幻の選手

 

経歴が限り無く不明に近い選手の人生を見る。


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千葉県在住のALEXさんに、堀 達治、吉田 明男、小嶋 仁八郎、大館 盈六、
和彦、平桝  俊之、太田 義次、真野 春美、吉田 大介、太田 浩喜、板沢 峰生の11選手の情報を頂きました。
大変、貴重な情報を頂き、誠にありがとうございました。


吉田 大介  

’62年生まれ 
右投右打 投手
福岡市立志賀中→78クラウン・79〜81西武 公式戦出場無し

’78年1月、クラウンライターに入団した当時15歳の中学生選手
前年秋の入団テストに合格し、養成目的の練習生として採用される。
中学卒の養成選手採用は’64年の中日・巨人以来13年ぶり。
入団後は修猷館高校定時制に通う。チームが西武に委譲された後は所沢高校に転校。
’81年まで4年間在籍したが、選手登録されることも2軍戦に出場することもなく退団。


太田 浩喜

’62年生まれ 右投右打 外野手
福岡市立花畑中→78クラウン・79〜81西武 公式戦出場無し

’78年1月、クラウンライターに入団した当時15歳の中学生選手
前年秋の入団テストで俊足を見込まれ合格し、吉田大介と一緒に養成目的の練習生として採用される。
中学時代はバスケットボールの選手で野球経験は無い。
入団後は吉田大介と共に修猷館高校・所沢高校に通う。
’81年まで4年間在籍したが、選手登録されることも2軍戦に出場することもなく退団。


板沢 峰生

’61年7月4日生まれ 
右投右打 遊撃手
我孫子高校→80西武 公式戦出場無し

我孫子高校2年生の’78年夏、当時1年生であった和田豊(阪神)と三遊間を組んで甲子園に出場。  翌年ドラフト外でチームメイトの仲野和男外野手と共に西武に入団。
1年目の’80年、イースタンで.238、2本塁打の成績を残す。
同年12月3日、実家である流山市に帰省中、急性心不全で突然死去した。
彼の背番号59は以降9年間西武では空き番となる。


堀 定一(達治)

大東京’36(公式戦出場選手登録名簿に名は無し)
高松商業−慶応大学  外野手

プロ野球史上、公式戦出場選手登録名簿に載った選手で死亡第一号が佐藤喜久雄(東京セネタース)なら、幻の死亡第1号と言えるのが、大東京の堀定一外野手になる。
水原茂と同期で、高松商・慶応大で活躍し、昭和6年の来日大リーグ対戦用に結成された全日本チームにも参加した大物プレーヤー。入営中、病気の兆候を見せ、還った時は、首の所に大きな瘍(よう)が出来ていたという。腰本氏(元慶応大学監督)に勧められ、慶大附属病院で診察を受けていたようだが、都市対抗の全高松に出たり、「巨人軍との試合日も決まっているので(無理をしてでも参加する)」と、大東京軍の上井草の練習にも参加。そういった無理をした事も原因か、風邪から肺炎になって昭和11年2月21日午前7時半に死亡。大東京軍の発足が同年2月15日だから、メンバー正式発表(結成式)の前に他界した事になる。


吉田 明男 よしだ・あきお 本名エドブキヤ・B・トカチウク

昭和8年生まれ 阪急'5051 
?投?打
投手 台東中または日本橋中 公式戦未出場     

ロシア人。本名を呼びにくいので吉田明男と名付けられた。     
入団当初のふれこみは当然、「スタルヒン2世」。
 


小嶋 仁八郎 こじま・にはちろう 

大正11年生まれ 西日本’50
?投?打 投手     臼杵中→中大→八幡製鉄→別府星野組→軟式・全津久見 公式戦未出場      

創設当初の西日本パイレーツに2ヶ月在籍 「チームメートが俺の部屋を麻雀で使いすぎる」との理由で退団後に津久見高校の名監督として名を馳せる。  


大館 盈六   おおだて・えいろく    

大正7年生まれ 朝日'46(公式戦出場選手登録名簿に名は無し)
 
右投右打 遊撃手 愛知商→慶大→藤倉電線 公式戦未出場    

戦前の慶大の大物スタープレーヤー。戦前は何度もプロ入りの噂が出ていたが拒否し続ける。終戦直後の混乱期である'46年関西正月大会に宇野光雄(のち巨人)とともに    本人に無断で選手登録(パシフィック改名前の朝日)させられるが、当然試合に出場することなく登録は取り消された。    


