時かけ☆コラム 
「筒井康隆かく語りき」
 
 
「だいたい僕の作品が好きな人は、頭のいい人で、「時かけ」からいろいろ読んでくれれば、君の未来は明るい」 
<「カドカワムック ゲームファンタジアNo1」(発行社:角川書店。発行日:1994/06/08)>
原作が発表後、何度も映像化され、その時時でヒットした『時をかける少女』
果たして、その原作者である筒井康隆さんは、自作や映像作品をどのように思っているのでしょうか。
怖い気もしますが見てみましょう。
 
『続タイム・トラベラー』のノベライズ版『続・時をかける少女』(著作者:石山透。発行社:鶴書房。)で、1972/12/12の日付が記された、まえがきで筒井さんは、
なまけものの私にかわって、テレビ・ドラマ『タイム・トラベラー』『続タイム・トラベラー』の脚本を書いてくださった石山透先生が、大変面白い物語にしてくださいました。「時をかける少女」にくらべると、ずっとSF的でストーリーも複雑になり、小学校高学年から高校生までが文句なしに楽しめるジュニア小説になっています。 
  
もし私が書いていたとしたら、この本が出るのは一年も二年も先になっていたことでしょう。>
と記しています。又、同書のあとがきに当る『テレビ「タイム・トラベラー」のこと』で、NHK青少年部ディレクター佐藤和哉さんは、
テレビ化の許可をいただくために、当時渋谷の放送センターの近くに住んでおられた筒井さんのお宅に、ある夕方伺いますと、起きたばかりらしくまだ眠そうな様子の筒井さんは、「時をかける少女」には是非可愛い少女を配役してほしいということを強調していました。
と記しました。
 
筒井さんは、ご自身の日記を出版していますが、私の知る限り、原作を書いていた時や、映像化した時の日記は公開されていません。
惜しかったのが、『SF幼年期の中ごろ』(1964/11/18〜1965/02/05)と『日々不穏』(1984/11/28〜1985/07/17)です。
『SF幼年期の中ごろ』は、原作が連載される数ヶ月前である1965/02/05の日記が記された後に「日記は、まだまだ続く。この次の日、ぼくは現在の妻と見合いをしているが、これ以後は家庭的な問題が出てくるので、このあたりで打ち切ろう」と記されています。
『日々不穏』は、南野版の映像化について依頼されたとの記述があっても良い期間です。しかし、映像化に関しての話題は、映像化された『スタア』や、『文学賞殺人事件 大いなる助走』として映像化された『大いなる助走』、そして、原作が新潮社から角川書店に移されなかったために実現しなかった原田知世主演の『家族八景』、原作から逸脱したために筒井さんが怒って映画化しなかった西城秀樹主演の『富豪刑事』、アメリカで映画化の話があった『アフリカの爆弾』に関する記述はあるものの、月曜ドラマランドからの依頼についての記述はありませんでした。
 
日記の中で『時をかける少女』という文字を追っていくと、
1978/03/09 
鶴書房・柏、江淵両氏来宅。「時をかける少女」の入っているジュヴナイルSFのシリーズをまた新しく続けるそうだ。ただしご両人ともぼくがもはや少年ものを書かないことをご存知であった。とすると、なぜ来たんだろう。 
<『腹立半分日記』(1976/10/01〜1978/04/04)>
とありました。筒井さんがジュヴナイルの世界に戻ってくるのは、後、二十余年の時が必要でした。
又、『幾たびもDiARY』(1988/02/12〜1989/03/26)の1988/12/01には、漫画化に関する記述がありますが、これについては、「時かけ☆コラム 漫画『時をかける少女』」で記すことにします。
 
