2005-02-26
金魚
夏祭りの夜、景子は恋人の孝雄と神社の境内の前で待ち合わせをしていた。約束の時間は七時。もう景子は二十分も待っていた。孝雄は時間にはいつも正確だ。今までのデートで遅れたことはない。むしろルーズなのは景子の方で、デートに遅れる常習犯だった。何回携帯のメールで、遅れると入れたか数えきれない。孝雄はそんなことは一度もなかった。しかも景子が時間に遅れても、いやな顔のひとつもしない。それは景子を安心させたが、一方で少しは叱って欲しかった。景子はさっきから孝雄の携帯にメールと電話をしていたが、電話は留守電で、メールは返事がなかった。普段、待つという事になれてない景子はいらいらしていた。ヴィトンのバッグの中から、セイラムライトを出し、火をつける。孝雄は景子が煙草を吸う事にいい顔をしなかったが、景子は孝雄に気が付かれないように、陰で吸っていた。
その時だった。同い年位の男の子が、待ち合わせ?と聞いてきた。ナンパか。景子は一瞬うんざりしたが、今は孝雄が来なくて暇を持て余している。景子は、男に、うん、待ち合わせと、常套句を言った。
「相手こないんじゃない。さっきから見てるけど、もう二十分くらい経ってるよ」
「見てたの」
景子は怪訝な顔で言う。
「違うよ。俺も彼女と七時にここで待ち合わせだったから。一緒にいた連中がみんな相手と祭りに行っているというのに、君だけは境内で一人で立っていたから、気になって」
男は正直に言った。男の正直な言葉に景子の気持ちが緩んだ。
「名前はなんて言うの?」
「俺、堅次。君は?」
「京子」
堅次は、
「もしこれからお互いの相手に電話して、出なかったら、一緒に祭りに行かないか」
遠慮がちに言った。
「わかった。いいよ。このまま待っていても仕方無いし」
「決まり。じゃあ電話しよう」
二人は携帯電話を取り出し、耳に当てた。コールが何回か鳴り、アナウンスの声で、留守番電話に変わる。二人は携帯電話を折りたたんだ。
「じゃ、行こっか」
同じ境遇にあるという親近感が二人の距離を接近させた。
祭りは人混みでいっぱいだ。二人ははぐれそうになる。堅次は自然に景子の手をとった。景子は拒否しなかった。二人は手をつなぎ、笑い、綿飴を食べ、射的をした。京子が叫んだ。
「あれ、金魚つり。やりたい」
二人は大きなビニールシートにくるまれた水槽の中を、眺める。
「あの出目金がいい」
「あの黒いやつ?」
「そう」
景子は鼻を膨らませて、少し興奮していた。お金を払い、金魚つりを始める。とりあえず雑魚を狙う。小さな赤い金魚をすくい上げる。
「やるじゃん」
堅次は、景子の肩を叩いた。
「当然よ。次は本命よ。出目ちゃん、覚悟しておきなさい」
景子は真剣な目つきで出目金を睨んでいる。網を水面すれすれに持つ。今だ、景子は水面近くに上がってきた、黒い出目金目がけて、網をすくった。
網の中央に大きな裂け目ができ、出目金は何事もなかったかのように泳いでいる。
「くやしい。超くやしい」
「俺が挑戦しようか」
堅次は言う。
「いいの。自分で釣り上げないと意味ないの」
そう言うと、小さな金魚が入ったビニール袋を手にして立ち上がる。
「行こっか」
二人は歩き始めた。いつの間にか二人は人気のない神社の端に来ていた。
お互いの目があった。言葉はいらなかった。二人はキスをした。堅次が景子の腕に手を回す。
「金魚が」
景子は甘い声で小さく言った。二人が抱き合うには金魚は邪魔だった。堅次が金魚を、近くの木の枝にかけ、景子の体を強く抱きしめた。その時、景子の携帯電話が鳴った。景子は二人を邪魔する大好きな音楽が早くなり止むのを待った。景子はさらに強く堅次を抱きしめた。
「どこかゆっくりできる所に行こう」
堅次は言った。景子は頷いた。二人は神社から姿を消した。神社の木の枝には、金魚が一匹ぶら下がっていた。
2005-02-25
仲人
勝は、友達の健介の仲人として、結婚式場でスピーチを終えた。勝は健介の結婚相手である京子を、健介に紹介したのだ。それをきっかけに二人はつきあうようになり、今日、結婚式を迎えた。スピーチを終えた勝は、スピーチのために張っていた気持ちが一変に緩み、ワインを何杯も飲んでいた。横に座っている妻の理香子が心配そうに勝を見つめていた。理香子は勝に言った。