和彦 もり・かずひこ

昭和7331年生まれ 阪急'5052
右投右打 外野手 岐阜高 公式戦未出場    

森祇晶横浜現監督の実兄


平桝  俊之  ひらます・としゆき

昭和2年生まれ パシフィック’46
右投右打 外野手 広陵中 公式戦出場1試合      

阪神創設当時の主力選手・平桝敏男の実弟との理由だけで採用された選手。 実は全くの野球素人


太田 義次  おおた・よしつぐ

昭和5年生まれ 東急'47〜急映'48
右投?打 外野手・プルペン捕手 満州・大連商中退→三宮化学研究所 公式戦未出場

野球素人であるが当時の苅田監督に熱意を認められ養成選手となる。'48年は背番号0でブルペン捕手をつとめる。 ちなみに背番号0は巨人・長岡久夫、中部日本・林富雄に次いで史上3人目である。  


真野 春美  まの・はるよし

明治40年1月12日生まれ 金星'48
右投左打 助監督 東山中→明大→藤倉電線→全京都→国民リーグ・大塚アスレチックス 公式戦出場1試合    

昭和初期の明大の内野手助監督であったが、代走で1試合だけ出場し、牽制死。
当時
41歳であった。ちなみに前年の国民リーグでも助監督の傍ら時折二塁手として出場していた。のちにパリーグ審判をつとめる。



野崎  進

1959年9月28日生まれ  千葉県出身
’78ヤクルト
右投右打(登録上)  投手

−経歴−

プロ入り時、左右投げ、左右打ちの4刀流選手と話題になった。入団2年目の’79年に
打撃投手となる。


橘高  淳

1962年12月17日生まれ 
’81〜’83阪神
右投右打  捕手

−経歴−

’81年、瀬田工からドラフト外で入団。主にブルペン捕手を勤める。ジョー・ブリンクマン審判学校を経て、’85年にセリーグ審判に就任。’87年9月8日、阪神−大洋21回戦(甲子園)で左翼審判として初出場。以後、判定のもつれから、’98年には巨人のガルベス投手にシュート掛かった速球で狙われ、2000年は中日の星野仙一監督に暴行を受け、肋(あばら)を折られる等の災難を浴びせられているが、何とか耐えている男の中の男である。
なお、判定は全く、悪くない。彼らは、結果論で物申してるだけである。


佐藤  栄一

’36タイガース

−経歴−

全く不明(公開調査入り)

−ある推測−

一体、何者なのだろう?一般の歴史書には載ってないが、阪神の球団史には載っている。だが、名前だけで、年齢も出身校も載ってない。公式戦出場は当然無し。もし、名を「えいいち」と呼ぶのだとすると、「えいいち」「えいしち」「へいしち」佐藤平七
当時、甲子園で活躍していて、昭和25年に毎日入りしたアンダースロー投手を改名させて入団させようとした?というのは考え過ぎでしょうか。


 

レオ・ドローチャー(Leo Durocher)

1907年7月27日生まれ
(大リーグ監督歴)ドジャース−ヤンキース−カブス−アストロズ−’76太平洋
右投右打  監督

−経歴−

大リーグ監督として通算2008勝。’76年1月に監督就任発表したが、3月、健康上の理由で来日できず契約解除された。

参考資料:「プロ野球助っ人三国志」小川勝著  毎日新聞社


田部  武雄

1906年3月28日生まれ  広島県出身
広陵中−営口実業団チーム−広陵中(復学)−明治大学−東京クラブ−’36巨人
右投右打  遊撃手、二塁手

−経歴−

大正9年、広陵中に入学するが、4年で退学。
満州に渡り、営口実業団で野球を続ける。
広陵中に復学した昭和2年春にエースとして甲子園に出場。決勝戦まで進むが、大投手、小川正太郎がいる和歌山中に敗れる。
昭和3年、広陵中に籍を置いたまま、明治大学に進学。主に遊撃を守ったが、捕手以外のポジションなら全てこなす万能選手として、俊足、強肩、好守、好打で活躍。
昭和6年には、全日本チームメンバーに選ばれる。
昭和7年、明治大学を卒業後、藤倉電線に入社。「東京クラブ」で都市対抗大会に出場したが、この年限りで辞める。
山口県の電鉄会社−九州電気軌道と職を移し、
昭和10年に、大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)に入団。
第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録。
翌11年にもアメリカ遠征に参加したが、主将としての役目上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突。これが原因で、巨人軍を退団。
満州に渡り、大連実業チームで都市対抗大会に出場。
昭和19年、大連で現地召集され、激戦区、沖縄に向かう。
昭和20年5月、沖縄摩文仁海岸で戦死。”死中に活を得ようと海岸ぞいに海中を疲れ切った身体にむち打ちながら安全な地帯と思われる方向に歩いていくところを、機関銃で撃たれてしまった。”と、記録には残っているが、詳細は不明。昭和44年殿堂入り。

