CIVICS
なにしろ授業数が少ないではないですか。説明したいことの幾分の一しかできないわけです。自然科学だと、物理の自然観と性物のそれとではかなり大きな違いが出てきます。その違いがまたおもしろいわけですが。
本川達雄(名著『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者)の『生物学的文明論』(新潮新書)は、二者の違いを量的視点か質的視点かや普遍性志向か個別主義・特殊性志向かといった観点などで説明していますが、珊瑚礁の生態系を詳しく語るところから開始しているのも生物学者らしい叙述方法でしょうか。
政治や経済といった現象を学んでいく場合にも、物理的視点と同時に性物的視点が必要な気がします。そこで9月のはじめに、設計の(あるいは機械の)思想としての制度と歴史的産物としての制度という話からはじめたのでした。『リヴァイアサン』において機械論的に政治制度を説明していったホッブズらの時代は、自然科学と社会科学や思想とが未分化の時代でもありました。ロックの書いたものの中に心理学あるいは神経学的な業績があったりした時代です。
機械として設計するときには、目的に対して無駄なものは省き、効率的であることが優先されます。しかし、歴史的には、その機械は目的外にも使用されたりして、様々な補正が施されていきます。やがてかなり複雑で無駄の多いものになっていくわけですが、その無駄の部分が環境の変化に適応するためには都合がよいというのが普通かと思います。
またしても、今度は国会で「無駄を省け」という話で盛り上がっているようですが、概ね、これは後世あまりいい評価を得られない結果に終わるだろうという気がします。つまり、視野が狭すぎる。あらゆる制度は歴史性を引き摺っており、そこには多様な目的への対応が含まれているからです。一つの目的にしか対応しないという想定で議論することは、認識方法としては誤りではないのですが、実践的ではないのです。
以上を前提にして、国会・内閣・裁判所という制度の単純なある側面だけを眺めておこうとしたのが11月第3週までというわけでした。
日本国憲法が、アメリカなど戦勝国=連合国軍による占領統治下で作られ、実際に草案を書いたのがアメリカ人たちであったということは事実として確認されているわけです。ここで私が注意したいのは、「だからダメ」ということではなく、数人のグループがかなり限定した目的のために設計した制度であったという事実に注目したいのです。ただし、それを帝国議会で大日本帝国憲法改正手続きとして審議した日本人である衆議院議員たちは、旧憲法下における帝国議会の実態や内閣、裁判所の実態という伝統や慣習を暗黙裏に継承するものとしてとらえていたものと推測されます。いわば環境に適応しようとする個体の反応がそこに現れていたはずです。
そして、その後の半世紀は特に経済的条件において急激な変動があったわけで、それに伴う生活の激変と国民の意識の変化が、諸制度の活用実態を著しく変えていったということが観察されるはずです。
無論。授業においてそのすべてを説明することなど不可能なことははじめからわかっているわけで、憲法に記された内容を学ぶことを中心に、若干大きな制度そのものやその修飾符の変化について知識を提供する程度のことしかできませんでした。また、私自身抑制しました。
関心をもった人が将来、比較政治制度研究や法社会学、法哲学などの研究分野に足を踏み入れてくれるととても嬉しいとは思います。授業では触れる余裕がありませんでしたが、法社会学の分野では、既に川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書)とその下敷きにした農村社会の法慣習についてのきだみのるの本を紹介し、現代日本社会における「空気」の支配についての議論と結びつけておきました。隣人訴訟という都市部や郊外における不思議な現象も、日本人の独特の法意識の反映ともいえる面があります。これについてもたくさんの本が出ています。
流行もの、実用もの、金儲けに直結する本はたくさん出ているのに、法の本質について問うようなものはどんどん少なくなっている時代ですから、あえて紹介しておきます。
内閣については詳しくは触れませんでした。憲法の記述と省庁再編について程度に留め、行政委員会制度についても少しだけ触れました。こちらはむしろ実態として政党や選挙との関連が重要になるからです。民主党が法案提出の手続きを変更して、前原政策調査会長に政策や法案のとりまとめ役を云々という実体面だけは時事的できごとの意味説明として補足しています。自民党では政務調査会という名称で、ベテラン国会議員で政策に詳しい「族議員」が意見のすりあわせをして閣議にかけていくということをしていたのを、族議員は財界など圧力団体の利害を反映する「悪の権化」だとして否定したため、民主党はそういう決め方を廃止していたのですが、それでは官僚にかえって牛耳られてしまうとして、しくみの変更をして、「政策調査会」を設置したというわけです(最初は、小沢一郎幹事長とそれを補佐する幹事長代理や副幹事長などが党の意思を統一することになっていました)。
ただし、これは「国会」や「内閣」という制度そのものではなく、それに付随した制度、通常表に出ない制度の部分です。
本当は、選挙において政党は「公約」を掲げて戦います。当選後、当然、この公約を反映した政策や法律を作る義務が与党にはあるわけです。これを推進し、矛盾を起こさないように調整していく役割を果たすのが「政策調査会」ということになります。
