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[25730] リリカルなのはSts異伝~子連れ武人活人劇~(×史上最強の弟子ケンイチ)
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/11/24 23:12
はじめまして、あるいはこんにちは、それともこんばんわでしょうか?
とらハ掲示板で先日一応完結した「Sweet songs and Desperate fights」と、現在執筆中の「魔法少女リリカルなのはReds」をやっているやみなべです。一応、チラ裏にももう一つあるのですが、そちらは諸事情により放置状態なので、今回は気にしない方向で……。

気を取り直しまして、この小説は「魔法少女リリカルなのはStrikers」と「史上最強の弟子ケンイチ」のクロスオーバー小説になります。
以前「Sweet songs and Desperate fights」でも予告した通り、一応あちらを完結出来たので調子に乗って手をつけて見ることにしました。まあ、それほどちゃんとしたプロットがあるわけでもないので、いつ更新が滞るかわかったものじゃありませんけどね。
そうなった場合には絶賛更新遅滞中の「Reds」同様、気長にお待ちください。

もちろん、やるからには完結を目指しますので応援していただければ幸いです。
ちなみに、基本的にリリなのStsの原作準拠で進める事になるでしょう。場合によっては、「vivid」にまで食い込む可能性も無きにしも非ずといったところですか……。
とはいえ、それは今のところ絵に描いた餅でしかありませんね。とりあえず、Stsが始まる少し前あたりでクロスすることになると思います。その方が話の流れ的に都合がいいので。

それと、さすがにハーレムにする気はありませんが、「Sweet songs and Desperate fights」と違って数名にフラグを立てたりする可能性があります。また、独自設定や独自解釈、ご都合主義が多分に入っておりますのでご了承ください。なので、上記の要素が駄目な方はご注意頂いた方がよろしいでしょう。

あと、詳しい設定などは追々作中で出していく予定ですが、この作品における兼一は一応「達人級」扱いです。
そうでないと魔導師の相手なんてできそうにないので、仕方がないと言えば仕方ないですし、中途半端なところで修業を受けられなくなるのも変な感じだったものですから。最強には・・・・・・ならないように気をつけます。
一応兼一以外の出演も考えていないわけではありませんが、その辺は割とまだ検討中なので、皆さんの声によっては出演が決定する一押しになるキャラクターもいるでしょう。また、オリキャラも出てくる可能性があります。


それでは、架空の事象である「魔法」と非現実的なレベルの「武術」を交差させるという、キチガイと酔狂以外のなにものでもない本作ですが、それでも付き合って下さる寛容な方はぜひとも感想やご意見をお願いします。



初投稿:2011/1/31



[25730] BATTLE 0「翼は散りて」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/10 15:22

ある満月の綺麗な夜。
今一つの命の灯が産まれ、同時に一つの命の灯が消えようとしていた。

古めかしい木造建築の診療所、その奥から元気な産声が響く。
それは、新たなにこの世に生まれ出でた命の躍動そのもの。
真円を描く白銀の月も、瞬く星々も一様にその命の誕生を祝福しているかのようだ。

診療所の正面玄関には「岬越寺接骨院」の看板が掛かっている。
しかしこの診療所、接骨院とは名ばかり。いや、接骨院である事は事実なのだが、ここを営む医者が接骨医などとは到底言えない。
何しろこの診療所唯一の医師は、整形外科はもちろん、外科に内科、小児科、耳鼻咽喉科、果ては心臓から脳に至るまで、あらゆる症例に対応できる万能全身科医なのだ。その中にはもちろん、産婦人科も含まれる。
なんでも「輪廻を引き裂き摂理を歪め、熱力学第二法則に真っ向から戦いを挑む人術…それが医術」をモットーにしているとか。彼の手にかかれば、死んでも生き返るとまで言われている。
ただし、血を見ると性格が変わるので、医療の世界では非常に恐れられているのだが……。

その診療所の待合室には、数人の男女が詰めている。
年齢は様々だが、先ほどまでは誰もが落ち着かずにウロウロしたり貧乏ゆすりをしていた。
もし彼らの素性を知る者がこの場にいれば、その予想外の一面に驚愕を隠せなかっただろう。
だが幸いなことに、この場には本当に身内しかいない。

そして、先の産声が上がると同時に皆が一斉に顔をあげ、続いて喜びに満ちた表情を浮かべる。
特に、先ほどから簡素な椅子に腰かけていた青年の表情の変化は著しい。
先ほどまでは焦燥と不安一色だったにもかかわらず、今は涙を浮かべて笑っているのだから。
事情を知らないものでも即座に理解するだろう。彼…白浜兼一こそが、この産声の主の父親であることに。

やがて診察室の戸が開き、その中から一人の中年男性が姿を現す。
名を岬越寺秋雨。この診療所を営み、産声の主を取り上げた医者だ。
同時に、その赤子の父親である兼一の師でもある。ただし、医術ではなく武術のという注釈がつくが。
ともあれ、普段は冷静沈着を絵にかいたような彼も、さすがに弟子の子どもが生まれる場に居合わせた感慨はひとしおらしい。普段浮かべている微笑はその顔にはない。

「岬越寺師匠!?」
「ああ、聞いての通り生まれたよ。いたって健康な男の子だ。
 兼一くん、美羽が待っている。行ってあげたまえ」
「はい!!」

そう言うや否や、兼一は駆け足で診察室の奥へと向かっていく。
愛する妻と、その間に生まれた初めての子ども。
まさしく二人の愛の結晶であるその子の顔を見るのを、今日まで一日千秋の思いで待ち続けたのだ。
もう、コンマ一秒でも待つ事は出来なかったのだろう。

そんな兼一の後を追おうと、同じく待合室で待っていた面々も動き出す。
ある者は鼻の下を擦りながら目尻に兼一同様涙を浮かべ、ある者は全身で喜びを表現し、ある者は無表情を装いつつ気が急いている様子を隠しきれず、ある者はこの一大イベントを記録しようとカメラを手に、ある者は泰然とした態度でゆっくりと歩を進める。
皆、兼一やその妻にとって秋雨同様家族に等しい人たちであり、同時に今日まで教え導いてくれたあらゆる意味での人生の師達だった。
しかし、そんな彼らの前に秋雨は立ちふさがる。

「……おい、秋雨。んなとこに突っ立ってないで、早く中に入ろうぜ」
「そうよ! アパチャイ、早く兼一と美羽の赤ちゃんを見たいよ!
 二人の子どもなんだから、きっときっと天使みたいに可愛いよ!!」
「そうね。二人の邪魔をしちゃいけないってのはわかるけど、二人の幸せ一杯の様子をこのファインダーに納めるのはおいちゃんの義務と言ってもいいね。
まだまだ子どもだと思ってた二人が結婚して、今子どもまで生まれて、本当に感慨深いね」

逆鬼とアパチャイ、そして剣星の三人は無粋にも行く手を阻む秋雨に憮然としながらそう言い募る。
だが長く共に歩み、弟子を育て、背中を預け合い、切磋琢磨してきた友の言葉を聞いても秋雨は動かない。
そこで、特に付き合いの長いしぐれと長老が秋雨の異変に気付いた。

「…………? 秋雨、なんでそんな悲しい顔を…してる?」
「秋雨君、一体どうしたと言うんじゃ」
「申し訳ありません長老。ですが今は…今だけは!
 彼ら家族三人、水入らず共に居させてやっていただきたい!!」

秋雨は、まるで血を吐くかのように苦悩に満ちた声で語り、土下座でもしそうな勢いで首を垂れる。
そのただならぬ気配に、他の面々の表情がこわばった。
理解したのだ、秋雨をこれほどまでに追い詰める何かが、診察室の奥で起ころうとしている事に。



BATTLE 0「翼は散りて」



診察室の奥、喜び勇んで備え付けられたベッドに駆け寄る兼一。
そこに身体を預けていたのは、彼にとって最愛の女性。
長く伸びた金糸の様な髪と澄んだ湖を思わせる蒼い瞳は、何度見ても彼の心を捉えて離さない。

朝、顔を合わせる度に、言葉をかわす度に彼は目の前の女性を「美しい」と思った。
それは、世界中に存在するどんな美にも勝るものだと確信して疑った事はない。
しかし、今日それが過ちであったことに気付いた。
なぜならば、今まさに出産という大仕事をやり遂げた妻の姿は、過去のどんな時よりも輝いていたから。
自分がこれまでどれだけ不当な評価を彼女に与えていたのか、彼はそれを噛みしめる。

彼女の両手は豊かな胸の下で組まれ、その上には白い布が乗っている。
それは丸みを帯び、何かを包んでいた。その中身がなんであるかなど、考えるまでもない。
子を抱くその姿はまるで女神の様に神々しく、子に向けられる微笑みは無上の慈愛に満ちていた。

その様に、思わず兼一は足を止めて言葉を失う。
そんな彼に対し、妻は兼一が来たことにようやく気付いた様で顔を挙げる。

「あ、兼一さん」

視線を我が子から離し、彼女は兼一に微笑みかける。
その顔は本当にこれ以上ないほどに幸せそうで、そんな顔を向けてもらえる事を兼一は誇らしく思った。
兼一は溢れそうになる涙を必死にこらえ、同時に膝が笑っていることに気付く。
今まで幾度となくボロボロになってきたが、これほど立ち続けることに苦労した事はない。
ほんの僅かでも気を緩めると、即座に座り込んでしまいそうだった。
そうして、ようやく兼一は震える口を動かし苦労しながら言葉を発する。

「美羽…さん。その子が、僕たちの……」
「はい。私と、兼一さんの赤ちゃんですわ。こっちに来て、早く顔を見てあげてくださいな。
 そして、顔を見せてあげてくださいまし。この子のお父さんの顔を」

兼一はまるで何か見えない力に誘われるように、おぼつかない足取りでベッドの脇に移動する。
たった5mにも満たない距離でありながら、辿り着くまでに何秒かかったか知れない。
夢遊病患者の様な歩みで辿り着いた兼一は、怖々とした様子で白く清潔な布の隙間を覗き込む。
そこにいたのは、疑うべくもなく人間の赤子。それ以外いる筈もないと分かっていながら、その顔を見るまで兼一は実感がわいていなかったのかもしれない。何しろ顔を見たその瞬間、彼の顔は涙と鼻水でグシャグシャになってしまったのだから。

泣いた事は幾度となくある。悲しい涙も、悔しい涙も、そして嬉しい涙も。数え出したらキリがない。
だが、これほどまでに心が洗われるような気持ちで泣いたのは初めてだった。

「あらあら、お父さんがそんな泣き虫じゃみっともないですわよ。この子に笑われてしまいますわ」

そう言って妻…白浜美羽は細い指を口元に添えて上品に笑う。
御産の憔悴からだろうか、血色は優れず額には玉の汗が浮かんでいる。
しかしそれでも、優しさに満ちた瞳と溢れんばかりの至福を宿す声音が彼女の微笑みを輝かせていた。

「あ、あの…す、すみません……」

その顔を正視できず、思わず頭をかきながら赤面して眼を逸らしてしまう兼一。
そんな彼に対し美羽は「冗談ですわ」と口にして、その手に抱く我が子を兼一に差し出す。
兼一は差し出されるままにその小さな命を抱き上げる。
手に伝わる重みは、思っていたよりもずっと………………重かった。今までに持った何よりも。

数百キロに届くであろう巨岩ですら持ち上げる兼一の腕力の前では、3キロ前後の赤子などシャボン玉も同然だろう。
にもかかわらず、彼はその腕に抱いた嬰児の重さに膝を屈しそうになる。

だが、膝を屈することは許されない。
これから先、この子が一人で生きていけるようになるその日まで、彼はこの重さを背負って生きて行く。
例えどれほど重くても、押しつぶされそうになっても、膝を屈することも投げ出すことも許されない。
この子の父親として、一人の男として、彼女の夫として。
この小さな命を守るためならば、命を捨てることもいとわないと覚悟するのなら。
故に、兼一は総身の力と不退転の覚悟を以って我が子を抱き上げる。

「小さくて、暖かくて、柔らかい。なんだか、ガラス細工を持ってるみたいです」
「そうですわね。私も、秋雨さんに手渡していただいた時、同じことを思いましたわ」
「…………でも、重い」

重々しく、万感の籠ったその呟きを聞いて、美羽は彼の妻でよかったと思う。
物理的な重量ではなく、命の重さ、大切な存在の重さを実感できる彼と一緒になれた事を。

「……はい。命の重さ、百も承知しているつもりでしたが、自分がどれだけ無知だったか思い知りましたわ」

活人拳を志し、技を磨き、身体を鍛え、いくつもの死線を越えてきた二人。
しかし知らなかった。命とは、こんなにも重いものなのだと言う事を。
同時に、美羽は自身の瞼が急速に重くなっていくことを自覚する。

(ああ、もう何ですわね。アレだけ鍛えてきたのだから、もう少しはもつかと思いましたのに……)

四肢に力が入らない。先ほどまでは辛うじて支えられた我が子の重さも、今となっては支えきれないだろう。
強烈な睡魔が意識に靄をかけていく。
少しでも気を緩めれば、そのまま意識は奈落の底に落ちてしまいそうだった。

(でも、もう少し。もう少しだけ、私に時間をくださいな)

眠るにはまだ早い。まだ眠りたくはない。この、人生最良の時間を終わらせたくはなかった。
だから美羽は、小さく荒い息をつきながらも意識を繋ぎとめる。出来る限り、兼一に悟られないように。

「兼一さん、その子の名前なんですけど……」
「分かっています。この子の名前は……………………『翔』、白浜翔。それで、良いんですよね?」
「……………………………………はい」

それは、兼一と美羽にとって因縁深い相手の名前。
二人がまだ未熟であった頃に立ちはだかった強大な敵にして、二人の命を救った恩人。
美羽同様、空を翔ける翼を持ちながら籠の外へ羽ばたく事を許されなかった男。
男の子であったなら、その男と同じ名前をつける。それが、二人が良く話し合って決めた結論だった。

「この子には、翔が見る事の出来なかった自由な空を飛んでほしいんです。
 そして、彼の様に誰かの為に身を呈して戦えるような、そんな強い人になってほしいのですわ」

それが、美羽がその名に託した願い。兼一にも異論はなかった。
叶翔の事は今でも好いているとは言い難いだろう。だが、大切な人の命の恩人への恩義と、何より筋を通したその生き様に対する敬意の念は些かも揺らがない。

しかしここにきてようやく、兼一は美羽の異変に気付く。
血色の悪さは出産を終えた反動だと思っていた。玉のような汗は疲労から来るものだと。
だが、そのことに兼一は強烈な違和感を覚える。
本当にこれは、ただ御産の憔悴から来る症状なのかと。

「美羽…さん?」
(ああ、気付いてしまわれたのですね)

美羽はケンイチの表情の変化を見てとり、彼が何を悟ったかを理解する。
本当は、ギリギリまで隠し通したかったのだが、それはかなわなかった。

「ちょっと待っていてください! いま、岬越寺師匠を……!!」
「それには及びませんわ」

大急ぎで秋雨を呼びに行こうとする兼一に対し、美羽は彼の袖を掴んで引きとめ首を振る。
その力はあまりにも弱々しく、諦観した美羽の表情を見て兼一は愕然とした。
自身が抱いた違和感が単なる勘違いでない事を、無言のうちに肯定されてしまったから。

達人といえど、所詮は人間。重篤な病や致命的な怪我をすれば当然死ぬ。
美羽の体は、誰に気付かれることもなく重い病に冒されていたのだ。
余命は残りおよそ半年。だが、御産は母体に多大な負担をかける。
如何に内臓を含めた全身を鍛えぬいたとしても、負担が大きいことに変わりはない。
出産自体は成功しても、その負担に母体が耐えきれない可能性は十分想定される事態だった。

「もう、私には時間がありませんの」
「な、何を言ってるんですか!? 岬越寺師匠と馬師父なら……!!」
「人は、神にはなれません。どれだけ技術が進み、その技術を極めても限界はあります。
 命数を使いきってしまえば、もう……」

美羽の言わんとする事はわかる、それこそ理解したくない事まで。
彼女の顔色が悪いのは単なる憔悴や疲労ではなく、生命力そのものが底をつこうとしているから。
よく耳を澄ませば、不自然なまでに息が荒い事にも気付く。

「前々から、秋雨さんには言われていたんですの。死ぬかもしれないと」
「そ、そんな!? 僕はそんな事一言も!!」
「誰にも言わないようにお願いしましたから」
「なんでそんな事を!?」

美羽の告白に、兼一は先ほどまでとは違う涙を浮かべて声を張り上げる。
それは、やり場のない怒りと悲しみに満ちた慟哭だった。
だがそれは、美羽や秋雨に対するものではない。
今まさに最愛の妻を奪おうとする運命と、二人にそんな気遣いをさせてしまった自分に対するもの。
それが、どれだけ無意味な事か理解しても、兼一はその感情を抑えることができなかった。

そもそも、美羽と秋雨が病のことに気付いたのは、子どもを身籠ってからの定期検診の中での事。
その時すでに、美羽を侵す病魔は取り返しのつかないところまで進行していた。
恐らく、ここで中絶しても次の子どもを望む事は出来ない。
幸いだったのは、その病が胎内で育つ子に感染するような類の物ではなかった事。
故に、美羽は命と引き換えに産み落とす事を選択したのだ。最愛の男との、ただ一人の愛の結晶を。

「産んでも産まなくても、結果は変わらないと言われましたの。早いか遅いか、それも半年程度の差だと。
 それならいっそ、その時が来るまで心配させたくなかったものですから」

だから、誰にも言わないよう懇願した。最愛の夫でありパートナーである、兼一にさえも。
それが兼一に対する最初で最後の裏切りと知っていながら、それでも彼女はそれを望んだ。
せめてその時が来るまで、自分が愛した人たちの顔を悲しみで曇らせたくなかったから。

しかし、それが自分のエゴでしかなかった事を美羽は理解する。
片手で我が子を抱いたまま、もう片方の手で自分の手を握りながら涙する兼一を見て。

「僕は………僕はあなたを守るって誓ったのに! やっとあなたを守れるくらい強くなったのに………それなのに、こんな時にあなたに何もしてあげられない!!
 アイツとの誓いも、あなたとの約束も、みんなみんな破ってしまう!!!」

悔しかった、やっと美羽を守れるくらいに強くなったのに、むざむざ彼女を死なせてしまう事が。
折角この世に生を受けた我が子に、碌に母との思い出を作らせてやれない弱い父(自分)が。
だが、そんな兼一に対し、美羽は優しく手を重ねて首を振る。

「そんな事はありませんわ、兼一さん。私、最近になってようやく気付きましたの。
 以前はあなたが私の庇護を離れる事をさびしく思ったこともありましたが…………本当は逆で、私があなたに守られていたんですわ」
「……………え?」
「私はずっと、あなたに守っていただいていましたわ。
いつ闇に堕ちるとも知れなかった私の心を、あなたのその…優しくて強い心が」

逃れられない死を宣告されて以来、美羽は人知れず不安と恐怖に耐えてきた。
命をかけて戦う事には慣れていたが、ヒタヒタと忍び寄る死の影は彼女をして恐怖させる。
それに今日まで耐えて来れたのは、傍に兼一がいてくれたから。
彼の優しさに、温かさに、強い心に励まされたからに他ならない。
そして気付いた。初めて会ったあの時から、その心を守られてきたことに。

「ですから、あなたは約束を破ってなどいませんわ。
誓いは、もう十分に果たしたと翔もわかってくれる筈ですもの」

それは、確かに美羽にとっての真実なのかもしれない。
だがそれが、兼一にとって何の気休めにもならない事は承知していた。
それが真実だとしても、彼はきっとずっと自分を責めて後悔し続けるのだろう。
そんな彼だからこそ、美羽は彼に惹かれたのだ。その、無上の優しさに。
しかし、それでも美羽は今日この日まで自分を支えてくれた兼一に、感謝の気持ちを伝えたかった。
伝えずに死ぬ事だけは、したくなかったから。

「ありがとうございますわ、兼一さん。私の事を愛してくれて、守ってくれて。
 あなたに出会えて、私の人生は本当に豊かになりましたわ。武術と梁山泊しなかった私にお友達が出来て、一緒に楽しい時間を過ごして、たくさん………本当にたくさんの事がありました。
 その全てが、私の大切な宝物。みんな、兼一さんがくれたもの。
 そして…………ごめんなさい。あなたからもらった物を何も返せず、あなたと翔を置いて逝く私を許してくださいまし」

最後の時には何を伝えればいいか、ずっと美羽は迷ってきた。
だが、いざその時が来てみれば、スラスラと伝えたい事が口から溢れてくる。
むしろ、いくら伝えても伝え足りないからこそ、残り少ない時間がもどかしい。

出来るなら、このまま一晩中思いの丈を紡ぎ続けたかった。
それができない事を、美羽は心の底から呪う。
いや、本当に呪っているのはそんな事ではなくて、最愛の夫と息子から引き離され、やっと得た宝物を失うことそれ自体。
『死にたくない』と、『もっと生きたい』と、『愛おしい人たちと過ごしたい』と、魂の底から願う。
しかし、それが叶わないことを、指一本動かすことにすら苦労する体が知らせていた。

今にも溢れそうになる涙をこらえ、美羽は我が子を見つめる。
翔はスヤスヤと寝息をたて、自身の母に何が起ころうとしているかまだ知らない。
何も伝えられず、碌に愛情を注ぐこともできなかった事を心のうちで詫びながらも、美羽はその穏やかな寝顔に魅入られる。こうして我が子の顔を見ているだけで、あらゆる束縛から解放されたようだった。

兼一は最早、美羽に対して何も口にできない。
漏れるのは嗚咽ばかりで、言葉を発する余裕などどこにもなかった。
そんな彼に対し、美羽はいくつかの願いを託す。

「兼一さん。最後のお願いを、してもよろしいですか?」

美羽の言葉に、兼一はしばしの間をおいてから頷く。
その様子を見て美羽は静かに微笑み、その願いを口にする。
兼一はただ一語一句逃さないように、決して忘れないようにその言葉に耳を傾けた。

そしてすべての願いを伝え終えた後、二人の家族、梁山泊の面々が診療室に入ってくる。
秋雨から事情を聴いたのだろう、皆の眼には涙が浮かんでいた。
自分の為に泣いてくれる家族に対し、美羽は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
特に、祖父に対してはその気持ちが強い。屈強な祖父の眼にも、透明な雫が浮かんでいたから。

そんな彼らに対し、美羽は精いっぱいの感謝と謝罪の言葉を伝える。
そうして美羽は、愛すべき家族達に囲まれ安らかな微笑みと共に…………………その短い生涯をとじた。



  *  *  *  *  *



数日後の梁山泊。
重い曇に包まれたその日、白浜美羽の葬儀がしめやかに行われようとしていた。

高校・大学時代の学友はあまり多くなく、参列者の多くは新白連合のメンバーたち。
あるいは、武術を通して出会ったライバルがその大半を占めている。
中には警察や中国の武侠組織の重鎮などもいたが、その数もやはり多くはない。
同時にそれらの事実は、ある意味彼女の特殊な生い立ちを象徴しているようでもあった。
だが、彼らの眼には一様に涙が浮かび、故人がどれほどまでに皆に愛されていたかは一目瞭然だろう。

やがて葬儀も終わり、ほとんどの参列者が家路についた頃。
梁山泊の道場で、兼一は友人たちと向かい合っていた。

「新島、折り入って一つ頼みたい事がある」
「どうした、相棒。藪から棒によ」

スヤスヤと眠る我が子を抱く兼一の対面に座るのは、兼一無二の悪友「新島春男」。
その周りには、新白連合最初期のメンバーや黎明期を支えた幹部たちが勢揃いしている。
また、少し離れた所には兼一の妹のほのかと、彼女の交際相手である「谷本夏」の姿もあった。

「実は……………………………連合を抜けようと思う」
「な、なに言ってんですか隊長!?」
「そうですよ! 連合は総督と隊長がいてこそじゃないですか!!」
「奥方を亡くして悲しいのはわかるが、思いとどまるんじゃあ隊長!!」

元は新島が作ったまやかしの団体でしかなかった新白連合。
はじめは煩わしくも思っていた兼一だったが、いつの間にか見捨てる事の出来ない掛け替えのない仲間になっていた。自分の発言に対し、必死に引き留めようとする水沼や上岡、旗持ちの松井を兼一は優しい目で見つめる。
いや、引きとめようとしているのは彼らだけではない。ラグナレクとの抗争を乗り越えて連合に吸収された白鳥達元キサラ隊の面々も、共に兼一を引き留めようとしてくれている。
隊長達はさすがに騒ぎ立てこそしないが、それでもその眼には憂いの色が濃い。
こんなにも自分を思ってくれる友人たちに、兼一は重く沈んだ心が僅かに軽くなる事を自覚した。

だがそれでも、これはもう決めた事なのだ。
そう口にしようとしたところで、新島が騒ぐ彼らを制する。

「静かにしろ手下ども!」

新島の一喝により、ざわついた場の雰囲気が静寂を取り戻す。
元は単なる小悪党でしかなかった筈の男だが、今や組織のトップとしての貫録を身につけていた。

大学時代にジークフリートの出資や株取引によって得た資金を基に、連合を武術団体として起業して早数年。
新島の頭脳と統制され忠誠心厚い部下達、そして各隊長の秀でた武術の腕前。
これらの歯車が絶妙にかみ合い、瞬く間のうちに日本の武術界に新白の影響力は広がって行った。
今や、世界にも新白の名は浸透しつつある。洋の東西、裏表を問わず。

二十歳を超えたあたりから、チラホラと達人の領域に至る者も出てきた。
そうして新白連合は、世界的に名の通った達人を幾人も擁する一大武術組織へと成長しつつある。

「理由を聞かせてもらおうか、兼一。俺はおめぇに、組織のナンバー2としてふさわしいだけの物を提供してきたつもりだ。おめぇだって、まんざらじゃなかったように思えてたんだがな」
「…………そうだな。正直言ってしまうと、新白としての活動も充実していたのは本当だ。
 互いに武を競って磨き合い、時に笑い、時に共に戦った。みんな、掛け替えのない仲間だと思っているよ」
「そこで金とか地位とか権力が出ねぇのがおめぇらしいが、なら何が不満なんだ?」

実際、新島から支払われる給料は下手なベンチャー企業の社長より多い。
そこに加えて、表沙汰にできない警察などからの依頼仕事をこなせば、さらに特別手当が出る。
おかげで、梁山泊の経営はここ数年かなり余裕が出て来ているほどだ。

兼一は金銭には興味の薄い人間だが、それでも生きていくためには金がいる事も理解している。
だから貰えるものはしっかりもらうし、それを梁山泊の運営に充てたり、自分自身の趣味などの為にも使う。
ただ、元よりあまり欲の強い方ではないので、余った金銭は匿名で慈善団体に寄付している辺りがこの男らしい。

…………話が逸れた。
要は、今の兼一に新白連合に対して特に不満らしい不満はないと言う事だ。
だからこそ、新島をはじめ新白の面々は首をかしげざるを得ない。

「不満とかじゃないんだ。ただ、武の世界から少し離れようと思ってね。
 その為には、連合にいたままじゃダメなんだ」
「お兄ちゃん!? いきなり何言ってるんだじょ!
 あんなに頑張って、大好きだって言ってた武術をやめるの!?」

それまで静観していたほのかが、ついに声を張り上げる。
まさかこの兄が、武を捨てるなどと言うとは思ってもみなかったのだろう。
それは誰もが同じ気持ちで、皆信じられないと言わんばかりに目を見開いている。
今日まで兼一がどれほど真摯に武に打ち込んできたか、それを知るからこそ。
しかしそこで、夏は何かを確かめるようにゆっくりと口を開く。

「それは、その手元にあるものの為か?」
「さすがだね、谷本君。でも正確には、美羽さんとの約束なんだ。
 武の道を行くかどうかは、この子…翔自身に決めさせるって」
「それはどういうことなんだ~い、兼一君?」

兼一の言葉に隊長陣の一人、ボクサー「武田一基」が問いかける。
その問いに対し、兼一は美羽が逝った夜の事を思い出しながら言葉を紡ぐ。

「僕は、武術と出会えてよかったと思っています。武術を通して、沢山のかけがえのない宝物を得たから。
 武術は、僕にとって無二の恩人とも言える存在です。出来るなら、翔にもその素晴らしさを知ってほしい。
 それに僕も武術家のはしくれですからね。息子に後を継いでほしい、自分の全てを伝えたいと言う気持ちはあります」
「それならなんでなんだい、ボーヤ。息子に武術をやらせたいっていうのと矛盾するじゃないか」
「でも、同時に僕たちは知っています。武術は辛く苦しく、危険なものである事を。
 僕も美羽さんも一人の親として、翔には平穏な人生を歩んでほしいんですよ。平凡で、ありきたりで、特別なものなんて何もない人生。それはきっと、そう悪くないものだと思うんです」

テコンドーの使い手「南条キサラ」の言葉に、今度は父として答える兼一。
それは、父親として当然の願いだろう。どこの世界に、息子に苦難の道を歩ませたがる親がいる。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うし、優しくするだけが優しさとは限らない。
あるいは中国の諺にも、「摩擦なくして宝石を磨けないように、試練なくして人は完成しない」とある。

確かにその通りだろう。
だが、だからと言って達人へ至る道程は「険しい」などと言う生易しいものではない。
ならば、我が子に平凡な人生を望む事は、何も間違っていない筈だ。
武術は素晴らしいが、武術を修めねば幸せになれないわけではないのだから。

「父としては我が子の平穏を望み、武術家としては継承を望む。
 これは、子を持つ武術家が誰しも抱く葛藤でしょうね~、ラ~ラララ~♪」
「たしかに、風林寺がそれを望んだのも無理はない、か」

ジークフリートこと「九弦院響」とフレイヤこと「久賀舘要」は、兼一達の思いに共感を示す。
武術家といえど人の親。何より、兼一と美羽の二人は特に情に厚い。
そんな二人が、我が子の平穏を望むのは必然と言えただろう。
そして、トールこと「千秋佑馬」が兼一の言葉の意味を総括する。

「なるほどのぅ、つまり我が子を武から遠ざける為に、自ら武を離れると?」
「はい。翔に普通の人生を歩むチャンスを与える事、それが美羽さんの最期の願いなんです」
「っ! おい兼一、まさかお前……!」

そこで、柔道家「宇喜田孝造」が兼一の言葉の裏にある意味を悟る。
さすがに驚きを隠せない宇喜多に対し、兼一はいたって平静のまま答えた。

「たぶん、あなたが思った通りですよ宇喜多さん。
納骨が終わり次第、僕は梁山泊を離れて実家に戻るつもりです」
「その事は、あのジイサンたちは知ってるのか?」
「ああ、美羽さんが逝ったあと、長老たちと話し合って決めた事だ」

新島の問いかけに、兼一はその時のことを思い返す。
美羽の臨終を秋雨が告げ、兼一を含め皆はその胸の内の悲しみをそれぞれの方法で発散した。
ある者は酒を浴びるように飲み、ある者は部屋に引き籠もって泣き、ある者は夜空を見上げて家族の冥福を祈り、ある者は自身の不甲斐なさを悔いた。

そうして悲しみに暮れた後、兼一の呼びかけで梁山泊の豪傑達が道場に集ったのだ。
そこで兼一は、今新島達に言ったこととほぼ同じ内容のことを告げた。

「決意は堅いのかい、兼一くん」
「ごめんなさい、岬越寺師匠」
「私に謝られてもね。皆はどうだい?」
「へっ! やめてぇってんならやめさせればいいじゃねぇかよ! 俺の知ったことか!」
「…………………僕も、それでいいと思…う」
「そうね、確かにここにいたら美羽の遺言は果たせないしね」
「アパチャイ、むつかしい事は良くわかんないけど、兼一と翔が戻ってきたら一杯一杯歓迎するよ!
 だから、兼一は気にしないでいくといいと思うよ!」

皆、形は違えど兼一と美羽の意思を尊重してくれた。
長老は黙って何も言わないが、兼一の眼には彼の覇気が衰えたように見える。
まるで、唐突に何十歳も年をとってしまったかのようだ。

そのまま、兼一は長老の言葉を待つ。
酷かもしれないが、それでもここは言葉として聞かねばならない時だから。
そうして待つこと十数分。やがて、長老はその重い口を開いた。

「孫娘の最期の願いじゃ、聞かんわけにはいかぬて」

重い思いため息と共に、長老はそう言って兼一が翔とともに梁山泊を離れることを承諾した。
武術の世界に置いて、兼一はすでに「梁山泊の弟子」ではなく「梁山泊の一員」として見られている。
それはつまり、彼が師達の技の全てを継承したことを意味する認識であり、師達もそれを否定しない。
未だその技の深さは師に及ばないが、教えられることは全て教えたから。
もし、まだ残っている物があるとすれば、それは武器術である香坂流と無敵超人が誇る超技百八つくらいか。

「それに、別に武をやめるわけじゃありませんよ。
これからも練磨を怠る気はありませんし、翔が寝付いた後にでもご指導賜りたいと思っています。
いつか、翔が自分自身の意思で武の道を選んだ時、腕が鈍っていたら美羽さんにあわせる顔がありませんから」

そう言って、兼一は苦笑を浮かべる。
平穏か武か、それを選ぶのは翔自身でなくてはならない。それが美羽の願い。
そして翔が武を選んだその時は、自分自身の手で鍛える事を兼一はきめていた。
だからこそ、兼一はここで師達が思いもよらない事を口にする。

「長老、一つよろしいでしょうか?」
「? なんじゃ、兼ちゃん」
「僕に超技百八つ、その全てを伝授していただきたいんです」

兼一は座布団から降り、畳の床に額を擦り合わせて土下座する。
その言葉に、さしもの梁山泊の豪傑達もおどろきの表情をあらわにした。

兼一も長老の教えは受けているが、超技百八つの全てを学んだわけではない。
それどころか、その全容を把握しているかさえ怪しいだろう。

無敵超人は弟子をとらないことで有名な達人だ。
修業をつけ、技を授ける事はある。だが、正式な弟子は取らない。
兼一や美羽もまた「教えを受けた」だけであり、正しい意味での「弟子」ではなかった。
そんな彼に、兼一はその全ての技の伝授を乞うたのだ。
それはつまり、正式に弟子に取ってほしいと願ったことを意味する。

長老は兼一の申し出に押し黙り、鋭い眼光が兼一を穿つ。
並々ならぬ気当たりが発せられ、兼一の額に汗が浮かぶ。
それを見た秋雨は、とりなすように二人の間に入った。

「理由くらいは聞いてはいかがでしょう、長老」
「そうね、兼ちゃんに限っていい加減な気持ちで言うとも思えんしね」
「…………………良かろう。では白浜兼一、御主はなぜわしの超技百八つ、その全てを求める」
「一武術家として己を極める為…………………と言うのもあります」
「それだけではない、と言う事じゃな?」
「はい。翔が武人となる事を選んだその時、僕は僕や美羽さんが愛した梁山泊の全てを、この子に伝えたいんです。
 美羽さんが何を見て育ったのか、どんな技を使う人に武を学んだのかを。
美羽さんとの思い出がないこの子に、その代わりとなる物を授けてあげたいんです」

全ては、我が子が選ぶかもしれない未来の為に。
それが、兼一が超技百八つの伝授を求めた理由。
自分の為ではなく大切な人の為に、それは実に彼らしい理由だった。

「もし拒否した時、御主はどうするつもりじゃ、白浜兼一よ?」
「その時は、戦ってでも盗みます」
「わしと戦って、無事で済むと思うておるのか?」

その瞬間、長老の気当たりがさらに強まった。
『侮るなよ小僧』と無言のうちに激怒されたかのような錯覚を覚えるほどの気当たり。
よほどの達人でも呑まれ、心がくじけてしまいそうな重圧と根源的な恐怖。
しかしそれでも、兼一の覚悟は揺るがない。

「長老、あなたは一つ勘違いをしていらっしゃいます。
 梁山泊に入門して以来、僕はずっと自分より強い相手とばかり戦ってきました。
 どれだけ力の差があっても、僕は一度だって負けるつもりで戦った事はありません!!」

長老の気当たりを、兼一もまた真っ向から受け止める。
彼の言う通り、未だ兼一では長老には敵わないだろう。
美羽との結婚にしたところで、アレはかなり例外的な事例だ。
その武の全てを晒した無敵超人を相手にするには、兼一はまだ若く未熟過ぎる。
だが、そんな事で兼一の意思はくじけない。

両者が睨み合う事しばし。
気の弱い者なら、それだけで死んでしまいかねないほどの気当たりの応酬。
先に気当たりを引っ込めたのは、長老の方だった。

「………………………良かろう。ただし、わしの修業は厳しいぞい。
 それが、翔に気付かれないようにするとなれば尚更じゃ」
「元より、覚悟の上です」

兼一の意思と覚悟に思うところがあったのだろう。
長老は溜息と共に、頭を振って兼一の申し出を了承した。
あるいは、どこまでも真摯で邪念の無い兼一の思いに折れたのかもしれない。
そんな彼に対し、兼一はただ深々と頭を下げる。
信条か流儀か。どちらにせよ、これまで貫いてきた自身のあり方を曲げてまで己の我儘を認めてくれた、義理の祖父に。

こうしたやり取りが行われた後、兼一と長老は二人で縁側に座っていた。
互いの手には御猪口があり、静かに二人は酒を酌み交わす。
そこで、夜空を見上げていた長老がポツリと漏らした。

「兼ちゃんや。わしはな、別に神様や仏様をそれほど真面目に信じ取るわけではないが、今回ばかりは彼らを呪ったぞい。こんな老い先短い老人ではなく、なぜまだ若く、子を産んだばかりの孫娘を殺すのかとな」

それは、兼一もまた抱いた怒りだった。
どうしてよりにもよって美羽だったのか。
子の成長を見届けられない母親、母の思い出を持たない子。
どちらも、あまりにも悲し過ぎるではないかと。

「じゃが、今はほんの少しだけ………感謝しておるよ。
 お主の様な若者と孫娘を引き合わせ、この老いぼれに最後の役目を与えてくれたんじゃからな。
 それならまぁ、神や仏とやらもそれほど捨てたものではないのじゃろうて」
「長老……」
「わしの全てを、お主に託す。翔がどの道を選ぶとしてもな。
 誰に伝えるも、どう使うかもお主の思う様にするがよい」

これが、数日前に長老と兼一との間で行われたやり取りである。
こんな話を聞かされては、連合の面々に異論などある筈もなし。

「ジーク」
「はい、我が麗しの魔王よ」
「兼一の脱会の手続きだ。明日の朝までに書類をまとめろ」
「………承知いたしました」
「わるいな、新島」
「へっ、別におめぇがいなくなっても連合はもう盤石よ。
 これで俺様の独裁だからな、かえって清々するぜ」

それだけ言って、新島は兼一に背を向けて歩み出す。
その背を追って、一人また一人と連合員達が立ち上がる。
その中には、兼一にとって戦友とも言うべき隊長達も含まれていた。

「ま、こっちのことは気にせず子育て頑張りたまえ、兼一君」
「そういうこった。おめぇの分まで俺達で何とかしてやっからよ」
「何言ってんだい宇喜多、アンタが一番心配なんだよ。なぁ、ボーヤ」
「その子の前で武の練磨はできんのだろう。なら、必要な時は声をかけてくれ。
 うちの道場でよければ、いつでも貸すさ」
「おしぃのぉ、お主の息子を弟子にして実戦相撲を極めさせようかと思うとったんだがなぁ」

口々にそう言って、隊長達も梁山泊を後にする。
兼一は知っていた。新島主導で、闇における「一なる継承者」と同じように隊長たち全員の武を一人の弟子に伝える計画がある事を。しかしそれも、兼一の離脱で白紙になるか、再考されることになるだろう。
特に、全てを伝える弟子の最有力候補が翔であったから。
その事を申し訳なく思いつつ、友人たちの配慮を嬉しく思う兼一だった。

「お兄ちゃん、ほのかは武術とか全然関係ないから、いつでも頼ってくれていいじょ」
「ああ、ありがとな」
「子育てにかまけて腕を鈍らせねぇ様に気をつけな。
 梁山泊を離れようが連合を抜けようが、てめぇを狙ってる奴は掃いて捨てるほどいるんだからよ。
 てめぇは俺が殺すんだ。その事を忘れんな」

そうして、ほのかと夏も去っていく。
夏の不器用な配慮に、兼一は苦笑しつつもよい友人を得たことを噛みしめる。

場所は移って新島の車。
一人で運転し家路を辿る彼は、誰も聞いていないこの状況でやっとその本心を吐露した。

「まったく、俺様も丸くなったもんだぜ。
 折角の手駒を、みすみす手放すんだからな」

自身の甘さに呆れかえるとばかりに、新島は肩を竦めてため息をつく。
兼一と関わって、彼も変わった。その変化を、彼もそう嫌っていはいない。

「まあ…………しゃーねーか。
 あんな奴でも、俺様の唯一の悪友(親友)だからな」



  *  *  *  *  *



それから4年の月日が流れた。
兼一は一人の幼児に急かされながら、買い物袋を手に駅前のアーケードを歩いている。

「父様、はやくはやくぅ!」
「ああ、分かってるよ翔」

それはだれの目にも微笑ましい、仲の良い親子の姿。
翔と呼ばれた幼児は跳ねるように歩き、兼一はその様子に穏やかに目を細める。

美羽が死んでからいくらかの時が流れ、翔もだいぶ大きくなった。
美羽の願いどおり、今のところ翔は武とは無縁の生活を送っている。
自宅に武にまつわるものはなく、テレビで武術関連の番組を見る事はほとんどない。
自然、翔は武に対して無知なまますくすくと大きくなった。
兼一が密かに、彼が寝静まったあと技を練磨していることも、彼はもちろん知らない。
翔にとって父はどこにでもいる普通の、ただし理想を体現したかのようなよき父だった。
写真や父とその友人たちの話の中でしか、翔は母を知らない。
母がいないことには寂しさがあるが、それも決して大きくはなかった。
祖父母と共に生活し、また叔母や叔父、父と母の古い友人達が訪ねてかまってくれることも理由の一つだろう。
時折母と共に歩く子どもをうらやましそうに見る事はあっても、我儘を言って兼一を困らせる事はなかった。
父が今は亡き母の分まで、惜しみなく愛情を注いでくれていることを何処かで理解していたからかもしれない。

何より、翔は父が大好きだった。
約束は必ず守り、その場しのぎの安易な言葉を使わず、決して嘘を言ったりはしない父。
優しく、いつでも柔和な笑顔を浮かべ、何があろうと自分を受け止めてくれる父。
時には厳しく叱りつけられることもあるが、翔にもわかる様に言葉を選んで伝える父。
幼いながらに、翔は父にあこがれた。大きくなったら父の様な大人になりたいと、漠然と翔は思う。

そんな感情が、兼一の周りを飛び跳ねるようにして歩く翔から見てとれる。
別に久しぶりの父の外出とかそういうわけではなく、極々日常的な買い物に過ぎない。
それでも翔は、こうして父と一緒にいられるだけで幸せだった。

「ねぇ父様、新しいご本はもう書けたの?」
「ん? ああ、出来たよ。今朝出版社……本屋さんに送ったんだ」
「へぇ、僕も読んでみたいなぁ」
「う~ん……翔には、まだちょっと早いかもしれないねぇ」

そんな会話をしつつ、兼一はにこやかに首を傾げる。
実際、兼一の執筆する本は幼児の翔にはまだ難しい。
何しろ主なテーマが「イジメ」だ。これはハードルが高い。

ただ、執筆活動は梁山泊を離れてから始めたわけではない。
実際、美羽が存命中にも執筆活動は細々とやっており、いくつかの小さな賞を取ったこともある。
だが、本格的に執筆に集中するようになったきっかけが、美羽の死だったと言うだけの話。

とはいえ、その頃と今で兼一の執筆内容は若干変化している。
その一つが、当時メインテーマの一つだった「武術」を取り上げなくなった事。
翔の周りから武術の気配を取り除くにあたり、兼一は武術をテーマにした執筆をしなくなったのだ。

それでも、武門に入る前の実体験を基にした兼一の小説はそれなりに売れている。
幼い頃からの夢だった直木賞こそ受賞していないが、今や知る人ぞ知る若手小説家として活動中だ。
まあ、さすがにまだこれ一本で食っていけるほどの収入にはならないが……。
しかし、別段これが本業と言うわけでもない。

今のところ、本業は新白を抜けた後に再就職したチェーンの園芸店だ。
駅前の小さな店だが、親切な接客と豊富な専門知識、そして取り揃えていない品でも数日のうちにとり寄せられる手早さが好評を博している。
なんでも高校時代の友人、泉が大手のメーカーに就職したおかげでそのコネもあり何かと恩恵を受けているらしい。また、利用者や主婦層の間では「軍手と作業着の似合う店員」としてちょっとばかし有名だったりする。

だが、武術とは無縁の生活を送るだけなら夏を頼ればよさそうなものと思わなくもない。
何しろ彼の表の顔は、大企業谷本コンツェルンの総帥。
しかも今やお飾りなどではなく、実際に辣腕を振るう経営者だ。
そのコネを頼ればもっと収入の良い仕事、高いポストに付く事も出来そうなものだが……。

しかし、実際の世の中とはそううまくはいかないもの。
まず、彼の性格を考えると素直に兼一を援助するとは考えにくい。
もちろんあれで情に厚い所があるので非常に徹し見捨てるとは考えにくいが、むしろ問題となるのは彼の裏の立場。表向きは大企業の総帥だが、その裏には闇の一影九拳が一人拳豪鬼神の一番弟子という顔がある。
如何に武術界を離れたとしても、活人拳の象徴たる梁山泊の一番弟子である兼一が夏の下に付くのは、色々問題があった。それをわかっていたからこそ、この4年夏は一切の援助を兼一にしていないのだ。

とはいえ、それでも兼一の手には職がありとりあえず食うに困る事もない。翔も元気にすくすくと成長している。
決して楽とは言えないが、父子家庭としてはおよそ順風満帆と言っていい生活を、現在の兼一達は送っていた。
未だに美羽を失った喪失感は大きく、胸に空いた空洞は小さくなる様子はない。
だがそれでも、人は生きていける。ましてや、支えねばならない家庭があれば尚更だ。
美羽が残した忘れ形見である翔を立派な大人に育てる、それが今の兼一の生きる指針。
同時に、彼の成長を見守る事こそが今の生甲斐と言っていい。

そんな事を再確認しながら歩く兼一と、そんな事はつゆ知らず父との時間を楽しむ翔。
そこでふっと視線を挙げると、電気屋のショーウインドウにいくつかのテレビが陳列されていることに気付く。
それ自体は何てことはないが、問題なのはそこに映っている内容だった。

兼一は思わず足を止め、その内容に耳を傾ける。
そこから流れているのは、昨日行われた新白連合も出資している総合格闘技、その王者決定戦後に行われた勝者へのインタビューだった。

『8度目のタイトル防衛おめでとうございます、水沼さん。
 総合格闘家としてデビューして以来無敗、いまや国民的ヒーローですね!』
『いえ、僕なんてまだまだですよ』
『おお、まだまだ向上心は衰えませんか! それが強さの秘密なんですね』

そこに映っていたのは、兼一にとってもなじみ深い人物。
かつては兼一同様いじめられ子だった水沼は、いまや新白を代表する格闘家として活躍している。
『表側の』と言う注釈こそ付くが、内閣総理大臣に匹敵する有名人だ。

幹部クラスは達人ばかり、表の世界ではその武を披露するのは憚られる。
その為、結果的に水沼達平隊員たちが表側での主力となった。
実際、水沼以外にも何人もの連合メンバーが格闘技の第一線で活躍している。

『では、この喜びを今どなたに一番伝えたいですか? やはり、先日生まれたお子さんでしょうか?』
『そうですね、正直「一番」と言うのは決められませんよ。
妻と娘もそうですが、恩師をはじめ伝えたい人は大勢いますから』
『恩師と言えば、先日二十番目の支部を開設した「鬼幽会」、その会長アラン須菱さんですね』
『はい、アラン先生の教えがあったからこそ、今の僕があります』
『ほぉ、たとえばどんな教えが心に残っているのでしょう?』
『そうですね……「強くなる方法なんて簡単だ、どんなに殴られても蹴られても、絶対に倒れなければいい」。
 この教えがあったからこそ、どんな窮地でも立ち上がり、戦えるんだと思います』
『そうですかぁ! では、やはり一番喜びを伝えたいのは恩師、と言うことになりますか?』

水沼の言葉に感動したのか、それとも単なるパフォーマンスか。
どちらにせよ、ショーマンシップに溢れた反応を返してくれる。
だが、最後の質問に水沼は僅かに押し黙り、ゆっくりと噛みしめるように慎重に返答した。

『………………いえ、それでも敢えて一人に絞るのなら、別の人です』
『おや、それはどなたですか?』
『その人は訳あって名前を出す事を望んでいません。なので、名前は秘密にさせてください。
 ですが、あの人と出会えたからこそ、今の僕がいるんです。今日にいたるまで、僕は何度も道を誤りかけてきました。でもその度に、あの人の存在が僕を正しい道に引き戻してくれました。
 あの人が、本当の勇気と強さを教えてくれたんです!!』
「どうしたの、父様?」

そこまで見たところで、翔が兼一の裾をやんわりと引っ張る。
兼一の意識はテレビから引き戻され、優しく翔に微笑みかけた。

「ん? ああ、ごめんよ翔。
ほら、うちのテレビもだいぶ古くなってきたし、新しいのに買い替えようかと思ってさ」
「ダメだよ! まだあのテレビ使えるもん! 物は大切にしなくちゃダメって教えてくれたのは父様だよ!!」
「そうだったね、ゴメンゴメン」

翔のちょっと背伸びをしたツッコミに、兼一は「してやられた」とばかりに頭をかく。
そうして二人は電気店を後にする。
いくらか歩いたところで、兼一は前を行く翔に話しかけた。

「そう言えば、そろそろお昼だね。どこかで食べて行こうか?」
「じゃあ僕、ハンバーグがいい!!」
「ははは、翔はホントハンバーグが好きだなぁ。じゃあ、いつものお店にしようか」
「うん♪」

子どもらしい元気な返事に、兼一は自身の幸せを噛みしめる。
美羽を失った時はもう笑えないと思った。涙が枯れる事はなく、枯れても血が代わりに流れると思ったものだ。
しかし、人は時間をおけば笑えるようになる。枯れない涙など存在しない。
失った空白はそのままに、それでも生きていけるのが人間と言う生き物だから。

同時に、兼一は口には出さず、心のうちで水沼の成功を讃えていた。
自身と違い、大切な物を失うことなく日々を生きる友を少しうらやましく思いながらも。

(違うよ、水沼君。僕は何もしちゃいない、君が今日ここまでこれたのは君自身の克己と努力の賜物だ。
 もし僕が何かしたとしたら、そんな物はきっかけに過ぎないさ)

もう何年もあっていない友人に向けて、兼一はそう思う。
兼一の決意を聞いて以来、水沼をはじめとした連合の一般メンバーは彼の前に立った事はない。
武田達幹部クラスだと、表の世界では名が売れていないおかげで、武を披露しなければ翔の前に出られる。
しかし、彼らは表の世界で名が売れてしまった。故に、翔の前に姿を見せないようにしたのだ。
その為、兼一は幹部クラスとは時折あっているが、新島とも全く会っていない。

それでも、かつての友人たちが壮健であるという知らせは兼一にとっても喜ばしい。
新島も、今では世界的企業に成長した新白連合の代表取締役としてメディアをにぎわしている。
隊長達も、風の噂では武術の世界でその名を轟かせているとか。
それらのことを思い返せば、自然と兼一の足取りは軽くなる。
翔はえらく上機嫌な父を不思議に思いながらも、そのまま兼一との外出を楽しむのだった。



ところで、突然だが達人と言う人種は埒外の生き物である。
双眼鏡でやっと見えるような距離にいる人物からの視線を感じ取り、時に音速さえ超えた動きが出来るのだから。
そんな物は、現代スポーツの常識からは到底考えられない。
だが、それができるのが達人と言う生き物だ。

彼らは敵意や殺気に敏感で、兼一クラスともなれば半径数メートルまで近づかれれば嫌でも刺客の存在に気付く。
しかし、ここでもしもの話をしよう。
もしも、相手に一切の敵意も殺気もなかった場合、彼らは突然の事態に対応できるのか。
そしてこの日、その「if」が現実の物となった。

買い物と食事を済ませ、二人は人通りも少ない路地を歩いて家路につく。
ただし、翔が今している事はあまりほめられたものではないだろう。
なぜなら翔は、肌着の下から何かを取り出し、それを夕日に当てながら眺めているのだから。

人通りが少ないとはいえ、歩道と呼べるものはない路地だ。
多少の余所見は誰でもする事だが、やはり推奨される類のことではない。
故に、兼一がやんわりとそんな翔を注意したのは当然のことだった。

「翔…ちゃんと前を見て歩きなさい。余所見をしてると危ないよ」
「あ…はい。ごめんなさい、父様」

父の注意に翔は素直に頷き、いそいそと取りだして眺めていた物をしまう。
それは、冷たい輝きを放つ虹色の立方体。
その頂点の一角には細い紐が結えられ、翔の首からペンダントの様にして下げられていた。

兼一がそのまま翔の手を差し伸べると、翔は満面の笑顔を浮かべながら父の下へと小走りに駆けてくる。
そこでふっと、兼一は唐突に翔の首から下げられている物の事を思い返し首をひねった。

(それにしても、アレっていったい何なんだろう?
 ガラス……のようには見えないし、だからって宝石とも違うんだよねぇ。
 長老が『御守りじゃ』って言ってたけど……)

そう、アレは翔が生まれてすぐに義理の祖父でもある長老から翔に送られた御守り。
由来を含め、一切の説明を為されずに半ば押し付けられたそれが結局何なのか、兼一も未だに知らない。
ただ、渡されたその時に『翔に肌身離さず持たせなさい』と厳命されただけだ。

長老の秘密主義は今に始まったことではないが、御守り程度にそれを発揮するのは少々不可解でもある。
何よりも、四年以上の時間が経った今でも何も教えてくれないとなると、兼一でなくとも何かいわくつきの品ではないかと勘繰りたくなるというものだろう。

だがそこへ、一台のトラックが突っ込んでくる。
普段の兼一であれば容易にその気配を察知し、難無く翔を含めて安全地帯へと逃れただろう。
それこそ、翔に自身の秘密を一切悟られることなく。
しかし、こうして思考の海に埋没していたことが災いし、兼一の反応が僅かに遅れた。

「……っ!? 翔―――――――――――――っ!!!」

兼一は大声をあげてトラックの進路上にいる翔を呼ぶ。
だが、4歳に過ぎない子どもにそれを回避する運動能力も判断能力もある筈がない。
翔は身を強張らせ、ただただ目の前に迫る巨大な脅威に身を竦ませる。

その瞬間、兼一の身体が爆ぜた。
兼一の一歩はアスファルトを蹴り砕くも、その反動を利用して翔のもとへ疾駆する。
そして間一髪、トラックが翔に触れるより刹那早く、兼一は翔を抱きかかえて進路上から外れた。

撥ねる対象を失ったトラックは、すぐ正面にある塀に激突し動きを止める。
殺気がなかったこと、平穏に浸り過ぎたことも、兼一の反応が遅れた原因だろう。
そんな自分に兼一は怒りを覚えるが、翔が無事だったことで一応は良しとする。
内心で、「こんな緩んでたところを師匠達に見られたら殺されるかもしれないなぁ」と思いながらも。
当の翔自身は何が起こったか理解しておらず、ただただ怯えながら兼一にしがみ付いている。

そんな翔の無事を確認した兼一は、とりあえず運転手の安否を確認するべくトラックに近づく。
怪我をしているなら病院に運ぶなり応急手当てをするなりする必要があると考えたのだ。
翔はまだ不安そうに兼一の裾に掴みついて顔を押し付け、離そうとする気配はない。
さすがに怯える我が子を引き離すのも気が引け、兼一は翔を伴ったままトラックの運転席を覗き込む。

「もしもし、大丈夫ですか?」
「んぁ、あいたたた………俺は、一体?」
(居眠り運転か、びっくりするなぁもう)

刺客の襲撃とかそういう類ではなかったことに一安心する兼一。
また、運転手も怪我はない様だし、これで大丈夫かと気を緩める。
だが実のところは、まだ何も終わってはいなかった。

そこで兼一は、自分達の周りを細かい粉の様な何かが舞い散っていることに気付く。
どうやら先ほどの衝撃で、荷台に乗せられていた袋が破けてしまったらしい。
その中身はなんの変哲もない小麦粉だった。

(あ~あ、もったいないなぁ……)

と、内心で食料となり得る小麦粉がごみに代わる様子を眺めていた。
しかしそこで、彼の鋭敏な耳が何かの音を拾い上げる。

音の発生源に目を向ければ、トラックのフロント部分からは火花が飛び散っていたのだ。
先ほどの衝突で、電気系統がショートしたのだろう。
そこで兼一の脳裏に、最悪の公式が出来上がる。

(空気中に拡散した小麦粉…トラックのエンジン部分で爆ぜる火花…………これってまさか、粉塵爆発!?)

そう、この二つが合わさって生じる物、その名を粉塵爆発。
空気中に飛散した可燃物に火がつき、一気に燃え上がることで生じる爆発だ。
その破壊力は、規模にもよるが十分人を吹き飛ばしミンチに変えることができるだろう。
それを理解してからの兼一の動きは、最速にして最善だった。

「すみません! 緊急事態なので我慢してください!!」
「な!? あ、アンタ何を!?」

兼一は即座にトラックの窓をぶち破り、その中にいた運転手を引きずりだす。
そのまま大きく振りかぶり、十数メートル離れた場所に向けて遠投した。

「出来れば受け身をとってください……………ぜぁっ!!!」
「お? ……ぉぉぉぉぉぉぉおぉぉおぉ!?」

無茶な要求をしている事は兼一とて理解している。
もしかしたら、受け身を取り損ねて骨折くらいはするかもしれないし、多少の擦過傷は免れないだろう。
打ち所が悪ければ、最悪の場合死ぬ可能性もある。
しかしそれでも、この場にいれば確実に彼の命はない。兼一に許された時間は、これ以外の対処を許さなかった。

(後は翔を連れてこの場を離脱すれば…………間に合うか!?)

兼一の判断と対処は、この状況下にあってこれ以上ないほど的確だっただろう。
だが、やはり気付くのがあまりに遅すぎた。絶対的に時間が足りない。
兼一一人なら回避するなりなんなりできただろう。あるいは、この場にいたのがそれなりに頑丈な大人だけなら、多少手荒でも助ける事は出来たかもしれない。

しかし、兼一が守らねばならない存在は、身体の出来上がっている大人ではないのだ。
その存在はあまりに脆弱で、先ほどの様な遠投に身体はきっと耐えられない。
爆発から逃れるレベルの速度で動いても、今度はその加速のGが翔の命を脅かす。
故に、兼一に取れる対処は一つしかなかった。

(せめて、翔だけでも……!!)

已む無く、兼一は翔とトラックの間に身体を入れ、爆発から息子を守る。
そのまま彼を抱きかかえ、死なない程度の速度でその場から離れようとした。
だが、兼一が翔を抱きかかえてその場を離れようとするより早く、火花が空気中の小麦粉に引火する。
火がついた小麦粉は一気に燃え上がり、半径2・3メートル範囲を飲み込んだ。
続いて、連鎖的にトラックのガソリンにも引火し、さらに爆発の規模は大きくなる。

それは、誰の目にも明らかな絶望的な光景だった。
生身で爆発にのみ込まれた二人が生き残る可能性は皆無に近い。きっと誰もがそう思う。
兼一であれば、あるいは爆発にも耐えられるかもしれない。
しかし如何な達人とはいえ、至近距離で爆発に巻き込まれれば無事では済まない。
ましてや、翔を守ってその爆発を受け止めたのだから。

こうして、白浜兼一と翔の親子は世界から消えた。
だが、どんな運命の悪戯か…この瞬間、二人が翔の胸元から生じた虹色の光に飲まれたことを誰も知らない。






あとがき

まず、全国の美羽ファンのみなさんにお詫びを。
いきなり美羽を殺してしまいました!? 「美羽以外とくっついてもいいんじゃないか」と思いつつ、「兼一のお相手は美羽以外いないよなぁ」とも思っているので、結局はこんな形に。
何と言うか………準ハッピーエンド? とりあえず、これなら他の誰かとフラグが立ってくっついたとしても合法ですよね? だって、結婚相手はもう他界してるんですし、あとは本人の心の問題なわけですし。
「めぞん一刻」の響子さんだって最終的には再婚してますしね。再婚ならどこにも角が立ちません、たぶん。

あと、兼一は一応かなりレベルの高い達人と言う扱いです。どの程度かは敢えて明言しませんけど。
リリなのとクロスさせるなら、最低でも達人じゃないと話になりませんしね。

まあ、転移の仕方がテンプレなのはご容赦いただきたいところですけどね。
さすがに、「武術の技を使ったら次元を超えました」とか「修業中に次元を超えた」はないでしょうし…………………………いや、あり得るのか? ただこの作品の場合、子どもである翔の前で武術的な事を早々起こすわけにもいかないので、やはりこの辺りが無難なんですよ。
その為には突発的かつ理不尽な事故じゃないといけなかったので、この形になっちゃったのです。

最後に、個人的には水沼は結構好きなキャラクターなので、割といい扱いになってます。たぶん、彼が一番等身大に近いんですよね。DofD初戦の彼は輝いていたと思います。アランのアレも好きですし。



[25730] BATTLE 1「陸士108部隊」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/02/28 00:44

次元世界の中心地、第一管理世界ミッドチルダ。
通称「海」とも呼ばれる次元航行部隊を統べる「本局」に並び称される、各世界の地上部隊を統べる「地上本部」が置かれた世界である。

それは、地球とは様々な面で異なる文化と制度の根付く地。
魔法技術の有無、質量兵器の扱いと認識、科学力のひらき、地球では架空の存在とされる異種族や魔法生物etc…。
挙げ出せばキリがないほどに存在する違い。

とはいえ、違う事ばかりというわけでもない。
世界が違い、歩んできた歴史が違い、文化と制度が違い、築き上げてきた物が違っても、共通するモノもまた存在する。そう、たとえば……人が住む地で陽が昇り、また沈みゆくのは変わらないように。あるいは、多種多様な労働を以って日々の糧を得て、大半の人々がささやかな幸せに感謝して眠りにつく事も、だ。
そして、この日も当然の様に夜明けとともに地平線から日が昇ろうとしている。

だがこの日、首都クラナガンからほど近い西部の市街地では、些細ながらも少々普段と違う出来事が起ころうとしていた。
寒くも暑くもない、誰もが一年で最も過ごしやすいと思うであろう時期のある夜明け。
早朝のジョギングを日課とする壮年の男性が、いつものように軽い運動に汗を流していた時。
彼はその道すがら、普段であれば見かけない“何か”を発見した。

「ん? なんだ、ありゃ?」

口を突いた疑問の声は、彼の視線の数十m先にある塊に向けられたもの。
ただし、それ自体は別段珍しいものではなく、彼に限らず誰もが普段からよく目にする“人間”という生き物のシルエットだ。彼も、それは遠目に見てすぐに判断することができた。

当然、そんな事に対して疑問の声を漏らしたわけではない。
はじめは酔っ払いが道端で寝ているのか、あるいは場違いなホームレスかと思ったのだが、様子が違う事にもすぐに気付く。なぜならその影の周りには、遠目からでもわかる鮮やかな赤が染み出していたのだから。

「おいおい……いったい何事だよ、こりゃあ? お前さん、大丈夫か!?」

それは一般常識としての正義感からか、あるいは緊急事態に対する反射的な行動か、それとも長年に渡って染み着いた彼の職業意識がそうさせたのか。いずれにせよ、彼は思わずペースを上げ、大急ぎで人影へと駆けよる。
当然、近づくにつれ人影の様子が明瞭になっていく。遠目には夥しい赤色の中に沈んでいるかと思ったが、そうではなかったことに男は安堵する。早朝からいきなり失血死の現場に立ち会うなど、幸先と縁起、そして後味が悪いにもほどがあるというものだろう。
あまり信心深くはない彼だが、こういう時は不信心者らしく都合よく彼が奉じる存在に感謝した。
“聖王”という、かつて実在した偉大な王様に。

「…………聖王さまに感謝、ってところか? こいつはよ。
 とはいえ、このまんまってわけにもいかねぇか。パッと見た感じ、背中の怪我よりも火傷の方が問題だな……」

別に医者というわけでもない彼だが、職業柄一般人よりかは医学的知識を持っている。
あるいは、救急救命の知識というべきだろうか? 彼の職場はそこまで荒事が多いわけでもないが、決して少ないわけでもない。若い頃、第一線に立って無茶もした彼にとっては懐かしくすら感じる傷が、駆けよった人物の背中には広がっている。
しかし、この場には専門の治療器具どころか、簡単な応急手当てができる程度の道具さえもない。
故に、彼は懐から常に持ち歩いている携帯端末を取り出し、慣れた手つきで自身の職場に連絡を取る。

「おう、俺だ! 朝っぱらからわりぃが、アシを用意してくれ。
 ああ、緊急事態だ! 道端に怪我して血を流してる野郎がいる。近くの病院まで距離もあるし、うちに運んじまったほうが事情を聞くにしても手間がなくて良いだろ。
あん? うちの専門は密売捜査だぁ? んなこたぁおめぇみたいな若造に言われなくてもわぁってんだよ!! 俺が何年この仕事やってると思ってんだ小僧!! いいからさっさとアシをよこせばいいだ、バァロウ!! 地獄の無限書庫に送られたくなけりゃさっさとしやがれ!!」

男は携帯端末に向けて散々怒鳴り散らし、受け手を怖れおののかせて通信を切った。
『地獄の無限書庫』、その職務のあまりの過酷さから、毎年必ず数十人単位で入院患者が出る部署である。
下手な前線部隊とは比べ物にならないそのハードワークは、陸海を問わずに有名だ。
よほど酔狂な者か、あるいは自殺志願者、それか相当に有能な人物でない限り志願しないとされる。
そんなところに送られると聞けば、大抵の人間は「勘弁してください」と泣きつくだろう。

「ったく、最近のわけぇ奴らは頭が堅ぇくせに根性がなくていけねぇや。
……にしても、この辺りで火事があったわけでもねぇのに、こいつはどうしたんだ?
つーか、よく鍛えてあるな。よく見りゃ結構わけぇし」

一通りの連絡が終わったところで、男は再度倒れ伏す人影に視線を向ける。
年のころは二十歳前後。眼は閉じられているが、人のよさそうな顔をした黒髪で中肉中背の青年だ。
その服の背中側は燃え尽き、背中には火傷と共にいくらかの破片が突き刺さっている。
その背中は突き刺さった破片や既に止まりかけている出血、あるいは火傷などでなかなかに無残な有様なのだが、それでもかなり鍛えこまれている事が一目でうかがえた。まあ、実際には鍛えこまれているなどというレベルではないのだが……。

だがそこで、男はあることに気付く。
まるでうずくまる様に四肢を曲げている青年の懐に、もう一つの人影があることに。

「こっちのちっこいのは………………………弟、か?」

そこにいたのは、彼と同じ色の髪を持ち顔立ちもどこか似たところのある、4・5歳ほどの幼児。
外見から推測した青年の年齢から、まだ子持ちではないと判断したのだろう。
少々年の離れた兄弟、それが壮年の男が見て取った二人の関係だった。
まあ、彼は母に似て童顔なので、そう勘違いしてしまったのも仕方がないだろう。

とそこで、突如青年が身じろぎする。
彼は唐突に男の腕を握ると、何事かをまくしたて始めた。

【お、お願いします! この子を、この子を助けてください!!
 爆発に巻き込まれて……御礼なら何でもします!! だから、だからこの子を!!!】
「お、おいおい、落ち着けって。俺は怪しいもんじゃねぇ、今傷の手当てができる場所に運んでやるから、大人しくしてろって。そこの坊主より、お前さんの怪我の方が明らかに深いんだからよ」

男はなんとか青年をなだめようとするが、それが伝わった様子はない。
それどころか、そもそも青年の発している言葉が男には理解できなかった。
どうやら、男の知る言語ではないらしい。
にもかかわらず、男は青年のイントネーションに言葉にできない懐かしさを覚える。

(言葉が通じねぇって事は、もしかすると………もしかすんのか?
 だが、それにしたってなぁんか聞き覚えがあるんだよなぁ、この発音。はて、どこだったか?)

首をひねるが答えは出ない。そうしている間にも青年は延々と何かをまくしたてているが、男としても言葉が理解できないのでは困り果てるばかりだ。
ただ、それでも伝わってくる物はある。青年の仕草と表情から、どうやら彼の懐で眠り続ける幼子の事を必死に訴えているらしいことは、なんとなく理解することができた。

(よほど、この坊主の事が大事みてぇだな。さっきの様子だと、こいつの背中の傷はこの坊主をかばってついた傷か。わけぇのに、良い根性してんじゃねぇか)

それは、彼もまた二児の父親であるからこそ理解できたことなのかもしれない。
同時に、男は身を呈して幼子を守ったであろう青年に好感を抱き口元に笑みが浮かぶ。
身を呈して誰かを守る、言葉にするのは簡単だが誰にでもできることではない。
その事を、長い年月様々な人間を見てきた彼は良く知っている。
故に、彼はそんな青年を少しでも安心させようと、通じない言葉に精一杯の思いを乗せて紡ぐ。

「安心しろ、その坊主は俺が責任を持って保護する。もちろんアンタもだ。
 最高の治療を受けさせて、必ず元気に、傷一つ付けずにアンタへ返す事を約束する。
 いや、これも何かの縁だ、アンタと一緒に身の安全と今後の生活は俺が保証する。
 この俺の名と首にかけてな。だから、アンタも今はゆっくり休みな。
それにアレだ、そうじゃねぇと死んだカミさんがこぇしよ」

最後は若干冗談めかしたが、男なりに有りっ丈の想いと誠意を込めて紡いだ言葉だった。
その真摯な気持ちが通じたのか、青年は瞳のうちに安堵の光を宿し再度気を失った。

「さて、ノリで結構言っちまったが、まあしゃーねぇわな。
……っと、ギンガの奴にも連絡しとかねぇと。場合によっちゃ、しばらくうちで預かることになるんだからよ」

そして、彼は再度取り出した携帯端末で自宅と連絡を取る。
連絡を受けた愛娘の片割れは大層驚いていたようだが、彼の語った可能性に快く頷いたのだった。

その後、駆けつけた緊急車両に青年と幼児を乗せ、彼は一足早い出勤を果たす。
こうして、兼一と翔の父子は無事保護された。
壮年の男性、「ゲンヤ・ナカジマ」が部隊長を務める「陸士108部隊」へと。



BATTLE 1「陸士108部隊」



兼一達がゲンヤに保護されておよそ一時間後。ようやく兼一の意識が戻ろうとしていた。
たかがあの程度の負傷でこれだけの時間兼一が意識を失うなど、本来であればありえない。
しかし、慣れない事態が思いのほか身体に負担をかけていたのか。
これだけの時間、彼は意識を失っていたのである。

そして、兼一が目を覚ますと、まず目に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
だが兼一はそんな些事に構うことなく、彼にとって最も大切な存在の安否を確かめるべく視線を巡らせる。

(翔、翔はどこに!?)

軽く視線を巡らした限りでは翔の存在は確認できない。気配もまた同様だった。
彼ほどの達人となれば、今いる部屋の内部にいる者の気配くらいはどれだけうまく隠しても見逃すことはない。
ましてや相手は幼児、気配の隠し方すら知らない相手だ。それも自分の息子。
兼一に限って、翔の気配を見逃すことなどあり得ない。
それはつまり、この場に翔がいないことを証明していた。

故に、兼一の焦りは助長される。
とはいえ、兼一はそれを即座に深く呑み込み冷静な思考力を取り戻す。
優れた静の武術家である彼にとって、感情を呑み込む事は最早条件反射の域にあるのだから。

元より、ここが見覚えのない場所である事は気付いていた。単に、それの優先順位が低かっただけに過ぎない。
翔の安否を確かめる為には、まずここがどこで、どんな構造をしており、翔がどこにいるのかを知らねばならないと、彼は焦る気持ちを抑えながら思考を巡らせる。

兼一は特別頭が切れるわけではないが、だからと言って頭が悪いわけでもない。
そこそこの知性と、踏んだ場数の多さが彼にその判断を下させた。

とはいえ、なんの情報源もない状態でそれらの情報を得ることは不可能。
そこで、彼は手近なところにいた白衣の男性…恐らくは彼を治療したであろう人物に問うた。

「すみません、僕と同じ髪色の4・5歳位の男の子の事を知りませんか?
 僕と一緒にいた筈なんですが、見当たらないんです」

兼一はできる限り丁寧に男性に尋ねる。
状況から判断し、自分達をこの場所に収容したのは彼かその関係者に他ならない。
敵、という可能性もなくはないが、治療を施されている事実がその可能性の低さを証明している。

何より兼一の敵であるのなら、あまりにも無防備過ぎると言わざるを得ない。
兼一の事を知っているのなら、せめて達人級の者を数名配備し、なおかつ全身に拘束を施し、その上で厚さがメートル級の鉄板やコンクリートで封鎖した牢獄に放りこんでいる筈だ。
達人、それも梁山泊に名を連ねるほどの達人となれば、その程度は最低条件。
それをしていない時点で、彼やその関係者を敵と判断するのは早計と、兼一は理解していた。

【ああ、気付きましたか。とりあえず落ち着いてください。いま、先生を呼びますから】
(え? この人は、いったい何を……こんな言葉、聞いたことがない。ここは、日本じゃないの?)

しかし、兼一の言葉は一向に彼に伝わった様子がない。
いくら話しかけても芳しい答えは返ってこず、それどころか彼の言葉がそもそも兼一には理解できない。
兼一はこれまで、多種多様な人種と戦い、様々な土地に行った事がある。
にもかかわらず、その経験のどれを引き出しても、こんな言葉を使った者はいない。

まだ知らぬ言語を使う相手、というのはいるから別にそれ自体は大きな問題ではないだろう。
だが、それが日本で使われているというのが異常だ。
兼一達は、あの爆発に巻き込まれるまで日本にいたのだから。
日本で使われる標準的な言語は、当然日本語である。にもかかわらず、その日本語が通じないという事実が、兼一の頭を混乱させる。
いくら感情を深く呑み込み、冷静な思考を心がけても、出ない答えは当然でない。
なぜなら、それは大前提が違い、そもそも彼の想定している事態から大きく逸脱しているのだから。
それは、当然と言えば当然のことだった。

しかしそこで、兼一にとっての救いの女神が現れる。
混乱する兼一を余所に、白衣を着た男は手に持った通信機と思しき道具を取り出す。
だがそれを起動する直前、兼一の視界の端にある扉がスライドし、非常に若い朗らかな女性が姿を現す。

【どうですか、あの人は目を覚ましました?】
【ああ、先生ちょうどいいところに。たった今お呼びしようと思っていたところなんですよ】
【あら、それならいいタイミングだったみたいですね】
【そうですね。ただ私は魔導師じゃありませんし、言葉が通じなくて困ってたんですよ】
【まあ、それは仕方ありませんよね。それじゃあ、ここからは私に任せてください】
【お願いします。後ろで見学して、勉強させていいただきますよ】
【はいは~い♪】

その人物は、大きめのリング状のピアスをつけ、ショートボブにした薄い色の金髪が特徴的な、白衣を着こんだほんわかとした女性だった。明らかに目の前の男性より若いのだが、彼女を見た男性の敬意に満ちた反応からして、彼の上役に位置する人物なのだろう。兼一は僅かに呆気にとられながらも、頭の片隅でそう考えていた。
その女性は軽やかな足取りで、それこそ実に機嫌が良さそうな笑顔のまま兼一の前に立ち、口を開く。
そこから紡がれたのは、先ほどまでの聞き慣れぬ言語ではなく、彼にとってとてもなじみ深い……日本語だった。

「気がつかれたんですね。御身体は大丈夫ですか? “白浜兼一”さん」
「え? ぼ、僕の事を知ってるんですか!?」
「ああ、ええっと……ごめんなさい」
「へ? えっと、何がでしょうか?」

突然謝られたことに驚き、明らかに困惑する兼一。彼からすれば、いったいなぜいきなりこんな美人に謝られなければならないのか、皆目見当がつかずに困ってしまうのも当然だろう。
しかし、謝るからには当然それ相応の理由があるわけで……。

「実は、手荷物から身分を証明できる物を拝見させていただいたんです。
 あ、こちらですね、お返しします。と、一応中身を確認してください、足りない物とかはありませんか?」
「あ、ああ、そういう事でしたか。それでしたらお気になさらないでください。
 どこの誰とも知れないと、あなた方としても困るでしょうし……」
「はい、まぁそうなんですけどね。ですけど、それでもやはり勝手に手荷物を検めるのは失礼でしょう?
 事後承諾って言うのは悪趣味ですけど、許していただけると幸いです」

金髪の女性は、困ったようにそう付け足した。
だが、実際問題として運び込まれた人物が何者かわからないのは非常に困る。
もし犯罪者や指名手配犯の類だとしたら、警察に通報もしなければならないのだから。
あるいは、手荷物の中に危険物がないか確認しないわけにもいかない。
いくら怪我人とはいえ、無条件に受け入れるわけにはいかないのである。

兼一もそのあたりは承知しているので、手荷物の中身を確認し、無くなった物がない事が分かると笑ってそれを許す。怒る様な事ではないし、何より相手の立場を鑑みれば当然の対処なのだから、怒る方が筋違いである。
とはいえ、兼一としてはそんな事よりも大事なことがある。
言葉が通じる相手がいるのなら、聞かねばならないことがあるのだから。

「すみません、僕と一緒に男の子が運び込まれませんでしたか?
 4・5歳位の、黒髪の男の子なんですけど……」
「ああ、あの子でしたら今は検査室で精密検査の最中ですよ。
 怪我らしい怪我はありませんでしたけど、念の為に」
「あ、そうでしたか。ありがとう、ございます」

女性のその言葉に、兼一の顔にようやく安堵に緩む。
相手が如何に医者っぽい恰好をしているとはいえ、分からないことが多い状況で相手の言葉を真に受けるのは少々問題がある。しかし、根っからのお人好しである兼一は、基本的に他人を疑う事をしない。
故に、彼は目の前の女性の言葉を疑うことなく信じていた。
まあ、実際に本当のことなのだから特に問題はないのだが……。

「心配でしたら、一緒にいらっしゃいますか? ご案内しますけど……」
「是非お願いします!!」
「ふふ、分かりました。でもその前に……」
「え? な、なんでしょうか?」

兼一にとって、女性の申し出は渡りに船だった。当然、迷うことなく兼一はその申し出を受ける。
だがそこで、女性は立てた人差し指を兼一の口元にやり、優しい笑顔を浮かべながらやんわりと待ったをかける。
兼一としては早く翔の安否をその目で確認したいし、気持ちが逸ってしまう。
故に、彼は失念していた。翔だけでなく、自身もまた爆発に巻き込まれたのだという事を。

「あなたの包帯を取り換えさせてください。あまり深い傷ではありませんでしたけど、そろそろ新しいのに交換した方がいいでしょうからね。裂傷に打撲、何より火傷がちょっとひどかったんですから」
「あ、そ、そうでした、よね?」

そこに来て、兼一はようやく自分の状態を冷静に確認する。
全身、特に背中側を包帯でグルグル巻きにされ、塗り薬か何かの匂いが鼻を突く。
節々に僅かな痛みを憶え、特に背中には鈍い痛みが残っていた。
まあ、この程度の痛みは彼にとって慣れた物なので、さして気にならなかったのだろうが。

「もしかして、僕の治療も?」
「ええ、私がさせてもらいました。どこか違和感はありませんか?
 一通り治療しましたし、お薬も塗ったので大丈夫だと思うんですが……」
「御蔭さまで、少し痛みが残っている以外は特に……」
「そうですか、よかった♪
 治癒をかけたんですけど、考えられないくらいに治りが良くて逆に心配だったんですよ♪」

兼一の言葉に、女性は我がことのように喜んでくれる。
これでは傍から見ると、治した方と治してもらった方、立場が逆に見えてしまうのではないかというくらいに。

同時に、兼一はそこで引っかかるものを感じた。
しかし、まだ目覚めたばかりで覚醒しきっていないのか、単純にそれほど優先順位が高くないと思ったのか、ひとまずその事はスルーする。

「では、こちらに背中を向けてください」
「あ、はい。お願いします」
「は~い♪ あ、そんな緊張しなくていいですからよ、すぐに終わりますからね」

そうして、一端先ほどまで寝ていたベッド近くの診察台へと移動する兼一と金髪の女性。
よく見れば相手の若さが際立つ。兼一よりいくらか年下で、恐らくは二十代前半だろう。
これでは、医師としては明らかに新人とかそのあたりの筈。
にもかかわらず、先ほどの男性は彼女の診察を後ろで真剣に見つめている。
まるで、「勉強させてもらっている」かのように。まあ、実際そうなのだが。
その事を不思議に思う兼一だが、それだけ有能な女性なのだろうという事で納得する。

「フンフン、いい感じですね。傷もほとんど消えてますし、これなら入院の必要もないかしら?」
(………………あれ? 裂傷に火傷をしてたんだよね? いくらなんでも、傷がそんなに早くなくなるかな?
 そりゃ内功は練りに練ってるから治りは早いけど、いくらなんでも早すぎるような……)

そのことには疑問を覚えつつ、兼一は背中を這う細く冷たい指のむず痒い感触に耐える。
昔の彼であれば、恐らくは真っ赤に赤面していたであろうそれも、今となってはそれほど動揺しない。
何しろ、彼とて曲がりなりにも既婚者だ。いちいち、この程度のことで動揺する程ウブではない。

「それにしても、本当に治りがいいですねぇ……こんなに効きの良い人は、私もはじめてですよ。
 背中の筋肉の発達の仕方もすごいですし、鍛えてるんですか?」
「えっと…………少し」
(明らかに「少し」じゃないけど………患者さんのプライバシーに無闇に踏み込めないわよね。
 今日初めて診た相手とじゃ、信頼関係も何もないし……)

兼一は知らない事だが、この女医も長年の経験と勘の持ち主だ。医師として、あるいは騎士として。
そんな彼女の眼から見ても、兼一の身体の出来は尋常なものではないのは明らか。
撫でるように優しく触れた指先に伝わってくる感触は、しなやかで弾力に富んでいる。
今まで様々な人体に触れ、診てきたが、過去例をみないほどの、至高の肉体がそこにあった。

故に、兼一の言葉があまり正しくないこともすぐに理解できる。
ただ、兼一の声音からあまり詮索されたくないという様子を感じ取ったらしく、それ以上の深入りはしないが。

とそこで、兼一はそういえば相手の名前すら知らなかった事を思い出した。
タイミングを逃した感じもするが、背中の処置を終え正面から向き合ったところで、兼一は思いきってきりだして見ることにする。さすがに、背中を向けたままというのは間が抜けていると思ったのだろう。

「あの、そう言えば先生のお名前は?」
「え? あ、そう言えばまだ名乗ってませんでしたっけ。
ごめんなさい、私ばっかり白浜さんの御名前を知っているのは、あんまり気分は良くないですよね?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
「では、改めまして……私はこちらに研修に来ている『八神シャマル』と申します。
 よろしくお願いしますね、白浜兼一さん」
「あ、はい。よろしくお願いします、八神先生」
「いいですよ、シャマルで。
私、家族と同じ職場にいる事が結構あるんで、姓だとごっちゃになっちゃいますから」

かしこまってシャマルの事を八神先生と呼ぶ兼一に対し、シャマルは苦笑しながら軽く訂正を求めた。
実際、彼女の事を知る人たちは彼女を「シャマル先生」と呼ぶ。
彼女はその立場と経歴上、同じ「八神」の姓を名乗る家族と共に仕事をすることが多いのだ。

「あの、それなら『シャマル先生』で、いいですか?」
「はい♪ それでお願いしますね。さて、処置も終わりましたし、あの子の所に行きましょうか」
「はい、お願いします」

そうして、兼一はシャマルに先導されながら医務室を後にする。
ただ医務室を出る間際、兼一はあることに思考を巡らせた。

(ハーフ、なのかな? 「八神」は日本人の名前だし。
 だとすると、最初に話した人は留学か研修を受けにきた外国の人?
 それなら、一応筋は通るよね。じゃあ、シャマル先生はあの人の指導医ってところかな)

なんとなく、シャマルと先ほどの男性の立場をそう類推する兼一。
シャマルは自分が「研修に来た」といった。「受けにきた」ではなく。
それはつまり、研修を「する側」という事なのだろう。
つまり、先ほどの男性に日本語が通じなかったのも、単に海外から来てまだ不慣れなだけ。
兼一は、そう判断したのだ。

その後、兼一はシャマルに案内されて検査中の翔の様子を見て、その安全を確認することができた。
とはいえ、翔の検査はもう少しかかるらしく、その間シャマルは兼一の話し相手を買って出る。
兼一としては状況を把握するためにも有り難いと思う、実際いま兼一達が置かれている状況はわからないことだらけ。如何に優れた静の武術家といえど、動揺もあれば不安もあるのだから……。

「それにしても白浜さん、本当にあの子のことを心配してらっしゃったんですね。
 あの子、翔君…でしたっけ? 彼の顔を見たときの白浜さん、ホントに泣きそうでしたよ」
「あ、あははは、みっともないところをお見せしてしまいまして……」
「いえ、別にからかってるわけじゃないんですよ。アレだけ誰かのことを思えるって、とても素敵な事じゃないですか。私にも、いるんですよ。とても、とても大切な女の子が。
 あの子に何かあったらって考えると、地面がなくなって真っ逆さまに落ちるみたいに……不安になるんです。
 だから、白浜さんの気持ちも少し…………………分かります」

二人は手近なベンチに座り、紙コップに入ったコーヒーを飲みながら他愛もない話をする。
笑うのを抑えるように語るシャマルに対し、兼一は恥ずかしそうに頭をかきながら応じていた。
彼としては、翔のことを心配するのは当然にしても、それを初対面の相手に見られたのが恥ずかしいのだろう。

しかし、シャマルとしては兼一の様子は好ましかった。
アレほど誰かを想い、自分の事よりもその相手のことを優先する在り方は、本当に好感が持てる。
また、一児の父として、一人の自立した大人としての自分を持つ兼一の雰囲気は、シャマルにとっても心地よい。
それは、まだ彼女の主やその友人達が持たない、成熟した空気だから。

「あの、シャマル先生」
「はい?」
「僕だけ名前で呼ぶのも変な感じですし、僕の事も兼一で結構ですから」
「ああ、そうですか? それなら遠慮なく、『兼一さん』と」
「ええ、それでお願いします」

二人は笑顔を浮かべ、中庭の見える窓から外の景色を見る。
兼一は心配の種が一応は無くなったことでリラックスし、シャマルもちょっとした休憩時間に身体を休めていた。
とそこへ、シャマルの方へ誰かが通って来て何事かを話しかける。
その人物の恰好はシャマル達の様な白衣ではなく、軍や警察の制服に似た印象があった。
だがその内容は、再び兼一には理解できない言語によって行われる。

【シャマル先生、部隊長がお呼びです。そちらの方もご一緒にと】
【ええ、分かりました。できるならもうちょっと落ち着いてからゆっくり事情を説明して、それからの方がいいと思ったんだけど……】
(また知らない言葉だ。なにを……話してるんだろう?
 ここでは、日本語が標準じゃないのかな?)

形の良い指を細い顎に当て、思案するシャマルの様子を見ながら兼一は首をひねる。
シャマルが日本語を話したことでここが日本に違いないと確信していた兼一だが、その確信が揺らぐ。
まるで、彼女がたまたま日本語を話せているかのような気がしてならないのだ。
しかし、そうしている間にも二人の会話は続いていく。

【申し訳ありません。部隊長には、そうお伝えしましょうか?
 シャマル先生の判断でしたら、部隊長も任せてくださると思いますけど】
【……………………………いえ、ナカジマ三佐もお忙しいでしょうし、あまりのんびりもしていられないでしょう? 道すがら説明することにしますね。三佐には、「少し遅くなります」と伝えてください】
【承知しました。では、自分はこれで!】

その人物はシャマルに向けて敬礼すると、そのまま何処かへと駆けて行く。
本来であれば足など使わずに通信でも使うところなのだが、すでに兼一のおおよその事情に察しがついているが故に、そう言った手段は控えるように厳命されているのだ。
彼の様な立場の人間が近くにいる時は、あまり刺激の強いものは使わない方がいいだろうという配慮である。

「あの、兼一さん。申し訳ないんですけど、こちらの代表の方がお会いしたいと仰っていまして、お付き合いくださいますか?」
「あ、はい、それはいいんですけど………さっきから使われてる言葉は、いったい?」
「やっぱり、そうなんですね。そのことも含めて、道すがら説明しますから、ついてきてください」

そうして、シャマルは再度兼一を先導しながら歩き出す。
その中で、兼一は思いもしなかった事態になっている事を知るのだった。



  *  *  *  *  *



目的地への道程でシャマルから聞かされた話は、非常識な事には大概慣れたつもりだった兼一をして、混乱の崖から叩き落とすに足りるものだった。
それはそうだろう。何しろそれは、今まで見たことも聞いたこともない世界の話だったのだから。
とはいえ、混乱や驚愕することにかけては慣れっこの兼一だけに、割とリカバリーも早い。
何が言いたいかというと、「そういう事もあるだろう」と諦めてしまえるのだ。

「異世界……ですか?」
「はい、ここは第一管理世界ミッドチルダ、その首都クラナガンの西部近郊を管轄する陸士108部隊の敷地内にある病院なんです。警察病院、みたいなものですね
あなた達二人は、今朝ここからほど近い市街の道路で倒れているところを発見され、こちらに搬送されました。
その際、未知の病原菌などがないか検査し、その上で殺菌・消毒させてもらっています」
「もしかして、翔が受けていた検査が……」
「はい、それも含めて、ということになります。管理外世界には、こちらには存在しない菌やウイルスがいる場合があるので、バイオハザードを防ぐために必要だったものですから」
「あ、いえ。詳しいところは良く分かりませんけど、それは…別に……」

シャマルはできる限り丁寧に、なおかつ噛み砕いて兼一達の身に起こった事態を説明してくれる。
普通に考えれば眉唾なそれも、シャマルの真摯な態度と提示されたいくつかの証拠により、否定することはできなかった。何より「異世界」という言葉を持ち出せば、説明できることが多すぎる。
現代の地球の科学では不可能な筈の、SFとしか思えない空中に浮かぶモニター。どこかの小説の中にしか存在しない筈の、蒼天に浮かぶ二つの月。なにより、彼をしてありえないとしか思えない、もうほとんど消えてしまった爆発の傷痕。
どれもこれも、地球以外の場所であることやその技術を用いているとなれば、説明はつく。
単に、「地球ではありえないから」というものに過ぎないが。

「でも、だとしたらなぜ、僕たちはこの世界に?」
「おそらく、これが原因です」

兼一の問いに対し、シャマルは白衣のポケットから小さな透明なビニール袋を取り出す。
その中に入っていたのは、砕け散った虹色の破片。
だがそれは、兼一にとってよく見慣れたものだった。
なぜならそれは、翔が片時も離すことなく持ち続けた、長老から与えられたお守りだから。

「それ、は……」
「これは、あなた方が発見された場所で回収した物です。おそらく、これが原因でしょう。
解析してみたところ、通称『虹の渡り橋』と呼ばれるロスト・ロギアであることが判明しましたから。
まあ、実際にはロスト・ロギアというほど大層なものではないんですけど……一応区分としてはそうなります」
「虹の、渡り橋? ロスト・ロギアって……」
「まず、ロスト・ロギアから説明しますね。
噛み砕いて言うと、滅んだ文明の遺産です。ただし、高度に発達し過ぎた、という言葉がつきますけど」
「発達し過ぎた…ですか?」

シャマルの言葉に、兼一としては首をひねるしかない。
別に高度に発達した技術を有した文明が滅ぶ事自体は何てことではない。
形ある物は崩れ、生ある者は死ぬ。これは自然の摂理であり、どうやっても覆らない定律だ。
だがシャマルの言葉は、まるで発達し過ぎたが故に滅んだと受け取れる。
そして、それはそのものズバリだった。

「発達し過ぎた技術や文化は、時に人の手に余ってしまうんです。御しくれなくなる、と言ってもいいですね。
 技術や文化を使うのではなく、使われてしまうんです。
その結果歯止めが効かなくなり、後は…分かりますよね?」

それは、武術にも言える事。「何かの為の力」を求めた者が、いつしか「力の為」に動くようになる。
その先にあるのは修羅道。そして、果てにある物は「破滅」だ。
ブレーキの壊れた暴走列車の如く、いずれはレールを外れて奈落の底へ真っ逆さま。つまりはそういう事だろう。

「文明は滅んでも、その遺産は今も残っています。
滅んだ世界の遺産ですからね、危険の物も多いんです。それらを回収・管理、時に封印しているのが私たち『時空管理局』、ということになりますね」
「時空管理局?」
「言ってしまえば、警察みたいなものですよ。
いえ、兼一さんの感覚ですと、国連とその軍隊といった方がいいのかしら?
広い次元世界の治安を守り、各世界を崩壊させないように時に仲立ちになり、時に戦力を行使する。
そういう存在です。もちろんそれだけじゃないんですけど、細かく説明すると長くなりますから……」

それでも、なんとなくのところはわかる。
まさにシャマルの言った通り、国連とその軍隊。治安維持と各世界の存続の為に存在する組織。
本質はどうあれ、その建前と末端部分の人間はそういうことになっている。
もちろんきれいごとで済む事ばかりではあるまいが、それでもこうして曲がりなりにも世界を維持できている功績は評価に値するだろう。

世界を管理すると聞くと傲慢にも聞こえるが、その実態もなにも知らない兼一に口を挟めることではない。
ただ、そうなってくると一つ気になる事があった。

「ロスト・ロギアを回収するって言いましたよね。それって、危険な物は問答無用で?」
「……………難しいところですね。正当な所有者がいない物ならそれでいいんですけど、場所や相手によっては、それだと角が立つ場合があります。私たちから見れば危険極まりない物でも、その世界の人にとってはとても大事だったり、本当に必要な物だったりすることもありますから。
 そういった場合には、引き渡しの交渉をして、ダメな場合にはこちらから局員を派遣して監視する、という形をとっています。基本的に、管理世界の間ではそういう条約が結ばれてますからね。
 管理外世界の場合、持ち出せない時はやはり局員を派遣して監視、有事の際には動く事になります」

この方法の場合、どうしても手遅れになりかねないリスクが付きまとう。
しかし、曲がりなりにも世界の管理を謳うのなら、あまり強硬な手段に出てばかりはいられない。
それでは、各世界からの支持を失ってしまうからだ。
それでは本当に一大事の時に、各世界と連携して共同で事態に当たる事が出来ない。
多少のリスクには目をつぶっても、各世界が協調するための触媒としての地位は保たねばならないのだから。

「管理外世界、というのは?」
「その名の通り、管理局の管理を受けていない世界です。もうちょっと詳しくするなら、ロスト・ロギアの扱いをはじめとしたその他諸々の条約に批准していない世界、ということになりますね。
 まあ、国連に加盟している国とそうでない国、くらいの感覚でいいですよ」
「僕のいた世界は、当然……」
「管理外世界です。今のところ、地球はまだこちらの世界の技術水準に追いついてませんから、『条約に批准するも何もない』というのが実情ですけどね。
 こちらから技術提供することもできますが、それは地球の文化や文明を悪戯に乱すだけ。それでは地球が地球である個性が失われてしまいます。なにより、管理局の存在を世界レベルで突然知れば、混乱は必至です。
 そんな事になれば、最悪地球内部で第三次世界大戦が起こりかねませんよ」
「そう、ですよね。急な変化は、きっと受け入れられないでしょうから」
「はい。管理局もそのあたりは慎重でして、こちらの存在に気付く事が出来たら存在を明かす、というスタンスでいます。条約の批准とかそういう難しい話は、すべてその後にくる問題ですよ」

もしかしたら、過去にそう言った事があり、その手痛い教訓があってそのスタンスをとっているのかもしれない。
ただ兼一としては、シャマルの言う様に悪戯に地球の文化が乱されないのなら、管理外世界という扱いでいいと思う。彼もまた、「武術」という文化を現代に残す、ある種の伝統技能の継承者なのだから。
いや、いっそ「文化人」と言ってしまってもいいかもしれない。こと、武術という文化において彼ほどの人物はそういないのだ。何しろ文化人とは「文化的教養を身に付けた者」を指す。
武術もまた一つの文化。なら、言いすぎという事もあるまい。

かつて、鎖国していた日本が開国した折、西洋の文化が一気に流れ込みそれに染め上げられたように、管理世界の技術や文化に染め上げられ、彼の愛する武術が霞んで行くのは忍びなかった。
新しい物を取り入れ進歩するのはいい事だが、古き良き物を残すのも、その世界に生を受けた者の務めだから。
ならばゆっくりと、身の丈に合った速度で追い付き、いずれ管理世界と呼ばれる世界達と肩を並べればいい。
技術や文明のレベルでは劣っても、地球には地球にしかない素晴らしい文化があるのだから。

(第一、無理に管理局の一員にならなきゃならない理由も、特に思いつかないしね)
「また、管理世界と管理外世界を分ける顕著な特徴として、魔法の存在があります」
「魔法、ですか。SFなんだかファンタジーなんだか、よくわからない世界観ですね。
 あ、もしかして僕の背中の具合がいいのって、そのおかげですか?」
「はい、まぁ…………………………あの、さっきから思ってたんですけど、兼一さん、あまり驚かないんですね。
 普通、こういう話をされたら驚くか疑うかするんじゃないですか? 管理局でも、兼一さんみたいな人に対してどうやって信じてもらえるかを、マニュアルで懇切丁寧に指導してるんですよ」
「えっと、こういう時はとりあえず『聞くだけ聞いてから』ということにしてるんです。
 別に、命にかかわる危険な所に放り込まれるわけじゃありませんしね」
「は、はぁ……」

兼一の言葉に、シャマルは若干呆れ気味だ。
だが、別に魔法が存在するからといって今すぐ命の危機があるわけではない。
若い時分、連日の様に命を狙われ、当たり前のように命懸けの修業をしていた彼からすれば、「命懸けの状況に放り込まれない」だけ気楽なものだ。
『魔法が存在します』と『命を狙われています』であれば、当然後者の方が受ける衝撃と問題は大きい。
何しろ、常識の崩壊と命の危機、どちらが深刻かと問われれば後者だからだ。
生きてこそ常識も意味がある。しょっちゅう命の危機だった兼一にとって、今更多少の常識の崩壊などたいした問題ではない。

(だって、僕の常識なんてもうとっくの昔に散々壊された後だしねぇ……)

どこかうつろな目で、兼一は内心でそう呟く。
実際、一般人でしかなかった彼の常識は、武術の世界にどっぷりつかったことで崩壊済み。
一度壊れた物がもう一度壊されても、一度目ほどの衝撃はない。
単に、それだけの話である。

「と、とりあえず、これがこちらの世界の大雑把な概要です」
「シャマル先生以外の人の言葉は全く聞き覚えがなかったんですけど、やっと合点が行きました。
 あれ? でも、なんでシャマル先生は日本語を?」
「あ、私以前地球…というか日本で暮らしてたんですよ。その際に読み書き会話は一通り。
 兼一さんの荷物から多分日本人だろうなぁと思ってそう報告したので、とりあえず私が担当に」
「そうだったんですか。とすると、運が良かったんですね、僕たち。異世界に飛ばされて、そこでこっちの事を知っている人に出会えたんですから。でも、どうして日本に?」
「色々と、ありまして……」

兼一の問いに、シャマルはただ困った笑みを浮かべるだけだ。
彼女とその家族、そして主の事情を説明するとなると少々面倒と言わざるを得ない。
兼一としても無理に聞きだす気はないし、そんなリアクションを取られては聞きづらい。
何より「また僕余計なこと聞いちゃった!?」と、自分の悪癖を後悔している真っ最中だったりする。

「話を戻しますけど、兼一さん達をこちらに飛ばした『虹の渡り橋』ですが、アレはこちらの世界で古代ベルカと呼ばれる時代に、権力者の避難用に造られた道具なんです。虹は唐突に現れて、唐突に消えて、またどこかに現れる。その虹同士を繋げて人を送り届ける橋だから『虹の渡り橋』と呼ばれています。
 発動条件は単純、持ち主の命の危機。これに呼応して設定された土地の中からランダムに選択して瞬間移動する、というものです。どれだけ消耗していても発動するように、アレ自体に魔力をため込む機能があるんですよ。まあ、一回使ったらそれっきりの、使い捨てですけど」
「そう、なんですか……あれ? なら、なんで一応、なんですか?」
「危険性は皆無、技術的にも再現は不可能ではないので、ロスト・ロギアと呼ぶほどの物じゃないんですよ。ただ、時代と造られた背景から、一応はそういう扱いになる、というだけですね」
(でも、なんでそんな物を長老は持ってたんだろう? 相変わらず……………謎な人だ)

由来を話したがらなかったのは、その本当の由来を知っていたからか。
それとも、本当に由来を知らなかったからなのか。それすら判然としない。
シャマルにも「それをどこで?」と聞かれたが、兼一としては正直に「親戚から御守りとしてもらいました」としか答えられなかった。

そうしているうちに、兼一とシャマルは目的地に着く。
機能性を優先した扉には『部隊長室』という札が掛かっているが、生憎兼一には読めない。

「えっと、ここですか?」
「はい、ここです。あまり緊張しなくていいですよ、ナカジマ三等陸佐は気さくな方ですから」
「そ、そうですか。
 ん? ナカジマって、もしかして……」
「ええ、ナカジマ三佐のご先祖様は地球出身らしいんですよ。
でも、だいぶ昔のことらしくて、あの人も日本語は話せませんね」
「それなら、言葉はどうしましょう? シャマル先生が通訳を?」
「まぁ、似たようなものですね。魔法の中には思念通話、あるいは念話と呼ばれる意思疎通の魔法があります。
 これは本来魔力の無い相手には使えないんですけど……」
「もしかして、僕って魔力があるんですか? 魔法の才能があったりするんですか!?」

シャマルの言葉に、ちょいとばかり心が揺さぶられる兼一。
こと、際立った才能はおろかそこそこの才能すらない彼にとって、少なからぬ興味をひかれる話である。
武術に関する才能は全くなかったが、「もしかしたら魔法の才能が少しはあるのかな」と思えば、心が動くというもの。
だがまぁ、現実はそんなに甘くないわけで……。

「えっとあの、才能以前、と言いましょうか……」
「へ? ………すみません、いっそのこときっぱり言ってもらった方が傷は浅く済むと思うんで、お願いします」
「…………………分かりました。はっきり言ってしまうと、ないんですよ」
「魔力が、ですか?」
「というよりも、魔力の要であるリンカーコアが」
「…………………………」
「…………………………」

それはもう、魔力云々という事ではなく、そもそも魔力を操るための機能が“根本的”にないという事。
これは確かに、「才能以前」の問題である。アレだ、人間の武術を魚が憶えたいというようなものだ。
手も足もないのに、それ以前に陸に上がることさえできないのに、どうやって何を覚えろと? つまりは、そういう次元である。

「えっと、兼一さん?」
「いいんです、分かってましたから。ちょっと、身の程知らずな夢を見ただけですんで……」
「は、はぁ……」
(でも、さすがに………スタートラインにさえ立てないとは思わなかった……)

才能の無さは当の昔に諦めがついていたつもりだったが、さすがにこれはショックだった。
努力して覆そうにも、その努力さえできないのだから。
まあ、彼の人生はすでに武に捧げられているので、浮気をする気はなかったのだから、たした問題ではないだろう。
これはアレだ、単にちょっと魔が差したに過ぎない。

「でも、そうなるとやっぱりシャマル先生が通訳を?」
「えっとですね、先ほど言いかけたんですけど、念話や思念通話は本来魔力がなければ使えません。
 ですが、そもそもリンカーコアの無い人でも魔力は多少なり帯びているんです。魔力素は大抵の場所に量はともかくありますからね。なら、それが身体の中に呼吸と一緒に摂取されるのは必然なんですよ。ただ、リンカーコアがないからそれらをため込むことも、任意に運用することもできないだけです。
 魔導師の場合、その体内を駆け廻る魔力に意図的に干渉するように念話を使えば、リンカーコアを持たない人相手でも念話を送る事自体は可能となります。でも、結局使っている言語が違えば意思の疎通はできません。
それだと、私か他の日本語の分かる人がいないと会話もままならないでしょう?
 それじゃ不便じゃないですか。ですが、このデバイス…えっと、機械を使っていただけば、そこまで不自由はしない筈です」
「これは、僕にも使えるんですか?」
「むしろ、兼一さんにしか使えませんね。あなた用に調整してあるので、他の人だとうまく機能しないんですよ」

そう言って、シャマルが差し出したのは、補聴器に似た機械。
補聴器よりはやや大きいが、概ねそんな感じの形状をしている。
それを受け取った兼一だが、使い方はさっぱりなので首を傾げるよりほかない。
そんな彼に対し、シャマルは丁寧に説明していく。

「形状からもわかる通り、これは耳に付けて使うものです。
 それ自体にある程度魔力を充填する機能がありまして、あなたの代わりに念話を行う触媒になるわけですね」
「機械に、出来るんですか?」
「デバイスといって、魔法の補助などをする道具があるんですよ。まあ、実際にはデバイスというと機械類全般をこちらでは指すんですけど……とにかくデバイスでも念話は可能です、魔力がありますからね。
 そして、重要なのはここからです。今話した摂取され全身を駆け廻る魔力は、脳に到達するとその影響を受けます。この機械には、その魔力からそこに介在する思念を読み取る機能があるんです。まあ、脳波を読んでいるのと大差ありませんね。脳内の生体電流を読むより確実なんで、この方式が取られているわけですけど」
「そんな事が、出来るんですか?」
「限度はありますけどね。そもそも念話自体が、応用することで自分の思考を言語に変換する前に直接相手とやりとりすることが出来るんです。やってる事はそれと同じなんですよ。
まあ、読み取ると言っても、言語化するくらいに表面に現れた思念でないと読み込めないので、読心なんて真似もできません。近くにいる人の体内を駆け廻る魔力から相手の大雑把な思考の方向性を読み取り、それをそのまま装着者に送り込むんです。自分の思念を送る場合ですと、さっき話した魔導士がリンカーコアを持たない人に念話を送るのと同じ原理ですね」

これは、地球にもいるHGSと呼ばれる人物たちに見られる能力の一つ、「テレパス」でも行う事ができる。
こちらの場合はある程度のレベルが必要だが、これが使えると相手が言葉の通じない動物とでも意思の疎通が可能となるらしい。兼一も一応は裏の世界にかかわる者。そう言った情報は少なからず耳にしていたので、割とすんなりと納得することができた。

「ただ技術的な問題から、よほど近くにいる人としか会話できませんし、電話越しとかだと使えなかったりするので、色々不便なところは多いんですけど……」

とはいえ、兼一達の様に何らかの事故でこちら側に来てしまった言葉の通じない人間に対し、この機械は重宝されている。
シャマルがいた分今回はまだマシな部類だが、もしまったくその言語を知られていない世界の住人だと、事情を説明するだけで難儀する。そう言った場合において、この道具は非常に重要な役割を果たすのだ。
まあ、「大雑把な思念を読み取る」という性質上、やはり実際の口頭での会話に比べれば何かと至らない部分も多いのだが……それでもないよりはましである。
いや、これでは文字が読めないし、やはり不便な事はまだまだ多いが……会話をする分には問題ない。
管理局的には、長居するのならこれを使いながらこちらの言語を覚えてもらえるとありがたい、といったところだろうか。

「はぁ、便利なものがあるんですねぇ……」
「そうですね、昔は色々苦労したそうですけど、最近はホントに便利になったと昔を知る人は言ってましたよ」

たとえば、ここの部隊長を務めるオッサンとか、あるいは彼女の主の親友の親とかその友人である。
まあ、下手なことを言うと某眼鏡の提督が般若になるので、『昔』とかは絶対に本人の前ではいえないのだが。
十代後半の子どもを持つ身としては、そろそろ自分の年齢が気になるお年頃なのである。
具体的には皺とか肌の張りとかその辺が……アンチエイジングは大切ですというお話。

「えっと、こうでいいんですか?」
「はい。ここが電源になっているので、これでスイッチが入ります。それでは、行きましょうか」

そうして、シャマルは部隊長室の扉をノックする。
すると、中からは無意味なまでに気風の良い声で「入んな」と促された。
扉越しの為か、あるいは距離的な問題か、機械は機能しておらず、兼一には何を言っているかはわからない。
ただ、声の質と調子から「江戸っ子っぽい」という印象を受ける。

とはいえ、相手は一部隊の長。
兼一としては助けてもらった恩もあるだけに、失礼のない様にと考えるとどうしても緊張してしまう。
どれだけ強くなったところで、結局彼の小市民的気質はあまり変わらないのである。

そして、シャマルに促されるまま兼一は部隊長室に足を踏み入れた。
しかし、一歩踏み入れて見た光景は、ちょっとばかし兼一の予想を外れていたが……。

「おう、来たか。そんなところで固くなってねぇで、こっち来てすわんな」
「は、はぁ……」
「言ったでしょ、気さくな人だって」

一部隊の部隊長となると、それなりに偉そうだったりなんだったりしそうなものだ。
鋭利な雰囲気だったり、重厚な存在感だったり、形は違えどもそんな物があると思っていた。
だが、兼一の視線の先にいるゲンヤにそんな雰囲気はない。
いい意味で、本当にどこにでもいるオジサンの様な印象が強い。

しかし、その飾らない自然体な様子からかもし出る雰囲気には、どこか隙がない。
よい年の取り方をしたのだろう。
積み上げた経験が、経て来た年月が、人間的な深さと厚みとなって彼を支えている。

兼一とシャマルはゲンヤの言葉に従い、彼の向かいのソファに腰掛けた。
兼一は普段のくせから深く腰掛ける事はせず、いつでも動ける程度に軽く腰掛ける。
ただし、ゲンヤは思いきり深く身体をソファに預けているが……この部屋の主としては当然だろう。

「さて、とりあえずは自己紹介と行くか。俺がこの部隊の部隊長、ゲンヤ・ナカジマだ」
「あの、白浜兼一です。この度は助けていただいて、本当にありがとうございます」
「なに、気にすんな。ああして見つけたのも何かの縁ってもんだ。
 それに、あんな必死なツラしてる奴を見捨てたとあっちゃあ、そいつはもう人間とは呼べねぇよ」
「シャマル先生。もしかして、僕達を見つけてくれたのは……」
「ええ、ナカジマ三佐ですよ」
(そうだ、どこかで見た顔だと思ったら、あの時の……)

夢のようにぼんやりとした記憶だが、兼一には確かにゲンヤの顔に見覚えがあった。
それはゲンヤに発見された時、必死に何かを訴えかけていた時の記憶。
あの時の事はあまり鮮明に覚えていないが、それでも自分に向けて真摯に何かを語りかけてくれるゲンヤの表情を、兼一は僅かなりともおぼえていた。

「しかし、あの坊主もお前さんも、怪我が酷くなくて何よりだ。
 お前さん達にとってはいきなりわけのわからん場所に放り込まれたことになるわけだが、それだけでも不幸中の幸いだな」
「それを言ったら、あなたに見つけていただいた事こそが幸いですよ。
あなたのおかげで、翔にあれだけちゃんとした検査をしていただけたんですから」
「だから気にすんなっての。
こっちはこれが仕事だ、こっちの市民じゃねぇとはいえ、民間人を守るのが俺らの仕事なんだからよ」
(もしかして、照れてる?)

兼一がそう思ったのも無理はない。
兼一が深々と頭を下げると、ゲンヤは顔を僅かに赤くしながらそっぽを向いて頬をかいている。
その所作は、兼一の師匠が照れた時のそれに非常によく似ていた。

「で、お前さんの事を聞かせてもらえるか?
 こっちに来る前に何があったのか、お前さんの職業、その他諸々な。
 仕事だからよ、一応お前さんがどんな人間か知っておかなきゃならん。
 もちろん、黙秘権はあるから言いたくない事は黙ってくれていい。ただ、少しでも恩を感じてくれてるんなら、虚偽はやめてもらいたいがな」
「そんな事をするつもりはありません。恩を仇で返したとなれば、あの子にあわせる顔がありませんから」
「ほぉ、よほどあの坊主が大事みてぇだな」
「ええ、大切な……………………一人息子ですから。あの子が誇れるような、そんな親でありたいんですよ。
 下らない、見栄だとしても。それでも僕は、あの子の範でありたいんです」
「………………………………………ちょっと待て。いま息子って言ったか?」
「ええ、言いましたけど?」
「えっと兼一さん、翔君はあなたのお子さん……なんですか?」
「はい。正真正銘、翔は僕の息子です。それがどうしかしましたか?」
「…………………………………なぁにぃ――――――――――――――――――――――――――!?」
「………………………………ウソォ―――――――――――――――――――――――!?」
「うわ!? ど、どうしたんですか二人とも!?」

まあ、無理もあるまい。兼一の外見年齢は二十歳前後。翔は4・5歳。
外見から判断するに、兼一が10代半ばの頃の子どもと映る。
それはいくら就業年齢の低いミッドとはいえ、まずない事態である。
実際、シャマルの主などあと2年で成人を迎えるというのに浮いた話一つない。
いや、それは彼女の親友たちも同じなのだが……。
そこで、いち早く衝撃から復帰したゲンヤがいぶかしむように尋ねる。

「おめぇ、いくつだ?」
「え? 28ですけど?」
「その外見でか?」
「まあ、母は童顔でしたから……」

それにしても、10近く若く見られる事はそうない。
兼一の童顔がどれほどの物か、お分かりいただけるだろう。
とはいえ、それならより一層ゲンヤは兼一がアレほど翔のことに必死だった理由が理解出来た。
兄弟の繋がりは確かに強い。しかし、それ以上に親が子を思う気持ちは強いのだ。
ゲンヤもまた父として、その事をよく理解していた。

「……………なるほどな、身を呈してガキを守る。確かに親としちゃあ当然だ」
「ゲンヤさんも、お子さんが?」
「ああ、娘が二人な。男手ひとつで育てちまったせいか、二人揃って管理局の魔導師だ。
 一人は捜査官、もう一人は災害救助。世間的にはご立派なんだろうが、俺としちゃあ、もう少し穏やかな生き方をしてほしかったんだがなぁ……」
「ああ、分かります。親としては、子どもには平穏に生きてほしいですよねぇ」
「分かるか? ほんとによぉ、こっちの気も知らねぇであいつらときたら……」
「親の心子知らず、とはよく言ったものですよね。まあ、今思えば僕も何かと心配をかけたんでしょうけど」
「はは、ちげぇねぇや! そうやって、親の苦労は引き継がれていくってわけだな」
(ああ、本当に父親なのね、兼一さん)

ゲンヤと兼一の父親談議を傍から見て、そのかみあいっぷりに納得するシャマル。
確かにこれは、父として子を思う者同士でないと成立しにくいだろう。
そのまま二人が父親談議を続けて行くと…………というか、父親として先輩のゲンヤの愚痴に兼一が頷き、あるいは父としての心得や苦労などを忠告して兼一が参考にするといったやり取りが続くこと十数分。

本来は多忙である筈の部隊長であるゲンヤに、早々時間があるわけもなく。
突如なった呼び出し音に続いて空中にモニターが開き、何事かのやり取りがなされた。
相手がモニターであったため、兼一にはゲンヤの言っていることしかわからなかった。だが、おおよその内容としては捜査に関して彼の指示を仰いでいた物と思われる。
そのやり取りが終わると、ゲンヤは居住いを正して兼一に向き合う。

「ったく、時間が経つのははぇえな。わりぃがこれから用事があってよ、手短に済まさせてもらう」
「ええ、こちらこそ長居してしまってすみません」
「客が気を使うもんじゃねぇよ、といいてぇところだが、今回は甘えさせてもらうわ。
 とりあえず、当面の事だがお前さん達が元の世界に戻る事自体はそう難しくない。
 手続きやなんやら含めて早くて一週間、長くても一週間半ってところか。もちろんその際には、こっちでの事を秘密にしてもらうって意味で守秘義務が課されることになるが、それは問題ねぇか?」
「はい。たぶん、話しても世間の方の人は信じてくれないでしょうしね」
「だな。それが普通の反応だろう。
で、地球は俺や八神んとこの例もある様に、割と管理局に関係者が多い。
 移動自体は難しくねぇし、確かどっかの街に協力者もいた筈だよな?」

そう言って、シャマルに確認するようにゲンヤは問いかける。
その問いに対し、シャマルは彼女にとっても故郷に等しい地のことを思い出しながら答えた。

「はい、はやてちゃんのお友達が土地を提供してくれているので、転送用のポートもあります。
 他の管理外世界へ行くより、よほど楽だと思いますよ」
「つーわけだ、早けりゃ一週間後には返してやれる。
お前さんもあの坊主も、向こうに残してきてる奴がいるだろ。カミさんとかよ」
「…………そう、ですね」

ゲンヤの言葉に、兼一は思わず返答に窮する。
ゲンヤに悪意がない事は明らかだが、兼一にとっては今でもその話題は心を苛む。
翔に母はいない、兼一に妻はいない。もう、ずいぶんと前に亡くなってしまったから。
誰かを恨むようなことではない、兼一は恨めるような気質でもない。
ただただ失ってしまった事を悲しみ、喪に服し、母のいない翔に寂しい思いをさせないようにする。
この四年間、兼一はそうしてきたのだから。

だが、同じ妻を亡くした者として、ゲンヤには兼一がなぜ一瞬詰まったのかが理解できた。
故に、彼は少々バツが悪そうにしながら話題を変えようとする。

「おめぇ、もしかして……………いや、忘れてくれ。変なこと言っちまったな」
「あ、いえ。お気になさらないでください」
「まあ、なんだ………子育てに関しちゃ俺は先輩って事になるからよ、話くらいなら聞いてやれる。カミさんの事も、な。似た者同士、今度酒でも飲みながら愚痴り合うのも悪くねぇさ。
 幸いかどうかはしらねぇが、最低でも時間は一週間あるんだからよ」
「………………………………………はい。お付き合いさせていただきます」
「おう。俺んとこは二人とも娘でそれも未成年、二人とも妙なところで堅いと来た。
 ったく、俺があいつら位の頃は酒なんてジュース感覚だったってのによ。
部隊の連中とかだと上下関係だとか色々ありやがるし、他の部隊だとそれはそれでな。
ちょうど、気兼ねなく飲める奴が欲しかった所だ」

シャマルに二人の間で言葉にしない何があったのかさっぱりだが、二人には詳しく話す必要はなかった。
互いに大切な人を亡くし、それでもその人が残した大切な子どもの為に懸命に生きる者同士。
多くを語る必要など、元からなかったのかもしれない。
そうして、ゲンヤは今度こそ本題に入る。

「ただ、一つ問題があってな」
「地球に行くのに、そんなに問題はなかった筈じゃありませんでしたか?」
「いや、それがな。ついさっき入った情報なんだがよ、どうも向こうへの航路が荒れてるらしい」
「期間は、どれくらいですか?」
「観測班の話だと、ざっと見積もって一月から二月だとよ」
「そんなに規模は大きくないですね。ですけど、よりによってこのタイミングですか……」
「あの、いったい何の話なんですか?」

ゲンヤとシャマルの間では一定の理解があるようだが、兼一には事情が全く分からない。
航路だの荒れてるだの言われても、いったい何の話をしているのか皆目見当がつかないのだ。
無理もない。彼は次元間移動がどういうものなのか、まるで知識がないのだから。

「ああ、なんつーかだな……どう説明したらわかりやすいんだ?」
「そうですねぇ…………兼一さん、次元間移動するには大きく分けて二つの方法があるんです」
「二つ、ですか?」
「ええ。一つは魔導士が使う転移魔法での次元間転移、もう一つが『次元航行船』を用いての移動です。
 一応優れた魔導師なら自分以外の人を連れて転移できますけど、やっぱりポピュラーなのは次元航行船を使う場合ですね。時間はかかりますが、断然安全ですから」
「さっき言っていたポートというのは?」
「こちらは次元間転移をする際の目印みたいなものですね。管理外世界には滅多に次元航行船がいきませんから、管理外世界に行くには転移魔法を使うのが主流なんですけど」

となれば、兼一達の出身地である「第97管理外世界」への移動手段も主に転移魔法を使うことになる。
実際、シャマルや彼女の関係者達が地球と管理局との間を移動する際、そのほとんどは転移魔法だ。
そうでないと、あまりに時間がかかり過ぎる。
次元航行船で移動するのは、提督として大勢の部下を抱えるクロノくらいのものだろう。

「ただ、この転移魔法はかなり繊細で、ちょっとした揺らぎがあってもかなり危険なんです」
「もしかして、その揺らぎが?」
「ああ、地球との間に発生してる真っ最中だ。
 アレだな、大時化の海とか、大地震の最中の道路とか、噴火中の火山の上を飛ぶ空路とか、そんな感じだ」
「そ、それはまた危ない……」

さすがの達人とは言え、火山はヤバい。大時化の海や地震くらいなら気にしないかもしれないが、火山の噴火に巻き込まれれば命はない……………と思う。
なにぶん、魔導師とは違った意味で常識の通じない人種なので、断言は難しい。
だが、とりあえず危険な事は理解できたのだった。

「移動は、出来ないんですか?」
「優れた魔導師なら自分にシールドなりバリアなりはって無理矢理移動できますけど、他人にかけながらとなると…………かなり危険ですね」
「次元航行艦なら多少無理をすれば出来なくはねぇが、んなところに好き好んで突っ込む馬鹿はいねぇ。
 海…次元航行部隊の船がそっちへ行くなら便乗できなくないが……」
「そっちの船は言ってしまえば戦艦ですからね。よほどのことがない限り民間人を乗せてくれませんよ。
 機密とか色々ありますし、何よりそっちに行く船が今あるかどうか……」
「まあ、なんだ、おめぇさん達にはわりぃんだが、航路が落ち着くまで待ってもらうがの無難だろうな」
(……………………さすがに、無理は言えないよねぇ。ただでさえお世話になってるんだし)

さすがに、兼一としてもこれでは無理に「元の世界に帰せ」とは言えない。
ゲンヤもシャマルも、二人とも心底申し訳なさそうにしているのだ。
何より、翔の身の安全を考えるのならあまり危ない真似は出来ない。

「………………それなら、仕方ありませんね。大人しく待つことにします」
「わりぃな。その間お前さん達の面倒はうちでしっかり見るからよ、勘弁してくれ」
「いえ、そこまでお世話になるわけには!?」
「だけどよ、お前こっちの文字分からねぇだろ? 言葉だってそいつがねぇと通じねぇし」
「う”……」
「土地勘もねぇ、コネもねぇ、そいでもってこっちの常識もねぇと来た。どうするつもりだ?」
「ナカジマ三佐、あまり虐めちゃ可哀そうですよ」
「っと、そう言うつもりじゃなかったんだが……要はだ、こっちとしてもお前さん達を路頭に迷わせるわけにはいかねぇんだ。ここは大人しく、こっちに保護されてくれ。ついでに、こっちの観光でもしてけってこった」

実際、ゲンヤの言う通りだろう。
帰るまでの間自分たちの面倒くらい自分で見たいのが兼一の本音だが、それすらままならないのが現実。
彼が今いる場所は、まさしくそういうところなのだから。
兼一一人なら山に籠るなりなんなりできるが、それに翔を突き合わせるわけにはいかない。
というか、この世界の食糧すら知らないのだから、彼でも山籠りができるかどうか……。

「それでしたら、こちらで雇っていただけませんか?
 体力には自信がありますし、雑務とか用務とかの身体を使った仕事なら少しはお役にたてると思います。
 僕の世界では『働かざる者食うべからず』という言葉もありますし、ただお世話になるだけというわけにはいきません」
「だがよ……」

兼一の申し出は正直言ってゲンヤとしても有り難い。
管理局は万年人手不足。それは陸士部隊も同じこと。
はっきり言って、事務仕事だってばかにならないほどの量が溜まっている。
雑務や用務に回す人出を少しでも削減できるなら、それに越したことはないのだ。

「…………お前さんはどう思う?」
「そうですね、傷の方はもうほとんど大丈夫ですし、特に問題はないと思いますよ」
「…………ちっ、わぁったよ。しゃーねーな、そういう事なら存分にこき使ってやるから、覚悟しとけよ」
「はい!」

一度はシャマルに兼一の状態を尋ねたゲンヤだが、彼女から返ってきたのは事実上のGoサイン。
こうなってしまっては、ゲンヤとしても拒む理由が見当たらない。

「あ、ちなみに住むところは俺の家だからな。
 どの道お前さん達には身元引受人が必要だし、拾ったのも何かの縁だろう」
「えっと、同じ所に住まなきゃダメなんですか? 正直、そこまでお世話になるのは心苦しいというか……」
「身元引受人の眼の届くところに置くのが原則だ、諦めな」
「………はい。でも、娘さんがいるんでしょ?」
「下の方は家を出て隊の寮暮らしだがな。つーか、既婚者のくせに手ぇ出す気か?」

ゲンヤの問いに、兼一は全身全霊で首を横に振る。
美羽が死んで四年経つが、今のところ彼に再婚とかそういう意思はない。
翔の為にはその可能性も考慮した方がいいのかもしれないとは思うのだが、どうにもふんぎりがつかないのだ。
それが美羽への裏切りになるのではないかという思いもあるが、何より彼の眼はいまだに美羽以外の女性には向けられないから。

「それなら問題ねぇだろ。俺としても家に野郎がいた方が落ち着くってなもんだ」

こうして、兼一はしばらくの間陸士108部隊の臨時用務員兼ナカジマ家の居候となるのだった。
これからのおよそ一ヶ月から二ヶ月の間に起こる出来事が、彼の人生を大きく変えることになることを、まだ誰も知らない。






あとがき

とりあえず、第一種接近遭遇はこれにておしまいです。
この話からもわかる通り、当面はSts本編には絡みません。
しばらくの間はゲンヤの下で、不慣れな管理世界の日常に生きることになるのです。
当然、バトルの類も当分先になりますね。

ちなみに、まだ六課はまだ設立すらされてません。
ざっと、半年から一年ほど先の話ですね。その間に何があるのかは、追々という事で。
シャマルがなぜいたのかは、まあ彼女がその頃たまたま108の連中に研修をしに来ていたというだけです。
受けに来たのではなく、彼女が教える側ですけどね。
当然、研修が終わったらさっさと元いた場所に帰ります。なので、兼一との付き合いはそれほど深くはなりません、今はまだ。
まあ、一応兼一の身体を検査したからには、彼の肉体の異常性をシャマルとゲンヤも知ったことでしょうけど。

それと、普通に考えていきなりミッドに飛ばされたら言葉なんて通じませんよね。
一応、DofDでの兼一の様子を見るに、なんか言葉の壁を超越してしまっている姿がありましたが、さすがにアレ(魂語?)だけだと細やかな意思の疎通は難しいでしょう。アレでまっとうなコミュニケーションが取れるのは、SEENA嬢くらいなものですって。
そこで、私なりに突如飛ばされてきた人と意思疎通を図る方法を考えてみました。
そもそも、ああいう次元世界の迷子がそこそこいるなら、それに対する対策も考えておかなきゃならないわけですからね。

まあ、アレ自体はとらハをやっていたら、テレパシーのあんな使い方が出てきたので、これをなんとか応用できないかと思ってでっち上げた次第です。ほとんど独自解釈と独自設定ですけどね。
ただ、魔力素は空気中にある程度あるものらしいので、呼吸してれば多少は入ってくるでしょう。それに魔導師でない人の思念も僅かに乗っかり、それを拾い上げて増幅するのがあの機械の機能です。その増幅した思念を、装着者や近くいる人に電波みたく送信するわけですね。
とはいえ、範囲が狭いので使い勝手は悪いし、電話などの通信だと拾えないので使えませんし、大雑把な思念しか拾えないので口頭で話した方がずっと効率的なんですけど………それができない人がいるから、ああいう物が必要なわけです。

最後に、感想板の方で「達人級なら防御魔法を打ち抜く事も、バインドを力づくで破壊することも難しくないだろうし、兼一の耐久力なら生半可な魔法には耐えきれる」といった様な趣旨の書き込みがありました。
ですが、実際のところ各防御魔法やバインドの強度と達人の攻撃力がどの程度なのかが分からないことには、明言することは誰にもできないでしょう。同様に、非殺傷設定の魔法攻撃を受けた場合、魔力値にダメージを受けるそうで、魔力が枯渇すると意識を失うこともあるとの事です。なので、肉体的な頑健さがどの程度魔力ダメージに対する耐久力に影響するかにもよるでしょうが、魔力の枯渇による気絶は充分あり得る事態の筈です。非殺傷設定を使わなかったとしても、Stsでなのはの砲撃には空港とかゆりかごで「壁抜き」ができるだけの威力がありました。達人でも銃弾を受ければ傷は負うようなので、こんな物を受ければ充分危険でしょう。
以上の事柄は、先の感想に対する別の視点からの可能性の提示にすぎません。ですが、実際のところなんて、原作者さん同士に話し合ってもらわない限りはわからないんですから、我々が何を言っても結論は出ないでしょう。結局は「こうかもしれない」という想像でしかないわけですし、それは人によって違うのであり、書き手の解釈次第で扱いは変わるものです。極端な話、達人が魔導師を蹂躙しても、逆に魔導士が達人を蹂躙してもいいわけですからね。なぜならそれは「絶対にあり得ないとは言い切れない可能性」があるからです。
皆さまがそれぞれに持つイメージや持論はおありでしょうが、この手の相対的な話は水掛け論にしかならない上に、そもそも誰にもはっきりした事はわからないんですから、以後控えていただけるとありがたいと思います。
この作品は、私一個人の独断と偏見によるイメージと解釈によって成り立っている事を、改めてご了承ください。



[25730] BATTLE 2「新たな家族」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/02/20 21:23

兼一への大まかな事情説明と地球に帰還するまでの流れを話し終えたゲンヤは、先の言葉の通り用事の為に部隊長室を後にした。
兼一とシャマルも、いつまでも部隊長室に陣取っている意味もない。
とりあえず兼一は翔の様子が気になり、再び検査室に戻ることにした。

何しろ、兼一と違って翔はまだ幼い子ども。その上、今自分が置かれている状況への知識もない。
それがどれほど不安なことかは、想像に難くないだろう。
数々の苦難を乗り越え、屈強な精神の持ち主である兼一ですら、自身の立ち位置を理解した今でも不安な気持ちはあるのだから。
せめて、翔が目覚めた時に傍にいてやりたいと思ったのは、父として至極自然な思いだ。

シャマルはどうしたのかと言えば、彼女には兼一を案内するという重大な役目がある。
普通に考えて、この施設の構造に詳しくない兼一を放ったらかしにしておくわけにもいかない。
なにしろ、文字さえ読めない彼の場合、充分過ぎるほど迷子になる可能性があるのだから。

そうして、場面はゲンヤの「用事」とやらが終わった後。
彼が再び部隊長室に戻ってきたその時に移る。

部屋の主が帰還を果たすと、それを待ち望んでいたかのようなタイミングで一人の男性局員が入室してきた。
彼の手にはそれほど厚くないファイルがあり、その内容をゲンヤに報告する。

「検査結果は以上です。とりあえず、今回保護された白浜親子に未知の病原菌などの類は確認されませんでした」
「そうか、ご苦労だったな。
ま、97管理外世界は『危険指定』されてるようなとこでもねぇし、当然と言えば当然なんだがよ」
「はい。危険な動植物や自然現象をはじめ、奇怪なウイルスや病原菌の類も観測されていません。
 極普通で、他の世界同様常に火種を抱えた、魔法技術を持たないだけの世界ですからね」
「らしいな。俺も行った事はねぇんだが……」

部下からの報告に、ゲンヤはこれといった感慨もなさそうに応じる。
兼一が地球出身ということで、既に九割方そういった危険がない事は分かっていた。
今回の報告は、その残りの一割を埋める為の物で、予想通りの結果だったのだから、彼の反応も当然だ。

しかし、この結果が分かりきっていたとはいえ、彼の立場上その手の検査を全て「不要」と断じる事は出来ない。
もし万が一にでも、管理局にもデータの無い病の原因となる「何か」を持ちこまれれば、大惨事に発展する可能性があったのだから、「ない」とほぼ確定している危険でも気を緩めることはできなかった。
その意味でいえば、ゲンヤはようやく最後の一線を超えて肩の力を抜く事ができたとも言えるだろう。

なにしろ医学とは、データの蓄積が要となる学問である。
それがどれほど些細な病で、抗生物質ひとつで容易く完治する様な病であったとしても、未知の病にはどうやっても対処できない。なぜなら、どんな抗生物質なら効果があるのかすらわからないからこその「未知」なのだから。
どれほど進んだ技術を有する管理局とはいえ、こればかりはどうにもならない。

「さて…となると、後はアイツらの帰還の手続きだが……『揺らぎ』が治まるまで時間もあるし、書類の方はそう急ぐこともないか。もう下がっていいぞ」
「はい」

ゲンヤの指示にキビキビとした敬礼で応え、そのまま部隊長室から退室しようと踵を返す。
だがドアノブに手を駆けたところで、唐突に彼は足を止めゲンヤに向き直った。

「…………………………………部隊長、少々よろしいでしょうか?」
「あ? どうかしたのか?」
「実は、検査結果で少々気になることが……」

まだ少し悩んでいるような様子はうかがえるが、どこか神妙な面持ちの彼の言葉にゲンヤは首を傾げる。
若いが、それなりに能力のある事務員である彼がこうも迷うとは、その「気になる検査結果」とは何なのか。
知らず知らずのうちにゲンヤも興味を持ったのか、ひどく真剣な表情で彼に報告を促す。

「これは二人の健康状態に関するデータなのですが、こちらをご覧ください」
「……いや、見ろって言われてもよ。
医者でもねぇ俺にこんな専門的なモン見せられても、何が何やらわかんねぇぞ?」
「失礼しました。この数値は血中の赤血球の数なのですが、これが一般的な数値、こちらはあの親子の物になります」

そう言って彼は別の資料を持ち出し、二つの資料を並べてゲンヤの前に置いて件の数値を指差す。
ゲンヤはそれを軽く眺め、続いて目頭を揉み解し、再度その数値に目を向け「一二三よ…」と桁を数え出した。

「…………………………………………多いな。それも、軽く桁一つ以上」
「ええ。お分かりでしょうが、これは尋常な数値ではありません。
 翔君は通常よりやや多いという程度ですが、兼一氏の場合は常人の数十倍です」
「検査ミス、ってことじゃねぇのか? こっちの方にあるのってよ、一応上限みたいなもんだろ?」
「はい。現在の医学と人体工学では赤血球の数はここまでとされています。
 一流アスリートや登山家、あるいは高々度を飛行する魔導師やパイロット、果ては違法研究の結果生まれた特異な体質の人間に至るまで。彼らでさえ、こんなバカげた数値が出る事はあり得ないというのが定説です。
我々も、正直検査ミスかと思って何度も検査し直したのですが……」
「結果は変わらず、か」

彼の言葉を引き継ぐようにして、ゲンヤは小さく呟いた。
おそらく、検査機器の故障という事でもないのだろう。それならその可能性を既に指摘している筈だ。
ゲンヤの顔には先ほど以上の厳しさが浮かび、報告に来た男は額に汗を浮かべながら緊張している。

場合によっては、専門機関に送ってより精密な検査をするべきかもしれない。
これが産まれ持っての先天的な体質なのか、それとも何らかの原因があっての後天的体質なのか。
前者であるならそれはそれで問題だが、後者でもそれは変わらない。
原因が何かにもよるが、それが世界観転移の影響だとすれば大事になりかねないのだから。
自身が保護した人物が思わぬ謎を秘めていた事に、さしものゲンヤもその心中は穏やかではいられない。

「……他のデータはどうなんだ?」
「肉体のポテンシャル、という意味でいえば翔君は全体的に高めな数値です。
しかし、それでも常識の範囲内から出る事はありません」
「それは、兼一は違う、ってことでいいんだな?」
「はい。骨密度や肺活量をはじめ、ほぼ全ての器官で常識外れの数値が出ています。
 また、筋肉の発達の仕方も異常としか表現のしようがありません。検査官も、『いったいどんな鍛え方をすればこんな体が作れるのか』、と……」

翔は確かに風林寺の血筋だが、そもそも達人レベルの身体能力とは後天的な鍛錬によって培われる。
兼一や秋雨の肉体がその好例だが、それは他の面々にも言える事。
得意分野の違いは肉体の性質に依存するだろうし、スタートラインも人によって異なるだろう。
だがそれでも、どれほど素質と才能に恵まれた者であろうと、はじめから達人レベルの肉体的スペックを秘めているわけではないのだ。
長い時間をかけ、壮絶を極める修業の果てに、彼らはその身を限界のさらに先の領域に届かせるのだから。
故に、この時点で翔が「身体能力が高め」という評価でしかないのも、ある意味で当然と言える。
無論、そんな事はゲンヤ達のあずかり知らぬ事だが……。

「本人は園芸店勤務で、副業として小説を書いてるつってたんだがな」
「あまり、鵜呑みにすべきではないかと……」

ゲンヤの言葉に、彼は少々苦しそうにそう諫言した。
彼は兼一と話した事があるわけではないが、それでもこうして人の言葉を疑うのはいい気分がしないのだろう。
根が善良なのもあるだろうが、突然こんな訳の分からない事態に巻き込まれた者への同情もあるかもしれない。

いずれにせよ、一局員としては無視できないデータが今ここにあるのが現実だ。
そうである以上、彼個人の気持ちはともかくとして、兼一の事を単なる「一般人」と考えるべきではない。
もしかすると、なんらかの「裏の顔」を持つ危険な人物かもしれないのだから。

「何らかのレアスキルの影響、って事はないな」
「リンカーコア自体がありませんし、他のどんな検査をしてもそう言った物は……上に報告なさいますか?」

彼の言葉は、質問という形を取った確認だ。
普通に考えれば、こんな怪しい人物をただ保護しておくだけにとどめておくべきではない。
最低でも「こんな人物を保護した」と、このデータを添付して報告すべきだ。
本来であれば、彼の言ったように上に報告するところだろう。
しかし、ここでゲンヤはその義務を敢えて怠る事を選んだ。

「いや、必要ねぇだろ」
「……よろしいのですか? 人為的に生み出された人間という可能性も捨てきれませんよ」
「それはねぇと思うがな」

通常では考えられない数値なのだから、何らかの方法で人為的に生み出されたと彼が考えたのはそう間違った推理ではない。だがそれを、ゲンヤは特に考慮することなく否定する。
無論、ゲンヤとて考えなしに否定したわけではない。
むしろ、彼以上に確固とした確信があって否定しているのだ。

「確かにそれならある程度筋は通る。だが、そもそもそんな人間を作る意味って何だ?
 管理世界なら人造魔導師を作った方がいいに決まってるし、管理外世界なら余計意味がない。
 考えてもみろ、魔法も使えない人間が近代兵器に単独で挑んで勝てるか? いや、勝てねぇとはいわねぇが、どっちが有利かなんて考えるまでもねぇだろ。遺伝子やらなんやらをいじる技術を持つ文明なら、その質量兵器のレベルも相当な筈だろ?」
「それは、確かに……」

そう、ゲンヤの言う通り、どれほど肉体的に優れた人間を作ってもあまり意味がない。
管理世界なら優れた魔力資質を持った人間を作るだろうし、管理外世界ならそもそもそんな人間を作る意味がない。なぜなら、肉体的にいくら優れていても、それより遥かに強力な兵器や技術が存在するのだから。
言ってしまえば、コストに対するリターンがあまりに小さいのだ。
故に、ゲンヤはそんな人間を作る意味がないと断言できた。

しかし、ゲンヤ達は知らない。
人間の肉体、その限界点は彼らが常識と考えるそこよりもはるか先にある事を。
その肉体の性能を完全以上に引き出す技術が、魔法にも劣らないほど深く強力な物である事を。
ゲンヤがその深淵を知るのは、これよりまだずいぶんと先のことだった。

「確かにとんでもねぇデータだが、それ以上じゃねぇ。
 魔法的にヤバいデータなら話は別だが、結局は肉体的なスペックが高いってだけだ。
 それなら、わざわざ上に報告するまでもねぇだろ」
「それは…そうですが」

本当ならそれだけで済ますべきではない。
もし兼一が人造生命なら、最低限その背景を問い質すべきかもしれない。
だが、ゲンヤはできればそれはしたくなかった。翔の事を話す兼一の姿は、心から我が子を思う父親のそれであり、言葉にできない強い共感をゲンヤは覚えていたのだから。
そんな彼らの今とこれからを乱しかねない報告を、ゲンヤはしたくなかったのだ。

「いいから、この話はこれで終わりだ。
データは残しておいた方がいいだろうが、この情報を部隊の内外を問わず漏らす事は禁じる。
たとえ部隊内の奴でもな。以上だ、もう行け」
「ハッ!」

ゲンヤに促され、彼はデータの入ったファイルだけ置いて今度こそ部隊長室を後にする。
もちろんこの後、兼一にかかわった者の中で唯一の部隊の部外者であるシャマルにも同様の口止めをした。
こうして、兼一の身体の秘密が外部に漏れる事はなく、白浜親子は平穏な日常にしばし身を置く事となる。



BATTLE 2「新たな家族」



ゲンヤが一通りその日の業務を処理し終えたのは、もう日が沈んでからだいぶ経った後のことだった。
出来れば早めに白浜親子を自宅に招き、少しでも落ち着く環境に移してやりたかったのが彼の本音。
今日会ったばかりの他人の家ではリラックスなどできる筈もないが、それでも隊舎よりかは幾分ましだろう。
だが、彼の立場上やることは山ほどあり、大急ぎで処理したにもかかわらずこんな時間になってしまったのだ。

「わりぃな、遅くなっちまった」
「あ、いえ、お気になさらないでください。隊の皆さんにもよくしてもらいましたし、シャマル先生からもこちらの世界の事を色々聞けたので……」

ゲンヤの謝罪に、兼一はにこやかに笑いながらそう返す。
実際、ゲンヤの仕事が終わるまでの間はほとんどこちらの世界の事を知ることに費やされた。
1・2ヶ月の間とはいえ、その間はこちらで生活するのだ。
その為に必要な基礎知識を少しでも得ておきたい兼一としては、十分以上に充実した時間だったことだろう。
そうして、ゲンヤは兼一の言葉に肩を竦めると、彼のすぐ横に立つシャマルにも頭を下げる。

「そう言ってもらえると救われるな。
おめぇさんも悪かったな、あのチビダヌキが家で待ってるだろうに、長々とまかせちまってよ」
「いえいえ、困った時はお互い様ですから。それに、私も兼一さんや翔君と話せて楽しかったですよ。ね?」
「……う、うん」

シャマルは兼一を挟んで反対側に立つ翔の顔を覗き込み笑いかける。
兼一達がゲンヤと別れた後、1時間ほどして翔は眼を覚ました。
突然見知らぬ場所に放り込まれ、当初は目に涙を浮かべて不安そうにしていた翔。
しかし、幸い兼一がすぐそばにいたこともあり、それほど大きく不安に駆られる事はなかった。
とりあえず父がいる、それだけでも彼は安心できたのだろう。

その後は一緒にいたシャマルにかまってもらっており、ほんの半日程度のふれあいだが、それなりにシャマルには懐いていた。
おそらく、シャマルが持つ穏やかで優しい空気が翔の警戒心を解きほぐしたのだろう。
ところが、今はなぜか兼一の陰に隠れるようにして、父の服の裾にしがみついている。

「ああ、この坊主はどうしたんだ?」
「あ、あははは…ほら、翔。さっき話しただろ、この人がこれからお世話になるゲンヤさんだよ」
「う、ぅぅぅうぅ………」
「なぁ、もしかしてこいつは……」
「いわゆる、人見知りですね。
正確には違うのかもしれませんが、初めて会う人を怖がってるという意味では同じだと思います」

そう、翔が兼一の陰に隠れているのは、単にゲンヤの事が怖いからだ。
特別厳つい顔をしているわけではないとはいえ、それでも相手は見知らぬ男性。
それも、突然それまでと違った環境に放り込まれたのだから、翔が過敏に反応するのも無理はない。
実際、最初のうちはシャマルも頭を撫でようとしただけで泣かれたのだから。

とはいえ、これからしばらくは一緒に暮らす以上、出来れば早めになれてほしいというのがゲンヤの本音。
非常に弱った様子のゲンヤはしばし頭をかいて宙を見上げていたが、そこで唐突に懐からある物を取り出す。

「まあ、なんだ。……………………………ほれ、飴でも食うか?」
((物で釣るんですか?))

