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ニュース争論:真珠湾攻撃70年 半藤一利氏/松尾文夫氏

 真珠湾攻撃(41年12月8日)から70年。先の大戦が遠い過去の出来事になりつつある中、パールハーバーの記憶は両国に今も複雑な影を落としている。少年時代に共に日米開戦を体験した作家の半藤一利さんと首脳の相互献花外交を訴えるジャーナリストの松尾文夫さんが、「真珠湾の日」を語り合う。【立会人・岸俊光編集委員、写真・武市公孝撮影】

 ◆米国を知らず誤解の開戦--作家・半藤一利氏

 ◆首脳献花で戦争にけじめ--ジャーナリスト・松尾文夫氏

 ◇快哉叫んだ大人たち

 立会人 日米開戦の時、半藤さんは11歳だったそうですね。

 半藤 東京の向島にあった国民学校の5年生でした。12月8日は月曜日で学校へ行かなきゃいけないので、7時ごろには起きていました。薄氷が張るぐらいの本当に寒い朝でしたね。午前7時にラジオの臨時ニュースが流れ、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と。普段通りにラジオ体操も放送されましたが、臨時ニュースは何べんも繰り返されました。学校に行くと先生たちが興奮していましてね。1時間目に1年生から6年生まで校庭に集められ、校長の訓示がありました。「大変な時代になる。しっかり勉強せい」という、下町の悪がきには迷惑千万な話でしたが、学校中が緊張していたことを明瞭に覚えています。

 うちに帰ったら、父親が「これでこの国も駄目になった」と言ってましたよ。私が「始めたら勝たなきゃいけねえじゃないか」と反発したら「勝つと思うのか、バカ」なんて言われてね。

 松尾 すごいお父さんですね。何をされていたんですか。

 半藤 区会議員をやっていました。そういう変なおやじでしたので、他の子供よりは目覚めていましたけどね。

 日中戦争が泥沼化したあたりから、日本人には頭に重い物が載っているような感じがありました。アメリカとイギリスが後ろにいるから日中戦争がうまくいかないことは、子供でも知っていた。いつか討たなきゃいけないと、世間ではかなり言われていたと思います。それがいっぺんに晴れた感じが大人たちにはあったんじゃないでしょうか。「〔真珠湾〕の日」という本にも書きましたけど、当時のインテリがみんな快哉(かいさい)を叫んでいますからね。

 松尾 私は半藤さんより3歳下の2年生なんです。今の新宿区百人町に住んでいました。父は軍人で中国に出征していました。母がみるみる緊張したことが記憶にあります。学校では、先生が高揚して「南洋からゴムがいっぱい届くので道路がゴム敷きになる」と話されていたのを覚えています。

 半藤 結局戦争は石油が原因なんだけど、当時はあまり言わなかったね。

 松尾 私の場合は、4カ月後の42年4月18日にアメリカのドーリットル爆撃機が真珠湾攻撃の報復に東京を初空襲した時、国民学校の校庭で副操縦士の顔を目撃したことの方が強烈な出会いでした。2005年にアメリカまで彼を訪ねていったんです。94歳で今も元気。時々電話してきます。毎年4月18日に乗員の同窓会を開いています。隊員80人のうち5人が生き残っています。いまだに空軍の愛国行事です。

 ◇野球と映画とジャズ

 立会人 アメリカと戦争するのは特別だったんでしょうか。当時の言い方は「米英」ですか、「英米」ですか。

 半藤 米英ですね。後で調べた話ですが、1939(昭和14)年ぐらいまでは英米なんです。アメリカが日本との通商航海条約を破棄し、40年に失効した。それからなんですよ、アメリカが上に出てきたのは。日本はアメリカを意識しているから日中戦争も戦争にしない。あくまで事変なんです。アメリカは、中立法で戦争当事国には石油を送らないと言っていました。中国もアメリカに借金をしているから日本に宣戦布告しない。そもそもそれが国民にはよく分からない話でした。

