2007-01-19
ミサ
穏やかな日の午後だった。ミサは永岡の家でカウンセリングを受けていた。永岡の自宅兼カウンセリング・ルーム。フローリングの床に茶色いソファ。
ミサはソファにゆっくりと体を沈めて、目を閉じた。
永岡がカウンセリングを始めた。
永岡「はじめまして。お名前は」
ミサ「葛城ミサと申します。よろしくお願いします。わたしは今、大京大学の2年生です。英文学を専攻しています。彼氏は今はいません。1ヶ月前に別れました。それ以来、強い喪失感にかられ、夜、眠れなくなりました。それで、最初はバファリンを一箱飲んで寝ていたのですが、それでも眠れなくなり、インターネットのオークションで、睡眠薬を買うようになりました。今飲んでいるのは、レボトミン、ロヒプタノール、レンドルミン、ユーロジン、ベゲタミンBです。これをカクテルして飲んでいます。どうにか6時間眠れるようになりました。でも、彼氏と別れた強い喪失感や不安から抜け出せなくて、1日中体がだるく、やる気がでません。トイレに行く時だけ、ベッドから出て、後はベッドで横になっています。食べ物は冷蔵庫にあるものを、1日1回くらい食べるだけです。体重が5キロ減りました。もうこんな生活疲れました」
そこで、永岡がミサの話を遮って、言った。
永岡「それはさぞ疲れたでしょう。食事はどんなに体がだるくても、1日3回食べてくださいね。薬をインターネットで買うのはよくないですね。精神科医を紹介しますから、そこで薬を処方してもらってください。彼氏と別れたのは、さぞ辛かったでしょうね。よほど彼氏を愛していたんですね」
ミサは突然泣き出した。体を大きくしゃくり上げ、体を大きく震わせた。
ミサ「彼氏が、孝が浮気したんです。わたしの女友だちと。しかも親友だと思っていた子と。一度、孝と女友だちのアケミと3人でお茶したんです。わたしがトイレに行っている間に、孝とアケミが携帯の番号とメールアドレスを交換したらしいんです。アケミを問い詰めて、聞き出しました。まさかアケミがわたしを裏切るなんて、思いもしませんでした。女の友情なんて、こんなものなんですか。永岡先生」
永岡「なんとも言えませんね。わたしにはそういう経験がありませんので。でも、女というものは、男が関わると、ひとが変わったように、豹変する生き物でもありますからね。恋愛すると多くのひとは、他人に迷惑をかけるものです。ミサさんにはそんな経験はありませんか」
ミサ「あります。ありますとも。それでわたしは女友だちを何人か失くしました。大事な親友たちでした。けれでも今では、どこに住んでいるのかさえ知りません。知りたくありません。2度と顔を合わせたくもありません。前に、あんな人たちと親友だった、わたしを恥じますよ。あんな下品な人たちと付き合っていたなんて、今考えるとぞっとします」
永岡「そんなことを言うものではありませんよ。きっとそのお友だちにも事情があったのでしょう。もう過去の事です。きれいさっぱり忘れることです。その方が、ミサさんにとっても幸せなことですよ」
ミサ「忘れられないんです。頭では過去の事だと分かっても、頭がそれを許さないんです。夜中に、頭が痛くなってきて、気が狂いそうになるんです。永岡先生。こんなわたし、大丈夫でしょうか」
永岡「そうですね。まずは睡眠をしっかりと取ることです。わたしが紹介する精神科で必ず問診を受けるように。いいですね。ご両親は」
ミサ「離婚して、別居しています。今は一人暮らしです。その前は、母親と二人で暮らしていました」
永岡「お母様は寂しがりませんでしたか。ミサさんが一人暮らしされて」
ミサ「ええ。一人暮らしを止められました。わたしが強引に家を出て、最初は友だちの家に泊まっていたんですけれども、居づらくなって、一人暮らしを始めました」
永岡「お金はどうしたんですか。家賃や敷金、礼金は」
ミサ「・・・バイトして貯金していたお金があったので、それを使いました」
永岡「そうですか。生活は苦しくないですか」
ミサ「バイトしてますから」
永岡「学校は」
ミサ「殆ど行っていません」
永岡「そうですか。アルバイトはほどほどに、学校へは行った方がいいですね。アルバイトは何をやっているのですか」
ミサ「レストランのウェートレスです」
永岡「それで家賃を」
ミサ「はい。生活は楽ではないですが」
永岡「そうでしょうね」
ミサ「・・・
永岡「睡眠薬は精神科で処方箋が出ますので、その通りに飲むこと。きちんと守るんですよ。今持っている薬は捨てること。いいですね」
ミサ「えっ、捨てるんですか」
永岡「そうです。薬は精神科でもらってください」
ミサ「眠剤は捨てられません」
永岡「薬には有効期限もあるし、インターネットで買った薬なんてあやしくて危険です。インターネットで買ったバイアグラを飲んで、死んだ人もいるんですよ。薬の恐ろしさを知らなくちゃはいけません。分かりましたね」
ミサ「わかりました。永岡先生の言うとおりにします。精神科で薬をもらうまでは、今の薬を飲みますよ。それ位いいですよね」
永岡「仕方がないですね。それ位は大目に見ましょう。けれど、診察を受けてからは、その薬は絶対使わないように。いいですね」
ミサ「はい。わかりました」
永岡「いいでしょう。子どもの頃、どんな子どもでしたか」
ミサ「おとなしくて、いつも1人でクレヨンで絵を描いていまし」
永岡「それはどんな絵ですか。絵はまだ残っていますか」
ミサ「家が火事になってみんな燃えてしまいました。写真も全て。絵はいつも、わたしがひとり木の下に座っている絵を描いていました」
永岡「それは大変でしたね。絵から察すると、子ども時代に孤独感を持っていたようですね。」
ミサ「確かにいつもひとりでいました。両親は帰ってくるのがいつも遅かったので、夕食はいつもひとりで食べていました。でも昔のことです。全部忘れました。子どもの頃だったし」
永岡「そんなことないんじゃないですか。話を換えて、子ども時代に何かトラウマのようなものはありますか」
ミサ「・・・」
永岡「何かあるんですか」
ミサ「話さなくちゃいけませんか」
永岡「今話さなくてもいいですよ。ミサさんが話せるようになったらで結構です。その時まで待ちますよ」
ミサ「今は話したくありません」
永岡「そうですか。大学には殆ど行っていないんですよね」
ミサ「大体、友だちに代返でカヴァーしてもらっています」
永岡「大学は楽しいですか」
ミサ「楽しくなんかありません。就職予備校のようなもんです。将来、IT関連の企業で勤めたいので、資格の勉強をしています。MBAとか」
永岡「それはすごいですね。受かるといいですね」
ミサ「なかなか難しくて、教本読むとやる気が出なくなってくるんですよ」
永岡「はは。勉強なんてそんなものですよ」
ミサ「なんだか疲れました。ちょっと横になっていいですか。」
永岡「もちろん。気分はどうですか」
ミサ「ただ、疲れただけです。ちょっと横になっていれば大丈夫です」
永岡「本当に大丈夫ですか。とりあえず少し休んでいったらいいでしょう」
ミサ「ありがとうございます。次は何時来たらいいですか。必ず来ます」
永岡「来週の水曜日、午前11時から1時間お話を聞きましょう」
ミサ「わかりました。すみません。少し休ませてください」
永岡「はい。ソファに横になっていいですよ。少し眠るといいでしょう」
ミサ「実は昨日、眠剤飲んだんですけど、一睡もできなくて・・・」
永岡「それはいけませんね」
ミサ「それじゃあ、横にならせてもらいます」
ミサはソファに体を横に沈め、目を閉じる。
30分程経つ。
ミサ「もう大丈夫です。すみませんでした。家に帰ります」
永岡「大丈夫ですか」
ミサ「はい」
永岡「はい。では来週。帰り道、気をつけてくださいね」
ミサ「はい。本当にお世話になりました」
外に出ると、もう日が暮れかかっていた。夕日が痛く美しかった。ミサは涙が出そうになった。
ミサは、三崎町のパブ、スコティッシュに出かけた。日課だ。そこでミサは娼婦をしている。春を売っているのだ。
ミサは愛に餓えていた。両親からはまともな愛を授からなかった。
小学校の時、夕食はいつもひとりで取っていた。レトルトのピラフやパスタを食べていた。そんな時、我知らずに自然に涙が出た。両親はそのことを知らない。
父親と母親は折り合いが悪かった。顔を会わせれば、いつも喧嘩ばかりしていた。そんな両親を見るのが、ミサは辛かった。
ミサ「なんでママ。パパと喧嘩するの」
母親「もう手遅れ。喧嘩さえできない。今日、離婚届に判を押したわ」
ミサ「リコンって何」
母親「もうパパとは会わないっていうこと。ミサはこれから、ママとふたりで暮らすのよ」
ミサ「パパはどこで暮らすの」
母親「知らない。どこかよ。この日本のどこか遠いところ。2度とママやミサと顔を会わせない所」
ミサ「それじゃあ、もうパパとは会えないの」
母親「そうよ」
ミサは泣き出した。その夜、眠り込むまで、ミサは泣きじゃくっていた。
翌朝、ミサが起きると、もう母親は会社に出かけた後だった。
