13.臥雲辰致

ガラ紡機 発明に情熱


 ガラ紡機の発明家臥雲辰致は、30歳のときに自らつけた名で、幼名は横山栄弥である。臥雲姓は、慶応3(1867)年26歳のときから臥雲山孤峰院の住 職をつとめたことに因(ちな)む。明治4(1871)年、松本藩の廃仏棄釈政策のため廃寺となり還俗(げんぞく)することになった。山号の臥雲をとって姓 とし、再出発を期したのである。
 明治10年、わが国最初の第1回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催されたが、辰致の英文の出品目録には「GAUN TOKIMUNE」と記されてい る。愛知県岡崎市名誉市民の台帳にも「トキムネ」とルビがつく。
 昭和40年2月発行の吉川弘文館「人物叢書(そうしょ)」のひとつ『臥雲辰致』では書名に「がうんたっち」とルビがつき、ひろく「たっち」が使われるよ うになった。
 栄弥は、天保13(1842)年8月15日、安曇野の小田多井(こだたい)村(現・安曇野市堀金)の横山儀十郎・なみの次男として生まれた。寺子屋に学 び、足袋底問屋を営む家業を手伝い、近隣の農家や松本の問屋を回る手伝いをしながら育った。14歳の頃(ころ)、火吹き竹の筒に綿を詰め込み、引っぱり出 して遊んでいるうち、細く長く糸を引き、筒を滑り落とした拍子に、クルクルと回って自然に撚(よ)りがかかったことに気づき、機械の考案にのめり込んで いった。
 この機械は実用にならなかったが、栄弥は新しい紡機の改良に集中した。父はその一途(いちず)な様子を見て将来の見込みがないと判断、隣村の安楽寺の弟 子に出した。文久元(1861)年、栄弥20歳のときである。仏道に精進した栄弥は、6年後に安楽寺近くの孤峰院の住持になった。
 還俗して帰農、名を変えた辰致は、旧孤峰院の地へ住まいを定め、畑を耕作しながら綿糸紡績機の発明を再開した。明治6年に太糸綿紡糸機を発明。7年12 月、辰致は北大妻村(現・松本市梓川)の松沢くまを妻に迎え、籍を烏川村に移した。地租改正が布告され「地引帳」の提出を求められていたとき、辰致が新た に作成した土地測量器に目をつけたのが、波多村(現・松本市波田)の地主川澄藤左であった。藤左は家の田畑や山林を測量するため、辰致を呼び寄せて川澄家 に逗留(とうりゅう)させた。川澄家の長女多けに心を惹(ひ)かれていく辰致を養子にして川澄姓を名乗らせたかったが、辰致は断った。
 くまと離婚し、川澄家で多けとの生活が始まった辰致は、波多村の武居美佐雄(戸長)や波多堰(せぎ)開削に多大な貢献をした波多腰六左と知り合い、強力 な協力者を得た。
 明治10年8月21日から11月30日まで開催された内国勧業博覧会に、辰致は綿紡機械出品を決意し、機械の製作に取りかかるとともに、工場の建設を計 画し、開産社の一部を借りて連綿社を設立。10年1月に松本の六九に工場を設立した。女鳥羽川に水車場を設置し機械の運転を試みた。結果は上々で、4月に 長野県に綿紡機械明細書を提出した。
 辰致発明の機械を「内国勧業博覧会出品解説」にみると、片側20両側合計40錘(すい)のブリキ製の筒に原料の綿を詰め、ハンドルを手動で回転する仕組 みだった。その下部には、天秤(てんびん)機構がそれぞれ取りつけられ、紡ぐ糸の太さを自動的に調節する仕掛けとなっていた。上部の糸を巻き上げる部分 は、松材を輪切りにして糸巻きにし、手動力に連動して回転するようになっている。防錘作業と捲糸(けんし)作業とを機械的に連結させたことが画期的であっ た。
 辰致のガラ紡機の評判は高く、実演された機械は多くの参観者を驚かせた。「本会第1の好発明」と激賞され、最高の栄誉である鳳紋褒賞牌(はい)を授与さ れた。会期中、20数台の予約を受け「臥雲式紡機」として全国的に普及していった。軽快なガラガラという運転音から「ガラ紡」と呼ばれるようになった。
 内国勧業博覧会以降、東京神田に東京支社を設け、各府県からの需要に応じた。ガラ紡機は全国へ普及していったが、模造品が各地に続出し、連綿社は経営不 振となった。その後、辰致の発明したガラ紡は、愛知県に移入されて臥雲式水車紡績・舟紡績として発展していった。
 明治14年、第2回内国勧業博覧会にも出品して「進歩2等賞」を受賞した。15年には、発明の功績により、41歳で藍綬褒章を授与されている。
 18年の春、女鳥羽川に設置してあった水車場が水害で破損し大損害を受けた辰致は、修理費などの工面に奔走したが再建できず、妻の実家川澄家の世話に なった。発明の情熱は衰えず、紡機改良と、蚕網織機の発明に精魂を傾けた。蚕網織機は、第3回内国勧業博覧会で3等有功賞を受け、松本の細萱茂一郎が大量 に購入して普及した。
 辰致は、甲村滝三郎(愛知県)・武居正彦(美佐雄の長男)の3人で新しく発案した紡機の特許の申請をし、22年9月13日に特許を得た。
 明治32年、胃に変調をきたし、翌年6月29日に59歳の生涯を閉じた。死の前日まで考案半ばの図面に見入っていたという。辰致の子4人のうち、長男の 俊造が川澄家を継ぎ、4男紫朗が臥雲家を継いだ。辰致の墓は上波田の川澄家の墓地にある。
 昭和36(1961)年には、岡崎市制45周年で、辰致は名誉市民となった。
(松本市文書館館長=松本市)
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