宮沢賢治にみる真実の愛
宮沢賢治にみる真実の愛
雨ニモ負マケズ
風ニモ負マケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニ ワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行イッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
これは宮沢賢治が晩年に残した有名な詩です。賢治は敬謙な仏教徒でした。その仏教の心「仏心とは大慈悲これなり」すべての人々、そして生きとし生けるもののすべてのものたちに、自分を犠牲にして愛をそそぐという心がこの詩に感じられます。
賢治さんがいちばん欲しかったのは、「雨にも負けない、風にも負けない、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体」でした。賢治さんは、欲を恥じた人でした。決して怒らないことを自分に決めていたひとでした。
いつも優しい微笑を絶やさない人でした。一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べる菜食主義を、後年取り入れて、それを遵守した人でした。いつも無私無欲を大切にした人でした。自分の利益を勘定に入れることをしない人でした。
かれの、農業学校の教師として経験から、よく見、聞きし、分かり、そして忘れずということを心がけた人でした。 かれは、実際、野原の松の林の蔭の小さな萱ぶきの小屋に住んでいました。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行イッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
そういう行動と態度とをいつもとっていた人だったのです。カンボジアの平和のために日本の自衛隊や警察が派遣されましたが、そのなかの一人の人が新聞か雑誌に書いていました。
私は、宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」の中の、 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行イッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒと書いてあるとおりの気持ちでカンボジアに行きました、と。
この詩は、不思議な詩です。最後の八行は、みなカタカナで書いてあります。こらえきれない感情の発露に身をまかせた、なまなましい賢治さんが、その八行に存在しているように見えます。対照的に、詩の前半では漢字を多用しています。
怒ラズというところの「瞋」という漢字は、目へんに旧字体の眞という、知性を誇示するような難しい漢字で書いてあります。蔭という字も影、陰、蔭の中で正確に蔭という字を選んでいます。欲という字も実際に使われている漢字は、欲の字の下に心が付いています。賢治さんの知性の高さを感じさせます。しかし、最後の八行はみな「カタカナ」で記してあるのです。賢治さんの感情が、生のままで発露されていますね。
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウイウモノニ ワタシハナリタイ
「ソウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」というところに、卑屈な雰囲気が全然ありません。それどころか、誇らしささえ感じられます。自分の生き方に対する剛直な心の張りがあります。「たとえ世間の評価が最低でも、その評価の中で自分がみっともなくても、自分は自分の信じた道を行きます!」、そんな雄々しさが凝固しています。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ここに書いてあることは、かれの在りし日の姿であろうと信じています。賢治さんは本当に涙を流して、日照りの時、花巻地方における稲の実りの悪さにオロオロ歩いてまわったと思います。賢治さんはこの詩にある日照りの年、早春のころ自ら設計した肥料施工仕様を二千枚ほども、ひとつひとつの農家に赴いて田畑を調べ、無料で配って歩いたということが分かっていますから。
この日照りが無ければ、その年の花巻地方の収穫が賢治さんの無償の努力によって何割増えようとしていたのでしょうか。賢治さんの努力が稔るはずの年に、運悪く冷たい東北風「やませ」が吹き、冷夏が二年も続けて東北地方を襲いました。 その無念さが、カタカナばかりの最後の八行に現れていると思いませんか。私には、そう思わざるをえません。
賢治さんの農業技術指導者としての運の悪さを、思い返す度に痛ましく思います。 賢治さんは、現在の日本国中に知れ渡る名声を得ようと努力したことは、一度もありませんでした。 ボランティアの農業技術指導員として、自分のふるさとのために身を捧げようと、全身全霊を投じて頑張っていたのです。
それが、かれの本望でした。 かれの詩と童話は、かれのひそやかな、「わたくし」の世界にありました。 かれの渾身の努力は、かれの愛する東北の農民のために捧げられていたのです。 そして、かれの愛する、いや、愛して止まなかったふるさと仙台花巻の農民からの賢治さんへの評価は、冷夏の結果、最低のものに墜ちてしまいました。
「ミンナニデクノボートヨバレ」たのです、賢治さんは・・・ 辛かったでしょうね、涙を流したでしょうね、オロオロ歩いたでしょうね。精神的な苦しみは、健康を損なうほどだったのでしょう。
・・・そして、かれの健康は事実、損なわれました。
ホメラレモセズ クニモサレズ
誰も、かれの無償の努力を褒めませんでした。農家の人たちは、かれらの損害は「やませ」という夏に吹く冷たい東北風によるものだから気にしていないよ、という優しい態度を賢治さんにとったかもしれませんが、例年にない冷夏のために、賢治さんの努力も水泡に帰してしまいました。中には損害賠償金を求めた農家も、ありました。
辛い状況の中で、それでも賢治さんはつぶやきます。
自分は自分の名声のために動き回ったのではないと。 また、どんなに自分の努力が報われなくても、自分の評価が低くても、このふるさとの農民のためにデクノボーと呼ばれるような、 「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ、」と。
どうして、賢治さんは死んだ後に、こうまで私たちの心に生き生きと生きているのでしょうか。 それは彼の愛が真実の愛だからです。真実の愛は永遠です。何百年、何千年たっても人々の魂を打ち続けていくものなのです。
かれは、自分の肺結核を子孫に伝わる病と信じ、結婚を控え、女も知らずに死にました。(肺結核は当時そのように理解されていたのです。)別にその事だけでかれを持ち上げる気持ちは、さらさらありません。しかし、女性にも心優しい人でした。
かれの妹トシは、二十四歳の若さで死んだ聡明で優しく病弱な学校教諭でありました。かれの妹に対する気持ちは、驚くほど深い愛情と哀惜に満ちています。
妹が死ぬ時の詩を、あなたは読んだことがありますか。
そして、賢治さんは、人間が大好きでした。 かれが教えた生徒に対する愛情の深さも、ただならぬものがあります。 はるか時間を経て、戦後三十年以上過ぎても、生存しているかれの教え子が、なんと、かれの授業の内容を詳細に覚えているほどに、かれは心を込めて教え子を大切に育てていました。
賢治さんは、人間に対する愛情と、(辞書には無い言葉ですが)「哀情」の量がともに非常に大きかったのです。
いえ、かれが死んだ後でもかれの精神は生きていますから、その意味からすると、かれの人間に対する愛情と哀情の量の多さは、桁違いと言うべきでしょうか。
そして、賢治さんは、自分の幸せを考えることより、周囲の人たちの幸せを心の底から願っていた人でした。
古くはお釈迦様から、キリスト、孟子、孔子、現代においてはマザーテレサに至るまで聖人といわれた人々はすべて自己犠牲の愛のを説き、平和を願い真実の愛を実践した人々です。
でも、私たちはいくら頑張っても、そのような境地に立つことは不可能のことです。せめて自分のまわりにいる家族、友人に対して小さな愛を育てていくぐらいのことはできるはずです。
そして、真実の愛を実践するためには「自己犠牲」つまり「自分を勘定に入れない」もっと言いかえれば「我」というものを取っていく努力をしなければ、真実の愛、永遠の愛の悦びは手に入れることができないでしょう。
|