ゲンヤのあまりに短絡的な結論に、思わず内心でツッコム兼一とシャマル。
確かに翔は子どもだが、いくらなんでもこれでは釣られまい。
そして、その予想は大当たりなわけで……

「……やっぱダメか?」
「まあ、時間はありますから、追々ゆっくり慣れてもらってはどうですか?」
「ま、それが妥当なところか。
 とりあえず車回してくるから少し待っててくれ、アンタも駅まで送るぞ」
「すみません、お世話になります」

制服から着替えた私服のポケットから鍵を取り出すゲンヤ。
どうやら、シャマルも送って行くつもりらしく、彼女もその厚意に甘えることにしたらしい。
そうして、ゲンヤは再度その場を離れ車を取りに行く。

「そう言えば、シャマル先生はこちらの所属じゃないんですよね?」
「ええ。私は本局の医務局所属なので、明日からはそちらに戻ることになりますね」
「そうですか。では、これでお別れになりますか」
「はい、名残惜しいんですけど、そうなります」
「………シャマルせんせい、もう会えないの?」

兼一とシャマルの会話を聞き、翔はとても残念で寂しそうな声音でそう尋ねる。
はじめこそ怖がったが、今となっては翔にシャマルへの抵抗感はない。
むしろ、生来の人懐っこさからか、これで会えなくなると聞いて不安そうに瞳が揺れている。
それだけシャマルに対して良い印象を持ち、彼女と過ごす時間が楽しかったのだろう。
そんな翔を見て、シャマルとしても一抹の寂しさを覚えた。

「ぁ……そうだ! 日本に戻る時は本局を経由することになると思うので、その時にでも会いにきてくれるとうれしいかな。翔君、その時には私特製のお茶とお菓子でおもてなしするから、楽しみにしててね」
「え? いいの、シャマルせんせい」
「ええ、もちろん。それに、私にとっても日本は故郷みたいなものだし、里帰りした時には時々会ったりできたら素敵じゃない?」
「うん♪」

それは、普通に考えれば単なる社交辞令とかその類に過ぎないものだろう。
しかし、この時に限ればシャマルとしては割と本気だった。
短い時間とは言え、一度は面倒を見た患者だ。
やはり思い入れはあるし、出来ればこれが縁の切れ目となってほしくない。

「すみません、シャマル先生」
「いえいえ、翔君の言う通りこれで『お別れ』というのはやっぱりさびしいじゃないですか。
 別に、私達の場合日本に戻ってもあっちゃいけないわけじゃないんですから、それくらいの気持ちでいいんだと思いますよ」

兼一としても、シャマルの言葉にはおおむね同意している。
遠い異郷の地で出会った子の縁が、これからも続いていくのならそれに勝るものはない。
だが、それがまさか「たまに会う」程度以上の付き合いになるとは思わない三人だった。

そして、間もなく三人はゲンヤの車に乗ってそれぞれの目的に向かう。
シャマルは途中の駅で降り、家族の待つ自宅へと帰って行く。
その際、再度また会う事を翔と約束する二人の姿を、兼一やゲンヤはとても穏やかな眼差しで見つめていた。



  *   *   *   *   *



その後、車に揺られる事しばし。
車の後部座席に乗り込んだ兼一と翔は、運転席に座るゲンヤとあれやこれやと話していた。
内容としては、今向かっているナカジマ家での大まかな決まり事やシャマルとどんな話をしていたかなどだ。

まあ、実際に話していたのは兼一とゲンヤで、翔は二人の会話に首を傾げながら、時折おっかなびっくりの様子でミラー越しにゲンヤの様子をうかがっていたというのが正しいが。
そうしているうちに、気付けば目的地であるナカジマ家に到着した。

車を車庫に入れ、ゲンヤに連れられて玄関へと向かう兼一と翔。
そこで、ふっとこれまでの街並みを含めた感想が兼一の口から漏れる。

「何て言うか、あまり僕たちのいた世界と変わらないんですね。もっとこう車道が何層にも分かれて立体的だったり、人がびゅんびゅん空を飛んだりしてると思ってたんですけど……」
「そりゃSFの見過ぎだな」
「げ、ゲンヤさん……」
「冗談だって。ま、結局人間が住んでるところだからな。
どんだけ技術が発展しても、やることには限度があるってことなんじゃねぇか?
 クラナガンの中心部でも、建物の高さはともかく、基本的なところはそう変わらねぇぞ」
「そういうものですか」

兼一としては突然そのSFとファンタジーが融合した世界に放り込まれた様なものなので、ついついそんな想像をしてしまう。
しかし実際にそこに住むゲンヤとしては、兼一の想像には苦笑を洩らさずにはいられない。

「そういうもんだ。第一、飛行魔法は確かにあるが、その辺を自由にしちまうと交通ルールの取り決めや取り締まりが大変なんだよ。
 そもそもだな、一般道の事故だって根絶できてねぇんだ。空まで取り締まるなんて手に余るっつうの」

確かに、二次元的な地上の交通事故ですら頻度はともかく絶えない以上、ここに加えて縦横に加えて「高さ」まで存在する空の警戒までするとなれば、その労力は計り知れない。
飛べる人間はいるし、飛ぶための道具も存在するが、だからと言って飛べばいいというわけでもないのだろう。
飛べた方が何かと便利なようだが、それによる弊害が確かに存在するのだから。

とそこで、兼一は自身の上着の裾が軽く引っ張られていることに気付く。
そんな事をするのは、翔をおいてほかにいない。
彼は兼一を見上げながら、小さいが少し興奮した様な声で父に語りかける。

「父様、なんだかいい匂いがするよ」
「ん? ああ、そうだね。この匂いは……………お味噌汁?」
「ああ、ギンガの奴が飯作ってるんだろ」
「確か、娘さんでしたよね」
「ああ、姉の方になる。
一応所属は俺の部隊なんだが、今日は一日暇をやってお前らの部屋の準備をさせてたんだよ」

普通なら、これから世話になる家の娘がその部隊内にいるなら早め顔見せをしているところだろう。
それをしなかったのは、ひとえにその人物がその場にいなかったからに他ならない。
108所属と聞いてはじめはいぶかしんだ兼一も、最後まで聞けば納得したらしい。
とはいえ、今度は別の疑問が浮かんでくる。

「こちらにもあるんですか、和食?」
「あるぜ。つーか、俺の先祖がそっち出身なのは話しただろ。
 俺の親父が酔狂な奴でよ、『和食がないのは世界の損失だ』とか言い出して脱サラして定食屋をはじめやがってな。それから一時期和食ブームが起きて、今でもそこそこ和食を出す店があるんだわ」

考えてみれば当然の話で、元は地球は日本出身のナカジマ家で和食が食べられているのは当たり前だ。
材料さえ揃えられれば、かつてこの地にやってきたゲンヤの先祖がその味を求めたのは必然と言える。
まあ、さすがにそれで飲食店を始め、いつの間にやらこの世界に浸透したというのは驚くばかりだが。

「ず、ずいぶんとアグレッシブというか、バイタリティのあるお父さんだったんですね」
「まぁな。ただよ、『日本男児たる者、寿司くらい握って和菓子も作れるようになれ』なんて無茶言いやがるもんだから、結局家業は継がずに局に入ったわけなんだが……」
「あ、あははは……」

なんとなく、「家業を継がない」発言をした際に親子で殴り合いを始めた様子を想像してしまし、乾いた笑みを浮かべる兼一。
そんな兼一を余所に、育ちざかりまっただ中の翔の腹が威勢よく食事を求めて可愛らしい唸り声を上げた。

「父様……」
「っと、玄関の前でグダグダやってる場合じゃねぇな。
 わりぃな坊主、すぐに飯を食わせてやるからよ」
「う、うん………」

父と親しそうに話している事が功を奏したのか、少しばかり翔もゲンヤに慣れてきたらしい。
あるいは彼なりに、目の前の人物が自分達の庇護者である事を感じていたのだろうか。
どちらにせよ、とりあえずはゲンヤの目を見て小さく受け答えをする程度にはなってきた。
翔とてもう乳飲み子ではないし、そもそも人懐っこい気質だ。これくらいの年齢になれば、相手が初対面であっても、慣れるのにそう時間をかけはしないのだろう。
そうして、ゲンヤは玄関の鍵を開けて二人を自宅へと招き入れる。

「ようこそ、って事になるのかね、この場合は。
 ここがしばらくの間お前らの家になる。ま、自分の家だと思って気兼ねなくくつろいでくれや」
「何から何まですみません、お世話になります」
「なります」
「おう………っと、話してるうちにきやがったな」

自身の背後に続く廊下の方へ視線を向け、そんな事を呟くゲンヤ。
耳を澄ませば、奥の方から「パタパタ」とスリッパでフローリングの上を早足で駆けてくる音が聞こえる。
その律動は軽快そのもので、音の主の体重の軽さとキビキビとした挙動が見てとれるようだ。
とはいえ、これを兼一が聞くと別の意味合いが絡んでくる。

(ウエイトは軽いけど、リズムがいいな。身体の動かし方をよく知ってる。
 音の間隔からして歩幅があのくらいだから、身長は僕とそう変わらないかな?)

普通、足音を聞いただけでここまでわかるだろうか?
確かに格闘技に置いて相手の身長や体重は重要な要素だし、足運びから相手の力量を知ることもできるのかもしれない。が、足音からそれらを判断できるとは……。
まさか足音の主も、会ってもいない相手に身長と体重を把握されているとは思うまい。
特に、体重をほぼ正確に看破されていると知ったら、はてさてどんな反応を見せるのやら。
女性に体重を聞くのは、年齢を聞く事に匹敵するか、それ以上の罪だというのに。

そして廊下の奥から現れたのは、紫紺のエプロンで手を拭くうら若き乙女。
白のロングスカートを身につけ、髪は腰まである蒼い長髪を大きめのリボンで結えている。
少女の名を「ギンガ・ナカジマ」。
十人いれば十人がゲンヤと親子である事を疑うほど、父に全く似ていない娘である。
そしてそれは、何も外見に限った話ではない。

「父さん、おかえりなさい」
「おう、今帰ったぜ。んで、こっちが今朝話した奴らな。
 兼一、それに翔。これが俺の娘のギンガだ」
「もう、そんな紹介の仕方ないでしょ! すみません、父さんってどうも大雑把で……」
「あ、いえ、お気になさらず」

途轍もなく細部をはしょり、極めて大雑把に双方の間に立って紹介するゲンヤ。
ただ、それがあまりにあまりなので、ギンガは片手で頭を押さえつつ注意している。
ゲンヤが良くも悪くもおおらかなのに対し、彼女は割と生真面目な気質らしい。

「そう言うんなら自己紹介くらい自分でやりゃあいいだろうが」
「はじめからそのつもりです。その前に父さんが勝手に話を始めただけでしょう、まったく。
………コホン。では、改めて娘のギンガ・ナカジマです。陸士108所属、階級は陸曹、魔導師ランクは陸戦Aランク「高めの身長がコンプレックスの、恋人いない歴=年齢の寂しい花の16歳」…………父さん、言い残す事はある?」

自己紹介に割って入り、勝手に言いたい放題言ってくれるゲンヤに青筋を浮かべて拳を握るギンガ。
幻聴か、空気が「ミシミシ」言うほどの怒気がギンガから放たれている。
だが、ゲンヤとしては慣れた物で、それでもなおギンガをからかう事をやめよとはしない。

「まったく、俺はおめぇたちの事を心配して言ってやってんだぞ。俺だってもう年なんだ、早いとこ娘の晴れ姿を見たいところだってぇのに、お前らときたら浮いた噂一つねぇときた」
「私はまだ16よ、別にそんなカツカツする事じゃないでしょ」
「そう言ってるうちに二十歳になり、三十路になり、ゆくゆくは……時間が経つのははぇえぞぉ」
「天国の母さん? ちょっと父さんをそっちに送ろうかと思うんですけど、別にいいですよね?」
「あ、あの、とりあえず落ち着いてください! お父さんを撲殺するのはさすがに不味いですよ!?」
「ギンガさんやめてぇ―――――――!?」

二人を置いてけぼりにし、勝手にヒートアップするギンガとからかうゲンヤ。
ギンガの髪が「怒髪天を突く」的に逆立ち始めたのを見て、兼一はかなりビビった様子ながらもギンガを止めようと努力する。具体的には、やめるように声を駆け、抱えるようにしてギンガの左腕にしがみついていた。
反対側の右腕には、いつの間にか翔がぶら下がっている。どうやら、彼も必死にギンガの暴走を止めようとしているらしい。

本来、兼一のパワーなら16の少女の拳を止める位訳はない。
しかし、如何せん事前情報でギンガが魔導師である事を兼一は知っていた。
故に、大事をとっていつでも全力で止められるように身体全体を使っているのだ。
何しろ、兼一は魔法に対して全くの無知。魔法を使われた場合、自分で止められるかの判断ができないのだから。
ただここで、兼一はその手で触れたギンガの腕の感触に僅かな違和感を覚えた。

(……………? なんか、妙に固いというか、ゴツゴツしているというか……しなやかでいい筋肉なんだけど、変なものが混じってる。この子、昔大けがでもしたのかな?
 ボルトとかワイヤーっぽい感触もするし、そう言うので固定しているとすれば一応納得はいくんだけど…………………いや、やっぱりしっくりこない。それに、仮にそうだとしても古傷がある風でもないんだよね。
まあ、それも進んだ技術のおかげって考えれば辻褄はあう………のかな?)

はっきり言ってしまえば、それは人体を熟知した兼一にとっても未知の感触だった。
それっぽい物は挙げられるのだが、具体的「これ」という物が思い浮かばない。
そもそも、挙げだしたらキリがないほどに違和感が次々と浮かんでくるのだ。
根っからのお人好しであるが故に敢えて考えないようにしているが、「本当にこれは人の腕なのか」そんな疑問に発展しそうになっていた。まさか、それが正解だとは思いもせずに。

まあ、それはさておき……やはり初対面の相手に腕だけとはいえ抱きつくものではない。
何が言いたいかというと、あまりその手の事に免疫のないギンガには少々刺激が強すぎたらしい。

「わひゃあ!? な、なななななな何をするんですか!?」
「へ? あ、すみません…………って、翔!?」
「あ~~~~~……」

思い切り赤面して硬直しながら叫ぶギンガに対し、兼一は少し驚きながらもその手を離す。
しかし、兼一と違って離すのが僅かに遅れた翔は、ギンガが反射的に腕を振り回したものだからあえなく宙を舞う破目に陥った。何しろ体が小さく体重も軽い翔だ、それはもう軽々と宙を飛んでいる。
ギンガは自身の失態に気付き、その口からは声ならぬ声が漏れる。

「っ!?」
「ヤベェ!?」

声を挙げたのはゲンヤ。彼の視線の先には、今まさに振りほどかれた翔が壁にぶつからんとしている。
普通ならこのまま壁に激突し、程度の差はあるが怪我を負うことになるだろう。

だが……それは、投げられたのが翔以外ならの話だ。
翔はまるでネコか鳥の様に宙で身をひるがえすと、さも当然の様に壁に四肢をつく。
そのまま重力にひかれ、彼は無事床の上に着地を決めた。
それを見て、ゲンヤとギンガが思わず安堵の吐息を洩らしたのは当然だろう。

「よ、よかったぁ……」
「ったく、何やってんだ。
ぶつからなかったから良かったものの、こんなガキに怪我させそうになってんじゃねぇよ」
「うぅ、面目次第もありません。ごめんなさい、兼一さん翔君」
「あ、いえ、そもそも僕達があんなことしたのが原因ですから。ところで翔、怪我はないか」
「うん!」

兼一は翔の下に駆けより、一応怪我がないかを確認する。
完璧な着地を決めた以上、怪我はしていない筈だが念の為だ。
同時に、兼一は内心で今のギンガの動きを考察する。

(それにしても、あんな滅茶苦茶なやり方が軽々と人を投げるなんて……。
 翔は軽いからあの細腕じゃ無理とまでは言わないけど、それにしたって……アレが、魔法の力?
 もしそうなら、かなりやりづらい)

今の一連の事象を見て、兼一が抱いた感想がこれだ。
力任せに人を投げることは可能だが、それは決して容易なことではない。
如何に体重の軽い翔とは言え、それでも4歳という年齢相応の体重はある。
これを片手で理を無視して適当に投げるとなると、それなりに筋力が必要だ。
ギンガの腕でそれが不可能とは言わないが、それでもかなり無理のある動作だろう。

その無理を無理でなくすものがあるとすれば、それは魔法の力以外にあり得ない。
少なくとも、兼一はその判断に疑いを持ってはいない。
先ほど感じた正体のつかめない違和感より、よほどこちらの方が結び付けやすいというのもあった。
何しろ、治療の為に人工物を使用するのは理解できても、人体を強化するためにそれらを埋め込むなどという発想は、そもそも彼には存在しないが故に。
兼一に言わせれば、そんな事をしなくても「鍛えれば充分強くなれる」のだから。

いや、今兼一が問題としているのはそこではない。
強い人間というのは、雰囲気や立ち振る舞いなどにそう言ったものが滲みでる。
魔導師でもそれは変わらないのだが、一つ兼一にはどうしても看破できない要素が存在する。
そう、魔導師ではない兼一には魔力の大きさはわからず、魔法によって強化された身体能力がどの程度の物なのかが判別できないのだ。
元となる身体能力や技量は分かっても、そこに上乗せされる魔法の力は読めない。
実際に戦うとすれば、相手の力が読み切れないのはさぞかしやり難いだろう。

と、兼一がそんな事を考えていることに気付く事もなく、ギンガは再度深々とお詫びの意を示していた。
ついでに、相変わらずゲンヤはそんなギンガに茶々を入れているが……。

「本当にすみません。えと、その……こう言った事は不慣れなもので……」
「男と付き合った事はおろか、手を繋いだこともねぇからこんなことで慌てんだよ。
 精進がたらねぇぞ精進が、俺ぁ情けなくて泣けてくらぁ!」
「ああもう、外野は黙っててください!!」

わざとらしく手の甲で目元をぬぐうゲンヤと、それに「いい加減にしろ」とばかりに怒るギンガ。
なんのかんの言いつつ、仲のいい親子なのだろう。
兼一としては若干苦笑を浮かべつつ、そんな事を思う光景だった。

「にしても、ずいぶんと身軽だなこの坊主は」
「ああ、そう言えば」
「あ、あははは……」

ゲンヤとギンガは先の翔の身のこなしを思い返し、感心したようにそんな感想を述べる。
それに対し、兼一としては笑ってごまかすより他はない。
どうやら、翔は兼一よりも風林寺の血を濃く受け継いでいるらしく、その身体能力は高い。
それこそ、大抵のスポーツで大成できる資質があるだろう事を、誰よりも兼一が知っていた。
同時にそれは、武術においても例外ではない。翔ならば、普通にやっていてもそれなりの腕になるだろう事を、父としての身内贔屓ではなく、客観的な武術家としての視点で兼一は理解しているのだ。
だからこそ、そのことにあまり触れたくないが故に笑ってごまかす。

とはいえ、そんな兼一の想いを知る筈もない翔は、今の空中遊泳がツボにはまったらしい。
いそいそとギンガに駆けより、普通に考えればだいぶ無茶で危なっかしい事を求めていた。

「あの、今のもう一回やってくれませんか!」
「え? ああ、いや、アレはちょっと危ないから…他の事にしない?」
「ええ~……」
「ほら、怪我しないかってお父さんも心配すると思うし…ね?」

酷く残念そうな声を漏らす翔に対し、ギンガは膝を折って翔の眼の高さに合わせながら諭す。
今はたまたまうまく着地できたが次も上手くいくとは限らない、というのがギンガの見解だ。
確かに、普通の子どもがあんな着地を決められる事はまずあり得ないだろう。
それなら、ギンガが困った様子でそう言い聞かせるのは当然といえた。
そして、兼一としてはギンガの言葉にはおおむね同意。
彼女と違って、危ないからではなく翔の身体能力をあまり露見したくないからだが。

「翔、ギンガさんを困らせるんじゃない。あまり我儘を言ってると、嫌われちゃうかもしれないよ」
「……はぁい」
「いえ、我儘だなんて…そんなことは全然ないから、気にしなくていいよ。
 ただね、ちょっと危ないから別の事をして遊ぼうか?」
「……いいの?」
「うん! 危なくないなら、いくらでも遊んであげる♪
 だけどね、君が怪我をしたらお父さんもそうだけど、私やそこのおじさんだって悲しいから、それだけはわかってくれるかな?」

翔の翠の瞳を覗き込み、その頭を優しく撫でながらギンガはゆっくりと言い聞かせる。
妹がいたことで年少者の扱いを心得ているのだろう。
それは傍から見ると、年の離れた姉弟か従姉弟の様にも見えた。

「おい、誰がおじさんだ」
「父さん以外にいるわけないでしょ。十代半ばの娘がいる時点で十分おじさんです。
 むしろ、その年と外見で『おじさん』扱いしてもらえるだけ喜んでください。
 見る人が見たら『おじいさん』にだって見えるんですから」

どうも、今日のギンガはだいぶ棘があるらしい。
まあ、アレだけからかわれれば棘の一つや二つ出てくるというものだろう。

「ほれ、いつまでも玄関でくっちゃべってても仕方ねぇだろ。
 早く入って飯にしようや、そこの坊主も腹をすかしてるみてぇだしよ」
「あ、うん。でも父さん、『坊主』はないんじゃないの?」
「別にいいだろ、なぁ?」
「まあ、別にいいんじゃないでしょうか?」

翔の呼び方についてギンガは苦言を呈するが、兼一も翔もあまり気にした様子はない。
何しろ、逆鬼は翔の事を『坊主』どころか『チビ』と呼んでいる。
これに比べれば、ゲンヤの呼び方くらいはあまり気にならないだろう。

「なら問題ねぇな。そら、さっさとはいんな」
「はい、お世話になります」
「おじゃましま~す」
「ったく、ちげぇだろ。しばらくここで暮らすんならな」
「え、でもそれは……」
「ここを自分の家だと思ってくださると、私達もうれしいですから」

並び立って白浜親子に微笑みかけるナカジマ親子。
そんな二人に、兼一は心から感謝の念を覚える。故郷を離れ、異郷の地で土台となる物を何も持たない自分達に対し、この家と自分達を土台と思ってほしいと言ってくれる、この親子の優しさに。
翔は喜びをかみしめるように僅かにうつむいた父を見上げ、不思議そうに首を傾げる。

「父様?」
「翔、家に帰ったら、何て言うんだっけ?」
「………………ただいま」
「そうだね。ただいま、ゲンヤさんギンガさん」
「「はい(ああ)、お帰り」」

こうして、兼一と翔は異郷の地ミッドチルダにおける『我が家』とも呼ぶべき場所に一歩を踏み出した。



おまけ

ナカジマ家の居間にある楕円形の食卓で遅めの夕食をとる四人。
メニューは兼一と翔の事を慮った純和食。見知らぬ異郷の地に来たばかりの二人に配慮し、少しでも落ち着けるようにとギンガが腕をふるったのだ。
白浜家や美羽のそれとは僅かに違う味付けながら、その慣れ親しんだ和の味に白浜親子は舌鼓を打つ。
際立って旨いというわけではないが、充分「美味しい」と言える味だ。
ただ、一つ気になる事がある。それは……

「他の料理もおいしいですけど、お味噌汁は本当においしいですね。これもギンガさんが?」
「はい。和食は母に習って、その母はおじいさんから習ったそうですよ」
「へぇ、オフクロの味って言う奴ですね」
「まあ、そんなところですね。翔君はどう? 美味しいかな?」
「うん♪ それに、なんだか父様の作ってくれるお味噌汁に似てて、とっても美味しい!」
「そっか、喜んでもらえてよかった」

兼一と翔の反応に気をよくしたのか、ギンガの顔には溢れんばかりの笑顔が咲き乱れている。
料理をはじめとした家事は元々好きだが、やはりこうして褒めて喜んでもらえればうれしいものだ。

「でも兼一さんもお料理が得意なんですか?」
「得意って言うほどものでもありませんけどね。
 ただ、この子に母の味を教えてあげたくて、僕なりに色々試してるんです」

それは、母を知らぬ翔への兼一の愛情そのもの。
美羽と共に台所に立った記憶を掘り返し、かつて食べた味を思い出しながら、少しでも美羽の味に近づけようとこの四年間研究し続けた料理。
未だ完璧に再現できたとは言い難いが、それでもだいぶ近づけたという自負が兼一にはある。

「でも、ちょっとショックかな。
あの味を出すのに僕も結構苦労したんだけど、ギンガさんもその味が出せるなんて……」
「いやいや、そんな大したもんじゃねぇぞ。こいつの得意ジャンルが何か教えてやろうか?」
「ちょ、父さん!?」
「へ? 和食じゃないんですか?」
「確かに和食は得意だが、一番の得意分野は違う。
 こいつな、大雑把かつ大量に作れる料理の方が味は良くなるんだよ。
 カレーとか鍋物の方が得意なんだわ。ま、一番はベーキングパウダーを山ほど使った菓子なんだがよ」
(そう言えば、ギンガさんのお皿って、物凄い山盛りだよね……)

そう、あえて気にしないことにしていたが、兼一の向かいに座るギンガのさらにはうず高く積み上げられた白米の山がある。他にも、どこの大食い選手権かと言わんばかりの量の料理が、彼女の前には並んでいるのだ。
あの細い体のどこに、これだけの質量が入るのか、兼一は心底不思議だった。
というか、一瞬「これが魔法の力なのか」と愕然としたのは秘密である。

「うぅ、べ、別にいいじゃない。ちゃんとおいしいんだし……」
「そりゃあな。味に文句はねぇし、作った分はちゃんとおめぇやスバルが消費するんだからとやかくはいわねぇよ。食費に関しちゃ、クイントが生きてた頃からあきらめてるしな。
 だがよ、料理の得意分野までアイツに似ることたないだろ」
「子が親に似るのは当然です。文句があるなら、父さんも教えるべきだったんじゃないですか?」
「ちっ、親父に反発して料理なんて手をつけなかったからなぁ……」

どうやら、ギンガの料理スキルは母の影響を色濃く受け継いでいるらしい。
それにこの話からすると、ゲンヤの亡き妻であるクイントも相当な大食いだったようだ。

(ギンガさん、見た目だけじゃなくて食事に関してもお母さん似なんだね)

棚の上の写真立てにある、ギンガとよく似た女性の写真を見て兼一はそんな事を内心で呟く。
ギンガからはゲンヤの遺伝子をまるで感じないが、母クイントの遺伝子が大勢を占めているらしい。
まあ、それも彼女の出生からすれば当然なのだが、こればっかりは兼一のあずかり知らぬところである。

「あの、ところで兼一さん」
「はい、なんですかギンガさん」
「私の方が年下なわけですし、もうちょっと気軽に話してください」
「でも、それは……」
「正直に言ってしまうと、年上の方に敬語を使われるのって変に緊張しちゃうんですよ。
 ですから、お願いできませんか?」

相手は家主の娘、兼一としては敬語を使うのが当然なのだが、ギンガはそう思っていないらしい。
実際に、兼一にそう頼んでいる今もどこか困ったような笑顔を浮かべている。
礼儀の事を考えるならやはり敬語を使うべきと兼一は考えるが、当人がそれを望んでいないのなら話は別だ。
少々悩んだ兼一だったが、最終的にはギンガの申し出を受けることにする。

「それじゃあ、『ギンガちゃん』って事でいいかな?」
「ちゃ、ちゃんですか!?」
「おかしいかな?」
「あ、いえ、全然そんな事はないんですけど……」

恐らく、そういう呼び方に慣れていないのだろう。
動揺を露わにするギンガの顔は、慣れない呼び方への恥ずかしさから赤面している。
兼一としては年下の女性は大抵「ちゃん」付けなので抵抗はないが、ギンガはそうではなかったらしい。
まあ、16にもなって目上の人間から「ちゃん」付けで呼ばれるのは、確かに恥ずかしいだろう。
実際、ギンガは兼一に聞こえないように内心で「そんな子どもじゃないのに」とぼやいている。
そんなギンガの反応を見て兼一は首を傾げ、ゲンヤは笑いを押し殺すのに苦労していた。
とそこで、それまで不思議そうに父とギンガの顔を交互に見ていた翔が、恐る恐るギンガに話しかける。

「あの、ギンガさん?」
「ん? どうかしたの、翔君」
「その、えっと……………『お姉さん』って、呼んでもいい?」
「え?」

それはとても控えめで、今にも消え入りそうな小さな願いの言葉。
翔は一人っ子で、母も知らない。身近な女性と言えば、一緒に暮らしている祖母位なもの。
叔母や父の友人の女性たちと会う機会はあるにはあるが、一時でも一緒に暮らした経験などある筈もなし。
故に、彼にとってギンガは祖母をのぞけば一番身近な所にいる女性ということになる。
たとえ、それが短い期間だったとしても。

それでも、しばし共に暮らすその相手との距離を少しでも縮めたいと、子どもながらに思った結論がこれだったのだろう。呼び名というのは、それぞれの精神的な距離を現すと言ってもいいから。
そして、不安そうに上目づかいで自身を見つめる翔の眼を見たギンガの心はというと……。

(か、可愛い!? なに、この可愛い生き物は!!
 涙で潤む翠のつぶらな瞳の上目づかい、あどけない表情、澄んだ高い声、どれもこれも破壊力あり過ぎよ!?)

童子というのは、ただそれだけで周りの大人の庇護欲をそそる魔性の生き物だ。
翔にその自覚は一片もないが、その邪気のなさがかえってギンガの心を揺さぶっている。
元々面倒見がよい世話焼き気質のギンガだ、こんな眼と声で求められてどうして拒否できようか。
そして、あまりの衝撃にプルプルと震えていたギンガだったが、ついに辛抱堪らんとばかりに翔を抱きしめた。
その様は、そのまま頬ずりを始めるどころではなく、傍から見ると今にもさらっていきそうな印象さえ受ける。

「あぅ!? お、お姉さん?」
「ダメよ、お姉さん…何て呼ばせない」
「ぁ、その…ごめんなさい」

突然抱きしめられたことに驚きながらも、ギンガの顔をゆっくりと見上げる翔。
そんな彼に対し、ギンガはその呼び方を許さない。当然、翔は目に見えて落ち込む。
しかし、ギンガの言葉にはまだ続きがあった。

「『お姉さん』だなんて他人行儀な呼び方じゃなくて、もっと気軽に『ギン姉』って呼んでいいのよ。
 むしろ呼んで! いえ、呼びなさい翔君!! 私の事は、遠慮なくお姉ちゃんと思っていいんだから!!!」
「ああ……わりぃな。なんか知らんが、明らかに暴走してやがる。
一発はたいて正気に戻すなり止めるなりした方がいいか?」

娘の知られざる一面を垣間見たのか、ゲンヤはどこか悪い夢でも見ているかのような面持ちだ。
母親に似て世話好きだし、何より妹であるスバルを母亡きあとは半ば母親代わりで育てたギンガだが…まさかここまで錯乱するとは思わなかったらしい。
まあ、弟と妹では違うのかもしれないが、翔の何かが最近は燻り気味だったギンガの世話焼きの気質に火をつけたようだ。それこそ、山火事級の。
そんなギンガと翔の様子を見ていた兼一は、僅かに苦笑を浮かべながらもその反応は好意的だった。

「あ、いえ。翔も満更ではない様ですから、このままで…いいと思います」

兼一の言う様に、ギンガに抱きすくめられる翔は少し苦しそうにしているが、同時にどこか嬉しそうでもある。
如何にあまりさびしい思いはしてこなかったとはいえ、翔は母のいない一人っ子。その事実が変わる事はない。
恐らく、「寂しい」というほどではなくとも、そう言った家族が欲しいという潜在的な願望があったのだろう。

「ね、ダメかな?」
「く、くるしい……」
「あっ…ご、ゴメンね!?」

翔の言葉に大急ぎで抱きしめる手を緩めるギンガ。
そのまま一端身体を離そうとするが、それはかなわない。
なぜなら、今度は反対に翔がギンガの事を抱きしめていたのだから。

「翔…君?」
「良い…の? その……………………『ギン姉さま』って、呼んで?」
「…………バカね、当たり前でしょ。ねぇ、『翔』」
「…………………………………うん♪」

俯き不安そうに尋ねる翔に対し、ギンガは再度の抱擁を以て応える。
先ほどの様な強さはなく、優しく、暖かで穏やかな抱擁。
気がつけば、ギンガの左手はゆっくりと翔の頭にのせられ、愛おしそうにその頭を撫でていた。

「ギン姉さま」
「なに、翔?」
「あったかくて、いい匂いがする」
「そう? 私もね、あったかいよ」
「やれやれ…仲良き事は美しき哉、ってか?」
「そうですね」

こんな感じで、白浜親子の異世界での初めての夜は更けて行く。
明日からの日々に何が起こるのか、それを各々は漠然と楽しみにしながら。






あとがき

正直に言ってしまうと、予定に比べて全然進んでいません。
ホントは、ある程度ミッドでの日常風景にまで触れるつもりだったんですけどね。
この分だと、ちゃんとした形で状況が動くまでにあと1・2話かかることになるかもしれません。
というわけで、しばらくの間はほのぼのベースの日常のお話になるでしょう。

ところで、ゲンヤは少しだけ兼一の一面に近づいてきています。
とはいえ、魔法主体で人体の限界には疎い彼らでは、今のところはこんな認識でしょう。
翔は、今のところは割とスペックが高いだけの子どもに過ぎませんけどね。

まあ、逆に兼一は兼一でギンガの体に違和感を覚えてますけどね。
ただ、彼にはその手の知識がまるでないので、違和感が確信に発展しませんが……。
早い話、「なんか変だなぁ」と思いつつ、上手く説明できないので管理世界の進んだ技術による物と自己完結してしまうのが簡単だったんですよ。あながち間違ってませんしね。

最後に、シャマルはここで一端退場し、代わりにギンガが翔の姉的ポジションに。
これにどんな意味があるのかは、まあ追々という事で。
ただ、彼女の料理スキルに関しては、姉妹揃ってあの大食ですからね。きっと、得意分野もそれに見合ったものなんじゃないかなぁ、と思っての捏造設定ですけど。

それでは、早めに更新できるよう鋭意努力いたしますので、今後ともお付き合いくだされば幸いです。



[25730] BATTLE 3「昼の顔、夜の顔」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/03/06 00:06

兼一と翔の白浜親子が第一管理世界ミッドチルダに迷い込んでから早数日。
まだまだ不慣れなことも多いが、いくらかの時間を駆けたことで多少は今の生活にも慣れてきた。
未だ文字が読めないことによる不都合はあるが、いくつかの看板などは文字ではなく『絵』や『記号』として認識することで、ある程度はそれがなにを意味しているのかが分かるようになってきている。

また、ギンガやゲンヤをはじめとした108の隊員たちから読み書きも教わっている真っ最中。
本の虫である兼一にとって、この世界の書籍は宝の山だ。
何しろ、文字どおりの意味で見たこともないような本が山の様にある。
半ば活字中毒でもある兼一にとっては、むしろ読めないという状況こそが苦痛。
ならば、彼が割と真剣に読み書きを学んでいるのも当然だろう。

翔の場合、さすがにナカジマ親子や兼一が働きに出ている間、家に一人きりにするわけにもいかない。
必然的に、翔は108内にある託児施設で厄介になっていた。
どうやら、子どもらしい純粋さから、早々に友人もできているらしい。
まあ、一番彼が一緒にいる事を好むのは、『姉さま』と慕うギンガなのだが……。

ちなみに、なんでそんな施設があるのかというと、これは必要に迫られてのものだ。
なにしろ、108には家庭を持った局員、あるいは片親の局員というのも当然いる。
それだけではなく、その職種の関係から夜勤や泊りがけになる場合も多い。
その為、隊舎内にそういった施設が有った方が都合がいいとして、大抵の陸士部隊にはその手の施設が存在する。

さて、これはそんな感じに異郷での生活に慣れ始めた兼一達が送る日常風景である。



BATTLE 3「昼の顔、夜の顔」



早朝、この家の家主であるゲンヤ・ナカジマは日課のランニングから帰ってきた。
玄関で扉を開けると、途端に食欲をそそるいい匂いが彼の鼻孔を刺激する。

「ったく、これじゃどっちが世話してんだかわかんねぇな」

そうぼやいたゲンヤは、苦笑を浮かべつつ首から下げたタオルで汗を拭きながら居間へと足を進める。
そうして居間についてみれば、そこには彼が予想した通りの光景が広がっていた。

「あ、おはようございます、ゲンヤさん」
「おう、おはようさん。朝からわりぃな、兼一」
「いえ、お世話になってるんですからこれくらいは。もうすぐできますから、着替えてきてくださいね」

台所にいたのは、エプロンをつけてフライパン片手に朝食の支度をする兼一。
兼一達親子がナカジマ家で厄介になるようになってからの数日の間に、すっかりなじんでしまった光景だ。
はじめのうちはギンガが「遠慮せずに寛いでください」と言ってくれた。
だが、兼一としては何から何まで世話になってばかりもいられない。
一悶着ありはしたが、最終的には当番制で家事を分担することで落ち着いたのだ。

「あいよ。ところで、翔とギンガはどうした?」
「ああ、二人なら今はまだ寝てると思いますよ。昨日、ギンガちゃんは遅くなるから先に寝てるように言っておいたのに、結局帰ってくるまで眼をこすって起きてましたからね」
「ククク……ギンガも口では『早く寝なさい』だの言ってるが、なんだかんだで喜んでたみたいだし、説得力なんてありゃしねぇわな。しっかし、初めて一緒のベッドで寝た男が翔か。我が娘ながら……色気がねぇなぁ」

『やれやれ』とばかりに呆れた様子で溜息をつくゲンヤ。
彼の言う通り、今翔はギンガの部屋で彼女と一緒に寝ている。
元の世界ではずっと兼一と一緒に寝ていた翔だが、こちらに来てからは父と姉の間を交互に行き来していた。
ほんの数日の間に、すっかり仲の良い姉弟になってしまったものだと、男親二人は感心するばかりだ。

「おめぇさんとしちゃ、ちょいとさびしいんじゃねぇか?」
「どうでしょうね。でも、翔が幸せそうならそれでいいですよ」
「はっ、まさしく教科書通りの答えだな。
他の奴が言ったなら単なるごまかしだが、おめぇの場合は本気でそう思ってるんだから、たいしたもんだ」

ゲンヤの言葉に、兼一は困ったように頭をかく。
以前ほど自分にべったりではない息子に対し一抹の寂しさがないわけではないが、それでも昨今の翔は良く笑う。
いや、以前からよく笑う子どもだったのだが、以前以上にいい笑顔で笑う様になった気がしていた。

普通、全く知らぬ異郷の地にいきなり放り込まれれば、そんな反応を示す筈がない。
だが、ゲンヤや人の良い108の隊員たちとの触れ合い、何よりギンガの存在が大きく影響しているのだろう。
とはいえ、それを無条件に喜んでもいられないのだが……。

「ん? どうした、神妙な顔してよ」
「いえ、翔が幸せそうなのは本当にいい事なんですが……それも、あまり長くはないんですよね。
 そう思うと、ちょっと……」
「ああ、あと1月半もすりゃあっちに帰れるんだもんな。そうなりゃ、当然会う機会も減るか。
 俺らは八神んとこと違って、向こうにはもうほとんど縁なんぞ無いからな」

そう、この幸せな一時も決して長くはない。
悲劇的な意味ではなく、本来であれば好ましい変化の結果として。
兼一達が元の世界に戻れるようになるまで、そう長い時間は必要としない。
この地で過ごす時間は刻一刻と減って行く。
それはつまり、あの仮初の姉弟の関係の終焉が近づいていることも意味する。
それが兼一としては、心配といえば心配だった。

「翔は………きっと悲しむと思います」
「そりゃ、ギンガも同じだろうぜ。アイツは嘘が下手だからな、ああして翔を猫かわいがりしてんのは紛れもない本心だろうよ。どこまで表に出すかまでは分からんが、どうせ見てないところで泣くんだろうな」
「そこまで翔の事を思ってくれるのは、親冥利に尽きるんですけどね」
「だな」

兼一の言葉に、ゲンヤも静かに同意する。
どんな形であれ、我が子との別れをそこまで惜しんでもらえるのはやはり嬉しい。
嬉しいが、それに勝るとも劣らないほどに悲しくもある。
特に、その別れに傷つくであろう我が子を思えば尚更だ。

兼一としても、ギンガはこの地での「可愛い妹」と思う相手。
できるなら、彼女の今後の行く末も見守りたい気持ちはあった。
ギンガもまた、兼一の事は「優しい兄」として見ている節がある。
それだけに、一個人としても兼一はこの地を離れることに寂寥感を抱いてしまう。
とそこで、唐突にゲンヤはある提案を口にした。

「なぁ、どうせならいっそのことこっちで暮らす気はねぇか?」
「え?」
「いやな、俺としてもおめぇの事は気にいってるし、最近は飲む酒が旨くてな。
それに、お前からすれば迷惑かも知れんが、俺にとっても翔は可愛くてよ。こっちは女所帯だっただけに、ちっとばかし『息子』ってのにはあこがれてたんだわ。
折角できたダチと息子がいなくなるのは、やっぱ寂しいもんだからよ」
「……………」
「生活の事なら気にすんな。このままこの家に住んでもらってかまわねぇし、おめぇさんは周りからの評判も良い。知ってるか? 『読み書きの関係で至らないところはあるが、よく働いてくれる』って評判なんだぜ。
 読み書きにしても熱心だからな、そっちもそうかからずになんとかなるだろ。
 それなら、こっちで暮らしていくこともできると思うんだが…どうだ?」

ゲンヤの申し出は兼一にとって少々意外なものだったが、同時に嬉しくもある。
兼一自身、この地とこの家での暮らしには徐々にだが愛着を覚えつつあった。
この地で暮らしていくというのも、悪くない未来予想図だと思う。

「ですが、そうなると仕事の方が。今の僕は『短期就労』のアルバイトみたいなものですし……」
「ああ、そっちは問題ねぇぞ。このままウチで正規雇用すりゃいいだけだからな」
「え? 仮にも公的機関なんですから、試験とかあるんじゃないんですか?
 いくら読み書きをおぼえても、こっちの世界の試験をパスするのはちょっと……」
「まあ、難しいだろうな。だがよ、実はおめぇらみたいなやつの支援制度の一環でな、能力ありと認められれば試験そのものは多少ゆるくなる。こちとら人手不足だからな、借りられるなら猫の手でも借りてぇところさ。
 そんなわけで、使えそうな奴には多少の融通は利くようになってる。
 どうだ、悪くねぇ話だと思うんだがな」

その提案は、確かに非常に魅力的だ。
もし仮に、兼一が元の世界にあまり未練がないのなら喜んでその申し出を受けたかもしれない。
しかし、現実には兼一には帰るべき家が有り、待ってくれている人たちがいる。
何より、あの地は亡き妻との思い出の地。一時離れるだけならともかく、余所の土地に永住するとなると気が引けるのだ。

「有り難いお話ですけれど……」
「ま、そうだろうな」

兼一は申し訳なさそうに頭を垂れるが、ゲンヤはあまり気にした素振りを見せない。
恐らく、彼もこの返事は予想していたのだろう。

一人の親として、二人はできれば我が子に悲しんでほしくはない。
しかし、こればっかりはどうにもならないだろう。
兼一達には帰るべき世界が有り、ゲンヤ達にはいるべき世界とここでの生活がある。
どちらも捨てることはできない以上、どちらかがどちらかの世界に移住することはできない。
少なくとも、今はまだ両者には故郷を離れてまでどちらかの土地に住むほどの理由がないのだから。

「いや、それで今生の別れになるとも限らねぇし、あんまり思い詰めることもねぇか。
 とりあえず、近いうちに観光がてら買い物にでも行って来い。思い出づくりってのも、悪くはねぇさ」
「…………はい」
「んじゃ、俺は着替えついでにギンガと翔を起こしてくるわ。飯の方は、頼んだぜ」
「ええ、お願いします」

そうして、今度こそゲンヤは居間を後にして自室へと戻って行った。
自室に戻ったゲンヤは、そのまま出勤のための準備を整えてから、先の言葉通りギンガの部屋の前に立つ。
親子とは言え、親しき仲にも礼儀あり。特に年頃の娘を持つ身としては、色々気を使っているのだろう。
ゲンヤはゆっくりと、大きくなりすぎない程度の強さでその扉をノックする。

「ギンガ、起きてるか? そろそろ飯ができる、坊主を連れて早めに降りてこいよ」
「うん、もう少ししたら降りるから先に行ってて」

ゲンヤの言葉にはちゃんと返事が返され、ギンガがすでに起きていたらしい。
ただ、その声音は静かながらとても穏やかだ。
中で何がどうなっているのかはゲンヤにはあずかり知らぬ事だが、その声はどこか微笑ましい。

「おう。遅くなりすぎねぇ様に降りてこいよ」
「うん」

二度寝しそうな寝ぼけた声でもないことから、ゲンヤはそのままギンガの私室を離れた。
ところでこの時、そのギンガの部屋の中がどうなっていたのかというと……

(できれば、もう少し見てたかったんだけど…また今度、かな?)

ギンガはベッドの上で軽く上体を起こしながら、傍らでスヤスヤと寝息を立てる翔の髪を優しく梳く。
指に触れる柔らかな黒髪の感触は心地よく、無垢な寝顔はまさしく天使の様。
翔の小さな手はギンガの寝巻を握り、ついさっきまで彼女に抱きつくようにして寝ていたことが伺える。
ギンガもそれが嫌ではないのだろう。翔の寝顔を見つめる眼差しは慈愛に満ちている。
窓からカーテンの隙間を縫って差し込む朝日、外から届く小鳥のさえずりさえも含めて、それは一枚の絵画の様な光景だった。

「っと、いつまでもこうしてられないよね。翔…起きて、朝だよ」
「……んん、ギン姉さま?」
「おはよう、今日もいい天気だよ。早く着替えて、朝ごはんにしようか」
「むにゃ………はい」

寝ぼけ眼を擦りながら起き上る翔、それを見て微笑みを抑え切れないギンガ。
こうして、今日もまたナカジマ家の一日が始まるのだった。



  *  *  *  *  *



場所は変わって、108の隊舎。
今日も今日とて、兼一は荷運びや清掃などの雑事に精を出していた。

「白浜さん、すいません。これもお願いできますか?」
「お~い、頼んでた倉庫の整理終わったかぁ?」
「白浜ぁ、玄関に荷物が届いてるからよ、後で運ぶの手伝ってくれぇ」
「悪ぃ白浜! 急いでこいつを運んでくれ!! もう締め切りまで時間がねぇだよぉ!?」
「あ、分かりました。今行きますんで、少し待っててください」

山積みの段ボールを手に隊舎の外を歩いていた兼一に対し、四方八方からそんな声がかけられる。
それらに対し兼一は、嫌な顔一つせずに実に良い笑顔で答えていく。
文字が読めない為に色々と不都合もあるが、生来の人柄の良さからだろう。
周りからすれば、良くも悪くも頼みごとをしやすい相手というのが、兼一へ認識だった。
そして、そんな兼一を窓に肘をついて見下ろす人影がいる。

「お~お~、あいつは今日も元気にやってんなぁ……」
「父さん、行儀が悪いですよ」
「堅てぇこと言うなって。面倒見てる奴の様子を気にするのは、身元引受人の義務みてぇなもんなんだからよ」
「なら、見守りながら仕事をしてください。さあ、次はこの書類ですよ」
「へぇへぇ」

ちょこまかと動く兼一を面白そうに見ていたゲンヤに向け、ギンガは押し付けるようにして書類を渡す。
ゲンヤはそれをややうんざりした様子で受け取り、気だるげに目を通していく。
全く以って不真面目な態度だが、仮にも一部隊の長。
どれだけやる気がなさそうに見えても、やる事はしっかりやるのだ…………と思う。

仮にも長い間この部隊の長を務めてきたのだから、能力があるのは間違いない。
だが如何せん隙あらばサボり、理由をつけては楽をしようとしているので、イマイチ信用ならないのだ。
そんな父を見て、ギンガはこれ見よがしに溜息をつく。

「……………………はぁ」
「なぁ、そんな恨めしそうな目で見ながらため息つくの、やめぇねか?」
「やめてほしいなら、もっとしっかりやってください」
「んなこと言われてもなぁ…俺は昔からこのスタイルでやってんだ、今さらどうにもなんねぇよ」
「ホント、今更だけど母さんの苦労が偲ばれるわ。
 時々、『上に行こうと思えば行ける人なのに』って愚痴ってた母さんの気持がよく分かるもの」
「あいつ、んなこと言ってやがったのか?」
「ええ、多分スバルも憶えてると思いますよ」

ギンガの言葉に、ゲンヤはどこかバツが悪そうにして目をそむける。
どうも、本人には色々と心当たりが多すぎるらしい。
ただ、軍人の場合「有能な怠け者」というのは前線指揮官に向いているとされる。
理由としては、怠け者であるが故に部下の力を有効に活用し、どうすれば自分と部隊が楽に成果を上げられるかを考え、実行できるからだ。
そして、ゲンヤはまさにその典型だった。

「母さんから聞いたことがあるんですけど…昔、上官を殴って降格されたことがあるんですよね?」
「ああ、そういやそんな事もあったなぁ……いけ好かない野郎でよ、ついやっちまった」
「対立してた味方の部隊を勝手に囮にしたこともあるって聞きましたけど?」
「結果的に上手くいったんだから、別にいいじゃねぇか。被害も最小に抑えられたんだぜ?」
「独断専行して、令状も出ていないのに動くなんてしょっちゅうだったんですよね?」
「あの頃は若かったし、色々やんちゃしたもんだ」
「昇進するのが嫌で、適当なところで当たり障りのない失態をわざとしてるという噂は?」
「人間、分相応ってものがある。俺にはこのくらいがちょうどいいんだよ」

ギンガが挙げた全てを否定することなく、むしろ笑って肯定するゲンヤと頭を抱えるギンガ。
本人はまるで後悔していないようだが、彼の周りの人間はそうではない。
なにしろ、これまでの実績を考えれば将官級とまではいかなくても、本来なら一佐位の地位についていてもおかしくないのだ。その事を惜しむ人間は、決して少なくはない。
それどころか、彼の気さくかつ飾らない性格もあって、特に同僚や部下からは彼が上に行くことを望む声は多い。

とはいえ、性格や素行にやや難が有るのも事実。
故に、能力が有る為に上層部からはそれなりに信任され、同時にこんな性格の為に煙たがられている、というのが現状でもある。
その上、その人柄もあってやたらと多方面に対して顔が効く。おかげで、あまりぞんざいにもできない。
上層部からすれば、実に扱いにくい人材だろう。これで無能ならまだいいのだが、そうでないから始末が悪い。
実際の権力的には微々たるものというのが、まあ救いと言えば救いなのかもしれない。

「地上本部で幕僚会議の議員になりたいとか思わないんですか?」
「めんどくせぇ」
「めんどくさいって……」
「キツネとタヌキの化かし合いにも、真黒な腹の探り合いにも興味はねぇよ。
 俺はな、自分の分くらいは弁えてるつもりだ。組織を動かすだの変革するだのなんてのは、出来る奴とやりたい奴がやればいいんだよ。もしそれが俺にとっても賛同できるもんなら、手伝いくらいはするがな」
「自分でやろうとは思わないの?」
「昔なら違ったかもしれねぇが、もう俺みてぇなロートルはお呼びじゃねぇって。
 これからの時代は若ぇ奴らが動かして、俺らはそれを後押ししてやりゃあいんだよ」

そう言って、ゲンヤはギンガが入れたお茶に口をつける。
実際、彼にはもう時代を動かそうという野心も意思もないのだろう。
そんな野心を持ち続けるには、彼は年をとり過ぎていた。
だがそれは、必ずしも新たな時代のうねりに無関係でいようという事とは違う。

「それは、たとえば八神二佐ですか?」
「ああ、そういやアイツも近々自分の部隊を持つんだったな。
 未だ二十歳にもなってねぇくせに、何を生き急いでいやがんだか」

かつての教え子の事を思い返し、ゲンヤは溜め息交じりに呟く。
彼女は地上部隊の現状に不満を抱え、それを自分の手でなんとかしたいと思っている。
その感情自体はゲンヤも理解と共感を示す。何しろ、それらは地上部隊が長い間抱えてきた問題だ。
縄張り意識が強いのも、初動が遅いのももちろん理由はあるが、放置していい事でもない。
実際にそれで迷惑をこうむるのは、彼らが守るべき市民たちなのだから。

ただ、少々それを急ぎ過ぎているきらいがあるのが、ゲンヤにとっては気がかりだった。
組織に若い風を吹かす事は、それだけで意味が有る。
それによって組織の在り方がよりよい方向に進むなら、万々歳といったところだろう。
しかし、急いては事を仕損じる。若さ故に成果を急ぎ過ぎる彼女が、ゲンヤは少々心配なのだ。

「そういや、八神の奴からおめぇを貸してくれって頼まれたんだっけか」
「私、ですか?」
「ああ、どうもスバルの奴も候補らしいんだが、即戦力としておめぇが欲しんだとよ。今目星をつけてる連中だと、エース級とペーペーしかいねぇから、その間を埋める奴が欲しいとか言ってやがったな」
「それは、確かにアンバランスですね」
「だろ? 経験豊富な人材と新米が混在するのは当然だが、そのどちらかしかいねぇってのは問題だ。
 その間を埋める中堅が欲しいってのも、納得がいく話ではある」

実際問題として、エース級はほぼ管理職としての働きも求められる。
即ち、新人と管理職しかいない部隊になることが予想されるのだ。
それは確かに、些か為らずバランスを欠いた人員構成だろう。

「ハラオウンとこのお嬢も出向するらしいが、おめぇはどうしたい?」
「…………それは、フェイトさんがいるなら行きたいとは思いますけど……大丈夫なんですか?」
「俺自身としちゃあやぶさかじゃねぇが、難しいな。保有魔導師の制限に引っ掛かる。
 なんでまたあんだけの人材をかき集めたのか知らんが、新人を入れたら余裕はないだろうな。
 それこそ、よほどの裏ワザか上と取引でもしない限りはよ」

そう、ゲンヤの手元にある情報だけでも、その部隊は生半可ではない戦力を有している。
それこそ、並みの部隊とは比較にならない大戦力を、だ。
新人組は当然戦力としては大したことはないが、問題はエース級を複数人抱えている事。
そんな部隊など、戦技教導隊を始め数えるほどしかないのだから。

「ま、わざわざんなこと言ってきたからには、何かしら裏技なり取引なりのあてがあるんだろ。
 一応、可能性として考慮はしておけ」
「はぁ……」

上層部とのそう言った意味でのやり合いは、未だ下士官でしかないギンガには雲の上の話だ。
正直、いったいどんな暗闘が繰り広げられているのか、とてもではないが想像できない。
とそこで、部隊長室の扉をノックする音が室内に響く。

「おう、入んな」
「失礼します」
「あ、兼一さん。どうしたんですか?」
「ああ、これをゲンヤさんに届けてくれって頼まれたんだ」
「ん、そうか。わりぃな」
「いえいえ」

そんな事を言う兼一の腕は、大小合わせて三つの段ボールが抱えられている。
パッと見ただけでもかなりの重量が有りそうだが、兼一はそれらを軽々と支えていた。

(前から不思議だったんだけど、あの細腕の割に力が強いのよね、兼一さんって)

特に力を入れている様子もない兼一を見て、ギンガは内心でそう呟く。
無理もない話だが、彼女はまだ兼一の首から上と手くらいしか見たことがない。
何しろ、兼一は普段から意識して長袖や丈の長いパンツを身につけている。

高校時代はただの細腕にしか見えなかったが、修業が進んで行くうちにその異常性が浮き彫りになって行った。
何と言っても、ただの1mgたりとも無駄のない様に絞り込まれた筋肉である。
服越しでは細く見えても、遮るものなしでその身体を見れば、どんな素人でもその凄まじさを理解するだろう。
故に、あまり周りを刺激しない為に、兼一は夏であろうと長袖を着る様にしてきたのだ。
翔の場合だと、兼一の裸を見慣れている為にそれが標準だと思っている節が有るわけだが……。

「んじゃ、キリも良いし少し休むか。ギンガ、兼一の分の茶も頼む」
「はい、兼一さんは座って待っててください、いまお茶菓子もお持ちしますから」
「あ、すみません」

そうして、ギンガは新しい茶を入れる為に一端その場を後にする。
残された兼一は、ゲンヤに促されるままにソファに座り、ゲンヤもその対面に腰を下ろす。

「しっかし、ずいぶんとはぇじゃねぇか。ついさっきまで、下でうろちょろしてたのによ」
「あはは、仕事の関係で力仕事は慣れてるんですよ」
「まあ、お前さんに頼んでんのはそっちが主だけどよ……」

兼一の言葉にうなずきこそするが、ゲンヤは若干言葉を濁す
何しろ、つい先ほどまで眼も回りそうなほどに忙しかったのに、ほんの数分の間にそれらを片づけてしまったのだ。まあ、兼一の肉体のスペックを僅かなりとも知るゲンヤからすると、一応納得できない事はないのだが。

(にしても、ありゃ鍛えてどうこうってレベルのもんじゃねぇだろうに。つくづくよくわかんねぇ奴だぜ)

外見的には良くも悪くもあまり気の強くない、人の良い好青年にしか見えない兼一。
特別体格に恵まれているわけでもなく、人より秀でた物が有るとは到底思えない。
語学の勉強にしたところで、熱意はあってもあまり要領がいいわけではないのだ。
様々な意味で平凡かつ善良、それがこの数日の間にゲンヤが兼一への認識だった。
まあ、早い話が第一印象がそのまま信に変わっただけとも言えるのだが。

「いや、実際助かってんだからとやかく言う事でもねぇか…くぅ~」

そう呟きながら上方に向けて腕を伸ばし、続いて首を左右にゴキゴキと鳴らすゲンヤ。
さらには肩を回し、ソファに身体を預けて背を逸らし始めた。
つまるところ、セルフマッサージである。

「肩、凝ってるんですか?」
「まぁな。一応運動はするようにしてるんだが、事務仕事が多くてよぉ。
 その上俺も良い年だ、肩だけじゃなくて腰や膝にも色々来ててな」

言いながら、ゲンヤは自身の膝や腰を慣れた手つきでもみ始めた。
よく見れば、部隊長室のいたるところに健康グッズの様なものが置かれている。
やはり、寄る年波には勝てないのだろう。
一つ一つの仕草が、彼が生きてきてこれまでの年月を感じさせる。

「ゲンヤさん、ちょっと良いですか?」
「ん、どうした?」
「いえ、少しマッサージでもと」
「おお、わりいな」

少し思案していた兼一はおもむろに立ち上がり、ゲンヤの背後に回ってその肩に手を置く。
ゲンヤも兼一の意図を聞いてからは肩の力を抜き、その手の感触に身をゆだねる。

「ああ、だいぶ凝ってますね」
「だろぉ? こう見えても気苦労が絶えなくてなぁ。ほれ、責任者は責任をとるためにいるんだからよ、覚悟はあっても何かあるんじゃねぇかと戦々恐々なわけだ」
「それだけ、でもないんですよね?」
「まぁなぁ。気がかりなんざ数えるのも馬鹿らしいっての。
家じゃギンガにも多少は気をつかわにゃならんし、スバルの奴が無茶してねぇかも心配だからなぁ」
「あはは、ご苦労様です。ここ、どうですか?」
「そこそこ。ああ、いい感じだわ」

はじめは軽く肩を揉み、そこから段々と首や背中を揉みほぐしていく。
岩の様というほどではないが、それでもだいぶ硬い。
仕事と年齢、この二つのおかげですっかり凝り固まってしまっているらしい。
しかも、実際に触ってみてそれだけではないことに兼一は気付く。

「ゲンヤさん、ちょっとソファに横になってくれませんか?」
「ん? どうかしたのか?」

そう聞きながらも、ゲンヤは言われるままにソファの上でうつぶせになる。
兼一はゲンヤの首に指を触れると、そのまま頸椎に沿ってゆっくりと腰へと指を下ろしていく。
その感触にむず痒いものを感じながら、兼一が「ええっと……」と呟く声を聞くゲンヤ。
そのまま今度は足の裏や腰回りを軽く押し、何事かを確かめる兼一。
そうして一通り確認し終えた兼一は、ゲンヤに向かって軽い問診を始めた。

「腎臓と胃が荒れてますね。それに、骨盤も少し歪んでますし……」
「分かるのか?」
「整体と指圧のマネ事ですけどね。他にも針灸と気功、漢方も少しかじってます」
「よくわからんが、妙な技術持ってんだな」
「あははは……まあ、昔ちょっと……」

実際には、真似ごとどころではないくらい本格的な知識と技術を兼一は持っている。
武術家は、何も人間の壊し方だけを知っていればいいわけではない。
かつて剣星も言ったように「弟子を整備するのも師の務め」なのだ。
即ち、弟子を整備するための知識と技術も必要となる。
特に内功をさせる場合、漢方を利用することもある以上、そう言った知識は必修と言っても良いだろう。

「そんなわけですから、ちょっと矯正しますね」
「は? 矯正って、なにを……ぐがっ!?」
「えっと、首はこれで良し。次に腰を……」
「ま、待て、お前何を……!?」
「骨盤の歪みが全身に影響しているので、組み直そうかと思いまして」
「それならそうと先に言え! つーか、こんなに痛いもんなのか!?」
「ああ、これは僕に整体を教えてくれた人の独自の方法でして、痛い分効果覿面なんですよ」
「痛くない様にはならねぇのか?」
「それもできますけど、この方が早く良くなるんです……よ!!」
「ぎっ!?」

『ビキ』とか『ゴキ』とかいう音と共に、小さくゲンヤの悲鳴が漏れる。
未だかつて経験したことのない種類の痛みに、段々としゃべることもできなくなるゲンヤ。
そこで、部屋から漏れた悲鳴を聞き咎めたのか、ギンガが慌てた様子で戻ってきた。

「と、父さん! 一体どうしたの!?」
「ぎ、ギンガ………こいつを止め…おがっ!?」
「ああ、ギンガちゃん。ちょっと、ゲンヤさんの治療をね」
「治療、ですか? なんだか、父さんが死にかけてる様にも見えるんですけど」
「やだなぁ、ギンガちゃん。これくらいじゃ人は死なないよ?」
「は、はぁ……」

あまりの痛みにぴくぴくと痙攣するゲンヤを見ながら、ギンガの顔が引きつる。
兼一はそう言うが、とてもそうは見えない。
何しろ、凄まじい音がするとともにゲンヤの身体が撥ねる様にして悶えているのだから。
とはいえ、よくわからない雰囲気にのまれたのか、ギンガもその場から動けない。
そうしているうちに整体の方は終わったのか、続いて兼一の指がゲンヤの足の裏を捉える。

「あの、今度は何を?」
「人間の体はいたるところが繋がっててね、たとえばここを押すと……」
「ホアタ!?」

兼一が親指の付け根あたりを押すと、奇怪な叫び声と共にゲンヤの身体がエビ反りに撥ねる。
しかし、兼一の指圧はまだまだ終わらない。

「他にも、ここを押すと……」
「あ~たたたたたたたたたたた!!!」
「で、こっちだと……」
「ヒィ―――――――――ハァ――――――――――!?」
「あの、これって後どれくらいで終わるんですか?」
「え? そうだねぇ、あと………………………20分もすれば終わるよ」
「ぎぃやぁあぁぁぁあぁぁぁあっぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!」

その後、20分に渡ってゲンヤが地獄の苦しみを味わったのは言うまでもないだろう。
ただし、この苦行を終えた後の彼が、二十年は若返ったかのような気持ちで職務に当たったのもまた事実である。



*  *  *  *  *



ゲンヤへの(苦痛を伴う)善意の御奉仕を終えた兼一は、ゲンヤやギンガと共に食堂で食事をとっていた。
ギンガの隣には翔の姿もあり、皆で地球にはないミッド料理特有の味付けと調理に舌鼓を打つ。
食事の時間くらいは一緒に過ごしてやりたいと思う親も多いようで、108の託児施設では割と昼食の時間は施設を離れ、親と一緒に食事をとることが多いらしい。

しかし、ここで一つ疑問を提起したい。
普通、こんなところの食堂というのは機能性重視で、はっきり言って華やかさなどかけらもないだろう。
よくて清潔といったところだろうが、108の食堂は違う。
なぜならここの食堂は、妙に…………花の香気で満ちているのだから。

「なんつーか、見事なまでに『花園』になっちまったよなぁ、うちの隊舎もよ」
「そうですかね?」
「兼一さんが来る前は小さな花壇が有る位だったんですけど、いつの間にかエリアが広がっちゃいましたから。
 テーブルの上に花瓶が有るなんて、ちょっと前なら絶対にあり得ませんでしたし」

そう、食堂を包む香気の原因は、摘みたてほやほやで新鮮な花々にある。
ちなみに、どれもここ数日の間に兼一がアレコレと世話をした花たち。
兼一とて伊達に園芸店に勤務していない。今までは水やり以外には碌に手入れをする人もいなかった植物たちに、適切な処置を施した結果、物の見事に元気いっぱいに咲き乱れてたのだ。
おかげで、食堂に限らず隊舎全体が花々で彩られ、その香気によるリラクゼーション効果から仕事の効率まで上がっているとか何とか……。

「いやぁ、知らない草花ばっかりで戸惑ったけど、やればできるものなんですねぇ」

とは兼一の弁。まあ、世界と品種は違っても同じ植物。
基本的な部分はそう変わらないのかもしれないが、それにしても劇的なまでの変化だった。

「そう言えば、施設に預けられている子達と一緒に世話してるんでしたっけ?」
「翔も一緒に、だよね?」
「うん!」

兼一に話を振られた翔は、喜色満面の様子で頷く。
父に似たのか、それともその影響なのか、翔もまた草花の世話には積極的だ。
何しろ、ナカジマ家でその日あった事を話す翔の話題のほとんどが、その日世話をした草花の様子なのだから。

「ああ、ゲンヤさん。できれば、肥料を補充してもらえませんか?
 植え替えとかしてたら、そろそろ心許なくなってきたので……」
「おう。予算にも余裕はあるし、まあ大丈夫だろ」
「すみません」
「他に必要なものが有るなら言ってみな。大丈夫そうならなんとかするからよ」

肥料とてただではない。何より、108は植物園でもなければ学校でもない。
あまり花壇などに予算は避けないが、外観が良くなるのならそれに越したことがないのも事実。
周囲からの評判も良くなるし、働く局員たちの意欲も上がる。
どうせなら綺麗な環境で働きたいというのは、当然の思いだろう。
故に、ゲンヤとしてもあまりその方面に予算を裂く事を渋る気はないのだった。
とそこで、少し思案顔だったギンガがおもむろに兼一に顔を向ける。

「あの、兼一さん」
「ん? どうしたのギンガちゃん?」
「よければなんですけど、今度ちょっと園芸の事とか教えてもらえませんか?」
「それは良いけど…どうかしたの?」
「あはは…うちにも花壇が有るじゃないですか」
「ああ、あれ」
「ええ、あの荒れ放題になってるアレです」

ナカジマ家はマンションなどではなく一戸建て。
それも、家長が一部隊の部隊長だけあって広さもそれなりだ。
当然の様に花壇や庭もあるのだが、正直言ってあまり整備されているとは言い難い。
ゲンヤは元より、ギンガもスバルもその方面には疎かったのだ。

「母さんはかなり入れ込んでいたようですけど、私達はあんまりちゃんとやらなかったので……。
 でも、やっぱり綺麗にしておいた方が気持ちいいですし、母さんも喜ぶと思いますから」
「…………なるほど。分かった、そう言う事なら手伝わせてもらうよ」
「僕も~!」
「うん。ありがとね、翔」

兼一に続き元気よく名乗りを上げる翔に対し、ギンガはその頭を優しく撫でる。
翔は翔でその感触が心地よいのか、目を瞑って身をゆだねていた。
そうして食事を再開する一同だが、翔の食事に対する姿勢にギンガからの待ったが入る。

「翔、ちゃんとピーマンも食べなさい。食べるまでデザートはお預けだからね」
「はぅ!? う~~~~、ピーマンなんて食べなくても大丈夫だもん。髭のおじさんも言ってたもん……」
(岬越寺師匠、翔に何を教えてるんですか……)

実に子どもらしい好き嫌いをする翔だが、その主張の源泉に対し兼一は思わず内心でツッコム。
師のピーマン嫌いは知っていたが、まさか息子にそんな事を吹き込んでいたとは……。
とはいえ、そんな兼一の内心などナカジマ親子が知る由もないわけで。

「誰のことかは知らないけど、好き嫌いせずに食べないと大きくなれないよ」
「おめぇはむしろ食い過ぎだがな。クイントもそうだが、そのカロリーをどこに使ってんだ?」
(まあ、確かに行き先の一部は良く育ってるから分かるけど、それにしたってなぁ……)

実際、ギンガは女性としては身長が高いしスタイルも良い。
出る所ははっきりと出て、引っ込むところはよく引っ込んでいる。
その上本人は捜査官であると同時に、武装局員資格も持つ戦闘魔導師。
摂取したカロリーを使う場はいくらでもあるが、それにしても摂取し過ぎというのが外野の見解だ。
普通に考えて、彼女のプロポーションを維持するには明らかに過剰な摂取の筈。
本来なら、よく実った果実や安産型の尻はともかく、キュッとくびれた腹は無残になっていなければおかしい。
にもかかわらず、彼女の腹や太もも、二の腕に余計な肉がつく素振りはまるでない。
いくら食べても太らない、実にうらやましい体質であろう。

とはいえ、本人も一応自身の大食には自覚が有るらしい。
当然、一人の女としての羞恥心も……。

「ぜ、前衛組はカロリー消費が激しいから、これくらい必要なんです!」
(局に入る前から食う量は半端じゃなかったんだがな)
「何か思った、父さん?」
「いや、何も考えてねぇよ」

最近妙なところで勘が鋭くなってきた娘に対し、ゲンヤは素知らぬ顔でとぼけてみせる。
いくら勘が冴えたところで、年の甲にはかなわないということだろう。

「とにかく、翔も大きくなりたかったらちゃんと食べる事。
 好き嫌いばっかりしてると……大きくなれないんだから」
「ギン姉さま、なんで父様を見たの?」
「え? な、何でもないよ。
別に、翔のお父さんが兼一さんだから、将来はどうなのかなぁなんて思ってないからね」
(ギンガちゃん、嘘が下手なのは良いんだけど……それは傷つくよ)

自身の身長に多少のコンプレックスが有る兼一としては、悪気がないにしても心が痛い。
ギンガの年齢を考えれば、この先身長で追い越される可能性も無きにしも非ず。
さすがに、それはなかなかに悲しい未来予想図だった。

「翔は、背が高い人と低い人、どっちになりたい?」
「う~んと……ギン姉さまはどっちの人が好きなの?」
「え!? わ、私!?」

子どもとは、時にその無垢さ故に突拍子もない事を口にする。
今がまさにそれで、ギンガからすれば藪蛇としか言いようが有るまい。
何しろ、彼女としては答えは決まっているのだが、それを兼一の前で言うのはやや憚られる。
とはいえ、翔に対して嘘はつきたくないし、適当な言葉ではぐらかすのも気が引けた。
何しろ、まっすぐに自身を見つめる澄んだ瞳に対しそんな事をするのは、非常に気が咎めるのだから。
故に、ギンガは少なからぬ葛藤の末に、正直に自身の本心を明かすことにした。

「そのぉ………できれば……私より背が低い人は…ちょっと………………。
 ヒールを履いたくらいで追い付いちゃうのも………ね」

後ろめたそうに兼一から視線を逸らしながらギンガはそう答える。
まあ、自分の身長の高さに若干のコンプレックスを抱くギンガからすれば、背の低い相手はできれば避けたいだろう。
何しろ、並んで歩いた日には自分の身長の高さが浮き彫りになってしまうのだから。
また、女性としてはおしゃれも楽しみたいし、ヒールを履いたくらいで覆されてしまうような身長差もできれば避けたい。
一格闘家として考えれば身長が高い事はありがたいが、女性として考えるとその限りではない。
全く以って、実に複雑な乙女心なのである。

それに、兼一が身長が低い事を気にしているのはなんとなくわかっていたし、そんな彼の前で「背の低い人は嫌い」とも受け取れる発言をするのは気が咎めた。
別段兼一に対しそう言う意味で特別な感情はない。同様に、兼一にそんな感情を向けられているとは全く思っていないし、それは事実だ。
だがそれでも、やはり同居している相手を傷つけるようなことは言いたくないだろう。
それが嫌っている相手なら話は別だが、生憎ギンガは別に兼一の事を嫌っているわけではない。

それでもはっきりと自分の基準を口にしたのは、可愛い弟分への誠意だった。
もちろん、その弟分は姉の葛藤など知る由もないが……。

「ふ~ん。女の人って、みんなそうなの?」
「みんなかどうかは分からないけど……」

『一般的には、身長が高い人の方がもてる』とはあえて言わないギンガ。
なぜなら、既に兼一が精神的にショックを受けているのが分かったからだ。
既婚者とは言え、身長がコンプレックスの兼一にとってこの話題は一種の鬼門。
身長の低さを嘆き、落ち込み、暗い影を背負ってしまうのは無理からぬこと。
小声で「そうだよねぇ、やっぱりチビはカッコ悪いよねぇ……。僕なんて、僕なんてどうせチビで弱そうなモヤシなのさぁ……」といじけているのを、彼女の鋭敏な聴覚は捉えていた。
男はいくつになっても、結婚しても、子どもがいても、やはりカッコつけたい生き物なのだ。
これ以上打ちのめすのは、さすがに憐れというものだろう。

翔はさらにギンガに邪気のない、だが少々酷な質問をしようと口を開きかける。
だが、それより早く食堂内に設置されたテレビからとあるニュースが流れてきた。

【次のニュースです。数日前から、郊外の岩壁などが何者かによって破壊されています。時間帯は深夜と思われ、近くを通りかかった住民からは奇妙な物音や唸り声を聞いたという証言が寄せられています。今のところ特に被害は出ておりませんが、管理局は質量兵器の試験運用の可能性もあるとみて、捜査を進めています】
「? どうしたの、ギン姉さま?」
「あ、今のニュースがちょっと気になってね」

翔から視線を外し、少々厳しい目で画面を見つめていたギンガに恐る恐る問いかける翔。
そんな翔に対し、ギンガは少しはっとした様子で向き直り、優しい笑顔を浮かべて首を振る。
直接面と向かっての対話なら支給された機械のおかげで相手の意図を理解できるが、画面越しだとそれはかなわない。未だこちらの言語を理解していない翔や兼一には、画面から流れるニュースの内容は分からないのだ。
精々、映像を見てその内容を類推するくらいしかできない。

「父さん、これって一応うちの管轄よね。どう、何か進展はあった?」
「いや、今のところはなにも進んでねぇ。
目撃者を当たろうにも、音を聞いた時点で気味が悪くて逃げる奴がほとんどだしな。興味を持って近づいた不用心な奴もいるにはいるが、近づいた時にはただ壊れた岩や徹底的にブチ壊された廃車なんかがあるだけ。
これと言ってめぼしい情報は何にもねぇ」
「質量兵器が使われた痕跡は?」
「それもねぇな。火薬や化学製品の反応はなし、同じように魔法の反応もだ。
いったいどこの誰が、何人で、何を使って、何をしていたのか。どれ一つとっても手掛かりがねぇ」
「厄介な案件よね。
もしどこかの犯罪組織が、危険な質量兵器を持ちこんだかもしれないと考えると、ゾッとするわ」
「まったくだ。不法投棄された車を壊したり、岩壁や岩を砕くくらいなら何てことはねぇが、それが最終的にどこに行きつくのかが分からんことには、誰も安心できやしねぇ……って、どうした兼一?」
「どうしたの父様? なんだか、汗がいっぱい出てるよ?」
「兼一さん、どこか具合でも悪いんですか?」
「え!? あ、いや、何でもないですよ!! た、ただ怖いこともあるもんだなぁって!?
 あ、アハハハハハハハハハハハ!!!」
「「「?」」」

ギンガとゲンヤは神妙な顔つきで話をしていたが、それを聞いていた兼一の額に無数の汗が浮かんでいる。
それを不思議に思う三人だったが、兼一はどこか挙動不審な様子で笑ってごまかす。

「まぁなんにせよ、質量兵器が関わってる可能性は否定しきれねぇし、そうでなくても何かしらのあぶねぇ連中が関わってたら事だ。場合によっちゃ、おめぇにも動いてもらうことになるぞ」
「わかってます。私だって108の人間だもの、この街の安全を守る責務がありますから。
 その時は、母さん仕込みのシューティングアーツで頑張ります。ね、部隊長」
「あんま、おめぇらがでなきゃいけねぇ事態にはなってほしくないんだがな」

意気込むギンガに対し、ゲンヤは天を仰いでそれが杞憂に終わる事を願う。
部隊長としては予想しなければならない事態だが、できれば娘をそんな危ない場所に送りたくないのが人情だ。

「あ、そうだ。父さん、兼一さん、それに翔。
 私、この前の報告書を仕上げたいから、今日もちょっと帰りが遅くなるから先に寝てて」
「あんま根を詰めるんじゃねぇぞ」
「大丈夫です。体は頑丈だし、今日中には終わらせますから」
「ギン姉さま、今日も遅いの?」
「翔、あまりギンガちゃんを困らせちゃいけないよ」
「あはは、気にしないでください兼一さん。それと、ごめんね翔。でもね、これが終わったら少しお休みが取れるから、そうしたらみんなで一緒にお買い物にでも出かけようか?」
「え? 本当!?」
「うん、本当♪
 それにね、翔や兼一さんにスバル達の事も紹介したいんだ。だから、今はちょっとだけ我慢してくれるかな?」
「……………………約束、だよ?」
「うん、約束」

そうして、翔とギンガは笑いながら指切りをする。
どうやら、ゲンヤの先祖が「約束をする時にはこうする」と伝えたものらしい。
そんな二人の様子を、ゲンヤと兼一だけでなく、周りで食事をとっている他の局員たちも微笑ましそうに見つめていた。
ただし、中には「チクショウ! 俺は今、猛烈に子どもになりたいぞぉ!!」「相手は子ども、相手は子ども、相手は子ども………………でも羨ましい!!!」「なんでだ、なんであそこにいるのは俺じゃないんだぁ!!!」「ああ! 今すぐあの指をしゃぶりたい!!」「どうか俺を踏んでください、ナカジマ陸曹!!」などなど、色々とアレな男どもの魂の叫びが轟いているが……後できっかり、彼らがゲンヤから仕事という名目で書類の海に沈められたのは言うまでもない。



  *  *  *  *  *



同日、夜のナカジマ家。
今日も今日とて帰りの遅いギンガなわけだが、やはり翔はなんとかギンガを出迎えようと頑張っている。
とはいえ、そこはやはり幼児。夜の9時を回ったあたりから目はウトウトし出し、頭も前後左右に揺れ始めていた。兼一が「これは、そろそろ限界かなぁ」と思ったのは当然だろう。

「翔、そろそろお風呂に入ろうか」
「むにゃ、ギン姉さまがまだ帰ってきてないよぉ……」
「でも、翔も今日は汗をかいただろ?
 ばっちぃままより、綺麗になってから迎えてあげた方がギンガちゃんも喜ぶと思うよ」
「………………入る」
「じゃあ、ゲンヤさん。お風呂いただきますね」
「おう、ゆっくりしてきな」

居間のソファに身体を預けるゲンヤに対し、兼一はそう言い残して翔と共に風呂場へ向かう。
既に風呂から上がったゲンヤは、新聞を広げて酒を飲みながらくつろいでいた。
そうして、翔と兼一の姿が見えなくなると、小さく独り言を零す。

「ま、風呂ってのは案外体力使うからな。
あの様子じゃ、風呂からあがったらそのまま夢の世界へ一直線、ってところかね」

実際、兼一もそのつもりで翔を風呂に誘ったのだろう。
子どもに夜更かしは良くないし、出来れば早めに寝てほしい。
翔としてはギンガを待ちたいだろうが、一日くらいはこれで良い筈だ。

ゲンヤはそのまま、先ほどまで兼一と一緒に飲んでいた酒を再度煽った。
今朝言った通り、普段から飲み慣れた筈の酒の味が、このところ特に旨いと感じる。
それが一緒に飲む相手がいるからなのか、それともどこかで憧れていた息子の様な存在が出来た故なのか、あるいはその子をネコ可愛がりし笑顔の絶えない娘が嬉しいのか、それともその全ての結果か。
いずれにしろ、今日もまた酒を飲むゲンヤの顔には知らず知らずのうちに笑みが浮かび、酒量が増えるのだった。

それから十数分後。
だいぶ酔いも回ってきたところで、玄関の戸が開く音がゲンヤの耳を打つ。
ゲンヤは酒を飲む手を止め、玄関の方にややトロンとした視線を向ける。
やがて今の扉が開き、そこから予想通りの人物が姿を現した。

「ただいまぁ~」
「おう、遅かったな。報告書の方は終わったのか?」
「うん、なんとか。ちょっと資料をまとめるのに手間取ったけどね」
「ま、それなら何よりだ。飯はどうする?」
「あははは、待ちきれなくって食べちゃった」
「んなこったろうと思った」

十数年と一緒に暮らしてきた娘だ。その程度の事はおおよその想像がついていたのだろう。
はぐらかす様に笑うギンガに対し、ゲンヤは特に驚いた様子は見せない。
とはいえ、それだけで終わらないのがこの娘でもあるわけで……。

「じゃあ、飯はいらねぇか?」
「ううん、そろそろ夜食が欲しい時間かなぁって……」
「だろうな。なら、さっさと着替えてこい」
「はぁい。あ、その前にちょっと汗を流してくるから、温めておいてくれる?」
「あいよ。ほどほどにな」
「うん」

そうして、ギンガはそのまま自室へと向かう。
ゲンヤは一端酒の入ったコップを置き、立ち上がって冷めてしまった料理を温め始める。
そのままぼんやりと時間を過ごすこと数分。
酔いが回ってややぼんやりしていた脳裏に、ふっとある可能性がよぎった。

「……………………………待てよ。汗を流すって、今から練習する気か?
 いや、だが汗を流すっつっても色々解釈の仕方が有るわけでだな」

と、よく分からない独り言を洩らすゲンヤ。
しかしここで、ついに彼の思考がある答えを導き出した。

「……………………ぁ! こりゃ、ちょいとヤベェか?」

ゲンヤがそんな事を呟いた時。
ナカジマ家の脱衣所では、ギンガが機嫌良く鼻歌など歌いながら服を脱いでいた。

「~~~~♪ ~~~~~~♪」

うら若き乙女であるギンガは、当然のように綺麗好きだし風呂やシャワーも好きだ。
我ながら自身の魔導士としてのスタイルなどは汗臭いと思わなくもないが、それはそれこれはこれ。
何より、疲れた体を癒す魂の洗濯を好まない生き物がいる筈もなし。

白のブラウスを脱げば、可愛らしいレースで飾られた薄い蒼のブラに優しく包まれた平均以上に育った胸が姿を現す。
続いて紺色のロングスカートを下ろすと、ブラと同色のショーツに彩られた引き締まった臀部が顔を出した。
白い白磁の肌と彼女の蒼く長い髪は互いに引き立て合い、高い身長とメリハリの利いた肢体はモデル顔負けだ。

そのままギンガは愛用のリボンを解き、下着に手をかけた。
ブラのフロントホックを外して肩と腕を抜くにつれ、豊かな胸が健康的に弾む。
そうして今度はショーツをゆっくりと下ろすと、安産型の尻が悩ましげに揺れる。

取り払うごと晒されるその肌の白さは、いっそ扇情的とさえ言えた。
そうして、脱いだ衣服や下着を籠の中に丁寧に納めて行く。
その際、ギンガの目に見慣れた服が飛び込んできた。

「あ、翔が入ってるんだ」

彼女の視線の先には、可愛い弟分愛用のパジャマとバスタオル。
よく見れば、風呂場のすりガラス越しに先客の存在が伺える。

ただ、彼女も疲れていたのだろう。
疲労で鈍った脳は、もう一つの気付くべき存在を見落としてしまった。
そう、翔のパジャマとバスタオルの影にある、もう一組の大人用のそれに。

やがて支度の整ったギンガは、薄手のタオル一枚で身体の前を簡単に隠すと、風呂場の扉に手をかける。
その瞬間、風呂場からどこか切羽詰まった声が彼女の耳を打つ。

「あ、ちょ、待……!!」

しかし時すでに遅し。扉にかけた手にはすでに脳からの信号が届いており、今更引っ込みはつかない。
何が言いたいかというと、声が届いた時にはギンガの手は戸を開け始めていたのだ。
そして、無情にも決して越えてはならない境界線は破られた。

「「ぁ……………………………」」

呟きは、男女双方からのもの。
ギンガは扉を開けた状態のまま正面にいる人物を見て硬直し、ギンガの正面にいる人物…兼一は今まさに風呂から出ようと片足を挙げた姿勢で固まっている。
翔はそんな二人の間で、実に不思議そうに父と姉の姿を交互に見て首を傾げていた。

同時に、あまりのショックにギンガの手から力が抜け、最後の防衛ラインが「パサッ」と音を立てて地に落ちる。
具体的には、身体の正面を辛うじて隠していたタオルが床に落下したのだ。
当然、その結果何がどうなるかといえば……。

(ああ、ギンガちゃん手結構着やせするんだ。大きいとは思ってたけど、思ってたよりずいぶん大きい。
それに、腰は細いし脚は長いしモデルみたいだなぁ……………………って、そうじゃないだろ!?)

丸見えである。正面に限れば、文字通り遮るものなく上から下まで全部。
既婚者とはいえ兼一も健全な男。また、突発的な事態に思考が付いていかないのだろう。
妙なところで冷静になり、上から下までしっかりじっくり観察してしまった。

ギンガはギンガで、事態を呑み込む事が出来ずに頭の中は混乱の極み。
ただそれでも、自身の全てが見られたこと。同様に、兼一や翔のあれやこれやが全て見えている事は明白。
やがて、段々と思考力が戻るにつれ、その顔が羞恥でリンゴの様に赤く染まっていく。
そうして、その小ぶりの口は左右に引っ張られ、目尻には涙が浮かび、ようやく小さく声が漏れ始めた。

「き……」
「ギンガちゃん、ちょっと落ち着いて……」
「きぃやぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁ!!!!!!」

そうして、ギンガは脱兎の勢いで脱衣所から自室へと駆けだした。ちなみに、これで尻も丸見えである。
うら若き乙女、それも男と手を繋いだこともない正真正銘の男女関係初心者。
そんな彼女が全てを見られ、同様に男の全てを見てしまえば、錯乱するのは必然だ。

兼一は思わず右手を挙げるが、それは行き場もなくただただ虚しく空中に停滞する。
相手は逃げてしまったし、一体どうしたらいいのか兼一にも判断がつかなかったのだ。

「父様?」
「事故…………だよね?」
「?」

一応、兼一とてギンガが近づいている事には気付いていた。
ただ、風呂場という環境から僅かに気を緩めてしまったのが運のつき。
ギンガに殺意や敵意がなく、それどころかどこかぼんやりしていたせいもあって、接近していることに気付いたのはギリギリになってからだった。

お互いにとって、実に不幸な事故である。
誰の目にも明らかだが、だからと言ってそれがいかほどの救いになろうか。
既婚者であり、ある程度は女体を見慣れている兼一はまあともかくとして、ギンガが受けたショックは計り知れない、色々な意味で。

「ないとは思うけど……明日殺されないかな、僕?」

なにぶん、乙女の一糸纏わぬ姿を上から下までくっきりはっきり見てしまったのだ。
この時ばかりは、兼一も修行によって培われた自身の良すぎる視力を呪う。
湯気越しとは言え、本当に何から何まで全て見て脳裏に焼き付いた訳で……。
明日以降の事を思うと、これからの居候生活に一抹の不安を覚える兼一だった。



  *  *  *  *  *



その深夜、ミッドチルダ西部の市街地。
中心地から外れているとはいえ、深夜でも人通りは少なからずある。
街灯もあり、夜間でも不安を覚えない程度の明るさは確保されていた。

だが、道行く人々は気付かない。
その市街地を、高速で駆け抜ける一つの黒い影があることに。
その影は、さながら俊敏な一迅の風の様に人や建物の間をすり抜けて行く。
ある時は建物の屋根や壁を蹴って空中に身を躍らせ、ある時は路面を蹴って獣のように。

その速度もまた尋常ではないが、問題なのは、人間のすぐ横を通りながら誰も気づかない事だ。
それはつまり、常に人々の死角をついて動き、感覚の隙間を縫っているという事。
空中に身を躍らせている時も、人々のすぐ横を駆け抜けて行く時も、誰一人としてその影に気付かないのはそう言う事。しかしそんな高度な事、そう簡単にできることではない。
如何に夜間で人が少ないとはいえ、たまたま通りがかる人すべてがどこを見ているかを把握しているのだから、非常識としか言いようがない。それも、こんな車にも勝る速度で、だ。

その影は、やがて郊外の森林地帯へと到達する。
だが、それでもなお影の速度は緩まない。
それどころか、森に入ったことで一層その速度は増しているようにさえ思える。

やがて、目当ての場所にたどり着いたのか、影はその歩みをとめた。
そこで、月明かりを受けてようやく影の姿が晒される。
そこにいたのは、一見すると極普通のどこにでもいそうな青年。
しかしその実、こと身体能力にかけては世界の常識から大きく逸脱した男…白浜兼一だった。

「さて、今日はいつもより奥まで来たけど、ここまでくれば大丈夫かな?」

そうして兼一は、手近なところにあった自身の背丈以上ある大岩を片手で握った。
そうして『フン』と小さく声を漏らすと、その岩が徐々に大地から浮き上がる。
兼一の握った岩の表面には僅かにひびが入り、それが兼一の仕業であることを物語っていた。
片腕で、自身の背丈以上の御岩を持ち上げる。普通に考えれば、魔法を使わなければ絶対にあり得ない光景。
しかしそれを、兼一は一切の小細工抜きの己が筋力のみで実現する。

「てりゃ!」

さらに、それを勢いよく上方に向かって投げ上げるとともに、兼一自身も何気ない仕草で軽く地面を蹴る。
すると、兼一の体はまるで弾丸の様な勢いで天へと昇って行く。
やがて大岩に追いつくと、彼の四肢が姿を消す。

「ちょわ!」

そんな掛け声と共に、大岩が爆砕した。
後に残ったのは、まるでみぞれの様に落下する礫の雨あられ。
着地した兼一は何げない動作でその手を「パンパン」と払う。
つまり、今の一瞬であの大岩を粉々に砕いたのだ。それも素の拳で。
普通なら、岩を素手で殴れば血の一滴くらいでそうなものだが、兼一にその様子はない。

「ふぅ、やっぱり少し鈍ってるな。
 師匠たちなら、今ので礫どころか砂塵に変えられるだろうし。
 地球に戻るまでの一ヶ月から二ヶ月、腕が鈍らないようにしないと」

これで鈍っているというのだから信じ難い話だが、兼一本人は本気でそう思っているのだから仕方ない。
事実、兼一の基準からすればこれでもまだ本調子ではないのだ。

「とはいえ、あんまり派手にやってると怪しまれるし……困ったなぁ。
 まさか、ニュースになってるなんて……」

そう、今巷を騒がしているあの事件は、全て兼一が起こしたもの。
管理局は質量兵器か魔法の試用運転と思っていたようだが、実際には武術の鍛錬だったのである。
それはまぁ、火薬やら魔法やらの反応が出ないのも当然だろう。

とはいえ、兼一としてはまさかここまでの騒ぎになるとは思っていなかっただけに、少々悩む。
武の鍛錬を怠るわけにはいかないが、だからと言ってあまり派手にやるわけにはいかない。
ゲンヤ達に迷惑をかけるし、地球に帰るまでは穏便に済ませたいのだ。

「さすがに、不法投棄されてる廃車を持ってきちゃったのは不味かったかなぁ?」

論点が微妙にずれている気もしないでもないが、それが達人クオリティと言えばそれまでの話。
既に常人の域から逸脱してしまっているだけに、考え方もずれているのだ。もうこれは仕方がない。

「まあ、悩んでてもしょうがないよね。
 とりあえず、走り込から始めようかな。えっと、手ごろな岩は……あったあった。
 さあ、街を軽く十周位回ってくるとしよう」

先ほどよりも二回りは大きい岩を担ぎ、兼一は再度目にもとまらぬ速度で疾駆する。
こうして今夜も、人知れず兼一の鍛錬が開始されたのだった。






あとがき

というわけで、とりあえず日常風景でした。
こんな感じで、昼は108でお勤め、夜は翔達が寝静まってからこっそり鍛錬、というのが兼一の日常です。
ただ、地球だったら梁山泊に行けばいいのですが、ミッドには場所もなければ彼に適していて使える設備もありません。なので、仕方なくこんな事をしなければならないわけで……。
半ば、変な都市伝説と化しているかもしれませんね、彼が修行した場は。

ちなみに、ギンガとの風呂場での遭遇は色々アレな部分もありますが、ツッコミはソフトにしていただけるとありがたいですね。だってやりたかったんだもん!!
まあ、兼一が風呂場に突入するのでは面白味がないのでこんな形になったわけですけどね。
しかしこれで、ギンガも多少は兼一の体の秘密に近づいたかなぁと。
まあ、それも裸体を見られたというインパクトの前には霞みそうですが。

それにしても、心残りだったのはもう少しギンガの脱衣シーンをエロくしたかった事ですね。
ある意味で後悔はしてますが、正しい意味では反省も後悔もしておりません。
余談ですが、個人的なイメージとしては「らんま2/1」の男版乱馬とあかねが風呂場で初対面する時のイメージです。

最後に、次回は一応本文中でもあったようにギンガとの買い物を予定。
こんなことがあった後でそんな事が出来るのかは甚だ疑問ではありますが、一応そのつもりです。
そこで、多分ギンガやゲンヤ以外の人も出てくるでしょう。
では、間に合えば次週の更新で。間に合えばですけどね。



[25730] BATTLE 4「星を継ぐ者達」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/03/06 00:06

第97管理外世界、現地惑星名称「地球」。そのとある島国「イギリス」の片田舎。
大きな町からはやや離れているが、車を出せばそれなりの時間で着く程度の場所にある邸宅
そこで、その場にあまり似つかわしくない格好の人物が、バラの世話に勤しんでいた。

「~~♪ ~~♪ よしよし、今年もいい出来になりそうだねぇ。
 はやてやクロ介のとこにも送ってやんなきゃいけないし、元気に咲けよお前ら」

バラの剪定をしながら上機嫌な鼻歌交じりで顔を挙げたのは、「闊達」という言葉の具現の様な女性。
ただ、その格好は胸元に大きめの赤いリボンでアクセントをつけた白いブラウスと黒のミニスカートという、明らかに庭仕事をする格好からはかけ離れているが……。

しかし、問題はそれだけにとどまらない。
その場には彼女以外誰もいないが為に見咎める者はいないが、女性の頭にはネコのそれに酷似した耳が、腰からは細く長い尻尾が顔を出している。
それも、到底作り物には見えない。何しろ、女性の機嫌の良さを現す様に耳はピクピクと動き、尻尾もまたゆらゆらとしなやかに揺れているのだから。
作り物と考えるには、その躍動感はあまりにも生々し過ぎた。

とそこへ、邸宅からこれまた若い女性の声がかけられる。
ただしその女性の姿は、髪の長さや纏う雰囲気、胸元のリボンの色以外は尽くバラの世話をする女性と鏡合わせでもしたかのようにそっくりだった。

「ロッテ~、お茶が入ったからそろそろ休憩にしなよぉ~!」
「あいよぉ~アリア~、今いく~!」

邸宅からかけられた声に、首から下げたタオルで汗をぬぐいながら返事をするネコ耳女。
切り落とした枝葉を集めてゴミ袋に入れると、その雰囲気に違わぬ軽快な足取りで邸宅へと向かう。
テラスに辿り着いた女性は行儀悪く手摺に上り、目をネコの様に輝かせながら尻尾を忙しなく振って問いかける。

「で、今日のお茶とお菓子はなに?」
「カモミールとスコーン…ってつまみ食いしない!
 さっさと手を洗ってきなさいよ、誰も取りやしないんだから」
「いやぁ、お父様はそうかもしれないけど、アリアがねぇ……」
「ロッテと一緒にしないでよ」
「ほら、そこは双子だからさぁ……あたしらって元がネコだし、隙あらば食べられちゃいそうかなぁって」
「はいはい。なら、お父様が来ても戻ってこないようならそうさせてもらうわ」
「げっ、ヤブヘビ!?」

自身よりやや長い髪と胸元に蒼いリボンを付けた女性の言葉に一瞬うめき、大急ぎで邸宅の中へと駆けて行く「ロッテ」。
その間に、「アリア」と呼ばれた女性はテラスで手際よく茶会の準備を整えて行く。
そうしているうちに、一度邸宅に消えたロッテが一人の老人の手を引いて戻ってきた。

「お~いアリア、お父様もきたし冷める前に始めるとしようよ」
「ちょっと落ち着きなさいよ、ロッテ。子どもじゃないんだから、お父様の手をそんなに引っ張るんじゃないの」
「へ~へ~」

アリアの言葉にそっぽを向いて気のない返事を返すロッテ。
アリアはそれには特に取り合わず、少し睨んだだけで済ませる。
長い付き合いなだけに、これ以上何を言っても効果がないと分かっているのだろう。
そんな二人に眼鏡越しに優しい視線を向けていた老人が、ゆっくりと口を開いた。

「良い香りだな、今年の葉もいい出来の様だ。リーゼも、そうしていないで席につきなさい」
「「はい」」

老人の言葉に、二人はやけに素直に頷いてそれぞれの席につく。
ショートヘアの方が「リーゼロッテ」で、ロングヘアの方が「リーゼアリア」。
二人纏めて呼ぶ時には「リーゼ」と呼ぶのが通例だ。

二人はかしましく他愛のない話で盛り上がり、そんな二人を老人はただただ穏やかに見守っている。
だがそこで、唐突に老人の雰囲気が変わった。
それは初めは「緊張」で、続いてそれが「驚き」から「喜び」へと推移していく。

そんな老人の変化にリーゼ達も気付いたのだろう。
二人は顔をそろえて老人の顔を覗き込んだ。

「「お父様?」」
「リーゼ、すまないがカップとお茶請けをもう一人分頼むよ。どうやら、懐かしいお客の様だ」
「って、まさか?」
「まさかも何も、こんな前触れもなく唐突に来るのはあの人位でしょ?」
「だよねぇ……」

二人は「やれやれ」といった様子で立ち上がり、それぞれカップと菓子を取りにテラスを後にした。
残された老人は、まだ見えない客が来るであろう方向に目をやり、懐かしさに目を細める。

「相も変わらず…ふらっとやってくるのだな、お前は」

本来、誰の耳にも届かない小さな独白に過ぎない呟き。
しかし、なんとなく老人にはそれがこれから来る客人に届いているような気がしていた。
なにぶん、あまり常識という物が適用されない相手だ。多少の理不尽はこの客の前では理不尽とはならない。

そうして待つ事少々。老人の言葉通り、庭の端に一つの影が姿を現した。
それはとても巨大で、同時に立派なバラの生垣にはそぐわない着流し姿の老人。
金の髪は長く腰まで届き、髭や眉も長く伸びて老人の顔を隠していた。
だが、その影にある瞳の奥には、未だ衰える事を知らぬ輝きを宿している。
その老人は迷うことなくテラスまでやってくると、旧友に向けて朗らかに手を挙げた。

「久しいのう、グレアム」
「ああ……本当に、久しぶりだな、隼人」

「隼人」という老人のあいさつに、「グレアム」と呼ばれた老人も古い時代を懐古するように返事を返す。
だがそこで、髭をさする隼人の目が僅かに光ったのをグレアムは気付く。その光の意味も含めて。

「しかし……不思議なもんじゃ。一度は袂を分かったわしらが、またこうして旧交を温めておるんじゃからの」
「……そうだな。クライドの事があって以来、私の心は闇の書…夜天の書に囚われていた。
 憑き物が落ちるまでの十と一年…もう二度とお前とこうして会う事はないと思っていたのだが……」

闇の書、あるいは夜天の書とはグレアムに取って色々な意味で特別な名。
その存在へのあり方で二人の考え方は相容れず、それ故に一度は袂を分かったのだ。
だが、ある事件を機に二人の関係は修復された。
アレから数年経ったが、今思い返してもよくもう一度こんな関係に落ち着いたものだと、当の本人達が感心する。

「それにしてもお主、また痩せたのではないか? それでは娘達も心配しよう」
「お前と一緒にしてくれるな。私は一つ特殊な技能を持っているだけの、普通の人間だ。
 年を取れば、当然老いる。いくら年を食っても衰える事を知らない、お前の様な怪物とは違うさ」
「言うてくれるのう。
その特殊技能がけったい極まりないというのに、単なる武術家でしかないわしを怪物扱いか?」
「お前が『単なる武術家』なら、世界中の武を志す者は皆『半端者』だろうさ。なあ、『無敵超人』?」
「ホ~ホッホッホッホッホ…はて、なんのことかのう?」

グレアムの問いかけを、笑ってはぐらかす梁山泊長老『風林寺隼人』。
二人がそんなやり取りをしている間に、リーゼ達が戻ってきた。

「げぇ……やっぱりあんただったのか、妖怪ジジイ」
「ロッテ、お客にそんな事言わない。例え事実でも」
「相変わらず酷い言い草じゃのう……」

あからさまに嫌そうな顔をするリーゼに対し、長老はわざとらしく袖を濡らす。
長老の性格をある程度知っているのだろう。リーゼも特にそれに対しては反応を示さない。
長老は長老で効果なしと見るやさっさと演技を切り上げ、ちゃっかり椅子に腰かけて髭をさすりながら昔を懐かしむ。

「それにしても懐かしいのう。昔は、時折そっちでもちょこっとだけ大暴れしたもんじゃ」
「あれのどこが『ちょこっと』なんだっての……」
「わしも年を取った、もう昔の様な事はできんわい」
「よく言うわ。無茶・無理・無謀が大好物の変人のくせに……」

回想に浸る長老に対し、ロッテもアリアも小声で悪態をつきまくる。
昔、まだグレアムと共に現役で前線に出ていた頃、何度この老人の無茶に振り回されたことか。
思い出すだけで頭が痛くなる思いなのだろう。
確かに助けにはなったが、それ以上に尻ぬぐいや後始末に苦労した思い出の方が圧倒的に多いのだ。

「それで、今日はどうしたんだ?」
「ほ? 苦楽を共にした旧友を訪ねるのがそんなにおかしいかのう?」
「そうは言わんが……お前の事だ、鵜呑みにはできん」

どうやら、グレアムは長老の事をよく知っているらしく、その眼は明らかに長老の様子をいぶかしんでいる。
恐らく、リーゼ達が言う様に昔は散々な目にあわされたのだろう。
まあ、言葉の割に忌避感の類がないところを見るに、別に疎んでいるわけでもない様だが……。
そんなグレアムの様子に長老も観念したようで、早々に腹を割って話を始めた。

「ふむ……………………………………実は、『アレ』が動いたようでのう」
「「え!?」」
「……そうか。アレが……虹の渡り橋が、な」

長老が虹の渡り橋、翔の持っていたあのペンダントを入手した経路は簡単だ。
昔、グレアムと次元世界でやんちゃしていた頃にちょろまかしたのである。
その時は単なる興味本位だったが、それを自身の血族に与える日が来るとはその時は思いもよらなかっただろう。

だが、翔にいつ危険が降りかかるとも限らない。その時に常に兼一がいるとも限らない。
そうである以上、もしもの時の保険は必要だった。
また、その危険がどの程度か分からない以上、逃げるなら可能な限り遠くまで逃げるのが最良。
その意味で、あれは実に理にかなっていたと言える。
しかしそれでも、やはりアレが起動することがない事を長老は祈っていた。

「作動しないに越したことはなかったんじゃが、それしか考えられん」
「今持っているのは…確か孫、だったか?」
「曾孫じゃ。恐らく兼ちゃん……あの子の父親も一緒じゃろう」
「なるほど。それで、私か」
「うむ。すまんが、わしにはお主以外にあちらとのつながりがない。なんとかならんかのう?」
「私も局を離れて長いが…………やれるだけのことはやってみよう」
「すまんな」
「構わんさ。昔は散々世話になった、借りの一つでも返しておかんと死ぬに死ねんよ」

そう答えたグレアムは、リーゼに指示して今もつながりのあるかつての部下や同僚達と連絡を取るのだった。
その中に梁山泊と完全に無縁とは言えない者がいる事を、彼も知らない。



BATTLE 4「星を継ぐ者達」



兼一は悩んでいた。それはもう、心の底から悩んでいた。
ただしそれは武術的な話とか、あるいは子育て的なことなどではない。
ただ、ある意味でそれらに匹敵するほど重要な話。
それは……

(ええい、いっそのこと亡心波衝撃で記憶を消すか? ギンガちゃんも『忘れてください』って言ってたし、多分それが一番いい。
 でも、もしまた何かの拍子でこの話題に触れることが有った時に『何それ?』とか『忘れた』とか言える筈もない……………………………………僕は、僕はどうすればいいんだぁ!!!!)

無敵超人が誇る百八つの必殺技の一つ『亡心波衝撃』。
実に信じ難い話だが、この技はある程度任意で相手の記憶を消去することのできる技である。
記憶が飛ぶなど格闘技の世界では珍しいことではないが、それを自由自在に行えるというのだから……とりあえず、脳に障害が出ないかが非常に心配な技だ。

長老からほぼ全ての技を伝授された兼一は、無論この超技も使える。
技の祖である長老ほど細かくやれるわけでもないが、それでも可能不可能で言えば充分可能だ。
そう……可能なのだが、はたして使っていい物かどうかが大問題なのである。
ただ、ここで「見られた側の記憶を消して、見た事実を消去する」という発想に至らないのが、根っからのお人好しのお人好したる所以だろう。

「いやよ、さすがにちょっと思い詰め過ぎじゃねぇか?」
「人として………………」
「はぁ、こりゃ重症だわ」

そんな兼一をなんとか立ち直らせようとするゲンヤだが、どうにもうまくいかない。
誠実で生真面目な兼一の気質上仕方ないとはいえ、傍から見ても気の毒な位に気に病んでいるのだ。
別に誰のせいとも言えない事はゲンヤも承知しているし、兼一がギンガに対してそう言う意味での下心が微塵もないことも理解しているからこそ、彼としても兼一には早く立ち直ってほしい。
まあ、もしギンガに対して僅かでも下心のある者が見たとしたら、逆に追い詰めて社会的・精神的に抹殺しようとしていたかもしれないが……。

「おじさま、なんで父様元気ないの? もう一度ギン姉さまとお風呂に入ったら元気になる?」
「やめとけ、絶対に逆効果だ。それも二人とも」

ギンガにしたところで、この数日兼一を見ては羞恥心から顔を真っ赤にして逃げ出している。
それはまあ、年頃の娘が事故とは言え裸体を見られたとなれば仕方がない。
それも、ギンガはあの年としては少々行き過ぎなまでに潔癖で初心だ。
兼一としても、さすがにあの時の事を思い出すと赤面するのを抑え切れない。
そのため、双方顔を合わせる度にあの時の事を思い出し、色々とギクシャクしてしまうのだ。

翔もその事は心配しているのだが、子どもであるが故にその辺の機微が分からない。
結果、彼の出す案はかなり問題ばかりの上、絶対に逆効果にしかならなさそうなものが多いのである。

(とはいえ、いつまでもこのままってわけにはいかねぇんだよなぁ……。
 一緒に風呂に入るのはやり過ぎにしても、時間を作って蟠りを解いてもらわねぇと……正直、飯食ってても全然落ち着けやしねぇ)

職場や家の中でもアレコレ理由をつければ距離を取ることはできるが、食事の場となるとそうはいかない。
ナカジマ家では、可能な限り全員で食事をするというのが基本方針。
兼一もギンガもその辺には律義で、よほど帰りが遅い時以外はちゃんと一緒に食事を取っている。
ただし、当然会話もなければお互いに目を合わそうともしない。兼一は罪悪感から、ギンガは羞恥から。
無理もないとはいえ、それでは残る二人がたまったものではない。

「しかし、どうしたもんかねぇ、これは……………………………………ん? 待てよ、確か明日は…おい、坊主」
「なに、おじさま?」
「明日、兼一と一緒にこの時間この場所に行け。
と、これ財布な。ある分は自由に使えって伝えといてくれ」
「うん。でも、ここで何するの?」
「好きなようにすりゃいい、一種の気分転換だ。
 ただまぁ、多分アイツらと会うだろうけどよ」
「?」
「ま、その辺は明日のお楽しみって事にしとけ」

ゲンヤの意図が良く分からず首を傾げる翔に、とりあえず必要な事を伝えて行くゲンヤ。
白浜親子とナカジマ親子の間にあまり時間はない。
なら、多少強引でも事態を動かさないと話にならないと踏んだのだろう。
そうして兼一と翔は、翌日ゲンヤに指示された場所に向かうのだった。



  *  *  *  *  *



そして翌日。
よく晴れたこの日、兼一と翔はゲンヤに指示された通りにとある駅でレールウェイから降りた。

「それにしても、ゲンヤさんも突然だなぁ。
 いきなり『休みをやるから観光でもしてこい』って追い出されちゃったし……」
「父様はお出かけするの、イヤ?」

困った様に溜息をつく父に向け、翔はどこか不安そうにおずおずと尋ねてくる。
どうやら溜め息の意味を勘違いさせてしまったらしい。
そのことに気付いた兼一は翔の目線に合わせるように膝をつき、柔らかい笑みと共にゆっくりと語りかける。

「いや、そんな事はないよ。ただ、本当に唐突だなぁって思ってね。
 予定も下調べも全然してないから、どうしたものかなぁって困ってただけだから」
「そうなの?」
「そうそう」

実際、土地勘も何もない兼一にとっては、いきなり街中に放り込まれても困ってしまう。
何しろ、どこに何があるかすらわからないのだから、当然と言えば当然だ。
だが改札を出たところで、思わぬ(ゲンヤの思惑通りの)人物とバッタリでくわすこととなる。

「け、兼一さん!? それに、翔!?」
「え? ギンガちゃん?」
「あ、ギン姉さまだ!」

駅の改札を出てすぐのところの柱に身を預けて文庫本を読んでいたのは、余所行きの恰好をしたギンガ。
ナカジマ家で過ごす時の私服に比べればやや気合の入った、ただし決してそこまで入れ込んでいるわけではない格好だ。例えるなら、恋人とのデートとかではなく、親しい友人と遊びにでも出かけに行くかのような。
まあそれはさておき、兼一としてもやはりこの遭遇には驚いたわけで……。

「えっと、こんなところで会うなんて、奇遇…………なのかな?
 確か、今日は非番で妹さんに会うんじゃ……」
「そ、そうです。一応ここで…その、待ち合わせを……」

互いに先日の事があるだけに、この程度の会話でさえどこか手探り気味だ。
兼一は困ったように頭をかきながら視線を忙しなく泳がせている。
普段ならギンガは兼一の顔を見た時点で逃げだしているのだが、さすがにいつまでもそれではまずいと思ったのか、あるいは単に思いもかけぬ出会いに逃げるタイミングを逸したのか。
どちらにせよ、ギンガはギンガで嫌でもあの日の事を思い出してしまい、羞恥と緊張で顔を赤く染めながら俯き、組まれた手を落ち着かなさげにモジモジさせている。
そんな二人に挟まれている翔も、よく分からないなりに居心地の悪さを感じているようで、不安そうな顔で二人の顔を交互に見比べていた。
周囲を行きかう人々も、「何をやっているんだ?」とばかりに僅かに奇異の混じった視線を送っている。

とそこで、三人にとってある意味では救いとなる声がかけられた。
その声は喜色に溢れ、同時に「売るほど元気」という言葉が実に似つかわしい声。
ついでに言うと、こう言っては何だが…………やや、バカっぽかったりする。

「あ! お~い、ギン姉~~~!!」
「だぁーもう!! 恥ずかしいから大きな声出すんじゃないって言ってんでしょうが、このバカ!!」

そんな頭に花畑でもありそうな声に対し、どこかキツメな印象のある声が待ったをかけている。
イメージ的には勝手に進んで行く牛と、それをなんとか引きとめようと手綱を引きながらも逆に引きずられる牛飼いと言ったところか。

やがて人の流れを掻き分けて姿を現したのは、ギンガよりやや年下に見える少女二人。
片や、ギンガとよく似た顔立ちと溌溂とした雰囲気が印象的な、青いショートヘアの少女。
片や、切れ長で釣り上がった強気そうな目が印象的な、橙色の髪をツインテールにした少女。
どちらも、ギンガにとっては良く見知った親しい間柄の二人。
ただし、兼一や翔にとっては紛う事なき初対面の人物である。

(あれ? でも、あっちのギンガちゃん似の子はどこかで見覚えがある様な……)

ギンガに似ているからと言えばそれまでかもしれないが、それだけではない物を兼一は感じた。
だが同時に、見れば見るほどにギンガとよく似ている。
それこそ、細胞レベルで瓜二つなのではないかと思うほどに……。
とはいえ、さすがに兼一に「細胞一つ一つの声が聞こえる」と言う長老クラスの眼力はないので、単にそんな印象を持ったというだけに過ぎないが。
しかしそこで、ようやく兼一と翔の姿を発見した青髪の少女の顔が驚愕に歪む。

「あ……」
『あ?』
「義兄と甥っ子出来てたぁ――――――――――――――!?」
「んなわけあるか、バカスバル!!」
「あ痛!?」

いきなりわけのわからない事を絶叫する少女…スバルの頭にチョップを入れる橙色の髪の少女。
絶叫からツッコミまでの時間は刹那に満たない。まさに、打てば響くと言ったところだろう。
日頃、どれだけこの少女がツッコミ慣れているのか、それをうかがわせるには十分なやり取りだった。
いいコンビと褒めても、きっと本人は喜ばないだろうが……。

「前に会った時から半年も経ってないのに子どもができるわけないでしょうが! しかもこんな大きいの!!
 そもそも、結婚したんならまず真っ先にアンタに知らせてるでしょ!!
って言うか、ツッコミ所が多すぎてツッコミ切れないのよ!!」
「うぅ、酷いよぉティアァ~……ただの冗談なのにぃ」
「うっさい! ただでさえ恥ずかしい真似してるのに、恥の上塗りしてんじゃないわよ!!」
「はぁ……いきなり飛ばしてるわね、二人とも」

スバルの言葉に激昂するティアと呼ばれた少女。
ギンガはそんな二人に苦笑を浮かべながらも、優しげな瞳で見つめている。
まあ、このやり取りに慣れていない兼一や翔としては、若干事の流れについていけずに茫然としているが。

そんな二人の様子にギンガも気付いたのだろう。
とりあえずこのままと言うわけにもいかないので、一度スバル達の方へと向かい二人の肩を抱いて紹介する。

「えっと、兼一さんや翔は初対面になりますよね。この子が私の妹の……」
「ぁ、スバル・ナカジマです。はじめまして」
「で、こっちがスバルの親友兼相棒の……」
「親友と言うのはちょっと反論したいところですけど、一応“不本意”ながらこのバカとコンビを組まされてるティアナ・ランスターです」

二人揃って一度は敬礼しかけ、すぐにやめて会釈に切り替える。
TPO的に敬礼は不味いと思ったのだろう。ティアナはあからさまに「不本意」の部分を強調しているが……。

しかし、その表情がどこか照れた様子なものだから、その言葉にもあまり説得力がない。
兼一からも、「キサラさんと同じで素直になれない子なんだろうなぁ」と思われている。
まあ、実際には全く以って大正解なのだが……。
ただ、スバルとしてはティアナのそんな素っ気ない態度が寂しいらしく……。

「ティア~~~」
「うっさい! アンタみたいなのと組まされてるこっちの身にもなれっての!!」

肩に抱きついてしなだれかかるスバルに対し、心底鬱陶しそうに押し返そうとするティアナ。
周りの人々は、何やら微笑ましいものでも見るように笑いをこらえながら通り過ぎて行く。
だが、ギンガ的にはこのやり取りにも慣れた物なのだろう。
なにやらじゃれ合っている二人を余所に、さっさと話を進めて行く。

「で、スバルにはメールとかで話したと思うけど、こちらが今うちで保護してる白浜兼一さんと、お子さんの翔」
「えっと、よろしく」
「よろしくお願いします!」

ギンガの紹介に兼一は軽く会釈をし、翔は元気よく挨拶をする。
そんな二人に、スバルとティアナはじゃれ合いを続けながら応じた。

「ふぉうも、おふぁなひふぁひんふぇいからひいてまふ」
「その、私も一応このバカ経由で少しは……。
ちなみに今のを通訳すると、『どうも、お話はギン姉から聞いてます』と言っています」
「ふぃあ~、ふぉろふぉろふぁなひてよぉ……」

ついでに言うと、今のは「ティア~、そろそろ離してよぉ」と言っている。
なんでこうもスバルの呂律が回っていないのかと言えば、単純に口を左右に思い切り引っ張られているためだ。
それも地味に痛いらしく、スバルの目尻には一滴の涙が浮かんでいたりする。
まあ、兼一などは「よく伸びるなぁ」と何やら見当違いな関心の仕方をしているが……。

「ところでギンガさん」
「どうしたの、ティアナ?」
「もしかして、今日はそちらの二人の観光案内か何かですか? それなら、私達は席を外しますけど……」
「え? あ、いや、それが…その……」

ティアナの問いに、答えあぐねている様子で困ったような表情を浮かべるギンガ。
事実を事実として口にするのは容易いが、それはそれで白浜親子に対して少々失礼な気がしたのだ。
さすがに「この人たちは今日は全然関係ない」とは言えまい。
だが、ここで兼一が助け船を出した。

「あはは、そんなのじゃないよ。
 たまたまこの駅で降りたらギンガちゃんがいてね、だから一緒になったのは本当に偶然さ。
 ティアナちゃん達こそ、僕たちに遠慮しないで遊んでくるといいよ」
「はぁ、そうなんですか?」

兼一の言葉を聞いて納得はしたようだが、一応確認の意味もあるのだろう。
ギンガに視線を送って、言葉にせずにそれが事実なのか問いかける。
ギンガはそれに控えめな首肯で返し、ティアナも兼一の言葉が事実である事に納得した。

「それじゃ、お邪魔してもなんだし、僕たちはこれで。行こうか、翔」
「うん! ギン姉さま、また後でね」

翔の手を引き、その場を後にしようとする兼一。
ギンガは色々思うところがあるようでその表情は少々複雑だが、同時にどこか安心したかのように息をつく。
やはり、こうして顔を合わせると先日の事を思い出して肩に力が入ってしまうらしい。
ティアナはそんなギンガをいぶかしみながらも、あまり詮索するのもどうかと思って口を噤む。

しかしここに、そう言う意味での空気読み機能がない天然娘がいた事を、ギンガはすっかり忘れていた。
彼女は持ち前の強引さと生来の天真爛漫さを前面に押し出し、特に深く考えもせずに兼一達を引き留める。

「え~、それなら一緒に行きましょうよぉ~」
「ちょ、スバル!?」
(はぁ、またスバルの我儘が始まった……)

ギンガはスバルの発言に驚き、ティアナはなんとなくこんなことになる気がしていたのだろう。
彼女の心には、深い深い諦観が芽生えていた。
どうせ、ここから先何を言ったところでスバルが意見を変えることはなく、この方針をごり押しするであろうことが目に見えていたのだ。

「え? でも、折角家族・友達と水入らずなのに邪魔はできないよ。会うのだって久しぶりなんでしょ?」
「そ、そうよ! スバル、兼一さんをあんまり困らせるんじゃないの!」
「だってぇ~…ギン姉から聞いててどんな人か気になってたし、次に会えるかもわからないんだよ?」
「そ、それはそうだけど……気を使わせちゃ悪いでしょ」

スバルの言い分も、まあそれなりに筋は通っている。
スバルに兼一達の事を伝えたのは他ならぬギンガだし、当然彼女の興味を引く様な事を書いたのもギンガだ。
その上ギンガもスバルも決して暇人ではない。それどころか、スバルはその所属から意外と多忙。
実際、兼一達がいる間にもう一度会う機会があるかと言うと、非常に可能性は低い。
何しろ、スバルとギンガがこうして会う事自体、かなり久しぶりなのだから。

「翔もギン姉と一緒の方がいいよね?」
「えっと…………………うん!」
「ほらぁ~」
(それにしても、少しは人の話を聞きなさいよね)

ギンガの言葉など聞こえていないかのように………もしかしたら本当に聞こえていないかもしれないが。
とにかく勝手に話を進め、いつの間にか翔の同意まで得てしまうスバル。
そんな彼女のある意味いつもの行動に、呆れると同時に内心でツッコミを入れるティアナ。
ただし、言っても無駄なのは分かり切っているので、無駄な労力を使わないように口には出さない。
その間にも、ギンガは兼一に助けを求めるように問いかける。

「そ、その……どうしましょう?」
「ああ…………どうしようか?」

兼一としても「どうしたものやら」と言う感じらしいので、明確な答えは返ってこない。
ただ、その顔には苦笑いが浮かび、なんとなくこの後の流れをあきらめてしまっている感がある。
恐らく、もうこのままスバルの強引な流れに押し流されるのみだと分かっているのだろう。
強引な人間に押し切られるという経験においては、兼一も相当なものなのだから。
そんな皆の様子を見て、ティアナはこんな事を思う。

(私も、ホントに少しはアイツの異様な我儘を見習った方がいいかもしれないわね。
 そうじゃないとストッパーが……)

実際、こうなったスバルを止められる人間に未だティアナは会ったことがなかった。
家族ですら止められないのに、コンビとは言え他人でしかない自分に何ができるのか、と思わないでもない。
だが、今後もこのコンビが続く以上、職場では自分以外にスバルのストッパー役はいないのも事実。
そう考えると、少しは見習う必要があるかもしれないとかなり真剣に思うティアナだった。



  *  *  *  *  *



その後、結局はなんだかんだでティアナの予想通りに事は運んだ。
つまり、スバルの我儘が押し切られる形になったわけである。

とはいえ、スバルとて別に「気遣い」とか「遠慮」とか言う言葉が彼女の辞書に載っていないわけではない。著しくそのページが開かれる回数は低そうだが……。
しかし、ないわけではない以上少しはそれらが陽の目を見る時もある。
そう、たとえば今日がその数少ないその時だった。

「翔はどこか行きたいところって、ある?」
「?」

一応は年少者の希望を聞くスバルだが、翔からはこれと言って返事は返ってこない。
当然と言えば当然だ。何しろ、翔には今いる場所に何があるかの知識が根本的に欠けている。
子どもらしく「遊園地」とか「動物園」とか言うこともできるだろうが、明らかにそう言うものがありそうな雰囲気ではない。それくらいの事は幼児である翔にもわかった。
我儘を言うこともできるのだが、性格的なものか、それともやはり初対面の相手もいるからか、そういう思い切った事は言えないらしい。
そして、それは翔の父親である兼一にも似たようなことが言えるわけで……。

「それじゃあ、兼一さんは何かありますか?」
「そう言われても、ね。ここにどんなお店があるのかもさっぱりだし、何より特に欲しい物もないから」

元々あまり押しが強くない上に、そう言う意味での欲求も人並み以下の兼一だ。
彼としては衣食住と本と植物が揃い、そして家族や友人がいればとりあえずそれで十分なのである。
それ以上は全て、兼一にとっては程度の差はあっても「贅沢」の範疇に入るらしい。
赤貧がデフォルトの梁山泊で過ごした結果、そんな感覚が身についているのだ。

「だから、みんなの行きたいところで良いよ。
 観光って意味で考えれば、それで十分な気もするしね。翔はどう?」
「うん! やっぱりみんなが楽しいところがいい!!」
「なら、とりあえず私達のオススメって事で良いですか?」
「うん、それでお願いしようかな。よろしくね、スバルちゃん」
「はい♪」

そこまで言われてしまっては、つまらない思いをさせるわけにはいかない。
むしろやる気になったスバルは、それはもう意気揚々と皆をひきつれて歩き出す。
その後ろを歩きながら、ギンガは深々と兼一に頭を下げる。

「どうもすみません、なんだか無理に引きとめちゃって……」
「あはは、気にしないで。僕たちとしてもどこに行けばいいか困ってたところだから。
 むしろ、お邪魔じゃなかったかなっていう方が、ね」
「いえ、そんな事は全然……」
(何と言うか、妙に余所余所しいというか、ギクシャクした感じね。ま、私がとやかく口を出す事じゃないけど)

何やら不毛な謝罪の応酬をしている年長者二人を横目に、そんな事を思うティアナ。
ティアナ的にはそれほど兼一や翔に興味があるわけではないが、全くないというわけでもない。
だからか、酷く客観的な第三者として二人の様子のおかしさを感じていた。
おそらく、良くも悪くも能天気なスバルは全く気付いていまい。
というか、気付いていたらああも強引に引っ張ってきたりはしないのだろうが……。
まあ、それはそれとして……。

「………?」
(別に子ども嫌いってわけじゃないんだけど、この澄んだ目で見られるのってなんか苦手なのよねぇ……)

兼一と手をつないで歩いていた翔とたまたま目が合い、思わず目を逸らして手に持ったジュースに口をつける。
別に何か後ろめたい物があるわけではないのだが、どうにも居心地の悪さを感じてしまうのだ。
それが、無垢故に全てを映し出す鏡の様な瞳が、相棒や周囲に劣等感を抱く「自分」を強く意識させるからだとは、ティアナ自身気付いていない。

「よ~し、じゃあとりあえずあっちで服でも見てこよっか!
 一緒に翔のコーディネイトもしたいしね!」
「こーでねぇと?」
「コーディネイト。えっとね…つまり、かっこいい服とかかわいい服を選んであげるって事。
翔はどんなのがいい?」
「…………………………」

スバルの言葉に、首を傾げる翔。どうやら、まだあまりオシャレなどには興味がない様だ。
兼一自身、あまりオシャレに気を使う方ではないのもあるだろう。
なので、とりあえず彼的に無難と思った答えを口にする。

「…………じゃあ、父様みたいなのがいい」
「そっか、翔はホントに兼一さんが好きなんだねぇ」
「スゥ姉さまは、ゲンヤおじさまのこと好きじゃないの?」
「え? 父さんもギン姉も、みんな大好きに決まってるよ!」

良くも悪くも子どもっぽいところがあるからか、どうやら翔とも上手く波長があっているらしい。
というか、はじめは呼び名に悩んでいたようだが、いつの間にか翔の中でスバルの事は「スゥ姉さま」ということで落ち着いた様だ。ついでに言うと、ティアナの事は「ティア姉さま」と呼んでいたりする。
ティアナはティアナでこの呼び方がツボにはまったらしく、密かに頬を染めていたのは本人だけの秘密だ。
スバル同様、兄はいても弟妹がいなかったことも無関係ではあるまい。

「それと、一緒に兼一さんの服も選んじゃおっか?」
「うん!」
「って、僕も?」
「当たり前ですよぉ。だって兼一さんが着てるの、父さんのポロシャツとチノパンでしょ?
 兼一さん、父さんよりも若いんですから、もっと着飾っていいと思いますよ。ねぇ、ティアもそう思うよね?」
「私に話を振らないでよ。…………………………まあ、もう少し何かないかな、とは思いますけど」
「そ、そうかなぁ?」

スバルに同意を求められ、一応はティアナも控えめにそれに同意する。
まあ、こう言っては何だが、今の兼一の恰好は実に「おっさんくさい」のだ。
まだ三十路にもなっていないのにこれはどうか、と思う程度には。
兼一としては服を貸してもらえるだけでありがたいので、贅沢や文句を言う気はなかったし、そもそも二人が言うほどとは思っていなかった。
しかし、ここまで言われてしまっては、少しは気にしないとまずいかもという気もしてくる。

そうして、五人はとりあえず兼一と翔の服飾の充実から図ることにするのだった。



  *  *  *  *  *



数時間後。
とある公園で、いくつかの買い物袋を手に疲れた様子の兼一がベンチに座していた。

まあ、詳しくは語るまでもあるまい。
総じて、女性の買い物というのは男にとっては長く退屈で疲れるもの。
いくら自分の服を選んでくれているとはいえ、時間経過と共にテンションが上がって行く女性陣においてきぼりを食ってしまえばそんな感じになってしまう。何しろ、はじめはあまりやる気のなかったティアナまで、最終的にはノリノリになっていたのだから。
翔はまだ純粋に楽しんでいたようだが、兼一としてはやはり「疲れた」という気持ちが強い。
体力に自信はあっても、これは精神的な疲労だ。それも、今まで経験してきたのとはベクトルが異なる。
いくら兼一でも、こればっかりはどうにもならない。
いやまぁ、何軒も梯子をして体力的な消耗も割とバカにならないのだが……。

ちなみに、途中でスケボーによく似た道具を使った遊びにも挑戦したのだが、物の見事に兼一がすっ転んだことをここに追記する。
彼に言わせれば、「スケボーの修業は積んでいない」ということらしい。
凡人の凡人たる所以である。まあ、その実転んだ時にちゃんと受け身を取っていたりしたので、あながち全く他の事に反映されていないわけではない様だが。

とりあえず、今は昼食を挟んでの買い物が一段落ついたところで一息入れている所。
兼一が荷物番をし、女性陣がそれぞれ飲み物や近くの露店などから軽食や菓子類を買いに行っていた。

「美羽さんとデートしたことがないわけじゃないけど………………………………………女の子と買い物するのって、こんなに疲れたっけ?」

と、思わず空を仰ぎながらそんな事をぼやく兼一。
あの頃は今よりも色々な意味で若かったし、なにより兼一自身もはしゃいでいた面がある。
長年の思い人との逢引なのだから当然なのだが、多分そのあたりが影響しているのだろう。
とそこへ、アイスを買いに行っていたスバルが一足早く戻ってきた。

「兼一さ~ん!」
「あ、お帰り」
「はい! これ兼一さんの分ですから、どうぞ!」
「うん、ありが…とう」

スバルは器用に五人分のアイスを両手で持ち、その内の一つを兼一に差し出す。
兼一はそれを、どこか歯切れが悪く尻すぼみな礼と共に受け取る。
まあ、それも無理はない。なにしろ、今彼の目の前にはちょっとばかし信じ難い光景が広がっているのだから。

「ところで、スバルちゃん」
「へ? なんですか?」

兼一の呼びかけに、ベンチに座って自分の分のアイスにかぶりつきながら応じるスバル。
その顔はまさに至福そのもので、尻尾があればちぎれるほど振っているんじゃないかと思える。
だが、今兼一が問題にしたいのはそこではない。

「いや、ずいぶん高く積み上げたんだなぁって思って……」
「えへへ、スペシャルアイスの十五段盛りです!!」
「そ、そう……」

スバルの言葉通り、それは十五のアイスが神懸かり的なバランスで積み上げられている。
もはやそれは、匠とか職人の業としか思えない。まあ、はっきり言って正気の沙汰ではないのだが。
しかし、積み上げる方が積み上げる方なら、それを頼む方も頭がどうかしている。
普通、アイスをこんなうず高く積みあげるよう注文するだろうか。
まったくもって、色々な意味で常識からは程遠い光景だ。
実際、道行く人達は確実に二度見し、その後は思いっきり引いた表情で目を逸らして去って行くのだから。
当然、兼一も嬉しそうにかぶりつくスバルに引いている。

「そう言えば兼一さん」
「?」
「ミウって、誰ですか?」
「あ、もしかして聞こえてた?」
「えへへ、私耳と目は結構いいんですよ」
(そう言う問題かなぁ……?)

割と距離があった筈だし、小さく零しただけの呟きを聞きとるとは、ただ「耳がいい」というレベルの問題ではない。
もちろん、兼一ならその程度の事は容易なので、あまりスバルの事を「非常識」という権利はないのだが……。

とはいえ、何かスバルの興味を強く引いてしまったらしい。
スバルは邪気のない、まるで子どもの様な瞳で兼一の答えを待っている。

「ええっと………僕が結婚してるのは聞いてる?」
「はい。あ、じゃあ……」
「うん。まあ、そう言う事」

美羽が死んで数年が経ち、気持ちの整理はだいぶついている。
思い出すことで寂しさや悲しみの感情も思い出しはするが、あの当時の様な身を切る様なそれではない。
その変化をどう受け止めればいいかとなると複雑な心境になる兼一だが、感情を長持ちさせることが難しいのも事実。良い感情でも悪い感情でも、何かを強く思い続けるのは大変なのだ。
故に、この変化は別段誰かから非難される類のものではない。

まあ、それはそれとして。
どうやら、スバルの何かに触れてしまったようで、彼女はさらに目を輝かせながら質問を重ねて行く。
当然、一切の悪意なしに。

「へぇ~、あのあの、どんな人だったんですか?」
「え? そ、そうだね、何て言ったらいいのかな……優しくて面倒見が良くて、綺麗で頭もよくて、ちょっとずれたところはあったけど……」
「やっぱり翔と似てるんですか?」
「それは……」
「翔って可愛いですから、きっとお母さんも美人だったんでしょうね!
それに私、ずっと弟とか妹が欲しいなぁって思ってたんですけど、いきなり弟が出来たみたいなんですよ。
たぶん、ギン姉も同じだと思うんですけど……」
(外見だけじゃなくて、中身も似てるんだなぁ、この二人って。
 人の話を聞かないでドンドンしゃべるとことか、ホントにそっくり……)

もしこの場にティアナがいれば、恐らく彼女は全面的に兼一の感想に同意しただろう。
何しろ、ギンガと初めて会った時にティアナも似たような感想を抱いたのだ。
興味を持った事例を前に『質問→返答を待たずに再質問・意見』と言うトーキングモードに入ってしまうのは、ナカジマ姉妹の共通した性質である。
だが、兼一が抱いた感想は、実のところそれだけではない。

「ああ、翔みたいな子が弟だったらいいんだけどなぁ……」
「ねぇ、スバルちゃん」
「? なんですか?」
「あ、いや、ギンガちゃんと話す時も時々思うんだけど、二人ともなんだかじっと相手の目を見て話すんだね」
「それって、普通じゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど……二人の場合、全然目を離そうとしないからさ」

確かにスバルの言う通り、相手の目を見て話すのは基本中の基本だろう。
しかし、この二人の場合やや趣が異なる。
相手の目を見るのは普通だが、そこからほとんど目を離さないとなると話は別だ。
話の流れ的にどこかに視線を移したりすることはままあるのだが、スバルやギンガの場合それが極端に少ない。
全くないわけではないのだが、普通の人に比べて圧倒的に頻度が低いのも事実。
兼一が感じたのは、その事への違和感だった。

「えっと、実はこれって母さんに教わった事なんです」
「お母さんに?」
「はい。心から相手の事を知りたい時、相手に自分の事を知ってほしい時は、その人の目を見なさい。その人の目の奥にあるものを見ようとしなさい、きっとその人がなにを思っているのか分かるからって」

懐かしむ様に母の言葉を思い返すスバル。その表情は懐かしさだけでなく、抑え切れない寂しさと、同時に褪せることのない母への思慕が含まれていた。
だが、兼一はそんなスバルに気付いた様子はない。
当然だ。何しろ彼は今、スバルとギンガの母「クイント・ナカジマ」の言葉に感銘を受けていたのだから。

(…………………………すごいな。それって、流水制空圏の極意じゃないか)

そう、それは彼の無敵超人の秘技の一つ、静の極みの技「流水制空圏」の極意に通じる言葉。
クイント・ナカジマがどの程度この在り方を武術的に意識していたかは、本人が故人となってしまっているが故に定かではない。もしかしたら、単にコミュニケーションのコツとして伝えただけかもしれない。
しかしそれでも、相手の眼の光からその心を知ろうとする姿勢に、兼一は深い感銘を受けていた。
とそこへ、飲み物を買いに行っていたティアナも戻ってくる。

「あ、ティアやっほ~!」
「うっさいって言ってんでしょ、スバル! まったく、恥ずかしい……」
「あはは、御苦労さま。ティアナちゃん」
「どうも。それと、これ」

兼一の労いに、どこか素っ気なく返すティアナ。
まあ、元々あまり愛想の良い方ではないので、知り合ったばかりの相手にはこんなものだろう。
兼一は兼一で、口下手ではないにしてもあまり話上手ではない。

あるいはスバルの様な強引さがあれば話は別なのだが、この二人の場合だとどうしても会話が続かないのだ。
というか、そもそも会話にならない。
話題がないのだから当然なのだが、お節介なスバルはなんとかアレコレ奮戦するも……。

(うぅ~、空気が重いよぉ~)

あまり役に立っていなかったりする。
場を盛り上げようと兼一やティアナに話を振るのだが、それが長続きしない。
いや、兼一やティアナはちゃんとスバルの話に応じている。
ただ、それが一対一から先に発展しないのだ。
兼一はまだスバルに協力的なのでまだしも、ティアナはやはりあまり乗り気ではないのだった。

しかし、ティアナとて別に兼一に全く関心がないわけではない。もちろん、特別強い関心もないが。
とはいえ、相方がこれだけ頑張っているのだから、少しは協力しようという気にもなる。
別段、ティアナは冷血でも冷徹でもないのだから。

「ほらほら、ティアも兼一さんに聞きたい事とかないの? 奥さんの話とか……」
「はぁ……アンタはデリカシーがなさすぎなのよ」
「あ、あはは、でも聞きたい事があれば聞いてくれていいよ。答えられることなら答えるし」
「………………………そう言う事なら、ちょっと聞いても良いですか?」
「あ、うん。なにかな?」
「翔と兼一さんって、なんか歩き方変ですよね? アレはどうしてですか?」
「あ、そう言えば私もそれちょっと気になってた。
 二人とも、なんかすごく緊張してるみたいに左右同じ方の手と足が出てるんだよね」
(…………う~ん、よく見てるなぁ)

思っていたよりも観察力のある二人に、兼一は内心で感心する。
普通、なんとなく見ているだけでは違和感は覚えてもあまり気付かないだろう。
それに気付くという事は、二人が本当に周りの様子に気を配っていることを意味する。
まあ、この辺はギンガも同じだ。しばらく前に、同様の質問をギンガからもされている。

(だけど、あんまりはっきりとは言えないよね。
『難波歩き』って言ってもわからないだろうし、武術の事はあんまり話したくないし……)

先ほどは答えられることなら答えると言ったが、正直これは答えられない範囲なのである。
何しろ、「難波歩き」は古武術身体操法の一環。迂闊に口にしてもし翔の耳に入ったりするのは避けたい。

「えっと…別に緊張してるとかじゃないよ。僕の場合、普段からこれだし。
 翔は………………多分、僕を見てていつの間にか身についちゃったんじゃないかな?」
「癖、って事ですか?」
「うん、別に意識してそういう風に歩いてるわけじゃないから」

別段、これに嘘はない。以前は普通の歩き方だったが、修業しているうちにこれで定着してしまった。
実際、この方が何かと便利というか都合のいい事も多い。
難波歩きとは、身体を必要以上にひねらない歩き方であり、スタミナの消費を抑え、姿勢を安定させ、瞬発力を出せるなど、ロスや負担の少ない優れた技術である。
どれだけ上手く隠していても、僅かに漏れてしまうこう言った「武の残り香」までは隠しきれない。
翔の場合、兼一の事を見ているうちにこの歩き方を憶えてしまったのだろう。

だがそこで、三人の視界の端に少々不穏なものが映る。
それはどうやら、やや柄の悪い五人組の男達が、その外見通り人の迷惑を考えずに道幅いっぱいに歩く姿。
それ自体はまぁ、やや眉をひそめるだけでことさら何かを言うほどのものではない。
確かに迷惑だとは思うが、それだけだ。別段、特に実害もないのだから。
ただし、これが実害に結び付くとなれば話は別で……往々にしてそういう事は起こり得る。

「ああ? おい、邪魔だジジイ、さっさとどけ!!」
「ひ、ひぃ!?」

たまたま前を通ったリヤカーを引く老人に向け、男達の一人が蹴りを見舞う。
当然、突然蹴られた老人は為す術もなく体勢を崩して転倒する。
清掃員か何かで、足が悪いのだろう。確かに歩みは遅かったが、そんなものは非難されることではない。
何が言いたいかといえば、男達のそれは良識というものからかけ離れた暴力に他ならないという事だ。

当然と言えば当然の話、誰もがそれに非難がましい視線を向ける。
ただし、それも長続きはしない。
誰だって面倒事や痛い思いは御免被りたい。非難の視線を向けても、男達に一睨みすれば目を逸らしてしまう。
しかし、中にはその程度では恐れ入らない人間というものがいる。
たとえば、ここにも。

「少しいいかな?」

横手から何気ない動作で歩み寄った兼一は、やはり無造作に彼らに声をかける。
ティアナやスバルは兼一が動くとは思っていなかったのだろう。
兼一が立ったことで機先を制され、結果的にベンチの前で中腰の姿勢のままになっている。
そして、男達は兼一の実に不機嫌そうに顔を向けた。
恐らく、誰もが自分達を恐れて見て見ぬふりをすると思っていたのだろう。

「あん?」
「君達、お爺さんを蹴るとは何事だい? 敬老の精神という言葉を知らないの?」
「はぁ? おいおい、俺らはチンタラ歩いてるから脇にどかしただけだぜ?」
「道幅いっぱいに歩かず、少しよければ済んだだろう」
「俺たちゃいーんだよ、強いからな。道に限らねえだろ? 弱い奴が強い奴に譲る、当たり前のルールだろうが」
「そ、俺らは強いんだから弱い奴は大人しくしてりゃぁいーんだよ。
そうすりゃ俺らも余計な事をしないで済むんだからよぉ」
「ちげぇねぇ! それなら万事平和に済むってもんだ!!」

男達は自分達のセリフに気をよくしたのか、下品な笑い声を上げた。
兼一の後ろでは先ほど蹴られた老人が「もう良いんじゃ、早くお前さんもこっちへ」と裾を引っ張っている。
だが兼一は動かない。なぜならば……

「兼一さん、勇気があるんだねぇ……他の人たちなんて見て見ぬふりなのに……」
「いや、それは違うんじゃない?」
「え? なんで、ティア?」
「よく見なさい、兼一さんの足」
「足? …………………ぁ」
「震えてるでしょ? あれ、勢いで出たはいいけど、怖くて動けなくなってるだけよ」
「あっちゃぁ……」

そう、兼一は動かないのではなく………………………動けないのだ。
あまりの横暴ぶりに老人をかばったのは良いが、男達の飛ばすガンにビビって膝が笑っている。
はじめは感心したティアナやスバルも、今ではちょっと落胆気味だ。

まあ、勢いだろうとなんだろうと老人をかばったのはたいしたものだと思う。
実際、それまで二人は兼一の事を「人は良いけど気が弱そうなお兄さん」と思っていたのだから。
その評価をやや上に修正される位の姿は見せてもらえた。
ただ、やはりこれでビビってしまっているのを見ると、その修正された評価を再修正したくなるのだが……。
まあ、さすがにこれは「それはそれこれはこれ」である。
そして、当の兼一自身はというと……非常に困っていた。

(不味いなぁ、勢いで出てきちゃったけど、この後どうしよう。
 いっそ思いっきり柄が悪ければ平気なんだけど、中途半端に柄が悪いもんだから昔のトラウマが……。
 それに、殴って撃退するわけにもいかないし、睨み倒しもなぁ……)

下手な事をすると翔に余計な事を気付かれてしまうかもしれないし、それは避けたい。
そもそも、兼一としてはこれ位に柄の悪い相手が一番苦手なのである。
軍人とか殺し屋クラスになればかえって肝が据わるのだが、中途半端に柄が悪いおかげで覚悟が決まらない。
客観的に見て、今の自分が酷く情けないことが分かるだけに、一層物悲しくなるのだ。

「いいから、さっさとどけよ兄ちゃん。なんなら、俺達がどかしてやっても良いんだぞ」

ドスの利いた男の声に、兼一は全身が震えだすのを自覚する。
別段この程度の相手は戦力的に怖くもなんともないのだが、幼少期から植え付けられた苦手意識とトラウマがそれを許さない。頭では恐ろしくないと分かっているのだが、感情と記憶が理性を振り回す。
そうして、男達は兼一の煮え切らない態度に業を煮やし、ついに彼の襟首を掴んだ。

「腰抜けが、調子に乗るからこういうことになるんだよ。うぜぇからさっさと失せろや!!」
(いっそのこと、このまま一発殴られちゃった方が楽かもなぁ……)

男が拳を振りかぶる様子を見て、頭の片隅でそんな事を思う兼一。
拳は酷く遅く、掴んで止めるにしても投げるにしても容易い。
問題なのは、身体が思うように動いてくれない事。
あまりにも脅威が低すぎるせいで、身体も反射的な迎撃に出てくれない。
ならばと、一発殴られることで自分自身に「活」を入れようと考えたのも、ある意味では自然だっただろう。
まあ、この程度の一撃で兼一に「活」が入るのかというと、甚だ疑問なのだが……。
だが、いざ兼一に男の拳が届きそうになったところで、それに待ったをかける人物が乱入してきた。

「何をしてるんですか、あなた達!!」
「あん?」

今まさに兼一の頬に突き刺さろうとした拳は、鋭い制止の声により押しとどめられた。
拳を振りかぶっていた男は、ますます不機嫌な表情になって声の主を探す。
そこにいたのは、なかなかに珍奇な格好の少女。
何しろ右手で幼児の手を握り、左手には大小さまざまなビニール袋が下げられているのだから。

「…………………………………なんだお前? その年で子連れか?」
「ち、違います!!! この子は今あなたが殴ろうとしている人のお子さんであって、私の子どもとかじゃありませんから!!! 失礼なこと言わないでください!!!」

さすがに子持ちと思われるのは心外だったらしく、顔を真っ赤にして否定するギンガ。
まあ、仮に翔と親子だったと仮定すると、12・3歳で産んだことになるので、それは頑として否定するだろう。

「と、とにかく! 早く兼一さんを離して、そちらのおじいさんに謝罪してください!!」
「はぁ? ねーちゃん、度胸は買うがな、ちゃんとルールを守らなきゃだめだぜ?」
「ルールというのなら、あなた方がやろうとしている事は立派な傷害です!」
「ちげぇな。弱いくせに強い奴にたてつくから怪我をする、ただそれだけのことだろ?
 火事の中に飛び込んで火傷するのは当然、車の前に飛び出せば怪我をするのも当然。それと同じだろうが。
 弱い奴は弱い奴らしく、大人しく逃げ回ってればいいんだよ。ったく、物分かりが悪くて嫌になるぜ」
「物分かりが悪いというなら、それはあなたたちの方でしょう。
どんなに弱くても、理不尽に反抗する権利は誰にでもあるんですから」
「へぇ。で、どうするってんだ? 言っとくが、俺らはみんなランクCの魔導師だぜ。
ま、ねーちゃんが優しく接待してくれるってんなら、穏便に済ませてやっても良いけどよ」

そのまま下品な笑い声をあげながら舌なめずりする男達。傍から見ても、実に不愉快な光景だ。
年端のいかない少女にいったい何をさせる気なのか。

だが、これこそが男達の自信の根拠。
魔法技術が広く認められているこの世界において、魔法は個人の能力としてはかなり上位におかれる代物だ。
もちろん魔力を持つ者の全てが魔導師…当たり前の様に魔法を操るわけではないが、それでもそのことに変化はない。
Cランクとなると、魔導士としては極々平均的な能力に過ぎない。しかし、平均という事は大半の魔導士が大体このくらいの力量なのだ。中には突出した能力を持つ者もいるが、そんな人物と出会う事自体が稀。
基本的にこのくらいのランクがあれば、魔導士として舐められる事はない。
当然、もし暴力沙汰になってもそうそう容易くやられることもないだろう。
それが5人で徒党を組んでいるとなれば、確かに気が大きくなるのもいたしかない。

しかし、今回は少々相手が悪かった。
どうも、ギンガはギンガでだいぶ不機嫌らしい。
一応丁寧な口調は保っているが、その言葉の端々に棘が含まれている。

「ごたくは良いですから、早く兼一さんを離しなさい」
「んだと、この女ぁ!!」

どうやら、伝家の宝刀とも言える脅し文句に全く臆した様子を見せないことが気に障ったらしく、男の一人がギンガに掴みかかる。
普段なら兼一が止めるなりなんなりするだろう。自分の事ならともかく、周りの人間…特に女子どもを傷つけようとする場に居合わせて、それを黙認するような男ではない。
しかし、この時の兼一は敢えて動かない。なぜならそれは、動く必要性と意味を全く感じなかったからだ。
むしろ、余計な手出しは返って邪魔になるとさえ判断している。
そして兼一の予想通り、乱暴にギンガの髪に伸ばされたその手は、虚しく空を切った。

「……は?」
「…………………」

軽く身を引いて男の手から逃れたギンガは、そのまま拳を突き出し横から男の顎に当てる。
完全に、誰が見ても一目瞭然な形での力量差の証明。
もしギンガが振り抜いていれば、男は顎を打たれ、その場に崩れ落ちていたことだろう。

「言ってませんでしたが、私も一応魔導師です。まだAランクに過ぎない未熟者ですけど」
「え、Aだと!?」
「一応言っておくと、その二人は次のBランク試験を受ける予定です」

そう言ってギンガが視線を向けるのは、いつの間にかベンチを離れ男達の背後に回ったティアナとスバル。
二人の手にはデバイスこそないが、いつでも攻撃できる大勢ということに変化はない。
ティアナの周囲には5つの橙色の魔力弾が滞空し、スバルの腕には環状魔法陣が展開され男達を威圧する。
Aランク魔導士一人と、限りなくBランクに近いであろうCランク魔導士が二人。
やっとこCランクでしかない男達では、到底太刀打ちできない戦力差だった。
だが、男達にも男達なりの矜持がある。相手が格上だからと言って、こんな子どもを相手に尻尾を巻いて逃げだしましたでは、この先業界で笑い者にされてしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。

「ざ、ざけんじゃねぇぞ。ここまで馬鹿にされて『はい、そうですか』って引きさがれるかよ!!!」

それまで兼一の胸倉を掴んでいた男…おそらく彼らのリーダー格だろう。
男はなけなしの勇気を奮い立たせ、ギンガに向かって飛びかかる。
ギンガは即座に迎撃しようと突きを放つ。
だが、二人の拳がすれ違おうとしたこの瞬間、男の体が僅かに硬直した。

(な、なんなんだよ、この寒気はよぉ!?)

