2005-04-15
うんちの朝
朝喫煙室で、i-podで音楽を一人聴いていた。煙草は吸っていなかった。煙草の喫煙時間は朝六時からで、今の時刻は五時五十分だった。i-podをシャッフルにしていた。曲がバッハの「G線上のアリア」に変わった。私は朝焼けに赤く染まった落ちかけた桜の花を見つめていた。病院は丘の上にあった。病棟の喫煙仲間の恩田さんが、喫煙室に入ってきた。朝の挨拶をして、i-podの再生を停止した。世間話をしながら、六時を待った。ライターは看室、ナースステーションの事を私たちはそう呼んでいたが、預けられていた。六時になり、ライターがそれぞれに配られた。その時には、五人が狭い喫煙室にいた。六時半から、NHKの朝のラジオ体操が始まる。私たちは六時から六時半まで、それぞれの飲み物を飲みながら、煙草を三四本吸うのが、毎日のことだった。六時半前になり、喫煙室を出て、テレビをつけ、チャンネルを3チャンネルに合わす。ラジオ体操のお兄さんのあいさつに合わせて、「おはようございます」
みんながテレビに向かって、お辞儀をする。最初は軽い運動から入り、ラジオ体操の第一が始まった。その日によって、第一と第二がある。
その時だった。まだ体の状態がかなり悪い和田さんが、うんちを手に持って、
「どうしよう。どうしよう」
呟いていて、徘徊している。それにいち早く気がついた大木さんが、和田さんをすばやく避けた。恩田さんもそれに気がつき、避けたが、避けきれなかったのか、羽織っていたカーディガンにうんちがついた。看護士の女性を呼ぶ。看護士は、カーディガンを手荒いして、湧野さんに言った。
「自分でクリーニング屋に出して、領収書を貰ってきてください」
ラジオ体操が終わり、また喫煙の時間が始まった。私たちは今日の事件についての話題で盛り上がった。私たちは言った。
「病院がクリーニング屋に出して、和田さんに、請求すればいいのにね」
恩田さんは、煙草では安定できず、朝から精神安定剤をもらい、病院側でカーディガンをクリーニングに出してもらうように頼んだ。看護士は自分では決められない。制服をいつもクリーニングに出している業者にクリーニングしてもらえるか、総婦長に聴いてみると言った。事は意外に大きくなった。
朝の光が高くなり、喫煙室のブラインドを下げた。喫煙室の外側には、まだ和田さんのうんちの匂いが漂っていた。恩田さんは朝食を摂った後、精神安定剤が効いたのか、寝てくると言って、部屋に戻った。和田さんはいつも、みんなが、へんなおじさん、と呼んでいる独特のステップを廊下で踏んでいるのだが、そのステップもせずに、廊下にしゃがみ込んでいた。いつもとちょっと違う朝だった。お日様だけがいつもと変わらず病棟を照らしていた。
喫煙室
彼は喫煙室に行こうと自席を立ち上がった。煙草が吸いたかったのもあるが、仕事でいっぱいになった頭を、一息させたかった。それに喫煙室の窓からは桜が見えた。誰かいればいいな。彼は思った。一人で吸う煙草もいいが、誰か知り合いと世間話をしながらの煙草はまたうまい。喫煙室の窓をのぞくと、同期で入った知り合いがうまそうに煙草を吸っていた。「よお」
声をかけた。知り合いは煙草を持った右手を上げて、笑顔を作った。
「おまえもか」
知り合いは言った。
「最近は肩身が狭くてお互いつらいな」
喫煙者の愚痴などで会話が始まり、仕事の話などをして、煙草を二本吸った。
「そろそろ行くか」
お互いが潮時を感じた。彼は仕事の事も気になってきた。そろそろ取引相手から電話がかかってくる時間だ。二人は喫煙室のドアを開け、それぞれの部署に戻った。それと入れ替えるように、煙草を口にくわえた男が喫煙室に入った。彼は窓から見える桜をじっと見ながら、ふかふかと煙草をくゆらせていた。時刻は十一時過ぎ。お昼休みまで、一時間ちょっとだった。
アイスモナカ
アイスモナカを売店で買ってきた。病院に入院中のことである。テレビのあるホールで食べようと、アイスモナカを持ってホールへ行った。ホールにいるみんなの視線が一斉に私の持っているアイスモナカに集中した。私は視線を感じながらアイスモナカの封を開けた。私はアイスモナカをそのまま一気に食べる振りをした。みんな私を見ている。私はにっこり笑ってみんなにアイスモナカを分けた。みんなは大喜びでアイスモナカを頬張った。その後はアイスの話題で持ちきりになった。アイスの実はおいしいとか、ピノもいいとか、大体アイスは大きすぎる、女の子が一人で食べるには大きすぎる。企業は女の子に気持ちを分かっていないという話題にまで発展した。一人の子が雪見大福はちょっと溶かしてから食べるのが、とろっとして美味しいと言った。もう我慢ができない。そういって二人の子が立ち上がり、売店にアイスを買いに行った。私は、「いってらっしゃい」
そう言って、二人を見送った。
同級生2
「ええ、そんなの恥ずかしい、私」「そんなことないよ。堂々と一緒に登校して、手を繋いで、一緒に帰ろうぜ」
「うん」
「じゃあ俺もう行かなくちゃ。ごめんな。会場から見ててくれよ。俺の事。そうでないと、俺上手に弾けるか分かんないよ」
「嘘、さっき自信満々だったくせに」
「ばれたか。じゃあ後で。楽しみにしてろよ。最高のライブ見せてやるからな。千鶴のために」
「うん。ありがと。じゃあね」
「ああ」
勇作は楽屋に戻った。先輩達がにやにやしている。
「いいねえ、彼女のいる奴は」
「花束で楽屋見舞いか。阿部もビッグになったなあ」
勇作は、
「からかわないでくださいよ。本気なんですから」
「分かってるって。ちょっと妬けただけだ。勘弁しろ」
「はい。自分も分かってます」
みんな早くライブが始まらないか待ちどうしかった。足を小刻みに床に叩いたり、楽器をいじっている。そろそろ始まる時間だ。突然、会場の方で音が大音量で響いた。
「始まったな」
高杉が呟いた。
The Deadsの出番が来た。ステージに上がり、楽器をセットする。その間中、激しいロックが会場に鳴り響いている。楽器のセットを入念に終え、メンバーが合図を目で交わす。同時に、リードギターの山奥とドラムの佐賀が勢いよく音を鳴らした。イントロの後、高杉が、”Anarchy in The UK”をよく通る声でシャウトする。会場が高波のように盛り上がった。最最前列の連中は悲鳴を上げている。首を縦に横に振りながら音楽に合わして体を揺らす。メンバーは客の心を掴んだのを実感した。いけるぜ。みんながそう思った。後は勢いでカヴァーとオリジナルを弾いて、あっという間にライブは終わった。会場の後ろの方で見ていた千鶴は、両手を組み祈るように見ていた。目が涙ぐんでいる。ライブが終わったと同時に、隣にいた有希に抱きついた。
「大丈夫かよ」
有希が心配してそう言った。
「うん。なんか感極まちゃって」
「なんだ、そりゃ。ライブはどうだったよ?すごく良かったぜ」
「よくわかんない。勇作くんしか見てなかったから」
「あら。のろけられちゃった。しかも勇作くんときたもんだ。やられちゃったよ。立ち直れないよ」
「バカにしないで」
「バカにもするよ」
「真面目なんだから」
「わかった、わかった。阿部の所行くんだろ?」
「うん。行く」
「じゃあ行こうぜ」
二人は楽屋に向かった。
演奏を終えたメンバー達は放心状態のように、椅子に座っていた。部屋にノックがあった。勇作はハッとして椅子を立ち上がった。ドアを開けると千鶴がいた。
「おつかれさま」
「うん」
「・・・・」
二人の間に沈黙が流れた。それは気まずいものではなく、二人の間に言葉が必要のない証だった。
「ライブ。勇作君のことばっかり見ていて、音楽のほう全然頭にはいらなかった」
勇作はふっと笑った。かわいいと思った。思わず千鶴を抱きしめていた。
「好きだよ」
勇作は優しい声で囁いた。
「私も・・・」
「私も何?」
勇作は聞く。
「いじわる。わかってるくせに」
「わかってるけど、千鶴の口から聞きたい」
「好き」
「うん。俺も」
千鶴は普段いない人混みの中にいたせいか疲れているようだった。勇作は、
「疲れてないか?」
「ちょっと疲れた」
「早く家に帰りな」
「でももっと一緒にいたい」
「うん。でも体おかしくしたら、俺困っちゃうよ」
「わかった。今日は帰るね。明日会える?」
「朝、学校へ行く。花の水やりやるんだろ?」
「うん」
「じゃあ。明日の朝、花に囲まれて会おう」
「うん。明日、花の前で」
二人は別れた。千鶴に寄り添うように、有希がいた。勇作は心から有希に感謝した。いい友達をもったな、千鶴。二人の後ろ姿を見ながら、そう呟いた。
翌日、勇作は七時にかけた目覚まし時計の音を寝ながら聞いていた。ハッと思い、ベッドから起き上がる。時計は七時十五分を指していた。勇作は、服を着替え、ダイニングに行って、朝食を摂った。自転車を出し、学校へ向かう。朝の日差しは強く、もう背中に汗がにじんでいた。学校が遠く感じられた。学校へ着くと、自転車を置き、小走りで校庭に向かう。水やりをする千鶴と有希の姿があった。勇作は千鶴のところへ駆け寄ると、
「おはよう」
と言った。ちょっと照れくさかった。千鶴はそんな勇作の気持ちがわかったのか、はにかみながら、
「おはよう。勇作くん。昨日はおつかれさま。よく眠れた?」
「ああ。意外とよく眠ったよ。夜まで興奮が残ってたんだけど、ベッドに寝転んでいたら、眠ってた。よっぽど疲れてたんだろうな」
「よかった。勇作くん眠れてるか心配だったんだ」
「ありがとう。千鶴」
千鶴と呼ばれることにまだ慣れていない千鶴は、またはにかんだ。
「なんか千鶴って呼ばれるの、照れちゃうな。そう呼ぶのお母さんとお父さんくらいだもの。あと有希」
「千鶴なんだから、そう呼ぶよ」
「うん。うれしいだけど。照れちゃう」
勇作は無性に千鶴が愛おしくなった。抱きしめたかった。その衝動を勇作は躊躇わなかった。
「好きだよ」
勇作は千鶴にキスをしていた。千鶴は一瞬目を丸くして、きょとんとした。千鶴は勇作が何をしているのかわかるまで、数秒かかった。そしてその意味がわかった時、千鶴は勇作を体で受け入れた。二人は短いキスをした。だがその時間は長く永く感じられた。いつまでもいつまでも二人の体は、離れなかった。太陽がヒマワリがアサガオが二人を祝福していた。それは永遠の愛を祝福しているように思えた。そのことを知っている者は誰もいなかったが、一番わかっているのは、勇作と千鶴に他ならなかった。たまたま学校で席が隣同士しなった二人の愛は永遠だった。
