒し、安物の紙巻きを口にくわえながらの作業は妙に板についていた。少女は詳しくなかったが、多分リボルバーというやつだろう。黒光りする蜂の巣状の部品を丹念に掃除するその姿は、不覚ながら少し格好いいと思ってしまった。

「ん、起きたか? ほれ」

 差し出されたのはティーカップだった。中には黒い液体が半分ほど注がれ、湯気を立ち上らせている。鼻をくすぐるのはあの苦い泥水の匂いだった。脳裡に苦味が蘇る。少女は頬を引き釣らせながら、ベッドにこぼさないよう、両手でそれを受け取った。

「飲めと?」

 コーヒーを膝の上に置いて、少女は男を睨み付けた。彼女が嫌いな苦い飲料。それも、ひどく熱い。少女は軽い猫舌だった。自然に、ゆっくり冷ましながら飲む羽目になる。少女は男の嗜虐趣味に辟易した。じっくり味わえという事だろう。

「飲めといわれれば飲みますが、……命令なら、逆らえませんし」

 そう、命令といわれれば仕方ない。だが、しかし、これに比べれば例の白濁した液体の方がまだ飲み下しやすいと少女は思った。少なくともそちらの方が飲み慣れていた。微かに波打つ水面をじっと眺める。唾と、嫌な記憶が口の中に溢れた。そんな百面相が面白かったのか、男は軽く吹き出した。

「ほらよ、これでいいんだろう?」

 膝の上のカップに、角砂糖が2つ、ミルクをなみなみと追加された。黒から茶色に変化した液体をスプーンで数度かき混ぜて、男は再度少女を促す。少女はそれに困惑した。このような飲み方など、知らない。そもそも高価な白い砂糖を、苦い飲み物にわざわざ入れるなど気が狂っている。

「マスター?」
「いいから、飲んでみろ」

 軽く、ぽんと頭を叩かれた。男の笑みが癪に触った。なんだか、妙に子供扱いされてる気がしたのだ。昨晩は、あんなに少女を求めたくせに。

 ままよ、と少女は液体を口に含んだ。冷たいミルクを足したからだろう。温度は大分冷めていた。そして少女は驚いた。ほわりと甘く、優しい苦味がそこにあった。体の芯にこびり付いていた疲れが、静かに溶けていく気がした。賢しげな感想はいらない。ただ、美味しいと、そう思った。隣で得意げに微笑む男には心底むかついたが、最早そんな事はどうでも良かった。再びカップに口を付けて、このまま蕩けてしまってもいいと本気で思った。

 しばし無言の時がすぎた。男は銃の手入れを再開している。少女は、自分の肌より少し濃い茶色の飲み物、それをちびちびと舐めていた。

 甘いものを口にして機嫌が良くなると不思議なもので、拳銃を弄くる男の、少年の様なキラキラした瞳が少し可愛く感じてくる。いつもは落ち着きがないと思い、内心で軽蔑していたというのに。意外に現金だったんだな、と、少女は自分を省みた。

 洗濯も掃除も何もせず、ベッドの上で無為に過ごす朝は柔らかかった。

「そういえば」

 少女は男に話し掛けた。その事に驚いたのは少女自身だった。どうして自分は、男に親しげに話し掛けているのだろう。どうでもいい雑談をしたいと思ったのだろう。頭のどこかで冷静に混乱しつつも、思考は高速で回転する。それでも、少女には理由が分からなかった。

「あん?」

 だというのに、男は無頓着に返事をする。

「……いえ、どうして銃なのかなって思いまして。放出系なら、以前教わった念弾という武器があるのでしょう? ……つまらない話です。本当に、何でこんな」
「ああ、これな。なに、大した理由じゃねーよ。俺が男で、こいつが拳銃だからだ」
「は?」

 ぼそぼそと呟いた後半も、男には聞こえていただろう。しかし、それは綺麗に無視された。男の真意は気になったが、しかし今は回答の方が信じられなかった。あまりにおかしい。思わず、少女は間抜けな声を上げる。

「男根なんだよ、こいつは、男にとっちゃな」

 よし、わからない。大丈夫。少女は自分の正気を確認した。モヤモヤした胸の内も一気に晴れた。ついでに少女の中で男共という生き物の定義が上書きされた。そんな内心を知ってか知らずか、男は微妙な顔で少女を見つめる。

「んな顔すんなよ。真面目な話だぜ。いいか? 心理学的にはな、これは男のシンボルだ。理想化された、本物より遥かに都合がいい、な」

 言って、男は組み上がった拳銃を構えてみせた。黒光りする銃身が朝日に光る。端整な、絵画になりそうなシルエット。弾倉は全く空だったが、それでも引き金に手をかけない慎重さは、どこか上品な印象を与えていた。男の粗野な本性を、少女はいくらでも知ってたというのに。

「こいつは太く硬く萎えもしない。弾さえあればいくらでも射精できる。撃てば、轟音と快感をもたらしてくれる。男にとって理想的な、まさにもう一つの相棒さ。これを片手に盗みを働く。それが俺のライフスタイルだ。だから銃は手放せねぇ」

 そんな性器あったらたまらないなと、少女は心底で貯め息を吐いた。大体男という連中は、逞しければそれが正義だと、女が悦ぶと思ってる輩が多すぎる。かつて娼婦達もよく愚痴っていたが、原始人としての価値観をこの現代まで引きずっているのだろう。そんなものは、少女としては是非とも、洞窟の中に置き忘れて来てほしかった。

「男根の象徴はナイフでもいいが、拳銃の方がより原型に忠実だ、お上品なオートより、単純堅牢なリボルバーがいい。口径はもちろん大きめの奴だ。こいつを、金玉の重さを感じながら構えて撃つ。そのロマンが分からない野郎はカマだろうぜ」

 男は渋く笑って決めたが、言ってる事はあんまりだった。少女は深く深く溜め息をついて、思ったままの感想を吐き出した。

「……幼稚すぎます。子供じゃ、ないんですから」
「だろうな。だがよ、男って大体そんなもんだぜ」

 自分は何でこんな男と臥所を共にしてるのだろう。シーツ1枚で語り合っているのだろう。少女は苦々しく感じながら、とっくに空になったカップをサイドテーブルへ置いて言った。

「大体なんでこそ泥なんですか、マスター。貴方ならいくらでも高価なものを盗めるでしょうし、その気になれば表の世界で真っ当に活躍する事も容易いでしょうに」
「そりゃ、それが一番好きな生き方だからだ。お前にもあるだろ?そういうの」

 男に振られて、少女はどう答えていいか戸惑った。自分の奥深くをえぐられた気がして、どうにかして誤摩化したいと、そう思った。しかし結局、嘘をつく事すらできなかったので、ただ正直に洩らしていた。

「私は、わかりません。わからないんです。考えた事、なかったから」
「そっか。ま、そいうのもありだろうさ」

 深く追求されはしなかった。男は拳銃をホルダーにしまい、工具と共に少女に渡してサイドテーブルの上に置かせた。はじめて手にした拳銃は意外に重く、凶器としての存在感を主張していた。

「俺の能力、な」

 珍しく、男はポツリと静かに語った。

「……つまらないんだよ。調子に乗って作ったはいいけどよ、やっぱ俺はガキだったんだな。最初は荒稼ぎしていい気になってたもんだが、数年してすっかり冷めちまった。応用力がありすぎるんだよな。何でも出来ちまうんだ、この能力は。だから結局、普通に使えば人生をつまらなくする方向にしか役立たねぇ」

 深々と男は紙巻きを吸い、紫煙を部屋一杯に吐き出した。吸い殻を、乱暴な手つきで灰皿に押し付ける。少女の肩を抱き寄せて、首筋に唇を埋めて言った。

「まあいいや。今のは忘れろ。いいな」
「はい、忘れます」

 男の声が深く染み込む。少女はそれに従って、ここ数秒の記憶を無意識の底にしまい込んだ。少し眠いなと、そのときの彼女は自覚した。背中に回される男の腕が、力が入りすぎてちょっと苦しい。安物のパイプベッドがギシリと軋み、銀色の長い髪がシーツに広がった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 熱したフライパンには油をしかず、厚めに切ったベーコンをカリカリに焼いた。それを取り出し、残った肉汁にひと欠片のバターを溶かして、刻んだタマネギをさっと炒める。甘く香ばしい匂いがキッチンに広がって、アルベルトがキッチンに視線をくれた。二人で食べる久しぶりの朝食に、今からうきうきが止まらない。タマネギが透明になった辺りで、味付けした溶き卵を流し込んだ。宛てがわれた地下司令部の一室は無機質で、素敵なムードからは程遠いけど。

 昨日見せた練の結果、わたしの採用が決定した。そのまま各種の説明を受け、飛行艦の艦長さん達と顔合わせをして、気が付けば深夜になっていた。アルベルトはあの後すぐに調査の方にかかり切りになってしまったから、こうして一緒に摂れる朝食の時間が、いつになく貴重に感じてしまう。

 わたしの能力についてもう少し踏み込んだ説明は、カイトさんにだけしておいた。ハンターチームのメンバーの中でも、あの人は特に信頼できるという印象を受けたけど、なによりアルベルトから押された太鼓判が心強かったから。

 とろりと固まったスクランブルエッグをお皿に移して、ベーコンとサラダ、牛乳をたっぷり入れたコーンスープと一緒にテーブルに並べる。焼いたバゲットパンにはバターを塗って、二人分のコーヒーを用意した。アルベルトはブラック、わたしは砂糖一つにミルクを少しで。このまま朝食にしてもいいんだけど、アルベルトも朝早くから幾つもの資料を広げて情報の整理に余念がないようだし、エプロンを外す前に洗い物を済ませてしまうことにした。

「ちょっといいかな、エリス」
「なに?」

 洗い物を終え、食卓に付いたときだった。アルベルトも重たかった腰を上げて食卓までやってきて、目の前の食事に取りかかろうとしていた。だけど、きっと頭の中は半分ぐらい、資料に振り分けられているんだろうなと思っていた。

「この任務の間、周りをよく観察して、よく、憶えておいて欲しい」
「ハンターの仕事を?」

 問うと、アルベルトは真剣な目で頷いた。

「それもある。だけどもっと具体的に、軍と、国家と、ブラックリストハンターの仕事をだよ」
「それはもちろんよ。だって父さんとアルベルトが生きてきた世界なんですもの」

 わたしの返答が気に入ったのか、アルベルトは嬉しそうに微笑んだ。

「せっかくハンター試験に合格したんだ。どうせなら一般的な社会通念における善行、それもできるだけ大きな組織やたくさんの人に恩を売れるハントがしたかったし、エリスにも経験してもらいたかった。その観点から見ると、今回の仕事は実に都合がいい。上手くやれば、エリスの立場は、今よりずっと強固になるだろう。
 ……結局の所、僕に大切なのはそれなんだ。エリスは優しいから善意とか義憤とかを感じているかもしれないし、それは全く正しい事なんだけど、僕にとってこのハントには、失敗も一つの選択肢として存在してる。リスクとリターン次第では、僕はこの国を見捨てるだろう。
 他のハンターも大なり小なりそんな感じさ。やれる範囲では手を尽くすけど、やれない範囲からはすっぱりと手を引く。それができないブラックリストハンターは早死にするだけだからね。ハンター試験の時だって、僕はイルミを見逃しただろう? あの後、彼は殺しの仕事を控えてたって言うのに。ジャッキーは、彼だけはちょっと例外だろうけど」

 いつもと変わらないアルベルトの声。普段通りのその表情。まるで夕食の献立を話題にしてるみたい。なのに不思議と厳かで、わたしの心を釘付けにした。

「だから、エリス。ハントを経験すると、この業界の光と闇が見えてくると思う。ハンターという人種がどういうものが、肌で感じていけると思う。その上で改めて君が願うなら、僕はハンターをやめてもいい。でも、仮にこの世界で生きていけるというのなら」

 アルベルトがコーヒーで喉を潤して、気負った様子もなく言葉を繋いだ。

「ブラックリストハンターでなくてもいい。二人でハンター家業を始めよう」

 結論はいつでもいい。焦って出す必要はないからね、とアルベルトは微笑んだ。わたしは頭が真っ白だった。たぶん、表情も間抜けだったと思う。よだれぐらいは垂らしたかもしれない。もし誰かがこの様子を盗撮していたというのなら、世界を滅ぼしても悔いはなかった。

 それぐらい。

「……嬉しい」

 それだけ、絞り出すのが精一杯。本当に、ただひたすらに嬉しくて。それができるといいなって、心の底から願ってしまった。

「あまり綺麗な仕事じゃないから、申し訳ないけどね」
「それは、アルベルトが、優しいからよ」
「僕が?」
「ええ、アルベルトは優しいわ。わたしなんかより、ずっと、ずっと」

 掛け値なしの本音でわたしは言った。いつになく穏やかな気持ちだった、目の前には湯気を立てる朝食がある。今からアルベルトと一緒に頂いて、ソファーに並んでほんの少しの食休みができるなら、どんな激務だって天国になる。胸元がとても暖かくて、自然とそう確信できた。

「エリス、最後に一つだけ、これだけは踏まえておいてくれないか」

 アルベルトが言った。浮かれすぎたわたしをたしなめる様に、すっと、心臓に氷の刃を突き刺された。

「もしかすると彼らが、いや、今の僕達と同じ立場の人間が、君を狙う事になる可能性もあるという事を」



 朝の打ち合わせが始まるまで時間に余裕があったから、地下司令部併設の女性士官用シャワー室を借りて汗を流す事にした。本当はアルベルトと一緒に入りたかったけど、さすがにそこまで我が侭は言わない。

「あ、おはようございます」
「あら、おはよう」

 脱衣室でばったり出くわしたのは、ちょうど出てきたパクノダさんだった。体にバスタオルを巻き付けて、髪を塗らす水気を別のタオルに吸わせている。会って丸一日も経ってないけど、わたしはこの人に好感をもっていた。にっこり微笑む表情から何気ない仕種まで嫌味のない余裕がにじみ出てて、話してみると距離感の取り方もとても上手い。これが大人の魅力ってものなんだろうなと憧れてしまう。

「どう? よく眠れた?」
「はい、おかげさまで。パクノダさんは?」
「あたし? あたしは昨日も徹夜だったわ。まったく、この歳になると肌にすぐ響くから困るのよね」

 ため息をついて苦笑するパクノダさん。肩をすくめた時、タオルの向こうで大きな胸が柔らかく揺れたけど、それを羨ましいとは思ってない。ええ、断じて。わたしだって、もうちょっとでCに届きそうなぐらいはあるんだから。うん、多分、もうちょっとで。

「確か、あの後はジャッキーさんと外まわりでしたよね」
「ええ、何件か気になる情報が入っていたから、その確認に行ったわ。収穫はあまりなかったけど」

 パクノダさんはバスタオルを巻いた姿のまま、脱衣室の椅子に腰をおろした。微かだけど、鈍さが感じられる動作だった。少し疲れてるのかもしれない。それもそうだろう。幾つもの都市を飛行船で飛び回るのは大変な仕事なのに、その上で収穫が乏しければ熟練ハンターでも負担に感じてしまうんだと思う。

「で、今日もまたその続きよ。ほんと、嫌になるわね」

 わたしも服を脱ぎながら、頷いてパクノダさんにあいづちを打った。

「あ、そうそう。あなた、黒いコートの男に心当たりはない? 白いファーを盛大に逆立てて、背中に大きな逆十字を背負ってるの。二十代中頃ぐらいの男性で、髪は黒でオールバック」
「……えっと、暴走族の方、ですか?」
「だったら良かったんだけどね」

 若干引くわたしに苦笑して、パクノダさんは説明してくれた。男性の格好に、彼女はあまり違和感を感じてないみたい。思い返してみるとヒソカやイルミさんも奇抜な格好をしていたし、ハンターの人達の基準ではわりと普通の変態さんなのかもしれない。あの状況をドレスで通したわたしも周りから同類に見られてるかもという考えが一瞬浮かんだけど、絶対、気の迷いだ。レオリオさんだって、スーツだったし。

「詳しくはこの後の打ち合わせで報告するけど、ここ数日、いくつかの街で不審者の目撃情報が上がってるの。貧民街を中心に回ってるらしくて、当然、そこを縄張りにする連中とトラブルになってるんだけど、人間離れした身体能力で蹂躙してるみたい。動きがかなり派手だから、誰かを急いで捜しているのか、誰かに見つかるのを待っているのか、その両方かとあたしは見てるわ」
「そうですか。ごめんなさい。残念ですけど、わたしに心当たりはないみたいです。わたしが知るハンターの人達は、同期と父の知り合いとお弟子さんぐらいですし」
「そう。いいのよ。あたしもジャッキーも見当つかないんだから。カイトとアルベルトにも聞いてみましょう。彼ら、顔が広いから」
「ええ、そうですね」

 優しく微笑むパクノダさんに同意して、脱いだ服と下着を畳んだ。さてシャワーを浴びようと思ったけど、その前にふと、疑問に思った事を尋ねてみた。

「服、着ないんですか? さっきからずっと、バスタオルを巻いたままですけど」
「……ごめんなさい、昔から肌を見せるのは得意じゃないの。特に背中は、あたし自身にも見せたくないぐらいよ。……何故かは、自分でもよく分からないのだけれど」
「いえ、わたしの方こそごめんなさい。嫌な事伺ってしまいましたね」
「真面目ね。気にする必要はないわ」

 気分を害した様子もなく、わたしの不作法を笑顔で許してくれたパクノダさんはやっぱりいい人だと思う。胸元がとても大胆な服を着ていた彼女のセリフにしては違和感があったけど、まあ、感性というものは人それぞれなんだろう。



 鋭い銀色。細長く洗練された、風を切り裂くための流麗なフォルム。広く雑然とした整備ハンガーの中、わたしの目の前に横たわる巨体は、周囲を這いずる矮小な人間など知らぬとばかりに悠然と浮かんでいる。

 空中衝角艦サンダーチャイルド。彼女が、今回の作戦でわたしが乗る飛行艦だった。これから昨日紹介された艦長さんに館内を一通り案内してもらって、スペックなどについて解説を受ける。それが今日の午前中の予定だった。いざという時、どんな情報が役に立つか分からないから。

 それが終わったら艦単位での攻撃訓練に参加するけど、この段階ではまだ実際に能力を発動させる事はないとの事。全体像の把握とプロセスの慣熟、問題点の洗い出しが目的なんだとか。

「ご覧の通り、本級は気嚢が小さく、飛行船としては比重が大きめの設計になっております。また大きな出力重量比を持ち、我が国で初めて遷音速巡航が可能な戦闘艦でもあります。しかしその為に大型の燃料タンクを搭載しており、機体規模に比べてベイロードは小さめです」

 乗り込む前に、実物を前にして基本的な事からレクチャーされる。気嚢の上にちょこんと乗ったお椀型の透明なドームが、わたしが詰める防空指揮所という場所らしい。いざ能力を使う時は、ハッチから外に出る事も可能なようだ。

 艦長さんの説明はとても分かりやすくて、有能で頼りがいがある人だなって印象を与えてくれる。野太い声に太い腕や厚い胸板は空というより海の男の雰囲気だけど、ちょこんとした顎ヒゲがちょっと可愛い。実はわたしと同じぐらいの娘さんがいるそうで、きっと家庭ではいいお父さんなんだと思う。だからこの人の家族のためにも、無事に家に帰してあげたかった。だけど、それを願ってしまうのは偽善だろうか。

 この艦で念能力の存在を明かされたのは艦長さんだけ。防空指揮所に詰めるのは基本的にわたしだけだけど、なにかあればすぐ側の航海艦橋から真っ先にこの人が駆け付けてくるだろう。そのとき、もし能力を発動中であれば、この人の命は度外視しなければいけないのだから。

 何を見捨てても任務達成が最優先。その為ならば、この艦が墜落する事すら許容される。わたしは何度も、カイトさんにそう念を押されていた。その意味を改めて思い知って、胸の奥が締め付けられた。まだまだ弱いなと、ハンターとしての自分の未熟さが少し嫌になった。



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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】
使用者、エリス・エレナ・レジーナ。
 赤の光翼 悠久の渇望;愛別離苦 具現化した光に生命力を付与する。
 緑の光翼 千古の妄執;■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。
 青の光翼 原始の大罪;■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。
長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

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次回 第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」



[28467] 第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/21 23:01
 室内を夕日が染めている。狭く貧相な部屋だった。備え付けられた家具は最低限で、どれもあからさまに安物だった。天井は低く照明も暗い。おまけに男が無節操に愛飲する煙草のおかげで、紫煙の匂いが染み付いている。それでも、この辺りでは背の高いビルの一室だからだろう、窓から見下ろす眺めだけは悪くなかった。

 これで最後になるだろうと、少女は窓際に佇んだ。夕暮れの、排ガスと埃の匂いが漂うスラム街。幾重にも連なるビルの屋上が、壁が、橙色に染まっている。コンクリート製の四角いシルエット達は、広がるでもなくそびえるでもなく、ただその場所に在り続けていた。廃虚にも似た街並は、少女の胸に切ない郷愁を呼び起こした。

「よう、荷造りは終わったか」

 ノックもなく、男がドアを開けて帰宅した。手には紙袋を抱えている。その口からバゲットパンとワインの瓶がのぞいている事から、買い出しは一通り済ませたらしい。

「はい、もちろん。もっとも、あまり量はないのですから」

 ベッドの上を視線で指して返答した。少女の体躯でも持てる小さな鞄に、半分ほどの容積を占める衣類と最低限の生活用品が入っていた。他には、特に何もない。少女が物を持たないのは、娼館時代からの習慣である。彼女は、特定の物品に執着する事ができなかった。

「おし、上出来だ。なら今夜出発するぞ。腹ごしらえは今からするとして、そのあと眠れるようなら少し眠っとけ」
「分かりました」

 バゲットパンを切りチシャの葉とドネルケバブの切り落としを挟んでいく男の手際を見守りながら、少女は特に感慨もなく頷いた。頻繁に拠点を変えたがる男に付き合わされ、アジト替えには慣れていた。面倒だなとは思うけれど。

「次はどの街に行くんですか?」
「あん? また少し北に向けて進んでみようと思ってるけどよ。ほれ」

 ケバブの切れ端をつまみ食いして男は言った。請われ、少女が塩の入った瓶を手渡すと、ついでとばかりに彼女の唇にも1枚ねじ込まれる。咀嚼すると口腔に風味が広がった。男にしては珍しく、いくらか上等なものに手を出したらしい。それが分かるぐらいには、少女の舌も肥えてきた。

「……ん。また北ですか。どうして北にばかり進むのか、聞いてみてもいいですか?」
「いや、んな御大層な理由はねーけどよ。なんかロマンを刺激されねぇ? 決まった方角へ向かうってよ」
「わかりませんね。これっぽちも」
「そりゃねえだろ。雪を冠った山脈の反対側とか、青い水平線の向こうとか、雨雲を抜けた上の空とか、道の辿り着く果てとかよ。お前だって響きだけでわくわくするだろ? え?」

 一蹴した少女の反応が気に入らなかったのか、男はサンドイッチを皿に並べながら妙に力説した。どうでもいい事に力を入れる性質はいつもの事だったが、少女には妙に可愛く思えた。

「男の子ですね」

 それは嘘偽りのない素直な感想だったのだが、男はそれが気に入らなかったのだろう、憮然とした表情で視線をそらした。楽しい、と少女は目を細めた。簡単に済ませただけの夕食のサンドイッチが、とても贅沢に感じられた。

 しかし、明朝はコーヒーに入れる角砂糖を一つ減らすと男に言われて、理不尽だと少女は恨めしがった。



「そういえば、お前さ」
「はい、なんでしょうか?」

 早めの夕食を平らげ、ベッドでごろんと横になっていた少女は、隣に転がる男に話し掛けられた。少女の返事は、わずかに刺のある声色だった。肘を枕に欠伸を噛み殺す男の姿が無性に憎らしい。甘いものの恨みは深いのだ。

「名前、なんだっけ?」
「……は?」

 少女は目を点にした。驚いたのではなく、呆れたのだ。ついでに幾分の怒りも混じっていた。あえて尋ねなかったのではなく、今の今まで、興味すら湧かなかったとでも言うのだろうか。少女は反感を隠しもせず、男に対し、素っ気なく答えた。

「いまさらですか? ありませんよ」
「なんだよ、無いのか」

 とても常識はずれな会話をしているな、と少女は頭のどこかで自覚した。しかしお互いに驚きは少なく、のんびりと、普段通りのやり取りだった。それが悔しいのは秘密だった。

「はい。源氏名なら、年に数回は変えられてましたので沢山ありますけど」

 娼婦の源氏名をあれこれ考えるのが宿の主人の趣味のようなものだった。今思えば、新鮮さを演出すれば売り上げに繋がると考えてでもいたのかもしれない。しかし源氏名の頻繁な変更など娼婦達が喜ぶはずもなく、よほど気に入った案以外はすげなく破棄された。そういった名前の中で主人が諦めきれなかったものは自然、少女のところに回ってくる仕組みだった。

「普段はどうしてたんだよ。商売ならともかく、日常生活には困るだろ」
「あのガキとか、あいつとか、お前とか、それで十分通じてましたよ。なにせあそこに子供は私一人しかいませんでしたから」
「そっか。まあ、それもいいや、別に」

 この話題に、男は興味をなくしたようだった。その瞳は既に少女を捉えず、肘枕をやめて頭を枕に預け、ぼんやりと天井を眺めている。じきにその瞳も閉じられて、眠りの中に沈むだろう。少女はその事実に苛立ちを覚えた。

「マスター。貴方の名前も、私は聞いてませんが」
「俺? あー、俺か。そうだな、結局教えてなかったな」

 瞳を閉じ、眠そうな声で男は応える。ぞんざいな、面倒くさそうな態度だった。今に始まった性格ではない。しかし、少女はその顔をじっと見ていた。眺めて楽しい顔ではなかったが、とにかく少女はじっと見つめていた。自分はなぜこんなにムキになっているのか、それを不思議に思うのは後回しにする事にした。

「俺の名も、沢山あってな」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 闇の中に闇がいた。一対二個の眼球は、闇より深い漆黒だった。どす黒く淀んで、どこまでも深くたゆたっていた。パクノダは、何よりもそれに脅威を感じた。

 眼前の男が、恐らく噂の逆十字だろう。夜更けのスラム街を調査するパクノダとジャッキーの前に滲み出るように現れた人物は、纏う空気だけで強者と分かった。白いファーの付いた黒いコートにオールバック、額には十文字が彫ってあった。

「もし、そこの方。私はジャッキー、こちらはパクノダ。連続死事件を追うプロハンターである。すまぬが調査に協力してもらえないだろうか」

 男はジャッキーを完全に無視した。一瞥すらせず、パクノダのみを眺めている。

「生かしたまま捕らえられようか?」
「無理でしょうね」

 余計な制限を設けて向き合えるような相手ではなかった。大人しく協力に応じてくれそうな雰囲気でもない。パクノダとジャッキーは臨戦態勢をとり、最大限の警戒をした。別段、逆十字の男は敵意をむき出しにしているわけではなかったが、それでも理解してしまうのだ。ハンターとしての本能が、眼前の男の凄まじさを。

 それでも、この二人なら戦える自身がパクノダにはあった。

「久しぶりだな。大事ないようでなによりだ」
「……あなた、何?」

 旧友に再開したかのような気軽さで、男はパクノダに声をかけた。ジャッキーが視線で問いかけ、パクノダも心当たりはないと否定する。手の中に汗を滲ませて、靴の裏で路面を踏み締めた。会った記憶は全くない。だが、しかし、その一言に奇妙な違和感を憶えたのが引っ掛かった。

「へー、ホントに忘れてるんだ。団長の言ったとおりだね」
「疑ってたのかい? 呆れたよ、全く」

 細い通りに新しい絶望が追加された。逆十字の男はジャッキーに任せ、パクノダは新手に向かって振り向いた。若い男女が二人。最悪な事に、揃って達人の域にあった。これで戦力は2対3。無論、念能力者の戦いは単純に人数で決まるものではないが、不利な要素に違いはない。

「なんだ? お主ら我らに何の用だ?」

 パクノダと背中を合わせたまま、ジャッキーが野太い声で問いかけた。よく響く声が夜の街に反響し、夜闇の冷たい静けさを強調した。

「別に? 大した用事じゃないよ。ただ、そちらのお嬢さんと暫くお話ししたいだけ」

 筋肉質な童顔の男が笑顔で答えた。それは脅迫以外の何かとは思えなかったが、念のため、ジャッキーはパクノダに確認をする。それに、パクノダは心からの拒否をこめて首を振った。

「断る、との事だが?」
「なら、無理矢理でもね」
「そうか」

 リーダー格らしい逆十字の男に視線を合わせたまま、ジャッキーは厳かに頷いた。

「悪を許さぬは我が誓約。そして誰かを裏切らぬも我が誓約だ。だが、罪を憎んで人を憎まぬのも我が誓約。悪い事は言わぬ。改心召されよ。狭く息苦しい人欲の道と違い、天理の道は甚だ広く、楽しいぞ」
「悪いけど、オレ達そういうの興味ないんだ」

 ジャッキーの善意を、童顔の男が一蹴した。隣の女が一歩進み、逆十字の男に向けて確認する。

「ちょいと邪魔だね。排除していいかい?」
「ああ、そうだな」

 肯定し、逆十字の男が一歩を踏み出す。その瞬間パクノダは戦慄した。あまりに洗練されすぎた動作だった。背中越しに感じた気配だけで、肌が粟立つに十分だった。パクノダとて凡百の使い手ではない。しかし、優れているからこそ鋭い嗅覚がある。同じ事はジャッキーも感じ取っていたが、生来の剛毅さに任せて黙殺した。

「よろしい。ならば私が説法して進ぜよう」

 ジャッキーが右手を軽く掲げた。空間が揺らぎ、錫杖が虚空から出現した。次いで現れた三鈷鈴が左手に握られる。しゃらんと、りんと、音が鳴る。

 これは【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック)】と名付けられた能力だった。どこぞより愛用の楽器を取り出し奏でる能力だが、その真価はこの程度ではない。頭上の空間が大きく震え、何か巨大な存在が滲み出る。

「よいか、まずは聞くのだ。私の梵唄に耳を傾け、心を清くする事から始めるがいい。さすれば塵世苦海をするりと抜け、雲の白きと山の青きを楽しめよう」

 それは見事な梵鐘だった。全高が3メートルはあるだろうか。大きく、肉厚で、見るものに圧倒的な質量を想起させる鐘が浮遊していた。ジャッキーから潜在量の半分にも及ぶオーラを分け与えられ、鳴るべきは今かと佇んでいる。ただひたすらに壮大で、畏怖すべきは鈍重に。その周りを、大小数多の木魚と木柾と団扇太鼓が、ちりばめられる様に浮かんでいた。

 能力の発動は速くはなかったが、呆れるほど早く滑らかだった。3人の不振者は揃って先制をかけようとしたが、それでも尚、その隙を妨害することができなかった。

 これこそ、ジャッキー・ホンガンが本気で戦う際に用いる能力である。

「参る」

 屈強な体躯が跳躍した。パクノダが地を滑る様に疾走する。童顔の男は構えを取り、女は建物の壁面を蹴って駆け上がり、逆十字の男が後方に下がり支援の体勢に入った。闇に沈んだ街の片隅で、今宵、彼らの命が激しく揺れた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 眼下には夜景。切り裂くは春風。きらびやかに輝きがちりばめられた都市の上空から、サンダーチャイルドは地上すれすれに向けてダイブを始めた。街の明かりの一角に、河の様にも見える高速道路があった。その高架橋ギリギリを目掛けて巨体が迫る。対地速度は時速200kmを超えていて、このまま地面に吸い込まれていきそうな錯覚に陥る。

 上から見た高速道路には車がなかった。林立する照明に照らされた路面はがらんとして、冷たい寂寥だけが流れている。完全に封鎖されたコンクリートの大動脈。そこを、真紅のスポーツカーが疾走していた。向こうもこちらを視認したのだろう。お互いにランプを点滅させて意思を交わした。

 これから続く長い直線が最初で最後のチャンスだった。失敗は最初から想定されていない。アルベルトもカイトさんも信じてるけど、何もできない自分が歯がゆかった。

 サンダーチャイルドの船体が予定のコースに収まった。高低差およそ20メートルでの高速安定航行。揺れを鎮めたというより流れの中にそっと置かれたという感触。この艦の操舵手さんは物凄く、いえ、ヒトを超越した領域で上手だった。後部のランプドアが解放され、そこから大きなネットがたなびいた。

