2009-04-12
兄いもうと
今年も桜が散った。電車で川を渡った時に、散ってゆく桜を眺めながら、今年の桜ももう終わりだと思いながら、iPodから流れてくる「G線上のアリア」に耳を傾けていた。
桜が散ると思い出すのは、ある病院での出来事。
景子に出会った春を思い出す。
わたしが景子に出会ったのは、春四月の初め。
正確に言うと、四月三日か四日だったと記憶している。
初めてその病院を訪れたのは、友人が入院していたからだ。
友人と同じ病棟に入院していたのが景子だった。
わたしは友人と病棟の喫煙室でセブンスターを吸っていた。
そこに景子が入ってきた。
友人は、景子のことをわたしに紹介し、三人で煙草を吸いながら、窓から見える桜を見た。
景子は言う。
「わたし、妖精を見たことがあるの」
そして、妖精の話を続けた。
容姿がまるで妖精のように儚い景子が妖精を見る。
それは至極当たり前のように、わたしには思えた。
景子は子どもの頃、初めて妖精を見たという。
学校の帰りに草むらの上に光る羽を背中に生やした十センチくらいの人のようなもの。
そのことを景子は母親に話した。
母親は景子に忠告した。
「妖精のことは他のだれにも話しては駄目よ」
しかし幼い景子は、次の日学校で妖精のことをみんなに話した。
当然だが、クラスのみんなはその話を信じず、景子を嘘つきといじめた
。
景子はみんなに話したことを後悔した。
景子の引きこもりが始まったのはその頃だった。
景子は部屋で自分の世界に閉じこもるようになった。
学校も休みがちになり。だが景子は学校を卒業はし、あるインテリアデザインの専門学校に入学した。
課題が多く、毎日が深夜遅くまで続く勉強の日々。
そんなある夜。
眠りかけた景子の前に妖精が現れた。
あの子どもの頃に出会ったあの妖精。
妖精は言った。
「だいじょうぶ」
景子は妖精の励ましもあり、毎晩課題をこなした。
幼い頃の過ちを犯すことなく、だれにも妖精のことは言わなかった。
その妖精を景子は、唯一の友だちとし、景子の心の支えになっていった。
母親にだけ、その話をした。
母親はその話を信じた。が、やはりだれにも言ってはいけないと言った。
大人になった景子はわたしに、妖精のことを生き生きと話す。
「いま、肩の上に乗ってるよ」
当然だが、わたしには見えない。
見えないのは、わたしのこころに曇った疑いがあるからだ。
わたしは景子が言うことを妄想だとも、幻覚だとも思わない。
景子が言うことは真実なのだ。
景子はわたしに見えないものを見、見えないものを語る。
景子とわたしは同じ空気を吸いながら、別の世界に生きている。
それを、わたしは悲しく思い、景子との距離を感じざるを得なかった。
が、景子には不思議な魅力があった。
年より幼く見えるその容姿。
ゆっくりと穏やかに話す景子の人柄。
煙草の煙を口から抜かすその横顔に、わたしは魅せられていた。
その気持ちが日に日に募っていった。
いつしか、友人に会いに病院へ行くというのは口実で、わたしは景子に会うために、仕事が休みの日には病院へ通っていった。
その年の桜は遅咲きで、雨も風もない日が続き、桜が散ることがなかった。
わたしは桜並木を歩き、その病院へ通っていたが、ある日。
風が強い日曜日。一斉に桜が待っていたかのように散り去っていった。
面会用紙に自分の名前を記入しながら、背中に悪寒が走った。
一瞬いやなものを第六感で感じたが、わたしは病棟へと続くエレヴェータに乗り込んだ。
病棟のロビーに大きな荷物を抱えた景子がいた。
景子は、わたしをその目に留めると、
「わたし、今日退院するの」
そうぽつりと言うと、ピンク色のパイル地のバッグの中からメモを取り出し、そこに自分の携帯のアドレスと住所を書き込み、それをわたしに手渡した。
わたしもメモを渡し、その日から景子とわたしの間が近くなった。
病棟を去る景子の顔は、いつまでもこちらを見ていた。
景子にかける言葉が、頭と胸の中にたくさんあったが、それらが口から出ることはなかった。
次に、景子の声が聞けたのは、一週間後。景子の携帯に結がった時。
車で最寄りの駅まで迎えに行く約束を交わした。
時間通りに景子は現れ、わたしは邪宗門という喫茶店へ車を向けた。
景子との時間は速く流れ、陽は傾いた。
景子を車で送る。
また会う約束を交わし、景子の後ろ姿がマンションのエントランスに消えるまで、わたしは動かなかった。
その夜。わたしは景子のことを考えながら、ベッドの上で頭に手を回し、天井を眺めていた。
そして、バッハの「G線上のアリア」をオーディオで聴いた。
その時、わたしは見た。ように思う。
景子の幻影を。
それは背中に羽を生やした景子の影。
景子は言っていたように思えた。さよなら。
