2009-04-24
ねずみのことさんへ
久しぶりに、その喫茶店を訪れたのです。木造りの「ねずみのこと」は、いつ改装したのか内装が変わっていました。
わたしは、厨房に近いテーブル席に腰をおろし、カレーライスとホットコーヒーを頼みました。
カレーライスはすぐに出てきて、皿のすみに乗った福神漬けといっしょにカレーを頂きました。
この喫茶店は老夫婦でやっているのですが、前はいたご主人の姿が今日は見当たりませんでした。
奥さんがカレーライスを食べ終わるのを見計らったように、コーヒーを運んできました。
それは熱いコーヒーでした。
わたしの疲れた脳髄が芯まで、ほぐれていくのを感じました。
煙草を一本吸い、内装の変わった店内を眺めていました。
音楽が耳に届いてきました。
それは静かで美しい旋律。
わたしはこころを澄まし、音に身を任せたのです。
わたしの体内は全身くつろぎ、あくびが出て、目を閉じてみました。
めがねを外し、目を開けてみると、景色がうすらぼんやりと写っています。
その風景は、まるで印象派の絵画のようで、わたしは暫し見つめていました。
壁があり、窓があり、光が差し込んでいます。
テーブルに目を移すと、素朴な花が花瓶に生けてあります。
そのひとつ一つが、キャンヴァスに描かれた風景のようで、それはもう、美術館で絵を眺めているより、贅沢に感じたのです。
セザンヌやモネが心の目で見た風景は、こんな感じだったのかなどと考えながら、時間の経つのを忘れてしまいました。
やがて時は暮れ、店内に西日が。
わたしは過ぎ去った時間を胸に抱えながら、身仕度をしようと、煙草をジャケットのポケットに仕舞ったのですが、体が動こうとしません。
身体はまだ休息を求めているのです。
わたしは手をとめ、またぼんやりと時間を歩いてみました。
パンツのポケットから、小銭を出してテーブルの上に並べてみました。
そしてまた、ぼんやりするのです。
コットンでできた薄手のマフラーを首に巻き、またぼんやりしていました。
わたしは肩こりが酷いのですが、首をひとつ回してみると、柔かく凝りが取れているのです。
軽くなったわたしは、一枚板でできたテーブルを両の手で、やさしく擦り、匂いを嗅いでみました。
いい香りに鼻腔が敏感になり、温かな木の温もりを肌で頂きました。
わたしは、テーブルに乗せてあった小銭を確かめ、それを手に取り、厨房にいる奥さんに声をかけて、勘定をすませ、店を後にしました。
風が強い金曜の午後に、わたしはマフラーを少しきつく締めました。
駅に向かう足取りは、いつもと違う軽いものでした。
横断歩道で停まるわたしの右ほほに、西日が強く差し込み、大きくて長い分身である影が、笑って微笑んでいるように見えました。
風が影を飛ばし、わたしは駅に入る階段を足早に降りていきました。
温かな熱がわたしを包み、わたしはまた「ねずみのこと」を思い出したのです。
わたしはひとり、くすっと笑ってしまいました。
2009-04-23
夢ときどき晴れ
ぼくには夢があるんだ。学校の音楽の時間に、ベートーヴェンの『月光』っていう曲を聴いたんだけど、こころが震えそうになった。
ただ美しい音の旋律に、ぼくは月夜を思い浮かべたんだ。
先生が教えてくれたんだけど、ベートーヴェンは愛するひとを想って、この曲を書いたんだって。
そうかって思ったら、なんだかぼくが密かに気持ちをよせているかおりちゃんのことが目に浮かんできて、胸が熱く苦しくなった。
かおりちゃんはピアノを弾く。
音楽教室に通っていて、クラシックピアノを習っている。
