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バブル経済2
   
 バブル経済の原因はどう説明されているか 02/12/29作成 
  
 バブル経済は教科書にどう説明されているか

 バブルについて、高校の教科書はどのように記述しているでしょうか。
 2003年度から使用される高校の教科書には次のように記載されています。


山川出版『詳説日本史B』P384

 変動為替相場制移行以来、円高傾向は続いたが、1985(昭和60)年の5カ国蔵相会議(G5)での協調介入の合意(□□□□□)以降は円高が加速し、輸出産業を中心に不況が一時深刻化した。しかし、その後には内需拡大に支えられた大型景気がおとずれた。不況克服の過程で、コンピュータと通信機器を利用した生産・流通・販売のネットワーク化がはかられ、重化学工業までもME技術の導入が進んだ。
 ところが、超金利政策のもとで金融機関や企業にだぶついた資金が不動産市場や株式市場に流入し、1987(昭和62)年頃から実体とかけ離れた泡のように、地価や株価は投機的高騰をはじめたバブル経済)。企業業績の好調は極端な長時間労働を慢性化させ、ホワイトカラーなどの「過労死」が問題となった。円高の進行のため、欧米・アジア諸国に生産拠点を移すなど日本企業の海外進出が急展開し、国内産業の空洞化が進んだ。
 1990(平成2)年はじめから株価が、翌年には地価が下落しはじめて、バブル経済は崩壊した。このため、大量の不良債権をかかえ込んだ金融機関の経営が悪化して金融逼迫が生じ、これが実体経済の不況に波及した(複合不況)。各企業は生き残りをかけて、事業の整理や海外展開・人員削減などの大胆な経営効率化を推進したが、このために生じた大量の失業や雇用不安が家計の消費を冷え込ませ、かえって不況を深刻化させる結果となった。

 
実況出版『政治・経済』P108

 その後、1980年代前半には、アメリカのドル高政策の影響もあって、日本の貿易黒字は急速に増大して、各国とのあいだで貿易摩擦が深刻になった。一方、1985年の□□□□□によって、ドル高が是正され、円高が急速にすすんで輸出が伸びなやみ、円高不況と呼ばれる景気の後退に見舞われた。しかし、日本経済は技術革新と経営合理化によってふたたびこれを乗りこえた。とくに自動車や通信機器、半導体、コンピュータ、事務用機器などハイテク産業での輸出が増大し、1986年12月以降1991年まで、いざなぎ景気に次ぐにつぐ長期の好況がつづいた。同時にこの時期には、それぞれの産業において、物的な財の生産よりも、企画、技術開発、情報収集、マーケティングなどのソフト部門のサービス生産の比重が高まった。このような変化を経済のソフト化ないしサービス化と呼ぶ。
 こうして、日本経済は、GDPでみて世界の17%をも生産するほどの大きさに成長し、また、貿易黒字、対外純資産の大きさでも世界一を占めるようになった。
 しかし、1980年代後半からの好況は、実体経済からかけ離れた投機的な色彩が濃いものとなっていった。企業は、生産活動への投資よりも、株式、不動産、外国為替などの投機で利益を上げる財務テクノロジー(財テク)を重視する方向へとむかった。そして、金利の自由化を背景に低金利の豊富な資金が株と土地の購入へむかい、株価と地価が急上昇した。その結果、取得時の価格と時価との差額である含み益バブル(泡)のようにふくれあがった。このようにして、経済の実体とかけ離れて株価や地価が上昇する異常な事態が生まれた。
 このため、経済活動は一見活発となって好景気が持続するようにみえた。しかし、1990年代になって、株価と地価が下落してついにバブル経済が崩壊した。そして金融機関は、巨額な回収困難な債権(不良債権)をかかえ、経営にゆきづまるところがあらわれた。そのため銀行の企業に対する「貸し渋り」がひろがって、経済は深刻な不況におちいった。