 その様子を確認して、スポーツカーのルーフが爆ぜた。鋼板が風圧で吹き飛んで、後方で路面と衝突して火花を散らす。一瞬で即席のオープンカーに転じた車の車内には、二人のハンターの姿があった。

 運転席でハンドルを握るアルベルトと、アッパーを放った体勢のカイトさん。彼らは風圧も金属やガラスの破片さえものともせずに、こちらに向けて軽く手を上げる余裕すらあった。その様子に、わたしは少しほっとする。

 飛行艦の位置関係を把握して、最後にもう一度地上を確認して、次の瞬間、二人は大きく跳躍した。踏み締められた車はシャーシが曲がり、あっという間に横転して砕けていく。それでも、それに注目する人は誰もいない。

 飛翔。片手で帽子を押さえるカイトさんの長い髪の毛が夜景に舞って、アルベルトの冷静な眼差しが澄んだ光を瞬かせて、綺麗だなって、そう思った。飛び上がった二人は風圧に押され、だけどそれすら計算に入れて夜の大気を疾走した。アルベルトだからこそできる高度で柔軟な弾道計算。それは当然のように最良の結果を弾き出し、二人はネットに掴まった。

「もう……。無茶するんだから」
「はっはっは。男ってのはそういうですよ、嬢ちゃん」

 安心してしゃがみ込むわたしにそう言って、艦長さんが笑い声を上げた。航海艦橋が歓声に沸く。そうこうしてるうちにまもなく、後部ランプが閉鎖され二人とも無事回収されたとの報告があった。

「アップ20! 第ニ戦速!」

 下令され、艦内の空気が引きしまる。すぐにカイトさんとアルベルトもやってきて、艦隊司令部として機能するための設備がフル稼働を始めた。憲兵司令部から矢継ぎ早に現状が伝えられ、陸軍空挺師団からは部隊の展開計画が承認はまだかと届けられる。あっという間に情報を把握して、瞬く間に指示を下していくアルベルト。その様子をちらりと確認すると、カイトさんはわたしに向き直った。鋭い視線が胸に染みた。

「頼むぞ」
「はい。任せて下さい」

 たった一言。わたしはそれに全力で応える。だってそれしか、できないから。

「艦長さん、状況次第では近接支援に切り替わるかもしれません」
「アイマム。ウエポンベイには準備を命じておきます。幸運を」
「ありがとう。お互い、頑張りましょう」

 検問や要所の防衛が次々に確認されていく声を背に、防空指揮所にわたしは向かった。パクノダさんとジャッキーさんから緊急コールが発信された後、連絡が取れなくなっていた。雨は今の所降ってないけど、わたし達は予想される全てに対処する必要があった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ジャッキー・ホンガンは4種類もの発を修得した念能力者である。加えて念の基礎能力と身体能力も高いレベルで持ち合わせており、武術においても相当の達人である事は間違いない。であるにも関わらず、戦闘においては致命的な弱点が存在した。保有する能力が、尽く実用性を度外視されているのである。否、常人とジャッキーでは実用性の概念が全く違った。

 跳びながら靴を脱いで裸足になったジャッキーは、己が喚んだ浮遊する梵鐘の上に着地した。マチが壁面を立体的に機動する。念糸を繰り出し、張り巡らせながらの垂直疾走。彼女は瞬く間に間合いを削り、首筋を目掛けて手刀を放つ。なんの躊躇もない鋭い一撃。ジャッキーはそれを紙一重で躱し、しなやかな体術に目を見開いた。

「なんと、見事な」

 この女だけでもかなりの脅威だ。歴戦の経験で即座に悟ったジャッキーは、右手の錫杖を大きく振り下ろした。号令一下、全ての楽器がビートを刻む。大音響が辺りに響き渡った。木魚の奏でる素朴なメロディー。堂々たる低音の梵鐘。甲高い木柾が裏を打ち、団扇太鼓が高らかに鳴った。ジャッキー本人も左右の錫杖と三鈷鈴を手に舞い踊り、音曲のリズムに全身を委ねて唱いだした。

 その様子に、マチは一瞬躊躇した。念糸で空中に編み込んだ足場に身を乗せたまま、突然踊りだした大男の奇行に全身全霊で警戒した。念能力者同士の戦いであるが故に、この演奏に如何なる特殊効果があるか不明だったからである。まして、彼らには同系統を思わせる仲間がいた。

 しかし、躊躇はただの一瞬だった。地上にはクロロが控えている。故に、彼女が不安に思う理由は何もなかった。あるいは敵にしてやられても、それは彼女の宿命だろう。そう思いきれるだけの信頼があった。問題ない。それこそマチの直感が出した答えだった。彼女の直感は全く正しく、彼女の警戒は無意味だった。

 グレートビューティフルミュージックが奏でる音に、いかなる特殊効果もありはしない。ジャッキーはただ純粋に、音楽を聴かせたいが為に最大潜在量の半分という膨大なオーラを費やしていた。否、何の効果もないからこそ、聴かせる意味があると信じていた。

 梵鐘の上で唱い踊るジャッキー目掛け、糸を足場にマチが迫る。構造物の谷間の空中戦は、マチにとって最良の舞台だった。多少宙に浮けるからどうしたのか。マチであれば、三次元機動で自在に移動し、体術と念糸で思うがままに攻撃できる。さながら、囚われの蝶に迫る蜘蛛の様に、速度も手段も選択肢の幅も、全てが彼女に有利だった。

 それでも、世の中には、常識ではどうにもできない馬鹿がいる。

 木魚達が飛来する。ボクポクと嬉しそうに鳴りながら。立体音響を堪能させようとマチの背後に廻ってきたそれを、彼女は意図も知らずに念糸で破砕した。微かに注意が逸れたその隙に、ジャッキーは梵鐘の上から消えていた。

 跳んだか? マチが見上げたのも無理はない。だが真実はそこにはなく、念糸が振動を伝えてきた。気付き、マチは目を見開いた。ジャッキーはマチの念糸を完全に信頼して、それを踏み締め駆けて来たのだった。右手には長い棒状の錫杖を掲げ、左手には鋭い三叉の三鈷鈴を携えている。オーラも存分に込められていたため、マチは武器による攻撃を警戒した。

 直後、ジャッキーは両手を手放してなおも駆けた。宙に浮かぶ錫杖と三鈷鈴。ジャッキーにフェイントのつもりはさらさらなかった。これらはあくまで楽器である。ジャッキーは奏でるために楽器を呼び出したのであり、攻撃に使わないのが誓約だった。

 敵の間合いの読み間違えに、マチは内心で歯噛みした。ジャッキーに上手く立ち回られ、至近距離に立ち入られたのが苦々しい。お互いに念糸の上にいる以上、離れてしまえば相手はマチの掌の上だったが、こう食らい付かれたのでは容易に離脱できるはずもない。少なくともジャッキーが隙を見せるまでは、格闘戦に付き合うしかないのだろう。だが、マチとて格闘は苦手ではない。

 オーラを集中させたジャッキーの太い腕が唸りを揚げ、マチの放った渾身の拳打に迎撃される。轟音が夜闇に爆散した。爆風が衝撃波となっていた。星空が揺れ、地面が震えた。既にこれは格闘ではない。ただ純粋な破壊だった。

 互角。否、技では紙一重に劣り、力では紙一重に上だとマチは見切った。ならば力に任せて畳み掛けるべきである。マチは即座にそう判断した。それは、己の命を捨てる決断だった。迷う事なく打ち込んだ次の一撃に、ジャッキーの拳が激突した。しからば、更に次を放つだけだった。

 双方、糸の上で器用にバランスをとりながら、渾身の拳が次々に繰り出される。己の無事などどうでもいい。虚実を混ぜ得る狭間もなかった。マチも、ジャッキーも、ただ一心に打撃を繰り返している。そこに妥協は全くなかった。奥歯を噛み砕く思いで全身全霊の一撃を捻り込み、相殺されれば忘却し、次の一撃に魂を掛ける。少しでも速く、微かでも強く、瞬息でも早く拳を振り抜き、刹那より短い間隙を見抜き、虚空より微かな勝機をつかむ。瞬き一つ分の隙すらあれば確実に、どちらかの首が吹き飛ぶだろう。

 生と死の一線など知らぬとばかりに殴り合う二人を取り囲むように、数多の楽器が浮かんでいた。攻撃してくる気配はなく、特殊な効果もありそうにない。ただ、あるときは激しく、あるときは緩やかに曲を奏でている。耳に染み入るいい演奏だった。殴り合いに興じる自分を俯瞰する冷静な部分が、涼やかに澄み渡っていくのを感じた。ああ、こういう発かと、マチは直感で理解した。悔しいが良くできた能力じゃないかと、マチは心中で穏やかに賞賛した。穏やかで優しい殺意だった。

 渾身の中の渾身、全力の中の全力で腕を振るった。生涯最高と誇れる一撃。マチが今まで放ったどの打撃よりも、この拳は重く速かった。時間がひどく緩やかに感じる。静寂の支配する短い狭間に、マチはジャッキーが目を見開いたのを視認した。衝突の刹那、迎撃したジャッキーの左腕が弾け跳んだ。肉はおろか骨まで砕け、肩から先が粉砕された。今度は、マチが目を見開く番だった。

 ジャッキーの左腕にはオーラがなかった。恐ろしいほど速く、思いきりのいい流だった。左腕を犠牲に、ジャッキーは一歩踏み込む権利を得た。そこは、マチの懐の内だった。

「ぬぅん! スーパービックリボンバー!」

 怒号と共に、拳が鳩尾に吸い込まれる。やられた。この一撃は喰らうしかないが、即座に反撃して頭部を砕こう。例え、はらわたが破裂し飛び散ったとしても。マチは己の中でそう決めた。染み付いた反射に任せて打点をずらして威力を削ぎ、刹那の内に相手を打ち据える、筈だった。事実、打撃には見事に対処できた。

 しかし、全身の神経が発火して動けなかった。動けないまま衝撃で浮かんだ。全身が感電したようだった。刹那の時間が流れる中、マチは追撃を防ぐ術がない事を思い知った。ゆっくりと、ひたすらゆっくりと浮かぶ間、マチは己の死を覚悟していた。

 予想していた追撃はなかった。ジャッキーは微動だにせず機会を逃し、マチは落下しアスファルトに叩き付けられる寸前、クロロの腕に受け止められて、シャルナークの背中に庇われた。

「……悪いね。助かったよ」
「いい。それよりパクだ」

 クロロに促され、マチはパクノダに目を向けた。そして目を見開いた。パクノダは具現化した拳銃を片手に持って、未だ毅然と佇んでいる。マチとジャッキーが戦っていた時間は無限に等しく感じたが、正味では2分もないだろう。わずか、2分。しかしそれだけの間、クロロとシャルナークを相手に粘ってみせたのだ。いかに彼らがパクノダを殺すつもりがないとはいえ、凄まじいまでの健闘だった。

「まいった。凄いね、パクは」
「パクは凄いよ。昔からね」
「ああ、そうだったね」

 シャルナークの言葉にマチは頷く。パクノダはそれに怪訝な表情をしていて、マチは少し苦笑した。どうして自分を知ってる風に話すのかと訝しんでいるのだろう。合った記憶の全くない、完全に初対面のはずの人間が。その理由は、是が非でも教えてやる必要があった。

 パクノダの隣に、ジャッキーが上空から降り立った。やはり左腕は消失している。流れ出るはずの血をオーラで止め、何も問題はないと悠然としていた。纏の揺らめきにも動揺はない。あたしの獲物だとマチは思った。クロロの胸を軽く叩き、降ろしてくれと合図を送る。

「立てるか?」
「大丈夫、みたいだね」

 クロロの腕から解放され、四肢の調子を確認する。異常も違和感も全くなかった。これなら、戦闘にも支障はないだろう。

「彼ら、強いわね」
「うむ。予想した以上の猛者なようだ」

 パクノダとジャッキーが頷きあった。わずか1ヶ月程度と短い期間の付き合いのはずだが、二人は既に、信頼で結ばれた仲間だった。

「どうかな? 大人しく協力してくれる気にはならんかな?」
「何いってんだい? 論外だね」
「……残念だ」

 本気で残念がっているのだろう。ジャッキーは苦悩に顔を歪め、己の無力さを噛み締めていた。

「どうするの? あたしをおいて逃げた方が利口みたいよ?」
「だろうな。カイトかアルベルトであればその手もあろう。さすれば情報を持ち帰れる可能性もあろうが、しかし性に合わん。悪を許さぬという誓約以前に、性に合わんよ、パクノダ」
「ふふっ、どうも。あなたらしいわ」

 その様子を、マチは苦々しく眺めていた。

「そろそろ再開と行こうよ。オレ達もそんなに暇じゃないんだ」

 告げて、シャルナークが再び臨戦態勢に入る。それを止めたのがジャッキーだった。

「いや、方々、しばし待たれよ」
「……なんだ?」
「なに、一つ宣言しておこうと思ってな。ここに誓おう。パクノダを必ず無事に帰すと。今後、如何なる状況でも仲間を一人も失わぬと。しからざれば則ち死すと」

 その言葉に3人は警戒した。土壇場における誓約の追加、それも命を掛けるという強烈な。ならば、相応の力を手に入れて然るべきである。そう、あくまでジャッキーが普通の念能力者だったなら。

 ウルトラデラックスライフによって定められた誓約は純粋な戒めであり、念能力に影響を与えることはない。むしろ、オーラの量や能力の制御に好材料を与えないために編み出された能力だった。故に新しい制約、仲間を失わないと決めた彼の覚悟も、新たな足枷を填めただけである。対価を得ない誓約。しかし、だからこそ誓う価値があるとジャッキーは考えた。報酬を期待しての決意など、なんと味気ないものではないか。念能力の為ではなく、人生を面白くする為の誓約こそが、彼が求めたものだった。

 だが結局、そこまでして定めた誓約も、ジャッキーにとってはただの言葉にすぎなかった。法の為に纏せられず、空の為に纏せられず。もし誓約が現実にそぐわなくなったならば、彼は躊躇なく破るだろう。当たり前のように死ぬだろう。ジャッキーとはそのような男である。

「そうか。なら、オレも一つ告げておく事がある」

 そして、ジャッキーが求道者であったならば、クロロ達は生っ粋の盗賊であった。

「うむ、なにかな」
「オレ達は盗賊。欲しいものがあれば奪うだけだ」
「ぬう、なんとな……」

 誓約の追加で、ジャッキーが如何なる力を手に入れていても関係なかった。幻影旅団は盗賊である。旅団にとって障害の多寡は、盗みに際して考慮すべき要素の一つでしかなかった。まして他人の覚悟など、踏み潰す対象以外の何かではない。結局の所、すべき事は最初から何一つ変わってなかった。

「男の方から片付けるぞ。マチ、あいつの能力は使えそうか?」
「ああ、多分ね」
「よし。なら、可能であれば生け捕りにしてくれ。シャルはパクを引き着けろ」
「わかった」
「りょーかい」

 クロロが右手に本を具現化した。彼が何をしたいのか、パクノダにもジャッキーにも分からなかったが、何かをしたいのは理解できた。故に、二人が選んだのは先制であった。クロロほどの強者が行う決定的な何かを見逃すぐらいなら、例え罠であろうと飛び込んでいく方を選択したのだ。

 未だ上空に浮かぶ楽器類が、ジャッキーの意気込みに呼応して激しくリズムを刻みだした。梵鐘が大音響で響き渡り、周囲の空気を再び飲み込む。拳銃を具現化したパクノダが前衛を勤め、隻腕となったジャッキーが後ろに続いた。

「マチはそこで構えていろ」

 即席のコンビネーションで突進してくる二人に対して、クロロとシャルナークが迎撃に駆けた。シャルナークがパクノダを押さえに向かい、彼の後ろにクロロが控える。

 パクノダが低い姿勢で間合いをつめた。彼女の右手には、無骨な拳銃が握られている。具現化された彼女の相棒。弾丸に特殊な効果もなく、オートマチックですらなく、重く大きいだけの古風な構造。

 それでも、ただ、殺意があればそれでいい。

 重厚堅牢。人体を壊す為だけに生み出された単純性能。時代を超えた艶やかな金属。生産性を向上させ、洗練された鋭いフォルム。伝統と格式の王国が生み出した、今や遺物となった中折れ式のリボルバー。そは.455口径。覇権国家が握った蹂躙の象徴。銃火器に対して先入観のない、撃たれたショックで無力化されない人間をも問答無用で殺傷する為の設計思想。6インチのバレルから繰り出される必殺の弾丸、6連装。

 ウェブリー&スコット Mk.VI

 確かに重くかさばりはする。装弾数も少なめだった。だが、それがどうした。現代の軟弱な軍用拳銃とは、砕いた脊髄の数が、撒き散らした臓物の数が、踏みにじった希望の数が違うのだ。

 念とは、想いに宿る力である。

 具現化された拳銃に暴発などない。弾倉に直接弾丸を具現化し、シャルナークに向けて全弾放った。込められたのは十分なオーラ。飛来する6連の軌跡をステップで躱したシャルナークが見たものは、眼前に迫るパクノダだった。

 ハイキックが顔面に突き刺さる直前で、シャルナークは体軸を捻ってどうにか躱した。体勢を立て直すのは同時だった。掌中に隠し持つアンテナは刺せそうにない。達人同士の戦いでは、気軽にアンテナを刺せるほどの隙は滅多に生まれない。少々強引に攻め込めばあるいは成功したかもしれないが、下手な刺し方を試みて失敗し、警戒されては目も当てられない。人体操作の能力だと看破され、ならばと自害等を計られては最悪だった。とにもかくにも、パクノダは信頼する仲間である。下らない理由で損耗していい人物ではない。その懸念が、シャルナークの腕を鈍くしていた。決定的な隙が必要だった。

 シャルナークの躊躇を読み取ったのか、パクノダの動きのきれが一段と上がった。精錬された肢体を駆り、研ぎ澄まされたオーラが揺らめいて消えた。フェイントかと身構えたシャルナークは、すぐに猛襲する脅威に気が付いた。それは、隠を施された巨体だった。

 拳銃を構えながら、サイドステップで道を譲るパクノダ。即興にしてはひどく息のあったコンビネーション。豪快に振り上げるジャッキーの右腕を躱したとしても、パクノダの拳銃が襲うだろう。知らず、シャルナークは冷や汗をかいていた。だが、それも長くは続かなかった。

 それは突然の出来事だった。突如、コンビネーションの前提が消えた。相方が存在するという大前提。それを奪ったのがクロロだった。シャルナークを援護する位置にいた男が何をしたのか定かではない。ただ、彼が何かを行ったとき、ジャッキーの姿が消えていた。否、マチの眼前に転移していた。

 マチに動揺はなかった。するはずがない。団長に構えていろと命じられたのだ。だから、構えていた。全身全霊で構えていた。目の前にジャッキーが現れたとき、マチの反応はスムーズだった。一瞬で念糸を張り巡らせ、獲物を幾重にもからめとった。

 突然現れた厳重な拘束を、ジャッキーは力任せに解こうとする。が、筋力はマチが勝っていた。わずか紙一重の差でしかないが、その隔絶が遥かに遠い。

 相手の連係を逆手にとったクロロに対して、パクノダはとっさに全弾を掃射した。それは悪くない判断だったが、彼ら旅団には通じなかった。シャルナークは迷わず己の身を盾にして、全身でクロロをガードした。その堅は、もはや硬に近い意気込みだった。庇われたクロロは防御を気にせず、パクノダの側面に回り込んだ。

 懐に入られたパクノダ、次々と繰り出されるクロロの拳を、ただひたすらに捌くしかない。悪循環に臍を噛むパクノダに対して容赦なく、何かが肩に突き刺さった。



 厄介ね、とパクノダは思った。推測するに、他人を操作する念能力。状況は既に致命的だった。話をしたいと彼らは言っていたが、その程度で済まない事は明白だった。

「シャルナーク」
「ん? ああ。それが例の。まかせて」

 逆十字の男が何かを取り出し、金髪の男に投げ渡した。一つの弾丸が宙を舞った。パクノダにとって見覚えのある、いや、体の一部といえるほど慣れ親しんだシルエット。

「しくじるんでないよ」
「まっさか。オレを誰だと思ってるの?」

 ジャッキーを念糸で押さえたまま、女が鋭い目で忠告した。金髪の優男は軽く応え、渡された弾丸を弄ぶ。

 .45ロングコルト弾に比べて薬莢長が短く、全長も僅かに短く、特徴的な大きなリム。パクノダが見間違おうはずがない。それこそ.455ウェブリー弾。紛う事なく、彼女の愛銃の弾丸である。

 なぜこれを用意できたのか。何を目的としているのか。パクノダの疑問は尽きなかったが、今はなによりも呟きたい事があった。悪趣味ねと、せめて一言いってやりたかった。

 操作されるまま、流れるような動作で銃をブレイクする。体に染み付いた動きが皮肉だった。6個の空薬莢が勢いよく排莢され、カランと地面に落ちて空気に溶けた。渡された弾丸を装填して、パクノダは自分の死を覚悟した。微かだが、懐かしい感触の弾丸だった。破壊の意思とは別物の、何かが込められている気がした。

 拳銃がこめかみに押し当てられる。どうせら初撃で脳幹を撃たれたかったが、最終的な結末は変わるまい。この場所でパクノダは終わるのだろう。あまり実感が涌かないのが意外だった。彼女自身、決して鈍い方ではないと思っていたが、どうやら過信だったようだった。死に際して、パクノダには残すべき言葉もなければ執着すべき未練もなかったが、事件の解決を見れなかったのが残念だった。

 闇夜に、一発の銃声がこだました。

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【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック) 放出系・操作系】
使用者、ジャッキー・ホンガン。
いずこより愛用の楽器を呼び出し自動演奏させる。
呼び出した楽器は誰かを傷つける為に用いる事はできず、奏でられた音は如何なる特殊効果も持たない。
演奏の技術は能力者本人のそれに準ずる。

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次回 第十二話「ハイパーカバディータイム」



[28467] 第十二話「ハイパーカバディータイム」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/12/07 05:03
 それは、潜入調査にうってつけの能力だった。

 ここに優秀な人材がいる。勤勉で頭も回り腕も立つ。重要機密の溢れる中、他意の一つもなく適切に処理し、決してそれを洩らそうとしない。無論、業務に必要ない情報には手を触れようともしないだろう。なぜなら、あらかじめそのような指針を銘記させられているのである。故に、彼女は若くても経験豊富な情報の専門家であり、それ以外の何ものでもないのだった。

 彼女は決して焦らない。その日が訪れるまで絶対に。彼女は決して尻尾を出さない。そもそも尻尾が存在しない。彼女は信頼されるだろう。彼女は絆を育むだろう。彼女は期待に応えるだろう。

 そして、組織に深く食い込むだろう。

 能力の名をメモリーボム、記憶を司る銃弾である。彼女、パクノダはそれを自身に用い、潜入に都合がいいように、自らの人格を改竄した。無論、盗みを働く為だった。

 幻影旅団を構成する団員は、団長の招集に応じない限りは各自思い思いに過ごしている。パクノダは以前から、気が向けば個人的にハンターとして活動する事があった。主に暇つぶしや慈善活動のつもりだったが、最新状勢や注目すべき念能力者の把握など、旅団の情報担当として思う所もあったのだ。

 その縁で今回のチームに誘われた。聞くに、リーダーはカイトという人物らしい。彼は派手な活動履歴こそ存在しないが、若手で屈指の実力派ハンターとして知る人ぞ知る人物だった。地力、経験、直感の全てにおいて優れており、戦闘では旅団の戦闘担当組とも互角かそれ以上の強さだろう。一説によれば、師はかのジン=フリークスであるともいう。

 それほどの実力者と、その下に集う精鋭ハンター達で構成される捜査チーム。彼らの所持する念能力は、どんなに強力で、どこまで洗練されているのだろう。彼らの隠し持つ弱点を、赤裸に剥くのはどれほど快感だろう。パクノダは情報特化の念能力者である。故に、誰よりも未知に飢えを抱き、誰よりも秘密の甘味を知っていた。

 少し早いが、今年の誕生日プレゼントは豪勢になりそうだと、当時のパクノダは唇を舐めたのだ。



 パクノダが胡乱な暗中から浮き上がるまで、撃たれてから実に5秒もかからなかった。肩に刺さったアンテナを抜くと、痛みで意識にかかった霞が完全に取り払われた。傷は極めて軽度らしい。重要な神経も血管も、上手く避けてくれたようだ。

「どうだ?」

 クロロが尋ねた。

「ちょっと待ってて。まず記憶を整理したいから」

 言って、パクノダは愛銃をブレイクする。中折れ式の拳銃が大きく開き、先ほどの薬莢が一つ排莢された。代えて、弾倉に新たな二発を装填する。忘れるべき記憶と刻まれるべき記憶。順番を間違えるようなミスはしない。躊躇なくこめかみに銃口を突き付けて、パクノダは拳銃を連射した。

「……お待たせ。久しぶりね、みんな」

 先ほどまで本気で戦っていた者達に、パクノダは親愛の微笑みを浮かべていた。マチに捕まり、パクノダを救おうと必死にもがくジャッキーは、もはや路傍の石同然の価値しかない。

「貴方達も来たのね。団長の手伝いかしら?」
「ああ、ちょうど暇だったからね」
「オレは欲しいものがあってそのついで。兵器の運用情報あったら教えてくれない?」
「ええ、いいわよ」
「サンキュー」

 一転して敵と談笑を始めたパクノダを見て、取り残されたジャッキーは愕然とした。だが、驚愕はそこで終わらなかった。旧友と親しげに会話を躱す格好を崩さぬまま、パクノダは新たな弾丸を拳銃に装填し、二人の男を打ち抜いたのである。撃たれた側は避けようともせず、額に甘んじで銃撃を受けた。だが、ダメージを負った様子はない。

「おおっ! すっげー便利っ!」

 シャルナークが感激し、クロロは佇んだまま思考に沈んだ。

「マチは? せっかくだから体験してみる?」
「あたしはいいよ。どうせ貰っても使い道ないし」

 マチの返答に頷いて、パクノダはクロロの指示を待つ事にした。報告すべき事は一通りメモリーボムで強制的に植え付けてあったが、量が多いため把握に数秒はかかるだろう。

「信用は得られたようだな」
「そうね。大丈夫だと思うわ」

 潜入とチームへの取込みは成功したというのが、クロロとパクノダ、シャルナークに共通した見解だった。ハンター達の顔と名前から体を動かす際の細かい癖まで種々諸々の基礎データは、あるとないとでは大違いだ。シャルナークが欲しがった兵器の運用や軍の編成などの機密情報はパクノダの目的に直接関わるものではなかったが、上手くやればこれだけで莫大な利益を生むだろう。

 しかし念そのものについては、直接的な成果は乏しかった。

 カイトは未だ発を使用しておらず、常用ではなく切り札として使うタイプだと推測されるだけだった。ジャッキーの場合は本人が大声で喧伝してるから分かりやすいが、盗む価値があるかどうかは疑問があった。アルベルトの能力は微妙に分かりにくく。そもそも本人が掴みにくい。そしてもう一人、新しく入った娘についてだが、これは非常に期待できそうだった。大量の禍々しいオーラを放っていたが、本人の性格や身体能力と合わせて考えれば、付け入る隙は少なくあるまい。

「次は予定通り、私の発で本格的に調べてくるわ。数日もあれば十分でしょう。ついでだから、連続死事件の犯人の能力についても情報があれば流すわね」
「ああ、頼む。それとな、アルベルトという奴の能力だが、悪いが優先的に探ってくれないか」

 パクノダには意外な事だったが、クロロはカイトでもエリスでもなく、アルベルトに最大の興味を持ったようだった。しかし、彼が望むなら異論などない。なにせ、盗むのはパクノダではなくクロロなのだ。

「アルベルトね。了解」
「無理はするなよ。万が一気付かれそうなら脱出を優先しろ。それも無理ならオレ達が乗り込む」
「ええ、もちろん。頼りにしてるわよ」

 クロロはあくまで、パクノダの生存を優先した指示を出した。所詮、これは旅団としての正式な行動ではない。脚を切り捨てても蜘蛛を生かすというルールもあったが、パクノダほどのピースの損失に見合うだけのメリットは、今回の一件からは得られそうになかったのだ。

「マチ、そいつは殺せ。使えそうな能力は何もない」
「いいのかい? あたしが喰らった一撃はかなり良いと思ったけど」
「ああ、あれはな」

 マチの疑問にクロロは答えようとしたが、中断して後ろを振り向いた。続いて、旅団全員がそちらを注視する。コツコツと闇に靴音が響いてきて、青年と少女が現れた。二人とも纏でオーラを留めており、念能力者だと一目で知れた。

「なんだ、もう終わってんじゃねーか」
「まったく、だから言ったじゃないですか、野次馬なんてやめましょうって」

 短く刈った金髪の青年が残念そうにそう言って、銀髪で褐色の肌の少女が呆れを隠さず呟いた。旅行者だろうか。二人とも鞄らしきものを手にしている。危機感は全く感じられず、堅を行う様子すらない。纏の様子から読み取るならば、少女はともかく男の方は、この状況を察せないほど初心な使い手とも思えなかったが。

「わりぃ、邪魔したな」

 それでも、殺してしまえば大差はない。

「やれ」

 クロロは命じた。修練と殺戮を積み重ねた者だけが放てる圧倒的な害意が、二人に対して牙をむけた。例え相手が念能力者であったとしても、これだけで心を潰しかねない重圧があった。少女は目を見開いて後ずさり、手に持つ鞄を取り落とした。あと一呼吸、少女の脳が感覚の正体を悟った時、彼女の心は折れるだろう。

「大丈夫だ」

 男は少女の頭に手をおいて、力のこもった声で告げた。そのままぐりぐりと強く撫でる。そのやり取りに何の意味があったのか。少女は平静を取り戻し、ほっと息をついて肩の力をぬいた。よほど男を信頼しているのだろうか。瞳からは、既に恐怖は霧散していた。未だ髪を撫で乱す腕を迷惑そうに見上げていた。

 だが、何が大丈夫だというのだろう。彼ら二人が生き残る道はここにいる旅団員を残らず倒すか、拷問の末、クロロに能力を気に入られて盗まれるかしかないというのに。

 パクノダが拳銃を向けている。クロロが本を開いている。マチはジャッキーを捕らえたままだったが、男に対して、誰よりも鋭い殺意を向けていた。アンテナを手にしたシャルナークは、いつ飛び掛かってもおかしくない。

「お前らは、動けない」

 男が言った。幻影旅団を前にして、叫ぶでもなく、震えるでもなく、よく響く低い声で言の葉を置いた。それは恐らく、新しい事象を紡ぐ意図ではないのだろう。創世から在り続けた真理がごろんと転がっているのを指し示しただけの様な、気負いなくも傲慢な態度だった。

 そして、それは真実となった。

 クロロは動けない。パクノダは動けない。マチは動けない。シャルナークは動けない。お前らは、動けない。

 5秒ほど呪縛が続いていた。並程度の強者であっても飽きるほど命を刈り取れるその間、男は何一つ仕掛けず、逃げようとさえしなかった。ただ、つまらなそうに旅団の面々を眺めていた。

「じゃあな」

 完全に興味を失ったのを隠そうともせず、男はそう言って踵を返した。地面に落ちた鞄を拾い上げ、少女を促して闇へ消える。男は逃げたのではない。去ったのだ。それが厳然たる事実だった。

「シャルナーク」
「ああ」

 クロロが口を開いた。それは、旧い付き合いの者でもゾッとするほど底知れぬ声だった。怒りでも、恐怖でも、屈辱でもない。得体の知れない感情が漆黒の深海にただよっていた。

「あいつを探れ」
「分かった」
「マチはホームにいる連中を連れて来い。パクノダは引き続き潜入だ。だが、あいつの情報が入ったら最優先で知らせろ」

 男は旅団の障害になると判断され、潰す事が決定された。団員達にも、異存があろうはずがない。仮にあの男がその気であったなら、幻影旅団はこの場で壊滅的なダメージを負ったのだ。団長のクロロおよび屋台骨となる後方支援の中枢メンバーを失って、蜘蛛の再生が容易であるはずがなかった。対峙した状態での5秒という隙は、それほどまでに致命的だったのだ。

 だが、男はその時間を利用しなかった。そうする価値も無いとでもいうかの如く。だから、もしも、男が為した行為の恩恵を受けた人物がいたとしたら、それはジャッキーだっただろう。