前に音楽の時間に、みんなの前でモーツァルトの「きらきら星」を弾いたことがある。
ぼくたちは、かおりちゃんの伴奏に沿って、合唱した。
かおりちゃんはとってもうれしそうで、ぼくもたのしかった。
かおりちゃんには夢があるんだって。
おとなになったら、音大を出て、ピアノ教室の先生になりたいんだ。
だからぼくも音楽を覚えたいの。
今のぼくは、カスタネットとタンバリンしか出来ない。
でもぼくは計画している。
ぼくも音楽を習って、いつかかおりちゃんと共演するんだ。
何を習おうかな。
おにいちゃんがやっている、トランペットかな。
おにいちゃんは、ジャズっていう音楽に凝っていて、毎晩川辺でトランペットを吹いている。
おにいちゃんから何度も、マイルス・デイヴィスと日野皓正ってひとのCDを聴かされている。
ぼくは、どっちかって言うと、ジャズ・バラードっていうのかな、静かな感じのジャズが好きらしい。
日野皓正の「アローン・アローン・アンド・アローン」っていう曲が一番好きだ。
でも、かおりちゃんはやっぱりクラシックが好きなのかな。
ある日思いきって、かおりちゃんに好きな音楽家はだれって訊いてみた。
そしたら、キース・ジャレットと答えた。
「そのひと、何の音楽やってるの」
「ジャズよ。ジャズピアノ。ドイツのケルンでやったコンサートがすごい好きなの」
「へえ。実はぼくもジャズが好きなんだ。マイルスや日野皓正がお気に入り」
「ほんと、すてき。じゃあ、ペットを始めればいいのに」
「うん。実はそう考えていたんだ」
「いつかいっしょに演奏できたら、うれしいな」
「うん。いつかきっと。きっといっしょに」
その晩、おにいちゃんにトランペットを教えてと頼んだ。
おこづかいを半分くれたら、って言ったけど、ぼくはわかった。約束だよ、って言って、布団に入った。
その夜夢を見た。
大きなステージでぼくがトランペットを、かおりちゃんがピアノを弾きながら、大勢のひとに囲まれている。
次の朝、かおりちゃんにトランペットを始める話と夢のことを話した。
そしたら、それはきっと正夢だよ、って笑ってた。
その笑顔があんまりかわいかったから、ぼくの気持ちはいっそう固く決まった。
ぼくにあるもの。
それはジャズへの情熱とかおりちゃんへの愛。
それだけで十分だった。
ぼくは本当に満足だった。
教室の窓から空を見上げると、真っ青な青い空が、ぼくにがんばってと言っているように、お日さまがほほ笑んでいた。
ぼくも空に、ぼくがんばるから、見守っていてくださいと誓いのことばにも似たつぶやきがポロリと口から出た。
でもそれはほんとうのぼくの本心だったから、恥ずかしくなかった。
2009-04-19
きっときみへ届く
夜明け前。天気のいい日曜日は、清々しくて、早起きしてみた。
ベランダに出て、登る太陽を東に眺めながら、煙草を吹かす。
肺に深く吸い込んだ紫煙に、目が霞んだ。
その日の始まりに、おいしい煙草が吸えると、その日はいい日になる。
ぼくのたった一つのジンクス。
部屋に戻り、冴えた頭で遠いきみへ絵はがきを書く。
ヘップバーンの絵はがきを選び、五十円切手を貼り、ポストへと急ぎ足。
集配時刻を確認する。九時三十分とある。
明後日の昼には、その絵はがきは届くだろう。
きみが読むのは、その日の夜かな。
そんな想像をしていると、わたしは楽しくなってくる。
こうして喜びに満ち、始まった日曜日の朝を、わたしはささやかに幸せに思う。
そして、きみに会いに電車に乗る。
きみとぼくの中間で、ぼくときみは会う。
今日のきみは、春らしくて、白いブラウスが眩しかった。