「あなた、飲み過ぎよ。いくらお祝いの席だからって。それにあなた、そんなにお酒強くないんだから」
勝はむっとして答えた。
「いいんだ。今日は。健介と京子の結婚式だぞ。酒を飲んで何が悪い。それに役割はもう終えた。俺も一息入れたいさ」
勝は言葉を投げるように理香子に言うと、またワイングラスを空けた。勝の顔はもう真っ赤に染まっていた。目がなんだかうつろになってきた。しだいにろれつの回らない声で、何やら言い始めた。京子がどうとか、健介はアホだとか、あいつはよかったとか、意味不明な言葉を、不明瞭な発音で言っていた。
突然勝が立ち上がった。そして健介の横に立ち、言った。
「俺のお古をめとるってのは、どんな気持ちだい」
勝と京子の顔は正に顔面蒼白になった。
「こんな席でやめろ」
健介は小さいが強い口調で勝に言った。
「何をやめろって?俺が京子とセックスするのをやめろってか」
勝と京子は、京子が健介と結婚を決めてからも、関係が続いていた。そしてそのことを、健介も知っていた。それでも健介は京子と結婚することにしたのだ。それは何物でもない。ただ京子への愛情があるだけだった。京子がどう思っていようといい、京子と結婚がしたかった。でもそんなことをこの目出度い席で言われたくはない。
「お前は腰抜けか」
勝が挑発的な言葉を発したと同時に、健介の胸ぐらを掴んだ。
「やめてえ」
京子の叫ぶ声が、会場中にこだました。
その瞬間、健介は椅子ごと後ろに倒れていた。
その姿を見て、勝は泣き出した。嗚咽とともに、
「俺は京子を愛しているんだ。誰よりも、誰よりも愛しているんだ。勿論、健介より。理香子よりも」
全てが終わったように見えた。勝と健介の友情も、健介と京子の結婚も、勝と理香子の結婚生活も。
だが、事実は時に奇妙な展開をもたらす。半年後、勝は京子と結婚し、健介は理香子と結婚した。二つの夫婦は幸せに暮らした。
浪人
男は武士だった。と言っても、正式に仕官している訳ではない。所謂浪人だ。仕えていた家が取り潰しになったため、浪人になったのだ。剣の腕には自信があった。指南役を務めていた位だ。が、この戦のない平和な時代、剣の腕が人より少しいいからといって、すぐに次の仕官が見つかることはなかった。男は何軒も武家屋敷を訪れ、自分を売り込んだ。が、結果はどこも駄目だった。男に武士としての誇りがあったのも災いした。足軽としてなら雇ってもいいという処はいくらもあったが、男は断った。ある昼下がり、男は茶屋で団子を食べながら茶を飲んでいた。男の横に商人風の若い男が座った。若い男は、男に話しかけてきた。
「お侍さん、見た所、浪人かい」
「お主、喧嘩を売っているのか。喧嘩ならいくらででも買うぞ」
「いや、違うんだよ、お侍さん。おいら、あんたにいい話をしようと思って話しかけたんだ」
「いい話。何だそれは」
「ここじゃあ、話せねえ。どこか人のいない処でないと」
男達は人気の無い町はずれの野原に行った。
「ここなら大丈夫だ」
若い男が言った。そう言うと男は、懐から短刀を出し、男に斬り掛かった。
「何をする」
「何って、決まってる。あんたの命をもらう」
「なぜ」
「そいつは自分の胸に聞いた方がいいぜ」
男に心当たりはなかった。
「わからん」
「じゃあ、教えてやる。あんたは俺の兄貴を殺したんだ」
「いつ」
「三日前。横町の脇の橋の上で」
「あの男か。あの男は辻斬りをしていた。しかも女を切ろうとした。儂は後ろから忍び寄り、後ろから切った」
「それが気に食わねえ。なぜ前から切らなかった。腕に自身がなかったか」
「前から切る価値も無い男よ」
そう男は言うと、踵を返して、立ち去って行った。後ろから若い男が短刀で斬り掛かった。男はすばやく身を翻し、刀を抜き、若い男の脇腹を切った。
「哀れな兄弟よ」
男はそう言うと、倒れている若い男の着物の裾で、刀を拭いた。野原は風の力で、踊り狂うように、草むらが舞っていた。
スケーティング・パーク-3-
