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 「情況に対して発言する」に掲載した過去の記事を、バックナンバーとして収録しました(最終更新2001年10月29日)


祝福されない無罪判決について考える−薬害エイズ事件帝京大ルート無罪判決批判について

 本年3月28日、薬害エイズ事件の帝京大ルートで、業務上過失致死であるとして起訴されていた帝京大元副学長の被告に対し、東京地裁(永井敏雄裁判長)は、禁固3年を求刑していた検察側の主張を退け、「エイズによる血友病患者の死亡という結果発生の予見可能性はあったが、その程度は低く、過失があったとはいえない」として、無罪の判決を言い渡した。
 薬害エイズ事件については、製薬会社の旧ミドリ十字の歴代3社長には、昨年2月に、大阪地裁で禁固2年〜1年4月の実刑判決が言い渡されていたが、帝京大ルートについてはそれとは異なる判決が出されたことになる。

 今回この判決を取り上げるのは、この裁判や判決の内容について立ち入ろうとするものではない。この判決に対するマスコミの取り上げ方に強く違和感を感じたからである。
 すなわち、マスコミは、この無罪判決を「意外な判断」という捉え方をし、薬害エイズ事件の被害者側の声を大きく報道した。

 例えば、読売新聞は、「『なぜだ』『どうして』――。薬害エイズ事件で業務上過失致死罪に問われた元帝京大副学長(略)に『無罪』が言い渡された瞬間、東京地裁一〇四号法廷の満席の傍聴席からは、うめきにも似た叫び声が交錯した」、「判決を聞き終えた龍平さんは『信じられない判決で、悔しい。納得が行かない』と何度も繰り返し、顔をこわばらせた。『安部被告が当時、危険性を認識していたのは明らかで、なぜそれを判決に取り入れてもらえなかったのか。裁判所が十分、真相の解明をしたとは思えない』と不満をぶつけた。」、「血友病患者で車いすの三十歳代男性は閉廷後、『言葉になりません。冷静になろうとメモを取ったが、医療の厚い壁があり、患者は無力だと改めて感じた』と涙をにじませた」、「北海道から判決を聞きに来た血友病患者の男性(略)は『ショックを受けた。あれだけの被害を起こしたんだから有罪のはずなのに』とぼう然としていた」などと報道し、一貫して無罪判決を批判する論調だった。他の新聞やメディアもこれと似たような論調で報道していた。

 しかし、そもそも刑事裁判は、証拠に基づいて、検察側と被告人・弁護側の言い分を聞いて、公平な立場であると措定されている裁判所が、法律に基づいて判断を下すシステムである。今回の無罪判決は、たまたま、そのシステムによる審査の結果として、無罪と判断されたに過ぎない。

 裁判所が無罪判決の理由として挙げた3点にわたる判決骨子の中に「結果が悲惨で重大であるからといって、犯罪の成立範囲を広げることはできない」というフレーズがある。私は、裁判所のこの判断に何よりも注目したい。仮に、結果が悲惨で重大であるからと言って、その責任者に対して、通常の場合よりも重い刑事責任を負わせることを認めることは、まさに法の下の平等に反する。刑事責任は誰に対しても同じ責任を負わせるべきであって、たまたま重大で悲惨な結果が出た場合にだけその例外を認めることは許されないのであり、それは人権に例外がないのと同じである。

 ところが、今回のマスコミの論調を見ると、裁判所が、薬害エイズ渦という特殊で悲惨な事件に対して、裁判所の積極的かつ柔軟な判断をすべきなのにそれをしなかった点を批判しているように思われる。また、マスコミの一部には、裁判所は「専門馬鹿」であると批判する向きもあった。しかし、裁判所は感情や世論に影響されることなく、法律の専門家としての判断を求められているのであり、その意味で「専門馬鹿」でいいのである。

 私は、今回の無罪判決批判の風潮に対しては、市民がエケープゴートを求める動きの現れであって大変に危険な動きであると感じる。それは、検察が起訴した者を有罪にしない裁判所はおかしいとの批判にも繋がりかねない。この発想は、「悪い奴は罰せられるべきである」との素朴なものであろうが、それがエスカレートすると、証拠に基づき、現在の法律に基づいて判断するという刑事裁判システムの否定に向いかねないおそれがある。これは、例えば、オウム事件が起こしたとされる地下鉄サリン事件等の刑事裁判に対して、麻原氏を裁判にかけずに死刑にすべきだと主張していた一部の論調とも根底において共通であり、既に以前から現れていた。

 現在、政府主導の司法制度改革審議会では、司法制度の民主化として、参審制をベースとした裁判員制度の導入が検討されているが、現在のこのような風潮を考えると、裁判システムに市民を参加させることによって、より危険な方向に行かないとも限らず、それに対する警戒は必要であろう。

