2005-01-30
美登里、初日
美登里という女の子が新しく店に入った。短大の一年生だという。顔がちょっとぽっちゃりしたかわいい子だ。白石は美登里の初出勤の日、バイトを休んでいた。だから休んだ翌日、店に行ったら知らない子がいたからちょっと驚いた。マネージャーの岸に、
「あたらしい子入ったんですね」
「そうなんだよ、美登里ちゃんていうんだ。結構かわいいだろ」
「ええ、そうですね。かわいいと思います」
「白石君、手出しちゃだめだよ」
岸がにやにやした顔で、白石の顔を覗き込んだ。
「しませんよ、そんなこと。そんなことしたら店辞めなくちゃならないじゃないですか」
白石は半分は本気で、冗談ぽく言った。
「そうだよね、そんなバカなことしないよね。でもあの子結構かわいいしなあ」
岸は白石に言っているというより、自分の興味で言っているようで、楽しそうにぶつぶつ言っていた。そんな岸を置いて、白石は厨房へ入って行った。ビタミン補給、ビタミン補給、口の中で呟きながら、冷蔵庫の中の100%果汁オレンジジュースを取り出し、コップに注ぎ、一気に飲んだ。うまい。コップを流しに置き、フロアに戻ろうとした。フロア側から、美登里が歩いてきた。高いヒールを奇麗な足取りで歩いてくる。白石は、
「ウェイターの白石洋介です。よろしく」
と、笑顔で言った。
「美登里です。よろしくお願いします」
少し硬い表情だが笑顔で挨拶を返してきた。
白石は、
「もしかして関西の人」
と聞くと、
「わかりましたー。京都なんです。出身」
急に、顔の表情が柔らかく崩れ、声もゆったりと話しだした。
「私、東京来てまだ一年経ってないから。訛り分かりますか」
「そんなことないよ。俺そういうのすぐ分かっちゃう方だから。他の人だったら分かんないじゃないのかな」
「よかったあ、私自分が京都だっていうのがすごい嫌で」
「なんで、すごくいいじゃん。なんか舞妓さんみたいで」
「それが嫌なんです。京都イコール舞妓さんみたいに言われるから。学校入って何回言われたことか、たまに怒りたくなっちゃう」
「そっかあ、なんか固定観念でつい舞妓さんとか言っちゃうんだよね。東京の人は。それで学校ってどこなの」
「うーん、短大なんですけど。そんな頭いいとこじゃないし」
「何言ってるの。そんなこと関係ないよ、気にしないし」
「東京女子短期大学」
「ああ、じゃあ店からそんなに遠くないじゃん。それでこの店に来たの」
「そう。でも、近いってどうなのかな。知り合いとかに会っちゃったりするのかな」
「うーん、うちの店は客層の年齢高いし、まあ難しいけど。でもあんまり気にしない方がいいよ、あっ、そろそろ時間だよ。フロア行った方がいいよ。後でテーブル回るから。その時はよろしく」
「よろしく」
美登里は、肩の下まであるストレートの黒髪を右手で押さえながら振り向いて、フロアの方へ歩いて行った。足首がきゅっと締まったいい足をしている。白石は美登里がフロアーに消えるまで美登里の後ろ姿を見ていた。尻もいい、白石は美登里の後ろ姿を見届けると、灰皿を磨きにカウンターに向かった。マネージャーじゃないけど、確かにかわいい子だな、気を付けないと。なんてね、白石は自分と話していた。
店が始まってしばらくすると、客がぽつぽつ入ってきた。
常連の不動産会社社長の岡さんが知らない人と二人で来た。ママが指名があるか探りを入れている。岡さんはよくうちの店に飲みに来るが、誰か特定の子を指名しているのを見た事がなかった。ママは、そんな岡に新人が入る度にテーブルに付けるが、今のところ、ママの作戦に岡は乗って来ない。岡のテーブルにさっきの美登里が呼ばれた。美登里は、丁寧にしゃがんでお辞儀してテーブルにつく。白石は氷とおしぼりを持って、そのテーブルに向かった。テーブルに着き、片膝を付いて氷をテーブルに置き、おしぼりを美登里に渡す。