わたしの直感は、景子の携帯に電話をかけさせた。
ツーコールで景子が出る。
「今おにいちゃんのことを考えていたの」
景子は、わたしに会った最初から、わたしのことを「おにいちゃん」と呼んでいた。
兄がひとりいる景子が不思議なことを言う、と思っていた。
が、小さな頃から妹が欲しかったわたしには、景子が他人には思えず、
この感情の行き場に困っていた時もあった。
景子は分かっていたのだ。
わたしは景子の兄であり、景子がわたしの妹で。
この世では、血のつながらない兄妹。
わたしは、その関係に安堵した。
その夜を最後に、わたしの中を支配していた澱のようなものが落ち、ぐっすりと眠った。
朝起きて、窓を開けると、街路の桜は昨日が嘘のように、一斉に葉桜に変わっていた。
わたしは、スーツに着替え、桜の花びら一面に敷き詰められた歩道を駅に向かって歩いていった。
2009-04-08
木に入った仕事
「真の労働は肉体労働の中にある」と言ったのは確か坂口安吾だと記憶している。わたしは嘗て仕事が休みの日、木の伐採や剪定の仕事を手伝っていたことがある。
これはお金をもらっていないので、仕事ではない。
かと言って、ボランティアでもない。
加藤さんという、農協に勤めながら、休みの日は木の伐採を行っている人と出会ったのは、わたしが彫刻のための木を探すため、都立の森林公園を散歩していたある十二月の暮れだった。
もちろん、公園の木を切って、使おうと思っていた訳ではない。
ただ木の匂いが嗅ぎたくなって、その公園を訪れたのだ。
その時沢の下流で、竹を切って、竹で沢の囲いを作っていたのが加藤さんとその仲間で、わたしは成り行きでその仕事を手伝った。
その日、竹を一本もらい、その竹で竹細工をしようと考えていた。
明くる日の朝、わたしは同じ場所へ加藤さんに会いにいった。
その日のわたしは加藤さんの仕事を手伝うつもりで、作業ズボンを履いていた。
加藤さんは「おお。やっぱり来たか」とわたしを歓迎したが、この場所の仕事はもう終わるところだった。
「これから別の現場があるけど、行くか」
「もちろん」
わたしは加藤さんに連れられて、ある地主さんの裏庭の木の伐採と剪定を手伝った。
それ以来毎週末、仕事が休みになると、加藤さんの仕事を手伝った。
そうして、伐採した木で、気に入った木があるとそれらをもらい、自分の車に積み込み、家に持ち帰る習慣ができた。
チェーンソーの使い方も加藤さんに教わり、木に登って枝を切ったり、木の根元で落ちてくる枝にロープを結び、支えた。
加藤さんの仕事は本当に気持ちがよく、わたしは週末が来るのが待ち遠しい程だった。
その頃、わたしはひとつの作品の制作に夢中で、毎晩遅くまで、彫刻刀とノミで木を彫った。
そんな日々が続いていた。
が、ある日加藤さんが「いつまでもただで、仕事を手伝わせるのは悪い」と言い始め、加藤さんの仕事を手伝うことはなくなった。
加藤さんには今でも年賀状を送っている。
今でもあの頃が、自分の人生の中でも一番充実していた時期だと思う時もある。
2009-04-07
栞にまつわる父の思い出
わたしのMacBookの下には、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスと太宰治の栞が挟まっている。ふたりとも、若くして夭折した芸術家である。
この栞の太宰は、左頬に左手で肘を付いている。
この写真を見て、わたしもぼんやりモニタを見ながら、物思いに耽る。
その栞に書かれた「武蔵野文学散歩展」には行っていない。
ジャズ喫茶「はり猫」のカウンターに置いてあったのをもらってきて、なんだか本の栞に使うのが憚られて、いつも見られるようにとMacの下に挟んでいる。
今のMacBookの前のiBookG4の時代から使っているので、その栞は黄ばみ、萎れている。
古びたiBookには似合っていたが、新品のMacBookにはあまり似合わない。
が、なんだか落ち着くので、毎日太宰の顔を拝んでいる。
イアンの栞は、映画『CONTROL』を見た時のおまけで、実際はイアンを演じた男優の写真だ。
しかし実際のイアンによく似ているので、この栞も挟んでいる。
なぜに、夭折したアーティストの写真を飾るのか自分でもわからないのだが、若く死んだ芸術家には不思議な魅力がある。
人生の絶頂期にこの世から姿を消した者には、伝説が生まれ、時には神話の中の主人公のように扱われる。
わたしも嘗て、世捨て人か、早死にしたいと思っていた。高校生の頃か。
そんな考えが消えたのは、わたしが大学生の時に父が癌で死んでからだと思う。
父は芸術に理解がある人で、わたしが子どもの頃、日曜日の朝から、荒井由美や井上陽水、ABBAがよくステレオから流れていた。
