2006-08-22
カミーユ・クローデル
8月20日(日)、府中市美術館で、女性彫刻家カミーユ・クローデルの展覧会を観てきました。京王線の東府中駅で、電車を降り、府中の森公園の中にある美術館へと歩いて行きました。館内は、その日が最終日ということもあってか、結構混んでいました。
カミーユ・クローデルは、彫刻界の巨匠オーギュスト・ロダンの弟子であり、また愛人でした。
彼女の創り出すブロンズ像は、初期の頃、強くロダンの影響を受けているように思えました。力強く、生命力に溢れ、その人物の肉体が、骨格が、筋肉が、隆々と湧き立つように隆起し、近寄りがたい程の強い意志を感じました。
ロダンと決別した後になると、彼女自身の独自性、本来の資質が顕著になります。作品は女性的で、物語性をは帯び、柔軟な印象を灯すようになってきました。モチーフは炉端に座る女、暖炉の前で手紙を書く女。女性の肉体は、柔らかく、しなやかであり、優しくブロンズの塊が其処に在りました。
彼女は41才の時、強度の躁鬱病を患い、以降1943年、死に至るまで、ロダンに対する憎悪の妄想に捕われました。そのことは、彼女が病院から出した弟ポールへの手紙で強く語られています。
ロダンは、彼女の経済的危機に、また彼女の作品の展示に、精力的に支援を惜しみませんでしたが、ロダンの思いは、彼女の狂気の前に屈したのでした。
彼女の苦悩に満ちた人生は、イザベラ・アジャーニ主演の映画「カミーユ・クローデル」で、描き出されています。
55体のブロンズ像に、夏の暑さを忘れ、時間の流れに身を任せたひと時を送りました。
2006-08-17
手塚治虫『ばるぼら』
手塚治虫作品の中で、どれか一つを選べと言われたら、shiroyagiは『ばるぼら』と即答する。「奇子」「人間昆虫記」「きりひと讃歌」「アドルフに告ぐ」「鳥人体系」「百物語」「ブッダ」「火の鳥」「ブラックジャック」など、好きな作品は数えきれないが、やはり一つ選べと言われたら、『ばるぼら』なのである。この作品は、耽美主義をかざして文壇にユニークな地位をきずいた作家、美倉洋介が、ばるぼらというきまぐれでずぼらなフーテン女と同居するところから物語が始まる。
美倉は、売れっ子作家としての地位と名誉を、自らの持病、異常性欲の露見でそれが奪われないか、陰で怯え、様々なスポーツや習い事に手を出して、それを克服しようと努力するのだが、この病いから癒えないでいた。
ある日、酒に酔い、ヴェルレーヌの詩を詠みながら、路上に座り込むばるぼらと、美倉は出会い、二人は奇妙な同居生活を始める。
ばるぼらは、現代に生きるギリシャ神話の中の芸術の女神ミューズであり、また黒魔術師であった。ばるぼらが居ついた芸術家は、仕事に成功し、ばるぼらが離れた芸術家は仕事に人生に失敗する。ばるぼらの大切さに気づくのは、いつもばるぼらが離れていってしまった後からだ。
やがて、美倉とばるぼらは最上の生活を共にするようになるが、そんな日々は長くは続かず、物語は狂気に満ち、迷宮の中を彷徨うように、暗く、あてもなく進んでいく。
この作品がなぜshiroyagiを惹きつけるのか。書くという事、書き続けるという事に、悩まされた一人の作家の人生がそこにあるからではないかと思う。そしてばるぼらは、創り出す者にとってパンドラの函の中に残ったもののような存在に思えたからであろうか。
手塚治虫は、『ばるぼら』について、こう語っている。
「ぼくはオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』が好きでLPを仕事の合間にしきりにかけるのですが、いちどぜひこれを漫画化したいと思っていました。幻想、怪奇、猟奇に充ちたロマンがあるからです。
