2006-11-02
夜更けに
夜更けに目を覚ます。パコ・デ・ルシアの音楽をかける。高いカスタネットと悲し気なギターの音。わたしは改めて、目を覚ました。その悲しい旋律に、そのはかな気なメロディに。わたしはこの音楽に泣こう、わたしの孤独も含めて。
そして朝まで、パコを聴き続けるのだ。悲しい通勤電車に乗り、虚しい会社に勤めに行くまで、わたしには少しの解放される時間が必要だった。それはわたしにとって唯一の救いであった。
朝が来る。妻がいれたコーヒーを啜りながら、朝刊に目を通す。わたしは家を出ると、死人(しびと)になる。デッドマン・ウォーキング、死人が歩いている。
駅に着いたわたしはipodに集中し、周りの客に関心を持たないようにする。そして遂に駅を降りて、死人が経営する会社へ向かうのだ。その足取りは、なんとも重い。まるで足に、囚人がする鎖が繋がれているようだ。それでもわたしは行かなくてはならない、死人の集まる公園墓地。そこでわたしは何を見ただろう。死人が死人の足を引っ張り、互い同士がもつれ合っている。
もうううんざりだ。だからわたしはマドリッドへの飛行機のチケットを取った。パコ・デ・ルシアのいる国へ行くために。わたしはもうためらわない。
手元
手元の指がよく動かない。飲んでいる薬の副作用のせいかもしれない。キーボードを打つ年齢に達した時には、もうわたしは薬を飲んでいた。だからわたしの書く字は、大変の体。小学校一年生が書く字、そんなふうな体裁だ。だからわたしはひとに手紙を出さない。そのせいか友だちが減った。別にたいした友ではない。年に一回年賀状のやりとりをして、冠婚葬祭があれば、黒い服を着て集まる。
わたしはこういったつきあいに興味が湧かない。だから自然、年が過ぎる度に友、そう呼べるのなら、減っていった。だが、それはふしぎとわたしを悲しませなかった。むしろ、身が軽くなる思いだった。ああ、せいせいした。なんで今までこんな連中とつきあっていたのだろう。わたしは人生のニヒリスト、人生なんて真っすぐには見られない。
ひとはわたしを変わり者と呼び、次第に避けるようになった。おお、いいじゃないか。臨むところだ、わたしの方こそおつきあいは願い下げ。もう金輪際会わない、書かない、様子を他の友人に窺わせるようなことはしない、紳士協定、ここに締結。
肩の荷が下りた。疲れました。わたしは少し眠ります。そのために薬を飲みます。そうです、手元がうまく動かなくなる薬です。でも、もうしかたがないのです。薬は止めれないし、止めれば眠れない。わたしは快適な睡眠を取ります。朝までぐっすり眠りたいです。それではみなさんおやすみなさい。と言っても、ここにはわたししかいませんがね。
それにもう、わたしのアドレス・ブックにはひとりの名前も載っていません、母の名前を除けば。
ああ我が懐かしき母よ、あなたの姿をこの何年か見られないことは、わたしにとって唯一の苦悩です。でもその苦しみからも、もう少しで解放されます。薬を先程、千錠飲みました。胃洗浄してもおそらく助からないでしょう。ああ、ただ心残りなのは母。あなたをこの世に遺していくのはあまりにつらい。だからわたしは母のお茶に、薬を入れました。もう手遅れです。母が逝くのと、わたしが逝くのとは、そう時間に、差はないでしょう。さようなら、みなさん。かつて友人と呼んでいた知識人の群れ、わたしは今、あなたたちに郷愁を感じる。
2006-11-01
夫
夜中目を覚ました。ひとりではない、横に妻がぐっすりと眠っている。わたしはそっとベッドから抜け出すと、トイレに行った。その後、台所に行き、冷蔵庫のビールを開けた。居間のソファでビールを飲んでいると、無性に悲しくなってきた。嗚咽のようなものが込み上げてきて、わたしはひとり夜中の居間で泣いた。妻が、妻がわたしを拒否するのだ、もう五年。わたしは自分のやり場の処理に困って、娼婦を買った。でも本当に心から妻を愛しているのだ。その自分との葛藤にもう耐えきれなくなった。
わたしはこのままビールに青酸カリを入れてしまおうかとも考えた。が、ちょっと待てよ。まだわたしに明るい未来が残されいるんじゃないか、そんな希望の光が右目の奥をかすめた。
最後の機会、もう一度妻にわたしを受け入れてくれるよう言うことにした。そして翌晩。時が来た。ああ人生よ、悲しいことかな。妻はもう生ある限りわたしの相手はうんざりだと言った。わたしは衝動的に妻の首を絞めた。そして妻は還らぬ女となった。だが男の心の中にだけは、男がこの苦しい人生のピリオドを死によって終わらせるまで、妻は生き続けた。
2006-10-31
妻
夜中に目を覚ましたのです。ええ、あのひとはぐっすり眠っていました。だからわたしはひっそりとベッドから抜け出し、台所でグラス一杯の水を飲んだのです。ベッドに戻ると、まだあのひとは高鼾をかいて、やはりぐっすり眠っていました。
目覚まし時計が鳴るまで、わたしは眠ることができませんでした。それはそうでしょう。わたしは毎日あのひとが会社に行ってから、日中ずっとお昼寝しているのですから。だって夜はあのひとの鼾でどうしても眠れないんですもの。そんな生活がもう十五年間続いています。わたしももうなんだか疲れました。
今日、あのひとが会社に行っている間に、荷物をまとめ、家を出ようと思います。昨日今日決めたことではありません。十五年間考えたことなのです。それを罪と言うひとがいたならば、わたしはこう言ってやります。あのひとと二週間でも一緒にいてみなさい。白髪が十本増えますよ。
わたしは自分の白髪より大事なことがありますが、それを今日実行しようというのです。ですから、わたしの跡を探したりしないでください。わたしはきっと探されれば探されるほど、あのひとの住むところから、離れて行きますから。もう会うことはないと思います。感謝を言うつもりもありませんが、鬱憤を晴らすようなことを言うつもりもありません。さようなら、できればあなたもお元気で。わたしは今までの百倍楽しむつもりです。死が時を分つまで、わたしは一生を快楽に身を捧げるつもりです。いままでの貞淑な妻とは逆に、逆に。
2006-10-30
猫
うちの猫はパソコンを立ち上げると、どこにいても、ささっと近寄ってきて、モニタの上に座り込む。温かいからだ。わたしはいつものこととあきらめて、それを見過ごす。猫はそれをよく知っているから、さらにわたしに甘える。モニタの画面に頭からぶらさがり、画面を征服する。わたしはそれだけは許さない。荒い手つきで、猫を遮る。猫はあきらめて、モニタの上にまた座り込む。わたしはそれを上目で眺めながら、作業を続ける。
終わると、パソコンの電源を切る。猫はモニタの温もりにしばらく浸かっているが、やがてわたしのベッドに入ってくる。わたしはそれを許す。
電気を消し、夜が部屋に訪れる。猫とわたしはぐっすりと眠り込む。
朝が来る。窓を開け、朝の光が部屋を照らす。わたしは猫に水とごはんをあげる。
そして、パソコンを立ち上げる。こうしてわたしの一日は始まる。いつまでも平和な時代が続く限り、この生活をわたしは変えない。