2006-11-08
冬の春-千絵ちゃんとぼく-
千絵ちゃんがぼくのことをノブくんと呼んだのは、その日が初めてだった。さわやかな秋の空、青い雲がどこまでも白かった。
千絵ちゃんがぼくに告白したのは、今日だった。
寒い冬枯れの空、身も凍る静かな夜だった。月が明るく照っていた。千絵ちゃんがぼくを公園に呼び出したのだ。ぼくはなんの用事だろうと思い、不思議だった。千絵ちゃんは赤いマフラーを首に巻いて、寒そうに公園のベンチに座っていた。
ぼくが姿を現すと、すくっとベンチから立ち上がった。ぼくのほうに近寄る。
ノブくん。わたし、あなたのことが好きなの。ぼくはびっくりして、飛び上がった。
ぼくはどうしようか考えた。ぼくは千絵ちゃんのことを友だちとしか思ってないよ。そう言った。
千絵ちゃんは目からウロコのような涙をざあざあと流した。わたしじゃ駄目なの。わたしのこと嫌いなの。ぼくに詰め寄った。
ぼくはたじろいだ。
ぼくは千絵ちゃんに負けた。つきあうよ。ぼくは千絵ちゃんに言った。
千絵ちゃんは途端に、満面の笑みの笑顔を浮かべ、ぼくに抱きついた。ぼくも千絵ちゃんを抱いた。
凍える冬空が春のように温かく感じた。
それはとても寒い厳冬が続く2月のことだった。わたしは忘れない。その日の寒さのことも。ノブくんの温かな胸のことも。忘れない。
70-千絵ちゃんとぼく-
わたしはノブくんが好きだった。ノブくんのスノッブなところ。ちょっとにやけた顔が好きだった。ノブくんには他に好きな女の子がいた。アイちゃんだ。アイちゃんはちょっとキュートな女の子。ハートがどっきり膨らんでいる。それに引き換え、わたしの胸はぺったんこ。コンプレックスだった。
ノブくんは胸の大きいアイちゃんに夢中だった。アイちゃんはノブくんに興味がなかった。ノブくんは一生懸命アイちゃんの気を惹こうとしていた。
わたしはそんなノブくんが切なかった。アイちゃんの代わりになれないかな、いつも思った。思いは通じた。
ノブくんはある日、わたしに愛を打ち明けた。ドキっとした。わたしの小さな胸がドキドキで、息をするのが精一杯だった。うれしかった。
ありがとう。わたしはノブくんに言った。でも気持ちだけ、ノブくんとはつきあえない。わたしは言った。ノブくんはひどくがっかりして、首をうなだれた。
夕暮れが赤く染まる秋の夕べ、わたしはノブくんを振った。わたしの心とは裏腹に。なぜかどうして、そうしたのか、わたしにもわからない。好きです。ノブくん。でもつきあえません。今はまだ。わたしの胸が80を越えるまで。まだわたしは70だから。理由はそれだけ。70だから。
夕暮れにて-千絵ちゃんとぼく-
ノブくん教えて。算数のかけ算だ。千絵ちゃんはぼくに二桁のかけ算の方法を訊いてきた。ぼくはていねいに紙に書いて、千絵ちゃんに教えた。千絵ちゃんは飲み込みが早かった。ぼくが一度教えると、必ず一度で覚えた。そんな千絵ちゃんにぼくは好感をもった。千絵ちゃんもぼくに同じ思いを抱いていたみたいだ。
ぼくがそれを知ったのは、ある秋の暮れ、高尾山にハイキングに出かけた日だ。
その日は、日差しがとても明るく山を照らしていた。ぼくらはハイキングコースをゆっくりと登った。
千絵ちゃんが、ちょと休もうよ。滝のあるちょっと休まった場所でそう言った。休もう。ぼくも言った。
ふたりで石に座って、水筒のお茶を飲む。おいしい。辺りには、紅葉がきれいに紅い。ぼくと千絵ちゃんはその暮れかかった風景に見とれていた。
行くか。ぼくは言って立ち上がった。千絵ちゃんも腰を上げる。お尻の埃を手で払う。
景色は日が暮れかかっていた。ぼくらは山を下りることにした。山道は軽い傾斜で山並みを左右に泳いでいた。
麓に着いて、駅に出る。駅前の蕎麦屋に入る。
ざるそばをふたりで頼んだ。待っている間、今日はたのしかったね、とか他愛ない話をした。
蕎麦が出てくる。割り箸をふたつに折り、蕎麦を啜る。うまい。
思わずため息が出た。
食べ終わって、煙草をぼくは一服する。紫の煙を天井に吐く。宙に煙が雲のように覆う。それをぼんやり見ていた。
蕎麦屋を出て、電車に乗る。上りの電車。新宿行き。16時23分。
車内は空いていた。ぼくらはゆったりソファに座り、身を沈める。眠りが襲う。
気がつくと、笹塚。ぼくらは慌てて降りた。
辺りはもう日が暮れかかっていて、空は赤くなりはじめていた。
千絵ちゃんは、ひと言、疲れた、と言い、ぼくの肩に体を乗せた。ぼくは千絵ちゃんをおんぶして、家に帰った。夕暮れが赤いトンボが飛ぶ、秋の終わり、冬の到来を待つ、静かな夕方だった。
高尾山と蕎麦-千絵ちゃんとぼく-
ぼくと千絵ちゃんは紅葉を見に、高尾山に行った。紅葉は美しくきれいだった。ぼくと千絵ちゃんは、木の根もとで休んだ。水筒からお茶を取り出し、じっくり飲んだ。おいしい。しばらく休んで、山を降りた。駅前で蕎麦を食べた。おいしい。ぼくらははしゃいでいた。なんだか幸せだった。秋の到来が。短い秋を惜しみつつ、ぼくらは秋に別れを告げた。
せつない
秋。二度と来ることのない今年の秋。ぼくらはそれを目に焼き付けた。瞼の奥の刻んだ。
ぼくは今年の秋を忘れないだろう。千絵ちゃんの思い出とともに。
千絵ちゃんはいつでもぼくの側にいる。それがぼくをいたく幸せにさせた。秋晴れの美しい空だった。
遊園地ラストメッセージ-千絵ちゃんとぼく-
千絵ちゃんと遊園地へ行った。秋の晴れた空の下、ぼくと千絵ちゃんは手をつないで、観覧車に乗った。地面が低い。下を見下ろす千絵ちゃんにぼくは言った。空を見てごらん。日差しが雲間から透き通ってきれいだよ。
千絵ちゃんは空を見た。きれいだね。言うと、こっちを向いた。真剣な顔つき。
なんだろう、ぼくは思い、訊いた。どうしたの、千絵ちゃん、そんな真面目な顔して。千絵ちゃんは黙っていた。
ぼくはあえてそれ以上訊かなかった。いい、話したくなったら自分から話すだろう。
ところが、それが千絵ちゃんを見る最期になってしまった。
その晩、千絵ちゃんは団地の屋上から飛び降りた。死んだ。
ぼくは千絵ちゃんのラストメッセージを見逃してしまった。
悔いて止まない。
あの時見た、空だけが何もかも知っているのだろう。
ぼくは空に訊ねるため、高いところに行き、空の中に入った。重力はぼくを地面に叩き付け、ぼくの肉体は崩壊した。それっきり。ぼくと千絵ちゃんの物語は。もう始まることはない。それっきり。