『ばるぼら』ははじめ『ホフマン物語』の現代版として書き出しました。しかし、たいへん特殊な世界の、特異な物語なのでアクが強すぎ、しだいにオカルト・テーマの方へかたよってしまいました。この連載のころは、今ほどオカルトブームになる前だったのです。」
『ばるぼら』は、1974年、大都社から出版された。
手塚治虫は、1989年2月9日、60年の生涯を閉じた。
2006-08-01
深い夜
男は退屈していた。時刻は午前一時半。男の習慣では、ベッドに入って眠るのは、午前三時と決めていた。この時刻では、知り合いは皆眠っており、電話をかけるのは、ためらわれた。男は本でも読もうと思い、一冊の本を手にし、一ページ目を開けてみたが、五行目には、読書の意欲が萎えていた。男は本を閉じ、机の上に本を置いた。さてどうしよう。男は考えると言う程、真剣に考えていた訳ではないが、後一時間半、どう過ごそうか、腕組みをして、天井を見上げた。男には女がいた。交際を始めて、三年になる。男は女のことを考えた。もうそろそろ結婚かな。潮時、そんな言葉がふと頭の中を過った。男と女は、今まで結婚の話題をお互いに避けていた。二人とも今の状態に満足していたのが、一番の理由だった。週末と、平日の一日を、二人は一緒に時間を過ごした。お互いの距離感に安心を憶えていた。将来のことを考えれば、選択肢は、結婚、この他に回答はなかったが、男と女の共通理解が暗黙のうちに了承されていた。
男は心を決めた。今度女に会う時に、結婚を話に出してみよう。そう決めてしまうと、男は今まで漠然と抱いていた、心の不安定さがなにやら解決した様に思い、肩から荷が降りるように感じた。同時に、男は女を愛しているという実感が込み上げてきて、感情を抑えるのに苦心する程、気が昂った。
気がつくと、時刻は三時を回ろうとしていた。男は部屋を暗くし、ベッドの中に体を潜り込ませた。体を仰向けにして両目を閉じた。眠りはすぐに訪れて、男は深い眠りの中に沈んでいった。
男は目を覚ました。目覚めははっきりとしたものだった。男はいつものことだが、目覚めがいい。スイッチをオン、オフのボタンを押すように、睡眠と覚醒を繰り返した。目覚まし時計も男には必要なかった。タイマーが時を縮めてアラームが鳴るように、定時に目を覚ました。
男は起き上がって、洗面所で、顔を洗った。鏡に映った自分の顔を見て、男は老いを感じた。髪には白髪が少し混じり、目尻に皺がよっていた。男は自分の顔に浮き出た年輪の兆候を見て、安心した。男の顔には年相応の老化現象があった。男は思った。結婚するには早すぎず、また結婚しないには遅すぎるということはなかった。その顔を見て、男は昨晩考えた女との結婚の決意を一層強くした。また一時の気の迷いではなかったことに喜びを感じた。
男は、一番のスーツとネクタイをして、仕事に向かった。
今日は女と会う約束があった。男は女に自分の決心を語る姿を想像してみた。それは悪いものではなく、女とつきあい始めた頃の二人の初々しさと、同時にぎこちなさが感じられた。まるで交際の前、交際を女に申し込んだ時のような思いが過った。男はその時を思い出し、一緒に食事をしたレストランで、女に会おうと思った。女はその事を憶えているだろうか。考えながら道を歩いていると、空はどこまでも青く、男を祝福している様に思えた。また女も今頃どこかの空の下で、同じ思いを抱いているのではないか、そんな妄想が頭を過るのであった。それは男の気持ちを軽くさせ、体が宙に浮いているような、浮遊感を感じさせた。
その晩、女に会った。女はいつもと変わらなかった。男は女に予約している店があるからと言って、二人はタクシーに乗った。
店内は、まだ時刻が早いせいか。席はまばらに空いていた。名前を言うと、ウエイターに連れられて、店の奥の席に案内された。ワインを適当に選び、前菜とメインディッシュを頼んだ。