ミサは3時間目から授業を受けた。
三崎町のスコティッシュ。夜。
ミサはスコティッシュで、カンパリをソーダで割って飲んでいる。2杯目だ。
そこに客が付いた。雅浩というミサとそう年の変わらないの男だった。ミサはそんな若い客は初めてだった。けれど同年代の男の子と出会えて、純粋にうれしかった。雅浩は朝までミサを買った。
スコティッシュの2階のアイリッシュで、雅浩の腕に抱かれて眠った。ひとの胸に抱かれて眠るのは、幼年時代以来だった。とても心地がよいものだった。いつまでもこうして眠っていたかった。が、現実には朝が来て、昼が来て、お腹が空いてくる。
ミサはコンビニでおにぎりを2個買い、自分の部屋で食べた。
大学生活は気楽なものだった。語学の授業だけ、ちゃんと出席していれば、3年生に上がれる。他の講義は代返でカバーしていた。レポートは知り合いの女の子に見せてもらって、文章を変えて、提出した。それで1年から2年に進級した。そういう方法にミサは罪悪感や疑問を抱かなかった。
ミサはスコティッシュで、雅浩と会っていた。
ミサはカンパリ・ソーダを飲んでいる。雅浩はスコッチをロックで割って飲んでいる。
やがて夜は更けていく。
雅浩「野暮な質問だけど、いいかな。なんで娼婦なんかやってるんだよ」
ミサ「どうしてかな。うーん。さびしいからかな」
雅浩「恋人はいないの」
ミサ「いない。今まで彼氏ってひと、いたことない」
雅浩「マジ」
ミサ「マジ」
ミサ・雅浩「・・・・」
ミサはカンパリをお替わりし、雅浩はスコッチの5杯目を飲んでいる。
ミサも雅浩もかなり酔いが体に回っている。スツールの椅子に体を固定しているのが、精一杯だ。
ミサは雅浩と2階のアイリッシュに消えていった。体を求め合った。
水曜日の午前11時きっかりに、ミサは永岡の家を訪れた。
玄関のチャイムを鳴らす。
永岡の声がフォンから流れ、
「どうぞ。鍵は開いています。お入り下さい」
ミサはカウンセリング・ルームに入る。
ミサ「こんにちは」
永岡「こんにちは。どうぞ、体を楽にして、ソファにおかけください」
ミサはソファにゆっくりと体を沈める。そして目を瞑った。
永岡「どうですか。調子は」
ミサ「悪くはないです。永岡先生に言われた通り、精神科で睡眠薬を頂いてきました。前よりは睡眠が安定しています」
永岡「それはよかったですね。体のコンディションは睡眠の質から始まります。睡眠が安定しないひとは、心も安定しません。とりあえずよかったです。気分の落ち込みとか体のだるさはどうですか」
ミサ「精神科で抗鬱薬のデプロメールをもらって飲んでいるのですが、いくらか気分がよくなってきたような気もします。日中の体のだるさが幾分か取れました。昼間、寝込むことがなくなりました。日中は大体、家で本を読むか、パソコンでインターネットをしています」
永岡「たまには外に出た方がいいですね。散歩とかはしていないんですか」
ミサ「あまり。実家では犬を飼っていて、散歩によく行ったんでが」
永岡「そうですか。今でもその犬は実家にいるんですか」
ミサ「はい。ゴディヴァという名前です。もう12歳ですが、まだ元気で生きています」
永岡「それはいいですね。たまには、実家に帰ったりするんですか」
ミサ「全く。実家には帰りません。たまに、留守番電話に母親からのメッセージが入っていますが、聞かないで、消去しています」
永岡「なぜですか」
ミサ「母親の声を聞くのが厭だから。もう2度と母親には会いたくありあません」
永岡「なぜ、そこまで母親を嫌うんですか」
ミサ「憎んでいるからです。以前は、母親を愛していました。でも、感情が憎悪に変わりました。母親がわたしを束縛するようになったから」
永岡「親とはそういうものですよ。多少の束縛は仕方がないでしょう。お母さまともう一度、距離を近づけてみてはいかがですか」
ミサ「もう沢山です」
永岡「そうですか。今日はこの位にしておきましょう。疲れませんでしたか」
ミサ「大丈夫です。この間はすみませんでした」
永岡「そんなことはいいんです。では、来週も水曜日の午前11時にお待ちしています」
ミサ「ありがとうございました。さようなら」
永岡「はい。さようなら。お元気で。ドアはそのままにして、出て行っていいですよ。後でわたしが鍵を閉めますから」
ミサ「はい。ありがとうございました。さようなら」
永岡「はい。さようなら。帰り、気をつけてくださいね」
ミサ「はい」
ミサはカウンセリング・ルームのドアを静かに閉め、廊下を通り、玄関を出た。
通りに出る。時計を見ると、ちょうど12時を過ぎたところだった。
駅の近くの喫茶店で、パスタを食べた。食後に珈琲を飲んで、デュオを吸った。2本デュオを吸い、喫茶店を出た。紅鹿舎という名前が表の看板に出ていた。読み方が分からないのが、気になったが、そのまま駅に向かった。
その夜、雅浩がスコティッシュにやって来て、ミサを朝まで買った。
情事の後。
雅浩「今度、昼間に会ってくれないか」
ミサ「えっ」
雅浩「ベタだけど、ディズニーランドに一緒に行って欲しいんだ」
ミサ「それって、デート」
雅浩「そう」
ミサ「・・・」
雅浩「俺、ミサのことが好きになっちゃったんだ。だから、ちゃんと付き合いたいんだ」
ミサ「・・・。いいよ。ディズニーランド行った事ないし。1度行ってみたかったんだ」
雅浩「マジ。行った事ないの」
ミサ「うん」
雅浩「今時、珍しいね」
ミサ「行く機会がなんとなくなくて」
雅浩「じゃあ。よかった。楽しみだな。何時ならいい」
ミサ「スコティッシュが休みの日曜日ならいいよ」
雅浩「OK。今度の日曜日はどう」
ミサ「いいよ。空いてる」
雅浩「決まりだ。今度の日曜日、俺の車で行こう」
ミサ「車持ってるんだ」
雅浩「一応ね。ボロだけど。千葉まで行くには問題ないよ。外車じゃないけどいいだろ」
ミサ「そんなこと気にしないよ。車のこと詳しくないし。車ってあんまり乗ったことないんだ。うち車なかったし」
雅浩「そうなんだ。快適なドライブを約束するよ。運転の腕には自信があるんだ。これだけは自慢できる」
ミサ「飛ばすの。わたしあんまりスピード出すの、好きじゃないよ」
雅浩「スピードは出さない。安全運転。信号待ちでは、右見て、左見て、後ろ見て、それから、発進する」
雅浩が笑いながら言った。
ミサは微かに微笑んだ。このひとなら安心できる。そう思った。日曜日が待ち遠しくなつてきた。自然と顔がほころんで、笑顔になる。自然とハミングが口から出た。
雅浩「何。楽しそうじゃん。何、考えてんの」
ミサ「別に。なんでもないよ」
雅浩「教えろよ」
ミサ「なんでもないったら」
ミサと雅浩は戯れ合い、いつしか、愛撫に変わる。
日曜日は、よく晴れたいい天気だった。
スコティッシュの前で、午前8時に待ち合わせていた。
5分前。7時55分に雅浩は車でスコテッシュに乗り付けた。
ミサは8時ちょうどにスコティッシュの前に姿を現した。
ミサ「おはよう」
雅浩「おはよう」
ミサ「おはよう、なんて挨拶、久しぶり。いつも起きるの、午後過ぎだから」
笑いながら、ミサは言った。
雅浩「俺は毎日。言い飽きてる」
セブンスターをくわえながら言った。
ミサ「この車、CD聴ける」
雅浩「聴けるよ。なんで」
ミサ「お気に入りのCD持ってきたんだ。聴いていい」
雅浩「もちろん。誰」
ミサ「フランソワーズ・アルディ」
雅浩「知らない。いいの」
ミサ「いいよ。車の中でゆっくり聴こう。乗っていい」
雅浩「もちろん」
雅浩は車の助手席のドアを開け、ミサをシートに座らせて、ドアを閉めた。とても紳士的だった。ミサは雅浩に対し、少し好感を持った。
雅浩が運転手席に座り、まず、ミサのCDをプレイヤーにセットした。
少しかすれた女の歌声が車内に響いた。英語ではないのを、雅浩は気づいた。
ミサは曲に合わせて、口ずさんだ。
雅浩「本当に好きなんだね」
ミサ「うん。・・・。最初にピーターパン空の旅ね。その後、イッツ・ア・スモール・ワールド」
雅浩「OK。その後は、スプラッシュ・マウンテンでいいよね」
ミサ「わかった」
ディズニーランドの帰り。もう空は暗くなっていた。午後8時。
ミサと雅浩を乗せた車は、ホテルに向かった。
夜。午後8時。三崎町。スコティッシュ。
ミサは2杯目のカンパリ・ソーダを飲んでいる。
雅浩がやって来た。
雅浩「よう。昨日は楽しかったね。あんなに楽しかったの、俺、久しぶりだ」
ミサ「わたしも。興奮しちゃった。わたし、変じゃなかった」
雅浩「全然。ミサのこと見てて、俺、いい気分だったよ。本当に楽しかった。ありがとうな。ミサ」
ミサ「わたしのほうこそ。ありがとう。雅浩」
雅浩「初めて、俺のこと、雅浩って呼んだな。うれしいよ」
ミサは顔を赤くして、下を向いた。
雅浩「何、赤くなってるんだよ。俺に惚れたか」
ミサ「バカ」
雅浩「バカはないだろ。バカは」
ミサ「だって、からかうから」
雅浩はスコッチをロックで飲みながら、
雅浩「・・・俺と付き合ってくれないか。ミサ。マジで」
ミサ「・・・・」