きみと行った海沿いの観覧車が、永遠のように思え、このまま時が止まってしまえばいいと思った。
時間は駆け足で過ぎ去り、ぼくはきみを電車のホームで見送る。
日曜日が過ぎ、ぼくは働き、水曜日を迎える。
深夜、残業中のぼくに、きみからメールが届いた。
わたしの好きなオードリーを憶えていてくれて、ありがとう。
ぼくは一瞬、目頭が熱くなるのを抑えた。
きみの声、きみの頬、きみの笑顔を想い。
ぼくは最終電車に乗り込む。
混み合った電車の中は、暑苦しく、息苦しかったが、きみに会う、そのことを思うと、身が軽くなるのを感じた。
慌ただしい日常に追われながら、また週末がやって来る。
ぼくは土曜の朝と日曜の夜を、きみと過ごすために、きみの住む街へと向かった。
きみの頬笑みの横顔を思い浮かべながら。
陽射しが眩しい朝は、忘れられないものだった。
この一瞬に止まれ。きみは美しい。
2009-04-18
ジョゼ日記その5 爪切りと仏壇
ジョゼがうちに来て4週間が経った。今日、初めて自分でジョゼの爪切りに成功した。
その喜びも束の間、ジョゼが仏壇に上がり、お茶が入っていた茶碗を割ってしまった。
先日テレビで見た猫は、どんなに暴れても仏壇にだけは上がらなかったと飼い主が言っていた。
その言葉をどこかで信じていたが、ついにその日が来てしまった。
今日から仏壇は扉を閉め、お線香を上げる時だけ、開くことにする。
爪切りはやっぱり難しい。
結構手を引っ掻かれたり、噛まれた。
爪を切られたジョゼは壁を掻いても、傷が残らない。
やっぱり爪が伸びていたせいだ。
仏壇は結構高い場所にあったから、安心していた。
ご先祖さまには申し訳ありませんが、今夜からちょっと窮屈になります。
どうもすみません。
2009-04-12
ジョゼ日記その4 ポトスと日曜の朝、ジョゼとの三週間を振り返り
ジョゼがまたやってしまった。今度は、観葉植物のポトスの鉢を割ってしまったのだ。
わたしが風呂に入っている間だったらしい。
物音は聞こえなかった。
扉を開けると、そこには藤棚から落ちた兄夫婦からもらった陶器の鉢が割れ、土が床にこぼれ落ちていた。
だが、割った瞬間を見ている訳ではないので、怒る訳にはいかない。
叱る時には、現行犯。その場その時でないと意味がないと教わった。
夜遅くに、箒と掃除機で床をきれいにする。
ジョゼは何やら興奮気味で、そこいら中を走り回っていた。
その日のジョゼは、いつもなら大人しくする部屋を暗くする時間まで、駆け回っていた。
いつもなら飛びつくボールやねこじゃらしにも目もくれずに、一目散に部屋の端から端へと飛び回る。
そんなジョゼを見ていて、わたしの方が心配になった。
翌朝の今日、わたしはいつもより早くベッドから出て、ジョゼの様子を見に行った。
ジョゼは最近のお気に入りの場所である。もう一つの藤棚の下から二番目の棚にちょこんと座って、こちらに目を向けていた。
わたしはいつものように、おはよう。と声をかけた。
トイレの掃除と水、ご飯のドライフード50グラムと猫缶を少しあげる。
いつものように猫缶はすぐに平らげた。
日曜日の朝は、いつものようにやって来る。
ジョゼにとっては、日曜も平日もなく、同じに毎日が訪れる。
こうして、日曜日の朝が始まる。
ジョゼがうちに来て、ちょうど3週間が経った。
もうジョゼのいない我が家は考えられないほど、わたしはジョゼに馴染んだ。
問題はジョゼの方。
うちは、居心地いいかい。窮屈じゃないかい。楽しいかい。安心できるかい。
ジョゼと話ができるならずっと、語り合いたい。
いつか、気持ちとこころが通じ合う、そんな安穏な日々がやってくるのだろうか。