2006-12-06
two of us-千絵ちゃんとぼく-
ぼくは五反田のゆうぽーとにベジャールのくるみ割り人形を観に行った。小林十市が猫のフェリックスを演じていた。
フェリックスは何回転もピルエットした。ぼくは舞台に上がり、フェリックスとパ・ドゥ・ドゥをした。そこへ千絵ちゃんが現れ、パ・ドゥ・トゥロワした。3人のアンサンブルは素晴らしいものだった。
ぼくは今でも、その舞台を思い出す。
スイスのローザンヌでの舞台だった。
千絵ちゃんは最高のアラベスクを決めた。ぼくはすっかり参ってしまった。千絵ちゃんの下僕になった。
ぼくはひとりで傷心の旅に出た。
ベルギーのブリュッセル。二十世紀バレエ団がかつてそこにあった。
ぼくは過去の幻影を見ながら、ひとりで広場で踊った。
そこに、ジョルジュ・ドンがボレロを踊りながら現れた。
ジョルジュ・ドンは、鼓動で踊っていた。
ぼくはジョルジュ・ドンの呼吸にあわせて、ボレロの群舞のひとりになった。
ジョルジュ・ドンが突然床に倒れ込んだ。血を吐いた。
ぼくはジョルジュ・ドンの口にハンカチをあてた。
ジョルジュ・ドンはメルシー・ボクウとぼくに囁いて、広場を去った。
誰もいない広場。そこでぼくはニジンスキー・神の道化を踊った。
モーリス・ベジャールが現れ、ぼくの踊りを絶賛した。
ぼくはベジャール・バレエ・ローザンヌに入団した。
そこに千絵ちゃんがいた。ぼくと千絵ちゃんはデュエットをすることになった。
初舞台は、春の祭典だった。
フランスのリール・フランドル。そこでぼくと千絵ちゃんは恋に落ちた。
falling love with you。
永遠に叶わぬ恋だった。神がそれを許さなかった。
許されざる者。ぼくは掟を破って、千絵ちゃんと世界の果てまで逃げ隠れた。
世界の果て。end of the worldで、ぼくと千絵ちゃんは生の果て尽きるまで、掟と闘いながら、暮らした。
毎日のように刺客が襲ってきた。1番強かった刺客はジル・ロマンだった。
ジル・ロマンは恐ろしく強かった。
でもぼくは、ジル・ロマンになんとか勝った。
そして、ぼくは千絵ちゃんを我が物にした。
マリウス・プティパは、ぼくと千絵ちゃんの関係を許した。
ようやく、ぼくと千絵ちゃんに平和な日々が訪れた。
そして、毎晩、ふたりで踊り明かした。
夜が明けるまで、狂ったように踊った。
そして、朝が来ると、ふたりで、ダブルベッドで眠った。
最期の晩、ぼくはボレロを踊った。小さな赤い円形の舞台の上でぼくは踊り疲れて、死んだ。
死体に千絵ちゃんは白いトルコ桔梗の花を捧げた。
ぼくは成仏した。永遠の永久に。千絵ちゃんは、死ぬまで、毎日、ぼくの死体に白いトルコ桔梗の花を供え続けた。
死体が腐って、異臭を放っても、千絵ちゃんは毎日、白いトルコ桔梗の花を供えた。
いつしか、千絵ちゃんは静かに息を引き取り、ぼくの横で死んだ。
ふたつの死体は折り重なるように、息を引き取っていた。
そして、細胞は砕け、ふたつの塊は大きなひとつの岩になった。
living rockと人々は呼び、崇拝した。
今やもうぼくはぼくではなく、千絵ちゃんは千絵ちゃんではなく、ひとつの死んだ生命体だった。
コスモスの1部。ブラック・ホールに吸収され、無の世界に吸収されて、この世界から消えて無くなった。
ぼくと千絵ちゃんの最期は、こんな終わり方。the end。
2006-12-05
Time will come-千絵ちゃんとぼく-
千絵ちゃんと007カジノロワイヤルをTOHOシネマズに観に行った。その日は、お天気がよくて、洗濯物がよく乾いた。シャツが襟まで、ぴんぴんに乾いた。
ダニエル・クレイグの澄んだ青い瞳に、ぼくはノックアウトされた。胸がきゅんと高鳴った。
千絵ちゃんは、エヴァ・グリーンにときめいたようだった。
ぼくはエヴァ・グリーンにひどく嫉妬した。死んじゃえばいい。そう思った。
エヴァ・グリーンは知的な嫌味な女だった。ダニエル・クレイグは何を思ったか、エヴァ・グリーンにキスをした。
ぼくは映画を観ながら、そのシーンで、千絵ちゃんの頬に口をつけた。
千絵ちゃんの微かな頬が紅くなるのを、暗闇の中で、ぼくは感じ取った。
映画が終わって、場内が明るくなる。
エヴァ・グリーンとダニエル・クレイグが銀幕のスクリーンの中から飛び出して、ぼくと千絵ちゃんに握手を求める。ぼくはダニエル・クレイグにサインをもらって、エヴァ・グリーンに唾を吐いた。
千絵ちゃんは、ひどく怒って、ぼくを罵った。
ダニエル・クレイグが中に入って、ぼくと千絵ちゃんの喧嘩を仲裁した。
エヴァ・グリーンはチャーミングな笑顔で、ぼくに言った。nice to meet you.I hope to see you longtime。ぼくはすっかりエヴァ・グリーンのファンになった。ぼくはエヴァ・グリーンにTシャツの背中にサインを書いてもらい、ルージュで唇のマークをマーキングしてもらった。
ダニエル・クレイグは、その様子をジェントルに見守っていた。
千絵ちゃんは、ダニエル・クレイグと英語でトーキングしていた。ダニエル・クレイグはとてもフレンドリーだった。
ぼくは今回の007カジノロワイヤルを絶賛して誉めた。
ダニエル・クレイグは笑いながら、それほどでも、と謙遜して言った。
ぼくは、そのダニエル・クレイグの腰の低い態度に感心した。
大スターなのに、奢ったところが、何もない。ぼくはダニエル・クレイグを尊敬し、ハリウッド1の俳優だと、誉め讃えた。
ダニエル・クレイグは、いや。トム・クルーズが1番だよと、にっこりして微笑んだ。
ぼくは、またまた、ダニエル・クレイグにノックアウトされた。
永久に立ち上がることができなかった。
ぼくの墓標はTOHOシネマズに立てられた。
千絵ちゃんは、毎日、水と花を換えに来てくれた。
その時、6フィート下、地面に眠るぼくは、千絵ちゃんが、ぼくのことを本当に愛してくれていることを、初めて知った。
遅過ぎた真実。早過ぎたぼくの死。
千絵ちゃんがいつか、ぼくの墓標の隣に眠るまで、後、最低でも50年待つことにした。
時の流れは普段より早く感じられ、50年の歳月はあっと言う間に訪れた。
ぼくは千絵ちゃんと50年ぶりに冥界で再会した。
ぼくの名前はその時、オルフェウスで、千絵ちゃんはベアトリーチェと名乗った。
冥界での時間は永遠の彼方にあり、ぼくは千絵ちゃんとforever and foreve 遊び続けた。
この世の終わりが来るそのアルマゲドンの日まで、千絵ちゃんはぼくと享楽の日々を過ごした。
そして最後の日の翌日。
神が現れ、ぼくと千絵ちゃんは、世界に呼び戻された。
そして、ぼくは神にアダムと新しい名前を授けられ、ぼくは千絵ちゃんをイヴと呼んだ。神はぼくの肋骨を折って、千絵ちゃんを誕生させた。
生の創造をぼくは初めて見た。
そして、15年後、千絵ちゃんはカインを、16年後、アベルという名の男の子を生んだ。
そこから、世界は始まった。
だから、ぼくと千絵ちゃんの物語は、始まりの前。夜明け前の物語。
人々はそれを創世記と呼んで、親しくぼくと千絵ちゃんの人生から、多くを学んだ。
その書物の最後には、再び、ぼくと千絵ちゃんが甦ると、命の書に確かに刻まれていた。
だから、ぼくはそれを信じて、TOHOシネマズ、プレミアム・シートの下で、静かに眠っている。時を待ちながら。Time will come。
2006-12-04
マイ・スウィート・ハニー-千絵ちゃんとぼく-
千絵ちゃんとぼくは、プラダを着た悪魔を日比谷スカラ座に観に行った。帰り、紅鹿舎で、ハンバーグ・ランチをたらふく食べた。千絵ちゃんもぼくもライスと珈琲をお替わりした。
