日寛本尊は、完則図原本の模写か?

江戸時代に所謂「本門戒壇の大御本尊」(創価学会を言う三大秘法の御本尊)を模写したという図が伝わる。(完則図:窪田哲城『日蓮聖人の本懐』法性寺)
法雲山遠霑講寺檀林、すなわち日寛第26代能化を勤めた檀林である。
この図は日什門流に伝わるものであるというが、「富士大石寺戒壇之本尊」と題名が書かれている。
この図が、もっとも不可思議なのは、日蓮花押に当たる部分が「在御判」となっていること。模写であるから、花押であるところをそうしたといえばそれまでなのだが、この本尊の特徴である幅一面を埋める花押を「在御判」としたとすると、レイアウトから整合性の説明がつかない。そのために、この模写をした原本もまた、「在御判」となっていたのではないかと想像できること。 そして、もう一点。この諸尊勧請に天照大神と八幡大菩薩がないこと。
こうしたいくつかの特異点はあるのだが、わたしがもっとも着目するのは、それレイアウトである。図のように並べてみると、日寛の書写本尊に酷似している。そのことから、日寛は、この完則図の原本を書写して、自分の手書き本尊にしたのではないかと、わたしは仮説を立てている。

完則図と日寛書写本尊、縦横の大きさのデータはない。
こうした場合、相似形から類推するしかない。
取りあえず、中央題目「南」字“十”部位中央から「經」字“エ”部位の下方を基準に大きさを合わせ、比較してみた。
一致しない箇所は、もちろんあるのだが、赤線で結んだ部位は、だいたいレイアウトが相似している。
日寛本尊と完則図が写す元の本尊は、何らかの関係があったのではないだろうか。
わたしは数カ年、大石寺の所謂「本門戒壇の大御本尊」(板本尊)の複数存在説を唱えてきた。奉安堂にある彫刻ではなく、日寛の時代の板本尊は、完則図のようなレイアウトであり、日寛は、それを写したという仮定は成り立たないだろうか。
日蓮聖人の本懐
昭和35年2月18日初版
昭和40年8月15日3刷
昭和60年4月28日増補版
著 者 窪田哲城
発行所 法性寺/顕本法華仏国会
Posted by saikakudoppo at 17:03│
Comments(6)│
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犀角独歩さん
確かに日寛書写本尊と完則図の戒壇本尊の原本が同じという可能性はありますね。
ただ、私はその可能性には否定的なのです。主な理由は日寛書写本尊に八大龍王の勧請があるからです。確実な宗祖本尊、日興本尊で八大龍王の勧請のあるものは一幅もないことから、日寛書写本尊の原本は後世のものと考えています。八大龍王は日蓮宗でいう臨終曼荼羅(日蓮正宗では導師御本尊)に多くみられますので、臨終曼荼羅が成立したころ以後に日蓮宗(日蓮正宗を含む)の曼荼羅本尊に勧請されるようになったと愚考していますので、日寛書写本尊の原本は、恐らく日精師くらいの代以後のものではないかと推定しています。
完則図の戒壇本尊は、大龍王などの勧請があること、在御判とあることなどから、あくまで仮説ですが原本は日興上人の御本尊ではないかと思っています。完則図の戒壇本尊と日興本尊の関連性はいずれ検証してみようと思っているのですが、色々やりたいことがあり手がついていないのが現状です。
ご参考まで。
彰往考来
犀角独歩さん
完則図と日寛本尊、ご指摘の様に本当に似てますね。日寛本尊の大龍玉の“八”は、単に日寛が先師に倣ったものである可能性があります。日寛本尊と座配がほぼ同じ伝宗祖本尊、つまり偽筆本尊が仙台仏眼寺にあり、これは年号は弘安三年六月ですが、見た感じは、首題は弘安元年八月、四天玉は同年七月、不動・愛染は起筆が宝珠形で弘安二年六月以降のものを使っています。日寛が原本とした当時の彫刻も、仙台仏眼寺の偽筆に似たり寄ったりのものだった可能性がありますね。
石山には、弘安二年の偽筆では、彫刻の外に弘安二年八月のものがありましたね。彰往考来さんがお示しの資料では、蓮祖御真筆で言えば三枚継ぎ紙位の大きさの様です。当漫荼羅は写真も公開されていませんので座配等は解りませんが、これなども、彫刻の原本として使われた時代もあるのではないかと思ったりしますね。
彰往考来さん
有り難うございます。
諸尊勧請から原本の割り出しですか。
そうなると、レイアウトの酷似は、しかし、問題となりますか?
れんさん
有り難うございます。
参考になりました。
ところで、ここにわたしが提示した日寛本尊、なんだかおわかりですよね?
犀角独歩さん
この日寛本尊は、某氏によれば原本は池袋の正宗寺院に所蔵のものの形木で、戦後すぐの頃、学会を含む正宗の入信者に下付していたものですよね?
日寛の本尊は、大縫さんがかつて独学徒さんのところに挙げた日精筆の本尊に似ていたことを思い出しました。
ということは、完則図の彫刻の原本の作者は日精の可能性もありということでしょうか?
れんさん
有り難うございます。
日精本尊のサンプルがあまりなく、比較の仕様がない状態です。
しかし、日精、完則、日寛が1本の線でつながったら、これはちょっとした発見だと思えます。
日精のサンプルがもっとほしいところです。