「ランク」と「カルト」と「情報起業」
本日は、「プロセス指向心理学」の開祖、アーノルド・ミンデルの「自分さがしの瞑想―ひとりで始めるプロセスワーク」を読了。
ユング心理学をベースに、量子力学、老荘思想、仏教、シャーマニズム、各種心理療法等を縦横無尽に駆使し、従来の心理学の枠を越えて、組織や共同体の集合無意識や地球環境までを視野に入れた議論は非常に楽しいです(笑)
特に、ユングの「シンクロニシティ」概念を拡張し、予兆や虫の知らせと言った現象を、「ワールド・チャンネル」という形で定式化し、メッセージを受動的に受け取るだけでなく、自分から積極的に世界の流れに関わる「ワールド・ワーク」という方法論は、その是非はともかくとして、非常に画期的なアイデアだと思います。
個人的には、西洋受けする老荘思想やシャーマニズム等だけでなく、オカルトや呪術の暗黒面にまで踏み込んだ分析をして欲しいところですが、さすがに一般向けの書籍でそこまで書くのは無理なのでしょう・・・(苦笑)
さて、本日は、「ランク」と「カルト」と「情報起業」について。
以前にも書きましたが、「トラウマとルサンチマンの嵐」も、「夏の聖地巡礼」によって、色々と発散・充電し
たため、完全に回復しました(笑)
ただ、残念ですが、「元通り」という訳にはいきません。今回は、その辺の「心境の変化」の理由についてです。
私にとって、「多読」という「学習法」は、非常に画期的なものでした。社会人となり、細々と読書を続けていたものの、長年染み付いた
「語学に対する苦手意識」
は根強く、なかなか学生時代のように外国語の書籍に挑戦しようと言う意欲が湧かなかったからです。
ところが、「多読」によって、「英語が読めるようになる」ことを皮切りに、独語や西語が少しずつ読めるようになり、仏語にまで挑戦しはじめるくらい、そのような苦手意識は払拭されました。
しかし、「多読」に関して、冷静に考えた結果、
「痘痕も笑窪」
よろしく、今までは、「敢えて気づかないようにしていた」
『多読普及方法』の問題性
『多読実践者集団』の閉鎖性
『多読普及運動を利用する商業主義』の欺瞞性
が、「鼻につく」ようにならざるを得ませんでした(苦笑)
そもそも、私のSSSの掲示板に対する一連の投稿は、そういった問題点を少しでも是正するべく行ったものなのですが、私の力が及ばなかったため、私が見る限りでは、改善の兆しはほとんど見られません・・・
ですから、多くの「多読実践者」並びに「多読普及運動の運営者」を「敵に回す」ことは十分覚悟の上で、敢えて、
「苦言を提する」
ことにします。
と言うのも、改正著作権法の施行期日が迫っていますし、多読という方法論が認知され始めているが故の問題が出始めているように見受けられるからです。
このまま放置すると、「善意の多読実践者」の方々にまで、様々なトラブルが波及する恐れがあり、私としても看過することはできません。
では、「苦言」の前に、「昔話」を一つ。
大学時代、私は「西洋古典研究会」に所属していました。また、主専攻が宗教学、副専攻が哲学だったため、人文系の研究をする学生にそれなりに名前を知られていました。
そのせいかどうか知りませんが、「秀才」や「天才」と言った「猛獣」だけでなく、「新興宗教の勧誘者」なんかも寄って来るのが常でした・・・(爆)
大抵は、「知識や論理」という「凶器」をちらつかせると退散してくれましたが、中には、しつこく私を論破しようと、あるいは勧誘しようと無駄な努力を繰り返す人たちが居ました。
その代表の一つが、「インド哲学の教授」を「顧問」とする「インド哲学研究会」の人たちです。
(ちなみに、もう一つの代表は、「創●学会」系学生を中心に組織された、「東洋哲学研究会」の人たちでした(苦笑))
元々、彼らと縁が出来たのは、その「教授」の「インド思想史」の授業で一緒になったことがきっかけです。
私が仏教やインド哲学に興味があることを知った彼らは、「インド哲学の素晴らしさ」や「教授の学識の深さ」を熱心に述べ、「インド哲学研究会」に入るよう、しつこく勧誘してきました。
しかし、彼らの言葉は、私には到底納得できるものではありませんでした。
例えば、
「インド哲学は、他の哲学と比べて、具体的に何処がどういう風に優れているのか?」