同級生1
高校入学一日目、入学式の後、これからの高校生活をいかに送るかを学校側が助言指導するガイダンスがあった。各クラスに振り分けられた新入生達は、それぞれのクラスで各担任から今後の高校生活についてレクチャーを受けた。一年B組の生徒となった勇作は性が阿部だったためか、教室の廊下側、一番前の席に座るように指示された。担任の教師と名乗る上原は小太りで三十才位の男だった。そう長くない髪をパーマにし後ろに撫で付けている。上原はガイダンスの開口一番こう言った。「学校ではペルソナを被れ。ペルソナとはラテン語で人、人格、人物を意味する」
と野太い声で言いながら、黒板に、人・人格・人物とチョークで書き、その三つの言葉を丸で囲んだ。
「この言葉にはもう一つ大事な意味がある。これを君達に守ってもらいたい」
そうさっきより大きい声で言うと、
「仮面、ペルソナには仮面という意味もある。これを君達が学校にいる間、被って欲しい。どういう意味だか分かるか。誰か私が言っていることが分かる者がいたら手を挙げなさい」
そう言いながら、黒板にペルソナ・仮面と書き、生徒達を見つめた。
教室の中の子羊達、新入生は下を向くもの、周りを窺う者、無関心な者、反応はそれぞれだった。
「はい、君。名前は?」
不意を突かれたように、みんなの体が上原の怒声にも似た大声でビクンとしゃっくりをしたように波打った。後ろの方で一人、席を立つ音が聞こえた。
「はい、山田久志です。先生が言った意味は、簡単に言えば、学校ではいい子にしていなさい、という意味と受け取りましたが」
「山田か、頭がいいな。その通り、先生が言ったのは学校では、あくまでも学校ではだぞ、少なくても良い子の仮面を被っていなさい。まあ、学校の外を出たらの話は追々していく。今日君達に言いたかったのは、この一言だ。山田、座っていいぞ」
山田であろう男が椅子に座る音が静かな教室に響き渡る。山田は座ると同時に咳を一つした。勇作は、やな野郎だな、心の中で呟いた。上原か山田かは分からない、兎に角嫌な気分だった。多分両方だろう。上原は黒板に向かい”仮面”と言う文字を丸で囲み、さっきの”人、人格、人物”とをニアイコールの記号で結んだ。
「さあ、それでは、みんなの事を教えてもらおうかな。普通の自己紹介じゃつまらない。他己紹介って知ってるか。他人の紹介をし合うんだ。みんな隣の席に座っている者と組んでそれぞれ他己紹介をしてもらう。準備に十分の時間をあげよう。時間までお互いのプロフィールを紹介しあって情報を得なさい。後で発表してもらう」
そう言うと、上原は教壇の椅子を教室の窓側に片手で持って行き、そこに座った。教室がざわついた。隣に座っていると言われても、正真正銘さっき会ったばかりだ、挨拶さえろくにしていない。戸惑いを隠せない。皆一様に不安な顔で上原を見つめていた。
「これから一年間一緒のクラスで学ぶ友達だぞ。お互いの事を理解し合え」
優しげでもあり有無を言わせないというような口調で、上原は他己紹介を強要した。しかたない、勇作はあきらめて、隣の席に座っている女の子に声をかけた。
「名前は?」
「瀬戸千鶴、です」
おずおずとした返事が返ってくる。
「同級生なんだ、敬語はいらない。俺の名前は阿部勇作。生年月日は昭和五十五年三月一日。血液型O型、メモ取れよ。後で他己紹介で使うんだろ」
機関銃のように言い放つと、瀬戸と名乗った女子の顔を見た。何が楽しいのかにっこりしている。
「私の誕生日、三月二日、ちぇ、一日負けちゃった。あと一日後に生まれていれば、おひなさまだったんだ。端午の節句。素敵じゃない?そういうの。血液型は同じO型。相性はいいのかな、私血液型詳しくないからわからない」
「俺も」
まあどうでもいいけどね、お互いがそんな風に思っていただろう。そんな雰囲気で他己紹介のための自己紹介は始まったが、誕生日が一日違いという親近感からか二人の会話は途切れることなく弾む。いつの間にか他己紹介からはずれて世間話に移っていた。上原が、
「はい、それまでだ」
と大きな声を張り上げた。勇作と千鶴は盛り上がった雰囲気を中途で遮られて少し物足りなさと不満を感じたが、体の向きを変え、前を向いた。
「さあ、どこからやってもらおうかな」
上原が言いながら、教室中の顔を眺める。一瞬、勇作の目と上原の目線が合った。その瞬間、
「そこ、一番前の廊下側の二人にやってもらおう」
暫し沈黙の後、勇作と千鶴は顔を見合わせた。仕方がない、やろっか、目でお互い合図しながら、立ち上がった。勇作が口を開いた。
「僕の隣に立っているのは、さっき会ったばかりなので正直な所全くわからないのですが、名前は瀬戸千鶴さんです。誕生日は三月二日日です。あっ、ちなみに僕の誕生日は三月一日で一日違いなんです。ねっ?」
と勇作は千鶴の目を見た。千鶴は躊躇わず、
「そうです。私の隣の人は名前が阿部勇作君。血液型はO型。あっ、私も同じO型です」
勇作が、
「趣味はなんだったっけ?」
「読書です、あと植物。阿部君は?」
「あーん、俺は音楽かなあ。あと映画も好き」
「私も映画は好きです。最近『レオン』っていう映画を観ました」
「あっそれ俺も観た。よかったよね、ジャン・レノが渋くってさ。殺し屋のクセして観葉植物を大事にしてるんだ」
「あら、女の子のナタリー・ポートマンもかわいかったわ。子どもなのにもう大人なのよ、ある意味ジャン・レノよりも。あのシーンかわいかったな、二人で物まねし合うシーンで、歌手のマドンナの真似して『ライク・ア.ヴァージン』を歌うの」
「それだったら、ジャン・レノがジョン・ウェインの真似するんだけど、全く似てない所が笑えた」
突然、上原の大きな声が、勇作と千鶴の楽しい会話を遮った。
「もういい。二人とも座っていい。楽しいのはいいが、他己紹介になっていないぞ、二人とも。次っ」
勇作と千鶴の後ろに座っている二人が淡々と他己紹介を始めた。勇作と千鶴は席に座って目を合わせた。千鶴が下をちょっぴり出し、やっちゃたね、という顔で勇作の顔を見た。勇作はちらりと千鶴の顔を見ると、顔を前に向けた。教室では他己紹介が続いていたが、勇作は誰一人の他己紹介も聞いてはいなかった。ただ腹立たしかった、怒られたのが。正確に言うなら、他己紹介になっていないと言われたことか。二人はとにかく楽しく自己紹介をし合っていた。互いの話をよく聞いてそれに純な自分で答えていた。それなのに上原は他己紹介になっていないという理由で、二人を遮った。この型にはめた考え方が気に入らなかった。もう勇作はこの上原という男が嫌いになっていた。そんなふて腐れた勇作とは反対に、千鶴はみんなの他己紹介を楽しく聞いていた。たまにクスっと笑ったりしている。そんな千鶴に少し勇作は遠いものを感じた。さっきあんなに仲良く話し合った千鶴が今は遠い。このガイダンスの時間も途轍もなく長い時間のように感じられた。時間を忘れた頃、チャイムが鳴り、ガイダンスが終わった。勇作は、チャイムと同時に席を立ち上がると、トイレに行った。トイレで小便の用を足すと個室に入った。上着の内ポケットからタバコを取り出し、口にくわえ、ズボンのポケットからライターを取り出してタバコに火をつけた。一口吸った、うまい、もう二口吸うと、タバコを便器に放り投げ、吸い殻を水で流した。上着とズボンを両手で数回叩いて、個室を出た。もう個室でタバコはまずいかもな、持ち物検査もあるかもしれない。明日からは用心しよう。勇作は考えながら、教室に戻って自分の席に座った。千鶴はいなかった。次の時間は席替えだった。目の悪いものは前の方へ、背が高いものは後ろに、まず分けられた。勇作は身長が178センチある。教室の真ん中一番後ろの席になった。千鶴は前から五番目にいた。そんなこともあって千鶴とはその日、もう話さなかった。次の休み時間は男同士がなんとなく溜まり合った。誰からというでいうでもなく、クラスの女子の話になった。誰が可愛いとか、このクラス可愛い子がいないとか、他愛もない話。だけど十五才の少年にとっては重大な話題だった。おそらく勉強よりも。勇作は興味なさげに聞いていた。別に誰が可愛いかなんてどうでもよかった。特に今のところいいと思った子がいない勇作には退屈な話題だった。別にいいじゃん、そんなの、一瞬そう言いそうになったが、止めた。勇作は大きな欠伸を一つした。退屈な高校生活の第一日目だった。
千鶴は園芸部に入部した。入学して二日目のことだ。園芸部に入ることは、入学前から決めていた。家がマンション住まいなせいで、今まで園芸好きの千鶴は小さなプランタンか鉢植えで我慢するしかなかった。思いっきり植物を育ててみたい。ずっとそう思っていた。これで念願の夢が叶う。千鶴はうきうきする気分を隠せなかった。この学校の園芸部には特色がある。学校の花壇及び校庭全ての植物の管理を任されているのだ。この学校を受験する前に、園芸部の事を調べていて分かった事だ。
千鶴には夢があった。校庭中を花一杯にする事だ。春はフクジュソウ、パンジー、シバザクラ、ナデシコ、クリスマスローズ、チューリップ、スイートピー、マツバギク、ミヤコワスレ、マーガレット、デージー、ルピナス、スズラン、ディモルホセカ、デルフィニューム、夏にかけて、アサガオ、ヒマワリ、シャクヤク、ポピー、バーベナ、カンパニュラ、アヤメ、マリーゴールド、ヒャクニチソウ、ニチニチソウ、エキノプス、キキョウ、秋には、コスモス、マリーゴールド、オシロイバナ、サルビア、ベロニカ、マツムシソウ、ムラサキツユクサと、挙げれば切りがなかった。ただ、これだけはしたいというものがあった。 校庭の端からは端まで、ヒマワリを植えることだ。しかも大型のヒマワリを。千鶴はその光景を想像すると、うっとりするのだった。あともう一つ、アサガオだ。これは学校側が許してくれるか分からない。学校の校舎の屋上からネットを張って、その下にアサガオを植え、ネットを伝ってどんどん上に蔓を伸ばし、校舎がアサガオの花で一面になる計画だ。これができれば、もう千鶴は何も言う事はなかった。そんな夢のような花畑を夢見ている千鶴は、クラスではおとなしいほうだった。おとなしいと言うか、所謂目立ったグループに属していなかった。千鶴はいつもマイペースだった。友達付き合いもするが、自分の世界を持っている。それを一番大事にしているようだった。そんな彼女を一部のクラスの女子は、変わり者と呼んだ。千鶴もその事は知っていたが、千鶴はそう言われても、へっちゃらな、自分を曲げない、一本の芯が通ったようなところがあった。そんな千鶴に魅力を感じたのが、有希だった。有希は所謂問題児だ。学校へは週に二三回しか来ない。髪は金に近い茶髪。噂では、暴走族に入っているとか、援助交際をしていると言われているが、千鶴はそんなことは気にしなかった。ただ話していて気が合う。だから有希が学校に来た日には、いつも休み時間を一緒に過ごしていた。不思議なのは有希の方だ。有希のような茶髪の女の子は、何人かのグループを作って仲良しクラブを作っていたが、有希はそういう子には一切目も向けなかった。有希は学校では千鶴としか話さなかった。有希は千鶴に言った。