 本来、無罪判決は、罪に問われるべきではなかった市民が、国家権力によって裁判を受けさせられていたことが誤りであることを裁判所が認める判断であり、違法・不当な権力行使を司法がチェックし、国家権力の行使の誤りを断罪する意味で、市民にとっては大変に喜ばしきことであるはずである。ところが、無罪判決に対して、多くの市民がそれを祝福できないという現状に、私たち市民の側の脆さや危険性が露呈しているように感じられてならない。
(2001年4月29日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」5月号の連載記事として執筆されたものに一部訂正をしたものである。

検察審査会の権限強化について考える

 現在、司法制度改革審議会(会長・佐藤幸治京都大学教授)において、急ピッチで司法改革の方向性についての検討が行われている。実質的に参審制(裁判員制)を導入することが決まるなど、重要な問題についての方向性は見えてきつつある。その中で、本年3月13日の第51回会合において、検察審査会についての制度改革の提案がなされたことに考えてみたい。

 この日の会合においては、検察が不起訴処分にした事件について、検察審査会が「起訴相当」の議決をした場合、議決に法的拘束力を持たせるなど審査会の権限強化を提案したと伝えられている(産経新聞Web3月14日)。

 そもそも、検察審査会は、公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図ることを目的として、検察審査会法(昭和23年)によって新設された制度である。検察審査会は、衆議院議員の選挙権を有する者の中からクジで選ばれた11人の検察審査員(任期は6ヶ月)で構成され、検察官の不起訴処分の当否を審査している。審査の結果、不起訴処分が妥当であったと判断する場合には「不起訴相当」、より詳しい捜査を望む場合は「不起訴不当」、積極的に起訴が相当であるとの意見が8名以上の場合には「起訴相当」の議決をすることになっている。
 ただ、現行の検察審査会法では、「起訴相当」の議決があっても、検事正が事件を再検討し、その結果起訴が相当であるとの結論に達したときに初めて起訴の手続がとられることになっており、検察審査会の議決には法的拘束力がないとされている。そのため、従来から、民意を反映する制度であるのに、法的拘束力を認めないのは制度として不完全であるとの批判もあった。

 今回の司法制度改革審議会での提案には、福岡地方検察庁の前次席検事が、福岡高等裁判所の裁判官に対し、その妻に関する捜査情報を漏洩した問題が背景としてあるようであり、検察に対する民意の反映やコントロールをより強めようという趣旨だと考えられる。 
 
 一見すると、全くもっとな提案のようにも思われるのであるが、検察官審査会の実態とその運用から考えると、今回の検察審査会の権限強化の提案は危険な要素を含んでいるように思われる。

 そもそも、検察審査会は、本来、検察官が権力犯罪などについて身内意識から公訴権を適切に発動しないという不作為や懈怠を市民がチェックすることにその意味がある制度ではないかと考えられる。このような場合には、市民の常識的な感覚で、身内意識から権力犯罪が起訴されないことを厳しくチェックすることにこそ、この制度の本当の意味があるはずである。

 ところが、最近の検察審査会では、むしろ、検察審査会が、新たな「捜査機関」つまり、「市民による警察」となって、検察官ですら起訴しなかったような事件について、それを起訴して処罰することを求めているように思われる。
 古くは、あの有名な甲山事件において、検察官が一旦不起訴にしたのに、神戸検察審査会は、1976年10月28日に「不起訴不当」を議決し、それを受けて行われた再捜査の結果起訴されているのである(この点の事実経過と批判につき、木部克己『甲山報道に見る犯人視という凶器』158頁以下参照)

 また、つい最近においても、横浜地検小田原支部が当初業務上過失致死罪などの被疑者について「嫌疑不十分」で不起訴処分としたにも関わらず、小田原検察審査会が「不起訴不当」と議決し、その後起訴された被告人に対して、本年3月26日、横浜地裁小田原支部(荒川英明裁判官)が懲役1年6カ月執行猶予5年の有罪判決を言い渡したことが報道されている(asahi.com3月26日)。

 また、以前に述べたが、神奈川県藤沢市で1993年に起きた殺人と放火事件について、横浜地検は「嫌疑不十分」で不起訴処分にし、これに対して被害者の両親が検察審査会に申し立てていたが、この事件では両親が原告となって被疑者に対して起こしていた損害賠償請求の民事訴訟で請求認容の東京高裁判決が出た後、検察審査会の結論を待たずに、横浜地検は再捜査を行い、本年3月18日に横浜地裁に起訴している(asahi.com3月19日)。