男は、女の方に体を傾けると、女に言った。「君はこの店を憶えているかい?」女は言った。「ええ、勿論よく憶えているわ。ここは忘れられない場所だもの」男は、「よかった。ありがとう」そう言うと、ほっとした表情で、ワインを一口飲んだ。
料理が運ばれてきた。二人は料理を食べながら、「昔と味変わってないね」「本当に」などと言いながら、料理を平らげていった。
「なんで、この店にあれ以来、一度も来なかったのかしら」女が言うと、「なんでだろう。考えてみると、ここはある種の聖地のようなものだったんじゃないかな」男はそう答えた。
「聖地?どういうこと?」
「此処は、君が僕の気持ちに応えてくれた、特別な場所なんだ。だから普段会う時には、ここは適さない。だから今まで一度きりしか来なかったんじゃないかな」男が言うと、
「なら、なんで今日はこの店に来たの?何か特別なことがあるの。私には思い当たることなんて何もないけれど」女は不思議そうな顔をしながら、生牡蠣をレモンで搾って、口に運んだ。男は上半身を真っすぐな板のように姿勢よく反らすと、手を休めて、両手を組んで、テーブルの上に置いた。
「実は大事な話があるんだ」男が言うと、男は女の対応を伺った。女は、ナイフとフォークを皿の上に置き、男の顔を見上げた。男の顔には、どこか女と一定の距離を置いているように感じられた。しばらくして女は、「いい話?悪い話?」と呟いた。男は琴線に触れた糸をほぐすように、首を一度回した。
「いい話か、悪い話かは君の対応次第なんだ」そこで一拍間を置いて、言葉を紡いだ。
「君が今どう思っているか分からないけれど、僕は今の気持ちを君に受け入れて欲しい。つまり結婚しないか」結婚しないか、この言葉をさらりと口にすると、口が渇いた。けれど男はワインを飲まず、女の反応を伺った。女はワインを口にして、グラスをテーブルの上に置いて、上を向いて、男の顔を見つめて、
「同感だわ。私もあなたと結婚したいわ。それは何年後とか言うのじゃなくて、例えば今すぐ。今週中にでも。だって私はあなたが何時、その言葉を言ってくれるのか待っていたんだもの。あなたは私の気持ちに気づいてて?」
男は、「気がつかなかった。僕はてっきり君はまだ結婚なんて遠い先、まるで他人事のように感じているんじゃないかと思っていたからね。君だって、今の僕たちの関係に満足していたんじゃないのかな。結婚すれば休みの日は、ずっと一緒にいて、一緒のベッドで寝て、そういうの、気が引けたんじゃないのかい」
「そう思った時もあったわ。でも今はそうじゃない。あなたとずっと一緒にいたい。そう思うの」
「うれしい。君がそんなふうに思っていたなんて。大体僕の優柔不断がいけないんだ。大事なことを後回しにする。僕の悪い癖なんだ」
「知ってる。あとあなたがキュウリが嫌いなことや自動車に興味がないこと、数え上げればいっぱい。誤解しないでね。あなたを悪く言ってるんじゃないの。どう言ったら言いのかしら、うまく言えないけれど、そのままのあなたが好きだってこと。何もどこを変えて欲しいなんて言うんじゃないの。むしろそれに満足していると言った方が的を得ていると思う」
デザートを食べ、最後のエスプレッソを飲み終えて、二人は店を出た。二人は今日はこのまま別れたくない、お互いが思っていた。男は、「家に来ない?」、女は頷いて、タクシーを拾い、男の家へ向かった。
二人はその夜、三回愛し合った。
女は男の腕枕に頭を乗せ、気持ちよさそうに眠っていた。時刻は午前一時半。男は眠れなかった。三時に寝る習慣が、今日の緊張した時間と愛の疲れにも叶わなかった。男は呟いた。習慣変えなくちゃな。そう考えると男は一人ではなく、女と二人で暮らすと言う意味の一端を体で感じたようで、一つ納得がいくようであった。男は女の眠った顔を子猫を見るような気持ちで眺めていた。それは永遠が一分に感じられるような、短い夜だった。
2006-07-12
本棚
