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2010-06-20

桑の実だより Mulberry jam on bread

わたしの近所では最近、桑の実を取りに行くのが流行っているようだ。
隣の家のおばさんが、家から歩いて二十分ほどの場所にある片倉城址公園から近い穴場で、桑の実を取ったと聞いた晩に、わたしが毎日覗くのを日課にしている、近所に住む児童文学作家のブログを見ると、「今日、近所の片倉城址公園へ、桑の実を取りに行った」と書いてあった。
まさか、隣のおばさんと、この児童文学作家が知り合いだとは思わないが、隣のおばさんは、何せ顔が広いので、あり得ない話しではないな、と思った。
ところで、隣のおばさんに桑の実をもらったのだが、ジャムにして、冷蔵庫に入っている。
レモン果汁を少し入れたのだが、酸味もなく、ブルーベリージャムやクランベリージャムに慣れたわたしの舌には、少し曖昧な味で、もの足りないような気もするが、パンにつけて食べていると、これはこれで、美味しい。
わたしの世代だと、子どもの頃、桑の実を取って食べたという記憶もなく、小学校の時に、授業で習った「お蚕様」という言葉だけが、今でも頭の片隅に残っている。

shiroyagiさんの投稿 - 16:06:14 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-06-03

ラムネの味

今日、久しぶりに行くある私鉄駅の商店街近く裏道を歩いていた。
古本屋を探すためだったのだが、やっと見つけた店は、定休日で閉まっていた。
もう一件、携帯からネットで見つけたので、グーグルマップの住所から探した。
商店街のどん付きには、神社があるのだが、その手前にある、マップは示していた。
けれど、どうやらその場所には、店は何もない。
わたしは、交差点の前、信号待ちをしながら、上を見上げた。
すると、すぐ近くのビルの二階の窓に中古レコード・CD・古本とビニールテープのようなもので、書かれていた。
わたしは近寄って、確かめると、お目当ての店。タイムマシーンだった。
雑居ビルの細い階段を上がると、竹とビニールで出来た扉があって、中が少し透けて見えた。
中に入ってみると、正面の壁一杯天井まで、CDとレコードで埋めつくされていた。
本は、入口の横に一棚だけだったが、見ることにしてみた。
音楽関係の本が多かったが、マニアックなコミックも、結構あって、店の方向性が少し見えてきた。
残念ながら、本でお目当てのものはなかったが、どうせ来たのだから、CDも見てみようと思い、棚を何とはなしに見始めた。
すると、どうだろう。
結構渋めの好みで、マニア向けのCDも多くあった。
持っているものも多かったが、ないものも結構あって、棚を見ているだけで楽しくて、時間を忘れた。
ブックオフへは全く行かず、普段ヨネザワにしか行かないわたしには、新鮮だった。
ちょっとヨネザワのマスターのキヨさんには、後ろめたい気もあったが、この店はかなり店主の趣味のよさが出た、いい店だと思った。
見ているうちに、いつも探しているScott WalkerとLa`sはなかったが、なかなか良いものが沢山あった。
けれども、今わたしの財布の紐は最近固い。
買いたい気持ちを、ぐっと堪えて、ジャケットを見ては、棚に戻していった。
が、その固い気持ちは、揺らぎそうになる。
Patti Smithの初期のCDが5枚組で、千五百円。
一枚は既に持っている『Horses』だったが、一枚三百円は安い。
わたしの財布の紐は、いまにも、切れそうで、それでも、棚に戻した。
気分を換えて、邦楽の棚を見てみた。
何気なく、フリッパーズ・ギターやエレファントカシマシがある。
期待できそうだなって思っていると、RC SUCCESSIONが数枚ある。
ベスト盤や持っているものももあったが、初めて見るものもある。
わたしはずっと、探している曲があるのを思い出し、CDを一枚一枚手に取って、曲名を確かめた。
わたしは最近、ヤフーオークションは一切止めているので、中古市場には疎いのだが、子どもの頃に聴いたRC SUCCESSIONの「私立探偵」という曲を探していた。
youtubeにもなくて、うろ覚えの「かわいい私立探偵」というフレーズが、時おり耳を通り抜けることがあった。
そのオリジナル・アルバムがあったのだ。
わたしの意志は脆くも崩れ去り、Patti SmithとRC SUCCESSIONを手に取り、レジに向かった。
CDの山に囲まれたレジカウンターには、白髪の店主と思われるヨネザワのキヨさんと同年代の男性が座っていた。
小さな店なのに、レシートも出て、しっかり電話番号が印字されている。
お釣りの小銭を握って、店を出た。
小銭を仕舞おうとよく見ると、リピーター券が二枚あって、次回百円割引きだと書かれている。
ああ。最近、本やマンガも節約して買っていないのに、既に今日買わなかったPrince『Around The World In A Day』が気になっている自分が、商店街を彷徨っていた。
すると、通りに縁台があり、水面器の中にラムネの冷えたのが置いてある。百円と札が出てある。
迷わずに買った。今日は暑かった。
が、ビニールのキャップを外しても、飲み方が分からない。
白いプラスチックの蓋があり、どうしても開かない。
どう開けたけっかな。思っていると、
店員のお姉さんが、声を掛けくれて、開け方を教わった。
少し泡がこぼれて、口で掬った。
「子どもの頃、飲んだでたんですけどねえ」
「結構、開け方分からない方多いですよ」
中のビー玉を、ころんころんしながら、ゆっくりと飲み干した。
口の中がほんのり甘くて、いい感じだった。
月に一回、この駅に所用で来るので、また昭和へタイムマシーンしてしまうだろう。