言葉にできない、過去に経験したことのない種類の怖気に男の体が一瞬強張った。
男は気付かない。それが、自分がたった今まで掴んでいた男が発する威圧感に飲まれたせいだとは。
しかし、そうしている合間にもギンガの拳は伸びてくる。その結果は、当然……

「うごっ!?」
「え?」

そのままギンガの拳は吸い込まれるようにして男の顔に突き刺さり、鼻骨の折れる音が鈍く響く。
ギンガも、まさかここまで無防備に受けるとは思わなかったのだろう。
カウンター気味に放った突きなので、相手の拳を避ける自信も意思もあった。
だから、相手の拳を避けられたのは問題ではない。いや、さすがにここまで力が乗っていないというのは予想外だが……。
とはいえ、何よりも驚いたのはまた別の事。
まさか防御はおろか、拳を受ける際にそれに耐えようとする素振りすらしないとは思わなかったのだ。

そして、耐えようとすることすらできなかったという事は、つまり限りなく不意打ちに近い形で受けたという事。
どれほど鍛えこまれた鋼の如き筋肉であろうと、力を抜いてしまえば唯の肉の塊。
それと同じで、覚悟していない状態で頭部に突き刺さった一撃は、容易く意識を刈りとることができる。
その結果、男は先の一撃で無様にも気絶してしまった。

「わ、若頭!」
「ちぃ、退くぞ野郎ども!!」
「おぼえてやがれ~!」
「ま、待ってくれ~……」

頭が潰れてしまえば、まあこんなものだろう。
まるでクモの子でも散らす様に配下の男達は散り散りに逃げて行く。
まあ、それでもなんとかリーダー格の男をちゃんと連れて行ったのはほめてやるべきか。
とりあえず、何はともあれ柄の悪い連中を撃退できたのだからよしとすべきだろう。
ギンガもそう結論したようで、若干襟の乱れた兼一に駆けよって話しかける。

「大丈夫ですか兼一さん!」
「あはは、怪我はないから安心していいよ、ギンガちゃん」
「そうですか、よかった……」

そう言って、心の底から安堵の表情を浮かべるギンガ。
どうやら、彼女も兼一の事を「頼りない所がある」と思っているらしく、翔とは違った意味で庇護の対象と見ているようだ。まあ、「頼りない所がある」のは事実なので、兼一がその事を知っても苦笑を浮かべるだけだろうが……。
とはいえ、今の一件がいい具合に作用したのだろう。
それまで二人の間にあったギクシャクした様子は薄れ、だいぶ元に戻ったような印象だ。

そして、男達に蹴られた老人を介抱した四人は、再び先ほどのベンチに座りなおして軽い食事を取る。
その間、兼一が自分の情けなさを恥じたり、それをギンガ達が慰めたりしたのだが、まあ余談であろう。
ただこの時、翔のギンガを見る瞳に、少しばかり普段と異なる輝きがあったことに、まだ誰も気づいていはいない。

とそこで、ギンガが何かを思い出したかのように手を打ち、ビニール袋の一つをあさりだした。
やがて目当てのものが見つかったようで、何やら長方形の髪で出来た物体……雑誌を取りだしスバルに差し出す。

「ほら、スバル」
「これがどしたの、ギン姉?」
「表紙、見てみなさい」

言われるがままにギンガから雑誌を受け取り、表紙に目を向けるスバル。
ティアナや兼一、そして翔も横から覗き込むようにしてその表紙を見る。
そこに印刷されていたのは、ティアナやギンガにとっては見慣れた人物の写真が映っていた。
それは、スバルにとって憧れであり目標であり、今の道を行く決心をさせた理想の人物。その人物の名は……

「あ、なのはさん!!」
「うん、独占インタビューだって。今日発売だから、まだ見てないでしょ?」
「うん♪ ありがと、ギン姉!!」

文字通り、子どもの様にはしゃいで喜ぶスバル。
そんなスバルに、ティアナはどこか呆れの混じった視線を向け、ギンガは喜ぶ妹に優しい視線を向ける。
スバルがどれだけこの人物に憧れているかを知る二人にとっては予想通りの反応であるのだが、それでも今にも飛び跳ねそうなほど喜ぶスバルを見るとついつい口元がゆるんでしまう。
しかし、そんなスバルの事情をまったく知らない翔はというと、よく分からないがとにかく喜んでいるスバルに便乗して一緒になって笑っている。
ただ、兼一だけは4人とはやや違う反応を見せていた。

「…………………………………………」

じ~っと、それこそ穴が空くのではないかというほどの視線で雑誌の表紙を見つめる兼一。
その目はどこか信じられない物を見るようであり、まるで夢が現実になったかの様にいぶかしんでいる。
そしてついに、兼一がその重い思い口を開いた。

「まさか、なのはって………………………なのはちゃん?」

口から小さく漏れたのは、他人にはよく意味の分からない確認するような呟き。
だが、その口調そのものは真剣そのもので、よく分からないなりの重みがある。
でもって、その事に真っ先に反応したのはスバルだった。

「あの、兼一さん…なのはさんの事知ってるんですか?」
「そう言えば、兼一さんと同じ地球出身なんですよね」
「うん、八神二佐の幼馴染で親友って言ってたし、その筈よ」

ティアナとギンガも、スバルに続いて口々にそんな事を言う。
ティアナはあまりこの人物の事を知らないが、ギンガは多少縁がある。
かつて、彼女の親友に助けられたこともあるし、父であるゲンヤが別の親友と親交があるのだ。
ギンガ自身の直接的な面識は皆無に等しいが、それでも多少なりとも話は聞いていた。

「地球…………………やっぱり。
えっと、ちょっと聞きたいんだけど、この人のファミリーネームって『高町』?」
「はい、そうですよ。高町なのは教導官。戦技教導隊所属のエースオブエースで……」
「って、どうしたんですか兼一さん。そんな鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔して……」
「どうしたの、父様?」

兼一の質問に答えつつ、軽く件の人物のプロフィールを話すスバル。
しかし、聞けば聞くほどに兼一の顔が驚愕に歪んで行く。
そのことに首を傾げるギンガだが、その答えはすぐに兼一自身からもたらされた。

「はぁ~……………あのなのはちゃんがねぇ」
「あの、やっぱりお知合いなんですか?」
「え? あ、うん。一応ね」
「ほ、ホントなんですか!? いつ、どこで、どんなお知合いなんですか!? 微に行って細を穿つ説明をお願いします!!」
「落ち着きなさいよ、このバカ!!」

ギンガの問いにまだ困惑しながら首肯する兼一だが、それにスバルが思い切り食いつく。
ついでに、あまりにテンションが上がって詰め寄るスバルの首根っこを掴んで引き戻しつつ、頭にゲンコツを降らせて落ち着かせるティアナ。実に慣れた手際である。

「何て言うか、彼女のお姉さんが僕の妹の親友で……その縁でね」
「そ、そうなんですか……」
「まぁ、僕自身はなのはちゃんとそこまで親しくしてたわけじゃないんだけどね。
 お兄さんとかお姉さんとは色々あって親しくしてたし、お父さんにも昔はお世話になったよ。
 と言っても、この何年かは疎遠だったけど……」

正確には、翔が産まれて美羽が死ぬまでは高町家とはかなり親しくしていた。
武とはあまり関係のない母である桃子や末娘のなのはとは少し話をしたことがある程度だが、他の面々は違う。
何しろ彼らは、兼一同様武を極めんとする武人。
兼一が武の世界から離れるまでは、新白連合の仲間たち同様、共に切磋琢磨し技を競い合った仲だ。
高町家の道場に出稽古に行くこともあったし、その逆も然り。
兼一自身少なからず高町士郎の教えを受け、恭也や美由希も梁山泊で武を学んだのだから。
そして、兼一と美羽の結婚式には高町家の面々も参列し、兼一や美羽も恭也と忍の結婚式には参列している。
とりあえず、それくらいには親しくしていた間柄である。

「はぁ、不思議なこともあるものなんですねぇ……」
「そうだね。初めて会った頃はあんなにちっちゃかったのに、桃子さんに似てホントに美人になったなぁ、なのはちゃん」

ギンガの溜め息交じりの言葉に、兼一も全面的に同意する。
まさか、こんな異郷の地で旧友の妹の成長した姿を拝むことになるとは思ってもみなかったのだから。
しみじみと時の経過を噛みしめ、感慨にふけるのも当然だ。
だが、同時に兼一はその胸の内で長年の疑問に答えを出していた。

(でも、これでやっと納得がいった。いつ頃だったかは正確にはわからないけど、いつの間にかなのはちゃんが『戦う人』の雰囲気を纏う様になったのは、そう言うことだったのか。
 それにしても、あの子に憧れてその背を追いかける人がいるなんて、時間が経ったことを実感するなぁ)

そのことに微笑ましさを覚えながら、兼一は青い空を見上げる。
長く会っていない友人の妹に向け、胸の内で「がんばれ」とエールを送りながら。
その後、昔のなのはの様子をスバルに根掘り葉掘り聞かれて兼一も感慨にふけるどころではなくなるのだが、まあそれも含めていい思い出というものだろう。



しかし、兼一達は気付いていない。
まさかこの日の出来事が一つのきっかけとなり、彼らの関係が変化せざるを得ない日が来ることを。
それも、それが決して遠くないことなど知る由もない。

「よくも、よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもこの俺に恥かかせやがったな、あのガキ。
 ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ、ゆるさねぇ………………ぜってぇにゆるさねぇぞ!!!」






あとがき

はい、ようやっと話が進みそうな予感………と言ったところですね。
今回で、ケンイチとリリなのの両世界がどんな位置づけになっているかは分かったと思います。
まあ、わざわざ別世界とか並行世界とかしなきゃいけないほど離れていませんし、ならという事でこんな形に。
ついでに、もったいないので前作「Sweet songs and Desperate fights」の設定をほぼ流用しました。
だいたい兼一と恭也、ほのかと美由希の関係はあの通りです。士郎が生きていたり、実は美由希から先の年齢を一歳繰り下げ調整していたりするのですが、この方がいいかなと思い多少強引でもこの形にした次第です。
なので、概ね兼一と恭也が出会った時にも「Sweet songs and Desperate fights」の様な事があったと思ってください。

さて、つぎこそいよいよ荒事の予感……ですが、実際に荒事になるかというと…微妙。
次で最後の準備を終えて、その次でようやく、かもしれません。
中々話が進まず申し訳ないのですが、今のうちにやりたい事がいっぱいあるのです。
申し訳ありませんがご容赦いただき、今後もお付き合いくだされば幸いです。



[25730] BATTLE 5「不協和音」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/03/06 00:06

事の発端は、もう本当に、純粋なまでに巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
それとも、もっと分かりやすくするのなら、「運が悪かった」と言った方がいいだろうか。
あるいは、身も蓋もない言い方になるが、結局人間は「血には逆らえない」と考えることもできる。

スバルやティアナを交えて白浜親子とギンガがミッドの街を観光してから3日。
その日、たまたま普段より早く仕事を終えたギンガは、ゲンヤや兼一より一足早く職場を後にした。

もちろん、折角早く帰れるのだから託児施設に預けている翔をそのままにしておく道理はない。
ギンガ自身、残り時間が限られている弟分との時間を大切にしたい思いもある。
故に、年の離れた仲の良い姉弟よろしく、二人は手を繋いで帰宅した。

「ただいま」
「ただいまぁ~!」

真っ先に帰宅したのだから家に誰がいる筈もない事はわかっているが、それでも二人はしっかりと帰宅のあいさつをする。
もしかするとそれは、家そのものに帰ってきたことを告げているのかもしれないし、単に習慣か気分の問題でしかないのかもしれないが……。

「じゃあ、着替えて居間に集合、って事で良い?」
「うん! 僕、お菓子の準備とかしておくね」
「御夕飯もあるんだから、あんまり食べ過ぎない様にね」
「? ギン姉さまはすごく食べてると思うんだけど……」
「わ、私はいいの!! この後ちょっと身体を動かすんだから!」

弟分の思わぬツッコミに、慌てた様子で自身の正当性を主張するギンガ。
翔に悪意も邪気もないのはわかっているのだが、それがかえって心と耳に痛い。

「そうなの?」
「そうなの!」

首を傾げる翔に対し、ギンガはやや語気を強めて押し通す。
そうしてギンガは私室に、翔は兼一と共に割り当てられた部屋に向かった。
基本的に着替えなんてものは、男は早く女は時間がかかる。先ほどのは、それを見越しての翔の進言であった。

やがて、予想通りに一足早く居間に戻った翔はテーブルの上に適当に菓子類を出していく。
短い付き合いだが、姉の方向性もわかっているので、どれもこれも量は多い。

「う~ん、これで足りるかなぁ? でも、ギン姉さまだとあっという間になくなりそう……」

そこに積み上げられたのは、これからちょっとしたパーティでも開くのではないかという量の菓子の山。
普通、これだけあれば十数人レベルで飲み食いできそうだが、この程度で足りるか翔は疑問に思う。
何しろ、相手はあのギンガだ。この程度の量、瞬く間のうちに胃袋におさめかねない。

少なくとも、翔は特にその想像に疑問を抱いてはいない。
もしこの場にギンガがいれば、図星をつかれながらも必死になって否定しただろう。
基本的に色気よりも食い気が先立つ彼女にも、そう言う意味での恥じらいだって少しはある、少しは。

そして、翔が姉の食欲とのバランスについて悩むこと数分。
ようやくギンガも居間へと降りてきた。ただし、その格好が普段の室内着とは異なっている。
それはオシャレなどとは無縁の、動きやすさのみを追求した機能的な衣服。
寄り端的に表現するなら、ジャージとTシャツである。普段見慣れないギンガのその格好に、翔は首を傾げた。

「? ギン姉さま、なに、その格好?」
「え? ああ、これね。折角早く帰ってこれたから、食べる前にちょっと型打ちでもしようかと思って……」
「かたうち?」
「う~ん、何て言ったらいいのかな……翔の世界にも、格闘技とかってあるよね?」

翔に対しどう説明しようかと僅かに悩んだギンガだが、まずはそんな事から聞いてみた。
何しろ、人間の歴史とは闘争の歴史でもある。形は様々なれど、人は周囲と争い競うことで発展してきた。
その多種多様な種類のある闘争の中でも、最も原始的なものの一つが格闘……殴り合いである。
およそ、この文化のない文明という物は存在しない。

ギンガは地球にどんな格闘技があるかは知らないが、それでも存在しない事はないと確信している。
故に、とりあえずそのあたりの外堀から埋めて見ることにしたのだ。
翔とていくら兼一が武から遠ざけているとは言え、完全無欠の無知ではない。
拳の握り方すら知らないとはいえ、有名どころの名前くらいは知っている。

「うん。空手とかボクシングとか……」
「実は、私もそう言うのをやっててね。
『ストライクアーツ』の亜流で、『シューティングアーツ』って言うんだけど……その練習」
「ふ~ん」

分かっているのか分かっていないのか、どこか気のない返事を返す翔。
まあ、幼児の彼からすれば、亜流だの何だのと言われても困るだろう。
だが、全く興味がないわけでもないらしく……。

「それって、スゥ姉さまもやってるの?」
「うん。私は母さんから教わって、それをスバルにね」
「他の人も?」
「あ~……ミッドの人がやってるのはほとんどストライクアーツだね。こっちはミッドでは一番競技人口の多い…やってる人が一番多い格闘技だから。
シューティングアーツは使う道具が特殊で、やってる人はほとんどいないかな」

翔にもわかる様に言葉を選びながら、ゆっくりと噛み砕いてギンガは説明していく。
そしてその言葉通り、ギンガは自分と同じ「シューティングアーツ」を使う格闘技者を数えるほどしか知らない。
なにしろ、ローラーブーツ型デバイスを使う事を前提とした異色のスタイルである。
確かに機動力に優れるのだが、その分姿勢制御などの面で難易度の高い技術だ。
あまり好んでこれを習得しようとする者はいない。

ギンガの言葉通り、ミッドで格闘技をやるものは八割方ストライクアーツを学ぶ。
まあ、そもそもストライクアーツ自体が広義的に「打撃による徒手格闘術」の総称なのだから、かなり大雑把だ。
とりあえずは、「総合格闘技」ということで認識しておくのが無難だろう。

「この前の怖いおじさん達をやっつけたのがそうなの?」
「うん、一応ね」

どうやら、あの時の一件から少しばかり興味を持っていたのだろう。
翔の眼には、僅かに好奇心から来る光が宿っていた。

「へぇ~……あの時のギン姉さま、ホントにカッコよかったなぁ……」
「あ、あはは……本当は、あんまり無闇に使うのはよくないんだけどね」

地球においても、空手の黒帯持ちやプロライセンスを持つボクサーの拳は凶器と同義と考えていい。
それはミッドでも大差はなく、優れた格闘型の魔導師が一般人に拳を振うのは御法度だ。
ましてやそれが、正規の管理局員、それも武装隊資格持ちとなれば尚更。
前回のそれは正当防衛やらなんやらで言い訳できるが、やはりあまり褒められたものではないのも事実だ。

そうして、ギンガは一端庭に出てストレッチを済ますと、足を肩幅に開いて深くスタンスを取った。
翔は翔で、縁側に座ってそんなギンガの様子を興味深そうに見ている。
ギンガはそのまま基本的な構えを取り、はじめはゆっくりと一つ一つの動作を確認していく。
段々と一つ一つの動作は速さと鋭さを増していき、素手のそれとは思えない風斬り音を響かせる。

翔はその音やドンドン激しくなっていく動きに首を竦め、目を閉じることもあった。
だが、時間経過と共に次第にそんな反応もなくなっていく。

そして、いつ頃からだろう。
その澄んだ眼は、ギンガの脚先から始まり、腰や背中、そして肩から腕へのスムーズな連動を確かに捉えていた。
常人、それも武術の初心者では考えられない事だが、遠目とは言え翔は確かにギンガの一つ一つの動作を認識しているのだ。
如何に魔法で強化していないとはいえ、それでもギンガの蹴りや突きの速度は充分早い。
それこそ、同年代の中ではトップクラスと言っていいだろう。少なくともミッドにおいては。
当然その一連の動きを『把握』するとなると、生半可なことではない。
しかし、もしここに翔の血筋について知る者がいれば、そのことに「納得」はしても「驚き」はしないだろうが。

とそこで、唐突にギンガの動きが止まる。
深く息をつき呼吸を整えたギンガは、おもむろに翔の方を向いた。

「翔も、少しやってみる?」

それは、なにか特別な考えがあって出た言葉ではなかった。
単に、翔がやけに熱心に見ているのに気付き、これからの話題と思い出の一つにでもと思っての提案に過ぎない。
実際、ギンガは別に翔が自分の動きを正確に見てとっていたことには気付いていない。

後はまぁ、僅かな好奇心がなかったと言えば、ウソになるだろう。
もし筋が良さそうなら、少しばかり本格的に教えても良いかもしれない、くらいには思っていた。
だがそれが大きな勘違いであったことに、ギンガもすぐに気付く事になる。


後から考えれば、ある意味でこの瞬間こそが、翔にとっても、ギンガにとっても運命の分かれ道だった。
もしこの言葉を翔にかけなければ、あるいは翔が頷かなければ、きっと彼らはそれまで通りでいられただろう。

しかしそれでも、この場この瞬間、二人は確かに自分自身の意思で選択した。
例え分岐点にいるという自覚がなかったとしても、それでも二人は選んだのだ。
これからの自分達の未来を。

そう、この一言で選択はなされた。
未来に待つものなど何も知らない無邪気な一言で。

「うん!!」



BATTLE 5「不協和音」



そしてその日の晩。
ナカジマ家の夕食後の団欒は、ある些細な出来事によって一変した。

【パンッ!!!】

響いたのは、鋭く澄んだ何かを叩く音。
その音の出所は幼い、まだあどけなさを残す幼児の頬と、それを打った父の掌。

ほんの少し前まであった、いつも通りの団欒、普段と変わらぬ日常、他愛のない話題と笑い声。
その全てが、この一音で脆くも崩れ去った。

翔は生まれて初めて父に叩かれた頬に手を添え、信じられないものを見る様な目で父を見る。
その眼には涙の気配すらない。だが、痛くなかったわけではない。
むしろ、痛いというのであれば今すぐにでも泣きだしたいくらいに痛かった。
それでも涙が出て来ないのは、ひとえにたった今父が自分の頬を打ったという事実に現実感がないからに他ならない。何しろ、兼一が自分を叩くなど、翔は夢にも見たことがないのだから。

当の兼一自身は、今までに見たことがないほど厳しい表情を浮かべている。
少なくとも翔をはじめ、その場に居合わせたギンガやゲンヤは兼一のこんな表情を見たことがない。
それどころか、兼一がこんな表情を見せる事自体に驚愕を隠せない。
当然、理想の父であろうとして、事実そう在ってきた兼一が息子を叩くなど、理解の外と言っても良い。
だが、もしこの場に本当の意味で兼一をよく知る者がいれば、彼らとは逆の反応を示しただろうが……。
あるいは、兼一がその瞳の奥に言葉にできない感情の揺らぎを見たかもしれない。
しかし、幸か不幸かそのことに気付けるほど、兼一を理解している者はここにはいなかった。

しばしの静寂。傍観者であるゲンヤとギンガの二人はあまりのことに微動だにできず、翔はジワリと浸透してくる痛みに今起こったことが現実である事をようやく認識し始めていた。
唯一この場で正常な思考力を保っているであろう兼一は、ひたすらに無言を貫く。
そうして、兼一をのぞいて真っ先に再起動を果たしたのはギンガだった。

「兼一さん! いきなりなにを!!」

ギンガは憤慨を隠すことなく、非難がましい視線と声を兼一に向ける。
だが、兼一はギンガの方に一瞥すらくれることなく、ただただ黙って翔の事を見下ろしていた。
まるで、ギンガと話すことなど何もないと暗に示しているかのように。

「身体の動かし方だけとはいえ、なんの話も通さず翔にシューティングアーツを教えたのは謝ります。
でも、だからこそ翔は悪くありません! 翔はただ、兼一さんに見てほしかっただけで……!」

今起こった出来事に思考が追い付き、ショックのあまり震え目に涙を浮かべる翔を抱き寄せ、ギンガは彼を弁護するように言い募る。
事の発端は、夕方にギンガから習った拳の握り方や突きの打ち方を翔が兼一に見せた事。
それは本当に極々基礎的で、ギンガの言う通り「身体の動かし方」以上のものではない。

当然ながら、翔やギンガの感覚では、その日あった出来事の報告くらいでしかなかった。
実際、普通の家庭であれば「そう言う事があった」という程度で終わるだけ。
精々が、「じゃあ明日も頑張りなさい」で済む話だろう。
しかし、それをしたのが翔で、見せられたのが兼一であったことが事態を複雑にしていた。

「……………」
「たった一日、ほんのさわりしか教えてませんが、それでもわかりました。翔には…………才能があります。
 トップファイターになれるかは分かりません。でも、元の世界に戻ってちゃんと格闘技をやれば、きっと一角の格闘技者になれます!」

どれだけ言い募っても見向きもしない兼一に、それでもなおギンガは言葉を重ねる。
それは翔の才能を惜しむだけでなく、父である兼一に翔の才能を知ってほしいから。
どうせなら最も身近な父に理解し応援してあげて欲しいと思うのは、至極当たり前の感情だろう。

なにより、ほんの数時間教えただけだが、それでも「スバル」という教え子を持ったギンガにはわかった。
翔には、優れた「格闘技」の才能があることを。一指導者として、一格闘技者として、その才能を埋もれさせることを「もったいない」と思う気持ちは当然のものだ。
しかしそれ以上に、可愛い弟の類稀な才能にギンガは魅せられていた。
できれば自分自身の手でこの才能を開花させてやりたいと、そう思わされるほどの才能を、翔は備えている。

だが、それはギンガの立場と翔の置かれている状況から叶わない。
遠からず離れ離れになる以上、これがどうやっても覆らないのはわかりきっている。
だからこそ、兼一に翔の才能を理解してもらい、その後押しをしてほしかった。
自分では磨いてやれない才能だが、それでも見出した才能が花開くのは喜ばしい。
ましてやそれが、大切で愛おしい弟分となれば尚更だ。
故にギンガは、有りっ丈の想いと言葉を持って兼一に力説する。

「私が教えたことなんて、拳の握り方と構えの取り方、後は少し動きを修正しただけ……。
 そんな基本とすら言えない様な基本を教えただけで、翔は爪先から始まった全身の力を拳に乗せて打つ事が出来ました! 一回教えただけの事を、まるで乾いた砂の様に吸収したんですよ!」

ギンガの言葉は熱を帯び、いっそ叫びに近いほどの力が籠って行く。
必然翔を抱く力も強まり、彼女がどれだけ翔の才能に衝撃を受けたかを如実に物語っている。
しかしそこで、唐突にギンガの語調が弱まった。

「……………………いえ、違いますね。きっと、全身の力を使う打撃の打ち方も、もっと効率の良い身体の動かした方も、翔は……はじめから、知っていたんだと思います。私はただ、それに気付くきっかけをあげただけ。
 この年頃なら腕力と体格が全ての筈なのに、この子はそのずっと先に……はじめからいたんです。気の遠くなる様な反復と経験から得る筈の物を、最初から……。
 それは……本当に凄いことです。でも、だからこそ! 力の使い方を、力を使う心を、ちゃんと教えてあげなきゃいけません。翔に限ってそんな事はないと思いたい。だけど、力は……時に人の人生を狂わせるから……」

尻すぼみになって行く言葉。だがその一言一言には、言葉にできない想いが宿っている。
まるで彼女自身が、力に人生を狂わせられる恐ろしさを知っているかのように、その危うさを恐れているように。
それはただ魔法という特別な力を持っているからと考えるには、あまりに重い言葉。
それを現すかのように、翔を抱くギンガの方はよほど注意せねば気付かないほど僅かに…震えていた。

ギンガは言いたい事は言いきったのか、肩で息をしながら兼一を睨みつける。
翔はその腕の中で震えながら、小さく嗚咽を零す。
ギンガの姿は、まるで我が子を守らんと立ちはだかる野生動物を彷彿とさせた。
そうして、長い沈黙の果てにゆっくりと兼一は口を開く。

「ギンガちゃんの言いたい事はわかった」
「なら……!!」
「だけど、僕から言う事は一つだよ。翔に…………武術は必要ない」
「っ……………!?」

その言葉に、ギンガの顔が激情に染まる。
これだけ言葉を尽くしても、これだけ想いを込めてもなお、頑として翔が格闘技を学ぶことを認めない兼一が許せなかったのだ。折角の才能、このまま潰してしまうなど愚の骨頂。
それも我が子の才能となれば、それを育てようとするのが親として当然の姿ではあるまいか。
ギンガの思いは恐らく正当かつ、当然な正論だろう。十人いれば十人が彼女を支持するに違いない。

ただ、ギンガは気付いていただろうか?
ギンガが「格闘技」と表現した部分を、兼一は敢えて「武術」と表現していたことに……。

「兼一、おめぇ……」
「父、様……?」

先日の風呂での騒動の時とは全く別種の二人の擦れ違い。
あの時は単にギクシャクしていただけだが、今回はまるで違う。
双方の意見が真っ向からぶつかりあい、どちらも妥協の意思を示さない。
いや、妥協の意を示さないのは兼一だけで、ギンガには多少の譲歩の意思はある。
ただそれは、あくまでも「翔に格闘技を学ぶ機会を与え、その意思を尊重する」事が大前提。
兼一の主張は、そもそもその大前提を否定している。
だからこそ、二人の主張が折り合う事などあり得ない。

「聞こえなかった? なら、もう一度言うよ。
 翔に武術は必要ない。だからもう金輪際、武術を翔に教えないで、翔の見ている前で拳を握らないで。
 この子はただ静かに、平穏に暮らせばいい。武術は……不要だよ」

今なおギンガの事を見ることなく、兼一は感情の消えうせた平坦な声でそう告げる。
それは明確な拒絶と否定、そして頑迷な意思を感じさせるには十分だった。充分過ぎた。
百万言を費やしたところで、兼一が認めることなどあり得ないことを皆に理解させる。

「どうして……そこまで!!」
「言ったでしょ? 翔には必要ないからだよ。力なんて持つから、余計な争いが起こるんだ」
「確かにそうかもしれません。力が全てなんて言う気もありません。でもこの前みたいに、静かに暮らしたい人に暴力をふるう人もいます。自分の身を守って、周りの人を守るためには、力だって必要じゃありませんか!!」
「そんな人たちからみんなを守るのが、君たちじゃないの? なら、君達がちゃんと守ればそれでいい」
「それは…そうですけど!!」

平行線、という言葉がこれほどふさわしい状況もそうあるまい。
兼一の言っている事は正論ではあるが、現実性に欠けていることも明らかだ。
確かにギンガ達管理局員やそれに類する治安維持組織の本分は、無辜の人々を守ることにある。
しかし、現実に全ての人々を守れているかと問われれば、残念ながら否だ。
それを管理局員の両親を持ち、自身もまた局で働くギンガは悔しいながらも知っている。
そして、それはどこの世界でも大差はない。だからこそ折角の才能を、せめて身を守れるくらいには育てるべきだと主張するのだ。翔の事を大切に、彼に健やかかつ平穏に生きてほしいと思うから。

「そう言う事だから翔。もうこんな事はしないって、約束できるね?」
「待ってください! まだ話は……」
「悪いけどギンガちゃん、きっとこれ以上話しても進展はないよ。君だって、気付いてるんでしょ?
 それに、今僕は翔に話してるんだ。君やゲンヤさんにはお世話になって、本当に感謝してる。
 だけど、僕と翔の間に割って入る権利が、君にあるの?」

なんとか反論しようとするギンガだが、兼一の言葉には口を噤まざるを得ない。
兼一の言う通り、いくら家族の様に振舞ってみたところで、結局彼らの関係は他人に他ならない。
権利というのであれば、確かに口出しする権利などありはしないのだ。
だが、ギンガが口を噤んだのはそれが理由というわけではない。
普段の兼一からは到底考えられない様なこの冷たい言葉が、ギンガをたじろがせ、その勢いを殺したのだ。
そこで、震えるほど拳を握って俯き、今にも唇をかみちぎりそうなギンガを見かねてゲンヤが口を挟む。

「ああ、ちょいといいか、兼一?」
「なんですか?」
「いやな、一応聞いておこうと思ってよ。もし坊主がおめぇの言う事を聞かなかったら、その時はどうするんだ?」

それは、ある意味当然の疑問だった。
翔は確かに兼一の息子だが、同時に独立した一個人なのだ。当然、どう生きるのか選択する権利がある。
まだ一人で生きていくための知性も判断力もないが、人権としてそれは保障されている。
ゲンヤが持ち出したのは、つまりはそういう話。
兼一が主張するのは自由だが、それを受け入れるかどうかも翔の自由。
こういう持って行き方をすれば、兼一も少しは妥協するだろうと考えたのだ。
だがその考えは、甘かったと言わざるを得ない。

「どうもこうもありませんよ。翔は武術をやめる、それ以外にありません」
「いや、だからよ……」
「『もし』とか、『たら・れば』の話をする気はありません。
 翔が僕の言う事を聞かずに武術を続けるという選択肢、そんな物は『はじめからない』んです。
 誰が何と言おうと、翔自身がどう思っているかも、関係…ありませんから」
「お、おいおい!? おめぇ、それはいくらなんでもよぉ!!」

兼一のあまりに頑迷過ぎるその言葉に、さしものゲンヤも狼狽を露わにする。
まさか、『あの』兼一がここまで頑なに、それこそ翔の意思すら無視してこんなことを言うとは思わなかったのだ。これではまるで、翔が「物扱い」ではあるまいか。

「いいね、翔?」
「でも父様! 僕……」
「いいから、君は僕の言う通りにすればいいんだ」

ギンガの胸に抱かれ、少しは落ち着きを取り戻した翔は兼一に何か言おうとする。
だがそれも、聞いたこともない様な父の強く押し付けるような言葉に潰された。
幼児でしかない翔に、そこまで強く父に反発する意思力などある筈もなし。
それが、ほんの少し前まで誰よりも好き、尊敬していた父となれば尚更だろう。
むしろ、翔からすれば父が突然別人になったかのような錯覚すらしている筈だ。

「さあ、もう遅い。今日は寝るよ」
「ぁ、父様!」

兼一は翔の意見など聞く必要もないとばかりに翔の腕を引き、居間を後にしようとする。
しかし、それを引きとめる声と腕がすぐに兼一へと伸ばされた。

「待ってください! まだ話は……!」
「もう、話す事はないよ」
「あなたにはなくても私にはあります! 私の言う事を否定するならそれでもいいですよ! あなたの言う通り他人でしかありませんし、私は翔でもありませんから!
 でも、翔の気持ちを聞きもしないで勝手に自分の考えを押し付けて、あなたは何様のつもりなんですか!!!」
「この子の父親、それ以上の理由なんているの?」
「だから、父親だからってそこまで勝手に決める権利があるっていうんですか!!」
「子どもは親の言う事を聞いていればいいんだよ。この子にはまだ、何が正しくて何が間違っているのか、その判断の基準さえ碌にないんだから」
「そうかもしれませんけど……!!」

最早、二人の軋轢はどうしようもないところまで来ている。
ギンガは怒りで顔を赤くし、兼一は感情のうかがえない無表情を貫く。
対象的な表情、対象的な主張。一から十まで何もかもが正反対であるが故に、その断裂が浮き彫りになっている。
だがここで、翔は兼一に腕を引かれながらも精いっぱいその場に踏みとどまろうと、足に力を込めた。

「翔? どういうつもり?」
「父様…僕今日、本当に楽しかったよ」
「なんの話を……?」
「ギン姉さまに教えてもらって、上手にできると気持ちよくて、褒めてもらえるのが嬉しくて……父様にも見てほしかったんだ。ギン姉さまに教えてもらった事を、褒めてほしかったんだよ」
「他の事ならいくらでもほめてあげるよ。だけど、武術はダメだ」
「それでも、すごく…すごく楽しかった。明日も、明後日も、毎日やりたいって思ったんだ!
 それって、いけない事なの? 父様を困らせる、悪い事なの?」
「…………………………………………ああ、そうだよ」

翔の幼いながらも必死な問いかけに、兼一はまるで絞り出す様にして答える。
それは、やはりどこまでも頑なな言葉。
その言葉を受けて、翔の中の未熟な天秤が揺れる。
大好きな父の言葉と、この世界で得た姉やおじが自分の為に言ってくれた言葉、そして今日初めて知った気持ちを天秤にかけているのだろう。
これまでは何よりも重かった父の言葉。今日までなら迷うこともなく、それこそ天秤にかけることもなく翔は素直に従っていた筈だ。
それに対し「天秤にかけて揺れている」時点で、もしかしたら翔の中で答えは出ていたのかもしれない。

「父様の言う事を聞かなきゃいけないって、分かってるよ」
「そうだね。翔は、いい子だから」
「父様の言う事だから、きっと正しいんだって思うよ」
「なら、僕の言う事をちゃんと聞いてくれるね」
「………………………………………でも僕は、ギン姉さまが教えてくれたことを、格闘技をやりたい!!!
 戻ったらギン姉さまが教えてくれたことはできなくなるけど、それでも…別の物でもいいから続けたいよ!!
 続けてればギン姉さまと繋がってられるし、いつか父様を守れるようになれるかもしれない!!
 だから、僕……!!」

それは、幼い子どもなりの精いっぱいの主張。同時に、生まれて初めての父への反抗。
ギンガは自分の思いをはっきり口にした翔を褒める様に、その肩に手を置く。
ゲンヤもまた、まさかここまで言えるとは思っていなかっただけに、その表情は驚きに満ちていた。
普通、この年頃の子どもがこんなことを口にするなど、普通ならあり得ない。
よほど、普段から兼一が翔の自主性を重んじ、しっかりと教育してきたのだろう。
まあ、今回はそれが裏目に出たのだろう……………表面的には。

「翔はまだ小さいから分からないだろうけど……」
「翔自身がやりたいと言っているのに、それでも否定するんですか、この…分からず屋!!」

なおも翔に言葉をかけようとする兼一に、ギンガの怒声がかぶさる。
ギンガは翔の腕から兼一の手を引き剥がし、改めて翔を抱き寄せた。
その目は確かな敵意に満ち、到底家族や知人友人に向けられるものではない。

とはいえ、これでは泥沼なのは誰の目にも明らか。
そこで場の最年長者として、ゲンヤが溜め息交じりに口を挟んだ。

「なぁ、もうおせぇし、続きはまた今度にしようや。
 坊主もそろそろ寝かせてやりてぇだろ? おめぇらもちったぁ頭を冷やせ、な?」
「……………………うん」
「……………………わかりました」
「おし。翔はこの様子だし、とりあえず今日はギンガと寝る、いいな?」
「…………はい」

ゲンヤの言葉とあらば、さすがに兼一も無碍にできないのか。
だが、先ほどは明らかにゲンヤの言葉を退けていたのに、やけにあっさりと引きさがることに肩透かしを食らうゲンヤ。
今の兼一が相手では、この程度の事でさえ通すのは難しいと思っていたのだろう。

「それじゃ、僕はこれで……おやすみなさい」
「おう。明日もはえぇから、寝坊しない様にな。
ギンガ、坊主。お前らもさっさと寝な」
「うん」
「はい」

そうして、ゲンヤに促されるままその場は解散と相成った。
折角先日の問題が片付いたというのに、今度は先のそれとは比べ物にならないほど大きく重い問題が勃発して、ゲンヤは深々と溜息をつく。

「はぁ~…………ったく、どうなんだよ、これから」



  *  *  *  *  *



そんな事があって以来、ナカジマ家には未だかつてない重い空気が満ちることとなった。
正確には、兼一と他の面々との間に目に見えない境界線がはっきりと引かれたのである。
中でも、特に兼一とギンガの間にはられたそれは、一種の断絶と言ってもいいほどだ。

何しろ、朝顔を合わせた段階でギンガはことさら兼一を無視。
それどころか、一日通して二人が言葉をかわす機会など絶無に等しい。
まあ、それでも敵意やら怒気やらを相手にぶつけているのはギンガだけで、兼一自身はそれほど目立って何かをしている様子はないが……。
一応二人とも職務は滞りなく処理しているので、それが救いといえば救いだろう。

しかしこれは、先日の風呂場騒動とはまるで勝手が違う。
あの時はゲンヤや翔からすれば「困ったなぁ」くらいだったのだが、これはそんな生易しいものではない。
はっきり言って、居心地の悪いことこの上ないのである。
気の弱い者なら、ギンガの放つ気配に丸一日晒されれば、胃に穴が空くのではないかと思うほどなのだから。

ゲンヤとしても今回ばかりは心情的にギンガよりなので、兼一にかける言葉がない。
客観的に見ても、あの時の兼一の主張は独善的に過ぎたと彼も思う。
いや、だからこそ若干の違和感を彼だけは覚えているのだが……。
そして問題の中心人物である翔はというと……

「じゃあ、軽く走ってストレッチをしたら昨日のおさらいをして、蹴り方の練習をしてみようか」
「うん!」

あの晩の言葉通り、ギンガの下で格闘の基礎を教わっていた。
あの言葉は彼なりに覚悟があったようで、アレ以来翔はほぼ毎日ギンガからあの続きを習っている。
当然兼一がそれを許す筈がないので、必然的に彼が兼一と過ごす時間は激減した。
つまり、翔は意識的か無意識的にかはともかく、兼一を避けているという事。

それこそ、以前ならギンガと兼一の部屋を行ったり来たりだったのが、今ではギンガの部屋に行ったきり。
もう何日も兼一の部屋には戻らず、言いつけを破っている後ろめたさからほとんど会話もできていない。
一応兼一自身は翔から話しかければちゃんと受け答えするのだが、翔がなかなか踏み出せないのである。
結果的に、翔は日々を格闘技の練習に打ち込むことで、父と疎遠になった寂しさを紛らわしている状態だ。

全く以って、非常に困った状態である。
そして、このことに最も頭を悩ましているのが、家長であり兼一達の身元引受人であるゲンヤだ。

(俺やギンガだけならともかく、坊主ともあれじゃあさすがにヤベェだろ。
 早けりゃ後1週間で向こうに戻るってのに、親子で家庭内別居するような状態のままにしておくわけにもいかねぇし……)

とはいえ、悩んでみたところで答えなど早々出る筈もなし。
翔が格闘技から手を引けば一応は解決するのだが、そこで翔自身の意思を無視してしまっては意味がない。
そもそも、それでは『臭い物に蓋』をしただけで、根本的な解決にはならないのだから。

そんな感じでゲンヤもまた頭を悩ましていたある日の深夜。
扉を控えめにノックする音が、自室で本を読んでいたゲンヤの耳を打った。

【だれだ?】
「あの、僕です」
【兼一か。どうした……あ、いや、とりあえず中に入れ】
「はい」

短期間とはいえ、簡単な受け答えくらいは覚えることができる。
扉越しでは例の装置が働かないが、たどたどしいミッド語でゲンヤに来訪を告げる兼一。
ゲンヤはある意味予想外の客に少し慌て、とりあえず彼を部屋へと招き入れた。

兼一はそれに従い、ゆっくりと静かにゲンヤの部屋に入る。
その手には、ある意味で彼にはあまり似つかわしくない物が握られていた。

「どうした、酒なんか持ってきてよ?」
「ちょっとお話したい事があったんですけど、お酒でもあった方がいいかと思って……」
「……そうかい」

ゲンヤはそんな兼一の言葉を「酒でもなければできない話」と受け取った。
それはつまり、腹を割って本心から話すという事。
今の状況下にあって、その内容など悩む必要はない。
なら、ゲンヤがそれを拒む理由などある筈もないわけで……。

そうして、ゲンヤの私室で男二人グラスを傾け合う。
ゲンヤはことさら兼一を急かすことはせず、兼一が口を開くまでただただ黙ってそれを待った。
その間に兼一が持ち込んだ酒の残量は減って行き、気付いた時には半分を切っていた。

それだけならまあ、それほど問題ではないのだが、問題なのは酒の種類。
何しろ、兼一が持ち込んだのはかなり度数の高い蒸留酒。
それを二人揃ってロックで飲んでいるのだから、酔いなど回って当然だ。
つまり何が言いたいかというと、いい加減兼一の頭もぼんやりしてきたところなわけで、そろそろ口が軽くなってくる頃合いだった。

「その……………………………………………………………ごめんなさい」

第一声は、兼一の謝罪から始まった。
ゲンヤとしては謝られる憶えは多々あるのだが、はてさていったいどれを指しているのやら、と言ったところだろう。

「いきなり謝られてもなぁ……何に対してだ?」
「色々ありますけど……こんな空気にしてしまって……」
「ま、確かに居心地はよくねぇ……つーか最悪だな」
「すびばせん……」

ゲンヤの歯に衣着せぬ言葉に、兼一は涙目になって深々と謝る。
自覚はあったのだが、さすがにこうもはっきり言われるとつらい。
まあ、それもこれも自業自得でしかないのだが……。

「で?」
「え?」
「謝るからには、自分に非があるって思ってんだろ?
 だからこそ聞くが、なんであんなこと言った? 正直、おめぇとの付き合いはまだ短いが、らしくねぇとしか思えねぇ。ギンガは頭に血が昇って気付いてねぇみてぇだがよ」

心情的にはやはりギンガよりのゲンヤだが、同時に長い年月をかけて培われた客観的な部分がその違和感を見抜いていた。
兼一の事を深く理解したと自惚れる気はないが、それでもあまりにあの時の兼一はらしくなかった。
その程度のことが分かるくらいには、目の前の男の事を知っているという自負がゲンヤにもある。
兼一はそんなゲンヤの言葉に小さくため息をつき、ポツポツ話し始めた。

「ギンガちゃんが言っていたことは………正しいと思います。
 僕自身、翔の父親って立場じゃなかったら、きっと同じことを言っていたと思いますから」
「……………」
「でも、ギンガちゃんはこうも言ってましたよね?
 翔には才能があるって…………わかってるんですよ、そんな事は」
「なに?」
「翔には才能がある、それこそ『逸材』とか『神童』と呼んでいいだけの才能が」

そう、そんな事は知っていた。ギンガよりも早く深く、恐らくこの世界のだれよりも。
知っていて、それを埋もれたままにしておきたかった。それが、他ならぬ兼一の本心。

「そうとわかってるんなら……」
「確かに、子の才能を伸ばしてやるのは親の務めでしょう。
 でも、才能に縛られて生きなきゃいけないなんて………おかしいじゃないですか」
「……………………」
「才能があるからそれをするんですか? 僕は、違うと思います。
 才能なんて、実はそれほど重要じゃないんですよ。本当に大切なのは、それを志す意思と理由……そして覚悟。
 纏めて言っちゃうなら、『信念』なんだと思います。才能がある人が大成するとは限りません。でも、僕の知る限り、大成した人はみんな何かしらの信念を持っていました」
「今の坊主には、その信念がない。だから、格闘技をやるのに反対したって事か?」
「……はい」

兼一がアレほどまでに頑なに、聞く耳持たずの姿勢だったのは、それが理由。
この程度で諦めるようならば、はじめから格闘技など学ぶべきではないと考えたからだ。
まだ小学校にも通っていない幼児にすることではないと承知しているが、それでも兼一はそれが必要だと判断した。他ならぬ、翔の才能を知っているからこそ。

「信念たって、そんな強いもんを持って格闘技をやってる奴なんて、そう多くねぇぞ。ましてやあの年じゃ……」
「わかってます。もし、翔に欠片も才能がなければそれでよかったのかもしれません。
 でも、あの子には才能があるんですよ。信念なんてなくても、ある程度のところまで行けてしまう才能が」

それこそが、兼一の不安の正体。
並みの才能、あるいは自身の様に欠片も才能がなければ、きっと純粋に応援できた。
普通にやっている分には、きっとそれほど危険なことにはならないから。
しかし、翔の才能は普通にやっていても充分過ぎるほどに危険なのだ。
それを兼一は、親バカとか身内贔屓などではなく、客観的な武術家の視点で確信している。

「武術は、中途半端に覚えるのが一番危険なんです。
 普通はよほどのことをしなければ『殻』を破ることはできません。でも、あの子にはそれができる。
 いっそ危ういほど簡単にそれが出来てしまえるだけの才能があるから、翔には他の人より選択肢が少ない。
 翔にあるのは『極める』か『遠ざかる』か、この二択しかないんですよ。
 そして、信念なくして極めることはできません。だから、僕は……」
「必死になって、あんならしくねぇ真似までして遠ざけようとしたってわけか……」

ようやく合点が行ったとばかりに、ゲンヤは全身の力を抜く。
兼一が何か間違った考えを持っていると思った時は、殴ってでもそれを正そうと思っていた。
だが実際に聞いた兼一の本心は、ゲンヤをして納得させるには十分すぎるほどの重さと正当性がある。
ゲンヤには兼一の言う「極める」だの「殻」だのの意味は正確にはわからない。
兼一がどのレベルを指して「中途半端」と言っているかも。
しかし、兼一は心から翔を思い、その将来を案じている。それだけで十分だった。
ただ、一つだけゲンヤは兼一の言う「極める」という言葉に繋がる情報を持っていた。

「一つ聞かせてくれ」
「?」
「もしかしておめぇも、その『極めた』人間なのか?」
「どうして……そう思われたんですか?」
「一つはおめぇの言葉の重さと熱の籠り様だ。
ありゃあ、それがどれだけ険しい道なのか知ってなきゃ出せねぇだろ?
 もう一つは、おめぇの体だ」
「もしかして……」
「わりぃとは思ったんだが、最初の検査の時にな。健康状態やらなんやらを調べてたら、いろいろ出て来たぜ。
 筋肉の発達の仕方は異常、内臓器官はどれもこれも常軌を逸した数値を出す、これだけ揃えばな」
「確かに、僕が健康診断なんて受けたらそうなりますよね……」

ゲンヤの言葉を聞き、得心の言った兼一は小さく苦笑を洩らす。
考えてみれば、自分達の様な人間が健康診断など受ければ、そんな結果が出るのは目に見えている。
何しろ、自分達は肉体のスペックという意味では現代科学の常識を根底から覆す存在なのだから。

「ゲンヤさんには、全てをお話しします。聞いて、もらえますか?」
「おう、口はかてぇから安心しとけ」
「……はい」

頼もしいゲンヤの言葉に、兼一はこの巡り合わせに感謝し、その喜びをかみしめた。
そうして兼一は語りだす。自身の身体の秘密、どんな人生を送ってきたのか、亡き妻との約束。
無論、ゲンヤの常識からそれらの話はあまりに飛びぬけ過ぎていたし、彼なりにその辺は適当な解釈をした。
恐らく、彼の中での達人の位置づけはそれでもまだ魔導師には及ばないだろう。
さすがに、その辺りは実際に目の当たりにしないことには難しい。

しかし、普段ならあまりそう言った事を兼一が簡単に話すとは考えにくい。
それはもしかしたら、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
翔がギンガから武の基礎を学んだと知った時、兼一の胸の奥には小さな、だが確かな喜びがあったから。
それを押し殺し、翔の思いを潰し、我が子を思ってくれる人の気持ちを踏みにじった罪悪感。
兼一はずっと、その罪悪感に苛まれてきたのだ。
それでも慣れない嘘をつき続けたのは、ひとえに亡き妻との誓いと我が子の為。

全てを語り終えた時、ゲンヤの顔に浮かんだのは複雑な表情だった。
何しろ、ある意味そもそもの原因は娘にあると見ることもできるわけで……。

「なんつーか、悪かったな。ギンガが余計なことしちまったみたいでよ……」
「あ、いえ。むしろ、ギンガちゃんにはいくらお礼を言っても言い足りないくらいなんですよ」
「だがよ……」
「子どもの才能を見出して、買ってもらって、子どもの為に本気で怒ってくれる。それって、親からしたらやっぱりすごくうれしいじゃないですか。『ああ、この子はこんなに恵まれてるんだ』って思うと……」
「ま、気持ちは分かるがな……」

そう、兼一にギンガへの悪感情など微塵もない。
彼女にひどい言葉を口にした罪悪感はあれど、恨み事など……。
むしろ、どれだけ感謝の言葉を口にしてもこの思いを伝えきれないほどに、兼一はギンガに感謝していた。

「それに、血は争えないって、事なのかもしれません」
「?」
「どれだけ遠ざけてみたところで、翔は武に関わらざるを得ないじゃないかって、そう思います。
 あの子の才が、出自が、そして僕という存在が、それを許さない。
 それならいっそ、あの子が運命に抗えるようにその為の力と技、そして心を授けるのが、僕の役目なのかもしれません……っげふ!?」

遠い目をしてそんな事を語る兼一だが、その時兼一の背中を力強い掌が思い切り叩く。
ダメージなど皆無だが、酒を口に運んだところだったので若干むせる兼一。
そんな彼に向け、ゲンヤは励ます様に叱咤する。

「おめぇが逃げてどうすんだよ。今の今まであの坊主が武術と無縁でいられたのは、おめぇがしっかり守ってきたからだろうが。なら、おめぇが諦めるんじゃねぇよ。
 確かにいずれは、アイツはそれを選ぶかもしれん。だがそれは、別におめぇの力不足とか運命のせいなんかじゃ断じてねぇ。おめぇはちゃんと敵からも運命からもアイツを守ってる。
 アイツがそれを選ぶとすりゃぁ、他ならねぇアイツ自身の意思なんだからよ。
 そん時は、自分の生き方を自分で決められる奴に育てた事を…………ちゃんと誇れ」
「……………ありがとう、ございます」

礼を口する兼一の目尻には涙が浮かび、ゲンヤの言葉を噛みしめた。
尊敬する人は? と聞かれれば、兼一はいくらでも名を挙げることができる。
それは自身を導いてくれた師たちであり、共に切磋琢磨した友人達。
だがこの日、兼一は新たに尊敬できる人を得た。武とは無関係に、人として尊敬できる相手を。

「ところで、ギンガには話さねぇのか?」
「今は、まだ。正直、ゲンヤさんに話すのも結構悩んだんですよ?
 それに、出来ればギンガちゃんには翔の味方でいてほしいですから」
「ま、無理もねぇか。こんな話を聞かされちゃ、頑固なアイツも折れるだろうしなぁ……。
 そうなると、確かに坊主が不憫だわ」
「ええ。でも、いつか翔が本当に武の道を行く覚悟を持ったその時には……必ずギンガちゃんに謝りに来ますよ。御礼と一緒に」
「そうしてくれるとありがてぇな。いつまでも仲違いされたまんまじゃ、こっちも寝覚めがわりぃ」

兼一の言に一理ありと見たゲンヤは、基本的に兼一の方針でいくことを了承する。
いつになるかは分からないが、出来ればその時が早めに来てほしいと願った。
彼には兼一の言う「信念」がどれ程のものかわからないが、それでも翔の武へかける思いは本物だと思う。
だから本当に、ここから先の事は時間の問題なのだろうと。

しかし、さすがの二人も思いもしなかっただろう。
まさか「いつか来る」であろうその時が、二人が想像しているよりずっと早く来るなど。



おまけ

「あ、それとですね、ゲンヤさん」
「ん? どうかしたのか?」
「実は…ほら、郊外で岩とか車とかが壊されてる事件があったじゃないですか」
「ああ、アレな。さっぱり何の進展もねぇんだが、それがどうした……………って、まさか」

兼一の言葉にグラスを傾けながら答えるゲンヤだが、その顔が見る間に引きつっていく。
まあ、無理もあるまい。
つい先ほど聞いた話が事実なら、あの事件と結び付けることはそう難しくない。

「ええ。あれ、実は僕がやったんですよ」
「マジか?」
「言ったでしょ? 達人なんて呼ばれてる人間を常識に当て嵌めちゃいけないって……」
「いや、だがよぉ……」
「さすがに腕を鈍らせるわけにはいかないんで、ちょっと修業を……」
(あれで、ちょっとか?)

一応達人の世界について漠然とした話は聞いたが、まさかここまでとは思っていなかったのだろう。
ゲンヤはまさに「空いた口がふさがらない」という状態で茫然としている。

「あの、やっぱり僕って逮捕されるんでしょうか?」
「あ? ああ、いや、その心配はいらねぇ。質量兵器を使ったとか、やったのがどこぞの犯罪組織ってんなら話は別だが、それは単に『尻尾をつかんだ』って意味でしかねぇからよ。
 別に、殴って岩を砕いて罰せられる法はねぇ。公共物とか私有地の代物でもねぇしな。廃車のことにしたところで……そこまで目くじらを立てる事じゃねぇって」
「すみません、御迷惑をおかけして」
「ま、この件に関しちゃ素直に謝罪を受け取っとくか。こちとらヤベェ事件に繋がるんじゃないかって気が気でなかったんだからな。それくらいは迷惑料のうちだ。
 とりあえず、捜査の方は適当になんとかしとくから、おめぇはもう少し控えめに頼むぜ」
「はい」

とまあ、こんな感じで、兼一の深夜の鍛錬は一応ゲンヤによって黙認されることとなった。
どうせ遠からず治まり、その内皆の記憶から消えて行く。
なら、別に事を荒立てる必要もないというゲンヤの判断だった。






あとがき

今回はいつもに比べればやや短めですね。おかげで早く更新できましたが……。
まあ、それでも思っていたより長くなったんですけど。
実際、書き始めるまではもう少しまで話を進めないと量が物足りないかも、と思ってましたし。

それにしても、やっぱりと申しましょうか、案の定荒事には発展しませんでした。
ただ、これで一応やりたい事は一通りやり尽くしたので、やっと荒事に入れます。
どんな内容になるかは、まあ次の更新をお待ちください。



[25730] BATTLE 6「雛鳥の想い」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/03/13 19:16

兼一とギンガが派手にやり合ってから早数日。
アレ以後、翔は自分自身の意思と言葉で、ギンガに再度教えを乞うた。
ギンガとしてもそれに否はなく、時間の許す限り翔に格闘技の手解きをしている。

実際、ギンガが仕事に行く前と帰って来てからの朝晩、二人が家の外で一緒に過ごす時間は激増していた。
当然、それに反比例する形で翔が父と過ごす時間は激減し、一日に数度顔を合わせれば良い方。
そのことに翔は一抹の寂しさを感じつつ、練習にのめり込むことでそれを紛らわしている。
ギンガとしても時間経過とともに冷静さを取り戻しつつある分、親子の時間を削ってしまっていることには罪悪感がある。もちろん、翔の意思を無視する兼一への反感は依然として根強いが……。

とはいえ、さすがに二人とも兼一の存在と視線は気になるらしい。
どちらからともなく、家を離れて近場の公園で練習するようになったのは必然だろう。

そして時は早朝。
まだ大半の人々が惰眠を貪っているこの時間帯に、公園には大小一組の影があった。

「ほら、気を緩めない! ちゃんと受けないと怪我するよ!!」
「う、うん!!」
「違う! もっと脇を締めて、腰は落として!!
 脇が開いてたら力が入らないし、腰が浮いてると踏ん張りが効かないでしょ!!」
「くぅっ!?」

小柄な影に鋭い叱咤を飛ばすのは、大きな影の主であるギンガ。
ギンガが次々と繰り出す(加減した)突きや蹴りを、小さな影…翔は必死になって受け止める。
まだ格闘技を始めて間もない翔にとって、いくら手加減しているとはいえギンガの放つそれらは充分過ぎるほどに速く重い。とてもではないが、回避する余裕などない。何しろ、見えてはいても身体が追い付かないのだから。
まあ、見えているだけで十分すぎるほど優秀というのが、ギンガの見解なのだが……。

ただ、ギンガはギンガで翔の今のレベルを正確に把握しているのだろう。
怪我をさせない程度の威力で、辛うじて回避できない速度と角度で打っている。
つまりこれは、翔に防御の基礎と重要性を叩きこむ事を目的としているのだろう。

いや、回避できるものなら回避しても一向に構わないのだが、今の翔にそんな余力はない。
なので、一応回避は回避で別メニューが組まれていたりする。

とはいえ、なかなかにやっている事とかけられる言葉はスパルタだ。
幼児に要求するには、少々どころではないくらいに高度過ぎる。
だがそれは、それができるだけの才能と能力があると、ギンガが評価している裏返しでもあった。

そうしている間にもギンガの突きが翔の顔に迫る。
翔はそれを前に大きくかざした左手で払う。だが、払う力が弱かったのだろう。
僅かに軌道が逸れただけで、その拳は翔の眼前で寸止めされる。

「弱い!! 払うならもっとしっかり払いなさい! 中途半端にやっても意味がないわ!
 最小の力で捌くのはもっと後、今は相手を近づけないようにしなさい。
翔はまだ初心者なんだから、まずは正しい動作を身につけることを大切にする事。良い?」
「はぁい」

拳を引きながらそう総括するギンガに対し、翔はどこか消沈した様子で頷く。
本当にはじめの頃は諸手を挙げて褒められたものだが、日が経つにつれ褒められる事は減って行き、今ではこうして注意され、叱られてばかりだ。そのことに、多少なりともショックを感じているのだろう。
まあ、普通はそういうものなのだが、生憎何もかもが初体験の翔にその手の免疫がある筈もない。
あまり叱られ慣れていないので、どうしてもショックを受けてしまうのだ。
だが、ギンガはそんな翔の心の動きもちゃんと掴んでいるようで、励ます様にその背を軽く叩く。

「でも、最初に比べればずっと様になってきてる。私が思ってたよりも早く、ね」
「ほ、ホント!?」
「ホントホント」

ギンガに褒められ、それまで沈んでいた表情から笑顔が一気に花開く。
この気持ちの切り換りの早さなどは、実に子どもらしい。

「じゃあ、次の技を教えてくれる?」
「それはダメ」
「えぇ~」
「言ったでしょ、まずは基礎からだって。翔は確かに覚えがいいけど、それでもまだまだなんだから」
「でも、もうずっと守り方しか教えてくれてない……」

新技…特に攻撃技をせがむが、あっさりと否定されて不貞腐れたように口を尖らせて呟く翔。
初日などは拳の握り方や突き方を教えてもらい、その癖になりそうな爽快感に魅せられた。
しかし、あとは蹴りの基礎を少し教わっただけで、このところはずっと防御の練習や心構えなどの訓示ばかり。
散々防御の重要性を説かれてはいるが、翔はまだ子どもに過ぎない。
中途半端な攻撃は身を滅ぼすと教えられても、やはり派手で気持ちのいい攻撃の仕方を教えてほしいのだろう。

まあ、その辺りはギンガも上手くやっていると言える。
偶にミット打ちを織り込んだり、「上手にできたら攻撃技を教えてあげる」と上手く餌をちらつかせているのだ。
当然翔はそれにまんまと引っ掛かり、今日も今日とてみっちり防御の基礎を仕込まれている。

「言ってるでしょ、防御を疎かにしないの。
防御がしっかりしてれば、勝てない相手にも負けない事はできるんだから」
「むぅ、何度も聞いたよぉ……。格闘技の基本は身を守ることで、負けないことが大切なんでしょ?」

腕組をしながら人差し指を立てて言い聞かせるギンガ。
最早耳にタコができるほどに聞かされた言葉なので、翔もスラスラと答えて行く。

ちなみに、もしこの場に若い男がいれば歓声の一つでも上がっただろう。
何しろ、胸の下で組まれたギンガの腕に、その豊かな胸が乗っかっているのだから……。
翔はそれをほぼ真下から見上げているにも関わらず、それがどれだけ幸運な眺めかわかっていない。
まあ、邪な目で見ていたらギンガの鉄拳制裁を喰らうのだろうが……。

「そういう事。じゃ、今度はゆっくりと型の確認をしてみようか」
「はぁい……」
「それが終わったらミット打ちをしようかと思うんだけど……いい加減にやってると時間切れになっちゃうかも……」
「早くやろ、ギン姉さま!!!」
「はいはい」

ギンガの提示した餌に見事に食いつき、やる気満々の顔で「防御の型」の確認を始める翔。
そんな弟分の反応にギンガは苦笑を浮かべつつ、翔の動きの誤差や粗を修正していく。
そして、内心では今後の指導方針について思案していた。

(短期間で教えられることなんて限度があるし、翔には悪いけど、最後までこのままかな?
 突きと蹴りの基本は教えたし、後は防御を詰めて行って時間切れ…だと思うしね)

最初に攻撃のさわりを教え、以後は徹底して防御と心構え。
これがギンガの実体験から来る子ども相手の指導方針。
何しろ、子どもというのはとにかく飽きっぽい上にせっかちだ。
地味な防御や退屈な心構えの話などいきなりされても、食いつきは良くない。
ならばという事で、はじめに攻撃の型を少し教え、後はそれを餌にして釣り上げる。
やや汚いと言えないこともないが、子どもの心理を逆手に取った上手いやり方だろう。

「やっ! はぁっ!!」
(まあ、攻撃にしても防御にしても、ホントに基礎的な事しか教えられなかったのはちょっと寂しいけど……こればっかりは、仕方ないよね)

日を追うごとに様になって行く翔の型を見ながら、ギンガは少し寂しそうに嘆息する。
翔はシューティングアーツを教わっているつもりなのだろうが、実を言うと微妙な所だ。
基礎的な技一つとっても流派の特色は出るが、そのさらに基礎の基礎しかしていないのが今の翔である。
それは例えばインパクトの瞬間までリラックスすることであったり、拳や手首を痛めないように前腕と手の甲を水平にすることであったりなど……本当に基礎中の基礎。
正直、特色も要訣もあったものではないという段階だ。

少しでもシューティングアーツの色を濃くしたいという欲求がないわけではないが、時間的に難しいし、それが自分のエゴである事もギンガは承知している。
下手な事を教えて半端な状態で別れるより、今できることを形にしてやるのが自身の務めと理解しているのだ。
とはいえ、ギンガが目下一番頭を悩ましているのは別の事である。

(問題はやっぱり………………………兼一さんなのよね)

そう、翔自身は格闘技を続けることに乗り気だが、それは兼一の理解と応援があって初めて可能となる。
何しろ、収入源はおろか自己責任能力すらない翔一人では、どこかの道場に通うことすらできないのだから。
翔が今後も格闘技を続けて行くためには、どうしても兼一の説得が必須なのだ。

(でも、あの様子だといくら言っても聞いてくれそうにないし……やっぱりまずは、どうしてあんなに格闘技をやることに反対なのか聞かなきゃ話しにならないのよね。
 だけど、あの時は私も頭に血が昇ってかなり色々言っちゃったし、今更どんな顔をして聞けば……)

日を置いたことでギンガも冷静な思考能力が戻ってきたのはいいのだが、それが一層彼女を悩ませる。
まずは相手の事情を聴かなければならないと結論してはいるのだが、如何せん空気が重すぎて聞けやしない。
その原因の一端が自分にあるだけに、なおのことだろう。
はっきり言って、どう切り出していいのかが最初の関門なのである。また、聞いたところで答えてくれるかどうか……悩みは尽きない。

(いっそ、頭に血が昇っているうちに聞けばよかったのかなぁ? あのままだとまた言い争いになりそうだから時間を置いたんだけど………って、過ぎた事を考えても仕方ない。もう頭は冷えちゃったんだもん、今更あの時の熱は取り戻せないわ)

あれこれ考えてはいるが、浮かんではすぐに首を振って否定していい案が浮かんでこない。
頭に血が昇っていては泥沼と思っての判断だが、裏目に出た気がしてならないギンガ。
まあ、あのまま突っ込んで行っても予想した通りの結果になりそうなので、やはり詮無い事なのだが……。

(それに、今思い返すとあの時の兼一さんは明らかに変だった。
 とてもじゃないけど、兼一さんってあんなこと言うタイプじゃない筈なのよね。何て言うか、多少無理をしてでも『理想の父親』であろうとしてる所があるし、翔のそのイメージを崩さないように心を砕いてる。
 なのに、あの時だけは違った。たぶん、そこに理由があるんじゃないかな?)

あの時は冷静さを欠いていて気付かなかったが、ギンガは兼一の違和感に気付き始めていた。
伊達に一つ屋根の下で過ごしていない。全てとは言わないまでも、少しは相手の事を理解している自負もある。
ゲンヤほどではないが、捜査官としてのギンガにもそれ相応の洞察力があるのだ。
そして、これまで見てきた兼一とあの時の兼一を比べると、違和感が際立つ。
ギンガはそこに、翔が格闘技をやることに反対する理由があると見ていた。
そうしてギンガは今後の保護者対応に没頭するが、やがて裾を引っ張る感触に意識を引きもどされる。

「どうしたの、ギン姉さま?」
「え? あ、ごめんね、ちょっと考え事してたんだ……。
 じゃあ、そろそろミット打ちをやって、整理体操をしたら軽くジョギングしながら帰ろうか」
「うん………でも、ギン姉さま大丈夫? 疲れてない?」
「もう、大丈夫に決まってるでしょ」

心配そうに首を傾げる翔に対し、ギンガはその頭を撫でて安心させる。
感情の変化には鋭い様だが、その把握の仕方がどうもずれていた。
鋭いのやら鈍いのやらよく分からない子だと、ギンガは内心で苦笑する。

だが、この時ギンガは目前の事に精いっぱいで気付いていなかった。
木の影から、自分と翔を監視する怪しい影がいたことに。



BATTLE 6「雛鳥の想い」



翔とギンガが公園で何者かに監視されていたその日。
まず最初に異変に気付いたのは朝食の準備をしていた兼一だった。

「なんか、二人ともちょっと遅くないですか?」
「だな。いい加減戻ってきても良い頃の筈なんだが……寄り道にしたってなぁ」

そう、半ば日課となった公園での練習は二人とも黙認している。
兼一としては翔の意思が堅い事を確認した以上、とりあえず口を挟む気はない。
ギンガの指導方針もそう悪いものではないのだから、口出しする理由がないのだ。

それに、武に手をつけているのはこちらにいる間だけ。
元の世界に戻れば教える人間もいなくなる以上、やがて自然消滅するだろう。
もししなかったその時には、折を見て改めて翔の意思を確認するつもりでいるが……それは先の話だ。
兼一も鬼ではない。この地で得た姉との思い出になるのなら、その間黙認するくらいの寛容さはある。

「あの生真面目なギンガちゃんに限って無断遅刻を良しとするとも思えませんし……」
「ああ、アイツはその辺律義だからな。それこそ死にもの狂いで急いで戻ってくるなり、連絡を入れるなりする筈だぜ。坊主がいるとなりゃあ尚更な。とすると、何してんだ、あいつ?」

あまりにギンガらしからぬこの事態に、父親二人は揃って首を傾げる。
表面的にはギンガと意見を対立させている兼一だが、本音を言えば別にギンガにこれと言って他意はない。
息子の才能を買い、鍛え、息子の為に怒ってくれたギンガをどうして嫌えよう。
できれば今すぐ本心を明かしてしまいたいが、今はまだその時ではない事を兼一自身が良く知っている。
だからこそ、だましている罪悪感もあって兼一はこっそりとギンガの事も気にかけていた。
故に、今兼一は翔と同じくらいギンガの事も心配している。

だが、二人が異変に気付くのはあまりに遅すぎたと言わざるを得ない。
なぜなら、既に事は起こってしまった後。普段通りの朝。いつもと変わらぬ日常。なんの変哲もない食卓。
ナカジマ家のこんな平穏が打ち砕かれた事を知らせたのは、一本の通信だった。

「俺だ。どうした、こんな朝っぱらから」
【朝早く申し訳ありません! ですが部隊長、至急隊舎にお越しください!】
「……………緊急事態、か。いったい何がどうしたってんだ?」

それまでの一家の家長の顔から、一部隊の長の顔へと即座に切り替えるゲンヤ。
そんなゲンヤに対し、通信担当の局員は画面越しに一瞬兼一へと視線を向ける。
何かを迷う表情を見せた彼は、用件を告げることなくこう言った。

【……今、ヘリを向かわせていますので、詳細はそちらで】
「…………」

その反応だけで、ゲンヤにとってはある意味充分だった。
兼一には聞かせられない内容、あるいは兼一に関わる重大な話なのだろう。
前者はともかく後者は兼一にも聞く権利がある筈だが、事と次第によっては迂闊に知らせるわけにはいかない。
大きく彼に関わるからこそ、慎重に時と場所を選ばなければならない場合があるのだから。
通信越しでは件の装置は作動しないが、どんな種類にせよ今はまだ兼一に聞かせたくない内容なのだろう。

聞かせるか否か、聞かせるとしてそのタイミングはどうするのか。
その辺りの判断を仰ぐ為にもこの局員はゲンヤに一端兼一から離れてもらうべきと考えたのだ。
だがゲンヤは、それを承知した上でその先を促した。

「良いから話せ、どの道ヘリが着くまで時間があるだろ。
 緊急事態だってんなら尚のこと時間が惜しい、ヘリの中からでも指示は出せるんだからな。こいつは命令だ」
【…………………了解。では、ご報告申し上げます。
先ほど、ギンガ陸曹からの緊急救援信号を受信…間もなく途絶。急ぎ近くの詰所より局員を向かわせましたが、発信源と思われる公園に陸曹の姿はなく、代わりに発信器の残骸が残されており……】
「遠回しな言い方すんじゃねぇ! つまり、何が言いたい」

通信担当局員はできる限り細やかに報告しようとするが、ゲンヤはそれを遮って結論を求める。
しかしそれは、きっと既に分かっていたからなのだろう。
この後に、いったいどんな報告がなされるのか。
そして、その予想は現実のものとなる。

【おそらくギンガ陸曹は……何者かに誘拐ないし拉致されたものと思われます! 目撃者の証言により、陸曹と思しき人物が数名の男に車に乗せられたことが確認されており、その際4・5才程の子どもも一緒だったと……】
「ったく、やっぱりそういう事かよ……!」

報告を受け、ゲンヤは苛立たしげに頭を叩く。
考え得る限り最悪の事態であり、一番当たってほしくない予想が当たってしまった事を示している。
兼一は通信越しでは件の装置が作動せず、やっと覚え始めた拙いミッド語では複雑な会話を理解することはできない。故に、事態がわからず困惑するしかないが、よくないことになっている事だけはわかった。

「分かった、ヘリが着き次第隊舎に向かう。その間に、おめぇらは周辺の詰所からも人を出して捜査に当たれ!」
【了解。ですが………白浜さんは、いかがなさるおつもりですか?】
「てめぇのガキが誘拐されたかもしれねぇんだ、知らせねぇわけにはいかねぇよ。
 可能性としちゃあ、俺らの専門からすると密売組織の報復の線が濃い。いずれ何かしらの要求が出されるかもしれねぇが、その時は真っ先に俺に通せ、いいな!!」
【ハッ!!】

そう指示を与え、通信を切ったゲンヤはそのまま兼一に向き直った。
その顔には焦燥と申し訳なさが浮かび、兼一の不安をますます煽る。

「……わりぃ」
「なにが、あったんですか?」
「坊主とギンガの行方がわからん。直前に緊急の救援信号が出て、車に連れ込まれるところも目撃されてる」
「誘拐、ですか?」
「ああ。狙いはおそらくギンガ、坊主はおまけだろう。すまねぇな、こっちのゴタゴタに巻き込んじまってよ」

兼一に力のない謝罪をし、深々と頭を下げるゲンヤ。
しかし、兼一はゲンヤに対して恨み言を言う気はない。
誘拐したのはゲンヤでもないし、そうなるように仕組んだわけでもない。
責任の所在は明らかに誘拐犯達にあるのであって、ゲンヤを非難するのはお門違いだ。
兼一は、その事をよく分かっていた。分かっているからこそ、ゲンヤを責めるようなことはしない。

そもそも、誰を責めたところで事態は好転しないのだ。
なら、考えるべきはそんな事ではない。

「営利目的なら身代金の要求がある筈ですけど……」
「ありえなくはねぇが、その線は薄いな。ギンガはAランクの魔導師だ、いくら坊主がいるからって早々どうこうなるとも思えん。恐らく、犯人どもは入念に準備をして決行した筈だ。時間帯から考えてもな。
なら、はじめから狙いはギンガって事になる。この場合、営利目的にしちゃあリスクとリターンが釣り合わねぇ。Aランク魔導師なんぞ狙うより、もっとやりやすい相手がいくらでもいるんだからな」
「確かに……魔法の事は詳しくありませんけど、ギンガちゃんは結構優秀な魔導師なんですよね」
「ああ。上には上がいるが、魔導師としちゃあそれなりのもんだろう。他に考えられるのは高位魔導師を売る人身売買だが、これも可能性は低い。そっちは大抵子ども狙いだからな。大人を狙うのは不自然だ。
 女って事で狙われた可能性もあるが、それならやっぱり高位魔導師を狙う理由にならねぇ。
 考えられるのは密売組織からの報復か、あるいは私怨……」

ギンガは若く美しい、つまり身体目的という可能性は捨てきれない。しかしそれならやはり、リスクとリターンが釣り合わないのだ。確かに捕らえることができれば金になるだろうが、その為に負う危険は大きすぎる。
営利目的や人身売買にも同じことが言える以上、その可能性は低いというのがゲンヤの見解だ。
残された可能性としては、何らかの報復……そこから波及しての犯罪者の釈放の要求などが考えられる。
ギンガはAランクの高位魔導師だし、部隊長の娘。その程度の人質的価値はある。

「でも、これが私怨になると厄介ですね」
「ああ、要求なんぞ何もねぇってのが最悪だな。ギンガを殺すことが目的なら、時間制限がついちまう」

そう、一番まずいのはそのパターン。要求を出してくれればいいが、それがないと打つ手がない。
ギンガに手を出される前に居所を掴めればいいが、そうでないと……。
とそこで、ヘリのローター音が二人の耳を打った。

「っと、来たみてぇだな。……どうする?」
「行きます。ここでじっとしてなんていられませんから」
「よし、なら急げ……って、それはどういうつもりだ?」

そう言ってゲンヤは表に出ようとするが、その前に背を向けて膝をつく。
まるで、おぶされとでも言っているかのように。

「いいから乗ってください。この辺りにヘリが着陸できる場所もありませんし、ロープとかで乗るんでしょう?
 それじゃ時間がかかります」
「なら、どうするってんだ?」
「僕が飛び乗ります」
「は? おい、いきなりなにを……うおっ!?」

いつまでも乗ろうとしないゲンヤに痺れを切らし、兼一は彼の身体を脇に抱えて急いで庭に出る。
もちろん施錠は忘れない。上を見上げれば、案の定ヘリの姿。
そのハッチが空いていることを確認した兼一は、思い切り姿勢を低くし……

「行きますよ、舌を噛まないでください!!」
「ま、待て! 何する気…おわぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁ!?」

跳躍した。ゲンヤは今まで体験したこともない景色の流れに叫び声を上げる。
だが、兼一はそんな物は軽く無視し、ハッチの前に到着するとヘリの機体を鷲掴みにして滑り込む。
中に入れば、誰もが信じられないものを見るような眼で兼一を見ているが、そんな物はやはり無視。
兼一は急いで操縦席へ向かうと、今の最優先事項を口にした。

「早く隊舎へ、急いで!!」
「お、おお!!」

兼一の剣幕に押され、パイロットは操縦桿を傾けて隊舎へと向かう。
その間、兼一はただただ強く二人の無事を祈っていた。

(翔、ギンガちゃん…………どうか無事で!)



  *  *  *  *  *



その頃、翔とギンガはどことも知れない廃ビルに連れ込まれていた。
翔は不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらもギンガにしがみつく事で自制し、ギンガは毅然とした態度と強い意志を秘めた瞳で誘拐犯達を睨む。

「おお、怖い怖い。折角のべっぴんさんが台無しだぜ、お嬢ちゃん。
さあ、さっさとその部屋に入りな。もうじき若頭が来るからよ、ククク……」
「押さないでください。そんな事をしなくても歩きますよ」
「ああ、それが利口だな。何せあんたは、か弱い女の子様なんだからよ」

男の一人に小突かれるようにして、二人は小汚い一室に入った。
一面に小さな小窓があるだけの、他の面は堅いコンクリートがむき出しになった部屋。
おそらく使われなくなって久しいのだろう。チラホラとゴミやガラクタはあるが、それ以上のものはない。

「ギン姉さま……」
「大丈夫だよ、翔。私が、お姉ちゃんがちゃんと守るから。何があっても、翔を守る。だから、安心して……」
「へっ、偽物とはいえお綺麗な姉弟愛だねぇ。いったい、何をどうやって守るのかぜひ教えてほしいもんだ。
 魔法も使えない、今の非力なアンタにさ」
「くっ……!」

嘲りを多分に含んだ男の言葉に、ギンガの口からは口惜しげな呻きが漏れる。
その手首には厳つい手錠の様な腕輪が嵌められており、これが彼女の魔法を封じていた。

魔法が普及するという事は、当然それを犯罪に使う者もいる。
魔導師相手に通常の手錠や牢が意味を為す筈もなく、必然的に対魔導師用の道具が開発された。
その内の一つがこれ。魔力を抑えるリミッターや負荷をかける魔導士養成ギプスの類と似て非なる物、封印装具。
早い話が、魔力を全面的に抑え込んでしまう代物だ。こんなものでもなければ、魔導師を安心して拘束しておくことなどできはしない。
そして、その手の道具が外部に流出しないかといえば、否である。
ギンガに使われているのは、その中でもいくらか古い世代の魔力封印装置だった。

(古いとは言っても、性能は管理局でも採用されてた本物。AAA以上ならともかく、私じゃ……)

とてもではないが、力づくでの破壊は不可能。
少なくともこれを壊すには、外部からの助力が不可欠なのだ。
この手の道具を使うことに慣れているギンガは、その事をよく知っていた。

ちなみに、ギンガは常時「浮遊」の魔法を展開している。
これは諸般の事情により、彼女の体重が見た目よりずっと重いからなのだが……。
魔力が封じられた今はそれが使えないが、彼女の中にはその代わりとなる力があるのだ。
本人としては不本意極まりないのだが、今はその力で代用し、体重を適正なそれに調整している。
ただ、嫌悪している力をこう言う時は便利だと思う反面、都合のいい様に使っている自分がすこし嫌だった。

「しっかし、今でも信じられねぇよ。そこのガキを人質にした程度で、アンタが大人しくそいつをつけさせてくれたんだからな」
「まったくだ。俺達には、赤の他人のガキがなんでそんなに大事なのかさっぱり理解できねぇな。あれか? 今のうちに教育して自分好みにでも育てるつもりだったのか? このガキ、見た目はなかなかいいからな」

下種には結局下種な考え方しかできない。翔を守る理由など、大切に思う理由など、彼らに理解できる筈がないのだ。元より、理由らしい理由などないのだから。
理由など聞かれても、それこそ「大切だから」以外の答えなどない。
その程度のことすら、この男達には理解できないのだ。

「そういやそうだな、その筋で売ればいい値で売れそうだ。若頭に言ってみるか?」
「約束が違うわ! 大人しく連れて来られたら翔を解放するって、そう言った筈よ!!」
「そうだったか? なあ、お前覚えてるか?」
「いや、さっぱり。アンタの聞き間違いじゃねぇのか?」
「……………卑怯者」

口々にそんな事をのたまう男達。悪意と嘲笑に満ちた言葉に不快そうに吐き捨てるギンガ。
彼女は翔を守る様にその胸に抱き、男達に背を向ける。
少しでも男達の野卑な視線から翔を守るために。幼い翔に人の汚い一面を見せないように。
今のギンガにできる、それが精いっぱいの反抗だった。

「どうも。だが、若頭からはガキの扱いについて何も言われてねぇし、人質の役目が終わったらそうすっか」
「ま、呪うんなら自分の迂闊さを呪うんだな。そのガキを一人で便所に行かせちまった事もそうだが、何よりあの陰険で執念深い若頭を怒らせちまった事をよ」
「全くだ。よりにもよって公衆の面前でアレだからな、なだめるのも一苦労だったぜ。
 ところで、まさか覚えてねぇって事はねぇだろうな」
「…………………」

男の問いに、ギンガは返事を返さない。
言葉をかわしたくもないというのもあるが、本当に覚えていないのだ。
彼女からすれば、あの日の出来事は即刻記憶から抹消した出来事。
実のところ、ギンガはあの時の記憶を24時間も保ってはいない。
それほどまでにあの時の出来事と男達の存在は、ギンガにとってどうでもよかったのだ。

「だが、俺らとしてもさすがに同情するぜ。若頭は嫌がる女を無理矢理にってのが趣味だからな」
「それも、ちょうどアンタくらいの奴を汚すのが大好きだしよ。ホント、良い趣味してるぜ」

頼んでもいないのに、勝手にこの後の展開を話し始める男達。
その言葉を聞き、さしものギンガも顔を青ざめる。
ギンガの恐怖を煽って楽しむという意味では、それは実に効果的だった。

ただの苦痛にならいくらでも耐えられる。
歯を食いしばり、口を閉ざし、相手が望む反応など一切示さない覚悟がギンガにはあった。
しかし、それとこれは話が別だ。
ギンガとて女、それもまだ少女だ。男を知らず、恋も碌にしていない。
その手の事に多少なりとも幻想を持っている。
そんな彼女にとって、無理矢理散らされるというのは最悪の未来像だろう。それも、こんな下種どもに。



そのまま、しばし時が過ぎた。
やがて、いやにわざとらしい鷹揚な歩き方で一人の男が四人の取り巻きを連れて部屋に入ってくる。
まるで自分は大物ですと主張するかのようなその歩き方は、状況が違えばいっそ笑いを誘っただろう。
それほどまでに様にならず、滑稽な姿だった。
男はギンガの目の前まで歩み寄ると、長く伸びた蒼い髪を力任せに引きよせる。

「ぁっ!?」

引き寄せられた勢いで翔はギンガの懐から滑り落ち、堅い床に身を投げ出す。
その際に頭を打ったのか、額からは血の筋が流れていた。
だが、翔はそんな自分の状態にも気付かないようで、切羽詰まった声でギンガを呼ぶ。

「姉さま!?」
「よぉ、この前は世話になったな。今日はその礼をしようと思って招待したんだが、気に入ってもらえたか?」

ギンガの頭を引き寄せ、顔の前で舌なめずりをする男。
しかし、これほど近くで見てもなお、ギンガには男の事が思い出せなかった。
ただ、こんなことを仕出かすに相応しい碌でなしの顔をしている。

「ああ、折角の人生の一大イベントだ。ちゃんと撮影して、後で家族の下に届けてやるよ。
 ま、お前が家に帰る日が来るかどうかは、この先のお前の頑張り次第だがな」

いったい何がおかしいのか、
男とその取り巻きたちは下卑た笑い声をあげている。
この後に何が待ち受けているのか、その手の事に経験の乏しいギンガにもわかる。
あの汚らしい手で衣服を剥ぎ取られ、弟分の身の安全を盾に奪われるのだろう。
その後は、きっといい様に嬲られて奴隷扱いか、あるいは殺されるかだ。
どちらにせよ、このままではギンガが家に再び帰る日は来ない。恐らくは、翔も。

(発信器を壊されたのが痛い。せめて、せめて場所だけでも知らせることができれば……)
「さぁて、今日までさんざん待たされたんだ。そろそろ、お楽しみの時間としようや。
精々泣き叫んでくれよ、その方が燃えるってもんだからな。楽しみ方を教えるのは、その後だ」

そう言って、男の手がギンガの胸元に伸びその服に触れる。
当然それは「脱がす」などという優しいものではない。
男は服を鷲掴みにすると、それを乱暴に引きちぎった。

「…………」
「ほぉ、ガキかと思ったらなかなかいい体してんじゃねぇか。こりゃあ、思ってたより楽しめるか?」

悲鳴や拒絶の声、あるいは助けを求める行為は男を喜ばせるだけ。
それを知っているギンガは、漏れそうになる声を必死にこらえ、なんとか男を押し返そうと腕を突っ張る。

本来、ギンガの腕力なら魔法などなくても男を跳ねのけることなど容易い。
ただそれは、男も魔法を使わない、純粋な筋力を比べた時の話。
魔法を使えないギンガに対し、男は身体能力を強化した上でギンガを襲っているのだ。
これではギンガの細腕に、男を押し返すことなどできる筈がない。自分自身に禁じた、封じた力を使わない限り。

「おい、面倒だから手足を押さえつけておけ」
「うす」

男はそのままギンガを床に押し倒し、手下に命じてその手脚を拘束した。
ギンガの顔は羞恥と怒りで赤く染まり、四肢と胴体をよじってなんとか逃れようともがく。

しかし、数と力の振りはいかんともしがたく、それがかえって男の劣情を昂ぶらせる。
男の眼には弾む胸と揺れる尻、そして悩ましげにくねるくびれた腰は、誘っているように見えたのだろう。
実際、ハリのある白い肌も、朱の指した整った顔立ちも、手入れの行き届いた髪も、その全てが状況が状況なら芸術的な美しさだった筈だ。

だが、その美しさを汚す歪んだ悦びに浸った男は、ギンガの衣服をわざと細かく引き千切っていく。
まるで、そうすることでギンガの恐怖と絶望を煽る様に。

「いいねぇ、やっぱり女を犯す時はこうでなくっちゃ。ま、これで泣き叫んでくれりゃ言う事なしなんだが……そこは我慢するか。俺は寛容だからな。それに、気が強い女も嫌いじゃねぇ。その生意気で綺麗なツラが涙に濡れて、トロトロに蕩ける所を想像するだけで…ゾクゾクする。
 それより格好と下着がいただけねぇな。贅沢は言わねぇが、もちっと色気のある格好をする事を勧めるぜ。
 その方が、俺としてもやる気が出るってもんだ。次はその辺に気を使うんだな」

情欲…あるいは淫欲に染まった眼で舌なめずりをする男を、ギンガは嫌悪と侮蔑の視線で睨む。
胸の奥には恐怖や絶望が渦巻いているが、気丈にもそれらを男に悟らせないように隠しているのだ。
こんな男に弱味を見せるなど、ギンガにとっては決して許容できるものではない。

「ククク、悔しいか? 怖いか? それともはじめては好きなあの人に、とでも思ってんのか?
 だが残念。お前の始めてもこれからも、全部俺のもんさ。
それでこそ、あの日俺が受けた屈辱を思い知らせてやれるってもんだ」
「臆病者!」
「あん?」
「女一人組み伏すことも大勢でなきゃできないなんて、腰抜け以外の何者でもないわ!
 プライドがあるのなら、少しは一人で何とかしてみようと思ったらどう!」

挑発などこの状況下では逆効果かもしれないが、それでも言ってやらずにはいられなかった。
今のギンガに男達に抗う術はない。できる事があるとすれば、それはこうして口で言い負かすことくらい。
だがそれも、男が開き直ったことで水泡に帰す。

「なら、その腰抜けに犯されるお前はそれ以下ってわけだ。
 こちとらお前と違って経験豊富でな、そんな安い挑発になんざのらねぇよ。隙をついて逃げようって腹なんだろうが、今までにも似た様な事をした奴はいるんでね。臆病だろうがなんだろうが、やる事は変わらねぇよ」
「くっ……」
「ただ、別に頭にこねぇわけじゃねぇ。態度によっちゃぁ優しくしてやってもよかったんだが、決まりだ。
 徹底的に女としてのお前を踏みにじってやるよ。ま、とりあえずは躾から始め……」
「やめろ!」

悦に入った表情でべらべらしゃべる男は、「躾」と称して拳を振り上げる。
だが、その言葉と行動を制するように幼い子どもの声が挟まれた。
同時に、小さな影が男目掛けて突っ込んでくる。

「姉さまから…離れろぉ!!」
「あ? ガキが調子に乗ってんじゃねぇ、よ!」
「ぐぇっ!?」
「翔!!!」

無謀にも頭から突っ込んで行った翔に、男の無造作な蹴りが突き刺さる。
魔力による強化もなく、特別強く蹴ったわけでもない。
それでも翔の体はボールの様に撥ね、コンクリートの床に転がった。
ギンガはなんとか翔に駆け寄ろうと身をよじるが、四肢を抑えられてはそれもかなわない。

また、あり過ぎる体重差を考えれば一撃で沈んだのは疑いようもない。
男達は誰もがそれを確信し、翔の無謀に嘲笑を浴びせる。
だがここで、翔は皆の予想を裏切った。

「わぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!」
「ちっ、まだ動けたのか!!」

起き上がった翔は再度男に向かって突っ込む。
しかし、いくら格闘技を学んだとは言え絶対的に時間が足りない。
結局は初心者に過ぎない翔では、容易く男の乱雑な蹴りの餌食になるのは必定。
できる事があるとすれば、それは……

「このガキ、生意気に受け止めやがった……」
「ハァハァ、ハァ………」
「翔、あなた……」

それは、この数日ギンガが徹底的に仕込んだ防御の型。
翔はギンガから教わったそれを忠実に実行し、ギリギリのところで男の蹴りを防いでいたのだ。

その事実に、ギンガは状況も忘れて涙を浮かべる。
自分が教えた事をこうまで素直に順守し、実際にそれで成果を出して見せられたのだ。
一指導者として、これが嬉しくない筈がなかった。

だが、それも結局は気休めに過ぎない。
いくら防御できたとしても、それを無視できる威力があればいい。
幼い翔には、その威力に耐えられるだけの身体がないのだから。

「鬱陶しい、良いからガキはガキらしく地べたを這いつくばってろ!!!」
「げほっ!?」

男は堅く握りしめた拳で翔の横っ面を殴り、翔の体は壁際まで吹っ飛ぶ。
その時、遠くからまるで獣の咆哮の様な声がギンガ達の耳に届いた。
しかし、それを気にする余裕など今のギンガにはない。

「やめて! 相手は子どもなのよ!!」
「知ったことか! 調子に乗ったこのガキの自業自得だろうが!!」

ギンガはなんとか翔への暴行をやめさせようとするが意味を為さない。
壁際に転がった翔の体は痙攣しているかのように震え、立ち上がる気配はなかった。

むしろ、ギンガはそれでいいと思う。これ以上立てば、下手をすると大けがをするかもしれない。
今の一撃は単に力任せに殴っただけで、見た目は派手だが打点も振りも甘い。
アレなら、少し血を流すだけで済む筈だ。
だから、これ以上翔に立ってくれるなと心の中で懇願する。
口に出さなかったのは、そうすることで翔の意識を引きもどすことを恐れたから。
しかしそんなギンガの思いも空しく、翔は再度立ち上がろうとする。

「ダメ、翔! もう立っちゃダメ! お願いだから、そのままで……」
「い、イヤだ!」
「翔?」
「僕は、姉さまを守りたい! 姉さまが虐められてるところなんて見たくない!!
 それに、父様が言ってたんだ。大切な人の為に一歩踏み出せる人になれって……だから、逃げない!!」

それは、彼なりの不退転の覚悟と意思を携えての言葉。
翔は足元をふらつかせながらも、愚直なまでにギンガから教わった構えを実践する。
辛くない筈がない、痛くない筈がない。本当なら今にも泣き出してしまいたかった。
だがそれでも、涙を堪え、嗚咽を抑え、折れそうになる膝を叱咤し、挫けそうになる心を奮い立たせる。
もしその姿を兼一の友人達が見れば、等しく苦笑交じりに「その痩せ我慢は父親にそっくりだ」と評しただろう。

構えは専守防衛。攻める事を捨て、ただただ守ることに全身全霊を注ぐ。
その構えのまま、すり足で少しずつギンガへとにじり寄って行く翔。
誰に教わったわけでもなく、本能的に今はこれが最善と彼は感じ取っていた。
攻めることは無意味、急いで駆け寄っても拙い構えが崩れるだけと、彼は理解していたのだ。

しかし、その不撓不屈の闘志はかえって男達の気に障った。
身の程知らずにも自分達に挑む姿が、あまりにも度し難いものに感じたのだ。

「ガキが…調子に乗りやがって!!」
「あぐっ!?」

男は苛立ちを露わに翔の髪を掴み、勢いよく床にたたきつけた。
翔の口内には血の味が充満し、鼻からは赤い雫が止めどなく溢れる。
だが、それでもなお翔の眼の輝きは衰えない。力では負けても心は負けないと言わんばかりに、子どもとは思えない強い眼差しで男を睨む。

「いいか、覚えとけクソガキ!! 世の中はな、強い奴が正しいんだよ! 勝った奴が正しいんだよ!! 逆にはぜってぇにならねぇ!! 弱い奴らは強い奴の言いなりになって、媚売ってればいいんだよ!!
 お前みたいに正しい事が通ると思ってるゴミを見てると、虫唾が走るんだよ!!」

まくしたてながら翔の背中に蹴りを入れようと足を振り上げる男。
如何に雑な蹴りであっても、体重を乗せれば幼児の体ではアバラが折れ、内臓に重大なダメージを与えかねない。
それどころか、下手をすると背骨を折り、一生に渡る障害を負う可能性もある。
しかし、そんな暴挙を………ギンガが許す筈もない。

「やめて――――――――――――――!!!」

ギンガは叫ぶとともに、四肢を抑える男達を振り払う。
そのまま翔の上に覆いかぶさり、蹴りを無防備な背中で受け止めた。

「くぅっ……!」
「ね、姉さま?」
「どいつもこいつも……お前ら、しっかり押さえとけつったろうが!!!」
「す、すんません……」

つくづく思い通りにならない状況に、男はまるで癇癪を起した子どものように喚き散らす。
だが、ギンガを抑えつけていた男達は謝罪しつつも内心で首をひねっていた。
確かに翔の姿に目を奪われ、ギンガへ向けていた意識が薄れていたのは事実だ。
しかし、それでも先ほどまでは容易に抑え込めていた筈のギンガを、ああも簡単に逃すとは思えなかったのだ。
当然、ギンガの瞳がそれまでの翠から別の色に変化した瞬間を見た者はいない。
そんなやり取りがなされている間も、男の足は別の意思を持っているかのようにギンガの背を蹴り続けていた。

「だい、じょうぶ? 翔?」
「だめ、ダメだよ姉さま! 折角逃げられたんだから早く!!」
「バカ、ね。翔を置いて、逃げられるわけ、ないじゃない……」

次々と背を蹴られる痛みに耐えながら、ギンガは翔を安心させようと優しい微笑みを向ける。
こんなにも小さく儚い身体で、必死になって自分を助けようとした翔。
自分が教えた基礎とも言えない基礎を愚直に守り、確実に勝てないと分かっている相手に向かって行った教え子。
自分の体の事を知らないとはいえ、それでもそんな無茶をした弟を叱りつけたい気持ちはある。
だがそれ以上に、そこまで自分を慕ってくれているという事実に、ギンガは言葉にできない愛おしさを覚える。

翔の為なら、今まさに背を襲う痛みにもいくらでも耐えられる気がした。
それどころか、この子の為なら命すらも惜しくないと思える。
ギンガは翔がこれ以上傷つけられない様、傷つかない様、優しく…強く自分の懐に包み込む。
翔が決して外からの攻撃にさらされないように、翔が決して外に出て行かないように。
その身を殻として、あるいは檻として、幼い雛鳥を守ろうとしているのだ。
そして、そのことにギンガは確かな誇らしさを感じていた。大切な弟を守れる事への誇りを。
故に今この時だけは、頑丈な身体に造られた自身の出生に感謝してもよかった。
こんな体でも……こんな体だからこそ、その身一つでも大切な弟を守ることができるのだから。

胸を満たす思いが顔に出ていたのだろうか。翔の顔は一瞬泣きそうに歪み、それを隠す様に俯く。
幼くとも翔は「男」。女には見せたくない顔がある。
そんな翔に向け、ギンガは今できる精いっぱいの労いの言葉をかけ、万感の思いを込めて頭を撫でた。

「痛いのに、辛いのに……がんばった、ね。カッコよかったよ、翔」
「…………………………カッコよくなんか、ないよ。僕…僕、姉さまを守れてなんか……」
「そんなこと、ない。翔はちゃんと、私を守ってくれた、よ。私が言うんだから、間違い、ない」

事実、ギンガは翔が自分を守ってくれたと思っている。
翔の乱入がなければ、今頃彼女の処女はあの男に奪われていた筈だ。
抗う事が出来なかったわけじゃない。しかしそれは、同時にギンガにとって最大の禁忌でもある。
禁忌を犯すか、あるいは処女を奪われるか。あの状況では、その二択しかなかった。
どちらに転んでも、ギンガにとっては苦く辛い結末にしかなるまい。

処女を奪われれば「女」としての自分を損なわれ、禁忌を犯せば「人間」としての自分が損なわれる。
少なくとも、ギンガにとってその二択はそういうものだ。
だが翔は、そのどちらでもない結末を与えてくれた。
身を呈して「女」と「人間」、その両方を守ってくれたのだから。

しかし、翔はそれでもギンガを守ろうとその懐から外に出ようともがく。
気持ちはありがたい。守ろうとしてくれることは純粋に嬉しい。
だがそれでも、翔を傷つけさせたくはないが故にギンガは決して翔を離さない。
やがて、俯いたままの翔の口から嗚咽が漏れ始めた。

「泣かない、で。ちゃんと、私が守るから……」
「………………………………………………………………悔しい」
「え?」
「悔しいよ、僕じゃ姉さまを守れない。弱い僕は、父様や姉さまに守ってもらってばっかりで……」
「翔……」

ギンガはそこで、自身の言葉が的外れであることに気がついた。
翔は、不安や恐怖で泣いているのではない。この子はただ自分の弱さが、弱い自分が嫌で泣いているのだ。
そうして、翔はその思いの丈をそのままの形で叫ぶ。

「強く…強くなりたい!! 勝てなくてもいい、でも負けたくない!! ただ、正しいと思った事をできるくらい!!! 守ってくれるみんなを守れるくらい!!! 強く、なりたい!!!!」

それまで翔は、ただ漠然と「強くなるってどう言う事なんだろう」くらいにしか思って来なかった。
しかしこの時、初めて翔は心の底から願い、望んだ。力が欲しいと、強くなりたいと。
理不尽な暴力に抗う為に、大切な人を守る為に、心の底から。
男が言ったような「強いから正しい」という現実を拒否し、「信じた正しさを貫く強さ」を求めた。

(ああ、この子はなんて不器用で…………純粋なんだろう。
こんな怖い眼にあって、こんな痛い思いをして、それでもこの子は「力」じゃなくて「強さ」を求めてる。
我を通す為の「力」じゃなくて、不条理に負けない「強さ」を。
 なんて愚直で……優しい子。なら、それを守るのが…………大人の役目。そうだよね、母さん)

痛みが強くなるにつれ、身体の力が抜けていくのを自覚していたギンガだったが、その身体に新たに力が漲る。
なんとしても、なにがあっても翔を守らなければならない。それはいっそ、使命感にも似た感情だった。
翔を守る為ならば、禁を犯すことすらいとわない。そう思わせるだけの物が、ギンガの胸の内を満たしている。

(…………………………使えば、きっとここから逃げられる。
 使わないって、人として生きるって誓った。人として育ててくれた母さんと父さん、そしてスバルに。
 でも……………………………ごめんなさい。今の私には、もっと大切なものが出来ちゃった。
 大嫌いだったこんな「力」でも、この子の為に使えるなら…きっと、私は誇ることができるから!!)

意を決して、長い間封じ続けてきた力のスイッチを入れようとするギンガ。
さっきは咄嗟だった為に一瞬だったが、今は意識して完全な形で発動する。

それによって何が起こるかは、ギンガ自身が一番知っていた。
これまで築いてきた自分、「人間」としての自分。
それを壊してしまうかもしれない恐怖はあるが、それに勝る物を得たのだから。
仮に自身の秘密を知られて翔に恐れられても、それでも悔いはない。

覚悟を決めたギンガは、禁を破る為に静かに目を閉じる。
次の瞬間、封じ続けてきた力と共に閉じた眼を開く………その寸前。
ギンガ達が連れ込まれた廃ビルの壁が、大きく鳴動する。
そしてそれに重なる様に、ギンガを蹴る男の背後、窓際の壁が爆発した。

「な、何だ! 何が起こった!?」
「わかりません、いきなり窓際の壁が吹っ飛びましたぁ!」
「どっかの鉄砲玉の特攻か!?」

誰もが混乱する中、埃とも煙ともつかない靄が掛かる。
今しがたギンガを蹴っていた男も、訳のわからない事態に慌て、あっさりとギンガに背を向けた。
顔を挙げたギンガの眼に飛び込んできたのは、靄のカーテン越しに映る中肉中背の黒い影。
その影の主はゆっくりと靄を払って姿を現し、混乱する男達を無視して、この場には不釣り合いなほどのひどく穏やかな声でこう言った。

「遅れてごめん。助けにきたよ、翔、ギンガちゃん」






あとがき

まずはですねぇ……………………………ごめんなさい。
荒事になるとか言っておきながら、ある意味で何とも微妙な終わり方になってしまいました。
まあ、ちょうど区切りが良かったのでここでいったん区切ったんですけどね。
これ以上となると、正直文章量がすごいことになりそうだったのです。
とりあえず、今回は翔の変化の回。次で救援に来た人の話です。誰かは丸分かりですが。



[25730] BATTLE 7「一人多国籍軍、起つ」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/19 00:13

ギンガ達のいる廃ビルで異変が起きる瞬間から、いくらか時を遡る。
陸士108の隊舎で、兼一はゲンヤと共に会議室の一室に詰めていた。
だが、あまりにも手掛かりは少なく、ギンガ達が連れて行かれた場所の捜索は難航している。

「せめて、範囲を絞る事が出来りゃなぁ……」

卓上に広げられた地図を前に、らしくもない弱音がゲンヤの口をつく。
それだけ、ほとんど手掛かりもない今の状況に追い詰められているのだ。
犯人側からの要求が一向に来ない状況を考えると、私怨かそれに準じたものである可能性が高い。
となると、連れ去られた二人の身の安全は時間経過と共に危うくなる。

「申し訳ありません。時間帯が時間帯で、目撃者もほとんどおらず……」
「いや、別におめぇを責めてるわけじゃねぇ。単なるぼやきだ、気にするな」
「……はい」
(しかし、時間がねぇのも事実だ。早く絞りこまねぇと、ギンガと坊主が……)

努めて冷静に状況を整理しようとするゲンヤだが、そもそも整理すべきものが圧倒的に不足している。
これでは整理したところで得られるものなどない。
それに、ゲンヤには他にも気がかりな事がある。

(兼一の奴も、さすがに平常心じゃいられねぇか……)

一瞬ゲンヤは視線を横にずらし、居候の姿をうかがう。
兼一はまるで祈るように俯き、先ほどから一切誰とも口をきかない。
ほぼ情報が皆無の状況にあって、兼一にできる事などない事を分かっているのだろう。
余計な手出しや口出しをしても、専門家たちの迷惑になる。
殴り合いならともかく、捜査や人探しにおいて兼一は紛れもない門外漢なのだから。
とそこで、唐突に兼一の顔が上がった。

「そうだ、いつだったか新島の奴が……!」
「兼一?」
「ゲンヤさん! これ、使えませんか?」

そう言って兼一はゲンヤに駆けより何かを手渡す。
それは、一見するとどこにでもありそうな携帯電話。
ただミッドでは見ない型なので、恐らく地球製だろうそれをゲンヤはいぶかしみながら受け取った。

「いったい、こいつがなんだってんだ……?」
「翔が付けている鳥籠型のピアス! アレ、悪友が試作した発信器なんですよ! 奴が言うには、盗聴・盗撮の他に発信器としての機能もついてるそうで…この携帯電話からそれを拾える筈なんです!!」
「っ!? ……なんで、今まで言わなかった?」
「すいません、これまで全く使わなかったものですから……存在そのものをすっっっっっかり忘れてました!!」

ゲンヤの口から思わず出た咎めるような言葉に対し、兼一は深々と謝り過ぎて頭突きで机を一つ粉砕した。
危うくその致命的な頭突きを貰いかけたゲンヤは、額から脂汗を流しながらとりあえず頷く。

「そ、そうか……」

傍迷惑極まりないが、兼一が心底悔いているのは明らか。
これ以上咎めても仕方がないし、時間も惜しい。
それに、下手に追い詰めてこれ以上何かを壊されてはたまらない。
部屋に詰めている他の隊員達も、先ほどの破砕音を聞いて何事かと集まり始めている。
こんな所でもし兼一に暴れられでもしたら、それこそ犯人をどうこうする前に大変な事になってしまう。

無論、兼一には兼一なりに事情というものがある。
なにぶん、あの宇宙人の汚れた頭脳と邪悪な技術の産物だ。できるならあまり頼りたくない。
まあその結果、思い切り宝の持ち腐れになってしまったわけだが、まだ間に合うかもしれないだけマシだ。

「だが、もしそれなら……」
「ただ、どうやって起動させるのかがさっぱりで……なんとかなりませんか?」

梁山泊の師匠達もそうだったが、兼一もあまり機械には強くない。
それでも一応は普通人並みには使えるのだが、作ったのがあの宇宙人だ。
はっきり言って、素人に産毛が生えたかどうかの兼一では、とてもではないが扱えない。
仕方なくゲンヤは呆れたように頭をかき、近くにいた部下に指示を出す。

「ちっ、世話が焼けんなぁ…おい、技術官を呼べ!!」
「いけると…思いますか?」
「まだ何とも言えねぇ。とりあえず、いま技術屋どもにこいつを調べさせて、それからだ」

向こうも情報漏洩には細心の注意を払い、あらゆる手段で電波などを遮断しているだろう。
故に、決して楽観していい状況ではない。

とはいえ、この携帯電話はあの宇宙人が手を加えた代物だ。まともなものである筈がない。
兼一の悪友、宇宙人の皮を被った悪魔「新島春男」は、頭のてっぺんから爪先、そして魂の芯に至るまで謎の塊の様な男。はっきり言って、達人とは違った意味でミッドの常識では測れないナマモノだ。
故に、全く未知の技術が投入されていても兼一は驚かないし、事実その可能性は現実となる。

そうしている間にも、技術班の面々が大挙して会議室に押し寄せてきた。
機械に疎い兼一を余所に、携帯電話によく分からないコードが繋がれていく。
彼らの間では専門用語が飛び交い、慌ただしく専用の機械を設置し操作する。

ただ、ミッドとは規格やら文字やらの異なる機械に手古摺っている様だ。
故に技術官達は、時折兼一に液晶に映る文字の意味を尋ねながら操作していく。
そうする事しばし、まとめ役と思われる男性局員がゲンヤに報告した。

「受信出来ました! 今、そちらのモニターに画像と音声を出力します!」
「ったく、たいしたもんだな、おめぇの悪友とやらは……」
(まったく、相変わらず計りしれん奴だな、アイツは。
まぁ、こう言う時はホントに頼りになるし、有り難くはあるんだけど……)

吉報が飛び込み、会議室はにわかに活気づく。
ゲンヤは肩を竦めて顔も知らぬ新島を讃え、兼一は悪友の底知れなさに呆れると共に感謝する。
とはいえ、さすがに一から十まで上手くいくとはいかない。

「ただ、どうにも質が粗く……発信器もほとんど機能しておりません」
「試作型って話だ、こればっかりは仕方がねぇか…お前らもいったん集まれ!
どんな小さな手掛かりでもいい、何か気付いた事があれば構わず言え!」
『ハイッ!』

ゲンヤの呼びかけで兼一と技術班の周囲に人が集まり、皆が緊迫した面持ちでモニターが出力されるのを待つ。
間もなく空中にモニターが姿を現し、誰もがその画像を食い入るように見つめる。
しかし、まとめ役の言った通り画像の質は悪い。それどころか、ほとんどノイズばかり。
とてもではないが、これと言った情報を得る事は不可能に近い。
そしてそれは、逆探や解析を行っているチームも同じらしかった。

「こうノイズ交じりじゃ何がなにやらさっぱりだ、解像度は上がらないのか!」
「これが精一杯だ! よほど電波状況が悪いのか、あるいはジャミングの影響かもしれん!」
「居場所の特定は!! それさえわかりゃなんとでもなる!!」
「ダメです! あまりに電波が弱過ぎて、とても絞り込めません!」
「絞り込めなくても良い! 少しは限定できるだろ!! ある程度限定できれば、後は足で探す!!」

局員たちの間で飛び交う様々な言葉。誰もが事態を好転させようと必死に考えを巡らせている。
ゲンヤも苦々しい顔で何か打てる手はないかと自分自身に問いかけていた。
そこでふっと気付く、兼一が周りの喧噪などまるで聞こえていないかのように静かに、モニターを凝視している事を。
なぜそう思ったのかはゲンヤにもわからない。だがゲンヤは、知らず知らずのうちに兼一にこう問いかけていた。

「なにか、気付いたのか?」
「……………………」

ゲンヤの問いに答えず、兼一はゆっくりとモニターの一点を指でさす。
ノイズで粗くなった画像の中では、兼一が何を指しているのか判断は難しい。
それどころか、そこに何があるのかすらゲンヤにはわからない。
わかる事があるとすれば、何か赤い光の様なものが時折映っては消えている事くらい。
しかし、兼一にはゲンヤ達とは全く違うものが見えていた。

「周りにあるのは窓か何かの縁でしょう。その先にあるのは……多分、看板のネオンだと思います。
 字の意味はわかりませんが、何が書いてあるのかなら……」
「お、おめぇ…んなもんが読めるのか!?」
「諸般の事情で、恐ろしく目がいいものですから。まあ、2キロ先の人の顔くらいならいけますよ」
「……………………………………人間か、お前?」

さらりと兼一が口にした非常識極まりない言葉に、唖然とした顔でそうこぼすゲンヤ。
周りの局員たちもその言葉を聞いていたのだろう。先ほどの喧噪が嘘のように静まり返り、幽霊でも見たかのような顔で皆は兼一の事を凝視していた。
何しろ、彼らには赤い光点くらいなら見てとれるのだが、その周りにあるという窓の縁など見えていない。
ましてや、光点がなにかの文字を描いているかなど、とてもではないがわかる筈がなかった。

兼一はそんな皆の反応に苦笑を浮かべつつ、読み取れた文字を手近な紙に書き写す。
そこから技術班がやっとの思いで限定した区域の地図に目を移す。

「このエリア内で、同じ名前のお店を探してください! 看板のサイズがわからないので距離は出せませんが、看板が見える角度からある程度の方角は割り出せます!!」
「お、おう! おめぇら、急いでこの店を探せ!」

兼一の鋭い声に正気に戻ったゲンヤは、兼一が書き写した店の名前を探す様に部下に指示する。
ゲンヤ自身も地図に向かい、無数にある小さな文字の中から目的の名前を探す。
そして、これだけ情報があれば、目的の店を見つけるのにそう時間はかからなかった。
さすがに地図上から直接見つけるより、他の手段で探す方が早い。
部下の一人が、大急ぎでゲンヤの下へ向かい地図上のある一点を指示した。

「ありました、ここです!
 この近辺でその名称の店舗は一件、他に広告用の看板もない筈なので間違いないかと!!」
「よし! 三方は別の建物で塞がれている以上、兼一が見つけたのは入口にある看板のネオンだろうな。
 兼一! それで、どの方角からの映像だと思う!」
「おそらく、向かって3時の方角、こっちの方向からの映像だと思います! いけますか?」
「充分だ! 野郎ども、急いで捜索と突入だ!!」
『ハッ!!』

居場所さえある程度絞れてしまえば話は早い。
あとはただ、絞り込んだ周辺を手当たり次第に家探しすればいい。
それまでと違った意味で隊舎内は慌ただしい雰囲気に包まれ、誰もが全速力で廊下を駆け巡る。
ゲンヤもまた陣頭指揮に当たる為に会議室を後にしようとするが、その前に兼一の方を振り返った。

「お前も来るか?」
「…………………………いえ」
「そうか……?」

ある意味では予想外だった兼一の返事に、ゲンヤは僅かにいぶかしむような表情を浮かべる。
兼一の事だから無理にでも付いてくると思っただけに、少々肩透かしを食らった気分なのだろう。
まあ、本来は一般人をそういう場に同行するのは問題なのだが、ゲンヤはそれほどこだわってはいない。
大人しく状況の推移を見守ってくれるのなら、別に同行くらいは許可するつもりだった。
とはいえ、兼一なりに考えがあるのだろうと判断し、安心させる様にゲンヤは言葉をかける。

「……まあ、安心しろ。坊主もギンガも、ちゃんと無事に助けて見せるって……」
「先に行きます!」
「は? ってバカ! ここは4階だぞ! 何窓から身を乗り出してんだ、下手すりゃ死ぬぞ!!」
「突入班が向こうに着くまで何分かかりますか? 多分、十分や二十分じゃ無理でしょう。
その間に手遅れにならないとも限りません。でも、僕なら十分でたどり着けます!」

そう、ここから先は時間との勝負。
翔やギンガに何かある前にたどり着き、迅速に犯人達を制圧しなければならない。
制圧するだけならなんとでもなるだろうが、問題なのは時間。
突入班はいつでも動けるように準備していたが、それでも隊舎を出るまでに多少なりとも時間はかかる。
その上ヘリは全員を輸送するだけの数はなく、どうしても陸路を通らねばならない。
緊急車両として望み得る限り最速で現場に急行する事はできるが、それでも時間はかかるだろう。

だが、兼一一人なら今すぐにでも向かう事が出来る。
それも、道路などに左右されず、目的地までの最短距離を突っ走って。

「いやいやいやいやいや! いくらなんでもそりゃ無理だろう!!
おめぇが武術の達人ってのは聞いたが、さすがに車には……!?」
「無理が通れば道理が引っ込みます!! 大丈夫、時速百キロくらいなら軽いですから!!」
「……百? だぁ、だから待て! 飛び降りるなって……ああ!?」

眼から怪光線を放ちながら発せられた、兼一のあまりに非常識な発言に一瞬呆気にとられるゲンヤ。
その瞬間兼一の服の裾を握る手が弱まり、その間に兼一は窓の外へと身を躍らせた。
ゲンヤは兼一が地面に激突し、無残な姿になる未来を幻視する。
しかしその予想は覆され、兼一は音を立てる事なく何とも軽やかに地面に降り立った。

「それじゃ!!」

着地した兼一は短くそれだけ言って、目にもとまらぬ速さで走りだす。
その颶風の如き速度にゲンヤは眼を見開き、兼一が見えなくなったところで小さく呟いた。

「…………………………嘘だろ?」

ゲンヤの呟きは空しく虚空に消えて行く。
その間にも兼一は人々の間をすり抜け、ビルの壁を蹴り、凄まじい速度で市街地を疾走する。

(翔、ギンガちゃん! 今、助けに行くよ!!)

この日、この瞬間、あの男達の運命は決した。
眠れる獅子……いや、爪も牙も持たない不思議小動物を彼らは目覚めさせてしまったのだ。
かつて第97管理外世界「地球」において「梁山泊、史上最強の弟子」「一人多国籍軍」と謳われた武人を。



BATTLE 7「一人多国籍軍、起つ」



それまでまるで一陣の風の様に止まる事も、衰える事もなく一定の速度を維持していた兼一は、ある雑居ビルの前で唐突に足を止めた。
そこは、先ほど兼一が見つけ出した翔とギンガが連れ込まれていると思われるエリア。
108の隊舎からは、凡そ二十キロは離れた地点である。

だが、先ほどゲンヤに宣言した通り、兼一はかなりの距離があった筈のここまで、十分とかかる事なく辿り着いたのだ。それはつまり、時速に換算すれば120キロ以上を叩き出したという事。
ちなみに、地上最速の生き物であるチーターですら瞬間時速は110キロ。
それ以上の速度を長距離に渡って維持したのだから、悪夢に等しい非常識である。
それも、これでも道に迷わない様に、人を撥ねないように少し慎重に走ったというのだから……。

しかし、今この場にその事を突っ込む常識人はいない。
何より、兼一自身そんな些事にかまけているほど暇ではなかった。

「さて、この辺りの筈だけど……やっぱり、くまなく探すしかないか」

生憎、これ以上の手掛かりは今のところ存在しない。
相手が達人ならば、その強大な気の波動である程度絞り込む事は出来る。
だが、相手は幼い翔と武術家としては未熟なギンガ。
とてもではないが、他の気配から明確に選別する事はできない。
近くにいれば、よく知った気配である事にも気付くが、そうでないのならさすがに無理だ。
とそこで、耳に押し付けた携帯電話から、再びノイズ交じりの音声が聞こえてくる事に兼一は気付いた。

【…い、面……から手足を……えつけて…け】
「もしかして、距離が近づいたから電波状況が良くなった?
 なら、よく聞こえる方に向かえば……………そこに二人はいる!!」

携帯電話から聞こえてきたのは、聞き覚えのない男の声。
未だノイズが多く、兼一の鋭敏な聴覚でも何を言っているのかは判然としない。
音が小さいならともかく、音そのものが拾えていなければどれほど鋭敏な感覚も意味を為さないのだ。

「とはいえ、とてもじゃないけど穏やかな雰囲気じゃないよね。急がないと……」

そうして兼一は、再度地面を蹴って二人の捜索に当たった。
今はまだ二人とも無事なようだが、それが十秒後もそうである保証はないのだから。
ならば、可及的速やかに二人を見つけねばならない。

その間も携帯電話越しに翔の周囲で起こっているであろう出来事と、その周りの人間の声が聞こえてくる。
通信越しではミッド語を理解できない兼一だが、その中に時折ギンガの耐える様にくもぐもった声や強くなじる声、あるいは何かをやぶり引き裂く音や何かを殴る音が聞こえてきたのはわかった。
純朴で人を疑う事を知らない兼一だが、それが何を意味するかくらいはわかる。

(ギンガちゃん…まさか!?)

脳裏をよぎるのは、最悪の未来像。
我が子を実の弟のように慈しみ、その才と意思を守る為に真剣に怒ってくれた、年の離れた友人。
そのギンガが、心ない理不尽な暴力により、汚されようとしている。
それは兼一にとっても、到底許容できない、許し難い暴挙だった。
沸々と煮えたぎる怒り。脳髄が灼熱し、その怒りの全て犯人達にぶつけてやりたい欲求に駆られる。
そのどうしようもない様な衝動を、兼一は構う事なく声に乗せた。

「お…おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

大地を震わせ、大気を揺るがす獣の如き怒りの咆哮。
もしこの場に見ず知らずの第三者がいれば、兼一が得体のしれない何かに取り憑かれたかのように映っただろう。
まあ、そんな人間がいれば、先の咆哮で腰を抜かすなり気絶するなりしていただろうが……。

だが、兼一が怒りに飲まれたのかといえば……否だ。
身を焦がす怒りを深く深く呑み込み、感情の見えない無表情で「静」の気を練り上げる。

「どこのだれかは知らないけど……人の友人と息子に手を出して、ただで済むとは…思わないでください」

その場にいない誰かに向け、兼一は静かに宣言した。
深く重い闘争心を眼の奥に宿し、兼一は再度翔とギンガを探して駆けまわる。

そうして、兼一は一棟の6階建ての建築物の前で足をとめた。
なんの変哲もない廃ビル。かつて新白連合がアジトにしていたような、そんな建物だ。
人の影はなく、その気配もない。しかし兼一は確かに感じ取っていた。
その奥から、いくつも人の気配がする事を。
同時に、耳に付けた携帯電話からは、それまでより遥かに鮮明な声が聞こえてくる。

【痛いのに、辛いのに……がんばった、ね。カッコよかったよ、翔】
「…………………………カッコよくなんか、ないよ。僕…僕、姉さまを守れてなんか……」
【そんな事、ない。翔はちゃんと、私を守ってくれた、よ。私が言うんだから、間違い、ない】

聞こえてきたのは、何かを蹴る音と苦痛を堪えるギンガ、そして今にも泣き出しそうな翔の声。
状況は良く分からない。未だ、兼一にはミッド語による複雑な会話は理解できない。
だが、苦悶に歪みながらも優しくかけられるギンガの声音は、まるで翔を褒め、あやしているように思えた。
わかった事と言えば、翔がギンガを守ろうとして…それが叶わなかったのだろうという事くらい。
兼一は急いで二人の下に向かおうとするが、その脚を翔の言葉が縫いとめた。

【泣かない、で。ちゃんと、私が守るから……】
「………………………………………………………………悔しい」
【え?】
「悔しいよ、僕じゃ姉さまを守れない。弱い僕は、父様や姉さまに守ってもらってばっかりで……」
【翔……】

涙ながらに訴えられるのは、弱い自分への怒り。大切な人を守れない事への悔しさ。
理不尽な暴力をふるう相手に向けたものではなく、それを撥ね退けられない自分に翔は憤っていた。
その感覚、感情には兼一も覚えがある。かつては兼一も、不条理な世の中で、弱い自分を嫌っていた。
だからだろう、なんとなく…この先翔が何を口にするのか分かる気がする。
そしてその言葉を、自分は決して聞き逃してはならないのだと……。

「強く…強くなりたい!! 勝てなくてもいい、でも負けたくない!! ただ、正しいと思った事をできるくらい!!! 守ってくれるみんなを守れるくらい!!! 強く、なりたい!!!!」
(ああ、君も選んだんだね……翔)

翔の精一杯の魂の叫びに、兼一は天を仰ぐ。
いつか来るかもしれないと思って覚悟していたその時。それは、兼一が思っていたよりもずっと早かった。
それを望んでいたのか、それともそんな日が来ない事を願っていたのか。
それは、兼一自身にすらわからない。ある一面ではこれから息子に降りかかる数々の苦難を嘆き、別の一面では息子がこれほどの想いを持ってくれた事を喜んでいる。
何よりその言葉は、兼一にとっても懐かしい、遥か昔を想起させる言葉だった。

(そう言えば、岬越寺師匠が言っていたっけ。血は水よりも濃い、しぐれさんも……どこか亡くなったお父さんに似て行くって。馬師父も言っていた。どれだけ隠したところで、子は親に似るものだと。
それにしても、僕自身が師匠達に言った言葉を、翔が口にするなんて……)

兼一の肩が震える。眼には一滴の涙が浮かび、拳は強く強く握りしめられた。
まるで若き日に立ち戻ったかのような心の脈動を、兼一は噛みしめている。

「大丈夫だよ、翔。君にその信念があるのなら、強くなれる。誰よりも、何よりも。
 どんな理不尽にも、不条理にも負けない。大切なものを守れる強い人に…必ず」

最早心に一片の迷いもない。つい先ほどまでは息子の前で武を振う事に僅かな躊躇があったが、それは消えた。
元よりこの拳は、大切な人を守る為に鍛え上げた活人の拳。
ならば、我が子と友人を助ける為に使う事を、どうして躊躇う必要がある。
何より、その小さな胸に強い想いを宿した翔に、何を隠す事があろうか。

「美羽さん、ごめんなさい。やっぱりあの子は……僕たちの子だ。
 親の思惑も、宿命も関係なく、自分自身の意思であの子はこの道に踏み込んだ。
 結局僕はあの子を武から遠ざけられなかった。そして、今この拳をあの子に晒します。
でも………許して、くれますよね? あなたもきっと、同じ気持ちだろうから」

美羽との約束を破ったとは思わない。他ならぬ翔自身が、理不尽と戦う道を選んだのだから。
ならそれは、今際の際に美羽が残した「自分の意思で武門に入るかを選ばせる」という言葉に反しない。
なにより、美羽もきっと同じ気持ちだろうという確信が兼一にはあった。

兼一はビルの壁際に立ち、大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出す。
そのまま彼は深くしゃがみこみ、眼を見開いて跳躍した。

「とう!!!」

土の地面は陥没し、兼一の身体が天高く舞い上がる。
5階のガラスのない窓の前まで来たところで、彼は探していたものを見つけた。

「そこか!」

そのまま兼一は右腕をつきだし、その縁を掴んだ。
五指はコンクリートの壁に深々と食い込み、片手一本で姿勢を維持する。
兼一は、残った左手で人が出入りをするにはやや小さい窓の縁に殴りかかった。

「しっ!!」

無数の突きが窓の縁を打つと、まるで爆発したかのように吹き飛ぶ。
一瞬のうちに小さかった窓の縁は力づくで拡張され、一面の壁が跡形もなくなった。

兼一は振り子の要領で部屋の中に入ると、破壊の余波でたちこめる靄を払いながら進む。
そして、目当ての人物たちの姿を発見したところで安心させるようにこう言った。

「遅れてごめん。助けにきたよ、翔、ギンガちゃん」

混乱して浮足立つ男達を無視して、兼一は二人の下へ歩み寄る。
ギンガの服は所々が無残にも引き裂かれ、白い肩や長く蒼い髪の隙間からのぞくうなじ、そして鎖骨が露わになっていた。動きやすさを優先した下着も白日の下にさらされ、無意識のうちに腕で隠された胸元と共に扇情的な光景を演出している。

しかし兼一は急いでそこから目を逸らし、着ていたジャケットを脱いでギンガにかけた。
うら若い乙女がそう肌を晒すものではないと、どこか古臭い考えが脳裏をよぎっているらしい。
ギンガはまだ目の前に立つ人物の存在が信じられないようで、目を瞬かせながら兼一を見上げている。

「兼一…さん? そんな、どうしてここに……」
「父様? 本当に、父様なの?」
「ああ、そうだよ。だけど二人とも、よく…頑張ったね。えらいよ」

ギンガ同様信じられないという眼差しで兼一を見る翔に対し、兼一は右手で優しく頭をなでてやった。
残った左手もギンガの頭に回され、絹糸の様に柔らかく光沢を帯びた髪を撫でる。
どちらも特に意識したものではなく、無意識のうちに。

その感触が、二人に目の前の人物が現実である事を実感させる。
二人はそこでようやく強張っていた身体を緩める事が出来た。

そんなギンガと翔を見る兼一の目は細められ、安堵と申し訳なさに染まる。
安堵は翔とギンガに重篤な怪我がない事に対するもの。
申し訳なさは、それでも決して無傷とは言えない二人に対する自身の不甲斐なさから。
特にギンガは翔を身を呈して守ってくれたのだろう。背中は汚れ、所々から血が滲んでいる。
その上衣服を剥ぎ取られている所から、強姦寸前だった事は明らかだ。

もっと早く助けに来ていれば、そもそも誘拐などさせなければ、こんな事にはならなかったのに。
そう思うと、兼一の胸のうちはギンガと翔への申し訳なさで一杯で、今にも張り裂けそうだった。
故に兼一は、ギンガに向けた言葉に有りっ丈の感謝と謝罪を込める。

「ありがとう、ギンガちゃん」
「え?」
「翔を、守ってくれたんでしょ? 本当は僕が守らなきゃいけないのに、代わりに守ってくれて。
翔がいまこうしていられるのは、君のおかげだ。本当に…ありがとう」
「そ、そんな! 違うんです、そもそも翔は私に巻き込まれただけで……!!」
「でも、それは君の責任じゃない。責任は君達を誘拐した彼らにある。だからやっぱり…ありがとう。
 そして、ゴメン! 君に、取り返しのつかない傷を負わせるところだった!!」

心底悲しそうに、悔しそうに、兼一はギンガに頭を下げる。
大切な人を守る為にこの拳はあるというのに、危うくその大切な人に一生ものの傷を負わせる寸前だったのだ。
運よく辛うじて間にあったが、それは本当に運が良かったからにすぎない。
もしほんの少しでも何かが違っていたら、兼一がたどり着いた時には手遅れになっていたかもしれない。

そう思うと、兼一の背筋が凍る。
会ってまだ一ヶ月程度だが、それでもギンガもまた兼一にとって守るべき人なのだ。

深く深く悔いる兼一の表情に、ギンガの目が惹き付けられた。
自分の為にこれほどまでに心を痛めてくれる人がいる。
つい今朝方まで対立していた筈の自分の身をこれほどまでに案じてくれる人がいる。
それはなんと、素晴らしくも喜ばしい現実だろうか。

気付けば、それまで心身に重く圧し掛かっていた恐怖と絶望は霧散し、代わりに言葉にできない温もりに包まれた。
それは本当に心地よく、今にも涙が出そうなほどの安心感をギンガに与えてくれる。
その現実に、不謹慎と分かっていながらも心が暖かくなる自分を自覚していた。
そうして兼一はギンガから一端眼を離し、今度はギンガの懐から顔を出した翔の眼を見る。

「翔」
「ぁ……」
「ギンガちゃんを、守ろうとしたの?」
「……う、うん。でも、全然ダメで……僕が、僕が弱いから……」

あの時の事を思い出し、翔の瞳からボロボロと涙がこぼれる。
そんな翔に対し、兼一は目線を合わせて問いかけた。

「そうか……なら、後悔しているかい? 弱いのに立ち向かった事を……」
「…………」

返事は返ってこない。代わりに翔は、全力で首を左右に振った。
後悔はないと、守ろうとした事は間違っていないと、そう言外に主張するように。
その答えはわかっていたのだろう。兼一は小さく微笑み、さらに翔に問いかける。
まるで自分自身の気持ちを、はっきりと翔に自覚させるように。

「なら、痛かったから泣いているの? それとも、怖かったから?」
「…………」

思いの丈は言葉にならず、ただただ首を横に振って否定する翔。
痛かったのも、怖かったのも本当だ。不安でたまらず、怖くて仕方がなくて、痛くて痛くて泣きだしたかったのは間違いない。だが、今その頬を濡らす熱い雫の理由は別にある。

「じゃあ、なんで泣いているんだい?」
「………………………悔しかったから。ギン姉さまに守ってもらってばっかりで、何もできないのが嫌だった!
 でも、守りたいのに僕には何にも出来なくて、戦おうとしても簡単に負けちゃって…………それが、悔しい!!」

嗚咽交じりの声で、翔は喉から絞り出す様にして言葉を紡ぐ。
泣いているのは、自分自身の弱さが情けなくて、悔しいから。
想いはあるのに、それを貫く強さがない事が堪らなく悔しい。

「あの人たち、『強いから正しい』って言ってた……そんなのってないよ!
 だったら僕は、間違ってる事を間違ってるって、正しい事を正しいって言えるようになりたい!!
 正しいって思った事をやれる大人になりたい!! 正しい事をできる強さが欲しい!!」
「僕に、反対されても?」
「…………………………………うん!」

兼一の問いかけに、翔は決然として頷く。例えどれだけ反対されても、もう退けない。
知ってしまったから、弱いままではいたくないと願う自分を。

「…………………わかった」
「父様?」
「兼一さん?」
「そこで見ているんだ。これが、僕が君たちに見せてあげられる、答えだよ」

そう言って、兼一は二人に背を向ける。
それは見限ったとかそういう事ではなく、二人を守る為に。
大切な人を背負い、兼一は強い眼差しで男達を睨む。
そんな兼一に向けて、「若頭」と呼ばれていた男がドスのきいた声をかける。

「てめぇ、確かあの時の腰抜けじゃねぇか。見た所、魔法も使えないゴミだろ?
驚かせやがって、いったいどうやってあんな所から入ったかしらねぇが、覚悟はできてるんだろうな!!」
「……君たちこそ、覚悟はできてるんだろうね。生憎今の僕は、心っ底……アッタマにきてるんだ!!
 活人拳的にとは言え…………物理的に地獄に落ちてもらうよ!!」
「訳わかんねぇ事言いやがって……うるせぇんだよ、このチビが!!」

珍しく大声を張り上げた兼一に向けて、真横に立っていた男がナイフを手に襲いかかった。
男達は兼一の身体が血に染まる姿を想像し、翔とギンガは兼一に「危ない」と叫ぼうとする。
だが、二人の声帯が音を発するより早く、襲いかかった男に異変が起こった。
兼一が鋭く男の方を睨んだその瞬間、男の体が硬直し、その口から奇怪な叫び声が漏れる。

「ぁ…ぃ、ひぎぃあぁあぁぁぁあぁぁぁ!!!」

仰け反りながら叫ぶとともに、ナイフは手から離れ床に転がる。
そのまま男は仰向けに倒れ、身体をピクピクと痙攣させながら失神した。
その様を見て、ギンガは内心で驚愕を露わにする。

(睨んだだけで……人が倒れた!?)

それは今まで見た事も聞いた事もない事象だった。
どんな魔法を使ったところで、一切触れる事なく相手を倒す事など不可能。
にもかかわらず、兼一はただ相手を睨んだだけで指一本動かす事なく敵を制圧したのだ。
その信じ難い現象をなんとか理屈で説明しようと思索を巡らせるギンガだが、あらゆる可能性が浮かんでは消えて行く。

(魔法……ううん、違う!! 魔法が起動した素振りはないし、そもそも兼一さんに魔力はない。
 なら、希少技能? それとも何かのロスト・ロギア? あるいは武器? だけど、それらしいものは……)

混乱し思考がまとまらないギンガ同様、男達も今目の前で起こった事に混乱している。
その答えを求め、若頭と呼ばれた男は兼一に向って怒鳴り散らした。

「て、てめぇ! い、今いったい何しやがった!!」
「今見た通り、ただ睨んだだけだよ。あるいは、気当たりと言おうか?」
『気当…たり?』
「気迫や気合、あるいは殺気とも呼ばれるそれをぶつけて威圧したり、フェイントをかける事だよ。
本来動物は、本能的に敵の殺気を感じる能力があるからね。限界を超える気当たりに晒されると、人でも動物でも耐えられずに気を失う事があるんだ。
まあ、実を言うとこの技は苦手なんだけどね。昔から、どうにも殺気とは縁が薄くて……」

さも何でもない事の様に、兼一は彼らの質問に答える。
しかし、彼らには到底信じられなかった。
ただ睨むだけで相手を倒すなど、そんな手品や催眠術の様な真似ができるものかという常識があるのだ。

「ふ、ふざけんじゃねぇ、んなハッタリにビビると思うんじゃねぇぞ!!!
 どうせ手品か何かだ! 野郎ども、やっちまえ! 武器持って大勢でやりゃぁなんとでもなる!!」
『お、おう!!』

そうして、刃物や銃器で武装した男達が大挙して兼一に襲いかかる。
数は十数人。この数に一度に襲いかかられれば、兼一など為す術もなく殺されてしまう。
そう考えたギンガは、切羽詰まった声で兼一の名を呼ぶ。

「兼一さん!!!」
「大丈夫だよ、ギンガちゃん。それに君達も人の話はちゃんと聞くべきだ。今僕は頭にきてると言った筈だよ。
普段の僕なら睨み倒しや捕縛術で穏便に済ませるけど、そんな優しさは期待するな!!」
「死にやがれ!!」

眼から怪光線を発しながら宣言した兼一の側頭部目掛け、男の一人が持った鈍器が薙ぎ払われる。
直撃すればよくて頭蓋骨陥没か頸椎骨折、最悪その場で絶命するだろう。
男も兼一を殺すつもりで振り抜き、その死を確信した。

(人間トマトの一丁上がり!)
「しゃらくさい!!」
「……は?」

鈍器が触れる直前、男の視界から兼一が姿を消した。
振り抜かれた鈍器は虚しく空振りし、勢い余って体勢が崩れた男の目は驚きに見開かられる。
確実に当たる筈の一撃は空を切り、目を離していなかったにもかかわらず見失ったのだ。
男の思考が一瞬停滞したのも無理はない。

しかし茫然とした男の肩を、何者かが背後から掴む。
そして、勢いよく…………………………投げた。

「どっせい!!!」
「う、うわぁぁぁあ!?」
「ぎゃあぁあぁぁぁ!?」
「な、何が起こってるんだぁ!?」
「ひぃぃぃぃ!?」

次々と投げられては、驚愕の叫びと共に宙を舞う男達。
兼一の動きを捉える事が出来る者はおらず、当然投げられている本人達は自分がどういう状況なのか理解できていない。それどころか、優れた格闘技者であるギンガですら、何が起こっているのか理解が追い付かない。
わかるのは、黒い影が男達の間を駆け巡り、その度に人が宙を舞う怪奇現象が起こっているという現実のみ。

やがて、襲いかかった男たち全員が投げ飛ばされたところで、唐突に静かになった。
いや、静かになったというのは正しくない。確かに叫び声はなくなったが、その代わり痛みに呻く声が響く。
まるで、地獄の底で苦しむ亡者の様な声が。

「な、何が起こったの? 兼一さんは?」

ギンガは翔の体を抱きしめながら目を凝らし、先ほどまで兼一が立っていたところを凝視する。
そこで目にしたのは、あまりにも歪で気味の悪いリング。
最初の位置で仁王立ちする兼一の周りには、絡み合った男達が円を描いて倒れているのだ。
その中心で兼一は、まるで地獄の裁判官の様にこう宣言した。

「岬越寺、無限轟車輪!!」

岬越寺流、「無限轟車輪」。複数の敵の手足を互いの手足を利用して極め、関節を極められた状態の敵が連なってできる輪を作る対多人数向けの技。
その異様極まる光景に、ギンガは思わず息をのむ。
なにしろ、それはまさに地獄絵図。痛みに呻き、助けを求める姿は自業自得とは言え憐れみを誘う。
だが、彼らの上司はそんな男達に向けて無体な言葉を吐く。

「て、てめぇら何してやがる! くっついて遊んでねぇでさっさと立て!!」
「い、痛い―――――!? は、早く俺の腕を離してくれ―――――――!」
「重、い……早くどけ! い、息がぁくるしい~!?」
「む、無理です! 誰かの身体が邪魔で身動きがとれませ~ん!! あいたたたた!!」
「んな、バカな……」

部下達の相次ぐ悲鳴に、いよいよ顔を青くする男。
遊びなどではなく、本当に身動きが取れない事がわかったのだ。
そんな男に向け、兼一は静かに教えてやる。

「無駄だよ」
「な、なに!?」
「互いの関節と体重で極めてあるからね、自力での脱出は不可能だ」

そう、無限轟車輪の真の恐ろしさはそこにある。
技をかけられた人間の体重がお互いの関節を極め合う構造になっているため、外から誰かに外してもらう他に逃れる術はない。
これほど多人数の制圧と仕置きに向いた技もそうはないだろう。
何しろ、意識がなくなるわけでもなく、ずっと痛みに耐えなければならないのだから。

しかし、ミッドチルダにあってこの手の関節技や投げ技はあまり主流ではない。
特に魔導師の場合、バリアジャケットという防護服のおかげでその手の攻撃は効果が薄いのだ。
その為、ストライクアーツやシューティングアーツも基本は打撃系。
『関節を極める』という聞き慣れない言葉に、男は混乱していた。

「関節を極めるだぁ……なんだ、そりゃあ!? そんな技、ストライクアーツにはねぇぞ!!
 それとも、そこの女のシューティングアーツとか言うのの技か!!」
(違う、あんな技シューティングアーツにもメジャーな格闘技のどれにもない。
 それに今、岬越寺流って……まさか、兼一さん……)

男もそれなりにギンガの事を調べているようで、シューティングアーツにある技と思おうとしたらしい。
だが、それは明らかに的外れである事を他ならぬギンガが知っていた。
故に、ギンガはある可能性に思い当たり、信じられないと思いつつ兼一の方を見る。
そして当の兼一は、まるでその過ちを訂正するように叫んだ。

「違う、これは…柔術だ!!!」
「じゅう、じゅつ?」
「柔術とは、僕の故郷地球は日本で開発された投げや関節技を得意とする実戦武術!
 その歴史は長く、戦場で発展したその技術は対武器戦や多対一こそがむしろ本領!!
 数と武器に慢心した彼らを取り押さえるくらい容易い!!」
(兼一さんが、格闘技を?
 あんなに、翔が格闘技をやるのを反対してたのに……ううん、もし『だからこそ』だとしたら!?
 なら、兼一さんが言う『答え』って……)

ギンガの眼には、どこか兼一が水を得た魚の様に映る。
まるで、今まで無理に抑えつけていた物を解き放ったかのように。
だとすれば、これこそが兼一の本来の姿なのではないか。
そしてそれを晒したという事は、抑える必要が、理由がなくなったという事で……。

「翔、ギンガちゃん」
「「は、はい!」」
「よく見ておくんだ、本物の武術というものを」
(やっぱりそうだ! これが翔への兼一さんの答え。
 反対するなら、見せない。実際、翔は今までそんな事知らなかった。それを見せたのなら……)

答えは一つ。認めたという事だ、翔が武を学ぶ事を。
だからこそ、これまで隠してきた本当の自分を見せようとしているのだろう。
だがそれは、あまりにも……

(無茶よ! 今までの人たちは魔導師じゃなかった、それなら条件は対等。魔法が使えない兼一さんでも勝てる。
 だけど、あとの五人はみんな魔導師。魔導師のバリアやフィールドに生半可な攻撃じゃ意味がない!!)

魔導師であると同時に、自身も格闘技者であるからこそギンガにはわかる。
生身の拳では、魔導師を守るバリアやシールド、フィールドを破る事は出来ない。
それは投げや関節にしたところで同じ事。投げても地面にぶつかる衝撃を防御魔法が殺し、関節を取ろうにもバリアジャケットがそれを防ぐ。
兼一がどの程度の打撃を持っているかは定かではないが、それでも勝ち目など皆無。
冷静に、客観的に見てそれは疑いようのない事実なのだ。
少なくとも、ミッドにいる格闘技者のレベルでは。

しかし、兼一はミッドの人間ではない。
地球という全く別の文化と文明、そして歴史を持つ世界の出身者。
そこで身に付けた独自の技術と、鍛え抜かれた肉体のレベルを未だギンガは知らない。
人間の肉体の限界は確かに存在するが、それはギンガが考えるそれの遥か先にあるのだから。
その、今まで知らなかったもう一つの現実を、今からギンガは目にする事になる。

「へ、へへ、確かに驚いたが、そこまでだ。
 思い知らせてやるよ、魔導士とそうでないゴミの違いってやつをよ!!」
「まともに戦っちゃダメ、逃げて兼一さん!! 逃げて、父さん達を!!」

男のうちの一人が一歩前に出てバリアジャケットを展開したのを見て、ギンガは声を張り上げる。
相手の事は覚えていないが、実力はおそらくCランク。
とてもではないが生身の人間が叶う相手ではない。せめて強力な質量兵器でもあれば話は別だが、兼一は無手で防具もない。これで魔導師相手に挑むなど、兼一がいくら強くても自殺行為に他ならないだろう。
そう判断し確信したからこそ、ギンガはいったん引いて救援を求めるべきと考えた。
だが、それに返ってきた答えは……

「逃げろ? 君達を置いて? そんな事、できるわけないじゃないか」
「でも、そうじゃないと兼一さんが!!」
「なにより、もうずいぶん昔に……逃げるのはやめてしまったからね」

それは、兼一の古い誓いの一つ。
あらゆる苦難から逃げてきた彼は、ある日を境にそれをやめた。
もう逃げないと誓った、大切な人を守る力を身につけるまで。
そして、その力を手にした今、最早逃げる理由などどこにもありはしないのだから。

「それにゲンヤさんたちならもうこっちに向かってるよ。僕が一人で先に来ただけで、ね」
「なら、せめてみんなが来るまで……!」
「わからない、ギンガちゃん? 僕はね、乗り物に乗ってくるみんなより……早くここに着いたんだよ」
「え?」
「訳のわからん事をごちゃごちゃと、良いから死ね!!」

兼一とギンガのやり取りに痺れを切らした男は、手に持った斧型のデバイスを振り下ろす。
ギンガと翔は思わず兼一から目を逸らそうとする。
まさか殺傷設定ではあるまいが、それでもただで済む筈がない。
最悪、無残な姿を目の当たりにする事になる。
幼い翔にそれを見せる事が忍びなくて、ギンガは翔の目をふさごうとした。

だが、その手が途中で止まる。
なぜなら逸らそうとした視界の端で、兼一が無事な姿を視認したのだから。

「雑だけど、威力と速度は目を見張るものがある。これが魔法の恩恵なのかな?」
「ちぃ! 上手く避けやがったな! だが、まぐれが続くと思うなよ!!」

紙一重のところで回避した兼一に対し、男は次々と斧を振う。
しかし、兼一はその悉くを薄皮一枚のところで回避する。
まるで、全ての攻撃がどのような軌道を描くか完全に見切っているかのように。

だが、そんな事はあり得ない。
身体強化の結果、人間の限界を超える速度と威力を実現した男の斧を回避するなど、生身で出来る筈がないのだから。それも、一連の攻撃を全てミリ単位で回避するなど、自殺行為に他ならない。
ほんの僅かでも判断を誤れば、その瞬間に叩き潰される。
承知の上でそれを続けるなど、命知らずの極みだ。

とはいえ、それでも現実は変わらない。
どれだけ頭で否定したところで、事実として兼一は斧を自分の体に触れさせていないのだ。
掠るだけでも大怪我必至の連撃を、兼一は最小限の動作で回避する。
ただし、その口からはこんな声が漏れているが……。

「って、余裕見せてる場合じゃなかった!? 刃物怖い! 刃物怖い!! 
もう! 知らないかもしれないけど斬られるのってすっごく痛いんだぞぉ!!!」
「良いからさっさと斬られやがれ!!」
「ええい、それは御免被る!!!」

何とも緊張感に欠けるやり取りである。
動作としてはこれ以上ないほど洗練されているのだが、如何せん兼一の表情と言動が問題だ。
明らかに動揺し、その口からは弱音が濁流の様に溢れだしている。
おかげで、ギンガですら一瞬これが「まぐれ」なのではないかと思ってしまう。

(でも、まぐれであんな事できる筈がない。なら、完全に見切ってるって言うの?
 だとしたら、いったいどんな動体視力と反射神経?
 いえ、それ以上に、その目についてこられるなんて、どんな鍛え方をしたら……!?)

疑問が後から後からギンガの頭の中を埋め尽くす。
その内、どれ一つとってもギンガには答えが出せないが、目の前で起こっている現実が全て。

本来、達人の域に達した武人がこの程度の技量の持ち主が振るう武器に動揺するなどおかしな話だろう。
だが、良くも悪くも人はそう簡単には変わらない。それは兼一にも言える真理。
要は、どれほど強くなっても抜本的に「刃物への恐怖」が払拭される事はなかったのだ。怖い物は怖いのである。

数年前なら、まだここまでそれを表に出す事はなかっただろう。
慣れもあって取り繕うのは上手くなり、表面的にはそう見えなくなりはした。
が、数年に及ぶブランクがこの状態を招いている。
武術同様、覚悟などもまた湯に同じ、熱し続けねばすぐに水に変える。それと同じ事だ。
しかし、幸か不幸かそんな事情は露知らず、いつまでも兼一を仕留められない男に痺れを切らしたのか、若頭と呼ばれた男の怒声が飛ぶ。

「いつまで遊んでんだ、その野郎をさっさと殺せ!!」
「は、はい!!」

状況が分かっていないのだろうか。
さっきから男は全力で兼一を攻撃している。これ以上など望むべくもない。
ならその時点で、信じられるかどうかはともかく、兼一の実力を認めなければならないのだ。
一人ではとらえきれない相手、最低でもこの認識は欠かせない。
にもかかわらず、それを解さないあの男は苛立ちを募らせる。

当然、そこから先も男の斧が兼一を捉える事はない。
だがそこで、ついにそれまで守勢に回っていた兼一が動く。

「せい!!」
「っ!?」

斧を空振りした瞬間の隙をついて、正拳を打ちこむ兼一。
しかし会心の一撃である筈のその拳は、男の意識を刈りとる事が出来なかった。
それどころか、男の体に触れてすらいない。

男の斧が防いだのか? 否、空振りした斧が間に合う筈がない。
ならば防いだのは別の物。兼一の拳が打ったのは、彼のデバイスが咄嗟にはったシールドだった。

(くぅっ、硬い! これが、魔法なのか!?)
「は、はは! いくらかわせても、さすがにシールドまでは壊せねぇってか?
 こいつはいいや、ならこっちはやりたい放題だ!!」
「そうだ、嬲り殺しにしろぉ!!!」

兼一の拳では自分にダメージを与えられない。
その事実に気をよくしたのか、男は嬉々としたサディスティックな表情で兼一に襲いかかった。
周りの男達も男をはやし立て、「殺せ」だの「死ね」だのと連呼している。

「父様ぁ――――――――――!!」
(こんなの、もう見ていられない!! あの力を使って……え?)