1994年、内田有紀さん主演のドラマが放送されます。この新しいヒロインの誕生を祝うために、アイドル雑誌「Duet 1994/1月号」(発行社:集英社。発行日:1994/01/01。)では、「神戸デート対談」と題し原作者と、『俗物図鑑』『おれに関する噂』を読んだという主演者の対談が掲載されました。
筒井「この「時をかける少女」を書いたのは、もう30年前なんだよ。中学生向け学習雑誌で連載を始めて、だいぶ苦しんだんだネ。当時は原宿に住んでたけど、締め切りの日の朝。神宮の杜を歩き回って考えたんたなぁ。」 
内田「(前略)原作を読んで、「私、絶対この役をやりたい!」と思いました。主人公の和子はサバサバしてて、頭のいい女のコですよネ。原田知世さん主演の映画を見たときは、素朴で汚れのない少女だったから「私にはむずかしい…」と感じてたんですけど」 
筒井「知世ちゃんのは、男のコにポンポン命令したりはしなかったよネ。南野陽子ちゃんでドラマになったときは、わりと原作に近かったかな」
と、南野陽子さんに対する評価をしています。対談は、役者としての筒井さんとの競演の話に続きます。
内田「筒井さんは、「時をかける少女」に役者としても出演されるんですよネ?」 
筒井「役はまだ決まってないけどネ。現場ではライバルですよ。お互い勉強になるし」
筒井さんから「あなた(内田さんのこと)なら、パプリカ役もできそうだネ」との言葉も出たこの対談は、このように結ばれます。
内田「もし、「時をかける少女」みたいにタイム・リープできたら、どうします。」 
筒井「不良だった中学時代に戻って、ボク自身に注意するよ。学校サボって映画ばかり見てたし…」 
内田「私は、赤ちゃんに戻ってスヤスヤ眠りたい。先生の小説読んだら、未来が怖くなっちゃった…」
とありました。
 
1994年の中ごろ、角川書店から「カドカワムック ゲームファンタジアNo1」(発行社:角川書店。発行日:1994/06/08) が創刊されます。角川暦彦を発行人とするこのゲーム雑誌では、なぜか『時をかける少女』が特集され、筒井さんのインタビューも掲載されています。
興味深い話題が満載のこのインタビューから何点か、トピックをピックアップしてみましょう。
(連載のきっかけについて) 
『時かけ』の前に学研の『中2コース』で『悪夢の真相』というのを四回連載で書いたのですが、まだSFというものにとっつきにくい頃で、あれはミステリーとSFの昼間のような作品になったんです。でも、『時かけ』の時は、はっきりとSFを書いてほしいという話でした。 
この話はもう搾り出しといいますかね。SFが子供達にウケはじめているということで、話は来たのですが、僕本来のアイデアというのは、こういうところにはんないわけです。(中略) 
第一回が始まるまで、どうしようかと思って新宿御苑とか、だいぶウロウロと歩き回ったのをおぼえています。 
  
(ラベンダーを選んだ理由について) 
これはね、親父が博物館の館長をやっていた関係で、いろいろな植物に詳しかったんです。それに、”ラベンダーはいい香りよ”なんて女房がおしえてくれてね。(中略)そのころ、きれいな植物でハーブや香水に応用されるものといったらバラとか、限れられていましたからね。ばらじゃしょうがないというのでラベンダーにしたんですが、当時は誰も知りませんでしたよ。だから、今じゃ、六甲の上のハーブ園にもウワーッと咲いていますけどね。ときどき、怒なってやるんです。「てめーら、こんなに有名になったのは、誰のおかげだーっ」って(笑) 
  
(和子の容姿や血液型、星座や他の登場人物との関係について) 
原作の和子像はやや太め、身長は普通ですけどね。髪型はショートで後ろで少し巻けるくらい。制服はセーラー服です。当時はブレザーなんて、あまりありませんでしたから。 
そうですね、和子って言うのは、その年齢の娘にしては、大人っぽいですよね。不思議な現象に巻き込まれても、不安がるばかりでなく。ちゃんと原因に立ち向かってる。血液型で言えば、A型。星座は天秤座というところでしょうか 
原作では、吾朗ちゃんなんて完全に子供ですよね。背も小柄でコロコロして真ん丸い。だから、落ち着いて頭のいい、そして背も高い深町君が現れてということになる。映画もTVも皆三角関係にしちゃったけど、本当はそこまでいかないんですよ。 
  