雅浩「俺じゃ駄目か」
ミサ「ううん。そんなことないよ」
雅浩「じゃあ、OKか」
ミサは小さな体で、頷いた。
雅浩は喜んで、スコッチを一気に飲み干した。ウェイターを呼び、スコッチのお替わりを注文する。
雅浩「今日は最高の気分だ。IT`S A MEMORIAL DAY」
雅浩は奇麗なキンクス・イングリッシュの発音で呟いた。
ミサ「英語、できるの」
雅浩「少しね。海外行って、ひとりで、ホテルに泊まって、レストランでオーダーして、帰りの飛行機のリコンファームができる程度ね」
雅浩は小さく笑いながら言った。
ミサ「わたし、帰国子女なんだ。2年間アメリカの高校に行ってたんだ」
雅浩「マジ。すげーじゃん。じゃあ、バイリンガルだな」
ミサ「一応ね」
ミサはクスっと笑いながら言った。カンパリ・ソーダを一口飲んだ。
ミサは大学入学と同時に、母親の住むマンションから独立して、ひとりでアパートに住んだ。
その生活費を貯めるために始めたのが、スコティッシュの仕事だった。
辛かった。見も知らぬ中年の男にいいようにされるのに、抵抗感を感じ、それはどうしても拭えなかった。
母親から離れようと思ったのは、母親がミサに依存するようになったからだ。精神的にもそうだし、生活面でも、昼間働いている母親は、家事を全てミサに任せた。それはまあいいだろう、ミサは思った。仕方がないことなのだから。しかし、母親はミサに甘えてくるようになってきた。父親と離婚し、その後、恋人もいない母親は、やはり寂しかったのだろう。
母親「ミサ。今度の週末にふたりで京都に行かない」
ミサ「ええ。ママとふたりでなんて厭だよ」
母親「何が厭なの」
ミサ「ママとふたりで行ったって、つまらないもん」
母親は突然泣き出した。
母親「ママにはミサしかいないのよ。そのミサがそんなこと言うなんてママ、悲しいわ。ミサはママのことが嫌いなの」
ミサ「そんなことないよ。でも、ベタベタするのは厭だな。一定の距離を保っていたい。その方が居心地がいいもん」
母親「親子の間でそんな距離を置くだなんて。いつも一緒にいた方がいいじゃない」
ミサ「わたしは自分だけの時間が欲しいし、ひとりきりで考える時間を大切にしてる。だから、ママといつもベタベタ過ごすのには、抵抗があるな」
母親「そう。わかった。ママは結局ひとりきりなのね。あの人もわたしから離れていった。ママは孤独な老いぼれね」
母親は涙を拭いながら、小さく呟いた。
ミサ「そんなことないよ。わたしだって、距離を置くけれど、近くにいるし」
母親「もういいの。ミサの気持は分かった。ミサはもうわたしの娘じゃない」
ミサ「そんなこと言わないでよ。わたしはママの1人娘よ。ママの子どもよ」
母親「もう、わたしの娘じゃない」
ミサ「・・・。分かった。この家を出る」
母親「・・・」
2週間後、ミサは家を出て、アパートメントにひとりで住んだ。
ミサが不眠症と抑うつ状態になったのは、ひとり暮らしを始めて、2ヶ月後のことだった。
そんな状態で、ミサはスコティッシュに通っていた。
そんな訳で、その時のミサには、性欲と言うものがなかった。
だから、春を売る時は、偽りのエクスタシを演じていた。
ミサは結構な役者だった。ミサの演技は迫真に満ちたものだった。
ミサを買った男たちは、皆一様に、ミサを征服した満足感を抱き、アイリッシュを出た。そして、また再びミサを買った。
ミサは所謂、売れっ子だった。スコティッシュのナンバーワンだった。不動の地位を確立していた。
そこに現れたのが、雅浩だった。
雅浩は他の客とは違い、すぐにミサの演技を見破った。
雅浩「普通にしてればいいじゃん」
ミサ「・・・・」
雅浩「演技なんてするな。かえってシラケるよ。今までこんなことしてきたのか」
ミサ「・・・。うん」
水曜日。ミサは永岡のカウンセリングを終え、永岡の家を出た。
入れ違いに、ひとりの女性が永岡の家に入っていった。見覚えのある顔だった。ただ、それが誰なのかは分からなかった。思い出そうとしたが、駄目だ。思い出せなかった。ミサは1日中、その女性が気になった。
その女性は、ミサのアパートメントの隣の部屋に住んでいた。それが分かったのは、翌週の月曜日の朝だった。
ミサは可燃ゴミを出しに、ゴミ袋を持って、指定の場所に行った。
あの女性が、ゴミ袋を置いていた。ミサはその女性を見つめた。
ミサ「あの。間違っていたら、すみません。もしかしたら、永岡先生の家に行きませんでしたか」
女性「・・・。確かにわたしは永岡先生の所に行きましたが、なぜ、あなたが、知っているんですか」
ミサ「わたし、永岡先生のカウンセリングを受けているんです。先週の水曜日、わたしと入れ違いで、あなたが永岡先生の家に入るのを見たんです。それで、どこかで見た顔だなって、ずっと気になっていて。今日、あなたを見たものですから」
女性「そうですか。わたしも永岡先生のカウンセリングを受けているんです」
ミサ「わたし、葛城ミサと言います。もしよかったら、お名前を教えて頂けますか」
女性「吉澤景子と言います」
ミサ「もしよかったら、ちょっとお話してもいいですか」
景子「別にいいですけど」
ミサ「ここじゃあ、なんなんで、わたしの部屋に来ませんか。お茶を用意します」
景子「じゃあ、お邪魔しようかな」
ミサ「汚い部屋で、申し訳ないですけど、どうぞお上がり下さい」
ミサと景子は、ミサの部屋に上がった。
ミサはキッチンで湯を沸かした。
景子は、リヴィングのテーブルに肘を付いて、椅子に腰かけて、お茶が出てくるのを待った。
ミサが、マグカップに入った珈琲をふたつ持って、テーブルの上に、珈琲を置いた。
ミサ「どうぞ、召し上がってください」
ミサはそう言いながら、自分から先に、珈琲に口をつけた。溜息がひとつ出た。
景子はミサを見つめながら、珈琲を口に運んだ。
景子「おいしい」
ミサ「ありがとうございます。珈琲には自信があるんです。今日のは、トラジャです」
景子「トラジャ」
景子は、そう呟きながら、珈琲をもう一口飲んだ。
景子「うん。おいしい。ありがとう。ミサさん」
ミサ「あの。景子さんって呼んでもいいですか」
景子「いいわよ」
ミサ「うれしい。景子さん。わたし、前の彼氏と別れてから、不眠症になって、夜、眠れなくなったんです。それに抑うつ状態って言うんですか。なんにもやる気がしなくなって、昼間、ずっと、ベッドで横になるようになっちゃったんです。それで、たまたま電話帳で見た、永岡先生のところへ行くようになったんです」
景子「そうなんだ。わたしはもう1年位かな、永岡先生のカウンセリングを受けてるの。わたし、恋愛依存症なんだ」
ミサ「恋愛依存症」
景子「いつも恋愛をしていないと、不安になっちゃうの。付き合ってる彼氏と別れたりすると、どうにも頭の中がぐちゃぐちゃして、整理がつかなくなるの。生理も不順になって、体のコントロールも効かなくなるの。それを永岡先生に話したら、恋愛依存症だって言われた。今は遠距離恋愛してて、彼氏は北海道にいるの。でも、彼氏が近くにいないから、不安で不安で仕方ないの。夜、寝る時は、大きなテディ・ベアを抱いて、眠っているの。おかしいでしょ。こんないい年して」
景子はクスっと笑った。ミサもつられて、笑った。
ミサ「気持ち、分かります。わたしも彼氏の浮気が原因でこうなっちゃたから。わたし1回だけ、リストカットしちゃったことあるんです。死のうとかそんなんじゃなくて、自分の存在を確かめたくて。自分がこの世界に本当に生きてるって実感がなくて、もしかしたら夢の世界なんじゃないかと、たまに思って、それで、現実を確認したくて、リスカしたんです。そしたら、なんだか、一瞬、救われたような気がしたんですよね。痛みが、血の流れが、わたしに生の実感を与え、生への感謝の念を授けたんです。血を見たら安心したんです。今のところ、1回しかリスカしてないけど、もしかしたら、またやっちゃうかもしれない。こんな感じです」
景子「わたしの場合、ODかな。発作的にもらってる薬、全部飲んじゃったことがある。倒れてるわたしを彼氏が発見して、救急車で病院まで運んでくれて、胃洗浄して、なんとか一命は取り留めたけど、医者に、もしかしたら脳に後遺症が残るかもしれないって言われた。もうODはしないって彼氏と約束したけど、自信ないな。もしかしたら、またやっちゃかもしれない」
ミサ「そうなんですか。お互いやっかいなものを抱えてますね」
景子「そろそろ仕事に行かなくちゃ。珈琲ありがとう。また話せるといいな」
ミサ「わたしのほうこそ。よかったら携帯の番号とメールアドレス交換しません」
景子「お隣同士でね」
景子は笑いながらも、
景子「いいよ」
と言い、ミサと景子は携帯の番号とメールアドレスを交換して、その朝は別れた。
水曜日。午前11時。
ミサは永岡の家を訪れた。毎週の習慣になっていた。永岡のカウンセリングを休んだことは、今のところない。
永岡「こんにちは。最近、体調の方はどうですか」