お腹がいっぱいになり、地下鉄丸の内線で居眠りをこいた。
寝過ごして、中野まで行ってしまった。
戻り道。東西線で帰ってきた。シルヴァーにブルーのライン。初めて乗った。今度は両国まで、寝過ごしてしまった。
千絵ちゃんは表参道で、プラダを買った。スレンダーな黒のドレスにピンヒール。ぼくは黒真珠のネックレスとオニキスの指輪をプレゼントした。
千絵ちゃんにとってもよく似合っていた。
千絵ちゃんは転職した。ニューヨーク・タイムズ日本支社。
プラダのダークスーツは、千絵ちゃんによく似合っていた。
ぼくは千絵ちゃんに惚れ込んだ。ぞっこんだった。
ぼくはクリスマス・イヴの12月24日に、千絵ちゃんにプロポーズした。
お台場の観覧車の中。
千絵ちゃんは、Do you marry me?と訊き返してきた。ぼくは同じことを2度言うことができず、朝、ぼくを起こしてくれないかと、訊いた。
千絵ちゃんは、その日、初めて笑ってぼくに言った。
Of course I doと言った。
ぼくは涙を垂らしながら喜んで、千絵ちゃんの体を持ち上げた。
観覧車はぐらぐら揺れて、ぼくの心も大きく揺れ動いた。
その日、午後10時に、品川の駅で別れ、ぼくは羽田空港に向かい、沖縄へ行く飛行機に乗った。
沖縄でのひとりのヴァカンスは寂しいものだった。豚足もがりがりと口当たりの悪いものに思えた。
沖縄から帰ってくると、千絵ちゃんのアパートメントは引き払われていた。もぬけの空だった。
大家さんに問い合わせると、千絵ちゃんはアメリカへ行くと言って、急に乃木坂のアパートメントの契約を解約したとのことだった。
ぼくはニューヨークへ千絵ちゃんを追って飛行機に乗った。千絵ちゃんのアドレスは知らない。
真っ先に、ロックフェラーセンターに行って、スケートリンクでスケート靴を履いて、スケートを滑っていた。ニュー・イヤーズ・デイ。
1月1日。ぼくの誕生日。そして翌日、1月2日、千絵ちゃんの誕生日。
1日遅れの恋人。2夜連続のバースデー・パーティ。
千絵ちゃんは、赤いスケート靴を履いて、リンクのセンターでビールマン・スピンを回転させていた。
ぼくは千絵ちゃんを発見した喜びの歓喜のジャンプ、トリプル・アクセルを千絵ちゃんの目の前で跳んだ。
千絵ちゃんは回転しながら、ぼくを目で追っていた。
ぼくは静かに後ろ向きに着氷する。千絵ちゃんはスピンの回転を弱める。ふたりの目が合う。ぼくは感情の涙を流した。千絵ちゃんは意識の涙腺を弛めた。
ぼくと千絵ちゃんは黙って、手を取り合って、ボレロでペア・スケーティングをした。スローイング・トリプル・サルコウを千絵ちゃんは跳び、ぼくは千絵ちゃんの46kgの体を遠くへ投げ飛ばした。
リンクの外まで、飛んでいきそうな勢いだった。
ぼくと千絵ちゃんは3分30秒のフリーの演技を終えると、汗びっしょりだった。大きく体を揺すって息を吐いた。
超満員の観客の前で、ぼくと千絵ちゃんはエレガントにお辞儀をして、リンクを出た。
ぼくは千絵ちゃんに再会の喜びの挨拶をした。
nice to meet you again。
千絵ちゃんは知らんぷりして、スケート靴を脱ぐと、さっさとひとりでロックフェラーセンターを出て行った。
ぼくは千絵ちゃんの156cmの体を遠巻きに眺めながら、永遠の別離を感じた。惜別。名残惜しい別れだった。
ぼくは今でも、この日のことを忘れない。
今は、アイという女の子と結婚している。子どもは、男の子がふたりと女の子がひとりいる。幸せだ。けれども、たまに今でも、あのロックフェラーセンターでの出来事を思い出す。
それは死がぼくの生命を永遠に解き放つ日まで、鍵が掛かった秘密の小部屋のように、ぼくの心を支配した。
ぼくにとって千絵ちゃんは、ファム・ファタールだった。たったひとりの。
only one,nobody else。永遠のマイ・スウィート・千絵ちゃん。ベアトリーチェ・マリア・千絵。ぼくの愛した生涯ただひとりの女。女。
2006-12-03
ミサ
穏やかな日の午後だった。ミサは永岡の家でカウンセリングを受けていた。永岡の自宅兼カウンセリング・ルーム。フローリングの床に茶色いソファ。
ミサはソファにゆっくりと体を沈めて、目を閉じた。
永岡がカウンセリングを始めた。
永岡「はじめまして。お名前は」
ミサ「葛城ミサと申します。よろしくお願いします。わたしは今、中京大学の2年生です。英文学を専攻しています。彼氏は今はいません。1ヶ月前に別れました。それ以来、強い喪失感にかられ、夜、眠れなくなりました。それで、最初はバファリンを一箱飲んで寝ていたのですが、それでも眠れなくなり、インターネットのオークションで、睡眠薬を買うようになりました。今飲んでいるのは、レボトミン、ロヒプタノール、レンドルミン、ユーロジン、ベゲタミンです。これをカクテルして飲んでいます。どうにか6時間眠れるようになりました。でも、彼氏と別れた強い喪失感から脱却できなくて、1日中体がだるく、やる気がでません。トイレに行く時だけ、ベッドから出て、後はベッドで横になっています。食べ物は冷蔵庫にあるものを、1日1回くらい食べるだけです。体重が5キロ減りました。もうこんな生活疲れました」
そこで、永岡がミサの話を遮って、言った。
永岡「それはさぞ疲れたでしょう。食事はどんなに体がだるくても、1日3回食べてくださいね。薬をインターネットで買うのはよくないですね。精神科医を紹介しますから、そこで薬を処方してもらってください。彼氏と別れたのは、さぞ辛かったでしょうね。よほど彼氏を愛していたんですね」
ミサは突然泣き出した。体を大きくしゃくり上げ、体を大きく震わせた。
ミサ「彼氏が、雄治が浮気したんです。わたしの女友だちと。しかも親友だと思っていた子と。一度雄治と女友だちのアケミと3人でお茶したんです。わたしがトイレに行っている間に、雄治とアケミが携帯の番号とメールアドレスを交換したらしいんです。アケミを問い詰めて、聞き出しました。まさかアケミがわたしを裏切るなんて、思いもしませんでした。女の友情なんて、こんなものなんですか。永岡先生」
永岡「なんとも言えませんね。わたしにはそういう経験がありませんので。でも、女というものは、男が関わると、ひとが変わったように、豹変する生き物でもありますからね。わたしにも経験があります。普段は冷静なわたしが、たったひとりの男のために、がむしゃらになって、周りも見ずに、突っ走ったことがあります。もしかしたら、その時、多くのひとに迷惑をかけていたかもしれません。ミサさんにはそんな経験はありませんか」
ミサ「あります。ありますとも。それで女友だちを幾人か失くしました。大事な親友たちでした。けれでも今では、どこに住んでいるのかさえ知りません。知りたくありません。2度と顔を合わせたくはありません。過去、あんな人たちと親友だった、わたしを恥じます。あんな下品な人たちと付き合っていたなんて、今考えるとぞっとします」
永岡「そんなことを言うものではありませんよ。きっとそのお友だちにも事情があったのでしょう。もう過去の事。過ぎ去った事です。もうきれいさっぱり忘れましょう。その方が、ミサさんにとっても幸せなことですよ」
ミサ「でも、忘れられないのです。頭では過去の事だと分かっていても、頭がそれを許さないのです。頭が痛くなってくるんです。永岡先生。こんなわたしは大丈夫でしょうか」
永岡「そうですね。まずは睡眠をしっかりと取ることです。話はそれからにしましょう。わたしが紹介する精神科で必ず問診を受けるように。いいですね。ミサさん」
ミサ「わかりました。お医者さんのところへ行きます。そこで全部話します。睡眠薬をもらって、十分な睡眠を取れるようになります。今度、いつ話を聞いてくれますか。永岡先生」