(映像作品の主演者について) 
和子のイメージとして強烈だったのは、やはりNHKの『タイム・トラベラー』で和子役を演じた島田淳子さんでしょうね。 
タイム〜』以来、ずっと映像化がなかったせいか、僕の中では島田版和子がイメージとして定着したというか、『続タイム・トラベラー』では、寝巻きのまま、海岸にタイムリープして、ヘンな男に襲われかかるという危ないシーンがあって、その時は「なんてこと書きやがる!」と憤慨したもんですが(笑)、ようするにそういうのが似合っていた肉感的な娘だったんでしょう。 
  
映画の『時かけ』の知世の時は、彼女自身のキャラクターでしょうね。大林監督が彼女に惚れ込んで……。そしてあの言葉遣いね。尾道という舞台の設定といい、大林監督の趣味でもあったんでしょうが、あの当時でも非常に古典的な言葉遣いが良かったわけです。 
  
内田有紀版では、どこか現代的ではない純情さというか…。 

(今後について) 
でも、タイムリープというものが、いつの世も、ある一定の感動を与えるということは間違いのない事実です。『時かけ』では、ノスタルジアとパラドックスがひとつになっている。そこが魅きつける原点でしょうね。 
今後ですか?新しい映画も見てみたいですね。

 
『筒井康隆かく語りき』(発行所:文芸社。第1版第一刷:1997/06/25。)内の「筒井康隆ロングインタビュー」では、原田版を初めて見た時の感想が掲載されています。
−ジュブナイルとして書かれ、映画化された『時をかける少女』(83)は大ヒットされて 
筒井「これは学習誌(「中三コース」〜「高一コース」)の連載で、自分があまり得意ではないジャンルでしたから、非常に苦しんで書いたんです。だから作品的には思い入れがなかったんですが、最初に試写会で見て、自分の作品として、自分で評価できない。続いてもう一回やるというので、二度見たわけです。二回見て、飽きなかったんですよ。これは、やっぱり良いんだなと思ってね。僕のファンの中にはアイドル映画として最高の出来ではないかという意見もありました。僕は他のアイドル映画を見ていませんからわからなかったんですが、そのうちに僕の本の若い読者の人たちが夢中になりまして、ある日、僕の家に中学生がやって来まして、『時をかける少女』をやりますと言うんですよ。」 
−やりますというと!? 
筒井 玄関先で、最初の音楽からセリフから何からリアルタイムで、エンエンとやりだした。最後まで出来ますっていうけど、もういいからって(笑)。これには驚きました。 
−それはアブナイ(笑)。 
筒井 そんな人が時々来るんですよ。他にも別の中学生の女の子が来て、僕の『バブリング創世記』をそらでやりだした」 
−今後、映画化のお話は? 
筒井 『時をかける少女』を大林(宣彦)監督で再映画化されるそうですが、前回とまったくちがう形で映画化されるんでしょうね。
この作品が、角川春樹監督の下、再映画化されたのは、ご承知のとおりです。
 
「時をかける少女」から35年」というコピーが付けられた『わたしのグランパ』が出版された時に「日経ビジネス 1999/12/13号」で筒井さんのインタビューが掲載されています。
ここでも、『時をかける少女』について質問されています。
「時をかける少女」の頃とは、描こうとするものは変わりましたか? 
「時をかける少女」の頃はテレビの勃興期だったので、「コミュニケーションの不毛」を描いてきたと思います。「時をかける少女」もその影響かで書いたものです。今はもう「不毛」どころじゃない。ひどいものですからね(笑)。当然、変わってきました。社会が変われば作家も変わります。

2∞2/11/02付けで、政府は秋の褒章の受章者821人を発表しました。「実験精神旺盛な作風による優れた作品を数多く世に送り出した」という受賞理由により、筒井康隆さんも選ばれました。同日の朝日新聞に受章の記事が掲載されています。

「実験的と言われてもピンとこないが、随分馬鹿なことは書いた。ありがたいとか名誉だとか言う前に、私が受章するなんて面白いことだよねえ」
編集者から「書かされた」のは、テレビや映画にもなった「時をかける少女」だけで、そのほかは自分で面白いと思うものだけを書き続け、後悔はないという。

 


改訂日付 内容
2∞2/11/11 新規作成
 
 
 
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