 
東京書籍『現代社会』P92

 1970年代の石油危機を産業構造の転換と企業の合理化で乗りきった日本経済はふたたび活力を取りもどし、他の先進工業国をうわ回る率で成長を続けた。しかし、1985年の□□□□□をきっかけに円高が急速に進むと、輸出に依存する日本経済は大きな打撃を受け、円高不況とよばれる深刻な不況におちいった。円高の影響を避けるため海外に工場を移す企業があいつぎ、いわゆる産業の空洞化という事態を招いた。その一方で国内の企業は省力化のための投資を積極的におこない、政府も内需拡大政策をとったため景気は次第に回復し、1980年代後半から90年代初頭にかけて、日本経済は平成景気とよばれる長期間の好景気を持続させた。
 平成景気は、バブル景気ともいわれている。低金利のために資金調達が容易になり、企業の調達した資金は合理化のための投資にあてられる一方で、株式や土地の購入(財テク投資)にもあてられた。そのために、株価や地価が妥当と思われる水準をはるかにこえて上昇するバブルという現象が発生した。経済のバブル化は資産効果を通じて消費者の消費意欲をかき立て、高級乗用車や輸入ブランド品が飛ぶように売れた。しかし1990年代に入ると株価や地価は低下し始め、バブル経済は崩壊し、4年以上にわたる平成景気にピリオドを打った。
 バブルが崩壊すると一転して深刻な不況にみまわれた。この不況は二つの要因が重なって生じたため複合不況とよばれることがある。一つの要因は設備の過剰であって、これは景気の後退局面でふつうにみられる。もう一つの要因はこの不況に特徴的な金融的要因である。バブル期に銀行やノンバンクは不動産の取得・開発のために巨額の資金を融資したが、バブルの崩壊によってそのうちの相当額が回収不能になり、多額の不良債権をかかえ込んだ。そのため銀行は新たな貸し出しに慎重になり(貸し渋り)、資金不足から倒産する企業(とくに中小企業)があいついだ。


 上の記述をご覧になれば、「日本史B」・「現代社会」・「政治・経済」それぞれに、平成景気やバブルをかなり詳しく取り扱っていることがおわかりいただけると思います。高校の教科書なのですから、当たり前といえば、当たり前です。
 問題は、担当教師がこれをどのくらいの理解力でどのくらいの熱意を持って、生徒に教えるかです。

 地歴公民科の先生以外の方は、「理解力って、先生は分かっているんじゃないの?」と不思議に思われるかもしれませんが、実は、全員が分かっているわけではありません。我々地歴公民(社会科)の教員とて、自分が高校や大学で習ったことではないことは、自然と分かるわけではないのです。

 バブル経済のきっかけというか、説明の始まりは、教科書的には、上の□□□□□です。
 これは、プラザ合意です。

 基本的な流れは、
対米輸出の増加→貿易摩擦→プラザ合意→急激な円高→輸出不振による円高不況→技術革新と経営合理化による克服→ハイテク産業の輸出増大→平成景気のはじまり→バブルの発生
 となります。

 では、プラザ合意とは何でしょうか。日本は何故、円高誘導の合意をせざるを得なかったのでしょうか。
 さらに、円高不況から脱出したあとの平成景気が進む中で、政府や日銀はなぜ、バブル現象を早期にくい止めることができなかったのでしょうか。
 この素朴な疑問が次の課題です。
 バブルを止める金融政策はとられなかったのか 03/02/16作成 
  

 バブル景気時代の公定歩合はどうなっていたか  | このページの先頭へ | 

 ここでは、バブルという現象が起こってしまったことに対して、金融当局は、それを防ぐことはできなかったのかということについて考えます。

 高校の政治経済や現代社会のレベルでいうと、日本銀行が公定歩合を上げ下げする金融政策はどのように実行されたのか、それは効果を上げたのかという問題について、確認したいと思います。
 ブームに躍らされた庶民はともかく、専門的知識を持ち日本の金融政策を動かす専門家達は、ちゃんと日本経済の舵取りをしてくれていたのではないでしょうか?