永岡「来週の水曜日11時から1時間、ミサさんのお話を聞きましょう。いいですね」
ミサ「はい。わかりました。来週の水曜日11時ですね。携帯にメモ入れておきます。その間に精神科にかかります。それでいいんですよね」
永岡「はい。その通りです。きちんと守りましょうね。今持っている薬は捨てること。いいですね」
ミサ「えっ、捨てるんですか」
永岡「そうです。薬は精神科でもらってください」
ミサ「眠剤は捨てられません」
永岡「薬には有効期限もあるし、インターネットで買った薬なんてあやしくて危険です。インターネットで買ったバイアグラを飲んで、死んだ人もいるんですよ。薬の恐ろしさを知らなくてはいけません。分かりましたね」
ミサ「わかりました。永岡先生の言うとおりにします。精神科で薬をもらうまでは、今の薬を飲みますよ。それ位いいですよね」
永岡「仕方がないですね。それ位は大目に見ましょう。けれど、診察を受けてからは、その薬は絶対使わないように。いいですね」
ミサ「はい。わかりました」
永岡「いいでしょう。それでは、来週水曜日11時にお会いしましょう」
ミサ「ありがとうございました。失礼します」
永岡「はい。さようなら。また来週」
外に出ると、もう日が暮れかかっていた。夕日が痛く美しかった。ミサは涙が出そうになった。
ミサは、三崎町のパブ、スコティッシュに出かけた。日課だ。そこでミサは娼婦をしている。春を売っているのだ。
ミサは愛に餓えていた。両親からはまともな愛を授からなかった。
小学校の時、夕食はいつもひとりで取っていた。レトルトのピラフやパスタを食べていた。そんな時、我知らずに自然に涙が出た。両親はそのことを知らない。
父親と母親は折り合いが悪かった。顔を会わせれば、いつも喧嘩ばかりしていた。そんな両親を見るのが、ミサは辛かった。
ミサ「なんでママ。パパと喧嘩するの」
母親「もう手遅れ。喧嘩さえできない。今日、離婚届に判を押したわ」
ミサ「リコンって何」
母親「もうパパとは会わないっていうこと。ミサはこれから、ママとふたりで暮らすのよ」
ミサ「パパはどこで暮らすの」
母親「知らない。どこかよ。この日本のどこか遠いところ。2度とママやミサと顔を会わせない所」
ミサ「それじゃあ、もうパパとは会えないの」
母親「そうよ」
ミサは泣き出した。その夜、眠り込むまで、ミサは泣きじゃくっていた。
翌朝、ミサが起きると、もう母親は会社に出かけた後だった。
ミサは3時間目から授業を受けた。
三崎町のスコティッシュ。夜。
ミサはスコティッシュで、カンパリをソーダで割って飲んでいる。2杯目だ。
そこに客が付いた。雅浩というミサとそう年の変わらないの男だった。ミサはそんな若い客は初めてだった。けれど同年代の男の子と出会えて、純粋にうれしかった。雅浩は朝までミサを買った。
スコティッシュの2階のアイリッシュで、雅浩の腕に抱かれて眠った。ひとの胸に抱かれて眠るのは、幼年時代以来だった。とても心地がよいものだった。いつまでもこうして眠っていたかった。が、現実には朝が来て、昼が来て、お腹が空いてくる。
ミサはコンビニでおにぎりを2個買い、自分の部屋で食べた。
大学生活は気楽なものだった。語学の授業だけ、ちゃんと出席していれば、3年生に上がれる。他の講義は代返でカバーしていた。レポートは知り合いの女の子に見せてもらって、文章を変えて、提出した。それで1年から2年に進級した。そういう方法にミサは罪悪感や疑問を抱かなかった。
ミサはスコティッシュで、雅浩と会っていた。
ミサはカンパリ・ソーダを飲んでいる。雅浩はスコッチをロックで割って飲んでいる。
やがて夜は更けていく。
雅浩「野暮な質問だけど、いいかな。なんで娼婦なんかやってるんだよ」
ミサ「どうしてかな。うーん。さびしいからかな」
雅浩「恋人はいないの」
ミサ「いない。今まで彼氏ってひと、いたことない」
雅浩「マジ」
ミサ「マジ」
ミサ・雅浩「・・・・」
ミサはカンパリをお替わりし、雅浩はスコッチの5杯目を飲んでいる。
ミサも雅浩もかなり酔いが体に回っている。スツールの椅子に体を固定しているのが、精一杯だ。
ミサは雅浩と2階のアイリッシュに消えていった。体を求め合った。
水曜日の午前11時きっかりに、ミサは永岡の家を訪れた。
玄関のチャイムを鳴らす。
永岡の声がフォンから流れ、
「どうぞ。鍵は開いています。お入り下さい」
ミサはカウンセリング・ルームに入る。
ミサ「こんにちは」
永岡「こんにちは。どうぞ、体を楽にして、ソファにおかけください」
ミサはソファにゆっくりと体を沈める。そして目を瞑った。
永岡「どうですか。調子は」
ミサ「悪くはないです。永岡先生に言われた通り、精神科で睡眠薬を頂いてきました。睡眠は前より安定しています」
永岡「それはよかったですね。体のコンディションは睡眠の質から始まります。睡眠が安定しないひとは、心も安定しません。とりあえずよかったです。気分の落ち込みとか体のだるさはどうですか」
ミサ「精神科で抗鬱薬のデプロメールをもらって飲んでいるのですが、いくらか気分がよくなってきたような気もします。日中の体のだるさが幾分か取れました。昼間、寝込むことがなくなりました。日中は大体、家で本を読むか、パソコンでインターネットをしています。わたし、自分のブログを持っているのですが、その更新をしています」
永岡「ブログ。それはすごいですね。どんなことを書いているのですか」
ミサ「好きな本や音楽の紹介が多いですね。それに、日頃、思っている日常の疑問や楽しかったこと、悲しかったことなど、徒然に書いています。それと、デジカメをいつも持ち歩いているので、街で見かけた、何気ない風景なんかを載せています」
永岡「なんだか、楽しそうですね。ミサさんのブログ見たいです。アドレスを教えてくれませんか」
ミサ「なんだか恥ずかしいな。わたし、文章下手だし、ひとに見せるために書いているというか、自分のために書いているんですよね」
ミサはそう言いながらも、バッグの中から財布を取り出し、その中から、1枚の名刺を取り出して、徳永に手渡した。
そこには、http://misa.vox.com/、と書かれていた。
永岡はその1枚の名刺をしばらく見つめていた。
永岡「今日の夜にでも、ミサさんのブログ見させて頂きます。感想はコメントで送れるんですか」
ミサ「ああ、残念ですけれど、voxのメンバーにならないと、コメントは入れられないんです」
永岡「そうですか。残念です。わたしもメンバーになってみようかしら。メンバーになるって、簡単なことなんですか」
ミサ「わたしが永岡先生に招待状をメールで送れば、永岡先生もメンバーになることができます」
永岡「そうですか。じゃあ、招待状を送ってもらえますか」
永岡はそう言いながら、机の抽き出しを開け、名刺入れから、1枚の名刺を取り出し、ミサに渡した。
ミサはその名刺をじっと見つめて、言った。
ミサ「今日にでも、メール送ります」
永岡「楽しみに待っています。では、今日はこの位にしておきましょうか」
ミサ「はい」
永岡「では、来週も水曜日の午前11時にお待ちしています」
ミサ「ありがとうございました。さようなら」
永岡「はい。さようなら。お元気で。ドアはそのままにして、出て行っていいですよ。後でわたしが鍵を閉めますから」
ミサ「はい。ありがとうございました。さようなら」
永岡「はい。さようなら。帰り、気をつけてくださいね」
ミサ「はい」
ミサはカウンセリング・ルームのドアを静かに閉め、廊下を通り、玄関を出た。
通りに出る。時計を見ると、ちょうど12時を過ぎたところだった。
