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真珠湾攻撃:70年 米との戦争に去来した不安 「移住した親戚と撃ち合うのか」

 ◇70年後「変わらぬ日本」憂う

 日米戦争の火ぶたが切られた70年前の12月8日、旧制広島一中(現・県立広島国泰寺高)3年で陸上選手だった元マツダ専務、正岡博さん(86)=広島市東区=は、こけら落としの総合体育大会が開かれていた同市の広島県総合体錬場(現・同県総合グランド)にいた。真珠湾攻撃を報じる放送と軍艦マーチがラジオから大音量で響く場内。正岡さんは、知己も住む米国と戦う不安が去来した開戦日の記憶を振り返った。

 ◇暗いこけら落とし

 体錬場は当時「西日本一」と呼ばれ、1万6000人を収容できる陸上競技場や野球場などを備えた。建設には延べ18万人の中学生らが動員され、正岡さんももっこを担いだ。前日の落成式は盛大で和やかだったが、開戦日は打って変わって「真面目な」雰囲気が漂っていた。移民が盛んな広島県からは米国に大勢移住しており、正岡さんの母方の親戚や、米国で生まれて二重国籍を持つ親友の両親も住んでいた。「『血のつながった者と撃ち合いをせんといかんのか』と思った」

 体錬場はその後、軍が高射砲を配置して使えなくなり、「スポーツどころではなくなった」。正岡さんは43年に中学を卒業し、広島工業専門学校(現・広島大工学部)に進んだ。米国留学の経験がある教官は、米国との工業生産力の差を示して言外に敗戦をにおわせた。

 海軍に志願した友人は戦場に散った。正岡さんは45年8月6日に原爆の爆心地から約2キロの学校で被爆、目が覚めたのは敗戦の8月15日だった。戦後は東洋工業(現マツダ)に入社し88年に退社。復興から高度成長の時期にかけ、「米国を追い越そう」と必死に働いた。

 ◇チームプレー欠如

 振り返って思う。「スポーツでチームプレーを学べば、他人の不足をカバーする精神が生まれる。日本は米国より工業生産力が劣るだけでなく、陸海軍で装備の規格が違うなどチームプレーもなかった」。70年がたち、製造現場にいた正岡さんには、産業を支える現場をないがしろにしたり、自分勝手にふるまったりする風潮がこの国を覆っていることが気になる。「日本は変わっていない」。そんな憂いが深まっている。【矢追健介】

毎日新聞 2011年12月8日 東京朝刊

 
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