パンタのプロフィール
1952年 0才 早産で未熟児、逆子で生まれた牧を見て、祖父は、「どうせ、三日と持たんのやけん、名前もつけんでいいし、近所にも知らするこたぁいらん。出生届けもせんでいい。」と言った。
3才 おもちゃのコマを間違えて口に入れノドにつかえて、大量の血を吐く。父は牧を片手で抱え、オートバイでデコボコ道を病院へ運ぶ。医者は、「運のいい子だ。揺さぶられて、コマをはきだしたみたい です」と言った。
5才 肺炎と肋膜炎を併発する。それを、近所の医者が結核と誤診。間違った治療を受けながら様態は悪化し、危篤状態で救急入院。あと一日入院が遅れていたら死んでいたでしょう、と医者に言われた。、
7才 兄と一緒に乗っていた自転車が、坂道で空に舞い、、、。眉毛を数針縫った牧は、あと2ミリ、ブレーキレバーが下にずれていたら、眼球から脳を串刺しにされて、即死していたところだった。
9才 大嵐の砂州に、一人取り残された。砂州が消え、波にさらわれ、溺れそうになったが、運良く漁師の船に助けられた。
12才 原因不明の重度の自立神経失調症になり、医者にサジを投げ出された。牧は、「せめて、10月の東京オリンピックまで生きられんやろか、、、。」と祈った。そして、奇跡的に快復した牧は、「もう何度も死んでいて当たり前なんだ。これからはおまけの人生として、良いことも悪いことも、心から感謝して生きていくんだ。」と誓った。
キャラメル‥‥幼稚園のころ、父が渡してくれるおやつは、一日にキャラメル一粒だけ、、。それを30分おきに、縦線と横線にそって、歯の先でちょこっとかじれば、一日中楽しめた。
紙芝居‥‥まわりの子供たちは、みんな塩コブや水飴をなめている。怒った顔のおじさんは牧に言った。「母ちゃんから、1円もろうち来い。塩コブ買わんと、ワシの紙芝居は見せてあげんぞ!」
皆との黄金バット遊びに加わりたかった牧は、横町の塀に隠れ、遠くから紙芝居を盗み見した。
ガム‥‥‥お金がなくて小学二年の夏休みの宿題の切手やコインの収集ができなかった。そこで牧は、ガムのあき紙を集めることにした。毎日、町を歩きながら、道ばたに落ちているガムのあき紙を拾い、洗っ て乾かし、ノートに貼り付けた。夏休みが終わって、先生から誉められたときには、牧の目は涙に溢れた。チョコレート‥‥小学四年生の時、週に一度、チョコレートを一箱もらうようになった。牧はそれを食べることができず、宝箱に貯めていった。ある日、部屋に掃除に来た母が、引き出しに隠してあった宝箱を見つけた。詰問された牧は、「もし家の商売(塗り箸屋)がうまくいかんようになったら、米が買えんようになる。その時にこれを友達に売って、家計の足しにしてもらうつもりやったんや。」と答えた。
中学に入ると、楽器を演奏する喜びにのめり込んでいった。ブラスバンドでは、サックスを演奏し、部長になり指揮をとった。学校放送では、職員室用のスイッチを切ったまま、ロックのディスクジョッキーを始めた。
そんなある日、テレビの音楽番組を見ていると、司会の高島忠夫が裸足でステージに出て来て、「アメリカの西海岸では、ヒッピー達が髪を伸ばし、花を飾り、町を裸足で踊り歩いているということです。」と言った。それを聞いた牧は、身体中に電流が走った。
それ以来、牧は靴下、上履きを脱ぎ捨て、裸足の生徒会長として学内のフラワーチルドレン化をはかった。リサイクルの収益金で学校中を花でうずめ、毎日、全校一斉に一分間の瞑想タイムを設けたりした。
大学も一次試験に受かっていたのに、高校卒業式の五日前に家出、ドロップアウト。髪を伸ばし、野宿とヒッチハイクを繰り返しながら、日本中を何周も放浪の旅をした。
ある日、南の島に渡りたくなった。船はヒッチできないし日雇い仕事も見つからなかったので、路上でオカリナを吹いて大道芸人をすることにした。それ以来、全国の町のアーケードで、「愛と平和の未来のために!自由円カンパを!」と段ボールに書いて、オカリナを吹き続けた。
二年間、旅をしたインドでも、泥棒にお金を全部盗まれたあとは、乞食だらけの街角で、オカリナを吹いて命をつないだ。
より高い精神性を求めて、二七才の時アメリカに渡った。世界中の悟った人々にかたっぱしから会いに行き、ワークショップや瞑想を続けた。ダライラマ、サイババ、和尚ラジニーシ、ラムダス、トゥルンパ、、。 それは、スピリチュアル・スーパーマーケットでのグル巡りの日々でもあった。