駅の近くの喫茶店で、パスタを食べた。食後に珈琲を飲んで、デュオを吸った。2本デュオを吸い、喫茶店を出た。紅鹿亭という名前が表の看板に出ていた。読み方が分からないのが、気になったが、そのまま駅に向かった。
その夜、雅浩がスコティッシュにやって来て、ミサを朝まで買った。
情事の後。
雅浩「今度、昼間に会ってくれないか」
ミサ「えっ」
雅浩「ベタだけど、ディズニーランドに一緒に行って欲しいんだ」
ミサ「それって、デート」
雅浩「そう」
ミサ「・・・」
雅浩「俺、ミサのことが好きになっちゃったんだ。だから、ちゃんと付き合いたいんだ」
ミサ「・・・。いいよ。ディズニーランド行った事ないし。1度行ってみたかったんだ」
雅浩「マジ。行った事ないの」
ミサ「うん」
雅浩「今時、珍しいね」
ミサ「行く機会がなんとなくなくて」
雅浩「じゃあ。よかった。楽しみだな。何時ならいい」
ミサ「スコティッシュが休みの日曜日ならいいよ」
雅浩「OK。今度の日曜日はどう」
ミサ「いいよ。空いてる」
雅浩「決まりだ。今度の日曜日、俺の車で行こう」
ミサ「車持ってるんだ」
雅浩「一応ね。ボロだけど。千葉まで行くには問題ないよ。外車じゃないけどいいだろ」
ミサ「そんなこと気にしないよ。車のこと詳しくないし。車ってあんまり乗ったことないんだ。うち車なかったし」
雅浩「そうなんだ。快適なドライブを約束するよ。運転の腕には自信があるんだ。これだけは自慢できる」
ミサ「飛ばすの。わたしあんまりスピード出すの、好きじゃないよ」
雅浩「スピードは出さない。安全運転。信号待ちでは、右見て、左見て、後ろ見て、それから、発進する」
雅浩が笑いながら言った。
ミサは微かに微笑んだ。このひとなら安心できる。そう思った。日曜日が待ち遠しくなつてきた。自然と顔がほころんで、笑顔になる。自然とハミングが口から出た。
雅浩「何。楽しそうじゃん。何、考えてんの」
ミサ「別に。なんでもないよ」
雅浩「教えろよ」
ミサ「なんでもないったら」
ミサと雅浩は戯れ合い、いつしか、愛撫に変わる。
日曜日は、よく晴れたいい天気だった。
スコティッシュの前で、午前8時に待ち合わせていた。
5分前。7時55分に雅浩は車でスコテッシュに乗り付けた。
ミサは8時ちょうどにスコティッシュの前に姿を現した。
ミサ「おはよう」
雅浩「おはよう」
ミサ「おはよう、なんて挨拶、久しぶり。いつも起きるの、午後過ぎだから」
笑いながら、ミサは言った。
雅浩「俺は毎日。言い飽きてる」
セブンスターをくわえながら言った。
ミサ「この車、CD聴ける」
雅浩「聴けるよ。なんで」
ミサ「お気に入りのCD持ってきたんだ。聴いていい」
雅浩「もちろん。誰」
ミサ「フランソワーズ・アルディ」
雅浩「知らない。いいの」
ミサ「いいよ。車の中でゆっくり聴こう。乗っていい」
雅浩「もちろん」
雅浩は車の助手席のドアを開け、ミサをシートに座らせて、ドアを閉めた。とても紳士的だった。ミサは雅浩に対し、少し好感を持った。
雅浩が運転手席に座り、まず、ミサのCDをプレイヤーにセットした。
少しかすれた女の歌声が車内に響いた。英語ではないのを、雅浩は気づいた。
ミサは曲に合わせて、口ずさんだ。
雅浩「本当に好きなんだね」
ミサ「うん。・・・。最初にピーターパン空の旅ね。その後、イッツ・ア・スモール・ワールド」
雅浩「OK。その後は、スプラッシュ・マウンテンでいいよね」
ミサ「わかった」
ディズニーランドの帰り。もう空は暗くなっていた。午後8時。
ミサと雅浩を乗せた車は、ホテルに向かった。
月曜日。午後2時。
ミサはブログを更新している。
昨日、雅浩と行った、ディズニーランドのこと。
夜。午後8時。スコティッシュ。
ミサは2杯目のカンパリ・ソーダを飲んでいる。
雅浩がやって来た。
雅浩「よう。昨日は楽しかったね。あんなに楽しかったの、俺、久しぶりだ」
ミサ「わたしも。興奮しちゃった。わたし、変じゃなかった」
雅浩「全然。ミサのこと見てて、俺、いい気分だったよ。本当に楽しかった。ありがとうな。ミサ」
ミサ「わたしのほうこそ。ありがとう。雅浩」
雅浩「初めて、俺のこと、雅浩って呼んだな。うれしいよ」
ミサは顔を赤くして、下を向いた。
雅浩「何、赤くなってるんだよ。俺に惚れたか」
ミサ「バカ」
雅浩「バカはないだろ。バカは」
ミサ「だって、からかうから」
雅浩はスコッチをロックで飲みながら、
雅浩「俺と付き合ってくれないか。ミサ。マジで」
ミサ「・・・・」
雅浩「俺じゃ駄目か」
ミサ「ううん。そんなことないよ」
雅浩「じゃあ、OKか」
ミサは小さな体で、頷いた。
雅浩は喜んで、スコッチを一気に飲み干した。ウェイターを呼び、スコッチのお替わりを注文する。
雅浩「今日は最高の気分だ。IT`S A MEMORIAL DAY」
雅浩はキンクス・イングリッシュの発音で呟いた。
ミサ「英語、できるの」
雅浩「少しね。海外行って、ひとりで、ホテルに泊まって、レストランでオーダーして、帰りの飛行機のリコンファームができる程度ね」
雅浩は小さく笑いながら言った。
ミサ「わたし、帰国子女なんだ。2年間アメリカの高校に行ってたんだ」
雅浩「マジ。すげーじゃん。じゃあ、バイリンガルだな」
ミサ「一応ね」
ミサはクスっと笑いながら言った。カンパリソーダを一口飲んだ。
ミサは大学入学と同時に、母親の住むマンションから独立して、ひとりでアパートに住んだ。
その生活費を貯めるために始めたのが、スコティッシュの仕事だった。
辛かった。見も知らぬ中年の男にいいようにされるのに、抵抗感を感じ、それはどうしても拭えなかった。
母親から離れようと思ったのは、母親がミサに依存するようになったからだ。精神的にもそうだし、生活面でも、昼間働いている母親は、家事を全てミサに任せた。それはまあいいだろう、ミサは思った。仕方がないことなのだから。しかし、母親はミサに甘えてくるようになってきた。父親と離婚し、その後、恋人もいない母親は、やはり寂しかったのだろう。
母親「ミサ。今度の週末にふたりで京都に行かない」
ミサ「ええ。ママとふたりでなんて厭だよ」
母親「何が厭なの」
ミサ「ママとふたりで行ったって、つまらないもん」
母親は突然泣き出した。
母親「ママにはミサしかいないのよ。そのミサがそんなこと言うなんてママ、悲しいわ。ミサはママのことが嫌いなの」
ミサ「そんなことないよ。でも、ベタベタするのは厭だな。一定の距離を保っていたい。その方が居心地がいいもん」
母親「親子の間でそんな距離を置くだなんて。いつも一緒にいた方がいいじゃない」
ミサ「わたしは自分だけの時間が欲しいし、ひとりきりで考える時間を大切にしてる。だから、ママといつもベタベタ過ごすのには、抵抗があるな」
母親「そう。わかった。ママは結局ひとりきりなのね。あの人もわたしから離れていった。ママは孤独な老いぼれね」
母親は涙を拭いながら、小さく呟いた。
ミサ「そんなことないよ。わたしだって、距離を置くけれど、近くにいるし」
母親「もういいの。ミサの気持は分かった。ミサはもうわたしの娘じゃない」
ミサ「そんなこと言わないでよ。わたしはママの1人娘よ。ママの子どもよ」
母親「もう、わたしの娘じゃない」
ミサ「・・・。分かった。この家を出る」
母親「・・・」
2週間後、ミサは家を出て、アパートメントにひとりで住んだ。
ミサがブログを始めるようになったのは、ひとり暮らしを始めてからだ。
また、不眠症と抑うつ状態になったのは、ひとり暮らしを始めて、2ヶ月後のことだった。
そんな状態で、ミサはスコティッシュに通っていた。
そんな訳で、その時のミサには、性欲と言うものがなかった。
