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2010-05-24

生まれ毛づる悩み 2

ぼくは中学校へ上がると、小学校時代の友だちと一緒にバスケ部に入った。
けれども、それが誤算だった。
ぼくはまた、毛の悩みで苦しむようにならなくてはならなかった。
その頃、ぼくの脇の下には、立派なわき毛が生えていた。
ぼくは、そのことが恥ずかしくて仕方がなかった。
バスケ部とわき毛の関係とは何か。
バスケットのユニフォームは、ランニングタイプのもので、わき毛が見えてしまうのだ。
特に、ドリブルでのランニング・シュートのとき、利き腕の右腕を高く持ち上げるので、脇の下がノー・ガードになってしまう。
もう中学生だし、わき毛なんか、どうでもいいじゃないかと言う者がいたら、ぼくは何も言えないけれど、ぼくの中の子どもはまだ、大人になることを拒否していた。
最初のうちはよかった。
練習は、筋トレばかりで、Tシャツでよかったからだ。
でも、そのうちユニフォームを買わされてしまった。
上手いからじゃない。
先輩からの絶対強制だった。
ぼくは、今度は剃ることをしないで、抜くことを覚えた。
またしても、お母さんの鏡台から、とげ抜きを見つけだし、ある日の夕飯の後、抜いた。抜きに抜いた。
中学生が、抜くと言ったら、一般的には、違うもっと性的な意味合いを持つだろう。
けれども、ぼくにとっては、抜くことは、毛を抜くことだった。
それに、奥手なぼくは、まだ性の目覚めは薄く、そういう意識はなくて、友だち達の所謂わい談の仲間にも入れてもらえなかった。
そんなことは、今はどうでもいい。
問題は、都会で自殺者が増えることでも、今日の雨ではなく、わき毛だ。
毛を抜いたという原罪のために、ぼくは毛における贖罪を背負わなければならなくなった。
毛を抜いたところ、一本の毛根から、毛が二本生えてきた。
しかも、太く、濃くなって、生えてきた。
ぼくは、狂おしい気持ちに陥ったが、罪を重ね、毛を抜き続けた。
ある日、ぼくはまた、剃ることもいいんじゃないかと思い、お母さんのカミソリを鏡台から黙って借りて、風呂場で剃ってみた。
毛を剃っている最中、何度も失敗して、自分を傷つけた。
まるで、自傷行為だ。
滲み出る血を見て、ぼくは、教会で見たキリスト像を想った。
そして、カミソリを間違い、左手の親指の腹を大きく切ってしまった。
初めて見た、流れ出る血の濁流に、自分が驚いた。
だけれども、そんな傷をお母さんに言えない。
ぼくはその晩、親指を強く絆創膏で縛って寝た。
翌朝、まだ血は固まっていなかった。
その傷のおかげで、部活を一週間休めたのは、ぼくには幸運だった。
その傷跡は、今でもぼくの親指に、その痕跡を残してる。
指紋を二つに切断されたぼくが、もし犯罪を犯したら、きっと指紋で、すぐにぼくの犯行だと警察に分かってしまうだろう。

そんな努力に力を入れているのだから、ぼくのバスケはまったく上達しなかった。
毛を抜いても、その後ろめたさと、部員に知られてしまわないかという恐怖で、上手くプレーできず、ぼくの動きはぎこちなかった。

それでも二年の間、この苦行に堪えたみたものの、甲斐なく、ぼくは三年生の春にバスケ部を退部した。
理由は、三年生になって、試合に出なくてはならない機会が出てきたからだ。
普通ならよろこぶべきことが、ぼくにとっては苦痛で堪らないのだった。
周りの部員は、三年生になって、勿体ない。内申書にも書かれないし、卒業写真にも載らないと、ぼくの退部の気持ちを変えさせようとしたが、ぼくの決心は、まるで剛毛のように、固かった。

つづく


shiroyagiさんの投稿 - 17:00:40 - 0 コメント - トラックバック(0)

もう森へなんか行かない

第二外国語のフランス語のテストで、クラスのみんな前で、歌ったのが、いい思い出。

先生が出した課題曲は、アダモ(Adamo)のサン・トワ・マミー(Sans Toi Mamie)とジャン・ジャック=ゴールドマン(Jean Jacques=Goldman)の曲(題名は忘れてしまった)と、このフランソワーズ・アルディ(Francçoise Hardy)のもう森へなんか行かない(Ma jenesse fout le camp)だった。

