東京勧業博覧会 新聞記事抜粋

(明治40〈1907〉年3〜7月、主催 東京府 東京上野会場にて開催)

明治40年6月17日(読売新聞 ヨミダスより)
3面
「博覧会売店のぞき」
▲ 競争の安売り 会場外の売店は何れも競争の形で大勉強大安売りをして居るからお土産の買い物は凡て其処に限ると独りで定めて第二会場観覧の帰途観月門より出で池の西畔なる表面より巡視すれば
▲ 服部七宝店(略)
▲ 岡山県物産売店(略)
アイヌ館 館と云うとどうやら大袈裟に思われるが其の実小さな売店に過ぎぬのでアイヌ人種の製作品と称し木細工、甲掛け、鳥皮の類を掛け列ね傍に茶飲み所なども設けてありまた皺くちゃのお婆さんが店先に控えてツレップと名づくるアイヌノ菓子を一袋五銭で頻りに買え買えと薦めているが皆袋へ入れっきりで見本と云う物が一つも出ておらぬため剣呑がって買う人がいない
▲ 函館名産売店 には干し鯣(するめ)及び昆布、菓子、昆布茶、昆布缶詰の類があり之は隣と違い一口づつは何でも見本をつまませるので中々繁盛している(以下略)

明治40年4月25日(東京朝日新聞)
6面
「諸国名産売店めぐり(一)」
殆ど全国を網羅せる名産揃い、珍し、気に入れり、土産に直ぐと買わんとは思えども陳列場にてはオイソレとも参らねば池の端なる即売店の重なるものを紹介すべし
アイヌ作品売店 観月門を出でて、四五軒行くと右側にアイヌの店がある、作品は数多からねど、鉈、盆、絲捲きなど例の不得要領の彫があって先ず古雅と見れば見る可しである、次に脚絆腹巻様の物もありて孰(いずれ)も馴路(クシロ)、春採(ハルトリ)、標茶(シペチャ)、白糖(シヲタウ)の土人の手に成ったと云うことだが定価が判然とせぬので買い手が一寸躊躇する、尤もチラリホラリ羅馬数字で450などと云う小札が無いでもないが四十五銭やら四銭五厘やら頗る曖昧である、即売店は最も迅速をたっとぶのにこんな事にてはスグと其の間にアイヌ代物(しろもの)となる(原文ママ)、注意すべしだ、それに此の店にてはアイヌの手製と称しツレップとか云うおこしの如き物を売って居るが、こんな物は東北に行けば到る所に沢山ある

明治40年6月17日 (読売新聞 ヨミダスより)
3面
「韓国流の婦人解放」
博覧会第一会場内なる水晶館が場所柄の悪しき為か一向不景気なるより、呼び物とせんとてか一名の朝鮮婦人を雇い入れこれを楽器(オルゴール)の捻巻(ねじま)きとして使い居りしが、これによりて端なくも韓国留学生の激昂を招き目下紛争中なる由。さて聞く処によれば元来水晶館の起源とも云うべきは初め博覧会第一会場内に朝鮮館の名にて開場せんとし金儲けに抜け目なき人々は定めて此処にも多くの入場者があるならんと考え、其の場所は会場中極めて辺鄙なる処なれども十五六軒の飲食店軒を並べて開業したるがいよいよ博覧会の開会さるゝやこの辺は一向客なく実に寂莫たる有様なるより飲食店の営業者はこれではならぬと博覧会に朝鮮館の発展方法を願い出でたるも、一向煮え切らざるより然らばと鳥又主人寺島又吉等にて美術学校に依頼し何か客寄せの方法を考案せんとせし結果が即ち今の水晶館にて、博覧会よりは朝鮮館の付属として許可したるなり。然るに其の後此の水晶館より下谷御徒町三丁目四十二番地の飯田鉄之助と云う人に依頼して朝鮮婦人鄭命先(二十)及び通弁を雇い入れ、去月二十日より同館内宝玉殿中央に楽器オルゴールの捻巻きに使用したるに、其の後四五日は何らの変わりたる事もなかりしに二十五六日ごろ二三人の韓国留学生来たりて此の有様を見るや一口二口何とか云い居りしが、其の後は日々必ず数十人の韓国人留学生来たりて、頻りに「自国の習慣として婦人を客に接見せしむること、或いは斯くの如き見世物に自国の婦人を使用するは無礼なり、速やかに帰国せしむべし」などと事務員に苦情を持ち込みしより、同館にてはうるさく思いて遂に初め周旋を受けたる飯田氏に依頼して調停を請いたるより、飯田氏も捨て置かれずと留学生に向かい「決して韓国婦人を侮辱したるにはあらず。寧ろ韓国の為に、これを機会として婦人の活動を誘わんと欲し、徹頭徹尾善意を以ってなしたる事なり」と説き諭したるも、彼等はなかなか聞き入れず、遂に目下芝区櫻田本郷町の清光館に滞在中なる韓国内務参官兼帝室会計審査委員日本国宮内省事務視察員正三品と云う長き肩書きを有する閔元植と云える人より水晶館に対し表向きの交渉を始めさせたるより、飯田氏は去る九日本郷春木町一町目四十四番地の韓国留学生寄宿舎に到り閔氏立会いの上再び彼等に向かいて懇々訓辞的の演説を試みしも何等の効果なく、彼等の反抗運動は益々勢いを増し来たるにぞ水晶館にても殆ど持てあまし、此の上は止むを得ずとて既に雇い入れたる韓人の為に投じたる費用を弁償すれば鄭命先を帰国せしむべしと譲歩したるも彼等は裕ならざる留学生の事とて金の用意も無きより、崔錫夏、金永爵等の学生を総代として尚もいろいろと(原文いろとゝ)これに対する苦情持ち込み来るより水晶館にては益々うるさがり然らば弁償金は兎に角鄭命先を帰国せしむるに要する旅費其の他だけを韓人の手にて用意せしむることとして談判は漸く進行せしも彼等には多分其の金もあらざるべければ、畢竟水晶館にて損耗を厭わず彼等の要求通り二三日中に鄭命先を帰国せしむることとなるべしと云う。但し鄭命先自身は余り帰国を喜び居らずとのことなり。因みに記す如何に商売の魂胆に出でたるにもせよ、オルゴールの捻巻きとて一個の立派なる職業なり、婦人が職業を得て働きつつあるものをわざわざ無職業とならしめて帰国せしめんとするが韓国流、否(いな)東洋流の婦人蟄居主義の道徳なれば、彼等の習慣として激昂するも無理ならぬことなれども、一方には婦人を男子の勢力より脱せしめて、蟄居を免れしめんとする婦人解放運動あるかと思えば、一方にはまたこれを逆に行く婦人無職業運動もあり、世は様々と云うべし。肝心の本人が帰国を喜ばずと云うに至ってはいよいよ面白し。

(注 水晶館とは、朝鮮館の近くに余興的なものが無く、客足が良くないのを心配した付近の売店店主達が、共同で建設した余興場。鏡を張り巡らせた迷路、ミラーハウスのことです。東京朝日新聞 明治40年4月10日記事を元に補足)

 


 

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