見かねたギンガは、今度こそ自身の中にある封を解こう立ち上がりかけた。
だが、そこで攻撃を回避し続ける兼一と目が合う。
その眼が無言のうちに語りかけてくる、『手出し無用』と。

(兼一さん? でも、それじゃいつか……)

攻撃が兼一を捉え、その命を絶つ。
ギンガはその結末を疑っていないが、兼一の視線にはその確信を覆す何かがあった。
ギンガは無意識のうちに浮きかけた腰を下ろし、ただただ父の窮地に涙を浮かべる翔を抱きしめる。
そして、知らず知らずのうちに口ではこう言っていた。

「大丈夫、翔のお父さんは大丈夫だよ」
「姉さま?」
「あの人は、翔を泣かせたりなんか絶対しない人だから……」

何を根拠にそんな事を言っているのか、それはギンガにもわからない。
しかし、それでも根拠のない確信がギンガの胸を埋め尽くす。
兼一は絶対に大丈夫という、根拠のない、だが確固とした確信が。
いや、ギンガとて兼一とタイプは違えど、戦う術を身につけ戦いの中に身を置く人種。
その勘が、無意識のうちに兼一から漏れる力を感じ取っていたのかもしれない

そこで、それまで自身の拳の握り具合を確認していた兼一が再度動く。
それも、今度は単発ではなく、息をつかせぬ連撃で。

「ア~パ~!!」
「バカが! 魔法も使えねぇ拳じゃ何万発打ったってなぁ!!」
「ア~パパパパパパパパパパパパ!!!!!」

男の声など聞こえぬとばかりに、兼一は殴って殴って殴りまくる。
ムエタイのトイ(パンチ)の連打、「マ・トロン」。
兼一のそれともなれば、その一打一打を視認する事は困難を極める。

しかし、男は兼一の攻撃は効かないと疑わず、防御魔法を展開したまま斧を振う。
兼一は振るわれる斧をかいくぐり、尚も突きを放ち続ける。
ただ愚直に、ただまっすぐに。一発では無理でも、いずれは盾を破ると疑わず。
一念岩をも通すと言わんばかりに。男はそれを鼻で笑うが、兼一の拳はその速度を上げる。

そう、速度が「上がっている」のだ。
徐々に、だが確実に。その速度が、そして威力も。
そうして、ついにその時は訪れた。

「イ~ヤバダバ…ドゥ~~~~!!!」
「な、バカなぁ!?」

その言葉と共に、男のシールドに無数のヒビが入っていく。
そうなってしまえば、結末は見えていた。
兼一の拳はさらに速度を挙げ、必然的にヒビも広がる。
やがて、限界に達したシールドはガラスが割れるような音を立てて砕け散った。

「ふっふっ…ふぅ~」
「こ、この化け物!?」

兼一はシールドが破れた時点でいったん手を止め、大きく息をつく。
男は驚愕のあまりに兼一を化け物扱いしているが、兼一は聞く耳持たない。
ただ自身の拳を見つめ、何事かをぼそぼそと呟いている。
とそこで、一度はショックでたじろいでいた男が、引きつった声でこんな事を言った。

「は…はっ! まさか俺のシールドを破るとは恐れ入った! だがな、一回破るのにアレだけやったのはいいが…ほれ、シールドなんぞまたはればいい! お前がやったのは無駄骨だったわけだ!!」

男は再度自身の前にシールドをはり、兼一を嘲笑う。
確かにそうだろう。一度破りはしたが、それにかける時間と労力が多すぎる。
もう一度同じ事を繰り返している間に、男の斧が兼一を捉えればそれで終わり。
まあそれも、「もう一度同じ事を繰り返す」とすればの話だが……。

兼一は無言のまま、ゆっくりと男のシールドの前に立つと足を開いて腰を落とす。
そして、兼一が軽くその場で飛び上がると、その右足が男の視界から消えうせた。

「イェィ!!」
「は?」

気合一閃。気付いた時には、兼一の足は天高く掲げられ、振り抜かれた後だった。
兼一はそのまま重力に引かれ、静かに着地する。
では、その軌道上にあったであろうシールドはどうなったかというと……。

「んな、バカな……」
(ウソ……でしょ? だって、たったアレだけで………シールドを、真っ二つに!?)

そう、男が絶対の自信をもって展開したシールドは、まるで鋭利な刃物に断ち切られたかのように両断されていたのだ。とても、生身の人間の蹴りでそれがなされたとは信じられない。
男もギンガも、そのあまりに非常識な結果に、狐に化かされたかのような顔をする。

技の名を「馬家 破鎧脚(ばけ はがいきゃく)」。
兜をも真っ二つにする程の鋭い飛び蹴り。この技の前では、兜もシールドも大差はない。
どちらも硬く、持ち主の身を守る防具という点では同じなのだから。
そして兼一は、蹴った感触を確認するように足の具合を確かめてから口を開く。

「うん、これ位の硬さか。大体加減もわかったし、これなら大丈夫そうかな?」
「か、加減だと? てめぇ、いったい何を!?」
「実を言うとね、僕は………というか、僕たちは普段から加減して人を殴る癖をつけてるんだ。
 相手の実力に合わせてね。僕達が一般人を本気で殴ったら…………死んじゃうから」
「……は? 死ぬ、だと?」
「それはほら、活人拳が人を殺しちゃ笑い話にもならないしね。
はじめは君に合わせて殴ってたんだけど、思いの他さっきの魔法が硬くてさ」

顔をひきつらせる男に対し、兼一はまるで世間話でもするかのように話す。
実際、兼一が本気で殴ったら人は死ぬ。それくらいの威力が彼の拳にはあるのだ。

というか、一般人相手なら高校時代でも余裕だっただろう。
まあ、だからこそ今の兼一が本気で殴るとシャレにならないのだが……。

「いやぁ、正直戸惑ったよ。あんまり強く殴ったら、下手すると勢い余って殺しちゃうでしょ?
 だから、少しずつ力を込めて打って、あの魔法の硬さを確認してたんだ。
 でも、これで大体わかったから安心していいよ。シールドを壊して、だけど君が死なないように殴るから」

いっそ、朗らかなまでの笑顔でそんな事を言う兼一。
そう、先ほどの連打も、今の破鎧脚も、全てはその確認作業に過ぎない。
なにぶん、シールドを殴った事などないので、色々と勝手がわからなかったのだ。
しかし、それもこれで大体の硬さは把握した。
確かにただの突きでは壊すのに難儀するが、強めに殴ればなんとでもなる。それが兼一の結論。

「さあ、歯を食いしばって……悪いけど、死なない程度の加減以外をする気はないよ」
「ふ、ふざけんじゃねぇ――――――――――!!」
「気持ちはわからないでもないけど、幾らなんでも雑過ぎる!」

男の渾身の一撃を半身になって避けた兼一は、カウンター気味の一撃を男の鳩尾に放つ。
はられていたシールドは砕かれ、そのまま兼一の拳が男の意識を刈りとる……筈だった。

「っ!?」
「ハァハァ…し、シールドを破ったくらいでいい気になるなよ!!
 俺らにはな、まだこのバリアジャケットがある!! そして、こいつで終わりだ!!!」
「? これは……」

男が叫ぶと同時に、兼一の体に紫色の帯の様なものが絡みつく。
身体を動かそうにも思うように動けず、その帯が動きを阻害しているのは明らかだった。
しかもそれは見た目に反して頑丈で、薄っぺらい帯でありながら妙に頑丈。
おかげで、兼一は拳を相手の鳩尾に突きだした姿勢のまま、一切の動きを封じられている。

「教えてやるよ。そいつはバインドって言ってな、てめぇみたいになうぜぇ奴を捕まえとくには、もってこいの魔法だ!!」
(こんなものまであるのか、本当にすごいな魔法って)
「いくらてめぇがすばしっこくても、こうなったら一巻の終わりだろう! 今度こそ、死にやがれ!!」

危機に陥ってる事もそっちのけで感心する兼一。
だが、足が封じられては逃げられない。腕を封じられては捌く事も、攻撃する事もできない。
男はそんな兼一の脳天に向け、ゴツイ斧を振り下ろしてくる。

その様を見て、翔の顔が悲痛に歪む。
しかし、ギンガは違った。彼女の眼には、どこか確信に満ちた光がある。
兼一なら大丈夫、彼はこの程度で死にはしないと、彼女の何かが訴えていた。
その感情に戸惑いつつも、ギンガの眼の奥の光は変わらない。
兼一はそんなギンガの眼の光を眼の端で捉え、密かに苦笑する。

(そこまで信じてもらっちゃったら…………カッコ悪いところは見せられないよね!)

平均より小柄な兼一は、自分より大きな者と戦う事が多かった。
当然、その対策、とりわけ力で勝る大男に捕まった時の対処法は師父より徹底的に叩きこまれている。
状況はそれとさして変わらない。拳は敵のバリアジャケット越しであっても敵に触れている。
腕と足は動かない。だが肩も腰も、肘も膝もまだ動く。なら、兼一にとってはそれで十分だった。

兼一はそのまま深く息を吸い、床を強く踏む。
それと共に兼一の腰が、肩が、全身がその場で勢いよく捻りこまれる。そして……

「…………フン!!」
「ごふっ!?」

その一声と共に、男の体はバリアジャケットもろとも吹き飛ばされた。
たった一撃、それも拳を押し当てた状態から。
拳を振うという、速度と威力を生みだす為の動作もなしに、それだけで兼一はバリアジャケットの守りを打ち破ったのだ。

中国拳法の技の一つ、寸勁(すんけい)。
至近距離からのわずかな動作で高い威力を出す発勁の技法であり、呼吸法や重心移動、打突力、意識のコントロールなどを用い最小の動作で最大の威力を出す技だ。
兼一の足元は、その震脚の強さを証明するようにクレーター上に大きく凹み、心なしか廃ビル自体が揺れている。

男の体はそのまま放物線を描く途中で天井に激突、重々しい衝突音と共に床に落下した。
その意識は、天井に激突するより前に絶たれている。

無論、死んではいない。
先の突きを阻まれた感触から、兼一はバリアジャケットの強度を推し量っていた。
全く情報がなければ無理だが、先ほどシールドを破った時の経験を参考にしている。
どちらも魔力によって作られた守り。ならば、力加減を間違える様なヘマはあり得ない。

また、男の意識が絶たれたからか、それとも寸剄の余波か。
気付けば兼一の身体を拘束していたバインドは砕け散り、その身の自由を取り戻す。
まあ、折角自由になったので、念の為に男の脈拍や瞳孔を調べ、状態の確認だけはしているようだが……。

「うん、生きてる生きてる。
でも、バリアジャケット越しの加減はこんなものか……それじゃ、次は君たちの番だね」

そうして、一人目を片づけた兼一は残る四人に向き直る。
兼一の表情は穏やかだが、それを額面通りに受け取る者はいなかった。
というか、表情はともかく目の輝きが恐ろし過ぎる。

当然男達の体は強張るが、それでも退く事はない。
それは矜持とか意地とかではなく、単に男達が普通の人間を見下していただけ。
魔法を使える自分達は選ばれた人間で、その他はゴミと見下してきたから。
そうであるが故に、男達は退くに退けなくなっていた。

「ぜ、全員でかかれ! 所詮は生身だ! 一発でもあたりゃこっちの勝ちだろうが!!」
「やるしかねぇ……」
「……ち、チクショウ!!」
「うおおお!!!」

男達は各々自分の得物を持ち、半ば自棄になって兼一に踊りかかる。
しかし、リーダーは動かない。あくまでも自分は安全圏に身を置き、決して危険に身を晒さない気なのだろう。
そんな男の指示に従わなければならない彼らに、兼一はむしろ同情していた。

だが、それでも兼一がやる事は変わらない。
男の一人は長杖の周囲に6発の魔力弾を形成し、それを兼一目掛けて飛ばす。

(迂闊に受けるのは危険……かな? 打撃なら大抵の物に耐えられる自信があるけど、魔法が相手だとどうなのかわからない。頑丈さなんて関係なしに触れただけで昏倒する、何て効果があったら目も当てられないしね)

兼一はそう判断し、拳で迎撃する事なく回避する。
傍から見れば、それは兼一の身体を魔力弾がすりぬけたようにさえ映っただろう。
それほどまでに一つ一つの動作は小さく、だが目にも映らぬ速度で兼一はそれを為したのだ。

しかし、背筋を駆け巡る悪寒に反応し、兼一はその身を瞬時に屈める。
危ういところで兼一の後頭部の上を何かが通り過ぎ、顔を起した兼一はその何かを確認した。

「って、追尾機能なんてあるの!?」

まさかそんな事までできるとは思っていなかったのだろう。
兼一の顔は驚きに歪み、同時に非常に困ったとばかりに眉をしかめる。
なにしろ、これではいくら回避しても意味がない。
打ち落とすまでいつまでも襲われるのはさすがに鬱陶しいし、やり辛い。
とはいえ、下手に触るわけにもいかないわけで……そこで兼一の視線が足元に注がれる。

(これは……使えるかな?)

兼一の足元にある物、それは先の寸剄でクレーター上にひび割れたコンクリートの床。
その破片の一つを、飛来する魔力弾に向かって蹴り飛ばした。
正面衝突した破片と魔力弾は相殺し合い、空中に小さな煙の塊を生む。

「うん、これならいける!」
「やらせるかよ!!」

対処法を見出して気をよくする兼一だが、その背後から男の一人が槍を突きだす。
おそらく、魔力弾は初めから囮で、避けている隙を突く策だったのだろう。

しかし、兼一からすれば不意打ちをするには気配の消し方が雑だった。
背後からの一刺しを、兼一は脇腹を引っ込めて回避。
そのまま腹の横にある槍を掴むと、槍ごと男の体を軽々と持ち上げる。

「な、なんだこりゃあ!? その細腕のどこにそんなパワーがぁ!?」
「量じゃなくて質だよ。秘密の鍛え方でね、僕の体は細いんじゃない!
 ただの1mgも無駄のない様に絞り込んであるんだ!!!」

驚愕する男に向けてそう言いながら、兼一は残った魔力弾が飛来する様子を捉えていた。
そうして兼一は、槍ごと持ち上げた男を振い、魔力弾への盾代わりにする。
その結果、残った5発の魔力弾は、全て男のバリアジャケットによって阻まれた。
同時に、遠心力に負けて男の手が槍から離れるが、兼一はその襟首を掴む。

「バリアジャケットがあるんだぞ、どうやって!?」
「さっき殴ってわかったけど、そのバリアジャケットって言うのは水に似てるね。
 強く打つと硬くなるけど、軽く触る分にはほとんど抵抗がない。衝撃とかの危険に対応するようにできてるのかな? まあ、そうじゃないと君達もバリアジャケット越しに物に触れないしね。そして、それが幾重もの層になって君達を守ってる。だけど、それなら今みたいに優しく掴んであげれば問題ないのさ。さあ、行くよ!!」
「行くって、なにを……」
「ぬりゃ、人手裏剣!!」
「って、ぎゃああぁあぁあぁぁぁぁぁ!?」

襟首を掴まれた男は、そのままさながら手裏剣の様にして兼一に投げられる。
超技百八つの一つ、「人手裏剣」。その名の通り、人間を手裏剣のように投げつける力技だ。

兼一の飛び道具にされた男は、そのまま二人の仲間の下へ空中を側転しているかのように向かっていく。
もちろん、本人の意思とは無関係に。
仲間達もあまりにも無体な仲間の扱いに慄き、思わず一歩後ずさる。
それが功を奏し、男達はなんとか仲間に轢かれる事は免れた。
ただし、武器にされた男はそのまま壁に頭からめり込み、ピクリとも動かない。
その光景に仲間達は青ざめるが、その隙を兼一が見逃す筈もなし。

「隙あり。ダメだよ、敵から目を離しちゃ」
「げぇ!?」

いつの間にか長杖を持った男に接敵していた兼一は、両手でその袖と襟を掴む。
そして、自分の腰を相手の腰の下に入れて浮かせた後、袖を引っ張り肩越しから投げに入る。
柔道にもある技の一つ、「背負い投げ」だ。

「バカが! バリアジャケットがある以上、床にぶつけられたって……」
「それは単に、勢いの問題だろ? なら、バリアジャケットが意味を為さないくらいの勢いをつければ良い!」
「は? う、うわぁぁぁ!!」

袖を引く力が突如強まり、凄まじい速度で男の体が床目掛けて落とされる。
その速度は通常の投げとは比較にならず、男の眼には映る世界が全てモンスターマシンにでも乗っているかのように流れて行く。当然、そんな状態で魔法を行使する余裕などある筈がない。
そうして、まるで台風のような凄まじい風斬り音に続き、床を揺るがす衝撃と大音量が部屋を満たす。

無防備な男の背が叩きつけられた床は盛大に陥没し、その衝撃の大きさを物語っている。
碌に受け身の訓練もした事のない男はその衝撃をもろに受け、バリアジャケットですらその衝撃の前には意味を為さなかった。男は痛みに呻く事すらできず、白目をむいて気絶する。

「まったく、受け身ぐらい取らないと危ないよ?」

仮に受け身の訓練をしていても、あんな速度で落とされては受け身など取れる筈もないのだが……。
溜息をつきながら服についた埃を払う兼一だが、誰もその事には突っ込まない。
なにしろ、いま彼にツッコミを入れられる人間がいないのだから、当然と言えば当然だ。

まあ、それはともかく。
兼一は最後に残った一人の方を向くが、その一人はいっそ憐れみを誘うほどに震えていた。
何しろ、完全に生身の人間に魔導師三人が一撃も入れられずに撃沈したのである。
魔法を使えるという思い上がりを消し去るには、充分過ぎるほどの現実だ。
ここにきて男は、ようやく自分が怒らせてはならないものを怒らせていた事に気付く。

「た、頼む…見逃してくれ……」
「何言ってやがる!! お前は死んでもそいつを殺せばいいんだよ!!」
「い、イヤだ! 俺は死にたくない!! 頼む、もうあんた達には関わらないと誓う!
 だから、だから見逃してくれ!! これからは大人しく、真面目に生きる! だから……!!!」
「…………」

震えながら命乞いをする男に、リーダーは無理難題を押し付けるが、最早意味を為さない。
今の彼には、リーダーの怒りを買う恐怖より兼一と対峙する方が遥かに恐ろしいのだ。
兼一としても、さすがにこうまで命乞いをされては叩きのめす気にはなれない。

元々、骨の髄どころか魂の芯に至るまで甘い男だ。
いくら彼らに抑え切れない憤りを覚えていたとしても、弱い者いじめをする気など毛頭ない。
故に、兼一はそんな男に対し、念を押す様に問いかける。

「もう、静かに暮らしている人達を傷つけないと誓うかい?」
「ち、誓う! 聖王に誓う!!」
「その魔法の力を暴力には使わない?」
「も、もちろんだ!! 心を改めて、これからは社会の為に使う!!」
「……………………約束だよ」

溜め息交じりに兼一はそう言って男に背を向ける。
普通に考えればこんな男の言などどこまで信用できるかわかったものではない。
だが、それでもそれを本心から信じてしまうのが白浜兼一なのだ。
男に向けられた兼一の背中は無防備そのもので、男の言葉を全く疑っていないのはだれの目にも明らか。
もし第三者が見れば「愚か者」か「お人好し大王」とでも評しただろう。
そして、この手の男の言はまあ大抵信用できるものではない。

(バカが! こんな手にのりやがって! ゴミのくせに調子に乗るからだ!!)

さっきまで命乞いをしていた男は、自身のデバイスである片手杖の先端に魔力刃を出力した。
そのまま兼一の背中に向かって、その刃の先端を突きたてようとする。
ギンガや翔は寸前に男の挙動に気付き、声を上げようとするが間に合わない。
刃があと5センチで兼一の腹を貫くというところで……突如兼一が振り向く。
兼一は流れるような動作で魔力刃の軌道を逸らし、そこで男と目があった。

「んな!? てめぇ、気付いてやがったのか!?」
「え? あ、いや…………実はなんとなく」
「なんとなくだぁ!? そんなもんで……」

兼一の言に嘘はない。彼は本当に男の言葉を信じ、男が襲いかかってくるとは微塵も思っていなかった。
そう、心身ともに隙だらけだったのは紛れもない事実である。
にもかかわらず今の不意打ちに反応できたのは、彼が修めた「制空圏」の賜物。
自身の間合いに気を張る事は、兼一にとって無意識下で行われる習性に等しい。
だからこそ、間合いに侵入してきた魔力刃に身体が勝手に反応したのだ。

「よく分からないけど…………残念だ」
「ま、待ってくれ! 今のは魔が差しただけで……」

兼一は男の首手を回し、首相撲の体勢に入る。
男はなんとか弁明しようとするが、さすがにこうなってはその言葉も虚しい。
同時に、シールドないしバリアを展開しようとするが、それも間に合わない。
兼一はそのまま軽く床を蹴り、男の顔面に向かって「カウ・ロイ」を放つ。

「ぶはっ!?」

バリアジャケットを破るには十分な威力を持って放たれた膝が、無防備な男の顔面を潰す。
こうして若頭と呼ばれていた男の手下たちは、一人残らず撃沈した。
ならば、残すはあと一人。この騒動の主犯であり、ただ一人安全地帯から好き勝手言っていたあの男だ。

「さあ、あとは君だけだ」
「な、何なんだよ…何なんだよ、お前はぁ!? こ、この化け物!!」
「まあ、僕があまり常識の通用しない人間というのは自覚してるし、そう言われても仕方ないとは思うんだけど…………やっぱり、傷つくなぁ」

男の心ない一言に、兼一は割と傷ついているようでその面持ちは暗い。
確かにこの領域を目指して修練を積んできたわけだが、いざその領域に踏み込んでこう言われると、何か色々と物悲しくなってくる。
とはいえ、消沈していても仕方がない。
兼一はゆっくりと顔を挙げ、男の問いに答える。

「何者なのかと聞かれれば、君達が誘拐した男の子の父親で、君が暴行しようとした女の子の家の居候だよ」
「そ、そんな事を聞いてんじゃねぇ! 碌に武器も持たねぇ、魔法も使えないくせに、なんでこんな事ができるんだよ! こんな事ができるお前は、いったい何なんだよ!!」
「なら、こう答えようか。梁山泊、『一人多国籍軍』白浜兼一」

男の問いに対し、兼一は自身にとってもひどく懐かしいその名を名乗る。
呼ばれなくなって久しい名だが、久方ぶりに口にすると不思議な気分になった。
かつては一生かかっても辿り着けないような気がしたその領域に、今の兼一はいる。
その事が、何とも言えない感慨を兼一にもたらす。

「まぁ、武術界を離れて久しいし、今の僕に梁山泊を名乗る資格があるかは議論の余地があるけど……一応は一番弟子だったわけだし、あまり気にしないでもらえると助かるかな」
「梁…山泊? てめぇ、いったい何を言ってやがる……」

まあ、男からすれば「梁山泊」だの「一人多国籍軍」だのと言われても、意味がさっぱりわからないだろう。
そもそも、地球においてもその名を知る者は非常に少ない。
しかし、その筋ならこの名を聞いただけで逃げだす者すらいるのだが……。

とはいえ、相手の反応も当然というのが兼一の認識。
故に、兼一はその事には特に言及しない。
ただし、先ほど男が口にした言葉に引っかかるものがあったので、それを再確認していた。

「そう言えば、ちょっと聞き捨てならない事を言っていたね。確か…武器を持っていないとか?」
「そ、それがなんだってんだ!」

実際、兼一の手には武器らしい武器はない。
一度男の手下の一人を武器代わりにしたが、それだけだ。
それ以外では、兼一の手に武器の影も形もなかった。
だがそれは、単なる見解の相違でしかない。

「持ってるよ、何よりも強い武器をね」
「な、なんだと?」
「この拳と信念が僕の武器。そしてこの拳は、師から授かった僕の道標!
 これに勝る武器なんて、この世のどこにもありはしない!!」

拳を強く握りしめ、兼一はそう宣言する。誇り高く、決然と。
それは男に向けた物というよりも、遍く世界に向けた物の様だった。

「君たちは武器と魔法に頼り過ぎだ。武器は拳や脚同様、身体の一部でなければならない。魔法も同じだよ。道具に頼っていては道具の主にはなれない。まず、自分の主にならなければ……まあ、これは師匠の受け売りなんだけど」

そう締めて、兼一は苦笑を洩らす。
技では影くらい踏めるかもしれないが、心は未だ敬愛する師達の足元にも届かないと思う。
だからこそ、こうして師の言葉を引用すると、自分の未熟さを実感する思いだった。

「すかした事言いやがって……俺は魔導師なんだよ!
 選ばれた人間なんだ! 魔法も使えないお前ら凡人とは違う!!」

選民思想に凝り固まった男は、まるで駄々を捏ねるかのように首を振って兼一に斬りかかる。
手に持つのは西洋剣型のデバイス。その太刀筋は心を乱していても中々に鋭い。
それは魔法による身体能力の強化から来る、速度や威力とは別次元の話。
早いか遅いか、強いか弱いかではなく、単純に男の太刀筋が鋭いか否かだ。

「良い太刀筋だ。君の言う通り、僕よりよほど才能がある!」
「ぜああぁあっぁあぁあぁあぁああぁぁぁぁ!!!」
「でも、努力と年季が違う!!」

僅かでも見切りが狂えば、それが死に直結するほどにギリギリの回避。
傍から見れば命知らずとしか思えないそれを、兼一は顔色一つ変えずに実行する。
久しぶりの実戦ではじめは相変わらずの刃物への恐怖が残っていたが、魔法という未知の力と戦う緊張感が実戦の勘を少しずつ取り戻させてくれた。それに伴いようやく肝も座り、今の兼一に刃物への過剰な恐怖心はない。

まあ、その気になれば手刀で鍔迫り合いもできるのだが、さすがにしない。
できないのではなく、しない。難無く回避し、いつでも攻撃出来る程の技量の開きがあるのだから。

引き換え、一見すると後一歩で捉えられるというところで捉える事が出来ない現実に男の焦りが助長されていく。
焦りは心を乱し、心の乱れは技の乱れに直結する。
そんな乱れた剣を止める事など、兼一にとっては造作もなかった。

「ハッ!!」
「お、俺の剣を止めただと!?」

頭を真っ二つにしようと振り抜かれる刃を、兼一は寸分の狂いもなく左右の掌で挟んで止めた。
魔法という力を振う男にとっても、それはあまりにも非常識極まりない現実。
その事を証明するように、傍観者であるギンガや翔も目の前の現実に理解が追い付かず、その目を見開いている。

だが、如何に信じ難くともそれは紛れもない現実であり、兼一が行った神業の名を『真剣白羽取り』という。
日本では非常に有名な技だが、同時に実戦で使用するのは限りなく不可能に近い技。
当然だ、頭上へと振り抜かれる刃は早く、その軌道を見切るだけでも至難の技。
ましてやそれを両の掌で抑えるなど、奇跡的なタイミングと尋常ならざる膂力がなければ不可能。

何しろ、タイミングは早くても遅くてもダメ。
僅かでも手元が狂えば自分自身が斬られ、万が一タイミングが合っても、刃を抑える力が弱ければ致命傷だ。
危険極まりないこんな技が、技術的にも精神的にも実戦で使える筈がない。
そんなマネをするくらいなら、素直に避けてしまった方が遥かにマシだろう。
だが兼一は、それを当たり前の様に実行したのだ。
いや、むしろ「真剣白羽取り」は決着への第一歩に過ぎなかった。

「ひ、ひぃ!? は、離せ! 離しやがれ、この化け物!!!」
「チィィィィィィィ……」

剣を抑える兼一の手を振り解こうと男はもがくが、万力の様な力で固定された剣は微動だにしない。
その間にも、兼一は男の罵声を無視しそのまま片手をずらし一気に力を込める。
すると、テコの原理もあって剣は澄んだ音を立ててへし折られた。
しかし、兼一のターンはまだ終わらない。
剣をへし折ると同時に放たれた前蹴りと廻し蹴りの中間の蹴りが、見事な弧を描いて男の脇腹に突き刺さる。

「チェストォ!!!」

兼一の蹴りは深々と男の腹を抉り、男は苦悶の声すら上げる事なく沈んだ。
その名も『白刃折り三日月蹴り(しらはおりみかづきげり)』。
常軌を逸した動体視力と反射神経、そしてそれに対応できる身体能力があるからこそできる芸当だろう。

そうして兼一はようやくギンガと翔の方を向き直る。
その表情は先ほどまでの武人のそれではなく、彼らが良く知る優しい父親の顔。
一瞬父が別人になったかのような錯覚に囚われる事もあった翔だが、その顔を見てそれが間違いであった事に安堵する。父は父、それは何があろうと変わらないのだから。

ギンガの場合だと、兼一の事が気になるのは確かだが、同時に自分自身の事もなんとかせねばならない。
大急ぎで乱れ破かれた衣服をできる限り整え、兼一のジャケットを羽織って少しでも体裁を整える。
幸い若干サイズが大きいので、破かれた胸元もジャケットを引っ張る事で何とか隠せた。
まあ、ジャケットは豊かな胸に押し上げられ、辛うじて隠しているというのが実情だが。
客観的に見ると、裸Yシャツにも似た様相を呈しており、中々にエロい。
ギンガとしてもそれは恥ずかしいのだが、今の状況ではどうにもならないので努めて考えないようにする。
そんな二人に向け、兼一は穏やかな表情で話しかけた。

「お待たせ。さあ、帰ろうか」
「ぁ……は、はい」
「…………………ぅん」

それは、まるで夕方に公園で遊ぶ子どもに帰宅を促す親の様な何気ない声。
先ほどまでの一歩間違えば命が危うい戦いを終えた後とは思えないその言葉。
二人はそのあまりの空気の差についていけず、ただただ間の抜けた返事を返す。

まあ、兼一の後ろが割と死屍累々なのも無関係ではあるまい。
一応はどんなに酷くても半殺し(レア)が精々なので、死屍累々と言う表現は正しくないのだが……。

とはいえ、達人の中でもまだ常識的な感性を保っている兼一には、二人の気持ちは理解できる。
故に、そんな二人に兼一は「無理もない」と言わんばかりの苦笑を浮かべ、二人に手を差し伸べた。
翔とギンガはその手を取り立ち上がろうとするが、腰が抜けてしまったのだろう。
いくら力を入れても立ち上がる事ができない。
それを見てとった兼一は一端ギンガから手を引き、翔を背中に担ぐ。

「しっかり掴まってるんだよ。いいね、翔」
「………はい」
「良い子だ」

兼一の言葉に控えめな返事を返す翔に、兼一は笑顔を向ける。
たった数日見ていないだけで、翔はそれがひどく懐かしいものに感じた。
これまで、これほど長く兼一の笑顔を見ない日はなかったのだろう。
翔にとっての兼一は、日に何度も自分に笑顔を見せてくれる人だったから。

「それじゃ、次はギンガちゃんだね」
「あ、えと、私は大丈夫ですから……まず、翔を病院に」

ギンガとしてはやはり弟分の容体が気になるようで、兼一の申し出にちょっと慌てた様子で首を振る。
見る限り大丈夫そうだが、医者ではない自分には分からない何かがあるとも限らない。
年上の男に抱き抱えられる事への照れや恥じらいももちろんあるのだが、それ以上にその事が心配だった。
ただし、兼一に言わせると翔もそうだが十分ギンガの事も心配なわけで……。

「医者が必要なのはギンガちゃんも同じだよ。遠慮しないで、これでも力はあるから」
「そ、それはわかってますけど……」
「それじゃ、失礼するよ」
「あの、まだ『お願いします』なんて言ってないんですけど!?」
「でもね、女の子をこんなところに放置できるわけないでしょ。
 こう言う時くらい、甘えても良いんだよ」
「ぅ…………………………………わかり、ました」

こうも困ったような表情で言われては、ギンガもさすがに拒絶はできなかった。
子ども扱いされている気もするが、事実として年下なのであまり文句も言えない。
それに、確かにこんなところに長居はしたくないだろう。
厚意を受け取る理由はあっても、拒む理由はない。
となれば、最終的にギンガが折れたのは必然だった。

「それじゃ、改めて……」
「え? ま、待ってください! そんな運び方するなんて聞いてませんよ!?」

ギンガの許可を得た兼一は、彼女の背中と膝の裏に手を回す。
その感触に驚き、慌てた様子で抗議するギンガだが時すでに遅し。

まあ、まだ事態の急変から来る動揺が抜けていなかったのだろう。
翔を背負っている以上、ギンガの運び方などこれくらいしかないのだが、ギンガは気付いていなかったらしい。
そうして、兼一は軽い掛け声と共に立ち上がった。

「よっと!」
「ひゃん!?」

可愛らしい声と共に、ギンガは兼一の腕の中に抱きかかえられる。俗に言う「お姫様抱っこ」と呼ばれる体勢で。
幼い頃にゲンヤにされて以来のその体勢に、ギンガは顔を朱に染める。
背中と膝の裏に回された腕の感触は思っていたよりも力強く、しかし決して痛くない。
ギンガの事を慮って、色々と力加減を考えてくれているのだろう。

考えてみれば、背中の傷を無理に応急処置しようとしなかったのも似たような理由の筈だ。
ギンガとしても医者でもない男に肌をあまり見せたくない。
それも、背中の傷を見せるには一度上着を託し上げるなり脱がなければならないのだから。
それはまあ、中々に勇気のいる行為だ。
その辺の心情も考慮し、兼一が敢えて応急処置を申し出なかった事にギンガは気付く。

(まったく、変なところで男らしいって言うか、気が効くんだから……)

その心配りは純粋に嬉しく、ついその優しさに甘えたくなってしまう。
気付けば、いつの間にか兼一の胸に頭と体を預け、リラックスしている自分がいる。
その感触は思っていたよりもたくましく、それでいて嫌ではない。
むしろ、肩の力が抜けて行く安心感があった。

ギンガは上目遣いでこっそりと兼一の顔を見上げる。
その顔は精悍で、前を真っ直ぐ見つめる眼差しに以前感じた「頼りなさ」は微塵もない。
「頼りない」と感じたのは自分の眼力が未熟であったからだと、ギンガは今更ながら実感していた。

(いいな、こういうのも……………って、そうじゃなくて!!)

心のうちで自分でも意図のよく分からない呟きが漏れ、必死になって首を振るギンガ。
そんな彼女を不思議そうな眼で見る兼一だが、背負った翔が兼一に話しかけてきた事でギンガから視線を逸らす。

「…………ねぇ、父様。今のって……」
「詳しい事は、ゲンヤさんに無事を知らせてからにしようか。
 ギンガちゃんも聞きたい事があるだろうし、僕も話さなきゃいけない事が沢山ある。
 まずは落ち着いてから、ね?」
「うん……」
(翔、ナイス!)

密かに、いいタイミングで兼一の視線を逸らしてくれた翔を褒めるギンガ。
なんでそんなに慌てているのかは、本人もよく分かっていない。

さすがに二人を連れたまま地上5階から飛び降りる気はないようで、良すぎるほどに風通しの良くなった窓ではなく、ギンガ達が使った階段へと続く入口に向かう。
ギンガも翔も消耗しているだろうし、できる限り穏やかな方法で運んでやりたかったのだ。
彼の師達と違って、こう言うところは実に常識的である。
そもそも、非常事態でない限りあんな非常識な入り方は兼一もしない。

しかし、ハッピーエンドとするにはまだ早かった。
二人を抱えた兼一が入り口をくぐろうとしたところで、ビル全体が大きく鳴動する。

「っ!? 何が!?」
「兼一さん、後ろ!!」
「父様、あの人なにか持ってる!!」

ギンガと翔が兼一の背後の異変に気付き、その方向を指し示す。
兼一が示された方向を向くと、先ほど「人手裏剣」で壁に叩きつけられた男がおぼつかない足取りで立っていた。

「な、舐めやがって……死ね、どいつもこいつも死んじまえ!!!」

男の手にあるのは、何かのスイッチと思しき小型の機械。
男の表情と言動は明らかに錯乱しており、明らかに正気ではない。
そして、兼一は足元を揺るがす振動から、概ね何が起こっているかを看破する。

「この振動、まさか…………爆弾!?」
「ヒヒヒ! 魔導士である俺達が、こんなゴミに負けるわけねぇ!!
 みんな死んじまえば、こいつも死んじまえば、負けにはならねぇ!!!」
「何て事を……」

頭の打ちどころでも悪かったのか、それとも信じられない現実からか。
どちらにせよ、正気を失い錯乱した男の暴挙により、一転して絶体絶命の危地に変わった。
男もすでに限界だったのだろう。それだけ言うと、糸の切れた人形のように倒れ伏す。

(どうする、脱出は難しくない。壊した壁から直接飛び降りればなんとでもなる。
 だけど、そうなると……)
「父様! 倒れてる人たちを助けないと!!」
「下ろしてください! 急げばみんな助かるかもしれません!!」
「二人とも……」

ついさっきまで自分達を暴行していた男達をも助けようと声を張り上げる翔とギンガ。
愚かしいまでの優しさを発揮する二人だが、それは兼一と同じ思考。
兼一とて、彼らを見捨てる気など毛頭なかったのだから。

しかし、この状況下で全員助けるなど奇跡に等しい。
この高さから常人が落ちればただでは済まない以上、外に放りだすわけにもいかない。
かと言って、全員を抱えて飛び降りるのも不可能だ。
兼一が着地の衝撃に耐えられないとかではなく、単純に人数が多すぎて全員を抱える事ができない。

ギンガが動けても、それは大差ないだろう。
どの道、ギンガはまだろくに動けない。そんな状態では、むしろ自殺行為だ。

「父様!」
「兼一さん! 私なら大丈夫ですから、はやく!」

ギンガはそう言うが、兼一の腕から抜けだそうとするその力はあまりに弱々しい。
気持ちに身体がついてこないのだろう。
これでは、無駄死にするのは明らかだ。そんな事を、兼一が認める筈もなし。
兼一はギンガを抱く力を強め、二人に向かってこう言った。

「ダメだ、二人はこのまま僕に掴まってて」
「そんな!?」
「見捨てるって言うんですか!!」
「大丈夫」
「「え?」」
「誰も死なせやしないさ。だってこの拳は………………活人拳だからね」
((かつじん、けん?))

二人にそう力強く笑いかけ、兼一は深く大きく息を吸って……ゆっくりと吐く。
自身の制空圏を強く意識し、その領域に気を満たす。
続いてそれを薄皮一枚まで絞り込み、強く濃い気を張る。

(イメージは、激流の中に沈む滑らかな岩。
 岩は恐れない、岩は揺るがない。ただ前から来る流れを後ろに向かって流すのみ)

そこでギンガは、兼一の様子が先ほどまでと明らかに異なる事に気付く。
戦っている時の力強い雰囲気とも違う、普段の優しげな空気とも違う。
ピンと張りつめていながら、息苦しさを感じない。
まるで、強く大きな何かに包み込まれた様な感触。
その根源が兼一にある気がしたギンガは、思わず兼一の顔を見上げていた。

(なんて、澄んだ目。深くて、静かで、まるで深い湖の底みたいな……全てを包み込むような、そんな瞳)

自分が置かれている状況も忘れて、ギンガは兼一のその眼に魅入られる。
目を離す事ができず、まるで魂を呑み込まれてしまったかのような錯覚さえ覚えていた。
同時に、ギンガの瞳にはそれまでと別種の静かな熱が籠るが、本人もその事には気付いていない。

その間にも、廃ビルの崩壊は始まっている。
揺れは一度収まり、その代わりに床や壁、天井が大きく軋む。
しかし、それでもなお兼一の心にはさざ波一つ起こらない。
そうして崩落が始まるその瞬間、兼一は小さく呟いた。

「流水…制空圏」

最初に起こったのは床の崩壊。
今まさに兼一達が立っている床が崩れ出す。
だが、兼一は事前にわかっていたかのように、ゆっくりとした足取りでその場から離れた。
結果、床が崩落した時には兼一はその場を離れた後。

背後で起こった床の崩落に翔は顔を青くするが、ギンガはそれすら気にならない。
なんとなく、今の兼一なら散歩でもするような感覚で、この危地を切りぬけてしまう気がしていたのだ。

続いて、無限轟車輪で身動きの取れない男達の頭上に、真横の壁が倒れてくる。
翔はその事に気付き、声ならぬ声が漏れた。

「大丈夫。言ったよね、誰も死なせないって」

そう言って兼一が強く深く床を踏むと、床の表面を亀裂が走る。
その亀裂はまるで意思でも持っているかのように壁へと向かっていく。
やがて亀裂は壁に激突し、その衝撃で壁の倒れる向きが変わり男達は事なきを得た。

そのまま壁が、柱が、床が、天井が、連鎖的に崩壊して兼一達や男達を襲う。
だがその悉くを、兼一は何げない動作で対処していく。

例えば、倒れてくる柱を半歩下がって回避する。
直後、降ってくる瓦礫を偶々落ちていた瓦礫を蹴り上げて弾く。さらに、弾かれた瓦礫が別の瓦礫をビリヤードの如く弾いていく。
あるいは、蹴りの風圧で男達を危険物から逃がす。
続いて、穿たれた床の穴から落ちる壁を斜面代わりにし、次の床にぶつかる直前に下の階に下りる。

数えだしたらキリがないそれらを、兼一は特に忙しなく動くわけでもなく、緩慢な動作で為していた。
まるで、周囲で起こる全ての事象の流れを掌握しているかのように。

これぞ無敵超人の秘技の中にあるとされる、静の極みの技「流水制空圏」。その第一段階。
体の表面薄皮一枚分に気を張り、相動きを流れで読み取り軌道を予測、最小限の動きで攻撃をかわす。
動きの予測によって初動を早め、回避の動作を最小限に抑える事で、最高効率の動きを可能にしているのだ。

気付けば、兼一達は一階まで降りてきていた。
兼一はもちろん、ギンガも翔もその間は無傷。
まるで散歩でもするかのような気安さで、兼一はこの崩落の中を無傷で動いているのだ。
まあ、さすがに男達までは完全に無傷とはいかないが、それでも重傷を負った者はいない。
それだけでも、十分すぎるほどに奇跡的だった。
だが、まだ最大の難関が残っている。

「父様、上!!」

翔の声を聞き、兼一の視線が頭上に注がれる。
それは、この廃ビルの天井。
まだほとんど穴らしい穴も開いていないそれが落ちてくれば、全員まとめてぺしゃんこだ。

「ギンガちゃん。片手を離すから、しっかりつかまってて」
「…………はい」

兼一はギンガの背中を支えていた手を離し、その拳を握りこむ。
ギンガは兼一の首に手を回し、強く強くその身体にしがみついた。
迫りくる天井に向かって跳躍し、兼一はその拳を振り抜く。

「へあっ!!」

兼一のアッパー気味の拳は天井に深々と突き刺さり、全体にキメの細かいヒビが入る。
しかし、そこまで。天井は依然健在で、ヒビだらけながら尚も崩落を続けていた。
このままでは、圧死という結末が現実のものとなる。

では、兼一は失敗したのかというと…………否だ。
一撃目は単なる仕込み。下手に一撃で破壊してしまうと、瓦礫が大きく危険と判断したのだ。
絶妙な力加減の一撃目で全体に満遍なくヒビを入れ、続く第二撃で細かく砕く。
元より、兼一はそのつもりでいた。

そして、最後の一撃は兼一が持つ中でも最大の威力のある一撃。
白浜兼一は、巨大な基礎の塊というべき武術家。その基礎の中でも、最も充実しているのが脚と腰。
その力をダイレクトに使う技は、蹴り技に他ならない。

兼一は大地に根を張る巨木の如き安定感で床を踏む。
そのまま片足を振り上げ、持てる全ての力を以ってヒビだらけの天井を蹴り上げた。

「うおおおおおおおおおお…りゃあっ!!!」

ヒビだらけの天井は砕け散り、細かい瓦礫となって降り注ぐ。
兼一はギンガや翔を慮り、その全てをあの手この手で払い、落とし、二人に触れさせない。

男達の中には生き埋めになる者もいるだろう。
だが、瓦礫のサイズが小さい分、大怪我を負う事もない。
後でゆっくり、時間をかけて掘り起こせば済む話だ。

全ての瓦礫が落ち切った時、兼一は瓦礫の山と化した廃ビルの上に立っていた。
その視界の端には、ようやく到着した108の車両が映っている。
兼一は翔を背負い、ギンガを抱えたまま小さく零した。

「これは……ゲンヤさんにどやされるかな?」

周りの惨状を見れば、小言の一つもあるだろう。
そもそも、勝手に動いてしまったのだから。
しかしそれでも、兼一の心は晴れやかだった。
何はともあれ、大切な家族を二人とも守れたのだから。

こうして、朝から続く一連の騒動は終結した。






あとがき

はぁ、ようやく荒事が終わりました。
にしても、今作初のバトルシーンなわけですが、まさかこんなに長くなるとは……。
書く前は前回と合わせて一話で納めるつもりだったのですが、何を考えていたのかとツッコミたくなりますね。

ちなみに、兼一の異名が「一人多国籍軍」なのは、個人的にあの名称が好きだからです。
だって、色々な意味で達人になった兼一をよく表していると思うんですよ。
正直、原作で一回しか出てきていないのが残念なくらいで……。
言ったのが筑波じゃなかったら、もうちょっと出る頻度は増えたのだろうか?
まぁ、他に良さそうな名称が浮かばなかったのもありますけど。

それにしても、なっつんと宇宙人の使いやすさは半端じゃありませんね。
前作でも二人を便利に使いすぎたと反省したのですが、それでもつい使ってしまうんですよ。

さて、次回はギンガや翔への事情説明です。
まぁ、できるだけシンプルにしたいものですね。



[25730] BATTLE 8「断崖への一歩」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/31 15:44

ゲンヤを筆頭とする108の面々が、早い段階で翔とギンガの囚われていた廃ビルにたどり着けたのは、地道な捜索の結果……ではない。
単純に、突如として崩壊したビルを無視するわけにもいかず、そこに人手を割いたら兼一達がいただけの話。

まあ、結果的にあまり時間をかけることなく三人の下へたどり着き、野次馬などに煩わされる事がなかったのは幸運といえるだろう。
今は、隊員総出で瓦礫の山に生き埋めになった暴漢どもを発掘してる真っ最中だ。
ただし、現場責任者でもあるゲンヤだけは、翔を背負いギンガを抱えた兼一に青筋を浮かべて詰め寄っている。

「ったく、てめぇはよぉ……」
「あ、あははは…す、すみません、ゲンヤさん」
「謝ってすむと思ってるその態度が気に入らねぇが、まぁいい。
何はともあれ、お前のおかげでギンガも坊主も無事だったわけだしな。だが……」
「だが?」
「とりあえず一発殴らせろ!!」

襟首を掴み、大きく振りかぶったゲンヤの拳が兼一の顔面に突き刺さる。
兼一なら、避ける事は容易い。しかし、散々心配をかけた手前、これくらいは甘んじて受け入れたのだ。
とはいえ、ゲンヤ達側の事情を知らないギンガや翔としては、それにやや非難がましい視線を向けざるを得ない。

「父さん!」
「おじさま!」
「いいんだよ、二人とも。本当にごめんなさい、ゲンヤさん。色々心配かけちゃって……」
「全くだ。いきなり四階から飛び降りるわ、一人で大暴れするわ、俺らがどれだけ肝を冷やしたと思ってやがる」

ゲンヤの愚痴を聞き、さすがに翔とギンガも口を噤む。
よくよく考えてみれば当然の話だが、そんな事があっては誰でも気が気ではいられない。
すっかり眼前で繰り広げられた光景に圧倒されて忘れてたが、ギンガや翔にしたところで最初は兼一の身を案じて大変だったのだ。
それを思えば、ゲンヤのこの反応は至極当然の物と納得してしまう。

「しっかし、こんなことならおめぇが実際どの程度強いか知っておくべきだったな。
 武術の達人、って事しか聞いてなかったが……これほどか」
「父さんは、知ってたの?」
「話には聞いてた…が、まさかここまでやれるとは思ってなかった。
 魔導師五人を無傷で制圧して、その上ビルを一棟粉砕かよ」

あの日、兼一から彼がどういう人種なのかゲンヤは聞かされていた。
だが、実際に武を振るう姿を見せたわけでもなかったので、どこか現実感が薄かったのだろう。
兼一の話を信じてはいても、目の前の惨状ほどの事が出来るとは思っていなかったのだ。
まあ、兼一としてはその認識に少々訂正を加えたいところだが……。

「あの、ビルを壊したのは僕じゃないんですけど……」
「たいしてかわんねぇだろ。ビルの崩壊に巻き込まれて、どうしておめぇらは無傷なんだよ」
「瓦礫とか全部避けたので……」
「だから、避けられねぇだろうが、普通はよ」

さも当然の様にそんな事をのたまう兼一に、ゲンヤは呆れかえった様子で天を仰ぐ。
確かに兼一の言う通りなのだろう。実際、全て避けてしまえば傷は負わない。
しかし現実問題として、雨あられと降り注ぐ瓦礫を回避するなど机上の空論だ。
その絵空事を現実に実行してしまったのは実に信じ難いが、証拠となる人物が目の前にいる。
これでは信じないわけにはいかないのだが、やはり信じられないという複雑な心境の表れだ。

「その上、魔導師を生身で無血制圧かよ。魔導師連中からしたら悪夢だな」
「そうですかね?」

兼一からすれば、魔法も武術も等しく「人の力」である。
魔法と言ったところで、操るのは人、その力の源となる魔力も体内のリンカーコアからもたらされる物。
ならば、武術との間にそれほど大きな差はないと思っているのかもしれない。

「まあ、その事はいい。おめぇとしちゃ、あまり騒がれたくないんだろ?」
「ええ。できれば、この件で僕の名前を出さないで頂けると……」

兼一は別に有名になりたいわけでも、英雄になりたいわけでもない。
彼にとっての正義を貫ければそれでよく、「ヒーローになる」という言葉も一つの表現方法でしかない。
それに伴う名声も社会的地位も、兼一には微塵も執着がないのだから。

「わかった、なら適当に誤魔化しておく。幸い野次馬やマスコミ連中が来る前に現場を抑えられたからな。
 犯人連中の口さえ封じておけば、情報の方はなんとでもなる」
「あの、余り手荒な事は……」

何やら物騒な事を口にするゲンヤに、兼一は恐る恐ると言った様子で制止しようとする。
確かに自分の事は秘密にしてほしいが、それでひどい事をされるのも気が引けるのだ。
いくら強いとは言っても、荒事を好まない気質の彼らしい反応だろう。
そんな兼一の反応に、ゲンヤは「心外だ」とばかりに溜息をついて答える。

「何想像してやがるんだ? 仮にも俺らは公務員だぞ、拷問やら脅しなんてするわきゃねぇだろ。
 誠心誠意、話し合いで黙ってもらうだけだ」

だが、兼一としてはその「誠心誠意話し合う」というのがどこか意味深に聞こえた。
なにぶん裏世界にもどっぷり漬かっていた(誤字に非ず)経験があるだけに、その裏に何かあるのではないかと思ってしまうのだ。

「ま、そんなことしなくても、勝手に黙っててくれそうだがな」
「え? なんでですか?」
「真顔で聞くか? 言ったろ、『魔導師にとっては悪夢だ』ってよ。連中からしたら、直接目の当たりにしても信じられねぇ現実のはずだ。俺だって、今以って信じられねぇ気持ちがあるんだぜ。
 それなら、こっちから何も言わなくても必死に口を噤んでくれそうだ」
「はぁ、そんなものですか」
「とりあえず、発掘とか諸々の後始末はこっちでやるから、おめぇはギンガと坊主を連れて休め」

話はこれでおしまい、とばかりにゲンヤは二人を抱えた兼一に後方の車へ向かうよう指示する。
兼一に疲労した様子は見受けられないが、翔とギンガはその限りではない。
兼一としても二人を休ませることには賛成だ。
しかし、生き埋めになった者達を瓦礫の山から引きずり出すとなると、兼一の手を借りた方が効率はいいだろう。
兼一もそう考え、思った事をそのまま口にした。

「じゃあ、僕も彼らを掘り起こすのを手伝いますよ」
「いらん」
「でも……」
「ちったぁアイツらにも仕事させてやれ。おめぇが一人でカタをつけちまったもんだから、不完全燃焼も良いところなんだよ。それにこっちにもメンツってもんがある、なんもかんも頼り切っちまったら立つ瀬がねぇ」

考えてみれば当然の話で、108の面々にも色々とプライドやらなんやらがあるのだろう。
今回、ほとんど役に立てなかった上に、民間人に頼りきりでは沽券にかかわる。
その辺りの機微がわからないのは、「他人の逆鱗に触れる天才」である兼一らしい。
なにしろ、発掘作業をしている局員たちは、等しく兼一に向けて「余計な事をするな」「俺達の仕事を取るな」とばかりに睨みつけている。
もしこの場にいたのがゲンヤだけではなかったら、今頃怒鳴られるなりなんなりしていただろう。
もしかしたら、反撃覚悟で殴りかかる者もいたかもしれない。

とはいえ、ゲンヤにそう言われても兼一にはその辺りが良く分かっていないのだが……。
まあ、良く分からないなりにゲンヤの言うことに従うことにしたらしい。

「はぁ、良く分かりませんが…わかりました」
「なら良し。ほれ、さっさと向こうで休め」
「はい…………所でゲンヤさん」
「なんだ、まだなんかあるのか?」

頷いたは良いが、その場を動こうとしない兼一にゲンヤは首を傾げた。
兼一の声はどこか申し訳なさそうで、続いて聞かされた言葉にゲンヤはこれまでと違った意味で開いた口がふさがらなくなる。

「すみません……………膝が笑って動けないんです!! あそこまで運んでもらえませんか!」
「………………………………………………………………は?」

兼一の言っている意味がわからず、間の抜けた表情で間の抜けた声を漏らすゲンヤ。
それはなにもゲンヤに限った話ではなく、背負われた翔も、お姫様抱っこされているギンガも同じ。
先ほどまで勇壮に戦い、崩壊するビルから無傷で生還した男の言とは到底思えない。
だが、どれだけ信じられなくても現実は覆らないのだ。

「ゲンヤさん達が来たらなんか緊張の糸が緩んで、さっきから脚に力は入らないんですよぉ!!」

どこか涙目の兼一の言葉通り、良く見ればその膝はガクガクと震えている。
それはもう、生まれたての小鹿の様に。
まあ、もしこの場に翔やギンガがいなければ、いっそ見ている方が気の毒に思うくらいに震えていただろう。
そんな、これでもまだマシな方であることを、当然ゲンヤ達が知る筈もなし。
なので、思わずゲンヤがこう呟いてしまったのも無理はない。

「なんつーか、しまらねぇ野郎だな、おめぇは」

その後、見た目に反してやたらと重い兼一を運ぶのに四苦八苦したり、ギンガと翔の視線がどこか冷たかったり、その事に兼一が酷く傷ついたのだが、所詮は余談に過ぎない。



BATTLE 8「断崖への一歩」



場所は変わって108の隊舎の一室。
犯人達の発掘を終えた後、いくらかの隊員を残して兼一達はこちらに移動していた。
先ほどギンガと翔の治療も終え、兼一と一緒にこの部屋を宛がわれたのだ。

本来はゲンヤも聞きたいところだったろうが、彼はこの隊の最高責任者。
まだまだやらなければならない事は多く、席を外さざるを得なかったのだ。
そうして、ゆっくりと兼一は翔とギンガに問いかける。

「さて……………色々聞きたい事はあると思うけど、まず何から話そうか?」
「「……………」」

兼一の問いに、ギンガと翔は困惑に満ちた沈黙を以て応える。
聞きたい事がないわけがなく、特別聞きづらい雰囲気があるわけでもない。
単純に、まず何から聞けばいいのかがわからないのだ。
それほどまでに二人の頭の中はいまだ整理されておらず、とっかかりそのものがない状態だった。
そして、兼一にしてもその程度の事は承知しているだけに、苦笑しながら助け船を出す。

「……何て言われても、かえって困らせちゃうだけだよね」
「その…………はい。正直、何を聞けばいいのか。どんな事を質問しても、本質から外れそうで……」
「翔も、同じかな?」
「……うん。だから、全部…最初から教えて、父様の事」

兼一の問いかけに、翔は沈黙の末にそう求めた。
何を聞けばいいのかわからない。なら、白浜兼一という存在を一から十まで話してもらうより他はない。
幼い翔なりに出した答えが、それだった。

「そうだね、本当に最初の最初から話し始めるのも手ではあるんだけど……」
「翔には悪いですけど、遠慮させてください。
正直、ただでさえ混乱してるので、上手く整理できそうにありませんから」

実際、それはあまりに非効率的に過ぎるし、何よりも煩雑に過ぎる。
こういった事情説明というのは、要点をまとめ簡潔に済ませるべきだ。
そうでないと話の趣旨がずれたり、筋が曲がったりする恐れがある。
何より、過分な情報は受け手達の頭をかえって混乱させてしまうものだから。
そうして、ギンガが最終的に絞り出した問いは、あの時男達が口にしたのと同じものだった。

「ですから、これだけ教えてください。兼一さん、あなたは……何者なんですか?」

それは、問いというには酷く要領を得ない、あまりにも大雑把過ぎる内容だろう。
本来ならば、もっとポイントを絞った問いをすべきだとギンガも思う。
だがこれこそが、おそらくはギンガ達の胸に渦巻く疑問を一つに集約した問いだから。

「……達人」
「「え?」」
「若輩だけど、一応世間では『達人級(マスタークラス)』何て呼ばれてる人間だよ」

達人、それは辞書的な意味で言えば「奥義に達した」者を指す言葉。
大仰であり、あまり気易く使っていいような言葉ではない。
『極めた』という言葉は、そう簡単に口にできるほど安い領域ではないのだから。

年若いギンガにしたところで、その程度の事は知っている。
そして、つい先ほど見たあの光景は、確かにその言葉に対する信憑性を感じさせるには十分すぎた。
一切の魔法を使わず、身体能力と技術のみで魔導師を制圧する。
確かにそれは、『極めた』者だからできる神業なのかもしれない。

「それが、兼一さんだと?」
「まぁ、一口に達人なんて言っても、本当に技を極めた達人は極僅かだよ。
 達人級のほとんどが、その領域には至っていないからね。
だから、武術においてある一定の水準に達した武人の階層と思ってくれていい」

実際、同じ達人同士でもその実力はピンキリだ。
下位の達人と上位の達人との間には、天と地ほどの力の差がある。
なにしろ、兼一の師匠が相手では、並みの達人が束になってかかっても足止め以上の事は出来ない。
もし傷の一つでも負わせられれば、それこそ奇跡に等しい偉業と言えるのだから。

「その人たちなら、魔導士が相手でも渡り合える、と?」
「そうだね、今日戦った感じだと出来ない事はないと思うよ。
 上位の魔導師って人がどれ位強いかわからないから断言はできないけど、達人なら充分に渡り合えると思う」

兼一がゲンヤから聞いた話では、今日戦った魔導士たちは決して弱い部類ではない。
特別強いわけでもないが、それでも平均的な力の持ち主達。
なら、兼一の大まかな見立てでは、ほぼ並みの達人でも互角に戦えるレベルだと踏んでいる。

とはいえ、今まで常識の世界に生きてきた翔にはイマイチその達人という存在がわかりにくい。
技を極めた、という事はその筋におけるトップクラスの使い手。
故に、こんな勘違いをしてしまうのも致し方ないだろう。

「ねぇ、父様。それじゃあ、おっきな大会で優勝しちゃうような人も達人なの?」
(もしそうなら、地球はとんでもない格闘家の巣窟…って事になるのよね)

翔の疑問に、内心でギンガは怖れ慄く。
一魔導士として考えれば、それはあまりにも恐ろし過ぎる想像だ。

そして大会という事は、ある程度出場者のレベルは纏まっている筈。
中には群を抜いて強い規格外もいるだろうが、それこそ希少。
兼一の話から想像するに、その規格外こそが「本当の達人」だと思ったのだろう。
それはつまり、各流派で大会が開ける程の数の達人がウヨウヨしているということになるのだから。
まあ、実際には全然そんな事はないのだが……。

「いや、表の大会に出てくる人に達人はまずいないよ。
あの人たちの場合だと、チャンピオンクラスで妙手レベルと思っていい」
「妙手、ですか?」
「そう。これは武術における一種の段階でね。段階は大きく分けて三つ、弟子、妙手、そして達人。目安としては、だいたいプロの一流格闘家で妙手と弟子の間くらいかな」

かつて、妙手になるかならないかくらいの頃の兼一といい勝負をできたボクサーのジャブを、岬越寺秋雨は「一流プロボクサー並みのジャブ」と評した。
そこから推測するに、チャンピオンクラスでようやくそこそこの妙手。
はっきり言って、達人には程遠い。

しかし、だからこそかえってギンガに与えた衝撃はある意味大きい。
一般で一流と称される格闘家ですら、ようやく二つ目の階層に辿り着けるかどうか。
だとすれば、達人という領域は一体どれほどの高みにあるのだろうか。
よほど全体のレベルが低く、達人級で他の世界における一流レベルという可能性もなくはない。
だが、直接目にした兼一の力量はそんなレベルに収まるものではなかった。
なら答えは一つ。一般社会には出られない程に突き抜けた実力者であるという事だ。

「表の大会、って言いましたよね。まさか……」
「うん、ギンガちゃんの考えている通りだと思うよ。
 表の世界で僕の事を知ってる人はほとんどいない。だけど、裏の世界ならそれなりに名は通ってるんだ。
 まあ、この辺りは僕の師匠達の七光りみたいなものだけど」
「それは、どういう?」
「僕の師匠達はね、誰も彼もがその道を極めた本物の達人なんだ。
 僕はその弟子、おかげで色々噂に尾ひれがついちゃってるんだけど……」

謙遜半分事実半分、と言ったところだろうか。
梁山泊の面々は紛れもない真の達人揃い、あのメンツから教わるなど一国の王でも不可能とされる。
そんな達人達に鍛えられた弟子なら強くて当然、という認識が広まっているのも事実だ。
しかし、兼一自身も不本意ながら割と色々派手にやってきた身である。
七光りがないとは言わないが、彼自身の功績によっても名は広まっているのだ。
しかしここで、ギンガは小さな引っかかりを覚える。

「あの、師匠達って……まるで先生が沢山いるように聞こえるんですけど……兼一さんがやってるのって、ジュウジュツなんですよね」
「ああ、柔術“も”やってるんだ」
「「も?」」
「えっと、柔術の他に空手にムエタイ、中国拳法……これは細かく挙げだすときりがないからこの括りにしておいて、他に対武器戦と超技百八つを習ったから…………………6人?」
「「6人!?」」
「うん、やっぱりそういう反応するよね」

兼一的には慣れ親しんだリアクションだが、二人からすれば「なんじゃそりゃ」と言いたくなるのも当然。
一つの武術を修めるだけでも大変なのは、実際にシューティングアーツをやっているギンガは良く知っている。
超技百八つとやらはよくわからないし、対武器戦は除外するとしても四種の武術。
普通に考えて、あまりにも非常識過ぎる。

「メインが、ジュウジュツなんですか?」
「う~ん、特にメインとかはないよ。全部同時進行で叩き込まれたから」
「そ、そうですか……」

叩きこんだ方もどうかしているが、叩きこまれた方もどうかしている。
同時進行という事は、全てをほぼ同じレベルで修得しているのだろう。
その上で達人。ならば、達人レベルの技量でない流派は一つもないのは明らかなのだから。

「ど、どんな人なの、父様の先生って?」
「何言ってるんだい、翔もよく知ってる人たちだよ」

翔の問いかけにそう答える兼一。
翔からすればそんな無茶苦茶な事をする人の顔が見てみたいという気持ちだった。
しかし、実際には過去幾度となく面識を持っていたりする。

「ほら、曾祖父さんのお家は覚えてるだろ?」
「うん、あの……古いお家だよね」

若干間が空いたのは、まあ言わずもがなだろう。
幼い翔からしても、あの家のボロさ加減は並みではない。

「そうそう、あそこが梁山泊。スポーツ化した現代武術に馴染めない豪傑や技を極めた達人が集う場所さ」
「ええ!?」

しょっちゅうというほどではないにしても、幼い頃から何度も遊びに行った曾祖父の家。
年始の席などには父の友人達も集い、盛大に宴会などをしていたのは翔もよく覚えているが、あの人たちが達人。
あまりにも身近な人たちがそうであるという事実に、翔の理解はなかなか追いつかない。

「じゃ、じゃあ曾祖父さまも、父様の先生なの?」
「ああ、あの人こそが梁山泊最長老、風林寺隼人。武の世界では『無敵超人』とまで称された、我流の達人だよ」
「ちょっと待ってください、我流ってまさか独学なんですか!!」
「特定の武術を学んだ事はないって言ってたけど?」
「それで、達人なんですか?」
「稀にいるんだよ、独学で極めてしまう天才が、ね」

実際、兼一の友人の中にもそんな人物がいる。
特定の師に付かず武を極めた者、そもそも既存のどの武術とも違う独自の武術を編み出した者。
当然と言えば当然ながら、彼らは等しく才能豊かだった。
兼一と違って、『兼一と違って』。大事なことなので二回書きました。

「逆鬼師匠から空手、岬越寺師匠から柔術、馬師父から中国拳法、アパチャイさんからムエタイ、しぐれさんから対武器戦、長老から超技百八つ。あの人たちの教えを受けられたのは、僕の人生の中でも最大の幸運だよ」

過去を懐かしみ、遠い目をする兼一の表情にはどこか神聖なものがある。
兼一にとって彼らは家族、共に生活をした間柄であり教えを受けた恩人。

だが、それだけではない。
彼らは白浜兼一という武術家の、『親』そのものなのだから。育て導き守り慈しんでくれた、正真正銘の。
若い頃は数多の無茶無理無謀に頭を抱えたものだが…………もちろん、今でも文句の一つは言ってやりたいと思っている。しかし、それ以上にあの人たちの弟子になれて良かったと思っているのだ。
彼らの弟子でなければ、今の兼一はここにはいないだろうから。

「…………………なら、兼一さん。あなたが翔を格闘技から遠ざけようとしたのはなぜなんですか?」
「ギン姉さま?」
「あなたの顔を見れば、あなたが格闘技をどれだけ愛しているのかわかります。
 そんなあなたが、なぜ翔が格闘技をやることあんなに……」
「あんなに反対したのか、かい?」

兼一の問いかけに、ギンガは無言でうなずく。
今までは兼一が平和主義者であり、戦いに通じる可能性があるから反対していると思っていた。
しかし、兼一は優れた武術家。その事実を知った今だからこそ、その真意が良く分からない。
武術家だからこそ息子が武術をやることに反対していた、それはわかった。
だが問題なのはその理由、その根幹にある想いがまだギンガにはわからない。

達人になる為にどれほどの才が必要なのか、兼一以外に達人を知らないギンガにはわからない。
しかし、翔ほどの才能があれば決して不可能ではないのではないかとギンガは思う。
それも、兼一という優れた武術家の教えを受けることができれば。

近しい人が自分の後を追ってくれる、それは基本的に喜ぶべきことの筈。
ギンガ自身、妹であるスバルがシューティングアーツを本格的に始めた時は嬉しかった。
だからこそ、なぜ兼一がアレほどまでに頑なに否定したのかがわからない。

「前にも言いましたが、翔には才能があります。あなた以外に達人を知らない私には、翔が達人になれるかどうかはわかりませんが、一角の人物に成れるという確信は今も変わりません。
 まあ、今更ながら本当は釈迦に説法だった事を痛感したわけですけど……」
「…………………」
「でも、だからこそわからないんです。これだけの才能を持つ翔に、なぜあなたは自分の技を教えなかったんですか? なぜ、翔が格闘技をやる事をあんなに反対したんですか?
 …………………………………翔の才能は、達人になるには足らないんですか?」

自問自答の末に、ギンガが行きついた答えはこれだった。
兼一が翔に武術を教えたがらない理由があるとすれば、才能が乏しいから。白浜兼一という人物の背景を知らないギンガには、そうとしか予想のしようがなかったのだ。
だが、それはそれでやはり疑問が残る。翔は紛れもない天才。これほどの才能ですら足りないとなれば、どれほどの才能が必要となるのか。そして、その頂に立つ兼一はどれほどの才能の持ち主だったのかと。
まあ、実際には思い切り着眼点が間違っているのだが……これは才能ではなく、心の問題なのだから。
そして今となっては、兼一にそれを隠す理由はない。

「いや、ギンガちゃんの見る目は間違いないよ。僕から見ても、翔は本当に筋がいい。
 翔に才能がないとすれば、ほとんどの人は凡人さ」

その言葉に、翔とギンガの顔がほころぶ。
これほどの武術家に才能を認められ、手放しにほめられるとなれば相当だ。
兼一の身内贔屓や親バカと言う可能性もなくはないが、兼一は基本的に翔には割と厳しい。
優しいし甘いところも多々あるが、区別するところはしっかり区別している。
意味もなく甘やかしたりすることはない。
それを知っているからこそ、兼一の言葉が掛け値なしの事実である事が分かる。
しかし、だからこそ……

「あれ、それならなんで……」

ギンガの予想が外れていたことの証明となる。
才能が足りないわけではない。だとすれば、最早ギンガに予想できる範囲に兼一の真意はないことになる。
兼一もまた、その真意をゆっくりと語り始めた。

「確かに才能はあるよ。ただ、達人に成れるかと聞かれれば……わからない」
「え?」
「翔ほどの才能があっても、達人に成れる可能性は決して高くない。
仮に無限の努力と壮絶を極める修業をしたとしても、僕と同じ所まで来られるかどうかは……」

兼一の言葉に、ギンガは息をのんだ。
努力するのは当然だが、そこまでやって成れるかどうかわからない。
今更ながら、兼一がどれほど果てしない高みにいるのか思い知らされる。
まだ才能やらなんやらをよく分かっていない翔ですら、思わずゴクリと喉を鳴らすほどの何かがそこにはあった。

「当然、才能にかまけて努力を怠れば達人になんてなれはしない。
 十歳で神童、十五歳で才子、二十過ぎればただの人なんて言葉もある。相応の練磨がなければ、いずれは凡人になるだろうね」
「そして、あなたがしようとしていたのは翔を凡人にする様な育て方だった……」

別に、ギンガに悪意があっての言葉ではない。
単純に、兼一の言を受け入れればそういうことになるというだけの話。
誰がどう見ても、兼一のして来た事は翔の才能を埋もれさせる愚行に他ならない。

「ような、って言うのは違うよ。紛れもなく、僕は翔を凡人にしようとしていたからね」
「父…様?」
「なんでそんな事を!? 兼一さんほどの格闘家が、なんで!!」

兼一の予想外の告白に、翔は顔色を失い、ギンガは声を荒げる。
どこの世界に、我が子の才能を踏み躙ろうとする親がいるだろうか。
ましてや、その道の先輩であり極みに達した達人。
それが同じ道を歩める才能を潰えさせようとするなど……。
まさか、翔の才能を恐れたというわけでもあるまいに。
そしてその答えは、兼一のどこか悲しみを宿した瞳と共に語られた。

「…………美羽さん、お母さんとの約束なんだ」
「え?」
「母様との…約束?」
「美羽さんは、僕にとって憧れだった。辛い修業の日々を耐え抜けたのも、いつかあの人を守れるくらいの武術家になりたかったから」
「まさか、奥さんも?」
「うん、風を斬る羽の様な軽やかで鋭い身のこなしから、『風斬り羽』と謳われた達人だった」
(そう言えば、兼一さんの先生の一人で翔の曽祖父さんは『風林寺』で、兼一さんとは姓が違う。
 兼一さんが婿養子に入っていたり、翔のお祖父さんの代で別の姓に変わってたりする可能性もあるけど、そうじゃなかったのなら、『風林寺』というのは翔のお母さんの旧姓の可能性もあるのよね)

兼一のインパクトが強くてつい失念していたが、生きているかはともかくとして翔にも当然母親はいる。
その母親が達人ではないとは言い切れない以上、その可能性は当然あってしかるべきものだ。

「『翔が武門に入るかは、翔自身に選ばせてほしい』それが美羽さんの遺言だった」
「でも僕、父様にちゃんと格闘技をやりたいって……」

兼一に翔はそう言うが、兼一は眼を閉じて首を振る。
美羽の言わんとしていた事は、そんな表面的な話ではない。
二人が知らない武の道を行く恐ろしさ、危険性。
いまから兼一はその一端を口にする。

「いいかい、翔。武術というのはね、中途半端に覚えるのが一番危険なんだ」
「中途、半端?」
「そう。君ほどの才能があれば、普通にやっていてもある程度のレベルには届くと思う。親バカかもしれないけど、君にはそれだけの才能と努力できる真摯さがある。
 だけど、かえってそれが危険なんだ。力に飲まれ、修羅道に囚われ、闇に堕ちる危険が。中途半端に身に付けた武が、君自身の身と心を滅ぼしてしまうかもしれない」
「兼一さん達は、それを恐れたんですか?」
「…………うん。翔の才能は、軽率な程簡単に殻を破れてしまう可能性がある。蛹から出たばかりの蝶、卵から出たばかりの雛、みんなその時が一番危ないのと同じだよ。
それに、武術は辛く苦しく、恐ろしい物。僕も美羽さんも武門に入った事は後悔していない。むしろ僕にとっては、武はかけがえのない恩人だよ。武人として、後を継いでほしいという思いは当然ある。
 でも同時に、親として翔には平穏に生きてほしいと思う。そんな危ない生き方をせず、穏やかに。
 多分美羽さんも、同じ気持ちだったんだと思うよ」

二人の知らない最果てを知る兼一。その言葉だからこそ、二人は何も口にできない。
兼一はひとえに、我が子の未来を案じ、幸福を願ってくれていたのだ。
武の道を行くことの恐ろしさを知るからこそ、翔の才能の危うさを知るからこそ。

「才能がある人なんていくらでもいる。でも、才能がある人が大成するとは限らない。
 だけど大成した人は皆何かしらの信念を持っている。武術において真に重要なのは、才能ではなく信念。
 その信念なくして武の道を歩めば、その才能があるからこそ君はきっと後悔する。
 信念は柱。その柱なくして歩めば、いずれ道を踏み外してしまうから……」

それが兼一の危惧。ただでさえ翔は風林寺と暗鶚、二つの血統を継ぐ者。
その宿命は、いつ何時彼を闇の底へ誘うかわからない。
かつて母である美羽が闇に落ちかけた時の様に、祖父である砕牙が闇に落ちたように。
だからこそ、その誘いに抗うことが出来る意思、信念を持たなくば武門に入るべきではない。
そうして兼一は、父ではなく武人の顔で重々しく問いかける。

「翔、あの時の……強くなりたいという言葉とその想いに偽りはないね」
「……………」

翔は答えない。あの時の言葉に嘘はないし、心からの希求だった。
紛れもない本気、本心からの渇望。ギンガを助ける為に傷つく事を微塵も恐れはしなかった。
恐ろしかったのは守れない事、自分の大切な人が傷つけられようとするその時に何もできない事だ。
しかし、その想いが兼一の求める水準に達しているかといえば、翔にもわからない。

「答え、られないのかい?」
「…………………嘘じゃ、ない。でも、わからないんだ。
 僕のこの気持ちが、本当に父様の言ってる『信念』なのか……」
「そうか」

虚勢を張って「信念はある」と言い張る事も出来ただろう。
だがそれでも、翔はそれをしなかった。そんなその場しのぎの嘘は、簡単にばれる気がしたから。
仮にバレなくても、いずれは自分自身の身を滅ぼす。それを父の真剣な目が教えてくれる。
ならどうして、そんな安っぽい嘘がつけようか。
気がつけば、ありのままの本心を語っていた。そんな翔に対する兼一の答えは……

「なら、僕はもう反対しないよ。君が思う様にするといい。
 武を学びたいというのなら、出来る限り応援……」
「待ってよ、父様! だって僕、信念って言うのがあるかどうかだって……」
「翔……兼一さんがこう言ってくれたんだから、きっと翔の胸にあるのは……」

兼一が武を学ぶことを認めた。なら、翔の中に信念の光を見たということだろう。
そう解釈したギンガは、翔を励まそうとそんな事を口にしかける。
だが、当の兼一はそのギンガの言葉を一蹴した。

「バカ言っちゃいけないよ、ギンガちゃん。
今の翔が持つ信念は、実際に信念なんて呼べるほど大層なものじゃないさ」
「え? で、でもそれならなんで!?」
「いいかい、ギンガちゃん。なんのかんの言っても翔はまだ4歳の子どもだよ?
 今の翔にあるのは、子どもの意地がいいところさ」
「な、なら、なんで……」
「簡単な話だよ。梁山泊に入門したばかりの頃の僕にも、覚悟や信念と呼べるほどの物はなかった」

実際、入門したばかりの頃の兼一の目的は単に絡んでくる不良の撃退であり、ひいては自身の身の安全に過ぎなかった。美羽へのあこがれはあったし、ああなりたいという思いもあった事は事実。
しかし、師達の前で吐露したあの思いですら、辛うじて信念と呼べる程度の物。
強固なものかと問われれば、正直兼一ですら言葉を濁す。

「でもね、僕自身の最初の想い、それが僕の信念の芯なんだ。アレから色々な事があった、沢山修業して沢山戦って、次第に『想い』が本物の『信念』や『覚悟』へと昇華していったんだ。
 修業はね、何も力を鍛えて技を磨くだけのものじゃない。心を鍛え、想いを磨き、信念へと昇華し覚悟を培うものでもある。いまは子どもの意地でも、あとはそれを育てるだけさ」

はじめから確固たる信念を持つことなどできやしない。
力や技、勇気や心と同じく、信念や覚悟も修行と戦いを経て鍛えて行くものなのだから。

「あの言葉に偽りがないのなら、迷いがないのならそれで十分さ。
 極める為には信念が必要だけど、その種はすでに君の胸にある。
 その種を、しっかりと正しく育てるんだ。いいね、翔」
「…………………………………うん!」

父の言葉に、翔は力強く頷き返す。
今はまだ儚くも幼いこの想いを、誰にも恥じる事なき信念へと育てて行く事を誓う。
誰よりも尊敬する父と、精一杯の愛情を残してくれた母に。

そうして、兼一は翔からギンガへと視線を移す。
密かに翔と兼一のやり取りに感動していたギンガは、まさか自分の方を向くとは思わず僅かに動揺していた。

「さて、ギンガちゃん」
「え? あ、は、はい!」
「不肖の息子だけど、これからもよろしく指導をお願いします」
「はい…………………………って、私がですか!?」

兼一があまりにも平然と言うものだから、思わずうなずくギンガ。
しかし、すぐにその違和感に気付き驚きも露わに目を見開いている。
とはいえ、兼一はそんなギンガを余所に深々と頭を下げた。

「うん。この前はあんなこと言ったのに身勝手だとは思うけど……」
「そ、そうじゃなくてですね! 兼一さんが教えるんじゃないんですか!?」
「でも、翔の師匠はギンガちゃんでしょ? さすがに友人の弟子を横取りするなんて悪趣味な事はしないよ」
「ですから、そういう事じゃなくてですね……そもそも、兼一さんの真意も知らずに勝手な事を言っていた私にそんな権利も資格も……」

ギンガとしては、兼一がどんな思いで反対していたのかも知らずに勝手な事を言っていた自分が恥ずかしくてならない。当然、そんな自分に今後も翔の指導を続けて行く資格などないと確信している。
何より、自分よりもはるかに武術家として優れた人物がいて、その人はずっといつか翔が武門に入ることを楽しみにしていたに違いない。はっきり言って、横取りというのであれば自分自身だとギンガは思う。
勝手な思い込みでひどい事を口にし、敵視し、反発し…挙句の果てに未熟な腕で余計な事を教えてしまった。
今となっては、なんと浅はかだったのかと自己嫌悪の極致に陥りそうな気持ちだ。
せめてここは潔く身を引くのが、翔の為と思って疑っていないのだから。
しかし、兼一はそれこそ勘違いだとギンガを諭す。

「その事をギンガちゃんが負い目に思う事はないよ。ギンガちゃんの言っていた事は正論だし、僕の言っていた事は翔の才能を踏み躙る最低の行為だったんだから。それも、今までわかっていて翔の才能を育てる努力を怠った、今更だけど僕はいい親とは言えない。
 僕の方こそ、ギンガちゃんにお礼を言わなきゃいけない。ありがとう、この子の才能を見出してくれて、この子に武術を教えてくれて。何とお礼を言って、どう謝ったらいいのか……」
「でも、私なんかが教えるよりも……!」
「そう卑下することはないよ。こっそり見させてもらったけど、ギンガちゃんの教え方は的確だった。
さすがはスバルちゃんの師匠だと思うよ。武人としてなら僕の方が先輩なんだろうけど、指導者としてなら君の方が先輩だ。恥ずかしながら、この年になっても弟子の一人も取った事がないからね」

実際、ギンガと違って兼一の指導者としての力量は未知数。
優れた指導者かもしれないし、あまり良い指導者とは言えないかもしれない。
その点、ギンガはスバルを育てた実績があるし、兼一の眼から見ても良い指導者だと思う。
本人に未熟な点があり、指導者としてもまだまだ至らないところは多々あると思うが、兼一に人の事を言う権利はない。

「翔の才能を見出して、それを育て始めたのはギンガちゃんなんだ。ずっと放置し続けてきた僕に、口出しをする権利も、文句を言う資格もない。ああ、でも、あと少しで僕たちは地球に戻るんだよね。
 そうなるとギンガちゃんとも離れ離れか……それは翔が可哀そうだし、いっそこっちに移り住むことも考えた方がいいのかな? それなら、翔もずっとギンガちゃんの指導を受けられる筈だし……」
「で、ですから、なんでそんな事になるんですか!? 私みたいな未熟者に教わらなくても、兼一さんって言う達人から教わった方が言いに決まってます!
 …………………………それに、私じゃ翔を達人にしてあげられる自信がありません。だって、わたし自身がそこにいないんですから」
「そんな事はないよ。さっきも言ったけど、重要なのは信念と覚悟。それさえあれば、極端な話師匠がいなくても達人になる事は出来るんだ。もちろん、それは生半可なことじゃないけどね。
 それに、ギンガちゃんはまだ若いし成長期だ。これから成長していけば、ギンガちゃん自身が達人級の腕前になることだってあり得る。そういう師弟の形も、僕はありだと思うよ」

あくまでも、兼一は翔の師はギンガであるとして譲ろうとしない。
確かに最初に教え始めたのはギンガだし、ギンガこそが正当な翔の師と言えるだろう。少なくとも今のところは。
しかし、ギンガからすればより優れた人物に教えを受けた方が、断然翔の為になると思う。
自分では兼一や美羽の危惧したような結果になりかねない。それならいっそ、兼一が指導した方が遥かに翔の為になる。

何より、兼一の話を聞いて後ろめたさがあったのだ。
兼一はずっと翔がこの道を選ぶ日を待っていた。
選ぶかどうかわからない、選ばないならそれでもいいと思っていただろう。
だが、いつか選んだその日には自分自身の手で育ててやりたいと思っていたに違いない。

にも関わらず、知らなかったとはいえギンガは翔を横取りした。
兼一からすれば、鳶に油揚げをさらわれたような気持だった筈。
そんな自分の無自覚の非礼に、ギンガは正直穴があったら入りたい気持ちなのだ。

「兼一さんは、翔に教えたくないんですか?」
「……………そうは、言わないけど……」
「それなら、やっぱり兼一さんが教えるべきです。兼一さんに学んだ方が翔の為になりますし、兼一さんもずっとその日を待っていたんでしょう? なら、それがあるべき姿なんですよ」
「いや、それは違う。本当に武術をやろうとしている人の前には必ず師が現れるものさ。ギンガちゃんが翔と出会って、武を教えることになったのは必然だったんだと思う。だから、翔の師はやっぱり僕じゃない」
「そんな事……」

兼一は兼一で、翔に今まで教えようとしなかったことに後ろめたさがある。
また、翔の為に本気で怒り、その才能を買ってくれたギンガ以上の資格が自分にあるとは思えないのだ。
教えたくないと言えば嘘になるし、本音を言えば自分の全てを伝えたいと思う。
しかし、そんな事を言う資格は、当の昔になくしたのだと。

とはいえ、こんな調子ではいつまでたっても平行線だ。
だがそこで、唐突に三人が貸し与えられた部屋のドアが開く。
その向こうから姿を現したのは、ある意味救世主とも言える第三者。

「あ? なにやってんだ、お前ら?」
「父さん」
「ゲンヤさん」
「おじさま」

仕事に一区切りがつき、様子を見に来たゲンヤだった。
また何やらもめている兼一とギンガ、その周りでオロオロしている翔を見て呆れている。
事情は良く分からないが、アレで二人とも妙な所で頑固だ。
その事を知っているだけに、とりあえずは双方の主張を聞くだけ聞いてみることにするのだった。



  *  *  *  *  *



その晩のナカジマ家。
少々久方ぶりの重苦しさのない食卓を終え、翔が寝静まった頃。
ギンガは特に理由もないまま庭先に出て夜空を見上げていた。

(なんだか、変なことになってきちゃったなぁ……)

兼一とギンガ、どちらが翔の指導をするかという討論は結局答えが出なかった。
どちらにもそれなりに理があるのだが、正直感情的な意見が多すぎるというのがゲンヤの感想。
感情的に自分がふさわしいと主張するのではなく、負い目やら引け目から相手の方がふさわしいという変な主張の応酬が何とも厄介である。
しかも、どちらも真剣に翔の事を考えての結果だから始末に負えない。

ギンガからすれば、兼一に学ぶのが本来あるべき姿。兼一の方が師に相応しい力量を備えていると考え、今までがありえてはならないイレギュラーだったと思っている。
兼一の場合だと、最初に翔を指導したギンガこそが師、指導者として欠陥があるわけでもないなら、この巡り合いもまた必然だったという考え。何より、今まで何も教えて来なかった自分には資格はないと本気で思っている。
そこで、最終的にゲンヤが出した解決案が……

(翔自身に決めさせるのは、考えてみれば……っというか、まず真っ先に考えるべきところよね)

すっかり失念していたのだが、翔自身の想いを聞くのをすっかり忘れていたのだ。
お互い、翔は必ず相手の下で学ぶことを希望する筈だと信じて疑っていなかったのだろう。
とはいえ、その原点に回帰した末に出た答えというのがまた難儀だったりする。

(翔自身、答えを出せなかったのよねぇ……まあ、当然と言えば当然なのかもしれないけど)

そう、結局翔にも答えは出せなかった。
姉と慕うギンガから学んだシューティングアーツには当然思い入れがある。
かと言って、父が母と共に練磨してきた技の数々に興味がないと言えば嘘になるだろう。
いっそのこと二人から、と思わなくもなかっただろうが、それはギンガから固辞した。

正直、兼一とギンガでは格闘家としてのレベルに差があり過ぎるのだ。
複数の師がつく場合、出来るなら師同士のレベルは均一かそれに近い方が良いに決まっている。
師同士の間で大きく差があれば、必然的に翔の中に歪みが生じるだろう。
一つの技は異様にレベルが高いのに、もう一方のレベルはそこそこ。
これが翔の成長に良い影響を与えるとは到底思えない。


(どうせ習うんなら、やっぱり技術が上の人に習った方が良いに決まってるわ。
 私じゃ、兼一さんの足元にも及ばない。単純な戦力じゃわからないけど、格闘家としての格が違いすぎるもの)

これらが、ギンガが兼一と二人で翔の指導をすることを拒んだ理由である。
まあ、それだけが理由というわけでもないのだが……。
とそこで、ギンガは暗い夜の闇の中でゆっくりと、ゆっくり過ぎる様な動作で動く人影を発見した。

「…………………兼一さん?」
「あ、ギンガちゃん。どうしたの? 明日も早いんだから、もう寝た方がいいよ」
「その、なんだか眠れなくて……」
「う~ん、今日あんなことがあったし、無理もないのかな?」
「練習、ですか?」

そう言えば、夜な夜なこっそり郊外で練習していたのをついさっきギンガは聞いた。
翔をはじめ、周りの人間に気付かれないように注意していたらしいが、もうその必要がないからこうして庭先でやっているのだろう。

実際、兼一のやっているものは見慣れない動きではあるが、それは紛れもない武の動き。
ゆっくりゆっくりと行われる一連の動作は、翔のやるそれよりもはるかに遅い。
むしろ、この遅さを維持する方が困難な程に。
にもかかわらず、速度は一定を保たれ、指先の動き一つとっても淀みがなくブレもない。
『美しい』と、兼一の動きを見てギンガは素直にそう思った。
ただし、この一言を聞くまでは……だが。

「うん、僕は覚えが悪くてね、少し怠けるとすぐに劣化しちゃうから」

正直、この一言に『何をバカな』『悪い冗談だ』とギンガは思う。
兼一の行う動作は、一つ一つが流麗で無駄がない。
地球の武術に無知なギンガだが、それでも「まるで教本の様な動作だ」と思う。
侮蔑を込めた教科書通りとは違う、それ自体が一つの理想形といえる動き。
そんな事が出来る人間が、どうして『覚えが悪い』というのか。どうして、『劣化』などするだろう。
ギンガには、そんな様子が微塵も想像できない。

廃ビルの時と違い、今のギンガの精神状態は平常そのもの。
だからこそ、改めて思い知る。
自分と兼一との間にある、隔絶した技量の差を。

(これが、達人。一つの技術を極めた人の動き。いったい、私との間にどれだけの差があるの?
 いったい、何十年かければ、私はこの人と同じ事が出来るようになるの?
 まるで、想像がつかない。遠過ぎて、綺麗過ぎて、手が届く自分が想像できない)
「………ちゃ…」

それはかつて、兼一自身が師達に抱いたものと同じ感情だ。
圧倒的すぎる差の前に、嫉妬や羨望すら生まれない。
あるのはただ、完成され研ぎ澄まされた技術への感嘆の念のみ。
だが、ギンガの心の中には、それらとは別の何かが芽生えていた。

(なのに、なんでだろう? 完璧すぎるほどに完璧なのに、どこか近い物を感じる。ううん、『近い』というのとも違う。これは…『親しみ』? よく、わからない。鋭いのに、どこか鈍臭い様な……)
「…ン…ちゃん」

鈍臭いというと語弊があるが、上手い表現の仕方がみつからないギンガ。
人を魅了し、視線を離させない何かがあるのは間違ない。
にもかかわらず、兼一の動作には全く別種の『何か』も混在している。
しかしその答えが出る事はなく、ギンガの意識は外部からの声によって引き戻された。

「お~い、ギンガちゃん」
「ひゃうあ!?」

突然目の前に現れた兼一の顔に、素っ頓狂な声を挙げてのけぞるギンガ。
その腕は無意識のうちにファイティングポーズを取り、いつでも兼一の事を殴れる体勢だ。
まあ、心の片隅では『何をやっても当たらないだろうな』という諦観が宿っているが。

「えと、驚かせちゃったかな?
 気配は消してない筈なんだけど…なんだかボーッとしてたみたいだし、大丈夫?」
「だ、大丈夫です! 大丈夫過ぎて大丈夫じゃないくらい大丈夫です!!」
「言ってる意味は良く分からないけど、大丈夫だって言うなら……」
(ああもう! 何をそんなに慌ててるのよ、私!! ただちょっと近くで顔を見ただけなのに!!)

内心の動揺を必死に抑えながら、ギンガは慌てた様子で手を振って『気にするな』と意思表示する。
さすがに、兼一の演舞に魅入られていたとは恥ずかしくて言えない。
何が恥ずかしいのか、その理由さえ本人は良く分かっていないが。

まあ、大丈夫というなら兼一とて聞きはしない。
兼一は確かに人の逆鱗に触れる天才だが、いい加減年を重ねて多少はマシになっている、多少は。

「じゃあ、何か悩み事?」
「え?」
「いや、なんか庭に出てきた時もどこかぼんやりしてた様子だし、どうしたのかなって?
 ほら、これでも三十路近いおじさんだからさ、話を聞くくらいはできるよ」

そう、少しおどけた様子で兼一は笑いかける。
一回り年上の貫録か、あるいは余裕か。いずれにしろ、悩み慌てた自分がバカの様にギンガは感じる。
だからだろうか、思わず口をついたのは先ほどの悩みとは別の話題だった。

「その…兼一さんはすごいなって」
「え? 僕が?」
「はい。だって、あんなに色々翔の事を考えて、奥さんとの約束もしっかり守って、本当にすごいですよ」
「そ、そうかな?」

ギンガの言葉に、兼一はどこか困った様子で頭をかく。
本当に、何がすごいのかさっぱり分かっていないのだろう。
凄い事を凄いと思っていない事、それが一番ギンガはスゴイと思う。

(これが、この人にとっては当たり前なんだ。翔の事を大事に思うのも、奥さんとの約束を守るのも、全部当たり前。翔に隠し続けるのは大変だった筈なのに、それを大変だなんて全く思ってない。
 ……………………格闘家だけじゃなくて、そもそも人として全然及ばないなぁ)
「えっと、ギンガちゃん?」
「あ、すみません。でも、本当にすごい事だと思うんです。私なんて、兼一さんと違って全然翔の事を考えてなくて、翔が格闘技をすることがどれだけ危ないかなんて……」

全く、想像もしなかった。
役者が違うからといえばそれまでだが、それだけでは割り切れないものをギンガは感じている。
翔の眩い才能に目が眩んでいた事は否めない。それだけ翔の才能は素晴らしく、輝きに満ちている。
だがそれでも、指導者としてそれに目を奪われるだけではいけないのだ。
その先にあるものを、待ちうけるものを、もっと考えるべきだった。
兼一の真意を知り、ギンガはそんな自分の浅薄さを恥じる。
ただし、これが兼一になると別の意見になるわけだが。

「そんな、大層なものじゃないよ。結局、僕のしていた事は親のエゴなんだから」
「え、エゴって、そんなことは……」
「いや、エゴ以外の何物でもないよ。親の勝手な都合で武から遠ざけて、武を学ぶことに反対する。知らないならまだしも、才能がある事を知っててこれだ。その上、武門に入るのなら僕が教える、なんて意気込んで。
 邪魔をしておいていざとなれば…本当に身勝手だ。正直、恥ずかしいよ」

誰にとは兼一も言わない。しかしなんとなく、それが兼一にとって大切な人に向けられている気がして、ギンガの胸が僅かに傷んだ。
見方によっては、兼一の言も正しくはある。子どもの意思を尊重していると言えるが、その機会を設けようとしていなかったのならその限りではないのだから。

「あの、私が言うのもどうかとは思うんですけど、この話…もうやめにしませんか?
 翔は、多分私の事も兼一さんの事も悪くは思っていないと思います。あの子は、そういう子です。
それに、結局翔自身が私達の事をどう思うかが重要なのであって、私達が私達をどう思うかはそれほど重要じゃないと思いますから」
「そうだね。確かに……ギンガちゃんの言う通りだ。何を言ったところで、それも翔への押し付けでしかないもんね。思う事は簡単にはやめられないけど、口にするのだけでもやめた方がいいかな」
「はい。そうじゃないと、あの子色々気を揉みそうですから」
「ふふ、確かにね」

恐らく、ギンガや兼一がまたこの話題であれこれ悩んでいることに気付けば、翔はきっと悲しい顔をする。
それは二人にとっても本意ではないし、お互いに言いあっていても意味のない事柄。
ならせめて、翔の前だけでもこの話題は慎むべきということで二人は合意した。

「でも、やっぱりギンガちゃんはしっかりしてるよ。僕の若い頃とは大違いだ」
「そ、そんな!? 私なんて、全然……」
「そんな事はないさ。こうしてしっかり社会に貢献して、周りの事を気にかけてる。
 あの頃の僕なんて自分のことで手一杯で、周りを気にする余裕なんてほとんどなかったのに……」

実際、ギンガくらいの頃の兼一は、日々の地獄の修業とラグナレクやYOMIとの戦いの真っ最中。
正直、自分が生き残る為の力をつけるだけで精一杯だった時期だ。
一応周りの事は彼なりに気にしていただろうし、守りたい人、共に闘う仲間もいた。
だがそれでも、やはり今のギンガほどしっかりとしてはいなかったように思う。本人の主観だが。
そもそもそんな余裕が存在しない生活だったといえば、全く以ってその通りなので、あながち間違ってもいない。

「私だって、それほど余裕があるわけじゃありませんよ」
「……そうなの?」
「当たり前じゃないですか。兼一さんがどう思ってるか知りませんけど、私なんて高々16の小娘ですよ。
 明日のことだって良く分からなくて悩んで、この先の目標に届くかどうかわからなくて悩んで、妹に追いつかれやしないかと悩んで、最近は壁にぶつかって悩んでます。
今は対人関係も追加されて、本当に悩んでばっかりです」

生来の面倒見の良い性格のせいで実年齢より大人に見られがちなギンガだが、やはり中身は十代後半の少女。
それなりに悩みも多く、その悩みに答えが出せない事も当然多い。

どうしても漏れてしまう溜息をつきながら、ギンガは横目で兼一を見る。
その視線に兼一が気付かない筈もないのだが、特に気にした素振りも見せない。
どうやら、単に視線を向けただけと思ったのだろう。
十年やそこらでは、相手の視線から意図を察することができるほどの器用さは身に付かなかったらしい。

「ああ、なんとなくわかるなぁ。僕も若い頃は色々悩んだものだよ、逆鬼師匠も『青春は悩む為にある』何て言ってたけど、確かにその通りだったなぁ……」
「なんか、気楽ですね」
「過ぎ去った青春の日々、って奴だからね。
昔さんざん悩んだから、今悩んでいる人たちが微笑ましく思えるようになるのさ」

この辺りは単純に年の功という奴だろう。
まあ、実際問題として恐ろしく密度の濃い十代後半だっただけに、ギンガの悩む姿は微笑ましい限りなのだ。
ただし、兼一が悩んでいたのは主に恋愛と明日の命だったので、だいぶ毛色は違うが。

「十代の兼一さんか……きっと、今の私よりずっと先を行ってたんでしょうね」
(ごめん、ギンガちゃん。実はそんな大層なものじゃないよ?)

ギンガは今の兼一しか知らないので、かなり幻想が混在している。
兼一としてはその夢を壊していい物か、割と真剣に悩む。
あの頃の兼一と言えば、刃物を相手にしては怯え、決闘を前にしては慄き、修業がきつくて逃げていた。
正直言って、出来ればギンガや翔には見せたくない姿も多いだけに、乾いた笑みしか浮かばない。

(でも、見る限り今のギンガちゃんも……)

それまでと違い、一武人としての視点でギンガを見る兼一。
武術家としては当然未熟も良いところだが、年齢を考えればそれは当然。
むしろ、この年齢という事を考慮すると……

(試して、みようかな?)

兼一の中にちょっとした悪戯心が芽生える。
目にもとまらぬ速度で兼一がギンガのリボンに手を伸ばす。
常人ならば何が起こったかわからぬうちに、リボンを奪われるだろう。
だが、その手は無造作に振るわれたギンガの手によって払われた。

「っ!?」
「お見事。完全に不意を突いたのに、良く気付いたね」
「え? あ、いや、その…気付いたというか、これは偶然で……」

自分自身で何をしたのか分かっていないのか、しどろもどろになるギンガ。
彼女からすれば、反射的に腕が上がり気付けば兼一の手を払っていたというのが本音だ。

「その、すみません」
「いや、謝るのはこっちだよ。いきなり変な事をしようとしてごめんね」
「いえ、それはいいんですけど、なぜこんなことを?」
「……ちょっとした確認、かな?」
「確認、ですか?」

兼一の意図がわからずに首を傾げるギンガ。
そんなギンガに対し、兼一はどこまでも優しい笑顔で答える。
まるで、目をかけていた妹の成長を喜ぶかのように。

「うん。今偶然って言ったけど、そんな事はない。今のは、れっきとしたギンガちゃんの実力だよ。
だけどその年で、それも師のいない状態で良くここまで来たものだ」
「あの、話が見えないんですけど」
「ああ、ごめんごめん。確認って言うのは、ギンガちゃんのタイプの事。
まあ、多分そうだとは思っていたんだけど、やっぱりギンガちゃんは静のタイプだったか」
「静の、タイプですか?」

聞き慣れない言葉に、ギンガの目に困惑の色が浮かぶ。
なんの前振りもなく「静のタイプ」などと言われても、ギンガからすればサッパリなのだ。

「武術家……というか、戦う人って言うのは、二つのタイプに分類できるんだ。感情を爆発させてリミッターを外して戦う動のタイプと、心を静めて冷静さを武器に戦う静のタイプの二つにね」
「私が、その静のタイプって事ですか?」
「おぼえがあるんじゃないかな? ある日を境に、あるいは何かのきっかけで、戦意や心が昂ぶってもそれに引きずられることが減った筈だ。同時に、自分の間合いが感覚的にわかる様になったと思うんだけど……」
「ぁ……」

ギンガなりに覚えがあるのだろう。心当たりがあるらしく、「そう言えば」などと呟いている。
おそらく、あまり自身の変化を気にしていなかったのだろう。
言われなければ気付かない、それくらいの感覚だった様だ。

「二つのタイプに優劣はないし、師弟でばらばらでも特に問題はない。つまり、その人のスタイルに一本筋が入ったと思ってくれれば良いよ。ただ……」
「ただ?」
「二つのタイプ、どちらになるかを選べても、いつ選ぶかは本人にも決められない。僕もそうだった。気付いた時には自分のタイプを決めていた、何て人も少なくないしね。ギンガちゃんも武術家だし、覚えておくといい」
「……」

もし、クイントが存命であれば、あるいはギンガの節目となる時まで生きていれば何かしらのアドバイスをくれたかもしれない。だが残念ながら、既にクイントは故人。
ギンガがどちらのタイプになるか選択した時、彼女はすでにいなかった。
おかげで、ギンガは本人も知らぬうちに知らぬまま静のタイプとなっていたのだろう。

「でも、だからこそ大したものだと思う」
「え?」
「僕が緊湊に至ったのも16の頃だったけど、師匠達にみっちり鍛えられたおかげだからね。
 長く師にもつかず、半ば独学でやっていたのにここまでこれた、本当に見事だ」
「そ、そんな……」

手放しの兼一の称賛に、ギンガは顔を真っ赤にして照れる。
確かにギンガが師である母を失って久しいが、陸士訓練校に入ってからは軍隊式の訓練に明け暮れた。
師がいなかったのは事実だが、だからと言って独学だったかといえば微妙というのが本人の感想。
正直、ここまで褒められていいものだろうかと、かえって恐縮してしまう。
とそこで、兼一の言葉にまた良く分からない単語があることに気付く。

「あの、緊湊って言うのは?」
「ああ、『先に開展を求め、後に緊湊に至る』って言う言葉があってね、早い話が武術の段階の事だよ。
 基礎を固める第一段階が開展、緊湊は第二段階、タイプが分かれるのはこの段階に至ってからなんだ。
 さっきギンガちゃんは伸び悩んでるって言ってたけど、決して引け目に思う事じゃないさ。僕の友人の中には、もっと後になって緊湊に至った人もいるけど、今では高名な達人として名を馳せてる。少なくとも、遅いって事はないさ」

実際、現在裏ボクシング界で無敵を誇る達人である武田一基は、18の時点で未だ緊湊には至っていなかった。
それを基準に考えれば、ギンガのそれは充分に早い部類に入ると考える事も出来る。
この先の本人の努力次第だが、決して遅いという事はないのだ。

そして兼一の言葉が、少々の伸び悩みを感じていたギンガの肩を僅かに軽くしてくれた。
焦る事はない。これほどの腕前を持つ兼一ですら、16の頃にはこのくらいのレベルだった。
なら自分も、決して不可能ではないと思える。単純かもしれないが、それだけでギンガの心は軽くなったのだ。
まあ、兼一は17になる頃には曲がりなりにも妙手クラスだったし、ギンガとの間には天と地ほどの才能の差があるので、あまりあてにはならない。
ギンガ自身、未だ妙手レベルには程遠いというのが現状でもある。

「一つ、聞いても良いですか?」
「? どうぞ」
「私が達人と戦ったとして、勝てると思いますか?」
「……どうだろう。僕はギンガちゃんの実力を知らないし、正直魔導師は見ただけで実力を判断にしにくいんだよね。武術だけなら見るだけでもある程度はわかるけど、魔法はさっぱりだから」

それは、紛れもない兼一の本音。
はっきり言って、魔導師の力量は測りにくいことこの上ない。
立ち振る舞いや筋肉の突き方、重心の配分、それらを総合して実力を判断することはできる。
だが、魔導師の場合魔法というこれだけでは見切れない能力がある為、一概には断定できない。
事実、今日戦ったあの五人の魔導師も、初見での判断より遥かに強かった。
魔導士という未知の存在を警戒していなければ、もっと苦戦した事は想像に難くない程に。

「ただ、今日の感じだと武術家が魔導士と戦う為には達人であることが最低ラインだと思う。
 技というよりも、単純に妙手クラスの力だと防御魔法を破るのは難しそうだからね」
「やっぱり、兼一さん達でも技より力、なんですか?」
「基本的にはね。多少例外はあるけど、やっぱり何はともあれ力だよ。
 どれだけ優れた技が持っていても蟻じゃ象にはかなわない。魔導士と武術家の関係はそのものだね」

一部例外「技十にして力は要らず」と謳われた櫛灘流なら別だろうが、あの流派は特殊過ぎる。
基本的に、戦いとは『一胆、二力、三功夫』。技に威力を持たせる力なくば、どれほど優れた技も宝の持ち腐れ。
特に、魔導士と戦う場合にはその点が顕著である事を兼一は確信していた。

「なら、武術家としての私は、どの程度のレベルなんですか?」
「ギンガちゃん? そうだねぇ……弟子の上位辺りが妥当かな」
(やっぱり、この人にはまだまだ遠く及ばない)

わかってはいた事だ。プロの一流格闘家ですら、やっと妙手。
ギンガとて正規の訓練は受けているので、紛れもない戦いのプロ。
しかし、では一流かと問われれば、本人は首を縦には振らない。
ギンガは、自分よりもっと優れた技術と力を持つ魔導師をたくさん知っている。
だからこそ、そんな自惚れはできなかったし、兼一の言葉を聞いてもそれほど落胆はしなかった。
だがそこで、唐突に兼一が何かを思いつく。

「そうだ、そう言えばまだちゃんと御礼をしていなかったっけ」
「え? 御礼、ですか?」
「うん。翔を守ってくれた事、翔に武術をするきっかけを作ってくれた事、翔に武術を教えてくれた事。
 その他諸々の、御礼だよ。まだ、何もしてなかったよね」
「でも、それは……」

ギンガからすれば、御礼などもらえる筈がない。
礼を言いたいのはギンガ自身だし、むしろそれに謝罪もくっつけたいところなのだ。
とはいえ、先ほど自分からああ言った手前そんな事は言いにくい。
そうこうしている間にも、兼一は勝手に話を進めて行く。

「色々考えたんだけど、僕にできる事はあまり多くない。
 だから、少しだけ後押しをしようかなって思うんだ」
「あと、押しですか?」
「うん。ギンガちゃん、その木の前に立ってくれるかな?」
「はぁ……」

ギンガは兼一に指示されるまま、そこそこに背の高い木の前に立つ。
兼一は木のすぐ横に立ち、その幹に手を添えた。

「一番得意な構えを取って、それから心を静めるんだ」
「あの…なにを?」
「いいからいいから」

珍しく強引な兼一に押し切られる形で、とりあえずギンガは構えを取り深呼吸をして心を落ち着けた。
その間にも、兼一は細やかな指示を飛ばしてくる。

「まだ乱れがあるね。心の波を消し、静かな湖面の様にするんだ。
 波のない水は鏡に似ている。周りも自分も、そして敵すらもそこに映し出す筈だよ」
(心の波を、消す。ああ、この感じ…時々調子がいい時になるあの感じだ)

兼一の声が遠ざかり、周りの全てが静寂に包まれたかのような錯覚を覚える。
にもかかわらず、兼一の声はそれでもはっきりとギンガの耳から心へと沁み渡って行く。
まるで、乾いた砂が水を吸い取るかのように。

「自分を一滴の雫にするんだ。湖面に堕ちた雫は波紋を生み、均等に周囲に広がって行く。
 本当の集中は一点に絞るものじゃない。波紋の様に、意識を一点から周りに広げて行くんだ」
(意識を散らすんじゃなくて……広げる)

感覚と思考がクリアになり、今までにないほどに周りの状況が感じ取れる。
風にそよぐ芝、兼一をはじめとした周囲の生き物の息遣い、家の明かり。
それらの全てが、まるで俯瞰でもしているかのような感覚で頭の中へ浸透する。

(本当に見事なものだ。筋がいいとは思っていたけど、ここまでとはね。
 師と環境次第では、本当に化ける…いや、それこそちょっとしたきっかけ一つでも……)

一つ助言するごとに、ギンガの周りの空気が澄んで行くことが分かる。
おそらく、既に土台はできていたのだろう。ただ、ギンガにはその土台の適切な使い方がわからなかった。
その使い方を軽く教えただけでこれだ。その呑み込みの早さに、兼一もまた舌を巻く。
今ギンガがしている事が出来るようになるまでに、自身がどれだけ時間がかかったか、と思いかけてやめた。
元々、比較対象にするには不適切過ぎると思いいたったらしい。

「さて、今からこの木の葉を散らすよ。その場から動かず、手の届く範囲に入った物だけ捕まえるんだ。
 もちろん、範囲に入っていない物には手を出しちゃいけないし、手を伸ばす回数は両手で一回ずつ。
 目標は、片手につき十枚ずつってところかな」
「…………はい」

舞い散る木の葉程度なら、普段のギンガでも難無く全てつかめるだろう。
しかし、それがその場から動かず、手の届く範囲に来た物のみを見極めて手を伸ばすとなれば話は別。
不規則な軌道を描く木の葉は、腕を伸ばす風圧だけでも揺れる。
それさえも計算に入れなければならないのだから、その難易度は格段に上がるだろう。
今までのギンガであれば、おそらく無理だった。だがこの時は……

「それじゃあ、行くよ」

そう言って、兼一の掌底が木を揺らす。
風に乗った木の葉が散り、ギンガの周囲を舞う。
それら全ての動きを皮膚感覚で感じ取りながら、ギンガは焦ることなく腕をその軌道を読む。

(あそこまではとどく。でも、普通に突きだしても一度に取れる葉の枚数は多くない)

ギンガの腕がピクリと動くが、それ以上には動かない。
そんなギンガの様子を、兼一はどこか嬉しそうに見つめている。

(そう、焦る事はない。ゆっくりと、今の自分にできる事を見極めた上で考えるんだ)
(なら、ちょっと軌道を変えて、この角度から……)

ただバカ正直に腕を伸ばすのではなく、その軌道一つ一つを計算してギンガは両腕を伸ばす。
両の手には数枚の木の葉が吸い込まれるように握られ、引きもどす間にもそれは増える。
気付いた時には、兼一が目標として出した十枚に届いていた。

「……………できた」
「うん、その感覚を大事にね。それが、制空圏の感覚だ」
「制空圏、ですか?」
「緊湊に至る事で自然と見えてくる、自分の間合いの事だよ。前からわかってはいたと思うんだけど、これでその感覚が少し強くなったんじゃないかな?
 熟練してくれば、間合いに入った物を反射的に尽く打ち落とせるようになる便利な技だよ。それも、死角から来ようがお構いなしにね」

兼一の言葉に、ギンガは思わず自分の掌を見つめ、それから自身の制空圏を意識する。
これまではどこかぼんやりとして曖昧だった境界が、今でははっきりと掴むことができた。
今までかみ合いきっていなかったピース、それを兼一がしっかりとはめ込んでくれたかのように。
静の武術家であるギンガは、元より自身の間合いは分かっていた。しかし、それを「制空圏」という技術として身につけてはいなかったのだが、それを身につけるきっかけを兼一が作ったのだ。

「良ければある程度形になるまで教えようかと思うんだけど……」
「い、良いんですか!?」
「言ったでしょ、御礼だよ。ギンガちゃんなら一週間もあれば、ある程度形になる筈だ」
「でも、一週間じゃ兼一さん達が帰る日を過ぎちゃいますよ」
「なに、乗りかかった船だし、これまでお世話になったお礼だよ。
多少遅くなる位、今更たいした問題じゃないさ」

あるいは、長老ならもっと短期間のうちに形にできるだろう。
だが、生憎兼一は指導者としては新米。余裕を以って、一週間と言ったのだ。
もし兼一の見立てが正しければ、それこそ一週間とたたずに朝宮龍斗と戦った時以上の完成度へと持っていけるだろう。それだけの潜在能力を、すでにギンガは備えている。

「もちろん、迷惑じゃなければだけど……」
「迷惑だなんて、そんなとんでもない! こちらこそ、是非お願いします!!」

兼一の手を取り、熱心に懇願するギンガ。
はじめはやや呆気にとられていた兼一だったが、ギンガに喜んでもらえたようで彼自身ほっとする。
兼一からギンガに送れるお礼など、言葉以外にはこれくらいしかないのだから。

(制空圏って、確かあの時兼一さんが言っていた『流水制空圏』って言うのと無関係じゃない筈。
 たぶん、この技の上位に位置する技。それなら……)

むしろ、自分から頭を下げてでも教わりたい技だ。あの時ギンガが受けた衝撃は、それだけのもの。
技の原理も極意もさっぱりつかめなかったが、あの時の光景は忘れられない。
無論、たった一週間やそこらであの技を会得できると思うほど、ギンガも愚かではない。
だからこそ、気付けばギンガの口からこんな言葉があふれていた。

「あの、もしご迷惑じゃなければなんですけど……」
「?」
「こっちにいる間だけでいいんです。私を、鍛えてもらえませんか」
「え?」

ギンガの言葉の意味、如何に鈍い兼一でもそれくらいはわかる。
制空圏に限らず、武術家として鍛えてほしい、それがギンガの願い。
ただ、不躾な願いとも承知しているだけに、その顔を俯かせてどこか申し訳なさそうにしているが。

「勝手なお願いだってことはわかってます。門下生でもない私に技を教えていただけるだけで、本来は満足しなきゃいけない所だってことも。でも……!」
「いや…それは、別にかまわないけど……」
「本当ですか!?」

喜びにあふれた顔つきで、ギンガは俯かせていた顔を挙げて兼一を見つめる。
花開かんばかりの笑顔に、むしろ兼一の方が御礼を言いたくなってしまう。
実際、兼一からすれば技を教える事も鍛えることもやぶさかではない。
友人であり恩人である少女の願い、どうして断る事が出来ようか。
だがその前に、一つだけ聞いておかなければならない事があった。

「でも、僕はシューティングアーツの事は良く分からないし、変な鍛え方をするのはまずいんじゃ?」
「…………さっき、伸び悩んでるって言いましたよね」
「あ、うん」
「今の私は、母さんに全然及びません。でも、いつかは追いついて、母さんが教えてくれたシューティングアーツを、もっと高みに引き上げたい。それが、昔からの夢の一つなんです」

星空を見上げながら、ギンガは幼い頃の夢を語る。
母を亡くして以来、ギンガはずっとそれを目標の一つにして来た。
全ての教えを受ける事は出来なかったが、それでも母に追いつきたい。
追いついて、いつか母が至れなかった高みに手を伸ばし、この技術を高めたい。
そう思って努力してきて、壁にぶつかり、今その壁を破るとっかかりを見つけた。

「今までのやり方が悪かったとは思いません。でも、母さんの後を追っているだけじゃダメなんじゃないかって、最近思う様になったんです。私と母さんは別の人間で、私は母さんにはなれない。
 なら、私は私のやり方で上を目指すべきなんじゃないかって」
「それが、僕に教わるって事?」
「全く別の流派の教えを取り入れることで、見えてくる物もきっとあると思うんです」

決然と、強い意志を宿した瞳でギンガは兼一を見る。
その瞳は、兼一にとってもどこか懐かしい輝きを宿していた。

(良い目をしている。自分の道を定めて、進んで行く覚悟を持った眼。
 一番近いのは、トールさんかな? こんな眼をされちゃ、断れないよね)

兼一の心を動かすには、充分過ぎるその輝き。
ただ鍛えるだけなら別にかまわないと思っていた兼一も、考えを改める。
鍛えるなどと生ぬるい事は言わない。例え短い時間でも、ギンガが次のステップに進む為の土台を築く。
その為に必要な全てを叩きこむ事こそが、自身の務めである事を兼一は悟った。

「僕は弟子も持った事がない未熟者だけど、それでもいいなら…喜んで」
「はい! よろしく、お願います!」

兼一がギンガに手を差し出すと、ギンガもまた強くその手を握り返す。
かつて美羽は言った「本当に武術をしたい人の前には師が現れる」と。
自分がギンガの師に相応しいかは分からないが、これこそがそうなのだろうと兼一は思う。



ちなみに、この数日後ゲンヤはギンガに「後悔しているか」と問うた。
それに対するギンガの返答は……

「後悔してるに決まってるじゃないですか!?」

だったという。まあ、当然と言えば当然なわけだが。
ついでに言うと、ギンガが兼一の教えを受ける様になった事により、なし崩し的に翔も兼一の指導下に入ったのだった。一応平和的にカタも突いたので、めでたしめでたしと言えなくもないだろう。






あとがき

とりあえず、これで翔はギンガの教え子から兼一の下へ移ることとなりました。
ついでと言うかなんというか、ギンガも一緒にくっついてきちゃいましたけどね。
今のところ、ギンガ自身の武術家としてのレベルは「制空圏は把握していても制空圏の戦い方そのものは修めていない緊湊」と言った感じ。レベル的にはボリスと初めてやりあった頃の兼一くらいです。
まあ、そこに魔導士としての能力も付与されるので、そこそこの達人が相手でも渡り合えるんですけどね。

ちなみに、今回のタイトルである「断崖」は、梁山泊の指導方針が由来。
ギンガにしても翔にしても、兼一の指導下に入る以上、それはつまり崖からの転落も同義なのですよ。

さて、次回はいよいよ梁山泊…というか地球に帰還、の予定。
仮の師弟であるギンガと兼一がどうなるかは、その展開次第だったりしますね。



[25730] BATTLE 9「地獄巡り 入門編」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/04/04 00:26

白浜親子がミッドチルダに流れ着いて早一ヶ月半。
色々あれやこれやと問題が起きはしたが、それらもなんとか無事終息した。
その代償に当事者三人の人生が大きく変わったが、それが良かったのか悪かったのかはまだ誰にもわからない。
それは、各々が長い時間をかけて答えを出していくことなのだから。

しかし、一つだけ確定している事がある。
ギンガと翔、この二人がこの日より後悔のどん底に叩き落とされるという現実だけは間違いない。

そして、早朝。
前日の事もあって、とりあえずは暇を与えられたギンガと兼一の特訓が開始されようとしている。
当然、二人が暇なら翔も家にいるわけで、ギンガと翔はこれより行われる訓練に心を躍らせていた。
知らない事は果たして幸せなのか、それとも不幸なのか……。
とりあえず二人が庭先に出ると、そこには何かの準備をする兼一の姿があった。

「あ、おはよう二人とも。今日は良く眠れたかい?」
「ぅ、うん……」
「あの、兼一さん…………………大丈夫、なんですか?」
「父様、ちゃんと寝れた?」

そう、兼一の眼の下にはこれでもかとばかりに隈が浮かんでいる。
翔は「眠れたのか」と問うたが、どこからどう見てもちゃんと寝れたようには見えない。
もしや……ではなく、間違いなく徹夜したに違いない。
そんな二人に向けて、兼一はどこかテンションのおかしな笑顔を浮かべている。

「いやぁ、自分で修業するならともかく人に修業をつけるなんてほとんど初めてだからさ!!
 あれもこれもと考えてたら夜が明けちゃったんだよね!!
 でも安心して! 日の出辺りで『降りてきた』から!!」
「は、はぁ……」

まるで遠足や運動会を楽しみにする子どもの様である。俗に言うナチュラルハイという奴なのだろう。
本の虫であり、梁山泊に入門するまでは読書をしているうちに徹夜するどころか昼夜逆転することなどざらだった兼一だが、二人の修業メニューを考えているうちに変なテンションで夜を明かしてしまったらしい。
身近な人に初めて指導をする、その嬉しさを知るギンガには兼一に対する共感がないわけではないが、あまりにも様子がアレなので、内心では割と引いていたりする。
というか、『降りてきた』というメニューは本当に安心していいのだろうか。

「えっと、それで練習メニューの方は?」
「もちろんバッチリさ!! 今日は初日だし、昨日あんなことがあったばっかりだからね。軽く流す程度にしたよ! ちゃんと…………殺さないようにして組んであるからね!!」
「そうですか……………って、今ものすごく物騒な事を言いませんでした!?」

極自然にこぼれた兼一の言葉にうなずきかけるギンガだったが、寸での所で待ったをかける。
無理もない。『軽く』という部分には正直落胆しないでもなかったのだが、そこに『殺さないように』などと付け加えられては無視できない。
明らかに前後で矛盾しているというのもあるが、何をどうしたら特訓で死の危険が伴うのか。
だが、それこそが兼一にとっての日常であったりするわけで……。

「え? どの辺が?」
「ですから、『殺さないように』ってあたりです!!」
「ああ、そこ。いやぁ、僕って教え慣れてないし、加減もよく分からないからさ。今僕がやってる修業のノリでやったら殺しちゃうかもしれないし、その辺はちゃんと加減を……」
(じょ、冗談よね、冗談)

ギンガは努めて兼一の言葉を好意的に解釈しようと努め、その単語を心の内で繰り返す。
しかし生憎と、兼一の言っていることは冗談でもなければ嘘でもない。
ギンガが考える『軽く流す』と、兼一の考える『軽く流す』では、天地ほどの差がある。
そのことを、まだギンガも翔も知らない。

「父様、僕はどうすればいいの?」
「ああ、今日は基礎体力づくりがてら、今の二人の身体能力を見ようと思ってるんだ。
だから、基本的な内容自体は同じだよ。程度が違うだけで」
「ふ~ん……」
「まあ、なんだ。とりあえず二人は…………………覚悟だけはしておいて」

翔の質問に答えながら、兼一は実に“いい笑顔”を浮かべている。
それはこの後、二人にとって不吉の象徴となる、本当に“良い笑顔”だった。



BATTLE 9「地獄巡り 入門編」



「じゃあ、まずはギンガちゃんはこれをつけて」
「これって、確か魔力封じの手錠……ですよね?」

ギンガに手渡されたのは、前日にギンガに付けられた物と違って最新型の魔力封じ。
おそらく、ゲンヤあたりに頼んで貸してもらったのだろう。
まあ、大体この使い道は想像がつく。

「うん。僕は魔力の鍛え方も魔法の事もさっぱりわからないから、鍛えるのは身体の方だけになるでしょ。
 それなら、魔法で身体能力を強化した状態で鍛えるよりも、純粋に素の状態で鍛えた方がいいかなって。
 魔法を使いながら鍛えても良いんだろうけど、素人が下手な事をしない方がいいしね」
「まぁ、そうですね」

強化系の魔法を使いながら鍛えれば、魔力量の増強や魔法の練度を挙げることに繋がるかもしれない。
しかし、実際問題としてその方面に関してはずぶの素人が思いつきでそんな事をすべきではないのだ。
余計な事をすると、本当に身体を壊す恐れがある。
少なくとも、兼一が魔法や魔導師についてもう少し詳しくなってからでないと、その訓練法はすべきではあるまい。

「さて、手始めに軽く走ろうか……」
「ねぇ、父様。走るの好きだけど…………………………何それ?」

そう言って翔が指し示したのは、兼一の背後にある岩の塊。
しかも唯の岩ではない。酷く大雑把に人間の形を象った石像。
四肢があり頭もある、だが顔や細部の造形は全くなされていない。
芸術的な価値は皆無、素人から見てもそれは明らかな代物である。

「ああ、これね。これは僕が良く使っている修業道具をマネて作った物でね、その名も『投げられ地蔵』!」
「な、投げられ……?」
「これ、父様が作ったの?」
「ははは、やっぱり岬越寺師匠みたいに上手くはいかないねぇ。
 人型にするだけでも山ほど失敗しちゃったよ!」

その奇妙奇天烈摩訶不思議な名前に呻くギンガだが、白浜親子は特に気にした素振りも見せない。
だが、兼一の背後にある劣化版投げられ地蔵のさらに後ろには、いくつもの失敗作の残骸が詰まれている。
仮にも人型の物体が山積みにされている光景は、正直中々に気味の悪い物があった。
ギンガとしては頭の痛くなるものがあるが、とりあえず今は無理にでも視界から外す。
重要なのは、それをいったい何にどう使うのかという事なのだから。

「それで、それをどうするんですか?」
「担ぐんだよ」
「…………えっと、誰が?」
「ギンガちゃんが」
「いつ?」
「今から」
「担いで走れと?」
「うん」

ギンガの問いに、兼一は迷いなく頷く。
再度ギンガは兼一の背後に立つ、彼とほぼ同じ背丈の投げられ地蔵を見て顔を青くする。

今のギンガは一切の魔法による強化ができない少女。
格闘家らしく体は鍛えているし、元の体質的にも筋力は優れている。
だが、正直数十キロはあるであろうこんな物を担いで走るとなるとただ事ではない。
出来ないとは言わないが、一キロ休まずに走り続けるだけでも大変だ。

「翔はこっちの小さい方ね」
「って、翔にもやらせるんですか!?」
「え?」

『何当たり前のこと言ってるの?』と言わんばかりの顔でギンガを見る兼一。
そんな反応を見て、非常識なのは自分の様な錯覚を覚えるギンガ。
しかし、必死に頭を振ってその錯覚を振り捨て、ギンガは兼一に詰め寄る。

「何考えてるんですか!! 翔はまだ子どもなんですよ!
 まだ身体もできてない時期に無理な事をしたら身体を壊すじゃないですか!!!」
「大丈夫、だから壊れそうで壊れないラインを見極めてやって行くから」
「いったい何がどう大丈夫だっていうんですか、それのどこが!!」

まさか、こんな常識の通じない相手だとは思っていなかったのだろう。
ギンガは珍しく声を張り上げ、頭が痛そうに兼一に文句を言う。
だが、そんなギンガの剣幕などどこ吹く風と言った様子で、兼一はまるで取り合わない。
いや、取り合わないというのは正しくないか。一応は『ああ、そう言えばそういう反応が普通なんだよね』的な顔をしているので、全く思うところがないわけではないようだ。

「まあまあ、落ち着いてギンガちゃん。とりあえずだまされたと思って、ね?」
「~~~~~~~…わかりました。訓練をつけてくださいと言ったのは私ですし、訓練が終わってから考えることにします。翔も、無理し過ぎない様にね」
(……………それって、少しくらいなら無理しても良いってことなのかな?)

カエルの子はカエル、ではないが、ギンガの配慮も空しく割と命知らずな事を考える翔。
しかし、ギンガはすぐに思い知ることになる。訓練が終わってから考えるなどという自身の判断は悠長にも程があった事を。訓練が終わるまでなど待つ事はない、始まってすぐにだまされていたことに気付くのだから。

「じゃ、早速行こうか…………………………隊舎まで」
「待って待って待って待って待って、ちょっと待って――――――――――――!!
 隊舎までって、ここから何キロあると思ってるんですか!?」
「父様、ここから歩いて行くの?」

はっきり言って、隊舎までこんな荷物を担いで歩いて行くなどある種の拷問だ。
決して遠いわけではないが、それでもそこそこの距離はある。
断言しよう、行くだけでも体力を使い果たしかねないと。
とはいえ、ギンガも翔も勘違いをしている。兼一は一言も、『歩いて』などとは言っていない。それどころか……

「何を言ってるんだい、さっき言っただろ? 『走る』んだよ」
「「……………………マジ?」」
「マジに決まってるじゃないか。あ、ちなみにペースが落ちてきたら……電気ショックだからね」
(そう言えば、翔にも何か付けてると思ったら、そんな物を……)

ギンガと翔では重りに差があっても同じペースになる筈がない。
だが、そんなもの兼一には関係ない。
目と耳と気配できっちりしっかり二人を監視し、僅かなペースの遅れも許さないだろう。
その上、ギンガの手錠や翔に付けさせた腕環にはそんな底意地の悪い機能が付いている。
これでは、ペースを落とすことなど出来る筈もなし。

「さあ、逝くよ。修行の開始だ!!!!」
「「はぅあ!?」」

叫ぶと同時に、二人へ電気ショックを送るボタンを押す兼一。
二人は堪らず全力で走りだし、住宅街の中へと消えて行った。



  *  *  *  *  *



その後も、兼一の特訓という名の拷問は続く。
ようやく隊舎についたかと思えば、『じゃあそろそろ帰ろう』と碌に休む間もなくまた走らされ、当然ながらペースが落ちれば『遅い!! そんな調子じゃ日が暮れても今日の分の修行が終わらないよ!!』と叱られながらの電気ショック。挙句の果てに、それをギンガは十往復、翔は二往復ときた。
はっきり言って、これのどこが練習なのかと早速疑っている。
だが、実はまだまだこれは序章に過ぎなかった。

「何と言っても、武術の基本は足と腰。というわけで、そのままの姿勢でとりあえず……二時間いってみようか」
「に、二時間ですか!?」
「翔はホントに素人だし…………良いって言ったら終わりにしていいよ」
(それはつまり、様子を見ながらって事よね……そっちの方がよっぽどきついと思うんだけど……)

手の甲を上に向けた状態で失敗した投げられ地蔵の頭部と思しき石の塊を握り、膝を九十度に曲げた状態で「馬歩」をするギンガ。翔の場合は握っている石の大きさが違うが、それ以外ではやっていることには大差がない。
しかしそれでも、まだ幼い翔には十分すぎるほどにきつい。
何しろ、その口から洩れる声はすでに言葉になっていないのだから。

「ムキィ――――――――――――――!!!」
「ははは、そうそうその調子」
「むきゅ~~~……」
「はい、腕を下げない!!」
「あいた!?」

徐々に腕が下がってくる翔の先ほどと同様に電撃による「喝」が入る。
一応出力を加減しているようだが、やはり中々にショックは強いらしく、翔はすでに涙目だ。
で、ギンガもまあ状態としては大差ないわけで……。

「ふぐぐっぐぐ……お、おもぃ」
「そりゃ重くなきゃ筋トレにならないからねぇ……」
「こ、これのどこが軽いんですか!?」
「え? 軽いよ、重りが」
(…………この先どれだけ重くするつもりなの、この人は!?)

今頃になって、ようやくギンガは気付いた。
兼一が最初に言っていた『軽く流す』というのは、特訓の量や質ではなく、単純に使用する重りの重さに過ぎなかったということに。
まあ、実際には練習の質量ともに兼一からすれば充分『軽い』のだが。

「う~ん、でもやっぱり道具がないのが問題だなぁ……ゲンヤさんに頼んで『発電鼠』とか作ってもらえないかな? あ、それならいっそ、『おぶり仁王』とか『しめあげ地蔵』も欲しいかも」
(何を言っているのかよく分からないけど…………絶対碌なことじゃないわ!!)

