2010-02-25
時には、悪い時期でして
人生は彼の作品ではなく、作品こそが、彼の人生そのものだった。しかし、彼を知らない心ない人びとは、彼の人生を呪い狂った。
その時、彼はすでにこの世の存在ではなかったが、彼を直接知った友人や知人は、世間のかぜを、背中に寒いものを感じるよう、悪寒を伴うものだった。
彼こそは、光の子だった。
彼は、選ばれた自分の存在を自覚していたが、不安は重く重なる。
まるで、ヴェルレーヌのよう。
彼は詩人ではなかったが、詩をこころから愛していた。
彼の作品と言えるものは、この時代では、まるで子どもの玩具のよう、悲しき棒の哀しみが、哀愁を漂わせている、クラゲのように、海に浮かぶ。
やがて、クラゲは岸に打ち上げられ、霞みのよう、消えてゆくのだ。
だが、この屍もしくは骸骨は、醸成された葡萄酒のような、芳醇な香りを放って、生き返った。
それは、一人の翻訳家の偉業のなせる業だった。
遥かに、海の反対で、息を吹き返した、春一番の疾風のような、暖かな空を、彼の作品、言いかえるとクラゲだったものは、この現代に与えたのだった。
まるで古代、救世主がいた時代にいま、反転している。
彼を罵った者たちは、川に流され、海へと永遠の黄泉へと続いていった。
が、黄泉は罪人で溢れかえって、黄泉の胃袋は逆流して、川を逆のぼる鮭を見習うかの行い、この世の明るい光線を再び見た。
悔い改めを知らない罪人の魚群は、善の実を食い尽くす。
いま起ころうといてる危機、最高にして、最悪の事態に気づく哲学者の学会が、性悪説を逆説のパラドクス、快楽に生きろと、罪人に説く。
言うまでもなく、悪魔の子孫たちは、悪事に耽る。
悪しきが悪しきを招き、ゴモラの街は壊れた。
その日、たった一つ、この世に残されたのは、クラゲの突然変異したもの、前世でいう、ホモサピエンスだったのだ。
世界のはじまりにして、おわりは、始まる。
最初に、光とことばが、生まれた。
この後のお話しは、すべて一冊の大きな本になっているので、そっちを読んでくれ。
リチャード・ブローティガンに捧げる
2010.2.25
2010-02-13
闇に生きるけものたち
朝、早起きする。冷蔵庫から牛乳とインスタントコーヒーを取りだす時、
飼い猫と目が合う。
小声で、声をかける。
猫は、じっと椅子の上で、丸くなっている。
そっと、扉を閉め、部屋に戻り、
お気に入りのミルクコーヒーを飲む。
セブンスターを一服する。
そして、ベッドで読みかけの文庫本を読む。
この時間が好きだ。
外はまだ、陽が明けていない。
窓を半開きにしているので、陽が差し込むと、本の頁を明るくする。
目覚まし時計が鳴る前に、ベッドを出る。
猫に、おはようって、言う。
猫は、早く朝ごはんが食べたい。
部屋中をかけ回り、わたしにまとわりつき、みゃーと鳴く。
いつもの朝。
いつもの時間。
わたしは、決して、この習慣を崩さない。
決してとは、死人が言う言葉だ。ある作家の小説で読んだ憶えがある。
永遠よ。
いつも永遠にあれ。
いつもって、何だ。
なんだろう。
老いたとき、ひとは、それを悟るのか、
同じ朝はなく、また同じ夜はない。
いつもと同じで、どこか違う。
そんなこと、考えたこと、ありますか。
わたしは、ある。
そう。ここに実存している。
アフリカの像たちはいま、眠っている。
そんな気がした。
TROUT FISHING IN AMERICA
先日の『愛のゆくえ』に続き、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』を読了。この作家、わたしの肌に合っているようだ。
最初の100ページまでは、何とはなしに読みすすめていたのだが、そこから止まらなく、一気にラストエンドまで、読み通した。
ここで本当なら、作品について、少し解説めいたものでも書いてみたいものだが、わたしの域をこえている。
何しろ、大きなストーリーらしきものもない、47からなる物語の断片なのだ。
ただそこに、なにか<神話的な>ものが漂っている。
この作品を以てして、ブローティガンは、一躍ヒッピー族たちから、カリスマ的な扱いを受けたそうだ。
しかし本人は、ヒッピー族からは、身を離し暮らしていた。
私見ではあるが、ポストモダンな感触を得た。
ブローティガンは、日本のポストモダン作家高橋源一郎が好きな作家で、高橋源一郎のデビュー作『さようなら、ギャングたち』に出てくる”詩の学校”は、『愛のゆくえ』の舞台となる、不思議な図書館にヒントを得たと高橋自身が語っている。
この小説は、わたしがとても好きな小説で、学生時代に読んだのだが、非常に大きな衝撃を受けたのが、今でも鮮明に記憶にある。
その頃まで、小説にはストーリーというものが軸にあるものだと、決めつけていたわたしに、新しい小説の形態を見せてくれた初めての作品だった。
今のわたしは、もっと深くブローティガンに関わりたい。
今度は、文庫になっているブローティガンの作品では、唯一読んでいない『芝生の復讐』を読みたい。
読みたい作家がいるということは、ある種しあわせな気分だ。
リチャード・ブローティガン 1935-1984
カリフォルニアの自宅にて、拳銃自殺にて、死亡。
性悪猫
漫画家にして、詩人、エッセイストやまだ紫の『新編 性悪猫』。1980年に出版された漫画だが、なかなか侮れない。
何と言っても、猫の表情が抜群にいい。
おそらく、やまだ紫は、鋭い感性を以て、猫を観察している。
飼い猫の中に、野生の息吹を見出す観察眼には、感服した。
鋭敏なタッチで描かれた絵は、猫の本性を、暴き出している。
また、猫の周辺に住む人間の生活が、やさしく、時に寂しく。厳しい現実を垣間見る。
山田紫自身七匹の猫と同居していたらしいが、猫への慈しみ深い眼は、透徹としたものがある。
やまだ紫の大ファンと自称する絵本作家の佐野洋子が、解説を書いているのも、嬉しい。
猫を愛玩動物としてではなく、一個の存在として捉える、山田紫の姿勢に共感した。
古本屋で、100円で購入したのだが、これは大きな拾い物だった。
猫に関する漫画やエッセイは、多くあるが、猫を”性悪”と名づけるシニカルな視点から描いたものは、多くはないだろう。
心臓がばくばくと波打った漫画
漫画界の鬼才古屋兎丸が、太宰治『人間失格』を原案に、舞台を現代に移した同名漫画。現在2巻まで、出版されているが、今回出た2巻は、凄い。
読んでいると、心臓が高鳴ってきた。
2巻に来て、物語が疾走、走り始めた。
現代を生きる者に、今、一番読んで欲しい作品の一つに、数えたい。
この衝撃を、一人でも多くのひとと、分かち合いたい。
今を悩んでいる人も、幸福なひとも、一読の価値のある漫画。
1年に一冊しか、単行本が出ないのが、読者としては、残念な一面もあるが、1年を、1年を待つ価値が、きっとこの作品にはある。
そう、信じる。信じている。
現在、古屋兎丸は、少年誌に、『幻覚ピカソ』も連載しているが、こちらは、テーマは優れているものの、少年マンガの域を出ていないのが、残念に思われる。
今後、目が離せない漫画家。古屋兎丸。
『人間失格』は、この度映画化もされているが、今一度、”太宰治”と向き合ってみる機会を与えてくれた、作者に感謝する。
問題作にして、傑作。
この漫画を読ますして、今の漫画を語るな。