ミサ「あまりよく眠れません。なんだか眠るのが怖くて。部屋が暗くなるのが怖いんです。明りを点けたまま寝ています。暗闇の中でひとりでいると、息が詰まりそうになります。このまま窒息してしまうんじゃないかと思えてくるんです。こういうのって、他の人にもあるんですか」
永岡「そうですね。暗所恐怖症と言う名称で、暗いところが駄目な人はいますね。でも、ミサさんの場合、一時的なものかもれませんし。あまり今は気にしないほうがいいですよ。それより、ミサさんが抱える問題を根本的に解決することのほうが大切です。そこが解決されれば、他の身体的な症状も治るかもしれません。そのためには、ミサさんがわたしにもっと自分を曝け出さないといけません」
ミサ「隠し事はありません」
永岡「嘘はいけませんよ」
ミサ「・・・」
永岡「分かりました。抑うつ状態の方はどうですか」
ミサ「駄目です。薬もあまり効いていないようです。先週の土曜日が精神科の外来だったのですが、薬を今のデプロメールからアモキサンという薬に変えないかという話がありました」
永岡「それでミサさんはどう言ったんですか」
ミサ「1週間考えさせてください、と答えました」
永岡「それで、結論は出たんですか」
ミサ「永岡先生はどう思いますか」
永岡「アモキサンは抗うつ薬として、三環系抗鬱薬と言って昔から使われています。効果が強い反面、副作用があり、便秘、口渇、口の中がからからに渇く症状などがあります。わたしは精神科の医者ではないので、何がいいかとは答えられませんね」
ミサ「考えたんですけど、薬を変えてみようと思います」
永岡「そうですか。効果があるといいですね」
ミサ「今週の土曜日の午前中の外来があるので、その時、先生に薬を変えてもらうように言います」
永岡「新しい薬の効果がうまく出るといいですね」
ミサ「はい。そう願います。じゃあ来週の水曜日の11時でいいですか」
永岡「そうですね。来週も11時にお待ちしています」
ミサ「ありがとうございました。失礼します」
永岡「お元気で。玄関のドアは開けたままでいいですからね」
ミサ「はい。さようなら」
外に出て、外気を大きく吸う。
紅鹿舎に入って、ハンバーグ・ランチを食べる。
食後に、ブレンド・コーヒーを飲む。おいしい。
三崎町。スコティッシュ。午後8時。
雅浩が現れる。
「よう。元気だった。ちょっとご無沙汰しちゃったな。仕事が忙しかったんだよ」
ミサ「そうなんだ。携帯に電話しても出ないから、心配したんだよ」
雅浩「俺、携帯あんまり好きじゃないんだ。だから、出ないことが多い。言うの忘れたな」
ミサ「心配したんだよ。どうしてるかと思って」
雅浩「ごめん。今度からは、ちゃんと電話に出るよ。今、何飲んでるの」
ミサ「カンパリ・オレンジ」
雅浩「いつもそうだな。カンパリが好きなの」
ミサ「うん。カンパリって甘くないし、さっぱりしてて好きなんだ。ソーダで割ったりもするよ」
雅浩「俺はスコッチだな」
ミサ「わたし、ウィスキーって苦手。だって苦いじゃない」
雅浩「それがいいんだよ。中でも、スコッチが1番だね。こくがあって、まろみがある。それに気がついたのは、スコテッシュに通うようになってからだけどね。それまでは、ギネスを飲んでた」
ミサ「ビールは最初の1杯はおいしいけど、それ以上は駄目。カクテルにいっちゃう」
雅浩「俺はカクテルはあんまり飲まないな。昔、トム・クルーズの『カクテル』って映画があってさ。トム・クルーズがバーテンダーを演じるんだけど、よかったな」
ミサ「わたし、それ観た。瓶をぐるぐる回しちゃうやつでしょ」
雅浩「そうそう。俺、それ見て憧れちゃってさ。バーでウェイターやったんだ。カウンターで、ボトルをよく回したな。結構割ったのも多いけどね」
ミサ「あはは。雅浩らしい」
雅浩「そういう時代もあったって言うこと。もう昔の話さ。今じゃ、しがないニッポンのサラリーマンだよ」
ミサ「いいんじゃないの。普通で。そういうのって悪くないんじゃない。わたし、会社で働いたことないから、よく分からないけど」
雅浩「退屈な仕事だよ。It`s a boring job,that`s it」
ミサ「Hum.And how do you do?」
雅浩「Nothing I do」
ミサ「So what?」
雅浩「That`s all I talk about my job.英語はもう止めよう。ミサにはついていけない」
ミサ「あは。雅浩の発音はいいよ。キンクス・イングリッシュね。どこで覚えたの」
雅浩「前に、イギリス女とつきあってた。もう3年前になるかな。それで覚えた」
ミサ「そうなんだ。結構グローバルなんだね。わたしの英語は完全にアメリカ訛りだから、キンクス・イングリッシュに憧れるな」
雅浩「そんなもんかな。俺の英語なんて大したことないよ。向こうに住んだこともないし。文化も知らない。まあ、音楽は好きだけどね。パンクとかグラム・ロックとか。最近じゃ、スウェードとかパルプ。これも古いな。今、1番好きなのはディバイン・コメディ。ボーカルのニール・ハノンが最高に格好いいんだ。英国のダンディズムを現代に甦らせた伊達男。ディバイン・コメディっていうのは、イタリアの叙情詩人ダンテの『神曲』の英題なんだ。まあ、実質的にニール・ハノンのソロ・ユニットなんだけだけどね」
ミサ「詳しいんだね。わたしは洋楽だったら、ブリトニーが好き。アイドルだけど、ブリトニーは格好よく思えるんだよね」
雅浩「ブリトニーはいいね。プロモーション・ビデオで制服着て、踊ったやつあっただろ。あれ、好きだな」
ミサ「うん。Baby One More Timeね。高校の学園祭で、友だちとあれ、踊ったんだ。わたし、チア・ガールにいたから」
雅浩「成績よかったんだな。頭いいんだ」
ミサ「普通よ。でも、彼氏はアメフトの選手だったな。長く続かなかったけどね。性格とか趣味合わなかったし。彼、ジョージっていうんだけど、音楽は、マリリン・マンソンが好きで、ハード・ロックとかヘビメタが好きなの。ついていけなかったな」
雅浩「ハード・ロックならQUEENが好きだな。The Show Must Go Onは名曲だと思う」
ミサ「わたし、モーリス・ベジャールのバレエ、『バレエ・フォー・ライフ』を観たんだけど、最後にかかるのが、QUEENのThe Show Must Go Onなの。感動しちゃった。今度、来日したらまた行きたいな」
雅浩「何。バレエでQUEENが使われるの。すげーじゃん。観たいな、それ」
ミサ「いいよ。ダンサーのジョルジュ・ドンとQUEENのフレディ・マーキュリーへのオマージュの作品なんだけど、音楽もいいし、最高な舞台だったよ」
雅浩「そうなんだ。知らなかったな。まさかフレディ・マーキュリーが使われてるなんてな」
ミサ「モーリス・ベジャールは最高よ。ジョルジュ・ドンのボレロ。わたしはDVDでしか観たことないけど、すごいの。14分51秒の作品なんだけど、赤い丸い台の上で、周りに男のダンサー達が群舞する中で、ひとり踊るの。すごいエネルギッシュなバレエよ」
雅浩「知ってる。俺、映画の『愛と哀しみのボレロ』観たから。ジョルジュ・ドンは天才だな」
ミサ「うん。生きている時に見たかったな。エイズだったんだよね。フレディ・マーキュリーもジョルジュ・ドンもふたりとも」
雅浩「そうだな。ふたりともエイズ。ふたりの命を奪ったエイズ、この病いを俺は心底憎む」
永岡のカウンセリング・ルーム。午前11時。
ミサがソファに身を沈めている。
ミサ「眠れません。アモキサンを試した3日後から、一睡もしていません。頭の回転がやたらよくて、1日中なにかやっています。友だちに電話しまくって、amazonやyahooオークションで高い買い物をしまくりました。しゃべり出すと、止まらなくって、自分が今、どこにいるのかさえ、分からなくなります」
永岡「もしかしたら、躁転かもしれませんね。鬱から躁状態に転ずることで、抗鬱薬の力が強く作用しすぎて、ハイな状態になったりすることです」
ミサ「どうしたらいいんですか」
永岡「とりあえず、睡眠をしっかりとらなくてはなりません。精神科に行って、強い睡眠薬を処方してもらってきてください。できれば、今日行ったほうがいいですね。ここ数日間眠っていないんだから、いつ倒れても不思議ではありません。場合によっては入院という方法もあります」
ミサ「入院は厭です。精神病院に入院なんて耐えられません。鍵が掛かっていて、窓には格子が掛かっているんですよね。あんなところ厭です」
永岡「最近の精神病院はもっと自由ですよ。外出ができたり、個室で、鍵も掛かっていない所もあります。煙草も吸えます」
ミサ「・・・でも」
永岡「兎に角、1度精神科の先生に相談してみてください。わたしの立場ではこれ以上何とも言えません」
ミサ「わかりました。精神科に行きます」
永岡「その方がいいですよ。必ず行ってくださいね」
ミサ「でも、気分は最高なんです。楽しくて仕方ありません。眠っているなんて勿体なくて」
永岡「それが躁状態の症状のひとつです。多幸気分と言います」
ミサは精神科には行かなかった。