「植物見て楽しいのかよ」
「うん、楽しいよ。自分で種から育てるでしょ。そして苗になってだんだん大きくなる。そして花が咲くのよ。とってもきれいな。これがつまらない訳ないじゃない。ねっ、そうでしょ?」
「わかんねえな」
「だったらゲーセンで、UFOキャッチャーしてた方が楽しそうだぞ」
「あはははは、有希って面白い。そのギャグ最高」
「ギャグじゃないっつーの」
有希はあきれて、話題を他に移す。
「お前誰か好きな男とかいないの?」
「何よいきなり。そんなこと、いきなり聞かれて、答えられる訳ないじゃない」
「そう言うってことは、いるんだな」
「いないって、いない」
「嘘だ。その顔は、私は大好きな男の子がいます。その男の子に夢中ですって書いてあるぞ」
「もう、からかって。うん、いるよ。でも有希には言わない」
「なんで?」
「なんでも。いつか有希に言う時が来るかもしれないけど、今は言わない」
きっぱりと言う。有希は知っている。千鶴がこういう態度をとった時は、てこでも動かない。
「わかった。もし教えたくなった時は言ってくれよ。俺も好きな男ができたら言うから」
「えっ、有希ってつきあってる人いるんじゃないの?」
「なんで?」
「なんとなく。色気あるし。それに・・・みんなが有希は遊んでるって言ってるし。怒った?」
「怒んないよ。みんなが俺の事色々言ってるのは知ってる。でもみんなが思ってるように遊んでなんかいないよ。学校休んでるのだって、遊んでる訳じゃない。したい事が見つからないだけなんだ。だから学校へも行く気になれない。それだけだ。千鶴だけには分かって欲しいな」
いつも人を小馬鹿にしたような有希が、真面目な顔で言っている。千鶴は自分が恥ずかしくなった。顔が赤くなって目が熱くなった。思わず目が潤んでしまう。
「ごめんね。ごめんね。そんなつもりじゃなかったの。許して」
「気にしてないよ。バカだな千鶴は。すぐマジになる。まあ、そこが千鶴のいいところだけどさ」
笑って有希は言った。
「ねえ、有希。今日はお昼ご飯、何?」
「売店でパン」
「そっか、私はお弁当。一応自分で作ったんだ。明日から有希の分も作ってこよっかな」
「いいよそんなの。パンで十分だよ。好きな男にでも作ってやりな」
「また有希はそういう事言う」
千鶴は顔を赤くして、叫んだ。でもその顔は幸せそうだった。二人は一緒に昼ご飯を食べ、昼休みを過ごした。有希は昼ご飯を食べると、気が変わったと言い残し、学校を早退してしまった。
勇作は憂鬱な学校生活を送っていた。友達は何人かできたが、パッとしなかった。何かに熱中できる訳でもなく、毎日学校帰りにゲームセンターか雀荘に通った。年が十五才になったら中型免許を取り、バイクで峠を飛ばそうと思っていたが、勇作は三月生まれの早生まれだったので、免許が取れるのは一年先だ。勇作はこの一年間、何をしようかと考えていた。スポーツは嫌いではなかったが、球技は苦手だった。かといって陸上部はきつそうだし、柔道部や剣道部は自分の範囲外だ。後は文科系のクラブになるが、これだというものがなかった。勇作は帰宅部を一ヶ月続けたが、何かをやりたいという気持ちが、日に日に強くなっていった。
ある日勇作は軽音楽部の部室のドアを叩いた。勇作は洋楽の特にイギリスのロックやポップスが好きだった。楽器はできなかったが、音楽を好きだと言う気持ちは誰にも負けないと思っていた。
部室の中に入ると、壁に貼られたポスターが真っ先に目に入った。SEX PISTOLSだ。イギリスの有名なパンクバンド。勇作も大好きだった。特に、「Anarchy・in・The・UK」は、勇作の好きな曲、ベスト5に入る。このポスターを見た瞬間、勇作は入部を決意した。
「一年の阿部勇作です。入部させてください」
五六人、上級生が椅子に座って、喋っていた。その中の一人、髪を茶髪にして、ジェルでボサボサに髪を立てた男が立ち上がった。
「何、入部希望?楽器はできるのかよ?」
「いえ、何もできません。でもロックを好きな気持ちは誰にも負けません」
「へえ、言うじゃん。誰にも負けない?俺もロックを好きな気持ちにかけちゃあ誰にも負けねえ。部員の誰よりも。じゃあ、これからはどっちが一番ロック好きか決めなくちゃな」
勇作に微笑みながら、言った。
「歓迎するよ。ようこそ軽音学部へ、って、ダサイ名前だろ。俺たちも変えたいんだけど、学校が許さなくってよ。許してな」
「いえ、そんな」
「硬くなんなって。ここじゃあロックが好きな奴はみんな平等。歌と楽器が上手い奴が一番偉い。学年は関係ない。これがロックだろ」
勇作は感動した。
「俺、一番目指してがんばります」
「そう、その意気だ。そうこなくっちゃ、新入生入れる張り合いがないってもんよ」
「先輩名前は?」
「俺は高杉丈。ジョーって呼んでくれればいい。それにそう呼ばれるのが好きなんだ」
ちょっと照れたように高杉は言った。
「ジョーさんは、ミュージシャンじゃ誰が好きなんですか」
高杉は何も言わず、腕を上げ、壁に指を指した。その先には、SEX PISTOLSのポスターがあった。
「ピストルズですか?」
「おっ、知ってるのかよ。うれしいね。俺が唯一この世で信用するのは、シド・ビシャスだけだ」
「自分もピストルズは大好きです。何度CD聴いたか分かりません。英語の歌詞を理解したくって、辞書引きながら暗唱しました。でもピストルズの歌詞ってスラングばっかで辞書に載ってなくて困りましたよ」
高杉は笑った。
「まあ、座れよ」
高杉に言われ椅子に座る。他に五人いたが、勇作には無関心のようだ。みんなギターやベースを持ちながら、自分たちの話で盛り上がっている。勇作がみんなに無視されているのを気にしていると感じた高杉は、
「みんなマイペース。こういう奴らなんだ。悪い奴らじゃない。そのうち仲良くなるよ」
勇作と高杉はロックの話で盛り上がり一時間程話していた。高杉が言った。
「で、お前楽器何やりたいの?」
「いや、特にないんすよ。今まで楽器にこだわり持って、音楽聴いてなかったから」
ふーん、高杉がにやりとした。
「じゃあ、ギターやってもらおうかな。うちのバンドは、俺がヴォーカル、あとギター、ベース、キーボード、ドラム、ギターがいる。だけど出来ればもう一人ギタ−は欲しいんだ」
「はあ、弾いた事ないけどやってみます」
「やってくれる?ギターは古い誰も使ってないのが一本あるからそれを当分使うといい」
「いいんですか」
「いいよ。だって誰も使ってないんだもん。楽器がかわいそうじゃん。誰かが弾いてあげなくちゃさ」
高杉は壁のピストルズのポスターを見ながら言った。
「じゃあ、今日は帰ります。明日また放課後来ますんで」
「おう、休み時間や放課後はいつもここにいる。いつでも好きな時に来いよ」
「はい、ジョーさん、ありがとうございます」
「おう、またな」
勇作は部室の扉を閉めると、ガッツポーズをした。今日から俺もバンドマンだぜ。しかもギター。女の子にもてちゃうな。どうしよう、などとちょっとハイ気味になった気持ちが思考を飛躍させる。勇作は学校を出て、ゲームセンターでシューティングゲームを一回やって家に帰った。
千鶴の好きな科目は国語と古典だった。教師が好きだった。現国の千葉先生は、まだ四十才位だ。いわゆる時代遅れな熱血教師。古典の丹波先生はおじいさんみたい。ひょうひょうとした話口調が個性的で魅力的だ。
千葉は、文章の読解能力を重点的に教えた。一つの作品を取り上げ、じっくり文節ごとに分析していくことが多かった。千鶴はそういう分析みたいなことはあまり好きではなかったが、千葉がたまにする無駄話が好きだった。ファッションの話から時には女の子の話、千葉はおしゃれだった。見るからにちょっと高そうでデパートか何かで買ったような服を着ている。うちのお父さんみたいに、近くのスーパーで売っている服ではない事が一目で分かる。毎日違う靴を履いていた。ということは、五足は靴を持ってなくちゃいけないってことか。千鶴は考えて、はあ、私には無理と溜息をついた。千葉が教科書には載っていない、千葉が自分で好きな文学の話をする時があった。千鶴から見れば古い作家ばかりだった。大江健三郎や石原慎太郎の本を熱く語る。自分らの時代は大江健三郎の文庫本をジャケットのポケットに入れ、ジーパンのお尻のポケットに雑誌の『平凡パンチ』を差すのが、かっこよかったんだと、自慢げに話す。その感覚は千鶴には理解できなかったし、『平凡パンチ』なんて雑誌は知らなかった、ただ先生が楽しそうに青春時代の事を語っている姿が好きだった。だからテストもできるだけがんばった。成績は中の上くらいだったが、千葉に褒められたことが何度かある。千葉は月に一度自分で課題図書を出し、感想文を書かせる。それで、千鶴は評価Aを何度かもらっていた。が、課題図書に大江健三郎の『性的人間』や石原慎太郎の『太陽の季節』をいれるのはやめて欲しかった。好み出し過ぎだって言うの。しかもちっとも面白くなかったし。千鶴は普段、浅田次郎や宮部みゆきとかが好きだった。だからいかにも純文学です、みたいに主張している小説は食わず嫌いだ。でも学校で読まされる。だからバランスがいいのかな?なんて自分を納得させた。
古典の丹波先生も雑談が面白い。とても話上手な人だ。あまり口には出さないが、若い頃相当過激に学生運動をしていたらしい。確かに発言の端々にそれらしきものが、そう言われれば感じられた。でも千鶴はそんなことはどうでも良かった。古典が好きだった。古典の原文を読む事に快感を感じた。助詞や副詞の関係や決まり事を覚えるのは苦ではなかった。枕詞を幾つ言えるか、家で大学ノートに書き連ねたくらいの古典オタクだ。友達と話している時にも、突然、いとおかし、などと言うので、級友はさっぱり意味が分からず、ひいたことがあった。有希が、千鶴は本当に古典が好きだなあと、あきれて言った事がある。千鶴は答えた。