shiroyagiさんの投稿 - 00:06:24 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-05-29

ローザンヌへ

スイスのローザンヌへ行ったのは、もう何年前だろう。
成田空港からヒースロー空港へのフライト。
ロンドンのヴィクトリア駅からドーヴァーへ列車で出て、フランスのカレへフェリーで渡った。
フェリーは快適で、ソファに身を埋めながら、カクテルを飲んだ。
わたしは、今日中にパリへ行きたかったのだが、カレで列車に乗り、駅員に訊ねると、もうパリへは、今夜中には着かないという。
わたしは、リール・フランドルという駅のibisホテルに泊まった。
もう、パリでの予定には間に合わなかったので、予定を変更した。
トーマス・クックを眺めながら、今後の旅程を練った。
旅行の機関は、十五日間のフィックスでチケットを取っていた。
また、ヒースロー空港へ戻らねばならない。
わたしは、ベジャール・バレエ・ローザンヌ所謂ベジャールバレエ団のあるスイスのローザンヌへ一度行ってみたかった。
けれども、ローザンヌは遠かった。
途中、ベルギーのブリュッセルに寄ることにした。
駅を出ると、かなりの雨が降っていた。
わたしと同じバックパッカーの男の子がいたが、彼は雨の中、歩いて去って行った。
わたしは、駅のツーリスト・インフォメーションで、ホテルを予約した。
雨が激しかったので、たしかタクシーで向かったと記憶している。
翌朝、よく考えると一日何も口に入れていないことに気がついた。
ベッドから起きあがると、身体が言うことをきかず、ふらついていた。
何とか、立ち上がり、身づくろいを済ませ、一階のレストランへエレヴェータで向かった。
エレヴェータの中でも、身体は壁にもたれて、ぐったりとしていた。
わたしは何とか、レストランに入り、オレンジジュースとクロワッサンを口にした。
お腹は減っていたが、これ以上座っていられない状態だった。
部屋に戻り、ベッドで横になった。
しばらくすると、身体に力が湧いてきた。
もう一度、レストランへ行くと、たっぷりと、朝食を摂った。
時間はたっぷりとある。
ホテルのロビー、インフォメーションで、取りあえず、ブリュッセルで知っているところと言えば、小便小僧だけだったので、場所を地図に書いてもらい、向かった。
小便小僧は、ちょっと街の中心から外れたところにあり、また、とても小さく、写真に撮る気にもならなかった。
わたしは、その足で、街の中心の広場へ出た。
画家のマグリットが愛したブリュッセルの広場。
そこで、昨日駅で見かけた、バックパッカーの青年に会った。
お互い日本人だと、分かっていたので、どちらからとうことなく、声をかけ合った。
時刻も昼過ぎだったので、昼ご飯を一緒にすることにした。
ブリュッセルでマックでもないのだけれど、近くにあったマックに入った。
青年は、次はアントワープへ行くという。
大学で、建築を勉強しているらしく、スケッチブックに幾つか簡単なスケッチがあった。
わたしも、スケッチ用に、束見本を持ち歩いていた。
夕飯を、彼におごってあげる約束をして、別れた。
彼は、約束の時間通りに、わたしのいるホテルにやって来た。
外は雨、出るのも億劫だったので、ホテルのレストランで食事をすることにした。
料理は、大変満足のいくものだった。
コックが、味はどうかと、訊ねてくる。
「セ・シ・ボン」
美味しいよ、と簡単なフランス語で答えると、満足したように、厨房へ戻っていった。
ここブリュッセルは、フランス語圏で、ここに滞在中に、英語を聞いたことはなかった。
青年は、雨の中、ユースへ戻り、わたしはシャワーを浴び、眠った。
目的地はローザンヌ。
列車に乗り、ローザンヌへ着いたのは、昼過ぎだったろうか。
当時のトーマス・クックをまだ持っているので、見れば分かるのだが、また後日に、確認しながら、この旅の記録を残したいと思っている。
ローザンヌに着き、駅のインフォメーションで宿を探す。
ローザンヌは、レマン湖でも有名だが、目的はベジャール・バレエ団だったから、その近くに宿を探した。
わたしは、その時知らなかったのだが、調度ローザンヌ・バレエ・コンクールの時期と重なっていて、宿の空きは少ないと、インフォメーションの女性は言った。
やっと宿が決まり、わたしはトラムに乗って、駅から丘を登った。
小さな広場があり、そこが宿だった。
ローザンヌもフランス語圏だったが、宿の中年の女性はフランス語が話せなかった。
訊くと、ポルトガルから来たとのこと、気さくな女性だった。
わたしは、宿で、荷をおろすと、目的のベジャール・バレエ団へ向かった。
思ったより、ずっと小さな緑色の建物で、中に入るのに勇気が言ったが、思いきって、ドアを開けた。
受付の女性に、片言のフランス語で、レッスンを見学させてもらいたいのですが、と言うと、笑顔で、どのレッスンがいい?と応えてくれた。
「ベジャール氏はおられますか」
「生憎、今ローザンヌにはいません」
思わず、緊張が解けたようで、「それはよかった」と言ってしまった。
「たしか、日本人のダンサーが一人いたはずだけど・・・。そう、ジューイチ・コバヤシ」
女性は嬉々とした表情で、「だいじょうぶ。いいわよ」と言ってくれた。
その頃、バレエ団には、柳家小さんの孫の小林十市が在籍していた。
日本で、ベジャール・バレエ団の公演があった時にも、観ている。
この時のレッスンでの体験は、今でも忘れられない。
指導をしていたミッシェル・ガスカールが、わたしに声をかけてくれたのだ。
レッスンが終わり、ミッシェルはわたしを、バレエ団の中のレストランに誘って、お腹は空いていないかと、パンを食べないかかと、テーブルで話をした。
「君はなんで、ここへ来たんだ?」
わたしの中の感情が、ばくっと開いた。
思わず、涙が出て、「ベジャールを愛してるから」涙がぼろぼろ頬を伝った。