夜。スコティッシュにも行かず、クラブに行った。
アシド・ジャズのかかる店。初めてだった。
とりあえず、バー・カウンターで、カンパリ・ソーダを頼んだ。
そこにひとりの男が近寄って来て、ミサに話しかけた。
男「何飲んでるの」
ミサ「カンパリ」
男「美味しい」
ミサ「美味しいよ」
男「俺、雄太っていうんだ。名前訊いてもいいかな」
ミサ「ミサ」
雄太「踊らない」
ミサ「いいよ」
雄太とミサはアシド・ジャズのサウンドに身体を任せて、激しく身体をスウィングさせた。汗が全身から噴き出した。
雄太「休もうか」
激しく踊るミサの耳元に、雄太は大きな声で叫んだ。
ミサは黙って、フロアからスツールの椅子に腰かけた。
雄太が、ドリンクを持って来た。
ミサは、カンパリ・ソーダ。雄太は、バーボンのロック。
ふたりは一気に飲み干した。
ふうと大きな溜め息をついた。
身体で大きく息を吸う。
雄太「まだ踊っていく。帰る」
ミサ「まだ踊りたい」
雄太「この店、5時までだからまだ時間あるよ。今、3時」
ミサ「踊る」
ミサはフロアに出て、また激しく身体を踊らせた。
雄太もミサに従うように、フロアに出て、踊った。
午前5時30分。深夜営業の喫茶店。
雄太とミサは始発の電車を待っている。
安物のソファにふたりとも身を沈め、無口にコーヒーを飲んでいる。
ミサがデュオを1本取り出して、口に運んだ。
火をつけて、大きく煙草を吸う。天井に向かって大きく紫煙を吐き出す。
天井に紫煙が蔓延する。
ミサは紫煙を焦点の合わない目で見つめていた。
雄太「俺の家に来ないか」
ミサ「わたし、つきあっている人がいるんだ」
雄太「そんなの関係ない」
ミサ「・・・あるよ。わたし、そんな軽い女じゃないよ」
雄太「女はみんなそう言う。だけど、最後には俺のところへ来る」
ミサ「わたしは違う」
雄太「女はみんな同じ。俺は分かってる」
ミサ「帰る」
ミサはひとりで坂を下って、駅に向かう。
雄太が後ろから、大声で叫んだ。ミサは雄太の声を無視して駅に向かった。
朝焼け。ミサは駅のホームで始発を待つ。
やがて電車が来て、乗り込む。シートに座ると、眠り込んだ。
目を覚ますと、最寄りの駅のひとつ手前。ミサは眠い目を擦りながら、シートを立った。
アパートメントに帰ると、調度、景子がゴミを出していた。
ミサ「おはようございます」
景子「ミサちゃん。朝帰り」
ミサ「えへ。最近眠れなくて。つい」
ミサは舌を出し、笑った。
景子「一緒に朝ご飯食べていかない」
ミサ「時間大丈夫なんですか」
景子「時間は作るもの。なんとかしようと思えば、なんとかなるものよ。ケセラ・セラて言葉知ってる」
ミサ「聞いたことはあります」
景子「なんとかなるっていうこと。何事もね。ドリス・デイっていう歌手がいてね。その人が歌っているの。When I just a little girl I ask my mother what will I be?」
ミサ「それでどうなるんですか」
景子「素敵な旦那様と結婚して、子どもができるの。それで子どもがママに同じことを訊くの。なんだか面白い歌でしょう」
ミサ「素敵な歌ですね」
景子「そうね。・・・。わたし、周りのみんなに景ちゃんって呼ばれてるんだ。ミサちゃんもわたしのこと、景ちゃんって呼んでくれない」
ミサ「いいんですか」
景子「わたしがそうして欲しいの。後、敬語も辞めてね。敬語は職場だけで十分。うんざりだわ」
ミサ「景ちゃん。わたし今日、ナンパされちゃた」
景子「で、どうしたの」
ミサ「何もなかった」
景子「ふーん。彼氏はいるの」
ミサ「一応」
ミサは持っている睡眠薬を全部一気に飲んだ。襲われるように睡眠に落ちていった。
夜が来ても、朝が来てもミサは目を覚まさなかった。
隣に住む景子が、ミサの部屋のチャイムを鳴らした。何度鳴らしても返事がない。変電盤のメーターは動いている。おかしいと思った景子はミサの携帯に電話を入れた。呼び出し音が続き、留守番電話のメッセージに変わった。景子は無言で電話を切った。
ミサの携帯にメールを送った。返事はなかった。
1日が過ぎた。
不審に思った景子は、アパートメントの大家に連絡を入れた。
景子「おかしいんです。もう2日も連絡が取れません」
大家「若い子ならよくあることなんじゃないですか」
景子「ミサはそんな子じゃありません。大家さん。ミサの部屋の鍵を貸してください。一緒に中を見てください。お願いします」
大家「大げさなんじゃないですか。吉澤さん」
景子「わたし、本気です。お願いします」
大家「仕方がないですね。じゃあ、今度だけですよ」
景子と大家はミサの部屋のマスター・キーで扉を開けた。
リヴィングに入る。
ミサが床に転がっていた。
景子「ミサ。どうしたの。起きて」
ミサはぴくりとも動かない。
景子は、ミサの体を揺する。
ミサの体はぐにゃりとしなる。
景子「大家さん。救急車」
大家「はっ、はい」
大家は携帯電話を取り出し、119を押す。
呼び出し音ワン・コールで、男の人が出た。
男「はい。119番。どうなさいましたか」
大家「女性が倒れています。今すぐ来てください」
ミサは診察台の上にいる。眠っている。
医者の男が胃洗浄する。
ミサの喉の奥にチューブを入れる。
ミサはベッドで目を覚ます。
明るい。昼間のようだ。
景子がベッドの側で、椅子に座って本を読んでいる。
ミサの本棚から抜いたらしいサン=テグジュペリの『星の王子さま』らしい。
景子は、『星の王子さま』を朗読している。
景子「すると、キツネがあらわれました。『こんにちは』。と、キツネがいいました。『こんにちは』と、王子さまは、ていねいに答えてふりむきましたが、なんにも見えません。『ここだよ。リンゴの木の下だよ・・・』と、声がいいました。『きみ、だれだい?とてもきれいなふうしてるじゃないか・・・』と、王子さまがいいました。『おれ、キツネだよ』と、キツネがいいました。『ぼくと遊ばないかい?ぼく、ほんとにかなしいんだから・・・』と、王子さまはキツネにいいました。『おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから』と、キツネがいいました。
時間が過ぎる。
景子は『星の王子さま』を朗読し続ける。
景子「しんぼうが大事だよ。最初はおれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、なんにもいわない。それもことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。1日1日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだんと近いところへきて、すわれるようになるんだ・・・」
ミサがベッドで目を開ける。
ミサ「わたし、どうしちゃっただろ」
景子「睡眠薬を大量に飲んで、昏睡状態になったの。丸3日眠っていたのよ。わたしが大家さんに頼んで、ミサの部屋を開けてもらって、救急車で病院へ運んだの」
ミサ「そうだったんだ。わたし、ただ眠れないから、いつもより多く薬を飲めば眠れるかと思って、持ってる睡眠薬全部飲んだの」
景子「いくらなんだって、1週間分飲んじゃったらマズいよ。わたしもODの経験あるから、分かるけど」
ミサ「思いっきり眠ったから、気持ちいい。でも、体が痛い」
景子「3日も眠っていれば、しょうがいよ。お腹は空いてない」
ミサ「ぺこぺこ」
景子「おじやを作るから、待ってて」
景子は、キッチンでおじやを作る。
ミサのいるベッドに戻って来て、小さな丸いテーブルをベッドの側に置き、その上に、おじやが入った土鍋を乗せる。
景子「熱いから気をつけてね」
ミサは、ふうふう冷ましながら、おじやを啜る。
ミサ「熱い。でも美味しい」
景子「そう。よかった。
ミサは黙々とおじやを食べ続ける。
食べ終わって、大きく溜め息をついた。
景子「気分はどう」
ミサ「上々。いい気分。I feel so good」
景子「それはよかったね。これからどうする。また寝る。起きる」
ミサ「起きる。雅浩に連絡しなきゃいけないし」
景子「雅浩さんって彼氏」
ミサ「そう。付き合ってる人。わたしの携帯どこ」
景子「リヴィングのテーブルの上にあったよ」
ミサは、のそりと起き上がり、リヴィングに向かった。
携帯をチェックすると、雅浩からの着信が何件も入っていた。
ミサは、雅浩の番号を画面に出すと、発信ボタンを押した。
雅浩「もしもし。ミサ、どうしたんだよ。何回も連絡したんだぜ」
ミサ「話すと長くなる。ちょっと寝込んでたんだ」
雅浩「そうだったんだ。俺、ミサの家知らなかったから、どうしていいか分からなかったんだ」
ミサ「ごめん。今日、何曜日」
雅浩「日曜日。そんなことも知らないのか」
ミサ「寝込んでたって言ったじゃない。さっき起きたばっかりなんだから」
雅浩「そうか。ごめん。体はもう大丈夫」
ミサ「うん。これから会える」
雅浩「大丈夫。どこに行けばいい。ミサの家」