悲しいかな、兼一に師程の道具作成能力はない。
もし彼にその十分の一の能力でもあれば、ギンガの修業内容はさらに過酷になっていただろう。
…………そういう意味では、まだギンガは幸運だったのかもしれない。

「良し、とりあえず丸太を組んでスルメ踊りの土台を作ろう。
それに制空圏の特訓用に杭も使いたいし、一石二鳥だよね」
「あの、現在進行形で筋肉が悲鳴をあげている私達の前で不吉な計画を立てるのはやめてくれませんか?」
「ゆ、指がちぎれるぅ~!」
「大丈夫、そう言ってちぎれた人はいないよ、翔。だって、僕もちぎれなかった」
((そういう問題!?))
「そういう問題だよ。とりあえず、限界だと思ってから五分はいけるね、経験的に」

イヤな方面に経験豊富な兼一である、人体の限界など体で理解している。
その兼一の経験が、二人を限界ギリギリまで追い込んで行く。
ちなみに、さりげなく心を読まれているのだが、今の二人にそれに突っ込む余裕はない。
何しろ、馬歩に続いてこれまたハードそうなメニューが待っているのだから。

「じゃあ次。脚を使わないで登ろうか……ロープを」
「例によって、またこの石像も一緒ですか?」
「あ、やっぱりもっと重い方が良かった?
 それとも、滑りやすい物の方が良かったかな? ロープってざらついてるから結構登りやすいんだよね」
「父様、たぶんギン姉さまが言いたいのはそんな事じゃないと思う……」

ベランダから垂らされた二本のロープを前で、二人は自分の足に括りつけられた地蔵に辟易する。
何しろ、この調子だと夢にもこの顔なしの地蔵が出てきそうで怖い。
だがそんな怖い想像も、続く兼一の言葉で頭の中から消滅した。

「ちなみに、ノルマのクリアが遅れた方にはペナルティを課すから、あしからず」
「……………翔、無理しないでゆっくりやっていいのよ」
「ギン姉さまこそ、怪我してるんだから無理しちゃダメだよ」

既に一杯一杯だというのに、これに加えてペナルティなど課されてはたまらない。
その点で想いを同じくする二人は、なんとか相手を出し抜こうと“一見”するといい笑顔で説得し合う。
はっきりいって、少し前までの中の良さなど軽く消し飛んでいる。
生存本能のなせる技とは言え、実に悲しい現実がそこにはあった。

「ほらほら、よ~い…ドン!」
「「くかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」
「うんうん、やっぱり競わせると違うなぁ」

とまあ、一から十までこんな調子である。
そうして数時間後、体力づくりという名目の地獄が終わった時、一つの命も燃え尽きようとしていた。

「さて、技の稽古はこのメニューが終わって立ってられるようになってからかな、じゃないと死んじゃうし。
まあ、今夜は良く寝て疲れを残さない様にね」
「翔――――――――――――!! 傷は深いわよ、ガッカリしなさい!!」
「も…ダメ……」

汗まみれの泥まみれになり、真っ白になって横たわる翔。
文字通り、その命は風前の灯だ。まあ、ギンガもいい感じで錯乱しているらしいが。
ギンガとて決して余裕があるわけではないのだが、そこはそれ先達としてのプライドだろう。
本当は立っているのもきつい状態でも、震える膝を奮い立たせている。

「それじゃ、ギンガちゃんは少し休んだら技の稽古に入ろう。
 思っていたより基礎体力があって驚いたけど、嬉しい誤算って奴だね」
「は、はぁ……(まだやらせる気なの?)」

はっきり言って、今ギンガが立っていられるのは体力的な余裕によるものではない。
というか、体力などとうの昔に使い果たし、今は意地とプライドで立っているような状態だ。
正直、次の修業などやらされても最後まで立っていられる自信がまるでない。
まあそれでも、少しでも休むことができれば幾分かましだろうと思う。
しかし、その予想すら早々に裏切られるのだが……。

「はい、休憩終わり」
「早っ!? 十秒経ってないですよ!?」
「少しって言ったでしょ?」
(少し過ぎる……)

小首を傾げる兼一に、ギンガは内心の戦慄を隠せない。
ここまで一切休みなしでトレーニングをこなし、ようやくめぐって来た休みも早々に終了。
今日中に自分の体が壊れる予感を、ギンガは今まさにひしひしと感じていた。
特訓の内容と量もそうだが、何よりその詰め込み具合が常軌を逸しているのだから。

ギンガとて基礎を疎かにしていたわけではないし、実際彼女の基礎体力は同年代の中でも非常に高い。
ただ、この場合は相手が悪い。例えるなら、ギンガの基礎はビルをはじめとする高層建築の基礎工事なのに対し、兼一が求めるのは『城』だ。戦を前提にし、高く広い範囲に渡って作り上げるその建造物の基礎ともなれば、高層建築の比ではない。

「だけど、ここまで身体が出来てるなら一安心だ。手始めに、受け身の練習から行こう………千本ほど」
「う、受け身って!? ミッドではほとんど投げ技なんてないんですよ!」
「でも、覚えておいて損はないと思うよ。ついでに投げ技の基礎も教えるつもりだしね」
「な、投げもですか?」
「うん。ダメージを与えるのは難しいけど、体勢を崩す技術だけでも有用だからね。じゃ、早速行くよ」
「せ、せめて心の準備だけでもさせてくださ――――――――――――い!!!」

問答無用、そんな四字熟語が頭をよぎる余地もなく、ギンガの体が宙を舞う。
本来兼一は女性は殴らない主義だが、これは投げているだけなので問題ない…………らしい。
そうして、永遠とも思える千本受け身を終えた時のギンガはというと。

「お~い、生きてる、ギンガちゃん?」
「……………………」

返事がない、まるで屍の様だ。いや、実際問題としてその生気の無さは屍に等しい。
生きてる証拠として身体が痙攣しているが、本来悠長に「生きてるか」などと聞く場面ではない。
だが、兼一の感覚は徹底的にずれていた。それはもう、絶望的なまでに。

「ダメだよ、こんなところで寝たら風邪ひくじゃないか」
「             」

本当は「そういう問題じゃないでしょ」と突っ込みたいギンガ。しかし残念ながら今の彼女にそんな余力はない。
慣れない受け身をいきなりこれだけやらされたのだ、まあ無理もないというか当然の結末だろう。

「師父秘伝の漢方があれば一発なんだけどなあぁ」
(一発って、一発であの世逝きとかじゃないですよね?)
「こんな時に実感する、師匠の偉大さ」

さすがに、師程の技能はない上に、そもそもミッドでは材料がそろわない。
兼一は改めて、自分がどれほど恵まれた環境にいたのかを実感していた。
まあ、それはともかくとして。さしあたって問題なのはギンガをどうするかだが……。

「しょうがない…………ほっ!」
「ぶはっ!」

手っ取り早く、バケツに汲んだ水をぶっかける兼一。
朦朧とした意識も覚醒したらしく、若干むせながら起き上るギンガ。

「ま、まだやるんですか?」
「むしろ、これからが本番だよ。投げの練習をするなら、やっぱり疲れてる時が一番だからね」
「あの、それはどういう……」
「一部の例外をのぞいて投げは技3の力7でやる物なんだけど、はじめのうちはやっぱり腕力でやりがちなんだ。
 なら、もうほとんど力が出せない状態にしてからの方が、変な癖をつけずに済むでしょ?」

確かに、ギンガの腕力なら多少無理をすれば相手を投げる事は出来る。
だがそれは、決して理にかなったやり方ではない。
そもそも力を抜こうとしても、人間無意識のうちに力が入ってしまう物。
ならば、その力が上手く出せない状態にしてしまった方がいい練習になるのだ。

(つまり、この状態も全部計算づくって事なのね……)

ただキツイ特訓をさせて疲弊させたわけではなく、その後に繋がるメニューの組み方。
指導者としては初心者というが、ギンガの目から見ても兼一の組み方は非常に繊細かつ先を見通している。
徹夜して考えたというのは、伊達ではないらしい。
まあ、その内容がとんでもなくぶっとんでいるのは、この際なので目をつぶる事にしよう。
そうして、ギンガの前に道着によく似た服を着せられた劣化版投げられ地蔵が置かれる。

「まずは注意事項。投げはマットなどの柔らかい床以外で使うのは非常に危険なんだ。上手く受け身を取らないと頭を打って死んじゃうかもしれないからね。魔導師ならバリアジャケットがあるから、よほどのことがない限り大丈夫だと思うけど、使う際には気をつける様に。それはわかるね?」
「まぁ……身体で理解させられましたから」

つい先ほど、散々投げられて幾度となく危うく頭を打ちかけただけに、その声に滲んだ影は濃い。
断言しよう、視界が回る度に命の危険を感じたし、受け身を取った直後は生きた心地がしなかった。

「いいかい、投げ技でまず意識しなければならないのは、重心だ」
「人間の重心って言うと……おへその下あたりですよね」
「そう。身体の中心であり、質量の中心の事だね。極端な話、頭と足を押さえて……」

解説しながら、兼一は投げられ地蔵の頭に手を、足に右の足の裏を添える。
そして、そのまま勢いよく…………払った。

「崩してやれば人間は倒れるんだよ」

へその下あたりを中心に、投げられ地蔵が扇風機の如く回転する。
特に力を入れた素振りもなく為された光景に、ギンガは思わず息をのむ。
確かに魔導師相手に投げでダメージは狙いにくい。兼一ほどの実力があれば話は別だが、ギンガが一朝一夕で身に付けた投げが決定打になるとは思えない。
だが、バリアジャケットなどの恩恵により投げへの警戒が薄い分、技をかける事自体は可能だろう。
そして、ダメージを与えられなくてもこうして体勢を崩すだけで決定打を狙いやすくなるのは明白。
兼一の言う通り、覚えておいて損はない。その事を、ギンガは思い知る。

「とはいえ、人間は丸太や地蔵じゃないからこんな簡単にはいかない。大なり小なり体勢は動くし、重心の位置もずれる。他にも、一方に引けばそれに抵抗しようとしてねばるだろうね、当然。この辺りは生き物としての反射の問題で、訓練してなくてもする事だから」
「となると、簡単には投げられませんよね」
「そうだね。だから、投げには必ずフェイントが入るんだ。というよりも、フェイントを入れずに投げるのは至難の業だよ、出来ない事もないけど」

例えば相当に腕力や体格に差のある場合だが、ギンガは体格的にも筋力的にもそこまで図抜けているわけではない。平均的な女性の身長よりはかなり高いし、生来の体質や魔導士としてのスタイル的に筋力には優れている。
しかし、だからと言って他の追随を許さない程でもない。
そんなわけで、その話自体はあまり意味がないのである。

「ここで問題。引いても押しても相手がねばる場合、そんな時はどうしたらいいと思う?」
「フェイントを入れても耐えられるとなると……覆いかぶさる様にして一緒に倒れて、関節技に持ち込むとかですか?」
「うん、それも手だね。ただ、関節技や寝技は極めてる間に他の敵に襲われる可能性もあるから、そういう風な使い方だと多対一には向かないけど」
「なら、相手を殴って……ってそれじゃ違いますよね」

第二案を口にしかけ、すぐにそれをやめるギンガ。
それでは投げ技ではないし、兼一の問いに対する答えにはならないと思ったらしい。
たしかに、それが柔道ならそうだろう。
だが、今兼一が教えているのは柔道ではなく柔術なのである。

「いや、それも正解だよ」
「だけど、柔術って投げ技なんですよね?」
「そうだけど、当て身とかの打撃系の技もあるしね。柔術の場合、当て身は相手の意識を逸らしたり体勢を崩したりするための布石がメインだから……まあ、そっちは追々。
でも、これにはもう一つ正解があるんだ。それはね……」

言いながら、兼一はギンガの前に右腕を差し出す。
ギンガは首を傾げながらも、なんとなくその腕を握った。
兼一がその場で軽く膝を折って前傾姿勢を取りながら前に一歩踏み出しつつ体勢を低くする。
そして、その体勢のまま一気に立ち上がると、その瞬間……

「こう!」
「っ!?」

ギンガの身体が、軽々と持ち上げられた。
兼一の腕力ならギンガ一人を持ち上げる事は容易いし、その事はもうギンガも承知している。
だが、今の兼一はそれほど力を込めたようには感じられなかった。

「これって……」
「さっき重心の話をしたけど、これがもう一つの答え。相手の重心の下に入りこむんだ」
「重心の、下に?」
「うん。ほら、荷物を持ち上げる時も下から持ち上げた方が楽でしょ、それと同じようなものさ」

解説しながら、ギンガを下ろす兼一。
前後左右ならば脚を踏ん張り耐える事が出来るが、上に向かっては不可能。
ある意味、これこそが一番抵抗の少ない投げ方なのである。

「というわけで、その点を意識しながら……投げの練習をしてみようか。
 重心を意識しながら、腰を密着させる事。いいね?」
「は、はい!」

その非常に新鮮な技術に、ギンガの眼の色が変わる。
投げ技の存在を知らなかったわけではない。ただ、あまりにも主流からは程遠く、これまで学ぶ機会もその使い手と戦う機会もなかった。魔法を使えない一般局員の間ではそれなりに浸透しているのだが、ギンガの様な魔導師にはほとんど効果がない為だ。
しかし、こうして学んでみるとなかなかに興味深く勉強になる事も多い。
必倒の一撃につなげる布石としてなら、充分以上に有効な技である事を実感する。

ちなみに、この練習の後、ギンガは本当に腕が上がらなくなってしまい、夕食は兼一が作ることになるのだった。
まあ、それはギンガの投げ方がまだ不効率ということの証明でもあるので、要特訓と言ったところだろう。
そうして、ようやくその日最後の修業にようやく行きついたのだった。

「じゃあ、今日の仕上げに入ろうか」
(よ、ようやく……)

兼一の言葉に、思わず涙が溢れそうになるギンガ。
今まで彼女も自分なりの鍛錬と、武装隊の軍隊式特訓を受けてきた。
当然相応に厳しく辛いものだったが、その認識を今日根底から覆されたのだ。
そう、世の中には比較にならない程無茶な特訓をさせたがる変人がいるのだから。

「その様子だと、いい具合に四肢の力が抜けたみたいだね」
「というよりも、手足に全く力が入らないんですけど……」
「うん、それは実にいい事だね」
(ダメだ、何を言っても好意的にしか解釈してくれない)

暗に『手足が碌に動かないのに、これ以上何をさせるのか』と問うたのだが、柳に風とばかりに受け流される。というよりも、兼一的には全然予定どおりだったりするのだろう。
ギンガの精神はあきらめの境地に達し、もう何度ついたかわからない溜息と共に問う。

「ふぅ……それで、これから何をすればいいんですか?」
「そんなに難しい事じゃないよ」
「なんですか、その石……………って、ああ、アレの破片ですか」

そう言ってギンガが視線を向けたのは、製作に失敗した投げられ地蔵の山。
大方、アレらを作る時に出た破片か何かなのだろう。

「そうそう。やる事は簡単、今からこれを投げるから、制空圏の中に入った物だけを払い落す、簡単でしょ?」
(まあ、確かにやる事自体は簡単だし、今の腕の力でもできなくはないと思うけど……)

たしかに、出来なくはない。出来なくはないが、恐らくほとんど無理だろう。
何しろ、どれほどの量を投げ込んでくるかは分からない。その上、昨日今日身に付けたばかりの技術で、それら全てをたたき落とせる筈がない。故に、兼一の言う「簡単」というのは間違いもいいところだ。
確かにやる内容そのものはシンプルだが、出来るかどうかでいえばまだまだ困難だろう事は間違いない。

「参考までに、投げる威力は…………これくらいだから、ね!!」

兼一は軽く振りかぶり、その手に持った石を投げる。
投げられた石はとんでもない速度で空を飛び、瞬く間のうちに夕焼けに消えて一つの星となった。
もし壁にぶつかれば、壁を貫通してしまうだろう速度である。
それを見たギンガの顔が、今日一番の青ざめ方を見せた。

「……………………」
「あ、安心して。全部が全部あのくらいじゃないから」

その言葉に、盛大な安堵のため息が漏れるギンガ。
あんな物を今の魔法が使えない状態の自分が食らえば、それだけで死んでしまいかねない。
それを考えれば、兼一の言葉は天の恵みにも等しいだろう。
まあ、その致死性の投石をしている本人が言っているのだから、それもおかしな話なのだが。
ただし、この話にはまだ続きがあった。

「そうだね、大体全体の……………………七割くらい」
「…………………殺す気ですか!?」
「そんなことないよぉ」

ギンガの魂の叫びに、兼一は手と首を振って否定する。
なんというか、仕草が師匠に似てきている気がしないでもない。ギンガは知らない事だが。
とはいえ、ギンガとしてはそんな無茶な事をさせられては身が持たないどころか命が危ない。
シャレではなくマジで。

「ほらほら、怒らない怒らない」
「別に怒ってはいませんよ」
「そう? なら早速……」
「そうじゃなくて! その練習の趣旨を教えてください!!」
「ああ、それなら『最小限の力で攻撃を捌く』特訓だよ。
 今の状態だとほとんど防御もできないでしょ。だから、制空圏に入ってきた物だけを、弾ける物は弾いて無理な物は上手く捌く。これはそういう修業さ」

兼一もかつてやった制空圏の修業。それを下地にして考えた修業がこれだった。
あの時とは状況を始め何もかもが違うし、元より長老程無茶をする気もない。
まあ、そんな事露知らぬギンガからすれば、充分過ぎるほどに無茶な内容なのだが。

「そ、それはわかりましたが、いくらなんでも無茶過ぎませんか!!」
「そういわれてもねぇ……制空圏は精神状態が重要な技だからさ。どんな状況でも心を乱さず、明鏡止水の境地を維持する精神力を養うには、多少の無茶が不可欠なんだよ」
「むぅ……」
「なに、要は当たらなければいいだけさ。視覚に頼らず、自分の感覚を信じるんだ」
「………………………わかり、ました」

兼一の言葉に確かな何かを感じたのだろう。
不平不満はありそうではあるが、それを口にせずに首を縦に振るギンガ。
ただし、この修業の最中朦朧とする意識の中、ギンガは幾度となく「もうダメ――――――――!!」「いっそ殺してください!!」などなど、無数の絶叫をすることになるのだが、今の彼女は知る由もない。



  *  *  *  *  *



その晩。
限界まで酷使した身体は激烈なまでに休息を欲し、翔とギンガは夕食の間に眠りの世界へと旅立った。
そんな二人をベッドへと運んだ父親二人は、今縁側で杯を傾け合っていた。

「しっかし、あのギンガをあそこまで追いつめるたぁなぁ、どんな無茶しやがったんだ?」
「アハハハハハハハ……」

一応無茶をしていた自覚はあるらしく、兼一の乾いた笑い声が夜空に消えて行く。
思っていた以上にギンガの身体はしっかりしていたので、ついつい力が入ってしまったのは秘密である。

「まあ、それはギンガが自分で決めた事だし、俺がとやかく言う物でもねぇか。
ところでよ、あの有様で明日から大丈夫なのか?」
「それなら問題ありませんよ。鍼を打って、しっかりマッサージもしましたから、明日に疲れが残る事もありません。まあ、出来れば漢方も使いたかったんですけど、こればっかりは……」
「ってぇと何か。てめぇ、ギンガの身体を隅々まで撫でて揉んだわけか?」
「ちょっ!? なんでそんな事になるんですか!?」

確かにそんな表現もできるかもしれないが、知らない人が聞けば確実に誤解される表現方法だ。
ジトッとしたゲンヤの目に兼一は狼狽を露わにし、慌てふためいて弁明する。
弟子のメンテナンスは師の仕事、と言ってはたして納得してくれるだろうか。
などと兼一が悩んでいると、堪え切れない様子でゲンヤが噴き出した。

「クックックックッ……」
「げ、ゲンヤさん…まさか!?」
「わりぃわりぃ、おめぇがあまりにも期待通りの反応をしやがるもんだからよ」
「うぅ、人が悪いですよぉ」

兼一に邪なものがない事は承知していたのだろう。
その上でからかっていたらしいゲンヤの悪戯に、兼一は涙目で落ち込む。
というか、実はまだゲンヤの悪戯は終わっていなかったりするのだが……。

「ま、それはそれとして…………………………ギンガの感触はどうだった?」
「なっ!?」
「親の俺が言うのもなんだが、結構いい身体してただろ?
 おめぇだってまだ若ぇ男だ。それに反応しちまったって俺は何もいわねぇよ。
 だからほれ、洗いざらい正直にげろっちまいな……」

邪悪な笑みを浮かべて詰め寄るゲンヤのおかげで、その時の記憶がよみがえる。
疲れを残さず、より強い身体になる様行ったマッサージ。上腕や前腕、腰や首、脹脛や太股、果ては腹や尻まで。師の一人の様な邪心を封じ無心で行ったとはいえ、その感触は確かに記憶に残っているのだ。
極力思い出さぬようにしていた記憶がよみがえったことで、兼一の顔がドンドン紅潮していく。
如何に子持ちで既婚者とはいえ、十代の少女の張りのある肌や肉付きの良い身体の感触の刺激は決して弱くはないのだから。

「な、なななな何を言ってるんですかぁ!?」
「なにって、ギンガの身体の事だろ?」
「父親としてそれでいいんですか!!」
「別に何かおかしなことした訳でもねぇだろ。俺はただ、ギンガの体に触った感想を聞いてるだけだぜ?」

底意地の悪いニヤニヤ笑いを続けるゲンヤ。
兼一とてまだ二十代の若い男、その男の部分はまだ決して枯れたわけではない。
理性に寄らぬ本能の部分が反応してしまうのも、こればっかりは仕方がないだろう。元々スケベでもあるわけだし……まあ、男など基本的にそんなものだが。
とはいえ、生来の潔癖さもある上に亡き妻一筋のこの男、そのどうしようもない部分でも許せないらしい。
ついには頭を抱えて唸り出すものだから、ゲンヤもいい加減手を緩めることにしてくれたらしい。

「~~~~~~」
「ったく、おめぇはホントにからかいがいがあるよなぁ」
「僕をからかって楽しいんですか?」
「ああ、中々ツボにはまる楽しさだな」
「~~~~~~~~~~~~」
「クックックック、だからそういうところが楽しいって言ってんだよ」

なんだかよく分からない形相で歯ぎしりをする兼一を、おかしくてたまらないと笑うゲンヤ。
そこで唐突に、兼一の顔が真剣な物に変わる。

「ゲンヤさん、一つだけ聞いても良いですか?」
「あん?」
「ギンガちゃんって、以前身体を壊したり、内臓の機能が悪かったりします?」
「…………………………なんでぇ、藪から棒に」

何かを押し殺すかのような僅かな沈黙と、一瞬浮かんだ苦渋に満ちた表情。
それだけで、兼一にはゲンヤが何かを隠していることが分かった。
普通ならそれに気付いた段階で口を噤むものだが、『聞き難い事をあっさり聞いてしまう』のが兼一である。

「以前から思ってたんですが、ギンガちゃんの身体ってちょっと不自然な所があるんですよね。
 何て言うか、筋肉や骨の感触が変ですし、他にもいくつか気になる所が……」
(そういや、こいつはある意味人体の専門家だったか。
医者と違って、治すんじゃなくて作るのと壊すのが専門だが……)

考えてみれば当然の話で、この男がその事に気付かない筈がない。
むしろ、なぜ今まで触れて来なかったかの方が不思議なくらいだろう。
あるいは、今日ちゃんと触るまで気付かなかったのか……。

「いつ、気付いた?」
「違和感を持ったのは初めて会った時からです」
「じゃあ、なんで今まで聞かなかった…………いや、なんで今聞いた?」

今まで聞かなかった理由など聞くまでもない。
単純に、何かしら複雑な理由があるのだろうと慮ったのだろう。
あるいは、自分と相手の関係において重要な問題ではないと考えていたのかもしれない。
他にも理由は考えられるが、それほどゲンヤが気にかけることではない。
故に、聞くべきは今頃になってその事に触れたその真意だ。

「仮とはいえ指導することになりましたし、教え子の体の状態を把握するのは師の務めでしょう?
 それに、身体に爆弾があるのにそれを知らずにいるのはさすがに不味いですから……」
「ま、正論だわな」

兼一の答えは、まさしく非の打ちどころのない正論。
例えば内臓の働きを補助する機会を埋め込んでいたり、例えば過去に大きな怪我をしていたり。
数え上げればキリがないそれらの可能性があった場合、指導の仕方にも相応の配慮を要する。
それは指導者としては至極当然の配慮だ。

ただ、ギンガの秘密はそれらとは別の次元にあるものであり、だからこそ迂闊に口にするわけにはいかない。
少なくとも、ギンガ自身が口にするまで自身が口にすべきではないとゲンヤは考えている。

「とりあえず、おめぇが考えてるみたいな事はねぇ。
 大怪我だの大病だのはしてねぇし、身体がどっか悪いわけでもねぇ。それは保障する」
「……ですが、全身にそれがあるのはさすがに変ですよ。あれじゃまるで身体に機械が埋め込んであるんじゃなくて、機械と身体を……「それ以上は言うな!」……ゲンヤさん?」
「わりぃ、年甲斐もなく熱くなっちまったな。すまねぇんだが、この話は終わりにしようや。その内、ギンガから話すかも知れねぇ。それまでは…………待っててくれねぇか?」

危うく兼一は逆鱗に触れそうになるが、その前にゲンヤがストップをかける。
今そこに触れられれば、自分は冷静でいられない。その確信がゲンヤにはあった。

「……わかりました。ゲンヤさんがそう言うなら、信じて待つことにします」
「恩に着る」

ゲンヤがそこまで言うのなら、兼一とて深くは追求しない。
元から善意の塊の様な男だ、相手が嫌がる話を無理にする様な悪趣味な性格はしていない。
まあ、無意識的に相手の最も触れてほしくない所に触れてしまいがちではあるが……。

「そういや、昨日貸してやったアレはどうだった?」
「ああ、勉強になりました。確か、ゲンヤさんの奥さんの若い頃の……」
「おう、クイントの奴の記録映像だ」

実は昨夜、兼一はゲンヤに頼んでシューティングアーツの資料を貸してもらったのだ。
ギンガのスタイルはシューティングアーツ。そのギンガの指導をするのなら、やはりシューティングアーツへの理解は欠かせない。というわけで、そんな兼一に対し、ゲンヤはギンガの師であり今の彼女より上の使い手である亡き妻の記録映像を貸したのである。

「おめぇの眼から見て、アイツの動きはどうだった?」
「見事、の一言ですね。まさか魔法全盛のこの世界で、あそこまで武を磨き抜いた人がいたとは……もし存命だったなら、今頃達人級になっていても不思議はないと思いました」
「……………そうか。そう言ってもらえりゃ、アイツも嬉しいだろうよ」

兼一の嘘偽りのない賛辞に、ゲンヤは杯を傾けながら寂しげに微笑む。
ゲンヤの亡き妻、クイントが所属していた隊は管理局の中でも少々異色の部隊だった。
何しろ、その隊長が昔堅気の騎士である。
なんでも、若い頃に海の方に一時出向した際、本物の武人に出会ったとか何とか……。
そのため、その気質は武人と言っても差し支えない物で、生きていれば兼一とも馬があったのではないかと思う。
その影響だろうか、隊全体にもそう言った空気と気質が浸透していた。クイントもその例には漏れない。

「特に、魔法と武術の融合の完成度は素晴らしかったと思います。
 魔法だからできる事を武術に無理なく取り入れていましたから……いえ、アレは魔法に武術を取り入れたと言った方がいいのかな? とにかく、互いの長所を自然にまとめあげていましたよ。
ただ、その分やっぱり魔法が使えない人には向かない技術でもありますね」
「そうなのか?」
「はい。攻撃や防御、歩法に至るまで、魔法の使用を前提とした技が多いものですから…魔法が使えないと使えない技も多いですね」

考えてみれば当然の話で、魔法と武術を融合させた技術である以上、使い手は魔法を使える事が大前提。
魔法を使えないものがこの技術を習得しても、全てを身につける事は出来ない。
そういう意味で言えば、ある意味使い手を選ぶ技術とも言えるだろう。

「歩法なんかだと、魔法による身体能力の強化や足場を作れる事を前提にした技がそうです。
他にも、防御魔法や射撃系の攻撃魔法と併用する技もありますよね?」
「まあ、確かにそういうのは魔導師じゃねぇとつかねぇよな」
「後は……」

兼一の言葉にうなずくゲンヤだが、そんな彼を余所に兼一は顎に指を置いて何やら考え込む。
その様子をいぶかしむように、ゲンヤは首を傾げて問う。

「どうした?」
「あ、いえ。魔法を使えなくても使えない事はないんですが……魔法が使えないと非常に使いにくそうな技がありまして……」
「なんだ、そいつは?」
「…………………………………アンチェイン・ナックル」

『アンチェイン・ナックル』。それは、クイントが得意とした打撃技。
静止状態から加速と炸裂点を調整する撃ち方であり、これを極めればシールドもバインドも意味を為さなくなるという、文字通りの繋がれぬ拳。
その威力と効果は、達人である兼一をして感嘆せしめるに足るものであった。ただ……

「似たような打ち方なら僕もできます。ですが、アレは酷く使いどころが難しいですね」
「どういうこった?」
「打ち方にもよるんでしょうが、僕が見た全威力を炸裂する打ち方だと、タメとモーションが大きい様に思います。威力は素晴らしいんですが、技が出るまでの隙が大きいんですよ。外した場合もピンチになりますし」
「そういや、ありゃ確かインパクトに向けて加速していく打ち方だったか」

故に、加速の途中は無防備そのもの。
通常の突きの場合、そこまで細やかな速度の調整はしない。
確かに拳は振り抜くまでに加速していくが、その加速の度合いは決して一定ではないのだ。
そんな悠長に加速していく打ち方では、いくらでも隙を突ける…というのが兼一の見解だった。

「はい。正直、非常に繊細な身体操法ですね。ですが、その分使いどころが難しい。僕達が同じ技を使うとしたら、よほど決定的な隙を見せてくれた時位でしょうか。それ以外だと自殺行為ですし」
「魔導師の場合は、違うって事か?」
「ええ。魔導師の場合ですと、遠距離まで打撃の威力を飛ばせますからね。
隙を突かれない程度の距離から撃つ事が出来ますし、シールドやバリアもある。
そう言った『魔導士としての長所』があって、初めて実戦で運用できる技術なんだと思います」

本来、拳による打撃などというものは直撃しなければ意味がない。
ところが、魔導師の場合は直撃しなくてもダメージを狙える。拳に魔力を乗せ、それを飛ばすことで。
それができて初めて、あの技を実戦で使う事が出来る。
距離を置いた状態でもなければ、とてもではないが技を放つ前に潰されてしまうから。

「やろうと思えばできるか?」
「出来なくはないと思いますけど……やっぱり一苦労ですね。
まあ、そもそも修得までに長い時間が必要ですけど。
残念ながら、一度見た技を短期間のうちに盗む、なんてできないので」
(出来そうな気がする、ってのは秘密にしとくか)

ゲンヤの感想は間違いではない。弟子もそうだが、達人もまた隙あらば進歩する人種。
中には、一度見た技を短期間のうちに会得することができる者もいる。
とはいえ、生憎兼一はそこまで器用な武術家ではない。
彼は一つの技を覚えるのにも膨大な時間を要する。
なにしろ、『魂が磨り減る程の練磨』こそが兼一にとっての修業なのだから。

「そんなもんかい」
「あ、そうだ。実はちょっとお願いがありまして、ギンガちゃんの修行用にこんな道具を用意してほしんですよ。出来ませんかね? あ、これ大体のイメージです」
「ん、どれどれ…………出来なくはねぇと思うが、こんなもん何に使うんだ?」
「まあ、その辺りはその時のお楽しみということで……」
「まぁいいが、それなら俺のポケットマネーで出すぜ。さすがに隊舎の予算は使えねぇし」
「良いんですか?」
「問題ねぇよ。知り合いの技術部の連中に格安で作らせるし」

ゲンヤの言葉に、内心で『会った事もない技術部のみなさん、ごめんなさい』と謝罪する兼一。
この後、兼一の求める無茶な修業器具の要請に、幾度となく彼らは振り回されたりしなかったり。

そうして、夜は更け残り少ないミッドでの時間が過ぎて行く。
兼一と翔が地球に帰るまで、あと少し。






あとがき

まずは謝罪を、前回大ウソついてすいませんでした。
当初の予定に反し、修業パートが思いのほか長くなったため梁山泊行きはまた次回になりました。
最初はタイトルまでの所で済ませる気だったのですが、書いているうちにこれでは物足りないと思い、思い切ってここまで膨らませました。
多分、当初の予定である『軽く触れる』というのは、次回になるでしょうね。
というか、そうでもないといくらなんでも味気なさすぎますし。
やっぱり、ケンイチに修業シーンは欠かせませんから。

とはいえ、今回初めてとなる『指導者としての兼一』になったわけですが、非常に困りました。
『兼一は教えられる側』というイメージを払拭できず、どうしても書いていて変な感じになってしまいそうなんですよね。正直、上手くやれたのか不安でなりません。

あと、アンチェイン・ナックルについては私の独断と偏見です。
作中の描写とノーヴェやメガーヌの発言から、「なんかそんな気がする」と思ってのものです。
突っ込みどころは多々あるかと存じますが、なるべくソフトにしていただけると救われます。



[25730] BATTLE 10「古巣への帰還」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/04/11 01:55

光陰矢の如し、時が経つのは早いという喩である。
一週間という時間は過ごすには短く、本気で一つの物事に取り組むとなればさらに短い。
ましてやそれが、割と命懸けだったりすると尚の事。

「あ、熱っ! 熱いですよ兼一さん!? ちょっと火を弱めて――――――――!!!」
「あれ? 火加減を間違ったかな?」
「そんな悠長なこと言ってないで早く―――――――!!」

現在進行形で火炙りにされているギンガの叫びに、兼一は呑気に首をかしげる。
普通火炙りにされるという状況その物がありえない。それも、武術の修業でそんな事をするなど……。
だが、現実としてギンガは木製の鉄棒の中心に脚を括られ、その直下で兼一が火を焚いている。
常識的に見れば明らかな拷問なのだが、これもまた、兼一がかつて通った道なのだ。

「前々から言おうと思ってましたけど……こんなの殺人未遂じゃないですか!?」
「まったく、人聞きの悪い事を言わないでよ…………と言いたいところだけど、それは同感かなぁ」
「だったら!?」
「でも、修業って言うのはそういうものだよ?」
(だ、ダメだこりゃ……)

どこか黄昏た様子で微笑む兼一を見て、ギンガの胸の内を色濃い諦観が埋め尽くす。
とはいえ、それでもギンガの動きは一瞬たりとも止まらない。
当然だ、この修業…その名も『スルメ踊り(名前を付ければ良いというものではない)』は腹が火傷をする前に背を向け、背が火傷を負う前に腹向けることで腹筋と背筋を鍛える修行法。それも、本人の意思とは無関係に。
なにしろ、文字通り火で焼かれるような熱さが背と腹を襲うのだ。
そんな事になれば、誰だって死にもの狂いで限界以上に腹筋と背筋を酷使するだろう。
この修業を考えた人物は、間違いなく真正のドSである。
ついでに、そんなギンガと同時進行でもう一つの絶叫が蒼天に響く。

「うあ―――――――――――――!? もうダメだ――――――――!!」
「こらこら、舌を噛むから基礎トレ中は叫ぶものじゃないよ、翔」

息子の絶叫を軽く流しながら、珍妙な機械の中で走る息子に声をかける兼一。
その形態はネズミが運動不足解消に転がすアレその物。
商品名(笑)を「発電鼠(はつでんちゅう)改 マグナボルト」というのだが、これまた兼一がかつてお世話になった修業道具である。ゲンヤに無理を言って、「電気代節約になるから」と作ってもらったのだ。
うん、とりあえず翔やギンガにとっては笑い事ではない。

「これまで散々お世話になったんだから、せめて少しくらいは恩返しをしたいじゃないか」
「そ、それは僕も思うけど……!?」
「うん、いい心がけだね。御褒美にもう十分追加しよう」

息子の言葉に感動したかのように涙を拭いながら、兼一は発電鼠に備え付けられたタイマーを回す。
翔としては今すぐにでも逃げ出したいところなのだが、この修業道具、決して逃げられないようにフタが閉まる仕組みなのだ。これの名称が「改」な訳がここにある。
まあ、翔としてはそれどころではないわけで……。

「変な事言うんじゃなかった――――――!?」

『口は災いのもと』とは言うが、それにしてもあんまりである。
そして、隊舎の中庭で繰り広げられるそんな地獄絵図を眺めていたゲンヤは一言。

「いや、そりゃもう褒美じゃなくて罰ゲームだろ」

と、心底呆れかえった様子でツッコミを入れていた。
ただし、当の本人は4階にある部隊長室窓から階下を眺めている状態なので、誰の耳にも届いていない。
かと思いきや、兼一の耳にはしっかりはっきり届いていたりする。

「イヤだなぁ、ゲンヤさん。これは子の成長を願う親心ですよ」
「スパルタが裸足で逃げ出すような親心だな、オイ」

もういい加減兼一の非常識さには慣れたらしく、先の呟きを聞かれていたことには特に驚かない。
その程度の事に驚いていては、この男と付き合っていられないと達観しているのだ。

とはいえ、彼としてもできれば隊舎の中庭でこんな内外にとって傍迷惑な特訓は勘弁してもらいたい。
何しろここのところ、近隣住民から悲鳴と断末魔が聞こえるとして苦情が後を絶たないのだ。
それどころか、隊舎内で拷問でもしているのではないかと噂される始末。
あながち否定しきれないだけに、ゲンヤとしても大いに対処に困って胃の痛い思いをしている真っ最中。
だが、それももう直終わりとなると一抹の寂しさが……。

(いや、そんなもんは欠片もねぇけどな。正直、これっきりと思うと小躍りしてぇところだし)

まあ、それだけ大変だったということである。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日…ひたすらに周辺住民に頭を下げたのは、今後永遠に残るであろうゲンヤの悪夢だった。

ところで、この地獄絵図に対して他の隊員たちはどうしているのか。
仮にも同僚であり、影で親衛隊があったりなかったりするギンガがこんな眼にあっているというのに。
その上、割とマスコット的存在になりつつある翔まで、だ。
誰か一人くらい助けに入ってもよさそうなものである。だというのに……。

「漢泣きしながら敬礼してないで助けてくださいよ!!!」
「磨り減る――――! 僕たちの中で何かが擦り減る―――――――――!!」
『いやだって、俺達まで巻き込まれたくないし』

早い話が、物の見事に見捨てられているわけだ。
当初こそ助けに入ろうとした者もいたが、そんな物は連日続く常軌を逸した特訓に慄いて途絶えてしまった。
当然、ギンガの様に兼一に教えを乞おうとする強者がいる筈もなく。
その結果、この地獄絵図はとりあえず黙認する方向でまとまってしまっているのだ。

「「薄情者――――――――――!!」」



BATTLE 10「古巣への帰還」



最早日課と化した地獄の修業。
とはいえ、幼い翔と職を持つギンガを一日中鍛えるのはさすがに無理がある。
兼一も学生時代は学業と修業を両立していた物だ。

そんなわけで、基本的に修業は朝と昼、そして夕方から夜にかけてに限定される。
まあ、そんな生活もいよいよ終わりを迎えようとしているわけだが。

「お呼びですか、ゲンヤさん」
「来たか、開いてるから入んな」
「失礼します」

昼の休憩時間を利用しての修業を終え、仕事に復帰してすぐにゲンヤに呼び出された兼一。
実を言うと、兼一自身その要件にはおおよその予想が出来ていた。
しかし、さすがにいきなり本題に入る事はないらしく。二・三の雑談の後に、ギンガの事に話が向かう。

「それで、実際のところどうなんだ?」
「どう、というと?」
「毎日アレだけ絞ってんだ、成果の方はどうなのかと思ってよ」
「そうですね……並みの相手なら楽にあしらえるくらいにはなったでしょう。
 相手の陣地を占領する戦い方、相手の動きの流れの読み方は一通り仕込みましたから」

元々ギンガは筋もよく、一歩を踏みこむ勇気もある。
土台を固め直し、ほんの僅かに後押しするだけで見る間に兼一の教えを吸収していった。
緊湊へと至った武術家の戦いは、殴り合いというよりも陣取り合戦や詰将棋に近くなる。
ギンガはその戦い方を、この短期間のうちに完全ではないにしろ身につけて行った。
まあ、兼一としてはもう少し教えてやりたい事があるのだが……。

「ただ、流水制空圏はまだ無理にしても、出来れば観の眼をもっと磨いておきたいところですね」
「観の眼?」
「高度な戦いで重要になる見方で、部分ではなく全体を見渡すことです。
 人間が見る事の出来る最大範囲を視野角というんですが、普段はその中心の一部分しか意識していません。
 その意識していない外側を見て、相手を塊として捉えるのが観の目なんです。
 これを磨く事で、相手の攻撃の気配を感じ取って予知することができるようになります」
「もしかしてよ、アンチェイン・ナックルが使いにくいとか言ってたのは……」
「ええ、よく観の眼を磨いた武術家なら予知は難しくないでしょう」

何しろ、アンチェイン・ナックルはモーションの大きな技である。
脚先から下半身、下半身から上半身へとつながる一連の動きは、優れた武術家なら予知は容易い。
予知してしまえば拳を振り抜く前に潰す事も、射程や有効範囲から逃れる事が出来る。
それ故に、魔法を併用せずに使うアンチェイン・ナックルは使いどころが難しいのだ。

「でも、もしあと半年…いえ、三ヶ月だけでも教えることができれば……」
「どうするってんだ?」
「高度な戦いが先読みの仕合である以上、読まれない攻撃、読めても対処できない技が開発されるのは必然だと思いませんか?」
「なるほどなぁ…当然お前さんにも、そういう技があると」
「ええ。例えば、超近接状態からの技であったり、限りなくノーモーションに近い状態からの技だったり、まぁ色々ありますよ。もう少し時間があれば、とっておきを教えてあげられたんですけどね」
(こいつのとっておきかよ、どんな技なのやら……ん?)

兼一のとっておき、そう聞いて興味があるやら空恐ろしいやらで苦笑いを浮かべるゲンヤ。
下手をすると、受けたら跡形も残らずに消滅してしまうような気すらしてしまう。
さすがにそんな事はない……と思う。長老なら一般人を蒸発させるくらいできそうだが。
とはいえ、アレがまさに必殺の突きである事は紛れもない事実。
緊湊以前の武術家が放っても、一般人が受ければ本当に命にかかわりかねない突きなのだから。
だが同時に、ふとある疑問が胸の内で湧いた。

「なぁ、そいつを今教えるわけにはいかねぇのか?」
「あ~、教える事自体は出来ますけど、まだギンガちゃんには早いですね」
「使いこなせねぇって事か?」
「それもありますね。基本的にあの手は高度な技なので、相応の実力がないと……」

まぁ、当然と言えば当然の話だ。
基本的には、簡単な技から始まり徐々に高度な技を習得していくのが自然な流れ。
いきなり力量に見合わない高度な技を授けられても、当然それを使いこなすことなどできはしない。
しかし、兼一のとっておきの場合それだけが理由というわけでもなかったりする。

「だけど、今考えてた技はちょっと特殊でして……」
「特殊?」
「ええ。アレは空手・中国拳法・ムエタイ・柔術の全身運動の要訣の上に成り立った技なものですから。
四種の武術の基本を着実におさえて初めて使えるので、今のギンガちゃんだと教えても使えませんよ」

無理もない話だが、ギンガが兼一の下で修行するようになってまだ一週間程度。
その程度でそれら四種の武術の要訣を完全に身につけるなど不可能だ。
兼一独自の技であるそれを会得するには、当時の彼と同じだけの基礎力を要する。
だが、もし習得することができれば、密着状態からノーモーションで最大パワー・スピードでの突きを放つことができるようになるだろう。それは、ギンガの今後を考えれば強力な武器となる事は明らか。
兼一としても、出来れば初めての教え子であるギンガにそれを教えてやりたいのは山々だ。

しかし、それが叶わない事も承知している。
何しろ、今日で兼一がギンガの修業を付けるようになってちょうど一週間なのだから。

「そうかい、やっぱ一週間はみじけぇわな」
「ですね」
「とはいえ、お前さんもこれ以上残るわけにはいかねぇしな」
「はい。せめて家族や友人達に無事くらいは知らせたいですし、向こうでの仕事もありますから」
「それが終わったらいつでも来い、と言いてぇ所だがそれも難しいしな。
 基本的に管理外世界の人間はこっちにこれねぇし、俺らも相応の理由もなしにそっちには行けねぇ。
 例えば、そっち出身でこっちで働いてたり、あるいはそっちに親戚でもいるんなら話は別だがよ」

中には、ほとんどそちらの世界と接点がないにもかかわらず管理外世界に住んでいる管理局員もいるにはいる。
だが、そんな物は本当に例外中の例外だ。
その人物達が海所属の次元航行艦の乗組員で、管理外世界に行くことが多いからできた事でもある。
陸に所属し、職務上管理外世界に行くことなどほとんどないギンガは気軽にでむくことはできないのだから。

「まあ、例外がないわけじゃねぇがな。例えば、こっちに移住して職を持つとかよ」
「魅力的なお話なんですけどね……」

ゲンヤの言葉に、兼一は苦笑を浮かべて言葉を濁す。
魅力的と感じているのは間違いなく本心だ。翔はやはりギンガといる事を喜んでいるし、兼一自身ギンガを指導する日々に充実感を覚えている。
故に、ミッドチルダに移住してしまうのも一つの未来だろう。

しかし、地球もまた兼一にとって多くの大切なものがある。
思い出深き故郷であり、師や家族・多くの友人が住まう世界。
なにより、今は亡き最愛の妻が眠る土地。一時的に離れるだけならともかく、長く離れるとなるとなれば……。

「ま、気持ちは分かるつもりだからな。無理は言わねぇよ」
「すみません、御恩にほとんど報いる事も出来ず……」
「そっちは気にすんな。短かったが、中々に騒がしくて楽しめた。礼を言いたいのはこっちの方なんだからよ」

頭を下げる兼一に、ゲンヤは笑ってその必要はないと言う。
実際、白浜親子が来てからの日々はゲンヤにとっても善き時間だった。
これで終わってしまうのかと思えば、深い寂寥が胸に去来する程度には。
まあ、ギンガの修行が始まってからは少々胃の痛い思いもしたが、それも一種のスパイスと考えれば悪くなかった………………と思う。

「ほれ、向こう行きの書類だ。明日、こいつを持って本局に行きゃ帰れる。
 念の為、ギンガも一緒に行かせるから道に迷う事もねぇだろ」
「すみません、何から何までお世話になって……」
「そう思うんなら、今夜は最後まで付き合え。朝まで飲み明かそうや」
「あ、あはは……お手柔らかにお願いします」

こうして、ミッドチルダでの最期の一日は過ぎて行く。
この世界に来て得た物、明日には失うことになるであろう物への悲しみを紛らわすため、兼一もまた普段以上に酒を飲んだ事は言うまでもない。



  *  *  *  *  *



そして、明くる日。
これまで世話になった108の面々への挨拶を済ませた白浜親子は、ギンガと共に本局のポートへと向かった。
一応身元引受人の役目ということで、ギンガは兼一達がしっかりと家に帰るまでに見送ることになっている。
本来はゲンヤの役目なのだが、管理職である彼はあまり隊を離れるわけにはいかない。
という名目を使い、ギンガを送り出したのだった。
しかし、当のギンガは現在進行形で二人の付き添いをした事を若干後悔していたりする。

「あの、二人とも。できれば、その…あまり物珍しそうにしないでもらえると……」
「「おぉ~~」」
(は、恥ずかしい……)

ギンガの声など右から左。
全く聞こえた様子もなく、御上りさんよろしくSFな本局をキョロキョロと歩く白浜親子。
周囲からはヒソヒソと何かを囁き合う声が聞こえたり、あるいはクスクスと小さく笑う声が耳に届く。
兼一や翔はそれどころではない様子なので気付いていないが、ギンガとしてはとにかく恥ずかしくてたまらない。
だが、そんなギンガの羞恥を余所に、二人は田舎者丸出しではしゃぎまくる。

「父様! あそこになんかすっごい長いエレベーターが!!」
「それより上を見てみなよ、翔! ここ、十階近くぶちぬきの吹き抜けになってるよ!
 いやぁ、やることが派手だなぁ……」
「すご~い、窓の外に宇宙船がいっぱ~い」
「いやいや、むしろ宇宙とも違うこの景色がすごいね」
(仕方がない、仕方がない事はわかってるの。でも! もうちょっと落ち着いてください、特に兼一さん! あなた仮にも静の武術家でしょうが!!
 まさか、これも修行? この羞恥に耐えるのも修行なの!? ……………………って、そんなわけないじゃない!! むしろ、修業だったらどれだけよかったことか……)

修業を通り越して苦行に近い今の状況に、どこか悟りを開いたみたいに虚ろな表情を浮かべるギンガ。
ギンガとしては、ただただ一刻も早くこの羞恥プレイから解放される事を願うのみ。
しかし無情にも、手続きやらなんやらが遅れたことで、この筆舌に尽くしがたい羞恥プレイは軽く後一時間続くのだった。南無参。



そうして、やっとこさポートを通って三人は目的地である地球は日本に降り立つ。
その際、無意味この上ない苦行から解放されたギンガの表情は、最早言葉にできるものではなかった。
あえて言葉にするのなら、まるで「天国の門」でも開いたかの様な晴れやかさだったと言ったところか。
だが、結局最後までそんなギンガの様子に気付かなかった白浜親子は、思いの外あっさりした次元間転移に拍子抜けした様子を露わにする。

「何と言うか、こう……ありがたみがないね」
「うん。景色が線みたいになったり、いろんな色がチカチカすると思ってたのに……」
「二人とも、テレビとか小説の見過ぎです!」
「「え~~~」」

二人の色々とアレな文句に、ギンガは頭痛を押さえる様にしながらツッコミを入れる。
しかし、二人から帰ってきたのは実に子どもっぽい不平不満。
翔はまだしも、兼一までそれなことにギンガは心底頭が痛くなってきた。

「だって姉さま、世界から世界へ移動するって言ったらもっとこう……」
「そうそう。今まで感じた事もない感覚に襲われて、いっそ生まれ変わった様な感覚になるものじゃないの?」
(こ、この人たちは~~~~~~~~~~~)

その場にうずくまりたくなる衝動を抑え、深く深くため息をつくギンガ。
その後ろ姿からは、仕事に疲れたお父さんにも哀愁が漂っている。

「もういいです、ご期待に添えないで済みませんでした! ですから、早く行きましょう。
 兼一さん達のお宅は、ここからまだあるんでしたっけ?」
「そうだね、ここが海鳴なら電車で少し行ったところかな」

ギンガの問いに、兼一も気を取り直した様子で答える。今三人がいるのは、湖畔のコテージと思われる場所。
海鳴にはいくつかの転送ポートが設置されているが、これはその内の一つだ。
ここから駅に出て、その上で兼一達の家の最寄り駅に出ることになる。

まだ昼前ではあるが、やはりあまりのんびりしているわけにはいかない。
今まで一月半に渡って行方不明だったのだ、大事件に発展していても不思議ではないのだ。
その辺は地球在住の元管理局員やら現役管理局員が骨を折ってくれたそうだが、それでも帰るなら早めにした方がいい事に変わりはない。

とは言え、ギンガとしても初めての地球には中々興味を引かれるらしい。
今まで来た事がないとはいえ、それでも父方の故郷。魔法文明はないが、文化レベルはそこそこと聞いている。
だが、思っていたよりもミッドと変わらないと言うのが彼女の受けた印象だった。

「でも、海があって山があって、街にはビルや車が数えられない程。
 こうして見ると、ミッドの郊外と差なんてないですよね。月の数が違う位でしょうか?」
「ああ、それは僕も思った。まあ、だからこそ僕達もそんなに混乱しないで向こうに馴染めたんだろうけど」

実際問題として、まるで風景やらなんやらが違ったなら、兼一としてもそのギャップにもっと戸惑っただろう。
しかし幸いなことに、ミッドの郊外と日本の街並みにそう大きな差はなかった。
ギンガの言う通り、空に浮かぶ月が一つなのか二つなのか、その程度の違いくらいしかない。
深く良く見ればもっと違いはあるのだろうが、それでも一見した表面的な情報としてはそんな物。
おかげで、思いの外混乱することもなく、少し離れた地に来た位の感覚で済ませられたのだ。

「というか、月の事がないと普通に街を歩いている限りは別の世界って気がしないんだよねぇ」
「うん。あの機械のおかげでお話もできたし」
(そっか。そう言えば、普段はそう魔法に触れる事もないし、考えてみればそうなのよね)

二人の話を聞き、ギンガはようやく納得した。
二人が次元間転移に何かを求めたのは、自分達が確かに別の世界に行っていた実感を欲してなのだ。
中心街にでも行かなければ技術力の差をそれほど感じることもないし、他の面も似たようなもの。
精々電話をしても繋がらない位。これでは実感がわき難いのも当然だった。
まあ、そうと理解してもあの恥ずかしい反応や頭の痛くなる期待は勘弁してほしいのだが。

「さ、それじゃそろそろ行こうか。
早く父さんたちにも無事を知らせてあげたいしね」
「うん♪」

兼一が声をかけると、翔は満面の笑顔でそれに答える。
一ヶ月半に及ぶ異世界での時間は新鮮で楽しく、充実した時間だった。
だがそれでも、物心ついた時から一緒に生活していた祖父母と会えない寂しさは確かにある。
その点でいえば、翔の反応は至極当然のものだろう。

ただ、その笑顔にギンガは言葉にできない寂しさを覚える。
今まであまり実感の湧かなかった二人との別れが近い事を、ここにきて強く実感しているのだろう。

まあ、兼一としては本音を言うと折角海鳴に来たのだから、昔の知り合いに挨拶もしたい。
しかし、やはり順序として家族や師達に安否を伝える方が先だろうとも思い、今回は断念する。
とそこで、唐突に兼一はギンガにも顔を向ける。

「それに師匠達にも、ね。ギンガちゃんの事を紹介したいし」
「え? わ、私ですか?」
「当たり前だよ。短い間とはいえ、それでもギンガちゃんは僕の初めての弟子だからね。
 やっぱり、ちゃんと紹介したいじゃないか」
「えっと、その…恐縮です」
「ははは、そんなに固くならないで。ちょっと…………とても変わってるけど、気のいい人たちだから」
「そこ、言い直す意味あったんですか?」

ギンガのツッコミに、兼一はただただ笑って誤魔化す。
だが、ギンガもまたその顔は笑っている。『初めての弟子』厳密に言えば時を同じくして教えを受けた翔もその筈なのだが、兼一は敢えてそこでギンガを名指しした。
兼一にそう言ってもらえたことが、ギンガもまた嬉しかったのだろう。

尊敬し慕う武人に弟子と認めてもらえた、それが堪らなく嬉しい。
辛く苦しい修業だった。当たり前の様に後悔もしたが、それでも決して間違っていたとは思わない。
途轍もなく過激ではあるが、兼一がギンガや翔の事を心から思っている事を感じ取っていたのだろう。

しかし、二人の間に芽生えつつあるそんな師弟愛も、帰路の途中でさしかかった兼一の職場を前にしたところで雲散霧消することとなる。
何しろ、そこで彼らが目にしたのは、あまりにも予想外の現実だったのだから。

「え? 父さん? うちの会社の親会社がどうかしたの?」
「兼一さん、しっかりしてください! 『父さん』じゃなくて『倒産』です!」

実家の最寄駅に降り立ち、アーケードを通る中で自身が務める園芸店の前を通りがかった兼一達一同。
そこで目にしたのは、シャッターが下り、一枚の張り紙がなされた店舗。
そこには書かれていた内容を要約すると、『大量の負債を抱えて会社が倒産したので閉店します。ご愛顧ありがとうございました』というものだった。一店舗としては繁盛していたが、所詮はチェーン店。元締めである会社が潰れてしまえば共倒れなのである。

兼一は認めたくないようで虚ろな目をしているが、現実は変わらない。
おそらく、元から会社自体が業績不振だったのだろう。兼一達がこの世界を離れておよそ一ヶ月半。
一つの会社が潰れてしまうには十分な時間だった。

「姉さま、『とうさん』って何?」
「ああ、その……」

翔の問いに、ギンガはどう答えた物か思い悩む。
どんな言葉で翔に伝えればいいのか悩んでいるのもあるが、あまりにも痛々しい様子の兼一が最大の原因。
下手な事を言うと、ただでさえ真っ白になっている兼一が砂になって崩れてしまいかねない。
そこでギンガは、持っている限りの語彙を駆使してオブラートに包みながら翔に事実を伝える。
だがその努力も虚しく、子どもらしい無邪気さで翔は言いきった。それはもう、バッサリと。

「つまり、父様はお仕事がなくなっちゃったってこと?」
「はぅっ!?」
「兼一さん、しっかりしてください兼一さ―――――――ん!!」

『無職』、その単語が兼一の頭の中と頭上をリズムに乗って回り続ける。
家庭を支える責務を負った父親、それが職を失うと言う事は家計を維持するために必要な収入を失うと言う事。
今の時代、収入なくして生活は成り立たない。即ち、若干ニュアンスは違うが、家庭崩壊の危機である!!
まあ、兼一達は実家暮らしなので、兼一の父の収入に頼る事も出来るのだが……。
しかしさすがにそれは、色々と父親の威厳的に問題ありまくりなのである。

「無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職。
 脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り脛齧り。
 無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能。
 父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格父親失格」
「暗黒面に落ちちゃダメ―――――――!!」
「父様―――――――!! 戻ってきて―――――――――――!!!」

蹲り、地面に「の」の字を書きながらブツブツと何かを呟く兼一。
その背中には目に見えるほどの暗黒のオーラが立ち登り、周囲を陰鬱とした空気で支配していく。
そうして、アーケードの一角に暗黒空間が形成されてから十数分後。

「ご、ごめんごめん、取り乱しちゃったみたいだねぇ」
「と、父様? 大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。うん、何も問題なし!」
(すみません、全然大丈夫そうに見えないんですけど……)

取り乱したも何も、現在進行形でそのショックから立ち直れていないのは明白。
誰の目にも明らかな空元気なのだが、あまりにも痛々しくて触れることができない。

しかし、この場で打ちひしがれていても何も変わらないのも事実。
気を取り直して…とはいかないが、とりあえず現実を忘れることで前に進む力を取り戻す兼一。
全く以って、一点の曇りもなく後ろ向きである。

その後、今にもくじけそうな自分を誤魔化しながら帰宅した兼一とその他二名。
一ヶ月ぶりの我が家に帰宅してみると、管理局の工作の手際の良さに感嘆することとなる。
何しろ、あの家族愛の権化である父が……

「おお、ようやく帰ったか兼一、翔。まったく、長い旅行だったじゃないか」

と、これと言って心配した様子もなく出迎えたのだから。
どうやら、長期休暇を取って旅行に行ったということになっているらしい。
普通なら唐突過ぎて怪しまれそうなものだが、若い頃は梁山泊に住んでいた兼一である。
この程度の唐突さなどで、今更家族のだれも反応はしない。

ところで、若い頃の兼一は気付かなかったが、この元次という男。
子ども達の前では取り繕っているが、真正の親バカであり家族想いを通り越した家族狂い。
そんな父が一ヶ月半も留守にしてこの反応を見せたのだ。
それだけ、管理局の工作が上手くいったという事なのだろう。ただし……

「私も休みが合えば行きたかったのだが、どうしても会社の連中が許さなくてな。
 奴らめ、覚えておれ。子々孫々、末代まで祟ってくれるわぁ――――――――――――!!!」

魂の底からの呪詛。その言葉を聞き、ギンガや翔は顔をひきつらせて慄いた物だ。
しかし、兼一の場合となると若干反応が異なる。

(よかった、これでこそお父さんだ)

という、的外れというかなんというか、とにかく色々問題ありな安心の仕方をしている。
ちなみに、その後元次の会社の幹部職員の何名かが、原因不明の体調不良により退職、その後転落人生を歩むことになるのだが、兼一がその原因を知る筈もなし。知らないったら知らないのだ!!



  *  *  *  *  *



その後、ギンガの事を追求されたり暴走した父が出前の山を頼もうとしたのだが、それは母のフライパンの一撃で阻止された。
兼一や翔としては突如元次が力なく崩れ落ちるのはなれた光景なのだが、ギンガはその限りではない。
慌てふためくギンガだが、柔和な笑みを浮かべて「問題ない」と言い切る母さおりの迫力に気圧されてしまった。
そうして今現在、ギンガはそれはもうボロイ門の前に兼一達と共に立っている。

「えっと、兼一さん。ここが?」
「うん、ここが…そうだよ」
(まあ、確かに雰囲気はすごいけど)
「さあ、行こうか」

軽く一歩踏み出し、その門に指を添える兼一。
すると、まるで砲弾でも受けたかのように年季の入った門扉が跳ね開けられた。
だがその内心では、兼一の心はあまり穏やかとは言えなかったりする。

(うぅ、年甲斐もなく緊張するなぁ。考えてみると、教え子を紹介するって言うのもなんか恥ずかしいし)

かつて、若き日に初めてこの門をくぐった時にも似た緊張。
それを今、兼一は全身で感じていた。
ただ異世界で得た友人であり教え子である少女の事を紹介し、翔が武門に入る事を選んだことを報告する。
本当に、ただそれだけの事。にもかかわらず、兼一はがちがちに緊張している。
とそこで、兼一が進む方向が母屋からずれた。

「あれ? 父様、母屋はこっちだよ?」
「いや、こっちでいいんだよ、翔。多分、あの人たちは今道場の方にいるから」
「「?」」

兼一の言葉に、ギンガと翔は揃って首をかしげる。
普通、人がいるとすれば道場ではなく母屋だろう。
それはこちらの文化に疎いギンガにもわかる。にもかかわらず、兼一は迷うことなく道場へと足を進めた。

二人にはまだわからない事だが、達人という人種はただそこにいるだけで強大な気の波動を放つ。
並みの物には感じ取れないそれだが、兼一もまた達人。
よく知った気の波動がある一点に集中している事を感じ取るのは容易い。
その彼の感覚が教えてくれる、師達は今、母屋ではなく道場に集結している事を。

そして道場の戸を開けば、兼一の言葉通り、六人の師達が揃っていた。
皆一様に表情が引きしめられているが、逆鬼などはその顔にどこか憔悴の跡が見える。
恐らく、今日のこの日まで兼一と翔の安否を案じ続けていたのだろう。彼がそういう人物である事を兼一は良く知っているし、二人の身を案じていたのは何も逆鬼だけではない事も理解している。
ただ、彼はそう言った事を隠すのが苦手なので、一際わかりやすいだけ。
何しろ、今はかつての自称フィアンセだったジェニファーと結婚してアメリカ在住だ。
こうして梁山泊にいるだけでも、彼が相当に兼一達の事を案じていたことを裏付けるには十分すぎる。
その事に笑みがこぼれそうになるのを必死に抑え、兼一は大きく息を吸い、万感の思いを込めて言葉を発した。

「ただ今戻りました、師匠方」

包拳礼を取り、頭を垂れる兼一。そんな兼一に習い、ギンガと翔もどこか戸惑い気味に包拳礼を取った。
そんな三人…いや、兼一に向け六人の中心に立つ長老が重々しく口を開く。

「長い…留守じゃったのう、兼ちゃんや」
「はい。ですが、ようやく帰ってくる事が出来ました」

それは、何もこの一ヶ月半の事を指してではない。二人が言っているのは、もっと別の事。
四年という長きに渡って、兼一は梁山泊を離れていた。その事を指しているのだ。
本来なら、此度の兼一の訪問が梁山泊へ戻ると言う事と結び付けるのは難しい。
何しろ、長老たちはミッドチルダで兼一達に何があったのか知らないのだから。
しかし彼らにはわかった。兼一の纏う雰囲気が、その気配が以前の物と違うことに。

「へへ、ったく四年も待たせやがってよぉ」
「なんね逆鬼どん、嬉しくて泣いてるね?」
「そういう君も、しっかり涙が浮かんでいるようだがね、剣星」
「それを言ったら秋雨…も」
「アパパ、お帰りよ兼一!!」

師達は一様に兼一の帰還を喜び、各々目尻に涙を浮かべている。
そこにきてようやく、ギンガと翔も気付いた。彼らが差しているのが、なんなのかを。

「翔は、選んだのじゃな?」
「はい。ほら、翔」
「は、はい!」

兼一に手を引かれ、翔は師達の前に立つ。
その表情からは緊張がありあり伺える。
そんな翔を、六人は厳しい目で見つめ、やがて相好を崩した。

「ふ、やはりなる様になったようですな」
「まあ、おいちゃんは翔なら必ずそうすると信じてたね」
「アパパパ、ハラキリー、スキヤキー」
「ふ、ふん! 別に俺はこのガキがどうしようが知ったこっちゃねぇがな」
「つん…でれ~!」
「ちげーよ!!」

『心配などしていなかった』と、師達は揃って口にする。
両親を武人に持つ、その血のなせる技などではない。
翔は兼一の背を見て育った。その事実が、遅かれ早かれ翔を武の世界に誘うと考えていたのだ。
宿命でもなく運命でもなく、いずれ自分から選ぶと。

「ふむ、ではしぐれや」
「お…っけー」

長老が何かを指示すると、一端しぐれはどこかへ引っ込み、少しして戻ってきた。
そしてその手には、正方形のあまり厚みのない箱がある。
彼女はそれを兼一の前に差し出し、兼一もまたそれを受け取った。

「四年前の預かり物、ようやく返す事が出来た様だね、兼一くん」
「はは、思ってたよりも短かったですけど…………こうして持つと、長かったなって思いますね」
「あの、兼一さん。それは?」
「これかい、これはね……」

ギンガの問いに対し、兼一は箱のふたを開けることで答える。
そこに納められていたのは、どこか着古された様子の道着とよく手入れのされた手甲や鎖帷子。
それらに向けられる兼一の瞳は懐かしさに溢れており、思い入れの深い品であることが分かる。

「ここを離れる時に、預けておいたんだ。僕がもう一度武人に戻るその時まで、ね」
「懐かしいね。アレから四年、この日をどんなに待ち望んだ事かね。
ところで兼ちゃん、その子は誰ね? 名前とスリーサイズも教えるね!!」
「師父、お願いですからカメラを構えるのはやめてください」
「ひっ!?」

言ってる傍から息を荒くしてギンガにカメラを向ける剣星。
ギンガは本能的な危険と恐怖を察知し、自分の体を抱きしめる。

「弟子の教え子にセクハラするなんて、恥ずかしくないんですか?」
「何を言うね! おいちゃん、シャッターを切る時は死ぬほど真剣ね!
 三千大千世界のどこにも恥じ入る物など微塵もないね!!」

意味もなく堂々と言い切る牽制に兼一も溜息しか出ない。
こう言う人だとわかってはいたし、人としても武人としても剣星の事は尊敬している。
エロ友達としてもそれなりに共感を覚えないではないが、その節操のなさにはあきれて言葉も出なかった。
当のギンガはと言えば、どこか涙目になりながらジリジリと後退っている。
よく分からないなりに、女性としての直感が危機を告げているのだろう。
そして、そのギンガの直感は大いに正しい。

「む? でも兼ちゃんの教え子という事はおいちゃんにとっても弟子同然!!
 なら、おいちゃんの事も敬って……………こんなポーズとるね!!」

どっかのグラビアみたいにあからさまなまでに胸を強調するポーズ。
それを取るよう要求する剣星の目は怪しく光、どこからどう見てもエロ親父丸出しである。
しかしそこで、ギンガにとっての救世主が現れた。

「少しは恥じ…ろ」
「ああ、カメラが―――――――!!」

見るに見かねたしぐれの一閃により、ガラクタへと変貌するカメラ。
剣星は掛け替えのない相棒の死に、心の底から悲しみ涙をこぼす。
普通なら涙を誘いそうなほどの悲しいオーラが出ているのだが、直前にやっていたことがやっていた事なので、誰も同情はしない。
だがそこにきてようやく兼一の先の言葉を咀嚼し終えた逆鬼が、声を大にして叫ぶ。

「って、なに――――――――――――――!! 兼一の弟子だと――――――――――――!!!」
「で、弟子じゃありませんよ! 色々お世話になったんで、ちょっと修業を付けただけで……」
「そ、そうですよ! そんな、兼一さんの弟子だなんて怖れ多い……!」
「でも、兼一に修業を付けてもらったんだ…ろ?」
「え? あ、はい、それは…まあ」
「修業つけたんならそれはもう弟子よ!」
「全くだぜ。しかし、あの兼一が弟子かぁ……」
「時が経つのは早いものですな、長老」
「うむうむ、全くじゃ」
「弟子の成長においちゃんちょっと感動ね」
「あ、あぅ~」

すっかり兼一の弟子として認識され、恥ずかしくて俯くギンガ。
そう思ってもらえるのは嬉しいし、実際そうだったらどれだけ誇らしいかとギンガも思う。
しかし本音では、本当に自分は兼一の弟子にふさわしいのだろうかと悩む。
何より、今日から先教えを受ける事かなわない以上、最早師弟も何もないではないかと。

「ですから、彼女はギンガちゃんと言いまして、向こうの……ええっと~」
「ああ、隠さんでも大丈夫じゃぞ、兼ちゃん。魔法の事ならわしらもしっとる」
「え!?」
「やっぱり知ってたんですね。あのロストロギアの事もありますし、まさかとは思ってましたけど……」

さあ、ギンガの事をどう説明しようかと悩む兼一だが、その必要はないと長老は言う。
兼一はなんとなく予想していたが、その言葉にギンガは驚きを露わにしていた。

「とは言っても、知っていたのは長老をのぞけば私と剣星だけなのだがね」
「あ、じゃあ逆鬼師匠やアパチャイさん、それにしぐれさんも知らなかったんですか?」
「アパパ、兼一達がいなくなった日にジジイに聞いたよ。自爆管理局とか……」
「時空管理局だっつうの。自爆してどうすんだ」
「あぱ?」
「ま、伊達に年は食ってないね」
「魔法の事とかジジイの武勇伝とか色々聞いた…ぞ」
(まあ、長老の事だから驚きはしないけど、何をやらかしたんだろうなぁ……)

どうせ「ほんのちょっと大暴れ」とか言って、散々管理局の人たちを振り回したに違いない。
その予想を、兼一は全く疑ってはいなかった。
というか、長老が絡んでいる時点でそれ以外の事など想像できない。
兼一としては、ただただ関係者一同に心のうちで謝罪するだけである。

その後、いつまでも立ちっぱなしもアレなので、と座布団に座って件のロストロギアを手に入れた経緯などを聞いたりした。当然その度に、慣れていないギンガや翔が百面相したのは言うまでもない。
だがひとしきり話も終わった所で、唐突に逆鬼が兼一に話を振った。今一番デリケートな部分の。

「でもよぉ、兼一。おめぇこれからどうするつもりなんだ?」
「どうするって、何がですか逆鬼師匠?」
「おめぇ………………………仕事なくしたんだろ?」
「はぅっ!?」
「ん、兼一、リストラされたの…か?」
「違うよ、御食事券だよ」
「それもちげぇえ」

この場合は「御食事券」ではなく『汚職事件』である。
まあ、どちらにしても間違っていることには変わりないのだが。
別に兼一は仕事を首になったわけではなく、単に仕事そのものが消滅してしまっただけなのだから。
しかし、今の兼一にそんな師匠達の面白おかしいボケに突っ込む余力はない。

「どうせどうせ僕なんて……」
「兼一さんしっかりしてくださ――――――――――――い!!」
「やれやれ、これではどちらが弟子かわからんね。
 兼一君、君も弟子を持つ身ならもう少ししっかりしなさい。さもないと」
「さもないと、なんですか岬越寺師匠?」
「ふっ、傷心の弟子に我らがしてやることなど一つ!!!」
「っ!? 大丈夫です!! 元気になりました、たった今!!」

この後のオチが分かっているだけに、兼一はすぐさま立ち上がって元気さをアピールする。
この人たちの事だ、どうせ死んだ方がマシな辛い特訓をさせようとか考えているのだろう。

「そう言えば僕他に行く所があったんでした!!
 あ、それと翔とギンガちゃんはゆっくりくつろいでるといいよ。師匠達はくれぐれも二人におかしなことをしない様に、特に岬越寺師匠と馬師父!! それじゃ!!!」
「やれやれ、行ってしもうたのう」
「おわなくてよいのですか、長老」
「兼ちゃんとてもう子どもではない、曲がりなりにも一人前と認めた武人じゃ。
 過干渉は、むしろわしらの恥じゃろうて」
「左様ですな」

仮にも一度は一人前と認めたのだ。
その後であれこれ口を出すのは、自分達の基準に不備があったと認めるような物、という事なのだろう。

「それにしても、兼ちゃんも何を焦っているのかね?
 武人に戻った今、その気になれば引く手数多なのにね」
「まったく…だ」
「あの、それってどういう……」
「ああん?」
「す、すみません! 何でもありません! ですから命だけは!?」
「いや、別に怒ってるわけじゃねぇんだけどよ」

元の強面のせいか、僅かに眉をしかめるだけでも逆鬼は恐ろしく怖い。
強面には慣れているつもりのギンガでも、思わず慄いてしまうほどに。
逆鬼は若干その事に傷ついている様子だが、さらに翔が追い打ちをかける。

「そうだよ、姉さま。逆鬼おじさま顔は鬼みたいだけど、ホントは優しいんだよ」
「……………………………………」

可愛がっていた筈の弟子の息子にそう言われ、煤ける逆鬼。
どうやら、翔にまでそんな事を言われて相当ショックだったらしい。
見た目に反して(失礼)精細な心の持ち主である。
おじさんという単語にも傷ついたが、それにもまして「鬼」の一言になお傷ついていた。
普段なら、「お兄さんと呼ぶように」と訂正する愛嬌があるのだが、今の彼にはそんな余裕すらない。

「アパパ、何してるよ逆鬼? 逆鬼が鬼みたいなのは昔からよ、気にすることないよ」
「てめぇ、それで慰めてるつもりか!?」
「まあ、逆鬼どんの顔が鬼みたいなのは今更どうにもならないからどうでもいいとして」
「おい!!」
「実際、兼一君がその気になれば鳳凰会の幹部にだってなれるし、新白連合に再就職もできるだろうね」
「あの、鳳凰会とか新白連合というのは……?」
「この世界の武術組織じゃよ。昔から兼ちゃんとは色々つながりがあっての。
 じゃが、どうにも兼ちゃんはその選択肢を避けているようじゃが」
「大方、昔断ったり離れてしまった手前、今更という気がしているのでしょう」

実に律義な話だが、事実兼一はあまり鳳凰武侠連盟や新白連合を頼りたくないと思っている。
鳳凰武侠連盟は師父である剣星がその最高責任者、昔当然の様に幹部の誘いがあった。とはいえ、その頃は新白に所属していて断っているので、余り都合よく「あの時の話お受けします」とは言いにくい。
同様に、一度は離れてしまった新白に出戻るのも気が引ける。
どちらもあまり気にはしないだろうが、その辺は兼一の心情の問題だ。

「はぁ……」
「ところで、ギンガ君と言ったね」
「あ、はい」
「君は兼一君の弟子になってどれくらいになるのかね?」
「いえ、別に正規な弟子というわけではないんですが……ざっと一週間ほど」

一応は秋雨の言葉を訂正しようとするギンガだが、彼の視線を受けてとりあえず教えを受けた期間を白状する。
別に脅されたりしたわけではないのだが、なんとなく言わなければならない気になってしまったのだ。

「ふむ、そんなものか……………諸君、一つ提案があるのだが」
「みなまで言う必要はないね、秋雨どん。おいちゃんたち全員、同じ気持ちね」
「へへ、弟子の弟子にちょっかい出すっつうのは武術家的にちょいとどうかと思わないでもねぇが……ちょっとくらいはいいよな?」
「う…ん。僕もどれくらいなのか気にな…る」
「アパチャイもよ!!」
「あの、なんの話を?」

勝手に盛り上がる梁山泊の面々。
その様子に言い知れない嫌な予感を感じ、ギンガは恐る恐ると言った様子で近くにいた長老に尋ねる。
返ってきたのは、やはり彼ら同様に楽しそうな様子の長老の笑顔だけ。
しかしそこには、かつて見た兼一の“いい笑顔”と同種にしてそれ以上の不吉な気配が見え隠れしている。

「なに、兼ちゃんの弟子育成能力がどんなものか気になってのう。
 弟子の事が気になる師匠心じゃて」
「止められているのは私と剣星だけですからな、他の皆がやれば問題ありません」
「ですから、何を……」
「ふ。何、軽い腕試しさ」
「ちょうどよい、隣にかつて兼ちゃんに修業を付けたあるお方が来ておられる。行ってみるとよい!」
「はぁ……」

もしこの場に兼一がいたなら、何を置いてもギンガを連れて逃げていたに違いない。
だが残念なことに、既に兼一はこの場を離れた後。
そうしてギンガは、決して開けてはならない扉…もとい襖をあけてしまった。
そして、襖を開けた瞬間世にも奇妙な光景がギンガの目に飛び込んだ。

「我流ぅ~~~~~~~~~、エェェェェェェェェェェェェェェェェックス!!」
「なに、これ?」

そこにいたのは、つい先ほどまでギンガのすぐそばにいた筈の長老。
それも、よく分からないお面とベルト付きでさらに意味不明なポーズをとっている。
敢えて言うなら、昔子どもの頃に見た特撮ヒーローの様な……。

「アパー、久しぶりに我流Xが来てくれたよ!!」
「相変わらずおめぇはきづかねぇのな」
「なんのことよ?」
「いや、別にいいけどよ。飛ばしてんなぁ、ジジイの奴」
「くれぐれも壊さんといてねぇ」
「だからいったい何なんですか、これは!?」
「こら、余所見をする…な。死ぬ…ぞ」

必死に答えを求めるギンガだが、答えが来る前に巨大な影が迫る。
気付いた時には、巨大な拳が目前にまで迫っていた。

「え……って、きゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
「彼は正義のヒーロー我流X、かつて兼一君に修業を付けた事もある御仁だよ。
 まぁなんだ、手加減はしているが容赦はしないので、気をつけて戦う様に……………死ぬ気で!!」
「どう見ても長老さんじゃないですか!!」
「違う、わしは我流Xじゃ!!! 長老立っての願いにより、お主の腕試しを請け負った!!
ついでに翔、お主の腕も見てしんぜよう!!!」
「「ギィヤァッァァアァァァァァァァァアァ!?」」

二人は悟った。今まで兼一がやっていた修業は、全然まだまだ軽かったのだと言う事を。



  *  *  *  *  *



場所は変わって、新白連合本社。
周りのスーツ姿の社員たちからは明らかに浮いたラフな格好で、兼一はそこを数年ぶりに訪れていた。
まあ当然ながら、そんな明らかに場違いな人物はエントランスで止められるわけで。

「お待ちください、当社にどのような御用向きでしょうか」
「ああ、新島の奴に会いたいんですけど」
「それは、総督ということでしょうか?」
「うん、その新島で間違いありませんよ」

高校時代から一貫して、新島の肩書は総督のまま。
この規模に発展してしまえば代表取締役や社長、あるいは会長とでも名乗ればいい物を。
そう思わないでもない兼一だが、結局新島は今でも「総督」のままである。

とはいえ、いきなりやってきて「トップに会わせろ」など、本来は不躾もいいところ。
兼一を止めた警備員と思しき男は若干眉をしかめながら、それでも丁寧な対応を崩さない。
相変わらず、部下の教育はしっかりしているらしい。

「アポは取っておられるのでしょうか?」
「いえ、特にそういうのは……」
「申し訳ございませんが、アポを取って後日改めてお越しください。
 正式な手続きをしていただければ、総督もお時間を作って……」
「隊長? まさか、白浜隊長ですか!!」

警備員がそこまで言ったところで、突如横合いから別の声が飛び込んでくる。
エントランスにいる者たち全員がそちらに視線を向けると、そこには黒髪に眼鏡のガタイのいい男が立っていた。
その姿を見て、エントランスが騒然となる。

当然だ。その人物は、今や世界的に日本国総理大臣にも匹敵する知名度があるとされる格闘家。
同時に、兼一にとってもなじみ深い人物。
背を預けて共に戦った事は決して多くはないが、共に青春を過ごした掛け替えのない友の一人。

「水沼さ…」
「水沼君、水沼君じゃないか!?」
「ああ、やっぱり白浜隊長なんですね! お久しぶりです!!」

驚きに目を見張る警備員。国民的ヒーローであり、新白連合を代表する格闘家となった彼は、新白内にあって羨望と憧憬の対象だ。この警備員もその例にもれず、彼のファンなのだろう。
いや、それは警備員に限らず、エントランスにいるほぼ全員に言えることか。
だが、その憧れの対象である筈の水沼が、周りの人々と同種の眼差しで兼一を見ている。
その事実にこそ、周囲の人々は驚きを隠せない。

「四年ぶり、になるんだよね」
「本当に、お懐かしい。ですが、本社にいらしたと言う事は、もしや……」

二人は固い握手を交わし、水沼の眼には大粒の涙が浮かんでいた。
水沼は兼一が新白を離れた理由を知っている。それはつまり、兼一が再びここを訪れた意味も知ると言う事。
彼もまた、この日を一日千秋の思いで待ち望んでいたのだろう。

「まあ、そういうことでね。新島の奴に会いたいんだけど……」
「ですから、正式な手続きを取っていただかないことには……」
「わかりました! 今すぐ総督にお繋ぎします!!」
「み、水沼さん!」
「いいんだ、この人の訪問を総督が断るなんてありえない。むしろ、通さなかった事を総督は怒るだろう」
「で、ですが……」
「責任は僕がとる。とにかく、総督に伝えてくれ、白浜さんが来た、と」
「は、はい」

新白の幹部であり、国民的英雄である水沼にそこまで言われては否とは言えない。
警備員は渋々と言った様子でその場を離れ、受付の内線を通して言われた通りに総督秘書に伝える。
そんな彼の姿を、水沼はどこか申し訳層に一瞥した。
無理を言った事は彼も承知しているのだろう。だが、それだけの無理が必要な場面であると彼は疑っていない。
そうして水沼は、再度兼一に視線を向けた。

「本当に、お久しぶりです。隊長」
「うん。だけど水沼君も威厳が出てきたね。何と言うか、四年の間に置いてきぼりにされた気分だよ」
「そんな、僕なんてまだまだあなたの足元にも及びません」
「謙遜することはないさ。活躍は、テレビでよく見させてもらってるよ。
 高校時代の友人がこんなに有名人になって、僕も鼻が高いんだから」
「恐縮です。ですが、謙遜なんかじゃありませんよ。今も昔も、あなたは僕の目標なんですから」

水沼の言葉に、兼一は照れ臭そうに頭をかく。
そう言ってくれるのは嬉しくもあり、彼の目標として相応しくあらねばと思うと緊張もしてしまう。
しかし、こうして懐かしき旧友に会えた事は、本当にうれしくてたまらない。
そんな兼一の感情が彼の表情からは見え隠れしている。

そうして一頻り再会を喜んだ後、兼一の来訪を知った新島は水沼の予想通り彼を総督室へと案内させた。
水沼はまだ仕事があるのでその場を離れ秘書の一人に案内されたのだが、道中、兼一の来訪を知ったかつての友人達がひっきりなしに現れる物だから中々前に進めない。
おかげで、兼一が総督室に辿り着いたのは、本社を訪れてから一時間も経ってからだった。

「失礼します、総督。白浜様をお連れしました」
「通せ」
「はい」
(まったく、すっかり偉そうなしゃべり方が板についてきたな、アイツ)

重厚な扉の奥から返される、その偉そうな声に兼一は内心で呆れため息をつく。
今や世界的大企業の代表となったのだから、偉そうなのも当然なのかもしれない。
だが、兼一にとっての新島は今も昔もあの頃のまま「宇宙人の皮を被った悪魔」である。
正直、らしくもないし、分不相応に感じてしまう。

しかし、そんな兼一の内心とは裏腹に、秘書の女性は確かな尊敬を新島に抱いているようだ。
一人の人間に対する見方は、人によって異なる。その好例だろう。
そんな事を考えているうちに、ゆっくりと総督室の扉が開かれた。

そこは、世界的大企業の代表にふさわしい部屋。
毛の長い細やかな装飾が施された絨毯は嫌味になる事もなく、むしろ格調の高さを部屋にもたらす。
また、備え付けられた机や書棚は品良く贅を凝らされていた。
一面ガラスをバックに、新島は机に向かって書類を決裁していたらしい。
だが、兼一が入室すると同時に立ちあがり、ゆっくりと兼一の下へと歩み寄る。
そして、彼が最初に口にしたのは、昔と変わらぬ気易い挨拶だった。

「よう、相棒。景気はどうだ?」
「まあまあだよ」

『久しぶり』も『よく来たな』もない。再会を喜ぶでもなく、別離の時間に想いを馳せるでもない。
ましてや、最後に会ったあの日を懐かしむ事もない。
しかしそれこそが、昔と変わらぬこの気易い態度こそが自分達には相応しいと、兼一も思う。
短く、あまりに素っ気ないそのやり取りに、二人の四年間に渡る時間に募った思いが凝縮しているのだから。

「へっ、そうかい。そっちに座りな、所でコーヒーと紅茶、どっちにする?」
「日本茶で頼む。一月ばかり日本を離れてたからな、日本の味が恋しいんだ」
「ケケケッ、玉露と番茶があるが、どっちにする」
「番茶、高いのは苦手なんだ」
「相変わらずの貧乏性かよ」

やがて先ほどの秘書が兼一に番茶を、新島に良く分からない飲料物と思しき物を配り退出する。
互いに一口飲んだところで、ようやく二人は本題に入った。

「で、わざわざ来たって事は、連合に戻ることにしたのか?」
「いや、今のところその気はないんだけど……」
「ほぉう、会社が潰れたのに余裕じゃねぇか」
「……よく知ってるじゃないか」
「今の時代、情報を制する者が世界を制する。昔から言ってんだろうが」

得意顔でそういう新島の姿は、もう三十路が近いにもかかわらず昔と変わらないように兼一には思えた。
実際にはそんな事はないのだろうが、やはり兼一にとっての新島は「大企業の代表」ではなく、こずるい策士というイメージなのだろう。
新島自身その事は否定しないし、新島の抱く兼一への印象も昔とそう変わらない。

「にしても、相変わらず律義な野郎だ。一度離れたんだから、のこのこ帰ってこれないとでも思ってんだろ?」
「……悪いか」
「別に。だが、そんな事を気にしてんのはお前だけだって話だよ」
「みんなは、どうしてる?」
「ジークはロンドンとウィーン、後チベットを行ったり来たり。
 他の連中は基本的に日本だが、武田の奴は割と海外に行く事も多いし、キサラと宇喜田も韓国にいる事が多いな。日本にいっぱなしなのは、フレイヤとトール位なもんだ。谷本は、言わずもがなだろ?」
「ああ、ほのかと一緒に各国を回ってるんだろ?」

兼一が武の世界を離れて数年の間に、周囲の人間関係もいくらか変化した。
例えば夏とほのかの結婚がそうだし、キサラと宇喜多の事実婚もそうだ。
後者の場合はキサラの性格が災いしてまだ正式に結婚したわけではないが、同棲している以上似た様なものである。まあ、正式に結婚するのは子どもが出来てからになるだろう。

「他にも、スパルタカス達はヨーロッパ、猫娘や郭たちは中国、辻と田中に山本のとこのガキも日本だな。
 元YOMIの連中はほとんど情報がねぇが、そう簡単に死ぬような連中でもねぇ。なんだかんだで元気にやってるだろ。後は、高町の連中は兄貴は嫁さんとドイツ、妹は香港警防で母親と一緒だな。他に聞きたい奴はいるか?」
「いや、大丈夫だ。みんなが元気そうなら、それでいいさ」
「で、こっちからも一つ聞きたいんだがよ」
「なんだ? お前が僕に聞きたいなんて珍しいな」

基本的に、新島の情報網は兼一からの情報提供を必要としない。
情報は新島から兼一への一方通行が通例だ。全くないわけではないのだが、非常に稀有なことである。
だがそれも、続く新島の発言で頭から吹っ飛んだ。

「いや、魔法とSFの世界の感想はどうだった?」
「……………………………相変わらず、底知れん男だな、お前は。
師匠たちだけならともかく、この事をギンガちゃんが知ったら卒倒するんじゃないか?」
「昔も言ったろ、情報なんざどこから漏れるかわかんねぇんだよ。
 例えば、高町のとこのチビとその友人数名が管理局に所属してるとか、梁山泊のジジイの古い知り合いが管理局の元お偉いさんとかな」
「どうやって調べた?」
「いいこと教えてやる、日本にも管理局員が何人か住んでるんだぜぇ、ウヒャヒャヒャヒャ!!」

どうやったかは知らないが、その人物たちから情報を抜きとったのだろう。
やり方は聞かない。聞いてもわからないし、わかりたくもない。
だいたい、こいつの情報端末の中身は意味不明の図柄で占められ、解読は不可能なのだ。
本当に地球外生命体だとしても、最早驚きはしないだろう。

「そいじゃ改めて聞こう、今日の用件は?」
「報告だよ、翔が武門に入ったからな。これからは僕が修業を付けることになるだろう」
「わかっちゃいたが、思いの外早かったな。それで?」
「一なる継承者、アレはまだ有効か?」
「おめぇが離れて一回白紙になって、それからは動いてねぇ。
 第一、あの当時は誰も弟子は取ってなくて、弟子の最有力候補が翔だっただけだからな」
「ま、それもそうか」

実際、四年前の段階ではまだ誰も正式な弟子を持った仲間はいなかった。
それは兼一も例外ではないし、となれば一なる継承者として相応しいも何もあった物ではない。
だが、その中にあって兼一と美羽の間に子どもが生まれることが分かった。
故に、新白連合メンバーの中で最初の弟子は翔で間違いないと思われたからこそ、人となりも何もない時点で彼は一なる継承者の候補に挙がっていたのだ。
まあ、二人の子どもである以上資質及び精神的に不満なしと、誰もが判断したのもあるが。

「今は?」
「トールとフレイヤは当然弟子を取ってる。それなりにまとまった数をな」

それは聞かずともわかっていた。トールは元から実戦相撲を広める事を目的としていたのだから、彼が弟子を取るのは必然だろう。むしろ、四年前の時点で弟子を取っていなかったのが驚きと言えば驚きなのだ。
フレイヤもまた、一門の後継者。彼女には弟子を取り、門派の未来を次代に繋ぐ責務がある。

「他の連中も一人二人は弟子を取ってるな。弟子がいねぇのはジーク位なもんだ」
「まあ、ジークさんのカウンターは特殊だからな」
「だな。弟子を取ろうとした事はあったが、結局ダメで今に至るってところだ。
でだ。わかってるとは思うが、そいつら全員が一なる継承者の候補だぜ。翔が一なる継承者になるには、そいつら全員を蹴落として、アイツら全員に認められるしかねぇ」

あの当時は弟子の候補が一人しかいなかった。しかし今は違う。
隊長達は各々弟子を取り、自身の技を後進に伝えている。その事自体は驚く事ではない。武術とは伝統であり学問である。他者に伝え、次代に残さねば意味がない。自身が培った技術を、磨き上げたノウハウを伝え残していくのが武術家の責務。
だが、弟子を取った者が増えれば、その分競争率が高くなるのは必然。
蹴落とす云々はともかくとして、翔が彼ら全員に認められなければならないのは当然だし、元からそういう話にはなっていた。あくまでも翔は当時の最有力候補にして唯一の候補だった、それだけの話でしかない。

「しかし意外だな、おめぇはそういう名誉とかに興味がねぇと思ったんだが、ちったぁ俗世の欲に目覚めたか?」
「別にそういうわけじゃない。ただ……我が子により多くを、と望むのは親としては当然だろ?」
「なるほど。そういや、さっき言ってたギンガってのは、おめぇの弟子か?
 ならそいつも候補って事になるんだが……」
「向こうでお世話になった人の娘さんだよ。少し修業は付けたけど、別に弟子ってわけじゃ……」
「の割には、嬉しそうな顔してるじゃねぇか?」
「え?」

新島の指摘に、思わず兼一の手が頬に伸びる。
恐る恐る触れて見れば、新島の言う通り確かに自身の頬がつり上がっていることが分かった。
それはまさに笑み、無意識のうちに、気付かぬうちに、ギンガの事を話す時の兼一は笑っていたのだ。

「今のおめぇ、弟子の事を話すあいつらにそっくりだぜ」
「…………」
「なんのかんの言っても、認めてんじゃねぇのか? 弟子としてよ」
「ギンガちゃんはもう他の武術の虜だよ。彼女は空手家でもムエタイ家でも柔術家でも中国拳法家でもない。
 そんな彼女を、僕の弟子だと言う事が出来るわけないだろ」
「複数の師に付く奴もいれば、一つの武術を学んだ上で別の武術の師に付く奴もいる。
 結局師弟何て言うのは、本人達が相手をどう思ってるかだろ?」

新島の言っている事は、恐らく正論だろう。
確かにギンガはどれだけ兼一に学んでも、空手家にもムエタイ家にも柔術家にも中国拳法家にもなれない。
しかし、それと師弟としての絆や関係はまた別の話だ。
兼一が師としてギンガを育て、ギンガが弟子として兼一を敬愛するのなら、それは間違いなく師弟だろう。
だが、そうだとしても……

「仮にそうだとしても、意味はないよ。おそらく、僕と彼女がこの先ほとんど会う事はない。むしろ、これが今生の別れになる可能性だってあるんだ。師弟も何も……」
「らしくねぇこと言ってんじゃねぇよ」
「なに?」
「無理だから、不可能だから、そんな理由であきらめるようなら今のてめぇはいねぇだろうが。
 才能の欠片もないてめぇが達人になるなんざ、それこそ不可能だったはずなんだからよ。
 おめぇが達人になれたのは才能があったからじゃねぇ。無様に死ぬほど努力して、惨めったらしく諦めなかったからだろ。だからこそ、道理が引っ込んで不可能が現実になった。
そのおめぇが、なにを下らねぇ可能性の話なんぞしてやがる」
「新島……」
「こうと決めたら道理も何も無視してきたんだ、今更利口ぶるなよ兼一。おめぇができる事なんざ、今も昔もバカみたいにあがく事だけだろうが」

断定するように、突きつける様に新島は言葉を紡ぐ。
美羽ですら、高校に入ってからの一念発起する直前までの兼一しか知らない。
本当の負け犬だった頃の、人生の負け組だった兼一を最もよく知るのは紛れもなくこの男。
ある意味、誰よりも白浜兼一という男を知るのがこの悪友なのだ。
弱かったころの兼一も、強くなろうと必死だったころの兼一も、等しく知る友。
その言葉は、確かに白浜兼一という男の真実を表していた。

「………………………………まったく、言いたい放題言ってくれるな」
「今更遠慮する様な仲でもねぇだろうが」
「昔からの間違いだ。元から、遠慮なんかするような生き物じゃないだろうが、お前」
「ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!」

兼一の毒舌に気をよくしたのか、新島は心底愉快そうに笑う。
それにつられて、兼一の顔にも僅かに笑みが浮かぶ。
翔にも見せた事がない、ギンガも知らない新島という悪友にだけ向けられる複雑な笑み。
なんでこんな男と関わってしまったんだろうと言う諦観と、よりにもよってこんな奴が友人かという後悔、そして…………………僅かな感謝の混じった複雑な笑みがそこにはあった。

「つくづく口の上手い奴だ、その内政治家にでもなる事をお勧めするよ」
「ケケケ、それも悪くねぇな。五年後当たりに出馬して見るか?」
「お前には『絶対』投票しないから安心しろ。お前みたいなのが議員になったら、国政が乱れる。
 まあ、今の意見は一応参考にさせてもらうよ」

そこまで言って、兼一はゆっくりと立ち上がる。本来、新島は多忙を極める多国籍企業の代表だ。
こうして兼一と話す時間すら惜しい筈なのに、それを僅かたりとも表に出そうとしない。
しかし兼一とてその事に気付かない程バカではないのだ。
これ以上邪魔をしては悪いと考え、席を立ったのだろう。

「まぁ待て、最後に一つだけ言っておくことがある」
「良いだろう、最後に一つだけ聞いてやる」
「曲がりなりにも隊長全員が復帰したし、そろそろ頃合いだ。
 再来年四月辺りを目途に、一なる継承者の選考会を開く。
それまでの一年と数ヶ月、精々あのガキを鍛えておけ。
誰が選ばれるにしろ、おめぇの席もある。好きな時に戻ってこい」
「いま、二つ言ったぞ」
「昔馴染みだ、大目に見ろって」
「……………………………わかったよ」

今更口で新島に勝てるとは思わない。
これ以上何を言っても言い包められるだけと悟った兼一は、溜め息をついて矛を収めた。

「それじゃあな、新島。次会うまで、恨まれ過ぎて殺されるなよ」
「バカ言ってんじゃねぇよ、俺様は自分の身を守ることにかけては特A級の達人級だぜ」
「そうだった。お前は世界が滅んでも生き残る、ゴキブリ以上にしぶとい奴だったよな」

二人の間に、仰々しい別れのあいさつなど不要。
ただ、互いに思ったまま好き勝手言って別れるくらいがちょうどいい。
そういう友情の形もある。そして、十年以上の付き合いでそれも悪くないと二人は思っていた。
決して、今際の際になっても絶対にそれを素直に認める事はないのだろうが……。



   *  *  *  *  *



夕方。梁山泊に戻った兼一を出迎えたのは、半死人となったギンガと翔。
すっかり忘れていたが、あの師匠達が弟子の弟子に興味を示さない筈がない。
大方、腕試しとか称して徹底的に追い込んだのだろう、長老辺りが。

そんな兼一の予想は大当たりなのだが、最早後の祭り。
せめて、梁山泊を出る前に気付いてほしいと思うギンガ達だったが、今更そんな事を言う気力は残っていない。
とりあえず、秋雨のメンテナンスと剣星の秘伝の漢方があるので、明日は無事に起き上がるだろう。
その後、夕食を取り床についたのだが、思いの外ギンガの回復は早かった。

夜半、唐突に眼の覚めたギンガは、与えられた部屋から抜けだし庭に出る。
身体の節々がまだ痛いが、初めに比べれば雲泥の差だ。
兼一の師である二人の技術に、さしものギンガも感嘆する。
次元世界最先端の技術と治癒魔法を使っても、こうまで早く身体が動くようになるだろうか。
兼一は「師としては自分はまだ未熟」と言ったが、それを肯定せざるを得ない。

「兼一さんや翔と過ごすのも今日まで、か」

見上げた夜空に星は少なく、この場所が都心からほど近い立地である事を知らしめる。
ギンガの呟きの通り、明日ギンガは今日つかった転送ポートを使ってミッドに戻るだろう。
よほどの異常事態が起こらない限り、この予定が狂う事はない。
おそらく、この先滅多に会う事は出来ないだろう。むしろ、今生の別れになる可能性も捨てきれない。

「まあ、それがあるべき状態って考えれば、そうなんだけど…ね」

そう、それこそが正しい状態。
管理世界の人間であるギンガと、管理外世界の人間である翔と兼一。
魔導師であるギンガと、魔導師ではない二人。
本来接点などなく、関わることなどなかった筈の三人なのだから。

「でも、やっぱりちょっと………………さびしいかな」
「なにが…だ?」
「っ!?」

かけられることなどないと思っていた慮外の声に、ギンガの身体に緊張が走る。
すぐさま声の出所に顔を向けると、屋根の上に刀を抱えて座るしぐれの姿があった。

「って、あなたは確か、香坂先生?」
「しぐれで…いい」

ギンガの言葉に、僅かな訂正を求めるしぐれ。
無表情かつ独特のテンポの言葉に若干戸惑うギンガだが、仮にも教えを乞うた人の師。
よほどの無茶や理不尽でもない限り、素直に従わねば礼を失する。

「はい、しぐれさん」
「ん。ところで、そんなところで何をしてい…る?」
「えと、それはむしろ私が聞きたいんですけど……」
「僕は…お前た話がしたかっ…た」
「え?」

思わぬ言葉に、ギンガは思わず呆気にとられる。
正直、この年齢不詳の絶世の美女が自分にいったいなんの話があるのか見当もつかない。
この一ヶ月半の兼一や翔のことかもしれないが、その話は食事中に大方済ませてある。
ならば、今更いったい自分に何を聞きたいのか。それがギンガにはわからなかった。

「そんな所にいたんじゃ、話しにくいだ…ろ? こっちに来…い」
「は、はぁ……」

むしろ、屋根の上の方が話しにくい気がするのだが、なんとなく断れずにギンガも屋根に上る。
しぐれは登ってきたギンガに対し、自分の横の瓦を叩く。ここに座れ、という事なのだろう。
ギンガはそれに従い、しぐれのすぐ横に腰を下ろす。
そのまましぐれに習ってギンガは夜空を見上げるが、少し空が近くなっただけで星の数に変化はない。

そうして二人は、特に何を話すでもなく黙りこむ。
ギンガとしては会話の糸口は見つけられないし、そもそも何を話していいかわからない。
しぐれには何か話があるようだが、一向に口を開く様子も見られなかった。
そんな少々ギンガにとって居心地の悪い時間が数分経過した所で、おもむろにしぐれが話しだした。

「昔、偶に兼一と美羽はここで色々大事な話をしてい…た」
「え? 大事な話、ですか?」
「大事な話…だ。将来の事とか、今直面してる問題の事とか、本当に…色々」
「はぁ……」

しぐれの言葉に、ギンガは気のない返事を返す。
兼一にとっての、亡き妻との思い出の場所。ここがそうである事はわかった。

だが、それと自分と何の関係があるのか。
そう思うと、ギンガの胸に僅かな痛みと苛立ちに似た感情が湧く。
しかし、ギンガにはその正体がまだよく分からない。
そこで、しぐれの話がいきなり急展開を見せる。

「お前、兼一の事が好きなの…か?」
「ぶっ!? い、いきなりなにを言いますか! そんなことあるわけないじゃないですか! そりゃ憧れみたいなものはありますけどそれはあくまでもその道の先輩に対するものであって断じて不純なものではなくてですね! 純粋な尊敬と憧れを持ってるだけです! いえもちろん嫌いということではないのですけれどかと言って好きというと少々語弊があると言いますかそもそもこの場合好きという言葉がどんな感情で何を指しているかについてまず議論すべきと考えるわけです如何でしょうか!!」

いきなり振られた話題に噴出した後、ギンガはワンブレスで言い切る。
いやまったく、たいした肺活量だ。
そうしてゼェハァと息を切らすギンガを相変わらずの無表情で見ていたしぐれが再度口を開く。

「違うの…か?」
「違います!! あ、いえ、違うと言うのやっぱり語弊があるんですけど…だぁ、それはもういいんです!!
 ……って、しぐれさん?」
「………………………………ん?」
(この人、こんな顔で笑うんだ……)

ギンガが見たのは、同性である自分ですら見とれてしまうような綺麗な笑みを浮かべるしぐれ。
先ほどまでの無表情からは考えられない、女性らしい優しい笑顔。
燦然と輝くような華やかさではないが、一度見れば決して目を離せない様な静かな美しさ。
いつか、自分もこんな顔で笑えるようになりたいと、素直にそう思わせる笑顔がそこにはあった。

「あ、いえ、なんで笑ってるのかなって……」
「ああ、お前が昔のアイツらみたいだったから…な」
「そう、なんですか?」
「う…ん。美羽の奴も兼一の事に触れられる度にしょっちゅう慌てて誤魔化して…た」
「うぅ……」
「それに、兼一も美羽に憧れて武術を始めた様なものだ…し。そういうところも似てると思…う」
(兼一さんが憧れた、か。写真は見せてもらったけど、本当に綺麗な人だった。どんな風に笑う人で、どんな風に話す人で、どんな風に戦う人なのか、何が好きで、何が得意だったのかすら知らないけど…………………………いいなぁ。…………………って、え!? いいなって何が? 私、いったい……)

ぽつりと浮かんだ自身の心の呟きに、思わず内心で慌てふためくギンガ。
その呟きの意味がわからず、心を埋め尽くす言い知れない感情に戸惑う。
そんなギンガを、しぐれは相変わらずの優しい笑顔で見つめていた。

「好きなら好きって、ちゃんと言った方がいい…ぞ」
「で、ですから!?」
「僕たちと違って、お前はまだ負けたわけじゃないし…な」
「だから負けるも何も…………って、どういう事ですか、それ?」
「しゃべるすぎたか…な?」
(もしかして、この人“も”兼一さんの事が……)

その言葉の裏に隠された僅かな寂しさに、ギンガの中の何かが揺り動く。
同時に、しぐれの失言に注意が向いたことで、ギンガは自身が内心で「も」と呟いたことにも気付かない。

「アイツ、アレで結構モテるから…な。モーションをかけるなら、早めにした方がいい…ぞ」
「そ、そういうしぐれさんはどうなんですか!?
 師匠で一緒に住んでて、その上そんな綺麗なあなたなら、兼一さんだって……」

なんでこんな、励ますような、後押しする様な事を言っているのか。ギンガにもそれはわからない。
ただ、それを口にする度に、心の中で何かが軋みをあげる。
違う、そうじゃない。本当に言いたいのはそんな事じゃなくて。
そんな声が、心の底から聞こえてくるのを、ギンガは必死になって無視した。
だが、それに続いてしぐれが口にしたのはギンガの予想を超える一言。

「僕はもう負けて…る」
「え?」
「僕たちは兼一と美羽が一緒だったころを知って…る。だから、勝てないと思ってしま…った。
 勝負するも何も、それ以前にもう負けてるん…だ。美羽には勝てない、それが僕たちの共通認識…だから」

ギンガとしぐれの相違点。それはまだ美羽が生きていた頃を知っているか否か。
ギンガは知らない。ギンガが兼一と出会ったのは、もうずっと前に美羽が死んだ後だから。
しかし、しぐれは知っている。美羽と兼一がどうやって近づき、どうやって結ばれ、どれだけ互いを想い合っていたか。それを知っているからこそ、しぐれは兼一に対して動く気がない。
彼女の中では兼一と美羽はセットで、その間に入っていくができるなど思いもよらないから。
そしてそれは、何もしぐれに限った話ではない。

「馬の娘も…そう。アイツですら、二人の間に入れないと思い知ってい…る。
 だから、この四年兼一にモーションをかけてな…い」
「…………」

諦めたのではなく、負けた。勝てないという現実を知ってしまった。
だから、彼女らは兼一に対しそういうアクションに出ない。
彼女らは、白浜兼一争奪戦において美羽に負けたのだから。
しかしここに、一人の例外がいる。

「でも、お前は違…う。美羽との事を知らな…い。
 お前が知っているのは、今の兼一だけ…だ。だから、まだ戦え…る。
 なのに、戦いもせず諦めるのは後で後悔するぞ…っと」

ギンガは違う。ギンガは美羽と兼一がどれだけ思い合っていたか知らない。
それを無知と呼べば確かにそうだろう。だが、そうだからこそ彼女は戦う事が出来る。
なのに戦わないのは、しぐれから見ればもったいないとさえ映ったのだろう。
白浜兼一争奪戦はすでに終わった。しかしそれは、あくまでも「第一次」の話。
しぐれ達は第一において戦死してしまった、精神的に。
だからないと思っていた「第二次」に参加することはできないが、ギンガは参戦できる。

「で、ですが、それは…その……」
「まぁ、好きかどうかは置いておくとし…て」
「……………」

しぐれとしても、あまり無理にごり押しする気はないのだろう。
ただ、ギンガとしてはこれだけ言いたい放題言っておいてここで手を引かれると、かえって困ってしまうのだが。

「お前に兼一の傍にいてほしいと言うのは、本心だ…ぞ」
「? それは、どういう……」
「今日お前達を見てて思…った。お前は、良い弟子…だ」
「え?」
「良い師匠は弟子を育て、良い弟子は師匠を育て…る。武術はそういうもの…だ」

『良い弟子』それはなにも覚えがいいとかそういうことではないと、ギンガは直感的に感じ取る。
なんとなくだが、この人たちはそういう物とは違うところを重視しているような気がしたのだ。

「今日見た兼一は、良い目をしてい…た。前よりも、強い光が宿る良い目…を。
 きっと、お前のおかげでアイツも成長したんだ…ろ」
「そんな…私なんて」
「卑下する…な。それは師匠を卑下するのと同じだ…ぞ」
「っ……」
「僕たちはアイツをずっと見てき…た。今のアイツの目は、美羽がいた頃のそれに…近い。
 まあ、同じってわけでもないんだけど…な」
「それで、私にどうしろと?」

あまり要領を得ないしぐれの話に、ギンガは答えを求める様に彼女の瞳を見つめる。
その変化とやらを見抜く眼力も、変化する以前の兼一の事もよく知らないギンガだ。
しぐれの言う兼一の変化は、ギンガにはわからない。
だから彼女にできたのは、こうしてはっきりと言葉でその意を問う事だけ。

「こうしろ、ってことじゃな…い。
ただ、折角見つけた自分の聖地を、心から慕える師匠から離れるのは、勿体無いって言うだけのはないし…だ」
「…………………」
「そう睨む…な。要はお前がどうしたいか…だ」

それだけ言って、しぐれは音も立てずに屋根から飛び降りる。
その行方をギンガは追おうとするが、屋根の下をのぞきこんだときすでにそこにしぐれの姿はなかった。
いくら探してもしぐれの影も形も見つけられず、ギンガは屋根の上で仰向けになって呟く。

「どうしたいか…なんて、私にもわかりませんよ、そんなの」

出たのは、普段の彼女らしからぬ弱々しい言葉。
それだけ、彼女も悩み迷っているという事なのだろう。
出来るなら、叶うなら今後も兼一の下で多くを学びたい。それに偽りはない。

だが、兼一や翔にはこちらでの生活と交友関係がある。
正直、兼一が今すぐにでも一大武術組織の幹部になれると言うのは驚いた。
それらを全て捨てろなどと言える筈もない。しかし、ギンガに指導するためにミッドチルダに移住してもらうと言う事は、そういう事だ。

かと言って、逆にギンガがこちらに移住することも難しい。ギンガにもあちらでの生活があり、交友関係があり、仕事がある。どれも、そう簡単に捨てられるものではないのだ。
兼一がこちらのでの自分を捨てられないように、ギンガもあちらのでの自分を捨てられない。
これでは、『どうした』もなにもあった物ではない。

ギンガにできる事は、こうしてただ夜空を見上げて流れに身を任せる事だけ。
それ以外に、いったいどうしろと言うのだろうか。

その後、ギンガは当初の予定通りミッドへと帰って行った。当然、一人で。
それが正しいのか、それとも間違っているのか。
それは、当人であるギンガにもわからなかった。
ただ彼女の瞳の奥深くには、言葉にできない寂寥と迷いが渦巻くだけ。






あとがき

というわけで、一端ギンガと白浜親子は御別れでござい!!
この後この師弟関係がどうなるのかは、次をお待ちください。
本当はそこまでやってしまうつもりだったのですが、例によって例の如く長くなってしまったのでここで切りました。ハハハ、完結までどれだけかかる事やら……。

そう言えば、リリなのシリーズってA’s以降は次回予告で「Drive ignition」とか「Take off」とか言ってましたよね。さしずめこのシリーズだと……………「Go to Hell」? うわ、シャレにならねぇ……。

あと、最後に報告を。
さすがに一週間に一本は仕事と並行しているときつい物があるので、今後は基本的に二週間に一本のペースで行こうと思います。もちろん早く書き上がれば週一かそれ以上で出すでしょうが。
別にわざわざ書く事でもないのでしょうが、最低限の礼儀ですよね、この辺は。



[25730] BATTLE 11「旅立ち」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/04/15 00:35

白浜親子が地球に戻ってからしばし。
あるべき日常を取り戻したギンガは、今日も今日とて職務に励んでいた。

「……………………………ふぅ、報告書と資料はこれで良し、と」

小さく呟きながらディスプレイを閉じ、ギンガは天を仰ぐ。
そこにあるのは、なんの変哲もない見慣れた無機質な白い天井と電灯のみ。
当然ながら、そこにギンガの求める物はない。そもそも何を求めているのか、それすら判然としないのだが……。

(翔と兼一さん、今頃どうしてるのかな?)

別段、白浜親子がいなくなった所で何が変わったわけでもない。
より正確には、「かつての日常に戻った」と表現すべきだろう。

隊舎の中を歩いても、あの「お人好し」の代名詞の様な男の姿を見かける事はない。
家に帰った所で、ちょこまかと動きまわる幼い少年の気配は残滓すら残っていない。
休憩時間の恒例となった、常軌を逸した基礎訓練を課される事もない。

それこそがあるべき日常。そんな事はギンガとて承知している。
だがそれでも、身の周りが急に静かになった事への戸惑いは隠せない。
耳を澄ませば、可愛い弟分の自分を呼ぶ声が聞こえる様な気がした。
振り返れば、忙しそうに隊舎の中を駆け回る彼の後ろ姿が見える気がした。
しかし、いくら耳を澄ませ目を凝らした所で、それらが現実になる事はない。

そんな事は当たり前だと、ギンガとて百も承知だ。
承知しているにもかかわらず、気付くと彼らの影を探す自分がいる。

(要は…………寂しい、って事なのよね)

あの親子がいる一月半の時間は、近年稀に見るほど騒がしく慌ただしい日々だった。
僅かな期間に起こった、大小さまざまなトラブルや事件。
たいして長くもないギンガの人生だが、その中でもあそこまでそれらが立て続けに起こった事はない。
最後の一週間など、特に濃密かつ刺激的な時間だった。刺激があり過ぎて、軽く心臓発作が起こりそうなほどに。

だが振り返ってみれば、つい口元がゆるんでしまうほどに充実した時間だったのだ。
この先の長い人生でも、恐らくはもうないのではないかと思うほどに色々な意味で充実した時間。
最早会う事かなわないだろう可愛い弟分と、尊敬するその父親。
二人の事だから、自分が心配する必要もなく元気にやっている確信がある。

「……はぁ」

しかし、感情と理性は別物だ。
それらを思い、つい溜め息が漏れてしまうのも致し方ないというものだろう。
だが、そこで唐突にギンガの背後から声がかけられる。

「二十八回目」
「え? ぁ……」

その声に振りかえると、そこには大きな影が立っていた。
電灯が逆光になり、影となって顔が良く見えない。
そのせいだろうか、一瞬その顔がいる筈のない人物のように見えた。
しかしすぐに目も慣れ、その顔が良く見知った…だが彼女が無意識のうちに探しているのとは違う顔であることが分かる。

「父さん、いたんですか?」
「いたんだよ、随分前からな。ったく、仮にも現役の武装隊員が簡単に背を取られてんじゃねぇよ。
 兼一の奴に知られたら大目玉を食うか、それともメニューが何倍になるか……」
「…………」
(はぁ、ホントに重症だな…こりゃ)

父が発した一言により、ギンガはまたも物思いにふける。
そんな娘を見て、ゲンヤは心配すればいいのか呆れれば良いのか心中複雑だ。
ゲンヤなどからすれば、ギンガがこの場にいない者達、特にそのうちの一人に向ける感情は一つしかないと思う。
にもかかわらず、当の本人であるギンガはその可能性に全く思いいたっていない様子だ。
今までその手の感情とほぼ無縁だったせいもあるのだろうが、あまりにも鈍い娘には正直呆れるしかない。

直接その感情を言葉にしてつきつけてやることは簡単だろう。
だが、果たしてそれで事が好転するかというと何とも言えない。
男女の仲、特に色だの恋だのはちょっとした刺激がどんな化学変化を見せるかわかった物ではないのだから。
そんなわけで、ゲンヤとしても已む無く話題はそこから反れて行くことになる。

「ところで、大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「練習メニューだよ。六法全書みたいなやつを残して行っただろ、アイツ」

そう言って顎で示す先にあるのは、文字通りとんでもないぶ厚さを持った紙の束。
ミッドを離れる直前、兼一が夜通しかけてまとめた向こう数ヶ月分の練習メニューである。
練習の内容、その趣旨、注意事項、ウォーミングアップとクールダウンについて、日々の食事、その他諸々。
細やかな、それこそ気にし過ぎと思えるような配慮が隅々まで行き渡った代物だ。その上、それが何冊も。
最後の一冊に至っては、年単位でのトレーニング計画まで。
自分が指導できなくても、仮に一人で鍛錬するとしても、着実に強くなれるように組まれた計画。
今はそれが、ギンガが先を目指す上での道標であった。

「あの量だと、休憩時間一杯まで使わんことには一日分が終わらねぇだろ」
「大丈夫ですよ、毎日の量はちゃんとこなせてますから」

父の言葉に、ギンガは笑って答える。しかし実際には、ギンガは一日分をしっかりこなしているわけではない。
とはいえ、それはサボっているのとも異なる。
むしろその逆、記述されている量より多めにこなしている位だ。

あのメニューは、あくまでも「兼一がいない事」を前提として組まれた物。
つまり、安全面を考えていくらか余裕を持って組まれているのだ、少なくとも兼一的には。
普通人なら十分すぎるほどにハードワークなのだが、一時でも兼一の下で学んだギンガにはそれがわかった。
兼一が指導していた時は、アレ以上の質と量を課されていたのだから。

(まあ、兼一さんに知られたら怒られるかもしれないけど……)

何しろ、ゲンヤはもちろん兼一もギンガが指示以上の鍛錬を積んでいる事は知らない。
指示以上の事をすれば故障に繋がるかもしれないし、あるいはどこかで歪みを生む可能性もある。
その場合、最終的にはギンガ・ナカジマという武術家の完成を阻むことになるだろう。

それを考えれば、ある意味指示に従っていないギンガを兼一は怒るかもしれない。
実際、あのメニューの中で兼一は過度の鍛錬を何度も戒めていた。
だがそれでも、ギンガはいまのやり方を変える気はない。

(……………これ位やらないと、多分…追いつけないから)

リスクは承知の上、その覚悟は既にある。
彼に追いつく事、それこそが何にも勝る恩返し。
これだけやっても追い付くのがいつになるかわからないのだから、これくらいは当然。

次に会うのがいつになるのか、次に会う日が来るのかすら定かではない。
しかし、その時には驚かせてやりたいとギンガは思う。
『これだけ強くなりました』と、そう胸を張って伝えたいから。

「そう言えばどうだったんですか? 本局から呼び出しなんて珍しいですけど……」
「ん? おお、その事か」

気を取り直す様にギンガは話題を変え、ゲンヤはそれに苦笑いを浮かべる。
今朝方、突然ゲンヤに対し本局から呼び出しがあったのだ。
一応地上本部を通した上での正式な呼び出しだったのだが、その理由も目的もゲンヤは知らされていなかった。

だが、それでも命令は命令である。
管理局員には上司や上層部からの命令に従う義務が当然あるし、ゲンヤとて早々突っぱねられるものではない。
故に、朝からゲンヤは隊を離れ本局に行っていたのだが、いつの間にか帰ってきていたというわけだ。

「用件っつうのが、まぁなんつーか……アレだ、新しい奴が来たからウチで引き取って教育しろとよ」
「この時期にですか? 新しい局員の配属にしても微妙ですよ」
「だな。あと2ヶ月もすりゃ配置転換の時期、訓練校や士官学校上がりのヒヨッコ共の配属もだ。
 ならそれに合わせれば良いじゃねぇかとは俺も思ったんだが……」

ゲンヤはどこか困ったように、あるいは呆れたように頭をかく。
普通、新しく配属されるにしても、あるいは配置変えになるにしてもこんな微妙な時期にはやらない。
あと少しすれば、世間も就職や入学・進級で沸き立つ。地球で言うところの『新年度』である。
にもかかわらず、僅かに時期をずらしての配置など滅多にある物ではない。
あるとすれば、よほど問題があって前の職場を追い出されたか、よほど優秀で即戦力として迎えられたかだろう。
だが、ゲンヤの発言から新しく管理局に入った物であることが分かる以上、考えられるとすれば……

「魔導師、なんですか?」

そう、よほど優秀かつ強力な魔導師で、即戦力として期待されていうならまだ納得できる。
管理局は例年人手不足に悩まされ、優れた戦闘能力を持つ魔導師は特に手が足りないのだから。
まあそれでも、よほど強力な魔導師ですらこんな微妙な時期に配属されたりはしないのだが……。
しかし、実を言うとそれすらも外れだったりする。

「いや、それがな、そもそも魔導師ですらねぇ」
「は?」

思ってもみない父の言葉に、思わずギンガは間の抜けた返事を返す。
魔導師以外でそう言った事がないわけではない。
例えば、企業などからヘッドハントされた優秀な人材などならない話ではない。
だが、それにしてもこの微妙な時期にそれをする理由としては魔導師意外というのは考えづらいのだ。
そして、続く説明もまたギンガを納得させるに十分とは言い難かった。

「上の方にコネがある奴らしくてな、特例として試験を受けてギリギリ合格、そのまま配属って具合らしい」
(まぁ、管理局はその辺の融通は利く方だし、上にコネがあればそれくらいの事はできそうだけど……)

可能不可能でいえば可能だろう。しかし、そこまでする意味と意図がわからない。
これでは、周りの心証を悪くしたり上にいらない借りを作ったりすることになる。
そんな事をするくらいなら、大人しく2ヶ月後を待った方が良い。

「まあ、正式な配属は2ヶ月後、例の八神の部隊なんだが…まだ稼働はしてねぇだろ?
 そこで、それまでの間ウチで預かって諸々教え込めとさ」

早い話が、一種の研修という事なのだろう。
前の経歴はわからないが、管理局員としては明らかな新人。
それを新しい部署に放り込むに当たり、108でちょっと揉んでおこうというのだ。
まあ、本局所属の人間を地上部隊に預ける理由がさっぱりわからないのだが……。

「確かにウチは八神二佐とも交流がありますけど、それにしたって……」
「まぁな。とりあえず来るのは明日からだ、それで何かしらわかるだろうよ」

どうやら、ゲンヤにもまだあまり詳しい情報は与えられていないようだ。
彼は肩を竦め、「はいはい、どうぞお好きなように」と言わんばかりの投げ槍な態度を取った。

しかし、翌日二人は知ることになる。
新しく二ヶ月だけ配属される仲間は、二人の思いもしない理由で配属された事を。



BATTLE 11「旅立ち」



時は遡って、白浜親子が地球に戻って間もないある日の事。
早々に居を梁山泊に移した兼一と翔は、師匠連に見守られながら今日も今日とて修業に励んでいた。

「いたたたたたたたたたたたたたた!!!」
「ほらほら、もうちょっともうちょっと♪ あと少しで120度回るよ…………………首が」
「く、首がぁ~~!! 首の骨が折れるぅ――――――――――!!」

亡き妻の忘れ形見であり、最愛の息子である翔の頭を両の掌でしっかり押さえ、回ってはいけない位回そうとする兼一。その胴体はしっかりと固定され、身体を回して負荷を軽減することすらできない。
このままだと、翔の首は真後ろを向き、頸椎をおかしくしてしまいそうだ。
だが、そんな家庭内超暴力も、梁山泊ではその限りではない。

「アパパパパ、ガンバよ翔! 真後ろまで回るようになれば合格よ!」
「そんな人いないよ!!」
「大丈夫だよ、翔。僕の古い友人は16歳のころには180度、今では360度回るから」
「う…ん。柔らかいよね…彼」
「柔らかいとかって問題じゃな――――――――――――――――――――――――――い!!」

これまで全く知らなかった身近な人たちの非常識な常識に、翔は魂の底から叫ぶ。
しかし、当然ながらそれが彼らの心に届く筈もなく。
翔が叫んでいる間も、兼一はしっかり力を弱めることなくその首をねじり続ける。
というか、万力の様な力で首をねじられているにもかかわらずこれだけ叫ぶとは、翔もいい具合に順応してきている証拠だ。本人としては全く嬉しくないだろうが。

「ふむ、兼一ちゃんの修業も中々の物じゃな。のう、秋雨君」
「全くですな。柔軟性は筋力に並ぶ武術家の命、骨もしなり筋肉や腱も柔らかい子どものうちに柔軟な肉体に仕立て上げれば、それは後の翔のよい武器となるでしょう」
「うむ。関節の稼働域が広がれば、それだけ出来る事も増える、これは必然にして極自然なことじゃ」
「鍔鳴りもそうだし…な」

基本的に人間の関節の稼働域は決まっている。だが、達人ともなってくるとのその常識は通用しない。
首が異常に回る者、肘があり得ない方向まで曲がる者、種類は様々だがそう言った人物は確かに存在する。
身体の柔らかい子どものうちからそれらを仕込んで行けば、いずれは彼らに匹敵する柔軟性を得ることも不可能ではない。しかも、これは攻撃以外にも有用なのだ。

「それに、関節が良く動けばそれだけ壊される心配も減るね。
 搬欄でも、兼ちゃんの友達が相手だと首を折るのは一苦労ね」
「へへへ。ま、そういうこった。おう兼一、体がやわらかくて損はしねぇんだ、行けるとこまで逝っちまえ」
「もちろんですよ、逆鬼師匠。さあ翔、これも大事な息子にして弟子である君が壊れないようにっていう親心だ」
「むしろ父様に壊されるぅ~~~~~!」

ちなみに搬欄(はんらん)とは、中国四大武術とも称される太極拳の一手。
この技は頭を両手で上下から挟み、そのまま捻り倒し首を折る。
兼一の古い友人の一人、ジークフリートの柔軟な首を以ってすれば回避も防御もすることなくこの技を無効にできるだろう。もちろん、相応の使い手が使えばその限りではないが。
しかし実際問題として、このレベルの柔軟な関節群を身につけられれば、様々な関節技や関節破壊の技への予防策となる。そんなわけで、この以上な柔軟は何も首に限った話ではない。

本来、一定の方向にしか曲がらない筈の肘や膝。
それを、本来曲がってはいけない方向に曲げようと力を込める兼一。
翔はただただ、首を絞められる鶏の様に悲鳴を上げるのみ。

「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!!!
 肘も膝もそんな方になんて曲がらないから!?」
「曲がらないだろうねぇ…………今は」
「昔も今もこの先も変わらないってば!!!」
「大丈夫、人間は慣れる。慣れてしまえば曲がるから」
「曲がるわけないでしょうが―――――――――――――――!!!」

そうして、その後も常軌を逸した柔軟体操の名を借りた拷問は続く。
時に背骨を限界以上に反らし、時に肩や股関節が外れるギリギリのところまで開く。

気付いた時には、翔はまるで全身が軟体動物の様にぐにゃぐにゃになっていた。
より厳密には、四肢に力が入らず敷物の様になっていると言うべきか。
しかし、それですら梁山泊的には序の口だったりする。

「立てるかい、翔?」
「…………………………………」

返事はない、まるで屍の様だ。
とはいえ、それならそれでやり様があると言うのが梁山泊。例えば……

「う~ん、立てないのなら仕方ないよね」
(よ、よかった。ようやく少し休め……)
「師父~、例の薬をおねがしま~す」
「ほい、死人も目覚める秘薬ね。こいつでさっさと修業再開ね」
「いやぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁああぁぁ!?」

こうして、今日もまた蒼穹に翔の絶叫が木霊するのだった。
臨死程度では、その日の修業が中断することなどない。梁山泊とはそういう場所なのだ。

そんなイカレタ梁山泊だが、この日は中々に珍しい人物が訪れることになる。
しかしこの時、その事をまだ誰も気づいてはいない。
特に一番の当事者である逆鬼は、誰が近くに来ているかも知らずに酒など飲みながら長老に話しかけていた。

「だがよぉジジイ。別に兼一のやり方に口出す気はねぇが、俺らも一緒にやらねぇで良いのか?」
「ふむ」
「はっきり言っちまえば、兼一はまだまだ師匠としちゃ未熟だぜ」

そんな事は、長老を始め師匠連全員が承知している事。
兼一は確かに彼ら全員が認めた武人だ。だが、兼一が師匠として未熟な事とそれはまた別の問題。
兼一が初めての弟子を取ってからまだそう日も経っていない。
誰しもはじめのうちは未熟なもの、はじめから何でも上手くできる人間はいない。
特にそれが、人を教え導くという難題ならなおの事。
故に、逆鬼の言葉は単なる事実の確認に過ぎない。

「まぁ、兼ちゃんもよく頑張っているんだけど、こればっかりは致し方ないね」
「そんなことないよ! 最初の頃のアパチャイよりマシよ!!」
「まぁ、アパチャイくんと違って殺してはいないからねぇ……」
「比較対象が間違って…る」

さすがに、手加減できずに弟子を殺してしまうのは論外。
それも、それが修業のきつさが原因なのではなく、組手の最中に強く殴り過ぎてとなれば尚更だ。
指導者としては超一流だったかもしれないが、少なくともあの時点でのアパチャイはそれ以前の問題を抱えていたのである。まあ、それも早い段階で解決されたのだから、あまり蒸し返すような事でもないが。

「ホッホッホ、逆鬼君は相変わらず心配性じゃのう」
「ば、ばーろう、んなんじゃねぇ!!」
「しかし、逆鬼の心配ももっともではありますな」
「そうね、兼ちゃんの事だから殺してしまう事はないと思うけど、それ以外の失敗なら十分可能性はあるね」

兼一は確かに、かつてのアパチャイの様な問題は抱えていない。
だが、だからと言って何の問題もない完全無欠の指導者というわけでもないのだ。
そもそも兼一には、誰かを指導すると言う経験が絶対的に不足している。
そうである以上、いつ何時思わぬ事態が発生しないとも限らない。
そういう意味で考えれば、彼らの心配は最もである。まあ、同時に彼らでもそれは同じことなのだが。

「でもそれは、僕たちにも言えるこ…と」
「うむ、世に絶対はない。仮にわしらがやった所で、絶対に翔が達人となる保証はないからのう」

そう、確かに彼らは指導者として紛れもない超一流。
白浜兼一という、才能の欠片もない男を達人へと仕立て上げた事でもそれは証明されている。

しかし、だからと言って彼らが弟子に取った者が全員達人になれるとは限らない。
兼一は慣れた、だが兼一より遥かに才能で勝るものが慣れない事もあるだろう。武術とはそういうものだ。
それこそ、途中で死んだり道を誤ったりしてしまう可能性がある事は、彼らにも否定はできないのだから。

「でもアパチャイ、兼一と翔なら大丈夫だと思うよ。
 アパチャイも最初は下手だったけど、少しずつなんとかなる様になったよ。だから大丈夫よ!」
「そうね。今が未熟でも、この先も未熟とは限らんね」
「う…ん。兼一が成長すればいいだ…け」
「志場っちの例もある。弟子によって師が武術家、あるいは人間的に成長することは良くある事だ。
 我等はただ、弟子と孫弟子の成長を見守るのみではないかね、逆鬼君」
「ま、そりゃそうなんだけどよぉ……」

その強面と荒っぽい口調のせいで誤解されがちだが、逆鬼は基本的に面倒見がよい兄貴肌だ。
可愛い弟子とその一人息子、その行く末を心配する思いは人一倍強い。
まあ、二人を思う気持ちでいえば、師匠達の間に優劣などないのだが。

「わしらが口出しすれば、確かに一時的には良い方向へと向かうじゃろう。
じゃがそれは、回り回って最終的に兼一君の成長を阻害することになる。
それは、逆鬼君とて望んではおるまい?」
「まぁなぁ……」

長老の言には、逆鬼も納得しているのだろう。
しかし、二人を心配する気持ちはそれとはまた別の問題だ。
口出しはすべきではない。少なくとも、兼一の方から助言を求めない限りは。
そうとわかってはいるのだが、それでも逆鬼の顔が浮かないのも事実。

「弟子を信じるのも、師の務めだよ逆鬼君」
「心配なら心配といえば良いね、男のツンデレなんて全然萌えんね」
「逆鬼の過保護は、死んでも治ら…ない」
「ア~パパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパ♪」
「てめぇら、好き勝手言いやがって……」
「アパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパ♪」
「つーかアパチャイ、てめぇは笑い過ぎだ!!!」

すっかり爆笑モードに入ったアパチャイの胸倉を捕まえようとする逆鬼。
だが、逆鬼とアパチャイはほぼ同域の達人。
そう簡単に胸倉を掴ませてくれる筈もなく、その手は虚しく空を切った。

「ちっ、酒が切れちまった。酒買ってくるついでにパチンコにでも行ってくらぁ」

この場では形勢不利と悟り、逆鬼は一時撤退しほとぼりが冷めるのを待つことにする。
しかし、逆鬼がそうして立ち上がろうとしたところで、底冷えのする殺気が彼の背後に生じた。

本来生半可な殺気など、逆鬼からすればそよ風に等しい。
むしろ、どんな殺気であっても彼を同時させることは難しいだろう。
だが、この殺気だけは別。
世界でただ一つ、この殺気だけは逆鬼にとっても逆らえない絶対的なものなのだ。

「ふ~ん、いつまでたっても帰ってこないと思ったら、そうやって遊んでたんだぁ~、至~緒~」
「……………どっから湧いた、ジェニー」
「一ヶ月ぶりに会った最愛のワイフに対する言葉がそれ?
 電話の一つも寄越さない旦那様のハートに、ついつい鉛玉をぶち込みたくなっちゃうわぁ♪」

不自然なまでに上機嫌な声、それに反して凍てつく空気。
そして背中に押し付けられる冷たく硬い鉄の感触。
間違いなく、銃口を背中に押し付けているのだ。

「日本にゃ銃刀法ってもんがあるんだけどよ、知ってるかジェニー」
「ええ、もちろん知ってるわよ♪ でも、銃は家族。そんな大切な家族を置いて行けるわけないじゃない♪
 まぁ、どこかの誰かさんみたいに薄情な人はそうじゃないみたいだけどぉ♪」

実ににこやかに、いっそ気味が悪い程に「♪」が言葉の端々に乱舞している。
口調は優しげなのだが、その裏は隠しようもない程の刺々しさでいっぱいだ。
この2週間、一切連絡しなかった事を相当に根に持っている様だ。
基本逆鬼にベタ惚れのジェニーだが、今ではすっかり尻に敷いているらしい。

「あれ、ジェニーさん? 来てたんですか?」
「ハイ、久しぶりね兼一、それに翔も」
「あ!? 助けて、ジェニーおば「ん?」…お姉さま、お久しぶりです」
「よろしい。礼儀正しい子は好きよ、翔」

助けを求めるあまり危うく禁断の一言を言いかけてしまう翔だったが、般若の如き微笑みを見て即座に訂正する。
あのまま言ってしまっていたら、今頃胴体に風穴が空いていたに違いない。

「ああ、でもやっぱり子どもはいいわぁ、至緒もそう思うでしょ?」
「こめかみに銃口を押し付けてまで何が聞きてぇんだよ」
「やぁねぇ、そんなの女の口から言わせないでよね♪」
「とりあえずだ、ゴリゴリと銃口を耳の穴に押し込むのはやめろ」

どこからどう見ても、誰が見ても間違いようのない脅迫である。
相手が逆鬼でなければ、今頃無条件降伏するに違いない様な状況だ。
如何に逆鬼が銃弾すら回避できるとは言え、相手が同じく達人、しかも零距離ともなればそれも難しい。
そして、逆鬼であっても銃弾が脳天に直撃すればただでは済まない。
まあ、逆鬼が珍しく脂汗を流しているのはそれとはまた違うものが原因なのだが。

「さ、名残惜しいけど一ヶ月もお邪魔しちゃったんですもの、そろそろ帰りましょうか、ねぇ至緒?」
「いや、待てジェニー! 俺はまだこっちでやることが……」
「は?」
「……わかりました……」

逆鬼至緒、ケンカ百段の異名を持つ空手家にしてあまりにも強過ぎるが故に空手界を追放された猛者。
しかしてその実態は、すっかり尻に敷かれた恐妻家であった。



  *  *  *  *  *



その日の深夜。
日中の修業の疲労から、既に翔は泥の様に眠っている。
地球に帰還してからというもの、漢方の秘薬や怪しげな医術により翔の修業の苛烈さはエスカレートする一方。
何しろ、例え死にかけてもすぐさま蘇生、動けなくなっても動ける状態にされてしまうのだから。
おかげで、日を追うごとに兼一の指導には遠慮というか容赦がなくなってきている。

翔としては、命の危機を感じると同時にあれこれ考えている余裕さえない有様だ。
しかし、翔を指導している兼一は話が別。
むしろ、彼の場合はアレコレ考え、やらねばならない事が山の様にあったりする。
この日も翔が寝静まった後、深夜遅くまで剣星の部屋に入り浸っていた。

「ん、それじゃ今日のところはここまでね。
 今日やったのを明後日もう一度調合して、今度はそれを翔にのませるからそのつもりでね」
「ありがとうございます、師父」

白いものが混じる口髭をさすりながらそう言う師に対し、兼一は深々と頭を下げる。
そんな二人の前には、すり鉢や急須、あるいは徳利や鍼などが置かれ、その周りには素人目にはよく分からない乾燥した何かが無数に並べられていた。

「確か、明日は秋雨どんの所で整体をやるんだったかね?」
「はい。まだまだ、覚えなければならない事がありますから」
「うんうん、その意気ね。薬も整体も、他の何にしてもちゃんとした知識と技術がないと危ないからね。
 この先、当面の間は翔の肉体改造に重きを置く予定なのなら尚更ね」

向上心旺盛な弟子を喜んでいるらしく、上機嫌な様子で剣星は頷く。
兼一が夜遅くまで剣星の下で学んでいた物、それは武術ではなく鍼灸や漢方の技術と知識。
今はまだ師に遠く及ばず、薬の大半は師である剣星に調合してもらっている。

だが、いつまでもそれではいけない。
いずれは自分一人でもそれが出来るようにならねばならない、そうでなければ翔の師として胸を張れないから。
それは何も漢方薬に限った話ではなく、翔の身体をメンテナンスする為の整体などの医術にも言える事。
少なくとも兼一はそう考え、こうして毎晩毎晩剣星や秋雨の部屋を訪れ、教えを乞うているのだ。

また、今の兼一の翔に対する指導方針にもそれらは深く影響する。
どれほど優れた才があったとしても、翔は所詮4歳の子ども。
あまり筋肉を付けるのは好ましくないし、だからと言って技の修業を重視するにも早い。

そこで出した答えが、日中の異常な柔軟をはじめとする基礎のさらに土台固め。
基礎工事をする土壌、その土壌そのものを充実させる時期ととらえているのである。
具体的には、優れた柔軟性の獲得や基礎体力の向上、あるいは筋肉の質を変えるといった内容だ。
中でも漢方などが深く影響するのが、筋肉の質を変えること。

そう、筋肉の質を変えるのだ、筋肉を付けるのではなく。
早い段階で馬家十二筋法や秋雨秘密の鍛え方から特に筋肉の質を変える点を抽出しそれを施すことで、無理に筋肉をつけずに瞬発力と持久力を兼ね備えた筋肉に作り替えようと言うのである。
はっきり言って、それは机上の空論にも等しい未知の領域。秋雨ですら、筋トレなどをする中で徐々に作り替えて行ったのである。質のみを変えるなどそう簡単にできることではない。

しかし、今の翔を相手に行うにはこれが精いっぱいなのも事実。
そして、筋トレをあまり用いずにこれをやるとなると、どうしても漢方などの比率が大きくなる。
だからこそ、兼一は大急ぎで二人の技術を身につける必要があった。
とそこで、扉を軽くノックする音が二人の耳に入る。

「すまん剣星、少々兼一君に話があるのだが良いかね」
「大丈夫ね、秋雨どん。こっちもちょうど終わった所ね」

剣星が答えると、秋雨は静かに扉を開ける。
彼が軽く兼一を手招きすると、兼一も何も言わずに立ち上がり扉の前に立つ。

「どうかなさったんですか、岬越寺師匠」
「ふむ、長老が君に話があるそうだ。ああ、剣星も来てくれ、これより梁山泊豪傑会議を開く」
「こんな遅くにかね?」

そう言いつつ剣星も立ち上がり、三人は連れ立って道場へ向かう。
翔が寝静まるのを待ったためなのだろうが、それにしても遅すぎる。
おそらく、それ以外にも何かしら理由があるのだろう。

そうして道場に付くと、そこにはジェニーに連行された逆鬼を除く師匠達が勢ぞろいしていた。
上座に長老、両脇を固める様に剣星と秋雨が腰をおろし、さらに手前にはアパチャイとしぐれが座っている。
兼一は長老と正対する場所に置かれた座布団に腰をおろし、最初の一言を待った。

「遅くにすまんのう、兼ちゃんや」
「あ、いえ、それは別に」
「実はのう、一つ兼ちゃんに聞いておかねばならんことがあるのじゃ」
「はぁ……」

長老たちが唐突なのは今に始まった事ではない。
というよりも、大抵の場合この人たちは唐突で突飛なのだ。
今更この程度の事に動じていては、梁山泊ではやって行くことなど不可能。
とは言え、未だに兼一には彼らが何を考えているのか完全に把握できてはいないので、続く言葉を待つことしかできない。

「白浜兼一よ。お主この一月、いったい何を思い悩んでおる」
「え? べ、別にそんな事は……」
「隠しても無駄じゃ。わしらが、お主の変化に気付かんとでも思うておるのか?」
「う”……」
「みなもそうじゃろう?」

痛いところをつかれたのか、兼一は言葉に詰まり、そんな兼一に構うことなく長老は皆に意見を求めた。
当然、残る師匠たちから帰ってきた答えは……

「兼一君自身の問題故、敢えて口を出してきませんでしたが」
「そうね。兼ちゃんも子どもじゃないんだし、自分で何とかすると思ってたんだけどね」
「そんなに、わかりやすかったですか?」
「アパパパパパ、あんなにしょっちゅう溜息ついてたら否でもわかるよ!」
「しか…も、毎晩毎晩『あー』とか『う~』とか唸っててうるさ…い。安眠妨害も良いところ…だ」

元来、嘘も隠し事も下手な性質である。
本人は表に出さないようにしていたらしいが、周りからすれば丸分かりだったようだ。
そうして、兼一もようやく白状する気になったらしい。

「そりゃまぁ、悩みはありますよ。今までの貯蓄があるとは言え、今の僕は絶賛求職中ですし」
「本当にそれだけかね?」
「何をおっしゃりたいんですか、師父」
「いやね、仕事が欲しいだけならなんとでもなるね。新白連合、鳳凰武侠連盟、あるいは他の武術組織でも兼ちゃんなら間違いなく雇ってくれるね。でも、兼ちゃんはそうとわかっていてどこにも所属しようとしていないね」
「それは……」

実際問題として、梁山泊の一番弟子である兼一は武術界においては引く手数多だ。
彼を欲する組織は星の数ほどあるし、かなり良い条件を提示している所も少なくない。
あるいは、どこから聞きつけたのか、兼一が梁山泊に戻ったと知って弟子入り志願する者もいる。
その悉くを兼一は断っているのだ。これで何かないと思う方が不可能という者もの。

「まあ、それは別にかまわんよ。兼一君なりに考えあってのことだろう」
「…………」
「職がない、確かにそれは死活問題だが、いざとなれば君の場合なんとでもなる。少なくとも、今はそこまで切羽詰まっていまい。にもかかわらず、君の表情は浮かない。
 ならばそれは、その事とはまた別の事という事だ」

秋雨への返答はない。それはつまり、兼一がその言葉を認めたと言う事だ。
元々、梁山泊の中でも特に頭の切れる人物である。
その秋雨を相手に、下手な嘘をついた所で無意味なのは明らかなのだから。

「あぱ? 何をそんなに隠すよ兼一。ギンガが心配なら心配って言えば良いよ。
 ヤンデレは逆鬼だけで充分よ」
「ヤンデレじゃなくてツンデレね、アパチャイ。ヤンデレなのはむしろ彼女の方ね」
「そもそも、別にツンデレとはそういうものでもないのだがね」
「確か、普段はツンツンして気のない素振りをしているが、単にそれは素直になれずに天の邪鬼に接する事じゃったかのう?」
(なんで岬越寺師匠や長老までそんな事を知ってるんだろう……)

剣星のみならず、この二人までそんな言葉を知っていることに若干頭が痛い兼一。
まあ、実際兼一はツンデレとは言えないので間違ってはいないのだが……。

「心配なのじゃろう、ギンちゃんの事が」
(ギンちゃんって……)
「隠す…な。隠していても話が進まな…い」
「しぐれさんまで………………」
「いい…か、兼一。師が弟子を心配するのは当然…だ、何も恥じる事は…ない。
 僕たちだって昔はたくさん心配した…し、初めての弟子なら尚更…だ」

それは確かにそうなのだろうと兼一も思う。
かつてトラウマ克服の為にしぐれと裏社会科見学に行った時も、秋雨や逆鬼は心配するあまり徹夜していた。
アパチャイに至っては、兼一を守る為に死の縁から舞い戻ってきたことさえある。
師が弟子の身を案じ、守ろうとするのは極々当たり前のこと。
兼一はそれを、師達の言葉や態度から誰よりもよく知っている。
故に、兼一もいよいよ観念してその心の内を明かすことにした。

「…………………そりゃ、心配ですよ。だって、ギンガちゃんがしてるのはああいう仕事なんですよ?
 怪我していないかとか、しっかり三食食べているかとか、ちゃんと寝ているかとか、身体を壊していないかとか、悪い男に引っかかっていないかとか…………………ああ! 考えだしたら余計不安になってきた!?」
「親バ…カ?」
「親バカね」
「紛れもない親バカだねぇ」
「アパパパパパパ♪」

段々…というか、早々に仕事とあまり関係ない方向に突っ走りだす兼一。
食事や睡眠、体調はまだしも、「悪い男」などが入ってくるあたりすっかりお父さん状態だ。
事実、こちらの世界に戻ってからの一ヶ月、あちらの様子がわからない兼一には心配以外の言葉が出て来ない。
人知れず呟いた回数は、軽く万に届くかもしれない。
何しろ、夢に出てうなされるほど心配しているのだから相当なものだ。

「兼ちゃんや、少し落ち着きなさい」
「で、ですけどねぇ! 全然さっぱり音信不通なんですよ!?」
「そりゃ向こうとは電話もつながっとらんしのう」
「これで心配するなって言う方が無理でしょ! 無理だと思いませんか? 無理に決まってるじゃないですか!?」
「正真正銘の親バカじゃな」

師達の言葉など全く聞こえていないのだろう。
いくら「親バカ」と連呼されても、兼一は気付くことなく身悶えする。
まあ、初めての弟子が可愛くて可愛くて目に入れても痛くないのだろうと思えば、彼らにも理解はできる。
そう、出来るのだ。だからこそ……

「そんなに心配なのなら、君はいつまでこんな所で燻っているのかね、兼一君」
「え、岬越寺師匠?」
「まったくね、いくら心配したって別に何も変わらんね。
 変える為にする事は一つ、一歩を踏み出すことね」
「馬師父」
「そんなに気になるなら、会いに行けばいいだ…ろ」
「しぐれさん」
「そうよ! アパチャイなんて、兼一守る為に死神さんの所からだって帰って来たよ!」
「アパチャイさんまで……」

師達の言わんとする事はわかる。兼一とて、今日まで何度ギンガの様子を見に行きたいと思ったことか。
だが、ギンガがいるのは地球上のどこの国でもない。
地球上のどこかなら会いに行く事も出来るが、別の世界とあってはそれもかなわない。
兼一には、別の世界に渡る術もコネもないのだから。
まあ、それは単に「兼一にはない」と言うだけに過ぎないとも言えるのだが。

「でも僕には、向こうに行く方法が……」
「何を言うとるんじゃ? わしの知り合いに関係者がおると言ったじゃろうに」
「そ、それはそうですけど……」
「いったい、何をそんなに躊躇っておる」
「……」

長老の言う通り、兼一は躊躇っていた。
ギンガの事はもちろん心配だ、出来るなら最後までその成長を見届けたいと思う。
それは師としての義務感よりも、彼女の成長を見ていたいと言う気持ちから。

しかし、それこそが問題なのだ。
ギンガの成長を見たいと思う。叶うなら、自分の手でその成長を促し、教え導いてやりたい。
ミッドに行くことで、その気持ちのタガが外れてしまいそうな事を兼一は恐れる。
それだけ強い思いを抱かせるほど、ギンガは良い教え子だったから。

「……………そうですね、確かにためらっているんだと思います。
だって、最後まで見届けたいって、思っちゃいそうなんですよ」
「それの何が不味いというんだい?」
「ギンガちゃんがいるのは地球じゃありません。そんな気楽に行き来できる場所でもありません。
 一度行ったらそう簡単には帰ってこれませんし、最後まで見届けたいと思ったら…尚更。
 僕は、ここを離れたくないんです。だって、ここは……」

兼一にとって、最も大切な彼女が眠る世界だから。
一時的にこの地を離れるのならそこまで抵抗はない。
だが、ギンガを最後まで見届けるとなれば一年や二年では済むまい。
そうなれば、長くこの世界から離れることになる。

それが、兼一を躊躇わせた。
確かに梁山泊への愛着はあるし、大切な友人や仲間がこの世界には多くいるだろう。
しかし、彼らはみな生きている。会おうと思えば会えるのだ、時間はかかっても。
それは師達にも、梁山泊という場所にも言える事。

ただ、もういない人はそうはいかない。
美羽が眠るのはこの世界、仮に遺影や位牌を持って行った所でその事実は変わらない。
亡き妻を一人残し、この世界から長く離れる。兼一が異世界に渡ると言う事はそういう事だ。
それに、その場合翔もそれに同行すると言う事になる。
翔を美羽の眠るこの世界から引き離す、それが兼一にはどこか裏切りの様に思えた。
だからどうしても、兼一はギンガに会いに行く事を躊躇ってしまう。

「美羽は、自分の為に兼ちゃんがここに縛られる事を望まんと思うがね」
「それは……」

死者は黙して語らない。あるいは美羽が生きていれば兼一の背を押したかもしれないが、さもありなん。
美羽が死んでいるからこそ兼一はこの世界にとどまることにこだわっているのだから、生きていたらと仮定すればとどまる理由も消失する。故に、そもそもそんな仮定こそが無意味なのだ。
だがそこで、しぐれが全く別の視点を兼一に提示する。

「兼一、お前は一つ大事な事を忘れて…る」
「え?」
「ギンガは仮であってもお前の…弟子。なら、中途半端に終わったら師匠であるお前の恥…だ。
 ひいては、それはお前に全てを授けた僕たちと各門派の…恥」
「う……」
「そうよ! アパチャイ恥ずかしいのは嫌よ!!」
「うぅ……」

考えてみれば確かにその通りで、ギンガが中途半端になれば、中途半端な弟子しか育てられなかったというレッテルが兼一にはられることになる。さらに視野を広げれば、そんな武術家にしか育てられなかったというレッテルが各師匠とその門派にも貼られてしまうのだ。武術家にとって、それは大きな恥であり汚名。
自分一人ならまだしも、師達の顔にまでは泥を塗れない。こう言われてしまうと、兼一としても大弱りだった。

「それはですね、皆さんの仰りたい事もわかりますが……」
「まぁまぁ、皆の衆。そこまでにしてやりなさい、兼ちゃんとて悩んで出した結論じゃ」
「長老……」
「そうじゃの、わしから言いたい事は一つ…………………………………………………責任を持って死ぬか大成するまでしっかり面倒見てこんかい!!! ちゅうことじゃな」
「ええ―――――――――――――――――――――――――――――!?」

それは結局、みんなが言っている事と同じということではないだろうか。
むしろ、「面倒見てこい」と思いっきり命令している分性質が悪い気もする。

「あの、長老。そこに僕の意思や希望は?」
「は? そんなもんありゃせんよ」
「やっぱし……」

ある程度予想がついていたとはいえ、こうまではっきり言われてしまうと涙が出てくる。
どうせ何を言ったところで、聞くような人ではない事は百も承知な分余計に。
しかしそこで、長老はおもむろに真剣なまなざしで兼一を見つめる。

「よいか兼ちゃん、確かにこの件に関して兼ちゃんの意思も希望も入り込む余地はない!」
「改めて断言しないでくださいよ」
「じゃがのう、ギンちゃんに教えを授けたのはお主の自身の意思じゃろ?」

その言葉に、それまで俯き肩を震わせていた兼一がピタリと止まる。
ゆっくりとあげられる顔には、どこか驚いたような表情が浮かんでいた。

「だったら……いや、だからこそ…最後まで見届けてやりなさい」

教えを授けたのは兼一自身の意思、それは紛れもない事実。
教えを授けたことに後悔はない。ギンガは、自分にはもったいないほどの教え子だとも思う。
だからこそ、長老は兼一に見届けてこいと言う。

「それに、新しい環境に身を置く事で得るものもあるじゃろう」
「人間何はともあれ慣れが怖いからね」
「確かに、魔法は兼一君にとっても未知の力。良い修業になりますな」
「その上、師匠として成長もでき…る。一石二鳥だ…ね」
「アパパパパ、四の五の言わずとっとと行くよ!」
(まったく、この人たちは……)

師達の言葉に、兼一は思わず内心で苦笑を洩らす。
恐らく、この場にいない逆鬼がいたら「一回りでかくなって帰ってこい」くらいは言ったことだろう。
兼一とて分かっている、彼らは自分が向こうに行くための大義名分を作ろうとしてくれていることくらい。

行きたいか行きたくないかでいえば、無論行きたいに決まっている。
しかし、兼一にはこの場を離れられない理由があった。
だがそれも、師の命令とあっては、兼一も逆らう事は出来ない。
そう、これは仕方のない事なのだ。故に、大人しく従う事こそが、師達への何よりの感謝の印となるだろう。

「…………わかりました。師匠達の命令とあっては、仕方ありませんね」

溜息一つ突いてそう言った兼一の顔は晴れやかだった。
同時に、それを見つめる5対の眼差しもまた、満足気だったのは言うまでもない。



その翌日。
一人美羽の墓前に立った兼一は、自身のこれからについて報告する。

「ごめんなさい、美羽さん。帰ってきてすぐなのに、またしばらくここを離れることになりました。
 次戻ってくるのはまだいつになるかわかりませんけど、次の命日には必ず戻ります。
 それまで、待っていてください」

静かに、穏やかな口調で兼一は噛みしめるように告げる。
美羽は怒るだろうか、それとも呆れるだろうか、あるいは寂しがるだろうか。
なんとなく一番最後であり、そのどれでもない様な気がする。
美羽はあれで寂しがり屋な部分があったし、嫉妬深い面もあった。
だが、この時はそのどれでもない顔を見せてくれている様な気がする。

「翔の事は心配しないで。必ず、一人前の武人に育てて見せるから。
命を賭けて大切な人を守れる、そんな強い男に。
翔を連れて行くのは、それで許してもらえますか?」

当然ながら返事はない。しかし構うことなく、兼一は墓石に語りかける。
まるで、そうすることで胸の中の気持ちにはっきりとした形を持たせよる様に。

「それから、次来る時には…………………弟子を、紹介することになると思います。
 僕なんかにはもったいない、本当にいい子なんですよ」

亡き妻の面影を思い返しながら、兼一は死者と語らう。
返ってくる言葉はないにもかかわらず、兼一には美羽が笑っているような気がした。
『楽しみに待っている』と、そんな言葉と共に。
そうして、兼一は最後に新たな誓いを口にする。

「だから、もしもの時は命を捨てて二人を守ります。
弟子を先に死なせるわけにはいきませんし、それが僕達がずっと見てきた人たちの姿だから。
…………………………それじゃあ、また」

そう言って、兼一は墓石に背を向ける。
まるでその背を押す様に、一陣の風が追い風となって兼一を押しだした。

「さて、まずはイギリスに行って長老の知り合いって人に会わないと。
 正式に向こうでやっていくためにはやっぱり職も必要だし、これ以上ゲンヤさんを頼るのも悪いもんね。
 就職くらい、自力で何とかしないと格好がつかないし」

優しく背を押す風を受けながら天を仰ぐ。その顔には、以前あった迷いはすでにない。
既に一歩は踏み出した。ならば、後はその果てまで突き進んで行くだけなのだから。




おまけ

イギリス某所。
その片田舎に構えられた、日本の住宅事情からすれば充分「豪邸」の部類に入る邸宅。
あまり客人の多くない静かなその場所を、白浜親子は訪れていた。

「父様、ここがそうなの?」
「う~ん、長老に教えてもらった住所だとここで間違いないんだけど……」

小さな紙切れを手に、兼一は梁山泊とは比べ物にならない程手入れの行きとどいた庭を前に棒立ちしていた。
正直、長老の古い友人とやらがこんな真っ当な所に住んでいる事が以外でならない。
あの長老の友人だ、中国の山奥で仙人をやってたり、忘れ去られた古城で吸血鬼でもやっていたりするんじゃないかと思ったのだが……。何しろ、あの櫛灘美雲もいい具合に妖怪じみている。あり得ないとは到底言えない。

にもかかわらず、ふたを開けてみれば拍子抜けするほどまともな邸宅に辿り着いたのだ。
兼一でなくとも、本当にここであっているのか不審に思うだろう。というか、翔も同じような認識らしい。

(まぁ、ここで突っ立ってても意味ないし、行くだけ行ってみるか。
 とりあえず、警戒だけはしておこう。長老の友達の家だ、罠があったりいきなり襲われたりしても不思議はないし。そもそも実は幽霊屋敷だったとしてもおかしくないもんなぁ……)

住人が聞けば、確実に「アレと一緒にするな!!」と激怒しそうな事を胸中で呟く兼一。
だが無理もない。過去、長老の無茶に散々振り回された経験上、そう言った警戒心を抱くのは当然なのだ。
むしろ、警戒せずに踏み込む事こそ無謀と言えるだろう。

そうして、兼一と翔が一歩踏み出そうとした時。
二人の機先を制するように、庭の先の邸宅から一人の老人が出てきた。
老人はピンと背筋を伸ばし、ゆっくりとした足取りで兼一達の方へと歩を進める。
翔もそれに気付き、兼一の服の裾を軽く引いて父に尋ねた。

「父様、あの人が曾お爺様のお友達?」
「たぶん、そうだと思うんだけど……」

外見的な年齢から考えても、長老の友人と言うのは納得がいく。
後ろへ撫でつけられた髪には大半が白くなり、立派に蓄えられた口髭や顎鬚も同様だ。
長い年月を生きた者特有の静かで落ち着いた、それでいて重厚な空気。
如何に達人とは言え、若い兼一では決して持ち得ないものをその老人は極自然と身にまとっている。
ただ、問題なのは……

(本当にあの人が長老の友達? あんな、常識的そうな人が? 
…………………………………………………いやいや、あり得ないでしょ)

身にまとう雰囲気が、あまりにも常識的すぎる。
あの長老の友人なのだから、どうせ相当にはっちゃけた人だと思っていたのに……。
兼一はその予想を全く疑っていなかったし、それは今も変わらない。
だからこそ、歩み寄ってくる人物が人違いなのではないかと思う。

とはいえ、幼く未熟な翔は気付かないあるものに、兼一は気付いていた。
その老人が、老いてなお揺るがぬ優れた戦士としての風格。
柔和な瞳の奥に潜む、幾度となく死線を越えた者だけが持つ光。
肉体の衰えの兆候は兼一とて見逃しはしないが、それとは別の所でこの老人が常人でない事を感じ取る。
そして、ついに兼一が抱いていた予想は当人によって否定された。

「遠路遥々、よく来てくれた。君達が、隼人の言っていた子たちだね」
「では、やはりあなたが……」
「ああ、私がギル・グレアムだ。話は隼人から聞いている、自慢話がほとんどだがね。
会えて光栄だ、『一人多国籍軍』殿」

老人、ギル・グレアムはそう言って兼一に握手を求めた。
何気ない仕草、無造作な動作にもかかわらず、それらは兼一をして目を見張らされるに足る。
兼一が感じ取ったように、この老人は外見通りの好々爺ではない。
醸し出される空気通り、本質的に善人であるのだろう。

しかし、その奥底に未だ牙を隠し持っている。
衰え、錆びていようとも、それでも決して軽んじることのできない牙を。
それも、力だけに頼った愚直な戦士ではなく、怜悧な頭脳を併せ持つ曲者。
その瞳を見て、兼一の眼力がそれらを見抜く。
だからこそ、兼一は彼が長老の友人であることに納得し、自然とその手を握り返す。

「こちらこそ覚えていただいて光栄です、グレアムさん。
 すでにご存じの様ですが、白浜兼一と申します。この子は息子の」
「始めまして、白浜翔です」

長老の友人と言うことには納得したが、その分下手に握手などしては不意打ちくらいは平然としかねない。
兼一とてその事は承知している。だが、それでも礼には礼を持って返さねばならない。
不意打ち覚悟で握手に応じた兼一だったが、返ってきたのは予想外のものだった。

「ふっ」
「なにか?」
「いや、あの隼人の弟子と聞いていたのだが、想像とだいぶ違うものでね」
「………………………………長老、何て言ってました?」
「『昔のわしによう似とる』と言っていたよ。てっきり、奴そっくりの非常識の権化かと思っていたのだが………君は、アイツに似ず常識的なようだ。正直………………………安心したよ」
(ああ、この人もか……)

その哀愁漂う、というか溢れんばかりの哀愁に兼一の目が遠くなる。
悟ったのだ。この老人もまた、かつての自分同様長老に散々振り回された被害者である事を。

(長老、アンタこんな人にまで何してんですか!?)
「さあ、いつまでもこんな所にいないで中に入りなさい。娘達も待っている。
 君達がアレと違って常識的と知れば、二人も喜ぶだろう。『アレみたいなのが来るのか』と鬱になっていたのでね、早く安心させてやりたい」
(すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいません!!!)

長老が彼らに何を仕出かしたのかは知らないが、兼一はその胸中で全力を持って謝り倒す。
何しろ、グレアムが遠くを見つめる表情には年齢以上の疲労が浮かび、どんなのが来るのかと相当に気を揉んでいたことが伺えるからだ。それだけ心配される様な事を、長老がして来たということだろう。
そうなると、弟子の身としては謝り倒すより他はない。

そうして、グレアムに先導されて二人は梁山泊の母屋にも匹敵する邸宅に到着する。
ただし、その綺麗さはとんでもなくボロイ梁山泊の比ではないが。

「リーゼ、お客だよ。思った通り、隼人の所の子たちだ」
「「お邪魔します」」

玄関へと通され、二人は軽く会釈しながら入る。
中も外観同様手入れが行き届き、綺麗に整えられていた。
しかし玄関に一歩踏み入れたその瞬間、兼一の表情に僅かな緊張が走る。

「グレアムさん」
「何かな?」
「…………………………あなた、やっぱり長老の友達ですね」
「ほう、と言うと?」
「不意打ちは勘弁してくださ……」

言いきるより早く、兼一の頭上から二つの影が落ちてくる。
特に驚いた様子も見せず、兼一はただ「遅かったか」と内心で溜息をつく。

気配を殺し、隙を窺っている視線が2対あることには気付いていた。
恐らくだが、向こうも気付かれていることに気付いているだろう事も。
だから、無用な戦いは避けようと思ったのだが、間に合わなかったらしい。

(気の殺し方が巧い。隙を見せればこっちが危ない!)

まず間違いなくグレアムの関係者であろう二人が兼一に到達するまでのコンマ数秒。
その間に、兼一は相手の戦力を気配と目の端で捉えた身のこなしから推測する。
キサラに通じるものがある、どこか猫を思わせるしなやかで軽い体捌き。
野生動物にも似た荒々しさがありながら、同時に歴戦の戦巧者特有の鋭利さを併せ持つ独特の気。

それら一つ一つが、相手の実力が侮れないものである事を知らせてくれる。
間違いなく、個々の戦闘能力はギンガとは比べ物にならない。
一人でもそれだけの戦力を持つ相手、それが二人。それも、非の打ちどころのない連携がなされている。
片や接近戦を得てとし、片や遠距離戦を得手とするのだろう。
それぞれがそれぞれにとって得意な間合いを取り、互いに相手を邪魔せず、むしろサポートし合える位置取り。
それだけでも、相手の力量が生半可なものでないことは明らか。

不意打ちを仕掛ける二人の方を向くまでの僅かな時間で、兼一はそれらを看破していた。
そして、二人のうちの一人。接近戦を得手とするであろう方は、着地すると同時に兼一に突きを放つ。

恐らくは貫手、刃物の様に鋭い爪が兼一の眉間に迫る。
だが兼一は微動だにせず、構えすら取らない。
その薄皮に触れた所で、まるで不可視の壁に阻まれたかのように爪が止まる。
続いて放たれたのは、攻撃でも戦意でもなく、静かな疑問だった。

「…………………………………………なんで、応戦しようとしないんだい?」
「あなたと戦う理由が僕にはありません」
「いきなり攻撃されたのに?」
「不意打ちはいきなりやるものですよ」
「あたしが振り抜いていたら、アンタ死んでたかもしれないよ」
「そう簡単に死ぬようなやわな鍛え方はしていません」
「こっちはそれも承知の上でやってるんだ。殺せるだけの一撃のつもりなんだけど?」
「でも、あなたは止めたでしょう?」

険しい顔で問いかけるショートヘアの女に対し、兼一は笑顔すら浮かべながら応じる。
まるで、そうすることが分かっていたかのように。
まあ、微妙に震えながら言っても説得力に欠けるのだが……。

しかし実際問題として、もし女がその突きを振り抜いていれば兼一とて無事ではなかった筈だ。
兼一には正確に感知する術がないが、女の爪の先には高濃度に圧縮された魔力の刃がある。
如何に異常なまでの耐久力を誇る兼一とは言え、これを受ければどうなったことか……。

達人は確かに常軌を逸している。しかし決して不死身でも無敵でもない。
相応の威力さえあれば、斬れば血を流すし銃弾は身体を貫通する。
先の一撃には、兼一の頭蓋貫けるだけの威力があった。
魔力を感知する術を持たない兼一だが、彼の研ぎ澄まされた武人の勘はそれを知らせている。
その上、彼女の背後に同じ顔立ちの髪の長い女性が構える何かからも相応の危険を感じていた。

だが、それでもなお兼一は構えない、応戦しない。
今は、兼一にとって戦うべき場ではないのだから。

しばし流れる沈黙。
それを最初に破ったのは、やや離れた所に立つ髪の長い女性だった。

「もう良いでしょ、ロッテ」
「…………わかったよ、アリア」

髪の長い女性はゆっくりと構えを解き、見えない何かも霧散する。
兼一の眉間に爪を突きたてていた女性も、その一言で矛を収めた。
緊張し、押し黙っていた翔も、馬の雰囲気が変わったことに気付き息を吐く。

「ふぅ、腕を見るつもりだったんだけどねぇ……」
「満足、していただけましたか?」
「満足なんかしちゃいないさ。でも、毒気を抜かれちまったよ」

アリアとロッテは互いに肩を竦め、呆れたように溜息をつく。
こうまで真っ正直に交戦の意思を放棄されては、彼女達としても矛を収めるより他はない。
元々、兼一の腕前を知る為に仕組んだ事なのに、その思惑自体をへし折られてしまったのだから。
だが、それでもわかった事がある。

「だから言ったろう。隼人が認めた男だ、試すまでもないと」
「まあ、そりゃそうなんだけどさぁ」
「でもまさか、防御すらしようとしないとは思いませんでした」
「確かに、意外と言えば意外だったが……おかげで良いものが見れたよ。
 戦わずして制する、まさに武の本懐だ。リーゼ達が止まることを見越していたのだから、充分さ」

そう、腕など見るまでもない。一切の武を振るうことなく、彼らに認めさせたのだ、その力量を。
人間と言うのは、わかっていても危険が迫ればつい体が反応する。それは生き物として当然の物。
それを抑えることは生半可なことではない。それが出来ただけでも、兼一の力量を示すには十分すぎる。
これ以上、何を試す必要もない。まあ、試しても兼一が応じないと言うのもあるが。

「すまない。我々としても、君の実力が気になった物でね」
「まあ、お気持ちは分かるつもりです。
ですが、こう言う戯れは師匠達だけで充分ですから、これからはやめてください」
「心しておこう。私達も、君を敵には回したくない」

こうして、兼一はかつての時空管理局の重鎮「ギル・グレアム」と面会の席を持つこととなる。
そこでグレアムは一つの条件を出し、その対価として兼一の要望をかなえることを約束したのだった。






あとがき

はい、そんなわけで白浜親子は再度次元世界に向かいます。
今度は事故ではなく、自分自身の意思で。
まあ、108に配属になった微妙な時期の新しい局員が誰かは言うまでもありませんよね。

しかし、なんでまた6課の方に行くことになってしまっているのかは、次の話で。
原因はグレアム、まあこれで何も言わなくてもわかりますけどね。
なので、次でギンガとの再会をやって、その次から6課に合流の予定です。

とりあえず、次でギンガは正式な兼一の弟子へとクラスチェンジ。
これまで以上に容赦のない修業が待っています。
そんなわけで、次回BATTLE 12は「地獄巡り 内弟子編」。
ギンガ、ようこそ地獄の一丁目へ。今までいたのは地獄の入口でしかなかったのですよ。
ところで、この場合「Go to Hell」と「Fall in Hell」。どっちの方がいいと思います?