 このように見てくると、検察審査会の権限強化は、権力犯罪とは関係ない普通の市民の刑事事件について、検察官も起訴しなかったにもかかわらず、それ以上に広範な起訴・有罪化を押し進めるだけになり、「市民による警察」という第4の権力を作ることになるのではないかと危惧せざるを得ない。

 甲山事件では、マスコミ報道によって被疑者を「犯人視」する市民が「不起訴不当」を議決したと伝えられている。そうであるならば、現在のように、逮捕しただけで「犯人視」するような報道を集中豪雨的に行っているマスコミの現状からすれば、それを真に受けた市民が、起訴権限を振りかざす事態も考えられる。誠に不幸なことであるが、それはくい止める必要がある。

 このように、市民にはあまり知られていない検察審査会であるが、その権限強化に対しては到底手放しで賛成することはできない。司法制度改革審議会のこの問題に関する今後の動きを注視していきたい。
(2001年3月27日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」4月号の連載記事として執筆されたものに一部訂正をしたものである。
【追記】(2001年4月12日記)
 司法制度改革審議会は、4月10日、検察による不起訴処分が妥当だったかを審査した結果、「起訴相当」と議決した場合、起訴しなければならないこととすることを決めた。

英国人女性失踪事件に見る警察の「劇場」型捜査の問題点

 昨年7月1日から行方不明になっていた英国人女性の遺体が神奈川県三浦市三崎町の洞窟で発見されて以来、この事件に関するマスコミの報道の頻度と量が増えている。
 昨年10月12日に、ある男性会社社長が、全く別件の準強制わいせつ事件で警視庁に逮捕されて以来、この男性の国籍や生い立ちなどにかなり深く立ち入ったプライバシーを暴くような報道が行われてきた。しかも、明らかに英国人女性失踪事件という「本件」を想定した「別件逮捕であるにもかかわらず、マスコミはそのことを批判することなく、当初から逮捕された男性が英国人女性の失踪に関与しているに違いないという観点から「犯人」視報道をしてきた。

 ところが、その後、警視庁は、この男性に対してなかなか「本件」では逮捕せず、現在までに既に六回の逮捕・勾留を繰り返してきた。そして、最後の事件の勾留期限までに英国人女性失踪事件についての進展がなければ、この男性に対するこれ以上の追及は無理ではないかとの見方も出始めていた矢先の突然の遺体発見であった。

 私は、「別件逮捕」を何回も繰り返した警視庁による捜査に対して疑問を感じていたが、マスコミに対する情報操作という観点から見ても、警視庁による今回の捜査のあり方については強い疑問を感じる。なぜならば、早い段階から、あまりにも大量の捜査情報がマスコミに流され、一般市民に向けて、「この男性が怪しい」という世論作りがなされたと考えられるからである。

 例えば、かなり早い時期から、英国人女性が失踪直前に電話をしたのはこの男性のプリペイド式の携帯電話からであったという報道がマスコミ各社によってなされていた。これは警察がそのように発表していたとしか考えられない。
 そして、ここに来て、自動車ナンバー自動読みとりシステム(いわゆるNシステム)でこの男性の自動車が逗子市周辺にいたことが判明したとか、逗子市内のこの男性のマンションから英国人女性の髪の毛や指紋が発見されたなどの新しい捜査情報が報道されるに至っている。これらも全て警察が公式発表したかリークしたことは間違いない。

 私たちは、このようなマスコミ報道に接する中で、現在では、この男性が英国人女性の失踪に関係しているのは間違いないと思わされ、中には既にこの男性が殺人犯に間違いないと思い込まされている人さえいると思われる。そのため、この男性は、完全に世論に「囲い込み」をされ、ますます孤立させられている。
 これは、現在のマスコミによる情報化社会を上手に利用した新たな捜査手法と言えるのではないか。そこで、私は、裁判より前に捜査情報を手を変え品を変えてマスコミに発表して世論操作をするという捜査手法を「劇場」型捜査と名付けたい(既に「劇場型犯罪」という呼び方はある)。

 日本においては、あまりあってはならないことであるが、裁判所が世論の動向を大変に気にする傾向にある。そして、かねてからマスコミ報道が裁判に対して悪い影響を与えていることも指摘されてきた。今回の警視庁による「劇場」型捜査は、この日本の裁判システムをいわば逆手に取る形で、裁判の前に「有罪」を勝ち取ろうとするものである。これまで「ペーパー・トライアル」(裁判の前にマスコミが有罪を下すこと)が問題とされてきたが、警察がこの「ペーパー・トライアル」を意図的・積極的に利用するのが「劇場」型捜査なのである。
 このように見てくると、今回の英国人女性の遺体発見のタイミングは極めて絶妙であった。既に、一部の報道では、別件で逮捕・勾留中の男性の「自白」による「秘密の暴露」をさせるために、一度見つけて埋め戻したか、知っていてわざと手を付けなかったのではないかとの疑問も提起されているほどである(週刊朝日3月2日号166頁、週刊現代3月10日44頁以下)。これも「劇場」型捜査の一環と疑わざるを得ない。