 ジャッキーを中心に半径およそ20メートル、円が、広がっていた。

「スーパービックリボンバー!」

 叫びとともに能力が発動した。薄い濃度のオーラでは、大きな驚愕は望めない。ほんの少し、極々微かな驚きだった。だが、紙一重を覆すにはそれでもいい。わずかなマチとの筋力差を覆すには、ほんの少しの硬直で十分だった。

 問題があるとすればそれは唯一、ジャッキー自身の硬直時間にあった。

 【法門無尽誓願智(スーパービックリボンバー)】。能力者のオーラに触れた者を驚愕させるこの能力は、例外規定が何もない。その者が操作可能であれば問答無用で驚愕させるため、当然、ジャッキー自身も驚かされる。それどころか使用者は自身のオーラを緩和に用いる事ができず、距離も最も近いため能力が最も色濃く作用する位置にいる。つまり、発動させる度、ジャッキーは誰よりも強く驚愕していたのである。

 それでいい。否、そうでなくてはとジャッキーは思う。他者の心を無理矢理揺り動かしておいて、自分は除外されたいなど何の為の求道か。この能力の欠陥を、疎ましく思った事は一度もなかった。であるならば、即ち、補ってみせるだけだった。

 浮かぶ梵鐘が慟哭した。委ねられたオーラを使い尽くす、破裂しそうな程の狂想連打。轟音が突如として出現し、周囲を物理的に激震させた。全身を襲う音響の暴力に、心地よい、とジャッキーは感嘆した。止水明鏡の極みだった。かつて、これほど静かで趣ある夜があっただろうか。感激が驚愕を上書きし、ジャッキーの硬直を刹那に解いた。

 残された右腕でマチの念糸を振りほどき、動きを止める旅団の面々を後目にパクノダへ駆けた。彼女の身体を片手で抱き上げ、胸元にきつく抱き締める。左腕を失った今ではいささか不自由な抱き方だが、まさか淑女を肩に担ぎ上げるわけにもいくまい。ジャッキーはそう判断し、走り出した。

 だが、旅団とて逃走を見逃すほど間抜けてはいない。

 硬直したのは一瞬の事。轟音をかき鳴らす梵鐘など見向きもせずに、事態を即座に把握してジャッキーへ向けて殺到した。ジャッキーは逃げる。残った生命力を燃やし尽くしても構わないという勢いで。クロロが、マチが、シャルナークが追う。彼らはすぐに追い付くだろう。一瞬のスタートの差など瞬く間に詰められるだろう。傷の有無、残された体力、オーラの残存量、それら全てでジャッキーは不利な立場だった。しかし現実には、追い付かれるまで粘る事すらできなかった。

 銃声は、腕の中から響いてきた。焼け付くような痛覚が、ジャッキーの胸部に広がった。熱く、ひたすらに痛い。オーラを込めに込めたパクノダ渾身の銃撃は、過たずジャッキーの上行大動脈、心臓直後の血管を千々に吹き飛ばしていた。それは、どう見ても致死量の損害だった。

 ジャッキーにも分かっていた。撃たれて豹変する前後のパクノダの、どちらが本来の姿なのか。彼女にとってどちらが本当の仲間だったのか。そんなものは、注意深く観察すれば違えようはずもない。信じられなかったからこそ理解してしまった。ここでパクノダを連れて逃げおおせても、彼女は純粋に迷惑だろう。

 そんな事、ジャッキーとて分かっていたのである。

 それでも、見捨てぬと決めたのだ。

 滑稽な姿ぞ良し。嘲笑いたくば嘲笑え。ジャッキー自身、嘲笑が込み上げて止まなかった。未だ走りながらもぐらつき崩れ落ちる寸前の彼の巨体に、マチが背後から手刀を見舞った。躊躇のない鋭利な貫きは、見事にジャッキーの脇腹を貫いた。内臓がぐずぐずに引き回されて、体は二度目の致命傷を負った。

 しかし、ジャッキーは倒れない。倒れる事が、許せなかった。今生で最後の息を吸う。千切れてしまった腹筋で、血液が溢れる肺腑に空気を入れた。

「カバディー!」

 叫んで、ジャッキーは再び地面を蹴った。足取りは異常にしっかりしていた。走っている。カバディーカバディーと吠えながら。声と一緒に血を吐きながら。パクノダを腕に抱き締めながら。

 ジャッキーの体を纏うオーラの様相が、一変しておぞましく無気味になった。見る者に死を連想させる不吉なオーラ。既に生者の有り様ではない。死してなお蠢く呪われた遺骸。腐ってないだけの死体だった。これは、【煩悩無量誓願断(ハイパーカバディータイム)】。その名にたがい、煩悩しか肯定しない末期の能力。決して使わぬと決めていた、使用しない事に意義があると思っていた第4の発。

 ここに、ジャッキーの生涯は台無しになった。

 魂を燃やして増幅されたオーラにまかせて身体を強化する。カバディーと連呼しつつ追っ手から逃げる。拳を避け、蹴りを躱し、ただ脚を動かしてカバディーと叫んだ。腕の中のパクノダが逃れようともがく。脇腹に開いた穴から内臓がぼろぼろと零れだし、長い腸がこぼれて垂れた。胸元から、血がばしゃばしゃと吹き出してくる。それでも、ジャッキーはひたすらカバディーと叫んだ。

 なにが求道者だ。なにが誓願だ。結局の所ジャッキーは、信念を貫けない弱虫だった。どうしてだろう。迷いを断ち切りたくて生き方を選び、死に様を選ぼうと能力を決めた。それが、なぜ。最後の最後で煩悩に捕われているのだろう。ありのままに受け入れるのではなく、拘泥してしまっているのだろう。

 ジャッキーの脚は駆けるのをやめない。やめてくれない。分かっている、これは全く無意味な疾走だった。

 だけど、仲間を見捨てぬと、決めてしまったから。

 ただ、カバディーと。

 腕の中のパクノダを抱き締めて、ジャッキーはなおも速度を上げた。全身から、禍々しいオーラが大量に吹き出る。走る以外の機能はいらない。涙が、鼻水が、涎が、血液が、内臓が、糞尿が、止めどなく漏れ出て飛び散っていく。既に声は声ではない。自らの血が喉にまで溜まり、ガボガボと溺れながらもカバディーと叫んだ。パクノダの拳が側頭部を打ち、漏れ出るものに脳漿が加わった。苦しい。苦しい。痛い。痛い。辛い。それでも、ただ、カバディーと。

 ジャッキーの遁走は醜悪なほどに速かった。浅ましいまでに脚部を動かし、鍛え抜かれた旅団をも引き離し、カバディーと叫びながら夜の街を疾走した。地理など把握してるわけがない。目的地など念頭にあるはずもない。ジャッキーはただ走る為に走り、逃げる為に逃げ、叫ぶ為に叫びながら駆けたのだ。

 その様な無茶が長く続くはずもない。膨大だったオーラは見る間に消費され枯れていく。肺腑は萎み、喉は枯れ、血は尽き、筋肉は萎び脚は壊れる。走っていたと表現できる時間は、実際には1分もなかっただろう。もはやジャッキーの足取りは重く、引きずる様に足を擦るだけだった。本気の怒号であるはずの連呼は、ぼそぼそと呟くようにしか聞こえてこない。それでも、ジャッキーは全力で走り叫んでいた。パクノダが抱いていた抵抗する意思は、とうの昔に冷めていた。

 そして、ついに。旅団を振り切った地点からわずか5キロ、たったそれだけ走った先で、ジャッキーは唐突に崩れ落ちた。逞しかった巨体は老人の如く枯れ果てて、オーラは欠片も残っていない。5キロ。それはハンターにとって指呼の間にも等しい距離。ジャッキーはたった5キロを走るため、走って死ぬために生き返ったのだ。生涯を台無しにした代わりに得たものは、あまりに短い逃走劇だった。

 炉端にしゃがむジャッキーは何も言わない。何一つ言う事ができなかった。その亡骸は乾いていた。ジャッキーは二度と笑わない。彼の野太い笑いが響くことは、永遠に、無いのである。

 パクノダは一人、ジャッキーの最後を見つめていた。旅団には既にメールで無事を告げていた。本当に、ジャッキーのした事は無意味だった。パクノダのスーツを血糊で染め上げ、クロロ達との打ち合わせを邪魔しただけ。それでも、怒りだけは湧いてこなかった。

 別段、感傷に見舞われていたわけでもない。彼女が踏みにじってきた切なる願いは、ゴミの街で見届けた届かぬ志は、この程度で心を動かすほど乏しくはなかった。むろん涙腺も弛みはしないし、この男の冥福を祈ってやる義理もない。今宵、この街で馬鹿な男が一人消えた。それ以外の何かでは決してなかった。

 ただ、なぜだろう、遺体をしばらく眺めておきたかった。

 そういえば、とパクノダは思い直した。緊急コールを発信した後、彼女一人だけが生還した事実。その言い訳の材料は、ジャッキーの死に様が役立ってくれるだろう。この遺体の有り様を見れば、疑問を抱くものなどおりはしまい。そんな結論に達したパクノダは、ジャッキーに微かな感謝の微笑みを向けた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 わたしが現場に着いたとき、まず浮かんだ感情は怒りだった。ジャッキーさんを失った事は、とても悲しくて苦しくて、涙が出るほど悔しかったけど、それでも怒りが一番大きかった。

 たぶん、わたしの表情は、とても醜い。

 ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、掌を必死に握りしめて、建物の壁面を殴りたい衝動を必死に抑える。萎び果てたジャッキーさんの遺体はとても寒そうで、抱き締めて暖めてあげたかったけど、悲しくて抱き締めさせてほしかったけど、現場保存のためにそれもできない。世界はこんなにも理不尽で、わたしはこんなにも無力だった。

 短すぎる付き合いになってしまったけど、ジャッキーさんは良くしてくれた。だけど、わたしがジャッキーさんに向けていた感情は、きっと親愛ではないのだろう。どこにでもある、仕事仲間に対する他人行儀な普通の好意。その先に進む前に関係は途切れた。だから、この怒りは正当ではないのかもしれない。状況に惑わされてるだけかもしれない。でも、今はその感情に酔っていたい。身を焦がす憎悪に浸っていたい。それが供養になるかはわからないけど、少なくとも事件解決の糧にはなる。

 憎悪を胸に、わたしは、人を殺そう。

 連続殺人の犯人を、ジャッキーさん達を襲った人も、わたしの光線で焼き払おう。それが必要とされたなら、わたしはこの手を汚してみせよう。そう、心に刻んだ。

「エリス、深呼吸して」
「……アルベルト?」
「勘違いしてはいけないよ。僕達は、全知全能の神じゃない」

 アルベルトは言った。いつも通りの優しい瞳で。これはありふれた理不尽だと。怒りに身を任せてはいけないと。それは確かにそうかもしれない。今までもいくらでもあったんだろう。戦争、飢餓、貧困、殺人。わたしにとってはそれが、今まではモニタの向こう側の世界だっただけで。だけど、ジャッキーさんの死は目の前にある現実で、そんな言葉で納得なんてできなかった。

 ともすれば嗚咽をもらしそうになるわたしを、アルベルトはきつく抱き締めてくれた。震える体を温めて、あふれだす感情をやわらげてくれる。

「もしね、エリスがどうしても堪えきれないなら、僕がその感情を半分貰おう。今まで通り、僕に君の思いを分けてくれ。そうすれば、僕もきっと怒る事ができる」

 カイトさんとパクノダさんの前だけど、他にも現場検証の人達が沢山いたけど、それでも恥ずかしさより嬉しさが勝った。アルベルトの力が強すぎて、胸が少し苦しかった。しばらく、アルベルトはそのままでいてくれた。

「カイト、捜査方法の変更を提案する。ジャッキーもご覧の通りだ。もう、手段は選ばない」
「ああ、詳しく聞かせろ」

 わたしを放したアルベルトは、自分の能力を最大限使う事を発案した。それは能力の全貌を丸裸にするに等しい事だって、それぐらいわたしにも分かっている。本気になったアルベルトの瞳はとても頼もしくて、だけど冷たくて少し怖い。きっと、この人はまた無茶をするから。

 携帯電話の赤外線通信部分に目を合わせて、アルベルトは能力を実演した。わたしには詳しくわからないけど、眼球周辺から赤外線を具現化して、同時に網膜の視細胞を赤外線に合うよう操作してるんだと思う。そう、アルベルトはその気になれば、生身でデータ通信に対応できる。人間離れしすぎてるから、あまり披露して欲しくない技だけど。

「便利だな。よし、詳しく詰めよう」
「便利すぎて、師匠にはあまり頼るなって言い付けられているんだけどね」

 冗談めかしてアルベルトは言って、ふと、何かをじっと見つめていた。視線の先にはパクノダさん。ジャッキーさんの血にまみれているけど、本人は大した怪我がなさそうで本当に良かった。

「……どうしたの?」

 アルベルトを見上げて尋ねてみた。カイトさんと話しながら現場検証の人達に指示を出していく彼女の姿を、特に背中を注視している。

「いや、なんでもないよ。寒くないのかなって思っただけだから」

 確かに、春とはいえ夜はまだまだ肌寒い。薄手のスーツの上1枚でワイシャツも着ていないパクノダさんは冷えそうだ。でもそれは普通の人の場合ならで、念能力者にも通じるはずがない。例え纏しかできない人でも、肉体の耐性がぐんと上がっているのだから。

「アルベルト?」
「ごめん、また後で」

 疑問を浮かべるわたしを振り切る様に、アルベルトは二人に混ざっていった。



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【煩悩無量誓願断(ハイパーカバディータイム) 操作系・死者の念】
使用者、ジャッキー・ホンガン。
能力者が明確な死の瀬戸際にいるときのみ発動させる事ができる能力。
息継ぎなしで「カバディー」と叫び続ける限り能力者を此岸に留める。
発動させた瞬間、能力者の死亡が確定する。

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次回 第十三話「真紅の狼少年」



[28467] 第十三話「真紅の狼少年」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/10/25 20:50
 打ち付けた撃鉄は重く硬く、流れ出す脳漿は黄白く赤い。荒れ果て、忘れられた廃屋はガラスが破れ、世界はオレンジ色に染まっていた。惚れ惚れするほどの朝焼けだった。

 国家憲兵の黒い制服を着た死体が2つ、血溜まりの中に置かれている。男は懐から噛み煙草を取り出して、殺しの後の一服と洒落込んだ。吐き出された唾には、幾分、自嘲の色が混じっていた。

 殺す必要はなかった。男の能力であれば。殺してしまったのは失敗だった。二人が連絡を断ったこの付近は、すぐさま当局にマークされてしまう。ここ数日、捜査網の蠢動が劇的に早くなっている。だが、男は反射的に殺していた。自身の念能力に頼らない癖も善し悪しだった。

 しかし、彼らは大声を上げたのだ。

 職務上、不審者を威嚇する為だろう。自らを奮い立たせる為だったかもしれない。あるいは命令に服従させ、無駄な戦闘を避けるテクニックだろうか。とにかく、正当な理由をもった怒鳴り声だった。だが、ここには熱に浮かされる少女がいた。彼らを手っ取り早く黙らせる為、男は最も迅速な手段に出た。引き金を2回、頭部と心臓に1発ずつ、それが二人分で事は足りた。瞬きすらも許さなかった。

 念弾を吐き出した拳銃から周を解き、腰のホルスターに無造作に戻した。思えばこれも失態だった。男ほどの腕があれば、実弾を装填してから撃っても十二分に間に合ったはずである。わざわざ念能力者の被害にあったのが明白な死体を生産してしまったのは、きっと、その方が静かに殺せたからだ。

 過ぎた事は最早どうしようもないと、男はそれ以上拘泥するのを取り止めた。噛み煙草を床に吐き捨てて、銀のスキットルに入れたウイスキーで口をすすぐ。振り向けば簡素な寝床があった。床の上に新聞紙を敷いただけの寝所には、褐色の肌の少女がいた。寝顔は汗にまみれていて、ひどく苦しそうにうなされていた。

 限界だなと、男は少女の体調を見て取った。

 ここ数日はずっと野宿で、夜間も移動を繰り返し、ろくな休息を取れていない。屋根の下で眠れた昨夜はましだった。宿を取れず部屋を借りれず、昼夜を問わない憲兵の見回りに気を張った。暖を取れる機会も乏しかった。明らかに、今までとは捜査体勢が違っていた。

 この程度の無茶は、男一人ならどうにでもなる。だが、少女の小さな体には負担になった。未だ完璧さとは程遠い彼女の纏は、疲れとともに揺らいでいった。そしてついに、昨日、少女は熱を出して倒れ込んだ。娼館時代に染み付いた習性の為だろう。彼女は限界まで己の不調を訴えず、男の足手纏いになる事を恐れていた。

 あるいは、もう潮時なのかもしれなかった。



 少女が目覚めると、昨晩と違う景色が広がっていた。青く澄んだ広い空。昨日見つけた廃屋ではなく、都市から離れた荒野にいた。聞くと、男が担いで移動させたのだという。太陽が昇りきるまで眠れたからか。身体の調子も、少しは改善されたようだった。

 壁は岩蔭、椅子は石、食卓は膝。味の無いぼそぼそするビスケットを水で流し込むだけの簡素な朝食。ただ餓えを癒すためだけの食料を胃の腑に納めてから、少女は本日の行動を主に尋ねた。男はとうに食べ終わり、一人噛み煙草に興じていた。

「部屋を探すんですか?」
「ああ、そうする事にした。食べたら出るぞ」
「できるのですか?」

 少女の疑問は当然だった。それが容易でないからこそ、ここ数日難儀していたはずではないか。

 高級ホテルから場末の宿泊施設まで伸ばされて、リアルタイム同然に掌握された情報の魔の手。表の街に目を光らせ、貧民街の最奥まで占領とまごうばかりに乱入し、権力を振りかざして隅々まで調べる憲兵部隊。人の寄り付かない場所にも頻繁に巡回の人員が立ち入っていた。有力者は精密に補足され、鞭の音に怯えて当局の犬に落とされる。それでも従わない者達は、尽く牢に連れ去られた。袖の下で報告を誤摩化した憲兵も、数時間も経たずして牢獄へ消えた。

 あれは、スラムをよく知る者の発想ではなった。飴より鞭を。正確さより素早さを。地域の実力者を重視しつつも、決して信用せずに暴力で脅し、有無を言わせず動かした。経験を積んだ男はいうに及ばず、少女も直感から確信した。これは、スラムの水で育った者の発想である。

 実のところ、そんな根本方針自体はこれまで見られてきたものと大差ない。しかしここ数日、実現方法が異常なほどに発達していた。状勢を認識しきれていなかった少女に対し、男は矛盾する二つの推測を打ち明けた。人間の仕業ではないだろうと。恐ろしいまでに人間らしいと。

 いくら情報化社会と謳われる今日でさえも、情報の価値を最終評価できる存在はヒトしかいない。最先端の人工知能を走らせたコンピュータも価値観を主体的に評価する術を持つ術はなく、あらかじめ渡された条件に沿って条件分岐しているにすぎないのだ。この世界の装置は未だかつて、我を思うに至ってない。

 だが、捜査体勢が隅々まで強力に行き届いているのを見る限り、リアルタイムで大勢の捜査員それぞれに対し、優れて人間らしい柔軟な指令を与えてるとしか考えられない。たとえ全国規模ではないとしても、この方面というだけで個人の能力の範疇ではなかった。

 では、司令してるのは集団か。それこそまさかだ。集団で決定を下すのは容易ではない。個人が受信した報告から必要箇所を取り出し摺り合わせ、皆で共有するだけで大仕事だ。自然、集団による指揮管制はフットワークが鈍くなりがちで、細かい箇所まで目が行き届かなくなる。男は少女に断言した。どう考えても、裏に悪夢のような『個体』がいる、と。

 それはきっと異星の機械。おぞましいまでの、情報を把握する異形の秘術。

 そんな狂気に満ちた化け物を、男は出し抜こうというのだろうか。

 次の街へ赴く為、荒野を横断するハイウェイを監視して、時々通りかかる車を適当に襲って強奪する。それはいい。男のいつもの手口だから。傷害や殺人を厭わない性格への嫌悪はいまさらだったし、安っぽいオンボロを好む嗜好も諦めていた。高速で走行する自動車の狙った箇所を正確に狙撃できるかなど、この男に限っては懸念するだけ無駄だろう。だが、移動した先でどうするのか。

「別の街を訪れても、捜査体勢は緩くはならないと思いますが」
「まあな。だから、仕方ねぇから能力を使うわ。本当は、あんまやりたくないんだけどよ」
「能力、ですか? それは、私に使ってる?」
「おう。教えたとおり、もう一つは最後の手段だしな。戦闘中の、絶体絶命の危機でしか使えねぇ」

 自信満々に言う男に、少女は怪訝に眉をひそめた。男が都合よく利用できる女性など、そうそう転がってないと思ったのだ。例え住居となる物件の所有者を手篭めにできても、近隣の住人を軒並み犯して回るわけにはいかないのだから。



 車を走らせ荒野を超え、二人は次の街に辿り着いた。かつて、オアシスをもとに発展したという中規模都市。およそ10万人の人口が、ビルを寄せあい暮らしている。首都や主要都市のようなきらびやかな繁栄とは無縁だが、決して貧相な景観ではない。いくつかの主だった建物はそれなりに高くそびえ立ち、田舎なりの威容を誇らしげに晒していた。

 外れには、繁栄から取り残された旧市街が見える。打ち捨てられたコンクリート製の遺跡群。過去、開発計画が頓挫した公営団地を中心に、薄汚れた灰色が密集している。机上計算により最初から成功が確定されていた理想的事業の、夢破れた成れの果てだという。もう、何十年も前の話だった。

 世界を揺るがせた情熱は儚く消え、人々はなお、この場所で今を生きていた。

 他の街のスラムとそう変わった要素の見あたらない旧市街には、未だ多くの人が暮らしている。中核となるのが廃虚を不法占拠している最貧困層で、ごく稀に、外から追われた者が安息を求めて逃げ込んでくる。質素で優しい世界はどこにもなく、あるのは唯一、弱肉強食という法のみなのに。

「どちらに身を寄せるんですか?」

 車の助手席から街並を眺め、少女はハンドルを握る男に尋ねた。開け放った窓から吹き込む風は、砂塵と金属の香りがする。旧い2ストロークエンジンをかき鳴らす小さな乗用車はご機嫌で、男の機嫌を大いに上昇させたようだった。雨に濡れたら溶けそうな風情の不思議なボディーは、叩くと軽快な音がした。

「どうせなら活気のある方に行こうぜ。お前だって久しぶりにいい環境で寝たいだろ」
「それは、まあ……、休めればいいんですが」

 まだ少し重たい体を意識して、少女は座席の背もたれに身を委ねた。昨夜は久しぶりにいくらか眠れ、道中もある程度休む事ができた。体力は大分回復してきたようだったが、それでもベッドの誘惑は強力だった。贅沢なスウィートルームなんて戯れ言はいわない。当たり前のホテルの一室で十分だった。シャワーを浴びて埃を落とし、純白のふわふわに沈みたい。そうすればきっと、少女は幸せに溺れて死ぬだろう。

「……そうですね。その提案は、素敵です」
「だろ?」

 男は楽しそうにハンドルを切り、角張った自動車を目的地へ向けた。



 ああ、これは駄目だなと少女は悟った。

「うちに入居したいっていう物好きはあんたらか?」

 少女は最初から読み間違えた。男のいう活気のある方とは、ハングリー精神旺盛な側を指していた。少女にとっては退廃と暴力の象徴でしかなかったが、彼には違って見えたらしい。ならばさしずめ、いい環境とは郷愁誘われる汚泥と腐肉の臭いだろうか。

 それは、スラム街の中心に近い為に地価が安く、しかし憲兵の重点巡回地域からは外れていると思われる、なんとも都合のいい条件の揃った地区だった。

 男が慣れた手順と優れた嗅覚で探し出した五階建ての小さなビルの一階には、脂ぎった中年男の大家が住んでいた。この辺りでは稼いでいる方だろう。着るものはよれよれの安物だったが、顔に焦りが刻まれてない。太鼓腹がひときわ目立ち、全体的にどすんとした印象の太い体型。ビール樽にぶにぶにした手足を付け、態度の大きい頭部を乗せれば完成だろうか。閨事に持ち込めるとか、持ち込めないとか、もはやそれ以前の問題だった。

「問題を起こさず、ちゃんと金を払うってんなら文句はないがな。丁度空き部屋もある。最低限の家具は入ってるから、その気なら今日からでも住めなくはないはずだ」

 掃除はそっちでしてもらうがなと、大家の男は付け加えた。二人の関係を探っているのを隠そうとしない、傲慢で無遠慮な視線だった。とりわけ、少女をじろじろと眺めている。肢体に粘りつく独特の感触は、娼婦の頃から馴染みあるものだった。

 だが、それならむしろ都合がいい。

「ああ、それでいいぜ。頼む」

 男が言った。

「なら、ここにサインと、あとは身分証明書をよこしてくれ。時節柄、とにかくお上が煩いんだ。知ってるだろ」

 男が大家にいくらかの金額を前払いし、合意が成立した際に大家が言った。生体認証の簡易端末を取り出して、明らかに不馴れな様子で立ち上げていく。もしも男が照会に応じたら、瞬く間に不法入国の犯罪者とばれるだろう。少女に至っては、法的には死人のはずである。

 これだ。これこそ最大の障害だった。

 宿での宿泊や些末な賃貸契約でも国民番号を当局に報告させ、国際人民データ機構の登録情報とオンライン照会までさせる緊急措置。事件の影響で何ヶ月も前から存在し続けた制度とはいえ、今までは表の街のまっとうなホテルや業者でしか通用しなかった。あくまで、お上品な世界のルールでしかなかったのだ。

 それが、数日前からスラムでも徹底されていた。権力と恐怖に裏付けられ、横暴ともいえる圧政により促進された、ありえないほどの普及速度。今では既に住民達は、欠乏より違反を恐れていた。

 仮にこの場で断っても、確実に不審者として通報される。いっそ殺して乗っ取るなら少しの時間を稼げたかもしれないが、男にそうする気はないようだった。

「篭絡するなら、私が」

 少女は男の服を引いて、落とされた視線に小声で告げた。彼はこの大家を抱かないだろうし、絶対に抱いて欲しくなかったのだ。たとえ一方的に強制された主従関係だとはいえ、彼女の隣に立つ人物には最低限の節度を保ってほしかった。

 だというのに、男は驚いたように目を見開いて、その後、笑いを堪えるように奥歯を噛んだ。なんて失礼な態度だろうと少女は呆れた。実は男は両刀で、それも最悪の趣味だったのか。彼にとって少女とこの大家の肉体は、同列に分類されるべきなのだろうか。

 差し出された契約書に一通り目を通してから、ウィリアム・H・ボニーと男は記した。少女は知っている。それは彼の偽名だと。最も気に入ってる一つだと。

「ああ、これだ。ほら、確認してくれ。間違いなく俺の身分証明書だ。何も、問題はない」

 財布から未使用のコンドームを一つ取り出して、堂々とした態度で大家に渡した。大家はそれを受け取って、しげしげと裏表を眺めている。あまりに常識はずれの行動に、ふざけてるのだろうか、と少女は内心でいぶかしんだ。だが、大家の反応は少女の想像を超えていた。

「確かに身分証明書だが、おい、国民番号はどこだ?」
「必要ねーよ。あんたは確認も報告も全部済ませた。済ませたんだぜ」

 だから問題はないと男は告げた。国民番号をデータベースに照会しようと端末を操作していた太い指が、次第にゆっくりになってついに止まった。泳ぐように、眠るように、大家の目がゆるりと蕩ける。側に用意していた生体情報の読み込み装置も、役割を終えたかの様に仕舞われた。

 もし少女が、もっと念に熟達していたら、男のオーラが喉の奥に集まっていたのが分かっただろうが。

「そうだな。これで確認は終わりだ。あんたらに問題は何もなかった」
「その通りだ。もう、この契約書だって必要ないぜ。役割は完全に終わったんだ。俺が処分しておいてやるよ」
「そうか、頼む」

 唖然として眺めるしかない少女の目の前で、話はどんどんまとまっていく。彼女には全く理解できなかったが、何も問題はない、そういう事になったようだ。大家から取り返した契約書を懐に入れて、最後に男は部屋の鍵を要求した。

「部屋は一番上の5階だ。フロアに一室しかないから迷う事はない。気を付けろよ。鍵をなくしたら交換代は負担してもらうぜ」
「ああ、分かってるよ。ほら、行くぞ」

 とにかく、どうにかなってしまったらしい。少女の疲労感が増大した。部屋から出ていく彼女の臀部に、大家の好色な視線が張り付いている。それだけが、少女の常識に合致し続けた全てだった。



「どういう事ですか?」

 部屋に入るなり、少女は男に問い詰めた。

 小さいながらも建物のワンフロア全てを専有している一室は、意外に広く、天井も高い。調度品は前の住人が残していったものだろうか。テーブルに椅子、箪笥にベッドにソファーなどと、必要なものは一通りそろっているようだった。特にベッドはありがたい。無論、シーツも枕もなかったが、マットのスプリングはへたっておらず、それだけで格段の進歩だった。埃もそれほど積もってなく、少女の予想より遥かに上等の物件だった。

「なんだ? お前あいつに抱かれたかったのか?」

 窓を開けて空気を入れ替え、間取りを確かめつつ男が言う。

「そうじゃありません。あんな能力があったら、事前に教えてくれても良かったでしょう。二つしかない、なんて意地悪な嘘をつかないで」

 少女はベッドの縁に陣取って、男への不満を隠さない。男の為、彼女は大家に抱かれる覚悟まで決めたのだ。誰かに強制されたのでなく、自発的に。数多の夜を越えた彼女にとっても、生まれてはじめての経験だった。それが根本的に無駄だったなら、少女の憤慨も当然だろう。

「嘘じゃないぜ。さっきのも、お前に使ったのと同じ能力だ」
「まさか。抱いた女を操作する能力なのでしょう。現に私は、貴方の命令に逆らえません。放出系で複雑な操作こそできない代わり、地球の裏側に逃げても解除されない有効範囲を誇るとも教えられましたよ、マスター」

 本名を教えられ、二人きりなら口にする許しも得た今になって、少女はあえてそう呼んだ。よほど腹にすえかねたのか、赤い瞳が怒りに激しく燃えている。

「あー、そうだったな。そういやそんな説明してたんだな。……どうすっかな」

 ぽりぽりと後頭部をかきながら、男はしばし沈黙した。少女の胆力に押されるほど柔ではなく、是が非でも説明しなければならない立場でもなかったが、今となっては騙し続ける事もまた億劫だったのだろう。

「もう、本当の事を明かしても構わねぇか。今までお前に信じ込ませていた機能、そっちの方が、嘘だ」

 男の能力は放出系と操作系の複合技などではなく、強化系とのそれだった。



 当たり前の話であるが、この惑星の大きさは、人間のスケールを遥かに超える。赤道直径12,756km。いかに放出系の能力者とはいえ、それだけの遠隔地にいる対象を操作可能なほど、パワーと射程を両立させる事は不可能である。まして、人間は独自の自意識を持っている。その意志に反した動きを強要することは、意外と大変なことなのだ。

 ではなぜ男はわざわざ、地球の裏側に行っても無駄だなどと口にしたのか。無論、少女に印象づける為である。

「つくづく、タチの悪い能力ですね」

 翌日。新市街まで繰り出し、小奇麗なカフェで頼んだアイスミルクティーを楽しみながら、少女は呆れた様子で呟いた。テーブルにはこの店手作りのチョコレートシフォンケーキにホイップクリームをたっぷりのせた皿が鎮座しており、フォークが入れられるのを今や遅しと待ち望んでいる。少なくとも、少女にはそう思えて仕方なかった。

 対面に座る男は相も変わらずコーヒーを注文したが、なんと、今日はエスプレッソという暴挙に出た。嗚呼、と少女は震駭した。ついにこの男は、濃縮された産業廃棄物を嗜好するまでに至ったのかと。いつか黒インクを飲ませてみたい。