「ありがとう」
美登里はふせ目がちにそう言うと、顔を客の方へ向け、客の飲み物を作り始めた。
白石はフロアが全部見渡せる定位置に立ち、各テーブルをチェックした。氷を換え、ミネラルウォーターを換え、ボトルを持って行き、灰皿を取り替え、客が帰ればテーブルを片付けた。
今日は金曜日ということもあり、店はほぼ満席に近かった。活気に満ちた店内を足早にテーブルからテーブルへと、何か物を持って移動した。流石に今日はかなり歩いて、跪いて、足が少し痛い。マネージャーに一服するから五分フロアを見ていてくれと頼み、厨房へ向かう。カルシウム補給、カルシウム補給と口の中で呟き、冷蔵庫の中の牛乳パックの残りを一気に飲みほす。冷蔵庫の中には、白石特製のものが幾つか入っている。ウェルチのオレンジジュース、牛乳、コーラのペットボトル。好きな時に好きな飲み物を飲みたい、そう思っていたら段々と飲み物の種類が増えていった。たまにホステスの子も白石に飲み物を頼むこともあった。勿論喜んで飲み物を分けてあげた。
白石はフロアに戻ってマネージャーと交代した。
その時、きゃあ、と女の叫び声が聞こえた。美登里がついた岡さんのテーブルだ。グラスを倒したらしい。白石はおしぼりを両手で持てるだけ持って小走りでテーブルへ向かった。おしぼりを持って行くと、美登里が、
「ごめんなさい、ありがとう」
泣きそうな声で言う。一緒のテーブルについていたチイママの明美さんが優しい声で、
「大丈夫よ、それより早く拭きなさい」
どうやら美登里が誤ってグラスを倒したらしい。誰でもよくあることだ。狭いテーブルでしかも酒を飲んでいる。どんなベテランの人でもやってしまう失敗だ。美登里はたまたま初日にやってしまっただけだ。テーブルがきれいになって、白石はおしぼりを回収する。
美登里はやはりさっきの事を気にしているらしい。笑顔を作りながらも下を向くことがたまにあった。しばらくすると岡さんのチェックが入った。タクシーを一台呼んで欲しいと頼まれ、タクシー会社に電話しタクシーを呼んでもらう。タクシーが来るまで十分程だったろうか。タクシーが来た事を告げにテーブルに行くと、岡さんは真っ赤な顔で、
「じゃあ帰るか。今日は楽しかったよ」
大声ではしゃいだように言う。岡さんは気が優しい。グラスが倒れて少しズボンが濡れたからといって怒るような人ではない。ママもそこのところを分かっていて美登里の最初のテーブルを岡さんに付けたのだろう。ママと明美さんと美登里が岡さんの見送りに店の外へ出て行った。
帰ってくると、美登里が、
「さっきはごめんね」
丁寧に謝ってくる。白石は、
「あんなの気にする事ないよ。みんなよくやるよ、酔っぱらってるし。全然くよくよすることなんかないからね」
「わかった、ありがとう。なんかちょっと気が晴れた」
「そうだよ。まだ一時間ある。もう少しがんばらないと、ね」
「うん、がんばる」
美登里は素直だ。美登里はママに案内された他のテーブルに腰を下ろす。
その日は、かなり混んだ。ママも新しいボトルが何本か入って上機嫌だった。
十二時、店が閉まると、ママがみんなに、お疲れ様、と大きな声で言った。みんなも、お疲れ様でした、と言葉を返す。
白石は誰も客がいなくなったフロアを軽く片付けた。後は、明日開店前にやればいい、そう思った時、テーブルの下に何か落ちていた。イヤリングだ。さっきまで美登里が座っていたテーブルだ。とりあえず、イヤリングを持って厨房の方へ歩いて行った。そしたら美登里が血相を変えてこっちに歩いてくる。
「何か落ちてなかった。イヤリングどっかに落としちゃったみたいなんだけど」
「これのこと」
「そう、それ。拾っててくれたんだあ。ありがとう。本当に今日はお世話になりっぱなし」
申し訳なさそうな顔から舌をちょっぴり出して言った。