P.S
最後の方を少々追加しました。
本当は次の話の冒頭部分にするつもりだったのですが、急遽変更してこちらの末尾に移しました。
思いの外長くなった上に、書いているうちにタイトルの後の所も冒頭っぽくなってしまったのが原因ですね。
この調子だと、次の「内弟子編」が比率的にとてもそう呼べないものになりそうだったのです。
まあ、なくても良いと言えばなくても全く問題ない部分なんですけどね。
基本、やりたいものは全部放り込む方針なものですから……。



[25730] BATTLE 12「地獄巡り 内弟子編」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/31 15:45

ゲンヤが唐突に本局に呼び出された翌日。
妙な立場にあるらしい新しい局員とやら迎えに転送ポートに出向いたゲンヤは、そこであり得ない人物たちとの再会を果たしていた。

「……おい、こりゃどういうこった……?」
「お久しぶりです、ゲンヤさん」
「ゲンヤおじ様!!」

驚愕するゲンヤに対し、兼一は礼儀正しく一礼し、翔は喜び勇んでその胸に飛び込む。
ゲンヤは茫然としたまま翔の突進を受け止め、僅かによろめきながらもそれに耐える。
心なしか、体重に比してその突進の威力が強くなっている気がしないでもない。

しかし、その程度の衝撃では彼を現実に引き戻すには至らなかった。
無理もない。もう会う事かなわぬと思っていた二人と、こんなに早く再会することになろうとは。
それも、今度は上司と部下として。さしものゲンヤも、その胸中は混乱の渦だ。

「……………」
「どうしたの、ゲンヤおじ様?」
「まぁ、驚かれるのも当然ですよね」
「……わかってんなら、明確な説明をしてほしいんだけどよ」
「もちろんですよ。ただ、ちょっと長くなりますから、隊舎に行きながらということで」
「わぁったよ。おら、さっさと行くぞ」

ようやくいつもの調子が戻ってきたのか、ゲンヤは普段の荒っぽい口調で二人を先導する。
わからないことだらけではあるが、一つだけ確かな事があった。
それは、もう一度二人に会えた事への喜びであり、今度はその関係が長く続く事への期待。
同時に、この所意気消沈していたギンガも元気を取り戻すだろうと思うと、自然足取りも軽くなる。
まあ、兼一が戻ってきたことであの頭と胃の痛い日々が戻ってくるのかと思うと、少々目の前が暗くもなるが。

とりあえず、移動用にのってきた車に二人を乗せ、ゲンヤは道すがら話を聞きながら隊舎へと向かう。
その中で聞かされたのは、梁山泊での師匠達との会話と管理局の採用試験を受けるにあたっての勉強地獄の思い出。そして、兼一に対し色々と便宜を図ってくれた人物のとことも。

「グレアムっつうと、あのギル・グレアムか? 昔は執務官長も務めた」
「へぇ、グレアムさんってそんなに偉い人だったんですか」
「優しいおじいちゃんだったよ?」
「ま、局を離れて十年近いからな。すっかりご隠居って事か?」

ギル・グレアムと言えば、管理局では知らぬ者のいない超大物だ。
訓練校や士官学校でも、必ず一度は歴史の講義の中で名が出るほどの。
それこそ、彼の三提督に次ぐ知名度を誇る管理局員の一人と言っていい。

故あって十年ほど前に希望退職したが、それでもその知名度は未だゆるぎない。
まあ、ゲンヤは少々事情があって、彼がなぜ退職したのか、その本当の理由を知っているが。

「どうでしょう? でも、ただものじゃないとは思ってましたけど……すごい人だったんですねぇ」
「おめぇにそこまで言わせるって事は、隠居してもなお健在か。
 ギル・グレアムとその双子の使い魔っていや、かつては最強のチームとまで言われてたからな」
「ゲンヤおじ様、使い魔って何?」
「聞いてねぇのか?」
「はい。まあ、なんだか珍しい気配をした人たちだなとは思いましたけど……猫っぽいと言うか」
(気配で使い魔と人間の違いを識別できんのかよ、こいつは……)

ちなみに使い魔とは、魔導師が作成し使役する魔法生命体の事だ。
主からの魔力供給を受けて生き、自身も魔法を使って主を助け、ベルカ式では守護獣とも呼ばれる存在。
一応外見に元となった動物の面影、耳や尻尾などを残すのだが、それ以外で識別するのは難しいとされる。
にもかかわらず、兼一は気配だけでそれを見分けられるのだからとんでもない話だ。

「で、おめぇの師匠の一人がそいつの知り合いと?」
「はい、管理局に所属するようになる前からの付き合いだと」
「顔がひれぇのも大概にしとけよな。ギンガから聞いたぞ、おめぇその筋じゃ超有名人の大物らしいじゃねぇか」
「有名なのは師匠達の七光りですって。連合の事にしても離れてだいぶ経ちますし、アレって元々は単なる学生の集まりですよ?」
「言っとくけどな、十年ちょいで大企業に成長する様な集まりを『単なる』とは呼ばねぇよ。
 ましてや、達人なんて生き物の卵が複数いたとなりゃ尚更だ。
 にしても、こっちの言葉を覚えたんだな。前はたどたどしく日常会話するのが精一杯だったのによ」
「あ、あはは……リーゼさん達に叩きこまれましたから」
「ぅぅぅうぅ……」

兼一の修業も非常識にきついのだが、リーゼ達のミッド語講座もかなり厳しかった。
と言うか、兼一のそれとは別種の地獄である。
ミッド語で延々と何かをまくしたてるなどまだ序の口。書きとりをした回数は億を越え、一問間違う度に膨大な量のペナルティを課される。あるいは、ミッド語以外を口にしようものなら罵詈雑言と共に暴力まで振るわれる始末、もちろん兼一に対しては魔力で強化した上で。挙句の果てに、寝る時は怪しげな機械を頭に付け、洗脳にも等しい睡眠学習までさせられた。
それを管理局員採用試験までの半月の間、昼夜問わず行われたのだ。
肉体ではなく脳を酷使するその苦行は、翔に別種のトラウマを植え付けた程である。

「まあ、どんな事をやったのかは聞かねぇよ」
「聞いてくれないの?」
「聞くと俺が不幸になる気がするからな、死んでも聞かねぇ」

翔としては色々ぶちまけたいものがあるのだが、ゲンヤは断固として聞こうとしない。
例えつぶらな瞳を潤ませようが、それでも聞かないと言ったら聞かないのだ。

「にしても、なんでまたおめぇが八神んとこに行くことになってんだよ」
「えっと、試験のこととか色々と便宜を図ってもらう対価と言うことで……」
「…………………………なるほど」

ギル・グレアムは新設される機動六課の部隊長、八神はやてに負い目がある。
仮にもはやての師匠であるゲンヤは、その負い目が何であるか知っているが故に納得した。
はやては別にグレアムを恨む気などさらさらないのだが、本人の気が済まないのだろう。

「機動六課が主に担当するロストロギアには、ガジェットって言う機械兵器が付きまとうらしくて……」
「そいつは俺も聞いてる。AMFを発生させる奴だったか?」
「はい、そう聞いています。確か、AMFって言うのの中にいると魔法が使えなくなるんですよね?」
「厳密に言うとまた違うんだろうが、その認識でいいだろ。八神とかアイツのダチ連中ならなんとかなるだろうが、それでも魔導師の天敵であることには変わらねぇからな。
 それなら確かに、おめぇを置こうとするのも納得がいく。おめぇには関係ねぇもんな、AMFなんてよ」

そう、AMFは魔導師にとって天敵となるフィールド魔法だ。
それも、それを自立式の機械兵器が使えるとなると性質が悪いと言ったらない。
魔導師はAMFの影響で魔法が思う様に使えず、機械兵器でしかないガジェットには何の影響もないのだから。

しかし、兼一にそんな事は関係ない。何しろ、兼一にはそもそも魔力がないのだ。
これでは魔法の使用を阻害するも何もあったものではない。
魔導師の天敵と言えるAMFだが、その最大の天敵の一つが達人なのである。

「だがよ、そうなるとギンガへの指導はどうなるんだ?
 おめぇ、アイツを弟子にする為に来たんだろ?」
「ああ、機動六課が解散したらゲンヤさんの所に行ける様に掛け合ってくれているんですよ」
「ふ~ん」

別にゲンヤ自身はそれほどグレアムに対して反感などはない。同時にそれほど好意的でもないが。
ただ、はやての為にそこまで骨を折ることには感心するだけだ。

「それに、もしかするとギンガちゃんも6課に引き抜かれることになるかもしれないって言ってましたし」
「まあ、そんな話は来てるがよ。それだと魔導師の保有ランクの制限に引っ掛かるだろ?」
「そこは出向とか派遣とか、そういう網の目を抜く方法を使うって言ってましたよ。
 あとは、地上本部と何らかの取引をするとか……」
「ま、元は執務官のトップだった野郎だからな。抜け道、裏技に詳しくて当然か」

考えてみれば当然の話で、執務官には法務関係の広範な知識が求められる。
そうである以上、当然抜け道抜け穴には恐ろしく詳しい。
ましてや、かつては管理局の上層部に籍を置いた執務官達の頂点となればなおさらである。
局を離れて長いとはいえ、その影響力や発言力はバカにならない。
今まではあまり目立った動きを見せなかったが、ここぞとばかりに持てる力の全てを注いでいるのだろう。

(まぁ、ギンガ的にも悪い話じゃねぇし、兼一に付いていけるとなればアイツも二つ返事だろ。
 局員としても武術家としても、何より個人としてアイツにとっちゃ良い環境だ。
 …………………………………ヤベェな、反対する理由が見当たらねぇじゃねぇか)

まだ確定ではないとはいえ、ほぼその未来は決定していると言っていいだろう。
ゲンヤとしても、特に反対する理由も意思もない。
ただ、戦力を集め過ぎて地上部隊からのやっかみは多そうなのが、心配と言えば心配なのだが……。

同時に、それにはやてが気付かない筈もない。ギンガや兼一の事を抜きにしても、既に過剰な戦力をかき集めているのはゲンヤも知っている。
つまり、それだけの戦力が必要な何かの為と言う事だ。
恐らく、これまであまり表だってはやてを支援していなかったグレアムが動いている事も無関係ではあるまい。

(下手に野郎が手を貸すと、アイツの立場がますます苦しくなるって事はあっちもわかってる筈だ。
 だからこそ、これまで表はハラオウンやらロウランやらに任せて、裏方に徹してたわけだしな)

グレアムが局を離れた理由は、そこそこの地位やキャリア、あるいは人脈を持っていれば知る事はそう難しくない。その理由のせいで、グレアムがあまり手を出すと悪い風評が立ちやすい。
その上、はやて自身本人の責任ではないにもかかわらず、その経歴や背景から悪意に晒され安い。
故に、そのリスクを負ってまで手をまわしているだけの何かが、6課設立の背後にはあるのだろう。

「グレアムさんも、よほどそのはやてちゃんって子に償いたいんでしょうね」
「おめぇ、知ってるのか?」
「あぁ………………………その、つい…聞いちゃいまして……」
「ったく、聞き難い事を意識しねぇで聞くのはおめぇの悪い癖だぞ。
 相手によっちゃ、その内ひでぇ目にあう……遅かったか?」
「グレアムさんはそうでもなかったんですけど、リーゼさん達が……」

相手の逆鱗に触れる天才は、十年程度では錆びつかないと見える。
多少成長はしたようだが、その本質はそう簡単には変わらない。
そんな兼一にゲンヤは盛大な溜息をつき、兼一はリーゼ達の折檻を思い出し顔をひきつらせるのだった。



BATTLE 12「地獄巡り 内弟子編」



場所は108の隊舎、その一室。
新しく配属された局員の紹介と言うことで、一部の隊員をのぞいたほとんどの隊員がこの部屋に集められていた。
ただし、その紹介の仕方は酷くぞんざいだったが。

「つーわけで、頼んでもいねぇのに出戻ってきやがったから精々こき使ってやれ、以上」
「あの…ゲンヤさん、もちょっとこう……何かないんですか?」
「あん? おめぇだって雑用押し付けられる事は承知の上で戻ってきたんだろうが、何か文句でもあんのか?」
「いや、それは別に良いんですけど……」
(良いのかよ……!)

こき使われる事も雑用を押し付けられる事も問題なしとする答えに、一同揃って心のうちでツッコミを入れる。
彼らとしても雑務全般を請け負ってくれる相手がいる事は純粋にありがたいのだが、それでいいのかと思わないでもない。特に、白浜兼一と言う男が優れた武人である事を少なからず知るが故に、そんなことに貴重な時間と労力を使っていいのだろうかと思う。

何しろ、ある意味これはとんでもないレベルでの「能力」や「技術」と言う名の資源の無駄遣いだ。
次元世界全体を見渡しても非常に希少かつ高度な技術を修めているのに、雑務ではそれは全く活かされない。
武装隊員として戦闘に参加すれば非常に心強いし、あるいは教官として武装隊員たちの育成に携われば間違いなく重宝されるだろう。にもかかわらず、兼一がやるのは雑務。
これでは宝の持ち腐れも良い所だ。まぁ、誰も好き好んで兼一の指導を受けたいとは思わないのだが……。
とはいえ、せめて自身の技を磨く事に時間を費やす方が、遥かに有意義だろうと誰もが思うのも事実。
だからこそ、みなは小声でその是非を話し合っている。

「おいおい、生身で魔導師ぼこれる奴に雑用なんて押し付けていいのか?」
「ですよねぇ、まだ解体工事とか土木工事の現場に行った方がマシでしょう」
「とりあえず、重機の経費が浮くわね。環境にも優しいし、ある意味適所?」
「ビルの崩落に巻き込まれても傷一つ負わない人だからなぁ……どれだけこき使っても死なないのは間違いないか」
「ああ、あの人がスタミナ切れをおこす所とかマジ想像出来ねぇわ」
「まぁ、だからこそこんな所で雑用してていいのかって感じなんだが」
「だったらほら、やっぱ道場でも開いた方がいいじゃないですかね?
 あの人の事を知ったら入門希望者が殺到しますよ」
「いや、そりゃ駄目だろ」
「なんでですか、先輩」
「考えてもみろ。もしそんなことになったら……………………いつか死者が出るぞ」
「ああ、そうですよねぇ……」
『うんうん』

あまりにもイヤ過ぎる、しかし非常に現実味のある想像に皆は腕を組んで頷く。
何しろ、ギンガへの指導を間近で見てきた彼らだ。
いつか修業の最中に誰か殺してしまうんではないかと言う予想は、あまりにも現実的すぎる。

「そう考えると、うちで雑用しててくれた方がマシだなぁ……」
「確かに、それが一番平和かもしれん」
「なぁ、お前はどう思……お~い、どうしたギンガ?」
「…………………………………………」
「ダメだこりゃ、完全に停止してやがる」

驚きのあまり思考が停止してしまったギンガは、それはもう間の抜けた表情をしている。
目は皿の様に見開かれ、口はだらしなく半開き。はっきり言って、これではどんな美少女でも魅力消失である。

「んじゃ解散。ほれ、さっさと仕事に戻れ野郎ども、給料さっぴくぞぉ~」

話は終わりとばかりに手を打って解散を指示するゲンヤ。
だいぶ投げやりと言うか適当な態度なのだが、そこはそれそんなゲンヤには慣れっこの部下たちである。
それぞれがやる気も敬意もなさそうに「う~い」と返事をしながら散り散りになっていく。
というか、中にはだいぶ問題のあるメンツもいたりする。

「うわ、横暴だ!?」
「早く行け! 俺今月財布がヤバいんだよ!!」
「部隊長~、私たち野郎じゃないんですけどぉ~」
「揚げ足とってんじゃねぇよ、小娘どもが」
「うわぁ……それ差別発言ですよ!」
「ピーピー文句言ってねぇで早く動け!!」
『キャー♪』
「ったく」

公的組織、それも上下関係が非常にはっきりしている組織にあっては色々問題のあり過ぎる態度だ。
だが、良くも悪くも上司と部下の距離が驚くほど近いのがこの隊の特徴なのだろう。
ただ、中にはそれで済ませてはいけないものもあるが。

「すみませ~ん部隊長、ギンガ陸曹が叩いても触っても動かないんですが……」
「ん? ああ、ほっとけほっとけ。どの道兼一と話させるつもりだったからな、丁度いい。
 つーか、触ってた奴は給料なしな」
『え~!? 身内贔屓~!』
「後でギンガに殴られるのとどっちが良い?」
『喜んで返上いたしますです、ハイ!』

どこを触っていたのか、そしてその感触がどうだったのかは非常に気になる所だ。
まぁ、全員揃って平身低頭して給料返上を受諾したのでどこを触っていたかのおおよその想像はできるが。
一つ言えるのは、後でその事に気付いたギンガに確実に制裁されるだろうと言う事だ。
ちなみに、触っていたメンツの中には女も含まれていたりする。どうも、あの発育の秘密が酷く気になるようだ。

「さて、俺は行くから後は勝手にやれ」
「あ、そうだ。ゲンヤさん、これ」
「なんだこりゃ?」
「僕が昔使ってた修業道具の設計図です。一応、投げられ地蔵とか生薬は送ってもらえる事になってるんですけど、この手の道具はもうほとんどリサイクルして残ってないんで作ってもらえません?」

どうも、グレアムを通して必要なものは後々送ってもらう手筈になっているらしい。
だが、さすがに昔使っていた道具のいくつかはもう残っていないので不可能。
というわけで、秋雨が大事に保管していた設計図を使って、こちらで再現してもらうことにしたようだ。
ただし、それとて無論タダではない。ゲンヤとしては、予算の事もあるのであまり簡単にうなずくわけにはいかないのだが……。

「電気代浮きますよ。他にも、マッサージチェアになるものもありますから」
「……ま、かわいい娘のためならしゃーねーな」
「はい、お願いします」

ヒソヒソと耳打ちする兼一と、それを聞いて二つ返事で了承するゲンヤ。
買収完了、と言ったところだろうか。

「まあ、それはそれとして……」
「?」
「押し倒すんなら人目につかない所でやれよ」
「やりませんよ!!」
「いいか、兼一。この場合は『やる』か『やらない』かじゃねぇ。『出来る』か『出来ねぇ』かだ」
「なんでしょう、いま猛烈に目から汗が出てくるんですけど……」

優しく肩に手を置きそんな事を諭すゲンヤと涙をぬぐう兼一。
武術を始めて間もない頃の兼一が抱いた不安、それに対して逆鬼は言った『人生にゃ出来るも出来ねーもねぇ!! あるのは…“やるかやらないか”だ!!』と。
不安を消し飛ばしてくれた力強い師の言葉。しかし今、それと間逆の言葉を否定できない自分がいる。
何しろこの場合、兼一がそれをするか否かは問題ではない。問題なのはそれが出来ると言う事実のみ。
兼一なら容易くギンガを押し倒す事が出来てしまうからこそ、『人目につくな』と言う言葉が出るのだ。
それが分かるからこそ、兼一両目からは滂沱の如く涙があふれ出る。

「いつまでも泣いてんじゃねぇって、色々話す事があんだろうが」
「うぅ~、わかりました」
「おう、じゃ俺は行くから終わったら部屋に来い」

言うだけ言って、ゲンヤは兼一に背を向けてその場を離れる。
隊員のほとんどが入れてしまう部屋には、今や涙目の兼一とフリーズしたままのギンガだけが残されていた。
とはいえ、兼一としてもいつまでもこうして突っ立ったままではいられない。
ギンガが再起動する兆しもない以上、とりあえずは起こす所から始めるのが妥当だろう。

「ギンガちゃん、ちょっといいかな?」
「…………」
「お~いってば」
「…………」
「ねぇ、そろそろ起きてよぉ。一人で喋ってるのってなんか変な感じだしさ」
「…………」

どれだけ呼び掛けても一向に返事はない。
一応肩をゆすったり目の前で掌をひらひらさせているのだが、表情にも変化は見られない。
どうやら、相当本格的に思考がフリーズしているようだ。
さて困った、とばかりに首をひねる兼一の脳裏によく分からない閃きが生まれる。

(こんな時は斜め45度にチョップだっけ? いやいや、それは古いテレビの直し方……)

まあ、もし本当にそんな事をすると、意識を再起動どころか強制終了させかねないわけで……。
悩みに悩む兼一はが、特に意味もなく真正面で首をかしげつつギンガの瞳を覗き込んでいると、その視界の隅で何かを捉え咄嗟に首を引く。
それは、生物界でも指折りの嫌われ者である黒くて光沢があって、その上飛べる小憎らしいあんちくしょう、通称G。そのGが薄い羽を使って飛びながら、丁度兼一とギンガの顔の間を通った瞬間!

「…い、いやぁぁぁあぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁぁぁあぁ!!!???」

ギンガは唐突に堅く堅く左拳を握りしめ、叫びながら渾身の力で振り抜く。
如何に腕が立つとは言え、ギンガは華も恥じらう乙女……は関係ないとしても、その感性は一般的な女性と大差ない。虫自体は好きでも嫌いでもないが、これとか毛虫はダメ。見ただけで怖気が走る位に。
故に、その拳には見事なまでの殺意と魔力が乗り、直撃すれば常人の頭など一撃で木っ端微塵間違いなしだ。

当然、直撃を受けたGは跡形もなく消滅。
ただ、その拳はGを消し飛ばしてもなお止まる事はなく、そのまままっすぐに兼一の顔面目掛けて突き進む。

「おっと!」

軽く首を傾け、紙一重のところをギンガの左拳が通り抜ける。
しかし、勢い余ったギンガは体勢を崩し、前のめりに倒れ込もうとしていた。

(あ、ヤバ……!?)

そんな自分の状態をギンガは何処か他人事のように感じながらも、咄嗟の事に思うように身体が動いてくれない。
このままだと目前の相手にぶつかることになるし、仮に倒れこんでくるギンガを避けてくれたとしても、それだと今度はぶつかる対象が床になるだけの事。
ギンガはやがて訪れる衝撃に耐えるかのように、反射的に硬く目をつぶった。

「よっと……」
「きゃん!? って、え?」

だが、覚悟していた衝撃が訪れることはない。
それどころか、『ぽすっ』と軽い音を立てると同時に、その両肩を優しい感触が包みこむ。
また、前のめりになり前へ突き出される形になった頭は、床とは違う弾力に富んだ感触に支えられていた。

その事を不思議に思いつつ、ギンガはゆっくりとその場でゆっくりとまぶたを開く。
薄く開いた目にまず飛び込んできたのは見慣れた陸士制服、丁度階級証もありその階級は「二等陸士」。
どうやら肩に頭を預ける形になっているらしく、視界の端では自身の肩を武骨な手が支えているのが見えた。
同時に、いつの間にか突き出した拳からは力が失われ、しなだれかかる様にその肩にかけられている事に気付く。

(…………え? え?? えぇ!? な、なにコレ!? 何がどうなってるの!?)

客観的に見れば抱き合っているとしか思えない体勢だ。
そのことを理解したギンガの頭は、かつてない混乱の坩堝と化す。

しかしそれとは裏腹に、鼻孔をくすぐる匂いは懐かしさと安心感でギンガの胸中を満たしてくれる。
頭の中はしっちゃかめっちゃか、それに反して身体は勝手に肺一杯にその匂いを吸いこんでいた。
気付けば、身体からは力が抜け、近過ぎて顔も見えない相手に無防備に身体を預けている。

「大丈夫? ギンガちゃん」
「あ、え…う、その、えと……」

兼一からの呼びかけに、ギンガはしどろもどろになりながらなんとか答えようとするも上手く言葉にならない。
相変わらず頭は混乱し、脈絡のある文章すら作れていない始末。
何しろ、耳に馴染んだこの声がだれのものであるかすら、今のギンガには理解できていない。

だが、完全に思考停止状態に陥っていながらも、身体は勝手に動く。
のろのろと緩慢な動作で両足が床を踏み、身体をおこし、ギンガはゆっくりと相手の身体から離れていく。
顔が、手が相手から離れる直前、言葉にできない名残惜しさを感じながら。
そうして、恐る恐るほとんど身長の変わらない相手の顔を上目づかいに確認して、そこでようやくギンガはそれが誰なのかを理解した。

「…………………………………………兼一、さん?」
「あ、うん」

まるで白昼夢でも見ているかのように頼りない小声で確認するギンガ。
しかし兼一がそれに首肯すると、途端にギンガはペタペタとその顔や頬、肩や胸を触り始めた。

「あの…ギンガちゃん?」
「ア、アハハハ! ちょ、ちょっと最近練習のし過ぎかな?」
「いや、あのね……」
「あ、それとも寝不足? そう言えばここのところ夜中まで練習してたし……やだなぁもう、こんな幻見るなんて。今日は早めに寝た方がいいのかなぁ?」
「お~い……」

どうやら、「白昼夢でも見ているかのような」ではなく、これが白昼夢だと思っている……いや思いこもうとしているらしい。
ただ、本人も徐々に現実と言うものを認識し出しているのか、その笑い方は空虚極まりないが。
とはいえ、そんな現実逃避も当然長くは続かないわけで。
無理矢理な笑顔を浮かべる頬はヒクヒクとひきつり始め、ゆっくりと持ち上げられた右手が自身の頬をつねる。

「……………………痛い」
「……大丈夫?」
「…………………………兼一さん、ですよね?」
「う、うん、そうだね」
(痛いと言う事は…つまりこれは夢でも幻でもなくて……………現実?)

その考えに至った所で、ギンガの顔が途端に青ざめていく。
理由はわからない。だがとにかく、どうしようもない失態を演じてしまった事だけはわかった。
しかも、よりにもよって兼一の前で。

「あ」
「あ?」
「ああああああああのあのあの、その、今日はお日柄もよく」
「外、曇りだけど?」
「………………………………」
「………………………………」

控えめな兼一のツッコミにより、再度重い沈黙が降りてくる。
ギンガの眼には動揺がありありと見て取れ、今にも泣き出しそうな涙目になっていた。

そして、それを見て動揺したのがそれまでギンガの様子を不思議そうに見ていた兼一である。
何が原因かは分かっていないが、とにかく自分のせいでギンガが泣きそうになっているのは間違いない。
となれば、兼一としてはとにもかくにもまずはギンガに落ち着いてもらうのが先決だ。
泣かすのは本意ではないし、第一それではいつまでたっても話が進まないのだから。

「ぎ、ギンガちゃん」
「はひ!?」
「と、とりあえず落ち着こうか!? ね! ほら、深呼吸深呼吸! 吸ってー」
「すぅ~」
「吐いて~」
「はぁ~」
「吸って」
「すぅ~」

そうやって深呼吸をすること数度。
何を思ったのか、唐突に兼一はこんな事を言い出すのだった。

「吐いて~」
「はぁ~」
「そこで止める」
「っ!」

吸って止めさせるのはあるが、吐いた状態で止めさせると言うのはいったいどんな拷問なのか。
肺の中はほぼ空っぽ、そんな状態で息を止めればあっという間に酸欠だ。
しかし、一端は息を止めかけたギンガもすぐにその事に気付く。

「って何やらせるんですか!?」
「あ、あははははは、つい出来心で」

とはいえ、一応ツッコミを入れられるくらいには落ち着いたのも事実。
ここにきてようやく、ギンガに事情を説明することができるようになったのだった。



  *  *  *  *  *



そんなやり取りがあってしばし。
ゲンヤにしたのとおおむね同じような説明をした兼一は、それまでと違う真剣なまなざしでギンガに問いかける。

「どうかな? よければ、君を僕の弟子にしたいと思う」
「兼一さんの、弟子に?」
「うん。以前の様に少し技を授けて鍛えるのとは違う。
僕の持つ全ての技を、秘伝もノウハウも余すことなく。そしていずれは……」
「いずれは?」
「少なくとも、僕がいる所までは連れて行く事を約束する。必ずね」

力強く、確たる意思と覚悟を持って兼一は断言した。
兼一のいる領域、達人の世界まで必ず連れて行ってみせると。

ギンガからすれば、それは願ってもない申し出だろう。
だが同時に、僅かなためらいも産まれていた。

「聞いても、良いですか?」
「ん?」
「それは、あの人たちにそう言われたからなんですか?
兼一さんの師匠達に、中途半端な事はするなって言われたから……」

兼一の話を聞く限り、兼一自身はこちらの世界に来てまでギンガを弟子にする意思は薄かったように聞こえる。
自分を弟子にと考えてくれている事を疑うわけではないが、自分はそこまでして弟子にするほどの価値があるのかを疑ってしまう。それは、自身の出生や魔導士である事も無関係ではない。
兼一の様にその身一つで戦うわけではない自分が、彼の正式な弟子となる資格があるのか、そんな自分を本当に彼は弟子として望んでくれるのか。それが、ギンガの中で不安となって渦巻いている。

「確かに、最後のひと押しは師匠達だった」
(……やっぱり)
「でもね、僕も武術家の端くれだよ。この拳にも、師匠達から教わった技にも誇りがある。
 その誇りは、認めてもいない相手に譲れるほど、安くはないつもりさ」

その言葉に、ギンガの顔が赤面する。
兼一がどれ程師を慕い、師から学んだ技を磨き、その数々を誇りとして来たのか。それは、過去の彼を知らないギンガには当然わからない。だがそれでも、兼一が師の教えを、授かった技の数々を、共に過ごした時間を軽んじていないことくらいはわかる。
師の事を語る兼一の言葉の端々には揺らぐ事なき敬意と信頼が宿り、その技の一つ一つを宝物の様に扱っていたのだから。そんな彼が、それを軽んじる様なマネをするなどあり得ないのに。

だからこそ、ギンガは自分の浅はかな言葉を恥じた。
わかっているのに、わかっているにもかかわらず愚かな事を聞いてしまった自分を恥じる。
同時に、そこまで自分を高く買ってくれている事に対する、言葉にできない歓喜が身体を埋め尽くす。

「私は……」
「…………」

先ほどとは別種の涙を浮かべ、歓喜に総身を震わせるギンガ。
そんな彼女を優しい眼差しで見つめながら、兼一はただ静かに手を差し伸べる。
とるかとらないかは自由、好きな道を選べと無言のうちに語っていた。

しかし、ここまでされてその手を取らずにいられるほど、ギンガも無欲ではない。
彼女も一人の格闘家。ならば、道の最果てを目指す意思はある。
ゴクリと生唾を飲み込むと、ギンガは神聖な誓いを立てるかのようにゆっくりとその手を取った。

「御指導、よろしくお願いします。師匠」

自然と口から出たのは、それまでの様な親しみのある名前ではなかった。
有りっ丈の敬意と信頼を込めて、ギンガは兼一を「師匠」と呼ぶ。
兼一は「必ず自分のいる所まで連れて行く」と約束したが、同時にギンガも言葉にはせずに誓っていたのだ。
『いつか必ず、あなたの所まで行きつく』と。次に名前を呼ぶ時は、その誓いを果たした時。それまで「兼一さん」という呼び名は、胸の内に封印することを。
ただ、そんなギンガの気を知ってか知らずか……

「いやぁ……」
(て、照れてる……)

思いの外甘美な「師匠」という響きに、頬を赤くして照れていた。
とはいえ、あまりそんなだらしのない顔など見せる物ではない。
弟子の前と言う事を思い出し、緩んだ頬を引き締めると、ギンガの手を強く握り返しながら満面の笑みを浮かべて宣言した。まるで、世界に対してその事実をお披露目でするかのように、誇らしく。

「ギンガちゃん…いや、これからは『ギンガ』と呼ぶべきかな。
ギンガ、これから君を正式な弟子…………一番弟子とする!」
「一番、弟子……」

その単語を静かに、だが感慨深く反芻するギンガ。
先に弟子になったと言うのであれば翔だが、「一番弟子」には弟子の中で最も優れた者と言う意味もある。
その意味でいえば、確かにその称号はギンガにこそふさわしいだろう。

ただし、ギンガはまだ知らない。
正式な弟子になると言う事は、すなわち「内弟子」になる事と同義。
内弟子、それは師と寝食をともにしあらゆる武術の秘伝とノウハウを伝える制度。
文字通り、24時間徹底的に鍛えることを可能にする。
噛み砕いて言うと、「人生の為の武術が、武術の人生になる」「武術でたまった疲れを武術で癒し、武術あっての自分と言う事を思い知らせる、武術の武術による武術の為の生活」という非常に光栄な制度らしい。
よく分からないうちに、自分がその制度を適用されている事にギンガはまだ気付いていない。
まあ、遅かれ早かれ嫌と言うほど思い知るわけだが。

「いやぁ、それにしても安心したよ」
「もしかして、弟子にならないかと思ったんですか?」
「あはは、ここまで来たは良いけどそうなったら悲しいしねぇ……」

実際、ここまで来ておいて弟子にならなかったらどうしよう、という不安はあった。
何しろ、半ば勢いでここまで来てしまったのもある。
だが、兼一が本当に安心したのはこの事ではない。

「だけど、何が安心したって、ギンガに死の覚悟がある事だね」
「え? 死?」
「うんうん、自分の死に場所は自分で決めてこその武人だもんね。
いやぁ、目をかけていた子の成長っていうのは嬉しいものだなぁ」
「死に場所って……」

不穏かつ不吉な単語の連続に、それまで誇らしさでいっぱいだったギンガの表情が恐怖と不安で曇る。
にもかかわらず、兼一の表情は我が子の成長を喜ぶ親の様なのだから始末が悪い。

「さあ、これからがいよいよ本物の修業だね」
「は? 本物って……じゃあ、今までのは?」
「う~ん、なんというか……」
「なんというか?」
「これからやる事と比べた場合…………今までのは軽く体をほぐす運動?」
(あ、アレが運動レベルって……)
「まあ、とりあえず今までのは天国だから、ギンガは…………覚悟だけしといてね♪」
「ぎゃぴぃ……」

目から放たれる怪光線、不吉権化としか表現のしようのない良い笑顔。
ギンガは悟る、今日が自分の命日だと。



  *  *  *  *  *



夕刻。通常業務を終え帰宅したギンガを待っていたのは、先の言葉を裏付けるような地獄。
兼一の言葉通り、今までのそれが天国に思えるようなそれを、一部抜粋するとしよう。

「あの、なんですかこれ?」
「え? 見てわからないかな? 僕の古い友人が使ってたのを参考にしたんだけど」
「ギプス、ですよね」
「うん、間違いなくギプスだよ」

兼一がギンガに差し出しているのは、やたらと強力そうなスプリングがいくつも付けられた謎のギプス。
しかも、関節の動きを邪魔しない場所には鉄の塊まで取り付けられており、その重量たるや半端ではない。
用途は言われずともわかるのだが、正直信じたくなく気持ちでギンガの胸はいっぱいだった。

「これをどうしろと?」
「もちろん付けるんだよ。そうだね、とりあえずお風呂と寝る時以外はつけておこうか」
(つまり、これで四六時中鍛えるつもりなわけね)
「さらに今回は、上半身バージョンに加えて下半身バージョンもサービス! やったね、得したね♪」
「むしろ損した気分です」

まるで通販のような文句に、ギンガの身体から力が抜ける。
だが、実は今回のお得情報はまだ終わっていないのだった。

「ん? もしかしてこれじゃ足りない? まったく、ギンガは商売上手なんだから」
「どんな耳をしてたらそう聞こえるんですか?」
「仕方がない。そういう事ならとっておきだ! さらにさらに、おぶり仁王(鉄製)としがみ仁王(やはり鉄製)まで無料でご奉仕しちゃおうじゃないか! アハハハ♪」
「もういや……」

どうも、早々に心が折れかけているらしい。
無論この後、ギプスに鉄製の重りのフルコースで基礎トレーニングを行ったのは言うまでもない。
しかし、この程度はまだまだ序の口だったりするわけで……。

「技の修業も大事だけど、何を置いてもまずは基本を身につけなきゃね」
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ…………………そ、そうですね」
「というわけで、まずは正拳突きを一万回ほどやってみよう」
「いち、ま……?」
「あ、もちろん雑になったらその度に千回ずつ追加ね」

あまりの数に顔をひきつらせるギンガだが、それも無理はない。
一万回もやれば、それだけで腕が棒になって動かなくなること請け合いだ。

「あ、それが終わったら今度はテッ・ラーンも一万回ね。
 変に筋トレするより、こうやった方が必要な筋肉だけつくし」
「理屈は分かるんですけど、この数はどうにかならないんですか?」
「え? もっと増やす? やっぱり、初日だからって減らし過ぎかな?」
(だめだ、色々な意味でダメだ、この人。言葉は通じてるのに、その意味が通じない)

いっそ、全く言葉が通じなければまだ救いもあると言うのに。
なまじ、同じ言葉を使いながら全く意思の疎通ができていないからこそ心が擦り減る。
そうして、その日の修業もいよいよ大詰めにさしかかり、そこには未だかつてない地獄が待っていた。

「避けるんだ!」
「げふぁ!?」

目にもとまらぬ速度の膝蹴りがギンガの顎を打ち、首がちぎれるんじゃないかと錯覚する。
しかし、辛うじて意識を繋ぎとめたギンガを、更なる追撃が襲う。

「避けるんだってば!!」
「あべし!?」

辛うじて立っている状態のギンガの鳩尾を、鋭い前蹴りが貫く。
ギンガの身体は見事なまでのくの字に折れ曲がり、せり上がってくる嘔吐感に必死で耐える。
だがそうしている合間にも、兼一の手が休まる事はない。

「ぬぁ~んで避けないんだ!!!」
「ひでぶ!?」

トドメとばかりに振り下ろされた拳鎚が、ギンガの後頭部を打つ。
結果、ギンガは顔面を地面にめり込ませて意識を絶った。

「いや、そりゃ避けないんじゃなくて早過ぎて避けらんねぇだけだろ」
「徹底的に追い込んでこそ組手になる、って言うのが父様の方針だから」
「あ~、なんだっけ? 達人の世界へ真っ逆さま、途中で死ぬ事はあっても習得しない事はない、だったか?
 まあ、確かにありゃ何時か死にそうだが……」
「うん、父様も昔はそうだったって……」
「なら、しゃーねーのか」

地面に突っ伏した体勢のまま痙攣するギンガを見つつ、縁側で茶を飲むゲンヤと翔。
全然全く何もしょうがなくはないのだが、ゲンヤはもうそれ以上何も言う気はないらしい。

「お~い、そんなところで寝てると風邪ひくよぉ~。
 というか、起きないと死んじゃうぞぉ~」

そんな事を言いつつ、兼一は足を高く掲げ振り下ろす。
直撃すれば、間違いなく頭がトマト的に潰れることになるだろう。
しかしそれを、気絶したと思っていたギンガは寸での所で地面を転がって回避する。

「って殺す気ですか!?」
「何を言っているんだい? 実戦で倒れたままじゃホントに死んじゃうよ」
(こ、この人はぁ~~~~~!!!)

確かに、実戦で倒れたままなのは殺してくださいと言っている様なものだろう。
だがそれにしても、ここまでやる事もないのではあるまいか。

「というか、今まで組手なんて全然やってなかったのに何でいきなり!?」
「実は僕、女性は絶対に殴らないと誓っててね」
「……む」

女性は殴らない、それは兼一が昔から貫き通している主義の一つ。
ただ、ギンガとしては女と言うことで軽んじられている様な気がしてあまり面白くはない。
女と男の体の構造は確かに違うし、筋力や体格で男が勝っている場合が多い事も否定はしない。
しかし、「女だから」という理由で手を抜かれるのはギンガとしても不本意極まりないのも事実だった。
だが、兼一の主義はそんな底の浅い性差別とは次元が違う事をすぐに知ることになる。

「そういう性差別はどうかと思うんですけど……」
「いやいや、別に差別してるわけじゃないよ。単に、僕が絶対に女性は殴らないって決めてるだけだしね。
 女性が戦うのも、他の人が女性と戦って殴るのも否定はしないさ」
「…………………絶対に殴らないんですか? 相手が強くても」
「例え殺されるとしても、だよ。まあ、柔術もあるからそう簡単に殺されるつもりはないけど」

ここまで言われてしまっては、さすがにギンガとしても文句は言えない。
女性だからという理由で兼一は「手を抜いている」わけではなく、「殴らずに勝つ」というルールを自身に課しているだけなのだ。それこそ、命をかけて。
そこまで筋金が入っているのなら、それもまた立派な信念。
ギンガであっても、文句を言える筋はない。
しかしその代わり、少々気になる事がある。

「じゃあ、実戦はダメでも組手は良いんですか?」

実際、今までの修業でギンガは兼一に殴られた事がない。
受け身は取った事もあるし、打撃技の指導を受けた事もある。
だが、一度として組手やミット打ちなどはしてこなかった。
それを不思議に思った事は数多いが、それがここにきて唐突に組手が入ったのが不思議と言えば不思議だったのだろう。

「う~ん、確かに組手で手を出さないのは失礼だね。でも……」
「でも?」
「そもそも弟子は人間じゃないからねぇ! 女性は殴らないも何もないよ!!」

『ハ~ッハッハッハッハ』と笑いながら、目から怪光線を発する兼一。
思いもしないその言葉に、ギンガは開いた口がふさがらない。
突然組手が始まったのは、自分のレベルが上がったからというわけではなく、正式な弟子になったから。
そして、正式な弟子は人間に非ず、人権はなく性別もない。
故に、いくら殴っても兼一の主義には抵触しないと言う理屈だ……無茶苦茶にも程がある。

「そんなわけで、続きを始めるよ」
「い、いやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁあぁぁぁぁ!?」

確実に言えることがあるとすればそれは一つ。
もし死ぬことなく一月この修業に耐えることができた時、ギンガは今とは比べ物にならない程にタフになっているだろう。何しろ、毎日このノリで殴られていれば、嫌でも頑丈になると言うもの。
そう、かつて兼一が散々アパチャイに半殺しにされた様に。
それが幸か不幸かは、本人にしかわからない。



  *  *  *  *  *



その日の夜。
10時を回り、半死半生の体で何とか生き残ったギンガ。
食事ものどを通らない様な疲労から、早めに自室に戻ったギンガは泥の様に眠っていた…………かに思われた。
だがその実、ギンガはいつの間にか庭に出ている自分に気付く。

「あれ、こんな所でなにしてるんだっけ、私?」

四肢は過剰な鍛錬により力が入らず、箸や茶碗を持つことにさえ難儀する有様。
明日の事を考えるのなら、さっさと眠って回復に努めるべきだ。
一応兼一からは、あやしげかつ毒々しい飲料を飲まされているが、この調子だと明日の朝起きれるかどうかさえ分からないと言うのが、ギンガの感想だった。
それだけ、しばらくぶりに受けた修業、それも正式な弟子としての修業はきつかった。
特に、最後の組手は何度死ぬと思った事か……。

「はぁ、早く寝なきゃ……」

そう呟き、ギンガは家の中に入ろうとする。
しかしその脚が縁側に向けられると同時に、ギンガの身体は唐突に止まった。

「…………………………………まあ、少しくらい今日のおさらいでもしておこうかな?」

何を思ったのか、兼一が打ち込んだマットの付けられた杭に向かって歩いて行く。
ちなみに、つい最近試験に合格した兼一に、さすがに住処を探す時間的余裕はなかった。
その為、白浜親子はちゃっかりナカジマ家に転がりこんでいる。
まあ、弟子を育てるという観点でもその方が都合が良いので、もしかしたら狙っていたのかもしれないが。
それはともかく、杭の前に立ったギンガはおもむろに杭を蹴りだした。

「杭の向こうに目標があると思って、腰と瞬発力で………蹴る!!!」

ズドン、と言う重い打撃音が木霊する。
ローキックの基礎はギンガとて承知していた。だが、基礎と言うのはえてして疎かになりやすい。
それなりに技が身に付き強くなってきた頃は特に。

兼一は堅くその事を戒め、耳にたこができるほど基礎を繰り返して説いてきた。
今日教わった事、兼一が口を酸っぱくして言い聞かせてきた事を反芻しながら、ギンガは杭を蹴る。
今更と思うような基礎、それを何度も何度も飽きることなく繰り返して。
時に足を止め、ゆっくりと理想とする動きをなぞりながら。
そして、それは何も蹴りだけに限った話ではない。

「肘と肘が背中越しに紐で繋がっているように……」

凄まじい風斬り音と共に左拳が突きだされ、反対に右腕が後ろに引かれる。
それは愚直なまでに基礎に忠実な、正拳突きだった。

「突き手と引き手は、同時に達する」

その後も、ギンガは黙々と基本技の反復を続けた。
もしこの光景を翔が見ていたら、ギンガと一緒になって打ち込みをしていただろう。
だが、翔は兼一から『9時就寝』を堅く言い聞かされている。
まだ幼いからこそ、この時期に夜更かしなどしてはいけないと言う配慮だった。
しかしその代わりに、静かに鍛錬に励む自身を優しく見つめる視線がある事に、ギンガは気付かない。

「………………………………」

雲の隙間からさす月光。
それを受けてベランダに浮き上がったのは、手摺に身を預ける様にして眼下を眺める兼一の姿。
その隣には、グラスを二つ持ったゲンヤも姿を現す。

「まったく、アレだけやってまだやるたぁな」
「…………そうですね」

ゲンヤが差し出すグラスを受け取り、兼一はその中身を煽る。
父親二人は酒を飲みながらも、ギンガから目を離す事はない。
声はかけず、ただただ静かに見守るその姿は、どこか静謐な雰囲気を帯びていた。

「いいのか、口を出さなくて」
「危ない事をしてたら出しますけど、今は必要ありませんよ。
 弟子の自主性は、ちゃんと大切にしないと」
「………………そうかよ」

兼一の答えに、ゲンヤは小さく笑みをこぼす。
二人は無言のまま、ギンガの事を見守りつつ酒を飲み続けるのだった。
弟子であり娘でもある少女の未来を祝福するように。

そしてこれより2ヶ月の時が流れ、二人は新たな場所・新たな仲間と共に戦いに身を投じることとなる。
そこに何が待ち受けているのかは、虚空に浮かぶ双月にもわからない。






あとがき

はい、と言うわけで「第一章」と言うべき部分はこれで終わりです。
一応次からは少々時間が飛び、Sts本編に突入です。
原作と違い、ギンガもはじめから六課に放り込むことになりますけどね。
その辺は、裏技や取引と言う名のご都合主義で誤魔化されてくださると幸いです。

ところで、ふと浮かんだ妄想があるんですが、今の私に書く余力がないのが悔やまれます。
基本的には当SSと同じ、「史上最強の弟子ケンイチ」と「リリなのSts」のクロスなのですが、主人公が違います。話が原作の十年後という設定上仕方ないとは言え、こちらでは「彼」が出てこないフラストレーションが起因しているのでしょう。いくら何でも、さすがに寿命的に……ねぇ?
概要だけまとめてしまうと、「寿命で死にかけていたところを何故かなのはの使い魔になることで延命した闘忠丸」をメインにした話です、「何故」かは置いておきましょう。ただ、本来使い魔になると「人格の異なる別個の存在」になるそうなのですが、あの闘忠丸ですからね。そんな常識は軽く無視してくれそうです。
基本魔法の使用はなし。素手と武器のみ、かつ人間形態はほとんどとらない……どんな話になるんでしょうね、これ? まぁとりあえず、そんなカオスなものが頭をよぎっているわけです。
実は、闘忠丸を誰かの使い魔にして延命、と言うのはこちらで使おうかとも考えたのですが一応やめました。この先少なからず新たなオリキャラも出す予定ですし、収拾がつかなくなりそうなので。
とりあえずですね、「もし『面白そう』と思う酔狂な方がいるなら、どなたか書いてくれないかな」と他力本願に考えることにしています。もし本当にいるのなら、是非お願いしたいんですけどねぇ……。

って、Redsの方でも似たような事書きましたし、最近の私は困難ばっかりですね。
雑念と浮気が多過ぎるから執筆が遅れているのはわかっているのですが……これが中々。
特に今回は少々難産だったので、色々心配だったりしています。上手くやれていたらいいのですが、どうかな?
ちなみに、出すオリキャラは最大で二人、最小で一人です。正直、この一人が問題で、いなくても話は進められるのですが、キャラ的にも話的にも「こんなのを書きたいなぁ」という存在なものですから……。
まあ、なるようにしかならないと思いますし、もう少し考えて出すかどうかを決めようと思います。

あと、あまり遅くならないうちに次を出したいとは思いますが、どうなるかわからないので気長にお待ちください。それでは、今回はこれにて。



[25730] BATTLE 13「誕生 史上最強の○○」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/31 15:47

新暦0075年3月。ミッドチルダ中央区画、湾岸地区。
古代遺失物管理部「機動六課」本部隊舎。
相応の広さを持つそれを一望できる場所に、二つの人影が並んで立っていた。

片や、低めの背と短い栗色の髪が特徴的な二十歳になるかならないかの少女。
ただし、身体は小さいながらも二等陸佐の地位と総合SSランクを有する魔導騎士。
片や、白衣とショートボブにした薄い金髪が目を引く女医。
ただし、見た目は二十歳そこそこながらも実は千年以上昔から存在する夜天の書の守護騎士の一角。

はっきり言って、色々な意味で一筋縄ではいかない二人組である。
迂闊に手を出せば、それこそ生まれてきた事を後悔させられることは間違いないだろう。
そんな二人なのだが、今はその経歴に似合わぬ人懐っこい笑顔を浮かべて談笑していた。

「なんや、こーして隊舎見てると『いよいよやなー』って気になるなー」
「そうですね、はやてちゃん……いえ、八神部隊長♪」
「あはは♪」

金髪の女医、シャマルの言葉に呼びかけられた少女、はやても笑顔で返す。
その様子は、髪や瞳の色を無視すれば仲の良い姉妹のようにも見える。
事実、二人は血のつながりこそないが十年に渡って家族として過ごしてきた。姉妹と言う表現もあながち間違いではない。まあ、実際にははやてが「母」で、シャマルやその同胞たちは「子ども」に近いのだろうが。

「良い場所があってよかったですねぇ」
「交通の便がちょう良くないけど、ヘリの出入りはしやすいし、機動六課にはちょうどええ隊舎や」
「なんとなく海鳴に雰囲気も似てますしね」
「あはは、そういえばそーや」

懐かしき故郷の事を思い出したのか、はやての顔に僅かな郷愁が浮かぶ。
故郷を離れて早数年、時折里帰りはしているものの郷愁の念は如何ともしがたい。
特に、今も故郷で暮らす親友たちや、良くしてくれた人たちの事を思うとなおさら……。
だが、はやては軽く頭を振って胸の内の寂しさを振り払う。

(会おうと思えばいつでも…ちゅうわけにはいかへんにしても、会えないわけやない。
 昔を振り返るのは、もっと後の話。今はただ前に進む、それだけや)
「どうかしましたか、はやてちゃん?」
「ん? 何でもあらへんよ。
ただ、やっぱ自分の隊を持つっちゅうと感慨深いものがあるから、ちょうセンチになっとったみたいや」
「それなら良いんですけど、ここの所最後の詰めで忙しかったですし疲れてるんじゃ……」
「大丈夫やて。背はあんまり伸びてくれへんかったけど、体力には自信ありや。
 まあ、さすがになのはちゃんとかフェイトちゃんと比較されても困るわけやけど……。
 それに…………………………………大変なのは、これからや」
「そう、ですね」

それまでとうってかわって神妙な面持ちになる二人。
年相応だった柔和な表情から、責任ある立場に相応しい厳しくも覚悟を秘めた顔へ。
その変化は、はやての年齢とその外見から彼女の能力を疑う者であっても、その認識を改めさせるに十分なもの。
年相応の少女らしさ、年不相応ながらも地位に見合った姿勢と能力。
はやては、その両方を兼ね備えている。そこに無理がないかは、本人にすらわからないが。

「自分の隊を持つのがゴールやない、これでやっとスタートや。
 私の命への恩返しと、夢の舞台の…な。
手伝って応援してくれて、期待してくれてる人たちの為にも、きっちりしっかり…やってかんと」
「はい」

今日まで沢山の人たちに支えてもらい、助けてもらってきた。
たぶんこれからも、相変わらずたくさんの人たちのお世話になって迷惑をかけるだろう。
だがもう、ただ庇護されるだけの子どもではない。それだけの年齢になり、それだけの立場を得た。
だから始めよう、今までもらってきた物の返済を。これが、その為の第一歩。

「しかしほんま、ナカジマ三佐には足を向けて寝られへんなぁ。
 スバルだけやなくてギンガまで借りてもうたし……」
「ですねぇ……まあ、その代わり一人かなりやんちゃな子もひきうけちゃいましたけど」
「うん。せやけど、魔導師ランクの事とかで地上本部に大目に見てもらうにはしゃーなかったもんなぁ。
 幸い能力はある子やし、そこは部隊長としての腕の見せどころやね」

明らかに異常としか言いようのない程に充実した戦力。
それだけのものが必要だったのだし、これでも充分かは定かではないが、今望み得る最大限を揃えたと思う。

しかし、その代価として引き受けたのはいいが、果たして自分に御しきれるかどうか。
なにしろ、体裁はどうあれどこの部署でも「能力はあるがいらん」とさじを投げた事実上の厄介払い。
まだ大きな問題は起こしていないが、いつ起こすかわかったものではない問題児だ。
いざとなれば戦力から外してしまえばいいが、出来れば折角の能力は活用したい。
賭けの要素は濃いが、どのみち“アレ”が実現してしまえば博打云々などとは言っていられない。
だからこそ、はやては敢えて賭けに出たのだから。

「それはそうと、ギンガとセットで108から来る…えっと……」
「白浜兼一二等陸士ですか?」
「そうそう。その二等陸士やけど、確かグレアムおじさんの斡旋なんやったっけ?」
「そうらしいですね」
「で、シャマルの元患者さん」
「はい、108に研修に行った時にちょっと……まあ、あの人がそのまま局員になったのは驚きましたけど……」
「ふ~ん」

シャマルの話を聞きながら、はやては手元の資料に目を向ける。
それは、彼女や六課上層部がスカウトした面々以外の履歴書。
そこには当然兼一の事も書かれているのだが、あまり多くは書かれていない。

「なになに? 大学在学中、高校時代の友達と『財団法人 新白連合』を企業。大学卒業と同時に結婚し、24歳で第一子を設けるも奥さんと死別。これを機に退社し、チェーン展開しとった園芸店に転職…ただし、最近倒産して失業。その後グレアムおじさんの推薦で試験を受けて、辛うじて合格。六課に来るまでは、研修を兼ねて108で雑務をこなすっと。なんちゅうか、割と波乱万丈やねぇ……人のこと言えへんけど」

軽く目を通す限り、妻と死別するまではおよそ順風満帆と言っていい人生だ。
また、新白連合の名ははやても知っている。彼女がまだ地球にいた頃からチラホラ名前は聞いていたからだ。
しかし、彼女は知らない。新白連合の本質も、白浜兼一の本質も。
所詮は紙面上に書かれた端的な情報の羅列に過ぎないのだから当然と言えば当然だが。

「もっとる資格は、普通自動車免許と空手の黒帯。せやけど段位はなし……ってなんやこれ?」
「他に柔術と中国拳法とムエタイもやってるみたいですね」
「節操無いなぁ……」

あまりにも手広いその経歴に、思わずそんな言葉が漏れる。
無理もない話だが、一般的に見てこれほどあれこれ手を出していては「趣味」や「運動」の範囲にしか見えない。
特に、わかりやすい形での「段位」などがないとなおさら。

「その上、武術を始めたのは高校生になってから、それ以前の運動歴も特になしっと……これは、あんまり期待できそうにないなぁ」
(…………………確かに、どんな事でも始めるのが早いに越したことはないわ。
 兼一さんが遅すぎるとは言わないけど、それでも決して早い部類じゃない。
 だから、はやてちゃんがそう考えるのも当然…………なんだけど……)

ほんの僅かながら、兼一の身体をじかに見たことがあるからこそシャマルの中には強い疑念が生じていた。
はやての考えもわかる。だが、実物を見たことのあるシャマルでは見解が違うのもまた必然。
それは別にはやてに見る目がないとかいう話ではなく、実物を見たかどうかの差。
もしシャマルがはやてと同じ立場なら、恐らくは同じように考えていただろう。

「まあ、さすがに恭也さんみたいな人を期待するのがまちがっとるんやけど」
(いまのうちに言った方がいいのかしら? でも、確信があるわけでもないし……)

それにどの道、近いうちに顔を合わせることになる。
ならば、兼一の真実についてはその時に確認すればいい。
今いたずらに確証のない話をしても、害悪にしかならないのだから。
シャマルはそう判断し、今はまだ一つの可能性を胸の内にしまいこむのだった。



BATTLE 13「誕生 史上最強の○○」



新しい年度を間近に控えた3月某日。
その日兼一は、普段とは比べ物にならない程に神妙な面持ちで愛弟子と向き合っていた。

「ギンガ、君を弟子にとってもう2ヶ月になるね」
「そうですね、もうそんなになるんですよね………………………生きてて良かった。ほんっとうに良かった」

師の言葉に同意するものの、思わずポロリとこぼれた本音。
その呟きに込められた感情は計り知れず、生への喜びと感謝、そして2ヶ月に渡る地獄に対する恐怖が滲んでいる。

光陰矢の如しとは言うが、確かにあっという間の2ヶ月だった。
何しろ、毎日毎日限界を越えて死にそうな所まで追いつめられてきたのだ。
はっきり言って、余計な事を考えている余裕はなく、気付けば2ヶ月経っていたと言うのが本音だろう。

逃げようと考えたことなど一度や二度ではない。
この2ヶ月は、地獄の修業の日々であると同時に、地獄からどうやって逃げるかを模索する日々でもあった。
ただ、同居している上に職場まで同じとなると逃げるに逃げられない。
仮に逃げようとしても見つかってしまい、当然の如く捕まりさらに修業が厳しくなったほど。
ちなみに、この逃走劇自体も足腰の鍛錬のうちだった事をギンガは知らない。

「ははは、修業って言うのはそういうものだよ。でも、この2ヶ月良く生き延びたね。
正直、このペースでやってたら死んじゃうんじゃないかなぁと思ったものだけど」
「っ!?」
「何てね。冗談冗談♪」
「………………………………………シャレになってませんよ、師匠」

連日休みなく行われた殺人的な修業の日々。
いったい何度死を覚悟したか知れない。いったい何度今は亡き母の影を見たか知れない。
正直、とてもではないが師の言葉は冗談に聞こえないのだ。
故に、ギンガの顔が思い切りひきつって目が虚ろなのも無理はないだろう。

「まあ、それはそれとして、来週には機動六課に出向することになるわけだけど……僕と翔は一足先に向こうに合流するのは聞いてるね」
「はい。私はまだ引き継ぎとかが残ってますけど、師匠は違いますもんね」
「うん。それに僕は一応後方勤務だし、色々準備もしなきゃいけないから。
 というわけで、来週まで直接指導はできない。そこで、今ここでこれまでの修業の仕上げをしたいと思う」

一応修業メニューは渡しておくつもりだが、それでも直接見てやれないのは事実。
師としてそれは申し訳なくもあるが、こればかりは仕方がない。
兼一とて、今は組織の一員。よほどのことがない限りその意向に反するわけにはいかないのだから。

「仕上げ、ですか」
「そう。この2ヶ月、教えられる限りの事は教えてきたつもりだ。
いくつかの極意と秘伝もすでに授けた。でも、ギンガにはまだ使えないものもある。
だけど、修業に完全に修めると言う事はないにしても、ある程度修めれば結果は自ずと付いてくるもの。
 今から始めるのは、君の中に築いてきたものに一つ実を結ばせる、そんな修業さ」
「…………………」
「同時に、どれだけ練習で上手く出来ても、実戦で使えなければ意味がない。
 今日まで教えてきた全てを振り絞るつもりでいなさい、いいね」
「はい、師匠!!」

言わば、これは一つの節目。
この2ヶ月の間にギンガに授けた教え、ギンガのうちに築き上げた膨大な蓄積。
それらに一つの形を与え、ギンガを一段階上の領域に引き上げる為の修業。
既に必要なものは全て詰め込んだ。しかし、今はまだバラバラなそれらを反応させ、結晶化させる。
これから始めるのは、その為の方法の一つ。

以前、まだ兼一と翔が梁山泊にいた時のこと。
師匠達に呼び出された兼一は、彼らからこんな事を問われた事がある。

「兼ちゃんや。お主、いったいどんな方法で弟子を育てていくつもりじゃ」
「と言うと?」
「難しく考える事はないね。単純に、どうやって武術を伝えていくのかと思っただけね」
「ただ兼一君も知っての通り、古来より肉親に武術を伝えるのは想像以上に難しい。情が邪魔をするからね」

血の繋がった者同士の情は深い。相手を愛していないならともかく、愛しているからこそ時にその情が枷となる。
それが必要と分かっていても、本当の意味で相手を追い詰めることはなかなかできない。
故に、ある者は姿を変え、ある者は実戦の中で学ばせてきた。

だが、兼一はとりわけ情が深い。いっそ甘いと言っても良い。
その甘さが彼の強さの一端である事は師達も否定しないが、その甘さが武術の伝承の妨げになる日がいつか来る。
相手が肉親であるかどうかなど兼一にはあまり関係ない。恐らく彼なら、血の繋がらない弟子でも我が子同然に慈しみ愛するだろう。
だからこそ、彼らは早い段階で問うたのだ。
どうやって、その情を抑えて武を伝えていくのかを。

「………………僕なりに、考えはあります。
 僕がどうしようもなく甘いと言う事はもう分かってますし、その辺は諦めてもいます。
 長老の様に、力を抑えた上で一切の情を捨てて戦うなんて僕にはできませんしね」
「ふむ、それではどうするつもりなのじゃ?」
「それは……」

兼一は語る。長年に渡り、胸の内に温めてきた自分の考えを。
今更生来の甘さをなんとかすることはできない。
故に、師達のマネをしても上手くいくとははじめから考えてはいない。
ならば、自分だからこそできる自分らしいやり方を考え続けてきたのだ。
そして全てを語った兼一に、長老以下梁山泊の面々は呵々と笑う。

「なるほどのう。確かにそれは、実に兼ちゃんらしい」
「うんうん、自分の事をよく分かってる兼ちゃんだからこその発想ね」
「全くですな。他の者では無理でしょうが、兼一君ならば……」
「う…ん。兼一もだいぶ、僕たちみたいになってきた…ね」
「アパパパ♪ 殺さないようにガンバよ、兼一」

長老の0.0002%組手には及ばずとも、兼一の考えたそれもかなり無茶なことには変わらない。
アパチャイの言葉通り、下手をすると本当に殺しかねないだろう。
その時の事を思い出したのか、兼一の表情に苦笑ともつかない微妙な笑みが浮かぶ。

「あの、どうかしたんですか?」
「ああ、ゴメンゴメン。師匠に似る事を喜ぶべきか悲しむべきかちょっと悩んでね。
それじゃあ早速修業を始めたいんだけど、その前にひとつお願いがあるんだ」
「はぁ…………なんでしょう?」
「うん、実はね…………………………………死なないでくれ!!」
「いったい何をするつもりなんですか!?」

今まで散々無茶な修業をさせられてきたが、兼一がこんな事を言うのは初めてだ。
むしろ普段は「死んじゃうぞぉ」と笑いながら脅してくるのだが、「死ぬな」と懇願された事はない。
だからこそ、これから始まる得体の知れない何かに、ギンガは途方もない不安を覚える。

「やるのは組手だよ。ただ、自分で言うのもなんだけど、組手とは名ばかりだからねぇ……。
 本当に死にかねないから十分に気をつけた方がいい」
(か、帰りたい……)
「長老命名、その名も……」

これが、今後幾度となくギンガと翔が武術の上達の節目節目に行うことになる地獄の第一回目。
やる度に生死の境をさまようことになったのは言うまでもない。
とりあえず、生きて六課に行けるかどうか、それが問題だろう。

「の~ん」
「ギン姉さま、早く逃げて~!?」
「じぇ、じぇろにも~~~~~~~!?」

ギンガの未来に、幸あれ。



  *  *  *  *  *



十数分後。
過去最大最悪の地獄をなんとか生き残ったギンガは…………………隊舎の中庭で物言わぬ屍と化していた。

「…………………………」
「まぁ、かなり危ないところだったけどギリギリ合格かな。
 特に、ローラーブーツの使い方が良かったね。そこはシューティングアーツならではの特徴だから、これからも精進を怠らない様に。じゃあ、ちょっと早いけど今日はここまでにしよう」
「……………………」
「うん、お疲れ様。風邪を引かない様にちゃんと汗をふくんだよ」
(ああ、死ぬわね、これは……)

フェードアウトしていく意識の中で、ギンガは自らの死期を悟る。
まあ、一度や二度死んだくらいなら、いつもの秘薬で引き戻されるので問題はないのだろう。
むしろ、そう簡単に死なせてくれない事をこそ嘆くべきか……。

とりあえず、兼一は微動だにしないギンガを担ぎベンチに横たわらせる。
そうしてタオルや薬を取りに行こうとするが、そこで4階の窓からゲンヤが顔を出した。

「かぁ~、ホンットに容赦なくやったなぁ。
しかし、ちょうど終わったところか。おう、兼一。ちょっと来てくれ!」
「あ、はい。今行きます。翔! 悪いけど、ギンガにタオルと薬を」
「うん!」

翔にそう言い残し、兼一は衣服を整えて隊舎の中に戻っていく。
その間に、翔はタオルと徳利に入った秘薬を手にギンガの下へ駆けよる。

「ギン姉さま、生きてる?」
「…………………………………………………………………死んでる」

辛うじて返ってきた消え入りそうな返事。
ただしそれは、ギンガの口から出た物ではなく、その口からこぼれたエクトプラズマの呟き。
いよいよもって、本当に死にかけている。

「とりあえず、ホラ! 飲んで飲んで、そうすればすぐに元気になるから!!」
「いっそ、このまま天に召されてしまいたい。ほら、空から綺麗な光が……」
「わぁ――――――――――!? だめ、逝っちゃダメ――――――――!!」

あまりにも不吉な事を呟くギンガの目は、既に焦点が合わずどこも見ていない。
それはいい加減この流れにも慣れた翔をして焦らせるには十分すぎる。
彼は大急ぎで持ってきた徳利をギンガの口に押し当て、流し込むようにして飲ませていく。
そして、辛うじて返ってきたギンガは先の事を思い返すとどうにも釈然としない。

「というか、なんであんな状態であそこまで強いの? アレで力を落としてるって、なんの冗談?
技は鈍らないし、攻撃は正確。むしろ、いつも以上にキレがあったような気すら……」
「そこは…ほら。父様だから」
「なんでかしら、物凄く説得力がないのに納得してしまう私がいる」

それはつまり、達人と言う名の理不尽にも慣れたと言う事なのだろう。
2ヶ月、人が順応するには十分な時間だ。それも、日々命懸けで余計な事を考えている余裕すらなければ尚更。
いや、アレだけのダメージからこうも早くリカバリーしている辺り、彼女も大概そちら側に染まってきている。

「そういえば、翔の方は今日の分は終わったの?」
「あ、あははは、実はまだ半分くらい……」

頭をかきながら、翔はどこか乾いた笑みを浮かべている。
練習をさぼるような子ではない。大方、ギンガの事が気になって様子を見ているうちに応援に熱が入り、自分の修業が手に付かなくなってしまったのだろう。父親に似て優しい子だから。

「もう、しょうがないんだから。ほら、見ててあげるからやってみなさい」
「でも、姉さまもお仕事あるんでしょ?」
「大丈夫。異動も近いし、急ぎの仕事はもうほとんどないから。
 それに、弟弟子の面倒をみるのも姉弟子の務めよ。
 まあ、翔がこんな未熟者に見てほしくないって言うなら退散するけど」
「ち、違うよ! 全然そんなんじゃ、姉さまも疲れてるだろうし、えっと、その……」

悪戯っぽく小首をかしげるギンガの言葉を真に受けた翔は、それはもう慌てふためいて弁明する。
翔の性格から、他人、とりわけ特に懐いている相手を邪険にすることなどあり得ない。
そんな事はギンガとて先刻承知している。
ただ、翔はこういった少々意地の悪い問いかけには耐性がなく、それで慌てて困る所が可愛くて仕方がないのだ。

(直さないと翔に嫌われちゃうかも……って言うのはわかってるんだけどなぁ。これが中々……)

癖になってやめられない。
涙目になり、叱られた子犬の様にシュンとなっている姿を見ていると無性に思い切り抱きしめてやりたくなる。
人の言う事を真に受ける純朴さ、それを受けてコロコロと変わる表情、どれをとっても犯罪的に愛らしい。
思わず緩みそうになる頬の筋肉を引き締めるのに、毎度毎度苦労する。

(………っと、鼻血でてないかしら?)
「どうしたの? 姉さま」
「な、何でもないわよ、何でも」

ショタコンの気はないつもりだったが、翔をからかっているとおかしな性癖に目覚めそうで困るギンガ。
そんなギンガを翔はどこまでも純粋な瞳で見てくるものだから、ギンガとしては後ろめたい気がしないでもない。
なので、こう言う時はとりあえず誤魔化してしまうに限る。

「そう? ……………っわぷ!?」
「ほ~ら、やるなら早くやっちゃいなさい。そうでないと……」
「そうでないと?」
「このまま抱っこして隊舎に連れてっちゃうわよ♪」
「うぅ、それは恥ずかしいよぉ」

さすがにその図は翔の幼い羞恥心にも引っかかるようで、顔を赤くして俯いている。
ただ、その仕草がますますギンガをイケナイ方向に駆り立てるものだから困った物だ。

「私は別にそれでも良いんだけどね。
 あ、そうだ。なら、終わったら一緒にシャワーでも浴びようか。うん、それがいい。そうしましょ」
「え!?」
「イヤなの? なら、代わりに翔に抱かせようか? 投げられ地蔵を」
「姉さま、なんか父様達に似てきた」
「う!?」

師の事は尊敬しているが、さすがにまだああはなりたくない、と言うのがギンガの本音。
というか、投げられ地蔵を抱かせると言うのはつまるところ、石を抱かせると言う事だ。
それは、紛れもない拷問ではあるまいか。

「ま、まあいいわ。で、まずは何から?」
「えっと、熊歩を五千歩と正拳突きを千本。あと……」
(相変わらず、子どもにやらせる量じゃないわよねぇ……まあ、私のやってる内容も同じようなものだけど)

そうして、ギンガと翔の108での残り少ない時間は相変わらずの修業に費やされていく。
まあ、場所が変わるだけでやる事自体はそう変わらないのだろうが。



  *  *  *  *  *



場所は変わって108の応接室前。
兼一を呼び出したゲンヤは、そこまで連れてきた所で軽く親指でその扉を指しながら言った。

「おめぇに客だ。本局からだとよ」
「はぁ……僕にですか?」

正直、わざわざ兼一を訪ねてくる理由が全く思い当たらない。
兼一の管理局関連の交友関係は、今のところほぼ108に限定されている。
一応なのはとグレアムも該当しない事はないが、それとて繋がり自体は決して強くはない。
階級は二等陸士、年齢は二十九間近。こんなパッとしない兼一に会いたがる人間などまずいないのも事実だが。

「おう。ま、俺はあんま知らねぇが、八神の関係者らしい」
「ああ、なのはちゃんの友達で六課の部隊長になる子ですよね…って、上官に『子』もないですけど」
「良いんじゃねぇか。階級と経歴はともかく、実際に19のチビダヌキ、ガキだガキ」
「そんなこと言えるのは、たぶんゲンヤさん位だと思いますよ」

根が小市民な兼一としては、やはり『二等陸佐』という地位には腰の引けるものがある。
なにしろ、階級的には上から七番目。下から二番目の兼一からすれば雲の上も同然だ。
ゲンヤの様に、上下に階級を気にしないなど早々できるものではない。

「おめぇ、そう言うのに興味ねぇくせに気にするんだよな」
「だって、偉い人とかって緊張するじゃないですか」
「緊張ねぇ……アイツにそんな大層なもん持つ必要ねぇぞ」

というか、ゲンヤとしては兼一がそう言ったことで緊張するのが似合うのか似合わないのか判断に困る。
達人と言う領域にいる事を考えると冗談にしか聞こえないが、それが兼一だと恐ろしく納得してしまう。

(ほんっとうに、武術以外の事は普通なんだよなぁ、こいつ。時々、達人だってことも忘れちまいそうだ)
「どうかしましたか?」
「いんや。ほれ、良いからさっさと入れ」
「そうですね、あんまり待たせるのは失礼ですし」
「じゃ、俺は仕事に戻るぜ。終わったら声をかけてくれ」
「はい」

そうしてゲンヤは兼一を残してその場を後にする。どうやら、中の人物に紹介はしてくれないらしい。
兼一は慣れない緊張感にジットリと汗をかき、大きく深呼吸をする。
アポもなしに一大企業に乗り込み、トップに会わせろと言った男と同一人物とは思えない。
まあ、相手がアレで、場所が古巣だったからできた事なのだが。
とりあえず、兼一はゆっくりと扉をノックする。

「はい」
「遅くなって申し訳ありません、白浜兼一二等陸士です」
「ああ、お待ちしていました。どうぞ」
「失礼します」

扉を開けると、そこは落ち着いた丁度で統一された部屋だった。
まあ、植物には詳しいが、インテリアなどにはとんと疎い兼一には高いのか安いのかも定かではないが。
ただ、その部屋の中央に据えられたソファ、そこに腰をかけた人物は少々異質だった。

まずは若い。兼一よりも何歳か若く、地球なら社会人3年目以内の若者だ。
さらに鮮やかな長い緑の髪が目を引き、その上純白のスーツを着ていてそれが妙に似合っている。
水商売系の様な印象がなくもないのだが、手に取ったカップをテーブルに下ろす所作には滲み出るような優雅さがあった。恐らく、特別意識してのものではなく、これは彼にとって当たり前のことなのだろう。
街を歩けば、当たり前のように女性から熱い視線を集めそうな美男子だ。
はっきり言って、こんな応接室にいるのは場違いも甚だしい……筈なのに、馴染んでいるのだから不思議だ。
そんな事を考えているうちに青年は立ち上がり、兼一に向けてさわやかな笑顔を向ける。

「はじめまして。本局査察部、ヴェロッサ・アコース査察官です」
「…あ、失礼しました。陸士108部隊、白浜兼一二等陸士であります」

制服ではない為、当然階級証もなく正確な階級はわからない。
だが、なんとなく本局と聞いて自分より階級は上だろうと思い敬語になる兼一。
組織とは縦社会。基本的には地位と階級が物を言う。目上は敬って当然だが、これが基本だ。
年下であっても、階級が上ならそのように対応しなければならないのだから。

「はは、あまり堅くならないでください。
あなたの方が年上ですし、今日は堅い話をしに来たわけでもありませんしね」
「はぁ……」
「とりあえず、立ち話もなんですから座ってはいかがですか」
「すみません、失礼します」

ヴェロッサに促されるまま、彼の対面に腰を下ろす兼一。
落ち着きようからして、これではどちらが年上かわかった物ではない。

「あの、僕に話があるとうかがってきたのですが」
「ええ。といっても、半ば個人的な事なんですけどね」
「?」

首こそ傾げないが、意味がわからず不思議そうな顔をする兼一。
そんな兼一の反応を見て僅かに苦笑を洩らしたヴェロッサだったが、途端にその表情を真剣なものに変える。
それは、先ほどまでの人当たりの良い青年とは別種の顔。

「不躾ではありますが、少々あなたの事を調べさせてもらいました」
「と、言いますと?」
「さすがに地球でのあなたの事を正確に調べることはできませんでしたが、こちらに来てからの事は調べられました。自慢できるような事じゃありませんけど、粗探しは僕の得意分野なもので」
「…………」
「正直、驚きました。まさか、その身一つで魔導士と真っ向勝負できる人間がいるとは……」

そう言いながらヴェロッサは困ったような表情を浮かべる。
現場を見ていないが故に信じられない思いもあるのだろう。
特に、目の前の凡庸な男がそれを為したとなれば尚更。

「ああ、安心してください。別に、このことを広めようとかそういうつもりはありません。ただ……」
「ただ?」
「あなたが異動する部隊、機動六課の部隊長は僕の知己でして」
「ええ、ゲンヤさん…ナカジマ三佐からもうかがっています」
「彼女は…何と言うか、僕にとって妹みたいな子でしてね。
はやてはちょっと危なっかしいと言うか、自分を省みない所があるものですから、僕らとしては心配で心配で」

そう語るヴェロッサの表情には、偽りのない感情が浮かんでいる。
兼一にはその表情に、ほのかのことを心配する夏がだぶって見えた。

「僕にも妹がいますから、お気持ちはわかります。
こちらの気持ちなんて全く気付いてくれませんからね、妹って言うのは」
「全くです」

兼一の言葉に、ヴェロッサは大仰にうなずいて見せる。
その顔には苦笑が浮かび、心底困っていることがうかがえた。

「このまま愚痴を並べるのも楽しいんですけど、もうしわけありませんが話を戻させていただきます」
「あ、はい」
「まあ、早い話が妹分へのお節介なんですよ。
 はやて達が直接スカウトした人はまあ良いとして、そうでない人はちょっと調べておこうかと思いましてね。
 なにしろ、あの子をよく思っていない人が少なからずいるものですから」

つまり、ヴェロッサが危惧しているのははやてをよく思っていない誰かが、その足を引っ張る為に息のかかった者を送り込んでいないかと言う事だ。
新白連合の様な新興の組織はまだ一枚岩を維持していられる。規模が大きくなるにつれ一枚岩ではいられなくなりつつあるが、それでも長い付き合いの上層部は今でも一枚岩だ。

しかし、管理局の様に巨大で長く存在する組織はそうはいかない。
様々な人の思惑や思想、理念や正義、あるいは利権などが絡み複雑な構図を生む。
当然、中には対立関係や足の引っ張り合いも起こる。
はやては前と先ばかり見て足元や後ろが疎かになりがちだからこそ、こうしてヴェロッサが骨を折っているのだ。

「まあ、グレアム提督の推薦を受けたあなたを疑う必要は本来ないんですけどね。
 ですが、逆にそれが気になったので少し調べさせていただいた次第です。本来、管理局や魔法と何の接点もないあなたを、地球に帰ってしまえばそれっきりの筈のあなたを、どうして提督は推薦したのか。
 それは、当然の疑問ではありませんか?」

確かに、ヴェロッサの言う事はもっともだ。
表面的にみた白浜兼一と言う男の素性に、わざわざグレアムが推薦し、六課にねじ込む理由が見当たらないのだから。

「そうして調べているうちに、あなたがこちらで保護されている間の事件に行きあたりました。
 地上本部や本局は気付いていない様ですがね。僕も、こうして調べてみなければ見逃していたでしょう。
 でも、調べているうちに昔はやてや友人から聞いた話を思い出しましてね。地球には、生身で魔導士とケンカできるようなレベルの戦闘能力を身に付けようとしている人たちがいると」

おそらく、はやてが言っていたのは恭也や美由希の事なのだろう。
はやて達が魔法と出会った頃は、まだ恭也達も修行中の身。
まだ、魔導士と真っ向勝負ができるような段階にはいなかった。
だが、いずれはそのレベルに至る事を士郎辺りから聞いていたのかもしれない。

「白浜さん、恐らくはあなたもそんな人の一人なんじゃありませんか?」
「ええ、その通りですよ」
「………………」

ヴェロッサの問いに、兼一は極々自然な動作で頷く。
それに対しヴェロッサは、少々の間の抜けた顔で茫然としている。
その様子を不思議に思った兼一は、少々控えめにその訳を問う。

「どうか、しましたか?」
「あ、いえ。こんなにあっさりうなずかれると、拍子抜けしてしまって」
「いえ、別に隠していると言うわけでもありませんしね。
言いふらすような事でもないので聞かれなければ言いませんけど」
「そう、ですか」
「それに……」
「それに?」
「八神二佐の話していた人達は、多分僕の知り合いですしね」
「…………」
「高町一尉とは少々縁がありまして。八神二佐が話しておられたのは、恐らく高町一尉の御家族でしょう」

さすがに、この展開は想像していなかったのか、ヴェロッサは固まって動かない。
時間的な問題もあって地球での事はあまり調べられなかったが、まさかなのはの知り合いとは思わなかったのだろう。

(この事をはやては………………知らないんだろうなぁ、きっと)

今のはやては事務作業で忙殺されている。
はっきり言って、兼一の様な末端部分の事にまで気を回す余裕はない。
というか、そもそも兼一と面識があるかさえ定かではないのだ。
面識がない場合、本当に気付かない可能性すらある。

そうなると気付く可能性があるのはなのはだが、アレはアレでやることが多い。
一部隊ともなれば人員も相応にいるし、さすがに全員の顔と名前をチェックしきれているとは思えない。
ならば、兼一の存在に気付いていない可能性はかなり高いだろう。

(教えておいても良いけど…………………………黙ってた方が面白いかな?)

この辺りはゲンヤとも意見が一致しているらしい。
実際、兼一もゲンヤからは「面白いから気付かれるまで黙ってろ」と言われている。
ただヴェロッサの場合、後々この事がばれた場合はやてから「なんでだまっとったんやぁ!!」とお叱りを受け、教育係の様な存在のシャッハからキツーイお仕置きを受けることになるのだろうが。

「コホン。まあ、本人に肯定していただけたなら問題ありませんね」
「お話と言うのはこれで終わりですか?」
「あ、いえ、実はもう一つありまして」
「はぁ……」
「あなたが本当にそういう人間であるのなら、お渡ししておきたいものがあります」

ヴェロッサはそう言うと、自身のスーツの懐を探り始める。
取り出したのは、一枚のカード。どうやら局員IDらしい。

「今後は、こちらのIDを使ってください」
「?」
「大雑把に言ってしまうと、今のあなたを正規の戦闘要員として作戦行動に組み込むことはできません。
 魔法は使えず、質量兵器も使わない。その上、局で正規の訓練を受けたわけでもなく、当然武装局員の資格を持っているわけでもありませんからね」

一口に管理局員と言っても、その役職や専門分野は個々で異なる。
そして当たり前の話だが、戦闘と言う危険な行為に参加するにはそれ相応の能力が必要だ。
個人としての能力、集団として動く際の能力、場合によっては指揮官としての能力や作戦立案の能力なども求められるだろう。
管理局員なら大凡誰もが一定の訓練は受けているし、有事には後方勤務の人間も武器をとる。
だが、実際に無限書庫の司書や医務局の人間などの基本的に非戦闘員である彼らが武器をとる事はまずない。
当然だ、彼らと武装局員とでは訓練の内容からして違う。
戦場と言う過酷な場所で、専門家以外を投入することなど非常識の極み。
そして兼一は、今のところその「戦闘の専門家」として扱われてはいない。

では、それらをどうやって証明するか。
直接実力を示すと言うのも手だが、一般的には資格や免許と言った物がそれを証明する。
そう言った資格は、「形」として「これだけの能力がある」という証明なのだ。
だいたい、一々実力を示していくのではあまりにも時間がかかり過ぎる。
しかし、生憎と兼一はそう言った形のある何かを一つも持っていない。
当然、彼を知らない人間からすれば、いくら「武術の達人です」と言ったところで信用できるものではない。
もしそんな兼一を作戦行動に組み込み、それが明かるみになれば、確実に問題になる。

かつて高町なのはは一般人にして九歳と言う年齢でロストロギアにかかわる事件の解決に尽力した。
だが、それは例外中の例外だ。
彼女が優れた魔導士としての能力を持っている事が証明され、子どもの手を借りなければならないような状況にあり、なおかつ局内で確かな立場を確保しているリンディ・ハラオウンだからそれが出来た。

だが、ただでさえ実験部隊の機動六課、その上はやては色々と微妙な立場にある。
そして、兼一が使うのは魔法と言うこの世界において最も信頼される力ではなく、眉唾扱いされること間違いなしの純粋に己が肉体のみを頼みとした力と技術。
魔法は使えず、武器も持たず、武装局員としての資格もない。
そんな人間を戦場に積極的に出せば、これ幸いとばかりにはやては袋叩きにあう。
故に彼女は、何があろうと兼一を戦闘要員として数えるわけにはいかない。
しかし、それだと今度は白浜兼一と言う駒を遊ばせることになり、それはそれで無駄の極み。

「ですが、不幸中の幸いにもあなたはこちらで保護されている間に、一つの事件の解決に尽力しました。
 というか、事実上一人で解決してしまった。それも、Cランクの魔導師複数を相手に」
「ああ、つまり、それをとっかかりにしたんですか」
「ええ、戦闘行為への参加、その承認をねじ込みました。
 扱いとしては、過去の実績を鑑みて陸戦B相当としています」
(無茶な事してるなぁ……新島ほどじゃないけど)

普通、資格だの何だのはそう簡単にどうこうなるものではない。
なにしろ、あの高町なのはとフェイト・T・ハラオウンですら、訓練校での短期プログラムを終えるのに3カ月を要した。兼一がこちらの世界に移ってからまだ2ヶ月、正規の手順を踏んでいては到底間に合わない。
かと言って、彼は優れた魔導師でもないので、それを盾にごり押しもできないと来た。
魔法全盛のこの世界では、純粋な武術家の扱いはまだまだ低い。
何しろ、基本的に武術だけでは魔法に勝てない以上、いくら優れた武術家でもあまり信用されないのだ。
だからこそ、こう言った権力任せの力技に出るしかなかったわけで……。

「グレアム提督も、はじめからそのつもりだったのでしょうね。
 おかげで、なんとか異動前にIDカードが間にあいました」
「じゃあ、今日はこれを届けに?」
「それと、一応の最終確認です。あなたが本当に、あの件を解決したのかを」

これまでの調査で、ほとんど裏は取れていた。
だが、それでも確認しないわけにはいかなかったのだろう。
アレを、本当にこの一見普通そうな男が為したのかを。

「もちろん、あなたが戦いを望まれないのであれば、こちらは突き返していただいて……」

『結構です』とヴェロッサが最後まで言い切るより前に、兼一はその手から新たなIDカードを受け取る。
元より、グレアムの元を尋ねた時点でこの話は了承済みだ。
なにより、この根っからのお人好しが自分一人戦いから逃げるなどと言う事が出来る筈がない。
特に、その戦闘要員のほとんどが女子どもばかりの場所ともなれば尚更に。

「戦うのは……正直あまり好きじゃありませんけど、高町一尉には縁もありますし、何より僕だけ戦いから逃げるなんてできません。この拳は、大切な人を守る為に、正しいと信じた道を貫くために鍛えてきたんですから。
こちらは、有り難く頂戴させていただきます」
「…………………………ありがとうございます。はやて達の事、よろしくお願いします」
「微力ながら、お力添えさせていただきます」

力強く頷く兼一に対し、ヴェロッサは深々と頭を下げる。
もしかすると、兼一と話す前にゲンヤやグレアムとも話をしていたのかもしれない。
そうでなければ、達人と言うものをあまり知らない彼がここまで兼一を信用することなどなかろう。
彼からすれば、まだまだ武器も魔法も使わずそれだけの力を身に付けられることは信じ難いのだから。



数時間後、ミッドチルダ北部、旧ベルカ自治領、聖王教会「大聖堂」。
個人的な役目を終えたヴェロッサは、その一室にて一人の女性に会っていた。

「どうだった、ロッサ?」
「うん、快く引き受けてもらえたよ。グレアム提督からは武術の達人としか聞いてなかったし、クロノ君たちからもあまりその辺りの事は聞いてなかったから、もっと気難しい人かと思ってたけどね」
「そう、それは良かった」

かつて僅かに小耳にはさんだ「達人」と呼ばれる人種。
まさかその力を借りる日が来るとは思っていなかっただけに、力を貸してくれるか不安だった。
技を極めた者、人の限界を越えた者、そんな風に聞かされていただけに、もっと難航することすら予想していたのだろう。
その点でいえば、快く引き受けてもらえたのは僥倖だった。
魔導師にとって天敵と言えるAMFも、純粋な身体能力と武術のみで戦う相手には意味を為さない。
もし本当に、魔導士と真っ向から戦えるだけの戦力を持つのなら、この件においてこれほど頼りになる味方はいないのだから。

「ただ……」
「ただ?」
「良くも悪くも普通の人だったね。
 普通過ぎて、本当に技を極めた人なのか今でも信じられないよ」
「あらあら」
「でも、アレが擬態だとしたら恐ろしくもある。
きっと、彼がその気になったら僕は敵に襲われたことすら気付かずに殺されそうだ」

査察官として数々の現場を見てきた、様々な人間を見てきた。
故に、人を見る目、違和感を見つけ出す観察力や洞察力には自信もある。
だが、今日会った相手はその目を容易くだまして見せた。
自信が揺らぐとともに、世界の広さを実感できた日だったのは間違いない。

「カリムやシャッハは教会をあんまり離れられないし、クロノ君は忙しい。僕もどちらかと言えば裏方だ。
 六課は若い子たちばかりで、あまり年長者もいないから援護を期待出来ないんだよね、もどかしい事に」
「そうね。でも、これで少しはバランスがとれるんじゃないかしら」
「だね。いくら能力的に優れていても、はやても高町一尉やテスタロッサ・ハラオウン執務官も二十歳未満。
 精神的な幼さ、未成熟さはどうしようもない。そんな所も含めて公私両面でサポートしてもらいたいかな」
「本当に」
「ついでに、今度会う時ははやて達の苦労話で盛り上がれたら尚よしだね。
このネタでぶっちゃけられる相手は少ないから」
「ロッサ、あまり変な事を言っていると、はやてに叱られるわよ」
「それは困る。ただでさえカリムとシャッハには頭が上がらないのに、はやてまでってなったら僕はいいとこなしじゃないか」



  *  *  *  *  *



翌日。
ギンガより一足早く六課へと移った兼一は、翔と共に直属の上司に挨拶していた。

「はじめまして、バックヤードで隊員寮の寮母を務めますアイナ・トラインです。
 よろしくお願いしますね、白浜兼一さん、それに翔君」
「はい。こちらこそ、よろしくお願います」
「よろしくおねがいます」
「はい、良く出来ました。元気な挨拶は大事ですからね」

兼一に続き頭を下げる翔を、アイナは優しく褒める。
如何に戦闘への参加資格をねじ込んだとはいえ、兼一の扱いは基本的に後方勤務だ。
元々戦闘要員として採用されたわけではないし、資格は所詮後付けに過ぎない。
あくまでも兼一の扱いは、「戦闘への参加を承認された事務系局員」でしかないのである。

「一応、私が寮全体の管理責任者ではあるんですが、この広さでしょ?
 なので、寮を女子棟と男子棟に分けて、白浜さんには男子棟の管理をお願いします」
「ああ、なるほど。そういう事ですか」
「はい。それに、やっぱり同じ男性が管理した方が、皆さんも落ち着くでしょうしね」

実際、一つの寮として繋がっているとはいえ、男子棟と女子棟に分けられている以上は別物とみていい。
男子棟で暮らす面々としても、どうせなら管理人は同性の方が気は楽だろう。

「こちらが手順書になりますので目を通しておいてください。
 主な仕事は、プライベート空間以外の寮内の清掃と備品や消耗品の管理と補充、それに補修。
 あと、食事は調理の方々がやってくれますけど、洗濯物は部屋の前に出していただいてまとめて、ですね。
 そうそう、一応白浜さんには隊舎の方の管理も一部やってもらいますし、花壇の手入れもお願いします」
「はは、やることいっぱいですね」

まあ、兼一としても家事全般は決して嫌いではない。
美羽の手伝いもしていたし、むしろ家事全般は得意な部類だ。
少なくとも、武術よりは適性があると思う。

「まあ、当面は寮に移ってくる人たちの荷運びと荷解きのお手伝いがメインですけどね。
 早い人はもう部屋に入って、オフシフトでは思い思いに過ごしてますよ」
「ああ、基本的には二人部屋なんですね」
「ええ、士官の方には個室が用意されてますけど、八神部隊長は御家族で一緒ですし、高町隊長とハラオウン隊長も古いお友達と言うことで同室ですから、あまり意味がないですね」

寮の見取り図とにらめっこをする兼一に対し、アイナは苦笑交じりに実情を話す。
上層部は特に身内ばかりなので、そういう傾向になってしまったのだろう。

「1階は共有スペースで、2階から個別の部屋になります。白浜さんは2階階段のすぐ前のお部屋です」
(ふ~ん、スバルちゃんとティアナちゃんが同室。ギンガは…………ルシエさんか、どんな人なんだろ?)
「白浜さんはお子さんと一緒ですけど、モンディアル三等陸士と同室です。
まだ十歳との事ですから、色々と面倒を見てあげてください」
(う~ん、こっちにもだいぶ慣れたつもりだけど、さすがに十歳で働いてるって言うのは慣れないなぁ……まぁ、美羽さんを含めて、幼少期から本物の戦いに身を投じている人はいる所にはいるわけだけど……)

子どもと思って侮ってはいけない、それは兼一自身身に染みて良く知ること。
彼の師の中にもそう言った人物はいる。年齢は必ずしも絶対ではない。
特に、武術の世界では何十年も鍛えた強者が一瞬の油断で弱者に負けることなど珍しくもないのだから。

「さて、大雑把な所はこんなところですね。今日のところは白浜さん自身の荷解きと、寮の作りや雰囲気に慣れるようにしてください。本格的な管理の仕事は明日からですから、わからない事があったら聞いて、何かあったら逐一報告してくださいね」
「はい。あ、モンディアル君はいつ頃来るかわかりますか?」
「ああ、今朝方シグナム副隊長が迎えに行かれましたから、お昼には」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ」

そうして兼一は翔の手を握って自室へと向かう。
少々年季の入った様子ではあるが、あまり悪い印象は受けない。
恐らく、アイナがあらかじめ手入れをしてくれていたのだろう。
これから一年を過ごすことになる自室の前に付くと、既に送っておいた荷物が届けられていた。

「さて、それじゃあモンディアル君が来る前に荷解きをしておこうか」
「うん。早くしないときちゃうかもね」
「そうだねぇ……」

正直、二人の眼前にある荷物の量は半端ではない。
何しろ、元々兼一はかなりの本好き。かなり量は減らしたとはいえ、それでも持ち込んだ量はかなりの物。
その上、修行用の道具の一部もあるのだからその量は推して知るべし。
翔の言う通り、早くしないと同居人が到着してしまう。
まだ同居人の荷物は届いていないが、早くしないと廊下の一部を封鎖する形になってしまいかねない。
とそこへ、丁度隣の部屋の扉が開かれ、そこから背の高い黒髪の男が姿を現す。

「お、その部屋に来たって事は、おめぇがこっちの寮監か?」
「っ!?」
「まったく、この子は……。あ、失礼しました、白浜兼一と言います、こっちは息子の翔。
仰る通り、男子棟の管理を任されることになりました。えっと、あなたは?」

翔は突然のことに兼一の陰に隠れ、そんな息子に兼一は困ったような表情を浮かべながらも律義に答えていく。
良く見れば、相手が着ているのは陸士制服とは違う作業服の様なもの。
背は兼一よりだいぶ高く、目は若干タレ気味でその声からは闊達さがあふれている。

「おお、悪ぃ悪ぃ。ヘリパイロットをやってる、ヴァイスだ。お隣さん同士、仲良くしようや」
「ええ、よろしくお願いします」
「堅ぇなぁ、見たところ年もかわんねぇだろうに、もっと気楽にしてくれていいぜ。
 つーかここは女所帯だからよ、男同士上手くやってきてぇんだわ。
 おーい、おめぇも挨拶したらどうだ?」
「………………………………………」
「無視かよ、オイ! ちったぁ返事しろよ!」
「………………………はぁ。断る、そんな無駄に割く時間は俺にはない」
「ったく、あんにゃろう、ようやく返事をしたと思ったら顔すら出しやがらねぇ」

自室に向かって声をかけるヴァイスだが、返ってきた返事は素っ気ないことこの上ない。
それも、顔すら見せない徹底ぶり。その上、盛大な溜息のおまけつき。
あまり細かいことにはこだわらなそうなヴァイスだが、その事にはさすがに顔を不快そうに歪ませている。
まあ、あそこまでとりつく島もないと、そうなっても仕方がないが……。

「悪ぃ、どうも社交性ってもんがない奴らしくてなぁ」
「あぁ、いえ、お気になさらず」
「ありがとな。っと、荷解きか。なんなら手伝うぜ?」
「あ……………じゃあ、少しだけお願いしても良いですか?」
「おう! 坊主、おめぇはそっちの軽いの持て。俺がこっち持つからよ」

折角の好意を無碍にするのも躊躇われ、兼一は控えめにヴァイスの申し出を了承する。
それに対し、ヴァイスは人好きのする笑顔を浮かべ、早々に荷運びに入っていく。
ただ、翔がいまだに兼一の後ろに隠れたままなことに気付き、手を止めて問いかけた。

「あ? どうした、坊主?」
「坊主じゃないもん」

ゲンヤからも坊主扱いの翔だが、さすがに初対面の相手にこれでは文句の一つもあるらしい。
その表情はどこかふてくされ気味なのだが、ヴァイスは全くそんな事は気にしない。

「じゃあ、しっかりあいさつしな。そうしたら名前で呼んでやるよ」
「むぅ………………………………白浜翔です、はじめまして」
「おう、はじめまして。そら、さっさとやるぞ、翔」
「う、うん」

不承不承といった様子であいさつする翔と、快活にそれに返すヴァイス。
逆鬼とはタイプこそ違えど、兄貴肌の人物なのだろう。翔もそのペースに流され気味だ。
そんな二人のやり取りを兼一は荷運びをしながら密かに笑いつつ見守っていた。



そうして三人がかりで荷解きをする事しばし。
一通りの荷物を運び終えたところで、兼一はそのお礼にとヴァイスをお茶に誘おうとするのだが……

「いやぁ、どうせなら酒の方がいいな。どうよ、これから一杯……」
「あの、ヴァイス君? それはちょっと……」
「良いじゃねぇか。おめぇだっていける口なんだろ?」
「いや、でもさすがに昼間からって言うのは、それに……怖い人が見てるよ」
「は?」
「ほほう、それはおもしろいな。ぜひ私も混ぜてくれ」

突如背後からかけられた言葉に、石像の如く硬直するヴァイス。
油の切れたブリキの玩具の様にぎこちない動きで背後を振り向くと、そこにいたのは般若。
ではなく、ピンク色の髪をポニーテイルにした、凛とした女性。
美人は美人であるのだが、どちらかと言えば「かっこいい」という言葉がよく似あう。

「し、シグナム姐さん…戻ってたんスか?」
「丁度今な」
「そ、それはお早いお帰りで……」
「ああ。と、そちらの御仁とは自己紹介がまだだったな。
 ライトニング分隊副隊長のシグナム二等空尉だ」
「あ、白浜兼一二等陸士です。よろしくお願いします」
「あまり顔を合わせる機会もないかもしれんが、こちらこそよろしく頼む」

キビキビとした動作、毅然とした態度。
一見すると美女と美少女の中間の様な女性だが、そこに弱さや儚さはない。
むしろ、研ぎ澄まされた刃の様なその雰囲気は、『武人』と言う言葉が良く似合う。

かと言って、抜き身の刃の様な危うさも恐ろしさもない。
他の者なら緊張してしまいそうだが、兼一としてはむしろ安心感すら覚える空気だ。

(それにこの人、かなりできる。肩の筋肉からすると、多分剣士……あと弓もかな?)
(ふむ。良く澄んだ、穏やかな眼だ。覚えがない所からすると、スカウト組ではないようだが信頼するに足る人物だろう。だが、今一瞬鋭い輝きを見た気がしたが……………いや、気のせいか。
 しかし、それにしてはこう……)

一瞬何かに気付きかけるシグナム。
しかし、歴戦の騎士である彼女の眼を持ってすら兼一の本質を見抜く事は出来なかった。
だが同時に、無意識のうちにそれで済ませてはならないことにも気付いている。
過去、初見で兼一を強者と見抜けた者は皆無に近い。
そう考えれば、違和感を拭えずにいるだけでも彼女の慧眼の鋭さがわかると言うものだろう。

「ん? その子は……あなたの子か?」
「あ、はい。息子の翔です」
「そうか。エリオ、お前の方が年上なのだ、面倒を見てやれ」
「は、はい!」
「さて、ヴァイス。私の記憶が確かなら、お前はまだ勤務中の筈ではなかったか?」
「そ、そうっスかねぇ? 気のせいじゃないっスか?」
「ふむ。では、外でお前の事を探していたアルトも何か勘違いしていたと言うことか?」
「あ、アハハハ、アルトの奴は粗忽っスからねぇ」
「なるほど、確かにそれはあるな。何しろ、7歳まで自分の事を男と思っていた奴だ」
「でしょう?」
「…………………………………」
「…………………………………さいなら!!」
「逃がすか!! 正式稼働前からサボりとはいい度胸だ! その腐った根性、この場で叩き直してやる!!!」

脱兎のごとく逃げ出すヴァイス、鬼の形相でそれを追いかけるシグナム。
置いてきぼりにされた面々は、とりあえず今見た事をなかったことにすることで意見の一致を見ていた。

「えっと、もしかして君がモンディアル三士?」
「あ、はい。私服で申し訳ありません、エリオ・モンディアル三等陸士であります!」
「いや、私服なのは僕も同じだし気にしないで。
男子棟の施設管理を担当する白浜兼一二等陸士です。同室らしいから、これからよろしく」
「はい、よろしくお願いします!!」

かしこまって敬礼であいさつし合う二人。特に、エリオはガチガチに緊張している。
六課が初所属と聞いているので気持ちはわからないでもないが、エリオの力の入りようは微笑ましい限りだ。
まあ、いつまでもこれでは身体が休まらない。
兼一としては、せめて自室でくらいはリラックスしてもらいたいと言うのが本音だ。
その上、彼は前線に立つフォワードメンバー。休む時はしっかり休まないと、身体がもたない。
弟子ではないので、彼の人権はちゃんと尊重しないと。

「そんなに緊張しないで、階級だって一つしか違わないんだから」
「い、いえ。白浜二士は僕よりずっと年上でもありますし」
「と言ってもね、この年で二士の下っ端だよ。階級なんてすぐに追い抜いて、あっと言う間に上官さ」
「で、ですが……」
(う~ん、やっぱり大人が相手だと緊張しちゃうものなのかなぁ。
 それなら、ここは……)

エリオの事は兼一もまだよく知らないが、気持ちはわからないでもない。
初めての職場、期待と不安で内心複雑でしかないのだろう。
特に、周りはほとんど年上………と言うか大人ばかり。
失礼にならない様に、足を引っ張らないようにと堅くなっているのが手に取るように分かる。

しかし、それならそれで発想を変えれば良い。
兼一はエリオの前で勢いよく手を合わせ、頭を下げると口早に告げる。

「ごめん。ちょっと用事があってね、悪いんだけど少しの間翔の相手をしててくれる?」
「え? ……ええ!?」
「ごめん、すぐ戻るから。あ、荷物は後で手伝うからしばらくそのままでいいよ。それじゃ!!」
「ちょ、白浜二士!?」

エリオはなんとか兼一を引きとめようと、無意識のうちに持ち上げた右手で兼一の服の裾を掴もうとする。
だがそれより早く足早に兼一がその場を離れたことで、その手は虚しく宙に浮かんだままとなった。

たっぷり一分かけ、ようやく諦めたエリオはゆっくりと腕を下ろし背後を振り向く。
そこには、扉から隠れる様にしてエリオの様子をうかがう翔の姿。

(……ど、どうしよう…………)

いったいどうすればいいのか途方に暮れ、エリオは思わず天を仰ぐ。
まあ、そこには天井しかないのだが……。



  *  *  *  *  *



場所は変わって六課の敷地内。
翔をエリオに押し付けてきた兼一は…………特に行くあてもなく散歩していた。

(う~ん、子ども同士打ち解けてくれると、少しはエリオ君も肩の力が抜けると思うんだけど…………上手くいくかなぁ? でも、僕が一緒にいても返って緊張させちゃうだろうし、難しいなぁ)

兼一とて、別に無責任にエリオと翔を放り出してきたわけではない。
これでもエリオの事を慮り、これからの共同生活が上手く行くよう配慮しているのだ。
まあ、あまりそういった方面でも器用ではない兼一なので、上手くいくかは定かではないが。
とそこで、兼一は少々この場には不釣り合いな人物と遭遇することになる。

(え? 子ども?)

そう、子どもである。それも、エリオよりなお小さい。
恐らく、翔とそう年も変わらない。6歳か7歳か、まあその辺りだろう赤毛の少女。
そんな少女が陸士制服を身にまとい、年に似合わぬ堂々たる態度で闊歩している様はいっそシュールですらある。
如何に戦いの場においては、幼いからと言って油断は禁物とは言え、これはさすがに……。

少女の方でも兼一の事に気付いたらしく、一瞬目を丸くした後足早に兼一の下へ歩み寄ってきた。
そして、兼一の眼前で止まった少女は、鋭い目つきで下から兼一の事を睨んでくる。
少々困惑した兼一だったが、とりあえず当たり障りのない所から話題を振ることにしてみた。
ただし、それは思いっきり地雷だったわけだが。

「えっと…………君みたいな“小さな子”がこんなところでどうしたの?」
「……………(ピキッ)」
「う~ん、もしかして道に迷ったのかな? お母さんはどこかわかる?」
「……………………………………(ビキ!)」
「あれ? でもそれって陸士の制服だよね…………………………コスプレ?」
「…………………………………………………………(ビキビキ!!)」

話せば話すほど、言葉を重ねるほどに少女の顔に浮かぶ無数の青筋。
頬はヒクヒクと痙攣し、全身から放たれる殺気は龍も裸足で逃げ出すほど。

しかし、空気読み機能の欠如した兼一は気付かない。
それどころか、あやす様にして頭に手を乗せ撫でるものだから、少女の怒りはさらに鰻登り。
怒髪天を突くと言う言葉があるが、今の彼女なら天を引き裂くことすらできそうだ。

「むぅ、しょうがない。隊舎の方へ行って迷子の放送をかけてもらおう」
「………………………………………………………………………………(ブチッ!!!)」

そうして、兼一は少女の手を握り隊舎の方へ連れて行こうとしたところで、ついに堪忍袋の緒が切れる。
まあ、彼女にしては良く我慢した方だろう……。
普段の彼女なら、早々に怒鳴り散らしていた筈だが、兼一が意味もなくたたみかけるものだから不必要なまでに怒りが蓄積してしまったらしい。

「あれ? どうしたの? 大丈夫だよ、すぐにお母さんも見つかるからね」
「ああ、ありがとよ。だけどよ、悪ぃんだけどさ、その前にちょっとこっち向いてくれねぇか?」
「へ?」

兼一が視線を下にずらすと、目に飛び込んできたのは美少女と言って差し支えない少女の実に良い笑顔。
ただし、その顔に無数の青筋が浮かんでいなければの話だが。

「……アイゼン」
《ja》
「えっと…………そのハンマーは、なに?」
「あたしは優しいからな、選ばせてやる。
液状化するまで磨り潰されるのとハンバーグになるの、どっちがいい?」
「ええっと、意味が良く分からないんだけど……どっちも遠慮するのは?」
「そうか、両方だな」

待機形態を解除したアイゼンを手に、底冷えのする笑顔を振りまく赤いおさげが特徴の少女。
本来なら実に愛らしい筈のその容姿に反し、背後には鬼神の姿を幻視する。

同時に、ここにきてようやく兼一の恐怖センサーが警鐘を鳴らした。
当然、最大警戒レベルの。まあ、思いっきり色々と手遅れなわけだが。
そうしている間にも、見る見るうちに少女の手にあるハンマーは巨大化していく。

「いやぁ、さすがにそれは…………………死ぬんじゃないかなぁ?」
「安心しろ…………死んだらまた殺してやる」

最早説得は叶わない。というか、当に説得の機会など逸してしまっている。
ようやくその事に気付いた兼一は、大急ぎで背を向けた。
これは逃避ではない、戦略的撤退なのだから!!

だが、初動の差は如何ともしがたい。
既に攻撃態勢にある少女と、今から逃げに入る兼一。
どちらが有利なのかは、論ずるまでもない。

「あの、一ついいかな?」
「いいぜ、辞世の句くらいは聞いてやる。一秒で忘れるけどな」
「それじゃ意味がない気が、まぁそれはともかく………“ちっちゃい”のにすごいんだね」

ダウト。この期に及んで尚の禁句。今まさに兼一は、自らの死刑執行書にサインした。
最早ここまで来ると、弁解の余地すらない。
白浜兼一、「人の逆鱗に触れる天才」に衰えの兆しはないのだった。

「よし、殺そう」
「わぁ!? 待った待った、ちょっとタイム!?」
「死ぃねぇぇえぇぇぇぇぇぇえぇぇぇ!!!」
(すみません、美羽さん。今からそっちに逝くかもしれません)

怒りにまかせ、勢いよく振り下ろされる巨大な鉄槌。
如何に頑丈さに定評のある兼一とは言え、さすがにこれでは一巻の終わりか。
そう思われたその瞬間、二色の光の帯が少女に絡みつきその動きを止める。

「ヴィータちゃんストップ!! それはさすがにやり過ぎ!!」
「やめるです、ヴィータちゃん!! 稼働前から殺人事件は不味過ぎです!!」
「離せ! 離してくれ、シャマル、リイン!! こいつだけは、後生だからこいつだけは殺させろ!!!」

もがくヴィータとそれを必死に止める二人の女性。
と言っても、片方は女性と言うにはあまりにも小さいが。
しかし、見た目に反してそのバインドは強力らしく、ヴィータは拘束を振りほどけない。
とりあえず命の危機は去ったのだが、兼一は場違いにもこんな事を思っていた。

(へぇ、こっちには妖精までいたんだぁ……)

明らかに論点がずれているのだが、それに突っ込む余裕のある者はここにはいない。
ちなみにこの後、兼一はしばらくの間ヴィータに邪険にされるのだが、自業自得と言うものだろう。



そうしてヴィータが沈静化するまでしばし。
二人の説得でようやく怒りを治めたヴィータだが、それはもう険しい目で睨んでくる。
当然口など聞いてくれる筈もなく、兼一は無言の圧力にさらされるのだった。
なものだから、迂闊に「ああ、死ぬかと思った」などと口走ることすらできはしない。

まぁ、それはともかく。
そんな状態なので、とりあえずは兼一と唯一面識のあるシャマルが場を取り持つ形となった。

「えっと………お久しぶりですね、兼一さん」
「はい、その節は御世話になりました、シャマル先生」

シャマルにはこちらの世界に来たばかりのころに世話になった恩があるだけに、兼一は深々と頭を下げる。
そして、それを見て面白くないのがヴィータだ。
なにしろ、自分は思いっきり子ども扱いされたのに、シャマルには礼儀正しい対応。
外見のせいと言ってしまえばそれまでかもしれないが、それで納得できれば苦労はない。

「それでですね、この子は私の家族のヴィータちゃんで、こっちがリインちゃんです」
「はいです! リインフォースⅡ空曹長です、よろしくですよ!!」
「…………………………………上官!?」
「ま、まぁ、小さいですけどそうなんですよ」

ただでさえリインは小さい上に、外見年齢も十歳そこそこ。
それでこの地位なのだから、初見の相手は大抵驚く。
シャマルとしてもそのリアクションには慣れたものらしいが、苦笑を浮かべつつその事実を肯定している。

「あの、一つ聞いても良いですか?」
「なんですか?」
「リインフォースⅡ空曹長は……」
「あ、フルネームだと長いので、リインと呼んでくださいです」
「じゃあ、リイン曹長」
「はいです。なんですか、兼一さん」
「曹長は…………………妖精か何かなんですか?」

ミッドで暮らすようになってはや2ヶ月。
だが、未だにこんな生き物は兼一も見たことがない。
大概の非常識に離れたつもりの兼一でも、これはさすがに眼を疑う光景だったらしい。

「あははは、兼一さんは面白い事を言うんですねぇ……」
「いや、割と普通のリアクションだと思うぞ」
「ですよねぇ……」
「何か言ったですか、二人とも?」
「いんや」
「何でもないから続けて」
「はぁ、そうですか。ではですね、リインについてちょっとだけ教えてあげるです。
 女の子の秘密なんですから、他の人には秘密ですよぉ」

若干背伸びをしている感じで、リインはそのまま説明に入る。
自身が管理局でも数少ない「ユニゾンデバイス」と言う存在であること。
他者と融合し、その能力を飛躍的に向上させる能力を持つことなど。
そうして一通りの事を話し終えたところで、今度はヴィータへと話が移る。

「で、ですね。こっちのヴィータちゃんなんですけど……」
「シャマル先生の妹さんですか?」
「ま、まぁ、そんな感じなんですけど…………」
「ヴィータちゃんもれっきとした管理局員です。それも三等空尉、兼一さんやリインよりずっと上ですよぉ」
「え?」

リインの話を聞き、思いっきりいぶかしんだ表情を浮かべる兼一。
ヴィータの外見上無理もない話だが、さすがにその驚きは相当なもの。
リインの場合は返ってその小ささが説得力を持たせているが、どこからどう見ても小学校低学年にしか見えないヴィータだと何かの冗談としか思えないのだ。
しかしそれも、続くシャマルの同意によって信じざるを得なくなる。

「いえ、勘違いしたのも無理はないと思うんですけど……本当なんです」
「そうだ、敬えこのバカ! あたしは大人だ!」
「でも、どう見ても子ど………すみません」

再度禁句を口にしかける兼一だが、ヴィータの鬼の形相の前に口を閉ざす。
実に賢明な判断だ。もしもう一度口にしていれば、今度こそミンチかペーストになっていたに違いない。

「そ、それでですね、リインちゃんはロングアーチ、ヴィータちゃんはスターズの副隊長ですからあまり会わないかもしれませんけど、私は医務室に詰めてますので、何かあったら来てくださいね」
「あははは……まぁ、あまりお世話にならないに越したことはありませんけど」
「確かに、それはそうですね」
「おい、シャマル。あたしはもう行くぞ」
「あ、はーい。リインちゃんは?」
「私もまだお仕事があるので戻るです」
「なら、私も戻ろうかしら」

仕事が残っているのは同じなのか、少し口元に指を当てて考えるシャマル。
兼一としても無理に引き留める気はないし、結果的にいい時間つぶしになった。
丁度いいので、そろそろ戻って様子でも見ようと思っていた所だ。

「それじゃ、兼一さん失礼します。
 それと、怪我や病気じゃなくても偶にお茶でも飲みに来てくださいね」
「あ、はい。それではまたいずれ……」
「にしてもよ、茶ぐらいはまともに淹れられる様になれよな。
 せっかくもらった道具がもったいねぇぞ」
「ヴィータちゃん、抹茶は『淹れる』じゃなくて『点てる』って言うんですよ」
「し、知ってるっつうのそれくらい!!」

そんなかけ合いをしつつその場を後にする1/2八神家であった。



  *  *  *  *  *



寮の自室に戻ると、そこに広がっていたのは期待以上の光景。
何があったのかまでは定かではない。
だが、備え付けられたベッドに横になって昼寝をする翔と、その翔と兄弟の様にして並んで眠るエリオ。

翔はエリオの服をやんわりと掴み、エリオはそんな翔を抱きかかえる様に手を頭に回している。
それだけで、事細かな説明など不要な気がした。

「やれやれ、そんな恰好で寝てると風邪をひくよ」

そんな二人を起こさない様に、優しく毛布をかけてやる兼一。
どんな夢を見ているかは分からないが、二人の表情から良い夢を見ているのだろうと思う。

「さて、今のうちに荷解きの続きでもするかな」

ただし、二人を起こさない様に静かに。
その条件の下、運び込んだ大量の段ボールの山に挑んで行く兼一なのであった。
何しろ、さっさとやらないといつまでたっても片付かない。


そうして自分と翔の分の荷物を片付け終えたところで、昼寝をしていた二人は目を覚ました。
その後は残ったエリオの荷物を三人がかりで片づけたのだが、はじめのうちエリオは一人でやろうとしていた事を追記する。
そして、一通りの片づけを終え快適な居住空間の構築に成功した三人は、なぜか一緒に風呂に入っていた。

「ほらほら、エリオ君は僕の前、翔はその前ね」
「え? え? え?」
「は~い」

翔と打ち融けこそしたが、まだ兼一にはどこか緊張気味のエリオ。
だが、そんなエリオを余所に話を進めていく白浜親子。
エリオからすれば、気付けば風呂場に連行されていたという気分なのだろう。

「えっと、これでどうするんですか?」
「それはほら、定番の流しっこ。
 終わったら今度はエリオ君が僕の背中で、翔がエリオ君の背中ね」

どうやら、あまりこう言ったことの経験がないらしく、困惑気味のエリオ。
しかし、続く翔の発言でその顔は途端に赤面することになる。

「うん。兄さまの背中洗う~」
「そっか、エリオ君はお兄ちゃんか」
「お、お兄ちゃん!?」

まだ、親元で何も知らずに普通に暮らしていた頃。
一人っ子ならだれもが一度は考えるであろう「兄弟が欲しい」という願望を、エリオも当然の様に持っていた。
だが、日常の崩壊と共に知った真実、以降そんな事を考えた事はない。
そんな余裕がそもそもなかったし、余裕が出てきてからはどうやって育て親とも言える人の力になるかばかり考えてきたのだ。それに、今更自分に兄弟などできはしないと諦めてもいた。

しかし、今日出会った自分同様育て親の力になりたいと願うもう一人の少女。
ある意味、彼女とエリオは「きょうだい」の様な間柄だろう。
もちろん、兄なのか姉なのかを論ずることに意味はないし、強いて言うなら双子に近いのだろうが。
だがまさか、こんな形で、忘れた頃になって自分が「兄」と呼ばれる日がこようとは。
知らぬうちに口角の緩む自分がいることに、エリオは気付いていない。

(そ、そっか。翔は年下だし、お兄ちゃん…か)

それは、思っていた以上に甘美な響きで、気付けばいつの間にか兼一の背中を流していた。
どうやら、舞い上がっているうちに向きが変わってしまっていたらしい。
しかし、背中に感じる年下の同居人が背中を洗う感触は……イヤじゃない。

同時に、眼の前に広がる思っていたよりも遥かに逞しい背中に、ずっと前に失った物を幻視する。
思い出す度に痛みしか伴わなかった記憶だった筈なのに、今はそれもない。
それどころか、驚くほど心は静かで穏やか。あるのは、何も知らず幸せだったころと同じ気持ちだけ。

(そう言えば、昔は父さんの背中を流したりしたこともあったんだよね。
 それが『僕』の記憶なのか、それとも『僕の元になった僕』の記憶なのかは分からないけど。
 でも………………………何だろう。胸が、あったかい)

そうして、機動六課での最初の夜は更けていく。
これから始まる弟分とその父との共同生活に、エリオは胸を弾ませていた。
その心に、初めて会った時の緊張はすでにない。

それを証明するように、その晩三人は同じベットで眠った。
まるで、本当の親子の様に。身近に感じるその温もりに、かつて失った安心感に、エリオが知らず知らずのうちに涙していた事を、彼が寝付くまで起きていた兼一だけが知っている。






あとがき

はい、新章突入ですがまだなのは達は出てきません。
ちょろっとはやてが出てきただけですね。たぶん、なのはやフェイトは次あたりです。

それと、兼一が修業の仕上げに行った修業。これはまだ秘密。
ですが、ちょっとヒントも出しましたし、割と気付く人は多いかも。
兼一が弟子をとったとしたら、必ずその甘さがネックになるのは間違いありません。
そして、武術の伝承においてその情が時に妨げになる以上、それをどうにかする必要があります。
その前提のもと考えて出した、かなり無茶な修業法です。

あと、実はエリオとの風呂で「御家族は?」という地雷を兼一に踏ませるつもりだったのですが……………………さすがに空気読めなさすぎるのでやめました。その代わりがヴィータとのくだりですね。
いくら「相手の心の中心直接攻撃」が得意技とは言え、エリオ相手にこのタイミングでそれは不味い。

さて、次からはいよいよ六課本格始動。
なのははどのタイミングで兼一の存在に気付くのやら……上手くやれるようにしたいものです。



[25730] BATTLE 14「機動六課」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/31 15:45

白浜親子が機動六課の寮に入って一週間。
今日ついに、遺失物管理部機動六課は正式稼働の日を迎える。
……のだが、寮の施設管理が仕事の兼一からすれば、関係あるのかないのか微妙なところだが……。
何しろ、正式稼働する前とした後で、特別仕事内容が変化するわけでもないのだから。

ただし、だからと言って一日の流れが全然全く変わらないと言うわけでもない。
例えばそう、正式稼働に合わせて遅れて異動してきた弟子の指導とか……。

「清々しい気持ちのいい朝だ、空気もおいしい。そうは思わないかい、翔、ギンガ」
「ゼーハー…ゼーハー……そ、そうですね。
このマスクさえなければ、爽やかな空気を肺一杯に吸い込めるんですけど……」
「父様~、このマスクとっちゃダメ?」

早朝恒例となった、地蔵を担いでのジョギングの名を借りた全力疾走。
ギンガに至っては優に十キロを超える距離を走らされた結果、二人はすでに息も絶え絶えの有様。
その上、頭に酸素が回り切っていないのか、二人の頭は揃って朦朧としている始末。
にもかかわらず、返ってきた答えは無情の一言に尽きる。

「ダメ。これも修行だ、頑張ろう」
((どうしてこの人【父様】は平気なんだろう?))

二人が心中でそんな事を呟くのも無理はない。
なにしろ兼一は、巨大な仁王像を背負った上でギンガを軽く十周以上は周回遅れにしている。
まあ、十を越えたあたりでギンガも数えるのをやめてしまったので、正確な数は不明だが。

それはともかく、それだけ走ったくせにその息が切れる様子はない。
それどころか、額に僅かに汗を浮かべるだけで疲れた素振りも見られない。
もしこの場に誰かいても、兼一の事しか見ていなければ軽い運動をした程度にしか思わないだろう。
兼一に限れば、本当に文字通り「爽やかな朝」としか表現のしようがないほどなのだから。

「と、確かギンガはこれからホールに集まるんだったよね」
「あ、はい。八神部隊長が挨拶をすると聞いてますけど……」
「そっか、時間もそうないし初日から遅刻は不味いね。
翔は柔軟、ギンガは硬功夫の後に少し歩いて終わりにしよう」
(絶対少しじゃないのよね、この人の場合。早くしないと、本当に遅刻しちゃう……)

兼一に正式に弟子入りして早二ヶ月。いい加減、その傾向と言うかパターンはわかってきた。
一言で表すのなら、万事全てにおいて「限界ギリギリ」なのである。
兼一自身、過去の経験から人体の限界を知りつくしている上に、幸か不幸か、ギンガの身体は常人以上に頑強だ。
普通ならとっくに壊れていてもおかしくない特訓も、ギンガなら耐えられてしまう。
才能と素質に恵まれていると言うのも、こうなってくると考えものだろう。

まあ、それはともかく。
「まとも」の対極とも言える修業を乗り越えてきた兼一がさせる事が、常識的である筈もなし。
翔は例によって例の如く、兼一発案の下108で製作された柔軟器具で各関節をありえない方向に曲げられている真っ最中。そして、ギンガの場合はと言うと……

(くぅ、ただでさえ重いのに…こう揺らされたら……!)
「ほらほら、身体がぶれてるよ。膝を使って上下左右の揺れをちゃんと吸収する」
「は、はい!」

小型の地蔵を抱えた兼一を肩に乗せ、中腰のままゆっくりゆっくりと進んで行く。
それも、ギンガの足の下には鈍い銀色を放つ小振りの球体。それが左右の足に一つずつで計二つ。
よくもまぁ、こんな物の上に乗っていられる物だ。
それも、足の裏で器用に転がしながら進んでいるのだから、相当なものだろう。
その間兼一はと言うと、ギンガの上で地蔵でお手玉をしている真っ最中。

肩の上でそんな事をされれば、普通は盛大に上半身が揺れそうなものだが、ギンガのそれは恐ろしく小さい。
柔らかく全身、特に膝を使うことでクッションとし、振動を逃がしているのだ。
そうすることで、耐震工事を施された建築物の如く、身体の揺れを最小限にとどめている。

(うん、だいぶ揺れなくなってきた。
 これなら、ローラーブーツを使ってもそんなに頭はぶれないだろうし、そこそこの相手にはいけそうかな)

そんな弟子の成長に、声には出さず喜ぶ兼一。
二ヶ月で教えられることなどたかが知れている上に、元から兼一は要領が良くない。
それは指導にも言えることで、下手とは言わないが、かと言って眼を見張るほどに上手いわけでもない。
だが、それでも教えられる限りの事は教えてきた。
それが今、こうして形になってきているのだから嬉しくない筈がないのだ。



その後、朝のメニューを終えたギンガは汗を流し身支度を整えるべく一端自室に戻る。
白浜親子もそれに倣い自室に戻ると、そこには顔を洗い終えたばかりの同居人の姿があった。

「あ、起きてたんだ。おはようエリオ君」
「おはよう、兄さま!」

首にタオルをかけ、寝間着姿で出迎えるエリオ。
そんな彼に、翔は駆け足で駆け寄るとおもむろに飛びついた。

「っと。おはよう、翔! それに、兼一さんも」

抱きついてきた小さな体を受け止め、ゆっくりとおろしながら挨拶を返す。
初めて会った時の堅さはすでになく、好意的な視線を向けている。
また、以前は使っていた敬語もない。兼一の人柄もあるのだろうが、翔には砕けた口調で兼一には敬語、という形が維持できなかったのだ。
気付けば、いつの間にか兼一相手にも砕けた口調で話す様になっていたと言うわけである。

「今日も走ってきたの?」
「うん、隊舎の周りをちょっとね」
「起こしてくれれば僕も行くのに……」
「ごめんごめん」

少し不貞腐れた様な表情を浮かべるエリオに対し、兼一は苦笑しながら軽く頭を下げる。
過去の事もあってかどこか遠慮しがちで「甘える」事が苦手なエリオだが、兼一にはこうした表情を見せるようになってきていた。
それというのも、眼の前で父に甘える翔の姿に無意識のうちに触発された影響だろう。
彼とてまだ十歳。どんな過去を持っていようと、まだ子どもであることに違いはない。
甘えられる大人、と言う存在がいるに越したことはない。

「じゃあ、明日は兄さまも走る?」
「え、いいん…でしょうか?」
(う~ん、まあそれくらいなら大丈夫かな)

慣れていないエリオだと、兼一達のノリにはついていけない可能性が高い。
しかしそれも、走るだけならペースと距離を調整してやればなんとでもなる。
別に、何か後ろ暗い事をやっているわけでもないのだから。

そうして、正式な保護者のあずかり知らぬ所でエリオはそこに片足をつっこんだのだった。



BATTLE 14「機動六課」



涙にぬれるつぶらな瞳、不安そうな幼い表情。
どちらも、一目見れば誰もが罪悪感から挫けてしまいそうな幼子の武器。
それを無自覚ながらも巧みに使い、翔はエリオを上目遣いに見上げていた。

「行っちゃうの、兄さま?」
「うっ!?」

そのあまりの攻撃力に、エリオの決心が揺らぐ。
それはさながら、鋭い槍で心臓を貫かれたかの如き衝撃。
同時に内心では「そういえば昔、フェイトさんが帰る時に泣きそうになってたらフェイトさんまで泣きそうになってたけど、それってこういうことだったのか」とかつての自分に重ねていたりしたのだが、それは余談だろう。

「ほら翔、エリオ君もこれから仕事なんだから無理を言わない」
「……はぁい」

兼一に注意され、ションボリとうなだれる翔。
それにますます心を揺さぶられ、心中穏やかではいられないエリオだが、兼一の言う通りこれから仕事。
まさか、初日からサボるわけにはいかないし、そもそも生真面目な彼に「サボる」と言う発想自体がない。
故に、断腸の思いで翔の眼を振り切ろうとするが…………出来ずに口からはこんな言葉が漏れていた。

「えっと…………ほら、戻ったら遊ぼう、ね?」
「でも、兄さま明日もお仕事あるんでしょ?」
「少しくらいなら大丈夫だよ。あ、あんまり遅くまではダメだけど……」
「うん♪」

一度は遠慮がちに尋ねた翔だったが、結局は満面の笑顔を浮かべる。
それに釣られてエリオも笑い、その手は自然と翔の柔らかな黒髪を撫でていた。

「ごめんね、エリオ君。いつも翔の我儘に付き合わせちゃって……」
「あ、そんな事は全然」

苦笑を浮かべながら謝る兼一に対し、エリオは嫌な顔一つ浮かべずに首を振る。
彼にとっても、今までにあまり経験のないこの交流は新鮮で心地よい物なのだろう。
そうして今度こそ、エリオは二人に背を向けて隊舎へと駆けだした。

「それじゃ、行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
「うん! 行ってらっしゃい兄さま!」

翔は大げさなまでの身ぶりで手を振り、妙に似合うエプロン姿で箒を片手に兼一も小さく手を振っていた。
徐々に小さくなっていくその背を見送った二人は、そのまま玄関先の掃除を始める。

とはいえ、エリオが出て行ったことからも分かる通り、今は丁度出勤時間。
寮からは次々と人が現れ、皆一様に隊舎へと向かって出て行く。まぁ、当然と言えば当然だが。
兼一と翔はそんな面々を送り出していくわけだが、そこで見知った顔がやってきた。

「あ、ヴァイス君、おはよう」
「オッス、朝から精が出るじゃねぇか」

上着を肩にかけ、ネクタイを結びながら出てきたのは隣部屋の住人。
階級ではだいぶ彼の方が上なのだが、年が近い事や彼の人となりもあってすっかり打ち解けている。
ただし、それはあくまでも兼一との関係に限った話。相手が翔になると……

「ようチビ助、相変わらず親父にべったりだよなぁ、お前」

ヴァイスの言葉に一瞬表情を凍らせる翔。
だがそれも、返される翔の言葉でヴァイスもまた凍りつく。

「おはようございます、ヴァイス“おじさま”」
「………………」

頬ひきつらせ、眉を震わせるヴァイス。
深く深く息をつき、彼は翔の頭に両手を伸ばしてこう言った。

「良し。『お兄さん』だっつってんだろうが、このガキ!! 俺はまだ二十代だ!!」
「あいだだだだだだだ!!?? や、やめてよ“おじさま”」
「お兄さんだ―――――――――――!!!」
「仲いいよねぇ、二人とも」

両手を握りこみ、翔のこめかみに当てがって強くグリグリと押し込むヴァイスとそれに苦悶の声を挙げる翔。
しかし、全く懲りていないようで尚も「おじさま」と言っているが。
そんな二人を兼一はとても微笑ましそうに見つめていたのだが、人影に気付き二人に声をかけようとする。

「ぁ、ヴァイス君」
「……こんな所で何をやってるんだ、アンタ…ゴホン、グランセニック陸曹殿」

玄関前でじゃれ合ってる二人の後ろに姿を現したのは、グレーの髪の少年。
身長は百七十半ば、年のころはギンガとスバルの間ほど。
凛々しいと言うよりはキツメの顔を、今はあからさまな不機嫌に歪め、眉の間には深い皺が刻まれている。

いや、「今は」と言うのは正しくないのかもしれない。
少なくとも、今日まで何度か顔を合わせた事はあるのだが、一度たりとも彼の顔に不機嫌以外の感情が浮かんでいる所を兼一は見た事がないのだから。

(う~ん、特別機嫌が悪いわけじゃなくてこれがデフォルトだからなぁ。
 いや、今日は一段とかも……)

推測するに、玄関先で二人がじゃれ合っているものだから邪魔で外に出れないでいるのが原因だろう。
普段は…と言っても付き合いなど一週間程度だが、それでもいつもは不機嫌ではあっても眉間の皺まではない。
その普段はない眉間の皺が、いつも以上に彼を不機嫌そうに見せている。

だが、良くも悪くもおおらかなヴァイスは、彼のその雰囲気さえも特に気にしない。
まあ、同室であるからには、一々彼の不機嫌オーラを気にしていられないのかもしれないが。

「ん? なんだ、お前まだ出てなかったのかよ、コルト?」
「見ればわかるだ…ではなく、はい。陸曹殿がおられやがったものですから」

事さらに「陸曹“殿”」を強調するコルトと呼ばれた少年。
敬語…と思しきものを使おうとしているのだが、どうにも敬意などの類は感じられない。
むしろ、立場上仕方ないから使っている、という雰囲気が迸っている。隠そうともしていないし。
というか、そもそも敬語にすらなっていないのだが……。

「それと、アヴェニス一士と呼…んでください」
「あ~あ~わぁったよ、ったく。にしてもお前、ホント敬語苦手だよな。今、呼べって言いそうになっただろ」
「余計なお世話ですよ、この野郎」
「おめぇなぁ……」

ヴァイスや兼一などはあまり気にしない性質だが、管理局に限らず世界は大抵縦社会。
眼上、上司、先輩、上官には敬意を払い敬語を使うのが常識。
例え内心ではどう思っていようとも、外面を整えてそれらしく振舞うものだ。

しかし若さ故か、それともそう言った事が苦手なのか、コルトはとことん敬語が下手だ。
さらに、外面も整えられていない。
そのくせ、相手とは距離を取りたいようで親しげにするなとばかりに『アヴェニス一士』と呼ばせようとする。
前の所属では、さぞかし浮いた存在だったのだろう。
そんな同居人に、ヴァイスは一緒に住むようになって何度目かわからない溜息をついた。

(こら、なのはさんも苦労しそうだわな)



  *  *  *  *  *



その後、隊舎に出勤していく寮の面々を見送った兼一と翔は、玄関前の掃除を終え、今は花壇の花に水やりをしている。
今頃は、隊舎で部隊長の挨拶でも行われているか、あるいはもう終わってそれぞれの部署に異動しているかもしれない。余談だが、なのははだいぶ先に出てしまったらしく、鉢合わせすることはなかった。

なぜ兼一がそれに出席していないかと言えば、単純にやる事があるからだ。
部隊長の挨拶は確かに重要だが、何も全隊員が出なければいかないわけではない。
というか、全員が一ヶ所に集まっては業務に支障をきたす。
なので、前線メンバーを除くほぼすべての部署で何人かは通常業務を続けており、兼一はその一人という事だ。
で、彼は今何を考えているかと言うと……。

「う~ん、やっぱりどうせなら一年通して何かしら咲いている方がいいよね。
 こっちの花の事はまだ良く分からないし、何を植えるかちゃんと調べて計画を立てないと」

などと言う事を、ぼんやりとホースで水をまきながら考えている。
前の職の事もあり、六課内の花壇はほぼ全て兼一の担当。そういう意味では責任重大なのだ。
その間翔は何をしているかと言えば、ジョウロを手にちょこまか動きながら水やりに参加している。

父の影響もあってか植物好きの翔、あまりにも好き過ぎて人間を相手にする様に話しかけるほどだ。
翔の様子を見るに何やら返事の様なものも返ってきているようだが、気のせいだろう。
アパチャイじゃあるまいに、動物ではなく植物と話せるとは思えない。
しかしそこで、突然翔が立ちあがり驚いた様子で兼一の背後を指差す。

「父様! なに、あれなに?」
「ん?」

翔が示すものを確認すべく振り返ると、そこには妙なものがあった。
先ほどまでは海といくつかの六角形が組み合わされた浮島があっただけの場所。
だが今そこには、対岸と同じような近代的なビル群が出現している。
もちろん、兼一にそれがなんであるかなどわからない。

「お~、なんだろうね、あれ?」
「父様にもわからない?」
「う~ん、こっちの技術はすごいからねぇ。アレも魔法なのかな?」
「ふえ~、魔法ってすごいんだねぇ」
「凄いねぇ(でも、なんかリアリティにかけると言うか……立体映像って奴なのかな?
 あれ、でも確か、ティアナちゃんが幻術って言う魔法を使うって言ってたし、そっちかな?
まあ、どっちでもいっか)」

どうも、兼一の中では良く分からないすごい技術は全てとりあえず「魔法」と考える事にされているらしい。
まあ、魔法だろうが科学技術だろうが、どちらでもいいと言えばいいのだが。
それよりも、兼一的にはもっと重要な事がある。

「う~ん、良く分からないけど、今度使わせてもらいたいねぇ、アレ」
「何に使うの?」
「修業」
「あぅ…………えっと、どんなことするの?」
「聞きたい?」
「いい!!」

首をかしげながら問う父に対し、翔は全身全霊を持って首を振る。
どうせ聞いたところで今不幸になるだけ。何を言った所でいずれは訪れる結末なら、今だけでも心安らかに。
翔の中の動物的本能が、その救い難い事実を告げていた。
とそこで、兼一の望遠鏡も真っ青な双眸が何かを捉える。

「あ、ギンガだ」
「え、姉さま!? 父様、どこに姉さまがいるの!!」
「ほらあそこ、あの街の方に向かってる橋の上。
 ああ、スバルちゃんにティアナちゃん、エリオ君も一緒だね」
「う~ん、どこ? 全然見えない」
「まだまだ修行が足りないねぇ」
(そういう問題なのかな?)
「そういう問題なんだよ」
「っ!?」
「あ、そういう顔してたからそうじゃないかなぁと思ったけど正解みたいだね」
(そ、そっか、別に心を読めるわけじゃないんだ)
「読めないよ、全然」
(読めない、よね?)

段々本当はどちらなのかわからなくなってきた。
しかし兼一は、悩み困っている息子に悪戯っぽい笑みを向けながら、少々考える。

(う~ん、ちょっと見に行ってみようかな?
 さすがにビルが邪魔でここからだと良く見えないし)

あの様子からすると、あそこで訓練をするのは明白。
ならば師として、弟子の様子を確認しておきたい所。

また、聞くところによれば、フォワード達の指導は“あの”なのはがやると聞いている。
友人兼ライバルの妹であり、知り合って十年になる少女。
最後に会ったのは四年以上前だし、その成長も含めて気になる所だ。

(雑誌で見たけど、ホントに美人になってたもんなぁなのはちゃん。
まぁ、桃子さん似って事を考えると順当と言う気もするけど……)

また、なのははギリギリまで寮には入らなかったので、忙しかった事もあってまだ会っていない
ゲンヤからは『面白そうだ、気付くまで黙っとけ』と言われてるが、さすがにそれはどうか……。
だがそこで、何気なく視線を横に向けると何ともデコボコな二人組を発見した。

(アレって、確かシグナム二尉とヴィータ三尉。あんな所でなにしてるんだろう?)