 

−記録−

第一次渡米遠征試合            105盗塁

第一次渡米遠征後の内地試合      試合35    打数150  安打50
                         二塁打2   三塁打2  本塁打1
                         三振  2   四死球10 盗塁34  打率.333

参考資料:「プロ野球謎とロマン」大道文著  ベースボールマガジン社
       雑誌「野球界」博友社


中尾  長(なかお ひさし) 

1910年生まれ   広島県出身
広陵中−明治大学−’37セネタース
?投?打    外野手

−経歴−

明治大学23代主将(昭和9年)。明大卒業後、神戸の川崎造船所に勤務。その後、大学の先輩に当たる伊野川利春(のちに阪急−東急)に誘われ、問司鉄道管理局に転勤。
間もなく応召される。昭和12年、軍隊を除隊となり、職業野球入りを希望。結局、昭和12年7月13日に東京セネタースに登録のみにて出場せず、再び、召集。
同年9月19日、北中国山岳地帯の激戦で戦死した。

参考資料:「日本野球十二年史」広瀬謙三著  日本体育週報社
       雑誌野球界付録昭和9年「六大学選手写真名鑑」野球界社
       雑誌「野球界」野球界社


瀧野  通則

1916年生まれ
享栄商−’36タイガース−法政大
右投?打    二塁手

−経歴−

昭和11年タイガースと契約するが、一方的に契約を解除して法政大に入学。結局、職業野球連盟登録後に除名される。職業野球史上、処罰を受けた選手第一号となる。
法政大卒業後、川崎重工業でノン・プロ野球審判員を務める。
プロ野球が2リーグに分裂した昭和25年春、パリーグ審判員となる。

−エピソード−

昭和36年の日本シリーズ第6戦(巨人対南海)で主審と発表された時、法政大で同期だった鶴岡一人南海監督から「あいつが審判だと、ウチはいっつも勝てないんだ。主審を変えてくれ!」と抗議が有ったという。
もちろん、そんな抗議は受け付けられなかった。瀧野自身はその抗議を聞いてなかったらしいが、何か自分の事で人悶着(ひともんちゃく)有ったらしいという雰囲気は悟っていた。そこで逆に発奮して、その時に見せたジャッジは非常に安定した素晴らしいものであったという。男やね、滝野さん!

 

参考資料:「プロ野球読本」東京プレス
       雑誌ホームラン付録昭和25年「セントラル パシフィック選手名鑑」
       ホームラン社
       「プロ野球史再発掘」関三穂編  ベースボールマガジン社


伊藤  茂

1916年生まれ
享栄商−’36タイガース−法政大
?投?打  外野手

−経歴−                   

昭和11年タイガースと契約するが、一方的に契約を解除して法政大に入学。結局、職業野球連盟登録後に除名される。瀧野通則と共に職業野球史上、処罰を受けた選手第一号となる。

参考資料:「プロ野球読本」東京プレス


三森  秀夫

1914年生まれ
松山商業−法政大−’36巨人
右投右打  三塁手、投手

−経歴−

松山商業時代は三塁手兼投手として、昭和7年春に甲子園優勝、昭和9年夏には甲子園準優勝に導く。同期に景浦將(タイガース)がいた。
法政大に在籍していた昭和11年六月上旬、東邦商業にコーチに出かけた事を巨人軍が知り、旧制中学の大先輩であり、巨人軍監督に内定していた藤本定義が口説き、本人も巨人軍入りを決意。しかし、大学の合宿に戻らず巨人軍の合宿に缶詰だった事から、問題が発覚。大学側で捜索願いを出す等の騒ぎになった。結局、昭和11年7月2日、名前のみ巨人軍に登録されたが、実際には、法政大在籍のままであった。

参考資料:「野球博士のおもしろエンサイクロペディア」山崎武著
       ベースボールマガジン社
        「日本プロ野球記録大全集(1リーグ時代)」ベースボールマガジン社
       雑誌「野球界」野球界社