だから、春を売る時は、偽りのエクスタシを演じていた。
ミサは結構な役者だった。ミサの演技は迫真に満ちたものだった。
ミサを買った男たちは、皆一様に、ミサを征服した満足感を抱き、アイリッシュを出た。そして、また再びミサを買った。
ミサは所謂、売れっ子だった。スコティッシュのナンバーワンだった。不動の地位を確立していた。
そこに現れたのが、雅浩だった。
雅浩は他の客とは違い、すぐにミサの演技を見破った。
雅浩「普通にしてればいいじゃん」
ミサ「・・・・」
雅浩「演技なんてするな。かえってシラケるよ。今までこんなことしてきたのか」
ミサ「・・・。うん」
水曜日。ミサは永岡のカウンセリングを終え、永岡の家を出た。
入れ違いに、ひとりの女性が永岡の家に入っていった。見覚えのある顔だった。ただ、それが誰なのかは分からなかった。思い出そうとしたが、駄目だ。思い出せなかった。ミサは1日中、その女性が気になった。
その女性は、ミサのアパートメントの隣の部屋に住んでいた。それが分かったのは、翌週の月曜日の朝だった。
ミサは可燃ゴミを出しに、ゴミ袋を持って、指定の場所に行った。
あの女性が、ゴミ袋を置いていた。ミサはその女性を見つめた。
ミサ「あの。間違っていたら、すみません。もしかしたら、永岡先生の家に行きませんでしたか」
女性「・・・。確かにわたしは永岡先生の所に行きましたが、なぜ、あなたが、知っているんですか」
ミサ「わたし、永岡先生のカウンセリングを受けているんです。先週の水曜日、わたしと入れ違いで、あなたが永岡先生の家に入るのを見たんです。それで、どこかで見た顔だなって、ずっと気になっていて。今日、あなたを見たものですから」
女性「そうですか。わたしも永岡先生のカウンセリングを受けているんです」
ミサ「わたし、葛城ミサと言います。もしよかったら、お名前を教えて頂けますか」
女性「吉澤景子と言います」
ミサ「もしよかったら、ちょっとお話してもいいですか」
景子「別にいいですけど」
ミサ「ここじゃあ、なんなんで、わたしの部屋に来ませんか。お茶を用意します」
景子「じゃあ、お邪魔しようかな」
ミサ「汚い部屋で、申し訳ないですけど、どうぞお上がり下さい」
ミサと景子は、ミサの部屋に上がった。
ミサはキッチンで湯を沸かした。
景子は、リヴィングのテーブルに肘を付いて、椅子に腰かけて、お茶が出てくるのを待った。
ミサが、マグカップに入った珈琲をふたつ持って、テーブルの上に、珈琲を置いた。
ミサ「どうぞ、召し上がってください」
ミサはそう言いながら、自分から先に、珈琲に口をつけた。溜息がひとつ出た。
景子はミサを見つめながら、珈琲を口に運んだ。
景子「おいしい」
ミサ「ありがとうございます。珈琲には自信があるんです。今日のは、トラジャです」
景子「トラジャ」
景子は、そう呟きながら、珈琲をもう一口飲んだ。
景子「うん。おいしい。ありがとう。ミサさん」
ミサ「あの。景子さんって呼んでもいいですか」
景子「いいわよ」
ミサ「うれしい。景子さん。わたし、前の彼氏と別れてから、不眠症になって、夜、眠れなくなったんです。それに抑うつ状態って言うんですか。なんにもやる気がしなくなって、昼間、ずっと、ベッドで横になるようになっちゃったんです。それで、たまたま電話帳で見た、永岡先生のところへ行くようになったんです」
景子「そうなんだ。わたしはもう1年位かな、永岡先生のカウンセリングを受けてるの。わたし、恋愛依存症なんだ」
ミサ「恋愛依存症」
景子「いつも恋愛をしていないと、不安になっちゃうの。付き合ってる彼氏と別れたりすると、どうにも頭の中がぐちゃぐちゃして、整理がつかなくなるの。生理も不順になって、体のコントロールも効かなくなるの。それを永岡先生に話したら、恋愛依存症だって言われた。今は遠距離恋愛してて、彼氏は北海道にいるの。でも、彼氏が近くにいないから、不安で不安で仕方ないの。夜、寝る時は、大きなテディ・ベアを抱いて、眠っているの。おかしいでしょ。こんないい年して」
景子はクスっと笑った。ミサもつられて、笑った。
ミサ「気持ち、分かります。わたしも彼氏の浮気が原因でこうなっちゃたから。わたし1回だけ、リストカットしちゃったことあるんです。死のうとかそんなんじゃなくて、自分の存在を確かめたくて。自分がこの世界に本当に生きてるって実感がなくて、もしかしたら夢の世界なんじゃないかと、たまに思って、それで、現実を確認したくて、リスカしたんです。そしたら、なんだか、一瞬、救われたような気がしたんですよね。痛みが、血の流れがわたしに生の実感を与え、生への感謝の念を授けたんです。今のところ、1回しかリスカしてないけど、もしかしたら、またやっちゃうかもしれない。こんな感じです」
景子「わたしの場合、ODかな。発作的にもらってる薬、全部飲んじゃったことがある。倒れてるわたしを彼氏が発見して、救急車で病院まで運んでくれて、胃洗浄して、なんとか一命は取り留めたけど、医者に、もしかしたら脳に後遺症が残るかもしれないって言われた。もうODはしないって彼氏と約束したけど、自信ないな。もしかしたら、またやっちゃかもしれない」
ミサ「そうなんですか。お互いやっかいなもの抱えてますね」
景子「そろそろ会社に行かなくちゃ。珈琲ありがとう。また話せるといいな」
ミサ「わたしのほうこそ。よかったら携帯の番号とメールアドレス交換しません」
景子「お隣同士でね」
景子は笑いながらも、いいよ。と言い、ミサと景子は携帯の番号とメールアドレスを交換して、その朝は別れた。
水曜日。午前11時。
ミサは永岡の家を訪れた。毎週の習慣になっていた。永岡のカウンセリングを休んだことは、今のところない。
ミサ「わたしのブログ。見てくれましたか」
永岡「見ましたよ。メンバー登録も済ませました。今度、コメント入れますね。すごいじゃないですか。小説や詩を書いているんですね。びっくりしちゃいました。どれも素敵でした。ミサさんの精神世界がブログに現れています」
ミサ「ありがとうございます。実は、将来は小説家になるのが夢なんです。まあ、途方もない夢ですけど」
永岡「あれだけ書ければ、もしかしたら、本当の小説家になれるんじゃないかしら。少なくとも、わたしはいいと思いました。ところで、最近、体調の方はどうですか」
ミサ「あまりよく眠れません。なんだか眠るのが怖くて。部屋が暗くなるのが怖いんです。明りを点けたまま寝ています。暗闇の中でひとりでいると、息が詰まりそうになります。このまま窒息してしまうんじゃないかと思えてくるんです。こういうのって、他の人にもあるんですか」
永岡「そうですね。暗所恐怖症と言う名称で、暗いところが駄目な人はいますね。でも、ミサさんの場合、一時的なものかもれませんし。あまり今は気にしないほうがいいですよ。それより、ミサさんが抱える問題を根本的に解決することのほうが大切です。そこが解決されれば、他の身体的な症状も治るかもしれません。そのためには、ミサさんがわたしにもっと自分を曝け出さないといけません」
ミサ「隠し事はありません」
永岡「嘘はいけませんよ」
ミサ「・・・。先生。実は・・・」
永岡「何です」
ミサ「わたし。娼婦をしているんです」
永岡「娼婦」
ミサ「はい。スコティッシュと言うパブで」
永岡「売春ですか」
ミサ「はい」
永岡「辛くないですか」
ミサ「辛いです。でも、もう段々、無感覚になってきて。最近では、もう、どうでもいいや。って思う時もよくあります。
続く
2006-11-29
ミサ
穏やかな日の午後だった。ミサは徳永の家でカウンセリングを受けていた。徳永の自宅兼カウンセリング・ルーム。フローリングの床に茶色いソファ。