「……却下ね。喜ばれたら、どうすればいいの」
「んあ? どうした?」
「いえ、なんでもありません。それより」

 ケーキを攻略していたフォークをしばし休めて、少女は男をじっと見つめた。

「早ければ明後日の夜半から、遅くても明々後日の明け方だそうですが、どうするんですか?」

 カフェ備え付けの新聞には、悲鳴にも近しいアオリが踊っていた。春の雨期の到来まで、後それだけの時間しかない。男がその気になったなら、少女の余命もそれまでだ。

 不思議と、恐怖はそれほどなかったが、あるいは麻痺しているのだろうか。少女は自分の心をぼんやりと眺めた。死を望むほど殊勝な心がけは無かったが、なりふり構わず生存に齧り付きたいと思うには、嫌な経験が多すぎた。

 だが、男は少女の想像を超越した。

「逃げたきゃ逃げろよ。いいぜ? 俺は追わねえし、欲しけりゃ支度金だって渡してやる」
「……え?」

 追加で注文したサンドイッチを食べる合間の、なんともやる気ない返答だった。挙げ句、財布の中身を確認している。もし足りないと判断すれば、すぐにどこかに忍び込むだろう。

「それは、逃げなければ覚悟しろとのことですか?」
「なんだ? 逃げたくないのか?」
「……間違えないで下さい。逃げられないんです。私はあなたに、そう、逆らえませんから」

 ギュッと、小さなフォークを握りしめて少女は言った。

「おいおい、まだ解けてないのかよ。カラクリは理解したんだろう? 現状を疑いさえできるなら、表層意識での縛りは一晩もありゃ余裕で解けるはずだぜ」
「そう言われましても、あいにくと解けてないようです。隷属の身に苦痛は感じても、この場所から離れたいと思えません」

 お前って意外と単純馬鹿だったんだなぁと男は呆れ、仕方ないと少女に向き直った。俺が合図すれば全てが解ける。そう予告して、強いオーラを声帯に込めた。

「最後に一つ、よろしいですか。マイマスター」

 おそらく、少女が男をこう呼ぶのは、これが最後となるだろう。

「あん?」
「なぜ、こんな、簡単に解放していいと考えたのでしょう。私に、飽きましたか?」

 少女が内心に押し隠した不安さは、ともすれば洩れていたのだろうか。

「いや、そうじゃねぇな。そろそろ潮時だと思っただけだ」

 一口齧ったサンドイッチを香り高い酸味のエスプレッソで流し込んで、男は面倒臭そうに説明した。

「嫌いなんだよ、与えられた感情しか持たない肉人形ってのは。世の中にはいろんな性癖の奴がいるんだろうが、少なくとも俺は、ゼンマイ仕掛けの模造品に欲情するような趣味はねぇ。だからな、そうなる前に殺すか捨てる事にしてる。別にお前も殺しても良かったんだが、なんとなく面倒だった。言葉にするなら、まあ、そんだけの理由なんだろうな」

 なら、なぜ女を奴隷にするスタイルをとっているのだろうか。少女は男の身勝手さに苛つきを覚えたが、そのおかげで娼館から自由になれたのも確かだった。しかし、だからといってそう簡単に納得のいくはずもなく。

 なにより、少女の扱いが軽すぎるのが我慢ならない。

「もういいか? んじゃ、いくぞ」
「ええ、早くして下さい。一刻も早く、貴方をぶん殴ってやりたい気分ですので」

 剣呑な瞳で少女は言ったが、男は歯牙にもかけず苦笑した。3、2、1、解けたぞ。男の、たったそれだけの言の葉だけで、少女から何かが抜けていった。肩がすっと軽くなり、縛られた魂が楽になった。

 だからだろうか。すとんと、その感情が腑に落ちたのは。

「憶えてますか? 最初に何を命じたか」

 急に切り出した少女に対し、男は怪訝そうに答えを返した。

「俺に従えってやつだろ?」
「もう一つです」

 瞬間、男は顔をかすかに顰めた。ちゃんと憶えているのだろう。答えたくないのだと少女は悟った。叱られた少年のような表情だった。無言で続きを促され、少女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

「俺に好意を抱くな、と」
「……ああ、それがあったか」

 男の白々しい演技にも、少女は何も言わなかった。

「安心して下さい。私は今でも、あなたの事が大嫌いですから」

 男への評価は変わらない。彼女は今でも男が嫌いで、男の性癖が嫌いで、男の行動指針が嫌いだった。大嫌い。それが、偽らざる少女の本音だった。

 だけど。

 好きと嫌いが両立するなんて、少女はこれまで知らなかった。

 駄目な男だと少女は思う。恋心を抱くには幼稚すぎて、好感を抱くには悪辣すぎる。人生のパートナーとして目星を付けるなど、戯れ言にしても酷すぎた。だというのに、愛情を抱くには支障がない。駄目な女だと少女は思った。

「引き際を間違えたみたいですね。お互いに」

 貴方の事は大嫌いなままですが、逃げる事ができなくなりました。少女は静かにそう言って、責任を取るよう要求した。男は無表情で黙っていた。脈は全く無いのだろう。少女も、恋人になりたいなどとは思わない。それでも、彼女は願ってしまったのだ。殺されるにしても、打ち捨てられるにしても、この男の人生に消えない傷を付けてこの世を去りたいと。

 生まれてはじめて、少女は命の使い方を見出した。



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【真紅の狼少年(ラポールマスター) 放出系・強化系】
発声とともにオーラを飛ばして語りかけた言葉の意味を強化する。
強化の程は発声時に込めたオーラの多寡によって上下する。

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次回 第十四話「コッペリアの電脳」



[28467] 第十四話「コッペリアの電脳」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/11/28 22:02
 身につけたドレスが、とても重い。

 ポシェットから卵の化石を取り出して、両手でそっと握りしめる。本当に、綺麗。深く澄んだ蒼色に、心も体も吸い込まれそう。だってのに、この胸を締め付ける苦しさは、ちっとも吸い取ってくれなかった。やっぱり、アルベルトがいないと、わたしは、こんなに弱い。

 椅子の背もたれに体を預けて、わたしは深く息を吐いた。目を閉じる。暗い闇の中にひとりぼっち。飛行艦は今、首都の司令部に待機している。いつ入ってくるかもしれないスクランブルの為、五分体勢を維持する艦橋の中、わたし一人が落ち込んでいた。欝だ。あの光景が、脳裡に焼き付いて消えてくれない。膝を抱えて泣き出したかった。だけど、アルベルトの頑張りを無駄にする事だけはしたくなくて。

 本当は、こんな姿を周りに見せるだけでも、いけない事だって分かってたけれど。

 手鏡を取り出し、笑った顔の演技をする。大丈夫。そう、わたし自身に言い聞かせるように。アルベルトの重荷にだけはなりたくない。その想いだけが、鏡の中の笑顔を支えていた。

 そうこうするうちに時間は経ってしまっていて、手元のモニタが点灯した、現れたカイトさんが、打ち合わせの開始をわたし達に告げた。4分割された画面の向こうで、パクノダさんとアルベルト、憲兵司令のワルスカさんが頷いた。通信状態が悪かったからか、画質がちょっと荒いみたい。

 大事な仕事だ。これから始まる通信会議は、作戦の最重要段階に直結している。カイトさんもパクノダさんも真剣で、わたしも緊張せずにはいられない。アルベルトだけは、普段と変わらない様子だったけど。

 そんな、いつも通りのアルベルトは、合成されたCGだった。




 あの日、ジャッキーさんが亡くなった夜、アルベルトはそれを急造させた。小さく洗練された装置は要らない。有り合わせの無骨な代物でいい。そんな注文が忠実に実行された結果、わずか二時間後、司令部に帰った時には目当ての物の基幹部分が組み上がっていた。

 その時から、アルベルトは機器の群に埋もれていった。医療棟の集中治療室を一つ占領して、ベッドに横たわったままで栄養は点滴、排泄も呼吸も機械任せ。接続されるチューブの数も、時間の経過に従って増えていった。自分の体の制御を最小限に押さえたアルベルトは、余った脳の処理能力を電子情報の制御に振り分けていた。

 体のそこかしこから具現化される情報を拾うため、受光器が何個も置いてあった。開きっぱなしの両眼に照射される二本の半導体レーザーが、秒間数ギガビット以上のデジタル信号を送信して、オーラで強化された視神経を通って脳に伝わる。細胞の脱分化と再分化を制御できるアルベルトだから失明の心配こそないけれど、自分をそんな、便利な道具みたいに扱うのは、仕方がない事態だと分かっていても苦しかった。

 わたしも訓練に忙しくてあまり側にいてあげられなかったけど、時間を見つけて治療室まで行く度に、本当に、心臓が潰れそうなぐらい怖かった。身体制御を極限まで省略して電子の海に沈むうちに、いつか本当に、機械の一部になってしまうんじゃないかって、不安になってしまったから。

 ガラスの向こう、白い病室の中に沢山のケーブル。次々に情報を流す多数のモニタ。横たわったままのアルベルト。窓越しに眺めても何の意味もなくて、データ越しでないと話す事すらままならない。アルベルトは昼夜も知らずに働き続けた。その間、体はぴくりとも動かなかった。

 アルベルトがやった事はシンプルで、コンピュータ上に自分の人格を仮想化するという試みだった。軍研究所のスーパーコンピュータを一棟丸ごと借り受けて、その環境をあっという間に掌握したあと、瞬く間にそれは実行された。汎用プロセッサで無いなんて、些細な問題だったらしい。

 たとえアルベルトの能力でも、人格の基幹部分だけは数式化できない。だけど、それ以外の部分はどんどん移植されてデータになった。今では既に計算の主力はコンピュータで、アルベルトの脳髄は、プログラムに人間なりの価値観を提供する機能に特化してしまっている。

 危険すぎると、わたしはもちろん反対した。記憶はバックアップをとるから大丈夫、なんて本人は微笑んでいたけれど、どう考えても尋常な手段じゃない。

 だけど、カイトさんが許可を下したのを知った時、わたしは空恐ろしくなって震え上がった。過ごした時間は短いけど、あの人が自分の渡らない橋を人に押し付けるような性格じゃないのは知っていた。だから、嫌が応にも理解してしまった。ここまでするんだ、と。目的の為には。この人達は。ハンターと呼ばれる人達は。

 アルベルトの能力の詳細を知る人間を局限する為に、直接関わってる医療スタッフ以外には、わたしとカイトさんしか知らない秘密。だからパクノダさんに相談する事もできなかったし、そもそも最近は予定が噛みあわなくて、モニタ越しにしか会えてなかった。

 これが、アルベルトが提供した奥の手だった。

 ナノ秒以下の時間が流れる電子回路の基準から見れば、人の思考はとても遅い。一分や一秒なんてそんなもの、水晶振動子の鼓動と比べれば那由他に等しい。今時の、1990年ごろからの十年で急激な進歩を遂げたコンピュータは、CPUひとつで秒間数百万回の命令をこなしてしまう。人の価値観を理解する為のパーツを手に入れたプログラムは、人間に報告して指示を仰ぐ必要がなくなった。あるいは、最小限のタイムラグで済むようになった。自己構築までもが可能になった。

 国中の情報が徹底的に管理され、人でない存在に人間らしい判断がなされている。どこかのSFに出てきそうな未来像を、アルベルトはこの現代に実現させた。

 電子情報との、誰よりも高い親和性。それがあったからできたのだけど、素直に喜べはしなかった。だって、それだけ人間離れしてるって事だから。アルベルトの無茶は今さらだけど、今回はちょっと度が過ぎてる。もしかしたら、本当に自我の崩壊を恐れてないのかな、なんて、馬鹿な事を勘ぐってしまうぐらいには。

 ふと、アルベルトの発の名前が思い浮かんだ。

 【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】

 コッペリア。機械仕掛けの人形の名前。彼女にはもちろん脳は無く、魂も無く、ヒトを模しただけのカラクリ細工。自分を操る能力に名付けるなら、あまりに不吉すぎるんじゃないかと思う。

 壊される宿命の哀れな人形。存在した事で不和を招いて、失われる事で幸せに繋がる犠牲の羊。彼女が破壊される展開を経て、雨が降った後の地面が固まる。思いをはせるたびに辛くなる。アルベルトはあの頃、何を考えていたのだろうと。自分の生命を維持する力に、どんな想いを抱いたのだろうと。

 人間を真似て造型されて、人間らしく動いて、精一杯頑張って。なのに壊れる事が前提なんて、わたしは絶対に許容できない。めでたいめでたいハッピーエンド。ギャロップを踊る村人達と、忘れ去れたコッペリア。そんな脚本は許してあげない。

 だから、これ以上重荷を作りたくなかった。駄々をこねるのは胸の内だけ。今はわたしも精一杯やってみせて、全部終わったら沢山叱ろう。怒って、怒鳴って、泣いて、笑って。それから、ぎゅっと抱き締めて褒めてあげて。ご苦労さまって、ねぎらってあげようと密かに決めた。

 だからね、アルベルト。

 頑張って。今はそれしか言えないけれど。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 二人はカフェを後にして、再び街中へと繰り出した。とりわけ、目的の定められた行動ではない。この街の地理を把握するという名目こそあったものの、実際はただの散策である。目的地を決めることもしないまま、うららかな陽射しの中を歩いていた。

 木々が緑で潤う4月の街並は風光り、時間は緩やかに流れていた。スラムとは違う清潔な市街。雨期を控えて街を覆うピリピリした嫌な緊張感も、二人にだけは関係がない。

 風が吹き、少女の長い髪が柔らかくそよいだ。顔にかかる銀糸を手櫛で直して整えると、ふと、彼女を見下ろす男と目が合った。

「どうかしましたか?」
「ん、ああ。別にな」

 歯切れの悪い返事も特に気にした様子は無く、少女はそうですかと頷いた。

 あのようなやり取りがあった後でも、二人の距離感はあまり変わっていなかった。呪縛が解け、愛を告げたにも関わらず、少女はいつもの関係に甘んじている。腕を組もうともせず、体を寄せようともせず、ことさら会話を増やそうともしていない。

 ただ、男の隣にいるだけだった。

 男は当初、そんな彼女の様子をいぶかしんだが、すぐに気にしない事にした。いつも通りに少女を連れて、いつも通りに街を歩く。それで問題は何もなかった。いつも通り、男が獲物を見付け出すまではそうだった。

「駄目です。そういうのは、私が嫌いですから。ほら、行きますよ」

 素晴らしく欲情できる素敵な玄関を発見して立ち止まった男の腕を、少女が引っ張って中止を促した。まだ何も言ってなかったが、輝いた瞳で分かったのだろう。邪魔だなと、男は胸の芯が急速に冷えたのを自覚した。

 殺そう。男は即座にそう考えた。街中での殺人に慣れた男の頭は、遺体処理の方法について最適解を弾こうと回りだした。結果、この家に忍び込むと同時に捨てる事に決めた。それが一番楽だった。

「おい」

 ついてこい。男は命じようとして息を呑んだ。殺しを躊躇したのではない。殺人程度、今更躊躇えるほど繊細ではない。

 少女は男を受け入れ切った目で見上げていた。おまえを殺すと告げたなら、きっとそのまま受け入れるだろう。男に対してこんな目を向ける人間は、暗示を与えた奴隷以外に見た事がなかった。だが、少女は明らかに自分の意志で行動している。媚びるでもなく、恐れるでもなく、縋るでもない。ゴミ溜めで物心付いてから幾星霜、こんな人間の存在は知らなかった。深く底が見えない赤褐色の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

「これからどう食っていけって言うんだよ」
「真面目に働けばいいでしょう?」
「おいおい……」

 ぼりぼりと頭をかきながら男は呆れ、図太くなったなと少女にこぼした。女の子に対して失礼ですねと顰める顔は、珍しく歳相応に幼く見えた。

「それに、元々こういう性格でしたよ。知りませんでした?」

 いけしゃあしゃあと少女が言う。あるいは、本人は本気なのかもしれなかった。

「いや、変わったよ」

 掛け値無しの本音で男は告げた。いつまでも路上で突っ起っていても仕方がない。そう考えて、再びあてもなく歩き出した。少女はどうせ、後ろから付いてくるだろう。

「そうでしょうか?」
「ああ」

 明らかに、少女は昨日より生き生きしていた。積極的に生きていた。怖いものがなくなっていた。惰性で生きる男とは違い、何か目標を見出したようだった。

「お気に召しませんか?」
「どうだかな」

 こんなガキでも、右手代わりの役には立つ。啼かせて遊ぶのもいいだろう。だからもう少し生かしておこうと男は思った。雨の日に使えないのが難点だったが。

「じゃあよ、お前はどこか行きたい所、あるのか?」

 ぶっきらぼうに男は尋ねた。どこか拗ねてるような声だった。可愛い仕草だと少女は思った。表に出すことは、しなかったが。

「この近くに、公園とかありませんか? 椅子でもあって、ゆっくり過ごせる場所がいいです」
「公園、ねぇ。まあいいけどよ」

 街並みから地理を推測する直感は、男のほうがはるかに優れる。経験の桁が全く違った。建物の様相、地面の高低、人の流れ。そんなありふれた情報から、なんとなく予想して方向を定めた。男が適当に向かった先には、こじんまりした空間があった。木々で囲まれた中に広場があり、遊歩道が通っている。それは公園というよりも、小さな緑地に近かった。

 二人は木陰に据えられたベンチに座った。芝生にはスプリンクラーが水をまき、小さな虹がかかっている。設備の整った新市街は、乾期でも水に不自由しない。オアシスへ水を供給していたものよりもう一つ深い場所にある水脈から、強力なポンプで取水しているからだった。旧市街の同設備は、誰かに略奪された後である。新しく導入される事もないだろう。水資源の配分先を、無駄に増やすのは愚行だからだ。

「エサでも買ってこればよかったな」

 ベンチの背もたれにだらしなく体を預けながら、群れる鳩を眺めて男が言った。少女はそうですねと頷いた。本来ならマナー違反なのだろうが、あれほど悪事に手を染めた上で、今更こだわり抜くほど善人ではなかった。

「ん、いや。待てよ」
「なにかあるんですか?」
「ちょっとまってろ」

 男はポケットをしばらく探ってから、紙巻きと、一袋のビスケットを取り出した。少女はそれに見覚えがあった。堅く焼き締めただけの、味も素っ気もない保存食。袋の中で割り砕いたそれを、男は少女の掌にぱらぱらと落とした。

「良かったな」

 にやりと、煙草をくわえて男はいった。悪戯っぽい、少年のような笑みだった。少女が微笑むのを確認して、マッチに火を付けて吸い込んだ。安物の軽薄な紫煙ではなく、馥郁たる香りが辺りに広がる。どうせまた、忍び込んだついでに失敬した品だろうと少女は思った。

 ハト達も手慣れているのだろう。少女が欠片を撒く前に、足下にワラワラと集ってくる。それだけでは遅いと思ったのか、腕に、膝に、肩に、頭に、少女を埋め尽くすように群がってきた。ここまで人に慣れているという事は、恐らく、誰かが日常的に世話しているのだろう。

「え? わっ! わわっ!?」

 珍しくも素っ頓狂な狼狽ぶりを見せて、ハトに埋もれたままの少女が慌てる。頭を振り、上半身を揺らして追い払おうとするも、彼らは全く気にしていない。ばたばたと翼を羽ばたかせながら、掌の上の餌を狙ってひたすら群がる。両者が暴れるせいでビスケットは辺りに飛び散り、それを狙ってまた群がってくる。野生の食欲は留まる所を知らなかった。服や髪の上に撒き散った欠片さえも啄もうと、嘴で鋭く突っついてくる。端的に言って、少女は生きた餌台と化していた。

「ぶっ、はははっ。なんだそりゃ、おまえっ、はははははっ!」
「ちょっ、笑ってないで、助けっ! 助けてっ!」

 紙巻きを片手に、隣で見ていた男が吹き出す。小さな体を必死で動かし、少女は全力で混乱している。掌を宙に差し出したままなのは、律儀なのか思い至ってないだけなのか。仕方がないので男は、袋に残っていた粉を少女の頭の上からぱらぱらと振り掛けてやった。ハト達は大喜びで食らい付いた。

「ぶぁはははっ! っ、やべっ、苦しっ! あはははっ!」
「ふざけんなーっ!」

 少女の絶叫は虚しく響き、男は腹を抱えて爆笑していた。

 そして数分後、ベンチでは鎮座した少女が拗ねに拗ねていたという。



「返す返すも、随分と好きにしてくれましたね」
「だから何度も謝ってるだろ。いい加減しつこいぞ」
「女性の髪にあんなもの振りまいておいて、その誠意のなさは賞賛に値します。ええ、ほんとに」
「へいへい……」

 日が暮れかかった帰り道、思い返してまた腹が立ったのか、少女は鋭い視線で睨み上げてみせた。男はうんざりした表情で溜め息をつき、面倒臭そうに対応する。それが彼女の怒気を増々底上げしていたが、不思議と、男の側を離れる事だけはしなかった。むっつりとしたままの表情で、彼の腕を強く掴んでいる。しばらくそうしていた二人だが、折れたのは男の方だった。

「あー。悪かったよ。俺がガキだった。詫びに髪止めでも買ってやる。埋め合わせって事で納得してくれや」

 少女の髪の毛を撫でながら男は言った。なんとなく考えていたらしかった。背中に流したままの長い髪は、風に広がって邪魔だろうと。それに、月光を思わせる銀の糸には、控えめな宝石がよく似合うと。

「あの。本当に埋め合わせて頂けるなら……、その、髪止めなんかよりも」

 だが、少女は他に希望があったらしい。男は好意を無下にされた形だったが、不快感より疑問が勝っているようだった。そもそも、少女に物欲が乏しい事は、これまでの付き合いで分かっていたのだから。

「髪止めなんかよりも、なんだよ」

 男の視線から逃げるように、少女は目を閉じて俯いた。歩道の真ん中で足を止めてしまった二人を、通行人が迷惑そうに避けていく。

 少女はかつて、客の機嫌を取る為の口上ならいくらでも言えた。だけど、本心から紡ぐ言の葉が、これほど喉に重たいとは知らなかった。怪訝に思い声をかける男の腕から手を放し、大きな掌を両手で握った。

 自分の抱いた愛情を自覚しても、少女はこれまで積極的に迫る事はしなかった。それは打算の産物だった。どうせ惚れてしまったからには、相手にだって惚れさせたい。尽くしたいとも思うけれど、尽くされる側の快感にだって、一生に一度ぐらい浸ってみたかった。少女の想いは、半分ほど子供らしい悪戯心で、残り半分は本能だった。

 それでも、もう。

 目を閉じて、頬を染め、男の掌をきつく握った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 夜半。

 作戦の全容が、決定された。

 カイトさんから連絡があった。明日中に手回しが終わって、深夜から部隊を展開して夜明け前に仕掛ける。全ては極秘のうちに。犠牲は計算のうちに。強引である事は承知の上で。

 古典的な手段だけど、熟練の念能力者に通じるはずもないけれど、人間のバイタルリズムから最も不意打ちに適した時間を狙う朝駆けは、少しでも成功率を上げる為だ。パクノダさんが包囲の指揮を執り、カイトさんが突入し、アルベルトが現場を統制する。シンプルで、だからこそ堅実な作戦だった。陸軍から融通された指揮用歩兵戦闘車に最小限の改造を加えた特別車両も、今頃は急ピッチで調整されているんだろう。今までのような、高度な情報管理はもう要らない。現場さえ把握できればそれで良かった。

 だけど、わたしは首都でお留守番。火消しの役割を負ったが故の、もう一つの懸念材料が生じたが故の、歯ぎしりするほど理不尽な現実。本当はわたしも行きたかったし、本来なら上空から圧迫する役割を請け負うべきだったけど、どうしてもそれができなかった。その元凶となったのは、数日前、ジャッキーさんが亡くなった少し後から騒がれだした。新しい不審死の勃発だった。

 それは明らかに模倣犯で、あまりにも大きな脅威だった。

 噴水や池の近くなど、水のある場所で誰かが死ぬ。白昼道々、公衆の面前で唐突に。死因は全て窒息死で、目撃した人は口を揃えて、被害者が自分で呼吸を止めたようにしか見えなかったと証言している。被害者に因果関係は全くなくて、唯一共通する点を挙げるならば、体のどこかに、小さな刺し傷があったことぐらい。そんなあからさまに不可思議な事件が、このところ大々的に量産されてる。一度に亡くなるのが一人か複数かの違いはあったけれど、当て擦ったように水に関わりある場所で繰り広げられる新しい形の窒息死は、人々を混乱させるに十分すぎた。

 アルベルトは明言してくれなかったけど、少し考えれば分かってしまう。犯人は明らかに念の使い手で、動機はわたしの存在だろう。わたしは最後の手段だから、最悪の場合に備えないといけない。犯人が誰かは分からないけど、わたしが首都に拘束されていた方が都合がいいどこかの誰かは、新たな虐殺で目的を遂げてる。もしもわたしが動いたなら、別の場所で、大殺戮ぐらいは起きるかもしれない。それくらい、人を人とも思わない所行だった。

 そして、アルベルトが教えてくれない事がもう一つ。絶対に、内部事情が漏れている。最低限、ハンター達の役割分担まで知っている人が、わたし達の情報を洩らしている。

 もしも時間さえあったなら、新しい事件の解決は容易だったかもしれない。手段は明らかに強引で、目的も明白だったから。だから、アルベルトが静観してるように見えるのは、手出しできない事情があるのか、対処する準備をしているのか。どちらにしても、必要のない負担が確実に増えている。

 感情がささくれ立っているのがよく分かった。アルベルトはあんなに頑張ってたのに。体中、チューブだらけにして頑張ってるのに。こんな嘲笑うような真似、わたしは絶対に許せない。だけど、アルベルトはきっと言うんだろう。憎しみに捕われて、視野を狭めてはいけないよと。現実をあるがままに認めないと、対策すらもとれないからねと。

 殴りたい。アルベルトを苦しめてる犯人を。腹立たしくて仕方がない。頬を打つぐらいじゃ勘弁できない。右手を堅く堅く握りしめて、何度も何度も殴ってやりたい。それが無意味な夢想だと分かっていても、空虚な妄想が止まってくれない。怒りと一緒に不安が高まって、胸がひたすら苦しくなって、わたしの感情は沈んでいった。

 ガラスの向こうで眠るあの人を見つめる日々は、どんなに、怖かったか。

 こんなストレス、お肌にとても悪いんだろうな、なんて、冷静に沈み込むもう一人の自分が、どうでもいい事を考えている。頑張ろうという決意は忘れてないけど、それでも正直、気を抜けば涙が滲みそうで。悲しくて、悔しくて、体は無性に寒かった。

 せめて顔にだけは出さないように、周りの誰にもばれないように、ひたすらそれだけを考えていた。飛行艦を待機状態に維持する為に神経を詰めている人達を、邪魔するような真似は嫌だったから。今ここで、エリスって優しく呼んでもらえたら、わたしはきっと、みっともなく号泣してしまうんだろうけど。

 そんな想いに耽っていた時、ふと、座っているコンソールに通信が入ってきた。誰からだろうと応対すれば、鋭い目を光らせるカイトさんだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ひんやりした地下司令部の長い通路を、パクノダは独り歩いていた。無機質な蛍光灯の灯りの下、靴底がリノリウムを鳴らしている。指揮する部隊の視察が終わり、丁度帰ってきたところだった。もっとも、指揮と言っても実際には部隊長に任せきりで、彼女は念への対処要員及びカイトの予備戦力としての位置付けだったが。

「あら、カイト?」

 曲り角に差し掛かったとき、見知った姿が視界に入った。いつも通りの鋭い視線で、細く洗練されたシルエット。こんな人物は一人しか知らない。

「帰ったか、パクノダ」

 言って、カイトは右手を挙げた。てっきり挨拶の仕種だろうとパクノダは思った。それほど自然で、気負いの見えない動作だった。直後、通路の隔壁が一斉に降りた。床に叩き付けるように天井から降りる鋼鉄の壁は、明らかに本来の仕様を無視していた。

 反射的に全力で後退し、一つを潜った判断は間違ってなかったのかもしれない。だが、結局はそれも無駄だった。廊下に点在する分厚い隔壁が一斉に降りて、パクノダの逃げ道を潰していた。

 飛び込める部屋もありそうにない。カイトとの間を隔てた壁が、ゆっくりした動作で上がっていく。当然、携帯も通じはしなかった。パクノダは愛銃を具現化して、現れたカイトをじっと見つめた。

「どういうつもりかしら?」

 一応、聞いてみた。ばれているのだとは悟っていた。尻尾を出した自覚はなかったが、この状況下でそれ以外の、陳腐な希望的観測に縋る趣味は彼女にはなかった。それでも声に出して尋ねたのは、ただの確認だったのだろう。

「背中の蜘蛛だ。アルベルトにはそれが見えたらしい」

 それなら仕方がないとパクノダは思った。十二本脚の蜘蛛をモチーフにした、団員のナンバーが白抜きされた黒い入れ墨。それは余りに有名だった。だが、一つ解せない事がある。彼女はアルベルトに、素肌を見せた記憶がない。ゆっくりと近付いてくるカイトにその点を尋ねると、意外な回答が帰ってきた。

「確かにお前は慎重だったが、一つだけ思慮が足りなかった。世の中には、赤外線を視認できる人間もいる事に」

 ジャッキーが他界した夜の事だった。あの夜も、パクノダはいつも通りの格好だった。下着もワイシャツも着込んでおらず、薄い春物のスーツの上着だけ。たとえその色が黒だったとしても、人体以外の熱源に乏しい夜間では、浮かび上がって見えたのだろう。黒体に近い物体ほど熱放射が強くなりやすい。白い肌に黒い入れ墨の組み合わせは、アルベルトに疑念を抱かせる程度には鮮明だった。

 カイトの説明から理解して、パクノダは肩をすくめて呆れてみせた。もう、どうしようもない。だいたいそれは反則だろう。他者や物体の記憶を読む、極めて珍しい能力を持つ彼女がいえる立場ではないかもしれないが、変態すぎるとパクノダは思った。

「それで? 今まで泳がされていたのかしら?」
「その通りだ。だが、効果はそれほど芳しくなかった。お前達の仲間には、よほど携帯電話に通じている奴がいるんだろう。暗号も対侵入も見事な技術だと、アルベルトも賞賛していたな」

 カイトは言ったが、実際には、それほど皆無な収穫ではなかった。暗号そのものこそ解読できはしなかったものの、交換局を掌握していたアルベルトは、別の方面から情報を入手していたのである。その日、パクノダがどんな任務に携わり、何を調べ、何を漏洩していたのか。解読ではなくパターンの出現頻度と回数、通話時間の推移から、パクノダが何を重要視していたのか、如何なる状勢変化を優先的に報告していたのか、おおむね把握する事ができていた。無論、国内で同様の暗号化が使用された頻度を元に、仲間らしき集団の居場所に関する推測も立てている。

 全ては、膨大なデータを管理できたがこそだった。

「なら、あたしは用済みって事かしら」
「そうだ。これ以上は、生かしておいた場合のリスクが大きい」

 そう、とパクノダは頷いた。拳銃を構え、不適に笑う。既に生還できるなどという希望は抱いてなかったが、だからといって楽に殺されてやるほどお人好しでは無かったのだ。どうせここまでの命なら、一矢報いてやりたかった。死ぬ時は楽しく死にたかった。

 だが、カイトとて敵には情けをかけない。

 その刹那、カイトは全力で壁際に跳んだ。壁にへばりつくような奇行を疑問に思う暇もなく、パクノダの上半身は消滅した。赤い閃光が貫いた。戦いと呼べるものなど全くなく、彼女は灰燼と化していた。パクノダが背中を向けていた分厚い隔壁の向こうから、遥か彼方の隔壁まで、幾重にも風穴が続いている。

 エリス・エレナ・レジーナに殺人の経験を積ませるため、カイトはパクノダの生命を流用した。

 鋼鉄の塊が天井へ吸い込まれ、エリスは死体の状態を把握した。人間らしさは全くなかった。ただ単に、ぱたりと下半身が倒れていた。赤茶色の液体がゆっくりと流れ、おぞましい切断面から臓物がいくつかこぼれている。異臭がして、空気が血の味に染まっていた。

 エリスは自らが作り上げた光景を目の当たりにし、口元を押さえて座り込んだ。真紅の翼は解けて消え、ドレスのスカートが床に広がる。覚悟などではどうにもできない、生々しい現実がそこにあった。白く澄んだ通路の中で、パクノダだけが赤かった。

 カイトはそんなエリスに近付いた。焦りはしない。権威者と仰げるようにゆっくりと、頼もしく感じるように堂々と、震える彼女へ歩み寄った。カイトは同情など感じていない。上司として、仲間として、エリスを利用すべき者として、義務を果たすだけの事だった。