と、私が質問したとします。
そうすると、
「君も研究会に入って、一緒に学んでみれば分かる」
と繰り返すだけで、まともな答えが返ってくることはありません。
そのくせ、
「西洋哲学は、ここが間違っている」
「中国哲学は、この点でインド哲学に劣っている」
と、他の哲学への悪口は凄まじいものでした。
おまけに、その「悪口」は、往々にして、彼らの「無知」か「誤解」によるものがほとんどだったのです。
仮に、私がそのことを指摘すると、
「君の方こそ間違っている」
と「逆ギレ」されることがほとんどでした。
はっきり言って、こういう「反応」は、「宗教学」を専攻する私には、
「非常に馴染み深いもの」
でした。
何故なら、宗派を問わず、所謂、「原理主義」と呼ばれる「宗教運動」における
「狂信的信者の典型的反応」
と全く同じだからです(苦笑)
彼らの理屈は非常に似通っていて、
1 自分たちの信じる「教義」こそ「絶対的真理」である。
2 「絶対的真理」を保有する自分たちは「他の人間よりも『ランク』が高い」。
3 「絶対的真理」を知らない「『ランク』が低い人間」は侮蔑しても良い。
という「醜悪な『選民思想』」に凝り固まっています。
恐らく、彼らが信じる「絶対的真理」を受け入れられない私は、
「彼らより『ランク』が低い人間」
であるため、
「私の述べることは、『まともに取り合わなくても良い』」
と信じきっていたのでしょう。
実際、彼らの「無知」や「誤解」は、彼らが「絶対的真理」だと信じる「インド哲学」にも多く見られたのですが、私の指摘がまともに取り合われたことはありません。
しかも、「インド哲学の教授」を「カリスマ教祖」とする「原理主義者集団」として、「インド哲学研究会」はどんどん「カルト」化して行きました。
私が見る限り、「インド哲学の教授」は、「世間知らずの学者」でしかなく、無邪気に「インド哲学の素晴らしさ」を説いているだけでした。
ただ、彼の取り巻きの中に、その無邪気さを悪用し、その「権威」を利用して、
「権力を乱用する不心得者」
が何人か居ました。
典型的なのは、「幸福の科学」が教勢を拡大した方法論と全く同じです。
ちなみに、現在、アメリカから
「情報起業」という「もっともらしいビジネス・モデル」
として導入されつつあるものも、これと全く同じです。
要は、
1 「カリスマ教祖」を作り、
2 「教祖の著作」を定期的に刊行し、
3 関連著作を含め、信者に大量に本を買わせる
ことで、「印税や手数料で荒稼ぎする」という、
「霊感商法を洗練させた手法」
です。
実際、「教授の著作」だけでなく、「インド哲学の専門書」や「胡散臭いヨーガ教本」まで入会者に買わせていて、その仲介手数料だけでもかなりの収入になっているようでした。
中には、「教授との共著」と言う形で、印税までちゃっかり手に入れる「悪知恵の働く者」も居ました。
後輩に頼まれて、「脱洗脳」を何人か試みましたが、既に手遅れに近い状態だったため、全員を脱会させることはできませんでした・・・
さて、頭を冷やして、現在の「多読」に関わる動向を見ると、「インド哲学研究会」と非常に良く似た動きが見られます。
「多読三原則」を「絶対視」し、他の学習法を頭から否定する人
数百万語を読み、後は自分のやり方で英語と関われば良いのに、多読に固執する人
「著作権」を無視し、本やCD・DVDを大っぴらに貸し借りする人
「自分の好きな本を自由に読むこと」ではなく、「多読セットの購入」を熱心に薦める人
「自分で本を選ぶ方法を教える」のではなく、手数料の入る書評から選ぶことを薦める人
勿論、これらの人々全てが「悪意を持っている」などと主張する気はありません。
恐らく、ほとんどの人は「善意の多読実践者」であり、これらの行為も
「多読を普及したいという善意溢れる動機」
によるものなのでしょう。
しかし、
「善意のつもりで、誰かに踊らされている危険性」
を、警告しなくてはならないほど、
「事態は悪化している」
というのが、私の認識です。
この論考が、「無知」や「悪意」が招き寄せつつある「トラブル」から、
「多読」という「学習法の可能性」と、
「善意の多読実践者」を、
救い出す一助となれば幸いです。
Comments
慈幻さん、こんにちは。