ミサはソファにゆっくりと体を沈めて、目を閉じた。
徳永がカウンセリングを始めた。
徳永「はじめまして。お名前は」
ミサ「葛城ミサと申します。よろしくお願いします。わたしは今、中京大学の2年生です。英文学を専攻しています。彼氏は今はいません。一月前に別れました。それ以来、強い喪失感にかられ、夜、眠れなくなりました。それで、最初はバファリンを一箱飲んで寝ていたのですが、それでも眠れなくなり、インターネットのオークションで、睡眠薬を買うようになりました。今飲んでいるのは、ユーロジン、レボとミン、ベゲタミンB、レンドルミン、ロヒプタノールです。これをカクテルして飲んでいます。どうにか6時間眠れるようになりました。でも、前の彼氏と別れた強い喪失感から脱却できず、1日中体がだるく、やる気がでません。トイレに行く時だけ、ベッドから出て、後はベッドで横になっています。食べ物は冷蔵庫にあるものを、1日1回くらい食べるだけです。体重が10キロ減りました。もうこんな生活疲れました」
そこで、徳永がミサの話を遮って、言った。
徳永「それはさぞ疲れたでしょう。食事はどんなに体がだるくても、1日3回食べてくださいね。薬をインターネットで買うのはよくないですね。精神科医を紹介しますから、そこで薬を処方してもらってください。彼氏と別れたのは、さぞ辛かったでしょうね。よほど彼氏を愛していたんですね」
ミサは突然泣き出した。体を大きくしゃくり上げ、体を大きく震わせた。
ミサ「彼氏が、雄治が浮気したんです。わたしの女友だちと。しかも親友だと思っていた子と。一度雄治と女友だちのアケミと3人でお茶したんです。わたしがトイレに行っている間に、雄治とアケミが携帯の番号とメールアドレスを交換したらしいんです。アケミを問い詰めて、聞き出しました。まさかアケミがわたしを裏切るなんて、思いもしませんでした。女の友情なんて、こんなものなんですか。徳永先生」
徳永「なんとも言えませんね。わたしにはそういう経験がありませんので。でも、女というものは、男が関わると、ひとが変わったように、豹変する生き物でもありますからね。わたしにも経験があります。普段は冷静なわたしが、たったひとりの男のために、がむしゃらになって、周りも見ずに、突っ走ったことがあります。もしかしたら、その時、多くのひとに迷惑をかけていたかもしれません。ミサさんにはそんな経験はありませんか」
ミサ「あります。ありますとも。それで女友だちを幾人か失くしました。大事な親友たちでした。けれでも今では、どこに住んでいるのかさえ知りません。知りたくありません。2度と顔を合わせたくはありません。過去、あんな人たちと親友であった、わたしを恥じます。あんな下品な人たちと付き合っていたなんて、今考えるとぞっとします」
徳永「そんなことを言うものではありませんよ。きっとそのお友だちにも事情があったのでしょう。もう過去の事。過ぎ去った事です。もうきれいさっぱり忘れましょう。その方が、ミサさんにとっても幸せなことですよ」
ミサ「でも、忘れられないのです。頭では過去の事だと分かっていても、頭がそれを許さないのです。頭が痛くなってくるんです。徳永先生。こんなわたしは大丈夫でしょうか」
徳永「そうですね。まずは睡眠をしっかりと取ることです。話はそれからにしましょう。わたしが紹介する精神科で必ず問診を受けるように。いいですね。ミサさん」
ミサ「わかりました。お医者さんのところへ行きます。そこで全部話します。睡眠薬をもらって、十分な睡眠を取れるようになります。今度、いつ話を聞いてくれますか。徳永先生」
徳永「来週の水曜日11時から1時間、ミサさんのお話を聞きましょう。いいですね」
ミサ「はい。わかりました。来週の水曜日11時ですね。携帯にメモ入れておきます。その間に精神科にかかります。それでいいんですよね」
徳永「はい。その通りです。きちんと守りましょうね。今持っている薬は捨てること。いいですね」
ミサ「えっ、捨てるんですか」
徳永「そうです。薬は精神科でもらってください」
ミサ「眠剤は捨てられません」
徳永「薬には有効期限もあるし、インターネットで買った薬なんてあやしくて危険です。インターネットで買ったバイアグラを飲んで、死んだ人もいるんですよ。薬の恐ろしさを知らなくてはいけません。分かりましたね。ミサさん」
ミサ「わかりました。徳永先生の言うとおりにします。精神科で薬をもらうまでは、今の薬を飲みますよ。それ位いいですよね」
徳永「仕方がないですね。それ位は大目に見ましょう。けれど、診察を受けてからは、その薬は絶対使わないように。いいですね」
ミサ「はい。わかりました」
徳永「いいでしょう。それでは、来週水曜日11時にお会いしましょう」
ミサ「ありがとうございました。失礼します」
徳永「はい。さようなら。また来週」
外に出ると、もう日が暮れかかっていた。夕日が痛く美しかった。ミサは涙が出そうになった。
ミサは、三崎町のパブ、スコティッシュに出かけた。日課だ。そこでミサは娼婦をしている。春を売っているのだ。
ミサは愛に餓えていた。両親からはまともな愛を授からなかった。
小学校の時、夕食はいつもひとりで取っていた。レトルトのピラフやパスタを食べていた。そんな時、我知らずに自然に涙が出た。両親はそのことを知らない。
父親と母親は折り合いが悪かった。顔を会わせれば、いつも喧嘩ばかりしていた。そんな両親を見るのが、ミサは辛かった。
ミサ「なんでママ。パパと喧嘩するの」
母親「もう手遅れ。喧嘩さえできない。今日、離婚届に判を押したわ」
ミサ「リコンって何」
母親「もうパパとは会わないっていうこと。ミサはこれから、ママとふたりで暮らすのよ」
ミサ「パパはどこで暮らすの」
母親「知らない。どこかよ。この日本のどこか遠いところ。2度とママやミサと顔を会わせない所」
ミサ「それじゃあ、もうパパとは会えないの」
母親「そうよ」
ミサは泣き出した。その夜、眠り込むまで、ミサは泣きじゃくっていた。
翌朝、ミサが起きると、もう母親は会社に出かけた後だった。
ミサは3時間目から授業を受けた。
三崎町のスコティッシュ。夜。
ミサはスコティッシュで、カンパリをソーダで割って飲んでいる。2杯目だ。
そこに客が付いた。雅浩というミサとそう年の変わらないの男だった。ミサはそんな若い客は初めてだった。けれど同年代の男の子と出会えて、純粋にうれしかった。雅浩は朝までミサを買った。
スコティッシュの2階のアイリッシュで、雅浩の腕に抱かれて眠った。ひとの胸に抱かれて眠るのは、幼年時代以来だった。とても心地がよいものだった。いつまでもこうして眠っていたかった。が、現実には朝が来て、昼が来て、お腹が空いてくる。
ミサはコンビニでおにぎりを2個買い、自分の部屋で食べた。
大学生活は気楽なものだった。語学の授業だけ、ちゃんと出席していれば、3年生に上がれる。他の講義は代返でカバーしていた。レポートは知り合いの女の子に見せてもらって、文章を変えて、提出した。それで1年から2年に進級した。そういう方法にミサは罪悪感や疑問を抱かなかった。
ミサはアイリッシュで、雅浩と会っていた。
ミサはカンパリ・ソーダを飲んでいる。雅浩はバーンボンをロックで割って飲んでいる。
やがて夜は更けていく。
雅浩「野暮な質問だけど、いいかな。なんで娼婦なんかやってるんだよ。ミサ」
ミサ「どうしてかな。うーん。さびしいからかな」
雅浩「恋人はいないの」
ミサ「いない。今まで彼氏ってひと、いたことない」
雅浩「マジ」
ミサ「マジ」
ミサ・雅浩「・・・・」
ミサはカンパリをお替わりし、雅浩はバーボンの5杯目を飲んでいる。