 いずれにしても、警察の「劇場」型捜査に不可欠な役割を果たしているのが現在のマスコミである。それは裏を返せば、現在のマスコミが警察発表を鵜呑みにし、その裏付けも取らずにそのまま報道を垂れ流している「発表ジャーナリズム」に堕していることを意味している。
 ちなみに、別件で逮捕・勾留中の男性は現時点では、まだ英国人女性に関する容疑では逮捕すらされておらず、その事件の「被疑者」でもないのである(近日中に逮捕されることが予想されるが)。
 私たちは今回の事件を契機に、改めて警察の捜査のあり方とメディアの関係について、再考しなければならない時が来ているように思われる。
(2001年3月1日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」3月号の連載記事として執筆されたものに一部訂正をしたものである。
【追記】(2001年4月12日記)
 警視庁麻布署捜査本部は、4月6日、わいせつ目的誘拐、準婦女暴行致死、死体損壊・遺棄の疑いで、これまで6回の逮捕・勾留を続けていた男性を再逮捕した。

【追記2】(2001年4月29日記)
 東京地検は、4月28日、この男性を、わいせつ目的誘拐と準婦女暴行致死、死体遺棄などの罪で東京地裁に追起訴した。

不起訴事件について民事裁判で「有罪」認定をした事件から考える

 従来、刑事事件と民事事件とは全く異なる次元で考えられており、双方の手続が交錯することは余り想定されていなかった。
 しかしながら、最近は、立法において、特に、被害者保護の分野において、双方の手続を同一次元で捉えていこうという動きが顕在化するに至っている。

 第174回国会で成立した「犯罪被害者等の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律」は、犯罪被害者が民事裁判で使用することができるように、刑事事件の訴訟記録の閲覧・謄写が認められるとともに、民事上の争いについて合意が成立した場合に、刑事事件の係属する裁判所に申し立てることによって、その合意を公判調書に記載することによって、民事裁判上の和解と同一の効力(強制執行をする効力)が認められるに至っている(龍岡視晃「犯罪被害者等の保護を図るための公判記録の閲覧謄写と民事上の争いについての刑事訴訟手続における和解の制度の導入」現代刑事法19号35頁以下参照)。 また、最近では、民事裁判実務においても、このような傾向が現れているように思われる。

 例えば、つい最近報道された事件で、刑事事件で不起訴になった事件につき、民事裁判では、不法行為成立=「有罪」として損害賠償が認められたという事件がある。
 これは、神奈川県藤沢市内のアパートで1993年12月に、ある女性が焼死したのは同居の男性が放火したためと主張して、その女性の両親が男性を被告として損害賠償を請求した民事訴訟で、東京高裁(涌井紀夫裁判長)は、本年1月17日、男性に対して約9700万円の支払いを命じた横浜地裁の第一審判決を支持し、男性側の控訴を棄却した。 この火災では、神奈川県警が、1995年に、殺人と放火容疑で右の男性を書類送検したが、横浜地検は1998年6月に嫌疑不十分で不起訴としていたという。
 なお、右東京高裁判決の後、女性の両親が横浜検察審査会に、不起訴不当の申立てをしていたのを受けて、横浜地方検察庁が再捜査を開始したと報道されている(Yomiuri ON-LINE1/20 21:45)。

 実は市民には余り知られていないが、検察官の不起訴処分には確定力がなく、後に新たな証拠が発見されたなど特別の事情が生ずれば不起訴処分を取り消して、その事件につき捜査を再開することができるとされている(三井誠・坂巻匡『入門刑事手続法〔改訂版〕』85頁)。
 ただ、右の事件のように、警察や検察が独自に新たな証拠を発見したのではなく、民事裁判が機縁になって、捜査の再開をすることになるというのは珍しいことと思われるが、何か釈然としないものが残る。

 また、少年事件の冤罪事件として有名な草加事件について昨年最高裁判決がなされているが(2000年2月7日最高裁判所第一小法廷判決)、これも少年事件としては「非行事実あり」=「有罪」と判断された後、被害者が少年らに対して損害賠償を請求する民事裁判を起こした事件であった。

 いずれにしても、検察庁が不起訴処分にした事件につき、民事事件が起きて、検察庁の判断とは異なる判断がなされるという事態は今後も多く予想される事態ではある。被害者救済という観点から見ればこのような方向性は一見望ましいようにも思われるが、被疑者という観点から見れば、一旦嫌疑不十分で不起訴処分になったとしても、その後、公訴時効の期間が経過するまでの間は、いつ、再び捜査の対象にされ、場合によって身柄拘束をされたり、起訴されて被告の立場に立たされるか分からないという極めて不安定な地位に置かれることを果たして許容して良いかという問題がある。