兼一達がいる所よりもいくらか高い場所、そこにはスターズとライトニングの両副隊長の姿。
部下の様子を見に来ているのは状況的に間違いないが、あそこからでも街の中の様子は見えない筈。

「う~ん……よし、ちょっと見に行ってみよう」
「どうしたの、父様?」
「翔、背中にのって。ちょっと………とぶよ」
「あ、うん。でも、どこにいくの? あのビルの上?」
「それも良いけど、もしかしたらもっと見やすい場所があるかもね」
「?」

翔の問いに意味深な答えを返す兼一の表情は、どこか楽しげだ。
翔は良く分からないまま父の背中にしがみつく。
そして先の宣言通り、兼一が跳ねた。



場所は変わって、機動六課訓練場前の高台。
空中に投影したモニターを見ながら、シグナムとヴィータは新人たちを見守っていた。

「あーもう、そうじゃねぇって!! そこはもっと……!!」
「落ち着けヴィータ、ここで叫んでも聞こえはしない」
「でもよぉ……だぁ、まぁた危なっかしい事しやがって! もうちょいでいいから周りをよく見ろ!!」

まるでスポーツ中継…それも贔屓にしているチームの試合でも見ているかのように画面に向かって叫ぶヴィータ。彼女からすれば、新人たちの動きは危なっかしくて心臓がいくつあっても足りないのだろう。
外見こそこんなだが、年齢的には間違いなく六課最高に位置する一人だ。
もしかすると、孫を見守るおばあちゃん的な気持ちになってしまうのかもしれない。
そんな意外な一面を見せる同胞と対照的に冷静なシグナムは、溜め息交じりにこれ以上の進言の無駄を悟る。

「はぁ……言うだけ無駄か」
「あんだよ。べ、べつにあたしはアイツらが心配なんじゃなくて……」
「お前、墓穴を掘っている事に気付いているか?」
「な、何が良いてぇんだよ!!」

自覚があるのか、顔を真っ赤にしてシグナムに食ってかかるヴィータ。
どれほど年月を積み重ねても、彼女の直情径行や外見通りの子どもっぽさは変わらない。
長い付き合いのシグナムとしては、ヴィータのそういうところには安心感すら覚える。

「気付いていないならいい。良くも悪くもそれでこそお前だ」
「勝手に一人で納得すんなよな……って、バカ! ガジェット相手にウイングロードはヤベェ!!」
「見事に突っ込んだな。怪我はないようだが」
「ふぅ……あ~、心臓に悪ぃ」

ウイングロードから振り落とされ、窓に突っ込んだスバルの無事を確認して安堵のため息をつくヴィータ。
どれだけ悪態をついて否定しようとしたところで、これでは説得力などある筈もない。

「まぁ、お前の言う通りヨチヨチ歩きのヒヨッコだからな、仕方あるまい。
それに、アイツらを一人前にするのがお前たちの仕事だろ?」
「そりゃそうだけどよ」
「それに、危なくなればお前に高町、テスタロッサ、あとはまぁ……私もいる。
 仮に怪我をしてもシャマルが治す。そう簡単に、壊れさせはせんさ」
「……」
「それでも不安なら、ギンガもいる。
同じ陸戦のアイツなら、時に空に行かねばならん私達よりフォローには向いているだろうよ」
「まぁな」

陸戦Aという肩書は伊達ではないのだろう。
あるいは、二人は直接的にギンガの実力を知り、それが信頼に足るものとわかっているのかもしれない。
いずれにせよ、ヴィータもギンガの事についてはある程度信頼していることがうかがえる。

「でもよ、あのコルトって奴…大丈夫なのか? ランクアイツらん中で最低のCだろ?」
「何度か見た事はあるが、少なくとも能力的に不満はない。
 ランクが低いのは、単に試験を受けていないと言うだけだ」
「試験を“受けさせられなかった”だろ?」
「ああ」
「聞いたぜ、捕まえた犯人半殺しにしたり、部隊内で仲間をぼこったりして謹慎は日常茶飯事。
その上、命令無視して突っ込んで行ってズタボロになるのもしょっちゅうなんだろ?」
「訂正するなら、捕まえた後の暴行はしていないし、部隊内での事は模擬戦の結果だ。
 無論、やり過ぎた事が許されるわけではないがな」

瞑目しながら、シグナムはヴィータの話す内容に僅かな訂正を加える。
だがそれでも、ヴィータの中の懐疑と警戒心は薄れない。

(どっちにしても、安心して背中に立たせられる奴じゃねぇだろ)

心中で呟きながら、モニターを見つつコルト・アヴェニスと言う男の情報を思い出す。
それらは正直、「やんちゃ」で済ませていいものではない。

逃走中の犯人をいち早く発見捕捉し、逮捕に動く手腕と行動力は評価に値する。
ただ、一応上への報告はするのだが、上の指示が出ないうちに動いて犯人と対峙。
拘束するまでに一波乱あり、相手が動けなくなるまでフルボッコ。
あるいは、複数犯のただなかに単身乗り込んでの大立ち回り。
その際、相手だけでなく自分まで満身創痍になる事も辞さないと聞く。
そういうことが必要な場面は確かにあるが、いつもそれでは話にならない。

また、部隊内での模擬戦でその枠を超えてやる物だから部隊内では煙たがられ、敬遠されていたらしい。
しかし、それでは模擬戦をやる相手がいない。
そこで、挑発して模擬戦と言う名目のケンカに持ち込む事も珍しくないとか。
その結果、様々な舞台をたらいまわしにされた揚句に、六課に押し付けられたのだ。

コレはまぁ、溜め息の一つもつきたくなる。
「凶犬」とか陰口叩かれていたのも当然だろう。
というか、一歩間違えばとっくに犯罪者としてお縄に付いていてもおかしくない。

「実力的にはAは確実なのだが、やることなすこと過激で徹底的。むしろ、やり過ぎるせいで懲罰の意味もあっての受験資格停止処分。それが続いて今のランクだ。ああ、階級もな」
「ああ、訓練校は違うけど、ギンガと同期なんだっけか。
はぁ、良く採用したよな、そんな奴」
「試験自体は筆記と実技、それに面接だ。自分の性格さえわかっていれば、なんとでもなるのだろう」
「訓練校でもこうだったんだろ、やめさせようとかならなかったのか?」
「下手に野に出すとかえって危険と判断して、だ」
「…………………………………納得がいった。捕まえるのは面倒そうだもんな」

敵にも自分にも容赦のないその性格は、実力の差はともかく敵としては面倒極まりない。
どれだけ力の差があっても、捨て身で来られるのは恐ろしく、万が一もあり得る事を彼女は知っているから。

「で、はやてはどう使うつもりなんだ? ギンガと同じではやて直下の遊撃要員って扱いだろ?」
「基本は単独行動。危なそうになればフォローを入れるらしい。チームワークは……期待するだけ無駄だろう」
「ま、その辺りが妥当か。下手に手を出して噛みつかれちゃ笑えねぇ。
にしても、なのはが許すかねぇ? ああ、使い方じゃなくて、後先考えないあいつの在り方の方だけどよ」
「その辺りも含めて、高町に期待しているのではないか?」
「新人どもを鍛えるだけじゃなくて、不良の更生もかよ……」

そう考えると、十年来の友人の事がいっそ不憫になるヴィータ。
まあ彼女の性格を考えるに、嬉々として「お話」し、更生しようとするだろうが。
そういう意味では、良い組み合わせと言えなくもなく……。

「っと、終わったようだな。お前の評価は?」
「辛うじて及第。はじめてにしちゃー良く対処したんじゃねぇか。
 ま、実戦でこんな手間取ってたらアウトだけど、これでやり方はわかっただろ。
 次からは今の半分で終わらせてもらわねぇと」
「厳しいな。ティアナなど、AAの技術まで使ったと言うのに」
「らしくねぇこと言うなよ。敵がそんな事考慮してくれるかっつーの」
「だな」

ヴィータの言に、苦笑交じりにうなずくシグナム。
だがそこで、二人は全く同時にふっと背後を振り向く。

「む?」
「あん?」
「あ、すみません。僕達もちょっと同席させていただいて良いですか?」
「てめぇは……」
「ああ、確かにバックヤードの」
「白浜兼一二等陸士です。シグナム二尉、ヴィータ三尉」

彼我の距離はおよそ5m。突然振り返った二人に対し、兼一は翔を乗せたまま敬礼する。
それに対し、二人も敬礼を返す。ただし、先日の事もあってヴィータは非常に不承不承とだが。
そんなヴィータの様子をいぶかしみながらも、シグナムは兼一にその訳を問う。

「一ついいか? 単なる興味なのだが、バックヤードなのになぜ?」
「あ、ご存じないですか? 僕、ここに来る前は陸士108にいたので」
「なるほど、目当てはギンガか。ならちょうどいい、いま新人たちの分が終わった所だ。
 ギンガは次か、アヴェニスの次になるだろう」
「……………………………………ま、見たいってんなら見りゃいいじゃねぇか」
「すみません」
「ありがとうございます!」
「お、おう」

不機嫌そうではあるが、さすがに無碍に断るのも気が引けたのか、承諾するヴィータ。
彼女としても、純真無垢な翔の瞳があっては突っぱねるのは難しかったらしい。

そうして、シグナムとヴィータは再度兼一から視線を逸らしモニターを見る。
だがその瞬間、二人はある事に気付く。

(…………………………待てっ! これは、どういう事だ!?)
(おいおい、こんなに近づかれるまで気付かなかったってのか、あたし達が?
 なのはやフェイトでも、後ろからくりゃ8mで気付くのに……)

二人の背中を冷たい汗が伝う。
二人も歴戦の騎士だ。背後から声もかけられずにある程度の距離まで近づかれれば、嫌でも気付く。
にもかかわらず、二人が「絶対に気付く」と距離より遥かに深く彼は踏み込んだ。
あまりにも希薄な違和感。まるではじめからそこにいたかのような、あるいはいて当たり前の様な空気。

「ほら、翔。これなら見えるだろ?」
「うん! 姉さま達の顔もよく見えるね!」

驚愕と戦慄に固まる二人を尻目に、兼一は翔を下ろし二人でモニターを見る。
その横顔は、相変わらず「のほほん」としたもので、守護騎士二人のエリアを大きく侵犯した者には到底見えなかった。



*  *  *  *  *



時を同じくして訓練場のビルの屋上。
機動六課、スターズ分隊分隊長を務める栗色の髪をサイドポニーにした白い制服を着る「高町なのは」は、モニター越しに自身の部下であり教え子である新人たちにアレコレとアドバイスをしている。
その数歩後ろで彼女同様新人たちの訓練を見ていたギンガは、新人たちの訓練の様子から、自分なりにガジェットと言う機械兵器への対策を練っていた。

「さて、それじゃ4人は一度こっちに戻って。次は……ギンガやってみようか」
「はい!」

シグナム達が話していたように、当面の間は集団行動に向かないコルトは他の面々と離して訓練するつもりらしい。今回は新人たちとギンガとの間に実力差があるので分かれての訓練になったが、今後はギンガも交えての訓練を取り入れて行こうとなのはは考えていた。
コルトに関しては…………じっくり時間をかけてチームワークなども教えて行くつもりらしい。
だが、ギンガが新人たちと入れ替わりに下に降りようとしたところで、そのコルトから待ったが入った。

「高町教導官」
「ん、なに?」
「ナカジマ陸曹と模擬をさせ……提案します」
「……………理由、聞かせてくれる?」

それまでの微笑みは消え、なのはの顔にどこか厳しい表情が浮かぶ。
彼の提案は、なのはにとっても予想通りのものだった。
彼が前情報通りの人物であれば、必ずと言っていい程の確率でそれを言いだすと思っていたから。
とはいえ、出来れば外れてほしい予想であり、人物像だったのだが。

(はぁ、やっぱりそういうタイプなんだ、この子)

その眼を見て、自分の予想が大当たりだった事を理解するなのは。だが同時に、暗澹たる気持ちになる。
正直言ってしまうと、こう言った手合いにチームワークとかの類を教え、過去の行いを反省させるのは至難だ。

彼は「戦い」を求めている、強くなる為に。
シグナムもそういう傾向があるが、彼女の場合その力に向ける先がある。
主の為、仲間の為、彼らを「守る」という方向性が。

他の六課フォワード陣にした所で、皆その力に方向性がある。
ある者はシグナム同様守るためであり、ある者は夢の為、千差万別だがそれぞれ何かしら持っているのだ。

しかし、コルトにはそう言った方向性が感じられない。
過去の経歴、身に纏う雰囲気、その瞳の光。どれをとっても、力の向ける先が見当たらない。
彼にとって戦うと言う事は「強くなる」為の手段なのだ。
なのは達にとっては手段である筈の「強さ」こそが目的。
そして、強くなる為にならどんなリスクも負うし、死んでしまったならそれまでと諦めてしまう。
なぜなら強くなることが目的である彼にとって、強くなれないからには生きる意味がないのだから。

そういう目をした人間を、なのはは少なからず知っている。
エースとなるよりも前、魔法と出会うよりもさらに前。
幼い頃、父や兄、あるいは姉や叔母、はたまたその友人達。
その周りには、そう言った眼をした人間が時折現れたから。

故になのはは、こう言う眼をした人間が自分とは人間としての種類が違い過ぎる事も知っている。
だからこそ、周りが彼女に期待している方に彼を導くことのむずかしさがわかってしまう。
それに、それが彼にとって良いかどうかも……。

(でも、とりあえず無茶する事だけはなんとかしないと……。
 そういう生き方自体は別にいいんだけど、命を蔑ろにするのだけはどちらにしてもダメだもん)

家族の事もあり、そう言った生き方への理解は少しはある。
だからこそ否定はしないが、それとこれは別の問題。
とりあえず、その「やり方」だけは何としても改めなければならない。
ましてやそれが、自分の部下であると言うのなら尚更。

「ガジェットと言う兵器の特徴はわかっ…りました。
 恐らく、今後はあの兵器への対策を中心に訓練するんだろうが……でしょうが」
「あ、敬語が苦手なら楽な話し方でいいよ。敬語の方は追々練習すればいいし」

しょっちゅう訂正し言い直すコルトに苦笑しながら、なのはは提案する。
彼女もあまりそう言った事にこだわらない性質なので、それ自体は別にかまわない。
ただ、機動六課は試験運用なので、運用期間は一年。予定では、一年後には解散となる。

そうなると一年後には別の部隊に移動することになるわけだが、そうなるとやはり敬語は欠かせない。
なのはが気にしなくても、他の隊の上官がそうとは限らないのだから。
とは言え急ぐ必要もない。一年かけて、ゆっくり慣れて行けばいいのだ。
まあ、入局して数年たっても慣れていない所を見ると、前途多難っぽいが。

「いえ、一局員、一社会人として必要な常識だ…ですから」
(う~ん、思った通り、基本的にはまじめなんだなぁ)

数々の命令違反は、おそらく彼の中での優先順位の問題なのだろう。
命令よりも、強くなる為の戦いが上位にあるからこその命令違反。
前情報でも、勤務態度は勤勉で時間や締め切りは遵守し、書類仕事も悪くないとか。
わからない事は周りに素直に聞き、教わればしっかり礼をする。
全く以って、いくつかの点を除けば非の打ちどころがない。

「続けるぞ…ます。ガジェットとの戦い方は概ね組み立てる事が出来た…ました。
 もちろん、それが正しいかは実際にやってみなければわからん…りませんし、練度を上げるためにもこの訓練は必要…でしょう」
「わかってくれてるなら何よりだけど……」
「しかし、それだけでは不十分だ…と考えます。
ナカジマ陸曹と俺は同じ遊撃要員。経歴やスキルの確認はし…ましたが、実際の手合わせ以上の理解はないと考え…ます」

要約するなら、この先飽きるほどやる訓練なのだから、それよりも前にギンガの実力を知る方が有益だ、と言いたいらしい。
理屈としては通っている。二人が一緒に行動する機会は多くないだろうが、それは状況によるだろう。
そう考えれば、どこかで一度互いの力量を肌で知る機会が必要だ。
とそこで、コルトは少々なのはの予想から外れた事を口にする。

「と言うのは建前で」
『え?』
「高町教導官なら、もうわかっているだろ…でしょう。
 ナカジマ陸曹と戦ってみたい、それだけ…です」

思い切り本心をぶっちゃけたコルトに、皆の視線が集中する。
なのはも、まさかここまで正直に言うとは思っていなかっただけに驚きを隠せない。

なのはとしても、遅かれ早かれこれはやらなければならないと思っている。
いつまでも放置すれば、いずれコルトが痺れを切らし何をするかわからない。
それならいっそ、眼の届く所でやってもらった方がいいとも思う。
危なくなれば、なのは自身が止めてしまえばいいのだから。
そういう意味で考えれば、特に反対する理由はない。
しかしその前に、聞いておかなければならない事がある。

「それなら、新人たちとも戦ってみたい?」
「いずれは」
「それじゃ…………………………………………私とも?」

その瞬間、周囲の空気が変わった事を皆は感じ取る。
重く、張りつめた空気。「不屈のエース」の二つ名は伊達ではない。
リミッターが掛かり、ランクを落としているとはいえ、それでもAAランク。
元のランクに至ってはS。管理局全体でも5%に届かないとされる超エリート。
19歳とは言え、その力は決して軽んじられるものではない。
だが、誰もが重苦しい空気に息を詰まらせる中、コルトは笑みすら浮かべながら答える。

「やりたい…ですね。いい勉強になる…ります」
「あ、アンタね! 相手が誰だかわかってるの!! 勝てると思ってる訳!!」
「そ、そうだよ。さすがになのはさん相手に一対一って……」
「モンディアル三士だったら……やります?」
「む、無理、かな……?」
「関係ない。強い相手と戦えば、得る物は大きい」

恐れた様子もなく、いっそ嬉々としてのたまうコルトに口を挟む新人たち。
しかし、当のなのははコルトの言葉の意味を冷静に分析していた。

(勉強になる…か。実力差を踏まえて、格上との戦い方を勉強しようって事だね。
 そう言えば、格上の局員と意識がなくなるまで模擬戦をした事もあるってあったっけ)

今の自分でなのは相手に勝ち目がないのは承知の上なのだろう。
勝つためではなく、強くなるための足掛かりとして捉えているようだ。
とはいえ、負けっぱなしでいる気もないらしい。何しろその眼は……

(いつか絶対リベンジしてやる気満々、か。『凶犬』って言うのもうなずける)

強くなるためには負ける事も厭わない。勝てない相手は勝てない、そう割り切る潔さがある。
同時に、そのままにする気もなく、いずれはその借りを返す執念深さと諦めの悪さも併せ持っているらしい。

(正直、絶対に眼を付けられたくないタイプだなぁ……)

ちっぽけなプライドに拘泥せず、全てを強くなる為の足掛かりと考える思考。
本当に、自分の身を顧みない所さえなければ……となのはも思わずにはいられない。
純粋なのだろうが、純粋すぎるのが玉に瑕と言ったところか。

(でも、不思議なのはなんで彼、管理局に入ったんだろう?
 強くなる事だけが目的なら、管理局にいるのはむしろ窮屈かもしれないのに)

実際、コルトの今までの経歴を見るにそう感じる事が多い。
にもかかわらず、彼は自ら管理局に志願し、今なお籍を置いている。
とはいえ、考えた所でまだこの点に関して答えは出ない。
そうして、なのはが最終的に出した結論は……

「ギンガはどう? やってもいい?」
「……………………………はい、私もやってみたいですから」
「わかった。許可するから、一戦やってみよう。
 ただし、危なそうだったりやり過ぎるようなら止めに入るからね」
「「はい」」

二人はなのはの言葉に素直にうなずく。
ただし、コルトの目はまるで飢えた獣のようにギラギラとした輝きを宿し、ギンガだけでなくなのはにも向けられているが。

(………っていうか、下手に割って入るとコルトにそのまま噛みつかれそうだなぁ……)

その事を想像し、少しばかり気持ちがげんなりとするなのはだった。
別に彼女は、そういうバトルジャンキーではないと言うのに。






あとがき

皆さんお久しぶりです。一ヶ月近くの放置になりましたが、なんとか書き上がりました。
正直、モチベーションが下がり気味だったんですが、なんとか持ち直したんで大丈夫でしょう。

それと、ホントはここで兼一となのはを再開させるつもりだったんですが次回以降になりそうです。
次でギンガと新キャラコルトの模擬戦と言う事を考えると、はじめの事件までまだいくらか掛かるかもしれません。
その辺はまぁ、気長にお付き合いくだされば幸いです。
とりあえず、次でおよそ2ヶ月のギンガの修業の成果の一部が………の予定。

ああ、ちなみにシグナム達が兼一の接近に気付けなかったのは…………殺気とかそういうピリピリした物がないせいです。ボリスにとっての小野先生みたいな感じで。びっくりしてるけど、実はすごく無害な理由なんですよ。
それにしても、コールサインはまだ決まってません。どないしよう?



[25730] BATTLE 15「好敵手」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/10 15:23

当初の予定を変更し、あれよあれよと言う間に決まってしまったギンガとコルトの模擬戦。
だが、そんな事が起こっているとはつゆ知らぬ面々は、それぞれに今を過ごしている。
例えば、最新型のヘリに乗って地上本部に向かう部隊長と執務官とか。

「う~~~~! う”~~~~~!! う”~~~~~~~う”~~~~~~~~う”~~~~~~~~~!!!」
「なぁ、フェイトちゃん。さっきから何を頭抱えてうなっとるん?」

十年来の幼馴染兼親友である金髪美少女執務官「フェイト・テスタロッサ・ハラオウン」に若干引き気味に尋ねるのは、機動六課部隊長の八神はやて。
正直、心優しく『基本』冷静で内気でありながら子煩悩と言っても良い一面を持つこの友人が、こんな様子なのは初めて見る。

そして、当のフェイトはと言うと、よくぞ聞いてくれましたとばかりにはやてに向き直った。
さらに雷光の速度で手が伸び、襟首を掴んで高速で振り回す。
ただし、その形の良い唇から放たれた言葉は、著しく理解不能だったが。

「ねえ!! はやてはなんでだと思う!?」
「……………………………いやぁ、せめて主語を入れてもらわん事には何とも……」
「だから! あの事だよ!!」
「せやから、どの事を言うとるん?」
「なんでわかってくれないの!?」
「まず、わからせようとする努力をしてほしいんやけど……」
「はやての意地悪……」

一向に答えを返してくれない(本人主観)はやてに、ついにフェイトは眼をうるませてうなだれる。
もし一切の音声をオフにしていれば、はやてが何かフェイトを傷つけるような事を言ったようにも見えるだろう。
実際には、彼女は全く何も言っていないのだが。
ちなみに、そんな美しき執務官の理不尽な涙に心を動かされてしまう純真無垢な妖精も同情していたりするのは、さて誰にとっての幸運で誰にとっての不幸なのか……。

「ああ!? 泣かないでくださいフェイトさん!? もう、はやてちゃん!!」
「え? これ、私が悪いん?」

あまりに理不尽な展開に、ただただ呆然とするしかないはやて。
普段なら友人のボケにはしっかりツッコミを入れるのだが、その余地すらない。
振り回されるより振り回す方が好きなはやてだが、終始ペースが乱されっぱなしである。
まあ、これでは無理もないが…しかし、純粋無垢な妖精にはこれで何かが伝わるらしい。

「もう! フェイトさんがこんなに取り乱すことなんて、エリオやキャロの事に決まってるじゃないですか!!」
「あ、ああ、なるほど。言われてみれば、確かにそやね」

確かに、納得はいった。フェイトがこれほどまでに取り乱す(暴走する)ことなど、彼女が保護者を務めるあの二人の事以外にないだろう。
だが! 正直、あの状態でそれをくみ取れと言うのは無理難題にも程があるのではないか。
納得はいったが、非常に釈然としないものを抱くはやてであった。
しかし、そんなはやてを余所にフェイトはリインの小さな手を握り締めて感涙にむせぶ。

「リインだけだよ、私の事をわかってくれるのは!!
 なのはも、眼を白黒させるだけど『なに? え、なに?』って言うだけで……」
「むぅ、なのはさんまでそうなんですか? 友達甲斐のない人達です!
 折角フェイトさんが悩みを打ち明けていると言うのに、そんなことでは友達失格なのです!!」
(いやぁ、多分それが普通の反応と思うんやけど……なのはちゃんも、苦労してはるんやなぁ)

基本、フェイトは優秀な執務官で通っている。
それは間違いではないのだが、彼女もまだ19の乙女。公私両面において悩む事、躓く事は多い。
昔とった杵柄と言うべきか、妙な所でやせ我慢をするというか心を隠す所がフェイトにはある。
そんな彼女が包み隠さず胸の内を打ち明けてくれるのは、リインの言う通り自分たちや家族くらいのものだろう。
確かにその事は嬉しく思うのだが、これはいくらなんでも……と思わずにはいられないのは罪ではない。

「で、結局エリオとキャロがどないしたん? エリオがキャロにセクハラして気まずくなってるとか?」
「何を言ってるですか、はやてちゃん! 今問題なのはエリオの事で、キャロは関係ないです!!」
「そうだよ! それに、エリオがそんなことするわけないでしょ、はやちぇ!! ……噛んじゃった」
「あ、あぁ、その…なんや、あんま気にせんでええと思うで?
 せやから、体育座りして『の』の字書くのやめへん?」
「だって、だって……大事な所で……」
(カオスや……全く話が進まへん)

この年になって噛んだ事がよほどショックなのか、一転して鬱になるフェイト。
過去初めてと言っていいこのアップダウンの激しさに、はやてもついていけなくなってくる。
エリオやキャロの事に関しては暴走がちなのは知っていたが、まさかこれほどとは……。
長い付き合いのはやてとしても、戦慄を隠せない。

その後、必死の説得によりなんとか持ち直したフェイトから、ゆっくりと順序立てて事情を聴く。
そうして、なんでこんなに時間がかかるのかと思うほどの時間をかけて聞きだしたその内容は……

「つまり、フェイトちゃんより同室の人の前の方がリラックスしてるのに嫉妬しとると」
「べ、別に嫉妬とかそういうのじゃなくて……」
(アレが嫉妬やなかったらなんやっちゅうねん)

とは、思っていても口に出さないのが優しさと言うものだろう。
はやてはちゃんと空気を読む事が出来るのだ。
下手に茶化しても、話が進まない事だし。

「で、具体的には?」
「あのね、エリオって私にも敬語でしょ? 甘えてくれる事もほとんどないし……」
「その人には敬語つかっとらんの?」
「そういうわけじゃないみたいなんだけど……」
「敬語やけど、砕けてるちゅうことかな? シャマル…とは違うにしても」
「う、うん。ニュアンスはそんな感じ」

一口に敬語と言っても、そこに込められた感情や言葉遣いで印象は変わる。
敬う気がなければ慇懃無礼に、尊敬していれば堅くもなり、気を許していれば親しさが滲む。
フェイトに対しては二番目で、その男…兼一に対しては三番目なのだろう。
フェイトからしてみれば……

「この泥棒猫が! っちゅう気分?」
「う~~~、なんで? どうして? 私の何がいけなかったの? あの人にあって私にない物は何?
 どうすれば、どうすればいいの? リニス~、母さ~ん、アリシア~……うぅ~」
(愛が重いなぁ……)

惜しみない愛情を注ぐことができる、それは紛れもないフェイトの美徳。
だが、ここまで来るとそれが重いのではなかろうか。
しかもこの愛、ただ重いだけではないときた。

「それにそれに、一緒にお風呂も入ってるし!」
(あれ?)
「その上、一緒の布団で寝てたりするんだよ!?」
(あれれ?)
「川の字なんてずるい! 私だってまだやったことないのに!!!」
(………………………突っ込んだらアカン! 突っ込んだらアカン! これは罠や)

フェイトが寮に入ったのは昨日の深夜の筈だ。
その間にどうやってそこまで調べ上げたのか、考えるだけでも恐ろしい。

「ま、まぁ、同性やし子はかすがいっちゅうからな。
 白浜二士は子持ちやし、その子が上手く仲立ちになったんとちゃう?」
「子どもがいるとそんなに違うものですか?」
「うん、リインが産まれた時もそんな感じやったで」

とりあえず話題を逸らす意味もあって、適当な事を並べるはやて。
パッと思い浮かんだ事なので、実際にどうなのかは知らない。
少なくとも、リインの事で八神家一同の絆がさらに強まったのは事実なので、嘘は言っていないだろう。

「はやて」
「え?」
「それはつまり、その子をさらえと?」

唐突にとんでもない事を口走るフェイト。その眼は当然と言うのもおかしいが、据わっている。
あまりにもテンパリ過ぎて、普段の冷静な思考など彼方に消え去っているらしい。

「誘拐は犯罪やで、釈迦に説法の筈やけど」
「じゃあ、私が子どもを作れば!」
「え? まあ、そうなったらおめでたいし、エリオやキャロも一緒に喜んで絆も強くなるかも……。
 せやけどフェイトちゃん、相手おるん?」
「いないけど、そこは気合と根性で!!」
「そ、そういう問題とちゃうんやないかなぁ……一人で出来るもんやないし」
「大丈夫! 想像妊娠って言葉もあるし!! がんばってなの……」
「それ以上は割と危険やからやめような、フェイトちゃん」

かなり危ない事を口走りかける親友の口を、最高のタイミングで閉ざすはやて。
その気があるのではないかと疑われて早十年。
本人達は頑なに否定していたが、実は本当なのではなかろうか。
それくらい、二人の仲の良さは際立っている。
これでは、某フェレットがなのはにアプローチを仕掛けないのは、「フェイトに遠慮しているからだ」と言う噂の信憑性が五割増しだ。

「え!? 想像すれば赤ちゃんができるんですか、はやてちゃん!?
 もしや、リインが産まれたのも!?」
「いや、想像はあくまでも想像でリアルにはならんよ、リイン。ついでに、当然ながら私を含め、シャマルもシグナムもヴィータも、そしてザフィーラも出産経験はない事を断言しとく。
ちゅうか…………ボケ倒すのもええ加減にしぃや!! ボケに対してツッコミの数が足らんねん!!」

ちゃぶ台でもあればひっくり返しそうな勢いで怒鳴るはやて。
ボケに対する突っ込みは彼女も好む所、むしろドンと来いだが、さすがにこれは手に余る。
腕の良し悪しよりも、絶対的に手が足りない。

「そう言えばヴァイスは白浜二士達のとなり部屋だよね。どうなの、何かしらない!?」
「は? ああ、概ね八神部隊長の言った通りみたいっすよ」
「やっぱり、想像妊娠じゃ子どもはできないんですか」
「いや、そっちじゃなくて。チビ助が坊主を懐柔して、そこに滑り込んだ感じって事っすよ」
「と言う事は、下手するとキャロまで寝とられる!?」
「寝とられるって、ちょフェイトちゃん?」
「ズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよズルイよ」
「フェイトさん、可哀そうです」
「ウン、カワイソウヤネ、色々ナ意味デ。はぁ、気にせんとちゃきちゃき行こう」
「そっすね」

どうも、今のフェイトに何を言っても馬の耳に念仏らしい。
その事を悟ったはやてとヴァイスは、これ以上関わる事をやめる。ただし……

(とりあえず、白浜二士にはコツかなんか伝授してもらう事にしよ。
 せやけどなぁ、エリオ達はフェイトちゃんの事を尊敬しとるからこうなわけで……)

おそらく、伝授してもらったところで難しいだろう。
たぶん、兼一とフェイトのどちらが好きかとで言えば、二人とも間違いなくフェイトなのだ。
ただ、フェイトが彼女の望む位置には……………たぶん、ずっとたどり着けないだろう。
何しろ、二人にとってフェイトは恩人であり目標であり、いつか力になってあげたい人。
片や、兼一はいいとこ近所の親切なお兄さんかおじさん。これでは扱いに違いが出て当然だ。
全く以って、ままならないものである。

「ん? どなしたんやリイン?」
「あ、いえ。白浜二士で思い出したですが、な~んか見覚えがある様な気がするです」
「ふ~ん、同じ日本出身やし、そのせいとちゃう?」
「そうなのでしょうか?」

まだ釈然としないものがあるのか、リインの顔は浮かない。
その答えを知る人がいるとすれば、ミッドチルダにおいてはなのはしかいないだろう。



BATTLE 15「好敵手」



場所は戻って機動六課訓練場。
時間も惜しいので、やることが決まったのならさっさと進めるべき、と言うことで事態は早急に進んで行く。

「それじゃ、早速模擬戦を始めようと思うんだけど、準備とかはいいよね?」
「はい、大丈夫です」

なのはの問いに威勢よく答えながら、ギンガはリボルバーナックルやローラーブーツの具合を確認する。
一目見て相手が強いと言う事はわかっていた。なら油断なく、初撃から全力で行くべき。
彼女の師はそう言った事が苦手だが、ギンガはそれほどではない。
しかしそこで、意外な人物から待ったが入る。

「でもギン姉」
「どうしたの、スバル?」
「そんなマスク付けてて大丈夫なの? 風邪ひいてるならまた今度の方が」

そう言ってスバルが指し示すのは、ギンガの口元と鼻を覆う白い布。病人の証、あのマスクである。
スバルとしては今日は見学とかのつもりだったのだろうが、そうではないとなれば話は別。
病人に訓練、それも模擬戦などもってのほかだ。
そして、彼女の意見に同調する者も当然いるわけで……。

「そうですよ。私、ヒーリングもできますし、今日はゆっくり休んだ方が……」
「きゅく~」

そう言って一歩前に出るのは、鮮やかなピンク色の髪が印象的な子どもの竜を連れた少女。
少女の名を「キャロ・ル・ルシエ」、竜の名を「フリードリヒ」と言う。
アルザスという土地に住まう、竜召喚と言うスキルを保有する「ル・ルシエ」の少女。
それも、あまりに竜の加護を受け過ぎて里を追われたという程の。
だがギンガは、心配そうに見つめる面々に苦笑を浮かべながら手を振る。

「ああ、ありがとう。でも大丈夫。別に風邪とか病気ってわけじゃないから。これはね……」
「もしかしてそれ、やっぱり訓練?」

説明しようとするギンガにかぶさるように発言したのは、先ほどから興味深そうに見ていたなのは。
おそらく、彼女にはそれがどういう意図によるものかもすでにわかっているのだろう。
ただ、それがわかる者ばかりと言うわけではなく。

「それ、どういう事なんですか、なのはさん?」
「ああ、うん。結構簡単な理屈なんだけどね、マスクをつけて息をするのって大変でしょ?」
「はい……って、ああ」
「うん、そういうこと。息がしづらいのに動きまわれば、当然消耗も激しい。
 だけど、それに慣れて行けば体力もつくし肺活量も上がる、とまぁこう言うことだね」
『へぇ~』

ティアナ以下、なのはの簡単な説明でギンガがマスクをしているわけを理解する。
普通に生活している分には気にならないが、激しく動けばその負荷はかなりの物。
実際ギンガも、兼一からは実戦時以外はとるなと厳命されている。
二ヶ月も続ければ、そろそろ効果が表れ始めている頃だろう。

なのはが容易くその意図と目的を看破できた事自体は、驚くに値しない。
なにしろ、彼女の役職は「戦技教導官」。つまり、戦闘方面の指導者だ。
それもまっさらな新人を育てることではなく、より高いレベルの技術を身に付けさせることが役目。
必然、その教導内容には訓練校のそれより遥かに高度で複雑な物も含まれる。
時には他者が行う、ないし行わせる訓練から学んだり、取り入れたりする事もあるだろう。
そうなってくると、当然なにを目的とした訓練なのか分析する機会も多い。
むしろこれは、彼女にとって癖や習慣にも等しい。
そんな彼女だからこそ、一目であのマスクが何を意図してのものか看破できたのだ。

「どうする、付けてやる?」
「極力は」
「う~ん、私としてはギンガの意思を尊重してあげたいんだけど、せめてもう少し薄いのにしたら?
 さすがにそれだと危ないよ、酸欠になるかもしれないし」
『え?』

困った様に首を傾げるなのはの言葉に、新人達一同そろって声を挙げた。
マスクをつけている意図はわかったが、なのはの言を聞く限り「厚過ぎる」と聞こえる。
その意味が、彼女達に測りかねるのだ。見る限り、普通のマスクにしか見えないのに」

「あ、あはは、さすがなのはさんですね」
「そりゃみんなの教官だからね、これ位に気付けないと失格だよ」
「ねぇ、ギン姉、それってどういうこと?」
「ん? ほら、スバル」

不思議そうに尋ねてくる妹に対し、ギンガはおもむろに取り払ったマスクを渡す。
それを受け取ったスバルと、周りに集まる新人たちはしげしげと件のマスクを見つめる。
そして、すぐにスバルは気付いた。

「うわぁ、分厚い」
「ほ、本当に……普通の三…ううん、五倍はありますよ、これ。目も細かいし」
「あの、ギンガさん。さすがにこんなに分厚いと相当に」
「うん、物凄くし辛い」
「というかこれ、内側湿ってる気がするんですが……」
「きゅくる~……」
「ああ、少し水を含ませてるから」
『ええ!?』

今度は、ギンガを除く全員が驚愕の声を漏らす。
なのはですら、厚さには気付いても水の事には気付かなかった。
厚さだけならまだいいが、水も含ませてあるとなれば話が別。
それも当然の話で、ミッドのマスクはその技術力もあってごく薄だが、それでも五倍となれば相当な物。
その上水など含ませれば、最早それは拷問にも等しい息苦しさではないか。

「ちょ、ギンガ! それはさすがに……」
「あ、いえ。私も無茶だなぁとは思うんですけど、師匠命令でして……それに、慣れてくれば、まあそれなりに」
(師匠? ギンガの師匠って、お母さんだよね。その遺言って事?
 でも、このノリはまるであの人たちのような……)

そう、こう言う無茶な事をやらせる連中になのはは心当たりがある。
一般的な常識や理論を笑って無視し、非常識を常識とする頭のいかれた連中に。
自分の家族も同類と考えるとなんだか悲しくなるが……。

「ギン姉、さすがにそれは……」
「無茶、だよね?」
「うん」
「ギンガさん、それで模擬戦はちょっと……死にますよ?」
(実際、これで組手やると死にかけるんだけどね)

何しろ、ただでさえ組手中は徹底的に打ちのめされる。
その上これでは、さすがのギンガでも堪えるのは当然だ。
むしろ、今日までよくぞ生き残ったものだろう。

「はぁ、とりあえずギンガはマスクを取ること。さすがにそれで模擬戦なんて危ない事はさせられないよ」
「ですよねぇ……」

なのはの指示にはギンガとしても納得なので、特に異を唱える気はない。
なのはの気持ちもわかるし、その辺の事は古い知り合いらしい師に押し付けるつもりの様だ。
それに、出来るなら一切の縛りのない状態で戦ってみたいとも思う。
自分の見立てがどこまであてになるかは分からないが、付けたままで勝てるほど甘い相手ではなさそうだから。
しかしそこで、さらにコルトからも待ったが入る。

「待て…待ってくださいナカジマ陸曹」
「え?」
「それなら、服の下の物も取…ってください」
(気付かれた。観察力が高い証拠か……これは、厄介かな?)

長袖の上着を着て隠しているにもかかわらず気付いたコルトに対し、ギンガの警戒が高めた。
巧妙に隠した筈なのに気付かれたと言う事は、相手の眼力の高さを証明している。
強いだけでなく、見る目もあるときた。これは、中々に厄介な相手の証左だ。

「え? それってどういう?」
「そうだね、私もその方がいいと思うよ。
この先はともかく、今くらいは余計なものなしでやった方が良さそうだし。
ギンガも、それでいい?」
「はい」

そう言って、ギンガは上着を脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、あまりにも前時代的としか言えない代物。

『ぎ、ギプス?』
(はぁ、ますますノリがあの人たちみたいだよねぇ……何考えてるんだろ?)

唖然とする新人たちと、呆れてものも言えないなのは。
これでは、ますますあの連中と同じではないか。
その訓練の有効性は認めるが、このノリで他の訓練もしているとなれば、注意が必要かもしれない。
このやり方は、一歩間違えば故障どころでは済まないのだから。

そもそも、ティアナ達の手前敢えて口にはしなかったが、あのマスクにはスタミナ強化以外の目的もある事になのはは気付いていた。あのマスクに隠されたもう一つの狙い、それは「動きの最適化」。
動きに無駄が多ければ、必然的に消費する体力も増える。逆に言えば、無駄が少なければ動ける時間が増すのだ。
ただでさえ息切れを起こしやすいあのマスクをつけて動くには、スタミナの強化だけでは足りない。
動きの無駄を減らし、スタミナを長持ちさせる工夫が必要となる。

おそらく、平然と動けるようになる頃には、スタミナの強化と共に動きの最適化も進んでいる事だろう。
その上、スタミナがギリギリになっても動きが雑になる事もなくなる筈だ。
ギンガの段階ならそろそろそれに着手しても良い頃だとなのはも思う。
しかし、まだティアナ達には早い。彼女達は、もうしばらくは動きの基礎を固めるべきだ。
そう考えたからこそ、なのははこの目的にはあえて触れなかった。なにしろ……

(やっぱり危険なのは確かなんだよねぇ……ちゃんと見てくれる人がいるなら良いんだけど)

確かにギンガはそろそろこの段階に至っても良い頃だ。
ただし、これにはいくらかのリスクを伴う。よほどこまめに動きをチェックし直していかないと、無駄をなくすどころかおかしな癖をつけてしまいかねないのだから。
その意味では、正直独力でやっているとしたらやめさせた方がいいかもしれないとさえ思う。
まあそれは、この模擬戦での動きを見て判断すればいいと結論するなのはだった。

「他に付けてる物はないけど、これでいいかな?」
「ああ。早くやろう」

最早、敬語に言い直すことすら頭にはないのか、コルトの顔には好戦的な表情が浮かんでいる。
強い相手と戦いたい、と言うのは最早彼らにとっては本能と言っても良い物だ。
それが伝えているのだろう。この相手は、自分の力を存分に奮える相手だと。
そうして二人は、どちらからともなくビルを降りて模擬戦の準備に入った。



  *  *  *  *  *



ビル群の狭間に対峙する二人。
彼我の距離はおよそ二十メートル。
射撃型ならないも同然の距離だが、白兵戦に長ける者からすると少々距離がある。
そんな距離で二人は向き合う。

片や左腕に篭手とさえ呼べない様なゴッツイナックルを装備し、足にはローラーブーツを履いたギンガ。
片や手ぶらで突っ立っているコルト。
事情を知らなければ、これから二人が一戦交えようとしているなどとは思うまい。
仮にそれを知っても、ギンガが一方的にぼこって終わりに見える。

ギンガとしても、デバイスすら持たずに突っ立っているコルトには疑問がないわけではない。
だが、まだデバイスを展開していないだけと考えれば、別におかしなこともないだろう。
彼のデバイスに待機形態と瞬間装着の機能があるのなら、別に問題はないのだから。
そして、今回の審判役であるなのはの顔がモニターに映し出された。

「それじゃ、最終確認。今回はあくまでも手合わせって事だけど、制限時間は多めに30分。
 ギブアップか気絶、あるいは戦闘不能とみなしたら終了。二人とも、それでいい?」
「「はい」」
「うん。じゃ、二人の健闘に期待します」

それだけ言うとなのはの映像は消え、代わりにモニターにはカウントダウンの画面が映し出される。
これがゼロになったら開始と言うことだろう。
ギンガはその時に備えて構えをとり、コルトはゆっくりと右手を掲げ、中指にはまった指輪の名を呼んだ。

「ウィンダム、セットアップ」
【Yes,sir】

一瞬の深緑の閃光。
ギンガの考えていた通り、どうやら彼は自前で瞬間装着が可能なデバイスを持っていたらしい。
インテリジェンスかストレージかまではわからないが、先ほど交換した情報なら彼の術式はミッド式。

光が消えると、コルトの手には一本の翠色の杖。
それは凝った装飾などなく、シンプルなそれの長さはコルトの胸ほど。
訓練校などで配られる片手杖や長杖と違い、両端のどちらにも飾り気の欠片もない。
いっそ、アームドデバイスと言われた方がしっくりくるような代物だった。

「「……………」」

そのまま無言で向き合う二人。
その間にも、モニター上のカウントは刻一刻と減って行き、やがてその数は5を切った。

4、二人は申し合わせたように互いに深く腰を落とす。

3、大きく吐き切った息を改めて吸い込み、口を閉ざした。

2、身体を前傾姿勢にし、前足親指の付け根に体重を乗せる。

1、見つめるは眼前に立つ相手だけ。それ以外の全てを排除。

0、その瞬間………………………ギンガの姿が消えた。

(上か)

動じることなく、コルトはギンガの向かった先を眼で追う。
自身とは比べ物にならない速度だが、眼で追えない程ではなかった。
さすがにあんな『乗り物』にのっている相手と速度で競う気はないが、反応できない程ではないなら問題ない。

視線を上方に向ければ、そこには当然ながらギンガの姿。
空中には縦横無尽に紫色の帯状魔法陣が張り巡らされ、彼女専用の道を形成している。
少なくとも、これで制空権はギンガの物だろう。
そうして有利な立ち位置を占めたギンガは、ウイングロードを滑走し斜め上からコルトに迫る。

「はぁぁ!!」
「…………」

頭頂部目掛けて振り下ろされる鉄拳。
それを杖の突端で弾くも、即座に切り返し二撃目が顎を狙ってきた。
しかし、二撃目より早く杖の逆端がギンガの足元を払いに掛かる。
足を刈りとられる直前、ギンガはウイングロードを蹴ることでそれを回避した。

「とっ!」

コルトの頭上を飛び越える形で難を逃れたギンガは、空中で身体を反転させ蹴りを見舞う。
空中とは言え、重量のあるローラーブーツはそれ自体が凶器として十分成立する。
まともに食らえば、一撃で意識を絶たれても不思議のない一撃だ。
だがコルトはそれに対し、いつの間にか体勢を戻し頭上に向け突き放つ。

(一撃が重いな。下手に受ければ防御ごと潰されかねない…か)
(戻りが速い。これは、ちょっとやそっとじゃ崩せそうにないかな?)

僅かな攻防だが、それでも互いに相手の力量と性質を看破する二人。
そんな思考の間にも、蹴りと突きが正面から衝突し、ギンガは再度空中に身体を躍らせる。
大地を踏みしめている者とそうでない者の差だろう。

しかし、ギンガにとって空中は身動きのとれない無防備な空間ではない。
着地するよりも前にウイングロードを再展開し、コルト目掛けて疾走する。

「リボルバー……シュート!」
「しっ!」

牽制に放つ直射弾。コルトもまた事もなげにそれを撃墜する。
だが、その間に一気に間合いを詰めるギンガ。

想定以上の速さで接近したギンガにコルトも目を見張るが、そうしている間にもギンガの右拳が伸びる。
それを払いのけようと振るわれる杖。
しかし、伸びてきていた筈の右拳は突如軌道を変え、逆に杖を下方に反らす。
そうしてがら空きになった胴体に向けて、震脚を利かせたナックル付きの左拳が放たれる。

「ちぃっ!?」
(いける!)

まんまと乗せられた事に舌打ちするコルトと直撃を確信するギンガ。
同時にカートリッジが排出され、ナックルに搭載されたスピナーが唸りを上げる。
そのまま吸い込まれる様に重い一撃がコルトに迫り……

「させるか!!」
「っきゃ!?」

下方に反らされた杖を逆に利用しギンガの膝裏に滑り込ませ、一気に持ち上げることで体勢を崩す。
片足が浮き上がったことで必倒の一撃は虚しく空を切り、致命的な隙を晒すギンガ。

コルトもその隙を見逃すことなく、手首を中心に杖を回転させ勢いよく振り下ろす。
眼前に迫る杖。ウイングロードを展開しての回避は間に合わない。
即座に決断したギンガは両腕を交差し、同時にシールドも生成、その一撃を受け止める。

「くっ!?」
「まだまだぁ!!」

自信を持って生成したシールドは砕かれ、辛うじて交差した両腕でその一撃に耐える。
続いて放たれるのは、鳩尾・喉・眉間を狙っての三連撃。
一撃一撃が充分に魔力と力が収束された強打。
フロントアタッカーを務めるギンガは、当然バリアやシールドの堅さには自信がある。
だが、それでも迂闊に受ければ深々と抉ってくるほどの密度の魔力がその連撃には込められていた。

(心を乱さないで。落ち着いて、流れを読めば……)

散々叩き込まれた事を胸の内で反芻し、右掌に小さなバリアを構築する。
そうしている間にも杖の先端が迫るが、ギンガの瞳に動揺はない。
一見するとゆったりとした動きで右腕が流れ、三連撃の全てを真っ向から受け止めることなくいなしきる。

とはいえ、ギンガもこのまま防戦に回るつもりはない。
突きと共に伸びた腕を取り、着地と同時に背負い投げに入る。

「ぜりゃあ!!」
(なんつー握力だ、振り払えない!?)

投げへの不慣れもあって対処が遅れ、地面目掛けて叩きつけられるコルト。
辛うじて頭は守るも、背中から盛大に地面と激突する。
しかしその瞬間、ギンガは妙な感覚に囚われた。

(かなりの速さで落とした筈なのに、手応えが鈍い? いえ、疑問は後!)

奇妙な手応えの理由は定かではないが、元よりギンガにとって投げは決め技ではない。
彼女の力量では、まだバリアジャケットを纏った相手にそこまでの威力は出せないのだ。
手応えこそ妙だが、それでも今まさに相手は地面に倒れ無防備な姿を晒している。
ならば、その隙をつかない道理はない。当初の予定通り、無防備な敵に全体重を乗せた一撃を叩きこむ。

「おおおおおおおお!!」

渾身の力を込めた一撃で、『ゴドン』と言う鈍い音と共にアスファルトの地面が割れる。
巻き上がった砂塵が視界を埋め、ギンガとコルト諸共その姿を覆い隠した。



その様子をビルの屋上でモニター越しに見ていた面々は、ギンガの勝利を確信する。
アレほどの一撃、まともに受けて無事で済む筈がない。
仮に立ち上がれても、最早形勢不利は明らかなのだから。

「やった! やったよ、ティア~♪」
「だぁもぅうっさい上に暑苦しいのよ、このバカ!!」

歓喜のあまり飛び上がり、そのまま相棒に抱きつくスバルとなんとか引き剥がそうとするティアナ。
そんな二人を少しばかり羨ましそうに見て、続いて隣に立つパートナーと視線が合い慌てて逸らす初々しいエリオとキャロ。
ただ、数歩下がって見ていた眼鏡の少女シャーリーこと「シャリオ・フィニーノ」は、「みんな平然としてるけど、いくらなんでもやり過ぎなんじゃない?」と呟きながら顔をひきつらせている。

しかしこの場でただ一人、なのはだけは彼女達と見解が異なっていた。
皆、先の一撃が入ったと信じて疑っていない。だが、彼女は違った。

「喜ぶのは早いよ、スバル。まだ何も終わってないんだから」
「え? なのは、さん? だって、今のでもう……」
「そうですよ、あんなの貰ったら……」
「もらってたらね。でも、ギリギリで避けてるよ」
『ウソ!?』

なのはの言葉に、全員がそろって再度モニターを注視する。
まだ砂煙が収まっていないらしく、相変わらずモニターにはそれしか映っていない。
だが、今彼らが見るべきはそこではなかったりする。

「シャーリー、もう少しモニターを引いてくれる? 今のままだとコルトが映ってないから」
「へ?」
「モニターの外まで行っちゃったからね。よっぽどギリギリだったんだろうなぁ」
「わ、わかりました」

なのはに指示されるまま、シャーリーはモニターを操作する。
その操作に従いモニターが引いて行くと、やがて目当ての人物の姿が現れた。

「いつの間に、あんな所に?」

思わずシャーリーの口からこぼれたその呟きは、なのはを除いたその場にいる全員の思いを代弁している。
どう考えても、一瞬であの体勢からあんな場所に移動するなど不可能だ。
何しろ、コルトが今いるのは道路の端にある街灯のすぐそば。
先ほどまで道路のど真ん中で戦っていたのに、「いったいいつの間に?」と思わずにはいられない。

機動力に優れるスバルやエリオですら、地面に背中を預けた状態では無理と断言できる。
にもかかわらず、二人程の機動力がなさそうに見えるコルトは、実際にそこにいた。
その理由がわからず、釈然としない表情で苛立たしそうにティアナは呟く。

「いったい、どうやって?」
「気付かなかった? 投げられてる最中、バインドを伸ばして街灯に巻き付けてたんだよ」
「バインドって……」
「確かにバインドは拘束用の魔法だけど、使い方は他にもある。
 今回みたいに、何かに巻き付けてロープ代わりにするとかね。丁度、ティアナのアンカーガンと同じかな?」

その言葉通り、コルトは投げからの離脱ができないと分かるや、即座に手を変えたのだ。
バインドを伸ばし絡みつけ、ギンガの拳が届くより前に巻き取って離脱。
よほどギリギリの作業だったのか、全力で離脱した為にあそこまで移動してしまったらしい。
なのはに気付けて新人たちに気付けなかったのは、純粋に経験と術者としてのレベルの差だろう。

(それにしても、ギンガが投げ技を使うとはね。こっちじゃまずお目にかからないのに。
 しかも流れの組み立てもしっかりしてるし、ちょっと驚かされたかな)

口にこそ出さないが、なのはは心中でギンガの見せた戦い方に感心する。
投げは優れた技だが、魔導師相手にはあまり効果が望めず、その為ミッドなどの次元世界では廃れ気味だ。
実際、なのはの知る限りシューティングアーツやストライクアーツに投げや関節、締め技はない。
それを無理なく取り入れ、上手く活用している事は純粋に称賛する。

とはいえ、なのはは空戦Sランクを保持する優れた魔導師ではあるが、それはあくまで「射砲撃型」としての話。
彼女は断じて、格闘系の魔導師ではない。当然、専門外の分野への理解は万全とは言い難いだろう。
そんな彼女は、当然「投げ技」を含めた「白兵戦技」には疎い面があるのは否めない。

だがしかし、「格闘」が専門ではないとしても、格闘系の魔導士と戦う機会はある。
「敵を知る」事は戦闘の基本。ならば、専門外の分野へのある程度の知識と理解は欠かせない。専門外の技術を使う者と戦う時、適切に対処するために。当然、それには格闘も含まれる。

また、彼女も一人の指導者。それもその役職上、自分の専門分野以外の教え子の指導もせねばならない。
丁度、今担当しているスバルやエリオがそれに当たるだろう。
専門家には遠く及ばないが、指導するにあたって不都合がない程度には広範な知識と深い理解がある。
この辺はまぁ、プロとしての嗜みと言っていい。

故に、それらの分析や評価、及び解説が出来るのは必然だ。
むしろ、できない方が教導官として問題だろう。
なにしろ、そうでないと教え子に最適な指導に支障をきたす。

そんなわけで、専門外の分野の使い手であるギンガやコルトの評価・分析を怠る事はない。
そんななのはの後ろでは、エリオが先ほど見せたギンガの技量に感服していた。

「でも、ナカジマ陸曹もすごいですよね!
 特に、アヴェニス一士の連撃なんて、絶対手が間に合わないと思ったのに……」
「えへへ~♪」

最愛の姉であり尊敬する師を褒められる事が我がことの様に嬉しいらしく、口元がだらしなく緩むスバル。
そんな自分にティアナが視線を送っている事に気付いたのか、スバルはまたも抱きつこうとする。
ただし、向けていたのは「呆れ」の感情と視線だが、スバルは気付かない。
また、そう何度も抱きつかせる気のないティアナは、スバルの頭を手で押さえた。

しかし、スバルはスバルでそんな事は気にすることなくティアナに話しかける。
ティアナが素っ気ないのは今に始まった事ではない以上、この程度でめげるスバルではない。

「ねぇねぇ、ティアもそう思うよね!!」
「はいはい、そうね。わかったから、だきつくなっつーの!」
「いいじゃーん、減るもんじゃないし~」
「まぁ、ね。防御に限らず「え、無視!?」何て言うか…流れるような動きは本当にすごいと思うわよ」
「でしょ~♪」
「だから! べたべたするなって言ってんでしょうが!!」

一度は発言をスルーされた事にショックを受けるスバルだったが、顔を逸らしながらも同意するティアナに満面の笑顔を向ける。全く以って、子どもの様に表情がコロコロと変わる少女だ。
そんな二人を微笑ましそうに見つめながら、なのはは今ティアナが言った言葉を胸中で反芻する。

(さすがに、ティアナはいい所に目を付けるな。
 まだこの子たちには見えてないみたいだけど、ギンガの制空圏がしっかり見える。
 ギンガのレベルならできても不思議はないけど、独学かな? それとも……)

誰かから学んだか。別に、管理局内に制空圏の使い手がいないわけではないし、その可能性も充分あるだろう。
なのは自身、生来の優れた空間把握能力とたゆまぬ努力により、自身の間合い程度は正確に把握している。
制空圏の戦い方を身に付けるとなると話は別だが、どこからどこまでが自分の領域(制空圏)なのかを掌握する位は、優れた戦闘魔導師なら造作もない。
武術家にしても戦闘魔導師にしても、突き詰めればどちらも同じ「戦闘技術者」。
相互に共通する技術というのは、決して皆無ではないだろう。

あの攻防の中、ギンガがしっかりと制空圏を使ったのはほんの一瞬だったかもしれない。
だが、エースとして様々な戦場に立ち、教導官として数多くの人材を育成してきた彼女にはそれで充分だった。
なのはの眼には、ギンガがかなり高いレベルでそれを修めている事が一目でわかる。
あるいは、一目でわからせるほどの「仕上がり」と言うべきか。

(まだまだ動きに無駄が多いけど、二人とも筋がいい。
 新人たち同様、先が楽しみな素材だ。ねぇ、レイジングハート?)
《そうですね。昔のあなた達を思い出します》
(昔の私達…か。なら尚のこと、私の様にはさせたくないな。
 そのために、私はここにいるんだから)

自分はなぜこの場にいるのか、その意味を再確認するなのは。
彼女も入局十年になる中堅だ。その間、様々な経験をして来た。
先達の務めの一つ、それは自身と同じ轍を踏ませないこと。
それをもう一度深く戒め、なのははモニターに移るギンガとコルトに視線を移した。



トドメの一撃が外れた事は、無論ギンガとて良く分かっている。
だからこそ、地面を打ってすぐにコルトからの反撃に備えて構えをとったのだから。

ギンガは白兵戦に特化している。射撃系が全くできないわけではないが、打撃に比べれば貧弱の一言。
砲撃系などの高威力の魔法がないわけではないが、その射程は短い。スタイルこそ珍しいが、割と正当な近代ベルカ式を使う彼女やスバルは「遠距離まで威力を保たせる」事に向かない。

その点、コルトが操るミッド式は遠距離の魔法使用に長ける。
砂塵が消えるまでの間ギンガが動かなかったのは、下手に出て行けば狙い撃ちにされるとの判断。
さすがに、砂塵から出てすぐのところを狙い撃ちにされれば反応が遅れてしまう。
それならせめて、砂塵の中で狙いを定めない乱射から身を守っている方がマシだ。

必倒を期して狙い澄ました一撃と、適当な乱射。彼女としては前者の方が恐ろしい。
コルトが攻め込まなかったのも、適当に撃ったのでは無駄と判断したからだろう。
実際、倒す意思の宿らない適当な乱射など、撃つのがあの高町なのはでもない限りいくらでも防げる自身がある。
それよりも、問題なのは……

(脱出した方法はわかる。
でも、いつバインドを飛ばしたのか……いえ、そもそもそのバインド自体が見えなかった)

師ほどではないが、視力には自信があるだけに背筋に冷たい汗が伝う。
用途から考えるにフープやリングとは違う、チェーンバインドのようなタイプなのだろう。
ならば掌など体の一部か、あるいは自身の付近から飛ばした筈。

にもかかわらず、ギンガはそれが放たれた事に気付かなかった。
見落としたとは思えない。地面に叩きつけた際、コルトの全身を視界におさめているのだから。

不可視の、それも手近な所から飛ばせるバインドとは厄介だ。
リングやフープ、あるいはリストレクトロック等のバインドは、指定範囲内の対象を拘束する。
逆に言えば、事前に察知し指定範囲から出てしまえば基本的にはそれで終わり。
中には自動追尾型の設置型バインドもあるにはあるが、それはよほどバインドに長けた者だけの特権だ。
だが、チェーンバインドなどは飛ばした後の操作が比較的容易。
それはさながら、密林においてどこから牙をむいてくるかわからない蛇に似る。

その上、まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで風が吹き、濛々と立ち込めていた砂煙を吹き散らす。
視線の先には、鋭く冷たい眼差しを向けるコルトの姿。
バインドを使っているのか否か、その姿からはやはり判断できない。

(これは、ここから先一瞬たりとも制空圏を解除できない。
 眼に頼らず、間合いに入った物だけに対処する制空圏ならいける筈)

深く息を吐き、強く気を張り制空圏を築くギンガ。
視覚が情報の大半を占める人間にとって、「見えない」と言うのは「自分からは届かない」に匹敵する最も厄介な攻撃の一つ。実際、少し前の彼女なら対処できなかった。恐らく、気付く間もなく拘束され終わりだったろう。

しかし、今は違う。
今なら、例え死角から攻撃されても自然と体が反応してくれる。
『見えない』と『死角からの攻撃』は別物かもしれないが、それでも自信があった。
それだけの物を、積み上げてきたという自負がある。
と考えたその瞬間、ギンガの身体は弾かれた様にその場を跳びのく。

(これは、まさか!?)

背後から這い寄り、飛びかかってきた何かを咄嗟に左腕で払い落す。
だがそれは左腕に触れた瞬間、コルトに向けて強く身体が引っ張られた。

(確かに弾いた筈なのに!? 違う。心を深く、静かに沈めて……)

危うく驚愕に揺れそうになる心を呑み込み、静の気を練るギンガ。
同時に大地を踏みしめ、強く引っ張る力に抵抗する。
冷静な思考を取り戻し眼を凝らせば、それの正体が姿を現した。

「これは……糸?」

左腕を強く引く物の正体、それは淡く深緑の輝きを宿す極細の糸状バインド。
そこでギンガは理解する。「不可視」なのではなく、単純に「細すぎて見えなかった」だけなのだと。
何しろそれは、何本も絡まることでようやく見えるほどに細い糸。恐らく、一本程度ではまず視認できない。
できるとすれば、それこそ彼女の師匠の様な人外の視力の持ち主くらい。
あるいは、突出して優れた魔導師なら視覚以外での感知もできるかもしれないが……。

しかし、それでは払い落せなかった事が納得できない。
見えなかったとはいえ、確かにギンガはその存在に気付き反応した。
魔導士としてではなく、武術家としての技術で。
にもかかわらず、それはギンガの腕に絡みついたのだ。その原因は……

(粘着性がある、これじゃまるでクモの糸ね)

まるで糊かテープの様にへばり付く糸、確かにこれでは払い落す事などできはしない。
触れれば捕まる以上、対処法は回避の一点。その意味で言えば、ギンガは対処を誤ったとも言える。

ただ、ベルカ式のギンガとミッド式のコルト。
力勝負の引き合いになってどちらが有利か、論ずるまでもないだろう。
体重では身長で勝るコルトだろうが、しっかり踏みしめられる足場があり、その不利を覆すだけのパワーがあればその限りではない。
故に、ギンガはウイングロードを垂直に展開し、それを足場に踏みとどまった。

「ちっ」
「惜しかったわね、もし踏ん張るのがもう少し遅かったら完全に体勢を崩していたかもしれない。
 だけど、こうなったら私の方が有利よ!」

絡め取ったのは確かにコルトだが、逆に引き寄せているのはギンガだ。
コルトもバインドの起点となっている杖…ウィンダムを引くが、力及ばず徐々に引き寄せられている。
ここにきて、基礎体力と術式の違いがもろに出た形だ。
だが、このバインドに関する理解において、ギンガはコルトに到底及ばない。

「確かに、力比べになれば俺に勝ち目はないな、ゴリラ女め」
「だ、誰がゴリラですか!!!」
「だがな、この『アリアドネ』はお前が思っている以上に……」
(う”ぅ~、年頃の女になんてこと言うのよ、この人は! でも、『アリアドネ』それがこのバインドの名前?)
「脆いぞ」
「は? 『ブチッ』って、ウソ!?」

失礼な事を言うコルトの不機嫌な顔面を一発ぶん殴ってやろうと、一際強く引いたその瞬間だった。
呆気なくアリアドネと呼ばれたバインドは千切れ、ギンガは体勢を崩す。

考えてみれば当然の話で、あんな細いバインドの強度が優れている筈もない。
恐らくは一本目を足掛かりに、束ねたり複数本を絡めたりすることで相手を拘束する魔法なのだろう。
はじめはコルトもそのつもりだったのかもしれない。
しかし引き合いになった時点でそれを捨て、この瞬間を待っていたのだろう。

コルトはその絶好の隙を逃すことなく、一気に詰め寄り渾身の力で突く。
とはいえ、徹底的に足腰を鍛え直されているギンガだ。
ウイングロードに着地すると即座に体勢を立て直し、リボルバーナックルで高めた魔力で拳の全面に硬質のフィールドを生成。そのままウイングロード上を疾走し回避、今度はコルトの背後に回り込む。

だが、コルトの戻りの早さはかなりの物。
突きからそのまま払いに転じ、真後ろをとったギンガを殴りつける。
ギンガもまた、身体の捻転を最大限に利用しそれを迎え撃つ。

「………なるほど、武器破壊か」
(そんな、このタイミングで芯を外された!?)

フィールドごと衝撃を撃ち込む打撃魔法、ナックルバンカー。
近接攻撃へのカウンター使用で、受け止めると同時に対象の武器や攻撃部位にダメージを与える。
瞬時の判断が必要となるため、技の難易度は高い。

だが、絶対の自信を持って合わせた武器破壊のカウンターを、コルトは寸での所で芯を外した。
アリアドネと良い、あんな性格をしておいて意外と芸の細かい男である。

いや、芸が細かいと言うのなら、その本領はこれからだったのかもしれない。
武器破壊は回避したとはいえ、それでも杖を伝って受けた衝撃は生半可なものではなかったのだろう。
一瞬の手の痺れと共に止まった動き、それをギンガは見逃さず、右手で杖を抑え込み左拳で今度はコルトの脇腹を狙う。大地を揺るがすほどに踏み込んだ足、その力を増幅させるべく腰と背筋が緻密に連動し、凶悪なまでの力が鉄拳に注ぎ込まれていく。

(打撃系の真髄は一つ、出力も射程も防御も強さも関係ない!
 相手の急所に正確な一撃、ただそれだけ!!)

展開される5枚のシールド、しかしそれらは意味を為すことなくガラスの様に澄んだ音を立てて砕け散る。
咄嗟だったからか、それとも元々出力が高くないのか。
いずれにせよ、これでコルトを守る物はなくなった。

さすがに腕二本が揃っていれば右手から杖を振りほどく事は出来た様だが、致命的に遅い。
どれほど杖の戻りが速かろうと、絶対に間に合わない。
しかし、ギンガを阻もうとするのは何もシールドや杖だけではなかった。

制空圏を犯す感覚が全身を支配する。
だが最早拳は止められず、今更迎撃に転ずる事も出来ない。
その間にも制空圏を犯される感覚は、身体に絡みつく違和感に転じる。

その正体は……………………またもアリアドネ。
全身に糸状の極細バインドが絡みつき、ギンガの動きを阻害した。しかし……

「しゃらくさい!!!」
「ごふっ!?」

身体に絡みつく数十にも届くアリアドネの全てを引き千切り、渾身の左拳を叩きこむ。
完全に拳は振り抜かれ、まるで妨害などなかったかのようにその佇まいは威風堂々としている。
こう言うと大層立派に聞こえるが、実際にはとんでもない力技なのだが……そこは置いておこう。

制空圏に触れるまで気付かない程に細いアリアドネ、その代償である脆さが裏目に出た形だ。
もし、通常のバインドほどの強度があったのなら、ギンガでも振り抜く事は出来なかったかもしれない。

だがそれは、ない物ねだりと言うものだろう。
コルトの魔導士としての最大の弱点、それは出力の低さだ。
魔力自体はそこそこの量がある。それこそ、量だけなら隊長陣を除けば上から数えた方が早い。
だが、それを一気に大量に扱う事が致命的に苦手なのである。
それこそ、力で押すタイプは心底苦手な程に。

何しろ強力な身体強化、あるいは大出力の砲撃、もしくは全てを撥ね退ける盾、どれもコルトには望めない。
好むと好まざるとにかかわらず、彼は自身の魔力を小出しにしか使えないのだ。
多層のシールドも、幾本も束ねねば強度を得られないアリアドネも、全てはそれが原因。

その分、持久戦や細かなコントロール、そして一点への収束には長ける。
実際、出力では遥かに劣っているにもかかわらず、ギンガのシールドをも容易く貫く程に。
ギンガの様に破壊力が高いのではなく、コルトは貫通力が高いのだ。

とはいえ、それも当てなければ意味がない。
当てたのはギンガで、コルトではないのだから。
ギンガなら、充分コルトを一撃で沈めることができる。
だというのに、「残心」以上の確信を持ってギンガは油断なく構えを取り続けていた。

(まただ、また、手応えがおかしかった。確かに捕らえた筈なのに、防御魔法は全て貫いたのに。
 なのに、沈めたっていう手応えがない。それどころか……)

ほんの僅かだけ、今の自分の状態を顧みる。
クリーンヒットは一撃も受けていない。にもかかわらず、今のギンガはボロボロだった。
正確には、その身を包むトレーニングウェアが、だ。

服のいたるところが裂け、出血こそないがその下の白い肌に赤い線が刻まれている。
まるで、切れ味の鈍い刃物に切り付けられたかのように。

(原因は…………アリアドネね。てっきり粘着性の高い魔法だと思ってたら、こんな事もできるなんて……)

先ほども述べた様に、コルトはその性格に反して芸が細かい。
単にそれは、彼の資質がそれしか許さなかったという事だが。
それはともかく…恐らくは、お得意の収束で魔力の密度を上げていたのだろう。
それだけではこうはいかない筈だが、その答えは本人の口からもたらされた。

「別に、アリアドネに粘着性しかないとは言っていないぞ。
 今回は高摩擦に設定した、だから無理に引きちぎれば服や肌が切れる」
「捨て身の反撃…ね。思い切りの良い事だけど、他にどんな設定があるのか、教えてくれないかな?」
「今のアンタは敵だ。終わったら教えてやらん事もないぜ」

言っている事はもっともだが、どうせこの性格では全てを教えるとは思えない。
戦いながら探っていくしかないが、問題はどうしてコルトが立っているのかだ。

「俺が立っているのが、そんなに不思議か?」
「……そうね、確かに不思議よ。ちょっと、自信を無くしそう……」
「そうか。だが、俺はまだまだ倒れる気わけにはいかないな。
 どうせやるなら、あんな玩具より人間の方がやりがいがある。アンタはそうは思わないのか?」
「腕試しをしたい気持ちは分かるけど、バトルジャンキーの気はないわ」
「失礼な事を言うな。別に戦いが好きなわけじゃない」

意外と言えば意外で、身の程知らずと言えば身の程知らずな発言に、一瞬硬直するギンガ。
その瞬間の表情は、ある意味とても間の抜けたものだったろう。
しかし、大急ぎで心を立て直したギンガは、心底いぶかしむような表情で問うた。

「は? あなたがそれを言うの?」
「他の連中が俺をどう思っているのかは大体わかっているつもりだが、それは違うぞ。
 強くなる為に戦っているのであって、他意はない。強くなれるのなら方法なんてなんでもいい。
 瞑想すれば強くなれるのならする、金や人助けで強くなれるのならそれをするさ。
 ただ、より大きな危険に身を晒した方が強くなれる、だからこうしているだけだ」
「……一つだけ聞かせて。なんで、そんなに強くなりたいの?」

口からこぼれたのは、心からの問いかけだった。
いっそ、無節操と言っても良い強さへの執着。
力や強さを求める気持ちはギンガにも理解できるが、それでもコルトのそれは異常と言うより妙だ。
理由は良く分からないが、どうしても引っかかりを憶えてしまう。

「強くなりたい、その理由は何なの?」
「……………さぁな」
「え?」
「昔は理由があったのかも知れんが、もうない。ただそれを始め、今はもうそれしか残っていない。
何より、生き物は生きている限り進み続ける、前進をやめた命に価値はないからな。だから、それだけだ」

その顔をさらに不機嫌そうに歪め、吐き捨てるコルト。
だがその瞬間、ギンガは彼の眼の奥にかすかな揺らぎを見た気がした。
しかしそれを確かめる、あるいは考える時間は与えられない。

「お前は強い。いい具合に俺と同等なのがまた最高だ。
 お前となら、もっと上に行けるだろう」

明確に視認こそできないが、何度も受けたことでなんとなく分かった。
ウィンダムから幾本ものアリアドネが展開され、同時にウィンダム自体の先端の魔力も密度が上がっている。
アリアドネに一体どれだけの設定が存在するのか定かではないが、高摩擦設定とやらは充分脅威たり得るだろう。

師の下に弟子入りして、初めての難敵。
今持つ全てを費やさねば勝てないであろう敵に、心が湧きたつ事を自覚するギンガ。
甚だ不本意だが、培った全てを注ぎこめる現状は確かに充実していた。

「………………………………あんまり嬉しくないけど、その点は同意するわ。
 確かにあなたは強くて、そう簡単には勝たせてくれない。
 だから、私も全力で行く!!」

言葉と同時に、ローラーブーツが唸りを上げて回転する。
コルトもギンガの動き、その一挙手一投足に意識を向けていた。
ギンガ相手に無傷での勝利はあり得ない。故に、身を捨てでも勝つ覚悟を決めている。

もう強くなる事に理由など覚えていないし、負けられない理由もこれと言って思いつかない。
死ぬなら死ぬでそれまでだったと考え、麻薬や密輸品の取引現場に単身殴りこんだ時は本当に死にかけた。
もちろん、反省も後悔もしていないが。

とはいえ、生来の負けず嫌いな性格は変わらない。
上位者に勝てないのは仕方がないが、「負けても良い」と思った事は一度もないのだから。

そして、どんな動きの初動も見逃さぬとばかりにギンガを睨み、いつでも迎撃できるよう備えるコルト。
一撃はくれてやる、その代わりに倒す。そんな、強い意志の光を瞳に宿して。
しかし実際には………………………………気付けば眼前までの進行を許していた。

「はぁっ!!」
「っ!?」

懐に潜り込まれながらも、辛うじてギンガの肘を杖で受け止めるコルト。
だが、その心中は穏やかではない。
制空圏こそ修めていないが、コルトもギンガと同じステージにいる。
瞬きすらも惜しんで注視していた筈の敵に、こうまで容易く間合いに入られるなどあり得ない。

(瞬間移動か!? ……………いや、あり得ない。だがどうやって?)

一瞬、短距離瞬間移動の可能性が脳裏をよぎるが、即座に否定する。
確かに、白兵戦型にとってはこれ以上ない程凶悪なスキルであり、修得したいと思う者は掃いて捨てるほどいる。
しかし、コルトはコンマ一秒たりともギンガから目を離していないし、見失ってもいない。
瞬間移動なら一度は姿を見失う筈なのだから、この可能性は除外して当然だ。

だが、それなら今度は理由が思い浮かばない。
幻術による距離感の幻惑と言う可能性もあるが、相手がベルカ式である事を考えると可能性は皆無に近い。
とはいえ、あまり悠長に考えている時間はない。
無手の者にとって、武器使いの懐は最高の立ち位置。ここで畳みかけるのは当たり前だ。

「もう一つ!!」

左の肘に右手を添え一気に押し上げ、左の掌底が顎をかちあげた。
首がもげそうにすら思える衝撃に辛うじて耐えながら、尚もコルトは防御ではなく攻撃に打って出る。
攻撃を受けながらも器用に放った薙ぎで、ギンガの体を横に流れた。

しかし、即座に立てなおしたギンガはそのまま追撃に出る。
辛うじて反撃した程度では、ギンガの歩みを止めるには足らなかったのだ。
重く堅い鋼鉄の凶器を備えた左の拳が、左右の脚が、最短距離を奔ってコルトを襲う。
何かのスイッチが切り替わったのか、その動きは先ほど以上に洗練されていた。

これには、さしものコルトとしても反撃の足掛かりがない。
なんとか杖で防ぎ、アリアドネで妨害するがそれも焼け石に水。そう長くは保たないだろう。

先手を取られ、主導権を持って行かれたのがつらい。
捨て身に出る事自体はいいのだが、反撃する前に沈められかねないのでこれも却下。
一時的な離脱も、この猛攻の中では難しいだろう。
とはいえ、ここまでの攻防でコルトもだいぶギンガの傾向を理解してきていた。

(左拳と両脚は厄介だが、狙い所は右拳。他に比べれば軽いし、ナカジマも牽制や防御位にしか使わない)

仕方のない話ではあるし、見たままでもあるが、ギンガのスタイルは左拳での攻撃を中心に組み立てられている。
決め手はあくまでも左拳、あるいは腕の三倍の力があると言われる脚、それもローラーブーツ付きの蹴りだ。
リボルバーナックルやローラーブーツを装備している関係上当然と言えば当然だし、これはスバルにも言える事だが、どうしてもそれらを装備していないギンガの右、スバルの左は軽い。威力もそうだが、印象もだ。
はっきり言ってしまえば、怖くない。少なくとも、リボルバーナックルで殴られるより遥かに。

仮に両腕の筋力と練度が同じだとしても、リボルバーナックルがある分威力は左に分がある。
なにしろ、リボルバーナックルともローラーブーツもかなり重い。重いと言うのは正されだけで脅威だ。
ならば、無意識のうちにそちらに頼ってしまうのは人の性。
スバルに比べればギンガの右は威力があるのだが、やはり主力には及ばない。

(まともに受ければ右でも脅威だが、多少の被弾は『クッション』があれば問題ない)

狙い所決めたコルトが敢えてギンガの右を受けると、ギンガの顔が一瞬悔しそうに歪む。
彼女もコルトの狙いに気付いたのだろう。
しかし、その瞬間にコルトはその場から大きく跳び退き距離をとる。

そのまま着地と同時に地を蹴り、今度は自分が先手を取るとばかりに接敵しようとするコルト。
だが、その狙いは再度外されることとなる。

「させない!」
「ちっ、またか!!」

コルトを追いかける様にして、ウイングロード上を走るギンガの接近をまたも許してしまう。
今回も先ほど同様、コルトは一瞬たりともギンガから目を離していない。
にも関わらず、ギンガは当たり前の様にコルトの間合いに入ってくる。

顔面と腹部を狙った諸手突きを止め、突き放そうと鳩尾に蹴りを放つ。
だがそれは身を屈めたギンガに逆に取られ、立ち上がる力を利用した『朽ち木倒し』で後頭部から転倒する。
辛うじて杖を基点にバク転し事なきをえるも、その心中は穏やかではなかった。

(これは、いったいどんなからくりだ! 必ず理由がある、それは何だ!!)

苛立ちと共に胸の内で何かが沸々と沸騰する。
それをなんとか抑えながら、ギンガが何をしているか考えるコルト。
しかし、今の状態に疑問を持っているのは何もコルトだけではない。

「なんだかアヴェニス一士、途端に不利になりましたね」
「そうだね。まぁ、見たことない技は使ってるけど……」

突然の戦況の変化に、疑問を口にするエリオと同じく首をかしげるスバル。
妹である彼女にも、なぜ突然ギンガが有利に事を進める様になったかわからない。

「そうね、確かにギンガさんが移動中に特別な事をしてるようには見えないし……チビッコ、アンタどう思う?」
「えっと……もしかして怪我でもしてるんじゃないでしょうか?」
「その可能性はあるわね。でも……」

キャロに話を振りながらも、どこか釈然としない様子で顎に指をあてるティアナ。
確かに怪我をしたとすれば納得はいくのだが、それにはしては……。
そんな彼女の考えを裏付ける様に、なのはが問いかける。

「怪我をするような場面はなかった。でしょ、ティアナ」
「ぁ、はい。動きが悪くなったと言うよりも、反応がずれてると言うか……なのはさんは、わかりますか?」
「まぁ、なんとなく『これかな』っていうのはあるよ」
「ほ、ホントですか!?」
「うん」
「それって何なんですか!!」

なのはのあまりにも平然とした返事に、思わず色めき立つティアナとスバル。
しかし、それが何か気になるのは他の面々も同じで、なのはに問いかけるような視線が集中する。

「空戦型とかだと、割とよくある手なんだけどね。
慣れているか、よっぽど空間認識力が高くないと初見での対処は難しいかな?」
「それって、飛行と関係が……」
「でも、ギンガに飛行適性はないでしょ?」
「あ、はい」
「まぁ、よく地に足付けてやれるなぁ、とは思うよ」

畳みかけるような新人たちの問いかけに、なのはは苦笑しながら答える。
実際、ギンガがやっている音がなのはの考えている通りなら彼女としても感心するしかない。
地に足を付けない空戦型と違い、ギンガは凸凹の地面を奔っている。
にもかかわらずやってのけるなど、そう簡単にできることではないのだから。
まあ、だからこそ地面と平行に移動するときでも、凹凸の少ないウイングロード上を奔る事が多いのだろうが。

「簡単に行っちゃうとね、ギンガの頭も体も全然ぶれてないんだよ」
『ブレて、ない…ですか?』
「そう、揺れないから目が錯覚を起こして動いてない様に見える。だから、気付くと距離が縮められてる。
 走るって言うよりも、スライドしてるって言った方がしっくりくるような移動技術だね」
『はぁ……』

イマイチ理解が及んでいないのか、返ってくる返事は曖昧だ。
その事に、なのはは「まあ実際見てみないとわかりにくいよね」と漏らす。

空戦型の場合、相手の視線に対して真っ直ぐに進む事が出来るので比較的容易だ。
しかし、これが陸戦型だとかなり難しい。
地面の凹凸や関節の稼働で、どうしても頭や身体が上下する。
その振動をギンガは匠かつ柔らかな膝の動きで吸収し、身体の上下運動を最小限にとどめているのだ。

ウイングロードやローラーブーツの特性を考え、こう言った事も出来る筈と兼一は考えた。
柔術の繊細な膝の使い方、あるいは空手の身体操法など。
それらを利用し、主に下半身をサスペンションとして使って上半身の揺れを最小限にする。
普段、ギンガの肩の上でやっている地蔵お手玉は、その訓練の一環だ。

とはいえ、ギンガと対峙しているコルトはそのからくりにまだ気付いていない。
だが、それでも最初の様に意表をつかれる事は減っていた。

「つあ!!」
「しっ!!」

正面から衝突する拳と杖。
互いにその反動を利用し一端距離をとるも、やはり即座に接近してくるギンガ。
コルトの反応は僅かに遅れるが、それでも懐に入られる前に拘束の払いを放つ。

(厄介な移動術だ。中々タイミングが読めない)
(やっぱりだ。まだ少し遅いけど、反応してくる!)

払いを掻い潜りながら、ギンガは断定する。
しかし、そのまま一気に懐に飛び込もうとするも、勢いを増した杖が再度襲い掛かった。

シールドも回避も間に合わないそれを、ギンガは敢えて受け止める。
鍛え抜かれた足腰でその場に踏みとどまり、コルトの胸を右の肘で打ち抜かんと振り抜く。

「そう何度も……」
「なら、いくらでも!」

初撃は防がれた。だが、続いて振り下ろされた左の肘が防御を崩す。
それどころか下から打ち上げた右肘が体勢を崩し、コルトを死に体にする。
そして……

「拳槌打ち!!!」

上方から充分な勢いをつけた左拳が振り下ろされた。
『ティー・ソーク・トロン』から始まり、『ティー・ソーク・ボーン』『ティー・ソーク・ラーン』の多彩な肘打ち、そして空手の『拳鎚打ち』へと繋がる兼一が得意とするコンビネーション。

だが並みの相手なら、充分撃沈できるだけのそれを受けたにもかかわらず、尚もコルトは立ち上がる。
頭を打たれた衝撃でややふらついてはいるが、それでも倒れない。
とは言え、その理由も既にギンガにはわかっている。

「……気付いたか」
「ええ。さっきから感じてた妙な手応え、その正体は……アリアドネに高い伸縮性を持たせた、違う?」

ギンガの問いに、コルトは口角を僅かに釣り上げることで答える。
糸状バインド、アリアドネには様々な設定が存在し、その一つが「高伸縮性」。
それを利用し、ギンガの打撃の威力を吸収したり、投げ落とされる際に自身の身体を受け止めたりしていたのが奇妙な手応えの正体。これこそが、コルトの言うクッションだ。
そんな緩衝材があっては、確かに充分な威力が出せないのも当然だろう。
とはいえ、何も手札を残していたのはコルトだけではない。

「そう言えばあなた、さっきから私の右をほとんど避けないのね」
「それがどうした? アンタの右は軽い。覚悟さえしておけば、耐えられるから避けないだけだぞ。
 右を捌いて隙を見せる方がバカらしい」
「ええ、わかってるわ。だから、先に言っておこうと思って」
「?」
「知ってる? 『軽い』事と『弱い』事はイコールじゃないのよ」

ギンガの構えが変わった。
それまで以上に腰を低く落とし、握りこまれていた拳が開かれる。
空手では『猫手』と呼ばれる、完全には伸ばさず僅かに曲げられた手。
その右手を腰の左側に持って行き、さらに左手を鞘の様に添える。

その型には、コルトも覚えがあった。
いつだったか、彼に『戦い方』を教えた近所に住んでいた老人が見せてくれた構えに似ている。

(まるで、居合の構えだな。だが、どういうつもりだ?)
「アリアドネを使うのなら使いなさい。打撃を吸収するのなら、斬り裂くだけよ」
「何を言って……」

コルトが言いきるより前に、ギンガは疾駆する。
それまで同様、接近を察知し辛い独特の移動。
だが、だいぶ慣れてきた事もあり即座にアリアドネがギンガに伸びる。
あの構えから想定される攻撃は少なく、起点は間違いなく右。

(軽いと言われたことで頭に血が上ったか? だとすれば、期待はずれだ!!)

右腕を中心に高伸縮に設定されたアリアドネが伸びて行く。
どんな打撃にせよ勢いは殺され、その隙を突く準備は万全だ。
そう、勢いを殺す事が出来たのなら。

「へあっ!!!」
「がっ!?」

コルトの予想に反し、放たれた一撃は終始鋭いまま。
受け止めるべく張り巡らされたアリアドネは、ギンガの言葉通り、すべて無残に切り裂かれていた。

激痛が脇腹から肩にかけて宿り、トレーニングウェアも引き裂かれている。
まるで、本当に刀で切られたかのような錯覚すらした。
それに比してダメージも大きく、コルトは荒い息をつく。身体から血が噴き出していないのが不思議なくらいだ。
ギンガはそんな彼を静かな眼差しで見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「技の名前を教えてあげる。師匠はこれを、『劣化 相剥ぎ斬り』と呼んでいたわ」
「どういう、腕の構造をしていやがる……」

手刀を受けた箇所を抑え、呻くように問うコルト。
そんな問いに対し、ギンガはどこか陰のある微笑みを湛えて答える。

「硬功夫と言うそうよ。基礎の一環だけど…長ずれば、完全な素手で瓶を切る事もできるわ」
「本当に刃物かよ……アンタの腕は」
「まだそこまでじゃないけど……いずれはそうなるんでしょうね、あの人に学んでいれば。
 まぁ、伊達に毎日砂鉄袋を叩いてないわ」

実際、今のギンガの硬功夫などたかが知れている。
しかしそれも、魔力による強化を施せばその限りではない。
魔力で強化し、魔力を圧縮して放った一撃はかなりのもの。
それは、コルト自身が身を持って証明していた。
だがここに一人、その名を聞いて心中穏やかではいられない者がいる。

「相剥ぎ斬りって………なんで、ギンガが?」
「あの、どうかしたんですか、なのはさん」

驚愕を露わにするなのはに、背後からシャーリーが問いかける。
しかし、今のなのはにそれに答える精神的余裕はない。
彼女はこの名に覚えがあった。昔、もう何年も会っていない家族の友人が使っていた技。
それをなぜ、彼とは無関係の筈がギンガが使うのか……なのはの疑問も当然だろう。

「あなたの言う通り、私の右は軽い。だからその分、私の戦い方は単調だった。
わかってはいたし、右も鍛えてはいたけど、どうやっても左ほどの重さは得られないと諦めてた所もあったわ。
でもね、別種の武器なら話は別だったのよ!!」
「それで『重さ』ではなく『鋭さ』、鈍器ではなく刃物にしたってわけかよ」
「そういう、こと!!」

再び放たれる手刀。袈裟がけに振り下ろされたそれを、コルトは杖でいなす。
だが手刀を受けてがら空きになった胴に、今度は左の鉄拳が迫っていた。
それを辛うじて防いでも、今度は鋭利な手刀が二閃、三閃される。

リボルバーナックルがないため、右は軽く……その分早い。これが中々に厄介だ。
確かな威力と手数の多さを両立した右と、相変わらず一撃必倒の威力を宿す左。
今やその両方が本命であり、必要とあらば牽制や防御もする。
そもそも、攻撃の質が違うせいで同じ要領で防御することもできない。

生半可な武器を装備した程度では身を焼くだけだが、これは違う。
右に搭載された新しい武器が、ギンガの戦い方の幅を広げている。
その上、左右のバランスが取れたことで左自体の威力も上がっていた。

なにより、硬功夫を行ったのは右だけではない。
その事を証明するように、振り抜かれた左拳が重々しい音と共にビルの壁を粉砕する。

「ちぃ、鈍器っつーよりもう大砲だな、アンタの拳は!」
「硬功夫は身体を鋼の様にする鍛錬法、これくらいはできて当然よ!!」

文字通りの鉄拳が、コルトを果敢に攻め立てる。
打撃の威力を殺せるアリアドネも、右の手刀で切り裂かれてしまう為にあまり意味を為さない。
挙句の果てに、上半身に意識を裂き過ぎればローや膝蹴りが襲ってくる始末。

(認めるしかないな。杖術では、確実に分が悪い)

高摩擦設定のアリアドネで削っているが、こればかりは認めざるを得ない。
それなりに自身の技術に自信があっただけに、ショックがないと言えば嘘になるだろう。
事実、もしこれが「杖術対格闘」なら高確率で負けていた。
しかし、これは「魔法戦」。勝敗を決めるのは、白兵戦技の技量だけではない。

「もらった!!」
「ああ、こっちがな!!」

喉元目掛けて放たれるギンガの貫手。まともに食らえば、それで勝敗が決してしまう程の鋭い一撃。
だがそれに対し、コルトは左腕を盾に辛うじて貫手を逸らし、右手に持った杖を振り下ろす。

片腕を盾にした事には意表を突かれたが、所詮は片手。充分な威力を乗せられるとは思えない。
そう判断したギンガは、眼前にシールドを展開。
受け止めた瞬間に反撃に転じ、渾身の左を放つべく引き絞る。

しかしシールドと杖が接触するその直前、制空圏に杖が触れたその瞬間。
ギンガの左拳は開かれ、頭を守るべく掲げられる。
なぜそんな事をしたのかはギンガにもわからない。敢えて言うのなら、「身体が勝手に反応した」のだ。
そして、杖を受け止めたシールドは……………無残にも切り裂かれた。

「っ!?」
「勘がいいな。今のでバッサリいけると思ったんだが」
「これは、まさか……」
「何も、斬撃を使うのはアンタだけじゃないってことだよ」

甲高い音を立ててぶつかるリボルバーナックルとウィンダム。
だがよく目を凝らせば、その姿に違和感が生じる。
先ほどまではただ細長い円筒形の棒でしかなかったウィンダムが、今は深緑の光刃に包まれている。

「魔力刃……」
「そういうことだ。生憎、心得があるのは杖術だけじゃない。剣術と槍術もだ」

深緑の刀を手に、ギンガを斬り捨てようと力を込めるコルト。
それに押しつぶされない様抵抗するギンガは、同時にかつての師の言葉を思い出していた。

「『突かば槍、払えば薙刀、持たば太刀…杖はかくにもはずれざりけり』だったかな?」
「なんだ、それは?」
「一見唯の棒でしかない杖には、それだけの使い方があるって事よ」
「そうか、心得ておく!!」

このままでは押しきれないと判断し、一端刀を引くコルト。
しかしギンガが反撃に転じるより早く、魔力刃の出力形態が変わる。
魔力刃は杖の先端に収束され、小さな刃を形成し槍となった。
それどころか、ウィンダム自体が心なしかその長さを増す。

「ぜあ!!」

踏みこまんとするギンガの足元を払い、機先を制した。
杖以上に間合いの広い長物である槍、そのリーチを最大限に生かして間合いを制する。
突き、払い、薙ぎ、徹底的にギンガを間合いに入れまいとウィンダムを振るう。

振るえば振るう程に回転速度を増していく連撃。
ウイングロードを駆使し、前後左右、それどころか頭上からも攻めるギンガ。
だが、死角は上手く高摩擦設定のアリアドネにカバーされ、なかなか思うように動けない。
ただでさえ見えづらい上に、術者の意図に沿って縦横無尽に動くだけに制空圏でも反応しきれない場面がある。
仮に踏み込んでも、即座に刀や杖に変化し、再度間合いを突き放されてしまう。
結果、決定打こそ避けているものの、ギンガも守勢に回らざるを得なかった。

(不味いわね、このままじゃジリ貧だわ。となると…………………使うしかないかぁ。まだ不安定で、あんまりあてにできないんだけど、背に腹は代えられない。それに、もしも負けたって知れたら……)

戦闘中でありながら、その想像には思わず背筋に怖気が走る。
場違いと他者なら言うかもしれないが、彼女にとってはむしろそちらの方が死活問題。
なにしろ、あの師匠の事だ。
弟子が負けたと知れば、鍛え方が足りなかったと涙ながらに謝罪し、更なる無茶を課す姿が容易に想像できる。
唯でさえ一杯一杯なのに、これ以上激しくなったら体が持たない。だからこそ……

(負けられない!!!!)

プライドとかそういうかっこいい物ではなく、純粋に明日の命の為に負けられない。
ならば、持てる全てを費やさねば。
一瞬、悲痛なまでの覚悟の表情を浮かべたギンガは、大きく息をつきコルトの目を見る。
そして、ユラリと僅かに身体が揺れた瞬間……

(すり抜けただと!?)

確実にギンガを捉えていた筈の突きが、まるで幻でも突いたかのようにすり抜ける。
それどころか、いくら突き、何度払い、あらゆる角度から薙いでも一向にギンガを捉えることができない。
持ちうるあらゆる技術を駆使して放つ技のことごとくがすり抜け、幻でも相手にしているかのような錯覚に陥るコルト。

(なんだ、この技は……!?)

辛うじて無表情を維持するが、コルトの内心は驚愕で揺れている。
見た事もない、それどころか原理すらさっぱりの技への戸惑いは計り知れない。
それが、相手に触れることすらできないとなれば尚更だ。
ただし、ギンガはギンガで実のところ内心冷や冷やだったりする。

(よかったぁ、上手くいった。いつも入れるとは限らないのよねぇ、これ…って、しまった!?)
(ん? 今のは当たったが、どういう事だ?)

上手く使えた事に安堵のため息をついた瞬間、技の掛りが浅くなり数撃もらってしまう。
ギンガは、兼一と出会った段階で既に緊奏のレベルにいた。
しかし、ギンガほどの才を持ってしても、僅か二ヶ月足らずで流水制空圏を会得することは叶わなかったのだ。

使えるのは精々第一段階「相手の流れに合わせる」までで、それも技の掛りは浅い。
その上、ほんの少しの感情の高ぶりや揺れでその状態は容易く崩れ、そもそも確実に使えるとも限らない。
全く以って、実に不安定でまだまだ修行の必要な技なのだ。

そんな、さながら鼓動の様に揺れる不安定な流水制空圏を、ギンガは辛うじて維持している。
時折浅くなり何撃かもらう事もあるが、決定打だけは打たせない。
無数に繰り出される打突も、身体を刈りとらんと振り抜かれる薙ぎや払いも、そして死角から襲いかかるバインドも。その悉くを、ギンガは紙一重の所で回避する。
そして、そんな姉の勇士を見てスバルのテンションは最高潮に達していた。

「スゴイスゴイ!! ねぇ、すごいよねティア~!!」
「………………………」

天井知らずに大喜びする相棒を余所に、ティアナはモニターに移る光景に唖然とする。
いったい、何をどうすればあそこまで見事な体捌きができるのか。
知らず知らずのうちに拳は堅く握られ、悔しそうに口が堅く閉ざされる。

少なくとも、今のティアナには同じ様なマネは絶対にできない。
ギンガが自身より遥かに格上である事は承知していたが、それでも悔しさは紛れなかった。

「どうやったら、こんな……」
「あの、なのはさん、今度のこれは……」
「きゅく~」

エリオとキャロの年少組も、モニターに映し出される光景を信じ難い面持ちで見入っている。
かろうじてなのはに問う事が出来たのは、キャロ自身も驚きだった。
しかし、そんな部下の問いになのはからの返答はない。
なぜなら彼女自身、モニターの光景には言葉が出なかったのだから。

(ギンガ、あなたどうやってそれを……)

名前は思い出せない。だが、彼女は確かにあの技を知っている。
兄や父から静の者特有の技の存在は聞かされたことがあった。
なにより、その技を使う人物と彼女は会っている。

だからこそわかる。あれは、とても独力で修得できるようなものではない。
少なくとも、今のギンガが自力で開発し習得することなど不可能だ。
ならば、誰かに教えを乞わねばならないが、これを教えられる者など……。

いくら考えても答えは出ない。
ギンガとこれを教えられる者との間に、接点などまるで見出せないのだから当然だ。

だがその間にも、事態は刻一刻と移り変わる。
気の遠くなるような回避の末に、ギンガはコルトの懐に踏み込んだのだ。

(これで!!)

右の手刀で防御を切り払い、終わりとばかりに左拳を放つ。
杖による防御は間に合わず、アリアドネも切り払われて意味を為さない。
当然、ギンガの拳はまっすぐにコルトに突き刺さった。

本来ならこれで終わりだった筈だ。しかし必然か、あるいは偶然の産物か。
いずれにせよ、再度コルトは立ち上がる。

「まだ立つなんて、その執念には感服するわ」

ギンガの呟きに、コルトからの返事はない。
すでに限界に近かったコルトの身体からは無駄な力が抜けていたのだ。
その結果、日本の古武術における『流水』と同じ状態となり、ギンガの打撃を受け流す結果となった。
しかしそこで、突如コルトの雰囲気が一変する。

「……………いってぇな、散々ぶん殴りやがって! 調子に…乗るなよ!!」
「っ!?」

それまでの、細やかな制御に重きを置いた戦い方から一変し、野獣の様に襲いかかるコルト。
それも、発揮される力はそれまでの比ではない。
まるで、力を抑えていたリミッターが外れたかのように……。

(そうか、この人は『動』の……!!)
「があああああああああああああああああああ!!!!」

咆哮と共に放たれる突き。少し前までなら踏みとどまれた一撃だが、今度は受けた瞬間に後方に弾かれる。
それまでとは比べ物にならない猛攻にさらされ、不安定なギンガの流水制空圏は揺らぐ。

当初は解放した動の気に引き摺られていたが、コルトも徐々に手綱を握りだしていた。
凶暴なまでの力と攻め、それと同時にアリアドネや魔力刃を正確に運用し出す。
こうなってくると、ギンガとしても中々流れを変えられない。
そうして、舞台は最終局面を迎える。

「ハッハッ…ハッ…ハッハァ………ったく、ふわふわふわふわと…アンタも厄介な技を使ってくれやがる」
「その技にこれだけ当てといて良く言うわ。私の未熟を差し引いても、とんでもない事よ、これは」
「知るか。こっちは倒す気で打ってるんだ、当たってくれないと困るんだよ!」

互いに息を切らしながらも、尚も動きを止めることはない。
止まった瞬間に叩き伏されることは明白。ならば、これは最早我慢比べにも等しい。

とはいえ、このままではいつまでたっても変化はない。
二人もそれがわかっているからこそ、それぞれに機を探っている。
そして、先に打って出たのは痺れを切らし大きく跳び退いたコルトの方だった。

「ち、埒があかねぇな。なら、先に奥の手を使わせてもらうぞ。
人間相手に使うのは初めてだが、なんとかなるだろ。ウィンダム!」
《All right》

コルトの足元に展開される深緑の魔法陣。
その瞬間、ギンガの頭上に無数の礫が降り注ぐ。
恐らく、物質加速もかけているのだろう。そうでなければこの速度はあり得ない。

「あぐっ!? また、厄介なものを……」

次々と放たれる礫の雨霰。
それらを辛うじて回避するギンガだが、既に流水制空圏の状態は崩れかけている。
予想外の攻撃に加え、既に集中力自体が限界に近かったのだ。
流水制空圏は、非常に集中力を要する高度な技。完全に習得しているならいざ知らず、半端なギンガでは消耗も激しいのは道理。元々、長持ちはしないと言うのにこれだけ長引かせた事が、何よりの失態だった。
しかし、そんなギンガの隙をコルトが逃がす筈もなく。

「射砲撃は苦手なんでな。出力の低さは、別の物で代用するのが一番だ!」

言いつつ、今度は横手から大振りの瓦礫を飛ばしてくる。
確かに、実際に質量を持つ物を加速して使うのは有効な手段だ。
消費する魔力に加え、物質そのものの重さが加わるのだから当然だろう。管理局的には、色々灰色な方法だが。
そんな礫の雨の中をすり抜け、横合いからの瓦礫の砲弾をギギリギリのところで捌きながら突き進む。

コルトはギンガから逃げる様に、足場代わりに展開した魔法陣を蹴る。
ギンガもまたウイングロードを展開し、その後を追う。
機動力ならギンガに分がある。なら、追いつくのは当然だった。

(間合いに…入った! 防御も回避も間に合わない、これなら!!)

放つのは、なんの変哲もない順突き。
とはいえ、それを打つのが徹底的に基礎を固めたギンガなら話は別。
たかが基礎、されど基礎。充実した基礎を持つギンガの放つそれは、唯の順突きでも必殺技たり得る。
コルトを射程距離に捉えたギンガは拳を振り抜き……………空振りに終わった。

(そ、んな……)
「悪ぃな、さっき言った『奥の手』だが、ありゃ嘘だ」

声は背後から。
完全に無防備な背中を晒し、ギンガこそ防御も回避も間に合わない。
事ここに至るまで奥の手を隠しきった、コルトの作戦勝ちだった。

(まさか、短距離瞬間移動【ショートジャンプ】!?)

短距離瞬間移動。それは、白兵戦闘において最も殺傷力の高いスキルの一つ。
何しろ、反応されることなく死角から致命打を打ちこめるのだから、その恐ろしさはだれの目にも明らかだ。

あるいは、体力が万全であれば制空圏を持ってギンガも対処できたかもしれない。
だが今は、そんな事は望めない体力のギリギリ。とてもではないが、制空圏を維持するどころではない。
とはいえ、決定的に遅いと理解しながらも反転し、迎撃しようとするギンガ。
そんな、この状況でもあきらめないギンガに、コルトの目が細められた。

「伸びろ、ウィンダム!!」

渾身の魔力が収束された杖、その先端が一気に伸びギンガの身体を打つ。
そのまま尚もウィンダムは止まることなく突き進み、ギンガの身体をビルの壁に叩きこんだ。
ギンガが立ちあがってくる気配は………………ない。

同時に、コルトも大きく息をついて膝を折った。
もはや、動の気で残った力は全て絞り出している。
何しろ、動の気を使う直前の一撃で立ちあがれたことが驚きなのだ。
もう、立ち上がる余力はない。

それを確認し、なのはが終了の合図を出す。
こうして、二人の模擬戦は幕を閉じた。






あとがき

結局、ほぼ一話丸々模擬戦に費やしてしまいました。
ギンガの二ヶ月の成果は、まぁこんな感じ。特別な技は流水制空圏くらいかなぁ……。
いや、曲りなりにとは言え流水制空圏を使えるのは早過ぎかなぁと思わないでもないですが、そもそも長老はラグナレク編の最後で既に兼一に教える気満々だったみたいですからね。時間と兼一に才能さえあれば修得もできたのかもしれませんし、二ヶ月みっちり腰を据えてやればこれくらいは、と考えた結果です。
つまり、ラグナレク編辺りで満足いくまで兼一が修業出来たてたら、位のイメージですね。
あとはまぁ、リボルバーナックルのない右拳に武器を一つ追加、と言ったところですか。
左拳には別に新しい武器はありません、元からある物を強化しました。だって、別にいらんでしょ。

コルトとウィンダムに関しては、割と変則的なタイプですね。私はこう言う変なのが好きなのです。
ミッド式のくせに射砲撃が苦手で、接近戦をやりたがりますし。
まぁ、世の中には色々なタイプがいると言うことで。それに、メインになる魔法は「身体強化」以外だと、バインドと短距離瞬間移動、魔力刃なのでそうミッド式から外れてなさそうですしね。

さて、今回なのはに散々ヒント出しましたし、いい加減接触させないといけませんな。
フェイトの暴走は、単なるお遊びですけど。



[25730] BATTLE 16「5年越しの再会」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/11 00:43

空中に展開されたモニターは二つ。
それぞれに映る人物は、事情こそ違えど身動きを取れずにいた。

片や片膝をつき、杖を支えに辛うじて倒れるのを防いでいる男。
片やビルの壁を背に、全身を幾本もの深緑の糸で幾重にも縛られ座り込んだ女。

男は体力の限界なのか荒い息をつきつつも、今なお鋭い眼差しで女を睨んでいる。
四肢の動きを封じられた女は顔を下に向けたまま、僅かに肩を揺らしていた。

模擬戦は、既に審判である高町なのはによって決着を言い渡されている。
それも当然だ、女…ギンガが身体を拘束する深緑の糸状バインドを破壊しにかかった所で既に手遅れ。
アリアドネの強度を考えれば破壊までにそうはかからないだろうが、男の手にあるデバイスはある程度の伸長が可能な以上、その間に男…コルトがトドメを放つ事は出来た。
立ちあがる余力もないが、ギンガもバインドを破るまでは無防備。ならなんとでもある。
彼が知っているかは定かではないが、四肢の動きを完全に封じられていてはアンチェイン・ナックルも使いようがない。

バインド自体は、最後の一撃でビルに叩きむと同時に徹底的に縛りあげたのだろう。
とはいえ本来、コルトの性格を考えればトドメを指していてもおかしくはない。
それをしないのはギンガの健闘を讃えたのではなく、ましてや詰んだからでもない。
ただ単に、二人の間にある障壁のせい。

「はい、そこまで。模擬戦はコルトの勝ちで終わり。二人とも頑張ったね、御苦労さま」

気付けばすでにそこにいたなのはが展開した、一目で分かる程に堅固な桜色のシールド。
彼女は穏やかに二人の健闘を讃え、優しく微笑みかける。
ただし、密かながらもしっかりとコルトの事を視線で牽制しながら。

これでは、トドメの一撃を放った所で徒労に終わるのは明白。
ギンガ相手にはコルトが詰んでいるが、コルト相手になのはが詰んでいる。
コルトが攻撃した瞬間、それに対処して反撃。
最早その場から動く事も出来ないコルトでは、結果など火を見るよりも明らかだ。

そんな形で決着した模擬戦の一部始終を見ていた兼一の表情は浮かない。
しかしそれは、弟子の敗北に対する憤りの類などではなかった。

「ごめん、ギンガ」

誰の耳にも届かない、すぐ隣に立つ翔ですら聞こえない程に小さな、蚊の鳴くような声で兼一は呟く。
その瞳にあるのは………深い深い底知れぬ後悔。
かつて友は言った、「キミの負けが恩師たちにとってどれだけ重いかを知るべきだ」と。
今かつてない程、その意味が良く分かる。
なぜなら、今彼の胸を埋め尽くすその思いはあまりにも苦し過ぎた。

(僕は……………………怠った。やるべき事、課すべき事、教えるべき事……君を鍛え、数え上げたらきりがないそれらを伝える時間はあったのに……)

顔は俯き、握りしめられた拳と片が小刻みに震えていた。
歴史に「たら・れば」はない事は承知しているし、万全などこの世に存在しない事もわかっている。
だが、それでも思わずにはいられない、悔やまずにはいられない。
伝えておくべき事が、もっと教えられることがあった筈だと。
そうしていれば、今あそこで愛弟子が敗北に泣くことなどなかったと言うのに。

実際に泣いているかは、このモニターの角度では見ることはできない。しかし、全身でギンガは泣いていた。
決して長い付き合いではないが、それでも濃密な時間を共に過ごしてきたのだ。
だからこそわかる。今弟子が泣いている事も、流す涙の訳も。

なぜならそれは、彼にとっても覚えのあるものだから。
どんな戦いであれ、今の勝負は門派の威信と師の名誉を背負った一戦。
誰かに師事し、特定の流派を学ぶとはそういう事。
その戦いに敗北し、師の顔に泥を塗り、門派を貶めてしまった。
ギンガがどこまでそれを意識していたかは分からないが、決して軽い気持ちで戦ったわけではない。

だからこそ、悔しくて悔しくてたまらないのだろう。
自身の不甲斐なさが許せず、弱さを恥じる。師の期待に応えられなかった事が、申し訳なくて仕方がない。
ましてやギンガは兼一と母、二人分の誇りを背負う身。だからこそ溢れだす涙。
我が子に等しい弟子のそんな涙を見て平静でいられる師(親)など、いる筈もなし。

(違う。悔いるべきは、謝るべきは君じゃない。僕こそが、君達に対して謝罪しなければならないんだ。
 師匠達だけじゃなく、君のお母さんにまで恥をかかせてしまった僕こそが……)

伏せられた顔は歪み、兼一の方こそ今にも涙が溢れそうになる。
もっとしてやれることがあったのに。もっと弟子の事を考えてやるべきだったのではないか。
教えている時は、不安はあったが同時に「これなら」という思いがあった。
だが今は「もっとああしていれば」「もっとこうしていれば」「もっと…もっと……」そんな思いが後から後から溢れて止まらない。意味はなく、既に手遅れな慙愧の念だと分かっていても…否、わかっているからこそ。

数えきれない程のものを教え与えてくれた恩師と、それを託すに足る可愛い愛弟子。
合わせる顔がないとはこの事だろう。自身の怠慢で師と流派に泥が掛かり、その事で弟子が泣いているのだから。

(僕の敗北は、師匠達の顔に泥を塗るだけじゃなかったんだ。
負ける度に、これほどの苦しみを与えていた……)

心を千々に引き裂く程の感情の荒波が兼一を苛む。
それは今のギンガを思ってのものであり、同時に過去師達に与えていた重さを理解したからこそ。
親にならなければ、真に親の気持ちなどわからない事をこの数年で兼一は知っていた。
同様に、師とならなければ真に師の気持ちを理解することなどできない。
弟子の敗北が師にとってどれだけ重いか、兼一はそれを痛感している。

しかし、どれほど悔い謝罪した所ですでに遅い。
ゆるぎない現実として、ギンガは敗北してしまったのだ。
悔いるなら、申し訳なく思うならすべき事は別にある。
そう、かつて師達が兼一にしてくれたように。だからこそ、兼一はもう一度呟いた。

「ごめんよ、ギンガ」
「父様?」

今度の声は翔にまで届いたのか、姉弟子の敗北を悲しんでいた我が子が見上げてくる。
その手は堅く兼一のズボンの裾を掴み、彼もまた悔しい思いをしているのは明白だった。

翔が見ている事に気付いた兼一は、即座に体裁を取り繕い平静を装う。
相変わらず嘘は下手だが、(本意とは到底言えない)豊富な人生経験のおかげで取り繕う事は上手くなった。
翔の前であまりみっともない姿は見せられないと言うのもあるが、それだけではない。
それというのも、梁山泊を立つ前夜に秋雨からとある訓戒を聞かされていたのだ。

「兼一君。今更言うまでもない事だが、感情を深く呑み込んでこその静の武術家だ。
 心の綻びは技の乱れに繋がり、時には死に直結する。いついかなる時も、それを忘れてはいけない」
「はい。心得ています、岬越寺師匠」
「うむ。だが、これからの君は尚一層その事を心がけねばならない」
「それは、どういうことでしょう?」

過去、いったいどれほど聞かされたかわからない静の者の心得。
別にそれを聞かされる事自体はいいのだが、この念の入れようは尋常ではない。
その事に疑問を持つ兼一に対し、秋雨はゆっくりとその訳を語った。

「息子とは言え君も既に弟子を持つ身、即ち師だ。それも、これから新たな弟子を取ろうとしている。
 いいかね。師は、何があろうと弟子の前で揺れてはいけない。どれほど心が乱れ、いかなる感情の奔流が胸の内で渦巻き脳を焼こうと、決してそれを表に出してはいけない。少なくとも、弟子の前では。
 その訳は、わかるね?」
「………………弟子を、不安にさせてしまうからですか?」
「そうだ。師が動揺すれば、弟子の不安を煽ることになる。
弟子にとって、師は大地にも等しい。決して揺らがず、確固として支えてくれる地盤であらねばならない。
そんな師が揺れれば、弟子に与える影響は計り知れないだろう。無闇にそんな事をすべきではない。
この事を、良く心しておきたまえ」

だからこそ、翔やギンガの前で悲しみに顔を歪めてはならない。
もしそんな表情を見せれば、ギンガをさらに追い詰めてしまうことになるのは明白。それは翔が相手でも変わらない。幼い翔では、ついはずみでその事をしゃべってしまうかもしれないから。

故に、師は敗北した弟子に対して「弱さ」を見せるべきではない。
それではかえって、弟子の心を苛んでしまう。これでは文字通りの逆効果。
もっと別の、弟子を心の重みを払拭する姿をこそ示さねばならない。
兼一は、師達の姿からそれをしっかりと学んできたではないか。

「僕は、ギンガに対して甘すぎたのかもしれない。初めての弟子だからって、少し慎重になり過ぎたみたいだ。
 バカだよね。逆鬼師匠やアパチャイさんは、こんな事で二の足を踏んだりしなかったのに」
「え?」
「何より、身を持って知っていたじゃないか。経験上、あと二段階修業のレベルを引き上げることも不可能じゃない事を。地獄の深さは倍になるけど……………心の傷を消すには丁度いい!!」
「ぇ?」

震える拳を強く握りしめ、兼一は決意も新たに小さく宣言した。
だが、父が口にするその内容に翔は顔を蒼くする。
無理もない。早い話が、心の傷を別の「何か」で塗りつぶそうと言うのだから。
そりゃまぁ、まともなわけがないだろう。

とはいえ、難しい所は幼い翔にわかる筈もない。
故に、翔の頭をよぎった思考は大凡以下の通りだ。
今、この人はなんと言ったのだろう? 修業のレベルを二段階引き上げる? 地獄の深さが倍? 言葉の意味はよくわからないけど、きっと凄い事だ。そんな事になったら姉さまの命が……!?
とまぁ、こんなところだろう。
しかし、実際に震えながら絞り出す様にして出て来た言葉はこれだけだった。

「そ、そんなことしたら、死んじゃうんじゃ……」
「死ぬ気でやればなんでもできる!! 不可能なんて言葉はないんだから!!」
(きっとできない!? だって、その前に死んじゃうもん!!!)

細められた父の目からうっすらと放たれる怪光線に晒され、翔の震えはピークに達した。
翔のあずかり知らぬ事ではあるが、兼一とてなんの根拠もなくそんな事を言っているのではない。
何しろ、そこは遠い昔に兼一が通り過ぎた場所。故に人体の限界など、いまさら試したり確認したりするまでもない。それらは全て、才能の欠片もない自分自身で検証済みなのだから。
もちろん、そんな事など露知らぬ翔は、父を止められるとも思っていないので姉の冥福を祈るのみ。

そうしている間にも兼一は何かを決めたらしく、再度翔を背中に乗せる。
同時に、兼一が何か言っているのを聞いていぶかしんだヴィータとシグナムが、白浜親子の方に顔を向けた。

「ったく。おい、さっきから何叫んで……」
「待てヴィータ! この男、先ほどまでと気配が……と言うか様子がおかしい!」

そこまで言った所で、突如兼一の姿が消える。
常人では、何が起こったかすらわからない程の速度での移動。
だが、歴戦の騎士である二人にはその姿を目で追う事が出来た。
反射どころの域ではないレベルで発動した身体強化の恩恵である。

「……………………………飛んだぞ、アイツ」
「いったい、何者なのだ? いや、いまはそれどころではないか…追うぞ!」
「お、おう!!」

一早く気を取り直したシグナムはそう言って飛び立つ。
続いて、その後を追う様に大急ぎでヴィータも空に身を躍らせた。

なんとか魔法の発動が間に合い、追う事の出来た影の行く先。
それは彼女達の戦友と部下達が集う、訓練場の方向だった。



BATTLE 16「5年越しの再会」



場所は変わって訓練場。
兼一達が訓練場へ向けて動き出したのからやや遅れて、なのははコルトに睨みを利かせながら思考していた。

(さて、コルトもさすがに諦めたみたいだし、とりあえず場所を移そうかな。
ギンガもそうだけど、コルトの治療もしたいし)

さすがに、いつまでも地べたに転がしておくのはあまりいい気分がする物ではない。
双方ともに深手こそ負っていないが、蓄積したダメージはかなりのもの。
実際、勝者であるコルトにも最早碌に立ちあがる余力すら残っていない始末。
見た所雁字搦めにされているギンガの方がまだ余裕はありそうだが、それもドングリの背比べ程度の差だ。

(それにしても、二人とも思っていた以上にできるね。
 正直、止めるタイミングを計るのにはちょっと苦労したの)

伯仲した力量と些細な出来事で移り変わる状況。
なのはほどの力量と経験があっても、止め所の見極めには少々苦労したと言わざるを得ない。
特に、最後にコルトがやった短距離瞬間転移など、危うくその前に止めに入りそうになってしまった程なのだから。
何より……

(ギンガには聞きたい事もあるけど…ここは、落ち着いて話を聞けるような場所じゃないかな?)

ただでさえ、ギンガが使ったいくつかの技術については問い質さないにはいかない。
全部が全部ではないが、いくつかはなのはにとっても見覚えがあったから。

世間で「闇の書事件」と呼ばれる一件が終結して以降、彼女は父や兄の勧めもあって家族の鍛錬を見学することが多くなった。件の事件を通して近接型への理解と知識を得て、対策を立てる必要性を肌で感じたためだ。
そんな折兄とその友人がなのはの実家で手合わせをする機会もあり、後学の為にと彼女も時間が許す限りは同席したものだ。優れた技術を持つ者同士の手合わせを見ておいて損はない、と言うことだろう。

長い間記憶の奥底にしまわれていた、薄れてしまった記憶に刻まれた技の数々。
ギンガが使った技の中には、その中で使われた技と酷似した物がある。
また、兄や姉にいくつかの教えを授けた兄の友人の師匠が見せてくれた技もあった。
これでは、気にするなという方が無理がある。

その上、ギンガは敗北への悔しさから肩を震わせている。
気分を切り替える意味でも、場所を移すのが得策だろう。
そしてこの部隊には、そういうことに長けた隊員がいる。

『キャロ? 悪いんだけど、コルトとギンガをそっちに転送してくれる?』
『了解であります! なのはさんもご一緒しますか?』
『そうだねぇ…………じゃあ、お願いしようかな?』
『はい!!』

キャロは召喚士、つまり転送魔法のエキスパートだ。
年齢に比してまだまだ経験不足で足りない物は多いが、それでも専門家であることに違いはない。
折角だし、直接キャロの召喚魔法を体験してみるのも悪くない、という考えがあるのだろう。

やがてギンガとコルト、さらになのはの足元にもピンク色の魔法陣が出現する。
光は優しく三人を包み込み、徐々に光はその輝きを増す。
召喚士の肩書に恥じることなく、キャロの行使する召喚魔法が淀みなく作用している証左だろう。

(うん、座標の指定から転送までの所要時間も悪くない。
 実戦で使う事を考えるともう少し早くしたいところだけど……夜天の書には転送魔法もあったはずだし、はやてちゃんに手伝ってもらうのも良いかな?
 あとは、コルトが手を貸してくれるといいんだけど……どうだろう?)

コルトの性格を考えるとあまり期待できないが、頑固さではなのはも負けない。
根気の勝負になれば、あるいは……。

間もなく三人はその場から姿を消し、スバル達の待つ元いたビルの屋上に転移することになる。
ただし、丁度それと擦れ違いになる形でとある親子連れがその場に姿を現し……

「え、なんで!?」
「父様、ギン姉さま達が消えちゃった!?」

等というやり取りをしながら、途方に暮れることになる。
なのははもちろんキャロにも一切落ち度のない事だが、あまりにも間が悪過ぎたとしか言いようがない。
そんなわけでその後しばしの間その親子は、ギンガ達の行方を求めて当てもない捜索に着手するのだった。
ついでに、右往左往する二人の様子を上空で眺めていた騎士二人は、当初の驚きもどこへやら「何やってんだ、こいつら?」とばかりに呆れていたとかいないとか。



  *  *  *  *  *



まぁ、そんな些事はどうでもいいとして。
場所を移したなのは達に、シャーリーを含む新人たちが駆け寄ってくる。

付き合いの関係から仕方がないと言えば仕方がないのだが、当然スバルとティアナはギンガに。
エリオとキャロは出会ったばかりでギンガとの付き合いなどないに等しいが、それでもコルトとは比べ物にならない程付き合いやすいギンガの方を気にかけているのは容易に知れる。
実際、スバル達に遠慮して遠巻きにではあるが、しっかりと様子を見ているのだから。

コルト自身、満身創痍のくせに「寄るな、触るな、近づくな」と言わんばかりのオーラを発し、意識しているかは定かではないが目つきが悪過ぎるのも原因だろう。
誰しも、そんな雰囲気と目つきでいられては近寄りがたくなってしまう。それが子どもなら尚更だ。

なので、とりあえずコルトの相手をするのは自身が無難だろうと判断するなのは。
一応、上司相手には礼儀を守ろうとする様子が見られなくもない事だし。

「キャロ、連続しちゃって悪いんだけど、そのままギンガの治療をお願い」
「あ、はい。でも、アヴェニス一士は……」
「私がやるよ。あんまり得意じゃないけど、全くできないわけでもないしね」

昔の手痛い経験もあり、最低限の応急レベルの治癒魔法くらいならなのはも心得がある。
自分が怪我をした時もそうだが、仲間が怪我をした時に手も足も出ないのでは最悪の事態もありうる。
いつ何時でも、即座に医療班が駆け付けられるとは限らない。
本格的とは到底言えない携帯式の医療キットと専門家の足元にも及ばない知識と技術。
全てを備えることは無理でも、出来る物だけは揃えなければ。
それが、生死を分けることをなのはは身を持って知ったから……。

キャロなら、一度に二人にヒーリングを行うことくらいわけはないだろう。
ただ、「治療」という単語が出た段階で即座にコルトの眉がつり上がったのをなのはは見逃していない。

(まさか、弱みを見せたからこれ幸いとばかりに襲われるとは思ってないだろうけど……というか、私にはそんな必要がないことくらいわかってる筈だしね。これは、さすがに穿ち過ぎかな?)

実際、なのはとコルトの間にはそんな小細工をする必要がない位の力の差があり、コルトもそれは理解している。
だと言うのに、それでも手負いの獣の如く心を許そうとしない。
その代わり、自力で初歩的な治癒魔法を使い傷を癒そうとしている。

こうして他人の力を借りずに傷を癒すのには慣れているらしく、思いの外魔法の発動がスムーズだ。
なので、イヤな役は自分が引き受けた次第である。なのはでは、気休め程度にしかならないかもしれないが。

「ほらほら、睨むのは勝手だけど治療はさせてもらうからね。
ただでさえ少なくなってる魔力で無理して、本当はそんなことする余裕なんてないでしょ」
「そんな事はな…ありません」

あくまでも不機嫌そうに皺の刻まれた眉間とつり上がった眉、への字に引き結ばれた口でコルトは呟く。
とはいえ、陽に焼けた健康的な褐色の肌を始め、例外なくどこも汚れ塗れだ。
こんな有様では、説得力などありはしない。当然、なのはが引き下がる筈もなく。

「強がり言っても駄目だよ。今使ってる魔法だって、あんまり役に立ってないでしょ。
『自力で治せるから要らない』ってアピールしたいのはわかるの。
 でも、自分で思ってる以上にダメージは深刻なんだから、大人しくしてる事。いい?」
「それは、命令か…ですか?」
「なんなら、命令しても良いけど? 希望するなら、バインドで雁字搦めにしても良いし」
「……」

舌打ちこそ辛うじて止めたが、それでも「ギリッ」と僅かに歯ぎしりする。
本心を言い当てられたのもそうだが、実際にその通りな自分の状態に対する感情の比率が多い様になのはは思う。
自分の心と折り合いをつけるために、これだけの言い訳を必要とするとなると何とも難儀な性格だ。
若さ故の「孤高」や「孤独」という言葉に対する憧れもあるのかと思ったのだが、これは少々行き過ぎだろう。

だが、コルト・アヴェニスという人間の事をあまり知らないなのはにそれ以上の事がわかる筈もなく。
とりあえず、十年来の親友にして魔法の師である金髪の少年司書長直伝の治癒魔法をかける。
治療が終わるまで魔法陣から出ない事を「厳命」し、その間にギンガの方へ向き直るなのは。

そこには、人徳もあってか新人たち全員に囲まれるギンガの姿。
本人も、妹以下年下の仲間達に心配をかけないよう努めて明るくふるまっている。
ただし、それが空元気である事もなのはにはわかっているのだが。

(できるなら、もう少しそっとしておいてあげたいんだけどね……)

ギンガの表情を見れば、まだ敗戦のショックから完全に立ち直ってない事は見てとれる。
しかしなのはとしても、早めに確認しておかなければならない事があるのだ。
何の接点もない筈のギンガと彼ら。にもかかわらず、ギンガが使った技。
六課の戦技教導官として、スターズ分隊分隊長として、なにより「高町なのは」個人として。
どうしても、見過ごせない事がある。

「でも、本当にすごい試合だったよ! 前に見た時より、ギン姉も全然キレが良くなってたし!
 ティアもそう思うよね!!」
「まぁ、ね。正直、少しは追いつけたかなって思ってのに、また差を付けられた気持ちですし」
「そう、ありがとう。
でもね、スバルもティアナも前よりずっと腕を上げてるじゃない。私も負けてられないよ」
「ぁ、その……」
「なんでティアが照れてるの~?」
「うっさい!!」

二人の励ましに、はにかみながら返すギンガ。
だが、気遣いを無駄にしまいと浮かべる笑みはどこか寂しい。
それに気付いているのか、さらにエリオやキャロまで参加してくる。

「あの、ナカジマ陸曹。もしよろしければ、今度型を見てくださいませんか?」
「でも私、槍は専門外だよ。聞くなら、コルトの方がいいんじゃ……」
「あ、いえ、そうなのかもしれないんですけど……でも、格闘家の方からの御意見も聞きたいんです。
 僕もナカジマ陸曹と同じベルカ式ですし、今日の模擬戦は駆け引きとかも凄く参考になりましたから!」
「あの、私もすごく勉強になりました!
 って、なのはさんに解説してもらわなかったら、全然わからないくらいすごかったんですけど……」
「ふふふ、そっか。参考になったのなら良かった、ありがとね、二人とも」

ギンガの謝意に、顔を赤くして照れる年少組。
口にした言葉に偽りはないとはいえ、自分達の気遣いなど容易く見透かれてしまったのが気恥ずかしいらしい。
しかし、どうやら早速良好な関係を築けているらしい面々に、なのはは微笑ましさすら覚える。
同時に、一生懸命あれこれと励ましの言葉をかけるスバル達には申し訳なく思いながらも、彼女は動いた。

「あぁ、ちょっとごめんね」
「なのは、さん?」

ほどほどの距離まで歩み寄り声をかけるなのはと、それに首をかしげるスバル。
そんな彼女をやんわりと無言のまま手で制し、なのははギンガの瞳を見つめる。

「ギンガ、いくつか聞きたい事があるんだけど、いいかな?」

その言葉を聞き、まずギンガが思った事は「やはり」だった。
なのはは彼女の師の事を知っている。どの程度の知り合いかまではあまり詳しく知らないが、師となのははあまり深い関係ではない事だけは聞いていた。関係が深かったのは、あくまでも彼女の兄や姉との間だからと。

とはいえ、それでもなのはは彼と関係があったことに変わりはない。
なら、自身の戦いを見て何か感じるものがあったとしても不思議はないだろう。
故に、今更無理に隠そうとしても意味がないし、そもそも隠す理由がない以上拒む筈もなく。

「はい、大丈夫です」
「うん、ありがとう。
それで早速なんだけど、なんて言うか……あんまり見かけない技を使ってたよね、投げ技とか」
「あ、それ私も思いました。スバルもそうですけど、ギンガさん前はあんな技使ってませんでしたよね」
「そうなんですか、ナカジマ二士?」
「きゅくる?」

なのはの問いかけで、以前(少なくとも2ヶ月以上前に)ギンガが相棒と組手をしていた時の事を思い出すティアナ。
キャロとフリードはそれに便乗し、引き合いに出されたスバルに話を振る。
それに対し、スバルもどこか考え込んでいる様子で言葉を選ぶ。

「あ~……うん。シューティングアーツは打撃系だし…っていうか、今の格闘型の主流がそうなんだけど、魔法が使えるとああいう技ってまず使わないんだよねぇ」
「スタイルを変えたって言うことでしょうか?」
「う~ん……」

エリオの発言に対し、スバルは釈然としない様子で首をかしげる。
そもそもシューティングアーツに投げ技がない事を考えると、これを「スタイルの変更」で済ませていい物か。

(スバルやティアナも知らなかったってことは、覚えたのは本当に最近って事だよね。
 修得できたこと自体は不思議じゃないけど、付け焼刃だと普通は組み立てとかに綻びがでる。
 なのに、そんな短期間で違和感なく取り入れられてた。
とすると、ちゃんとした人からかなりのスパルタで仕込まれた筈……)

ギンガが陸戦Aを取ったのは最近の話ではない。つまり、Aランクになった後に一連の技を身に付けた事になる。
既にAクラスの格闘戦技を持っていたギンガに対し、全く別系統のスキルである投げなどを仕込むとなれば逆に大変だ。修得自体はできるだろう。だが、既にある程度形になっている中に別の物を入れるとなれば話が別。

誰しもどうせ使うなら使い慣れた道具や技を使う。
それが今まで使っていた物より練度と使いこんだ時間で劣るとなれば尚更。
しかし、ギンガは特に偏りも見せずにシューティングアーツにない技もバランス良く使って見せた。
つまり、それだけ密度の濃い練習をし、他の技に引けを取らないレベルで身に付けていると言う事だ。

(別に、独学じゃ絶対に無理、何て言う気はないけど……)

可能性としては高くない。
仮に独学だったとしても、十中八九教本となる物はあった筈だ。
一指導者として、その教えた人物か参考にした教本には大いに興味がある。
まあ、そういった人物と人種に心当たりがないわけではないのだが……。

(一応短期間で教えられそうな人と人種に心当たりはある……けど、どういう縁があれば知りあえるのか、全然想像がつかないよ。ただでさえ地球で管理局と関わることなんてまずないし、武術家ってなるとなおさら……)

自分のことは棚に上げて、内心で「いやいやあり得ない」と首を振るなのは。
まあ、その気持ちは無理もない。幼い頃に一発芸的に見せてもらった「相剥ぎ斬り」を使った事を考えるとしぐれが真っ先に浮かぶが、あまりにも接点がなさすぎる。
それは「あの人種」全般に言えることで、例外は彼女の家族くらいだ。
まさかその縁で、という事はあるまい。それなら必ず、なのは自身が仲立ちとなっている筈だ。

思い当たる節はあるが、可能性としてあり得ない。
そんな二つの思考に挟まれ、半ば思考の袋小路に陥るなのは。
同時に、それを自覚もしているなのは素直にギンガに聞いてみる事にする。

「ねぇ、ギンガ。投げもそうだけど、『劣化 相剥ぎ斬り』だっけ? あれ、どこで覚えたの?」
「あ、ああ…実は、2ヶ月ほど前からある人に師事していまし、て……」
「え、そうだったの!? それなら言ってくれればよかったのに……って、どしたのギン姉?」

なのはの問いに対し、尻すぼみに弱々しくなるギンガの返答。
当初は驚きを露わにしたスバルも、その変化に気付き不思議そうに首をかしげる。
良く見れば、ギンガの顔はあっという間に蒼白になり、肩と頬が痙攣しているかのように引くついていた。
ギンガと一名を除き、全員がその引きつった表情に疑問符を浮かべる。

しかし、ギンガを除いたもう一人。
なのはだけは、ギンガの様子が変わるのとほぼ同時に振りむく。そこには……

「あ、久しぶりなのはちゃん」

実ににこやかに片手を上げて挨拶をする、凡そ十歳は年の離れた兄の友人(つまりは知人)の姿があった。
その姿を一目見るや、なのはの顔は即座に驚愕に染まり奇声を上げる。

「にゃぁぁぁっぁぁぁあぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

新人組とシャーリーは奇声にビクリと肩を震わせ、反射的になのはへと視線を移す。
そこには、昔の口癖と共に驚異の速度でバック走をするなのはの姿。
後先考えない後退の末、壁へと強かに背中をぶつけしばし意味もなく脚を動かす。
やがてようやくその無駄を悟ったのか、今度は力なく床に腰を落とした。

その姿は、世間における「エースオブエース」の姿からはあまりにかけ離れているだろう。
実際、それなりの付き合いがあるシャーリーですら信じられない物を見るような眼でなのはを見ていた。
だが本人はそれどころではないらしく、視線の先の人物を震える指でさし、虚しく口を開閉させている。

「いやぁ、いきなり消えるから探しちゃったよぉ」
「…………………」
「でも、しばらく見ない間にすっかり大きくなったねぇ。
 それに、見違えるほど立派になって……あの小さかったなのはちゃんがって思うとちょっと感動しちゃったよ」

本当に感動しているのか、取り出したハンカチで目元をぬぐう兼一。
しかし、当のなのはからは一向に言葉らしい言葉は返ってこない。

「できればもう少し再会を喜びたいところなんだけど…ごめんね、先にうちの弟子に話があるんだ。
 積もる話はあるけど、ちょっと待っててくれないかな?」
「な、なななななななななななななな」
「父様、驚き過ぎて聞いてないみたいに見えるんだけど、気のせい?」
「え? ……………………………ま、いっか」
(いいのかなぁ?)

幽霊でも見たかのように挙動不審に陥るなのはは、当然兼一の話など碌に聞いちゃいない。
多少気が緩んでいたとはいえ、気付かぬ間に背中に立たれた驚きはもちろんある。
だがそれ以上に、あまりにも予期せぬ人物の登場に頭が混乱しているのだ。
確かに、この手の人種の存在は頭に浮かべていたが、同時に否定もしていたせいだろう。
何より彼女の認識における「白浜兼一」は、非常識の権化達の中における希少な常識人。
その彼がこんな心臓に悪い登場をした事も一因に挙げられる。

しかし、兼一がギンガに向けて一歩を踏み出すのとほぼ同時に、この場に案内してきた二人もその場に降り立った。
どうやら、ギンガ達を見失った後に二人に行方を聞いたらしい。

「おい、なのは。こいつお前の知り合いなんだろ?」
「いきなりですまんが、簡単に説明を……」
「なんで兼一さんがこんな所にいるんですかぁ!!!!」

二人の問いかけを塗り潰す形で、ようやくなのはの口から大音量で根本的な問いが発せられた。
とは言え、全く事態が呑み込めないエリオとキャロ、及びシャーリーからすれば、疑問符が溢れて止まらない状況だ。嘆かわしい事に、それに答えられるなのはとギンガは形と意味は違えど慄き、兼一はなのはのリアクションにビックリして答えてくれる様子がない。
なので、彼女達は仕方なく自分たちで手持ちの情報を突き合わせるしかないのだった。

「ええっと、あの方はどなたなんでしょうか?」
「あ、そっか。ルシエさんは寮が違いますし、初めて会うんですよね」
「? モンディアル三士はご存じなんですか?」
「えっと、男子棟の管理をしてる白浜二等陸士です」
「エリオが知ってるのは……同じ男子棟だからわかるけど、なら肩に乗ってる子はわかる?
 なんか、さっきからこっちにすんごい笑顔で手を振ってる気がするんだけど……」
「あぁ、お子さんの翔です。僕兼一さんと同室なんで、色々とお世話になってて……」
(なるほど、だからあんなにフレンドリーなんだ。
ってもしかして、フェイトさんの様子がおかしかったのって、あの人のせい?)

とりあえず、白浜親子に対する情報の少ない三人はヒソヒソとそんなやり取りをする。
ただ、エリオの表情には他の面々に対するものとは一線を画す好意の色が見られた。
フェイトに対するもの程ではないだろうが、今朝会った時の上司の様子の原因を推測するシャーリー。
同時にその手が止まる事はなく、手元の端末を操作し兼一の情報を引っ張りだす。

「……とあったあった。白浜兼一二等陸士、元はロストロギアの発動に巻き込まれてミッドに飛ばされた管理外世界出身者。一度は故郷である『第97管理外世界』に帰還するも…ああ、なのはさん達と同じ世界出身なんだ。
で、2か月前に管理局に就職。保護及び就職後の配属先は陸士108部隊、か。
じゃあ、もしかしてスバルとティアナも知り合い?」
「あ、はい」
「少し前に、ギンガさんに紹介してもらいましたので」
「そう言えば……」
「ナカジマ陸曹も陸士108部隊出身なんですよね」
「そういう事だね、部隊長はスバルのお父さんだし」
「「へぇ~」」

以外に狭い世間というものに、しきり感心するエリオとキャロ。
まあこの辺は、ほとんどが身内や知り合いで構成されている六課の性質の様なものだろうが。

「で、年齢が…………………29歳!?」
「ず、ずいぶんとお若いんですね……」
「きゅく~……」

そして、最後に出てきた情報にシャーリーはあからさまに驚き、キャロは微妙な表情を浮かべる。
もちろん、若いと言うのは年齢ではなくその外見の事。
まあ無理もあるまい。あの外見で三十路手前というのだから、少々信じ難い若々しさだ。
親譲りの童顔もあるのだが、同時に兼一は延年益寿の心得もある。
中国拳法でも、高等な秘伝には必ず“長寿の秘訣”に繋がる練功がある以上、彼がそれを修めているのは必然だ。
とはいえ、そんな事露知らぬティアナやスバルも、その辺の感想は同じなのだが。

「まあ、それが普通の感想よね」
「うん、私も聞いた時はちょっと驚いたし……どうみても二十歳前後だよねぇ」
(((何て言うか、リンディ【統括官・さん】みたい……)))

残る三人の場合、老けない生き物と聞いてまず思い浮かぶのがこの人物だ。
まぁ、兼一の延年益寿がどの程度かは時間を置かねばわからないが、某提督には及ばないかもしれない。
だが、実をいうとその某提督ですらまだ序の口。
何しろ地球には、喜寿(77)を軽く越えていながらも二十代の艶を保つ妖怪染みた生物がいる。
もちろん、それらの事は当然皆のあずかり知らぬ事ではあるが。

「そう言えば、兼一さんとなのはさんって知り合いなのよね。すっかり忘れてたけど」
「そうなの?」
「はい、そんな事を以前言ってました」
「えっと……なのはさんのお兄さんの友達、だったっけ?」
「そういう話だったわよね、確か」

以前会った時に聞いた、兼一の意外な交友関係を思い出すティアナとスバル。
それにシャーリー以下、各々「へぇ~」という表情を浮かべる。
しかし、それがシグナムとヴィータになると話が別だ。

「なのはの兄貴って事は、恭也さんのダチかよ」
「確かに、それならあの身体能力も合点がいく。まぁそうだろうとは思っていたが、やはりマスタークラスか」

やや離れた所で5人の話に聞き耳を立てていた二人は、その内容にようやく得心がいったと頷き合う。
自身の間合いに平然と踏み込まれたことに始まり、ここにたどり着くまでに見せつけられた異常な身体能力。
それも、一切魔力の発動を感じさせずにだ。
普通ならあり得ないそれも、相手がそういう生き物なら納得がいくと言うもの。
海鳴に住み、御神の剣士というそちら側の知己を持っている彼女らだからこそ、それを割とすんなりと受け止められた。だが、その意味がわからない面々にもその声は届き、代表してシャーリーがその訳を問う。

「あのぉ、副隊長達は一体何に納得してるんでしょうか?」
「む。ああ、そうか。お前達は知らないか」
「まぁ、しゃーねーよな。普通に管理世界にいたんじゃ、まずお目にかかれない人種だしよ」
「あの、ですから何なんですか?」

勝手に納得され、完全に話に付いていけていない一同を代表し、ティアナが具体的な説明を求める。
とはいえ、聞いた所で理解できるかどうか……というのが、二人の心境だ。
しかし、だからと言って無関係でいられる状況でもなく、とりあえず話すだけ話してみるべきだろう。

「恐らく奴は、地球において『達人』と呼ばれる人間だ」
「『達人』、ですか?」
「意味はそのまんま、技を極めたっつーとんでもねぇ連中だ」
『は、はぁ……』

まぁ、こんな大雑把な説明で納得しろというのも無理な話だ。
シグナムとヴィータももちろんその事はわかっているのだが、口で説明して納得させるのも大変なのである。
なので、後で直接見せてやった方が手っ取り早いと思っているらしい。
だがそこで、今まで黙りこくっていたコルトが周囲を見回しながらボソリと呟く。

「…………そう言えばアイツ、どこから来た?」
「は? アンタ何言ってんのよ、そんなの階段を…上って……」
「気付くのがおせぇ。向こうに階段はねぇのに、どこから上るんだっての」

コルトの言う通り、兼一が現れた先に階段はない。あるのはビルの縁だけ。
兼一が魔法を使えない事はティアナもよく知っているし、今見ても相変わらず魔力の欠片もない。
だと言うのに、いったいどうやって表れたのか。その訳は、シグナムの口から語られた。

「ほぉ、いい所に目を付けたな」
「ふん。で、八神二尉「シグナムで構わん。この部隊には八神の姓が何人もいる。階級はかぶっていないが、わかり辛いからな」…………了解」

姓と階級で呼ぶ事自体には特にこれと言って問題はないし、文句を言われる筋合いもない。
相手が名前で呼ぶように言われても、なんとでも言い訳は立つ。
しかし、確かに同じ姓が何人もいる中で階級だけで分けるのは少々面倒だ。
そう言う意味では、シグナムの要求は妥当なものと言える。
なので、さすがにコルトもこれには従う事にしたらしい。

「それでシグナム二尉はアレがどこから上ってきたのか知…ご存知なのですか?」
「先に言っておくが、私はあまり冗談は得意ではない。自慢にならんが、ユーモアのセンスにも乏しい。
もちろん意味のない嘘もつかんし、目が悪いわけでもない」
「?」
「その上で聞け。奴は……………………………ビルの壁を駆け上がった」
『はい!?』

その、あまりに非常識な、いっそ軽いホラー的な言葉に異口同音に素っ頓狂な声が上がる。
仏頂面のコルトですら、相貌を崩して唖然としているのだから。
割と早めに復帰したキャロは、その言葉を自分なりに解釈する。
まあ、本当は解釈の必要すらないのだが。

「えっと、それはつまり…ロッククライミングの要領で……」
「ちげぇよ、それなら『よじ登る』だろうが。そうじゃなくて、正真正銘壁を駆け上がったんだよ、アイツ」

つまりその言葉を信じるのなら、地面に対して限りなく水平に近い角度で壁面に二本の脚だけを付けて走って登った、という事なのだろう。
実に信じ難い内容だが、シグナムとヴィータの表情に冗談や嘘の色は見られない。
その言葉通り、紛れもなく見た事実をそのまま口にしているらしい。

「ま、信じられねぇのも当然だけどよ」
「だが、それができるのが達人なのだ。
 詳しい所は、本人から直接聞くなり見せてもらうなりしろ。口で説明して納得できるものでもない」
「とりあえず、今ある常識は早めに捨てとけ。一々驚いてると疲れる上に身がもたねぇぞ」

どうも、実際にその経験があるらしく、ヴィータの声音には疲労の色が濃い。
とはいえ、表面的な兼一の情報しか知らないスバル達からすれば、兼一がそんな大層な存在なのか疑わしく思うのも無理はない。何しろ彼は、外見的にはどう見てもどこにでもいそうな普通の気弱そうな青年なのだから。
なにしろ、実際にチンピラの恫喝に足が震えている所も見たわけで……。

まあ、そんな外野の様子はあまり気にせず、兼一はギンガの前に立つ。
皆の話はなのはの耳にも届いているようだし、どうしてここにいるのかの前段階部分については知ってもらえたはずだ。
なら、先にギンガとの話に入ってしまっても問題あるまい。

「ギンガ」
「し、師匠……」

外野からは、スバルの「え!? 師匠ってどういう事!?」という声が聞こえてくるが、今のギンガに答える余裕はない。
一度はスバル達の手前押し殺した感情が顔を出し、兼一から顔を逸らす。
負けた自分が、どんな顔を向ければ良いのかわからず、師の顔を…その眼を直視できずにいた。

「……とりあえず傷を見よう。どこかに異常があったら大変だ、見せてごらん」
「…………………はい」

師の言葉に従い、言われるがままに傷を見せるギンガ。
さすがに人目のある所で服を脱がせるわけにはいかないので、服の上から丁寧に触診していく。
はじめは腕や足などの末端、やがて徐々に胴や背中などの体幹へと。
兼一の手が腹や背中に触れた瞬間、僅かにギンガの身体がピクリと反応した。

しかしすぐに身体から力は抜け、優しく触れるその手のぬくもりに身を任せる。
ギンガも年頃の娘。もし相手が他人だったなら気恥ずかしい思いもしただろうが、兼一に邪念がない事は誰よりも彼女が良く知っていた。
その間ギンガは無言を貫き、兼一も特に声はかけない。
周りの面々も、どこか声をかけづらいその雰囲気に飲まれ口を閉ざす。
重い沈黙がしばし流れ、触診が終わった所でようやく兼一がその沈黙を破った。

「ふむ、脱臼に骨折、肉離れや拳を痛めた様子は見られないね。その他、靭帯と内臓にも異状なし、と。
 可愛い弟子を壊されやしないかと冷や冷やしたけど、これなら一安心か」

五体満足でこれと言った大きな怪我のない弟子の状態に満足げにうなずく兼一。
目下最大の懸案事項の一つが解消され、その顔には僅かに安堵の色があった。
だがそれも、続いてコルトに向けられた寒気のする微笑みに塗りつぶされる。

「ああ、それと…うちの弟子がお世話になったね、この御礼はいずれ」
「っ! (何だこの悪寒は!?)」

不穏な発言とオーラに当てられ、コルトの背筋にイヤな汗が伝う。
それも、明確に怪しげな微笑みを向けられたのだからたまったものではない。
いったい何をする気なのかは定かではないが、さすがに自分で手を出すような大人気ないマネはしないだろう。
兼一とて一人の自立した武人。弟子のケンカに師匠は出ないという不文律を破るような事はない。
ただ、可愛い弟子が敗れてちょっとばかし不機嫌になってしまうのは仕方がないだろう。
まぁ、だからこそ何を考えているのかわからない不気味さがあるのだが。

「何はともあれ、無事で何よりだ」
「…………………………………無事じゃ、ありませんよ」

弟子に向き直りその無事を喜ぶ師に対し、ギンガは俯きながら絞り出す様にして言葉を紡ぐ。
確かに身体は無事だったかもしれない。だが、心は違う。
厳しい修業に裏打ちされた自信は砕かれ、心には小さくない傷を負った。
師と亡き母の期待に応えられなかった事、大切な弟妹に情けない姿を見せてしまった事。そして師と母、各門派に敗北の汚名と恥をかぶせてしまった事実が、心に重くのしかかる。

本当は、まず真っ先に謝りたかった。
しかし、謝りたい事があり過ぎてギンガ自身で整理できていない。
故にギンガは、何から口にすればいいのかすらわからず、こんなことしか言えなかった。

「確かに、無事とは言えないか。心に大きな傷が付いているね、さぞかし疼くだろう」
「……師匠」
「うん?」
「私は、あなたの弟子にふさわしいんでしょうか? 武術に専心しない上に、こんな「やめなさい。その先を言ったら、さすがに怒るよ」…………ごめんなさい、軽率でした」

僅かに震える唇から洩れる言葉を、珍しく怒気を帯びた声音で制する兼一。
余人にはギンガが何を言おうとしていたのかは定かではない。
だが、その先を察した兼一に与えた戸惑いは小さくはなかった。

自分に相応しいとか相応しくないとか、そう言う視点で兼一はギンガを見た事はない。
強いて言うなら、師達から授かった物を託すに足るかどうかという視点がある位。だが、そもそも兼一がギンガを弟子にと望んだのは、ある意味ギンガの人柄に惚れ込んだから。

だからこそ、兼一はそれ以上何かを口にする事を許さない。
自分を卑下し、蔑ろにするような言葉を弟子が口にすることは兼一にとっても悲しかった。
一度の敗北を責める気はないし、それで弟子を見限るなどもってのほか。
その程度の事で変わる程、兼一のギンガへの評価と信頼は低くない。
愛弟子が生きて無事でいてくれる、兼一にとって今はそれで充分なのだから。

同時に弟子を思うからこそ、兼一は敢えて優しい言葉をかけようとはしない。
敗者に対する同情は虚しく、安易な慰めの言葉はかえって心を傷つける事がある。
それを知っているからこそ、無理な慰めはしない。
迂闊な言葉は、むしろ弟子を惨めにさせるだけだから。

「顔を上げなさい、そこには何もない。ただ、重みが増すだけだよ」
「でも、私は……」

師に、合わせる顔がない。
後一歩と言う所での敗北により、自信が揺らいでしまっているのだろう。
アレだけの鍛錬を経てもなお、最後の最後で勝利を掴み損ねてしまった。
師の教えは疑っていない、ただそれにこたえきれなかった自分を恥じている。
いっそ難儀な程に生真面目で責任感の強い性格ゆえの弊害だろう。

「ギンガ、君はこの勝負で何かを怠ったのかい?
 例えば…そう、力や技を出し惜しみしたり、負けても良いと手を抜いたのかな?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか!!」

真剣に、本気でいま持てる全てを注ぎこんで戦ったことに間違いはなかった。
審判がいたこともあり、大きな危険と隣り合わせの実戦程の危機感はなかったかもしれない。
だがそれでも、師と相手に対してそんな無礼な真似をできるギンガではない。

手を抜いて、ないし手加減して勝つのはいい。それをして勝てるだけの力の差があるのなら。
しかし手を抜いて負けるなど、自身の修業に全力を傾注してくれる師に対しても、全力で戦ってくれる相手に対しても失礼極まりない。
だからこそギンガは、思わず声を上げて否定したのだ。
敗北の理由に、そんなものを持ち出すほど彼女は堕ちてはいない。

「やり残しがないなら良いさ。武人が持てる全てを出しつくした戦いに難癖をつけるほど、無粋じゃないよ」

ギンガはあの時点における功夫と精神状態で、持てる全てを絞りつくし勝つ努力をした。
結果は残念だったが、充分信頼には応えてくれたと兼一は思う。
信じることと結果は別の問題。結果が期待した通りにならなかったからと言って、それは決して裏切りではない。
もし裏切りがあるとすれば、それは勝つための努力を怠る事である事を彼は知っている。
故にギンガへの失望はなく、むしろ彼女を弟子にできて良かったとさえ思う。

そんな兼一の真意を汲み取ったのか、緩慢な動作ながらギンガは面を上げる。
期待に応えられなかった自分に、尚も変わらぬ期待と信頼を寄せてくれる師。
そんな彼に、これ以上情けない姿は見せられない。

「やっと顔を上げたね。おっと、まだ下げちゃいけないよ。
辛いだろうけど、自分自身から目を逸らしちゃいけない」
「どういう、意味ですか?」
「向き合う相手の瞳に映るのは自分の姿だ。同じように、他人は自分を映す鏡。
 もし、誰かを見るのが辛いと思うのなら、それは今の自分を見るのが辛いのと同じだよ。だけど、辛い時にこそ見つめなければいけない。眼を逸らせば見ずに済むけど、それじゃあ敗北感に屈した負け犬だ」

負けっぱなしの半生を送っていた兼一だからこそ、誰よりもその事をよく知っている。
敗北感は、言わば彼に取って親しい友人の様なもの。彼の半生は敗北に塗れ、まさしく負け犬そのものだった。
だからこそ、ここで眼を背けてはいけない。背け続けた結果こそが、ある時までの彼自身だったのだから。

「いいかい? 自責に、敗北感に、心の傷に打ち勝つ事。敵に勝つ前に、まずはそこからだ。
真の敵は、いついかなる時も歩みを止めそうな弱い自分であることを肝に銘じなさい」

徐々に、ギンガの眼に力強い輝きが戻り始める。
師に合わせる顔がないという気持ちは変わらない。だがそれ以上に、師をこれ以上失望させたくはなかった。
まだ自分を信じてくれる師に、自分ができることは少ない。
なら、今できる精一杯でその信頼に応えてこその一番弟子だ。
故に、ギンガは必死に心を奮い立たせ、決然と面を上げて兼一の瞳を直視する。

「もしこれが実戦だったのなら、ギンガはトドメを刺されて死んでいた。そうなれば、当然“次”もなかっただろうね。でもギンガ、君は死んだのかい?」
「……いえ」
「そう、ギンガは生きている。勝敗はどうあれ、これが全てだ。
武術家にとって真の敗北とは『死』。でも生きていれば、いつか雪辱を晴らす機会もあるだろう。
今はその時の為に、自分の弱さを、足りない物を知りなさい」

負けは負け、それは厳然たる事実であり、受け入れねばならない現実でもある。
しかし同時に、ギンガが生きているのもまた事実なのだ。
模擬戦だから当然? 確かにそうだが、再戦の機会がある以上これはまだ終わりではない。
終わっていないのなら、顔を上げて前に進まなければならない。
そうでなければ、本当に終わってしまうのだから。

悔いるのも反省するのも次の糧となるが、それで下を向いていては仕方がない。
むしろ、下を向いていては自責と後悔で心が折れてしまう。
辛く苦しい時にこそ、顔を上げて前を見なければならない事を兼一は知っている。
俯いてしまった結果と、顔を上げた結果、その両方を知っているのだから。

「そして、この敗北でまだまだ修業が足りない事はギンガもよく分かった筈だ。
 それを教えてくれた相手に感謝し、今度はその手で御礼をしなさい」
「…………はい。次こそは、必ず勝ちます! それで、いいんですよね…師匠」
「うん、その意気でいこう」

決然とした面持ちで答えるギンガに、兼一は弟子の肩に手を置いてにこやかに笑いかける。
まぁ、これで素直に終わっていればよかったのだが……兼一の肩から降りた翔が、必死の身振り手振りでギンガに危機を知らせるも、悲しい事にギンガはその事に気付かない。

「さしあたっては……」
「はい! どんな修業も恐れません」
「え? あ、そう? それならもっとゴージャスかつデンジャラスに……」

不用意な発言と共に、師の顔に浮かぶ不吉ないい笑顔と目から放たれる怪光線。
即座に命の危機を察したギンガは、平身低頭して許しを乞う。

「すみません、恐れるかもしれません。割と早めに」
「ハハハ、何てね。冗談冗談。
だけど、その意気に免じてここは一つ限界を超えるために……」
「じ、地獄の様な修業をしようと?」

ゴージャスかつデンジャラスというのは冗談らしいが、それでも頬が引きつるギンガ。
今までは「限界ギリギリ」だったが、今後は「限界を超える」と聞いて慄くのも無理はない。
この男に限って、誇張などではない事をギンガは身を持って知っているのだから。
まぁ、修業時代の兼一など「常態」として限界を越え、さらなる危険に「無茶を承知」で放り込まれていたのだから、それに比べれば今のギンガの状況はよほどマシとは言える。
つまりギンガにとっては最悪に近い現状も、兼一からすればまだまだ上があるわけだ。だからこそ、笑って弟子を追い詰めることができるのだろうが。
しかし、兼一から返ってきた言葉は思いの外優しかった、のかもしれない。

「いやいや、そんな事は考えてないよ」
「……ほっ。(そうよね、今までが地獄みたいなものだったわけだし、これ以上なんて……)」
「地獄の修業をするだけさ」
「えええええええええええええ!? もっとひどいじゃないですか!!」
「え、そう? 地獄の底じゃないだけマシだと思うんだけど……」
(比較対象がイヤ過ぎる……)

心底引いた表情で呻くギンガ。
確かに、「地獄の底」に比べれば「ただの地獄」の方がましかもしれない。

だがそれは、あくまでも比較した場合の話。9と10を比較すれば、確かに10の方が大きいと言うだけだ。
だからと言って、9なら問題ないと言うことでは断じてない。

「なに、人間いつかは慣れるさ。敗北の傷を忘れるには辛い修業が一番だよ」
「もし、慣れなかったら?」
「……………………………………埋められるならどこがいい?」
「埋めるな! というか、慣れなかったら死ぬんですか!?」
「修業なんてそんなものさ。まぁ、どうしても嫌なら無理にとは言わないけど……」
(逃げたい、本音を言えばすぐにでも逃げたい! 逃げられる気はしないけど。
でも、この人の事だからホントにイヤと言えばやらせない可能性もあるし……………だけど、それでいいの?)