 お前がしたことは正しいと、誰かが肯定してやらねばならないのだ。

 現状で、彼女に折れてもらうわけにはいかなかった。明日一日、いや、今夜一晩だけの間でも、アルベルトに付き添いをさせようとカイトは決めた。



次回 第十五話「忘れられなくなるように」



[28467] 第十五話「忘れられなくなるように」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/12/01 01:33
 紙コップを満たすコーヒーから、白い湯気が昇っている。黒く熱い液体を一口啜ると、苦い芳香が広がった。自動販売機が林立する休憩室の片隅で、カイトはつかの間の安息を味わっていた。時刻は午前2時を回っている。静かだった。この場所には、他に人影は見あたらない。

 胸ポケットに入れたままの携帯電話が、バイブレーションを作動させた。アルベルトからの着信だった。

「オレだ。どうした?」
「今、エリスは落ち着いて眠った所。多分明日には平常通り動けると思う。少なくとも、表面上はね」
「十分だ。よくやってくれた」

 報告は満足すべきものだった。エリスは現状、彼等が保有する最大の打撃力であり、作戦の土台そのものだったのだ。彼女が後ろに控えているという前提があればこそ、カイトやアルベルトを前線に投入できるのだから。

「次はどうする? そっちへ戻ろうか?」
「いや、必要ないだろう。こちらは問題なさそうだ。皆よくやってくれてる。お前も休んで少しでも体調を万全に近付けてくれ。念の為、呼び出しに対応できる状況を整えておいてくれればそれでいい。オレももうすぐ仮眠をとらせてもらう」

 電話越しにアルベルトが了解の意を伝えてきた。打てば響くように返ってくる。使い勝手のいい部下だとカイトは思った。上司の意図に忠実であるだけでなく、頭が回り自分で判断させても不安がない。ヒトとしての一線を越える極めた側の戦闘能力こそ持たないが、彼の念は応用範囲が恐ろしく広く潰しがきいた。惜しむらくはただ二つ。妹が絡むと行動の箍が外れてしまう点と、有能さの基準があくまで普通の職業のそれである点だろう。仮に贅沢をいうのなら、ハンターとしては、性格にもう一つ二つ毒が欲しい。

「ところでカイト、戦力の補充についてはどうだった?」

 目下の懸念材料の一つについて、アルベルトが尋ねた。元々の捜査対象に加え幻影旅団まで現れた今、自陣営の念能力者が3人というのはあまりに少ない。個々の実力や組織的なバックアップでなんとか補ってはいるものの、手数で勝負されたら対処が難しいのが実情だった。仮に今からでも優秀なハンターを加える事ができるなら、それはとてもありがたかった。

「難しいな。知り合いのハンターにあたってはいるが、旅団に対抗できる実力と時間的余裕を合わせ持つような都合のいい人間は早々いない」

 しかし、現実は早々上手く回らない。そもそもハンターは年中世界を飛び回っているのが当たり前の職種である。有能な人物ほど己が目的や探究心に身を任せ、精力的にハントを手掛けている。中には他ならぬカイトの師匠のように、実力があるくせにどこで何をしているかも定かではない変人もいるにはいるのだが。

「そういう人種こそコンタクトさえとりにくいのが世の常だ。もし依頼をしようと思ったら、その為に新たなハンターを雇う必要があるだろう。できれば特別な念能力をもつ専門家をな。なぜなら、彼等自身こそが特A級のハント対象と呼べるにふさわしいからだ」

 ハンター最大のハント対象にハンター自身が含まれるとは皮肉だなとカイトは笑った。アルベルトも電話の向こうで同意した。二人とも実感がこもっていた。

「ハンターとしての活動基盤がまだ整っていないひよっこ以下なら捕まるだろうが、そんな連中を集めても仕方がない。ああ、そうういえばアルベルト。今年の有力な新人へのアクセスはお前に任せていたな。確か、二人いるといっていたか」
「それなら、メールで報告上げた筈だけど」

 アルベルトが不思議そうな声を出し、カイトはしまったと顔を顰めた。どうやら、忙しさのあまりどこかに紛れ込ませてしまったようだ。

「もう一回送ろうか」
「いや、口頭でいい。すまんな」
「結論からいうと、二人とも色好い返事はくれてない。一人は例のゾルディックの長男で、もう一人は生っ粋の戦闘狂でね。ゾルディック家は丁度仕事中で、旅団に対抗できるだけの人員は裂けないそうだ。後の一人は、天空闘技場でお楽しみの真っ最中だってさ。一応旅団の名前を出して勧誘してはみたけれど、タイムリミットはもうすぐだし、期待はしない方がいいと思う。刈り入れの時期、らしいからね」

 つまり、望みはないという事だろう。はじめから予想はしていたが、どうやらこのままでは3人で二正面作戦を強いられる事になりそうだった。しかも脅威の半分は悪名高き蜘蛛である。生半可な困難で済ませてくれそうな相手ではない。それでも勝ちを拾うなら、よほど大胆に立ち回らなければならないだろう。

 パクノダ経由で流した情報を逆に利用して罠にはめる案も出されたが、雨期という切迫した期限の前には難しかった。あらかじめ予定した決行時間を変えるだけでさえも、スケジュールが詰まりすぎて不可能だったのだ。

「わかった。ご苦労だったな。明日に備えてじっくり休んでくれ」
「了解。じゃ、僕はこのままエリスの部屋で眠るから、何かあったらこっちに連絡して」

 カイトは頷いて通話を終えた。休憩室がしんと静まり返る。深海底のような世界だった。暗く、全てが深々と静止していた。自動販売機から微かに零れる作動音が、静けさの中に波紋を落とした。

 湯気を立てていたコーヒーは、いつの間にか冷めていた。



 何とはなしに目が覚めた。カーテンの向こうが白んでいた。もうすぐ夜が明ける。鳥が鳴き、空が紫から青へ染まっていく時分だった。染み付いた習慣に従って、最初に枕元の銃の存在を確認した。ひんやりした感触が掌に広がる。弾は装填されていない。もう何年の付き合いだろう。使い続けた愛銃は、男の手にしっかりと馴染んでいる。

 まだ薄暗い寝室に、オレンジ色の間接照明が仄めいている。買ったばかりの新しいシーツが、汗をかいた裸体に心地いい。萎えたものを包んだままの少女の柔肉は、寝息とともに穏やかな収縮を繰り返している。胸板に当たる呼気がくすぐったかった。ふと、煙草を飲みたいと男は思った。行為の後は、無性に一服が欲しくなる。

 ふと、少女が小さなうめき声を上げた。慣れ親しんだ生理現象だった。寝起きで張り詰めた肉の棒が、彼女の内側をえぐっていた。彼はどうしようかと思案した。眠ったままの少女の都合などおかまいなしに、このまま処理してしまってもよかったが、何となく面倒なのも事実だった。数秒の後、男は性欲より怠惰を優先した。

 男は気怠げに力を抜いて、全身をベッドに再び預けた。春の朝は少し寒い。まだまだ温もりが恋しくなる季節だった。布団をかぶり、とりあえず、男は手近な熱源を抱き寄せた。



 タイル張りの浴室は、意外と綺麗に使ってあった。湯は出なかったが水は出た。コックを一杯に捻っても流量はたかが知れていたが、シャワーが使えるだけ贅沢だった。やはりこの物件は、この辺りでは上等の部類なのだろう。

「痒い所はありませんか」

 座った男の後ろに立って、少女は髪を洗ってやっていた。新市街で見つけた輸入品のシャンプーは泡立ちもいい。短く刈った金髪をわしゃわしゃと洗う。男は返事をしなかった。少女も特に気にしなかった。そのまま続けろという意味だと分かっていたからだ。

 水しか出ない浴槽で、全裸でいるのは少し寒い。しかし、それも気分の問題だった。少女も既に纏を覚え、体は丈夫さを増していた。冬の最中でもない限り、水浴びぐらいなら風邪などひかない。だから、こうしてゆっくりできるのだ。

「本当は、もう少しマシな洗髪も心得ているんですけどね」

 男の頭皮に爪を立てて掻き回しながら、娼館で磨かされた技量を思い出して少女はいう。男のこういう大雑把さは嫌いではなかったが、自分の腕前が発揮できないのもつまらないものがあった。といっても、とうに諦めてはいたのだが。

「あのぬるいマッサージみたいなやつか。いらねぇよ。もっとがしがしやってくれ」
「はい。こうですね」

 言われるまま、少女はもう少し力を込めた。十本の指で慈しむように掻き回す。気持ちいいのだろうか。大きな背中が微かに震えた。可愛いなと少女は小さく微笑んだ。

「流しますよ。目、つぶって下さいね」

 一度に流れ出る水量では心許ないので、あらかじめ手桶に貯めておいた水で一度流した。続いて、シャワーで拭い取るようにすすいでいく。短い髪だ。すくに済む。それを勿体ないと思ってしまう自分がいて、少女は苦笑を噛み殺した。

「はい、終わりましたよ」

 最後にタオルでふいて少女は言った。男は特に礼もいわず、大きな欠伸をしてから頷いた。それすらもセクシーな仕種だと思う少女はきっと末期なのだろう。発達した肩や逞しい首に触れて、内側の筋肉を愛でたくなった。

「腹減ったな」
「もう昼過ぎですしね」

 続いて背中を流しながら、少女は適当に相槌を打つ。泡立てたスポンジで擦りながら、空いた手でさり気なく肌に触れる誘惑と戦っていた。あくまでそっと手を置くだけで、いやらしく撫で回しはしないつもりでも、男にはきっと悟られるだろう。少女にはそれが怖かった。不快に思われたくは、なかったのだ。

「上がったらメシにすっか。何か食いたいものあるか?」
「食べたいものも何も、食材なんてほとんどないと思いますよ。昨日、どうせまたすぐ買い出しにいくからって、ちょっとしか買わなかったじゃないですか」
「あー、そういや日用品ばかり仕入れてきたっけな。まあいいや。明日の朝までしのげるだけはあるだろう」
「水と岩塩でしのぐなら、何とか」
「ま、たまにはそれもいいだろ」
「どうしても出かけないつもりですか?」

 男の適当な発言に、少女はあからさまに眉をしかめた。背中を一通り洗い終え、泡を流した所だった。男は上体を捻って不満そうな様子の少女を持ち上げ、膝の上に座らせた。自然、抱きかかえられるような体勢になる。

「面倒くせえよ。それともお前一人で行くか?」
「……財布を預けてもらえるなら、近場回ってくるぐらいならしますけど」

 膝の上で、少女は背中越しに男を見上げた。この辺りの地理には不馴れだったが、通りに沿って歩くぐらいならできるだろう。少女が持てる荷物などたかが知れているが、二人分の食料程度なら何とかなる。都合よく利用されている気がしたのは、少しだけ不満ではあったのだが。

「財布、か。どうせなら花売りで稼いでこねぇ?」

 今度は男が、少女の髪を洗いだした。特に心を配りもせず、汚れさえ落ちればいいという手つきだった。まるで相手が弟のように、息子のように、舎弟のように。繊細な銀糸の扱いにしてはいささか乱雑ではあったけれど、少女は文句を言わず目を閉じている。

「嫌です。どうしてもお金がなければ、最後の手段としてなら構いませんけど」

 まずはちゃんと働いて下さいと少女は言った。たわいない戯れ言だとは分かっていたが、そこは譲れない一線だった。薄目を開けて後ろを見上げてくる相手を気にもせず、男は洗髪のついでに返事を返した。

「ま、お前に飽きないうちは従ってやるさ」
「はい、それで十分です」

 少女は満足そうに頷いた。



 暖めたヤギのチーズをパンに乗せただけの簡単なブランチを食べた後、少女は外へと繰り出した。隣には男も付き添っている。一緒に行こうという少女の誘いが成功したのではなかった。唐突に甲斐性に目覚めたのでもない。単に、腹がくちくなって食後の一服としゃれ込もうとしたところで、ズボンの後ろポケットから空っぽの紙巻き入れを発見したというだけである。

「何か食べたいものはありますか?」

 道すがら、少女は男の希望を聞いてみた。思えばこれが、はじめて買い物を任される機会だった。それに気付いたときからずっと、少女の胸は密やかな高鳴りをやめてくれない。保護者同伴の体もかえって嬉しい。預けられたままの財布の存在感が、無性に暖かく感じられた。

「旨いものならなんでもいいや」

 割とどうしようもない返答も予想の範囲内だ。そもそも料理の経験などあまりない彼女には、大層なリクエストをされても応えられない。懐も暖かいとは言いがたかった。パンと野菜と、あとは適当に肉と酒でも買いましょうかと少女は尋ねた、男もそれでいいぜと頷いた。

 そうと決まればまずは肉屋だ。最初に見つけたのは鳥肉屋だった。そこそこ安く、宗教的にも無難だからだろう。旧市街で肉屋といえば、やはり鳥を売る店が最も多い。ニワトリ、アヒル、ウズラにウサギなど、様々な種類の商品を生きたまま店先に並べている。もう少し貧しい地区になると、これがラクダや野犬、そしてクズ肉や脂肪の欠片を売る雑肉屋になる。

「ニワトリでいいですか?」

 簡素な鳥篭の中で思うままに時を貪る鳥達を見ながら、少女は無難な選択を男に示した。時折ばたばたと暴れるたび、羽毛や糞が辺りに飛び散る。獣の臭いがとても濃かった。これが一因なのだろう。鳥屋は食料品店から離れた場所で開業されるのが常だった。

「ウサギにしようぜ。どうせなら」

 ポケットに手を突っ込んだまま気楽にいう男を、少女は顔をしかめて見て遣った。今、二人は節約しなければならないのだ。ウサギは買えないほどではなかったが、今後を考えれば少し重い。健全な定期収入さえあるのなら、少女の反応も違っただろうが。

「ガキが余計な心配するんじゃねーよ」

 強く、乱雑に頭を撫でながら男が言った。そのガキに欲情したくせにと、少女は軽く睨んでみせた。が、男が堪えようはずもなく、いいからさっさと選べと少女を促すだけだった。

 仕方なく、ウサギ達の入った篭を眺めると、とある一羽と目が合った。長い耳がピコピコと揺れて、つぶらな瞳が見上げている。やや濃いめの茶色の毛で、丸々とした体型が可愛らしい。見た所、体に異常もなさそうで、毛並みも抜けなどはなさそうだった。かがみ込み、いけないと知りつつ鼻の先に指を差し出してみると、一通り嗅いだ後、小さな舌先で甘えるように舐めてきた。人懐っこいウサギだった。美味しそうだと少女は思った。

「……これにします」
「お、気に入ったのあったか」

 男の誘惑に乗ってしまうのはあまり面白くなかったが、目に付いてしまったからには欲しくもなった。男にも見せると、いいじゃないかと褒められた。最初の買い物で見る目があると認めてもらえたのは、掛け値なしに嬉しかった。

「今夜はシチュー、ですかね」
「おう、いいぜ。味付けは俺に任せな。昔、ダチから教わったとっておきがある」
「それは、楽しみです」

 ウサギは肉の味も悪くないが、すじ肉や骨も捨てられない。上等のダシこそが真価だからだ。下ごしらえをして鍋に入れ、野菜と一緒にことこと煮込めば、それだけでご馳走の出来上がりだった。二人では少し多いかもしれないが、男は沢山食べるし、余っても翌日に回せばいい。

 店員を呼んで、気に入った商品を指し示す。そうすればよく研いだナイフを喉元に刺して、屠殺と血抜きをしてくれる。殺されたのが確かに自分達の望んだ個体である事を確認すると、少女は残りの買い物を澄ませるべく別の店へ向かおうとした。帰り際に立ち寄る頃には、最低限の下処理を済ませてくれているだろう。

「どうしました?」

 ふと、男が立ち止まっているのに気が付いた。

「いや、別にな。よくある事さ」

 なにか、奇異な視線でも感じていたのだろうか。歩きはじめる前に男がちらりと目をやった先には、何の変哲もない建物の屋上があるだけだった。ここからは大分離れている。少女がじっと見つめてみても、人影も異常も何もなかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 今朝方早くに、アルベルトとカイトさんが出動していった。現地では今頃、国家憲兵隊が今や遅しと展開の命令を待っていて、その外側では、陸軍空挺師団が演習の名目で集結している。先行潜入した陸軍特殊部隊は、他文化を持つ敵性地域にも溶け込む訓練を積んだエリートだそうだ。夜間を徹して包囲網の構築と住民の強制退避作戦が並行され、突入は夜明け前に決行される。急拵えの作戦だけど、この短い間に繰り返し研究を重ねた最善の一手。

 わたしが乗る飛行艦は、地上ではなく現地でもなく、首都上空で待機する手はずになっている。せめて少しぐらい近くに進出したかったけど、カイトさんはあえてこの配置を選んだ。高高度なら遷音速巡航が可能という飛行船の常識を覆すサンダーチャイルドの俊速があるのなら、それを活かさない手はないという理由で。確かにこの配置なら、首都に居ながらにして全国に睨みを効かせる事ができるんだろう。

 彼女は一隻だけしかなく、わたしも一人しかいないから、実際に駆け付ける事ができるのは一箇所だけだけど、アルベルトにいわせればそれほど心配はいらないらしい。既に旅団は情報を得ている。得ていないはずがないそうだ。パクノダさんを経由して、わたしが見せた能力の一端を。

 なら、まとまった人数でないと対抗できないという認識は、とうに出来上がっていてしかるべきで、仮に寡数で事件を起こすとしたら、それは陽動でしかないという。

 だからわたしは、この空で構えていればそれでいい。この国のどこで火の手が上がっても、すぐに駆けつけられるように。

 例え、それが真下でも。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「……ふう」

 皿に残ったシチューを拭いたパンの最後の一口を胃の腑へと飲み込んで、少女は満足そうな息を吐いた。

「あー、食った食った。な? たまには贅沢して正解だったろ?」
「はい。お腹いっぱいです。思ったより煮込むのに時間がかかってしまいましたけど、そのぶん味が染みて美味しかったですね」

 窓の外はとっぷり暗く、野良犬が寂しげに吠えている。風は冷たく、宇宙が深い。夜空が仄白く染まっているのは、きっと新市街の方向だろう。きらびやかに輝く高層ビルは、彼等だけの特権だった。

 空腹で旨さが増したのは否めないが、それを抜いても料理の出来は上々だった。とろ火で抱かれたウサギの出汁は豊潤で、肉は柔らかく、脂肪は甘く、野菜は土の香りが芳しかった。食べきれず鍋にはまだ残ってしまっているが、一晩寝かせればまた違った表情を見せてくれるだろう。

 満腹で腰が重くなってしまう前にと、少女は食卓から立って食器を下げる。台布巾で一通りテーブルを拭いた後、ひと休みしましょうと提案した。

「いま、お茶を淹れますね」
「あ、俺コーヒーな」
「はいはい。分かってますよ、もう」

 美食は人を寛容にするのだろうか。少女だけに働かせ、さっそく煙草をくゆらせ始めた男のだらしなさも今は愛しい。気を抜くと緩みそうになる頬を押さえて、少女は二人分のティーカップを用意した。もちろん、何も言われずともブラックだ。自分の前には甘い甘いミルクティーを置いてから、少女は食後の一服に興じる事にした。

 普段は目くじらを立てる苦いままのコーヒーも、今夜だけは濃いめに淹れてある。

 時間が優しい。男と向かい合って座ったまま、会話は何一つなされていない。男は紫煙の合間にコーヒーを飲み、肩の力を抜いて目を閉じている。この沈黙が幸せだった。少女は男を眺めながら、暖かい甘さで唇を潤した。

 ただ、時計の秒針だけが支配するこの一時。

 そんな満ち足りた安息でさえも、いつか必ず終わってしまう。ミルクティーの残りが冷めてしまった頃、少女はさてと立ち上がった。二人分のカップを流しへ運び、エプロンを付けて洗い物に取りかかる。このような後片付けでは、男はどうせ役に立たない。初めから期待などしてなかった。

「ほとぼりが冷めたら、なあ」
「なんですか?」
「海行かねぇ? 海。お前実物の海を見た事ってあるか?」
「……あるわけ、ないでしょうに」
「俺もないんだわ。考えてみたらよ、短い人生、海ぐらい見ておかないと損だろう」
「それは構いませんけど、海の近くで私の念を発動させるのはやめて下さいね。絶対、洒落じゃ済まなくなりますから」
「おいおい。今だって洒落じゃ済んでないだろ」
「だったら尚更でしょうっ」

 男に背中を向けたまま、気怠げな戯れ言をあしらっていた。食器が触れあって音を奏でた。水が指に冷たかった。いつの間にか会話はまた途切れてしまったが、少女はさして気にしなかった。どの道、放っておけば勝手に生活するのである。彼女が今さら何か言っても、男の気ままな性根は変わらない。

 そもそも、少女は男のそんな一面が、あまり嫌いではなかったのだ。

「あー、なんか眠くなってきた。もうシャワー浴びて寝るわ」
「え?」

 食卓でだらりとくつろいだまま、うつらうつら舟をこいでいた男が言った。振り向くと、ふらりと立ち上がり、歩き出そうととする姿が見えた。

「もう寝ちゃうんですか?」

 少女は尋ねた。知らず、声色にはすがる想いがにじみ出ている。

「明日から、雨が降るって予報なんですよ?」
「だからどうしたよ」

 心底疑問だとでも言うかのように、男が瞬きして聞き返した。そんな態度が気に入らない。少女は内心のいらだちに気付く前に、同じ意味の言葉を繰り返し紡ぐ。

「ですから、明日からは、雨期です」
「らしいな。……なんだ、言いたい事があるならはっきり言えよ」

 じれたのか、男の目が細められた。眠気でぼやけていたはずの瞳には、微かながら剣呑な光が灯っている。

「もういいです。……じゃあ、とっととシャワーでも浴びて、寝仕度すればいいじゃないですか」

 怯えが半分、拗ねたのが半分の胸の内で、少女は滞っていた手の動きを再開した。といっても、既に残りは少なかった。二人きりで生活してるだけに、使う皿が少ないのは道理である。ゆっくり、丁寧に洗いつつも、その数は着々と減ってしまう。終わらなければいいと少女は思った。

 男が近付いてくる気配がして、少女はぴくりと小さく震えた。嫌われるのが嫌だった。怒られるのが怖かった。だが、どんなにささやかであろうとも、男から構ってくれるならやはり嬉しい。触れてくれるならそれだけで楽しい。素直に認めるのは、少々癪でもあったのだが。

「……どうか、しましたか?」

 ゆすいだ食器を水切り篭に並べてから、流しの周りを布巾で拭いていく。近付いてくる足音に耳を傾ける。後ろは横目ですら見なかった。なぜなら少女はあくまで、そう、あくまで家事に専念しているだけなのだ。

「振り向くな」
「ひゃっ!」

 耳元で男が囁いた。卓越した身体能力で一気に距離を詰めたのだろう。少女は予想外の不意打ちに驚いたが、男の言葉通り振り返る事はできなかった、

「念を使いましたね!?」

 少女が吠えるも、男はどこ吹く風で飄々としている。じたばたと暴れても後ろを向けない。逃げようとしたら抱えられた。ついで逃げるなとも命じられ、すみやかにそれは実現した。彼女は改めて実感した。本当に、嫌になるほど便利な能力だと。

「離してっ! 離して下さいっ!」
「ま、なんだな。祭の前に英気を養っておくのもまた良しか」

 少女は抗議を完全に無視され、むかつくほど手慣れた手つきで肩の上に担がれた。

「まだっ、片付けも終わっていませんよ!」
「あれで十分だろ。食器なんて綺麗に片付けても、どうせ明日には無駄になるんだ」
「訳の分からない事言って誤摩化さないで下さいっ」

 歳相応に小さな少女の体が、ベッドにぽすんと投げられた。エプロンを奪われ、スカートをめくられ、下着を膝まで下ろされる。強引に押し付けられた男の唇は、微かにコーヒーの香りがした。後頭部を抑えられ、口腔を深くまで貪られた。

 長い長いキスだった。舌と舌を絡め合い、唾液と唾液を混ぜ合わせる。葉の一本一本を丹念に舐められて、応じるように顎を動かして吸い付けば、いつしか少女の瞳も蕩けていた。のしかかる男の体重が愛おしかった。

「どうしても、いますぐしたいんですか?」

 男の頬を両手で押さえて、キスの合間に少女は尋ねた。本当はもっとムードを大切にしたかったが、昂ってしまえば過去に思いを馳せる余裕もなくなってしまう。駆け引きの合間の沈黙さえ焦れったくて、彼女は啄むように唇を触れさせた。

「……お前がしたくないって言うんならいいけどよ」

 いじわるだ。少女は可笑しくなって微笑んだ。こんな夜中に、こんな場所で、こんな近くで、こんなにも熱く大きくしながらも、男はそんな戯れ言を紡ぐ。

「そうですか。なら、どうするんですか? これ」

 意地悪には意地悪で返そうと、少女はズボンの上から撫で上げた。堅く反り返った棒状で、先端だけが少し柔らかい。人種的な理由もあるだろうが、男のそれは逞しかった。指先を悪戯っぽくやわやわと動かしながら、少女は記憶に浮かぶ感覚を思い浮かべた。例え蕩け切っていても深く突き上げられると痛く苦しく、しかし言い様のない充実感を与えてくれる肉の味を。

「なに。俺は街頭女でも買ってこりゃそれでもいいぜ」

 少女の首筋に顔を埋めて、低く優しく男は告げた。残酷なセリフで耳の裏を甘く切なく攻められて、小さな体がゾクリと震える。被虐の快感を誤摩化すように、少女は拗ねる演技をしてみせる。

「……さすがに、それは意地悪すぎはしませんか? こんなときぐらい、私だけを見て溺れて下さい」
「はっ。いっちょまえなセリフは十年はえーよ」
「いいです、もう……」

 ズボンの、袋のある辺りを軽く抓った。薄い皮の存在を弄びながらも捻ってやると、男が微かに顔を顰める。

「今夜は、私が上になりますから」

 胸板を片手でそっと押し、寝転んで下さいと少女はいった。大人しく従った男の上に跨がって、上着のボタンに手をかける。衣擦れの音が部屋に消え、膨らみに乏しい胸部がはだけられた。そして、少女はスカートを捲り上げる。隠すものは何もなかった。

「どうですか? 私の体だって、そう捨てたもんじゃないでしょう?」

 片手で少し広げてやると、褐色の太腿を雫が伝った。頬が熱くなっていた。少女は今、羞恥と興奮に浮かされている。あんなにも嫌だったこの行為が、愛という調味料があるだけで、こんなにも甘美になるのが不思議だった。

「ほら、とろとろですよ?」
「……だな」

 男の膨らみが一層大きくなったのを目の当たりにして、少女の胸は歓喜で壊れる寸前だった。お互いの視線が双方の一点に固定される。ああ、興奮してくれてるんだなと、泣きたくなった。

「愛して下さい。いっぱい、いっぱい、忘れられなくなるように」

 上ではなく下でキスをして、感極まった声でねだってみせた。返事はない。男の瞳は性欲に昂ってはいたが、奥底はどこか冷たかった。少女の優れた嗅覚が、残酷にも事実を告げていた。それでも、いい。少しずつ、ゆっくりと腰が沈んでいく。寝ていた男が上体を起こし、少女の体を強く抱いた。押し付けられた唇は、ほのかに煙草の味がした。



「随分と気合い入った陣容じゃないか」

 感心したようにマチが言った。視線の先には、国軍の首都駐屯地が広がっている。演習場を兼ねる為、郊外の荒野を利用した広大な敷地は灯りに乏しく、深い夜闇に飲み込まれていた。が、ナイトビジョンも使わずに遠くの丘から眺めているにも関わらず、彼女にはその詳細が手に取るように把握できた。

「あー。これって確実にオレ達の襲撃読まれてるよね」

 すぐ側の木に登っているシャルナークが気楽に呟く。陸軍第一師団が威信をかけた厳重警戒態勢を前にして、彼は微塵たりとも動揺しない。

「当たり前ね。戦車も数が揃てるよ」

 まるで獲物を見付けたというかのように、口元を隠した服装のフェイタンが笑う。細心の注意を払って偽装隠蔽された防御陣地にこもる車両をも、いとも簡単に発見していた。

「ま、どっちにしろオレらの敵じゃねーけどな」

 腕を組みながら大言したフィンクスを、誰一人として諌めない。機関銃陣地、迫撃砲、榴弾砲、飛行船、もちろん数多の自動小銃。加えて、主力戦車まで投入された体勢である。世界的に見れば第二世代相当の旧式とはいえ、その性能は人類が生身で対抗できるほど生易しくはない筈なのだが。

「だけどちょっと面倒臭いな。ウボォーもこっちに来てもらえば良かったかも」
「あのガタイとパワーじゃ地上で良くても地下で動きがとりにくいだろ。団長の判断は間違ってないぜ」

 シャルナークに対してフィンクスが言った。右肩に左手を置きながら、軽く回す仕種をしている。オレなら小回りの効いた戦いができると、言外に誇っているようだった。

「あいつは開けた場所で使うのが最適ね。それに獲物減るの、つまらないよ」

 フェイタンもまた、好戦的な態度で同意する。そんな二人の様子に、マチが横から口をはさんだ。

「ちょっと、忘れるんじゃないよ。あたしらが最優先する目的はね」
「パクだろ。忘れるかよ、んなもん」

 うんざりしたように放言しつつも、フィンクスの瞳はぎらついていた。連絡を絶ったパクノダの身柄の確保が、さもなくば生死の確認が、クロロからの指示だった。



次回 第十六話「Phantom Brigade」



[28467] 第十六話「Phantom Brigade」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/11/29 19:40
 そして、男は目を覚ました。

 外はまだ暗く、夜明けまでは少しある。枕元の拳銃は、よくよく手入れが行き届いていた。柔軟を兼ねて身体の調子を確認してから、箪笥から取り出した服を着た。そこまで身支度を調えた上で、男はようやく、少女に声をかける事を思い出した。

「静かにしろ。分かったら起きろ」

 耳元で力ある言葉を強く囁く。その通りに少女が目覚めたのを確認して、男は有無を言わせず服を着せた。

「この中に入って、じっとしてろ。絶はできるな? よし、それだ。その状態をずっと保ってろ。そのまま物音立てずに震えてりゃ、まあ、万が一は無理でも億が一ぐらいで生き残れるだろうぜ」

 少女は怯えた瞳で見上げていた。嫌われたのかと男は思った。それはそれでまた面白いと、男は上機嫌で口笛を鳴らした。愉快な一日になりそうだった。

「じゃあな」

 最後に財布を取り出して、少女と一緒に箪笥の中にしまい込んだ。外から鍵をかけるタイプだったのは、彼女の日頃の行いだろうか。もっとも、そんな些細な事はもう、心底どうでも良かったが。

 いくらかの時間が余りそうだった。男の方から仕掛けてやるのも考えたが、今日はそんな気分でもない。どうせなら相手の思惑に乗ってやろうと、暇つぶしを兼ねたウォーミングアップに専念した。やはり楽しい。男はこそ泥として忍び込むのも好きだったが、こういう遊びもまた大好きだった。

 愛銃をもう一度確認する。弾丸は装填されてない。これで良かった。男にとってリボルバーとは、この状態でこそ完成なのだ。回転式の傑作拳銃。特徴的な形状のリブ、銃口まで伸びたアンダーラグ。六発の.357マグナム弾を射出する、世界最高のダブルアクション。

 コルト、パイソン。

 あの日、粗大ゴミの中で見つけた瞬間、彼は仲間内のヒーローになった。弾丸は高くて買えなかったが、それでも脅しには役に立った。なによりとても格好よくて、朝に晩に磨いてすごした。

 拳銃に周をほどこす。すっと体に馴染む感触。念弾を六つ、回転式の弾倉に込めた。七発目はまだ込めない。まだ、込める必要はないだろう。

 わくわくしていた。男は今、紛れもなく生を謳歌していた。やがて、とんとんと、ドアが軽快にノックされる。分かってるじゃないかと男は微笑む。分かっている敵と戦うのは、他のなによりもずっと楽しい。

「鍵は開いてるぜ」

 笑い出したくなるのを押さえながら、最高の機嫌で男は応えた。現れたのはただ一人、鋭い目つきの人物だった。細い体躯を長袖で包み、長い髪の毛を揺らしている。彼はハンターライセンスを提示して、自らをカイトと名乗り上げた。