ここでは、これ以上の旅の詳しいことは書かない。
スイスのバーゼルへ行き、パリ、ユーロスターでロンドンのウォータールー駅、そこで二泊して、ヒースロー空港から成田へ帰った。
ヨーロッパへは数回行ったが、この時ほど、素敵な思いをしたことはなかった。
書き切れないことが、山ほどあるので、また書いてみたいと思う。

shiroyagiさんの投稿 - 04:35:19 - 0 コメント - トラックバック(0)

2010-05-25

生まれ毛づる悩み 3

ぼくは中学校で、おしゃれに目覚めた。
まずは、髪型から始まった。
ぼくの髪の毛の量は、とても多くて、太かった。
それに、くせっ毛だった。
小学校までは、いわゆるお坊ちゃん刈りのような感じで、前髪はまゆ毛辺り、櫛で髪の毛全体を、真っすぐに梳かしていた。
三つ上の兄の影響だろうか。
兄は、ぼくと違った、ストレートのさらさらした髪の毛を、少し長めにしていた。
ぼくが、初めて思いきって、ヘアスタイルを変えたのは、その頃人気アイドルとして絶頂期だった近藤真彦愛称マッチの真似だった。
その頃、マッチ刈りと言って、流行っていたのだけれど、頭の片方の横を大胆に刈り上げて、トップは長めにして、その髪を下に下ろしていく、とでも言えばいいのだろうか。
忌野清志郎と一緒に「いけないルージュマジック」を歌った頃の、元YMOの坂本龍一も、同じような髪型だと後から気がついた。