ミサも雅浩もかなり酔いが体に回っている。スツールの椅子に体を固定しているのが、精一杯だ。
ミサは雅浩と2階のアイリッシュで、体を求め合った。
水曜日の午前11時きっかりに、ミサは徳永の家を訪れた。
玄関のチャイムを鳴らす。
徳永の声がフォンから流れ、
「どうぞ。鍵は開いています。お入り下さい」
ミサはカウンセリング・ルームに入る。
ミサ「こんにちは」
徳永「こんにちは。どうぞ、体を楽にして、ソファにおかけください」
ミサはソファにゆっくりと体を沈める。そして目を瞑った。
徳永「どうですか。調子は」
ミサ「悪くはないです。徳永先生に言われた通り、精神科で睡眠薬を頂いてきました。睡眠は前より安定しています」
徳永「それはよかったですね。体のコンディションは睡眠の質から始まります。睡眠が安定しないひとは、心も安定しません。とりあえずよかったです。気分の落ち込みとか体のだるさはどうですか」
ミサ「精神科で抗鬱薬のデプロメールをもらって飲んでいるのですが、いくらか気分がよくなってきたような気もします。日中の体のだるさが幾分か取れました。昼間、寝込むことがなくなりました。日中は大体、家で本を読むか、パソコンでインターネットをしています。わたし、自分のブログを持っているのですが、その更新をしています」
徳永「ブログ。それはすごいですね。どんなことを書いているのですか」
ミサ「好きな本や音楽の紹介が多いですね。それに、日頃、思っている日常の疑問や楽しかったこと、悲しかったことなど、徒然に書いています。それと、デジカメをいつも持ち歩いているので、街で見かけた、何気ない風景なんかを載せています」
徳永「なんだか、楽しそうですね。ミサさんのブログ見たいです。アドレスを教えてくれませんか」
ミサ「なんだか恥ずかしいな。わたし、文章下手だし、ひとに見せるために書いているというか、自分のために書いているんですよね」
ミサはそう言いながらも、バッグの中から財布を取り出し、その中から、1枚の名刺を取り出して、徳永に手渡した。
そこには、http://misa.vox.com/、と書かれていた。
徳永はその1枚の名刺をしばらく見つめていた。
徳永「今日の夜にでも、ミサさんのブログ見させて頂きます。感想はコメントで送れるんですか」
ミサ「ああ、残念ですけれど、voxのメンバーにならないと、コメントは入れられないんです」
徳永「そうですか。残念です。わたしもメンバーになってみようかしら。メンバーになるって、簡単なことなんですか」
ミサ「わたしが徳永先生に招待状をメールで送れば、徳永先生もメーバーになることができます」
徳永「そうですか。じゃあ、招待状を送ってもらえますか」
徳永そう言いながら、机の抽き出しを開け、名刺入れから、1枚の名刺を取り出し、ミサに渡した。
ミサはその名刺をじっと見つめて、言った。
ミサ「今日にでも、メール送ります」
徳永「うれしいです。楽しみに待っています。では、今日はこの位にしておきましょうか」
ミサ「はい」
徳永「では、来週も水曜日の午前11時にお待ちしています」
ミサ「ありがとうございました。さようなら」
徳永「はい。さようなら。お元気で。ドアはそのままにして、出て行っていいですよ。後でわたしが鍵を閉めますから」
ミサ「はい。ありがとうございました。さようなら」
徳永「はい。さようなら。帰り、気をつけてくださいね」
ミサ「はい」
ミサはカウンセリング・ルームのドアを静かに閉め、廊下を通り、玄関を出た。
通りに出る。時計を見ると、ちょうど12時を過ぎたところだった。
駅の近くの喫茶店で、スパゲティを食べた。食後に珈琲を飲んで、ピコを吸った。2本ピコを吸い、喫茶店を出た。紅鹿亭という名前が表の看板に出ていた。読み方が分からないのが、気になったが、そのまま駅に向かった。
その夜、雅浩がスコティッシュにやって来て、ミサを朝まで買った。
情事の後。
雅浩「今度、昼間に会ってくれないか」
ミサ「えっ」
雅浩「ベタだけど、ディズニーランドに一緒に行って欲しいんだ」
ミサ「それって、デート」
雅浩「そう」
ミサ「・・・」
雅浩「俺、ミサのことが好きになっちゃったんだ。だから、ちゃんと付き合いたいんだ」
ミサ「・・・。いいよ。ディズニーランド行った事ないし。1度行ってみたかったんだ」
雅浩「マジ。行った事ないの」
ミサ「うん」
雅浩「今時、珍しいね」
ミサ「行く機会がなんとなくなくて」
雅浩「じゃあ。よかった。楽しみだな。何時ならいい」
ミサ「スコティッシュが休みの日曜日ならいいよ」
雅浩「OK。今度の日曜日はどう」
ミサ「いいよ。空いてる」
雅浩「決まりだ。今度の日曜日、俺の車で行こう」
ミサ「車持ってるんだ」
雅浩「一応ね。ボロだけどね。千葉まで行くには問題ないよ。外車じゃないけどいいだろ」
ミサ「そんなこと気にしないよ。車のこと詳しくないし。車ってあんまり乗ったことないんだ。うち車なかったし」
雅浩「そうなんだ。快適なドライブを約束するよ。運転の腕には自信があるんだ。これだけは自慢できる」
ミサ「飛ばすの。わたしあんまりスピード出すの、好きじゃないよ」
雅浩「スピードは出さない。安全運転。信号待ちでは、右見て、左見て、後ろ見て、それから、発進する」
雅浩が笑いながら言った。
ミサは微かに微笑んだ。このひとなら安心できる。そう思った。日曜日が待ち遠しくなつてきた。自然と顔がほころんで、笑顔になる。自然とハミングが口から出た。
雅浩「何。楽しそうじゃん。何、考えてんの」
ミサ「別に。なんでもないよ」
雅浩「教えろよ」
ミサ「なんでもないったら」
ミサと雅浩は戯れ合い、いつしか、愛撫に変わる。
日曜日は、よく晴れたいい天気だった。
スコティッシュの前で、午前8時に待ち合わせていた。
5分前。7時55分に雅浩は車でスコテッシュに乗り付けた。
ミサは8時ちょうどにスコティッシュの前に姿を現した。
ミサ「おはよう」
雅浩「おはよう」
ミサ「おはよう、なんて挨拶、久しぶり。いつも起きるの、午後過ぎだから」
笑いながら、ミサは言った。
雅浩「俺は毎日。言い飽きてる」
セブンスターをくわえながら言った。
ミサ「この車、CD聴ける」
雅浩「聴けるよ。なんで」
ミサ「お気に入りのCD持ってきたんだ。聴いていい」
雅浩「もちろん。誰」
ミサ「セリーヌ・ディオン」
雅浩「名前は知ってるけど、聴いたことない。いいの」
ミサ「いいよ。車の中でゆっくり聴こう。乗っていい」
雅浩「もちろん」
雅浩は車の助手席のドアを開け、ミサをシートに座らせて、ドアを閉めた。とても紳士的だった。ミサは雅浩に対し、少し好感を持った。
雅浩が運転手席に座り、まず、ミサのCDをプレイヤーにセットした。
よく通った女の歌声が車内に響いた。
ミサは曲に合わせて、口ずさんだ。
雅浩「本当に好きなんだな」
ミサ「うん。・・・。最初にピーターパン空の旅ね。その後、イッツ・ア・スモール・ワールド」
雅浩「OK。その後は、スプラッシュ・マウンテンでいいよね」
ミサ「わかった」
ディズニーランドの帰り、もう空は暗くなっていた。午後8時。
ミサと雅浩を乗せた車は、ホテルに向かった。
月曜日。午後2時。
ミサはブログを更新している。
昨日、雅浩と行った、ディズニーランドのこと。
夜。午後8時。スコティッシュ。
ミサは2杯目のカンパリ・ソーダを飲んでいる。
雅浩がやって来た。
雅浩「よう。昨日は楽しかったね。あんなに楽しかったの、俺、久しぶりだ」
ミサ「わたしも。興奮しちゃった。わたし、変じゃなかった」
雅浩「全然。ミサのこと見てて、俺、いい気分だったよ。本当に楽しかった。ありがとうな。ミサ」