「ヘンリ・マカーティ、だな」

 ちっ、と男は舌打ちした。いよいよ盛り上がるという直前に、水を差された気分だった。

「生体情報まで盗んでやがったか。だがよ、悪いがそれは俺の名前じゃねぇ。物心付いて大分経った後、照会してようやく知り得ただけの“情報”だ」
「なら、オレはお前をなんと呼べばいい」
「ただのヘンリでいい。ビリーでもいいぜ。死んだダチから遺された名だ」
「いいだろう。ではヘンリ。お前は国際刑事警察機構、及びハンター協会によって国際指名手配を受けている。大人しく従う意思はあるか?」

 カイトのオーラが臨戦態勢をとり始めた。洗練された、正真正銘の強者だけが纏える極上の堅。想像以上の傑物だった。男は喉奥から笑いを洩らした。

「従って欲しけりゃ、力ずくで来いよ」
「ああ、そうしよう」

 カイトは恐らく、基礎能力では男とほぼ同等だろう。勝てない相手ではなかったが、理由なく勝たせてもらえる程度の雑魚でもない。このレベルの戦いは、ほんの微かな相性、僅かな隙、小さなミスが生死を分ける。

 男は銃のグリップを握りしめた。体中を流れる血潮が湧いた。命をかけたバトルはいい。躊躇なく全霊を尽くせる遊びなんて、もうこれぐらいしか残っていない。遠慮なく能力を使える相手であれば最高だった。男は久しぶりの対戦相手を前にオーラを昂らせ、舌頭で歓喜を転がした。

「だがよ、俺は強いぜ」

 聞かせたかったのは、カイトと、自分だ。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 でたらめ、すぎる。

 炎と爆音の踊る朝、曳火射撃の雨が降る。耳元のインカムから流れてくるのは、絶望的な戦況だけ。一時的にも状況好転に湧くチャンネルなんて、ただの一つも存在しない。駐屯地上空二千メートル、わたしは地獄を俯瞰した。

「第二研究棟より師団司令部へ、離脱計画は放棄する! 拘束も遅滞も不可能だっ! 俺達ごとでいい、やってくれ! オーバー!」
「司令部コピー! だが計画放棄は許可できない! 最後まで最善を尽くされたし! オーバー!」
「ぐだぐだほざいてねぇでさっさとやれっつってんだろ! 時間がねーんだよ!」

 諮詢は数瞬、第二研究棟と呼ばれていた建物が崩れ落ちた。内側から低層階が粉砕されて、達磨落としのように上層が沈む。轟音だらけの戦場の中、崩壊は恐ろしいほどに静かだった。

 十秒も経たずに瓦礫の山となった跡地を榴弾砲が、迫撃砲が、多連装ロケットが、間髪を入れず耕していく。二隻の爆撃艦が誘導爆弾を投下する。生き埋めになった仲間の救出は考慮外だ。炸裂する砲弾。舞い上がるコクンクリートの大きな塊。もうもうと土埃が撒き上げられる。爆炎が連鎖的に立ち上り、どす黒い煙が天へと昇る。眼下に見下ろす荒涼とした大地には、今や、同じような光景がそこかしこに点在していた。

「総司令部、わたしも撃ちますっ。ワルスカさん!」

 専用チャンネルを通じて呼び掛けた。駐屯地上空に対空する飛行艦五隻のうち、サンダーチャイルドただ一隻が温存のため高空待避を命令されてる。わたしはウエポンベイ直近の観測室で待機していたから、いつでも投下してもらえる準備は整っていた。煙と埃で瓦礫の山さえろくに見えないのにめくら撃ちしても当たってくないだろうけど、光が散乱して威力が分散されてしまうだろうけど、彼等の負担を増やす事はできるはずだ。

「いや、許可できない。まだしばらくそこで待機を続けてくれ。オーバー」

 だけど、与えられた指示は無情だった。奥歯を噛みながら地上を眺める。ワルスカさんの判断が正しいのは分かる。わたしの光は攻撃力と命中率こそずば抜けてるけど、相手がどこにいるのか分からなければ意味がない。切り札を苦手な場面で投入するのは愚かな事。根拠のない根性論でカバーさせるぐらいなら、絶好のタイミングまで温存すべきだ。

 誰も彼もが死んでいく。一方的に殺される。あまりに人が死にすぎて、ここでは臨終への敬意がない。炎と朝焼けが輝く中で、血の赤は存在を塗り潰された。この瞬間、死傷は戦況を教える数字でしかなかった。わたしはただ、強化アクリルガラスごしに見ている事しかできなかった。

 パクノダさんから情報が流れたのか、わたしの存在と攻撃方法は知られているんだろう。彼等は見通しのいい屋外では、常に遮蔽物を最大限利用して身を隠していた。多少のコンクリート塊なんて貫き砕く事ができるけど、肝心の目標を定める事が至難だった。

 建物の中では彼等は余裕だ。弾丸が当たらない。居場所が分からない。面制圧がやすやすと回避される。機関銃の掃射の中を悠々と歩いて、一瞬で数十メートルの距離を詰める。自動小銃のフルオートなんて、小雨とも思ってないらしかった。無線から漏れ聞こえてくる暴虐ぶりに、わたしは心の芯が凍っていくのを感じていた。

 少数の力ある人間が、残り大多数を蹂躙できる。一握りのエゴが全てを犯し、国家をも転覆できる狂ったバランス。今、下で殺されている軍人さん達は、決して毎日、怠けていたわけではないはずなのに。

 多くの予算を割いて装備をそろえて、日夜訓練に精を出しても、才能ある個人に太刀打ちできない。念を知る人間に対抗できない。弱肉強食というシンプルな掟。この世界の根底を流れる法則は、こんなにも理不尽で不条理だった。

 わずか数人と思しき侵入者を相手に最精鋭の戦車師団1万人を投入しても、一方的に蹂躙される。それも、完全なホームグラウンドで、防衛施設の恩恵を受けながら。

 建物ごと、味方ごと攻撃するような方法でも、侵入者は巻き込まれてくれなかった。どうやら、また次の狩り場を定めたようだ。インカムから悲鳴が響いてくる。連なり響く勇壮な吶喊の絶叫は、勇気と覚悟ではなく恐怖と狂気の産物だった。

 猛然と、機甲部隊が突撃していった。とあるトーチカ群へ向けて一心不乱に。一個大隊はいるだろうか。蹂躙されている人が配属されていた守備位置から割り出したんだろう。随伴の歩兵戦闘車を先行させ、戦車は後ろから火力支援と跳躍の体勢をとる。40t以上ある鉄の塊が荒れ地をトップスピードで駆けていく。もう何度か繰り返された展開だった。もしその衝撃力が十全に発揮されたのなら、幻影旅団といえど鎧袖一触できたんだろう。

 だけど、現実はあまりに儚くて。

 即興の支援射撃が折り重なり、弾着が幾重にも連なった。乾燥した大地を鷲掴みにして、高速回転する覆帯の群れ。何十丁もの機関砲がバリバリと猛烈な唸りを上げながら、身を隠せそうな場所を手当りしだいに粉砕した。呼応して、二隻のガンシップが空中から鉄の暴風雨を降らせていく。とどめに、命中精度なんてどうでもいいのか、戦車が行間射撃で主砲を斉射する。子供が両腕をがむしゃらに振るったような、稚拙とすら思える猛攻だった。

 煙の舞う向こうはもうきっと、地面ごと跡形もないんだろう。攻撃目標に定められた小さな機関銃陣地周辺は、味方も含めてエアロゾルにまで分解された。オーバーキルという表現ですら生易しかった。

 だというのに、突撃部隊は各車両全力でUターンして離脱を始める。歩兵の下車も眼中にない。分かってるんだ。戦果の確認も拡張も何もかも、部隊を殲滅される近道になるだけだって。

 彼等は、音速を防いでみせたから。

 運動神経が人間基準のそれじゃない。念と体術を極めた達人は、ヒトとして越えちゃいけない一線を鼻歌まじりに越えてしまう。音源の動きを視認してから防御動作が間に合うなんて、そんな化け物すぎるスペックが当然満たすべき最低ライン。あちら側の人種と常人では、一秒の重さが全く違った。アルベルトなら頼もしいと思えるその事実も、相手が盗賊だとただ怖かった。

 離脱部隊の最前列にいた一両の戦車が、いきなり砲塔を吹き上げた。遺された車体が炎上する。車内で爆発がおき、充満した爆風が逃げ道を探した結果だった。続いて、周囲の戦車も次々と撃破されていく。それを為したのは味方だった。無線では事態を把握できた誰かが事実だけを的確に絶叫していた。壕内で待機していたはずの自走対戦車ミサイルが友軍へ向けて牙をむいたのだと。誤射ではない。意図的に狙わなければありえないとても正確で落ち着いた射撃。結局その車両は、もう三両を仕留めた時点で反撃を受けて沈黙した。

 破壊された戦車が慣性で地面を削りながら減速して、後続の車両に回避を強要する。幸いに玉突きこそしなかったけど、隊列は否応もなく乱れていた。虚ろに蠢く歩兵が一人、その最中へ対戦車ロケットを打ち込んだ。旅団の中に最低でも一人、そういう能力者がいるんだろう。

 ゲームみたいに陣営対陣営で戦えたなら、きっと勝ってたはずだった。ターン制で攻撃力や防御力を競うなら、絶対に圧勝してたはずだった。だけど、実際にはそうはならなかった。

 突如、一隻のガンシップが爆散した。無線が混乱で溢れ帰る。曲がりなりにも念能力者のわたしには、かろうじて何かが衝突した事を認識できた。感じから念弾ではないと思う。爆弾か、砲弾か。そういう実体のある物を、思いっきり投合でもしたのだろうか。地上から300メートル以上の場所に浮いていたというのに、簡単に飛行艦が撃墜された。それを総司令部に報告した頃には、もう一隻も炎上しながら墜落していった。

 ほんの一瞬、ちらっと見えた人影は、腕をぐるぐると回していた。

 わたしの証言を元に総司令部が下命して、幾両かの自走対空機関砲がまだ焼けただれている瓦礫の山を攻撃する。容赦ない点目標への集中射撃。鉄筋コンクリートが粉々になって、新しい粉塵を空へと舞わせた。だけど、それもきっと無駄骨だ。

 旅団は速い。上から見ているわたしですら、時折ちらりと辛うじて存在がわかるだけなほど、速い。

 たとえ強力な装備を誇っていても、相手が存在しなければ打撃できない。認識できなければ対処できない。現代社会の軍隊組織は、人外級の超人と戦えるようにはできてない。一般的な兵士の眼球では、達人の動きが捉えきれない。人間の集団が機能するために必要な最低限のコミュニケーションの間隔なんて、彼等にとっては隙以前だ。そんな化け物が疾走したら、どうやって把握すればいいのだろうか。居場所を認識することもできない怪物に、どんな対抗手段があるのだろうか。

 素人なりの推測だけど、軍事力でこの人達を殺す為には、大量破壊兵器の出番が要る。そうじゃなくても、莫大な量の火力が要る。常識的な規模の面制圧では、この人達は簡単に逃げ延びるから。

 それでも、誰もがずっと戦っていた。

 怒りが、理不尽が、脳の深い場所で渦巻いて、灼熱を通り越して凍えていく。少し、楽しい。酔っているのだろう。暴力と激怒に。魂の根底を汚染する忌わしき漆黒の賛美歌が、今はこんなにも心地よい。うっすらとアクリルガラスに映るわたしの顔は、いつしか微笑みを浮かべていた。

 この世界はこんなにも、滅ぼしがいがあるのだから。

「……ワルスカさん、お願いします。出撃させて下さい」

 自分の声がふわふわしている。歌うように、熱に浮かされるように語りかけた。たぶん、わたしの声色は今、とても優しい。

「わたしが出れば、少なくとも彼等にとっての脅威になれます。それに接近戦なら、あのクラスの能力者にだって対抗できた実例があります。遠距離からの攻撃だけでも、このまま好き放題されるよりずっといいはずです」

 そう、適度に距離をとりつつの接近戦なら、ヒソカにだって対抗できた。

 分かっている。あれは彼の全力ではなかったって。あの時なりの本気ではあったかもしれないけど、本気の本気では絶対になかった。しかも今は多対一。条件は格段に悪かった。

 それでも、わたしにはこの翼がある。ずっと負担にしかならなかった癖に、ここで役に立たないなら何の為の念能力だ。

「念という存在の、秘匿性については」
「そんなの、今更じゃないですか。あんなに好き放題している人達がいるんですから、空を飛ぶ人間の一人や二人、追加されたって不思議じゃないでしょう」

 通信機の向こうで、ワルスカさんが沈黙していた。難しい判断なんだろう。今ここでわたしという手札を失ったなら、本命の窒息死事件に対処する手段が一つ減る。“いるはずの敵”がいなくなれば、旅団もさらに自由に動ける。例えわたしが無事に勝っても、情報が漏れたらそれだけで痛手だ。だけど、このまま出し惜しんでもジリ貧なのは目に見えてる。

「……そうだな。提案してみよう」
「ええ、お願いします」

 会議室みたいな場所にいたのだろう。ワルスカさんがその旨を周りに告げて、がやがやと、無線からざわめきが漏れてきた。戸惑い、怒り、期待、不安、焦燥。色々な感情が浮かんでは消えた。

 議論に要したのはほんの数分。迅速なはずの決断が、とても、長い。

「結論が出た。予定より少し早いが、頼めるか」
「ええ、任せて下さい。これ以上は、プロハンターのお仕事です」
「心強いな」

 渋くかっこよく笑うワルスカさん。こんな時だけど、格好いいおじさまっていいなって、のんきな事を考えた。父さんも、少しは見習ってくれれば嬉しいのに。

「だが、我々にも意地というものがある。ちょっかいは出させてもらうよ。なに、奴らが念能力のプロなら我々は軍事のプロだ。旅団とやらの戦い方を実際に見て長所と短所は分析できた。いささか、代償を払い過ぎた気がするがね」
「そうですね。彼等にはお釣りを払ってもらいましょう」

 ワルスカさんと微笑みを交換しながら、意地悪な自分を自覚した。アルベルトにはあまり見せたくない。今朝のわたしは、ちょっとシニカルだ。

「無論だとも。実は今、まさにその手段を用意していた所でね。ヘッドセットは身に付けているかね?」
「もちろんです。ずっと前から常に付けてます」
「よろしい。では気をつけてくれたまえ」
「はい、いってきます」

 艦内通信を使い、艦長さんにその旨を告げた。ウエポンベイがゆっくりと開いて、吹き込んでくる風にドレスが揺れる。蒼さを増した空が流れている。茶色く広がる荒野の中に、炎がぽつぽつと上がっていた。黒い煙と、黒い瓦礫。広い。改めて上空から全容を眺めて、それが最初の印象だった。

 いよいよハイになって踊りだす心臓を沈めようと、卵の化石にそっと触れた。ひんやりと冷たい。いってきます、アルベルト。ここにはいないあの人に胸の内で呟いて、トンと軽く床を蹴る。

 景色が変った。吸い込まれる。高度二千メートルの上空から、あの場所にある地表へ向けて。重力が消えて内臓が浮く。気持ち悪くて気持ちいい。顔を叩く空気が、清浄で冷たくて痛かった。ドレスのスカートがばたばたと鳴って、わたしは一直線に落ちていく。

 赤い翼を具現化して、前縁を風にそっとかぶせた。渦を孕み、揚力が生まれ、わたしの体は空を滑る。気分は鳥。だけど、バランスを崩せばキリモミして落ちる。尾羽を持たないわたしには、ほんのちょっとのコツが要る。

 勢いを殺すため旋回する。水平に大きな円を描くように。見上げれば宇宙、眼下には戦場。地平線が大きく傾き、蒼く澄んだ空の色と、どこまでも続く荒野に見惚れた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 微動だにせず、アルベルトは一つの建物を眺めている。鉄筋コンクリート製、五階建ての小さいビルだった。古いがしっかりした造りであり、この地区の基準では上々の物件であるらしい。周りは国家憲兵の精鋭部隊が固めており、サブマシンガンから歩兵戦闘車の機関砲まで、大小様々な銃口がありとあらゆる窓やドアに向けられていた。

 包囲された建物の内部からは絶え間なく打撃音が響いてくる。カイトが突入してから約30分。逮捕の知らせは未だにない。状況も大きな変化はないままだ。時々、轟音が辺りを激しく揺らし、念弾が壁面を突き破り、戦いの余波で負傷者が数十人出た程度である。強力な念能力者同志の戦いとしては、周囲の被害は少なめだった。

 この場の采配はアルベルトに全て任されていたが、安易な加勢だけは厳に慎むよう、カイトから指示を受けていた。単体で念能力者に対抗できるのは念能力者だけだと考えていい。国家憲兵隊が用意した物々しい包囲網も、全てはアルベルトの補助という一点にのみ存在意義が認められている。故に、ハンターが抜ければ犯人に逃走の余地を与えてしまうのである。

 歩兵戦闘車を改造した即席の指揮車両の車内から声がかかった。視線を向けず詳細を問うと、エリス出撃の報だった。読み上げられる情報はアルベルトを心配させるに十分だった。このタイミング、早すぎはしないだろうか。

 片眼鏡に似た専用のデータ通信センサを右目にかぶせ、無線を介して指揮車両のサーバにアクセスする。直ちに詳細なデータを取得して、抽出と分析に自身の処理能力を割り振った。ハーフミラーを利用し、通信と視覚を両立させるこの装置は便利だったが、強度に乏しくメーザーの出力限界も低いという欠点があった。だが、急ごしらえでこれなら上々だった。

 報告の見る限りは今の所、観測された旅団の戦力は事前に想定した許容範囲の内側だった。否、むしろ予想よりかなりの善戦をみせていた。地下司令部への侵入も、現段階では阻止できているようだった。が、侵入者を十分に炙り出せたとはいいがたく、エリスを投入したならば、必ずや戦いが成り立つ程度には抵抗される。それは当然、より多くの衆目に彼女の能力が晒されることを意味していた。

 取り決めに従い与えられた強権を振りかざせば、今から回収させる事も可能だったが。

 だけど、とアルベルトは考え直した。我慢できなかったのだろう。エリスの精神は未だ、目の前の殺戮を許容できるほどスレていない。一般人として健全な思考回路をもっているが故に、救えそうな人間を見捨てる事には耐えられまい。もしそうなら、早期の投入は正解だったのかもしれなかった。エリスに無用なトラウマを植え付けるのは、アルベルトの本意ではなかったのだ。

 ここに、本人も自覚する甘さがある。もし仮にこれが他人であったなら、彼は断固として出撃に反対した。出血を強要されている当事者である軍の司令部がエリスの提案に飛びつくこと自体は、プライドに拘泥しないと言う意味で十二分に正しかった。が、だからこそ、一人のプロハンターとしてアルベルトは、別の立場から意見を出すのが適切だった。物理的な手段だけで、まだまだ拘束できるのだと。一見すると派手な破壊と流血の惨事が繰り広げられていたとしても、一個師団という戦力は、そう簡単に殲滅されるほど小さくはない。まして今回は、予定より消耗のペースが緩やかだった。

 善戦の理由は、立案した作戦が功を奏したというのもあるだろう。アルベルトが関わったのは素案のみであるが、概要は報告されて把握していた。濃密な曳火射撃と頭上にこれ見よがしに配置したエリスの存在により敵を遮蔽物に誘引し、火力集中の及び機甲部隊による突撃により打撃を試みる。この際、あえて分散して運用する我の戦力を積極的に切り捨てる事により彼の対応時間を局限し、大局的な主導権を常に握ることを主眼とする。

 なお、決定力としては念的な手段であるエリスと物理的手段である短距離弾道弾が用意され、その背後には更に最終的な破壊の段階が控えているが、拠点防衛であるからには、できる限り使わずに済ませたい。他にも予備戦力として他師団より極秘裏に抽出された増強自動車化狙撃大隊相当の任務部隊が駐屯地外縁から60キロの地点に集結しており、これが地上戦力の切り札とされていた。

 本来、軍が執り行うべき行動ではない、常識はずれの異色のプラン。全ての原因は念能力者という異端の脅威の存在であり、それに対して短時間の確実な拘束を指向するという要求にあった。将兵を能動的に切り捨てる左道の業であるため軍当局は忸怩たる思いであろうが、それでも、この短期間で他に用意できた有用な案は他になかった。

 だが、損害が軽微な根本的要因はそこではない。上げられたデータを分析すると、旅団が投入したと思しき団員は多くても5、6人と推測される。第二波が控えている徴候もないようだ。蜘蛛の団員は残り12人と思われる為、半分しか動員していない計算になる。幻影旅団の内実は未だに不明であり、常時全員を動員できるのではないのかもしれないが、仮にそうでもこの人数は少なすぎた。アルベルトには旅団の襲撃は、正気の沙汰には思えなかった。念能力者にとって軍事力とは、とても恐ろしい存在だからである。

 念は素晴らしい力を与える技術であるという認識は真実であり、使えない者か念を納めたばかりの初心者ならそれだけでもいい。が、研鑽を積むうち、もう一つの真実を痛感する。すなわち、念など大したことが出来ない技術であるというそれである。

 念弾を撃つなら銃を撃った方が手っ取り早い。剣を具現化するなら買ったほうが手っ取り早い。人を操作するなら雇った方が手っ取り早い。ただ少し、念を使えば毛色の違う効果が現れるだけである。ささやかな差異を実現するための代償は、膨大な修行の時間だった。

 人類が他の手段で実現している事を、わざわざ摩訶不思議な生命エネルギーで再現して見せ、さも有能な人材であるかのように自分を飾り飯の種にする。この世界にいる念使いの大部分を悪意を持って表現するなら、アルベルトはそんな評価を下すだろう。無論、彼自身の能力を含めてだった。

 純粋に念でしかできない奇跡を実現できる人物は、本当に希少な例なのだ。

 軍隊にとっても同様である。念能力者が脅威なのは確かだが、現代兵器の破壊力は念能力者にとっても致命的な破壊力を発揮する。仮にアルベルトと同等の使い手であれば、9mmパラベラム程度の拳銃弾なら冗談で済む。が、小銃弾が幾つも当たればかなり厄介で、それ以上では真剣に脅威だ。対物ライフルや重機関銃、携帯式ロケット弾に無反動砲に小型迫撃砲。恐ろしいのは、これらを軍全体で見た場合、威力的には豆鉄砲同然だという事である。

 これらの兵器は仮に強化系を極めた能力者だとしても、基礎能力だけで防ぐのは難しいと判断せざるを得ない。例えば基礎的な人体強化で対戦車兵器のメタルジェットの侵徹を防ぐならば、ユゴニオ弾性限界を十分に引き上げる必要があるのだが、それが可能な人間など、この世に何人いるのかという水準だろう。少なくとも、アルベルトの知る限りでは存在しない。

 が、現代の戦車の正面装甲は、あるいは爆破反応装甲や空間装甲などもろもろは、成型炸薬弾に抗甚するである。軍隊とは、敵の軍隊と争うことを前提とした組織なのだ。念能力者がひとたまりもない兵器の破壊力を、防御する術と対応するノウハウを備えている。

 つまるところ、相手は念能力者を屠る力を持つ武器をいくらでも繰り出せる。対して、念の向上には時間がかかり、そのペースも上限も知れたものだ。ただ唯一、生物としてより優れた基礎能力だけを頼りに駆け巡るには、戦場はいささか危険すぎる環境だった。かといって、防御用の優れた発を修得すれば、それ以外の事が何もできなくなりかねない。

 これら優れた装備を組織的に運用する軍隊という名の武力集団を相手にするなら、念能力者とはいえ無条件に勝利できるものではない。打撃と防御で大幅に劣る前提は覆しがたい為、圧倒的に上回る反応速度で行動の間隙を突くのが主になる。が、選択の幅が狭いという事は、敵に対処されやすいという事だ。具体的には拘束と飽和が十分であればそれで殺せる。あるいは、うっかり流れ弾一つ喰らうだけで、致命的なダメージとなる危惧すらある。

 そんな危険な戦場に、全力を投入しないのはなぜだろうか。常識的に考えるなら、持てる戦力を集中し、可能な限り短時間で目的を遂げて離脱するのが最善のはずだ。追う側と追われる側の意識の違いもあるだろうが、アルベルトには旅団の行動が、刹那的に思えてならなかった。

 しかし、とアルベルトは考えた。逆に半分しか廻せない理由があったとしたらどうだろう。駐屯地の襲撃に廻せない残りの半分は、どんな事情があるのだろうか。

 幻影旅団は盗賊だ。当然、何かを盗む事こそが存在意義であるはずで、目的があると想定するなら、やはり盗みこそ第一に懸念される。パクノダを泳がして試行した結果、最も活発な通信を促したのが念に関する情報だった。念を使える人材の確保を目論んでいるのだろうか。ならば、この国でそれが集まる機会はいつだろうか。そこまで考えを進めてから、アルベルトはあまりに自明な結論に頭を抱えた。

 決まっている。今、この場所だ。

 仮に現状で襲われたなら、空挺師団だけでは微かな時間稼ぎが精一杯だ。アルベルトが駆け付ければ包囲網が無実化し、カイトを撤退させればこれまでの成果が泡と消える。かといって、搦手で対処するのも難しい。策を弄したその策ごと、なにもかも破壊していく世界最強の盗賊団。そんな突き抜けた連中が、悪名高き幻影旅団なのだから。

 結局、本件を早急に片付けるしか術がない。そんな面白みのない結論に達したアルベルトは、戦いの場であるビルを改めて観察した。内部では相変わらず戦闘が続いているようだが、ここからでは様子を伺いにくい。それにしても長い。泥沼化しているならなるべく早い段階で介入したかったが、それは最後の手段でもある。下手な助太刀はカイトの邪魔になる恐れすらあった。

 だが、停滞した空気が突然変わった。部隊の誰一人として声を上げず、一斉に緊張を走らせた。一瞬前に何が起こったのか、正確に把握できたのはアルベルトだけだろう。しかし、違和感なら誰もが認識していた。アルベルトはそんな歴戦の猛者達に、内心で惜しみない賞賛を捧げた。

 目標のビルがずれていく。ゆっくりと、斜めに。

 内側から切断されたのだ。恐ろしいほどの切れ味で。やがて、建物は自重を支えきれなくなり、切られた上部が落下を始めた。衝撃に耐えきれず砕けていき、瓦礫となって崩壊する。土砂降りのコンクリート塊が全てを押しつぶそうとする豪雨の最中に、アルベルトは二人分の人影を視認した。



次回 第十七話「ブレット・オブ・ザミエル」



[28467] 第十七話「ブレット・オブ・ザミエル」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/12/07 05:04
「はははははっ! すげーよアンタ最高だ!」

 呼気が笑いとなって噴出した。楽しくて楽しくて仕方がない。崩れ落ちる大量の瓦礫の中、背筋が凍るほどの鋭さで大鎌の刃が襲ってくる。思考が追いつく速さではない。とっさにコンクリート片を蹴って躱せたのは、ひとえに本能によるものだ。避けた後にゾッとした。それが楽しい。

 とかく、男は楽しかった。

 息を吐く暇など与えてくれない。カイトは己が体勢を立て直そうともしないまま、大鎌の柄をそのまま見舞った。石突き変わりのふざけたピエロが、男の側頭部へ猛烈に迫る。辛うじて腕による防御が間に合ったが、みしりと嫌な感触があった。男の堅は一流ハンターと比べても遜色がないが、その上からダメージを与えてくる。

「痛くねぇよ!」

 叫んだ。それで痛みは消えてしまう。お返しとばかりに蹴りを放って、躱されたと同時に拳銃を向けた。狙うは眉間。他の誰より速いイメージ。

「避けられねぇよっ!」

 叫びながら銃を撃つ。男の念弾はマッハを超える。大きさは拳銃弾と同等で、出鱈目な威力もありはしない。だが、貫通力と速さなら誰よりも上という自負があった。高超音速で飛ぶ一条の光。それを、カイトは瞬き一つせず躱してみせた。完璧だ。男は心中で絶賛した。忌わしくも強力な念能力に、既に対処の方法を見出している。

 熟練した念の使い手ほど、積極的に感覚を拾ってしまう。より深く自然と一体化し、より鋭く神経を研ぎ澄ませる。男の能力は、そこをいやらしく突くのである。

 初見でここまで対応されたのは初めてだった。オーラで耳を覆い、聴覚の強化ではなく純粋な防御を行っている。全神経を戦闘に集中させながら、強化の有無を一瞬で切り替えてみせる。能力の性質を見抜く慧眼、素早く正確な流を為す技量、感覚を殺すも同然の行為を迷わず選ぶ思いきり。全てが全て凄まじかった。男の生存本能がガンガンに警鐘を鳴らしている。脳髄がアドレナリンで発火しそうだ。

「ははっ! 俺は強えぇっ!」

 更なる自己暗示を積み重ねつつ、男は瓦礫を蹴って宙を駆けた。崩壊するビルの中を疾走し、カイトへ何発も引き金を引く。ほぼめくら撃ちに近いそれが当たるとは思ってない。案の定、カイトは並走しながらしなやかに躱す。それでも、男もその隙を見逃すほど腑抜けてはいない。距離を詰め、強烈な蹴りを腹部へと放った。作用と反作用で二人の体が大きく離れ、防いだ大鎌が弾き飛ばされる。追撃に連射した弾丸は、肩と脇腹の肉を微かに削いだ。が、あまりに浅い。

 再び道化が出現する。戯けながらにドゥルルルと笑って、今度は大弓が具現化された。カイトは僅かに顔を顰める。外れを引きやがったなと男は笑った。有利さが故の笑みではない。ただ単に、愉快に思っただけだった。

 男は空中を落ちゆく箪笥に着地した。続けざまに蹴り砕き、他の足場に飛ぼうとした時だった。ふと、頭の片隅に何かが浮かんだ。思い出した記憶はさして重要なものでもなかったが、男は上機嫌に任せて助け舟を出してやる事にした。勢いを殺すように優しく蹴って、瓦礫の積もりつつある崩壊範囲外に落ちる軌道にのせる。この位置からでもかなりの高さだ。内臓の十や二十は破裂するかもしれないが、それぐらいはまあ、愛嬌だろう。

「いい弓じゃねぇか! 飛び道具同士勝負といこうぜっ!」

 自慢の愛銃を構えて男が吠えた。念弾を込めた銃口を向けると、カイトは既に、大弓を真円近くまで引き絞っていた。番えた矢は鏃が鋭く、膨大なオーラを内包している気配があった、引き金を絞るのと矢を放つのは、微塵も違わず同時だった。

 空間を貫いて念弾が駆ける。降り注ぐコンクリートを幾重も貫き、あやまたずカイトの放った矢を粉砕した。凄まじい爆発が巻き起こり、破裂した念が四方八方に飛び散った。至近で喰らったカイトは、きっとひとたまりもないだろう。さらに次弾を放とうとして、男ははたと気が付いた。渦巻く膨大なオーラの向こうに、カイトの気配が感じられない。衝撃波に乗って移動したのだと悟ったとき、既に脅威は迫っていた。

 真下。人体の死角からだった。長い髪をなびかせて、ぼろぼろになりながらも飛翔してくる。手には短剣。黄金と宝石で装飾された、近東風の豪華な反り刃。刀身に翼の意匠をもつその武器にも、柄頭にピエロが張り付いていた。

 速い。男は迷わず銃を乱れ撃った。右肩を貫き左腿を掠める。だが、カイトを止めるには足りなかった。交差は一瞬、短剣が振り抜かれたのは刹那だった。閃きすら置き去りにした超速の斬撃に、男はどこを狙われたかも分からなかった。ただ、直感を信じて上体を捻った。それが、幸いした。

 心臓を狙った軌道は肋骨の表面を撫でただけで終わり、辛うじて一命を取り留めた。紙一重。あと紙一重でも遅かったら、男は確実に死んでただろう。おぞましいまでの切れ味に、痛みすら感じる事ができないでいる。全身から冷や汗が吹き出した。

 上を見上げる。カイトは再び瓦礫を踏み締め、崩れ落ちる足場を走り出した。負けじと男も駆け上がる。そう何度も、窮地に陥るつもりはなかった。ひときわ強いオーラを喉にこめ、男はカイトへと接近しつつ声を上げる。

「お前はっ」

 カイトのオーラが耳に集まる。それを見越して男は銃を構えて、さらに間合いを詰めて銃口を押し付けるように肉薄する。カイトの短刀が銃を受け止め、格闘戦が始まった。能力への警戒を逆に利用したフェイントだった。が、真実フェイントだったのは。

