物ぐさ太郎伝承地
松本市新村児童センターの南西に物ぐさ太郎の伝承地があります。
新村の人たちは幼少の頃より物ぐさ太郎の物語を聞き太郎のことをよく知っています。
村の人々は伝承地の整備保存に努めてきました。町会、公民館、長寿会(老人クラブ)などが中心となり、植樹をし、石垣、柵を作り、
石碑案内板等を建てました。また、物ぐさ太郎の物語を小冊子にまとめ村全戸に配布しました。
案内看板
石碑
歌碑
折口信夫 (1887〜1953)が来松した際に詠んだ歌の一つ
「いにしえに物草太郎ありし後 ものくさ人の一人もなし」
この歌は昭和24〜25年頃、新村小(中)学校で折口先生に依頼して書いていただいたものです。
当時の書のレプリカが新村公民館に飾られています。
ものぐさ太郎が腰掛けて考え事をしていたという桜の枯れ木 (物ぐさ太郎腰掛桜)
周辺に植わっている桜は、物ぐさ太郎腰掛桜の何代目かの子孫らしいです。
※物ぐさ太郎腰掛桜は木の根元が腐って倒壊する恐れがあったため、平成18年12月に撤去されました。
枯れ木の幹にお札が
大木にお札を貼り付ける風習?があるとのこと。ものぐさ太郎とは関係ないらしいです。
物ぐさ太郎を祀る祠
平成3年に新村地区住民(全戸)及び地区外在住の新村出身者、合計899人から寄付をいただき伝承地の整備が行われました。
敷地の拡張(33.2u→78.4u)周囲の柵、石垣を整備、物ぐさ太郎を祀る祠、物ぐさ太郎像建立等が行われました。
寄付者の名前が入った碑
物ぐさ太郎の銅像
作者は、洞沢今朝夫氏(日展友会 彫刻家)
この像と同じもの(合成樹脂製?)が新村公民館のロビーに展示されています。
明治9年に当時の筑摩県が県内町村の古跡を調査したそうです。
新村(当時は東筑摩郡新村だった)にはものぐさ太郎が寝そべって地頭に餅を拾わせた場所があるという言い伝えがあり、
その場所は南新東のだいたいこの辺だろうということで県に報告し、現在の場所がものぐさ太郎伝承地となったとのこと。
明治9年の地誌調書
古 跡 ※第1回物ぐさ太郎サミット資料から転載(資料:大久保守也さん(元新村公民館館長、新村史談会会員)) ※資料中に旧字体で記載できなかった部分有り
【物臭太郎ヒヂカヅ】(實字詳ならず)
當郷之産なり。傳に云ふ、太郎は光仁帝の裔、二位中将某の遺子、人と爲り、懶懦名状す可無し。適々地頭新しの某の扶助を受け、
又常に村民に鞠はる。嘗て守護二條有季の丁夫を徴するに會ふ。仍て郷里共議し、太郎をして役に赴かしむ。京に在る数年克く職を
務め、又心を学事に入る。此に於て其家系を覚知し、奮励して益々志操を修む。竟に甲信兩國の守護を拜し、土人亦ス服す。老後再
び當郷に來り住し、齢百餘歳にして歿す。里人其霊を祭り(現今當村の小野社は太郎の所縁の古跡なりと云ふ)て敬事怠ることなしと。
星霜千歳、時勢陵夷、今や其故蹟等明證するに由無しと雖も、往昔より土俗の口碑に存し、連々今日に傅ふ所なり。因に云ふ、南新
掲示場より北百歩に方り、路傍に櫻樹あり、土俗之を腰懸櫻と唱ふ。物臭太郎毎に倚靠せし櫻なりと。年暦の久しき原樹は、往昔に
枯朽せしなれども、根より嫩芽生じ連々嗣續して其事蹟を存す。然るに正徳、享保の際、地主田疇を拓くに因り、樹根漸々衰弱し、竟
に復た枯朽すと雖も、尚嫩芽生ずる有りて、暢茂せしを、風雪の壓倒に罹り、既に断滅に及ばんとせしが、遺根未だ枯れず、又新芽を
生じ、今や纔に一樹を爲し、口碑と共に永く叢中に存す。
右之通取調候處相違無御座候以上
明治九年七月
第四大區二小區
筑摩群新村
副戸長 小野C作
同 新村杢十郎
同 土屋安吉
戸長 波多腰幸内
筑摩縣参事高木惟矩殿
注:往昔より とは、江戸時代中期以前と考えられるとのこと。
戻る