1985年、三三才の時、コロラド州のボールダーで、ロックンロール寿司バー、「寿司三昧」を始める。
寿司シェフだけで作ったロックバンド”すしQバンド”は話題になり、ライブハウスやテレビに出演が続く。牧はサックス、リードボーカル、オカリナ担当。
TBS金曜テレビの星の取材で、ウガンダと競演、またナルホドザワールドでは、堺マチャアキやヤックンと競演した。また、全米でも有名になり、ニューヨークタイムズや、ニューズウィークにも「アメリカで一番おもしろいスシバー」として紹介される。
1993年、オリバーストーン監督の”ヘブン&アース”を喜多郎が担当。牧の演奏する尺八も、効果音として使われる。喜多郎さんはこのCDで、日本人として初めてゴールデングローブ賞を獲得した。
ミュージカル映画「カーニバル」に、牧はインデアンの酋長役で出演。シネマックスで全米上映される。
1994年、ボウルダーでの喜多郎のコンサートで、友情出演。ステージの上でオカリナと尺八を演奏する。 同年、天皇皇后両陛下御訪米のおり、牧はシェフとしてオードブルをまかされ、直接両陛下にサーブした。
1995年、アガスティアの葉の予言のからくりを書いた旅行記、「アガスティアの葉の秘密」(たま出版、真弓香共著)が出版された。発売一ヶ月で初版七千部を売り切り、SFの紀ノ国屋ではベストセラー二週連続第四位を記録した。
マイケル・ジャクソンのシンタックス奏者、クリストファー・カレルと出会い、彼のプロデュースにより、念願のオカリナのソロCDの制作にとりかかる。
1996年、子供のころからの夢だったCD CHILDHOOD・DREAMが完成、ミューズレコードより全米発売される。ラジオ、新聞、雑誌等で高い評価を受ける。
1997年、3月、ハリウッド映画、「オーガズモ!」に俳優の小林薫の代役としてヒップホップ寿司シェフ役で出演。この映画は、日本では98年夏に洋画系の映画館で封切り予定。
同年4月、牧のオカリナのソロCD、「オカリナの夢」が、プレム・プロモーションより日本発売。
同年5月、ペルーでのシャーマンとの冒険を描いた二冊目の精神世界旅行記、「マジカル・インカへの旅」(第三書館、真弓香共著)が発行される。
同年8月、牧の半生を綴ったマンガ、アメリカンドリーム・コミック版、「ロックンロール寿司シェフ物語」(世界出版)が発行される。
そして同年9月には、ブラジルでの体験をリポートしたノンフィクション、「宇宙(そら)からの医者、ドクター・フリッツの奇跡」が、小学館より発行、多くの読者の話題になる。一月後、英語版がサンフランシスコのカデアンス出版より発行される。
9月、10月は、全国22カ所で講演会・ミニコンサート。フォーカス2ページ、SPA!今週の顔カラーグラビア、毎日新聞全国版「人」欄、など約10の雑誌、20の新聞にとりあげられる。
同年11月には、サンフランシスコのケイデンス・ブック社から英語での単行本、"Spiritual
Adventure of Sushi Chef" が全米発売。アメリカでサイン会、講演会を開催。
98年9月〜10月、日本全国、北は釧路から南は沖縄まで、38カ所の講演・ミニコンサートツアーを断行。のべ4000人以上の参加者を記録する。
同年10月にはドクター・フリッツの英語版、"QUANTUM SURGEON"が、全米発売。アーニー・ミンデル博士、マイケル・ハーナー博士などが絶賛。
同年11月、日本での2枚目のCD「マイ・オカリナ・クリスマス」をプレム・プロモーションより発売。一時、品切れ状態になる。
99年4月、「ミステリー・サークル・2000」を、吉本ばななの推薦を受け、たま出版より発行。120枚の写真と驚異の事実で、「タケシのTVタックル」出演決定。
同年4月、「ソウルメイトと出会う本」を、ヴォイスより発売。小澤磨純の挿し絵と「ソウルメイトと出会う瞑想」CD付きで、話題になる。
同年5月、全国主要都市で出版記念講演会を開く。東京、中野ゼロホールでおこな
われたお祝いの会には、約850人がつめかける。
同じく5月、ドクター・フリッツの本のポルトガル語版、”O FENOMENO DR. FRITZ
”がブラジルで発売される。パンタはテレビ出演のため、リオデジャネイロに飛ぶ。
パンタ笛吹、「ドクトル・フリッツ・ファノメノ」(ポルトガル語版)出版記念パー
ティー