 松尾 アメリカがでかい国だということを意識したのは、日米の子供が綱引きをしている絵を描いた5年生の時でした。その後、福井でB29の爆撃を生き延び、今もアメリカを追い続けています。当時、日本はアメリカをどの程度知っていましたかね。

 半藤 いやあ、知らなかったね。知っているのは野球と映画ぐらい。

 松尾 ジャズもあったと思いますが、基本的にはすれ違いでしたね。

 半藤 12月8日は新宿の昭和館で「スミス都へ行く」を上映していたんです。作家の野口冨士男がアメリカ民主主義を描いたこの映画を見に行った様子を書いています。山本五十六はアメリカを知っていた方ですが、向こうに3年もいたのに友人がいない。太平洋戦争は誤解の戦争です。アメリカ人も日本人はみんな近眼で飛行機の操縦なんかできないと思っていたんだから。

 ◇若者に昭和の歴史を

 立会人 戦後、日本人は真珠湾攻撃をどう受け止めてきたのでしょうか。

 半藤 若い人は12月8日に日米戦争が始まったことを多分よく知らないんじゃないですか。20年ほど前に、ある女子大で学生50人にアンケートをしたことがあります。第二次大戦で日本と戦争をしなかった国はアメリカ、ドイツ、オーストラリア、ソ連のうちどれかと尋ねた時、13人がアメリカと答えました。どっちが勝ったんですかと聞いた学生もいました。ひっくり返るほど驚いて、若い人たちに昭和の歴史を教えるのが大事だと思いました。

 松尾 そこが、あの戦争にけじめをつけていないという問題と絡んできます。300万人の犠牲を出した責任を日本は自ら裁いていない。5年ほど前に必修科目の世界史を履修していない高校が明るみに出ましたが、当時の駐日ドイツ大使は大変驚いていました。

 立会人 アメリカ人の捉え方は?

 松尾 第二次大戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争を戦い、今もアフガニスタン戦争の渦中にあります。アメリカ人にとって、戦争は身近な経験ですよ。戦後の日本とは対照的です。ですからアメリカをはじめ、あの戦争の当事国との和解の儀式が必要です。大統領の広島、首相のハワイ真珠湾アリゾナ記念館での相互献花はいまだに実現していません。中国の南京でも首相に献花をしてほしい。これは国際社会で生き残るためにも必要です。ドイツは完全に済ませています。

 半藤 今では太平洋戦争や昭和史を書く若い人が多くなってきましたが、私がのめり込んだ昭和30年代は、文芸春秋にも他には誰もいませんでした。一人で元提督や元将軍に会いにいったものだから、半藤という名前から「あいつは反動分子だ」と言われたりしてね(笑い)。墨塗り教科書もよく占領軍の指令だと間違われますが、日本が自主的にやったことでした。それぐらい歴史から離れようとしたんです。

 松尾 日本はそのしっぺ返しを今静かに受けていると思いますね。

 ■聞いて一言

 ◇子供の鋭い時代観察 体験者の提言を心に

 資料の公開を待って歴史の決定版を書くのもいいが、体験者にしか語れない時代の息吹がある。その大切さをお二人に教えられた。真珠湾攻撃がアメリカの日曜日とは知っていたが、日本では学校の始まる月曜日の朝だったことまで思い及ばなかった。子供から見た大人社会の鋭い観察だと思う。米スミソニアン航空宇宙博物館別館を訪れた時、展示されている広島原爆投下のB29エノラ・ゲイの説明板が犠牲者に何も触れていないことに驚いた覚えがある。日米の認識の違いはなお大きいだけに貴重な提言をかみしめたい。(岸)

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 ■人物略歴

 ◇はんどう・かずとし

 30年生まれ。東京大文学部卒。文芸春秋に入社し「文芸春秋」編集長、取締役を歴任。著書に「日本のいちばん長い日」「山本五十六」など。

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 ■人物略歴

 ◇まつお・ふみお

 33年生まれ。学習院大政経学部卒。共同通信に入り、ワシントン支局長などを務めた。著書に「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」など。

毎日新聞 2011年12月5日 東京朝刊

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