ミサ「ううん。スコティッシュに1時間後に来て」
雅浩「OK。車で行く」
ミサ「じゃあ、スコティッシュで、1時間後に」
ミサは電話を切ると、バスルームに向かった。
足取りはよたよたとしている。
シャワーを全身に浴び、体と髪を洗う。
バスルームから出ると、バスタオルが置いてあった。
ミサはバスタオルで全身を包み込んだ。
リヴィングに出ると、景子の姿はもうなかった。
ミサは、洋服を着て、顔にメイクをした。
スコティッシュ。
雅浩が、車に体をもたれかけて、セブンスターを吸っている。
ミサが姿を現した。
雅浩が車から離れ、ミサに近寄る。
雅浩「よう。体はどう」
ミサ「大丈夫。ドライブしたいな」
雅浩「どこがいい」
ミサ「雅浩に委せる」
雅浩「横浜にしようか」
ミサ「うん」
雅浩は車の助手席のドアを開け、ミサを座らせる。
雅浩は車の前を回り込んで、運転席に座り、車のエンジンをかけた。
車に繋がれたipodが、音楽を流して始めた。G線上のアリア。
第三京浜道路を、時速80kmで走る。
雅浩「気分がいい」
ミサ「わたしも。バッハはいいよね。ブランデンブルグ協奏曲なんかも好き。あと、不伴奏チェロ組曲とか、オルガンのもいいよね」
雅浩「ああ。バッハは大抵いいね。クラッシクならベートーヴェンの月光。第九。モーツァルトのレクイエム。交響曲第25番なんか好きだな」
ミサ「ipodに、モーツァルトの交響曲第25番入ってる」
雅浩「ああ。入ってるよ」
ミサ「聴いていい」
雅浩「いいよ。ipod勝手にいじっていいよ」
ミサはたどたどしく、ipodを操作する。
やがて、モーツァルトの交響曲第25番が車の中に響き渡る。
ミサ「この曲好き。気分が昂ってくるんだよね」
雅浩「名曲だね。モーツァルトでは、他だったら、アイネ・クライネ・ナハト・ムジークが好きだな。有名どころだけどね」
ミサ「わたしも好き」
横浜に着く。
車をパーキングに入れ、ふたりは車を降りる。
山下公園を歩く。
氷川丸が停泊している。
ミサ「わたし、氷川丸って乗ったことないんだ」
雅浩「乗ってみようか」
ミサ「うん。乗りたい」
港の見える丘公園。
ふたりは黙って海を眺めている。
雅浩「寒くなって来た。歩こうか」
ミサ「うん
ふたりは、外人墓地へと坂を下る。
雅浩「腹が減ったな。ミサは」
ミサ「わたしも。何食べる」
雅浩「やっぱ中華だろ。どっか美味しい店知ってる」
ミサ「知らない。適当に入ろうよ。感じがいい店に」
雅浩「OK」
ふたりは、点心を食べ、プアール茶を飲む。食後に杏仁豆腐を食べる。
雅浩「杏仁豆腐美味いな。俺、杏仁豆腐好きなんだ」
ミサ「わたしも。もう1皿食べれるよ」
雅浩「食おうか」
ミサ「うん」
雅浩が店員を呼び、杏仁豆腐を二つ追加注文する。
雅浩「杏仁豆腐ふたつ、お願いします」
店員「はい。今すぐ」
ミサと雅浩は杏仁豆腐を食べる。
ミサ「美味しかった。お腹いっぱい」
ミサはプアール茶を飲みながら言った。
雅浩が胸のポケットから、セブンスターを取り出し、口にくわえて、火をつける。セブンスターを一息吸う。
雅浩「飯食った後の煙草って、なんでこんなに美味いんだろ」
ミサはヴィトンのバッグからデュオを取り出し、口にくわえた。
唇には、ルージュがしっかりと引かれている。
水曜日午前11時。永岡の自宅。
ミサ「おはようございます」
永岡「はい。おはようございます。お体の具合はいかかですか」
ミサ「実は、精神科に行きませんでした。わたし、持ってる睡眠薬を全部飲んじゃって、ODって言うんですか。やっちゃって、救急車で病院に運ばれて、胃洗浄されました。大変な1週間でした」
永岡「あれ程精神科に行くように言ったのに行かなかったんですか。救急車で運ばれて胃洗浄。それは大変でしたね。で、今具合はいかがですか」
ミサ「胃洗浄してもらったら、なんだかすっきりして、気分はいいし、よく眠れます」
永岡「それはよかったですね。今度は必ず精神科 に行くんですよ。いいですね」
ミサ「はい。分かりました。今度はちゃんと精神科で睡眠薬を処方してもらいます。わたし、彼氏ができました。雅浩っていう人です。愛しています。でも、時々自分の感情を抑えられなくなっちゃって、頭がパニックになりそうになります。永岡先生。わたし、どうしたらいいでしょうか」
永岡「そうですね。誰でも恋をすれば、自分を見失うこともあります。後は、いかに自分をコントロールするかです。いいですか。ミサさん。これはとっても大事なことですよ。感情を制御するんです。ただ、生きているだけなら、動物と同じです。わたし達は人間です。人間は理性を持った生き物です。理性を見失わず、感情を抑えて、如何によく、如何に正しく行動するかが大事です。忘れないように。いいですね。ミサさん」
ミサ「なんだか難しい話ですね。わたし、よく分かりません。もっと優しく話してください」
永岡「そうですね。例えば、イエス・キリストはこう言っています。右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出しなさい。あなたの隣人を愛しなさい。またこうも言っています。私たちは神の子羊です。」
ミサ「わたし、教会に行ってみようと思います。教会に行って、ただ椅子に座るんです。そして考えるんです。例えば、神さまって本当にいるのかとか、神の子である人の子は、なんで、全人類の罪を背負って、十字架に掛けられたのか。わたしはいつかきっと答えを見つけるでしょう。それまで教会に通い続けます。これが今のわたしの結論です。どうでしょう。永岡先生」
永岡「それもひとつの方法でしょう。自分が納得するまで、存分に考えなさい。自分の存在とは何か。自分は何者か。何処からきたのか。そして、どこへ行こうとしているのか。終着駅は何処にあるのか。いつか汽笛が鳴った時、ミサさんは死んで、冥界に入るのです。そう、そんなに先の未来ではありません。50年か60年先に話です。人生は長い。けれども長すぎることはありません。考えるには、短すぎる位です。いいでしょう。ミサさん。存分に世界を感じなさい。あなたなりの、あなただけの精神世界を構築するんです。それまで、わたしは待ちましょう。門を叩く人には、門は必ず開かれます。この言葉を忘れないように」
ミサ「はい。わたし、精神の旅に出ます。心を解放します。あるがままを受け入れ、あるがままに感じ、あるがままに従います。永岡先生が言ったように、門を叩けばきっと、門は開かれるでしょう。その時まで、わたしは旅人です。異邦人になった気持ちで、精神世界を彷徨います。まるでダンテが地獄と?獄と天国を旅したように。わたしには、ヴィルジリオのような案内人はいませんが、永岡先生がついています。わたしはきっと道に迷うことはないでしょう。迷った時には、精霊が手助けしてくれるでしょう。わたし、なんだかワクワクしてきました。わたし、旅に出るんです。背中のリュックにホラ貝をぶら下げて、巡礼の旅です。まるで、パウロ・コエーリョですね。永岡先生。パウロ・コエーリョの『星の巡礼』は読みましたか。わたしはすごい影響を受けました」
永岡「『アルケミスト』の人ですね。ブラジル人の。読みましたよ。いい本でした。スペインのピレネー山脈に憧憬を抱きました。今でも変わることはありません。あれはわたしにとって、精神の何たるかを教えてくれた第3の聖書のような本です」
ミサ「うれしい。身近にそんな人がいて。今日はとってもためになりました。ありがとうございます」
ミサが外に出ると、太陽が真上に登っていた。
ミサは紅鹿舎に入り、ハンバーグ・ランチを食べた。
食後に、珈琲を2杯飲み、外へ出た。
三崎町。スコティッシュ。
ミサはカンパリ・ソーダを飲んでいる。
そこに雅浩が現れた。
雅浩「調子はどう」
ミサ「まあまあ。雅浩は」
雅浩「俺はいつだって調子はいいよ。絶好調」
ミサ「いいじゃん。わたし、最近眠れなくって。夜中までパソコンやってる」
雅浩「そうなんだ。眠れない夜は、俺が一緒に遊んでやるよ」
ミサ「ありがとう。今度電話するね。仕事の方はどう」
雅浩「相変わらず。いつもと変わらないよ。退屈な仕事。It` a boring job」
ミサ「そうなんだ。でもいいじゃん。退屈ってわたし、わからない。いつも動いているか、寝込んでいるかだから。退屈ってどんな感じ」
雅浩「何もやる気がでなくって、ベッドで横になって、音楽聴きながら、ぼけっとしてる。そんな日には、飯食うのも面倒で、デリバリーのピザ頼む。1日が長く感じられて、退屈で退屈で気が狂いそうになる。壁を拳で叩いたり、天井にボールをぶつけたりして、ベッドでふてくされて、1日が終わる。最悪な日。Bad day。誰かに電話したくなるけど、そんな気力もなくて、夕方になる。煙草を1本吸う。天井に向かって煙を吐く。煙が部屋に充満して、息苦しくなってくる。それでも煙草を吸い続ける。夜になる。ベッドで寝ようとするんだけど、眠れない。そんな日には、決まって悪い夢を見る。夜中に目を覚まして、汗をびっしょりかく。着替えをして、また寝ようとするんだけど、朝まで眠れない。夜が明ける。仕事に行く。そうして、またいつもの日常が始まる。これが俺の退屈な日々。分かってもらえた」