「初日なんだもん、気にすることないって。誰だってあるさ、そういう時」
「うん、気にしない。ありがとね。お疲れさま」
「うん、お疲れ」
美登里は店を出て階段を下りて行った。
確かにいい子だ。白石は心の中でそう思った。東男に京女って言うしな、一瞬そんなことを考えたが、すぐ遮った。ありえない、ありえない。ミッション・インポッシブルだちゅうねん。ぶつぶつ言いながら厨房に歩いて行った。水分補給、水分補給と言いながら、冷蔵庫を開けると、三分の一位残ったコーラを喉に流し込んでいった。かあ、喉が痛い、が、最高にうまい。今日も一日コーラがうまい。家に帰ってビールでも飲もう、そう考えながら、誰もいなくなった更衣室で着替えると、マネージャーに挨拶して店の近くに路駐してある車に乗り込んだ。
エンジンキーを回してエンジンがかかると、やさしいバラードが流れてきた。シンプリー・レッドの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」だ。白石は口ずさみながら、煙草に手をやった。口にくわえて火をつけ、大きく煙草を肺に吸い込む。そして大きく煙を口から吐き出した。車のフロントガラスが一瞬真っ白になった。夜は漆黒のように深く全てのものを黒く包みこんでいた。闇の中を走る白石の白い車がぽっかり浮いている様に見えた。その夜は殆ど信号に捕まらず、ノン・ストッップで家に着いた。帰ってすぐ冷蔵庫の中のビールを取り出し、その場で開けて一口飲んだ。苦さがうまさに変わり、気持ちよさに変わっていった。白石はビールを片手に自分の部屋に歩いていった。
2005-01-29
ハローキティ
1月27日に限定5,000枚で発売されたパスネット「はろうきてぃの梅まつりin京王百草園」です。ニュー・フェイス
しばらく不在だった厨房に人が入った。高校を卒業して間もない、調理師学校に通っている18才の男の子だ。男の子と言ったら失礼な身長と体格を持っていた。おそらく185センチはあるだろう身長に、ラグビーをやっていると言われても嘘だとは思わない体格。名前は佐山崇と言った。初めて会った時に、礼儀正しい挨拶で名前を言ったので、一回で名前を覚えてしまった。気が優しくて力持ちと言うが、彼はそんなタイプの男だった。口数は少ないが仕事はしっかりやる。目を細めて笑う顔が印象的だった。崇は店に来るとまず買い出しに行って、仕込みをする。仕込みが終わって客が来るまで時間があると、厨房でマンガ雑誌を読んでいた。
一度九時頃、崇に買い物を頼まれたことがあった。
「大葉とセロリが足りなくなったので、白山さん買って来てもらえますか」
「ああ、わかった。それだけでいいの」
「はい、とりあえずそれだけあれば今日のところは」
店から一番近い、スーパーと言ってもコンビニに毛が生えたような店で、セロリと大葉を買って帰った。その日は、他に買い物を頼まれるでもなく、厨房は大丈夫らしかった。が、後日、崇が言った。
「実はこないだの大葉、あんまり良くなかったんですよ。どこで買ったんですか」
「ああ、店から一番近いスーパーだけど、まずかったか」
「あそこは駄目なんですよ。やっぱり駅の方まで行かないと、いい食材が手に入らないですよ」
崇は遠慮気味だが譲れないといった口調で、言葉をゆっくりと使った。
白山は悪気があってした訳ではなかったから、一瞬顔に血が吹き上がるのを感じた。言葉のトーンを上げる。
「俺、知らなかったもん、言ってくれれば駅まで行ったよ」
心からそう言った。
「違うんです。いいんです。白山さんが悪い訳じゃないんです。ただ食材にこだわっただけで」
なんとなく気まずくなり、白山は厨房を出た。
崇は毎日仕事に文句言う訳でもなく、厨房をこなしていた。ただ、たまに厨房で二人で煙草を吸いながら、話していると、決まって崇はこう言った。