先生は、授業の中で、ゴダールの『勝手にしやがれ』なども見せてくれて、愉しかった。
テストの点は、いつもあまり良くなかったけれど、高校の頃から、シャンソンやフレンチ・ポップスが好きだったので、今でも忘れられない授業だなあ。
先生は、外部からの講師だったので、今はどうしているか分からない。
「大江健三郎の文庫本をジャケットのポケット、平凡パンチをジーンズのお尻のポケットに入れて歩くのがかっこいいんだ」
と言っていた、その言葉が今でも忘れられない。


shiroyagiさんの投稿 - 15:04:09 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-05-23

生まれ毛づる悩み 1

生まれ毛づる悩み 1

小学六年生の時、クラスで一番?におちんちんに毛が生えた。
ぼくは、そのことがとても恥ずかしかった。
そんなぼくのキャラクターは、おとなし目で、声が高く、まつ毛が長く、目がぱっちりした、ちょっとオカマっぽいものだった。
そんなキャラクターを、自分でも少し気に入っているようなところがあって、ぼくのイメージとおちんちんの毛は、大きなギャップに思えて、とにかく嫌だった。
周りの友だちにも、親にも言えず、一人悩んでいた。
男子だけの体育の時間に習った第二次性徴という言葉を憎んで、この言葉を忘れることはなかった。

タイミングも悪く、修学旅行の時期だった。二泊三日の京都への初めての旅。
ぼくは修学旅行の前の晩、決意した。
毛を剃ってしまおう。
ぼくは、お母さんのカミソリを鏡台の中から見つけだし、夕方お風呂に入った。
そして、お父さんのシェービング・フォームをつけて、毛を剃った。
初めて、毛をというものを剃った感じは、ぢりぢりとして、剃った後には、ヒリヒリした。
ぼくは、何ごともなかったかのように、お風呂から上がると、お母さんのハンドクリームを、やっぱり鏡台で見つけて、トイレに駆け込んで、剃った跡に塗った。

女の人が、そんなことをすることに、興奮する大人の男のひとがいるって、聞いたのは、ぼくがずっと大きくなってからのこと。
ぼくが、おちんちんの毛を恥ずかしく思わなくなってからのこと。
だから、今でも、そういう女のひとの呼称を、聞いたり、読んだりすると、ぼくはあの小学六年生の修学旅行を思い出す。

剃ったぼくは、京都への旅へ向かった。
一番の感心は、清水寺でも、金閣寺でも、枕投げでも、女子のお風呂を覗くことでもなく、みんなと一緒にお風呂に入ることだった。
何よりも、クラスのみんなに知られてしまうのが、怖かった。
「オカマのオッくんは、毛が生えている」
「オッくんは、ちりちり毛ちんこ」
とか、言われるのが、つらかった。

そして、運命の時は来た。
脱衣所で、白いブリーフを脱ぐと、仲良しのフウくんが、ぼくの下半身を見て、言った。
「オッくん。ちん毛剃ったでしょ」
そう言ったフウくんは、無毛のおちんちんで、仁王立ちしている。
ぼくは、顔が真っ赤かになると同時に、真っ青になり、貧血で倒れそうになるのを、ぐっと堪えた。
「剃ってなんかないよお」
「だって、青くなってるよ。剃った跡じゃん」
フウくんの男の優しさか、それ以上は訊かず、ぼくらは大浴場の大きなお風呂に入った。
忘れもしない。これがぼくが、毛で悩んだ最初のこと。
そして、これからも毛のことで、悩んでいくなんて、思いもしなかった。

つづく

shiroyagiさんの投稿 - 23:42:01 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-04-20

棒さんの小さな本屋さん

ぼくは、その人を棒さんと呼んで、慕っていた。
棒さんは、ぼくの行きつけの小さな本屋さんのご主人で、ぼくを可愛がってくれた。
読んでおいた方がいい本や、おすすめの本や漫画を紹介してくれた。
ぼくが、小説や詩を書く切っ掛けを作ってくれたのも、棒さんだった。
棒さんが主宰する、詩を投稿する広場に誘ってくれたのが、棒さんとの付き合いの始まりだった。

まだ、ブログという言葉が一般的でなかった時代、棒さんは、自分の本屋さんを中心にした小さなブログを立ち上げた。
そこで、ぼくは文章を書く愉しさを覚えた。
やがて、そこで小説を書くようになり、夢中になって小説を書いた。
体調を崩して、入院した時も、パソコンを病室に持ち込んで、朝から小説を書いて、入院生活を過ごした。

けれども、ぼくの怠け者なところ。書く時には、やたら書くけれど、書かなくなると、一ヶ月くらい書かない時もあった。
そんなぼくに、棒さんは、「毎日書かなくちゃ駄目だ。できないなら、やめた方がいい」と、強く叱咤する時もあった。
今では、そう言ってくれる人はいない。
棒さんは、この四月十五日に亡くなってしまった。
まだまだ、教わりたいこと、話したいことがいっぱいあったのに。