 私が何よりも恐れるのは、民事事件と刑事事件が同一次元で捉えられ、双方の手続が交錯することが広く認められるようになることによって、刑事事件における厳格な証拠法則に基づく事実認定のあり方や、「疑わしきは被告人の利益に」といった近代刑事訴訟法の鉄則が弛緩させられはしないかという点である。
 例えば、事実認定のボーダーラインについても、民事事件では「証拠の優越」、刑事事件では「合理的な疑いを入れない程度」と言われ、やはり、刑事事件の方が民事事件よりは幾分かは厳格であると考えられているが、将来、これが民事事件も刑事事件も同じような基準で考えられるようにならないとも限らないのである。

 したがって、やはり、刑事事件と民事事件との間で大きな違いがあることを前提として、あくまでも被疑者・被告人の地位の安定を基調に置きつつ、被害者救済の観点をどのような加味するかを考えていく必要がある。最近では、被害者救済の観点が全面に出過ぎて、従来保障されていた被疑者・被告人の権利自体を制限しようとする動きも出ているように思うが、そのような風潮とそれを利用して被疑者・被告人の権利を制約しようとする新たな立法策動の動きを注視しなければならない。
(2001年1月26日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」2001年2月号の連載記事として執筆されたものに一部修正したものである。

【追記】(2001年3月1日記)
 この事件で、横浜地方検察庁は、2月7日、民事責任が認められた男性を放火と殺人の容疑で逮捕した。既に、マスコミによっては顔写真等を報道しているメディアも現れている。

【判決を読む】
大手企業女性従業員殺人事件における控訴審での逆転有罪判決から考える

  12月22日、大手企業の女性従業員が殺害され、現金が奪われた事件で(マスコミでは「東京電力OL殺人事件」と呼ばれているが私はあえてそのような事件名は使用しない)、強盗殺人罪に問われ、第1審判決で無罪判決を受けていたネパール人男性に対して、東京高裁(高木俊夫裁判長)は、「被告が犯行に及んだことは十分証明され、合理的な疑いは生じない。1審判決は証拠評価を誤り事実誤認をした」と述べて無罪判決を破棄、無期懲役を言い渡す逆転有罪判決をした。弁護側は直ちに上告した。

 控訴審において、検察側は1審判決を覆すだけの新たな証拠を何ら提出することができずに5回の公判が開かれただけで結審していた(佐野眞一「『被告ゴビンダ』無罪の日」『新潮45』1月号参照)
 この裁判では、当初から直接証拠が存在せず、被告人も一貫して犯行を否認していたことから、第一審から控訴審を通じて、情況証拠により事実を認定することができるかどうかが最大の争点となっていた。

 控訴審判決で高木裁判長は、(1)日々の行動を記載した被害者の手帳は非常に正確で、これと合致しない被告の弁解は信用できない、(2)犯行現場の部屋の鍵は犯行の際には被告が持っていたことが認められ、犯行前に管理者に返したという被告側の主張はおかしいと検察側の主張に沿う判断をし、「被告人が本件強盗殺人の犯行に及んだことについては十分な証明がされており、合理的な疑いを生じない。原判決が本件強盗殺人につき被告人を無罪としたのは証拠の評価を誤り、ひいては事実を誤認したものといわなければならない。」と述べて一審判決を破棄し、「犯行の結果は重大。否認して不合理な弁解をしている被告の刑事責任は相当に重い」として、検察側の求刑通り、無期懲役刑を言い渡した。

 今回の高木裁判長による判決については、「情況証拠による事実認定」に対する基本的哲学の問題があると痛感する。
 これは、例えば、「ロス疑惑銃撃事件」の保険金殺人事件につき無罪判決をした東京高裁平成10年7月1日判決(判例時報1655号1頁)において、秋山規雄裁判長が、「中核となる要証事実について、質の高い情況証拠による立証が不可欠とされることは、刑事責任の帰属に関するという事柄の性質上当然である。だから…合理的な疑いを入れる余地のない立証がされたとはいえないと判断されるときには、その人物が第六感的感覚からはいかに疑わしいと感じられ、あるいは実際に証拠の一部に疑わしい点が認められても、それがまだ疑わしいとの域にとどまっている限り、刑事裁判の性質上、有罪の認定をすることはできないし、その旨判断することにはばかるところがあってはならない。」と述べていたところと、今回の高木裁判長による判決とは、根本的に異なるスタンスに立っていると言わざるを得ない。