慈幻さんが紹介してくれる本とそのコメントはとても興味深く読んでおります。
しかし最近必ずSSS批判がその後にくっついていますね。
もし本当に「救い出したい」と思うなら、自分のブログにこうやって書くだけでは無理なのではないでしょうか。多読をしている人たちの中でこのブログを読んでいる人がどれだけいるでしょうか。
結局自分のブログでいくら心置きなく自説を展開してみたところでそれは自己満足に終わるだけです。もし本当にSSSにまずいところがあると思うなら、SSSのHPへ行って掲示板に書くなり議論を提示するなりしてみてはいかがでしょう。
SSS批判が自分の言いたいことを書いた「ついで」のものなら私も見過ごしておきます。しかし批判はずっと続いています。しかも私から見ますと、確かに当たっている部分もありますが、一部を見て全部を批判しているようだったり、的外れだったり、悪く解釈しすぎでは、と思うところが多々あります。たとえば、多読三原則に「つまらなかったら投げる」というのがありますので、無理に本を勧めるというのは多読法に反した行為です。それをする人がいたとしたら、それを即SSS多読法に対する批判に結びつけるのは間違っていると思います。こういうブログをずっと書き続けるのは感心できません。
確かに掲示板には書きにくいかもしれません。批判を書いたらカルト集団よろしく反論が続々ついて相手にするのが大変かもしれません。しかしカルトのようにひたすらSSSを妄信してかみついてくるような投稿は軽く流して、きちんと反論する人にだけ真剣に返答すればいいんです。
「トラウマとルサンチマン」が「治りました」ということですが、わざわざ書くということはむしろ「今まで引きずっていたのか」ということを表しているようなものですね。慈幻さんが盛んにSSS批判を繰り返しているのは、掲示板で傷ついたことをひきずっているからではないのですか。
慈幻さんのSSS批判は確かにある面では当たっている部分もありますが、悪い面を拡大解釈した過剰批判になっているように見えます。もし一連の批判がトラウマと何の関係もないのなら、そして本当にSSS多読法が事態が悪化しているのを警告したいと思うなら、SSSのHPにやってきてもいいのではないですか?
多読の「その先」を考えるのはいいことです。多読をして英語が読めるようになった、しかしそれからどうするか…。多読以外のことに目を向ける提案はこの先もっと必要になってくるでしょう。しかしそれは多読を切り捨ててしまうのではなく、多読の延長であるものです。多読法を批判して、切り捨ててしまっていいとは思えません。
さらに多読の「その先」に行かない人がいてもいいと思います。英語の本を読んで楽しかったらそれでいいんですから。特に日常英語に触れる機会がまったくなくて、単にばくぜんと「英語ができたらいいな」だけで始めるような人は、多読で英語の本がある程度読めるようになったら満足するということもあるのではないでしょうか。
Posted by: 杏樹 | October 02, 2005 at 01:39 AM
優香です。
杏樹さ~ん。お久しぶりです。
あのですね、SSSの掲示板で今SSSに苦言を呈する書き込みをすると、本気で収集がつきませんよ(汗)
つい最近、また過去の因縁らしきものが勃発したところですし、今なにかSSSに意見を出しても、それとひとくくりにされて「SSSに恐怖心を抱いている教育者のたわごと」という決め付けをされて終わりだと思います。
実は多読学会のMLで、違法コピー等に関してきちんと資料を添付して意見を出した方がいらしたのですが、それも現在に至りずっと黙殺されています。
わたしの意見が黙殺されるのはもうだいぶ前からの事なのですが、他の方でも、「痛い」指摘、「都合の悪い」意見に対しては完全無視、もしくは集中砲火の路線が出来上がりつつあります。
わたしへの嫌がらせも相変わらず続いていますしね(涙)
どんなメールがどれだけ来ていて、こちらの心理状態がどうなっているのが、お見せできるモンならお見せしたいです。
流せばいいといわれても、流す相手をするの判断をする労力をわざわざかけるだけの価値があるのかな、と思うのですね。
「キチガイ」とか「虚言癖」とか言われてるんですよ、わたし。