山本夏彦著『変痴気論』の「暮らしの手帖」の中にこのような文章がある。「出版社は本を出すと、それを小売りの本屋に委託販売する。本は売れた分だけ支払って、売れなかった分は払わない。版元に返品する。ひとり岩波書店は、売れる見込みのある分だけ買切ってくれ、したがって返品は許さない。見込みがなければ、仕入れてくれなくても仕方がない。委託制に対して、これを買切制という。わが社はきわものを出さない。読むべき値打ある本しか出さないから、委託しない。そもそもこの委託制度が、わが国出版界のガンだとは、版元なら皆知っている。ひとり岩波だけが、買切制を貫いているのは、見上げたものだとほめられていいことである。
田舎町で岩波文庫がそろっている書店があれば、それはその町一の本屋である。
それを誇りに思いながら、その文庫が委託でなく買切で、返品できないのがいまいましくてならないのである。
だから、日本中の小売の本屋は、岩波書店を憎んで、いつぞや岩波の本を売らぬ運動をしたことさえある。そのとき、岩波以外の版元に、かげで快哉を叫ぶものがあったのは、それは理想的な売り方で、まねればいいのに、まねができないからである」
田舎町、あるいは郊外で、一面岩波文庫の棚がある本屋を知っている。三晃堂本店である。shiroyagiはあまり岩波文庫のよい読者とはいえないが、そこに一面の岩波文庫があると、少し安心する。ちなみに同書店では、社会思想社の教養文庫がひっそりとおかれてある。もうとうに倒産した出版社で、今では古書店でしか手に入らないのが普通である。ところで同じ買切制の静山社のベストセラー、ハリー・ポッターシリーズはおいていない。そのかわりに、岩波書店の「ゲド戦記」「ナルニア国物語」のシリーズがおいてある。また最近の書店では、マンガにビニールの封をしているのが通常だが、ここでは封はない。そんな三晃堂本店は、shiroyagiにとって一番の本屋なのである。
2006-06-03
カバチタレ
フジテレビで先日まで再放送していたドラマ「カバチタレ」を見ていて懐かしさが込み上げてきた。深津絵里演じる行政書仕と常盤貴子演じるウエートレスが織りなすコメディなのだが、テンポのいいセリフ回しと物語りの展開の良さが小気味いい。このドラマはちょうど一年前同局で再放送していた。当時、私は病院に入院していた。一緒の病棟に入院していた女性のOさんがこのドラマの再放送を楽しそうに観ていて、私も観るようになった。Oさんはまだ大学を出て就職したばかりだった。Oさんと私は同じ主治医で、Oさんは主治医をとても信頼していた。一方私は主治医に対してあまり信用していなかった。Oさんは実家が岡山県で、倉敷の大原美術館には何度も行ったことがあると言っていた。私はOさんより先に退院し、その後Oさんと会うことはなかった。病院の外来でも見かけることはなかった。なんとなくいつも気になっていて、入院時代の友人に会うと、それとなくOさんのことを尋ねていたが、わからないとのことだった。そんな時、「カバチタレ」の再放送を観ていて、Oさんのことが増々気になってきた。外来に来ていないということは、実家の岡山に帰ったということだろうか。
このドラマの主題歌が「Do you remember me?」という曲なのだが、この曲が実に良い曲で、私はこのところ気がつくとこの曲を口ずさんでいる。大体rememberという単語がいい。覚えている、忘れないでいるという言葉の時間的継続性があって、感慨深く、なんだか優しい気持ちになれる。勿論それが悪い出来事であったり、嫌な思い出だったりとかしたら、苦痛でしかないのだが、私にはこの曲で流れるrememberという言葉に深い愛情を感じた。さてOさんは今頃どうしているのだろうか。Oさんは私のことを覚えているだろうか。ホールでしゃべりながら一緒に食事を摂っていた頃がひどく懐かしく感じてしまう。しばらくはこの曲が耳から離れそうもない。