  それにしても、このような基本的哲学を異にする裁判官が両方存在し、そのいずれの哲学に立つ裁判官がその事件を担当するかによって結論が左右されるというのは、司法制度の権威という観点から見ても到底納得できるものではない。そのような裁判は、けっして「公平」でも「平等」ではないと言わなければならない。
 この判決を報じた新聞に掲載された識者のコメントは判決を評価する者としない者様々である(ただ、元検察官、元裁判官は肯定的であるという特徴がある)。
 ただ、佐野眞一氏が、「こんなことを認めたら、裁判は暗黒時代になってしまう」とコメントしているのが(産経新聞に寄せられたコメント)、一般市民の感覚としては最も納得できるところであろう。

 ところで、私が今回の判決結果を見て改めて痛感したのは、このような事実認定の問題もさることながら、戦後、アメリカ流の憲法及び刑事訴訟法を導入したにもかかわらず検察官控訴を全く疑ってこなかったという弁護士の責任についてである。

 英米法では、「二重の危険」禁止原則を持っている。これは、一度、手続的苦痛を受けた者は二度と同じ手続的負担を受けないという考え方であり、これを根拠に、伝統的に検察官上訴は禁止されてきた。それは、訴追側は、被告側の反証の厳しさと自らの証拠的基礎の弱さについて前の公判審理で思い知らされているために不当に優位に立つ危険性があり、しかも、たとえ誤って無罪が下されたのだとしても、訴追側がその優越的な物的・人的資源を投入して被告人を疲弊させ、それにより、「無辜であってさえ、有罪を言い渡される可能性をいや増すことになる」という危険性が大きいというという考え方に基づいている(高田昭正『刑事訴訟の構造と救済』206頁)。アメリカではO・J・シンプソンが1審で無罪になり確定したことがまだ記憶に新しい。

 日本国憲法39条が「…既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」と規定しているのは、アメリカの「二重の危険」禁止を取り入れたものとされている(日本国憲法39条の英文訳にはdouble jeopardyという「二重の危険」そのものを表現する単語がある)。
  ところが、この二重の危険につき、アメリカとは異なって、我が国の最高裁判所は「同一の事件においては、訴訟手続の開始から終末に至るまでの継続的状態と見るを相当とする。されば、一審の手続も控訴審の手続もまた、上告審のそれも同じ事件においては、継続せる一つの危険の各部分たるにすぎない」として検察官上訴を合憲と判断している(最高裁判所昭和25年9月27日刑集4巻9号1805頁)
 しかしながら、これは「危険」すなわち被告人に対する手続的負担や苦痛に対する理解としては極めて不十分であると言わなければならない。圧倒的な権力と動員力を有する警察・検察権力に上訴する権限を与えたら、被告人はひとたまりもないはずである。その違いが全く理解されていない。したがって、無罪判決を受けた時点で一つの「危険」が発生したと解すべきである。最近の刑事訴訟法研究者も、検察官上訴は憲法39条に違反すると主張している(白取祐司『刑事訴訟法』379頁、田口守一『刑事訴訟法〔第2版〕』367頁)

 ただ、私が残念に思うのは、戦後、昭和25年の前記最高裁判決が出された後(しかも、右事件は量刑不当に関する事件で、右判示部分は傍論に過ぎなかった)、弁護士の側において検察官上訴が憲法違反であるという形で争うことがほとんどなかったという点である。2度の1審無罪判決に対して検察官が控訴した甲山事件においてですら、そうであった。

 私たちは、今一度、検察官上訴を許している現在の刑事訴訟制度について、根本的な疑問を提起する時が来ているのではないだろうか。今回、無罪判決が検察官控訴により逆転有罪判決になった事実を前に、改めて痛感されてならない。
(2000年12月23日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」2001年1月号の連載記事として執筆されたものに一部加筆訂正したものである。

自民党内「政変」劇をどう受け止めるか

 自民党の加藤紘一衆議院議員が、「森総理大臣に次の組閣はやらせない」と「宣言」し、国民の七五%もが支持しない森内閣について簡単に否決できないとして、野党が提出する内閣不信任案の審議に際して欠席することを明言するようになったことから、自民党の内部からの「変革」の動きとしてマスコミの注目を集めるようになった。やがて、加藤議員は、山崎拓議員とも連携し、終盤においては、野党が提出する内閣不信任案に対して「賛成」する意向を表明するに至って、政局は一気に「政変」の可能性が出るようになり、多くの市民たちは、内閣不信任案の提出を固唾を飲んで見守った。