  「バブルの定義」でも説明したように、バブルの時代、いつ頃から実体経済を離れてバブルになっていったかを判定するのは、そう簡単ではありませんでした。
 日本経済は、1985年のプラザ合意の後、円高不況に陥りますが、企業努力や政府の景気回復政策が功を奏して、のちの分析では、86年末には円高不況を脱出して、それから4年以上続く「平成景気」に入ります。

 1987年前半にはNTT株のフィーバーが起こり、8月には、経済企画庁が「景気回復局面にある」と発表、87年後半には、マネーサプライ(簡単にいうと現金通貨・預貯金などの残高で、1国の通貨供給量示す数値)が1979年以来の高い水準になっていました。

 株価は基本的に上がりつづけ、
「企業の交際費が使い切れないほど出され、夜ともなると、大都会の居酒屋では、元気のよいサラリーマンが『行け行けどんどん』と大騒ぎを繰り広げた。その熱気はどこか異様に見えた。」
 ※衣川恵著『日本のバブル』(日本経済評論社2002年8月)P43
といわれるようになります。

 素人が判断しても、この時点では、早くも景気が若干過熱気味となってきている状況ではなかったのではないでしょうか。
 その時日本銀行は、公定歩合を操作したのでしょうか。

 右のグラフをご覧下さい。
 公定歩合は、円高不況克服のため、1986年に段階的に、5%から3%に引き下げられました。

 87年2月23日からは、さらに0.5%引き下げられて、2.5%となりました。
 この数値が、89年5月31日まで2年3カ月にわたって維持されます。

 この時期に、上述のように、すでに株価がバブル化しつつありましたが、日銀は、ずっとそのまま公定歩合を維持しつづけたのです。
 
 それはなぜでしょうか?  

 
 日銀が公定歩合を引き上げなかった理由は何か? | このページの先頭へ |

 日本銀行は、なぜ公定歩合の引き上げ=金融引き締めを行わなかったのでしょうか。
 その理由は、二つあります。

 もし、政治経済・現代社会の授業でこれを学習するとしたら、次のようなヒントを与えた発問による、謎解きがいいのではないでしょうか。

公定歩合を引き上げなかった理由について考える その1 国際情勢

 上の「日経平均株価と公定歩合の推移」グラフの中の▼ABCは、海外で起きた大きなインパクトを示しています。その三つと、さらに4番目の事情Dが、理由について考えるヒントです。

  • A プラザ合意成立(1985年9月)…すでに説明したように、円高・ドル安へ先進G5諸国が合意。ドル売りの協調介入と、ドルの価値を下げるための、ドル円の金利差(ドルの方が高い)縮小の政策をとることが合意される。

  • B ルーブル合意成立(1987年2月)…先進諸国は、これ以上のドル安は返って逆効果であるとの判断に達し、ドルの維持、そのための、貿易赤字国アメリカでは金利上昇、黒字国日本・西ドイツでの金利低め維持の政策をとることが合意される。

  • C ブラックマンデーの発生(1987年10月19日)…ニューヨーク株価は、この日、あの世界大恐慌の発端となった、1929年10月24日(暗黒の木曜日)の株価暴落を上回る史上最大の率で下落。資金がアメリカから逃げだし、株価・債権・ドル、三つの相場がすべて下落。G7諸国は、協調して、「市場の崩壊」をくい止める動きを行う。日本銀行は、金融調節の手段を総動員して市場に資金を供給し、市場金利を大幅に下げ、また為替市場では、果敢な円売りドル買い介入を行う。この国際協調により、「世界大恐慌再来の恐怖」はくい止められる。

  • D 円高…ルーブル合意以後も円高傾向は続き、1988年には、ついに1$=120円を切る寸前の所まできた。

 このよっつ、とりわけ、BとCとDが、理由を考えるヒントです。いかがでしょうか?

