息を吸う。吐き出す。
頭上でエアコンの送風口につけられたよく判らないヒラヒラな紙が棚引いている。身体に伸し掛かる男の肩越しにそれを眺めながら、深く息を吸い込んだ。突き上げられるタイミングに合わせて、あぁん、とこれ見よがしな喘ぎ声を上げると、息を荒げた男が喜一の腹をより強く抉ってくる。内臓を突かれる感触に、皮膚がぶわっと鳥肌を立てて冷える。凍えた次の瞬間、溶けた熱のように熱せられる。この温度の高低差が気色悪くて、気持ち良い。だけど、まだ上手く慣れることができない。
男の肩にしがみついて、まるで女のような嬌声を咽喉から張り上げる。滲み出た汗で、密着した皮膚がぬるつく。それとも、これはさっき大量にぶちまけたローションのせいだろうか。男がひと際高い唸り声をあげて痙攣してから、喜一の腹の上に突っ伏す。男の頭をゆるゆると指先で撫でながら問い掛ける。
「お客さん、温度さげますかぁ?」
男を腹の中に収めたまま、手探りでエアコンのリモコンを探す。ベッドサイドに転がされたそれを取って眺めると、温度は二十六度に設定されていた。返事を待たずに二度ほど下げる。ピッピッと無機質な機械音が鳴って、エアコンが送風を強くした。
「…後何分残ってる」
荒い息混じりに男が訊ねてくる。軽く時計を眺めてから答える。
「あと十分ですねー」
「一時間延長で」
腹の中に入ったままの男が硬度を取り戻してくる。内腿をきつく掴まれて左右に押し広げられながら、喜一は男の首へと腕を回した。
「あっざーす」
へらっと笑みを返しても、男はにこりともしなかった。まるで喜一には身体しか存在しないみたいに、もう律動を再開させている。ガクガクと身体が揺さぶられるのを感じながら、深く息を吸い込む。そうして、気が狂った鳥みたいな喘ぎ声を唇から溢れさせた。
***
「きいちゃん。アイス食うか?」
「食う!」
四回半に及んだ決戦が終わって休憩室に戻ると、付け睫毛が片方外れた檸檬ちゃんがいた。黄色い半透明のショールを身に付けただけの無防備な格好をして、足が蒸れた臭いのする絨毯にぺたりと座っている。無造作に投げ出された両足には、剥がれかけた蛍光黄色のペディキュアが施されていた。
休憩室に取り付けられた小さな冷蔵庫からハーゲンダッツを取り出すと、ほらと差し出してくれる。喜一の好きなクッキー&クリームだ。アイスの蓋を外して、忙しなくスプーンを突っ込む。
「今日はまだ一人目だろぉ? 結構長くねぇ?」
この店一番のとびきりの美人なのに、檸檬ちゃんはわざと粗雑な男口調で話す。お客さんと二人きりの時は大人しくて清純でそのくせ淫乱な女の子のフリをするから、その反動で気が抜けるとこんな口調になると言う。
「うん。二回も延長してくれたからさぁ」
喘ぎ過ぎてカラカラになった咽喉にアイスの冷たさが染み渡る。うまーい、と間延びした声で言うと、檸檬ちゃんは嬉しそうに目を細めた。檸檬ちゃんはまだ二十一歳だし、喜一よりも三歳も年下なのに、時々喜一の母親みたいに振る舞う。喜一はそんな檸檬ちゃんに自堕落に甘ったれる。檸檬ちゃんは甘えられることに、喜一は甘えることに、たぶん依存してる。
「きいちゃん、可愛いからさぁ。あたしも男だったら食いてぇもん」
「男だったらとか勘弁してよ。俺もともとノンケだし」
「じゃあ、あたしと一発やっか?」
「バレたら、一発で俺のクビちょんぱじゃん」
それじゃなくても、女ばかりの店に男一人特別に置いてもらってるのにさ。不貞腐れたように言うと、檸檬ちゃんはヒヒッと不気味な笑い声をあげた。お菓子やお菓子のクズが散らばったテーブルの上からもう片方の付け睫毛を持ち上げると、それにべたべたと糊を塗りたくった。
「最近肌の調子が悪くてよぉ、つけまが目蓋に貼り付かねぇんだ」
愚痴るみたいにぶつぶつと呟きながら、糊でべたついた付け睫毛を目蓋の上へと貼り付ける。だけど、一瞬は固定された付け睫毛はすぐに目蓋から落ちてしまった。テーブルに貼り付いたしなしなの付け睫毛は、まるでお弁当箱に残ったバランみたいだ。「嗚呼、畜生」と檸檬ちゃんが舌打ちを零す。
「つけたげるよ」
付け睫毛を指先に摘んで、もう片方の手で檸檬ちゃんの顎をそっと持ち上げる。檸檬ちゃんはまるで子供のような眼差しで喜一を見上げてくる。それが少しだけ息苦しかった。
「目、閉じて」
閉じられた目蓋の上にそっと付け睫毛を置く。指先に触れた檸檬ちゃんの目蓋は、吃驚するぐらいカサカサに乾いていた。二十一歳の肌とは思えないぐらいハリを失ってる。性を極限まで一瞬に詰め込む分、風俗嬢の美貌の寿命は短い。だが、その一瞬は果てもなく美しい。殆ど炸裂するように光輝く時があると、喜一は時々思う。
檸檬ちゃんが静かに目を開く。休憩室に取り付けられたパチンコ景品であろう十センチぐらいの鏡を覗き込むと、ニッと悪餓鬼のような笑みを浮かべた。
「おぉ、サンキュー」
まるで子供にするみたいに坊主頭をぐりぐりと撫でられる。その温かいむず痒さに笑い声を零した時、休憩室に取り付けられた電話が甲高い音を立てた。受話器を取ると、愛想のないボーイの声が聞こえた。
「れっちゃん、八番だって」
「おうよ。いっちょ稼いでくっかー」
檸檬ちゃんはググッと伸びをして、ひらりと立ち上がった。長くて細い綺麗な足だ。だけど、内股には柔らかく脂肪がついている。時々、喜一は檸檬ちゃんを抱く男達が羨ましいと思う。だけど、口には出さないし、檸檬ちゃんを抱こうとも思わない。セックスした瞬間に、この穏やかな依存関係は、どろどろと薄汚く粘着いた執着心に変わってしまうと解っているから。
薄いスリッパを履いた檸檬ちゃんが振り返る。小首を傾げた姿が可愛らしい。
「きいちゃん、あがったらホルモン食いに行こうぜ。久々にホルモン汁食いてぇ」
「ホルモン汁?」
「味が濃くってうめぇんだよ。食わしてやっから先帰んなよ」
ビシッと指さされて、促されるように頷く。途端、二十一歳の女の子の顔をして檸檬ちゃんは笑った。
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