慶市は先生と思われる女の人達の前に行って、挨拶をした。「あの、体験レッスンを受けたいのですが」
「受付でバッジはもらいましたか」
「はい」
「それじゃあ、胸に付けて下さい。お名前は?」
「高田慶市です」
「高田さんですね。よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
慶市は少し緊張した。何かを人から習うなんて、大学を出て以来だ。しかもアイススケートなんて。とほほな気分だぜ。超かっこ悪い。友達が見たらなんて言うだろう。絶対バカにされる。この事は俺だけの秘密だ。なんて、どうでもいいことを考えていると、
「教室を始めます」
大きな声が聞こえた。
「まずは準備運動から」
足の屈伸や全身の柔軟体操が始まった。慶市は上半身を前屈みに、手を地面に付けるように曲げる。手が地面に付かない。
「高田さん、運動は?」
「今は、全然」
先生が少しあきれたような顔をした。クソっ、慶市は心の中で叫んだ。アキレス腱を伸ばすが、全然伸びない。慶市は自分の体がいかに駄目になっていたか、この柔軟体操とストレッチで思い知った。これからは毎日家でやろう。柔軟体操が終わると、
「それじゃあ、みなさんリンクに上がってください」
教室の参加者は自分を入れて、四人のようだ。少ないんだな。慶市は思った。生徒四人に先生二人じゃ、割が合わないだろう。
まずは、リンクの端をコンポストで仕切られたところを何週か滑った。一人女の人は全くの初心者のようだ。柵がなくては歩く事もままならない様子。一人の先生がその人につき、マンツーマンで教え始めた。あとの二人は二十歳ぐらいの女の子と四十歳位の中年のおじさんだ。おじさんは上手いらしい。教室にも慣れているようで、自分のペースですいすい滑っている。女の子はそんなに上手くはないが、まあ普通に上手だ。順位を付けるなら、おじさんか俺が一番、三番が女の子だな。もう一人は問題外だ。慶市は持ち前の張り合い根性を出して、みんなのランクズ付けをしていた。
「では、こっちに集まってください」
リンクの端に、みんなが横に一列になった。先生が、
「じゃあ、まずはひょうたんをやります」
慶市はひょうたん?なんじゃそりゃ、といぶかしがった。先生が見本を見せる。両足を開いたり閉じたりしながら、前へ滑っていく。初めて見る滑り方だ。慶市は見よう見まねでやってみた。滑らかとは言えないが、なんとか滑る事ができた。他の二人はすいすいと滑り、慶市がビリだ。慶市がリンクのもう一方の端に付いたのを待って、今度は後ろ滑り、バックでひょうたんをする。慶市は体勢が前屈みになってしまい、両手を氷に付いた。
「先生、できません」
慶市は大声で叫んだ。先生は、
「姿勢を起こして、お尻に力を入れてみて」
やってみると、なんとか、たどたどしく後ろに進んだ。リンクの端に着いた時には、額に汗が出ていた。おじさんが、
「最初はみんなそうなんですよ。でもすぐできるようになりますから」
気さくな笑顔で慶市を励ました。
「次はスネイク」
そう言って、両足を揃えて、波状にジグザグと滑って行った。スラロームと同じだな、慶市は思った。これは比較的上手にできた。二番目にリンクの端に着いた。
「じゃあ、片足でやってみましょう」
先生は、片足ですいすいと波状に滑っていった。よっしゃー、やったるでえ、慶市は気合いが入っていた。少し助走をつけて、片足を上げる。体の重心を左右に移動させ、波状に滑ろうとするが、動いているのは、上半身だけで、肝心の足は真っすぐにしか向かない。慶市は勢い余って右側に倒れた。右手をうまく氷の上に付いたおかげで、怪我は無い。チクショー、慶市は立ち上がる。なんとか真似事でリンクの端まで行くと、慶市は息があがっている。両足の膝に手を置き、はあはあと荒い息を立てた。
「大丈夫ですか」
先生が暢気そうな笑顔で、慶市の顔を覗き込んだ。
「もちろんです」
慶市は強がって言った。
次のレッスンは、スウィング・ロールと、先生が言った。片足で半円を滑り、次の半円を足を変えて滑る。先生は楽に滑って行ったが、慶市は全くできなかった。完敗だ。慶市は戦意を失っていた。