 では、理由を説明します。
 簡単にいってしまえば、日本の金融当局は、ルーブル合意を守り、ブラックマンデーの再来を懸念し、さらに、これ以上のドル安を防ぐために、低金利を維持しつづけました
 アメリカの株価が維持され、ドル高傾向へ向かうには、アメリカに資金が集まらなければなりません。そのためには、アメリカドルに価値が出るよう、日本の金利は低めを維持しなければならなかったのです。

 つまり、日銀は、国際協調政策に縛られて、日本独自の金融政策を出せない状況にあったのです
 

公定歩合を引き上げなかった理由について考える その2 国内情勢 
 もう一つの理由は、国内事情です。また、ヒントを二つ示します。
  • 1989年5月31日のバブル景気期の第一次金融引き締めの際、公定歩合引き上げを発表した日銀の政策委員長の談話は、次のような ものでした。
    「今回の措置が、今後とも物価の安定を確保しつつ内需中心の持続的成長を図っていくことに資するものと考えており…」
     ※田中隆之著『現代日本経済 バブルとポストバブルの軌跡』(日本評論社2002年)P126

  • バブル景気時代の消費者物価・卸売物価の指数は、右表のように推移していました。

 さて、公定歩合を引き上げなかった国内事情は何でしょうか?

 その理由は、次のとおりです。
「日銀自身の金融政策に対する考え方の問題がある。日銀は、金融政策の目標を第一義的に「物価の安定」においていた。すなわち、日銀は、バブル期にも、金融政策の決定にあたって、物価の安定を最重要視していた。景気が回復し、景気の拡大が進行していた87年、88年にも、物価は安定しており、インフレ激化の兆候が見られないとして、金融緩和を続けた。」
 ※衣川恵著前掲書P57
 
 つまり、グラフにも明らかなように、物価は87年88年と極めて安定していました。卸売物価などはむしろ下がり気味だったのです。この結果、「インフレ阻止」を最重要目標としている日銀には、株価や地価(これらは物価には含まれていません)という資産価格が上昇しても、公定歩合を引き上げるという発想に乏しかったのです。

 好景気にもかかわらず物価が安定していたのは、円高によって安価な海外製品や原料の輸入が可能となっていたからです。これは、プラザ合意以後の新しい条件で生じた事態だったのです。
 

 
 日銀の施策は正しかったのか?              | このページの先頭へ |

 このような日銀の政策について、自身日本銀行理事であった鈴木淑夫氏は、次のように自戒しています。

「経済政策の究極の目標は、その国の国民の経済的福祉である。また日本のような経済大国の場合には、日本経済の激動が世界経済に大きな悪影響を及ぼす。変動為替相場制下の「三極体制」では、柱となる日本、ドイツ、アメリカが自己責任で自分の国の安定と持続的成長を図ることによってのみ、世界経済の安定と発展があることを忘れてはならない。日本は自国優先で考えてもよかったのではないだろうか。それが世界経済のためになるという主張を、西ドイツ当局のようにしてもよかったではないか。」
 ※鈴木淑夫著『日本の金融政策』(1993年岩波新書)P140

 また、鈴木氏は「物価優先」の金融政策についても、視点が不十分であったとし、株や土地の資産価格について十分な配慮を払う必要であると主張しています。
「日本の一人あたり資産残高がアメリカを抜き、世界の「資産大国」となった今日の日本経済では、すべての資産価格に十分な注意を払う金融政策の運営が必要であり、それなしには経済の安定的発展と金融システムの安定は確保できない。」
 ※鈴木前掲書P150

 但し、ここで確認しておかなければならないことは、金融政策の「失敗」だけが、バブルの原因ではないことです。
 政府の財政政策など財政的要因についても、十分に考えてみなければなりません。

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