「古典を読んでいると思うの、何百年前の人たちも私たちと同じように悩んだり、くだらない事で喜んだりしてたんだなって思ったら、とても気が楽になって。自分だけじゃないんだって、そう思ったんだ」
有希は難しくてよく分からないと言った。千鶴は有希に、
「有希みたいに何をしたらいいのか分からない人や、行く所も自分の居場所もなく、悩んでいた人がいたってこと」
と言った。有希は、
「そうか、私と同じか。ふーん、今度から古典の授業は出てやるかな」
偉そうに言った。千鶴は、
「私丹波先生のファンなんだからそういう傲慢な態度は許せないわ」
と、冗談ぽく言った。
「ああいうおやじが好みか?好きな男ってもしかして丹波のことか?」
「違うに決まってるじゃない。私はこれでも心身共に健康な十五才の女の子よ。おじさんはかっこいいと思うけど、恋愛の対象ではないわ」
「でも女は精神年齢が男より上だから、年上の男の方がうまくいくって言うぜ」
真顔で言った。
「年の差にも限度があるじゃない。私と丹波先生とじゃ年四十才位違うと思う。うちの親より年上じゃない。そんなの親が許さない」
「親が許せばいいのか」
まだからかっている。
千鶴は、
「もう有希とは話さない」
と、言ってそっぽを向いた。有希は
「許せ妹よ」
なんて言っている。
「ちょっと先に生まれたからってお姉さんのつもり」
だけど有希の口の悪いのには慣れている。売店のメロンパンで許してあげることにした。有希は「仕方ねえな」と折れて、二人は売店のある地下に歩いて行った。
勇作は英語が得意だった。理由は簡単。中学時代から洋楽のロックを聴き込んでいたので、耳から英語を覚えた。歌詞カードと原曲を聴き比べた曲は、何百曲にも達している。デビッド・ボウイ、イギー・ポップ、ザ・ドアーズ、ザ・クラッシュ、ジャム、サイケデリック・ファーズ等、挙げたら切りがない。だから英語の成績は抜群に良かった。文法は嫌いだったができたから問題はない。なんと言っても発音がいい。多分耳がいいのだろう。ネイティブに近い発音は、英語教師の山岡より上だった。山岡は勇作を避けていた。自分より明らかに発音がいい勇作には、授業中指を指さない。それに勇作の明らかに山岡をバカにした態度が許せなかったのだろう。勇作は読書も好きだったので、大概の小説は原文で読んだ。その後、分からなかった細かい所を理解するため、訳書を読んだが、雰囲気で読む原文の方が、作品を純粋に楽しめた。
そんな勇作がTOEFLを受けた。勿論自信があったが、結果は惨敗と言うか試合放棄だった。問題を読んだ瞬間、勇作は怒りが込み上げてきた。こんな文章が理解できて、海外での生活で何の役に立つんだ。俺の語学力なら今ロンドンに住んでも生活には困らないことを知っていたが、TOEFLの問題は、ロンドンで生活するのに別に必要のないことばかり問うてきた。試験の途中で、勇作はやる気を失くした。問題用紙の余白に、ロックの歌詞を考えて書いていた。I'm a Rock。題名を書いた。書いている途中で試験時間が終わり、歌詞を書いた紙は回収された。別に良かった。たいした詞じゃなかった。いつでも書ける。勇作は試験会場を出ると、CD屋に行った。気になっているバンドの新譜が出ているはずだ。
「要Check it out!」
勇作は呟いて、店に入った。CDを探していると、クラスメイトの千鶴がいた。邦楽のコーナーで試聴している。勇作は声をかけようか迷った。千鶴とは入学初日以来話していなかった。まあ会えばおはようって言った位か、よく覚えていない。千鶴がヘッドフォンを外し、CDを手に取ってこっちに歩いてきた。目が合った。千鶴は口を英語のOの発音の形にして、こっちに駆け寄ってきた。
「阿部君じゃない。CD買いにきたの?」
「違う。万引きしにきた」
千鶴が一瞬あぜんとして笑った。
「超受ける。阿部君てギャグのセンス抜群だよね。最初からそう思ってた」
「そうか。そんなこと言うの瀬戸だけだぜ」
「そうかなあ。みんなセンス悪いなあ」
「お前何CD買うんだよ?」
「じゃーん。松たか子でーす」
「松たか子は日本人の中じゃ結構いいよな。ドラマの『逃亡者』の主題歌だった『時の舟』ってあったじゃん。あれ好きだったな」
「やっぱり阿部君センスいいよ。ギャグだけじゃない」
「服のセンスは?」
「超ダサイ」
「なんだよ。ミュージシャン風はバツか?」
「バツ。小奇麗な格好したら似合うのに」
「俺はこれがいいの。俺は自分の好きな格好をする。流行は関係ない」
「かっこいいこと言っちゃって。似合わないよ。阿部君三枚目だもん」
「三枚目か。俺これでもバンドでギターやってんのよ。バンドでギターって言えば、ヴォーカルの次にモテる訳。わかる?」
「で、モテてんの?」
「いや、全然」
「やっぱり。でもモテなくっていいんだよ。たった一人の人に愛されればそれで充分なんだよ」
「そうかあ。俺は女はべらかして、両手に花っていうのやってみたいな。ミュージシャンとして」
「自分としてはどうなの?」
「うん、興味ない。俺が好きでそいつも俺が好きならそれで充分だ。絶対そいつを離さない。そいつを幸せにしてやる」
「かっこ良すぎます。で、相手はいるの?」
「只今募集中」
「よかった」
「何がいいんだよ。全然よくねえよ。早く運命の人に会いたいぜ」
「案外近くにいるってこともよくある話よ」
「どこに?」
「ここに」
「どこに」
「ここに」
「瀬戸が?ありえねえ」
「わあ、傷つく。傷つきやすい乙女をつかまえて」
「どこが乙女じゃ。この貞子がっ」
「ひどい。だったら阿部君はのび太。ドラえもんの」
「なんじゃそりゃ?じゃあ瀬戸はしずかちゃんだ。お風呂覗かれちゃうんだよな。なんでいつもしずかちゃんって昼間から風呂入ってるんだろ」
「マンガなんだからいいの。のび太君」
「のび太はやめろ」
「ハイハイ。阿部君でしたね」
「俺はもう少し店を見てくけど、瀬戸は?」
「私は帰る。夕飯作らなくちゃいけないの」
「親いないのかよ?」
「ううん。今日は私の当番なの。メニューはサバの味噌煮。渋いでしょ」
「うまそうだな。食いに行こっかなって、冗談だよ」
「分かってる。ハイハイ。切りがないから、私帰るね。バイバイ。明日学校で」
「ああ、バイバイ」
二人は別れた。勇作は一人になると少し物寂しさを感じた。CDの棚を見て歩きながら、瀬戸のことを考えていた。変な奴。でもいい奴だな。勇作は結局何も買わずに店を出て、通りに消えていった。
月曜日の朝、千鶴が通学路を歩いていると、後ろから、よっ、とかけ声が
かかる。後ろを振り返ると、自転車に乗った勇作だった。勇作が自転車から降りて手で自転車を引いて千鶴の横を歩く。千鶴は、
「阿部君、自転車通学なんだ。意外」
「本当はバイクで来たいんだけど、三月生まれじゃん。まだ免許取れない訳」
「そうなんだ。早く私も十六才になりたい」
「なんで?」
「なんとなく。誕生日っていいじゃない。年に一度の私のための日」
「俺と一日違いのな。一緒に誕生日会でもやるか。シェーキーズかなんか貸し切って」
「うわあ、それいい。やろうやろう」
「冗談だよ」
「駄目。やろう。絶対だからね。約束。勇作&千鶴のバースデイ・パーティ。有希を呼ぼう」
「お前って加賀有希と仲いいのな。全然タイプ違うのに」
「どういう意味?」
「瀬戸は地味だけど加賀は超ハデじゃん。一緒に歩いてるところ想像できないもんな」
「そう?よく二人で買い物したりお茶するのよ」
「ふーん」
「加賀っていいよな。なんか自分の世界を持ってる感じで。人に媚びないし」
「それって女の子として気に入ったってこと?」
「違うよ。なんて言うか。人として認められるっていうか、上手く言えない」
「十分。有希のことよくわかってる。わたしも有希の人に媚びない強いところが好き。そして弱さも」
「いいな。そんな友達がいて」
「俺は部の先輩くらいしか心許せる人いないもん」
「軽音部の?」
「そう。ジョーさん。超かっこいいぜ。女だったら絶対惚れる」
「ありえない」
「ありえるって」
「男の子のかっこいいってあてになんないもん」
「それは女の方だろ。今まで女に紹介してもらった子でいい子なんて一人もいなかったぜ」
「へえ、紹介なんてしてもらったことあるんだ」
「まあ、しがらみでね。今は音楽が恋人さ」
「ぷっ、何かっこつけてんの。似合わない」
「何言ってんだよ。本当にギターが恋人だって。最近上手くなってきてさ。楽しくって仕方ない。瀬戸は部活とかやってるの?」
「うん。園芸部」
「それっぽい。手芸部も似合いそう」
「手芸も得意よ。ちなみに料理もね。いい奥さんになれるわ」
「その前に男見つけろ」
「言われたくない」
「ハイハイ」
「いつか阿部君のライブの時、私が育てた花、プレゼントしてあげる」
「サンキュウ。真っ赤なバラがいいな」
「バラはやらないの。他の季節の花で我慢してね」
「ちぇ」
「バラはとっても大変なの。三年間の学校生活じゃ、育てるのは無理なんだ」
「そうなんだ。詳しいんだな」
「まあね」
二人は校門を通ると、校舎に入った。階段の踊り場で有希が窓から外を見ていた。千鶴が、
「おはよう。何してるの?」
「空を見てた。トンビみたいな鳥が飛んでてさ。ゆったりと羽ばたくこともなく空をゆっくり旋回してるんだ。なんかうらやましくてってさ。見てた」
「そう、もうすぐ時間よ。教室行きましょう」
「ああ」
「あっ、こっち阿部君。有希話したことある?」
「ない」
「じゃあ紹介する。阿部勇作君。知ってるとは思うけど。クラスメイトよ」
「知ってる。バンド組んでる奴だろ。二年の高杉と一緒に」
「知ってるのか、ジョーさんのこと?」
「ああ、中学一緒だったから。あいつ中学の時超ワルでさ。高校行けないんじゃないかって言われてたんだ。勉強はできないわけじゃなんだけど、問題児だったからな」
「お前も問題児なんじゃないの?」
「うるせえ」
「冗談だよ。許せ。茶髪少女」
「バカ。つんつん頭」
「言ったな」
「言うよ」
「はい、そこまで。二人が仲いいのはよくわかったから。もう授業始まるわよ。席に付きましょ」
三人は教室に入っていった。