「脚を滑らせるっ!」

 至近。渾身の大声にオーラをのせた。負けてもいい。それが男の本心だった。この賭けの結果破れたなら、一点の曇りもなく満足だろう。そう断言できるほどに全力だった。カイトの耳にオーラが集うが、対処は僅かな差で間に合わず、不安定な足場を踏み外した。

 相手のバランスが微かに崩れた瞬間を、男は見逃しはしなかった。がらがらと崩れていく瓦礫の底へ、カイトを全力で蹴り落とす。細い外見からは想像できない、堅く弾力性のある感触だった。鍛え抜かれた筋肉の蹴り味だ。

「じゃあな。楽しかったぜ」

 一分の世辞も抜きにそう呟いて、真下へと全弾を撃ち込んだ。積もっていくビルの残骸の山の中へ、全身全霊で放ったとどめだった。男が知る最上級の賛辞の贈り方だった。



 新市街にそびえる高層ビルの屋上に、ラフなシャツを着た人影が佇んでいた。黒く、深い眼が印象的な、やや童顔の男だった。額にバンダナを撒いており、耳には黒玉の飾りを着けている。厳戒体制が敷かれる最中、彼は自然体を崩そうとしない。片手には異形の本を持ち、黒髪をナチュラルに揺らしている。背後にはこの場所に配置された憲兵達が、虚ろな瞳で棒立ちしていた。

 クロロ=ルシルフル。無害そうに見えるこの青年が、泣く子も黙る幻影旅団の団長だった。双眼を旧市街の一画に向けたまま、じっと、味わい噛み締めるように静止している。

 距離があるにもかかわらず、クロロは先ほどの崩壊の一部始終を正確に把握していた。そして、欲しいという渇望が沸き上がった。昔からそうだ。捨てられたものを拾って暮らしたあの頃から、誰かのものを目にすると、それが無性に欲しくなる。

 始めは、ただ欲しかった。

「……ああ、オレだ」

 携帯電話が振動した。とれば、馴染みある声が流れてくる。団員からの連絡だった。

「そうか。いや、まだだ。遅れているなら丁度いい。夜まで待て」

 会話をしながら、クロロは改めて景色を眺めた。見晴しのいいこの場所からは、地平線の丸さが何となく分かる。地球を丸ごと、手の中に握った錯覚を得た。足下には、これから活気づく時分の都市があった。

「ああ、そうだ。あいつらには成否はどうあれ無理に合流する必要はないと言ってある。そっちはお前達だけのはずだ」

 寂しい街並だった。循環する自動車の血流はなく、人々の賑わいは露と消え、生活の気配は排除され尽くしていた。装甲車の覆帯がアスファルトを噛み、硬質な靴音がまばらに響く。乾燥した埃っぽい荒野の風に、いくらかの湿り気が混じっていた。空には灰色の雲が増えていた。午後か、遅くても今夜には降るだろう。

「パクが探したものを見届けたら、あとは好きにしろ」

 最後にそう付け足して、クロロは通話を切断した。一つ、息を吐く。

 パクノダはもう、生きてる望みはないだろう。クロロはそう判断し、それを前提に動いている。

 数日間、なんの断りもなく連絡が経たれた現状を、偶然と断じる愚者は旅団にはいない。何らかの不都合でコンタクトができないだけなどと、無為な希望に縋る甘さも同じだ。ならば、露見したと見るのが当然だろう。

 国に協力するハンターは残り三人しかいないという。彼等の立場に立ったなら、殺すのが合理的な選択だった。生かしておくなら、最低でも一人は拘束される。念能力者なしでの監視など馬鹿げた措置をとったなら、とっくに脱出してるだけの実力と機転がパクノダにはあった。

 なにより、彼の直感が告げていた。もう二度と、彼女にまみえる機会はないのだと。

 悲しいとは、思えなかった。少なくとも、団長としてのクロロはそうだった。旅団設立以前からの付き合いであるパクノダと死別しても、それを許容するだけのルールがあった。団長は悲しみに浸れない。私情を挟めないのではなく、私情が存在してはいけないからだ。

 自分の心を殺す程度の在り方では、蜘蛛の頭は勤まらない。

 幻影旅団はクロロの力だ。世界を動かし震撼せしめる、比類なき暴力の塊だ。今の立場に不満はなく、団員は大切な仲間だった。だが、それでも、時々は自由になりたくなる。

 そんな時、彼は一個人としてのクロロに戻る。髪を降ろし、入れ墨を隠し、コートを脱ぎ、一人、気ままにぶらつくのだ。

 摩天楼の上で空を見上げた。蒼く、宇宙へと続く、どこまでも深い空だった。



 カイトとの一戦を終えた男は、充実した気分でズボンのポケットに手を伸ばした。余韻でいっぱいに満たされた肺を、一服の紫煙で洗い流すのだ。一本を空中で口にくわえ、地上へ落下しながら期待する。心地よい疲れと達成感に苛まれる体を癒す煙草は、果たしてどんなにか旨いだろう。

 男は終わったと思っていた。ヘルメットと防弾着で統一された連中など、物の数とも思ってなかった。むしろ人目を気にしなくていい分だけ、一般人よりも容易かった。小銃や機関砲で武装するなど、男にとっては逆効果だ。

 だが、男が浸るいとまは無かった。

 飛来したのは手榴弾だ。他の銃口は一つたりとも火を噴かず、正確に男の落下予測地点を狙っている。路上で陣を組む小銃手から、建物の屋上のスナイパーまで。

 統率されているなと男は思った。手榴弾を抜き放った愛銃で迎え撃つ。正確に信管を貫かれ、沈黙してただの物体になった。念が込められた様子もない。強肩でコントロールも良かったが、単にそれだけの事だろう。そんな楽観が、覆された。

 弩砲の如き豪速。それは飛来する人影だった。拳銃が間に合わず、男は拳で迎撃する。オーラに触れれば嫌でも分かった。強い。カイトには一歩劣るが、こちらもかなりの使い手だった。堅の緻密さ、オーラの流れの静かさでは上かもしれない。連戦になるのは辛いかもしれない。が、それ以上に相手の風采が気にかかった。珍しい。そして妙だと男は思った。

 特殊部隊ご用達の防弾チョッキに上体を包み、全身を黒暗色でまとめている。フルフェイスのヘルメットは付けておらず、一般的な鉄兜に加えて妙な片眼鏡を右目右耳に装着している。ヘッドマウントディスプレイの一種だろうか。SF映画にでてきそうなデザインの機器は凝で見てもろくなオーラが込められておらず、念の産物とは思いがたい。極め付けはその武器だ。

 着地間際、お互いに蹴りを打ち放ち、その反作用で吹き飛ばされた。いい蹴りだ。アスファルトを削り接地する。タイミングを計っていたはずの斉射は来ない。一発たりとも発射されない。が、いぶかしんでいる時間はもらえなかった。全身のバネを見事に使って、件の能力者が刺突で迫る。始動に気配がない、恐ろしく静かな体術だった。

 武器。それは着剣したカラシニコフの自動小銃。7,62mmの大口径。マズルジャンプを抑制するため斜めに切られた特徴的な銃口部。金属製の折りたたみ式直銃床。AK47の改良型、AKMがバージョンの一つ、AKMS。加えて、先ほどの手榴弾。サブウエポンのピストルポーチ。嫌な選択をする野郎だと男は思った。念能力者が好む装備ではない。

 銃を武器にする能力者はいる。現に男がその一人だ。が、それはあくまで個性であり、思い入れの象徴であり相棒だった。断じて、そう、断じて、銃自体の性能に依存するためではないのである。

 相当量のオーラを左手に込め、男は正面から銃剣を押さえ付けた。インパクトの瞬間、相手は硬で先端を覆った。迅速で精密な流だった。男の凝と敵の硬。結果は僅かに押し負けて、掌は銃剣に貫かれた。だが、関係ない。

 苛立ちに任せ、男は刃を握りしめる。掌の骨がミシリと歪んだ。右手に持っていた拳銃を顎で噛み持ち、唇の端だけでニヤリと笑った。握りしめた右手には、今や渾身のオーラが集まっている。眼前の青年は逃げられない、はずだった。

 突如、銃剣がガラスのように割れて砕けた。相手が周を解いたのだ。鋼の刀身は念能力者である男の握力に耐えきれず、敵は自由になった小銃を右手にバックステップで離脱した。置き土産のつもりだろう。ピンの外れた手榴弾が放られている。同時に、精密に同期して周囲の兵が発砲した。

 決まりだな、と男は見切った。こいつには、こいつの戦い方には、念能力者としての意地がない。あれほど楽しかったカイトの後では尚更に、興醒めする軟弱な野郎だった。

 ここで殺されるのはつまらなかった。地面を全力で蹴って後退し、バク転の連続で爆発と着弾を回避する。

「何をしてる! 狙うのはそいつだ!」

 念の素養のない者には、男の能力はことさらに効く。オーラの乏しい肉体は念能力に対する抵抗力が皆無な上に、心を鎮め、意思を高める修行をしてないからだ。

「あいつが本当の容疑者だ! 他の連中は騙されている!」

 弾幕が敵の仇となった。男が早口で叫ぶに足る時間を、あの青年は距離を詰めて阻害することができなかった。チャンスだ。瞬く間に混乱しだす連中を後目に、男は手近な路地に駆け込んで駆ける。背後では、銃声と怒号が連鎖していた。

 旧市街の裏側は汚く狭い。壁は迫り、地面には私財やゴミが散乱する。両側に連なる建物の壁面を蹴って宙を飛び抜けながら、男は左手に食い込んでいる破片を抜いた。

 念に愛着を持たない使い手はいない。己がスタイルにプライドを持たない能力者はいない。念とは、人生を糧にする技能である。膨大な時間を費やし、一心不乱に求めなければ得られぬ能力なのだ。今までの半生を象徴し、今後の歩みの礎となる。念を修得したものにとって、それは一つの定めだった。

 が、あいつは、制圧だけを目的に銃器を選んでいた。獲物に愛着を持ってなかった。念を覚えたての初心者でもなければ、途中で挫折した落伍者でもない。あれほど見事な念技を披露していたのだ。さぞや研鑽を積んだことだろう。だからこそ、男は不快感を覚えていた。

 男は楽しい戦いが好きだった。楽しくない戦いが嫌いだった。

 振り返ると、例の人物が後を追ってくる。男は少し見直した。この空間を移動する念能力者に追従するのは、同じ能力者でなければ不可能だ。部隊を離れ、一人で戦う決心をしたのだろう。少しは楽しくなりそうだろうか。

 路地を駆け抜け通りへ躍り出、直角に近く右に曲がる。踏み締めたアスファルトが陥没した。あらかじめ配備されていたのだろう。装甲車両に跨がった憲兵達が、手持ちの火器を破れかぶれに乱射してきた。無論、男は楽に全てを躱した。

「馬鹿野郎! 俺は味方だ! 次に出て来る奴が敵だろうが!」

 軽い嫌がらせのつもりで言霊をばらまく。足留めになるとは思ってない。たわいないジョークの代わりだった。

 目につくままに任せ、別の路地へとすぐに飛び込む。行き先は全く考えてなかった。なるようになると割り切っているが、ならなかったらそれもまた良しだ。だがあの敵には、自分を仕留めた手柄をやるのは面白くない。

 建物の連なりが流れていく。風圧が頬を打ち付ける。二人分の暴風が路地を駆ける。物陰で寝ていた野良犬が、迷惑そうに片目を開けた。

 敵が銃を構える気配があった。振り向くと、男を追い掛けながら右手だけで、拳銃のように腕を伸ばして構えている。銃器に慣れ親しんだ男には分かった。尋常ならざる正確な照準。あの小銃の弾丸は、間違いなく男に当たりたがっている。

 コンピュータ制御の火器管制を彷佛とさせる、感情のこもらない冷徹な狙い。男は一つ舌打ちした。青年が銃を当てようと構えているのではなく、銃の方が当てたい場所へ向いている、そんな錯覚さえ覚える精密無比な魔技だった。外れるイメージが湧かなかった。あとはただ、銃の集弾率次第で結果が決まる。

 だが、遅い。舐めるな。

 音速を少々超えた程度の、低超音速の小銃弾。それが一体どうしたというのか。円を展開するまでもない。男は苦もなく避けてみせた。飛来する弾に周はされていたが、やはり、これにも思い入れが全くなかった。オーラに、弾丸にこびり付こうとする執念がない。機械的にただ込められた、至極無機質な強化だった。

 それでも、体に当たればダメージになる。フルオートで自在に指切りしてみせる射撃の中には、弾道を操作されたものも混ざっていた。あるいは任意に破裂して、男の器官を化かしにかかる。それらにいちいち対処しながら走るのは、いくらなんでも面倒だった。ほんのわずかな集中の乱れが遅れを生み、少しずつ距離を詰められていく。

 煩かった。かといって本格的に応戦の構えをとったなら、それこそ相手の思う壷だろう。

 つくづく嫌な奴だと男は思った。つまらない戦い方のくせに実力はある。いやらしい戦い方に熟達している。だから余計にむかついた。ならいっそ、思惑に乗ってやろうと男は思った。

 拳銃から弾倉を振り出して、念弾六発分のオーラを左手で込める。これはただの儀式だった。こんな真似をせずとも、念弾はいくらでも発射できるのは当然だ。が、何となくだがこうしたほうが、弾丸を込めたイメージに浸れるのだ。事実として、一撃の威力が確かに上がった。

 体に染み付いた作業はほんの一瞬で完了し、振り向きざま、親指で地面を指すジェスチャーを送った。ちょうど駆けてきた路地を抜け、新しい大通りに出たところだった。辺りには人影も装甲車もない。だんだんと濁ってきた暗い空。忘れ去られて寂びた街。ロケーションとしては絶好だった。

 本当の銃の使い方を教えてやる。路面を削って止まりながら、男はそんな闘志に燃えていた。

 二十メートルほどの距離を開けて、二人の能力者が対峙した。西部劇のようだと男は思った。タンブルウィードの代わりに空き瓶が転がり、大地の代わりにアスファルトが乾く。

 言葉を使うまでもない。早撃ちは男の十八番だった。最初の一手は確実に、男の掌中に収まるだろう。

 静かに視線が交錯する。若い。改めてそんな印象を受けた。自分と同じかやや下だろうが、年齢以上に若く見えた。少し濃いめの金の眉。整った顔だちの白色人種。お上品ながらひ弱には見えない。さして面白みの見出せない、どこにでもいそうな優男だった。ただ、その瞳が、異様に冷たい。否、高低問わず熱という概念が見出せない。おぞましいまでに機械的で、その上でなお、人間としての深みがある。

 なんだこいつは。

 戸惑いが引き金を遅らせた。相手に先制を奪われるなど、ここ十年は無かった失態だ。その狭間に敵は間合いを詰めた。幾重にも残像を遺しながら、流れるように向かってきた。速くはないが、早い。こちらを幻惑しようとする不可思議な歩法。音に聞く肢曲という技だろう。

 オーラの移動が恐ろしく静かだ。誰にでもあるはずのムラがなく、動作の前兆の揺らぎもない。まさか、この歳で仙人の域まで達したのか。だとしたら随分と姑息な仙人様だ。

 銃剣の折れた自動小銃を槍にして、相手は突きを放ってくる。対して、男は左の拳で迎撃した。衝突でオーラの火花が散り、青年の体が微かに揺れた。オーラの質と量に比べて、身体強化の程度が低い。

 操作系か具現化系だな。相手に回し蹴りを放ちながら、男はそう判断した。強化系に属する肉体強化との相性は、放出系より一段下だ。明らかに具現化系であろうカイトは不利な条件でありながら基礎能力で男に拮抗してみせたが、目の前の敵は一歩劣る。それがそのまま、両者の力量の差なのだろう。

 だが、と男は考えた。それにしてはやや効率が高いような気がする。精密な技量で埋めているのだろうか。事実、全身のオーラが動きに合わせて異常に細かく蠢動している。が、どうにも何かが不可解だった。妙にすっきりしない相手だった。

 回し蹴りをガードさせ、生まれた隙に拳銃を構えて至近から撃った。敵はバックステップと同時に躱したが、勢いにまかせて二度三度と撃ち重ねる。無駄撃ちになるならそれでもいい。何かが掴めるだろうという判断だった。男の念弾は異常に速く、発射後の回避は間に合わない。そのため相手に強制させる回避行動の大きさは、凡百の念技の比ではなかった。

 だんだんと、男は興が乗ってきた自分を自覚した。こういう戦い方もできるならば、そう邪険にすべき相手でもなさそうだ。驚くほどの正確さで弾道を予測し最小限で避けた青年に、今さらながら興味が湧いた。

 が、そんな期待は脆くも崩れた。甲高い音が空から迫る。男はそれを知っていた。迫撃砲か榴弾砲。その、山鳴りの軌道を描き降りゆく砲弾の群れは、間違いなくこの一帯を目掛けている。これほどまでに短い時間で、どうやって射撃を指示したのか。技量は買うが、つくずく見下げ果てた根性だった。

「てめえ!」

 怒りつつ、男はオーラを練り上げる。妨害さえなければ離脱できる。否、してみせると強く決めた。

「おまえは、そこで止まっていろ!」

 怒鳴りながら、残った全弾を土産に撃った。曳火射撃か着発だろうか。どちらにせよ、自分で撒いた罠にかかって不様に死ね。男にとって、それは相手が被るべき当然の報いだった。

 しかし、敵に全く影響が見えない。凝で防いだ様子もなく、精神力で耐えた印象もなかった。初めから効力などないというかのように、澄まし顔のままで間合いを詰めてくる。この発を修得してはじめての経験に、逆に男が目を見張った。致命的な隙だった。

 AKMのフルオートを全身に受けた。堅で守る肉体では致命傷にはなり得ないが、猛烈に痛く、そしてなによりうっとうしい。硬直した男の懐に、青年は素早く潜り込んできた。投げか。男が意図を悟ったとき、体は既に落下していた。スローモーションに見える視界の端に、放棄されたカラシニコフが浮いていた。

 背中から、強かに路面に叩き付けられた。アスファルトの皮が路盤から浮いて、弾んで波打つほどの強烈な衝撃。辛うじて間に合った凝のおかげで、ダメージはそれほどでもなかったが。

 次の一手が、ひどくやばい。

 ガキリと、相手が一瞬硬直した。右手人指し指の先端にオーラが集まる。戦いの最中、不自然な全身停止をしてまで実現したのは、背筋も凍る密度の硬だった。男は考えずとも分かってしまった。致命的な、反則的な貫通力を持っていると。

 全て、このためか。見上げれば、敵の背後で砲弾が弾け、曳火射撃の雨が降る。起き上がる暇は全くない。男は死を覚悟した。だが、彼はこいつが嫌いだった。こいつに殺されるのは癪だった。例えつまらないこそ泥でも、男には男の意地がある。右手に握ったままの拳銃に、六発分のオーラを込めた。

 その上から更に、七発目の念弾を装填する。

 させじと敵が硬を放つ。が、高超音速マッハ数を誇る男の念弾には適うまい。銃身で照準を付ける必要はなかった。心の中で六発分、狙いを定めて引き金を引いた。一回の射撃で七発が、的外れな方向へ飛んでいく。強烈な虚脱感に襲われた。大量のオーラが流れ出た感覚。堅も儚く纏へと堕ちた。

 男は奥歯を噛み締めて、一心不乱に堅を立て直そうと試みる。起き上がることも後回しだ。曳火射撃などどうでもいい。その程度の脅威に、構っているだけの余裕はなかった。なにしろ、七発目がどこに当たるかは、彼自身にも分からないのだ。

 相手の体がぐらりと崩れた。当然だ。頚椎、心臓、左右それぞれの頸動脈、肝臓、金的。どれか一つでも必殺の急所。その全てに対してあやまたず、男の念弾が突き刺さったのだから。

 直後、男の体を念弾が貫く。大動脈。左心室直後の人体最大の血管を、銃弾は的確に打撃した。男の喉から空気が漏れる。絶叫にならない絶叫だった。練り上げたオーラと鍛え上げた胸板で辛うじて血管は破れなかったが、全身が弓なりになって痙攣した。口からは泡が吹き出していた。

 激痛に見開かれる男の眼。が、それは更に大きく開いた。止めどなく流れる涙に濡れて、ぼやけた瞳で男は見た。

 なぜ、敵は倒れていないのか。

 土壇場で硬を放棄した。それは分かる。が、そこから先がありえない。流の速度が異常だった。状況把握が正確すぎた。命中箇所にそれぞれ硬を分散して、的確かつ確実に防いでいた。時を止めたかのように、全てが完璧な対処だった。なぜ、あの刹那で全てを見切れたのか。オーラの量もありえない。なぜ、あそこまで急激に増加しているのか。なぜ。

 踏み止まった体勢のまま、無機質な眼球が静かに動いた。

 男の脳裡に浮かんだのは、いつか見た映画のワンシーン。壊れたと思ったロボットが、煙を上げて動いてくる。甲高い作動音を響かせながら、眼に映る人間を破壊する為に。

 男は全力で跳ね起きた。動かない体が動いたのは、粟立つ魂のせいだろう。股間の括約筋は完全に弛み、大小の排泄物を洩らしていた。生存本能の働きだった。今は身だしなみなど構ってられない。余計な荷物は留めておけない。そんなお上品な目的に、使っていいエネルギーは欠片もなかった。

 曳火射撃の雨の中、今、はじめて、男は眼前の敵に戦慄した。



 灰神楽だ。もうもうと撒き上がる土煙を、フェイタンはそう感じ取った。イラついていた。目に入る。愛用の衣装が埃で汚れる。だが、安易に抜け出る事は適わなかった。これも全ては、あの忌わしい女のせいだった。

 大空にいる光点を彼は見つめる。赤い、光り輝く一対の翼が、呆れるほど鈍重に旋回していた。確か、名をエリスと言っただろうか。クロロから彼女の性能を告げられた時、フェイタンは半信半疑だったのだが。

 再びエリスがダイブを始めた。急降下とともに両手にオーラを漲らせる。遠目にも分かる禍々しさ。纏をせず、辺りに無駄にばらまいている。が、何より脅威だったのは、あの女の念に力みや猛々しさが微塵も見えない点だろう。フェイタンほどの達人であれば間違えようがない事実である。練による増量の成果ではない。あのふざけた量のオーラは、あくまで彼女の自然体なのだ。

 フライパスとともに赤い閃光が降り注ぎ、豪快に周囲を薙ぎ払った。コンクリートの巨大な塊が容易く砕け、地面が深く陥没する。戦車の残骸がひしゃげて潰れ、榴弾砲の直撃に抗甚するひときわ頑丈なトーチカに、轟音と共に亀裂が入る。ウボォーギンをも遥かに超える破壊力。それが、何よりもフェイタンをイラつかせた。

 パクノダの報告の比ではない。現物は更に異常だった。あれほどの獲物が、あれだけの女が、なぜ、届かない場所を飛んでいるのか。手の届く場所にいたならば、全身くまなく壊せただろうに。

 降りて来い。そしてワタシに身を捧げろ。フェイタンは鋭い表情でエリスを睨み、煮えくり返るはらわたを焦がし続けた。散々に痛めつけられた彼の体は、憎悪をさらに増幅させる。

 また攻撃だ。粉塵だらけのこの場所で、光は是非もなく拡散する。それが粒子に動きを与え、閃光に複雑な乱流と乱反射を纏わせていた。威力こそ分散されているものの、危害範囲が尋常ではない。躱したはずでもダメージを喰らう。四方八方、全周から硬で殴られたかのような理不尽な打撃。

 逃げ回り、隠れる事に専念すれば、今はまだ捉えられる確率は低かった。エリスという女は間抜けにも、索敵がひどく不得手らしい。が、それでも、手近な遮蔽物は砕かれていき、行動範囲は削られていく。調子に乗った軍隊までもが、いらぬ手出しをしてきてうっとうしい。機関砲に戦車砲。腰抜けな長距離狙撃など発火炎をみてから離脱できたが、こう何度も繰り返されれば面倒だった。唯一ましだと言えたのは、マチが軍相手に暴れていて、奴らの意識は大部分がそちらに向けられている事だろうか。

 そもそも、なぜフェイタンが逃げ回り続けなければならないのか。彼はそれが気に入らない。剣も拳も、空を飛ぶ敵には届かない。エリスは常に羽ばたいて、都合のいいときだけ接近して攻撃を放ってくる。奪った銃を撃ってみることも試したが、赤い光に粉砕されて終わりだった。

 飛行船が二隻、悠々と爆弾を散布していく。フィンクスが落とさなかったものだった。フェイタンは全身のバネをしなやかに使い、全速で疾走を開始した。調子に乗ってやがる。ギリリと奥歯を噛み占めた。もう随分と長く戦っているが、炙りだされるのも時間の問題だった。せめてまともに戦わせろ。それが彼の渇望だった。

 勢いのまま機関銃トーチカの銃眼へ飛び込んで、乱入と同時に有象無象を断首した。人体から血液が勢いよく吹き出し、狭い壕内を鮮血が飛び交う。いい匂いだ。フェイタンは血糊の中で深呼吸して、久々の癒しを楽しんだ。苛立ちか微かに中和されて、少しだけ落ち着きを取り戻した。

 銃眼から外へ躍り出て、新しい気分でフェイタンは走る。地雷原だった。遮蔽物を利用しながら移動しつつ、数多の地雷が敷設された領域へ躊躇なく侵入した。地中に秘められた存在も、フェイタンの眼は誤摩化せない。一瞬の早業で地面を切って対人地雷を幾つも掘り出し、適当な穴に重ねて納めた。これでいい。あとは駆け引き、タイミング、そして風向きだ。

 遠くの丘で自走砲が軒並み暴発し爆散していた。きっとマチの仕業だろう。

 エリスをはめる事は簡単だった。ほんの少し存在をアピールしてやるだけで、猪突猛進に突っ込んでくる。なんて愚かな女だろうか。フェイタンは衣装に隠れてほくそ笑んだ。

 上空を通過しようとお決まりのコースに入ったのを確認して、フェイタンは地雷を強烈に踏み締めた。衝撃が信管を作動させて、彼の身体が宙へと吹き飛ぶ。硬で防御した肉体でもいくらかダメージが通ったが、そんな些事はどうでもよかった。

 呆然と、間抜け女が上を見る。エリスを見下ろすのは痛快だった。唇を釣り上げ、愛剣をしかと握りしめる。絶好のタイミングで空を舞って、フェイタンは最良の機会を手に入れたのだ。

 交差は一瞬。が、その寸前に。

 フェイタンの意図は、適わなかった。

「クソがっ」

 落下しながら悪態をついた。右腕は繋がっていた。辛うじて、原型らしきものは保っていた。が、骨という骨がひしゃげ、粉々に砕けきっていた。鍛え抜いた肉体を堅で包んだ上からでも、余裕で押しつぶす圧倒的な圧力。専門の術者に診せたとしても、完全な回復までいくだろうか。いや、それ以前に動かす事ができるのだろうか。それほど酷い損傷だった。

 エリスが、発光する腕をかざしたのだ。遠距離からの砲撃とは全く違う、威力の桁が違う閃光だった。

 体勢を立て直せないまま、肩から地面に激突した。そこは地雷の真上だった。爆風が猛烈に吹き上げる。傷付いた右腕に激痛が走り、肉体に滑稽な悲鳴を上げさせた。生涯最大の屈辱だった。

 とどめでも指す気なのだろう。エリスは離脱する事なく旋回し、再びこちらへ突っ込んできた。調子に乗った、売女が。

 もうもうと砂塵が舞う中で、フェイタンがゆらりと立ち上がった。限界を超えた怒りを全身に滾らせている。後の事などどうでも良かった。痛みを返す。それだけがフェイタンの存在する意義になった。

 彼の能力が発動した。【許されざる者(ペインパッカー)】。防護服が具現化する。念の密度が飛躍的に高まって、報復の為の鬼と化した。防護服の内側で無事な左の拳を握りしめ、地面へと全力で突き刺した。莫大なオーラが大地へ向けて浸透し、フェイタンは辺り一面を掌握した。半径25メートル以上のオーラの円陣。エリスは先ほどの二の舞を避ける為だろう。遥か上空でオーラを集中させていた。だが、その場所は。

 今のフェイタンにとって、あまりに低い高度なのだ。

 ボルケーノ。オーラを灼熱に変化させた。噴火の如く、怒濤の熱流が吹き上がる。クズ女を灰燼に期す為に。味わった痛みを返す為に。お前には土葬も勿体ない。無惨に、惨めに、孤独に、成層圏まで飛んでいけ。

 圧倒的な炎柱が雲を貫いて昇っていった。上昇気流が形成され、全てを吸い込んで巻き上げていった。フェイタンの能力が収まったとき、周りには何一つ残らなかった。

 春の午前の陽を浴びて、地面がキラキラと輝いていた。先ほどまでの面影は全くない、ガラス質の蕩けた地表だった。粉塵のない、爽やかな空気が流れている。静かだった。

 見上げると、広大な青空が広がっていた。飛行船が二隻、ゆっくりと炎を上げて堕ちていく。

 ———小川は流れず、丘はそびえず。

 体内のオーラをすっかり消費し、フェイタンの心は気怠い清涼感に満たされている。愉快を越えてすっきりしていた。苛つきは既に残ってない。痛みも、今だけは忘れていいだろう。世界はこんなにも美しかった。

 そして、彼の命は消失した。

 たった一発の銃声が、静寂の中に鳴り響いた。フェイタンの胸板の中心を、しっかりと見据えて射撃していた。およそ1km先、潰れた建物の瓦礫の中、死に瀕しても冷静なままだった一人の狙撃手。名も、顔も、何も知らない一介の兵士の、なんの変哲もないただの狙撃。

 銃声を切っ掛けに、思い出したように攻撃が始まる。戦車が、榴弾砲が、機関銃が、倒れゆくフェイタンに向けて猛攻を加えた。肉体が砕け壊れていった。

 だが、銘記せよ。彼の命を奪ったのは、強力な念の使い手でもなければ破壊に長けた兵器でもなく、どこにでもある一発のライフル弾だったのだと。



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【第七の弾丸(ブレット・オブ・ザミエル) 放出系・操作系】
愛用の拳銃を介して念弾を7発同時に放出する。
7発中6発は能力者の意図する箇所に必ず命中し、残りの1発は能力者が無意識で最も命中してほしくないと願う箇所へ必ず命中する。
ただし能力者が存在を明確に認識していない対象は標的にならない。
弾丸は個々が独立して自動制御され、自らを構成するオーラを消費して円を展開し索敵する。
このために通常の念弾よりも距離にる減衰が激しい特徴がある。

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次回 第十八話「雨の日のスイシーダ」



[28467] 第十八話「雨の日のスイシーダ」
Name: えた=なる◆9ae768d3 ID:8650fcb0
Date: 2011/12/07 05:06
 地下。リノリウムに赤い河が流れている。照明は所々破裂して薄暗く、白かった壁は面影もない。分厚い鋼鉄の隔壁に、豪快な穴が開いていた。兵器による整った破壊ではなかった。もっと原始的で強引な、単純な打撃の跡だった。かつて人体だった名残りの破片が、長い通路に散乱している。壊れたスプリンクラーが一つ、延々と誤作動を続けていた。地中に降った雨だった。

 シャルナークとフィンクスが歩いているのは、そんな終わってしまった世界だった。彼等以外、動く人影はどこにもない。靴が血を踏み締めるのも気にせずに、二人は肩を並べて歩いていた。足取りを邪魔する者は一人もいない。妨害できるような人間は、どこにも残っていなかった。

 フィンクスは大きな袋を担いでいる。彼の身長の半分近くあるだろうか。その荷物は、ひんやりと念入りに冷えていた。

「よう、マチ。待たせたな」
「あれ、フェイタンは?」

 地下司令部を出て地上へ上がり、二人はマチと合流した。もう一人の仲間の姿はない。問われたマチは簡潔に答えた。死んだよ、と。

「例の女か?」

 フィンクスは最小限の確認をする。冗談などとは思っていない。そのような事、眼前の女が口にするはずなかったのだ。だが、マチは違うと否定した。

「キレてその女を消し飛ばした後、オーラを使い切ったとこに狙撃を受けたんだ。死体もどこにも残っちゃいないよ」

 二人は顔を見合わせた。

「あいつらしいな」
「だね」

 オーラの加護あっての念能力者だ。一般人から見れば非常識なほど肉体を鍛えていたフェイタンだが、体を鋼鉄製にしたわけではない。激情に任せて能力を使用する特性の弱点を、見事に突かれた形だった。

