2005-04-23
新入り
私がいる精神病院には、見学とういう制度がある。入院に興味がある者なら、病棟の見学ができる。わたしもした。私たちが喫煙室で煙草を吸っていると、通路を係員に連れられた、若い女の子が歩いてきた。それを見て私は言った。
「見学者だ」
「えっ、本当。どんな子?」
「若くて黒いスプリングコートを来た背の高い子でしたよ」
「マジ?どれどれ」
通路を帰ってくる時に、もう一度見る。目が合った。
「見ました?」
「見た」
私たちは暇である。見学者は格好の暇つぶしの餌食だ。見学者が実際入院してくるか、みんなで話す。病院側は新棟である七ー二病棟を見せてから、私たちの五病棟を見せる。七ー二病棟の方が差額ベッド代が高いから、病院の収入になる。だから、奇麗な七−二病棟を見てから五病棟を見ると、汚く見えるに違いない。
翌日、昨日の女の子は五病棟に入院した。煙草を吸う子だ。喫煙室のドアを遠慮がちに開けると、
「失礼します」
「いらっしゃい」
私たちは笑顔で言った。桜の葉が赤から緑に変わりつつある、午後のことである。
花粉症
恩田さんは風邪をひいた。四月の中旬のことだ。鼻水が止まらなかった。それを見た看護婦の伊野さんんは、花粉症だと言った。伊野さんは花粉症だ。マスクをいつもしている。ちなみに病棟一の美人だ。「否定したい気持ちは分かるけど、認めなさいよ」
病棟中に響き渡る伊野さん声は明るかったが、真剣だった。隣にいた花粉症ではない主任さんは、笑っていた。
恩田さんが喫煙室に入るなり、煙草を手に取りながら、
「伊野さんにはまいっちゃうわよ」
煙草の煙が鼻から抜ける。みんなは喫煙室で恩田さんと伊野さんのバトルを聴いていたので、笑った。桜が散り、葉桜が出始めた、曇った午前中の出来事だ。
最後のぞうさん
ちずちゃんは、絵本が好きな女の子だった。と言っても年は三十歳を越えている。が、その容貌や服装はまだ少女を思わせた。そのちずちゃんが明日退院する。喫煙室で煙草をみんなで吸っていると、吸い殻が一杯になってしまい、大きな筒状の灰皿の水を、吸い殻がみんな吸ってしまった。吸い殻が大きく膨らみ、煙草の火が消えなくなった。それを見た私はじょうろ、水場に置いてある、象の形をしたピンク色のじょうろで水を足そうとした。それを見たちずちゃんは、「わたしがやる」
と言って、ぞうさんのじょうろで、灰皿に水をやった。その姿を見ながら、「最後のぞうさんだね」
私は呟いた。みんな笑ったし私も笑ったが、少し寂しかった。じょうろの水やりはいつもちずちゃんがやっていた。
鬱と骨折
田山さんはパチンコの帰り自転車で転んだ。雪の日の夕方だった。右足首の辺りに激痛が走った。田山さんは携帯電話を持っていたが、それを手にする気力もなく、道に倒れていた。そこに同じマンションの子どもが通った。田山さんは、「102の田山だけど、主人がいるから呼んできて」
と頼んだ。ご主人はゆっくりと田山さんのいるところに歩いてきた。
「お前そんなところで何してるんだ?」
「転んで痛いんだよ。部屋に連れてってよ」
「自分で転んだんだから、自分で歩けよ」
ご主人が言うので、仕方無く、右足を引きずって、部屋まで歩いた。距離は百メートルもなかった。部屋に入った田山さんは、ご主人に、
「救急車呼んで」
と言った。ご主人は、あせりもせず、
「転んだ所を見せてみろ」
そう言って、怪我の箇所を見た。田山さんはご主人の行動にムカついたが、自分ではどうすることもできなかった。とりあえず救急車を呼ぶことになった。最初に連れて行かれた病院は、あやしかった。そう感じた田山さんは、
「別の病院へ連れて行ってくれ」
と頼んだ。そしてある二十四時間体勢の救急病院へ連れて行かれ、そこで右足首骨折と分かった。至急手術が行なわれた。全治五か月の骨折だった。その夜、大部屋は嫌だと言う、田山さんは、特別室に一泊した。そうしたら無性に人恋しくなった。そして四人部屋に移った。そこに、ある日鬱が襲ってきた。田山さんはかかりつけの精神科医の小倉に電話した。小倉の指示で、精神病院に入院となった。初めての入院ではなかった。田山さんは、松葉杖と車椅子を駆使して、なんとか自分を保った。田山さんは、病棟のみんなからこう呼ばれた。
「病院一かわいそうな患者」
それを聞いた田山さんは、
「うれしくねーよ」
冗談ぽく言って、煙草の煙りを吐いた。
結婚式
景子の結婚式は病院中の話題になった。なにしろ精神病院に入院中に式を挙げたからだ。式は軽井沢の教会で挙げられた。式に参加する父親は車で登戸から向かったが、式の三十分前になっても現れなかった。結局父親が到着したのは、式の十分前だった。式は無事に行なわれた。二人は横浜に新居をかまえた。しかし、景子は入院中の身、二人で電車に乗りながら、式の当日、二人はある駅で別れた。「じゃあね」
「元気でね」
景子の病棟は閉鎖病棟の五病棟である。病棟に帰った景子は、病棟のみんなから祝福された。ある日、病院のエレベーターの前に立っていた景子に、二病棟の患者が、言った。
「五病棟で入院中に結婚した人がいるんでしょ?」
「それわたしだよ」
ある日、よその病棟のヘルパーが景子に言った。
「おめでとう」
「なんのことですか」
「あんた結婚したんでしょ」
「どうして知ってるんですか?」
「こういうことは広まるの早いのよ」
ヘルパーはにやりと笑った。
景子は、その後、主治医の玉井に、
「新婚旅行行きたい」
とせがんで、結局グアムへハネムーンに行った。二人はグアムで幸せな日々を過ごした。そのことは、今のところ、他の病棟の人達にはバレていないらしい。景子は尋ねられることはなかった。まあどうでもいいけどね。景子は思った。この話を聞いて、病院とはプライバシーが筒抜けな所なのだと、私は思った。それはまた別にどうでもいい問題だった。
よき友、吉澤景子さんに感謝して