棒さんと初めて話したのは、何だったかと今、振り返ってみた。
確か、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を注文した時に、やはりジョイスの『ユリシーズ』を読みましたか?と訊かれたのが、最初だったと思う。
実を言うと、『フィネガンズ・ウェイク』はまだ読んでいない。
あれからもう、何年経つだろうか。

棒さんの一見温和な風貌と、内に隠された強い確固とした意志。もう棒さんの笑顔を見ることができないと思うと、やはり悲しくなる。

棒さんと呼んでいたけれど、詩の投稿広場では、棒さんはよく名前を変えた。「紫カエル」「鉄腕アトム」、最後に「棒」になった。
投稿広場も、数年前から、休止していた。
去年頃から、あまり体調が良くないと、言っていた。
棒さんは、もう「棒さん」ではなかったのかもしれない。
でも、ぼくのこころの中では、やっぱり棒さんだった。

棒さんの本屋さんは、小さいけれど、棒さんが選んだのだろう、なかなか素敵な本がいつも、本棚にならんでいた。
絵本から、漫画には今どきカヴァーがついていなかった。詩集に哲学や思想書 etc...

郊外の小さな駅の本屋さんには珍しく、岩波文庫が壁一面に並んでいた。
岩波書店の本について、山本夏彦さんが『変痴気論』の「暮らしの手帖」の中に書いている。

「出版社は本を出すと、それを小売りの本屋に委託販売する。本は売れた分だけ支払って、売れなかった分は払わない。版元に返品する。ひとり岩波書店は、売れる見込みのある分だけ買切ってくれ、したがって返品は許さない。見込みがなければ、仕入れてくれなくても仕方がない。
委託制に対して、これを買切制という。わが社はきわものを出さない。読むべき値打ある本しか出さないから、委託しない。そもそもこの委託制度が、わが国出版界のガンだとは、版元なら皆知っている。ひとり岩波だけが、買切制を貫いているのは、見上げたものだとほめられていいことである。
田舎町で岩波文庫がそろっている書店があれば、それはその町一の本屋である。
それを誇りに思いながら、その文庫が委託でなく買切で、返品できないのがいまいましくてならないのである。
だから、日本中の小売の本屋は、岩波書店を憎んで、いつぞや岩波の本を売らぬ運動をしたことさえある。そのとき、岩波以外の版元に、かげで快哉を叫ぶものがあったのは、それは理想的な売り方で、まねればいいのに、まねができないからである」

棒さんの小さな本屋さん。
ぼくが、唯一愛した本屋さん。
そして、棒さん。さようなら。

shiroyagiさんの投稿 - 16:55:46 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-03-15

さくら桜

木漏れ日。青い空の中。
桜のつぼみを、ぼくは探しにいく。
上を仰いで、道を歩いてく。
かあさんと、手を結んでさ。
風がつよく吹いている。
ぼくの黄色いぼうしが、飛んでった。
ぼくは、ぼうしを追いかけて、川べりに着いた。
木の根元に近い枝に、ぼくの黄色いぼうしが、泊まっている。
ぼくは、ぼくの黄色いぼうしを枝から取って、あたまで被った。
そして、目の上の木を見上げたんだ。
そしたらさ。桜のつぼみから、三つさくらの花が咲いてたんだ。
ほんのり甘い香りがして、気持ちが、いつになく弾んだ。
かあさん。ぼくは大きな声で呼んだんだ。
後ろを振りむくと、かあさんが、サンダルを音たてて走ってくる。
ぼくはもう、興奮きみで、言ったんだ。
さくらだよ。桜のはなだよ。咲いてるよ。
かあさんは、息はずんで、あら。もう咲いたのね。
ぼくは、にこって微笑って、言ったんだ。
ぼくの卒業式まで、咲いてるかなあ。
かあさんは、頬を丸めて、そうね。いい子にしてたらね。
かあさん。ぼくは、いつだって、いい子だよ。
夕食のにんじん、残さなくなったらね。
ずるい。おつかい。おそうじ。肩たたき。何だってやるからさ。
さくらの花のいのちは、神さまが決めるのよ。だから、かあさんにも分からないの。
じゃあ、どうやったら、神さまにお願いできるの。
取りあえずは、ご先祖さまにお祈りね。お彼岸も近いし、お墓まいりに行こうね。
そして、ぼくとかあさんは、そのままお墓へ行った。
さくら並木が見える丘の上で。
遠くに、ぼくんちが見えた。小っちゃなぼくんち。

shiroyagiさんの投稿 - 00:07:58 - 0 コメント - トラックバック(0)
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