ある日曜日、ぼくは駅ビルの上にある美容院ではなく、理容室へ行った。
順番が来るまでの間、ソファに身を埋めながら、ヘアカタログに目を通すふりをしていた。
なぜなら、ぼくのジーンズの尻ポケットには、マッチの顔写真が入っていたからだ。
前の晩、アイドル雑誌から切り取って、持ってきていたのだ。
ぼくの順番がやって来た。
初めての勝負服ならぬ、勝負ヘアだ。ヘア解禁だ。別に変な意味はない。
ぼくは、初対面の今で言うイケメンのお兄さんに、
「この髪型、ぼくにできるでしょうか」
思いきって、言ってみた。
お兄さんは、ぼくが見せた写真を覗き込みながら、ふっと微笑んで言った。
「できるともさ。でもきみはちょっと髪の毛にクセがあるから、まとめるのは、難しくなるよ」
「いいです。切ってください」
マッチ刈りにするために、ぼくは二ヶ月髪の毛を切らないで、じっと穴倉で冬眠する熊のように、この日を待ちわびて、待ちわび続けてきたのだから。
髪の毛を切っている間、ぼくは目を開けていることができなかった。
初めてのバリカンは、ぼくの頭の右側をなぞっていった。
さらさらと髪の毛が肩から胸の辺りに落ちていく感触がした。
ぼくの心臓はばくばくと高鳴っていた。
時間にしたら、何分だったのだろう。
一時間にも思えたが、実際は三十分も経ってもいなかった。
「はーい。出来上がったよ。鏡で後ろも見てごらん」
お兄さんは、合わせ鏡を取り出して、言った。
そこには、マッチはいなかった。
ぼく、今までと変わらない垢抜けない中学生のぼくがいた。
「これでいいかな。どう」
ぼくには、その言葉が、脅迫のように思えた。
中学生のヤンキーさんに、お小遣いを喝上げされた小学生の心持ちだった。
ぼくは当然、嫌とは言えず、お金を出した。
お兄さんは、お金を受け取ると、ガムをくれた。
そして言った。
「また来なよ」
その言葉をぼくは、ヤンキーさんが、また来月のお小遣いが入った頃にやって来て、ぼくのありたけのお金をむしり取って行くからな、と捨て台詞を吐いているかのように思った。
さらに、追い討ちをかけるように、お兄さんは、セットに必要だよと、ジェルをぼくに買わせた。
財布の中のお金だけではなく、靴底に隠していた、お札までヤンキーさんに奪われてしまった、間抜けなぼくと狡猾なヤンキーさんの攻防戦が、繰り広げられていったのだった。
ジーンズのポケットの中の小銭まで剥ぎ取らなかったのは、バス代くらい残してやろうという、ある種の仁侠心の表われだったのかと、思われたくらいだ。
これがぼくの、近所の床屋さんではく、駅ビルの理容室で学んだこと。


shiroyagiさんの投稿 - 16:33:14 - 0 コメント - トラックバック(0)

ぼくの発達記録簿

先日、高校三年生の時の発達記録簿、いわゆる通信簿が出てきた。
数学と物理が苦手だったのは、よく憶えていたが。
中を開いてみると、記憶のとおり数学と物理は、10段階で3と4が並んでいた。
おまけに、教師からの通信欄には、数学と物理で、赤点を取らないよう、がんばりましょう。と書かれていた。
けれども、悪いところばかりではない。
現国と古典には、8と9が並び、英語には、自分でも記憶が薄かったのだが、10もあった。
中学時代までは、全教科まんべんなく、こなしていたわたしだったが、高校時代に入ってから、サイン・コサイン・タンジェントが出てからというもの、まったく理解の域を越えてしまった。
小学生の時には、公文式を習っていて、クラスのみんなに算数を教えていたのが、まさに没落貴族、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
まるで、平家物語の冒頭の様な有り様だ。

物理に関しては、厭な思い出がある。
ある日、高校から家に帰ると、母親が、
「この人に、今日から物理を教えてもらいなさい」
知らないお兄さんが、家にいた。
一回だけで、お引き取り願ったが、何やら訊くと、中学時代の塾の先輩だった。
小さな塾だったので、母親が塾講師にお願いしたらしい。

ところで、発見されたのは、高校3年の時の発達記録簿だけ、後のは、一体どこへ行ってしまったのだろう。
別に見たい訳ではないが、少し気になる。

一番見たいのは、小学生の時の文集で、友だちのお母さんに、生まれて初めて、自分が書いた文章を褒められたもの。
『来るべき明日』という題名で、ガンダムのプラモデルを買いに行く心境を書いたものだったのを、はっきりと憶えている。
そう言えば、小学校の卒業文集を、その頃、あまりに可愛らしく、お付き合いしていた彼女のような女の子に褒められたっけ。
今、この文章を書いていて、思いだしました。
でも、卒業文集は、ちょっと他人を意識して書いて、自分ではあまり気に入っていなかったが、『来るべき明日』は、自分で面白く書いたもので、気に入っていた。

冬物から夏物への衣替えの季節、部屋を片づけていたら、出てきたぼくの昔話。
あれから何年経ったんだろう。数えるのは、止めにしよう。

shiroyagiさんの投稿 - 14:36:13 - 0 コメント - トラックバック(0)
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