談志の戒め 1
今日の誕生日の花は・・・・・キチジョウソウ
花ことばは・・・・・・・・・祝福 吉祥草、学名:Reineckea carnea)はユリ科。
関東から九州、また中国の林内に自生、1属1種。 ヤブランにやや似た穂状花序で茎は紫色、花は白い花被が基部で合生し筒状、果実は赤紫色の液果。 家に植えておいて花が咲くと縁起がよいといわれるので、吉祥。 コチラの↓写真。 宇咲冬男(うさきふゆお・1931(昭和6年)12月〜)
埼玉熊谷市上中条天台宗別格本山常光院に生る。本名:小久保 誠 ・1953年(昭和28年)大正大を経て産経新聞記者。10年で独立。 ・1981年(昭和55年)に企画会社「明広」を閉じ、文筆活動に。 ・1949年(昭和24年)〜1995年(平成7年)まで、「芭蕉語彙」の研究で博士号を持った俳諧「草茎」社主宰の宇田零雨に師事、「俳句」と「現代連句」を学ぶ。 ・1968年(昭和43年)10月に現在の主宰誌「あした」の前身である「梨の芯の会」主宰となり原裕、上田五千石らと「俳句昭和世代の会」を結成。 句集『乾坤』は、印度仏聖地巡礼の句を中心に編んだもの 作家・瀬戸内寂聴尼により角川の『俳句』で 「俳句でこんなにも印度が表現されたのには嫉妬を覚える」 、激賞され、海外旅吟と取組む。 一方、さびれていた座の文学一一言葉のやりとりの楽しさである「連句」の復興に立ち上がる。 ・1997年(平成9年)に中国の日本和歌俳句研究会会長李芒(2000年逝去)訳による
共著で北京の訳林出版社から日本語と中国語の対訳で刊行 ・1998年(平成10年)にドイツのフランクフルト郊外の薔薇の町一一バート・ナウハイム・シュタインフルトの薔薇博物館中庭に同市により日独親善のシンボルとして<薔薇は実に人活き活きと薔薇の町>の句碑が建立された。
暉崚(てるおか)康隆共著『連句の楽しみ』『連句のすすめ』、『現代の連句一実作ノート』『あした 季寄せ−連句必携−』宇咲冬男編著、角 田双柿共編、 『宇咲冬男のヨーロッパの軌跡−俳句連句<連歌>−1990〜2005年−』この本は国会国立図書館の永久保存文化財に指定さる 地球一周の紀行エッセイ『地球の風−港のバラード 101日』 エッセイ『4Bと自転車とお寺』=文芸社刊=小説『白い野道』=鴨台文学=『或る断章』=鴨台文学・改題、群青=掌編小説 『えんぴつこばなし』=俳諧くさくき社<くさ茎>連載。 その他多数。 あした連句会主宰、同人俳誌『あした』監修者 冬山を擬人化し、鈴なりの夜空の満天の星は
神話の星達のロマンであると謳いあげる ダニーボーイを続けて描けてくれた高橋アンカーの粋。 NHKラジオ深夜便高橋淳之アンカー教えるきょうの一句。 山眠る 神話の星が 語りだし
宇咲冬男 星新一や小松左京には現実の冷徹さからファンタジックを持ち夢を語ってくれた
冷徹な学問科学を拠り所によるゆえ教えは深く重いー 26日夕刊フジらしきB層向けお遊び記事がアル
大阪府民なら喜ぶだろう程度記事 装いがしてあるから厄介で B層向けという由縁でアル。 経済危機のイタリアで今月中旬、政治家抜きの内閣が発足した。
入閣したのは学者や銀行家、官僚出身者などで、政治不信が極まった1つの形。 では、長らく「経済1流、政治は3流」と揶揄されてきた日本では、 どんな民間人内閣が考えられるのか。 ○経済評論家の荻原博子 「国際競争に勝つため、他の閣僚にも型破りな人材を入れた。増税派は入れていない。どじょうではなく、トビウオ内閣」 ○政治ジャーナリストの角谷浩一 「明るい雰囲気にしてくれそうな人を選んだ。がんばろう日本内閣。その象徴だ」 専門家?2人の作製した組閣名簿。 角谷案
首相 佐々木則夫(53)なでしこ監督
外相 佐藤優(51)作家 財務相 渡辺恒雄(85)読売会長 文科相 沢穂希(33)なでしこ主将 厚労相 浅野史郎(63)慶大教授 経産相 柳井正(62)ファーストリティテング会長 防衛相 長淵剛(・・) 歌手 官房長 川口淳一郎(56)宇宙工学 萩原案
首相 吉田昌郎56福島所長
外相 佐藤優51作家 財務相 高橋洋一56嘉悦教授 文科相 坂東元50旭山動物長 厚労相 西沢和彦46日本総研研究員 経産相 山口義行60立教教授 防衛相 田岡俊次69軍事評論家 官房長官 渡辺美樹52ワタミ会長 残念ながら(?)、日本国憲法では首相や閣僚の半数以上が国会議員でなければならないため、“夢の布陣”にすぎない。
27日たかじんのテレビで天木直人が三宅久之におなじことで一本とられてた 角谷は「野田佳彦内閣は官僚の言いなりで、それなら誰がやっても同じ。民間人でも、いまの内閣ぐらいの仕事はできるだろう」と話している。 お遊びとはいえここにある経産相 柳井正(62)ファーストリティテング会長に驚いた ユニクロの社内言葉は英語ー
どうもここにも 前原や橋下らの政治家に共通性を感じる 落語論の本髄の人間の業を語る天才が逝った
縄文の心根指導者が溢れるー 受け継ぐ人のひとり 内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )SFファンクラブ 高校2年品行不良を理由に退学処分ジャズ喫茶でアルバイトしかし家賃も捻出できず、親に謝罪し家に戻った。 大学入学資格検定を経て入学試験に失敗。 浪人生活を経て、1970年に東大入学を果たした 護憲派であり共著で『9条どうでしょう?』刊してる 其処で教えてくれること 柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。 少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。 必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」 ビジネス言語は世界中どこでも英語である。