ミサ「うん。なんとなく分かった。大変なんだね。眠れない夜は辛いよね。気持ち分かる。独り部屋にいて、夜中に叫びたくなってくる。そんな時は、枕に顔を埋めて、叫んじゃう。助けてって。でも、誰も助けに来てくれないの。だから独りで泣きじゃくるの。そうすると、いつか夜が明けて、朝が来るの。そうすると、ほっとして、ベッドで眠ることができるの。お昼過ぎに目を覚まして、近所の邪宗門でトーストを食べるの。そうすると、やっと気持ちが落ち着いてくるの。やっと気持ちが平常心になって、夕方まで、デパートを廻って、ウィンドー・ショッピング。これがわたしの毎日。いつだってぎりぎりで気持ちを保ってるの。心が壊れそうになる自分をなんとか、正常に保つのが大変。雅浩には、この気持ち分かってもらえるかな」
雅浩「おお。分かるよ。俺だって、いつ気が狂ってもおかしくないようなもんだもん。昔は大麻とかやって、トリップして、気を紛らわしたけど、もう最近は限界だな。この先、どうなっちゃうんだろって、いつも思うよ。精神安定剤でも飲めば、いくらか違うんだろうけど、精神科とか行きたくないし。まあ。インターネットでも薬は買えるしね。ミサはどうしてるの」
ミサ「実は、わたしカウンセリングに通ってるの。後、精神科にも。週に1回行ってる。薬ももらってるんだ。睡眠薬とか抗鬱剤とか。安定剤ももらってる。もう2ヶ月位になるかな。カウンセリングの先生、永岡先生って言うんだけど、よく話聞いてくれるの。最近じゃかなり永岡先生に依存してるかな。この間、寝込んでたって言ったじゃない。あれ、実は持ってる薬全部飲んじゃって昏睡状態になったの。それで、隣の部屋に住んでる景ちゃんが見つけてくれて、救急車で運ばれて、胃洗浄したの。もうあんな思いするの、厭だな」
雅浩「そうだったんだ。話してくれてありがとうな。俺、ミサのこと何にも知らないから。これからは、悩み事とかあったら俺に話してくれよ。頼りにならないかもしれないけど、話だったらいくらでも聞くし、相談に乗るよ」
ミサ「ありがとう。気持ちだけで十分。今はまだ雅浩にそういうことは話せないな。ごめんね」
雅浩「いいよ。もし時期が来たら話してくれよな。俺はいつまでだって待つから。そのことは忘れないでくれよな」
ミサ「ありがとう。雅浩って優しいんだね。なんか甘えちゃいそう」
雅浩「いくらだって、甘えてくれよ。俺はミサがそうしてくれるの、最高にうれしいんだからさ」
ミサ「うん」
雅浩「上に行こうか」
ミサ「・・・、うん」
ミサと雅浩は、2階のアイリッシュへ上がって行った。
そして、ふたりは愛し合った。
ミサは景子の部屋の前で、思い詰めた表情で立ちすくんでいる。手にはTAKANOのケーキの箱がある。
思い切った表情で、ドアフォンを鳴らした。
中から、景子が出てきた。
景子「どうしたの。ミサちゃん」
ミサ「この間のお礼。これ」
ミサはケーキを手渡した。
景子「そんなのいらないのに。でも嬉しいな。中でお茶でも飲んでいって」
景子はミサを部屋の中に促した。
景子の部屋はとても綺麗に片付いていた。
景子がキッチンで湯を沸かしながら、紅茶の用意をしている。
いい香りがする。
ミサは思わず、大きく鼻で匂いを嗅いだ。
ミサ「この紅茶、何」
景子「アッサム・ティ」
ミサ「わたしはどっちかって言うと、珈琲党だから、紅茶はあんまり飲まないんだ。でもいい香り」
景子「そう。よかった。おいしいよ」
ミサと景子はふたりで窓の外を眺めている。
二人とも無口だ。
最初にミサが話を切り出した。
ミサ「最近、永岡先生どう」
景子「いつもと変わらないと思うよ。丁寧で話よく聞いてくれるし。いいんじゃん」
ミサ「それならいいんだけど。ちょっと気になるところがあってね」
景子「何よ。はっきり言いなさいよ。じれったい」
ミサ「永岡先生。最近ノイローゼ気味な感じがして。カウンセリングの時も目がなんだか虚ろで、焦点が定まってないの。足取りもなんだかはっきりしないし。心配なんだ。わたしには永岡先生しかいないし。他に誰を当てにしていいかわかんない」
景子「わたしだってそうだよ。もし急に永岡先生がいなくなったらと思うと、体中がぞっとする」
三崎町。スコティッシュ。
ミコという女がスツールに座って、ギムレットを飲んでいる。
ミコがミサに話しかけた。
ミコ「最近、商売の方はどう」
ミサ「悪くないよ。上客が何人もいるし」
ミコ「いいな。わたしはもう30だから、最近客が減ってきて。前に常連だった男たちがみんな、他の子に移っちゃってさ。もうどうしていいのかわからくて。今さら、OLなんてできなし、やりたくないしさ」
ミサ「そうなんだ。大変なんだ。わたしはこの仕事は大学時代だけにしようと思ってる。卒業したら、ちゃんとどっかの大手の会社に就職するつもり。MBAも狙ってるんだ」
ミコ「未来があっていいね。わたしなんて、お先真っ暗だよ。ああ、この先、どうしていこう」
ミサ「うーん。難しいね。わたしだったら、苦労してでも、もう1度会社に入って、OLすると思う。ミコはやっぱり、そういうのしんどい」
ミコ「OLってやったことないから、不安なんだよね。WORDとEXELなら一通りできるんだよね。でも事務職ってなんか退屈そうで、やりたくない」
ミサ「わかる。でも現実は厳しいよ。時には自分を曲げてでも、やらなくちゃいけない時もあると思う。それが現実かな。ミコももっと現実を直視しなくちゃ。折角、パソコンできるんだったら、それをもっと生かした仕事に就いた方が幸せだと思うよ。彼氏はなんて言ってるの」
ミコ「まともな仕事に就けって言ってる。でもわたし今、こんな仕事してるしさ。なんか宙ぶらりんなんだよね。空中ブランコに乗ってるみたいに不安定なんだ。生活のバランスをコントロールするのが大変。でもなんとかやってるけどね」
ミサ「ミコはやればできるんだから、もっとちゃんとやったほうがいいよ」
ミコ「うん。わかってはいるんだけど、なかなか実行できなくさ。でも今日ミサと話して、ちょっと気分が晴れた。もしかしたら、踏ん切りが付いて、OLしようって気持ちが少し出てきた」
ミサ「よかった。ミコならできるよ。やってごらんよ」
ミコ「うん。やってみようかな。明日、ハローワーク行って、仕事探ししてみる」
ミサ「その方がいいよ。絶対。わたしミコのこと応援するよ。いい仕事が見つかるといいね」
ミコ「うん。なるべく早く、この仕事から手を洗って、まともな仕事に就くよ」
ミサ「よかった。お替わりしようか」
ミコ「うん」
ミサとミコは、残ったドリンクを飲み干して、ウェイターを呼び、ミサはカンパリ・ソーダ。ミコはギムレットをオーダーした。
母
目を覚ました。ぼくはベッドから起き上がり、セブンスターに火をつけた。
一服吸う。
身体の中にニコチンが充満する。
一瞬、身体がくらくらした。
ぼくはよろめきながら、煙草の火を消した。
ベッドでもう1度横になる。
目眩がした。
そのまま眠りに落ち込んでいった。
深い深い眠り。
目を覚ますと、昼過ぎだった。
空腹を憶えた。
車で、邪宗門に行き、ピザトーストと珈琲を注文した。
空腹が充たされると、どこか遠くへ行きたくなった。
車で白樺湖まで行った。
湖面が凍っていた。
ぼくはアイス・スケートをした。
湖の中央で、ビールマン・スピンを決めた。
ipodで『ダッタン人の踊り』を聴きながら、曲に合わせて、踊り滑った。
トリプル・アクセルを跳んだ。
氷上にトゥ・エッジが着くのと同時に、後ろ向きに滑り降りた。
湖畔のカフェでカフェ・ラテを飲み、体を温めた。
ぼくは車に乗り込み、東京に向かった。
寒い寒い夕方だった。
中央高速の灯りだけが辺りを照らしていた。
ぼくは家に着くと、すぐにシャワーを浴び、汗を流した。
暫く、テレビを見た。
夜11時にはベッドに入り、眠った。
夢を見た。
赤い絨毯の上を、母親に手をつながれて歩いている。
鳥居が見える。
鳥居をくぐると、城があった。
ぼくは城で豪華なディナーを食べた。
名前も知らない料理。
ぼくはディッシュを平らげて、水を飲んだ。
ベッドに入って眠った。
起きると、自分の部屋にいた。
ぼくは見た夢のことを考えながら、セブンスターを吸った。
頭がくらくらして、ベッドに戻った。
また眠りに落ちた。
今度は夢を見なかった。
深い暗闇の中、ぼくは一心に眠り込んでいた。
Bye-bye Mama。
ぼくは今日、一人暮らしを始めるよ。
もう、運送会社には連絡したんだ。
今週の土曜日、引っ越すよ。
たまには、この家にも帰ってくるから、その時はよろしく。
今までありがとう。母さん。
2007-01-18
月-亜紀ちゃんとぼく-
ぼくはBS2で、『ベスト・フレンズ・ウェディング』を観た。ジュリア・ロバーツが痛かった。
レストランで、みんなが、ディオンヌ・ワーウィックの『I Say A Little Pray For You』を合唱した。