千鶴は放課後、園芸部の部活のためジャージに着替え、花壇の手入れをしていた。夏に花を咲かす植物を植えるため、土をよくしようとスコップで耕していた。五十センチ位土を掘り返し、石灰の粉をまぶす。酸性の土を中性化するためだ。これで一週間位天日にさらし、腐葉土を混ぜる。土作りは大切だ。これを怠るとせっかくの植物もいい花を咲かさない。土の中に石があると取り除く。粘土状になった土を手で潰し粉々にする。手の爪には土が入って真っ黒だ。だが千鶴はこの地道な作業が嫌いではなかった。黙々とただ土を触っていると余計な事を考えなくていい。一心に土に触っている。後ろから背中を叩かれた。
「呼んでも気づかないんだもん。千鶴」
同じ一年のC組の由香だ。由香はうんざりした顔で言った。
「いつまでこんなことやんなきゃならないの?」
「いつまでって土がいい状態になるまでじゃない」
「もう十分よ。三十分も耕したのよ」
「たったの三十分ね。ほら土見てごらん」
千鶴は土を握り、由香に見せる。
「まだまだ粘土状。もっと細かくしないと」
「もういいじゃん」
「駄目」
「ケチ」
「意味になってないよ。ちゃんとやろ。ねっ」
「仕方ない。千鶴が相手じゃ分が悪いわ」
「分かってるじゃない」
二人はまた黙々と土をいじった。
その頃勇作は、軽音部の部室で、ギターをジョーさんから習っていた。ジョーさんは今はヴォーカルだけやっているが、ギターもできる。ギターで曲も作っている。バンドで弾く曲は半分がカヴァーで半分は高杉のオリジナルだった。
「お前覚え悪いな。いつになったらコード覚えるんだよ。夏にはライブ一本やるぞ。それまでに形だけでもものにしろ。お前は見栄えがいいから立ってるだけでいい。いざとなったら弾いてる振りしろ。アンプ抜いとくから」
「ひどいっすよ。ジョーさん。絶対夏までにマスターしますから」
「できるか?」
「やります」
「早くみんなで音合わせしたいしな。あんまり焦らしても何だけど、ちゃんとやれよ」
「はい」
勇作は左手で弦を押さえながら言った。勇作が今弾けるのはピストルズの"Anarchy in The UK"の最初の部分だけだった。夏までに五曲はマスターしなくてはならない。しかし勇作はギターに夢中だった。家でもテレビ見ながらギターを持っていた。眠る前まで、ギターの練習をしていた。夏のライブが楽しみだった。初ライブ。いい響きだ。デヴュー。かっこいい。俺ってグレイト。絶対なってみせる。ライブでは目立ってかっこよく決めるてやるんだ。そう言えば、ライブには千鶴が花を持って来てくれるって言ってたな。ふと思い出した。悪くない。そう考えてからまた練習を始めた。
五時半まで部室にいた。みんなは五時頃帰って行ったが勇作は一人残って練習した。できないものは居残ってでも練習する。強制ではないが、もう少しでできそうなところがあったから残ったのだ。今頃みんなはマックかどこかでだべっているだろう。勇作も誘われたが。今日は断った。男にはやらなくてはならない時がある。なんてかっこいいことを考えながら自分の行ないに酔っている。まあこんな性格でないとミュージシャンなんてできない。部室を出て、玄関口を出る。水道の水場のところに千鶴がいた。勇作は声をかけた。
「まだやってんのか?」
「うん。今土作りをしてるの。これをしっかりやるのとやらないんじゃ、全然違うの」
「土がありゃあいいってわけじゃないんだな」
「そう。ギターだって鳴ればいいってもんじゃないでしょ」
「言われたな。そうだな」
「無理すんなよ。まだ水曜日なんだから」
「うん。ありがとう。阿部君て意外と優しいんだ」
「俺は誰にだってやさしいよ」
「嘘。A組の女の子ふったらしいじゃない」
「なんで知ってんだよ。情報早いな。FBIかよ」
「ううん。元KGBの女スパイ」
「わっはは。受ける。じゃあ俺はジェームズ・ボンドってとこだな。初代ショーン・コネリーの」
「ならわたしは伊賀のくの一ね。葉隠れの術。消えた?」
「消える訳ないだろ」
「へへ。もう帰るの?」
「ああ。俺一人残ってたんだ」
「エラいじゃん」
「っていうか、俺みんなの足引っ張ってるから自主練習」
「そっか。わたしもう終わるから、よかったらお茶でもしない?」
「いいよ。何処にする」
「どこでもいいよ」
「じゃあマックな」
「うん。じゃあ着替えちゃうね。待っててね。帰んないでよ」
「帰んねえよ。ゆっくり着替えろ」
「うん。ありがとう」
千鶴が制服に着替えて息を切らして走ってきた。
「走ることないのに」
「うん、でも」
「じゃあ行くぜ」
駅前のマックでとりとめもない話を小一時間ばかりして別れた。
外は少し暗くなっていて、送って行こうかと勇作が言うと、
「大丈夫。わたしそのへんの男より強いから」
「そういうのが一番危ないだよ」
「ホントだよ。わたし合気道初段だもん。護身術はばっちり」
手でOKサインを作って、にっこりする。
「じゃあ俺より強いかもな。俺の事守ってくれ。こう見えて気が弱いんだ」
「嘘ばっかり。じゃあね」
「ああ」
二人は交差点で別れた。
勇作は振り向いて大きい声で叫ぶ。
「本当に気をつけろよ」
「うん。ありがとう」
二人の姿は街の雑踏の中にそれぞれがそれぞれに消えて行った。まるで他人かのように。
千鶴の発案した要望が職員会議で通った。顧問の小田先生が熱心に説得してくれたらしい。千鶴の夢だったヒマワリを校庭の周り中に植えることと、アサガオを学校の天井から張った網に蔓を這わせて植えてもいいと決まったのだ。花のある学校を学校のテーマにしようかという話も出て、試しに今回やってみることになった。おかげで予算も大幅についた。小田先生が花壇で作業していた千鶴のもとに言いに来た。小田先生は興奮していた。
「瀬戸、喜べ。お前が提案していた学校全体花畑計画に予算がついた。かなり反対もあったんだが、最後は校長の裁量で決まった。俺の方が驚いたよ。こんな計画。前代未聞だよ」
「先生ありがとうございました」
千鶴は丁寧にお辞儀をした。よし、やるか。千鶴は意外と冷静だった。こうなることが分かっていたかのようだった。既にノートに細かいチェック項目を書き連ねてある。あとは体を動かすだけだ。でも一年生でこの夢が叶うとはやはり嬉しい。園芸部は主力メンバーが去年卒業してしまったため、二三年生はほとんど出て来ない。だから一年生の自分の意見が部の意見として通ったことをよく知っている。もし二三年生がいたら、一年生が意見を言うなど生意気だとか因縁をつけられ部の意見として出せなかっただろう。運がいい。千鶴はそう思っていた。これから忙しくなるぞ。千鶴は体がぞくぞくする。自分の夢が形になるのだ。死んでもいいとは言わないが、文句はない。来週のミーティングで千鶴が今後の作業計画を発表して実行に移すことになるだろう。一年生にして先輩に指示するのは千鶴にはなんてことはなかった。二三年生は受動的で何か言ってくる人はいない。ある意味いい人ばかりだ。 今日の作業を終えると、手を洗い、更衣室で着替える。C組の由香が寄って来て、よかったね、と言ってくれる。うん、と千鶴は答える。由香は、
「千鶴はいつもがんばってたもんね。この計画だけは応援する。学校中を花畑にしちゃおう」
「うん。そのつもり」
楽しみねだと二人で話しながら、着替える。玄関を出たところで、勇作と会った。千鶴は、
「ねえ、聴いて聴いて。わたしの計画が職員会議を通ったのよ」
「なんだよ。計画って。怖いな。テストの範囲を広げるとかじゃないだろうな」
「そんなんじゃないよ。校庭中にヒマワリを植えるの。あと校舎にアサガオを植えちゃうの」
「すげえじゃん。花だらけ」
「うん。正式には学校全体花畑計画って言うのよ」
「だせえネーミング」
「しょうがないじゃない。先生達を説得するためにつけたんだから。本当はモわたしのお花畑モて言うの」
「もっとダセエじゃん。ネーミングのセンスないなあ。もっとこうなんか出ないの。フラワースクールとかなんか」
「あらいいじゃない、フラワースクール計画。それ頂き」
「ただではやらないぞ」
「ハイハイ。マックのチーズバーガーね」
「話が早いね。わかってるじゃない」
「腐れ縁だからね」
「なんじゃその言い方は。この色男を捕まえて」
「いいから行きましょ、マック」
千鶴は勇作を相手にせずに言った。
勇作は自転車を押しながら、二人はマックへと向かった。
マックで二人はお互いの夢の事を話し合った。千鶴は今は植物を育てることが楽しいからそれを一生懸命やりたいと。勇作は今は音楽しか目に入らないと。お互いが夢中になっていることについて話し合った。二人は夢中になっている事は違っていたが、夢中になるという行為において共通していた。二人の青春は正に熱かったが、話が将来のこととなると口が重くなった。とりあえずは大学に行って、何かやることを見つけるだとか言っていた。でも本当は二人は好きな事で生活したかった。勇作はできれば音楽で食べて行きたかった。それがどんなに難しいことかはうっすらとわかる。千鶴はフラワーアレンジメントの仕事をしたかった。一度親にそう言ったこともあるが一蹴された。ちゃんと大学を出てOLのような仕事をしなさいと言われた。それが正しいことなのかはわからなかったが、反論はしなかった。その日は二人ともなんとなく重い雰囲気で別れて家に帰った。家に帰って考え込んでも仕方のない事を考え込む。無口な千鶴に母親は、何かあったのと聞いた。まさか母親が原因だとは言えない。なんでもないと答えた。勇作はいつも家では一言も口をきかなかったので煩わしい思いはしなかった。
翌朝二人は会うと昨日のことなど忘れている。軽口を叩いて冗談を言っている。そんな姿を有希が見て、
「二人ってお似合いじゃないか」
ぽつりと言った。千鶴は顔を真っ赤にして、否定した。勇作は何を言ってるんだとあきれ顔だ。勇作が有希に言った。
「お前、人のことはいいから自分はどうなんだよ」
「うるせえ」
会話になっていない。おそらく恋の相手などいないのだろう。始業ベルが鳴る。三人は各自の席についた。
昼休み、なぜか三人で昼ご飯を食べた。千鶴が寝坊して弁当を作ってくることができず売店のパンを有希と一緒に買おうとしていたら、勇作もパンを買うところだったのだ。三人は屋上でパンを食べた。まだ春の季節が気持ちよく屋上に春の風が吹く。
「加賀。お前はどんな音楽が好きなんだ?」
勇作が聞いた。有希は、
「パンク」
とぶっきらぼうに答える。勇作は、
「おっ、話せるじゃん。パンクじゃどんなバンドが好きなんだよ」
「ジャムとかクラッシュにダムド、それにスージー&ザ・バンシーズ」
「渋いじゃん。通だね」
「俺もジャムにクラッシュは大好きだ。コピーもしてる。俺たちのバンドのライブ来ない?夏にやるんだけど」
「うまいのか」
