2006-10-06
傘わすて
朝、目を覚ますと外は霧雨だった。雨戸を開けると、縁側が濡れている。妻がもう先に起きていて、台所で朝飯を作っていた。男は洗面所へ行き、顔を洗い、髭を剃り、頭髪の寝癖を直した。居間のテーブルに座ると、朝飯はできていた。男は無言で食べ、食べ終わると、歯を磨き、無言で家を出た。妻もまた無言であった。
傘をさし、駅へと向かう。霧雨に傘の効果はあまりなく、スーツ全体が湿っていた。
駅に着くと、傘の水をきり、傘をたたみ、電車に乗る。出入り口に一番近い席に座った。鞄を膝の上に置き、傘を出入り口のスチールの棒に掛けた。そして男は習慣で、腕を組み頭を下ろし、寝入った。男の降りる駅は、急行で四つ目の駅だった。男はいつも携帯電話のアラームに、目的駅に電車が着く五分前にアラームの設定をしていた。だがマナーモードなので、音は鳴らない。背広の胸ポケットに携帯電話を入れていた。
時間通りに、ヴァイブレーションが男の心臓を起こした。男は眠りから覚め、いつも通り電車から降りる用意をした。その時、携帯電話がまた震えた。男はそれを胸のポケットから取り出した。女からのメールだった。妻ではない、愛人だ。その時、電車は駅に着き、扉は開き車内から人が溢れ出た。男もその波のひとつだった。男は流されるようにホームを不安定に歩き、どうにか改札口に着くと、自動改札機にカードを差し込んだ。扉が開きカードが出てきて、それを財布にしまい、男は駅の出口へと向かった。
外は雨だった。霧雨ではない、土砂降りの雨だった。男は傘を、傘をと。
電車に忘れてきたことにやっと気づいた。そこへ会社の同僚が通りがかった。一人佇む男の肩を叩いて、
「どうしたんだ。そんなとこに突っ立って」
「傘を電車に忘れてきた」
「何、気にすることはない。俺はいつも折りたたみ傘を鞄の中に入れてるんだ。雨の日は、別に傘を持つ。どうだ、間違いが無いだろう」
そう言うと、同僚は鞄の中から折りたたみ式の傘を取り出し、男に渡した。男は礼を言い、傘をさし、ふたり会社に向かった。
午後には雨はやみ、空は晴れていた。男は同僚に傘を返した。
定時で会社を出、愛人のではなく、自宅に向かった。
家に着くと、妻が出てきて、ドアを開けた。妻は夫に足りないものに気づき、「傘はどうしたんですか?」
「忘れた」
それだけ言うと、中に入って、自室に向かった。男と妻の間には会話が無い。十年経つ。ふたりには子どもは居らず、家の中は男と妻のふたりで沈黙だった。テレビの音さえなかった。ふたりは黙って夕飯を食った。
玄関の傘立てには、妻の使う花柄の傘が二本だけ傘立てに刺さっていた。明日雨が降ったら、これを夫に持たせよう。妻はそう考えたら、生活で溜まっていた澱のようなものが忘れられ、ひとり微笑んだ。明日雨が降るといい。妻はそう願い、夕食の片付けをした。男は妻の企みを知らない。男はのんびりと風呂に浸かっていた。
翌朝は雨だった。男は嫌々花柄の傘をさし、駅に向かった。妻はその後ろ姿を視界から消えるまで、傘をさしながら見送った。夫を見送ったのは、十数年ぶりのことだった。なんだか夫の姿がいとおしく思えた。またそれも十数年ぶりの感情だった。ただ妻はひとつ知らないことがあった。夫に愛人がいるということ。
この夫婦がどうなったかは知らない。私は三年前にここを引っ越し、それ以来、この夫婦とは音信不通になっているのだから。
2006-10-03
日本の宿
宮本常一(みやもと つねいち)著『日本の宿』を読了。平安時代から現代に至る、様々な宿の歴史が緻密な取材の元に書かれている。
宿の歴史は、また旅人の歴史であり、人の歴史である。時代とともに変わる宿の形と役割がその時代に生きた人々の生活の変遷をあるがままに写す。
特に興味深かったは、宿に置かれた女の役割である。泊まる者の身の世話、夜の世話。当時が如何に性風俗に対して、おおらかであったかが、丁寧な取材から伝わり、平成という現代に生きる者の胸を打つ。