土屋  弘光

1932年11月25日生まれ  広島県出身
盈進商−明大−’56〜’57中日-ロッテ−中日−大洋
右投右打  二塁手

−経歴−

165cmと小柄ながら、明大時代に対法政戦で本塁打を放ち、注目される。
また、守備も俊敏で、吉田義男級とまで評された。
昭和31年、中日に入団するが、学校の関係で静岡大仁キャンプ参加が遅れる。
野球勘の戻らないうちに焦って参加したそのキャンプで、打撃投手の頭部死球を
受け「左側頭部挫傷、左側頭部亀裂骨折、脳内出血」と、生命さえ危ぶまれる
重傷を負う。
一年間は、病院で療養したが現役には戻れず、翌’57年、選手生活に終わりを告げる。
以後、二軍の用具係、スコアラー、二軍マネージャー、一軍マネージャー、昭和37年には
スカウトになる。この年、全国優勝した作新学院の加藤斌投手を担当し、加藤投手の家に通っているうちに、姉の智子と親しくなり、結婚。
昭和42年秋、中日を退団。翌年春、大リーグの野球を勉強にアメリカに向かう。
帰国後、ロッテの監督、濃人渉にむかえられコーチになる。
のち、ブロックサインが全く読めない名ヘッドコーチと謳われ、中日、大洋でも、守備走塁コーチなどで活躍。現在は東北放送の野球解説者。

参考資料:雑誌「野球界」博友社
       「プロ野球通だけに捧げる本」越智正典著  経済界


北野  明仁

1961年生まれ  京都府出身
宇治高−’79〜’82巨人
右投右打  投手→内野手

昭和54年、江川卓の「空白の一日」問題で、ドラフト未参加の巨人がドラフト外で獲得。
昭和56年まで投手。昭和57年、ファームで本塁打を1本打った実績を買われて、内野手に転向したが、この年限りで現役を引退。
用具係を経て、打撃投手となる。
現在は、主に松井秀喜の調整役を担うことから、「松井の恋人」とも評される。

参考資料;「新プロ野球人国記」大道文著  ベースボールマガジン社
       雑誌「週刊ベースボール」ベースボールマガジン社


金田  高義

昭和15年生まれ  愛知県出身
愛知学高−’58〜’60国鉄
右投右打  投手

400勝投手、金田正一の弟。実力は?なのに、「金田正一だけの年俸高騰を防ぎ、金田兄弟に分散して払い、他から不満分子が出ないようにする為」の国鉄球団の策として入団させたといわれる。


金田  星雄

昭和16年生まれ  愛知県出身
愛知学高−’60〜’61国鉄
右投右打  投手

400勝投手、金田正一の弟。実力は?なのに、「金田正一だけの年俸高騰を防ぎ、金田兄弟に分散して払い、他から不満分子が出ないようにする為」の国鉄球団の策として入団させたといわれる。


平社  達三郎

昭和11年生まれ
東京理科大中退−’60国鉄
右投右打  投手

国鉄の二軍がグラウンドで練習を行っていた時、近所の子供に連れてこられて、「私を入れて下さい」と志願。西垣コーチは変な投球フォームだから、と一度は断ったが、また数日後現れた。その時居合わせた島審判に「スピードがあるのでちょっと面白いかもしれないね」と言われ、西垣コーチもその気になり、採用となった。
プロ野球とはおよそ縁の遠い東京理科大を中退、野球歴は草野球をやった程度の全くの素人。なぜ学校を辞めてまでプロへ入りたいのかと聞いたら「五年も学んでながら卒業できる見込みがないので野球をやってみたかった」。
また、写真を撮られるのが大嫌いで、カメラマンが頼んでもガンとして受け付けなかった。
困った新聞社のカメラマンが望遠レンズでそおっと撮ろうとしたら見つかってしまい、ボールを投げつけられたそうである。球団のマネージャーが、「写真を撮らせないとリーグへ登録もできないし、プロ野球の家族パスもくれないよ」と諭す(さとす)と、「写真は自分で撮ったのを持ってくればいいんでしょ。お金を払えば家族パスなどなくても野球場へ入れてくれるんじゃないですか」と反撃したという。


宇佐美  和雄
1950年生まれ
木更津中央高−’69西鉄
?投?打  投手

’69年、ドラフト3位で西鉄に入団。3月14日、合宿での夜間練習中に、打球を心臓に受けてショック死した。プロ野球で試合中、練習中に事故死したのは唯一のケース。
練習の遅れを取り戻そうと打撃投手を勤めていたが、疲れて集中力が鈍っていたものらしい。


野村  克彦
’59年2月27日生まれ
国際セントマリア学院−カリフォルニア州立工大−’80〜’81広島−’82〜’83日本ハム
右投左右打  捕手

野村克也の義理の次男。現在は代理人を勤める。通称ケニー野村。


 

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