「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。 だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。 「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。
(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」 「3−5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」 これは「就活する君へ」というシリーズの一部。 読んで厭な気分になった。 大阪の選挙結果とゝ気持ちー たしかに一私企業の経営者として見るなら、この発言は整合的である。 激烈な国際競争を勝ち残るためには、生産性が高く、効率的で、タフで、世界中のどこに行っても「使える」人材が欲しい。 国籍は関係ない。社員の全員が外国人でも別に構わない。 生産拠点も商品開発もその方が効率がいいなら、海外に移転する。 この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。 だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。 国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。 端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。 老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。 雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。 そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。
ここには、国民国家の幼い同胞たちを育成し、支援し、雇用するのは、年長者の、とりわけ「成功した年長者」の義務だという国民経済の思想が欠落している。 企業が未熟な若者を受け容れ、根気よく育てることによって生じる人件費コストは、企業の収益を目減りさせはするが、国民国家の存立のためには不可避のものである。
談志落語『百年目』の大旦那さんは道楽を覚えた大番頭を呼んで、こんな説諭をする。
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか。 昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。 目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。 調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。 栴檀が育つと、南縁草も育つ。 栴檀の”だん”と南縁草の”なん”を取って”だんなん”、それが”旦那”になったという。 こじつけだろうが、私とお前の仲も栴檀と南縁草だ。 店に戻れば、今度はお前が栴檀、店の者が南縁草。店の栴檀は元気がいいが、南縁草はちと元気が無い。 少し南縁草にも露を降ろしてやって下さい。」 これが日本的な文字通りの「トリクルダウン」(つゆおろし)理論である。 新自由主義者が唱えた「トリクルダウン」理論というのは、
勝ち目のありそうな「栴檀」に資源を集中して、それが国際競争に勝ったら、「露」がしもじもの「南縁草」にまでゆきわたる、という理屈のものだった。 だが、アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀」たちは、「南縁草」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
店の若い番頭や手代や丁稚たちは始末が悪いと叱り飛ばす大番頭が、実は裏では遊興に耽って下の者に「露を下ろす」義務を忘れていたことを大旦那さんはぴしりと指摘する。 『百年目』が教えるのは、「トリクルダウン」理論は「南縁草が枯れたら栴檀も枯れる」という運命共同体の意識が自覚されている集団においては有効であるが、
「南縁草が枯れても、栴檀は栄える」と思っている人たちが勝者グループを形成するような集団においては無効だということである。
「国民経済」ということばで指しているのは、私たちがからめとられている、このある種の「植物的環境」のことである。 「そこに根を下ろしたもの」はそこから動くことができない。 だから、AからBへ養分を備給し、BからAへ養分が環流するという互酬的なシステムが不可欠なのである。 その2につづく
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