旅をする者なら、一度はこういった本を読み、旅先での思いを遥か昔に運んでみるのは価値があることだと考えた。
2006-09-14
結婚できない男
9月12日(火)、放送された「結婚できない男」11話。独特のこだわりを持つ才能豊かな建築家でありながら、その偏屈な性格で周りから愛されながらも疎ましがられるハンサムな40代独身男、阿部寛演じる桑野信介がクライアントの希望でキッチンからリビングに「花柄」の壁を使うことを嫌々承知したが、事務所の唯一の部下である塚本高史演じる村上英治のミスでそのデザイン画がインターネット上で流され嘲笑された。桑野は英治をきつく怒鳴る。英治が犯人を見つけ出し、殴ろうとしたが、逆に殴り返され、病院に担ぎ込まれた。
診察室で桑野と英治が二人きりになった時に英治が桑野に言ったセリフ。
「だって、分かるから、俺。
自分のポリシー曲げて「花柄」を入れることが桑野さんにとってどれだけ辛かったか、分かるから。
なのに俺のミスであんなことに。
俺、桑野さんの部下です。桑野さんの味方です。だから俺のこといなくていいなんて思わないでください」
泣けた。ドラマで泣けたのは何年ぶりだろう。自分にこんな感情が残っていたことも忘れていた位だ。ドラマの中の桑野は英治の前で泣くことをためらい、トイレに行ってくると言って、病院の屋上で一人泣く。
来週が最終回だが、このドラマは、最近のドラマでは珍しいカメラの長回しを多用していて、人物のキャラクターや出来事が巧く深みのあるように描かれている。桑野が自宅の豪華なオーディオセットで聴くクラシック音楽もその時々に違い、ちょっとしたスパイスになっている。また桑野を中心に周りを取り巻く女性、高島礼子、夏川結衣、国中涼子らの役がそれぞれうまく演じられていて、物語にユーモアと共に悲しみも感じさせる。近年稀に見る完成度の高い作品の一つであることは確かだろう。
2006-09-12
Google Earth
下記のアドレスで、Google Earthのフリーソフトをダウンロードすると、衛生写真と航空写真を使った、地球や世界中の場所を見ることができます。自分の住所を入力すると、自分の家の屋根まで見ることができます。
ちょっとした気分転換になり、気軽に世界中を旅した気持ちになれる、なかなか楽しいソフトです。
もしよかったら、見てください。
きっと日常から少し離れた気分になれると思います。
http://earth.google.com/
2006-09-07
昭和の森スケートリンク
昭島市田中町、昭和の森スケートリンクが今年の三月で閉鎖になった。shiroyagiは、毎週週末になるとリンクへ行った。スケートの練習をしていた。教室に通い、インストラクターの個人レッスンを受けていた。リンクには、毎週常連さんが来て、整氷時間には、顔見知り同士で、子どもから年寄りまで、他愛もない世間話をしていた。
リンクが閉鎖されると聞いたときは、ただただ驚くばかりだった。選手の子どもたちは今後どこで練習するのだろう。インストラクターはどこのリンクで教えるのだろう。そして、大人初心者たちはどこへ行けばいいのか、全く分からなかった。
次第に、教え子を連れて、インストラクターは行き先を決めていった。大人初心者には、幾つかの選択肢があった。東大和、高田馬場、東神奈川、新横浜、大体このあたりから、滑る場所を決めなくてはならなかった。が、shiroyagiには、どこも記号にしか思えず、あまりにも遠くに思えた。
突然失った昭島は、shiroyagiにとって偉大だった。最上の憩いの場であった。其処から引き離されたスケート難民であるshiroyagiは、一体何処へ行けばいいのだろう。もう5ヶ月もリンクへ行っていない。スケートを続けるのか、止めるのか、まだ決められずに、悶々としている。昔の仲間たちはもう新しい一歩を踏み出し、リンクで汗を流している。ただ一人shiroyagiだけが、いつまでも昭島の思い出の中に引きこもり、何処へ行くこともできず、迷子になっている。