 11月20日夜には、野党から内閣不信任案が提出され、多くの市民は、国会の審議をテレビ中継を通して見るために、足早に帰宅するなど、久しぶりに国会中継に多くの市民たちの目が一斉に注がれた。それは、ひょっとしたら、内閣不信任案が可決されて、日本の政治が大きく変わるのではないかという一縷の希望を感じたからであった。

 ところが、加藤議員は、土壇場になって、内閣不信任案に賛成しても可決できる見込みがないことが明らかになったとして、国会での内閣不信任案の審議の前に、「賛成」から「欠席」に方針を転換し、事実上の「敗北」宣言をして「逃走」した。

 これによって、国会に提出された野党の内閣不信任案は否決されることが確実となり、野党にとっては、まさに「梯子をはずされた」状態となり、保守党の松浪議員によるコップの水を野党議員にぶっかけるという不祥事以外には見るべきものはなくなり、国会審議自体は深夜遅くまで続いたが、結局、あっけなく与党三党により内閣不信任案は否決されて終わってしまった。

 多くの市民は、「加藤議員は情けない」、「喧嘩のやり方を知らない」などと失望感を顕わにし、政治が変わるのではないかとの希望が裏切られたことを感じた。これが、自民党「政変」劇の顛末である。

 私たちは、今回のこの「政変」劇を、果たしてどのように受け止めるべきなのであろうか。

 加藤議員の行動を批判することはたやすい。しかし、私たちは、加藤議員が、政治を変えてくれると一瞬なりとも、期待したことは事実である。それは、自民党という現在の日本の権力構造の中心政党に、まだ自浄能力があり、自己変革する可能性があると信じていた面があったからではないだろうか。その意味では、私たち市民は、他者に「依存」し、誰かが、日本の現在の腐敗しきった政治状況を「変えてくれる」と思っていたのではないだろうか。今回の「政変」劇は、結局、自民党にはそのような自浄能力などなくなっているという現実を私たちの前に見せてくれた。私たちが、「甘え」ることができない存在であることが明らかとなったのである。

 また、野党もあまりにも情けない対応であった。一部には、二〇日ではなく、一七日に野党が内閣不信任案を提出していれば、加藤派議員が取り崩されるようなことはなく、内閣不信任案が可決されていたのではないか、との意見もある。

 それにしても、野党は、終始、加藤議員の動向に振り回され、加藤議員たちの行動に「依存」して、自らが今の腐敗しきった政治状況を変えようという展望や戦略を何ら持つことなく、受動的な立場に甘んじてしまっていた。

 したがって、今回の顛末を見た市民の多くは、もはや、日本における政党に対して、何の期待や魅力を持てなくなってしまったのではないか。長野県知事選挙以降、「無党派」層による選挙の勝利が続いているが、いずれの選挙も、必ずしも投票率が高くなくても、「無党派」層の候補が当選するという状況が生まれている。

 これまでにはなかった市民の政治に対する姿勢について、新しい流れを強く感じる。その意味では、今回の「政変」劇は、市民に対して、日本の政党が「死んだ」ことを強く印象づけたという意味で、決して無駄ではなかったとも言える。加藤議員は最後まで自民党から離党することを躊躇し、結局、「組織」を破壊してでも、腐敗した現在の政治状況を変えようという勇気を持てないことが致命傷になった。今の日本においては、「組織」があまりにも強くなり、「組織」の中で異議申立をすること自体が抑圧されている状況が生まれている。今回の「政変」劇は、日本の「組織」が硬直化し、組織存続を「自己目的」化して、異議申立をする者を徹底的に抑圧されるものであることを、私たち市民に対して、分かりやすい形で見せてくれたと言えるだろう。

 情報公開時代にあっても、なかなか見ることができなかった自民党の本質が、加藤議員の行動の結果、市民に対してあぶり出され、公開されるに至ったことはある意味で皮肉ではあるが、有意義であったと言える。

 今回の「政変」劇は、私たちに対して、現在の硬直した政治状況や抑圧される「組織」を「変革」するために何をなすべきかということを示唆してくれている。私たちが、そこから何を学び、それをどう実行すべきかが問われている。

(2000年11月29日記)
*これは、救援連絡センターの機関紙「救援」12月号の連載記事として執筆されたものに一部加筆訂正したものである。

英国人女性失踪事件における「別件」逮捕とその報道の問題点

 本年10月中旬に警視庁麻布警察署が、ある男性を、カナダ人女性への準強制わいせつ事件で逮捕した直後から、その男性が、本年7月に失踪した英国人女性の失踪に関係があるかのように大々的に報道されて現在に至っている。
 本年10月27日には、東京地方検察庁は、その男性を準強姦罪として東京地方裁判所に起訴し、同日、警視庁麻布警察署は別の準強姦容疑でその男性を再逮捕して、勾留されている。
 しかしながら、その男性が、現在身柄拘束される理由となっている事件も、英国人女性の失踪に関する事件ではなく、全く別の女性に関する事件である。