「やなこと言うな。俺はまだまだかもしんないけど、ジョーさんのヴォーカルは最高だぜ」
「知ってる」
「何、見た事あんの?」
「ああ」
「なら来いよ。瀬戸も来んだぜ。花持って。なっ?」
「うん」
「じゃあ決まりだ」
勇作は大きく伸びをした。空を見上げると、雲が白く空は青かった。寝転がると、世界は大きな空のように思えた。午後の授業のチャイムが鳴った。しかたねえなと呟いて、体を重々しく持ち上げて立ち上がった。
放課後、千鶴はスコップを持って、校庭の端を掘っていた。フラワースクール計画で校庭中にヒマワリを植える場所の土を作っていた。硬い校庭の土を掘り返し、外に出し、買って来た土と腐葉土を入れる。なにしろ校庭は広い。計算では五百本のヒマワリを植える予定だ。千鶴は額に浮かぶ汗を気にする事もなく作業を続けていた。千鶴には一つの考えがあった。園芸部以外でも作業をしたい者がいたら、作業をしてもらうことだ。顧問の小田に明日話すつもりだ。実際この作業は園芸部員だけでは厳しい。元々園芸部員以外の労働力を期待しての計画だった。みんなでやりたかったのだ。
植物とは不思議だ。そこらの家に咲いている花は、見てもただきれいとしか思わないが、自分が手をかけたものになると見栄えがちょっと悪くても無性に愛おしい。サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子さまが、自分で育てたバラをやはり他のバラとは違うんだと言っているが、その部分を読んだ時、すぐく共感した。それ以来『星の王子さま』は千鶴のバイブルだ。ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』やカレル・チャペックの『園芸家十二か月』も好きだ。植物をいじっている者なら誰でも感じ合えると思う。植物を通して結局は人を愛している自分。やはり人間が一番好きだった。まあ較べるものでもないのだけれど。作業をしながら色々とりとめもなく考える、この時間が好きだった。植物いじりをしていなければ、考えもしなかっただろう。ただ日々の事に追われて過ごしていただろう。だが植物をいじっている時は考えることが多い。植物の状態なども考えるが他にも色々考える。
勇作は部室で音合わせをしていた。なかなかうまくいかなかった。窓の外を見ると、千鶴が作業しているのが見えた。勇作は、ちょっと一服してきます、と言って、部室を出た。校庭に出ると校庭の端で下を向いて黙々と作業している千鶴に、
「ほら、飲めよ」
と言って、売店の自動販売機で買ったジュースを差し出す。千鶴は自分の世界に入っていたので、一瞬びっくりして顔を上げる。
「サンキュウ」
と言って、軍手を取り、ジュースに手をやる。勇作は千鶴の荒れた手を見ていた。爪には黒い土がこびりついている。
「随分がんばるじゃん?」
「まあね、自分で始めたことだからね」
「あんまり無理すんなよ。体壊したら元も子もないぞ」
「うん、ありがと」
「まあ、たまには俺も手伝ってやるから」
「ほんと?うれしい。実は園芸部員以外の人にも参加してもらおうと思ってたの」
「そうか。まあがんばれよ。俺は部室戻るから」
「うん。ありがとね」
「今日はずいぶん素直じゃん」
「わたしはいつも素直です」
「ハイハイ。瀬戸はいつも素直でかわいいです」
「バカにして」
「バカにしてないよ。ほんとにそう思ってる」
「えっ?」
「何?」
「何でもない。じゃあ俺行くわ」
勇作は立ち上がリ、校庭に向かって歩き出した。千鶴は勇作の後ろ姿をずっと校舎の中に消えるまで見つめていた。
翌朝、千鶴は顧問の小田に校庭での作業を園芸部以外の人にも手伝って欲しいと話した。小田は一瞬渋い顔をした。千鶴はこの計画は学校生徒全員が参加することに意味があると唱えた。小田は千鶴の勢いに押され気味だった。小田はとりあえず職員会議に出してみると承諾した。その日の授業を千鶴は覚えていない。ただ小田からの返事を待っていた。放課後小田は千鶴を呼び出した。
「瀬戸の熱意には負けたよ。職員会議で希望者は部以外の者でも作業に参加できることになった。陣頭指揮はお前が取るんだぞ」
「ありがとうございます。がんばります」
千鶴は小田に頭を下げると、ジャージに着替えるために更衣室に向かった。やったーと叫びたい気分だった。今日一日のもやもやした気分が吹っ飛んだ。早速明日から参加者を集えるよう準備をしなければ。千鶴は部室で全校生徒に配布してもらう作業への応募用紙を書いた。出来上がると、職員室にいる小田に見てもらう。小田は、これでいいよと言った。千鶴は印刷室で全校生徒用に八百枚印刷機で刷った。職員室の小田にそれを持って行くと、
「後は俺に任せろ」
と小田が言った。千鶴は頭を下げ職員室を後にした。
その日の夜はなかなか寝付けなかった。すこし興奮していた。ラジオの深夜放送に耳を傾ける。三時過ぎかいつのまにか眠っていた。翌朝目覚まし時計が鳴ると、体が勝手にスイッチを切ってしまった。気が付いたらいつも家を出る時刻の十分前だ。千鶴は急いで着替えた。朝食はあきらめた。勿論弁当は作れない。いつも家を出る時刻より十分遅れで家を飛び出すと、千鶴は小走りで学校へ向かった。後ろから自転車のベルが鳴る。勇作だ。
「乗れよ」
勇作は千鶴に言う。
「でも」
「いいから。遅刻してもいいのかよ」
「わかった」
千鶴は勇作の後ろの台に乗った。勇作は、
「落ちるなよ。ちゃんとつかまれ」
と言い、学校へ向かった。千鶴の顔は自然と勇作の背中に近づく。広かった。少し鼻を背中に近づけて匂いを嗅いだ。制服の匂いがした。
フラワースクール計画への応募者は二十五名いた。もちろん強制ではないのでこれくらいだろうと千鶴は思っていた。作業も毎日は頼めないし、戦力としてはあまり期待できないが、部以外の人達と作業をするのは楽しみだった。さっそく放課後作業ができる人から作業に入ってもらう。現在作業としてはヒマワリを植える場所を耕すのと苗床作りだ。部以外の人には植える場所を耕してもらう。雪かき用のスコップをあるだけ借りて、手伝いの人に渡す。みんな楽しそうに校庭に散らばっていった。
千鶴は園芸部のビニールハウスで苗床を作っていた。五百本のヒマワリだ。しかもヒマワリは苗が弱いことも考えて、二百本余計に七百本分の苗床を作る。商店街からもらってきた発砲スチロールや段ボールの箱の床に穴を空け、苗床用の土を薄く撒いていく。土がいつでも湿っているように、箱の下には大きなビニールシートを敷いて、中に水を入れる。そこまでやって初めて種を蒔いた。
手伝いの人には自分ができる範囲でと言ってあるので、そんなに遅くまでやってくれる人はいない。四時位になると殆どの人がスコップを返しに戻って来た。スコップを洗い場で洗い、雑巾で拭いてもらい、帰ってもらう。明日は何人来るか。まあ来なければ自分たちでやるしかない。
今日は有希が手伝ってくれていた。有希はまだスコップを持って校庭の端にいる。千鶴は有希のいるところへ行った。
「ありがとうね、有希」
そう言いながら、飴を渡した。
「サンキュ、体操着初めて着たよ。いつも体育休むじゃん。この格好って動きやすくいいな」
「何言っての。今度から体育出なさいよ」
「やだよ、体育のセンコーの辻が気いらない」
「私も辻は大嫌いだよ。だからって体育に出ないのはよくないわ。わかった、運動オンチなんでしょ?」
「バカ言うな。これでも中学のときは通信簿で四に落ちたことないんだからな」
「十段階評価で?」
「怒るぞ」
「うそうそ。でもほんと出なよ。楽しいよ」
「分かってる。気が向いたらな。それより作業大変だな。まだまだだろ」
「うん。でもなんとかなるよ。種蒔く時期遅らせてもいいし」
「まあそうだな。あんまり無理すんなよ。毎日来てやるから」
「かっこいい、有希。好きになりそう。彼女にして」
「女だっちゅーの」
「女にしとくのもったいない」
「でも女だ。それに女ってのは、これでも悪くないって思ってるんだ」
「へえ意外。絶対有希は男に生まれたかったんじゃないかって思ってた」
「そう思った時期もある。でも今更男に生まれかわれないだろ。こればっかりは。だからそう思うの止めたんだ。そう思い続けたらずっとこの先前に進めないような気がしてさ」
「なんかわかる。もし私が男だったらあの人を好きになることもなかったんだなって思うもん」
「また男か。そういう問題じゃないだけど。まっいいか。そろそろ暗いぞ。今何時?」
「六時前。そろそろ終わりにしよう。帰りにマックでハンバーガーでも食べてかない?」
「千鶴のおごりでな」
「うっ。立場が弱い。分かった。今日だけね」
「冗談だよ。人の弱みに付け込むような真似はしない」
「流石、男前」
「女だつーの。犯すぞ」
「助けてー」
二人の楽しそうな叫び声が校庭中に響き渡った。空は黒かった。
翌日の作業に参加した部以外の人は十八人だった。これぐらいで安定してくれるといいのだけれど。千鶴は思った。このあとアサガオを植える場所を耕さなくてはならない。まあなんとかなる。持ち前の楽天主義が千鶴の気持ちを重くはさせない。ビニールシートで作業していると勇作が入って来た。体操着を着ている。
「来てやったぞ。俺の仕事はなんだ」
「何、その大きい態度は」
「手伝ってやるんだ。態度もでかくなるさ」
「これは自主的にやってもらってるんです。そんな威張らないでください」
「冗談だよ。何やったらいい?」
「そういう冗談嫌い」
「わかった、わかった。ごめん。スコップ貸してくれ」
「そこにいっぱいある」
千鶴は指を指した。十本程スコップが立てかけてあった。勇作はその中から一本取ると、
「じゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
「うん、お願いね」
勇作はスコップを持って校庭の端に歩いて行き、黙々とスコップを持ち土を掘り返す。普段ギターより重いものを持たないので疲れるが気持ちよかった。黙々と体を動かしていると、全てのことを忘れて作業に没頭している。六時前まで、休み休み土を掘り返した。二十本分位の土を掘り返したろう。さあ、このへんにしとくか。思って周りを見渡すと、スコップを持って作業しているのは勇作だけだった。スコップを持って、ビニールハウスへ向かう。ビニールハウスでは千鶴が苗床の手入れをしていた。勇作は、
「今日はこの位にしとくよ」
「ありがとう。お疲れさま。疲れたでしょう」
「ああ。結構しんどいな。腹へった」
「私もお腹グーグー」