「俺、こんなとこでこんなもん作ってる場合じゃないんですよ。今はもっと料理の勉強しないといけないんですよ」
白山は何も言わなかった。崇の気持ちは十分に分かっていた。将来ちゃんとした料理人になりたいと初めて会った日に崇は言っていた。ただそれは自分が決めることだ、ただ頷きながら話を聞いていた。
だから、ある日崇が今月一杯で辞めると、店で一番最初に、白山に切り出した時は、
「よかったなあ。これからは本格的に料理の勉強だ」
「はい、どこかの料理屋で雇ってもらうつもりです。白山さんにはなんだか悪いんですけど」
「俺は関係ないよ。俺だって辞める時は辞める。その時期が来ていないだけだ。俺の事を気にすることはない。じゃあ、最後の日、店が終わってから二人で飲みに行かないか。今まで行ってなかったもんな。ごめんな」
「そんな、うれしいです」
崇は照れたように本当にうれしそうに言った。
崇が最後の日、店が終わってから約束通り、二人で飲みに行った。全国チェーンの普通の居酒屋で飲んだ。崇は大きい体の割に、酒に弱いのか、すぐに顔が赤くなった。まあまだ18才だからそんなに酒にも慣れていなのかも知れない。崇は何度も言った。
「今日は、誘ってくれてうれしいです。俺が辞めるって打ち明けた時、飲みに行こうって言ってくれたの、本当にうれしかったです」
白山は何度も、わかったと頷いた。
三時位まで飲んだか、二人は居酒屋を出て、出口の処で別れた。
「料理しっかりやれよ、いつかちゃんとしたもん作れるようになったら食いに行くからな」
崇は少し笑って、
「ちゃんとしたものなら今でも作れますよ」
「わかった。しっかりやれよ」
「はい。白山さん、本当にありがとうございました」
崇は丁寧に頭を下げた。
「またな」
白山はそういうと、駅の方へふらつきながら歩いて行った。
崇が辞めると寂しいな。あいつの人生だ。しっかりやれよ。そんな言葉が何度も頭と口をよぎった。口にすると本当に寂しかった。そんなに親しかった訳ではないのに、涙が出そうになる。瞬間、悪寒が胃の中を走った。電信柱に手を置いて、白山は何度も吐いて喉を鳴らした。涙が流れて落ちたが感傷的な涙ではなかった。ただの生理現象、何度も空の喉を鳴らした。
ああ、もったいない、一人呟くと、また駅に向かって歩いて行った。
厨房はそれからずっとマネージャーが兼任した。求人広告をいくら出しても、人が来なかったからだ。ママから、
「白山君、誰か知らない、厨房できる人。最近の若い子は忍耐が無くって駄目ね」」
ママから頼まれる始末だった。そんな状態だったから白山もたまに野菜スティックくらいは作った。と言うかあんもん誰でも作れる。
たまに崇のことは思い出した。今頃何作ってるのかな、あの大きな体で。そんな事を考える夜は決まって暇な日だった。ママが言った。
「最近、客の出足が悪いわね。みんな誰かに電話して店に来るよう言って」
ママのヒステリックは何時もの通りだった。でもこんな日はママの金切り声も白山の心を暖めた。
店が終わるとその日は一人で、バーで飲んだ。感傷的になるよりヒステリックに誰かを怒鳴っていたい。そんな、普段の自分では考えられない状態が自分に来ないかと思う。そうでもしないと寂しくて苦しくて、生きているのがしんどい。今は酒や煙草でなんとか自分を慰めているが限界が近くに来ているのは分かっている。なんとかしなきゃ、なんとかしなくちゃ。自分の未来を考えると、真っ暗なトンネルの中で頭を抱えている小学生の自分がいた。自分で自分を見つめている大人の白山が、小学生の自分の頭を撫でていた。夢じゃない、むしろ日常の方が夢なんだ。白山は頭を上げると、酒に酔った淀んだ目で、一人バーのカウンターでそう呟いた。じんわりと目頭が熱くなるのが分かる。店には静かなジャズピアノが流れていた。白山の涙腺とジャズピアノの繊細な音がシンクロするように、涙が一滴落ちた。