 ところが、マスコミ報道では、最初の逮捕以後、その男性について、英国人女性の失踪との関係をクローズアップして報道してきた。そして、その男性の出生に始まり、これまでの経歴や経営している会社についての資産や負債の状況などを事細かく報道して、そのプライバシーを洗いざらい報道するようになっている。
 また、その男性が、英国人女性の失踪事件について何も供述しようとしていないことが「何も反省していない」態度であるかのように報道され、一般市民からすれば、既にその男性が英国人女性の失踪に関わっている犯人であるに違いないという強い印象を植え付けられるに至っているのである。

 男性に対する逮捕や再逮捕のやり方は、典型的な「別件逮捕」の手法である。「別件逮捕」というのは、警察が本当に立件したい重い犯罪についての自白を獲得したり、捜査の時間を稼ぐために、それよりも軽い犯罪でまず逮捕・勾留し、その後、「本件」で逮捕・勾留するという手法である。この方法によれば、通常、1つの犯罪について認められる最大の勾留期間である20日間を、軽い犯罪についての逮捕・勾留を何度も繰り返すことによって、事実上何倍にでもできるものであり、過去の冤罪事件においても、その「別件逮捕」を利用して何百日も逮捕・勾留して、最終的に、嘘の自白をとられたというケースが何件もあるのである。
 このような「別件逮捕」は、1つの犯罪についての身柄拘束期間を法律で制限した趣旨を脱法するもので違法であり許されないというのが刑事訴訟法学者の多数意見である。しかし、それにもかかわらず、警察や検察庁の実務においては、実際には多用されている手法なのである。

 この「別件逮捕」という手法が、今回の事件についてもとられていることは明白である。さらに、男性逮捕直後に、その男性の立ち回り先に対して、警察犬を使って大がかりな捜索を行い、場所によっては、土中をスコップで掘り起こしながら、徹底的に捜索を行ったことが報道されたが、これも、本来の捜索の範囲を逸脱して、英国人女性の失踪に関係する証拠はないかと探す捜索であり、「別件捜索」であることは明らかであった。そのことは、例えば、読売新聞が、この捜索について「同課はルーシーさんにつながる手掛かりの発見を目指している」と書いているように(Yomiuri ON-LINE 10月14日)、まさに、捜索許可状の根拠となっている事件とは別の事件(本件である英国人女性失踪事件)のための捜索を行っていたのである。

 ところが、マスコミ報道では、警察のこのような捜査手法に対して疑問を投げかける報道は全く見当たらない。それどころか、最初に述べたように、むしろ警察の発表やリーク情報(特定の会社や記者だけに情報提供することをリークという)と思われる報道が続いている。現在のマスコミ報道を見ていると、かつての「ロス疑惑」報道を彷彿とさせるような集中豪雨的な報道が続いているとしか言えないのである。

 今回の事件については、確かに「猟奇事件」的な面があって、読者や視聴者の興味をひきやすい事件という面を持っていることや、政治問題化した英国人女性の失踪との関連があることから、マスコミがこぞって大々的に報道している側面がある。もはや、テレビや週刊誌に至っては、興味本位でこの事件を取り上げ、面白可笑しく報道するようになっており、この事件を「商品」化して扱っているとしか思えない。

 最近では、マスコミ報道でも、「英国人女性失踪事件についての捜査は長期化する見通し」などと警察情報をタレ流し、「別件逮捕」によって、逮捕された男性が長期間身柄拘束されるの違法性に目をつむり、警察の違法な捜査や取調べを黙認し、犯人視報道を続けるばかりである。勘ぐれば、この事件の報道を大々的に行うことで、政治や経済の問題を隠す効果すら狙っているのではないかと思われる程である。

 何度も繰り返すが、現在身柄拘束されている男性は、英国人女性失踪事件との関係ではまだ逮捕もされていない人物である。逮捕もされていないという点では、「無罪の推定」以前の段階とでも言うべき段階にある。

 ところが、この事件についての現在のマスコミの報道のあり方は、既に、この男性に、英国人女性失踪事件の犯人であるというレッテルを貼り、「有罪判決」を下しているに等しい。まさに、異常という他ない。このような報道が続く限り、冤罪はなくならないし、新たな冤罪が生まれる可能性を大きくするだけだと言わなければならない。

 今回の事件は、マスコミ報道において、また、1つの汚点を残す歴史を作ろうとしていることに注目しなければならない。
(2000年11月8日記)
(参考サイト)
 大住良太「メディアの辺境地帯」
  http://www.aurora.dti.ne.jp/~osumi/d-latest.html#18-2

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