小論文の練習も兼ねて、初めてお前らに教えてやろうと思う。
私が3歳くらいのときに母親が肺結核で入院していた。今も何かと体調を崩し、年2回のフォローを受け続けている。
小学生のときにじいちゃんがすい臓がんで死んだ。もう末期とわかっていたのに、開腹して何もできず閉じた最後のオペだけはいまだに納得できていない。
いつだか忘れたけどおじさんが脳出血か脳梗塞で倒れた。今も麻痺が残ってる。
高校のときに別のおじさんが心筋梗塞で死にかけた。高校の文化祭の朝、起きたら家に誰もいなかった。あとで聞いたら夜中に救急搬送されて電気ショック2回で蘇ったらしい。
ばあちゃんも股関節が悪くて数回オペしてる。今は認知症で施設にいる。
そこそこ元気だった父親も足の怪我で歩けなくなって来月2回目のオペ。
そんな病人怪我人が多い家系だったので、小さいころからそういう世界に興味はあったんだと思う。
一人っ子で母親も家にいなかったこともあり、バブちゃん的な人形に赤ペンで怪我をさせて包帯を巻いてあげるという一人遊びをして楽しんでいた。おかげでうちにある人形は全部血まみれというカオスなことになっていた。
大きくなったら同じようにみんなの病気を治してあげたいと思っていた。
自分もか弱い女の子だったので、風邪ひいたりなんやかんやでしょっちゅう小児科のお世話になったいた。
そして中3のとき、自律神経失調症(診断はこれだった気がする)で入院した。
そのときの看護師の対応がめちゃめちゃ嫌だった。
ご飯が食べられないから入院しているのに、なんで食べないんだと責められる。
心臓が痛いと訴えると、「でもなんでもないから大丈夫」だと言う。それでも痛くて眠れなくてナースステーションまで行くと、めんどくさそうに「湿布でも貼っておけば」と湿布を渡される。
患者の名前も疾患も覚えていない。「えりちゃんはなんで入院してるんだっけ?」と聞かれたときには耳を疑った。
自分が憧れていた世界はこんなところなのかと絶望した。
たぶん自分のネガティブ思考だけが問題ではない。少なくともここに書いたことは事実なわけで。
というか、ネガティブ思考のせいだとしても、そういう患者を相手にする仕事だ。
精神疾患だろうと身体疾患だろうと、患者は様々な苦痛を抱えて病院に行く。
どこかが痛いという身体的苦痛、心細かったり絶望している精神的苦痛、仕事ができない、家族と一緒にいられないという社会的苦痛。疾患の種類や程度はそれぞれであっても、この苦痛だけはすべての患者が感じている。もしくはそれすら感じることができない重篤な患者もたくさんいる。
そんな患者を一番近くで見ているナースがこんな奴らばかりで、患者が救われるはずがない。
このとき私は絶対自分が看護師になってこんな辛い思いをする患者を一人でも少なくしたいと思った。
中3の夏休みくらいに退院して、不登校だった私は毎日学校に行ってそこそこがんばって勉強した。担任に「落ちたら余計落ち込むだろうから」と止められた地元で一番頭のいい高校に入った。
高校でいろいろ勉強するうちに医者になりたい気持ちが強くなったけど、頭が足りないので諦めた。
そんな家庭事情だったので金がなくて国公立以外無理だと言われていたので、国立の医学部看護学科を受けたけど落ちた。仕方ないので滑り止めの国立の看護学校に入った。
入試のときも正直に話した。今の医療に不満があるので、自分が変えてやりたいと言った。今考えると看護学校の教員も全員看護師なわけで、よくそれで取ってくれたなあと思う。
最初は正直モチベーションが低かった。看護学校ってアホみたいに厳しいし、今まで甘やかされて生きてきた自分にとってはキツかった。周りはみんな看護師に夢と希望を抱いている人ばかりで自分はちょっと違っていたし、もともと自分は医学部に入りたかったから、ちょっと馬鹿にしていたかもしれない。
そんなんですから当然落ちこぼれるわけでして。1年のときの成績は散々ですた。
自分の中でちょっと変わったのは、初期の実習で一人の患者さんを受け持ったとき。
詳しいことは書けないが、結果その方は亡くなった。
初めて「患者さんが亡くなる」という出来事を体験した。
こういう世界に入ろうとしているんだから、厳しいのは当然だと思った。
そしてそのときに私が見たのは、自分たちの持っている知識と技術をすべて使ってその患者さんのためにできる限りのことをする看護師たちの姿だった。
もっと勉強しなければいけないと思った。優しさだけで患者は救えない。もっと勉強して、技術の練習をして、自分が患者さんのためにできることを増やすのが一番患者さんのためになるということを学んだ。
そこからはブレなかった。
今まで勉強してなかったツケがあるので苦労したけど、やめたいとは全く思わなかった。
そんなこんなで看護師になった。 おしまい