教室が終わり、胸に付けたバッジを先生に返す。
「ありがとうございました」
「また、来て下さいね」
先生が笑って言うが、慶市はバカにされたように思い、屈辱を感じた。でも今の自分では、どうしようもない。
教室の集団から抜け出し、荷物が置いてあるリンクの反対側まで歩く。疲れた。慶市は歩いているだけで精一杯だった。それに足のくるぶしが痛かった。早く靴を脱ぎたい。それだけを考えて歩いていた。
ベンチに座ると、あせるように靴を脱ぐ。急いで靴ひもを結ぶと、駆け足で靴を返しに行った。もうここにはいたくない。こんなの俺じゃない。慶市はやりきれない気持ちで一杯だった。ベンチに置いてあるリュックサックを手に持つと、早足でリンクを出た。
車に乗り込み、シートを後ろに下げる。しばらく足を伸ばしていた。まだ足がじんじんと痛んだ。靴下を脱いで、痛いくるぶしを見ると、青くなっている。しばらく痛い足をマッサージしていたが、痛みは消えなかった。こうしていても仕方無い。家に帰ろう。そう思い、車を走らせた。
家に着くと、ベッドに飛び乗り、横になる。慶市はあっと言う間に眠りに落ちて行った。慶市が目を覚ますと、もう夜中だった。慶市はシャワーを浴び、カップラーメンをすすり、またベッドに入った。すぐに眠りが訪れ、起きたのは、翌日の朝七時だった。
口紅
朝まで四時間。男は最近、夜中に目を覚ましてしまう事に悩まされていた。仕事のストレスだろう。眠る直前まで仕事の事が頭から離れなかった。眠ったかと思うと、仕事の夢を見る。決まって仕事でミスをしてしまったところで、目を覚ます。体は汗でびっしょりだ。その後はどう足掻いても朝まで眠れない。本を読んでも、音楽を聴いても、羊の数を数えても。男は眠る事を諦めた。男は着替えてコンビニに行くことにした。深夜のコンビニは、店員が暇そうにレジカウンターで雑誌を読んでいた。客は雑誌のコーナーに一人。店内をうろついている客が二人いた。男はとりあえず店内を意味なく歩きながら、商品を眺めていた。男性用化粧品、生活用具、女性用品。普段コンビニと言えば、弁当を買うか雑誌を買うだけだったので、その品揃えに驚いた。値札を見ると、少し高いは仕方のないことなのだろう。なにせ二十四時間いつでも好きなものが買えるのだから。ふと口紅が目についた。色は四色あった。淡いピンクのものから濃い赤い色のものまで。男は一番赤い口紅を手に取ってみた。男は口紅を唇に塗りたい衝動にかられた。我慢できなかった。男は店員にばれないようにその場にしゃがみ込み、唇に口紅を引いた。鏡がない。辺りを見渡すと、隣の棚に小さな鏡が掛かっている。男はそっと鏡を覗き込んだ。男は頭がくらっとして倒れそうになるのをなんとか抑えた。快感だった。美しい。男は心のそこからそう思った。二三分だろうか、もしかしたら十分以上だったかもしれない。男は自分の顔に見とれていた。男は初めて自分というものを知ったように感じた。この何十年間、男として生き、男として働いてきた。が、それは偽りのものであったように思った。今鏡の前にいる、中年の顔に口紅を塗ったこの姿が、本当の姿であると確信した。男は立ち上がった。
レジカウンターに行くと、さっき自分の唇に引いた口紅を出す。レジの店員は一瞬男の顔を見た。店員は驚きとともに嫌悪の表情を隠さなかった。会計を済ませ、店を出る。
家に帰った男は、もう一度鏡の前で丁寧に唇に口紅を引いた。ベッドで眠っている妻が、寝返りを打った。男は体を硬直させて、口紅を手の甲で拭った。男は洗面所に行き、口紅が頬の方まで付いてしまった顔を、洗顔フォームで洗った。少しの口紅も残らないように。顔をタオルで拭き、冷蔵庫を開けた。中からビールを取り出し、居間へ歩く。ソファーに腰を下ろし、ビールを飲む。男は何かを考えていた。ビールを飲み終わると、寝室に戻る。妻を起こさないように妻の隣にベッドに潜り込む。男は天井を見ていた。男にはある決心が固まっていた。明日辞表を出そう。そう心に決めると、男は眠りに落ちていった。この十年間、一度も体験した事も無いくらい深い眠りだった。