わたしが中学生の頃、父が陽水の歌で何が一番好きかと訊いた。
わたしは即答で、「限りない欲望」と答えた。
父はまったく意外そうな顔で、「nobukiはそういうのが好きなのか」と驚いていた様子だった。
その時父が、どの曲が一番好きと言ったかは、もう忘れてしまった。
高校生の頃、スタンダールの『赤と黒』を読んだ。
その話を病床の父に話すと、父は若い頃にやはりこの本を読んでいたようで、「ジュリアン・ソレルだね」と懐かしそうに呟いた。
父は趣味で俳句をやっていた。
雑誌に投稿もしていたようだが、あまり掲載されたことはなかったようだ。
父の死後、父が遺した俳句を自費出版し、親族と友人に配ろうという話もあったが、そのまま立ち消えになっている。
大体、色紙に書かれてある父の俳号の一字がどうしても分からず、解読不明なのだ。
生前に訊いておけばよかったのだが、そんな考えは露とも浮かばなかった。
少し悔やまれる。
2009-04-06
猫コラム3 猫ものがたり
猫を愛した文豪は多い。古くは、夏目漱石『我輩は猫である』、内田百蝓悒離蕕筺戮ある。
金井美恵子は百蠅痢悒離蕕筺戮魏蕊澆に『タマや』を書いた。
絵本では猫が出てくるものは多い。
日本では、佐野洋子『百万回生きた猫』『おれはねこだぜ』が有名だ。
『百万回生きた猫』の主人公のとらねこは、誰も愛したことがなかった。
何度生まれ変わっても、飼い主から無上の愛を受けながらも、とらねこは誰も愛さなかった。
が、メスの白いねこと出会い、子どもをもうける。
とらねこは初めて、愛を知った。
白いねこが死んだ時、とらねこはこの世に生をを受けて、初めて泣く。
そして、二度と生まれ変わることはなかった。
悲しいながらも、こころが温まる名作絵本だ。
一方『おれはねこだぜ』は、コメディタッチの絵本で微笑ましい。
佐野洋子という方と実際に会ったことはないが、佐野洋子の家はわたしの家の近所にある。
以前わたしが使っていた図書館の近くに住んでいて、昔はその図書館を利用していたらしい。
一度お会いしたい方のひとりだ。
佐野洋子と言えば、詩人谷川俊太郎の奥さんとしても有名だったが、このふたりは1994年か95年に離婚している。
猫を描いたマンガで一番有名なのは、大島弓子『綿の国星』かな。
わたしの大好きなマンガだ。
大島弓子はその他にも、自身が飼っている猫のサバのことを描いたマンガを多く残している。
猫を観察していると、物語りが生まれてくる。
今のわたしにとって、一番インスピレーションを感じるものは、我が家の飼い猫ジョゼであることは間違いない。
ジョゼを飼い始めて、二週間が経った。
その二週間で、ジョゼはわたしにとって、かけがえのない存在に上り詰めた。
ジョゼは、わたしに笑いを、幸福を運んできてくれる招き猫だ。
そう言えば、我が家には大きな招き猫の張り子がいる。
その張り子がジョゼを我が家に招き入れてくれたのかもしれない。
感謝せねば。
猫コラム2 猫の由来
我が家の愛猫ジョゼの名前はどこから来たのだろう。フランソワーズ・サガンの小説にジョゼという女性の登場人物が多いのを知ったのは、我が家で飼うことになったアメリカンカールの牡猫が家に来てからだった。
田辺聖子さんの小説で映画にもなった『ジョゼと虎と魚たち』の原作をつい最近読んだ。
とてもいい小説で、ほのぼのした中にも、哀しいものがあった。
この小説の中のジョゼは、女の子で身体に障害がある。
が、うちのジョゼはいたって健康そのものだ。
神さまに感謝する。
毎朝、仏壇に線香をあげながら、ジョゼの幸せを祈る。
ジョゼの名前の由来に、三大テノール歌手と言われたホセ・カレーラスがいる。
カレーラスのスペルは、Jose Carreras i Collだ。
たまたま見た冊子にカレーラスが載っていて、そのスペルを知った。
そんな具合が混ざり合って、我が家の猫はジョゼに決まった。
テノールでは、ドミンゴが以前は一番好きだったが、二三年前か、カレーラスのCDを聴いたらとても良かった。
ジョゼはカレーラスのように華麗に歌い鳴く訳ではないが、いつか立派な成猫になって欲しい。
わたしの文学や音楽好きが嵩じて、ジョゼと名付けられたジョゼはそんなこと知らないニャーと言うだろう。
ペットショップでは、アメリカンカールだから、カールと呼ばれていた。
あの身のこなしの敏捷なジョゼを見ていると、どうやら体育系で、カール・ルイスのカールの方が相応しいかもしれない。
最初は、カールでいいよ。と言っていたが、結局ジョゼに決まった。
これも何かの縁。
精一杯、ジョゼを可愛がろうと思う。
ジョゼ。愛しているよ。今日はおやすみ。いい夢見るんだよ。
明日の朝に逢おうね。
それまで、静かにおとなしく眠っているんだよ。
もう一度言うよ。ジョゼ。おやすみ。