ミサ「わたしのほうこそ。ありがとう。雅浩」
雅浩「初めて、俺のこと、雅浩って呼んだな。うれしいよ」
ミサは顔を赤くして、下を向いた。
雅浩「何、赤くなってるんだよ。俺に惚れたか」
ミサ「バカ」
雅浩「バカはないだろ。バカは」
ミサ「だって、からかうから」
雅浩はバーボンをロックで飲みながら、
雅浩「俺と付き合ってくれないか。ミサ。マジで」
ミサ「・・・・」
雅浩「俺じゃ駄目か」
ミサ「ううん。そんなことないよ」
雅浩「じゃあ、OKか」
ミサは小さな体で、頷いた。
雅浩は喜んで、バーボンを一気に飲み干した。ウェイターを呼び、バーボンのお替わりを注文する。
雅浩「今日は最高の気分だ。IT`S A MEMORIAL DAY」
雅浩は呟いた。
ミサ「英語、できるの」
雅浩「少しね。海外行って、ひとりで、ホテルに泊まって、レストランでオーダーして、帰りの飛行機のリコンファームができる程度ね」
雅浩は小さく笑いながら言った。
ミサ「わたし、帰国子女なんだ。2年間アメリカの高校に行ってたんだ」
雅浩「マジ。すげーじゃん。じゃあ、バイリンガルだな」
ミサ「一応ね」
ミサはクスっと笑いながら言った。カンパリソーダを一口飲んだ。
ミサは大学入学と同時に、母親の住むマンションから独立して、ひとりでアパートに住んだ。
その生活費を貯めるために始めたのが、スコティッシュの仕事だった。
最初は辛かった。見も知らぬ中年の男にいいようにされるのに、抵抗感を感じ、それはどうしても拭えなかった。
母親から離れようと思ったのは、母親がミサに依存するようになったからだ。精神的にもそうだし、生活面でも、昼間働いている母親は家事を全てミサに任せた。それはまあいいだろう、ミサは思った。仕方がないことなのだから。しかし、母親はミサに甘えてくるようになってきた。父親と離婚し、その後、恋人もいない母親は、やはり寂しかったのだろう。
母親「ミサ。今度の週末にふたりで京都に行かない」
ミサ「ええ。ママとふたりでなんて厭だよ」
母親「何が厭なの」
ミサ「ママとふたりで行ったって、つまらないもん」
母親は突然泣き出した。
母親「ママにはミサしかいないのよ。そのミサがそんなこと言うなんてママは悲しいわ。ミサはママのことが嫌いなの」
ミサ「そんなことないよ。でも、ベタベタするのは厭だな。一定の距離を保っていたい。その方が居心地がいいもん」
母親「親子の間でそんな距離を置くだなんて。いつも一緒にいた方がいいじゃない」
ミサ「わたしは自分だけの時間が欲しい。ひとりきりで考える時間を大切にしてる。だから、ママといつもベタベタ過ごすのには、抵抗があるな」
母親「そう。わかった。ママは結局ひとりきりなのね。あの人もわたしから離れていった。ママは孤独な老いぼれね」
母親は涙を拭いながら、小さく呟いた。
ミサ「そんなことないよ。わたしだって、距離を置くけれど、近くにいるし」
母親「もういいの。ミサの気持は分かった。ミサはもうわたしの娘じゃない」
ミサ「そんなこと言わないでよ。わたしはママの1人娘よ。ママの子どもよ」
母親「もう、わたしの娘じゃない」
ミサ「分かった。この家を出る」
母親「・・・」
その2週間後、ミサは家を出て、アパートメントに住んだ。
ミサがブログを始めるようになったのは、ひとり暮らしを始めてからのことだ。
また、不眠症と抑うつ状態になったのは、ひとり暮らしを始めて、2ヶ月後のことだった。
そんな状態で、ミサはスコティッシュに通っていた。
そんな訳で、その時のミサには、性欲と言うものがなかった。
だから、春を売る時は、偽りのエクスタシを演じていた。
ミサは結構な役者だった。ミサの演技は迫真に満ちたものだった。
ミサを買った男たちは、皆一様に、ミサを征服した満足感を抱き、アイリッシュを出た。そして、また再びミサを買った。
ミサは所謂、売れっ子だった。スコティッシュのナンバーワンだった。不動の地位を確立していた。
そこに現れたのが、雅浩だった。
雅浩は他の客とは違い、すぐにミサの演技を見破った。
雅浩「普通にしてればいいじゃん」
ミサ「・・・・」
雅浩「演技なんてするな。かえってシラケるよ。今までこんなことしてきたのか」
ミサ「・・・。うん」
水曜日。ミサは徳永のカウンセリングを終え、徳永の家を出た。
入れ違いに、ひとりの女性が徳永の家に入っていった。見覚えのある顔だった。ただ、それが誰なのかは分からなかった。思い出そうとしたが、駄目だ。思い出せなかった。ミサは1日中、その女性気になった。
その女性は、ミサのアパートメントの隣の部屋に住んでいた。それが分かったのは、翌週の月曜日の朝だった。
ミサは可燃ゴミを出しに、ゴミ袋を持って、指定の場所に行った。
あの女性が、ゴミ袋を置いていた。ミサはその女性を見つめた。
ミサ「あの。間違っていたら、すみません。もしかしたら、徳永先生の家に行きませんでしたか」
女性「はい。確かにわたしは徳永先生の所に行きましたが、なぜ、あなたが、それを知っているのですか」
ミサ「わたし、徳永先生のカウンセリングを受けているんです。先週の水曜日、わたしと入れ違いで、あなたが徳永先生の家に入るのを見たんです。それで、どこかで見た顔だなと、気になっていて、今日、あなたを見たものですから」
女性「そうですか。わたしも徳永先生のカウンセリングを受けているんです」
ミサ「わたし、葛城ミサと言います。もしよかったら、お名前を教えて頂けますか」
女性「わたしは吉澤景子と言います」
ミサ「もしよかったら、ちょっとお話してもいいですか」
景子「別にいいですけど」
ミサ「ここじゃあ、なんなんで、わたしの部屋に来ませんか。お茶を用意します」
景子「じゃあ、お邪魔しようかな」
ミサ「汚い部屋で、申し訳ないですけど、どうぞお上がり下さい」
ミサと景子は、ミサの部屋に上がった。
ミサはキッチンで湯を沸かした。
景子は、リヴィングのテーブルに肘を付いて、椅子に腰かけて、お茶が出てくるのを待った。
ミサが、マグカップに入った珈琲をふたつ持って、テーブルの上に、珈琲を置いた。
ミサ「どうぞ、召し上がってください」
ミサはそう言いながら、自分から先に、珈琲に口をつけた。溜息がひとつ出た。
景子はミサを見つめながら、珈琲を口に運んだ。
景子「おいしい」
ミサ「ありがとうございます。珈琲には自信があるんです。今日のは、トラジャです」
景子「トラジャ」
景子は、そう呟きながら、珈琲をもう一口飲んだ。
景子「うん。おいしい。ありがとう。ミサさん」
ミサ「あの。景子さんって呼んでもいいですか」
景子「いいわよ」
ミサ「うれしい。景子さん。わたし、前の彼氏と別れてから、不眠症になって、夜、眠れなくなったんです。それに抑うつ状態って言うんですか。なんにもやる気がしなくなって、昼間、ずっと、ベッドで横になるようになっちゃったんです。それで、たまたま電話帳で見た、徳永先生のところへ行くようになったんです」
景子「そうなんだ。わたしはもう1年位かな、徳永先生のカウンセリングを受けてるの。わたし、恋愛依存症なんだ」
ミサ「恋愛依存症」
景子「いつも恋愛をしていないと、不安になっちゃうの。付き合ってる彼氏と別れたりすると、どうにも頭の中がぐちゃぐちゃして、整理がつかなくなるの。生理も不順になって、体のコントロールも効かなくなるの。それを徳永先生に話したら、恋愛依存症だって言われた。今は遠距離恋愛してて、彼氏は北海道にいるの。でも、彼氏が近くにいないと、不安で不安で仕方ないの。夜、寝る時は、大きなテディ・ベアを抱いて、眠っているの。おかしいでしょ。こんないい年して」
景子はクスっと笑った。ミサもつられて、笑った。
ミサ「気持ち、分かります。
続く