 詳しくは歩きながら話すよと、マチはさっさと振り返って発とうとする。言動は普段以上にそっけなく、言動の節々が少し重い。機嫌が悪いようだった。なんだかんだ言っても仲間の死が、胸に突き刺さっているのだろう。彼女はそういう性質だった。

「あ、マチ。その前にちょっとこれ見てよ」
「……なんだい?」

 シャルナークが指して示したのは、フィンクスの担ぐ荷物だった。下ろされて、ジッパーが彼女に向けて開けられる。マチの眼光が険しさを増した。そのままじっと数秒間、彼女は袋の中身を見つめていた。

「……勘だけど」

 十分だ。二人は無言で頷いて、マチに続きを促した。彼女の勘は極めて鋭く、旅団の皆が信頼していた。

「パクだと思う」
「やっぱりな」
「まあ、間違いはなかったって事で。団長にはオレから報告しとくよ」

 携帯電話を取り出してシャルナークが言った。最後に情報を纏めるため、親指を高速で動かして操作している。言われた通り彼に任せ、フィンクスとマチは一足先に歩き出した。未だに敵中であるこの場所で、彼等の行動にはぞっとするほどゆとりがあった。

「んじゃ、オレは保冷車でもかっぱらって来るか。速度でそうなのが見つかるといいんだがなぁ」
「向こうに合流する気かい? 団長は無理に急ぐ必要はないっていってたじゃないか」
「馬鹿、おまえだってこんなんじゃ全然暴れたりねぇだろ。なあ?」
「あんたやフェイじゃないんだからさ。で、間に合うのかい?」

 間に合わせるさとフィンクスは笑った。会話の内容は物騒だったが、快活で嫌味のない笑みだった。

「げ」
「なんだよ」

 突然声を上げたシャルナークを、フィンクスが訝しげに振り返る。

「マチ。そのエリスって女、確かにフェイタンの能力を受けたんだよね?」
「間違いないよ。アタシの記憶が確かなら、一番強力な奴だった。どうしたんだい?」
「生きてるらしいよ」

 二人へ向けた携帯電話の液晶には、誰かの視点が映っている。総司令部に食い込めるような人物なのだろう。指令室の慌ただしい騒乱ぶりは地下への侵入者によるものだろうが、それとは別に、壁面の大型モニタにもう一つの重要情報が踊っていた。

 エリス・エレナ・レジーナ、生存確認。現在位置———。

 今度は、フィンクスとマチとが顔を見合わせる番だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 体中が痛んで目が覚めた。胡乱な頭で辺りを見回す。白い天井、白いシーツ。蛍光灯が明々と灯る病室の中、わたしはベッドで寝かされていた。

「気が付きましたか」

 声がして、顔を向けると誰かがいた。五十歳ぐらいだろうか。白衣を着ていて、いかにも医官って格好の女性。柔和な微笑みの目尻には、隠しきれない疲れがあった。

 痛む腕に力を込めて、上半身を起こしてそちらを向いた。尋ねたい事は山ほどある。この場所の事、今の時刻の事、犯人や襲撃者の人達の事、そしてなによりアルベルトの事。だけど、声を出そうとして咳き込んだ。喉が、肺が、ずきずきと焼けるように痛くて熱い。

「急がなくても大丈夫ですよ。お水、飲めますか?」

 優しく笑って、女の人が水をくれた。コップを両手で受け取って、ちょっとずつ喉の奥へ流していく。それだけでもう痛いけど、水はとても美味しかった。体が水分を欲していた。

「お目覚め次第ワルスカ大将に取次ぐよう指示を受けておりますが、よろしいですか?」

 頷いた。一にも二にも情報が欲しい。一体何がどうなったのか。とにかくそれが知りたかった。わたしの意志を確認して、女性は部屋を出ていった。ふらつくように、だけど隠しようもなく足早に。

 その行動に違和感を感じて、改めて自分の状態を見直して気が付いた。わずかだけど、纏が緩んでオーラが漏れてる。念の使えない人間には、堪え難い嫌悪感を与えるはずのわたしのオーラが。あのおばさんやわたしを回収してくれただろう人達は、これに耐えてくれたんだ。頭が下がる想いだった。

 緩みかけたリボンを締めるように、纏をもう一度しなおした。見れば、ドレスもほとんど乱れてない。普通、こういうときは服を切るか脱がせるかして、怪我の確認や治療行為の一つもすると思うけど、襟元がちょっと寛げられてるぐらいだった。だけどそれだって、どれだけ決死の覚悟でしてくれたのか。本当に迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない気持ちになった。

 体内にオーラを循環させると、少し体が楽になった。喉もヒリヒリと痛いけど、何とか喋る事はできそうだ。相変わらずこの体の回復力は、出鱈目なほどに高かった。

 落ち着いてくれば思い出す。あの、迫り来る炎の奔流を。とっさに翼で遮ったけど、余波だけで喉を焼かれてしまった。憶えている。とても怖くて熱かった。全開にしたオーラでも防ぎきれず、がむしゃらに翼を延ばして繭にした。

 いったいどれだけ想いを込めれば、あんなオーラが出せるんだろう。どれほど修行に専念すれば、あんな高みに至れるんだろう。生まれつき能力を持たされた私とは全然違う、人生に息づいた念だった。あの人達がやってる事には絶対賛同できないけど、ひた向きな在り方は眩しくて、憧れてしまう自分がいた。

 だけど、そういう真っ当な努力を積み上げる人達を、わたしは踏みにじりながら存在している。今までも、そして確実にこれからも、その中にはもちろん、アルベルトだって含まれている。

 考え込んでるうちにノックが聞こえた。どうぞと言うとドアが開く。一人で入ってきたワルスカさんは、わたしを見るなり破顔した。

「おお。元気そうじゃないか」
「ごめなさい。迷惑をかけてしまったみたいで」

 ガラガラの声で応対する。頭がズキンと強く痛んで辛かったけど、全力の猫かぶりで微笑んでみせた。女の子をなめたらいけないのだ。

「いや、こちらこそすまんな。我々のため、命がけで早期出撃してくれた恩人に対して、ろくな検査も治療もしてやれなかった」

 そう言って、ワルスカさんは一つのポシェットを差し出してきた。それを間違えるはずがない。わたしの大切な宝物。慌てて中身を確かめれば、卵の化石は確かにあった。ひび割れの一つも見あたらなかった。ほっとして脱力してしまうわたしを優しそうに眺めながら、ワルスカさんはベッド脇に粗末な丸椅子を置いて座った。

「さて。じっくり話し込みたい所だが、あいにくと私にも時間がない。手早く説明させてもらうがよろしいかね?」

 異論なんてあるはずない。ポシェットを抱き締めながら頷いた。ワルスカさんがやや早口でまくしたてたのを要約すると、だいたいこんな感じになる。

 あの時、敵の攻撃で吹き飛ばされたわたしは、衛星携帯電話の測位システム端末が生きてたおかげで素早く位置を特定してもらえ、空中衝角艦サンダーチャイルドによって回収された。その際、謎の恐怖感によって少々の停滞は生じたものの、基本的には作業に支障はなかったらしい。……本当に、凄い人達だ。

 そしてわたしはここ、首都中心部にある軍医大学付属病院に運ばれた。搬送されたのは二時間ほど前の事らしく、意識が戻って今に至る。ちなみに現在時刻は十三時を少し回ったところ。雨期のタイムリミットまではまだあるけど、作戦開始からはかなりロスをしてしまってる。

「駐屯地の方はどうなりました? それに、カイトさんとアルベルトは?」

 一番気掛かりだった2つを聞くと、ワルスカさんの表情が苦々しいものに変わってしまった。まさか、と血が引ける。アルベルトになにかあったのだろうか。

「カイト君は行方不明、レジーナ君はダメージを負って直接戦闘は厳しい状態だ。そして駐屯地だが、あの時は君に告げてなかったが、戦いの最中、我々は地下司令部への侵入を許してしまっていたのだよ。既に、敵の離脱を許した後だ」

 理解した瞬間、立ち上がった。ベッドから降りてドレスを整える。体の痛みなんて関係ない。行かなきゃいけない。爪先から頭の上までガンガン鐘を鳴らしたようだったけど、まともに歩けずふらふらするけど、じっとしてられるはずないじゃない。

「出ます。どこへ向かえばいいですか?」
「待ちたまえ!」
「……ワルスカさん?」

 信じられなかった。わたしが切り札だと言うのなら、いま使わなくてどうするのか。わたしにだって分かるぐらい、作戦の成否が決まる瀬戸際なのに。

「だからこそ、だからこそだ。切り札には切り札でいてもらわなければ困るのだ。時間稼ぎなら我々でもできる。君には、君にしかできない仕事がある。それに、最悪の事態だけはレジーナ君が防いでくれているのだよ」

 ワルスカさんは言った。犯人の場所を割り出し、拘束が成功している限り、我々の勝ちは決まっていると。あとはどう勝つか。その勝ち方の問題なのだと。

「夜までには到着できるように艦を出す。君はそれまで、全力で休んでいてくれたまえ。何か用意すべきものがあったら教えてほしい。力の及ぶ限り手を尽くそう」

 犯人の念能力がよほど状況にマッチしたのか、向こうでは大混乱が起きてるらしい。崩壊寸前の前線を、アルベルトが超人的な能力と努力で支えている。それを無駄にしない為にも、わたしは回復しなければいけない。万全でなければ、荷物になりにいくだけだ。ワルスカさんに、そう諭された。

 たぶん、それは正しい。悔しいけれど、すごくすごく悔しいけれど、今のわたしは自分の中の漏れちゃいけない声を押さえる事で精一杯で、他の事に廻すオーラが足りない。直感的に表現すれば、とてもお腹がすいている。勢いに任せて暴走させてしまったなら、新しい問題を増やすだけだ。

「……分かりました。シャワーと食事を用意して下さい」

 ベッドの縁に座り込んで、わたしは観念して休む意思を伝えた。ワルスカさんが大きく頷く。

「うむ。食事は軽いものかね?」
「いえ、お肉を」
「肉を?」
「はい、がっつり食べられる肉っぽい肉を山ほどお願いします。ああ、それから」

 ふと思い付いた。験くらい、担いでみてもいいかもしれない。

「もし手が空いてる方がいれば、司令部からわたしの衣装をとってきて下さい。薄い緑のドレス一式が、衣装ダンスの中に入ってますから」

 ハンター試験に合格した時、わたしが着ていた緑のドレス。アルベルトが選び、似合ってると褒めてくれた宝物。大切すぎてあれから袖を通す事はなかったけど、あれを着れば、強くなれる気がしたから。

「ワルスカさんは、これからどうなさるんですか」

 わたしがベッドに横たわったのを見届けて、退出しようとする時に何気なく聞いた。

「そうだな。告げておかねばならないか」

 だけど、振り向いた視線は鋭かった。体から漏れるオーラは乏しいのに、立ち上がる気配が歴戦の念使いのそれだった。強い。わたしの五感が誤作動した。念の代わりに、壮絶な覚悟を纏わせていた。

「現場の人間に規程以上の奉仕を要求する際に、上がしてはいけないことはなんだと思う?」

 ワルスカさんが質問した。正解は、とっさには浮かびそうにはなかったけど、思い付くままに口にした。

「上限をわきまえない事ですか?」
「いや。切り捨てられている、と実感させてしまう事だ。一方的に要求して、彼等を都合よく利用する事だ。上が思っている以上に現場は聡い。安全な場所にいながら精神論を説いた所で、彼等の心を震わせる事はできないだろう。現場に上層部への一体感をもってもらう為には、我が身を削って報賞を出し、彼等が被る不利益を共有する覚悟がいる」

 具体的には、金銭であり勲章であり保証であり、最たるものは死の危険だとワルスカさんが説明する。

「軍人という連中はね、究極的には、隣で戦う仲間の為に死ぬんだ。国でも、金でも、遠くで待ってる家族でもなく、たまたま配属が同じになっただけの仲間の為に勇敢に振る舞う。私はもう、前線には出れない立場だが、それでも有事に安楽椅子に座ったまま部下を死地に追いやりたくはないのだよ。あの辛さはね、年寄りにはたいそう堪えるんだ」

 死ぬつもりですか、とは聞けなかった。わたしがしていい問いじゃないと思ってしまったから。こんな部下思いの上司さんがいれば、現場の人も笑って死んでいけるんだろうか。———それでも。

「ワルスカさん。もう一つだけ、お願いがあります。この卵、どうか預かって頂けませんか」

 化石の入ったポシェットを差し出してそう言った。ワルスカさんが困惑で眼をぱちぱちして、ちょっと可愛くて面白かった。こんな年輩の男の人でも、そんな表情をするなんて。

「大切なお守り、ではなかったのかね」
「はい。でも大丈夫ですよ。まだもう一つ、母の形見のお守りがありますから」

 首元に揺れる、翡翠のネックレスに触れてわたしは言った。

「それをどうするかはお任せします。誰かに預けて、保管して頂いても構いません。だけどわたしは、ワルスカさんから直接、手渡して返してもらいたいです」
「しかし、私は……」

 わかってる。無粋だって。場の空気の読めない、生意気なおせっかいをしてるだけって。だけど切り札が気持ちよく出撃するには、これは絶対に必須事項。自信満々にそう断言して、わたしはワルスカさんの大きな掌にポシェットを押し込んだ。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「良かったのかい?」

 3t保冷車のハンドルを握るシャルナークに、中央席に座るマチが尋ねた。助手席では、フィンクスが盛大にいびきをかいている。アクセルはベタ踏みに近い暴走状態。このままハイウェイを爆走すれば、夜半には他のメンバーに合流できるだろう。その後で少々時間を食っても、荷台のパクノダは痛むまい。

「何が?」
「あの飛行船だよ。それが欲しくてこの国にきたんだろう?」

 ああそれ、とシャルナークは納得する。確かに、当初はそれが動機だったが。

「興味があったのはどちらかといえば技術そのものだったから」

 遷音速飛行を可能にする、期待に施された低ムーブ化の設計技術。それが気になったとシャルナークは言った。実機は、ついでに欲しただけだった。

「そうかい。ちょっと残念だね。旅団専用飛行船ってのもちょっと興味はあったんだけど」

 珍しい事を言い出すマチのセリフがあまりに似合わず、シャルナークが思わず吹き出した。自覚していたのだろうか。睨み付けるマチの瞳はいつもよりわずかに力がない。彼女にそんな顔をさせるならば、盗んでおいた方が良かっただろうか。自身の手で命運を決めてしまった飛行船を、シャルナークは改めて惜しいと思った。

 が、どちらにせよ軍用飛行船を13名で運用するという構想は、どう考えても無理がある。オートメーション化が進んだ現代とはいえ、空中戦闘艦の乗員は最低でも50名以上が相場なのだ。戦闘行為をしない前提で、冗長性を完全放棄すれば要員はぐっと減りはするが、それでも旅団では無理があった。

 シャルナークはくつくつと笑い続ける。そんな彼にそろそろ肘鉄を決めようかとマチが思案していた時、助手席のフィンクスが欠伸をした。指で涙を拭いてから、備え付けの時計を確認する。

「お。そろそろ運転交代か?」
「うーん。ちょっと早いけど頼めるかな」

 フィンクスはまかせろと請け負った。車を炉端に止め、座る位置を交換する。その途中、ふと空を見上げたシャルナークは、何もない事を確認した。

 彼が押し付けてきた置き土産は、未だに作動条件を満たしてない。



 マンホールの蓋が開いた。内側から僅かに持ち上げられ、ゆっくりと横にずれていく。褐色の小さな掌が、下から重そうに支えている。そしてやがて、地中から銀髪の少女が這い出てきた。下水道の中を彷徨った為にあちこち汚れ、泥にまみれて湿っていた。

 日は暮れ、宵の始まる時分だった。新市街の夜は明るく楽しくきらびやかで、今の少女には少し寒い。住人達の息遣いがなく、軍靴と装輪がまばらに過ぎるだけなのがせめてもだった。春とはいえ、荒野の夜風はまだまだ冷たい。空に爪を立てる摩天楼が囲む街の底で、少女は孤独に上を眺めた。涙は、ついぞ湧いてこなかった。

 どうして教えてくれなかったのか。どうして連れて逃げてくれなかったのか。それを恨む権利は少女にはなかった。ついていきたいと願ったのは彼女のわがままだったのだし、あの男は閨物語であってさえ、愛を囁いてはくれなかったのだ。それぐらい分かってはいたのだが、それでも。

 今も、過去も、これかも、少女はずっと一人だった。たぶん、それが真相なのだろう。

 疲れて重い体を引きずって、棒のような脚で誰かから逃げる。どこへ逃げればいいのかなど知らなかった。どうして逃げているのかすら分からなかった。追われている者の本能として、ただただ逃げているだけなのだ。

 体の芯が痛かった。崩壊の際、地面に叩き付けられたのが原因だった。よくぞ死ななかったと今でも思う。少女は運がよかったのだ。あの時、無意識にオーラを纏うことができなかったら、直後、包囲していた憲兵達が突然混乱しなかったら、少女はここにいなかったろう。それでも、痛い。疲れた。つらい。

 一歩ごと、一息ごとに心が削れる。俯きながらふらふらと、よろよろと歩き続けていた。へたり込んでないのは気力ではなく、単に惰性の産物だった。

 国家憲兵隊の哨戒網は、何故か混乱の極みにあった。あちこちで同士打ちが相次いで、クーデターまで発生してるらしい。組織としての機能は残ってなかった。そのおかげで、少女はあてもなく街を彷徨い続けた。

 いつしか、少女はそこに迷い込んでいた。ビルの谷間に闇があった。街灯に照らされる通りの側に、暗闇がごろんと転がっていた。

 照明に乏しいその空間は、どうやら緑地のようだった。こじんまりとしていて、木々で囲まれた中に広場がある。遊歩道が通っていて、見覚えのあるベンチがあった。音はなく、ハトの姿は見えなかったが、見覚えのある、公園だった。

 少女の胸から想いがこぼれた。いつかの記憶が溢れてきた。

 神様、私はあなたの存在なんて、信じた事はなかったけれど。

「素敵です」

 少女は小さく呟いた。小さすぎて、口の中でかき消えていたかもしれない。それほど微かな、だけども切実な感謝の祈りだった。

 ふらふらと、吸い寄せられるようにベンチへ近付く。手をつけば、確かにそこに実体があった。幻ではない。それだけで涙が滲んできた。堅い。堅いのにどこか優しかった。座れば、ひんやりととした感触が背中に伝わる。

 少女は今まで知らなかった。座るとは、こんなにも楽な事なのだと。酷使した脚から乳酸が抜け、体中が癒されていく。このまま泣きじゃくりそうになった。これで煙草の匂いが嗅げたならば、彼女は確実に泣いてただろう。

 これからどうやって生きていこうか。少女はぼんやりと考えていた。男から渡された財布があれば、しばらくの間は食べていける。あの時これを渡されたのは、優しさの証だと信じたかった。決別の代価だとは思いたくなかった。それでも、革のそれを抱き締めるたび、小さな胸は苦しく締め付けられるのだ。

 このまま眠ってしまおうかと、少女は疲れた頭で考えていた。その時、生き物の息遣いが耳に入った。人間ではない。もっと野生的なものだった。

 ベンチに座る少女の前に、老いた野良犬が近寄ってきた。餌をねだろうとでも考えたのか。よだれと、すえた匂いを撒き散らしている。こんなみすぼらしい年寄り犬が、この街にいて無事に済むはずがない。新市街の衛生委員会に駆除されてないのなら、寝床を捜査部隊に追い出され、旧市街から逃げてきたのだろう。

 今は惨めなこの犬も、かつては勢力を誇りもしたのだろうか。野良犬の骨格は大きかったが、ガリガリに痩せて疲れていた。右耳は千切れ、後ろ右の足はびっこをひいて、凛々しい灰色だったはずの体毛は白い毛が多く混じっていた。

「おいで?」

 招くと、老犬は大人しくすり寄ってくる。少女は優しく抱き上げた。こんなに寂しい夜ならば、獣と添い寝するのもいいだろう。抱き寄せた体は動物の臭いがとても濃い。腕の中で静かに息をする犬の毛を、少女は手櫛で愛でて微笑んだ。どうやらオスのようだった。

 お腹が減ったな。少女は夜空を見上げて思い出した。思えば、朝から何も食べてない。この場にウサギのシチューの残りがあれば、どんなにか喜んで食べただろう。そんな事を思っても、虚しいだけの妄想だった。

 ガサリと、今度は人間の気配がした。黒い闇に映える黒い上下。少女はそれを見慣れていた。間違いなく、国家憲兵の制服だった。草を踏み分けながら近付いてくる。一人しかいないようだったが、もとより少女の適う相手ではない。念の基礎は憶えていても、格闘に活かす術がなかった。短い一人旅だったなと少女は思った。緊張を隠す事もできないまま、老犬の首をギュッと抱いた。だが。

「よう。ここにいたか」

 聞きなれた声に思考が麻痺した。気楽で、馬鹿で、幼稚で、スケベで変態な声だった。だけど、何よりも聞きたかった声だった。二度と聞けるはずのない声だった。それでも、眼の前にあるのはどう見ても、会いたかった男の顔だった。

「元気そうじゃないか。おい、どうした?」

 幻であればいいと少女は思った。幻であってほしいと少女は願った。今のうちに幻であると知れたのなら、これ以上傷付かなくて済むのだから。

 だというのに、彼は無遠慮に近付いて、少女の頭をぐりぐりと撫でた。特徴的な、強すぎる頭の撫で方だった。少女が間違えるはずがない。あんなにも嫌いな、……嫌いだった、撫で方だった。

 少女の目が見開かれ、幾度か瞬きを繰り返し、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。腕に増々力が入って、野良犬が迷惑そうに体をよじる。嗚咽が漏れそうになるその前に、男を見据えて少女は言った。

「遅いですっ。もっと早く見つけて下さいよ!」

 何とかそれだけを絞り出して、後はぐしゃぐしゃに泣き出した。涙と鼻水で顔を濡らし、みっともなく顔を歪めていた。そんな表情は、男に見せられたものではなかった。犬の汚れた首筋に、少女は顔を突っ込んだ。

「いや、別に探してた訳じゃねえんだけどな」

 偶然見かければ声ぐらいかけるさと、男は臆面もなく台無しなセリフを吐き出した。だが、少女は怒りなどしなかった。会えただけで良かった。声を掛けてくれただけで嬉しかった。忘れられてなかったなら、それ以上はもう、何一つ言う事もなく満足だった。ただひたすら、うん、うん、と頷きを繰り返す。

 十分か、二十分か、あるいはもっと短かったか。少女が落ち着くまで、男は何も言わなかった。何かを考えるようにじっと眺め、その場を動かず立ち続けた。

「……座りませんか?」

 嗚咽の名残りが混ざった声を恥じるように、小さな声で少女が尋ねた。抱きかかえていた野良犬を地面に下ろす。懐かれてしまったのだろうか。犬は逃げる素振りもなく、彼女の足下で丸くなった。少女はベンチの左端に少しずれて、開いた場所を右手でポンポンと叩いてみせた。

「おう。……なんだ。ずいぶん冷てぇな」
「ええ、冷たかったんですよ」

 隣に男の肩の気配を噛み締めがら、少女は愚痴にも似た愛の言葉を紡いでいく。服を着替えているからだろう。煙草の匂いがいつもより薄い。それが、ほんの少しだけ残念だった。

「なんで、そんな格好を」
「聞くな」

 男は嫌そうにそっぽを向いた。なにか、恥ずかしい事情でもあったのだろうか。声色はどこか拗ねていて、柄にもなく頬が染まっていた。くすりと笑った。少女は泣き腫らした瞳で微笑んで、沸き上がってくる幸せを噛みしめていた。男の左腕を抱き締めようか、自重しようか迷っていた。これぐらいは許されるかとも思ったが、重たい女にはなりたくなかった。

 妥協して、男の左手を握ろうとした。我ながら度胸がないなと少女は自分に苦笑する。だが、楽しかったのはそこまでだった。恐る恐るとった掌には、何かおかしな感触ががあった。男が痛みに顔を顰める。慌てて様子を確かめれば、少女から一気に血の気が引いた。

 穴が開いていた。オーラの作用だろうか。出血こそ酷くはなかったが、刺し傷が手の甲まで貫通していた。

「どう、して……?」

 震えながら男を見上げると、忌々しげに振り払われた。

「なんでもねぇよ。これぐらい唾つけときゃすぐ治る」

 が、憮然とした顔がすぐに歪んだ。思わず左胸を押さえる男は、とても痛そうに少女には見えた。

「……脱いで」
「あ?」

 少女の声が冷えていく。喜びも、悲しみも、疲れも、ひもじさも全て忘れていた。

「服、脱いで下さい」
「おいおい。なんだってお前そんな」
「いいから脱げっ!」

 胸ぐらを掴んで引き寄せて、半ば無理矢理にボタンを外して脱がせていく。男も、抵抗したければできただろうが、面倒だったのか少女のなすがままにさせていた。制服の前を開き、シャツをめくり上げたその先には、生々しく巻かれた包帯があった。あちこち、無数に紅が滲んでいる。

 数秒間、少女は理解できず固まっていた。そしてそのまま脱力した。また泣いちゃおうかな、なんて、そんな誘惑に溺れたかった。

 ひときわ酷い、左胸のシミをそっと見つめる。命に別状はないのだろうか。苦しくて心臓が止まりそうで、悲しくて。撫でて慰めてあげたかったが、触れればきっと痛いのだろう。じっと注意して見つめれば、男のオーラそのものも、どこか不安定に揺れていた。

「そんな顔するなって」

 乱れた服を直しながら、男が飄々と気楽に言った。少女には理解できなかった。どうして笑っていられるのか。なんで戦いが怖くないのか。死んでしまったらどうするのか。

「相手は、ハンターですか?」
「ああ、そうだろうな」
「これからどうするつもりですか」

 それを聞いてしまっては、この逢瀬が終わると分かってたけど。

「決まってるだろ。次は勝つ」

 そういう意味じゃなかった。そんな返事は期待してなかった。しかし、少女は理解していたのだ。男は少女の願いを分かった上で、あえてそんな答えを返したのだと。

「お前ももう、好きにしろ。じきに砲撃が始まるはずだ、街の外に空挺師団がいる。今は街から出ようとする人間を無差別に殺してるだけだが、動き出すのは時間の問題だ。この街にいる全員を殺すつもりでな。だから、生き延びたければ地下へ潜れ。金が足りなきゃ、これでも持ってけ」

 一応、貴金属だからだろうか。男は懐からスキットルを取り出して、少女の手の中に押し込んだ。それは古びた銀製で、中身がちゃぽちゃぽと揺れていた。時折飲んでた、ウイスキーの残りだろう。

「砲撃、ですか。そんな手があるなら、なんで今までそうしなかったんでしょうか」
「ハンターが残ってるからだろうな。最低、一人は生きてるはずだ」

 会話を繋げ、少しでも長く留め置きたい一心で尋ねた少女の疑問は、あっという間に氷解する。

「その人に負けたんですか」
「まあ、な。悔しかったぜ。無機質な眼の、そりが合わない奴だった」

 少女は男と一分でも、一秒でも長く一緒にいたかった。危険な場所にはこれ以上、近付かないでほしかった。だから、すがれそうな話題に飛びついた。

「たぶんその人、私も見ましたよ。ちらっとですけど。金髪の、若い男の人ですよね」
「どう感じた?」

 壊れた箪笥の隙間から伺った、あの時の記憶を少女は紡ぐ。

「怖かったです。私も、多くの男の人を見てきましたし、他人の感情には敏感だったつもりですが、あんな瞳ははじめて見ました。あの人には本能が、性欲が、私が一番馴染んだ色が、ありませんでした」

 とても異質だったから、強く印象に残っていた。少女にとって性欲とは、他者から受ける暴行の源であると同時に、人を測る物差しでもあった。老若男女、子供以外、全てに適応できる基準だった。故に少女の優れた嗅覚は、まず最初にその多寡を計ろうとするのである。

「男女関わらず、そんな人は今までいませんでした。奥に秘めていたり、動かしてないだけじゃなくて、存在自体が見えなかったんです。悟った聖者様のようでもなく、強いていえば幼い子供に似てましたが、幼子はあんな機械的な眼はしません。普通とはかけ離れてましたから、ですから私、あれが世にいうハンターって人種なんだなって、思いました」

 正直に言えば、少女は彼の瞳以外はろくに憶えていない。顔かたちも既に朧げだった。それだけ印象深かったからだ。自分が生まれ落ちてしまった世界の、今まで知らなかった一面だった。

「……分かった。なるほどな。大分参考になったぜ」

 じっと聞いていた男が言った。低く静かに、真剣に何かを考えていた。生き残る算段ではないのだろう。そんな些事、眼中にないという目つきだった。

「おまえは下水道にでもこもってろ。奴らに見つかったら、俺の被害者として保護してもらえ。そうすれば、その場で殺される可能性も少しは減る」

 少女の頭に掌をのせ、男はベンチから立ち上がる。だが、少女には確かに分かってしまった。男の動きは明らかに、傷を庇ってのものだった。素人の彼女にも理解できた肉体の不調。そんな状態でプロハンターに、街を取り巻く軍隊に、勝てるはずがないではないか。

「わっ、私がっ、そのハンターを倒しましょうかっ!? 雨さえ降れば、私ならっ!」

 必至にまくしたてた少女の胸ぐらを、男が掴んで持ち上げた。右手一本で軽々と、小さな体が宙に浮く。ばたばたと脚を暴れさせても意味はなく、気が付けば本気で怒った男の顔が至近にあった。

「ガキが。あいつは俺の獲物だ」

 時が凍った。少女は恐怖に停止した。苦しみも痛みも慣れていたが、害意だけはいつまでも慣れなかった。まして、愛しい人からならなおさらだった。それを見てどんな思いを抱いたのか、男は持ち上げていた少女をベンチに降ろした。

「じゃあな」

 逞しい男の後ろ姿が、闇へと歩いて溶けていく。せめて、これだけはと少女は大声で叫んだ。憲兵に見つかってもいいと思った。男に殺されても本望だった。心の底から湧出した、彼女の魂の叫びだった。

「無茶だけはしないで下さいよ!」

 男は振り向きもしないまま、ひらひらと肩ごしに手を振ってみせた。どうせ、聞き入れるつもりはないのだろう。全身の力が抜け、少女はベンチに寄り掛かかった。見上げた夜空が冷たかった。悲しくて虚しくて視界が滲んだ。もう、多くは望まない。彼女はただ、あの男に生き残ってほしかった。そしてできれば、二人で旅を続けたかった。しかし、男は少女より戦いを選んだ。一緒に逃げてはくれなかった。未練さえ示してくれなかった。

 少女は悔しさに打ちひしがれた。ついに最後の最後まで、あの男を吊り上げる事はできなかったのだ。

 ごしごしと袖で涙を拭く。力が足りない。力が欲しい。この夜を切り抜け、優しい日常を取り戻すに足る力が。ぽたりと水滴が空から降ってきた。雨だ。だが、一人では能力さえも発動できない。

 辛かった。

 ぺろんと、誰かが少女の頬を舐めた。犬だった。痩せこけて、疲れ果て、今にも倒れそうな老犬だった。見れば、優しい眼で見つめている。優しい犬だと少女は思った。自分は偽善者だと自覚した。力を欲していたはずなのに、こんなにも罪悪感に苛まれる。

「ごめんね」

 オス犬の性器を探し当てて、既に勃っていた事に驚いた。小さな掌に触れられて、大きなそれが脈打っている。その気遣いが嬉しくて、悲しくて苦しくて辛かった。少女は自分の行動が、ひどく利己的で強欲に思えた。それでも、愛する男を救いたかった。あの人には生き抜いてほしかった。

「ごめんねっ。でも、ありがとうっ……!」

 感極まって少女は泣いた。野良犬を強く抱き締めながら。夜闇に降りしきる雨の中、彼女はしゃくりあげて泣き続けた。ありがとうと泣き続けた。



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【雨の日のスイシーダ 操作系】
雨の日限定の能力。
自らを操作し大切な記憶を破棄する代償に、自身の念を一時的に増強することができる。
正確には覚悟を裏付けする為の念能力であり、念の増強はあくまで覚悟の結果である。
そのため、失われる記憶の重大さと得られる増強効果は必ずしも正確には比例しない。
増強効果は雨が止むと失われるが、喪失した記憶は除念を受けても決して戻らない。

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次回 第十九話「雨を染める血」


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