「何か食って行くか」
「うん、いいよ」
「じゃあ着替えよう。正門前で集合な」
「うん、わかった」
「じゃあ後で」
正門前で二人は落ち合うと、勇作が自転車に乗れよと言うので、二人乗りして、暗闇の中を走った。空気が頬にあたって気持ちがいい。後ろから千鶴が、
「私も自転車通学しようかな」
と言った。勇作は、
「いいじゃない。楽だし気持ちいいぜ」
「そうだね」
千鶴はそう言うとまた風を感じていた。でも自転車を買ってしまったら二人乗りはできないな、そう思った。二人を乗せた自転車は夜道に消えていった。
勇作は放課後、バンドの音合わせをしていた。もうその頃、勇作のバンドは、カヴァー曲二曲とオリジナル曲三曲をなんとか形にしていた。ヴォーカルの高杉の声は冴え渡っていた。バンドのメンバーもこれなら結構いい線いってるんじゃないかと思っていた。勇作のギターもなんとか様になってきた。そんな折だった。勇作達のバンドのデヴューが決まった。吉祥寺の小さなライブハウスだ。そこのマスターと知り合いだった高杉が、音を聴いてくれとデモテープを渡したところ、一度ライブハウスに来いということになった。マスターの前で、持ち歌を三曲披露した。マスターの返事はOKだった。夏前にやる五バンド出るライブの一つに出てくれないかと言ったのだ。そんな話はまだまだ先の話だと思っていたバンドメンバーはバンドの名前さえ決めていなかった。そこで、その夜緊急会議がマックで開かれた。みんな片手にハンバーガーやポテト、コーラを持ってテーブルについた。。みんなひそかにバンド名は考えてはいたらしいが、公にみんなで話し合うのはこれが初めてだった。みんな最初は周りを窺って何も言わず、黙々とポテトを頬張っていた。開口一番、高杉が、
「The Deadsってどうよ」
と、みんなの顔を見回して言った。みんな内に秘めたそれぞれのバンド名があったが、高杉はバンドのリーダー的存在だ。それより何より、高杉が言ったバンドの名前に、いいんじゃない、と言う気持ちが、瞬間浮かんだ。みんなが、
「いいじゃん。The Deads。かっこいいじゃん。よくねえそれ」
などと言い始めた。勇作は一年生であることもあって黙っていた。それを見た高杉が、
「阿部。お前はどう思う?」
「いいんじゃないですか」
「じゃあ決定だな」
こうして、The Deadsは、吉祥寺のマックで満場一致で結成された。ヴォーカルの高杉、リードギターの山奥、ベースの原田、ドラムの佐賀、キーボードの結城、そしてサイドギターの勇作だ。六人はマックで、腕をテーブルの中央に集め、手を重ねて、バンドの結成を誓った。
The Deadsのバンド練習は、熱を帯びていた。みんながやる気になっていた。その分厳しくなった。同じミスを何度もしたり覚えてくるように前回言ったところを覚えてこないで、練習に参加すると、罵倒が飛んだ。やる気あんのかよ。またお前かよ。また同じところだぜ。しっかりしろよ。もう二ヶ月しかないんだぜ。そんな言葉が飛び交った。だがそれはやる気の表われであることを、みんな分かっていた。だから日を追う毎に、みんな上達していった。ライブで披露する曲は五曲、ピストルズとジャムとクラッシュのカヴァーが一曲ずつ、オリジナルが二曲だ。オリジナルは高杉が作詞作曲した。毎日昼休みと放課後部室での猛練習が続いたが、練習を休む者も不平を言う者もいなかった。それだけやりがいがあった。みんな燃えていた。完全燃焼してもいい、今度のライブに懸けていた。それに今度のライブで成功すれば、次のライブに繋がる。それを誰もが分かっていた。
千鶴のフラワースクール計画は順調に進んでいた。もうヒマワリとアサガオを植える場所は全て耕され、肥料も入れられ、いつでも苗を植えられる状態になっていた。苗の方も、苗床に蒔かれ、小さな芽を出していた。千鶴は毎日、始業前と放課後、苗床の手入れをした。水がいつも新鮮なように、液体肥料を欠かさないように気をつけた。その作業を一番手伝ったのは同じクラスの有希だった。文句一つ言わず、楽しそうに手伝った。有希は、
「植物ってかわいいな。毎日見てると、どんどん大きくなっていくし、その日その日でなんとなく状態が違うように見える。ほんと生きてるんだな。それに自分が世話した苗が大きくなって、いつかでっかいヒマワリの花を咲かすんだろ。アサガオの花が校舎一面に咲くんだろ。わくわくするよ。こんなにわくわくするのは初めてかもしんない。夏休み毎日水やり来ちゃうかもしれない」
それを聞いて千鶴は大喜びで、
「来て来て。私有希と作業してるのが一番楽しいの。いっそ園芸部に入ってよ」
「えー。俺が部活かよ。似合わねー。て自分で言うか」
「そんなことない。有希は今一番がんばってるもの。部活に所属するとかそういうふうに考えないで、花が好きだから園芸部に入りましたって考えてよ。顧問の小田先生もいい人だし。うるさく言わないよ」
「そっかー。確かに俺今すっごく楽しいだよな。やっぱりこんなの初めてだよ。分かった。千鶴の頼みじゃない。自分の意志で園芸部に入る」
「やったー。入部おめでとう。有希」
「ああ。これからよろしくな。ただ他の部員と仲良くやれってのは勘弁だからな」
「わかってる。花が好きで園芸部にいるんだもん。人間関係は二の次だよ。気にしなくていいよ」
「OK!決まった。今日入部届け出すわ。数学の小田だろ。後で、出しとく」
「一緒に行こうか?」
「いい。自分で決めた事だ。自分一人の意思で来ましたって所、小田に見せてやる」
「かっこいい」
「それほどでもないけど」
「そろそろ始業だよ。片付けよう」
「おう」
二人は簡単に片付けをして、更衣室に向かった。
勇作と千鶴はお互いが忙しかったせいもあってあまり話す機会が少なくなっていたが、その日の放課後、バンドの練習を終えた勇作が校舎から出てくると、まだビニールハウスに明かりが灯っているのを見て、覗きに行った。
「よお。がんばってるじゃん」
勇作が千鶴と有希に声をかけた。しゃがんで作業をしていた二人は顔を見上げた。
「阿部君。今帰り?がんばってるんだね」
「おお。今度八月にライブが決まったしな」
「ええ?そうなの?何も言わなかったじゃない」
「お互い忙しくて最近話してなかったからいいそびれた」
「おめでとう。ほんとおめでとう」
「どこでやるの?」
「吉祥寺のクラブGっていう小さなライブハウス」
「すごい」
「って言っても、俺たちだけじゃないんだ。五バンドでタイバン張るってやつ。俺たちは、五曲やる」
「すごい。あっ、そうだ約束があったね。ライブやる時には、花束持って行くって」
「いいよ、そんなの。恥ずかしいし」
「何言ってるの。超おめでたいことなんだから。そうだ。ヒマワリの花を両手で抱えきれないくらい持って行ってあげる。ねっ、有希?」
「そうだな。マジおめでとう。やるじゃん。見に行くよ」
「サンキュウ。一応オリジナルもやるから。高杉さんの曲だけど」
「あいつセンスいいからな」
「わかってるね。抜群。あの人についていけばいつかプロになれるかもしれないって、時々思うもん」
「確かに。あいつがもしその気になって本気でプロになろうとすれば、CD二三枚は出せるかもな。後は努力とやる気が続くかと運次第ってとこか」
「ビンゴ。あの人気分屋で欲がないんだよな。俺は歌ってる時が一番楽しい。今はプロとかそういう事は考えないって、平気で言うんだぜ。バンドのメンバーがみんなジョーさんのこと、プロになれるって思ってるし、みんなどこかでジョーさんについていきたいって思ってるのにさ。つれないよ。まあ、そこがあの人のかっこいいところなんだけどさ」
「確かに。あの純粋に音楽を愛してる、あいつの気持ちが人の気持ちを打つんだろうな。だから今はあんまり急かさない方がいいぜ」
「確かに。アドヴァイス、サンキュウ」
「あいつのことは中学の時から見てるからな。今は弾いてないらしいけど、ギターも最高だよ」
「だってな。俺らの前じゃ弾かないだよ。俺らに気を使ってるのかな」
「かもね。みんなあいつのギター聴いたらやる気なくしちゃうと思って。あいつあれで優しいからね」
「そうなんだよ。俺が女だったら絶対惚れる。断言できる。まだやって行くのかよ?」
「ああ、もう少しな」
「俺も手伝うか」
千鶴が、
「練習でつかれてるでしょう?」
と心配そうに聞く。
「それ位でくたばる体か」
勇作が軽くいなす。勇作は片付けを手伝い、作業は早めに終わった。みな疲れていた。いつもならどこかに寄って行くかと言い出す勇作も、今日は疲れているから帰るかと、自然解散になった。みなそれぞれの道に一生懸命なのだ。若さはすばらしいい。実るか分からない事にいくらでも情熱を傾けることができる。だが年齢の若さはかりそめの若さだ。真に若い人は、老人になっても青春を生きている。ユダヤ人の有名な詩人、サムエル・ウルマンは、詩「青春」の中で、その事を強く語っている。だが勇作達は正に青春の果実を貪るようにかじっていた。その味は時に甘く、時に酸っぱい時もあり、目から涙が出そうになる味だった。
園芸部のヒマワリは、苗植えされた。ヒマワリの苗は弱い。千鶴と有希は毎日朝と放課後に、水やりを欠かさなかった。そのおかげか苗は日に日に大きくなっていった。双葉になり、その上からまた葉が出てきて、いずれ細い幹と呼べるようなものが生えてきた。千鶴は毎日が楽しかった。自分が世話している。植物が自分の世話のおかげで毎日大きく健康的に育って行く。それを見守るのは幸福だった。それはある種女性特有な感情かもしれない。園芸家に男性が多いのも事実だが、やはり圧倒的に女性が多い。また盆栽など花にこだわらない植物に男性は夢中になるが、女性の盆栽愛好家というのは今のところあまり聞かないのが実態だ。
一方The Deadsは行きづまっていた。やはり高杉の才能がみんなから突出し始めた。高杉はいらいらした。高杉は言った。
「なんで俺にできることがお前らにできないんだよ。やる気あるのかよ」みんな一様に黙り込んだ。みんなが高杉のようにできないことは、高杉自身が一番よく知っていた。だがうまく行かない現状にいらいらし、何かに当たらねばいられなかった。高杉はその日の練習をそこで抜けて、先に帰った。残ったメンバーは目を合わせた。
「どうする?」
リードギターの山奥が言った。
「そうだな」
みんながぽつりと言ったまま、沈黙が部室を支配した。
翌日の練習は無言で始まった。だが高杉の機嫌はいいようだ。声の張りでわかる。途中で一服しようということになって、部室でそれぞれペットボトルを口にする。口を切ったのは高杉だった。