「公約」であれ「マニュフェスト」であれ、これらは理想を語り、言葉で表現されています。それに予算を付けて、官僚という実行部隊を配して実現していくことになります。ここで、官僚は、機械的に内閣の命令に従うということはないのが現実です。彼らには彼らの理想もあり、現場において、生活者と接しているという自負もあります。つまり冒頭の表現にすれば、環境への適応という部分を体現しているのが官僚だということになるでしょうか。伝統や慣習という便利なツールで彼らは文字列に過ぎないものを物質化し、可視化していきます。ついでに彼らは文字化し、文章化する役割も担っているため、大臣や政務官たちの指示を翻案し、役所の常識に合わせてしまうような荒技も使います。
簡単に言ってしまうと、そうした官僚個人や官僚群を便利なツールとして使いこなすのが政治家の力量なのですが、不思議なことに現在のジャーナリストでその事実を正確に伝える人はいません。もしかするとジャーナリストも劣化しているのかもしれません。
これはついでに触れておくのですが、米英仏独といった国と比較しても、日本の公務員の数は極端に少なく、2008年度で、人口比で仏40.8、独34.5、英34.1、米22.2、日17.5(数字は千人当たり人数)だと総務省統計局が公表しています。給与についても触れておけば、バブル景気のときに民間企業のサラリーマンがいかに派手にお金を使いまくっていたか、つまり高額の給与を得ていたかは知られています。そのとき公務員の給与は相対的に低かったわけです。不況・デフレが続き、これが逆転現象が生じた。人間いいときもあれば悪いときもあるよというのが普通だと思うんですが、嫉妬心が働くと見えなくなります。
現在のマスコミの公務員攻撃は既に妥当な範囲内ではないと私は感じています。危険な将来に大きな問題を残しそうな過ちに繋がりそうです。
特に社会弱者の立場に陥った人々にとって行政サービスは生存に不可欠な場合があります。現在、そのサービスがまともに維持されているかは疑わしい状態です。また、自衛隊にしろ警察にしろ海保や消防にしろ、いざというときに備える行政サービスも普段は必要性をそう高く感じなくとも、震災や大きな事故などに際しては、更に言えば他国の侵略に際してはどうしても必要な行政サービスであり、設備であるということになります。
これらの方面においても人的補充を抑え、臨時雇用や期間雇用で対応しようとするのは無理があります。秘密の漏洩に繋がりかねない話です。
そういった当たり前のことが通用しない社会になり、大衆の好みそうな感覚的な提案が受け、選良までが大衆受けばかりを狙う言動を繰り返す状態は、古代ギリシアの衆愚政治を連想させます。アテネはやがて(といいつつかなり長期保つのですが)崩壊します。
時間がなくなった。更に続く(11.23)
間が開くと、少し気が抜けてしまいます。「言葉」という問題で触れておきたいことは、言葉という抽象的なものに縛られると、実態の方に向けるべき神経が薄れるというか、不十分になることがよくあるという点です。
数日前に触れた佐藤賢一の指摘に従えば、フランス革命はまず人権宣言という言葉で現されたものを掲げます。そのことがやがて、既に公表した言葉に拘束されて、どんどん過激な行動へと駆り立てられていくということに繋がったのではないかというのです。言葉で表現したものは固定的に結晶します。他方、政治状況はどんどん生き物のように変化していきます。この変化の方に合わせて対策を打ち出していくことが望ましいはずなのですが、往々にして人は、言葉で約束したことに拘って、過激な反応をしてしまうことがあるものです。何十万人もの同胞を殺害する必要などないはずなのに、約束を守ろうとすると邪魔者は排除するしかないと思い込んでしまうことだって起こるというわけです。
そういう意味では、マニュアル、公約という言葉に過ぎないものに拘泥するとかなり危ないことになる可能性はあります。
この点だけは補足しておきます。(11.24)
医療行為は、否応なくひとの生死に関わることがあります。というより多かれ少なかれ関わるものです。
教科書では、ヒトの始まりと終わりというまとめ方をしています。
とりあえず、「終わり」から入ってみました。
・ 「尊厳死」と「安楽死」の違い。
・ オランダの安楽死法の特徴
・ そこでの患者本人の意思の確認の問題
・ 粗忽な某町立診療所院長の患者を楽にさせるために薬殺した行為の誤り
・ 患者の自己決定権とパターナリズム(家父長主義・後見的干渉主義)
・ 何を決定するのか 〜 Q.O.L.
・ ペイン・コントロールと終末期医療(ターミナル・ケア)
・ 自己決定のために必要な情報開示=インフォームド・コンセント
・シャルダン『女医』の一部の内容を引きながら、考えてみたというわけです。
あるクラスで読んでもらったときに、といった内容を、シドニイ5行目最後6字から6行目のイントネーションを間違えたため、みんなが笑うということになり、それ以後のセリフも別の意味に取れてしまい、笑いが収まりませんでした。これは計算していなかったものでした。
メモすら取っていない生徒が大半の(多分、すばらしい記憶力なのでしょう)中で、かなり多くの情報を詰め込みすぎたような気がします。
こうなるとちょっとイジワルをしたくなります。出題してみたいですね。まあ、仮に赤点をとっても、そして学年で赤点となっても、まだ追試があるので諦めないようにしてください。年々、生徒がノートを取らなくなってきて、なんとなくそれを見過ごしてきたのですが、今日はちょっと心配になってきました。まあ、暗記させることが授業の目的ではないので許すことにしましょう。(11.24)