ついでにいうと、自分のブログで何を書こうと、それは個人の自由であり、どんな意見を持とうと、それも個人の自由です。
それに同意、反論するのも個人の自由ですし、読むのが不愉快なら読まなきゃいいだけだと思います。
ついでに言うと、慈幻さんは多読を否定はしてないと思います。
ただ、今のSSSのあり方は、そのうち改正著作権法にもひっかかりそうだし、なんていうか、「ガンが治る」をうたい文句にしてキノコ売ってる健康食品会社の二の舞みたいになっちゃわないかと思ってるんだろうな、とわたしは思ってます。
(まあ、わたしがそう思ってるだけですけどね)
ただ、今はなにを言ってもだれも聞く耳持たない(もしくは、聞く耳持つ人より、攻撃してくる人のが多そう)だから、読む気のある人にだけ苦言を発信して、言いたいことをつめて、時期を見て意見表明するのも、それはそれでひとつのやり方なんじゃないかと思うのです。
相変わらず支離滅裂な文章ですみません。。。
ちなみに、書いてることは「わたし」がそうなんじゃないかと思ってるだけで、慈幻さんが同思ってるかはわかりません。
ただ、みんな仲良くしよ~よ、と。
あんまり、ぎすぎすしたくないです。わたしは。
Posted by: 優香 | October 05, 2005 at 06:42 PM
杏樹さん、優香さん、こんにちは~。
私は、お二人の意見、どちらも分かる気がします。
ただ、今、誰かが掲示板にどんな意見を投稿したとしても
聞く耳はもたないでしょうし、それがSSSの弱点だなというのが
この3年間、私が見てきて思っていることです。
なぜか、ある事、ある人に関してだけ、突然スイッチが入ってしまうようで。
人を非難するのなら、せめて同一人物である証拠を揃えるようには
したらいいのでは・・・という意見も無視されたまま。
感情的に、都合の悪い意見は、全て同一人物から発せられていると
決めつけてしまっているのは、どうしたっていただけません。
普段はもっとおおらかに意見交換できるのに
ヒステリックな排他に変わってしまうのは、
正直、もう見たくはないなー、スタッフは気づいて欲しいなーと思っています。
ただ本や英語を楽しんだりしたいだけなのになぁ。
ギスギスした気持ちで接していたら、英語だって人だって
遠くへ行っちゃうように思うんだけれど・・・。
時々関西へ遊びに行っているので、優香さんがお暇だったら
みんなでご飯でもお茶でもしましょ~。ではでは。
Posted by: ひまわり | October 06, 2005 at 10:21 AM
優香さん、ひまちゃん、こんにちは。
例の「祭り」で取り上げられた人物について、過去ログが復活してたので見てきました。ああいう人が本当に「悪意のある人」なんだと思います。
悪意があるわけではないのにもつれてしまうことがあるのは、多分楽しくなごやかな掲示板にしたい、と思うあまり、厳しい意見やもめごとになりそうな気配を感じるとそれを封じ込めようとする力が働くのかもしれません。
でも「仲良しクラブ」ではいたくないという発言が出るあたり、疑問に思っている人はいると思うんです。冷静な議論なら参加する人もいるのではないかと思うのですが。
議論についてはガイドラインにもありまして、司会進行役を介して行うことが示されています。最初から「議論します」と明言して行えば感情的にもつれてしまうことが防げるのでは。
・・・結局私が本当に司会進行役を介した議論と言うものが掲示板で成り立つものかどうか見てみたいというのがあるのかもしれません。それが成り立つようなら、もっといろいろな意見も言いやすくなるのではないかと思います。
じゃあ、オマエがやれば、と言われるかもしれませんが、私のほうからはそこまで議論するほどの議案が今のところありませんので。
Posted by: 杏樹 | October 06, 2005 at 11:57 PM
杏樹さん、おはよーございますー。
あの過去ログの人と、その後同一人物と一方的に攻撃されてきている人達が
果たして本当に同じ人なのかは、実は分かっていません。
IPアドレスすら照合せず、ごくごく普通の質問をしてきた人でも
同一人物だとして攻撃を始めてしまうんです。
悪意のある、なし以前に、新しい方法を打ち出したとしたら