「最近はごめんな。俺なんかあせってたみたいだ。みんなやな思いしただろ。ごめん」
山奥が言った。
「俺たちもやる気が足りなかった。これからはもっとジョーに食らいついてでもついていく。なあみんな?」
「おう」
勇作が、
「自分なんか殆どギター弾いてる振りですもん。なんて言ったらいいかわかんないけど、俺も足引っ張らないように頑張ります」
「みんなありがとう。バンドは一人でやるもんじゃないもんな。俺、柄にもなく忘れてた。やっぱ初めてのライブで気分が張ってたみたいだ。チョコ持ってきたんだ。食うか?」
高杉はそう言いながら、テーブルの上にチョコをぶちまけた。高杉が最初にチョコを食べ、
「うめえ」
と、言った。みんなチョコを取り、それぞれが口に入れた。甘いカカオの味が口に広がり、気持ちが和らぐ。
「さあ。始めるか」
高杉が、立ち上がりながらいい笑顔で言った。
「”London Calling”で行くか」
みんなは楽器を持って、顔を見合わせた。部室に大音量が鳴り響いた。
もう七月も末になっていた。期末試験は終わり一学期は終わった。校庭には運動部の連中が朝から、練習していた。
千鶴と有希は毎日八時半と夕方にヒマワリとアサガオの水やりをやった。ホースでできるところはホースで、できない所は何回もバケツで往復した。が、苦痛はなかった。ヒマワリに水をやりながら話しかける様にヒマワリの状態を見る。それが楽しかった。下葉が枯れていれば、それを取り、花に顔を近づけて、香りを嗅いだ。アサガオはホースの先をつまんで細くして、上の方までかけてやった。そうすると、アサガオが生き返ったように、水と光できらきら光る。水やりが終わると、千鶴と有希の二人は決まってペットボトルのジュースを飲みながら、一時間程花を見ながら話した。話題はいつも尽きなかった。他愛ない冗談や世間話が殆どだったが、それが楽しかった。有希がちょっとためらったように、千鶴に聞いた。
「阿部のことどう思ってるんだよ?」
千鶴は、二秒間程間を置いて、
「好きだよ」
と、言った。
「阿部に言ったのか」
「ううん。まだ」
「そうか。でも阿部って奥手そうだからな」
「どうかな」
「このまま言わないと、いい友達で終わちゃったりしそうで、心配なんだよ」
「ありがとう。でも大丈夫。言う時には言うから」
「いつ?」
「ライブが終わった後」
「それいいな」
「うん」
伏し目がちに言った。少し顔が赤くなっている。有希は、
「このお」
肘で小突いた。
「痛いー」
今度は千鶴が、有希のほっぺたを軽くつねった。
「何するんだよお」
「意地悪するから」
「してないよ。うまくいくといいな」
「うん。ありがとね」
自転車で来ていた二人は、校門の所で別れた。夏の日差しは朝から強く、二人の顔を明るく照らしていた。
千鶴達が育てたヒマワリとアサガオが近所の人達の間で話題になった。学校関係者以外にも校庭内に入れて欲しいとう要望が一日に何件かあった。電話や直接学校へ来る人が後を絶たなかった。学校側は警備上の問題を協議するための緊急職員会議を開いた。顧問の小田が強く開放を主張した。校長はその意見に賛成だったが、何も言わずに他の職員の意見に耳を傾けていた。結果は開放で決まった。朝八時半から午後四時まで、学校の校門は開かれることになった。そのことを校長は新聞社に電話で話した。翌日早速新聞社の記者が二人来ることになった。翌日実際に学校の様子を見た記者二人は、絶賛した。千鶴と有希にも取材があり、事の経過や実行した理由などを事細かに聞かれた。写真も撮られた。翌日の新聞の地域版には、大きな記事で、
「学校に花咲くヒマワリとアサガオ-フラワースクール計画成功は女子高生の努力の賜物」と大きな文字で見出しがあった。しかも花の前で微笑む千鶴と有希の写真入りだった。勇作はその記事を親から知らされた。普段新聞など読まない勇作は知る由もない。母親が、
「これ、あんたの学校のことじゃないの?」
と、他人事のように言った。勇作は何か不祥事でもあったのかと興味無さげに、新聞に目を通した。瞬間体が固まった。
「千鶴、やったじゃん。すげーよ。新聞載ってるよ」
勇作は叫んだ。驚いたのは母親だ。
「何よあんた朝っぱらから。頭おかしくなったの?」
「ああ。おかしいよ。学校行ってくる」
そう言い残すと、朝ご飯も食べずに、勇作は学校へ自転車を走らせた。学校へ着くと、千鶴は水やりをやっていた。近寄ると、
「新聞見たよ」
クールを装った。でも我慢できなかった。
「すげーじゃん。千鶴。俺より先に新聞載りやがって。いつか俺も音楽で新聞載るくらいビッグになってやる」
興奮して言った。千鶴は、
「へへ。我ながら驚いてる。まさかあんな大きな記事になるなんて思わなかった」
「そうだよなあ。一面の四分の一位あったもんな。俺あの記事一生持ってるよ。一生大事にしまっておくよ」
そこまで言われると、千鶴は照れくさかったが、やはりうれしかった。
「ありがとう」
素直に言った。
「ライブもうすぐだね」
「ああ」
「がんばってね」
「もちろん。がんばらずにいられるか。ここでがんばらなっかったら、男やめて、二学期から女子の制服着るよ」
千鶴はその姿を想像してしまい、大笑いした。
「やだあ。何言ってるの。やめてえ」
お腹を抱えて腹が痛いののを堪えていた。
「そこまで本気だってことさ」
今度はクールに勇作は言って、遠い目をした。太陽が少し眩しかった。二人を太陽が強く照らし、二人のことを知っているのは太陽だけに思えた。
ライブの日が来た。勇作は朝早く目を覚ました。ベッドにじっとしていられず飛び起きた。冷たい水で顔を洗い、顔を両手で叩く。鏡で自分の顔を見て、今日は決めてやる。自分に気合いを入れた。ライブは夜からだ。まだ時間がたっぷりとあった。勇作は学校へ行ってみた。校庭でヒマワリに水をやる千鶴と有希の姿があった。勇作はバケツを持ってヒマワリに水をやった。それに気がついた千鶴が近寄ってきた。
「おはよう。ありがとうね。今日ライブだね。がんばって」
両手をグーにしてガッツポーズをする。まるで自分がライブをやるような勢いだ。
「夜、ヒマワリをいっぱい持って行くからね」
「ああ。応援頼んだぜ。俺のファンはお前だけだからな」
その言葉に千鶴は小さく動揺した。顔が赤くなり下を向いた。それに気が付いた勇作は、
「俺・・・俺、お前のことずっと好きだった。今も好きだぜ」
千鶴は顔を上げなかった。地面に水が落ちた。いや千鶴の涙だった。千鶴の体が小刻みに震える。凍えたような声で、
「私も勇作君のこと、好きだよ。ずっと好きだった」
「じゃあ今日から俺たちカップルだな。泣くな、千鶴。千鶴は泣き虫か。学校中の花達が笑ってるよ」
千鶴は、
「泣き虫じゃないもん。汗が目にしみただけだもん。青春の汗だもん」
勇作の顔をじっと見た。せつなかった。勇作は我慢できなかった。こいつを一人にしておけない。勇作は衝動的に千鶴を抱きしめた。千鶴も腕に力を入れて、勇作の肩に腕を回した。
「好きだよ。大事にするぜ。これでも女の子にはやさしいんだ。特に千鶴っていうとびっきりの女の子には。っていうか、千鶴だけにね」
「嘘ばっかり」
千鶴は甘ったれた声で言った。勇作は強く千鶴を抱きしめた。
「寂しい思いはさせない。俺を信じろ」
「うん、信じる」
千鶴は顔を上げて言った。目の前には、校舎を覆ったアサガオが、校庭中のヒマワリが、こっちを向いて笑っていた。
勇作は帰った。それを見計らって、有希がのこのこと千鶴の前に現れた。
「やったじゃん。千鶴」
千鶴を抱きしめた。千鶴は、
「やめて。わたしの体は勇作君だけのものなんだから。阿部君のぬくもりが消えちゃう」
「このやろう。早速のろけかよ。やってらんねえな」
「えへへ。のろけです。有希ものろけてみたら。誰でもいいから」
「人をそこらの発情期の犬みたいに言うな」
「あははは。楽しい」
「俺は楽しくないよ」
「踊ろう、有希」
千鶴は強引に有希の手を取ると、スキップしながら回り始めた。まるで遊園地のコーヒーカップに乗っているような気分だった。永遠に続けばいいと思った。
ライブは六時から始まった。The Deadsのメンバーは三時にライブハウスクラブGに入った。五バンドが順番に機材を入れ、音合わせをした。The Deadsの練習は三番目だった。最初にそれぞれが楽器のチューニングをする。みんながチューニングを終え、やるかという自然な合図で演奏が始まった。その瞬間みんなの息がぴったりしていることが、メンバー全員に伝わった。立て続けの五曲演奏した。
「いい感じだな」
高杉が言った。
「ああ、息がぴったり合ってるって言うの」
「実力じゃん」
みんないい気分で調子のよさを讃え合った。
「もう一回いこうか」
高杉が言い、二度目の演奏をする。二度目も最高の演奏ができた。持ち時間が終わり、楽器を片付け、楽屋に戻った。みんなは早くライブが始まらないかと、わくわくしていた。みんなハイになって、早く弾きてえ、と叫んでいる。クールな高杉もみんなにつられて、早く歌いてえ、うおー、爆発だぜ、などと意味不明な言葉を絶叫していた。
そこに楽屋のドアがノックされた。ゆっくりとドアが開き、人の頭が中を覗く。千鶴だった。勇作は一番に気が付き、楽屋を出る。通路で二人は目を合わせた。千鶴は体いっぱいのヒマワリを抱えていた。勇作はそれを受け取り、言った。
「サンキュウ、千鶴。楽屋に置いてくるな」
楽屋のテーブルにヒマワリを置き、すぐ戻る。千鶴は恥ずかしいのか下を向いていた。
「どうした?」
「なんか緊張しちゃって」
「演奏するのは俺だぜ」
「でもなんか自分のことみたいで」
「はは、千鶴は心配性だな。大丈夫だって。さっき音合わせしたら、抜群のコンビネーションだった。本番も決めるぜ」
「そうなんだ。少し安心した」
「来てくれてありがとう」
「約束じゃん。ずっと前からの」
「そうだな。出会った頃からの約束」
「そうだよ」
「俺たち運命の出会いかな」
「運命なんて信じない。私はただ阿部君が好き」
「阿部君なんてよそよそしいよ。勇作って呼んでくれ」
「ええっ、恥ずかしいよ」
「お願いだから」
「うん。勇作くん」
「なーに?」
笑顔でおちゃらけたように答えた。
「やだあ。本気で言ってるのにー」
「わかった。ごめんごめん。ありがとう、千鶴。これで本当にカップル誕生だな。学校一のカップルだぜ。みんなに見せつけてやろうぜ」