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芸術とは、しばしば不自然な恰好が好まれる(ロダンの「考える人」も反対側の膝に肘を置くな)。ルーブル美術館のリシュリュウ翼(フランス彫刻など)では、男女のからみが少なからずある。 これはまあ不自然ではない。 兵士を送り出す妻というテーマらしい。でも魔羅を露出させる必然性があるのかなあ。 両性具有か。いずれにせよミロのヴィーナスなどと比べると、「わざと出している」という感が否めない。 主夫? でもなぜポコチンか。帽子は被ってるのに。 戦闘中につき、極小状態になっているのかもしれない。 小さいけれど、ルーヴル美術館の全魔羅のなかで唯一、立ってい(るように見え)た。画期的な気がしたのは私だけか。 脇に寄っている。 これも。 (もちろん全身の姿が)立っていればとりあえず真っ直ぐだけれど、やっぱり芸術家にとって魔羅は描きにくいものであるようだ。女性の裸体像では陰毛が省略されるのが常であったが、男性像で魔羅も残すとすれば、毛も残さざるをえない。 少し時代を遡ると(15世紀以前)、魔羅は残しても、毛は省略というのもある。 これは省略されておらず。デフォルメと写実が難しい場所なのである。 ところで、魔羅っていうのは、二つ合わせていうのかな。 私のお気に入り。要するに、いちばん自然な感じがした。 だからさ、なんで葡萄もってるの。 紀元前1世紀ころの作品。「戦う兵士」として知られる。敵騎士の攻撃から身をかわし、今まさに反撃せんとしているところか。本当にこのころは裸だったのかもしれない。 魔羅の描き方に、どうしても「流行」というか、「とりあえず」という惰性が感じられる。 しかし男にとって、魔羅は永遠のテーマかもしれない。芸術家にとっても、それは真剣な問題なのであった。「じっと手を見る」の啄木ではないが、これは「じっと我が魔羅を見る」。フォーカスすると、くねくねしていました。なお、精緻なる調査の結果、ルーヴル全館の包茎率は100%でした。これで、終わります。
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