その信頼性を検証するために、否定的な突き合わせをしていくことは
ごくごく普通のことであって、それに関して感情的な反応をするのは
理系の私としては、とてもとても不思議なことだったりします。
議論をする・・・と今まで言ってきても、盲信している人達を相手に
アウェイの地で言葉を交わそうとすると、あんな感じになってしまうのは
それは仕方がないのではないのかなぁと思うのです。
よその教会へ飛び込んで、私はこう思うけれど、どう?と発言しただけで
本当にただ疑問に思っていただけだとしても、それは大きな波紋となって
その教会の人達を襲っていくことになりますから。
私個人としては、ああいう議論はタドキストの目のふれない場所で
スタッフとその人達で語って欲しいなと思っています。
英語にコンプレックスがあり、まだ確固たるスタンスのできていない人達には
ああいう言い合いが行われているというだけで動揺するでしょうし
英語学習には絶対にいい影響を与えはしません。
学校英語への反感が、別な学習法をする人達への反感へと
無意識のうちに、すり代わっていってるように、私には思えます。
そして、私は楽しくやっていれば楽しく身に付くをモットーとするのならば
仲良しクラブでいいというか、仲良しクラブであり続けて欲しいって思ってます。
でも、私の感覚ってちょっと変らしいので、同意してくれる人はいないかも。
ではでは~。
Posted by: ひまわり | October 07, 2005 at 09:33 AM
ひまちゃん、こんにちは。
私も仲良く楽しい掲示板だったらな、と思います。でもそのために異質なものに対してヒステリックに排除する方向へ走ってしまうのが問題だと思います。
例の人物はSSS側の応対もお粗末ですが、本人がSSS多読を否定して攻撃することが目的なのが明らかですので、それに対しては撃退するという対応になるのは無理もないと思います。
でも慈幻さんは多読の効用は認めていますし、ご自分もその効果を体感しています。そういった人まで排除されてしまうのは残念です。
Posted by: 杏樹 | October 07, 2005 at 11:48 PM
杏樹さん、こんにちは~。
今日は午後までお仕事です。はー。
多読は「読む」を強化することに、おそらく誰も異論はないでしょう。でも、「聞く」に関しては、音を全く知らない人達にはそれだけでは効果は薄いと思います。最終目標が英語習得ならば、英語に関することは何でもOKとする位でいいと思っているんです。排他的になるのは、コンプレックスの裏返しなのでしょうか。
慈幻さんをはじめ、顔見知りの人達の否定的な意見は、積極的にSSSはくみ取るべきだと思います。掲示板は仲良しグループでもいいけれど、指導者達は自分たちの方法論をきちんと確立させるためにも、感情的な撃退ではなく、説き伏せて始めさせる位の説得力をもったデータを提出するべきです。文系の学問の弱さって、そういう所にあるのかなって思います。
Posted by: ひまわり | October 08, 2005 at 01:38 PM
古川です。
優香さんへ
古川@多読学会事務局 です。
実は多読学会のMLで、違法コピー等に関してきちんと資料を添付して意見を出した方がいらしたのですが、それも現在に至りずっと黙殺されています。
この発言は事実に反しているかと思います。
また、優香さんも、慈幻さんも、多読学会の
会員でもあるのですから、意見があれば
どうぞ遠慮なく、MLに投稿されることをおすすめします。
ちなみに、私は、「多読原理主義」ではないですよ。そんな人はほとんどいないと思いますが。なお、この掲示板にはめったにこないと
思いますので、この返信には返信できないかもしれません。それでは。
Posted by: 古川昭夫 | October 31, 2005 at 03:42 AM
訂正です。
また、優香さんは、多読学会の
会員でもあるのですから、意見があれば
どうぞ遠慮なく、MLに投稿されることをおすすめします。
に訂正します。
#慈幻さんは、多読学会の研究会にでられた
ことはありますが、会員ではありませんでしたね。すみません。
Posted by: 古川昭夫 | October 31, 2005 at 01:40 PM