ぼくも、画面のみんなと一緒に歌った。
そこに、亜紀ちゃんが帰ってきた。
ぼくは、亜紀ちゃんに、おかえり、と言った。
亜紀ちゃんは、とても疲れている様子で、黙ったまま、部屋に入った。
ぼくは心配して、亜紀ちゃんの部屋のドアをノックした。
「ひとりにしておいて」
「何があったの」
「悲しいこと」
「ぼくに話してくれないか」
「嫌。誰にも話したくない。今日はもう寝るから、ほっておいて」
ぼくは諦めて、リヴィングで映画を見続けた。
ゲイの友だちが、ディナー・パーティーで、ジュリア・ロバーツに携帯電話で電話した。
ジュリア・ロバーツは驚いて、椅子から立ち上がり、ゲイの友だちをきょろきょろと探し始めた。
居た。
ふたりは、フロアでダンスを踊った。
エンディング・ロールが流れる。
ぼくは一息入れて、セブンスターを吸った。
亜紀ちゃんの部屋から、モーツァルトのレクイエムが流れていた。
嫌な予感がした。
ぼくは、亜紀ちゃんの部屋のドアをマスターキーで開けた。
部屋中にガスが充満していた。
ぼくは真っ先にガラス窓を開け放った。
そして、亜紀ちゃんの体を揺り動かした。
「亜紀ちゃん。しっかりして。起きるんだよ」
部屋の床には、睡眠薬のケースの空が一杯に散らばっていた。
ぼくは救急車を呼んだ。
亜紀ちゃんが救急車で運ばれた。
ぼくは同乗して、救急病院まで行った。
亜紀ちゃんは胃洗浄して、意識を取り戻した。
「なんで、わたしを助けたの」
ぼくは何も言えなかった。
ただひと言。
「今はゆっくり体を休めるんだよ。明日の夕方に来るからね」
ぼくは仕事に向かった。
仕事ははかどらなかった。
ぼくは仕事を切り上げて、病院に行った。
亜紀ちゃんは既に病院を出ていた。
ぼくは亜紀ちゃんの携帯電話に電話した。
亜紀ちゃんが出た。
「黒いウールのジャケットを着てる。小指にトルコ石の指輪をしてる。今、横断歩道を渡った。そこで、わたしを見つける。ほら、ここに」
亜紀ちゃんが、目の前に立っていた。
ぼくはやるせない気持ちになって、涙が込み上げてきた。
亜紀ちゃんに気持ちをぶつけた。
「ごめん」
「もういいんだよ」
ぼくは、亜紀ちゃんの肩を抱いた。
ビルの隙間から夕陽が差していた。
ぼくの目が滲むように潤んだ。
タクシーを呼び止め、ぼくと亜紀ちゃんは家に向かった。
今日の夕飯は、ビーフ・シチューにしよう。
ぼくはタクシーの中で、今日の献立を決めた。
もう、すぐに夜が近づいていた。
空には、低く月が白く浮かんでいた。
2007-01-17
光-亜紀ちゃんとぼく-
亜紀ちゃんと渋谷のパルコパート3のPOKER FACEで眼鏡を買った。ぼくは、ic!berlinの眼鏡。亜紀ちゃんはalain mikliの眼鏡を買った。
その後、1階のカフェ、Ma Chatelaineでアイス・ココアを飲んだ。
セブンスターを1本吸った。亜紀ちゃんは、デュオを1本吸った。
カフェを出て、映画館に入った。
『ラッキーナンバー7』を観た。
映画が終わり外に出ると、もう辺りは暗かった。
ぼくと亜紀ちゃんは、スペイン坂の人間関係でタコライスを食べた。
食後に、クランベリー・ジュースを飲んだ。
センター街をふたりで歩く。
西村屋で、ソフトクリームを買って、歩きながら食べた。
井の頭線に乗る。
電車は満員だった。
ぼくと亜紀ちゃんの身体が密着した。
ぼくはドキドキした。
鼓動が高鳴った。
その高鳴りは、亜紀ちゃんの胸に届いた。
ふたりの間に、言葉は必要なかった。
ぼくは、心の中で、亜紀ちゃん、好きだよ、って言った。
亜紀ちゃんも気持ちの中で、ノブくん、好き、って思った。
以心伝心。
家に着くと、ぼくは、プラシド・ドミンゴのアリアを聴きながら、シャワーを浴びた。
気持ち良かった。
ご機嫌で鼻歌を歌いながら、シャワー・ルームを出た。
亜紀ちゃんは、BS2で放映している『ノッティングヒルの恋人』を観ながら、泣いていた。
ぼくは、亜紀ちゃんの頬を優しく撫でた。
ぼくの指先に、亜紀ちゃんの涙がつたった。
ぼくは、その涙を唇にそっとつけ、味を確かめた。
塩っぱかった。
ぼくは、涙が出そうになった。
泣き顔を隠すため、バスタオルで顔を覆った。
映画が終わり、ぼくと亜紀ちゃんはキング・サイズのベッドで仲良く眠った。
夜中、3時18分に震度3の地震があった。
ぼくは目を覚ましたが、亜紀ちゃんは起きなかった。
ぼくはひとり、ベッドから抜け出して、ibookを起動させた。
amazonで、『ノッティングヒルの恋人』を注文した。
そして、またベッドに戻った。
眠りはすぐに訪れた。
6時30分。
目覚まし時計が鳴った。
ぼくと亜紀ちゃんは、飛び起きた。
ベーコン・エッグとトーストを頬張り、家を出て、仕事場に向かった。
電車の窓から空を見上げた。
空は、限りなく青く、澄んでいた。
ぼくはその青い空を見て、地球は青いと言った、宇宙飛行士ガガーリンの言葉を思い出した。
そう、地球は青い。
デヴィッド・ボウイも『スペース・オーディティ』の中で、地球は青いと、歌っている。
この無限に広い空を見て、ぼくはこの地球で、ひとりぼっちじゃない。
ぼくには、亜紀ちゃんがいる。
そう確信した。
今日、仕事から家に帰ったら、1番に、亜紀ちゃんにこの話をしよう。
そう思った。
ぼくは、ipodでホルストの『ジュピター』を聴きながら、亜紀ちゃんへの愛の証である、たったひとつのぼくの命を、亜紀ちゃんのために一生捧げることを、天にいまわす神に誓った。
空は晴天の中、雲の隙間からレンブラント光線が神々しく光を漏らしていた。
ぼくはその瞬間をデジカメに収めた。
この写真と一緒にぼくの想いを亜紀ちゃんに伝えよう。
そう決めたら、仕事に行く憂鬱さから、さっぱり解放された。
清々しい朝の出来事だった。
空-亜紀ちゃんとぼく-
亜紀ちゃんとTABATHAに買い物に行った。亜紀ちゃんはLEMINORのニット帽を買った。
ぼくは、一緒に寝る犬のぬいぐるみを買った。
亜紀ちゃんは、そんなぼくを見て笑った。
「そんなこと言うけど、ひとりで寝るのって寂しいんだよ」
「わたしが一緒に寝てあげるのに」
ぼくは俯いて、頬が紅くなった。
亜紀ちゃんは、ぼくの表情が変わったのを見逃さず、
「何、紅くなってるの。かわいい」
ぼくをからかった。
ぼくは意地になって、ぬいぐるみを返品した。
そうしたら、亜紀ちゃんがムキになって買い戻して、ぼくに犬のぬいぐるみを渡した。
ぼくは内心喜んで、ほくそ笑んだ。
TABATHAを出て、タリーズ・コーヒーに行った。
ソイスワークルシェイクのアイスはラムレーズンを頼んだ。
亜紀ちゃんは同じソイスワークルシェイクでアイスをエスプレッソにした。
街を歩きながらソイスワークルシェイクを飲んだ。
途中、ヨネザワでCDを見た。
ニック・ロウの4枚組CDがあったので買った。
帰りの車の中で、レスリー・ギャレットのアヴェ・マリアを聴いた。
胸に響いた。
ぼくは心臓が高鳴るのを胸で感じた。
息が苦しくなった。
助手席に座っていた亜紀ちゃんが、
「大丈夫。苦しそうだよ」
「大丈夫。何でもない。ソイスワークルシェイクで胸焼けしただけ」
ぼくは車を家に走らせた。
家に着くと、ぼくはすぐに寝室に向かい、ベッドで横になった。
プラシド・ドミンゴのアヴェ・マリアを聴いた。
心が落ち着いてきた。
ぼくはベッドから起き上がり、テラスでセブンスターを吸った。
カレーライスの匂いがした。
今日の夕飯はカレーライスだ。
亜紀ちゃんが鍋を大きなスプーンで掻きましている。
ぼくはリヴィングのテーブルに座って、カレーライスが出来上がるのを待った。
皿を用意して、福神漬けを冷蔵庫から出した。
カレーライスは絶品の味だった。
ぼくは感激して、亜紀ちゃんに、カレーライスの味の素晴らしさを朗々と語った。
亜紀ちゃんは、いつもの毎日のことだからと、まともに応えなかった。
そうなんだ。
ぼくは、いつだって亜紀ちゃんが作る料理に、毎回歓喜しているんだ。
料理が上手い女性はやっぱりいい。
ぼくだって料理はするし、毎週月曜日はぼくの当番の日だから、料理を作る。
でも、亜紀ちゃんは1度だって、ぼくの料理を褒めたことはない。
あなたに褒められたくて。
ただ、そのためだけに、週に1回料理をしているのに、亜紀ちゃんは喜んでくれない。
ぼくは1度でいいから、亜紀ちゃんが驚くような料理を作りたくて、料理教室に通い始めた。
そして、今日。
亜紀ちゃんは、ぼくの作ったビーフ・ストロガノフに賛辞に言葉を惜しまなかった。
その日、ぼくはご機嫌でベッドで眠った。
さあ、今度は亜紀ちゃんに何を食べさせよう。
1ヶ月先の献立まで考えた。
亜紀ちゃんが喜んでくれる。
そう考えると、ぼくは幸せで心が満ち渡った。
こんな日々がずっと続けばいい、そう心から願った。
きっと亜紀ちゃんにも、ぼくの気持ちは通じているだろう。
天気予報が、明日は晴れだと報じた。
ぼくの心も、空の青の様に、澄んで、遠くまで青く広がった。