理由や形はどうあれ、これでも弟子を思って言ってくれていることくらいはわかっている。
過激で過酷で過剰な修業ではあるが、それでも師を疑った事はないし、今も疑ってはいない。

(逃げ出したとして、私は…………戻ってこれる?)

一度逃げて、もう一度この場所に戻ってこれる自信は…………ない。
たった一度でも逃げ出せば、心が折れて、もう二度と戻れない気がするのだ。
帰ってこれるだけの、折れた心を戻せるだけの強さがあるかわからない。
だからこそ、ギンガの出す答えは決まっていたのかもしれない。

「…………………やります。強く、なれるのなら」

ギンガの答えに、兼一は一層笑みを深める。
昔の彼であれば、一目散に逃げ出していた事だろう。
自分と違って逃げることなく受けて立つ弟子。それが嬉しくて仕方がないと見える。

ただ、果たして「逃げ出さない者」と「何度は逃げ出しても戻ってくる者」。
このどちらの方がより心が強いのか、それはわからないが。

そうして、話を終えた兼一はようやくなのはの方へと顔を向ける。
その頃にはなのはも精神を立て直し、真正面から兼一を見据えていた。

「ああ、何と言いますか…………お、お久しぶりです、兼一さん。
それと、その子はもしかして……」
「ああ、そう言えばちゃんと会うのは初めてなんだよね。翔、ごあいさつ」
「う、うん。は、はじめまして、白浜翔です!」

少し戸惑い気味ながら、元気よく頭を下げて挨拶する翔。
なのはは、そんな翔を優しげに、同時にどこか寂しげに見つめる。
彼女も気付いたのだ、その瞳の色が、母親譲りのものである事に。
そう言った端的に見える母親の面影が、懐かしくも悲しいのだろう。
とはいえ、相手がしっかりあいさつしたのにそれに返さないのは礼を失する訳で。

「うん、はじめまして、高町なのはです。兼一さんには、昔から良くしてもらってるんだ。よろしくね、翔」
「は、はい!」

なのはが差し伸べた手を、翔は少しばかり恐々とした様子で握り返す。
ただ、どうにもなのはを見る翔の様子は少々緊張し過ぎている。
それが、気になると言えば気になるなのは。

「ねぇ、なんか妙にかしこまってる気がするんですけど…どうしたの?」
「あ、あの! ギン姉さまとスゥ姉さま……」
「ギン姉…はギンガの事だろうけど、スゥ姉って…もしかしてスバル?」
「あ、はい! 二人からお話は聞いてます、凄い魔導師だって!」
「そうそう、色々聞いたよ。凄い有名人じゃないか、なのはちゃん」
「あ、あははは、そう言われると…照れますね。ギンガもスバルも、どんな事話したの?」
「その、なのはさんに助けてもらった事とか、管理局のエースオブエースって事とかですけど……」
「べ、別に誇張したりはしてませんよ?」
「まぁ、いいけど……」

どうやら、そこまで「凄い」と意識されるのは気恥ずかしいらしく、少々顔を赤らめるなのは。
だが、そんななのはの気も知らず、翔は相変わらずキラキラと憧憬の眼差しを向けていた。
分野は違えど、それでも相手は一つの分野で万人から優れた人物と評価された存在だ。
子どもらしく、素直に「凄いなぁ」と思うのも当然だろう。

とはいえ、なのはとしてはやはりその視線は困るらしい。
助けを求める様に兼一に視線を向けると、彼もそれに苦笑しつつ話を逸らす。
それくらいには空気を読めるようになったのだ。

「でも、本当に久しぶりだね、なのはちゃん。ますます桃子さん似の美人になって、ご両親も鼻が高いだろう。
 まあその分、周りが放っておかなくて心配かもしれないけど」
「あ、ありがとうございます。でも、べ、別にそんな事は……」
「そう? ところで、士郎さんや桃子さんは元気?」
「は、はい。あんまり実家には帰ってないんですけど、相変わらず新婚気分みたいです」
「そっかぁ、相変わらずなんだねぇ。でも、ちゃんと帰らないとダメだよ、みんな心配してるだろうし」
「き、気をつけます」
「ところで、お店の方は?」
「その、繁盛してますよ。確か前に『後継者がいない~』って、お母さんが愚痴ってましたけど」
「二代目候補だったなのはちゃんが、今や戦技教導官だもんねぇ」
「話が弾んでる…のかな?」
「というか、なんかなのはさんがやけに落ち着きがないんだけど……」

何か苦手意識でもあるのか、なのはの表情は引きつり気味で歯切れも悪い。
動揺から抜けだしきれていないと言うのもありうるので、あまり気にする程の事でもないが、一応理由はある。
ただし、スバルやティアナ的にはもっと別の事の方が気になるのだった。

「それになのはさん、なんか普通の女の子みたいに見えない?」
「アンタも、そう思う?」
「うん……」

憧れの人の思ってもみない姿に困惑するスバル。ティアナもそれは大差ない。
無理もないのかもしれないが、彼女達が持つなのはへのイメージには多分に誇張された部分がある。
局の内外で流れる噂などは、本来のなのはから独り歩きしている部分があるので、仕方がないと言えばそれまでだが。ただそのせいで、どうにも「素に近いなのはの姿」に驚きを隠せずにいるらしい。

しかし、どれほど祭り上げられた所で、高町なのはも一人の人間に過ぎない以上そういう面はあって当然だ。
欠点や短所、弱さを持たない人間などおらず、なのはとて例外ではない。
だが、その事に二人はまだ気付いていないのかもしれない。
あるいは、わかっていても先入観ともいうべきイメージ(偶像)がそれを阻むのか。
とはいえ、そんな二人を余所に話は進んで行く。

「そういえば、5年ぶり……って事はないよね、確か」
「あ、はい。その……美羽さんのお葬式には出られませんでしたから」

これが、なのはの歯切れの悪さの原因。早い話が、顔を合わせずらいのである。
5年前となれば、学校と掛け持ちとは言え管理局での仕事もバリバリこなしていた頃。
中には数日帰れない事もあり、丁度それがぶつかったのが美羽の葬儀の日だったのだ。

魔法と出会うよりもさらに前。
本当に普通の、無力な子どもだった頃からほのかをはじめ、兼一や美羽には世話になった。
特に美羽には手製の和菓子をふるまってもらい、かなり可愛がってもらったりしたものだ。
強く美しく、賢く気立ても良くて優しかった完璧超人の美羽は、なのはにとって憧れの女性の一人。
仕方がなかったとはいえ、そんな相手の葬儀に出られなかったのは、本当に心苦しかったのだろう。

兄達に弔辞を託しはしたが、性格的にそれでよしと出来る筈もなく。
なんとか時間を見つけて墓参りをし、位牌に線香を上げる位はできた。
だが互いに仕事を持つ者同士、時間が合わず、兼一は後からなのはが尋ねた事を母から聞いたのだ。
それ以前も、管理局の仕事が多くなるにつれて兼一達と合う機会は減っていた。
実質的な空白の時間は、やはり5年では済むまい。

「中々お墓参りもできず、こうして直接お悔やみの言葉をも伝えられなくて、本当に申し訳なくて……」
「いや、気にしないで。そうして悼んでくれるだけでも、きっと美羽さんは喜んでくれるよ。
 むしろ、妹みたいに可愛がってたなのはちゃんがそんな悲しい顔をしてたら、美羽さんも悲しむ」
「そう言ってくださると、少しだけ救われます」

兼一の言葉に、なのはは僅かに安堵する。
別に、彼の性格を考えれば何か厳しい事を言われるとは思っていないが、それでもこう言ってもらえると心が軽くなる。実際、中々墓参りもできない事は心苦しい限りだったのだ。
まあそれはそれとして、なのはとしては一つどうしても気になる事がある。

「所で兼一さん、ロストロギアに巻き込まれたってシャーリーが言ってましたけど、ホントなんですか?」
「あ~、うん、まぁ」
「なんでまたそんな物に……」

彼女も大概ではあるが、普通は管理外世界で早々魔法やロストロギアに関わるものではない。
それも、全く魔力の欠片もない兼一がとなれば尚更だ。
その意味で、なのはの疑問も当然のものだろう。

「いやぁ、実はね」
「実は?」
「あれ、長老がお守りとして翔にあげたものでさ」
「長老さんだと、普通に納得してしまえるのが凄いですね」
「だよねぇ……」

詳しい事情など一切関係なく、問答無用の説得力があるのだから凄まじい話だ。
実際、二人揃って呆れるやら感心するやら微妙な表情だ。
その後もグレアム元提督と友人だと言う話が出たのだが、驚きこそすれすんなりと受け止めるなのは。
これもまた、ある意味長老の人徳のなせる技だろう。

とはいえ、このままだと周りが置いてけぼり。
一応、一連のやり取りでそれなりに知らない仲ではない事はわかるが、それだけに過ぎない。
そこで、いい加減痺れを切らして一念発起したヴィータが動く。

「あのよ、旧交を温めてるとこ悪ぃんだが、そろそろ紹介してくれねぇか?」
「あ、ごめんね、ヴィータちゃん」
「いいからよ、あっちで混乱してる連中に事情を説明してくれ。
あたしらもたいしてわかっちゃいねぇが、多少想像がつくだけまだマシだからいいけどよ。
アイツらはそうじゃねぇだろ」

何しろ、スバル達は兼一となのはの兄が友人ということくらいしか知らない。
ましてや、達人やらギンガの師匠発言やらわからない事が多過ぎる。
ヴィータとシグナムは、まだ高町家の事や達人の事を知っているだけにマシだが、それでもわからないことだらけ。早く色々説明して欲しい事に変わりはない。

「えっと、もう分かってるかもしれないけど、こちら私のお兄ちゃんの友達の『白浜兼一』さん。
 世間では達人なんて呼ばれてる人…でいいんですよね?」

なのは自身、別にそこまで武術の世界に詳しいわけではない。
家庭の事情からそれなりに知識と理解はあるが、所詮はその程度。
なので、正確にいつ頃から兼一が達人級入りしたのかは良く分かっていない。
多分そうなんだろうと言うのはわかっているが、念の為の確認である。

「うん、まぁ一応はね」
「あの、さっきから疑問だったんですけど、何なんですか、達人って?」

疑問を口にしたのはティアナだ。
さっきから何度か出た言葉だが、ちゃんとした説明はまだ貰っていないのだから当然だろう。

「何、って聞かれると逆に困っちゃうんだけど……武術を極めた人、かな?」
「いや、ですからそれだけだと……」
「つまり、具体的にどんな事が出来るのかを知りたいのだろう?」
「その……はい」

所謂「何が疑問かすらよく分かっていない」状態のティアナの言葉を、わかりやすい形に直すシグナム。
これでもだいぶ曖昧だが、それでも一定の方向性は示された。
ならば、ある程度具体的な事を説明することもできるだろう。

「具体的に………………銃弾を避けるとか、車並の速度で走るとか、そういうの?」
『へ?』
「あとは、車を持ち上げるとか、銃口を握力で潰すとかもできますよね?」
「まぁ、それくらいなら」
『できるんですか!?』

あまりにも非常識な事柄に対し、驚愕を露わにする新人組とシャーリー。
シグナムやヴィータ、それに兼一を師に持つギンガなどは「そういう反応するよな」という顔をしていた。
ちなみにコルトの場合、まるで値踏みでもする様に兼一を睨んでいる。

「あの、兼一さんからは全く魔力を感じないんですけど……」
「確か、ギン姉から聞いた話だと、兼一さんはリンカーコアもないって……」
「まあ、別に不思議じゃないよ。兼一さんは武術家であって魔導師じゃないんだから、魔力がなくてもねぇ」
「達人って言う人は魔力なしでそういう事が出来るって事ですか!?」
「チビッコ、アンタもやっぱりそういう風に聞こえた?」
「それ以外にどう解釈すればいいんでしょう?」
「まあ、そうよね」

新人たちは、各々全く未知の概念である「達人」という存在に呆気にとられる。
まぁ、初めて知った達人が兼一だった事もあるのだろう。
正直、どれだけ言葉を重ねられても信じ難い思いが強い。
どこからどう見ても、白浜兼一という男にそんな様子は欠片も見受けられないのだから。

「そういや、なのは」
「なに、ヴィータちゃん」
「こいつ、なんの達人なんだ? 槍か? それとも刀か?」

無理もないのかもしれないが、ヴィータ達の知る達人は高町家の関係者だけである。
故に、真っ先に思い浮かんだのが武器使いでも仕方がないだろう。

「ううん。というか、兼一さんは武器使いじゃないし」
「まぁ、そうじゃなきゃギンガが弟子なのはおかしいよな。って事は、晶さんと同じ格闘系か。
で、何やってるんだ、お前?」
「ええっと、空手と柔術とムエタイと中国拳法を嗜んでます」
「……………………で、どれがメインなんだ?」
「あ、いえ、一応全部なんですよね、これが」
「……………………………………………マジなのか?」
「うん。信じられないのはわかるんだけど、本当」

胡乱気なヴィータの問いに、なのはは苦笑いを浮かべながら首肯する。
普通に考えれば、確かに疑いたくなるような事実だ。
しかし、幾ら疑った所で事実は変わらない。
実際問題として、白浜兼一がそれらの達人である事は事実なのだから。

「でも、こうして考えてみると、ギンガは幸せだよねぇ」
「高町、それはどう言う事だ?」
「えっとですね、今言った通り兼一さんはいくつもの武術の達人です」
「まあ、確かにその時点で破格だとは思うが……」

シグナム達は知らないし、なのはも詳しくは知らないが、兼一の師は誰も彼もが真の達人ばかり。
その豪華さは、「これだけの達人に一度に教わるなど、一国の王ですら不可能」と言われる程。
逆に言えば、それだけの面々から教わった兼一から教われると言うのも、それに匹敵する幸運という事も出来る。

「でも、それだけじゃないんですよね」
「……というと?」
「シグナムさん、新白連合って知ってます?」
「海鳴にいた頃に名前くらいは聞いた事があるが、それがどうした?」
「兼一さん、元はそこの一員なんです」
「「なに!?」」

多少なり新白連合の名は知っていたらしく、シグナムとヴィータの驚きは大きい。
管理外世界の一企業の事など他の面々にはわからないだろうが、5年前はまだ八神家一同も海鳴にいた。
故に、丁度名が広まり始めたその存在を知っていてもおかしくはない。
あの当時からそれなりに世を賑せていた企業の人間。武術とは一見関係なさそうだが、驚きがある事に違いはない。まぁ、やはりこの点に関してもなのはは詳しくないので、「一員」という事くらいしか知らないわけだが。
つまり、早い話がなのはの持つ武術界の知識は非常に中途半端なのだ。仕方のない事ではあるけれど。

「美羽さんが亡くなってスグにやめたって、お兄ちゃんに聞きましたから」
「でもよ、なんで達人がんな企業に属してたんだ? もっと他にいい場所があるだろ」
「待て、ヴィータ。確か、新白連合は格闘団体か何かではなかったか?」
「あん? そうだっけか?」
「うむ、私もうろ覚えなのだが……」
「ええ、そうですよ。一応連合は武術関係の組織ですから」

シグナムの曖昧な記憶を補強する兼一。
ただし、あまり事を大きくしたくないのか、ナンバー2であったことなどは口にしない。
奥ゆかしいと言うよりは、単に尻ごみしているだけだろうが。

(なるほどな、そういう事なら達人が所属していたのもうなずける。
 武術系の組織という事なら、十中八九幹部クラスか。しかし、だとすると……)
「けどよ、それとギンガと何の関係があるんだ?」
「いや。というか、そもそもなぜやめたのだ? やめていなければ、地位や権力、それに金銭…は武人の貴殿からすれば興味が薄いかも知れんが、やめる理由にはなるまい。
 何か、袂を分かつような事でもあったのか?」
「いえ、そんな事は別に。ちょっとした、一身上の都合です」
(まぁ、あまり詮索することでもないか)

兼一の言葉と表情から、あまり話したくないというニュアンスをくみ取ったのか。
この点に関しては、シグナムもそれ以上の詮索はしない。

「しかし、達人級の武を修めた貴殿であれば、各方面から引く手数多だったのでは?」
「まあ、分不相応ながら」
「それなのにわざわざ局の二等陸士に身をやつしてまでギンガを弟子に、か。
 なるほど、確かにギンガは幸せ者だ」

シグナムは兼一の言から、あらゆる勧誘を蹴ってギンガを弟子にするべく局入りしたと判断し、微笑を浮かべる。
概ねその判断に間違いはないので、兼一も特に何も言わない。
あらゆる世俗の栄誉と富を振り払い、異界の組織の下っ端になってまで弟子にと望まれたのだ。
それは確かに、幸せ者と言えるだろう。

「ところで、恭也の友だったのだろう? 勝率はどれくらいだったのだ」
「5年前まででしたら五分くらいですかね。妻が逝ってからは、手合わせはしていませんけど……」
『なぁ、シグナム』
『何だ?』
『どうも話を聞いてるとよ、5年前からその方面と離れた様な感じなんだけど、どう思う?』
『確かにその様だが、詮索するだけ野暮というものだろう』
『まあ、後ろ暗い事があるわけでもねぇならそうだろうけどよ』

念話で密談する二人だが、シグナムはあまりこの事を突っ込む気はない。
別に犯罪でもないのなら無理に聞く気はない。
ヴィータもそれに気付いたらしく、それ以上問いかけることはしなかった。

「恭也と互角、か。それほどの武人とは露知らず、失礼した。
 今までお会いできなかったのは残念だが……」
「あの、シグナムさん?」
「なんだ、高町」
「あのですね、多分会った事ありますよ、前に」
「なに?」
「そうなのか?」
「うん。兼一さん、お兄ちゃんと忍さんの結婚式にも出てくれたし」

てっきりこれまで会った事がないと思っていたらしいが、よくよく考えてみればこれは当然だろう。
兼一と恭也達がそれなりに親しくしていた以上、結婚式に招待されても不思議はない。
なら、その場でシグナム達と会っていた可能性はあって当然だ。
なのはもその証拠を探すべく、デジタル化した写真を引っ張りだし検索する。

「ええと…………あった! これこれ」
「うん? どこだよ?」
「ほら、ここ」

呼びだされたのは、結婚式の中で撮影されたと思しき写真。
ここに映っていれば、間違いなく一度は顔を合わせていた証明になる。
なのはが示すそれには、複数の人物が映っている。そして、その一人は……

「ふむ、確かにいるな。しかし、なぜ今の今まで忘れていたのか……」

過去に会った事があるにもかかわらず、全く記憶にとどめていなかった事をいぶかしむシグナム。
だがそれも、ヴィータの言葉によって得心へと変わる。

「あ? そんなの………………周りが濃すぎるからだろ」

ヴィータが示すのは、兼一の周りに映る面々。
そこには、個性の塊としか言いようのない連中の姿。
早い話、兼一の師匠達の姿がくっきりと映っていたのである。

「こんな連中と一緒にいたんだ、そりゃ覚えてねぇだろ。地味だし」
「はぐっ!?」
「む、そうだな、思い出してきたぞ。あの日、やけに目立つ上に凄まじい気を放つ連中がいたな。
 すっかりそちらに目がいっていたせいで、気付かなかったのか」
「ぐふぁ!?」

正直な、そうであるが故に無慈悲な言葉の数々。
誰とは言わないが、その言葉に多大な精神的ダメージを受けている男が一人いた。

「け、兼一さ―――――――――ん! どうしたんですか―――――――――――!?」
「し、師匠――――――――――――!? しっかりしてくださ―――――――い!!」
「父様―――――――――――!?」
「いいんだ、いいんだ。どうせ僕は地味だよ、没個性だよ、弱そうですよ~だ」

灰色の床に体を横たえ、コンクリートの床にグリグリと指を押し当てる兼一。
さりげなく指がめり込んでいるのだが、彼の放つ鬱なオーラがそれを覆い隠す。
仕方がない事とは言え、さすがに師匠達に個性ではかなわない。

その後、すっかり凹んでしまった兼一を励ますのにいくばくかの時間を要するのだった。
もちろんその間、新人組やコルトなどがすっかり置いてけぼりを食ったのは、言うまでもない。






あとがき

はぁ、ようやくなのはとご対面でございます。
ただ実をいうと、ここでやりたい事の半分ちょいくらいしかできていない不思議。全部入れるとなるとかなり長くなりそうですし、そもそも収まり切らない可能性があるのでここで一端区切りました。
なので、次回はこの続きになります。つまり、はじめの事件とかはまだもうしばらく先になりますね。
実際、まだなのは達にとって兼一の実力は未知数ですし、次に進む為に踏まなければならない段階も残っていますから。
とはいえ、つくづく話が進まない。端折っていい部分でもないので仕方ないと言えばそうなんですけどね。
まあ、気長にお付き合いくだされば幸いです。
あと、残念だったのはあんまり兼一に良い事を言わせられなかった事ですかね。もう少し良い事を言わせられたらよかったんですけど……。

ちなみに、ヴィータが恭也とかに対して「さん」付けなのは、サウンドステージを聞く限りではすずかとかには敬語を使ってますし、ならおかしくもないのではないかと思ったからですね。
あと、タイトルが「5年」なのは作中内での年度が変わったからです。六課に来る前は年中だった翔も、今や年長。次の年には初等部1年になりますからね。



[25730] BATTLE 17「それぞれの事情」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/07/31 15:46

機動六課が正式に稼働した日の晩。
その食堂にて、八神家一同はその日あった出来事について報告し合っていた。
その中には当然、この日になって発覚した一人の達人の事も含まれている。

「はぁ……まさか、達人級がおったとは。
AMFの事を考えるとありがたいんやけど、頼もしいやら空恐ろしいやら……」

微妙な表情で乾いた笑みを浮かべるはやて。
彼女としても、魔法の世界においても非常識なあの存在と再び関わるとは思っていなかったのだろう。
だがその瞬間、その脳裏に意味もなく迷案が閃いた。

「そや、折角やからリインも鍛えてもらうか?」
「い、イヤです! そんな事したらリインは死んでしまうです!
 はやてちゃん、リインのフィジカルの弱さを甘く見ないでください!!」

唐突に投げかけられた問いに、顔を青ざめて震えるリイン。
はやても冗談で言ったのだろうが、本人としてはあまりにもシャレにならないらしい。
そんな二人のやり取りを聞く守護騎士一同の顔には、何とも言えない表情が浮かんでいた。

「威張って言う事かよ」
「まぁ、事実ではあるがな」
「適性がないどころじゃありませんもんねぇ」
「……魔法がなければ、小動物にすら勝てんからな」

実際、リインのフィジカルの弱さは尋常ではない。
身体のサイズの関係上仕方ないとはいえ、彼女は魔法が使えなければ文字通り無力な小人。
適性がないと分かっていても、あまりにも貧弱すぎるのも考えもの、というレベルなのだ。
だからこそ、AMFが絡んでくるこの案件では皆はリインの身が心配だったりする。

「けど、案外いいかもな。いつもバッグで運んでもらってると、祝福の風の名が泣くぞ」
「うむ。物は試しだ、自分の限界を知るのは良い事だぞ」
「それに失敗を恐れていては進歩もない。まぁ、十中八九失敗するだろうが」
「みんな厳し過ぎなのですよぉ!? シャマルゥ~!」
「よしよし、もう泣かないでリインちゃん。みんなもね、リインちゃんの事が心配で言ってるんだから」
「「「シャマルはリインに甘い」」」

泣きつくリインを優しく胸を課すシャマルだが、そんな彼女に咎める様な視線が向けられる。
末っ子が甘やかされるのは良くある事だが、少々それが過ぎると言いたいらしい。
まぁ、これも末っ子の事を思っての事なのだが。

「せやけど、白浜二士はシャマルの患者さんやったんやろ。その時に気づかへんかったん?」
「あ、その…確かにすごい身体だなぁとは思いましたし、疑ってはいたんですが……」

まさかそんな偶然がそうそうあるとも思えず、確信が持てなかったのだろう。
眼を泳がせ、どこかバツが悪そうなシャマル。
だが、そんなシャマルにヴィータが助け船を出す。

「いや、無理もねぇって。実際、あたしとシグナムもすっかり騙されたからな」
「二人の目を欺くやなんて、とんでもない話やな」
「しかも本人、騙す気も欺く気もなしに素でアレだしよ。負け惜しみじゃねぇけど、普通気づかねぇって。
だってアイツ…………パッと見、全然強そうに見えねぇぞ」
『まぁ、確かに……』

ヴィータのあまりに直球で本人には聞かせられない一言に、誰もが言葉を濁しながらも同意する。
正直、達人と知った今でも信じられない思いが強い。
何しろ、パッと見の第一印象と「達人」という単語は、あまりにも不釣り合いだ。
もしかすると、だからこそグレアムやゲンヤは事前にその事を教えていなかったのかもしれない。
言ってもどうせ信じないだろう、という考えはあながち間違いではないのだから。
ちなみにこの瞬間、兼一がくしゃみをしたらしいが、その因果関係は不明である。

(とりあえず、ロッサはシスターシャッハにしばいてもらうとして……)

自信満々、意気揚々と「任せておけ」と断言した兄貴分は見過ごすわけにはいかない。
彼の調査能力に絶対の信頼を置いているからこそ、「わざと報告しなかった」と確信しているのだ。
しかもその予想が大当たりである以上、折檻されても文句は言えないヴェロッサである。
まあ、それはそれとして……。

「にしても、なのはちゃんの知り合いやったとはなぁ。
でもまぁ、それならリインが見覚えがあったのも納得やけど」
「おめぇ、良く覚えてたよな。周りにいたの、こんな濃い連中だぞ」

そう言ってヴィータが呼び出したのは、なのはから借りた結婚式の時の写真。
そこに映るのは、褐色の肌の巨人や凄まじい強面の大男、金髪と髭が特徴的な筋骨隆々の老人など。
正直、あまりにも個性的すぎてその近くにいる凡庸な男の事など目に映らない。
仮に映っても、決して記憶に残らないこと請け合いだ。

「えっへん、リインの記憶力を甘く見てはいけないのです!」
「といっても、見覚えがあっただけで確信はなかったのだろう」
「ま、まぁそうですけど……」

ちっこい上にペッタンコなうす~い胸を張って威張るリインだったが、ザフィーラの突っ込みですぐにションボリする。良くも悪くも、この感情の起伏は実に子どもっぽい。まぁ、口にしたら本人は怒るのだろうが。
だがそれはそれとして、部隊長であるはやてとしては確認しておかなければならない事がある。

「ところで、結局この人はどういう扱いにするつもりなん?」
「はやての許可さえありゃ、戦闘要員として作戦に組み込むつもりなんだけどさ、どうする?」
「かまへんよ。達人っちゅうだけでも、実力は保障されとる。
相手がガジェットなら、ある意味最高の人材やしな。
 その上、Cランク魔導師5人を無血制圧の実績もあるし、実力もギンガ以上のお墨付き。
文句のつけようがないやん」
「そっか、ならなのは達にも教えてやんねぇとな」

ある意味予想通り、あっさりと許可を出すはやて。
彼女も、なのは程ではないが達人という人種への知識はある。
何しろ家族であるシグナムなどは、割と頻繁に恭也と手合わせをしていたのだ。
手合わせの話を聞いたり、時には直接見学したりした事もあった。
おかげで、勝手にある程度の理解を得るに至ったのである。

「せやけど……」
『?』
「なのはちゃん、教導の方はどうするつもりなんやろ。こと、フィジカル面についてあっちはプロどころの話やないで。やっぱり、ある程度お願いするんかな? ギンガの事も気になるし」
「ああ、その事か。ギンガは、日中はなのはの戦技教導と折半、それ以外はアイツが担当するってよ。
 ま、実際には臨機応変に調整するらしいけど、なのはの手を借りるのは決定だな」
「まぁ、白浜二士は魔法資質そのものがないわけやし、その辺が妥当かもしれへんね」

ギンガは純粋な格闘家ではなく、あくまでも魔法を駆使する格闘系魔導師だ。
ならば、魔法の指導を受けて損はない。
そして、兼一にその点を教える事ができない以上、出来る相手に頼むのは必然だ。
兼一自身、師匠をかけ持ちしていた経歴から、自分に教えられない事を頼むのに抵抗は少ない。

「せやけど、時間はそれだけで大丈夫なんやろか?」
「本人も学生時代日中は学校、それ以外を修業に当ててたから問題ないってよ。
 108にいた時も、日中は仕事だったから訓練は基本朝・夕・晩だったらしいし」
「ふ~ん。新人達は? やっぱり、専門家にお任せするん?」

ギンガに関しては、兼一となのはがそれで良しとしているのなら口を出す気はなかった。
生憎、はやては兼一やなのはの様なその筋の人ではない。

とはいえ、新人達とギンガでは色々と事情が異なる。
まず根本的な問題として、彼らは兼一の弟子ではない。
達人的に、弟子以外を鍛える事がどういう位置づけになるのかイマイチわからないのだ。
また、ライトニングに限れば保護者の反応も気になる。

(達人の訓練っちゅうのが具体的にどんなんかはようわからへんけど、下手したらフェイトちゃん…………発狂するんちゃうかな?)

達人とは、人知を越えた肉体とそれを完璧にコントロールする技術を持つ生き物。
そんな人間の指導が、生半可ではない事くらいは想像がつく。何をするかまでは想像できないが。

なにしろそこは、到底合理的とは言えない道筋の果てに至る領域。
一般的には、『適度な練習』と『適度な休養』を推奨されるが、そんな限度を守っていては達人にはなれない。

鍛えれば鍛えるほど肉体は強靭になり、磨けば磨くほど技は冴える。
限度を知らないある種の『信仰』を貫いた者達こそが達人。
五体どころか五臓六腑に至るまでが、極限をも超越する愚直かつ狂信的な鍛錬の結晶なのだ。

とりあえず、そんな連中が課す鍛錬をさせて、あの心配性の子煩悩が正気でいられるだろうか。
気になると言えば、それが一番に気になるはやてだが、既に話は先に進みかけていたりする。

「実はエリオが、知らずに訓練に参加しようとしてたらしいんだけどさ」
「知らないとはいえ、早まった事をするですね、エリオも」

兼一の本質を知らない段階での希望だったのだから仕方がないとは思う。
しかし、やはり覚悟もなく飛び込もうとしたのは無謀としか言えないだろう。
なにより、その訓練内容によっては金色の保護者が大変な事になってしまうかもしれない。
とはいえ、幸いな事にその心配は今のところは杞憂に終わる。

「ちゅうことは、エリオは確定として……他の子達も?」
「ううん、エリオを含めて当分その予定はなしって事になった」
「え、そうなん? てっきり専門家を頼るかと思ってたんやけど」
「いや、それがよぉ……下手すると殺しちまうかもしれねぇし、もう少し頑丈になってからって事で話が纏まった」
「そ、そらまた……」

どの程度マジで言っているのかは分からないが、あながち嘘とも思えないだけに反応に困る。
その事に思い切り顔をひきつらせるはやてだが、実を言うとこれでもまだマシな部類なのだ。
中には、「三日で殺してしまうかもしれない」と期限まで付ける連中もいるのだから。

まぁ、一応兼一は5歳の息子も鍛えているし、手加減を知らないタイプでもない。
なので、そこまで心配しなくてもいいのだろうが、念の為の安全策だろう。
あるいは単なる方便で、しばらくギンガの修業の様子を見てから決めるつもりなのかもしれない。
もしくは、新人達自身にそれがどういうものなのか見せるのが狙いなのか。

「ふむ。せやったらコルトの方は? 実力的には大丈夫そうやけど、どんな感じなん?」
「とりあえず、はっきりと返事はしてねぇけど……」
「拒んだわけやない、と。せやったら、脈はありそうやな」
「たぶんな。教わった方が良いってのはわかってる筈だし、後は折り合いがつくかどうかだな」
「さよか。なら、その事も含めてしばらくは様子を見よ。ギンガが腕を上げれば、気が変わるかもしれへんし」

そうは言いつつも、遠からず兼一の指導ないしアドバイスを受ける様になるのではないかとはやては思う。
むしろ二つ返事で了承しなかったのが意外な位なのだが、何かしら理由があるのだろう。
それでも教官や上官等からの指導は、一応ちゃんと受けてきたのだ。なら、可能性は充分あるだろう。

「ま、さしあたっての問題は明日だな」
「明日? 明日何かあるですか、ヴィータちゃん?」
「いや、大した事じゃねぇんだけどよ。
アイツの実力とか戦い方とかまだよくわかんねぇし、それだと作戦に入れづらいだろ?」
「まぁ、Aランク以上っちゅうことしかわかってへんしね」
「そんなわけだから、軽く模擬戦をやって確認しておこうって事になったんだわ」
「まぁ、それはええんやけど…………何でシグナム不機嫌なん?
 こういう時、一番楽しみにしてそうやのに」

確かにヴィータの言う通り、口頭や資料だけの情報では少々心許ない。
背中を預けて戦う以上、実際に戦う姿を見ておくにこした事はないだろう。
どんな戦い方をして、どんな傾向があるのか、それらを知らないままなのは不味い。
下手をすると、互いに足を引っ張り合う事にもなりかねないのだから。
別に全力を出し切る必要はないが、最低限見ておきたい事があるのだ。

まあ、それなら訓練用のガジェットでもいいのだが、武術とはそもそも対人戦の技術。
なら、やはりやる相手は人間である方が望ましいし、その方が多彩な技を披露できる。
どうせなら新人達に高度な技術を見せてやりたいなのはの親心もあって、模擬戦と相成ったわけだ。

なので、それ自体は別にいい。
ただ、なぜにこういう時に一番ウキウキしていそうな決闘趣味のシグナムが、ブスッと不貞腐れているのかがわからないのだ。しかも、どこかそれだけではない違和感がある。

「シグナム、なんで拗ねてるですか? 何かイヤな事でもあったですか?
 そう言えば、さっきからなんだか上の空の様な……」

思い返して見ると、最初のころ以来シグナムは一切会話に参加していない。
何を考えているのかは定かではないが、とにかくだいぶ様子がおかしい。

「別に、拗ねているわけでも不機嫌なわけでもない。私はいたっていつも通りだ。ああ、何も変わらないとも」
「「?」」
「気にしなくていいぞ、はやて・リイン」

当事者としてその事情を知っているヴィータは、どこか呆れの混じったため息をつく。
同時に、その事情の元凶たるザフィーラは、少々居心地が悪そうだ。
理由のわからないはやてとリイン、それにシャマルは揃ってらしくないシグナムの様子に首を傾げている。
ヴィータは一つため息をつくと、その訳を話し出した。



BATTLE 17「それぞれの事情」



場面は戻って、機動六課訓練場。
一通りの事情やらなんやらを確認し終えた所で、ヴィータは密かになのはに念話を送っていた。

『なぁ、なのは』
『なにヴィータちゃん?』
『アイツが達人で、お前の知り合いなのはわかった。
 ついでに、正直信じられねぇような事情でここにいるのも、納得はしていねぇけど理解はした』
『まぁ、気持ちは分かるけどね。だけど、あの人達に関しては諦めちゃった方が早いよ』

それはそれでどうなのかと思わなくもないが、今は丁重に横に置いておくヴィータ。
外見は子どもでも、そういう大人な対応ができる大人の女なのだ、自己申告的には。
なにより、個人的にもっと気になる事があるわけで……。

『だけどよアイツ、さっきギンガに「地獄の修業をさせる」とか言ってたけど、何させる気か確認しなくていいのか?』
『…………』
『恭也さん達を見てても、達人の修業が半端じゃねぇのはあたしにも多少はわかる。
 それだけのもんが必要な道なんだろうけどよ……大丈夫なのか?』
『大丈夫って?』

心配そうに、同時に何かを手探りで確認するかの様に言葉を選びながら話すヴィータ。
彼女は知っているのだ。なのはの教導における基本方針。過去の手痛い教訓に基づくそれを。

『だから、ギンガの事だよ! あんま無茶して、その…………昔のお前みたいになるのもアレだろ。
 お前、そういうの絶対許さないじゃねぇか。なのに、今回は普通にスルーしてるし……』
『ああ、その事』
『その事っておい!?』

予想に反し、あまりにも素っ気ないなのはの反応に思わず語調を荒げるヴィータ。
彼女の知るなのはなら、本来決して見過ごさない筈の事だから。
だが、そんな十年来の友人に対し、なのはは静かに万感の思いを込めて礼を口にする。

『ありがとね、ヴィータちゃん』
『な、何がだよ……』
『ギンガの事もそうだけど、私とかみんなの事も心配してくれてるんでしょ? ヴィータちゃん優しいから』
『そ、そんなんじゃなくてだな!!』
『でもね、大丈夫だよ。そりゃ、兼一さんが「地獄の修業をさせる」って言うんなら、相当無茶な事をさせるんだと思う。もしかすると、命の危険がある位の事はするかもね』
『おいおい……』
『だけど、こと武術に関して兼一さんはエキスパートだからね。
私が口出しできる事じゃないし、ギンガが兼一さんの後を追うのならこれが一番なんだよ』
『まあ、そりゃそうだろうけどよぉ……』

確かに、達人を目指すのなら直接達人に学ぶ以上の事はない。
本人が覚悟の上でやっているのなら、ヴィータ達にギンガの邪魔をする権利はないだろう。

『何より……』
『何より?』

なのはとて、そこまで詳しく兼一や達人の課す修業を知っているわけではない。
もしかしたら、本来彼女には到底受け入れられない様な修業をさせる可能性もある。
しかしそれでも、なのはは兼一を止めるつもりも、滅多な事でその指導方針に口出しする気もない。

『兼一さん、優しいから。だから、大丈夫だよ』
『それ、理由になってねぇんじゃねぇか?』
『かもね。実際、もし同じ内容でも一人でやってたり、他の人がやらせてるのなら止めるかもしれない。
 今の私には、まだとてもじゃないけど怖くてやらせられないし』
『アイツならいいのかよ』
『良いか悪いかって言うより、大丈夫だと思えるんだよね』

どこか、何かを懐かしむ様な表情でなのはは語る。
その訳を、その根拠を。数年前に聞いたある質問に対する答えを。

『あの怪我が治った後、偶々家に来てた兼一さんに聞いた事があるんだ。
あんな無茶な事をして大丈夫なんですか? いつか大怪我して、武術ができなくなっちゃうかもしれないのに、どうしてこんな危ない事を続けるんですかって』

それはもしかしたら、かつての自分自身に向けた言葉だったのかもしれない。
兼一となのはでは色々異なるし、単純に比べられる事ではないが、危なく無茶な事をしていた事に変わりはなかった。必要だった事とは言え、魔法と出会って間もなく何度も無茶を重ね、その後も……。

その結果の生死の彷徨う大怪我を負い、一度は飛ぶ事はおろか歩く事さえ絶望視されもした。
そんな思いを誰にもさせない為に、同じ轍を踏ませない為の教導がなのはの方針だ。
だから自分以上の結末になりかねない、日常的に無茶を重ねる男に問うたのだろう。

『何て答えたんだ、アイツ?』
『全然大丈夫じゃないって。臨死体験の連続で生きた心地がしないって泣いてた。
 実際、結構何度も脱走してたみたいだしね』
『おっかねぇとかって問題じゃねぇな、そりゃ……』

思わず顔が引きつるヴィータと、愉快げに笑みを零すなのは。
はじめから達人の人間などいる筈がないし、兼一にも修業時代があったのはヴィータも理屈では分かっている。
だが、今まさに弟子にその手の無茶をさせようとしている男が逃げ出す程の何かというのは、正直背筋がうすら寒くなるものがあった。いったい、どれほど危険に満ちた恐怖体験だったのやら。

『でも、疑った事はないって』
『あ?』
『どれだけきつくて無茶で、死にそうになる様な修業でも、師匠さん達を疑った事はないんだって。
 あの人達の教えはまっすぐで、いつも見守ってくれている。命懸けで導いてくれるから大丈夫だって、凄く誇らしそうに言ってたのを、良く覚えてる』
『…………』
『そんな人達に鍛えられた兼一さんだから、ギンガはきっと大丈夫だよ』

揺るぎない、確固とした師への信頼。それが正しかった事を証明する様に、兼一は達人の域に至った。
確かに無茶でどうしようもなく危険な修業だが、大丈夫なのだ。
ちゃんと、それを見守り正しく管理する師がいるのなら。

そしてなのはは、兼一にそれができると信じている。
信じさせてくれるだけの物を、信じるに足る物を、かつてその瞳の奥に見たのだから。

『…………はぁ、わぁったよ。お前がそこまで言うんなら、あたしも信じてやらぁ』
『ありがと。でもまぁ、危ない事に変わりはないから、フィジカルトレーニングに協力してもらうのは、みんながもう少し丈夫になってからにするけどね』
『…………そうしとけ』

ここまで無垢な信頼を見せられては言うだけ無駄と悟ったらしく、溜め息交じりのヴィータ。
完全に兼一の事を信用できる筈もないが、なのはの顔を立てようと言うのだろう。
もしもの時には、なのはと部下を守るためにグラーフアイゼンの頑固な汚れにする気は満々なのだろうが。

で、それはともかくとして。
予想外にも程がある兼一の素性を知って、スバル達が平静でいられる筈もなく……。
まだ白浜兼一という男との繋がりが薄いキャロやシャーリーはマシな部類だが、それでも「魔導師に匹敵する」という突飛かつこれまでの価値観をひっくり返す事実には、俄かに信じたいものがあるのも当然だろう。
なので、スバルがギンガにその真偽を問うたのも無理からぬ事だった。

「ね、ねぇギン姉」
「何が聞きたいかは分かるつもりだけど…なにスバル?」
「Cランク魔導師三人を完封したって言うの、本当なの?」
「というか、弟子入りして2ヶ月、未だに触れる事も出来てないんだけどね、私」

スバルの問いに、ギンガは若干凹みながら答えた。
すると、ただでさえ引きつり気味だったスバルの顔は、最早形容しがたいなにかになっている。
それは他の面々も同様で、スバルの後ろでこっそり話し合っているのだった。

「ギンガさんでもダメって、つまり……」
「単純に考えれば陸戦A以上の戦力、って事になるよね」
「モンディアル三士は同室なんですよね。ご存知でした?」
「ぶんぶんぶんぶんぶんぶん!! し、知りません! 全然全く、初めて知りました!!」

まさか、そんなとんでもない人物だったとは露知らず、朝の鍛錬に参加しようとしていたエリオは、首を激しく左右に振って否定する。
若いとはいえ、エリオは「魔導師」ではなく「騎士」志望。
彼自身槍術の心得があるからこそ、畑は違えども先達に対しては相応の敬意を払わなければならないと教わった。
兼一の人柄と翔の懐っこさもあって、すっかり気安く接する様になってしまっていたが、そこまで突出した武の持ち主だったとは。

だがこの白浜兼一という男、単に優れた武を持つだけの達人ではなかったりする。
しかしそうと知らない面々の間では、こんなやりとりがなされていく。

「でも、副隊長達が知らなかったって事は、あんまり有名じゃないって事じゃないの?」
「あ、そう言えばそうですよね。そんなに凄い人なら、副隊長達が知っててもよさそうですし……」
「でもさ、キャロ。じゃ、有名な人ってどれくらいなのかな?」

あまりにも恐ろし過ぎるシャーリーの言葉を聞き、瞬間的に青ざめる新人達。
なのはがそうである様に、管理世界では優れた魔導師は非常に有名だ。なのは達の場合、その容姿もあって意図的に管理局が宣伝しているのもあるが、優れた術者は相応に有名な場合が多い。

故に、皆がそう勘違いしてしまったのも無理はないだろう。
で、兼一であまり名が知れていないのだとすると、名が広まっている者とはどれだけの怪物なのか。
という話になってしまうのは、ある意味必然なのかもしれない。

「Aランク魔導師を封殺できる様な人で無名って……そんなの、悪夢以外の何物でもないじゃない。
 それじゃ私達が今までやってきた事は、いったいなんだったって言うのよ」

小さく、誰にも聞こえない声量でありながら、溢れんばかりの感情が宿った声でティアナは呟く。
凡人を自認する彼女からすれば、それはまさしく悪夢。
取り得など、射撃魔法とサポート用の幻術位なものとは本人の弁。
彼女にとってそれは、あまりにも心許ない武器だった。
それでも腐らず、一日たりとも欠かす事なく磨き続けた魔法を生身で凌駕する化け物がいる。

相手が自分達と同じ、個人が扱う中では次元世界全体で特に評価される力、魔法を使うなら諦めもつくかもしれない。同じ土俵に立っているのなら、あとは単純な優劣の問題。
それが才能なのか努力なのか、それとも相性なのかは千差万別だが。
もしくは、強力な質量兵器を用いているなら納得もできるだろう。

だが、目の前に立つ男は魔法も兵器も用いず、その身一つで魔導師を圧倒すると言う。
魔法の力を信じてそれを磨き続けた彼女にとっては、この事実はあまりにも受け入れがたい。
身体+魔法+技術の魔導師に対して、身体+技術のみの武術家。優劣など、火を見るより明らか…な筈だった。
にも関わらず、兼一は魔法という絶対的な筈の不利を覆す。

そんな兼一ですら無名だとすると、高名な達人とはどれほどのものなのか。
とはいえ、実の所兼一は割と有名人だったりするのだ、その筋では。

「いやまぁティアナの言う通り、有名じゃないのは確かなんだけど…あくまでも一般社会での話だよ、それ」
「あの、ナカジマ陸曹」
「それは、どういう事なんでしょうか?」
「どうもね、師匠達の身体能力は向こうでも常識外れ過ぎて、世間的にはあんまり知られてないらしいの。
 そうじゃなかったら、師匠が園芸店に就職するのなんてまず無理だしね」

ギンガの言う通り、もし兼一の素性が広く知れ渡っていたら彼の希望は叶えられなかっただろう。
仮に就職できても、希望通りの部署に行けたとは到底思えない。
なにせ、達人と言う存在をあんな所に配属するなど、人的資源の無駄遣いにも程があるのだから。

「へぇ、そうなんだぁ…じゃあ、他の所だと有名だったりするの?」
「うん、鳳凰武侠連盟ってところから幹部にならないかって話もあったらしいし」
「ふ~ん」

地球の武術事情に詳しくないスバルでは、まぁこんなところだろう。
とりあえず、かなりの好条件を出してでも求めた人材、と言う事はわかるのだが……。
そんなスバルの反応を見て、もう少し情報が欲しいと思うギンガ。
彼女自身、今まで色々必死で聞きそびれていた事があるので、丁度いい機会だった。
実を言うと、他にも理由はあるのだが。

「実際どうだったんですか、師匠?」
「え?」
「ですから、鳳凰武侠連盟からはどんな条件を出されたのかな、と。
 新白連合ではナンバー2だったのは聞いてますけど」
「「なに!?」」
『ウソ(なに)!?』

副隊長陣を始め、その場のほぼ全員が驚愕の声を上げる。
幹部クラスなのは予想していたが、まさかナンバー2だったとは。
世界的にも有数の企業のナンバー2。まさか、それほどの好条件を蹴ってこんな所にいるとは、ある意味それが一番の驚きだ。本来なら、今頃相当羽振りの良い生活もできていただろうに。
誰しも、給料日を待ち遠しく思う日々を好んで過ごそうとは思わない。
そんな風にあまりにも皆が驚くものだから、兼一はしどろもどろになっておかしな言い訳を並べ出す。

「え、えっと、連合については、学生時代に悪友が組織したもので、単にそれだけだから……」
(((((((いや、それだけって事はない)))))))

まだ十歳になったばかりのエリオやキャロでもわかる。
規模が小さかったうちはともかく、大きくなっていけばそれだけでナンバー2の地位は確保できない。
確実に、それだけの地位に相応しい何かがあったのは間違いないのだ。

「それで、鳳凰会の方だけど……」
『フンフン』
「確か、日本に支部を出すからそこの支部長にならないか、って話はあったかな」
『おぉ!』

鳳凰武侠連盟が具体的にどの程度の規模の組織なのかは皆にはわからないが、「支部長に抜擢」と聞いて感嘆の声を漏らす面々。だが、実を言うと出された条件はこの程度ではない。
というか、この条件自体が『日本進出に伴い、そのエリア全体の統括を任せたい』というものだったりする。
しかも、他に出された条件はさらにとんでもなく、最高責任者の娘との結婚話や最高幹部への勧誘もあったのだ。
つまり、もし結婚話が現実になっていれば確実に最高幹部、場合によっては最高責任者の伴侶になっていてもおかしくない。それを言わないのは、自慢話をしない奥ゆかしい性格…と言うよりも、ヘタレな性分のせいだが。

と、兼一が皆にアレこれ色々と説明している間、その陰であるやり取りがなされていた。
やり取りをしているのは、ギンガと翔の姉弟弟子コンビ。
二人は兼一が話し始めるのと同時にアイコンタクトを取り、ゆっくりギンガは兼一の右斜め後ろ、翔は左斜め後ろへ。そして配置に付くと、一切の言葉のやり取りもなく二人は一斉に動いた。

((隙あり!!))

挟み打ちに近い形で襲い掛かる弟子二人。
ギンガは隙だらけの師の背中側から脇腹へ渾身の左。
対して、翔は勢いよく跳び上がり父の延髄に蹴りを見舞う。

『っ!?』

兼一に向き合う形で話を聞いていた面々は、突然の二人の行動に声が出ない。
だが、そんな皆の様子は一切気にせず、ギンガと翔は“今度こそ”クリーンヒット、最低でも掠る位はできるのでは“期待”する。しかし……

((とった!!))
「残念」
『え! すり抜けた!?』

二人の会心同時攻撃は、何事もなかったかの様に兼一の身体をすり抜ける。
ヴィータとシグナム、そしてなのはを除く面々は信じ難い光景に驚きを露わにし、特にティアナのそれは大きかった。

「まさか、幻術!?」
「いやぁ、そんな大層なもんじゃねぇだろ」
「ああ、単に高速かつ最小限の動作で避けたからそう見えるだけだ」
(良く見えるなぁ、二人とも)

歴戦の騎士だけあり、さすがにしっかり兼一の動きを捉えている二人に、密かに感嘆のため息を漏らすなのは。彼女とて全く見えていなかったわけではないが、辛うじて影が見えた程度。
素の状態では到底目が追い付かないし、自己強化に関してはベルカの騎士には及ばないが、本来ならもう少しはっきり見えた筈だ。

ただそれも、魔法の発動が「間に合えば」の話。
キャリアの差もあって、さすがに魔法発動速度では二人に及ばない事がこの差を生んだ。

しかし、そうしている間にも事態は動く。
更なる追撃に出ようとギンガは右の回し蹴り、翔は蹴りの勢いを利用した反転し肘打ちを放つ。
だが時すでに遅かった。

「二人とも、精進が足りないよ!!」

言うや否や、後出しにも関わらず遥かに早く届いた豪速の中段蹴りがギンガを打った。
身体はくの字に折れ曲がり、そのままビルの外まで吹っ飛ばされる。

つづいて、軸足でコンクリートの床を踏み、同じ方の手を上方へ突き出す。
所謂、中国拳法における「天王托塔(てんのうたくとう)」である。
真下から突き上げられた掌打の衝撃は防御もろとも翔の身体を貫通し、小さな体は宙を舞う。

「「ぁぁっぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!?」
「ああ、ギン姉!?」
「翔――――――――――!?」

特に二人と繋がりの強い、スバルとエリオが悲鳴を上げる。
このままだとギンガは地面まで転落、翔も頭からコンクリートの床に激突するだろう。
そんな事になれば、どちらもただでは済まない。かと言って、今から動いたのでは翔はともかくギンガの救助は間に合わないだろう。そういう意味では、ギンガは絶望的と言えた。
ただしそれも、このまま落ちるのだとすればの話だが。

「翔、受け身!」
「たああ……!!」

兼一の指示が飛ぶと同時に、それまで無防備に頭から真っ逆さまだった翔は空中で身軽に体勢を変える。
そうして、最終的には後ろ受け身を取り最悪の事態は免れた。さらに……

「ギンガはチンクチ、衝撃に備えろ!!」
「兼一さん、何を!?」
「待って、スバル。あれ」
「え?」

スバルは「チンクチ」の意味など知らないが、衝撃に備えろなど、何もするなに等しい指示だ。
この急場でそんな指示を飛ばす兼一に、一端は食ってかかろうとするスバル。
だが、続いてなのはが指し示した方向に思わず視線を向ける。

そこには、勢い余って隣のビルの窓を突き破るギンガの姿。
おそらく、ギンガを蹴り飛ばすその瞬間からこうするつもりだったのだろう。
そうでなければ、都合よくビルの窓に突っ込む事などありえまい。

また、チンクチとは筋肉と関節を締めて堅くする剛体法の事。
元より窓に蹴り込むつもりだったからこそ、あんな指示を飛ばしたのである。

とはいえ、スバルからすればそれでも開いた口が塞がらずにいた。
明確な意図があっての反撃と指示なのはわかったが、それでも正確に窓に蹴り込む技量が凄まじい。
それは他の面々も思う事だが、そうして唖然としている間にギンガが窓際まで出てくる。
そこには、強かに打ちつけた背中を摩り、蹴られた腹を抑えながらも元気なギンガの姿。
彼女も、大概タフになったものである。

「あいたたた…勘弁してくださいよ、師匠。危うく落ちる所だったじゃありませんか」
「大丈夫だよ、落ちない様に蹴り込んだんだから」
「それはそうですが…万が一という事もあるでしょうに。弟子が落ちたらどうするつもりだったのやら……」
「まぁ、手元…ならぬ足元が狂って落ちたとしたら、それはそれだしね」
「だぁもぉ、あなたはそうやってすぐ弟子の命を蔑ろにして!!」

もし、もし本当に転落しようものなら…あの兼一の事だ、ビルから飛び降りてでも助けた事だろう。
その点において、本当に危なくなれば助けてくれると言う事は疑っていない。
が、逆に言うと本当に危なくならない限り助けてくれないのも疑ってはいないギンガだった。

しかし、この点に関して何を幾ら言っても改善が見られないのも事実。
とりあえず元いたビルに戻るべく、深々と溜息をついたギンガはウイングロードを展開する。
で、戻ってきたギンガには当然ながらある質問が待っていた。

「でもギン姉、なんでいきなり不意打ちなんか……」
「え? 不意打ちはいきなりやるものよ、スバル」
「あ、いえ、多分スバルが言いたいのはそういう事じゃなくて……」
「なんで不意打ちなんかしたのか、って事じゃないんでしょうか?」
「ああ、そのこと」

スバルの言いたい事を要約したキャロの言葉を受けて、ギンガは問いかける様に兼一を見た。
それに対し、兼一はただ無言でうなずき了承の意を伝える。

「実はね、ちょっと師匠と賭けをしてて」
「賭け、ですか?」

あまり兼一やギンガのイメージにそぐわないその単語に、首をかしげるエリオ。
実際、実直で生真面目な兼一と「賭け」という単語はあまり結び付かないだろう。
まあ、それはギンガに対しても言える事だが。
ただそれも、時と場合と内容による。

「うん。どんな形でも、もし一本とる事が出来たら『とっておき』を一つ教えてくれる、って約束でね」
「え、でもそれって……」
「まぁ、実際この二ヶ月一度も成功してないんだけどね」

今のやり取りを見てもわかる通り、成功する可能性は恐ろしく低い。
完全に不意を突いた筈なのにアレなのだから、それは誰の目にも明らかな事実。
それを口にしようとして言いづらいのか口ごもるエリオだが、苦笑するギンガも承知の上なのだろう。

しかし、これが兼一とギンガや翔の間で交わされた約束である。
二人がかりだろうが寝込みだろうが関係なく、一撃入れる、ないし掠る事ができれば合格。
その際には、一つ「とっておきの技」を教える事になっているのだ。
まぁ、普通に考えれば到底不可能な事ではあるのだが、可能性がないわけではない…らしい。

「一応ね、師匠が言うにはちゃんと隙があるらしいんだけど……」

そう言う賭けを持ちかけているのなら、恐らくは意図的に作った隙でもあるのだろう。
まぁ、この様子だとギンガにはまださっぱりわからないのだろうが。
と、そこまで言った所でギンガの瞳がギラリと光る。

「隙ありぃ!」
「甘い甘い」

どうやらまだ諦めていなかったらしく、今度は振り向き様に突きの連打を放つギンガ。
だがそれも、その悉くを左手で捌かれ失敗。
その間に、空いた右腕から放たれるなんの変哲もない正拳。
寸止めではあってもその拳圧は尋常ではなく、ギンガの体が宙に浮く。

(拳圧で、人が浮く!?)

改めて思い知らされる非常識に呻くギンガだが、すぐにそんな余裕はなくなる。
いつの間にか襟を取られ、気付いた時には既に投げられていた。
最早半ば以上思考は追いついていないが、染み着いた反射が身体を動かす。

(そうだ、受け身!)

辛うじて受け身を取るが、それでもその衝撃は凄まじく身体が動かない。
つまり、結局今回も徒労に終わったわけだ。
で、この有様を見ると先ほどの言葉の信憑性は薄まるばかり。

目まぐるしく変わる状況に感情が飽和状態に陥っているのだろう。
ギンガの事を気遣う余裕もなく、新人達は唖然とした面持ちで傍観していた。
とそこで、思わずと言った様子でスバルの口から問いが漏れる。

「ホントにあるんですか、隙」
「あるよ」

スバルの問いに当たり前の様に即答する兼一。
ただ皆からすれば、自然体かつ隙だらけで立ってるようにしか見えないわけで。

「でも、どう見たって無造作に立っているようにしか……」
「あれか、その丸いのはガラス玉か何かか?」

思った事をそのまま口にしていたティアナにかけられたのは、呆れとも嘲りともつかないコルトの声。
ティアナはそれに不機嫌を露わにし、声には隠し様もない険が籠る。

「どういう意味よ」
「丁寧に説明してやる義理はない。わからない奴には言うだけ無駄だ」
「思わせぶりな事を言うなら誰でもできるわよね。わからないんならわからないって言ったらどう?」
「安い挑発だ、程度が低い」
「なんですって……」

売り言葉に買い言葉、今日初めて会ったにもかかわらず妙に相性の悪い二人。
ティアナがつっけんどんなのは普段の事だし、コルトが刺々しいのも同じ様なものだ。
ただ、それにしてもコルトを相手にするティアナは敵意が強い。
年が近く、使用術式が同じミッド式である事が関係しているのだろうか。

「てぃ、ティア……!」
「あの、アヴェニス一士も喧嘩はやめましょうよ」
「そうですよ、私達同じ部隊の仲間じゃないですか」
(味方ではあるが…仲間、ねぇ)

キャロの言葉に、内心苦笑を禁じ得ないコルト。
敵味方で言えば同じ勢力に属する彼らは間違いなく味方だが、仲間と言えるかどうか。
仲間と呼び合える程彼らは互いを知っているわけでもないし、そもそもコルトには仲間意識そのものが薄い。
この有様では、同じ部隊だとしても仲間と言えるかはかなり疑問だろう。
ただしこういうタイプには、ある程度ドライな人間関係を築く事も出来る人間の方が相性が良い。

「ふむ。アヴェニス、気付いた事があるなら言ってみろ」
「それは命令…ですか?」
「必要ならそれでも構わん。良いから言ってみろ」
「……了解」

シグナムのスタンスは、コルトとしてはむしろ有り難い。
必要以上に慣れ合う事もなく、所謂「仕事上の付き合い」の方がやりやすいのだろう。
新人達は、同僚との関係に「親しさ」を求め過ぎていると言うのがコルトの見解だった。
ある事を否定する気はないのだが、別になくても良いだろうと言うのが彼のスタンスなだけに。

「いつ攻撃されても対応できるように心もち半身、裾に隠して微かに肘や膝も曲げてやがるな。
一見棒立ちだが、良く見れば僅かに重心が下がってるぜ。
 そんな事をしながら隙がありそうに見えるなんて、むしろ不自然だと思え」

コルトが気付いてティアナが気付けなかった理由、その一つは言うまでもなく技量の差。
だがそれだけでなく、ティアナ達よりも精神的に一歩離れた所から見ていた事も無関係ではない。
兼一に視線と意識が向いていた者と、外野として全体を俯瞰していた者の違いというわけだ。

無論ギンガもその事には気付いていたが、それでも攻め込んだのは一か八かに賭けたと言ったところだろう。
コルトもまた、ギンガの決断に対し「俺でも同じ所を狙った」と思う。
同時に「同じ様に返り討ちにあう」事もわかっているが。

「この様子だと、他にも気付いてないのがありそうだけどな。
で、お前はそのどこが『無造作』という気だ、節穴」
「くっ……」

さすがにちゃんと理由があるのでは、ティアナとしても反論の余地がない。
シグナム達が訂正しない所を見るに事実なのだろう。
自分は気付けずコルトは気付いた。その事実もあって、ティアナは悔しげに呻く。
しかし、そんなティアナの反応など一顧だにせず、コルトはシグナムに問うた。

「俺にわかったのはここまでだ。
だが、シグナム二尉なら他にもわかる事があるだ…あるのではないですか。例えば……」
「どこに隙があったのか、か?」
「ああ」
「まぁな。ヴィータもわかっているだろう」
「うん? ああ、てっきり誘ってんのかと思ったけどな。右の膝裏の辺りとか」
「あと狙いやすかったのは、右肩だな」

ちゃんとどこに隙があるのか分かっていたらしく、スラスラとその個所を上げて行く二人。
ただ、弟子に合わせてわざと用意した分少々二人の眼にはあからさまに映ったらしく、逆に警戒されていた様だが。とはいえ、そんな事さっぱりわからない新人達は、必死になってその隙を見出そうとするもかなわない。

「そうなんですか!? 僕には全然……」
「わかる、ティア?」
「わからないわよ、悪かったわね」
「わ、わかるんですか、副隊長?」
「きゅくる~?」
「まぁ、おめぇらにはちときついかもしれねぇけどな」
「その隙を見抜くだけの眼力と、一撃入れる技量があれば合格、とこういう事なのだろう?」
「あ、はい。そう言う事ですね」

隙があるとは言え、それでもギンガの技量でそこをつくのは至難の技。
また、下手に一撃入れさせても弟子に己の腕を過信させてしまう事になる。
己の技量への過信は非常に危険。
なので、もし見抜いて攻撃してきた時にもしっかり反撃する予定なのは秘密である。
もちろん、褒美にちゃんと新技は伝授するつもりだが。

「だけど、コルト君「アヴェニス一士だ、白浜二士」あ、ああ、そうでした、すみません。
でも、アヴェニス一士もお若いのに良い目をしてますね」

確かに、兼一とコルトではコルトの方が階級は上。
故にこの場合は、敬語を使うべきは兼一の方なのだろう。
兼一自身それで納得してしまっているので、誰からも文句の言い様がない。
年齢の事を出して対等に話してもよさそうだが、人が好すぎるのも考えものである。

「杖術もしっかり身に付けていましたし、駆け引きもお上手ですね。
 うちの弟子にはかなり自信があったんですけど、少し驚きましたよ。
 もしや、どなたかに師事なされた事でも?」
「それとアンタと一体何の関係がある」
「あ、いえ、もしいらっしゃるなら、どんな方なのか気になりまして。
 僕も弟子を持つ身ですし、一度お話しをうかがってみたいんですよ」

欠片の悪意も邪気もなく、純粋な好奇心から尋ねる兼一。
実際、コルトが誰かに師事していた可能性は高い。使う魔法が割と独特だし、そうでありながらしっかりとシューティングアーツを身に付け、なおかつ兼一に師事したギンガに勝った同年代だ。
天賦の才と飽くなき努力で師もなく為してしまう人間もいるかもしれないので、いても不思議ではないが。

とはいえ、この男が正直に教えてくれる筈もなく。
コルトは普段以上に不機嫌そうな顔を歪める。

「…………答える気はない」
「……はぁ、仕方がありませんね」

どこか名残惜しそうにしながらも、無理強いをする気はなくあっさりと引く兼一。
ただし、続いて放たれた言葉に、コルトの身体が僅かに硬直する。

「ところで、そろそろその気を引いてもらえませんか?」
「なんの事だ?」

ある程度回復したのか、杖を手に立ちあがっていたコルトは兼一の言葉に白を切る。
だが、兼一はそんなコルトの言葉を気にする事なく言葉を紡ぐ。
『なんの事だ』という問いに答える必要性を、まったく感じていないが故に。

「それだけの眼力を持つあなたの事です、力の差はもう分かっているんでしょう?
 ギンガと戦い、ただでさえ疲弊しているあなたに勝ち目はありません」

兼一はコルトに優しげに微笑みかけると、やんわりと語りかける。
しかし、コルトの身体は兼一の言葉を聞くほど力が入り、その眼に宿る闘争心が強くなっていく

「気の隠し方がまだ甘いですよ、昂ぶった気が僅かに漏れていました。
 不意打ちをするには、少し荒々し過ぎますね」
「…………」
「だけど、なんでまたこんな事を? 勝てない事もわかっている、退けない相手と状況でもない。なのになぜ?」

次々と紡がれる、二人の状況に対する考察。
実際兼一の言う通り、コルトには戦う理由も意義もなく勝ち目もない、
そう語る兼一に対し、コルトの眼に宿る光はギラギラとしたものになっていた。

「だが、得る物はある」
「それは?」
「アンタとの力の差を肌で実感できる。それが出来なくても、目の前にどんな怪物がいるのかがわかる」
「それでも、せめて体調を整えてからの方がよくないですか?」
「強い、それも知らない力を持った奴が目の前にいる。体調なんぞ、関係ない!」

威勢よく吠えると、コルトは足を開き腰を落として構えを取る。
なのはやシグナム達とは違う、今まで知らなかった強さを持つ相手。
砲撃魔導師と戦った事はあるし、ベルカの騎士の戦いを映像で見た事はある。
だが、兼一の様な人種とは戦った事もなければ、その戦いを見た事もない。
そんな相手が目の前にいて、どうして闘争心を抑えられ様か。

知りたい、その身一つで戦う武術を極めた者の力を。
その欲求に比べれば、疲労も消耗も傷も瑣末な事なのだろう。少なくとも、コルトにとっては。
いっそ短絡的ですらあるが、同じ部隊ならこの先も挑む機会はある。
だから、万全の体調で挑むのは“次”でいい。故に、まず“今知りたい”という欲求が重要だった。ただ、自身と同等の者とギリギリの戦いをして、「昂ぶり研ぎ澄まされた今だからこそ」というのもあるのだろうが。

「若者の折角の決意を蔑ろにするのは心苦しいんですが、僕は無益な戦いはしない主義でして……」
「……知った事か。さあ、はじめ《お待ちなさい、サー》なんの用だ、ウィンダム」
『へ?』

今にも襲いかからんとするコルトにかけられた、誰とも知れない機械的な声。
その出所は、飾り気に乏しい杖型デバイスの中央に嵌めこまれた翠色の宝玉だった。

《さすがにいきなり襲いかかるのも不躾でしょう》
「お前には関係ねぇだろうが」
《あります。私は、マスターからあなたの面倒を見るよう仰せつかっているのです。
 名で呼ばせない程度は構いませんし、わざとらしいまでに間違っていますが敬語も使おうとはしているので別に良いでしょう。ですが、これは看過できません。年長者にはきちんと礼儀を守りなさい。
マスターも常々仰っていたでしょう、言葉遣いに気をつけろ、無闇にケンカを売るな、と》
「ちっ! しつこいデバイスだ……」

何やら事情は良く分からないが、とりあえずウィンダムはインテリジェントデバイスだったらしい。
別にそれ自体は珍しくないのだが、どうも主従というより教育係に側面が強い様に見受けられる。
実際、コルトの表情は親に口うるさく言われている子どものそれだ。

《挑発に乗ってきたのならまだしも、あの御仁はきっぱりと拒んでいるのですよ。それをサーは……》

説教慣れしているのか、そのままクドクドと言葉を紡ぐウィンダム。
とそこで、すっかり意表を突かれ茫然としていた兼一がおずおずと口を挟もうとする。

「ああ、そのぉ」
《おっと、この度は大変失礼しました、白浜殿。
うちのサーはどーしょーもない社会不適合者ですので、お気になさらないでいただきたい》
「は、はぁ……」
《それで、ご質問はマスターの事でしたね。私でよろしければお話しますが……》
「話す必要なんかねぇだろうが!!」
《話さない理由も特にないでしょうに…どうしたいんですか、サーは》
「余計な事をしゃべろうとしてんじゃねぇよ!」

横槍が入ってもなお闘争心は衰える事を知らず、相変わらずいつ飛びかかってくるかわからないコルト。
まぁそれはそれで、ある意味見事ですらある…かもしれない。

にしても、マスターそっちのけで勝手に話を進めようとしたり主に呆れ返ったりするデバイスと、それに怒鳴るマスター。中々お目にかかれないおかしな関係もあって、誰もが目が点になっている。
ただし隊長陣は「主じゃなくて持ち主?」と少々疑問を抱いていたが。

《そんなに知られるのが嫌なのですか? 調べればわかる事だと言うのに……》
「んなこたぁどうでもいい!」
《では、こうしてはいかがですか》
「あん? …………いいだろう。なぁ、アンタ」
「え? 僕?」

それまですっかり蚊帳の外だったのに、突然話を振られた事に驚く兼一。
ウィンダムに何か入れ知恵されたコルトの表情には、何やら凄惨な笑みが浮かんでいる。

「ババァの事が知りてぇんだろ。話してやっても良いぞ」
「え? それはありがたいんですけど、なんでまた?」
「ウィンダムがうるせぇからな。ただし条件がある。俺に勝ったら、教えてやるよ」

コルトとて、兼一に勝てると思いあがってはいない。
相手はギンガより強く、今の自身はギンガとの戦いの直後で疲弊している。

だが、その実力差が問題なのだ。今のままだと、力の差があり過ぎては適当にあしらわれて終わる可能性がある。
故に、「勝ったら」という条件を付ける事で、最低でも自分を倒す程度の力を出させ様と考えたのだ。
どうせ師の事は調べれば簡単にわかる事だし、意地を張るよりもこちらの方が良いという判断である。
その条件自体は兼一にとって問題ないものだが、どんな理由でアレ基本戦いを好まない性分の兼一はしばし悩む。
しかし好奇心と性分を天秤にかけた末、最終的に出た結論はこれだった。

「…………わかりました。どうぞ」
「そうこなくっちゃな」

溜め息交じりに軽く真半身になる兼一と、いつでも渾身の一撃を放てる体勢を取るコルト。
だが、そうして対面してみて如実に分かる物がある。特にコルトの側には。

コルトが右側から攻め様と姿勢を僅かにずらす直前、兼一の身体がコルトに先んじて僅かにずれる。
それは、踏み込んでも丁度相手の正面になってしまう、絶妙なまでにコルトにとってイヤな角度。
その手を放棄し、今度は逆側からの攻め手に移ろうとするも、そちらもコルトが姿勢を変える前に潰される。
まるで…どころか「明らかに」先を読んで一つ一つ丁寧に潰されているのだ。
何度やっても、どれだけフェイントを入れようとしても、一歩も動く事なく確実に機先が制されていく。

(ちっ、化け物が……)
(勘も良い。技撃軌道は見えてない様だけど、無意識のうちに感じ取っているね。動の気をもっと磨けば……)

技撃軌道を見れる様になるかもしれない。
だからこそ、動の気を発動させた直後にバタついていた点を惜しく思う。
動のタイプとしてのレベルがあと少し上がれば、次の段階に進む事も出来るだろうに。
そんな事を考えていると、唐突にコルトから問いを投げかけられた。

「アンタ、俺の考えでも読めるのか?」
「目を見れば、ある程度の事はわかります。魔法にした所で操るのは人ですからね。
 視線の動きを見れば、どのあたりに注意すればいいかわかりますし」
「そうかよ。(出し抜こうとする事だけ無駄か。なら……!)」
(腹を決めた。なら、そろそろ来るかな?)

兼一が最も警戒しているのは、やはりギンガを倒した決め手である短距離瞬間移動だろう。
さすがに、いきなり背後を取られるあの魔法は厄介だ。
制空圏が勝手に反応するとは思うが、一瞬でも背後を取られるのはよろしくない。

この、一合で全てが決着するであろう空気に充てられれば、十中八九それを選択する。
真正面からでは不可能な事はわかり切っている以上、頼みの綱はそこだけと言っても良い。
もちろんアリアドネ以下、他の魔法を警戒していないわけではない。だが仮に他の魔法を選択しても、操り手が人間である以上その動向に注目していれば、きっかけを掴み予知する事は可能だろう。
その点においては短距離瞬間挑も例外ではない。

しかし、結果的に兼一の「短距離瞬間移動を使う可能性が高い」という予想は覆される。
それどころか、コルトの中には「魔法で隙を生む」ないし「突く」という発想すらなかった。

「かぁっ!!」
(ちょっと、驚いたかな? まさか、真っ向勝負とは)

コルトが選択したのは、兼一の予想とは違う真正面からの純粋な刺突。
短距離瞬間移動はもちろん、アリアドネによる妨害すらない。
使う魔法を自己強化一本に絞り、一切の小細工を排した己の持つ全ての力を注ぎこんだ一突き。

若干意表をつかれたとはいえ、決して想定外というわけでもない。
そもそも兼一からすれば充分に遅く、全身全霊であってもなお無駄が目立ちキレの鈍い一撃。
回避も迎撃も容易いそれだが、兼一の胸にあったのは感嘆の念だった。

(この局面でこれを選んだ。
 それはつまり、この突きこそが彼が真に頼みとする本領。あの瞬間移動は、余技でしかなかったわけ…か)

追い詰められれば追い詰められるほど、その人物の本質を露わにする。
白兵戦等においては大きな脅威である短距離瞬間移動、一瞬でも動きを妨害できるアリアドネ等々。
戦況を有利にできる手段(魔法)はいくつもある。

だが、コルトはこの局面でそれを選ばなかった。
無防備な筈の背後からの、だが瞬間移動後間もなく放たねばならない忙しない一撃ではない。
自己強化以外に、アリアドネなどの魔法を併用する事で有利に進めようともしない。

彼が選んだのは、足場を固めじっくりと力を練って放つ、愚直なまでに純粋な一切の余分を持たない突き。
放った後の事は考えない。いま持てる全てを注ぐそれは、だからこそ美しい。故に讃える……

「見事」

と。そしてその称賛に違わず、兼一は真っ向からこれを迎え撃つ。
ギリギリまで引き付けた杖の先端を、寸での所で僅かに斜め前に進む事で回避し、同時に懐へと踏み込んだ。

ここまで来てしまえば、縛札衣でも寸止めでも、無傷で勝利する事は簡単だろう。
しかしそれでは、コルトの誇りを傷付ける事になりかねない。それは、兼一としても本意ではなかった。
かといって、あまりダメージを与えても弟子が負けた腹いせの様ではないか。
弟子のケンカに師匠は出ないのが、武術家のルール。
その範囲内でと言う事で、兼一は最小限のダメージで勝負を決めに掛かる。

「ほっ!!」

僅かな呼気と共に兼一の右肩から先がコルトの視界より消えた。
兼一の右拳が消えたその瞬間、コルトの頭が一瞬ぶれる。
同時に、並々ならぬ衝撃が脳を揺さぶった。

回避された所までは辛うじて見えた。だが、その後何をされたのか、コルトには判然としない。
わかった事と言えば、顔の下部に突如生じた鈍い痛みだけ。

(やられたのは…顎か。だが、何でやられた? 拳か、掌打か、肘か、あるいは指? それとも……)

かなりの自信があった筈の動体視力を容易く置き去りにされた早技。
消えた右手で打たれたとは思うのだが、どの部位で打たれたかわからない。

ましてや、揺れる脳では考えがまとまる筈もなく。
視界が揺れ、地面の感触があやふやになる。自分が立っているのか倒れているのかすらわからない感覚の中、気付けばコルトはその場に膝を折り地面に手を付いていた。
完全に倒れ伏さなかったのは兼一が加減しただけでなく、本人がこういった状態に慣れていたのもあるだろう。
その意味では無様な姿を晒さなかっただけマシだが、それでも誰の目にも明らかな決着だった。

「つっ…脳を、揺らされたか……」
「無理はしない方が良いですよ、しばらくはまともに立つ事もできませんから」

意識を絶つほどではなく、だがしばらくは立てない程度に加減された一撃。
しかし彼は知らない。実の所、兼一は加減どころかほとんど力を込めていなかった事を。
軽く握るだけで、人差し指の関節だけを僅かに突きだした拳。
それを鞭の様に振るい、尋常ならざる速度で顎を打ち抜いたのである。
当然、もしその気になっていたら容易く顎を砕かれていた事など知る由もない。

「ここまで来ると、いっそ清々しくすらあるな。で、何が聞きたい?」
「え、でも……」
「気が変わらないうちに早くしろ。脳が揺れて、頭がはっきりしない今のうちだぞ」
「はぁ、そういう事なら……」

問いを催促するコルトと、それにうなずく兼一。これでは、どちらが勝ったのかわかり辛い。
しかし、不器用な生き方しかできない知り合いがいる兼一からすると、そんなコルトはどこか微笑ましかった。
まあ、実際に微笑もうものならコルトが不機嫌になるのはわかり切っているので、必死でそれを押し殺して問う。

「えっと、それじゃあアヴェニス一士の師匠に会いたいんですけ」
「無理だ」

兼一が言いきるより早く、否定の言葉を口にするコルト。
あまりにも早く強い断定により、兼一も僅かに呆然とし、なんとか次なる問いを絞り出す。

「それはなぜ?」
「俺が陸士校に入る前に死んだ。死人には会えねぇだろうが」
「そうでしたか、それは失礼しました」

どこまでもぶっきらぼうに、果てしなく不機嫌そうに吐き捨てるコルト。
そんな彼に、兼一は深々と頭を下げてイヤな質問をしてしまった事に頭を下げて詫びる。
コルトはそんな事は気にしていないと言う素振りで、次なる問いを催促した。

「で、聞きたい事はそれだけか?」
「あ、いえ……どんな方だったか、はさすがに不躾ですね」
「別に。生活能力皆無の暴力ババァの事なんぞ、死んで清々したくらいだ」
「ちょ、アンタ! 自分の先生なんでしょ!」

会った事もない相手だが、恩人である筈の相手を悪し様に語るコルトをティアナが咎める。
しかし、当のコルトはそんな事で恐れ入る事もなく、むしろ横から割って入ったティアナの言を切って捨てる。

「あのクソババァの事を何と言おうと俺の勝手だ。他人がしゃしゃり出るんじゃねぇよ」

『こっちの事情など何も知らないくせに』とは言わない。
理解してもらう努力を、知ってもらおうとする努力をしてこなかったのはコルト自身。
それをわかっているからこそ、その言葉は絶対に口にしないのだ。

(一人でも強くなれるなんてと自惚れる気はねぇが、慣れ合う気もねぇんでな……)

インテリジェントデバイスを使っている時点で、そもそも強くなる為に敵を求める以上、「一人で」という言葉自体が虚しい事はコルトも知っている。
だがそれでも、極力誰かを頼ったりしたくなかった。
自分の事を話せば、他人に僅かでも歩み寄れば、いつか頼ってしまうかもしれないから。
「それも一つの強さの形だ」と師は言ったが、それは彼の求めるものではない。

だから本当は、兼一にも師の事は話したくなかった。話せば、もういない事を言わなければならないから。
理由がそれだけではない事に、コルトは気付かない。あるいは、気付かないフリをし続けてきた。
言いたくないのなら適当なウソをつけばいいのに、ウソをつきたくないその訳を。

とはいえ、そんな胸中も語らなければ理解されない。
また、大恩ある筈の師を蔑ろにする発言を聞いて、人の好いこの場の面々が良い顔をする筈もなく。
僅かな例外を除けば、誰もがコルトを責める様な顔をしていた。

空気が冷めきった所で、コルトはまるで意に介さない。
どこの部隊に言っても同じ様なものだったし、その陸士校に入る前とも大差なかった。
ただ、恐らくはこの場で一・二を争うお人好しであろう兼一は、特にコルトに反感は抱いていない。
それどころか、彼の顔には僅かな微笑みすら浮かんでいる。

「そうですか。じゃあ、その人の事はやっぱり……」
「嫌いだよ、当たり前だろうが」
「ですけど、それはなぜ? 理由もなく嫌う事は出来ますけど、それって気持ちとしてはあんまり強くありませんよね。それだけ言うんですから、何かあるんじゃないですか?」
「挙げだしたらキリがねぇ。小間使いみたいに人をこき使うわ、頼んでもいねぇのに『教えてやる』とか言ってぶん殴るわ。とにかく傍迷惑極まりねぇババァだったよ。何よりムカつくのは、勝手に死んで勝ち逃げした事だ。あのババァだけは、俺の手で引導渡してやるつもりだったのによ」

つらつらと師に対する不平不満を口にしていたコルトだったが、そこまで言った所で舌打ちと共に口を閉ざす。
覆水盆に返らずということわざがあるが、一度口にした言葉は戻せない。訂正する事もはぐらかす事も出来るが、決してなかった事にはできない。
思わず言葉が溢れてしまった事を、コルトは強烈に後悔していた。
まだたいした事は言っていないのが救いだが、それでも余計な事を口にしたと思っているのだろう。

それに対し、「師に引導を渡したかった」などと口にするコルトへの視線は強まる。
それは、例え冗談でも口にしてはならないと思うからこそ。
しかし兼一はその事に何も言わず、それどころか嫌な顔一つ見せず頷いた。

「なるほど、アヴェニス一士のお気持ちは良く分かりました」
「にやけてやがるのが無償に癇に障るぞ、この野郎」
「あ、ごめんなさい」

なんとか緩む頬を締め直そうとする兼一だが、一向に上手くいかない。
時間経過とともにコルトの不快指数は上昇し、それに伴い瞳の険は増す。
だが、そんなコルトに恐れ入るどころか気を悪くした素振りも見せず、兼一はダメもとである申し出をする。

「ところで…もしよろしければ、お力になりましょうか?」
「それはアンタの弟子になれって事か? だとしたら願い下げだ」
「それも面白そうではありますが、杖術使いに心当たりがありまして。なんでしたら紹介しますよ?」
「人に教わるのは性にあわねぇ。その上、あのババァのおかげで散々懲りてるんでな。お断りだ」

陸士校や以前の部隊でも当然教官から教わる事はあったが、それと師弟関係は違う。
只でさえコルトは扱いにくかったので、彼らからの受けも決して良くはなかった。
おかげで、コルトとしてはそこそこに都合のいい距離が保たれていたのだ。
それ位なら許容範囲だが、特定の人物に教えを乞うと言うのは、もうコルトにとってはこりごりな経験らしい。

「そうですか。まぁ、僕でも多少のアドバイス位はできるかもしれませんし、何かあったら相談してください」
「ほう、例えば?」
「動の気をもっと安定させる方法とか、どうですか?」

その言葉に、コルトの肩がピクリと反応する。
コルトの流派では名前が違うかもしれないが、それでも大凡の見当はついたらしい。

ある程度は師から教わったが、全てを修める前に師は逝った。
以後は師が遺した資料と独力でやってきたが、未だに出だしはバタつく。
それを安定できると言うのなら、もう一段上に上がる事も出来るだろう。
確かにそれは、酷く魅力的な提案だった。

「どういうつもりだ? ナカジマ陸曹を俺に勝たせたいんだろ」
「どうせなら壁は高い方が良いと言うのもありますが、前途ある若者へのお節介ですよ。あなたとしても悪い話じゃないでしょう?」

言わんとする事はコルトにもわかる。
コルトに勝つという身近な目標が出来た事で、ギンガの成長速度は確実に速まる。その目標もまたレベルが上がれば当然ギンガのレベルもさらに向上する、そういう相乗効果を狙っているのだろう。
利用されていると考えれば良い気分ではないが、理屈は納得がいく。
お節介などという善意だけより、よほどコルトには受け入れやい。

だがそれでも、コルトは即答できなかった。
故に兼一は、お節介根性を丸出しにして勝手にしゃべってしまう事にする。
今の状態なら、いやでも耳に入ってしまうので都合が良い。

「…………」
「なら、これは独り言です。自転車がある程度速度を出した方が安定する様に、動の気も思い切りやった方が安定しますよ。一度、試してみると良いでしょう」

動の気は感情やテンションに左右される分、静の気に比べて不安定な側面を持つ。
コルトが動の気を解放した直後僅かにバタついたのがそうだし、美羽が中途半端にリミッターを外すと暴走してしまっていたのも同様の理由だ。

しかし同時に、一定のラインを突破する事で安定する事も事実。
気を解放し過ぎれば人格が豹変してしまう恐れもあるが、そこは助言を与えた身としての責任がある。
故に、この件に関しては危ない場合には止めに入るつもりだ。
弟子の好敵手にして前途ある若者。こんな所で潰してしまうのは、あまりにも惜しい。

ただし、今後は本人の意向通りあまり手出し口出しをする気はない。
今回は、このままでも暴走の危険があるから焼いたお節介なのだ。

「……むかつくが、聞いちまったのは事実だ。ためになる話、感謝する」
「単なる独り言ですよ、礼を言われる理由がありません」
「フン!」

苦笑し方を竦める兼一に対し、コルトは即座に背を向ける。
そのコルトの背中を見て兼一は胸中で苦笑気味に呟く。

(若いというか、かわいいと言うか…世界が広がれば一皮むけそうなのが何とも……)

兼一からすれば、コルトの青臭さは微笑ましいの一言に尽きる。
師を語る言葉の全てが、今は亡き師を慕うからこそである事に彼は気付いていた。
師への悪態は喪失の悲しみから、他者の教えを拒む姿勢は師への思いが衰えていないから。
引導を渡したかったとは言ったが、殺したかったとは言っていない。きっと、自分はこんなに強くなりましたと示したかったのに、それが叶わなかった事を、間に合わなかった事を嘆いているのだろう。
未熟な新人達ではわかる筈もないだろうが、師の事を語る瞬間のコルトの瞳が僅かに悲しみで揺れていた。

色々素直になれない事情はある様だが、彼の中で師匠は生きている。
その教えが、信頼が、数えきれない程の思いが。
そんな彼の一途な思いを大事にしたいからこそ、兼一は「誰かの弟子になる」事を無理に勧めない。
がそこで、ものすごい顔のコルトが睨んでいる事に気付く。

「え、あの、どうしました?」
「おい、かわいいってのはどういう意味だ」
「あれ? もしかして僕…またやっちゃった?」

どうも、胸中の呟きを思い切り口にしてしまっていたらしい。
例によって例の如く相手の逆鱗に触れると思ったからこそ言わない様にしていたのに、結局言ってしまっていたのだから業が深い。ここまで来ると、いっそ呪いの領域である。
同じ様な事をギンガも思ったらしく、深々と溜息をついていた。

「師匠、あなたって人は…どうしてそう相手を怒らせるのがうまいんですか」
「な、なんでだろうねぇ、僕も不思議……」
「おい、いったいどういう意味かと聞いてるんだ! キリキリ話せ、白浜二士。これは命令だ!」
「え!? そ、そんな別に何も…そう、ホントは師匠の事が大好きなんだろうなぁってこれっぽっちも…って、言っちゃった!?」

ついにやってしまった心の中心直接攻撃。
コルトの顔がみるみる紅潮し、同時に憤怒の形相へと変貌していく。
わかっていても、学習していてもやってしまう。これぞ他人の逆鱗に触れる天才の妙技である。

「よし、死ね!!」

最早、実力差も勝機も思慮の外。
とにかく殺す、殺せなくても殴る、殴れなくてもやる。
たった今言われた通り、ギンガの時以上に動の気を解放して即座に安定状態に持って行く。
その手並みは、言われて間もなくやったとは思えない程見事で、一瞬兼一もその才能に驚いたほど。

だがここで、兼一にとっての救世主が舞い降りた。
その救世主は、コルトの身体に無数の深緑の糸を巻き付けその動きを封じる。
もちろんそれがコルト自身の仕業の筈もなく、その正体はすぐに割れた。

《まったく、図星を突かれた程度で激昂とは…未熟ですよ、サー》
「てめぇ、なんのつもりだ!!」
《あなたがあまりに見苦しいので、照れ怒りもほどほどになさい》
「照れてねぇよ!!」

どうやら、ウィンダムが勝手にアリアドネを展開したらしい。
まさか自分のデバイスに自分の魔法を使われ自分が捕まるとは。
正直、色々な意味でかなりレアな光景がそこには広がっていた。

《もう良いです、今更説得する気もありません。
 どなたか、もう面倒なのでコレ殴って止めてくれませんか?》
(うわぁ、もうサーすらつけなくなってる……)

それまでまがりなりにも敬称を付けていたのに、それすらやめるウィンダム。
今の彼(彼女?)には、コルトに対する敬意も協力の意思の欠片もない。
その事に誰もが唖然とし、胸中で信じられない思いでいた。

その為、ウィンダムの求めに応じる者はおらず、徐々にコルトの身を縛るバインドが壊れて行く。
元よりこれは彼の魔法。自力での破壊などそう難しくはない。

「このガラクタが! いい加減にしねぇとぶっ壊すぞ!!」
《どうぞご自由に。機械の私に死後があるかわかりませんが、マスターの下へ行けるかもしれないなら本望です》

その言葉通り、特に破壊される事に思う所はないらしいウィンダム。
その間にも、コルトの拘束は徐々に破られていく。
コルトが解放され、無謀にも兼一に襲いかかるまであと少しと思われたその時、硬直していた一人が動いた。

「ああ…良く事情はわかんねぇけど……とりあえずケンカは後でやれ!!」
「ごはっ!?」
『ヴィータ(ちゃん・副隊長)!?』
「しゃーねーだろ、これ以上ごたごたしててもしょうがねーし。
それに、どの道こんなボロボロじゃ少し休ませねぇと訓練にもならねぇんだからよ」
「それは、そうだけど……」

愛鎚グラーフアイゼンでコルトの後頭部を殴打したヴィータは悪びれもせず語る。
その言葉にはそれなりに説得力があり、なのはも渋々理解を示したほど。
実際、コルトもギンガも訓練再開にはもう少し休ませたいところだったし、丁度いいと言えばちょうどいい。
些か荒っぽ過ぎるが。
しかし、そんな思いは即座に覆され杞憂であった事が証明される。

《いえ、これでは足りません》
「は? 確かに加減はしたけどよ、結構強く殴ったぞ……」
「う、ぁが……」
「おいおいタフだなぁ」

ウィンダムの言葉通りまだ意識を残していたコルトが呻き、それに驚くヴィータ。
多少手は抜いたとはいえ、普通なら十分に昏倒ものの一撃だった筈。
だが、これだけタフならギンガの一撃を受けて立っていた事にも納得がいかないでもない。

《仕方がありません。デバイス的には問題ですが、これ位やらないと寝てくれませんからね。これ位やらないと》
「ぶがっ!?」
『自分でやったぁ!?』

皆がどういう意味かと疑問に思うのと同時に、コルトの後頭部に何かが突き刺さる。
それは、人間の頭部とほぼ同じ大きさの石。
どうやら、魔法で加速を付けてぶつけたらしい。前後の流れから誰がやったかなど考えるまでもないが、ついに自分自身で手を汚したウィンダムに、皆は一様に戦慄を禁じ得ない。

当たり前と言えば当たり前だが、通常デバイスが自分の主に手を上げる事などあり得ない。
例えインテリジェントデバイスと、それを扱いきれないマスターでもそれは同じ。
別に明確に規定されているわけではないが、それは一種の暗黙の了解だった。
だがそれを、ウィンダムは平然と破って見せる。それを見た皆の驚きたるや、生半可なものではない。
だからこそ、なのはが思わずこんな事を呟いたのも当然だった。

「まさか、自分のマスターを攻撃するなんて……」
《それは違います、高町空尉》
「え?」
《私の正式なマスターは彼ではありません。彼は、言わば代理です》
「もしかして、そのマスターって……」
《はい、彼の先生に当たる方です》

コルトの師がすでに亡くなっている事を考えると、恐らく形見分けか何かで譲られたのだろう。
ただウィンダム自身は、あくまでもコルトをマスターとは思っていない。
先ほども言っていたではないか、「マスターから面倒を見る様に言われている」と。
ウィンダムがコルトに従っているのは、彼がマスターの弟子であり、マスターからそう指示されているから。
故にマスター代理として登録し、力だけは貸しているという構図なのだろう。
そんな事情があるからこその、「サー」という呼び名と「持ち主」という発言らしい。

《サーと違い、それはもう立派な方でした。
近所からは頑固老人と煙たがられ、口より先に手を出し、大雑把過ぎて家事が下手でしたからサーに押し付けて快適な生活空間を築き、サーが来ないとふんじばって街中を引きまわしたものです》
(どこが立派なんだ?)

過去を述懐するウィンダムだが、その内容に弱々しく内心でつっこむ面々。
コルトが口にした「暴力ババァ」などの数々は、どうやらあながち間違いでもないらしい。

《と、失礼しました。皆さまもお忙しいでしょう、我々の事は御気になさらず》

勝手に話を進め、勝手に締めてしまうウィンダム。待機形態の指輪に戻ると、以後は沈黙を貫く。
なのは達からすれば、嵐の後の様に「まず何から手を付ければ良いのやら」という気分だろうが。
故に、なのはが困惑した様子で皆に尋ねたのも無理からぬ事だろう。

「えっと、じゃ…………どうしようか?」



その後、とりあえずはあれやこれやと第一回目の訓練及と先の模擬戦について、兼一も交えて考察し解説し問題点や課題を指摘した後。
何か色々と一段落した所で、ある話題に話が移った。

「そういえば、結局こいつってどんなもんなんだ?」
「どんなもんってどういう事、ヴィータちゃん?」
「だからよ、達人つっても色々だろ。
あたしらが会ったばっかの頃と海鳴を出る直前の頃の恭也さん達じゃ全然違うわけだし」
「ああ、まぁそうだよね」

概ねヴィータが何を言いたいのか理解したなのはは、「なるほど」とばかりに頷く。
だが、そのやり取りに引っかかりを覚えたスバルが手を上げた。

「あの、それってどういう事でしょう?
 なんだか、達人の中でもすごく違いとかがある様に聞こえたんですけど」
「いや、実際その通りだ。一口に達人と言ってもピンキリでな、下位ならお前達でも勝ち目はあるが、上位になれば陸戦でAAA以上のベルカ式使いとも渡り合うぞ」
『AAA!?』

AAAともなれば、管理局で5%に満たないと言われる超エリート。
そんな相手と渡り合えるとなれば、新人達が改めて驚愕するのも無理はない。
陸戦Aであるギンガをあしらう姿を見てある程度理解したつもりだったが、AAA以上との間にある隔絶した差を思えば実感が薄いのも当然だった。

「なにせ、シグナムをかなり追いつめる奴が知り合いにいたからな」
「ああ。最後に手合わせをしてからもう数年経つ。
あれからさらに腕を上げているだろう事を考えると、また勝てるとは限らんな」

古代ベルカ式の使い手にして、ニアSランクのシグナムをしてここまで言わせる怪物が存在すると言う事実。
もう何度目になるかわからないが、新人達は立ち眩みの様な感覚を覚える。

「で、結局こいつどんなもんなんだ? 恭也さんと互角だったのって、5年も前の話なんだろ?」
「今も互角と考えれば我らでも勝てるかわからんという事になるが、その認識で構わんか?」
「えっとぉ…どうなの、ギンガ」
「って、私ですか!?」
「だって私も5年ぶりだし、ちゃんと兼一さんが戦う所なんてそれ以上に見てないんだよ。
 多分、今の兼一さんを一番知ってるのはギンガだから」

実際、なのはにも兼一の厳密な実よくはわからない。
強いと言う事は過去の情報などから推測できるのだが、明確な判断ができないのだ。
それは兼一の「実力より遥かに弱そうに見える」という性質も原因の一つ。
なのはとしても判断に困るので、ギンガに尋ねたのは当然だった。ただ……

「そんなの私にだってわかりませんよ。
 師匠が本気とか全力を出してる所なんて、一度も見た事がないんですから」
「まぁ、それもそうか」

何しろ、ギンガと兼一の間にある差自体が半端ではない。
寝込みを襲っても一撃掠らせる事すらできない程の実力差。
これでは、日々の組手でその実力の片鱗を垣間見る事すらできまい。
同様に、なのは達との間にも実力差があるので基準点を設けられないのだ。

「兼一さんとしてはどうですか?」
「う~ん、どうなんだろう。僕が知ってるのって、108の中だけだから」
「地上部隊でなのはさん達クラスなんてまずいませんし、やっぱり比較できませんよね」

ギンガの言う通り、地上部隊に高ランク魔導師は少ない。
高ランク魔導師のほとんどは海、本局に流れてしまう。
そのため、この2ヶ月で兼一はなのは達クラスの魔導士と戦った事がない。
故に、やはり彼自身にもはっきりした事は言えないのだった。

「となると、やっぱり直接やってみるのが手っ取り早いよなぁ」
「うん。それに、スバル達もまだ完全には信じられないだろうし、見てもらうのが一番なんだけど……」

その性格に反し、あまり好戦的ではないヴィータの呟きになのはも同意する。
この先戦力として数えるなら、ある程度の実力は知っておきたいし、スバル達新人組にも理解してもらう必要があるだろう。そうでなくても、達人という存在を知る事には意味がある。

ただ問題なのは、誰が相手をするかという点。なのはが言葉を濁していた原因もこれに尽きる。
新人達では相手にならないのは、ギンガと兼一の実力差から明白。
同時に、ギンガをぶつけてみた所であまり意味がないし、どうせならもう一段先を知りたい所。

ギンガよりも強い、どこまでギンガを封殺できてしまうのか。
それだけでもいいと言われればいいが、出来れば力の底とはいかなくても、何かしらの基準点がほしい所。
とはいえ、それが「ギンガを封殺できる」だけというのも…正直、もう少し事実をはっきりさせたいのである。
そこで、初め以降しばし沈黙を保っていたシグナムが、何かを抑えているかの様な声音で口を開く。

「ふむ、となると相手は私か。武器を持たない者とやるのは気が乗らんが…高町やヴィータより適任だろう。
他に適任者がいないのでは仕方がない。いや、本当に気が乗らんのだが……」
(バレバレな嘘つくなよな、口角がひくついてんじゃねぇか)

付き合いの長いヴィータにはわかる。
素っ気ない態度を取ろうとしているが、本心ではシグナムがさっきからウキウキしっぱなしである事が。
好戦的というかバトルマニア気質な決闘趣味の彼女からすると、兼一との模擬戦と言うのは酷く心躍るイベントであるらしい。あの恭也と渡り合った程の武人、無手かどうかなど些細なものだ。
これほど期待いっぱい夢いっぱい、遠足前日の子ども状態のシグナムなど早々お目にかかれないだろう。
具体的には、ライバルのフェイトや剣友のシスターシャッハとやる時並みである。

だが、言っている事は間違っていない。
実力や技を見るのなら中・遠距離型のなのはは論外。そして、遠近両用のヴィータと近・中距離型のシグナムなら、やはりシグナムの方が相手としては相応しかろう。
ただし、そんなシグナムの期待とやる気をなのはは華麗にスルーしてのけた。

「ヴィータちゃん、ザフィーラいる? ちょっと兼一さんの組手の相手をしてほしいんだけど」
「む、待て高町。だから私がやると……」
(なんのかんの言って、結局やる気満々じゃねぇか)

二つ名に恥じず闘志をメラメラ燃やすシグナムを無視し、八神家の番犬とカードを組もうとするなのは。
その真意はわからないが、とりあえず慌てた様子でなのはに待ったをかけるシグナムと、それを見て呆れるヴィータ。素っ気ない態度など既に遥か彼方、折角の面白そうな相手を逃してたまるかという様子が丸分かりだ。

しかしこれもまた、そこそこ兼一の事を知っているなのはに考えあっての事。
とはいえ、ここでシグナムと向き合うと押しきられてしまいそうなので、決して目を合わせない様にする。

「(兼一さんの主義を知られると後々大変だし、ここは丁重に聞こえないふり聞こえないふり)
で、今どこにいるかわかる?」
「ああ、アイツなら今日は日が暮れるまで外だぞ」
「え、そうなの? でもザフィーラって、あんまり外に用事とかない筈じゃなかったっけ?」

管理局内ではあえて役職を持たず、六課隊舎の留守役や隊員達の護衛が彼の役目。
にもかかわらず六課隊舎を開けると言うのは、その役目から外れるのではないか。
寡黙ながら責任感が強い彼の事なので、何かしら理由があるのだろうがその理由が思いつかないなのは。
そんな彼女に、ヴィータは少々肩を竦めながら答える。

「ほら、海鳴にいた頃からやってたアレだよアレ」
「アレ? ……ああ、アレ。まだやってたんだ」
「あれで意外と重宝するからなぁ」

ヴィータに言われ、ようやく何か思いいたったなのは。
だが、以降「アレ」としか言われないのでは何を指しているのか周りには全く分からない。
なので、仕方なくティアナが場を代表してその意味を問う。

「あの…何なんですか、そのあれって……」
「いやよ、なんつーか…近場の野良犬どもをシメに行ったんだわ」
『はい?』

ヴィータから返ってきたあまりにも肩透かしな事実、思わず間抜けな声で聞き返してしまう面々。
ザフィーラが犬、正確には狼の姿をしているのは彼女らも知っている。
しかし、だからと言って縄張り争いをしに行ってどうすると言うのだろう。
それではまごう事なきボス犬ではないか。
だが、一応ちゃんとした理由があるのだ、それもかなりしっかりとした。

「私達は『野良犬ネットワーク』って呼んでるんだけど、これが意外とバカにできないんだよねぇ」
「なぁ。野良犬なんざどこにでもいるけどよ、だからこそ思いもしねぇ情報が手に入ったりするしな」
「そうそう」
「そ、そういうものですか……」
「「そういうものなんだよ」」

名前こそバカバカしいが、その有用性は海鳴で実証済み。
基本、野良犬なんてどんな街でも数の程度はともかくいる。
そして、一々野良犬の動向など誰も気にしない。
しかし、もしその野良犬とコンタクトを取り、意思疎通ができたら。
下手に脚で調べ、人間に尋ねるより遥かに有用な情報が得られる可能性が高いのだ。
実際、海鳴にいた時は様々な事件をこの情報網から密かに解決に導いていたりする。
名前と中身がアホらしいからと言って、決して軽んじてはいけないのだ。

とはいえ、いない上にそんな理由があるのでは無理に返ってきてもらうわけにもいかない。
そうなれば、必然選択肢は一つ。

「それじゃ、仕方ないから明日お願いしようかな」
「だから、私がやるとさっきから言っているではないか!!」
「まだ言ってたのかよ、シグナム」

すっかり忘れていたが、しぶとく主張を続けるシグナム。
その根気は見事だが、彼女の願いがかなえられる事はないだろう。
何しろ、白浜兼一という男はある主義の持ち主。
それがある限り、彼女が本当に望む展開になる事はない。
その事を知っているからこそなのははシグナムを除外しているのだが、ここで張本人が余計な事を言ってくれやがった。

「あの、すみません。そのザフィーラさんって言う人の事は良く分かりませんけど…実は僕、女性は決して殴らない主義なんです」
(なんで余計な事言うんですか、兼一さ―――ん!!!)

折角知られないまま話を進め様としたなのはの努力空しく、全てを台無しにする兼一。
一応、兼一のこの主義は組手では例外扱いとなる。だが、それは決して組手なら殴ってもよいと言う事ではない。実際、美由希との組手でも極力殴らないよう配慮していた。その上、美由希に限らず兼一以上の実力者である美羽とやる時でもやり辛そうにしていたのだから筋金入りだ。
しかも、今度やるのは組手など練習ではなく、どちらかと言えば試合に近い。となれば、当然兼一の「女性は殴らない主義」は避けて通れないだろう。

で、このシグナムは「自分は女である前に騎士だ」と豪語するタイプのお方。
この手のタイプを相手に「女性は殴らない主義」などと言えば、確実に「侮辱」ととる。

「ふざけるな!!!」
(ああ、やっぱり……)

烈火の如く怒るシグナムと、話がこじれた事を確信するなのは。
こうなると分かっていたからこそ、なんとか知られずにこの場をやり過ごしたかったのだ。

「貴殿は私を侮辱する気か!! この身は女である前に騎士、主の剣!
 私は侮辱には剣を以て応えるぞ! 貴殿も、女は戦うなという口か? 答えろ!!」
「あ、いえ、確かに僕は女性は殴らない主義ですけど、別に侮辱とかそういう事は……」
「それが侮辱でなくてなんだ!!」
「おいおい、どーすんだよ、あれ……」

案の定ヒートアップするシグナムにヴィータは呆れ、なのはは頭を抱える。
どうするのかなど、むしろ聞きたいのはなのはの方だった。
しかしここで、空気を読まないスバルが絶妙な言葉を挟んでくれる。

「あれ? なら、なんで兼一さんはギン姉を蹴ったんですか? 殴らないけど蹴りはありって事?」
「む、そう言えば…どういう事だ?」
「え? そんなの当たり前じゃないですか。弟子は人間じゃないですから」
『…………』

さも当然とばかりに断言する兼一に、一瞬場が硬直する。
改めて自分の境遇にガックリと肩を落とすギンガだが、この瞬間こそが好機。
一応「弟子は人間じゃない」思想を知っているなのはは、この瞬間を逃さなかった。

「あのですね、シグナムさん。兼一さんは別に、女は戦うなとか言う人じゃないんですよ」
「確かにギンガを弟子にとった以上そうなのだろうが、女だから殴らんなど侮辱ではないか!」
「う~ん、確かにシグナムさんからしたらそうなんでしょうけど……」

実際シグナムの言い分にも理があるだけに、はてさてどう説明したものか。
兼一が女を殴らない主義なのは知っているものの、だからと言って詳しく説明できるわけでもないだけに困る。
そんななのはに助け船を出したのは、意外にもその原因である兼一自身だった。

「あの、御怒りはごもっともだと思います。
ですが、なんと言われても僕は女性であるあなたを殴る事はできません」
「まだ言うか!」
「落ち着けってシグナム。とりあえず話だけは聞いてみようぜ」
「……良いだろう」

さすがに一端間を置いただけに、そうそう以前ほど燃えあがれないシグナム。
燃えきれない部分がヴィータの言の正しさを理解していたからこそ、その提案を渋々ながら承諾する。

「ほれ、続き話して見ろよ」
「ありがとうございます。えっとですね、シグナム二尉は先ほど『女である前に騎士』と仰いましたが、あなたが『女性』である事に変わりはありません。『騎士』である事と『女性』である事、どちらもあなたの一面を示す事実なんですし」
「確かに、構造的に女である以上それを否定するのはおかしな話だろう。
だが、だからと言って手を抜かれるなど承服できん」
「手を抜く気なんてありませんよ」
「なに?」

一見、前後で矛盾する様にも聞こえる兼一の言葉に、シグナムの眉が歪む。
それは他の面々にも言える事で、自然と兼一へと視線が集中した。
その中で兼一は、臆す事なく自身の本心を吐露する。

「あなたにも騎士としての矜持、ルールがあるでしょう、それと同じです。
 僕は女性を殴らないと決めました、だから殴らないだけです。幸い、柔術には殴らずに戦う技があります。ですから、もし戦う時はそれらを駆使して『全力』でお相手します。できれば戦いたくないですけど」
「……相手が自分より強く、殺す気で、武器を持っていたとしてもか?」
「はい。実際、昔危うく殺されかけた事もありましたし」
「それでも、殴らないと?」
「はい、それが不殺に並ぶ僕の信念の一つですから」

いっそ晴れやかなその顔と言葉。
そんなものを見せられては、シグナムとしても怒りを静めないわけにはいかない。
兼一が言った様に、シグナムにも騎士としての矜持が、ルールがある。
それは他者からすれば無価値なものだろう。けれど、自分はそう生き戦うと決めた。
誰かに押し付けたりするものではないが、シグナムはそれを命をかけて遵守する。
彼らにとって、各々の信念にはそれだけの価値があるのだ。

「僕は小心な男です。女性を殴れば罪悪感から心が鈍り、ひいては力と技を鈍らせるでしょう。
 戦場で生死を分けるのはまず心。だからこそ僕は『全力で戦うため』に、女性は殴らないんです」
「……詭弁だな」
「かもしれません。でも、やっぱり僕はあなたを殴りたくありませんよ」

自分自身、困った性分だと思わないでもない。だからこそ、ついつい肩を竦めてしまう。
しかし、それでも後悔はない。女性は殴らない、その信念が間違っているとは思わないから。

ただ、名指しで殴りたくないと言われた事はやはりシグナム的にはお気に召さないらしい。
だが、そこに今まで程の勢いと熱はなく、むしろそれまでとは別の感情が混じっていた。

「…………真顔で軟弱な事を言うな、バカ者が!」
「え、ひど!?」
「だが、この件に関してはもう何も言わん、好きにしろ。
己の矜持に従っているのは私も同じだ。なら、人の主義に文句は言えん」
「えっと、それじゃ模擬戦は……」
「なしだ、気勢を削がれては仕方ない」
「そ、そうですか。まぁ、僕としては万が一にも傷つける心配がなくなってよかったですけど。
 女性をキズモノにしたら男として……」
「貴殿は、いったい私をなんだと思っている!」
「女性を女性として扱わないで、どうしろって言うんですか!?」
(シグナムさんが言いたいのは、そう言う事じゃないんだろうなぁ……)

何か勘違いしているらしい兼一に、胸中で呆れるなのは。
ただ、兼一としてはシグナムとの模擬戦が流れた事が重要なので、怒られてもよく分かっていない様だが。
しかし心なしか、散々女扱いされた事でシグナムの様子もおかしい様に思える。
本人も多少自覚はあるのか、本調子に戻そうと深々と息を吐いた。

「まったく、構造的に女である事を否定はせんが、既に女は捨てていると言うのに、何故こんな扱いを……。
 騎士として、そして人として正しければそれでいいではないか。
いいか、貴殿の強情さに免じて見逃すが、それを忘れるな」
「はぁ…でも、何も捨てなくても。僕の師匠には女性もいますけど、別に捨ててはいませんでしたよ、意識は薄かったですけど。シグナム二尉、折角お綺麗なんですしオシャレとかなさらないんですか?」
「衣服に関しては主…部隊長が揃えてくださるもので満足している」
「つーか、自分で買う事なんてねぇよな。ジャージとか以外は」
「別にかまわんだろう」

本人はあまり服飾やアクセサリーなどのオシャレには興味がないらしく、基本自分で選んで購入する事はない。
実際、シグナムの服は大半がはやてチョイス。他は、ほとんどシャマルかリインの選んだものだ。
本人は選ぶ気がなく、普段着る服も割と適当で頻繁にチェックが入っている。
仮に購入するとしても、全て機能性重視。まさに色気の欠片もない。

ちなみに、手持ちの大半は彼女をより「カッコよく」見せるものが多い。
他の物もあるのだが、彼女は決して着ようとしてないのだ。
シグナムは美人系だし、別にそれが間違っているわけでもないのだが……。
八神家では密かにその辺も問題になっていたりするのだが、この十年進展はない。

「かわいい服とかもですか? フリルとかのついた」
「想像するだにおぞましい。着る者が着れば引き立つだろうが、私に似合うわけなかろう。
そんな物はヴィータかリインにでも着せれば良い」
「そうですかね? シグナム二尉すごくかわいいですし、お化粧もすればもっと似合うと思うんですけど」
「ぶっ! き、貴殿、眼と頭は確かか!?」

未だかつて、「かわいい」などと評された事がないだけに動揺も激しいシグナム。
そもそも、彼女を知る者のほとんどが「優れた騎士」として接するものだから、女性扱い自体に慣れていない。
この容姿なので女性扱いを全くされないわけではないが、大抵の場合彼女を形容する言葉として「カッコイイ」「凛々しい」などの言葉が並ぶ。
これらの事からもわかる通り、シグナムはとことんなまでに「かわいい女の子」という扱いに免疫がない。
いっそ、千年を超える夜天の書とその守護騎士の歴史においても、前代未聞と言っても良い経験である。

しかし思い出してほしい。
兼一の年齢は三十路一歩手前。対して、シグナムは設定年齢上はなのは達とどっこい。
兼一からすれば、十歳も年下の十代の女の子として映るのだ。
それはまぁ、「かわいい」という単語が出ても不思議はあるまい。
良くも悪くも真っ直ぐな男なので、尚の事その言葉はストレートに突き刺さったわけだ。

「え~…でも、実際華の乙女なわけですし」
「お、乙女!?」
「色々おしゃれするのも良いと思いますよ。かわいい系だってきっと似合いますし」
「わ、私は女である前に騎士なのであって……」
「別に、女性と騎士はぶつからないでしょう。
シグナム二尉は『優れた騎士』なんでしょうけど、同時に『かわいい女の子』でもあるんですから」
「ええい、もういい! 私は失礼する!!」

不慣れなワードのラッシュに、いったいどう反応していいかわからず戦略的撤退を選択するシグナム。
だが、兼一には一体何がいけなかったかわからない。
確かに、美人に美人、かっこいい人にカッコイイ、かわいい女の子に可愛いというのは何もおかしな事ではないだろう。程度の差はあれ誰でもやっている事だし、それは正当な評価というものだ。
そもそも、兼一からすれば実直過ぎる女の子への助言以上の感情はないわけだが。

ただ、今回は相手が悪かった。
その辺の機微がわからない事が、この男が級友に『さえないバカ』と称された原因の一つだろう。
そして、邪念や下心がなかったからこそ、シグナムとして対応に困ったわけだ。
邪念や下心があれば、心おきなくレヴァンティンを振るえただろうに。
とはいえ、やっぱりその辺がわからない兼一はすぐ隣にいたギンガに尋ねる。

「あっ、ちょ…行っちゃった。僕、何かまずい事言ったのかな? どう思う、ギンガ?」
「知りません!」

なぜ怒鳴られたのか、亡き妻一本道の兼一にわかる筈もなく、ただただアホ面のままポカーンと口を開けている。
反対に怒鳴ったギンガはというと、シグナムが無頓着すぎた事が原因とは言え、自分でもアレほどほめちぎられた事はないから、などと言えないわけで……。

とにもかくにも、これで兼一とザフィーラのカードが決定したのだ。
ちなみにこのカード、何もスタイルや兼一の主義を慮っただけのものではない。
隊長陣は魔導師保有制限の関係からリミッターを付けており、はやては4ランクダウンのAランク。隊長陣はだいたい2ランクダウンであり、なのはとフェイトも2.5ランクダウンのAA。S-のシグナムとAAA+のヴィータも、確実にAA以下。その関係で、AAのザフィーラは事実上現機動六課最高位の一角。
しかも、元からそのランクだった者とランクが落ちた者。無理に力を落とせば齟齬が生じる事を思えば、本調子に近い方が戦いやすいのは言うまでもない。何より、制限を受けている者と戦うとなれば兼一も戦いづらい。その挙句に相手が「女性」となれば、尚の事模擬戦の趣旨から外れてしまう。
そんな理由もあってのカードだったのだが、結局説明する機会を逸したなのははどこか寂しげだった。



  *  *  *  *  *



その日の夜半。
自室を抜け出したコルトは、一人黙々とウィンダムを振るっていた。

「2998、2999……3000!」

言い切るとともに、コルトの手からウィンダムが落ちた。
ゴツゴツとした手は震えており、足腰すらまともに言う事を聞かない。
いったいどれほどやったのかは定かではないが、文字通り体が悲鳴を上げていた。
しかしこれこそが、コルトにとっての日常でもある。

《今日のノルマはこれで終了ですが、アレだけやった後に良くやりますね》
「一日サボれば取り戻すのに三日はかかる。疲労は理由にならねぇだろうが」

もう既に五体に溜った疲労はかなりのものでありながら、コルトは意に介す事なく普段通りの鍛錬をこなした。
それはひとえに、強くなろうとするひたむきの気持ちの表れ。
性格には問題だらけだが、この一点に限り彼は優秀だった。

「明日も早い、汗を流したら寝るか」
《そうですね。ですが、良かったのですか?》
「何がだ?」
《白浜殿の申し出を断った事です。
弟子云々はともかく、あの方の言う杖術使いから学ぶ事は多かったかもしれませんよ》

ウィンダムの言葉は、純粋にコルトの事を慮っての事。
コルト個人に対する感情はわからないが、それでも彼はウィンダムの主の弟子。
それも、長年連れ添った自分を預けた相手だ。
ウィンダムとしても、彼の力になる事自体はやぶさかではないし、主の遺言なら尚の事。
だからこそ、兼一の紹介を断った事に後悔していないかを気にかける。
だが、返ってきた答えは短かった。

「いらん」
《なぜ?》
「俺には俺のやり方がある。わざわざ余所の術を学ぶ必要はねぇ」
《そうですか。まぁ、マスターが遺したものもありますしね。では、白浜二士からの指導はどうなさるので?》
「……話くらいは聞くさ、そこまで頭も堅くねぇよ」

コルトの基本戦術は杖型デバイスであるウィンダムによる打撃。
故に、師以外の杖術使いから教わる事は頑なに拒否するが、さすがに全てを突っぱねていては仕方ない。
どこかで妥協点は見出さねばならないのなら、コルトにとってはここがそうだった。

《まぁ、迷いがないのなら構いません》
(迷い、か。そうだ、迷いなんてあるわけねぇ。
『世界が広がれば』何て、ババァと同じ事を言いやがったのは驚いたが、それだけだ)

高齢だったコルトの師は自身の死期が近い事を悟っていた。
故にウィンダムを与え、その中にコルトにあてた「育成計画表」を遺したのだ。
師が逝って数年。コルトは、ただそれだけを標に己を練磨し続けてきた。
今更、別の誰かの教えを受け様とは思えないし、受けたいとも思えない。
できるのは武器と素手、打撃と砲撃並みに離れた者の助言に耳を傾ける位。
これが、コルトが出した結論だった。

《しかし、少々オーバーワークが過ぎるのでは? この調子で続ければ…いつか身体を壊すかもしれませんよ》
「関係ねぇよ。それで壊れるなら、それまでだっただけだ」

強くなる、ただそれだけを念じて過酷な鍛錬を課してきた。
いつか壊れるかもしれない、そんな事はわかっている。

だが、それが間違っていなかった事を今日改めて知った。いや、いっそ温いぐらいかもしれない。
その身一つで魔導師を圧倒する化け物。そこに至るなら、この程度で済む筈がない。
だから、間違ってはいない。ならば、もっともっと鍛えねば。
そうでないと、あっという間に彼女に追い越される。

「機動六課、か。成り行きだったが、来て正解だったかな?」

別に、コルトは好き好んで六課に来たわけではない。
来たのは、単純に成り行きの問題。
扱いにくさから持て余し、どこにも引き取り手がなかった所で六課に押し付けられた、それだけの事。

しかし、今はその成り行きに感謝している。
良い敵と、興味深い実例を知る事ができたのだから。それに……

「八神はやて、フェイト・T・ハラオウン、高町なのは、八神シグナム、八神ヴィータ」
《今のあなたでは瞬殺ですね》
「だろうな。SSやニアSランクに勝てるとはさすがに思わん。
 だが、頂が近くにあるのは良い。まだまだ届かないからこそ渇望が、飢えが戻ってきた」

浮かぶのは、腹を空かした獣の様な凄惨な表情。
満たされないと、もっと欲しいと、コルトは貪欲さを隠しもしない。

「それにしても……因縁だな。だが、好都合でもある。くくく、丁度いいのがいるじゃないか」
《いっその事、出会わない方が良かった気もしますがね》
「手遅れだな。向こうはどうか知らんが、俺は気付いちまった。なぁ、ランスター?」

夜の闇に、コルトの噛みしめる様な呟きが溶けて消える。
虚空の双月に照らされながら、コルトはくもぐもった笑い声を上げ続けていた。






あとがき

う~ん、我ながらすごい事になってしまいました。
アレこれ書いていたらこんな具合に、これも二つに割った方が良いのかも……。

とりあえず、コルトの背景が幾分か明らかに。まだ全然わかってないも同然ですがね。
兼一の相手がシグナムでないのは、まぁ書いてある通り。色々な意味で、兼一がやる相手としてはザフィーラが望ましいと思うんですよ。隊長陣は能力制限されてるし女性だし、全力でなくても、兼一の実力をある程度知りたいなら彼女らとカードを組むのはあまりよろしくないと思うのです。

只でさえ長いので、せめてあとがきはこれくらいで。
質問等々があれば、感想板へお願いします。



[25730] BATTLE 18「勢揃い」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/08/13 03:17

管理局執務官にして機動六課ライトニング分隊分隊長、「フェイト・テスタロッサ・ハラオウン」は思う。
「今日はなんだかみんなの様子がおかしい」と。
もちろん、知り合いが全員様子がおかしいと言うわけではないのだが、それでも変な者が多かったのも事実。

例えば、十年来の親友にして同室の高町なのは。
朝眼を覚ますと、すでに起きていた彼女の心は燃え盛っていた。

「ふふふふ……負けませんよぉ、兼一さん。
 私だって戦技教導官の端くれ。教導のプロとして、あなたに後れは取りません!」

白浜兼一の事は昨日の夜聞いていたし、どんな人種かも聞き及んでいる。
どうやら、一指導者として並々ならぬ対抗心を燃やしているらしい。

聞く所によると、彼の師は無茶・無理・無謀の三拍子が大好きな変人との事。
で、その弟子である白浜兼一も、かなりその色に染め上げられているのだとか。

よりによってそんな相手に対抗心を燃やす事もないのにと思うのだが、既にテンションが全力全開なものだから声もかけづらい。下手な事を言うと、何が起こるかわかったものではないと直感が告げている。
とりあえず、自身が保護責任者を務める二人だけは何としても守ろうと決意するフェイト。
スバルとティアナに関しては、二人を守るので精一杯なので一言「頑張れ」とエールを送る事しかできないが。



他にも、長年の目標の一人でありライバル、同時に自身の副官でもあるシグナム。
出勤の準備を整え廊下に出ると、いつもの凛とした空気はどこへやら。
忙しなく、落ち着きなく廊下を行ったり来たりするその姿は、普段と違ってどこか頼りない。
トレードマークの一つであるポニーテイルも、心なしかしんなりしている。
しかし、いぶかしんでしばし観察していると、さらにすごい事になっていく。

「……ああぁぁぁぁぁぁっぁぁあっぁぁぁぁぁぁ!!??」

唐突に叫び出したかと思うと、頭をグシャグシャとかき回すシグナム。
だが、始まるのが突然なら止まるのも突然。
なんの脈絡もなく停止すると、今度は慌てた様子で窓ガラスを鏡代わりに髪をセットし直す。

また、いきなり自分の身体を見直したかと思うと身繕いを始める。
それどころか、先ほど同様窓ガラスを鏡代わりに自分の顔をつねったり引っ張ったり。
挙句の果てに、何やら笑顔の練習までし出す始末。

正直、十年の付き合いになるフェイトでも初めてお目にかかるシグナムがそこにはいた。
あるいはシグナムのこんな姿、守護騎士たちですら知らないかもしれない。
そんな事を考えつつ茫然としていると、ようやくシグナムが彼女の存在に気付き駆け寄ってきた。

「む、丁度いい所にいた、テスタロッサ!」
「は、はい、どうしましたシグナム!」
「不躾な事は承知しているが、忌憚のない意見を聞かせてくれ。
 こんな事、主はやて達には聞けないのだ」

はやて達にも聞けない事、と聞いてフェイトの頭が即座に覚醒する。
良く見れば、シグナムの顔には隠しようもない程の緊張と焦燥が滲んでいるではないか。
あのシグナムにこんな表情をさせるほどの何か、フェイトの総身に緊張が走る。

生真面目で実直なシグナムは、はやてを心配させないために大抵の事は自分で何とかしようとする。
同様に、守護騎士筆頭として家族達に情けない姿を見せまいと努力してきた事は彼女も知っていた。
それはフェイト達に対しても同じようなものなのだが、そんな体面をかなぐり捨てる話なのだろう。
友として、好敵手として、上司として、彼女の相談に真摯に応えるべくフェイトは覚悟を決めた。
そして、大真面目な顔のシグナムの口から放たれた言葉は、フェイトの思考を混乱の坩堝に叩き落とす。

「私は…………………………………………かわいいのか?」
「……はい?」

あまりにもフェイトの持つシグナムのイメージからかけ離れたその問いに、間の抜けた声が漏れる。
現実に思考が追い付かず、それどころかまだ自分は夢を見ているのではないかと思う。
それほどまでに、たった今シグナムが口にした問いと戸惑いの破壊力は絶大だった。

「す、すまん! 愚かな事を聞いた。
 こんな言葉、本来私とは最も縁遠い…いや、そもそも縁のない単語なことは承知している。
 おそらく、アレも何かの間違いか気の迷いだったのだろう。
 だが、念のため第三者の意見を聞いておきたくてだな……」
「は、はぁ……シグナムが、かわいい…ですか?」
「う、うむ。実は昨日、とある男に言われたのだ。
自慢するわけではないが、これまで『カッコイイ』や『綺麗』の類の言葉は飽きるほど聞かされた。
だから、正直その手の文句を聞いてもなんとも思わん。
しかし、こんな事を言われたのは初めてでな。自分では判断がつかんのだ」

実際、シグナムにはなのは達に負けず劣らずファンが多い。
凛々しく、気高く、質実剛健にして忠義に厚い才色兼備の騎士。
厳しさと優しさを併せ持つ人格者であり、いついかなる時も毅然とした態度を示す彼女は、女性局員の憧れの的だったりする。なので、シグナムとなら禁断の世界に突入する事も厭わないと豪語する者は多い。

その為高嶺の花扱いされる事も多いが、同じくらい言い寄る男(ついでに女)も多い。
この十年、この手の輩が後を絶たなかった事もあり、すっかりその手の文句には耐性がついていた。

しかし、昨日投げかけられた言葉はそれまでのどれとも違う。
褒め言葉という意味では同じだが、ベクトルが違うのだ。
『綺麗』と見惚れるのではなく、『カッコイイ』と恍惚に浸るのでもない。
それは、上記二つにも引けを取らない褒め言葉にして、第三の方向性。

かわいいには『愛らしい』という意味も含まれる。
そんな事を、まるで年下の女の子を褒めるように言われたのだ。
身長が高く、剣腕に優れ、『烈火の将』と讃えられる高潔な精神の持ち主が。
自分とは無縁と思っていた単語を投げかけられたことに対する衝撃は、予想以上に大きかった。
何しろその方向性には免疫がない。それも、邪念も下心もない純粋な言葉だ。

好いた惚れたはともかくとして、それでもシグナムのメンタルは紛れもない女性。
自分にそんな面があるのかと思うと、どうしても気になってしまう。
数々の奇行も、全てはこれに起因していた。

「で、ど…どうなのだ?」
「ええっとぉ……」

シグナムが可愛いか否か。その答えを、フェイトも上手く言葉にできない。
彼女は紛れもない美人だし、スタイルも抜群、顔の造形にも非の打ちどころがないだろう。
また、その在り方はある意味理想の男性像、白馬の王子様に近いかもしれない。
男装の麗人、男物の格好をさせれば間違いなくそういう状態になる。

だが、彼女が問うているのはそんな事ではない。
だからこそフェイトとしても判断に困るのだが、困っているうちに勝手にシグナムは首を振りだした。

「いや、皆まで言うな。答えなど聞くまでもなかったのだ。
そう、これは気の迷い! 慣れない単語の幻聴を聞いて、気が動転していただけにすぎん。
忘れてくれ、忘れろ、忘れるんだぞ!! とにかく、お前は何も聞かなかったし見なかった。それが全てだ!」
「は、はい……」

あまりの迫力に押し切られ、結局答えらしい答えを返すことなく機械的に首を縦に振るフェイト。
それに満足したのか、あるいはフェイトの返事を聞く余裕すらないのか、シグナムは足早にその場を後にする。
昨日はあまり実感がなかったようだが、一晩明けてその意味が沁み渡り、気が動転しているらしい。
そんなシグナムの後ろ姿を見ながら、ようやく冷静さを取り戻してきたフェイトの口からある単語が零れた。

「今のシグナム、ちょっと……かわいかったかも」
「ぬあっ!?」

まるでバナナの皮でも踏んだかのように、盛大にこけるシグナム。
どうやら、今の呟きが聞こえてしまったらしい。



そして、隊舎の外に出るとそこには、一種異様な光景が広がっていた。
立ち並ぶ樹木から放たれるのは、なにやら不気味な鈍い輝き。
一つや二つではない。それが並木にそって無数に点在している事を、フェイトの眼が捉えた。

(なんだろ、あれ?)

輝きの位置は決して高くない。凡そ地上1mから1m50㎝にまばらに点在している。
不思議に思って近づいてみれば、すぐにその正体は明らかになった。
ただ、明らかになってもその意味と意図はさっぱりだったが。

「…………………釘と…人形、かな?」

鈍い輝きの出所にあったのは、木の幹に打ちつけられた人形と釘。
人形の胸、人間なら心臓に相当する場所を貫通する形で、釘が刺さっている。
だが、いくつか見渡して見ると、刺さっている所が異なるものもある様で、中には額のあたりをぶちぬかれている個体もある。まぁどちらにせよ、人間だったらかなりスプラッタな状態だ。

また、その人形も一般的にはあまり目にするプラスチックや布製ではなく、材料は藁。
文字通りの「藁人形」という奴だ。
そこでフェイトは、その存在に既視感と似ているようで違う何かを覚え、記憶の糸をたどりだす。

(あれ? そう言えば昔、いつだったかアリサからこんな感じの話を聞いた事があるような……。
 確か、時期は夏場の夜。怪談……だっけ?)

そう、それはなのはやはやて同様十年来の親友が話してくれたお話。
アリサとはやてが企画した怪談大会で聞いた事がある。
あの時は日本文化への理解がまだ乏しく、完全に理解できなかったおかげでそれほど怖くはなかった。
ただその後懇切丁寧に説明され、しばしの間怖くて夜中トイレに行けなくなったのだ。
なので、その度に自身の使い魔や義兄、あるいは義母、後の義姉にトイレに同伴してもらったのは親友たちにも言っていない絶対の秘密である。まぁ、そのおかげで完全に忘れた筈の今でも思い出せてしまったのだが。

「うぅ、イヤな事思いだしちゃった……」

恥ずかしい過去という名の黒歴史を思い出し、微妙に凹むフェイト。
アレからずいぶん経つが、それでも皆には知られたくない過去である。
特に、自分が保護責任者を務める二人には。そんな情けない過去を知られれば、二人を失望させてしまう。
今のフェイトにとっては、怪談などよりそちらの方が怖い。むしろ、次元震や世界の崩壊よりも。
とそこで、やや離れた所からフェイトの耳に恐らくは釘を「カーン、コーン」と打つ音が聞こえてくる。

「な、なに!?」

明るい時間帯なので別に怖くはないが、それでも不気味なことに変わりはない。
できるなら無視したいが、隊の敷地内で起こった異変を無視できるほど彼女は器用ではなかった。
何が起こっても大丈夫なように警戒しながら恐る恐る音の出所に近づいて行くと、やがて音もはっきりしてくる。
そうして聞こえてきたのは、妙に振動していながらも明るい子どもの声。

「いっか~い、にか~い、さんか~い」
「きゅうか~い、じゅっか~い、じゅういっか~い、じゅうにか~い」
「きゅく~」
「……やっぱり一回たりない」
(あれ、これってまた別の怪談のネタじゃなかったっけ?
 って言うかこの声、この鳴き声…まさか!?)

徐々に昔の事を思い出して来たらしく、内心冷静な突っ込みを入れるフェイト。
その一因、聞こえてきた声に聞き覚えがあったのも無関係ではあるまい。

「なにやってるの? エリオ、キャロ」
「「あ、フェイトさん!」」
「?」

木陰から顔をのぞかせてみれば、そこには案の定の顔ぶれ(若干一名除く)。
エリオとキャロは突然現れた意外な人物に目を見開き、心当たりのない翔は「誰?」とばかりに不思議そうに首をかしげている。

フェイトにとっても、当然ながら相手は見ず知らずの子ども。
故に、「誰?」という気持ちは同じだ。だがその仕草と表情に、そんな疑問などどうでもよくなる様な、胸を掻き毟られる感覚を覚える。

(か、可愛い……!)

キメの細かい滑らかな白い肌、風に揺れる艶やかな黒髪、陽光を受け輝く無垢な蒼い瞳。
その全てが愛らしく、思考がマヒしどうしていいのかわからなくなる。

(抱きしめたいなぁ、ほっぺたプニプニしたいなぁ……つ、連れてっちゃダメ…だよね?)

湧き上がるのは、このままお持ち帰りしてしまいたい衝動。
しかし、そんな少々危ない衝動は一先ず置いておくとして……。
翔にエリオがフェイトの事を紹介している間、キャロがフェイトの質問に答えてくれた。

「えっとですね、ナカジマ陸曹とまた無事に生きて会えるようにって言うおまじないです」
「おまじない? (そう言えば、ギンガの練習がもっとハードになるってなのはが言ってたけど、だから?
そんな願掛けをするのもどうかと思うけど、そもそもこれは確かおまじないじゃなくて……)」

フェイトも詳しく知っているわけではないが、それでも僅かに憶えがある。
彼女の記憶が正しければ、これはおまじないとは真逆の代物ではなかったか。
だが、これを安全祈願のおまじないと信じて疑わない子ども達。

「その呪い……もとい、おまじない誰が教えてくれたの? はやて?」

ここで彼女の名前が出る辺り、はやてがどんな扱いになっているか分かると言うものだろう。
しかし、エリオはフェイトの問いに首を横に振り、その情報源を明らかにする。

「いえ、『おひゃくどまいり』は翔が教えてくれたんです!」
「うん、アパのおじ様としぐれ姉さまに教えてもらったの! 百個作ると大丈夫って言ってた!」

教えてくれた人をよほど信じているのだろう、エヘンと胸を張って満面の笑顔で教えてくれる翔。
ただ、所詮は子ども。どうやら、しぐれ達が教えた内容から、さらに若干ずれてきているらしい。
もちろんそんな事、アパチャイ達を知らないフェイトが知る筈もないが。

(丑の刻参りを百って……善意しかなくても呪われそう)

とりあえず、彼女としても早めに直した方が良いと思う。
だが、翔をはじめ、エリオやキャロまで心の底からこれがギンガの為になると信じてやっている事がそのキラキラした瞳から伺える。甘いフェイトには、彼らに残酷な真実を告げる事は出来なかった。

「えっと、それ実はね……」
「「「?」」」
「……ううん、何でもない、頑張って」
「「「はい!」」」
(ホントは頑張っちゃダメなんだけど……ギンガ、大丈夫かな?)

彼女がそんな事を思ったその時、やや離れた場所でギンガの「大丈夫なわけありませんよ!」という絶叫が響いたかは、定かではない。ついでに、ギンガの食器類の尽くが縦に割れると言う怪奇現象との因果も不明だ。

しかし一つだけ言える事がある。
それは、後にフェイトはこの時これを止めなかった事を激しく後悔するだろう事。
詳しい過程と経緯は省くが、やがてこの呪いは元の形からは明らかに間違った形である「願いがかなうおまじない」として、時空管理局全体に広まるのだった。



BATTLE 18「勢揃い」



場所は変わって訓練場。
そこにはすでに、この日行われる兼一とザフィーラの模擬戦の準備が整っていた。

シチュエーションは前日同様、高層ビルの並び立つ「市街地」。
恐らく、少しでも公平を期すためのセッティングなのだろう。何しろ、ザフィーラと違って兼一に飛行はできない。兼一自身の要望により一切のハンデなしとされた為、その差を埋めやすくする処置だ。大方、飛べないにしても兼一の身体能力ならビルの壁を利用して、相手が空中にいてもある程度戦えると考えたのだろう。

兼一に伝えられた集合時間は、早朝訓練を終え朝食を取ったその後と伝えられていた。
それまではギンガの修業や自身のウォーミングアップに当て、食事を済ませておくようにとの事。

今頃は皆食事を取っているか、食後の僅かな休憩時間を満喫している所だろう。
故に、今現在この訓練場は無人…………の筈だった。

だが実際には違う。皆より一足早く、早々に訓練場…より正確には陸戦用空間シミュレータの使用許可をもらった白浜親子とギンガがいた。
その理由は簡単。前日の約束通り、ギンガにさらにきつい修業を課すためである。
今まで以上の修業をするには、食後の休憩時間さえも惜しい。幸い、食後間もなくハードな運動をした程度で具合が悪くなる様な鍛え方などしていないのだ。

「きぃぃぃいぃぃ重いぃぃぃ!!」
「ほら、あと一往復。急いで急いで。みんなが集まるまで時間がないよ。
 ただでさえ修業時間がキツキツなんだから」
「だったら重り減らしてくださいよ!!」
「それじゃ修業にならないじゃないか」

優に高さ十階を超えるビルの屋上の縁で胡坐をかいて弟子を見守る兼一。
しかし、屋上のどこを見渡してもギンガの姿はない。
いるのは、呑気に食後の茶を飲む兼一とビルの縁から下をのぞき込み「アワアワ」と震える翔だけ。

それもその筈。何しろのギンガの声は、丁度兼一の真下から聞こえてくる。
より正確には、ビルの壁面からと言うべきだろう。

そこにいたのは、ヤモリの如くビルの壁面にへばりつくギンガ。
それも、その背中には等身大の地蔵が、両腕には黒光りする仁王しがみついてた。
挙句の果てに、脚からは鉄球までぶら下がっている始末。

「う、腕が、指が……というか上半身がいい加減限界です!!」
「限界に挑んでこその修業さ。ああ、わかってると思うけど、くれぐれも脚は使っちゃいけないよ」
「縛っといて何言ってんですか!! というか、パンパンで元から動きませんよ!!」

ギンガの言葉通り、その脚は荒縄でぐるぐる巻きにされ動かない。
つまり、今彼女は両腕だけを頼りにビルを上っているのだ。

元来、ビルの壁面の凹凸などたかが知れている。
それをよじ登るとなれば、生半可ではない指と腕の力を要するだろう。
その上脚が使えず重りまで付いているのだから、最早拷問の域だ。

「弱音を吐いてる暇があったら早く上る。凹凸は少ないけど、滝じゃないだけマシじゃないか」
(滝なら下が水だから死ぬ可能性は低いけど、その分……)

水の質量と落下エネルギーが加わるので、実に甲乙つけがたい。
まぁ、ギンガの場合いざとなれば魔法を使えば死ぬ事はないので、兼一の言う通り滝じゃないだけまだマシだろう。とはいえ、だからと言って今の修業が軽いと思える筈もないし、実際軽いわけでもない。

「っと、30秒経ったね。翔、それとって」
「う、うん」
「ほら、いくよ」
「いくって、まさか!?」
「はい、避ける!」
「きゃ――――――――!?」

頭上から降ってくるのは、頭ほどの大きさの石。
それがギンガの頭めがけて降ってくる。

大慌てでギンガは片手を離し、身体を揺すってそれを避けた。
だがそれで終わらず、次々とギンガを追い掛けるようにして石が降ってくる。
絶え間なく降ってくる石に対し、一度は離した手で壁を掴み、今度は逆の手を離して避けた。
左右の手で壁を掴んでは離しを繰り返し、その全てをやり過ごす。

「よし、良く避けたね。さ、次はまた30秒後だよ」
「むきぃぃぃぃぃぃ!!」

早く登らなければまた石が降ってくる。
その危機感に突き動かされ、半ば自棄にでもなった様に壁を這い上がるギンガ。
努力の甲斐あり、その後三回の落石を経て、見事生きてビルの壁を登り切った。

「ハァハァハァハァハァ……」
「よし、良く生きて帰った」
(よ、ようやく終わ……)
「じゃ、今度は下りようか」
「まだやるんですか!?」
「だって、まだあと一往復って言ったでしょ?」
「確かに、確かに言いましたけど……」

すでに限界を迎えているのか、両腕がプルプルと震えて力が入らない。
それは何も腕に限った話ではなく、僧帽筋や広背筋など背筋全般に言える事。
腕や肩の運動には背筋が密接に関与しているので、当然の結果だ。

しかし、この状態で下りなど自殺行為にも等しい。
それがわかっているからこそ躊躇いを見せる弟子に対し、兼一は一つ別の条件を提示する。

「しょうがないなぁ。じゃあ、下りを免除する代わりに」
「どうするんですか! これ以外なら何でも……」
「海に」
「下ります」

兼一が一言「海」と言った瞬間、最後まで聞かずに返答するギンガ。
湾岸地区という立地上、機動六課は海に面した区画にある。その為、やろうと思えばいつでも海に出られるわけだが、今の彼女は正直海など見たくもないらしい。
故に、そのままビルの縁に手をかけそのまま今来た道、ならぬ壁を下り始めた。
ちなみに、海に出られなかった兼一は少し寂しそうだった…かもしれない。

「良い修業になるんだけどなぁ…海」
(まさか、海に沈めたんじゃないよね?)
「何か言ったかい、翔?」
「ううん、何も言ってないよ」

不思議そうな顔で覗き込む父に、翔は首を振る。
早朝はエリオ達と一緒に件の「おまじない」をしていたので一緒にいなかったが、ギンガの様子から今まで以上にハードな事をやったのは間違いない。何をやったかは想像できないが。
とそこへ、呆れの感情を露わにヴィータが、その後ろには苦笑気味のなのはの姿もある。

「あ、おはようございますヴィータ三尉。それになのはちゃんもおはよう」
「おう」
「どうも、おはようございます兼一さん、翔もね」
「うん、おはようございます!」
「つーか、あたしには敬語でなのははタメなのな」
「あ、そう言えば……直した方がいいかな?」
「いえ、別にいいですよ。兼一さんに敬語で話されるのも変な気分ですから。
 それを言ったら、ヴィータちゃんだって敬語使わないでしょ?」
「お前相手に敬語なんて気色悪ぃ。ま、時と場所くらいはわきまえるけどな。
 ここならうるさく言う奴はいねぇだろうけど、外だと気にする奴もいるからそこだけは気をつけろよ」
「ま、そう言う事で」
「はい」

要は、メリハリをつけろと言う事なのだろう。
六課はほとんど身内所帯なので、その辺は緩い。
だが外ではその限りではない以上、変に目をつけられない為にもそう言う事が必要なのだ。

「(それにして、何度見てもちっちゃい人だなぁ。とてもじゃないけど尉官には見えないよ)あたっ!?
 な、何するんですか!?」
「てめぇ、またあたしの事『小さい』とか思っただろ」
「え? ああ、その……もしかして、考えるのも禁止?」
「あ・た・り・ま・え・だ! だいたいお前、学習能力ってもんがねぇのか? それともあれか、ところてんみたいにドンドン押し出されるのか?」

眼は口ほどに物を言うと言われる。
今まで散々そういう目で見られてきたヴィータには、相手の視線からそう言った事を考えている事がわかるのだ。
そして、このネタはヴィータにとって最大のコンプレックスの一つ。
迸る怒りのオーラは天を突かんばかりに立ち登り、兼一をして後退りさせるには十分だった。

「ち、ちらっと思っただけです…よ?」
「自信ねぇんじゃねぇか!!」
「だ、だって、背だって翔とあんまり変わらないじゃないですか…ってしまった!?」

最早言葉は不要とばかりにグラーフアイゼンを振りかぶり、兼一の頭に殴りかかるヴィータ。
兼一としても、不用意に相手のコンプレックスを刺激してしまった負い目から、甘んじて制裁を受ける。
都合30発にも及ぶ執拗なまでの天誅。
その末に、さすがの兼一も頭から白い湯気を上げながら、無数のたんこぶを作って突っ伏した。

「ハァハァハァ……何か言いたい事はあるか?」
「ありません」

常人なら、とっくに脳漿をぶちまけているだけの攻撃を受けながら尚意識があるのは驚嘆以外の何物でもない。
というか、そもそもたんこぶ程度で済む筈がないのだが。
事実としてたんこぶだけで済んでいる兼一に、なのはは呆れとも感心ともつかない呟きを洩らす。

(相変わらず、頑丈な人だなぁ……)

本来、その一言で済ませていい問題では断じてない。
のだが、その事に突っ込んでくれる良識人はいなかった。

「にしても、何やらせてんだよおめぇ」
「? 見ての通り、ビルを登ったり降りたりしてるだけですけど?」
「そう言うと普通に聞こえるけどよ、やってる内容は絶対普通じゃねぇぞ。
 つーか、何だよあの地蔵とか」
「子泣き地蔵としがみ仁王アイアンです」
「子泣きって、おい……」
「僕も昔使ってた修業道具なんですけどね。ホントは金下駄とかプラチナブーツとかを使わせてあげたいんですけど、うちの財政事情だと……」
(無駄に金がかかりそうだな、それ)

今更ながら、闇との格差を思い知る兼一。多少懐が豊かになっても、さすがにあんな真似はできない。
比重としては鉄や石よりも重いので効果的なのだが、如何せん先立つ物がないのではどうにもならなかった。
だがそこで、何かを思いついた様に兼一がなのはを見る。

「ねぇ、なのはちゃん」
「いえ、さすがにそれは予算的に……うちは特殊ですけど、無尽蔵じゃないんで」
「そっかぁ……」

凄く、凄く残念そうな兼一。
とはいえ、さすがに備品として金製の下駄やプラチナ製のブーツなど用意できる筈もない。
なんというか、アナログな癖に費用がかかり過ぎるのだ。
如何に六課が特殊とはいえ、申請した所で決して受理されない事は目に見えている。

「それにしても、登りだけじゃなくても下りもですか……」
「まぁね。手っ取り早く強くなりたいなら、蹴りを突き並みに器用にするか、突きを蹴り並みに強くするかだし。
それに階段とか坂もそうだけど、実は上るより下る方がキツイから。
 折角良い修業になるのに上りだけって、なんか損した気分でしょ?」
((そうか【なぁ】?))

兼一からすれば損した気分なのかもしれないが、それは一般論ではない。
むしろ、下りまである方が損した気分になるだろうと二人は思う。

「そう言えば朝は見かけませんでしたけど、何してたんですか?」
「ああ、ちょっと海にね」
「アレか? 砂浜を走るとかそういうのか?」

海と聞いて思い出す練習の定番、それは砂浜を走る事だろう。
そう思い至ったヴィータは、内心で「結構普通だな」と思う。
だが、この連中に限って普通の事などやらせるわけがない。

「いえ、走ったのは海の中ですよ、腰まで浸かって」
「は?」
「ほら、水の抵抗って結構便利じゃないですか。
 波で不安定になりますし、足場も悪いですから足腰の鍛錬にはもってこいなんですよねぇ。
 バランスを崩さない様に砂を掴まなきゃいけないから、死ぬほど足の指も鍛えられますし」
(壁上りと言い、地味にきつい事やらせんなぁこいつ)

元来の性格に加え、師の薫陶が行きわたっているのだろう。
秋雨もそうだったが、意気込めば意気込む程地味な訓練をねちっこくやらせるのが兼一の傾向である。
水の抵抗があっては思うように動けない上に、波の影響や足場の悪さもあっては猶の事。
ギンガは水中でも突きや蹴りの鋭さを維持する技術を持っているが、それでも相当難儀した筈だ。
そもそも、アレは一々全ての動きに練り込めるような性質のものではない。
故に、なのはが昔の事を忘れてこんな勘違いをしてしまったのも無理はなかっただろう。

「海の中をスロージョグですか、なるほど。
(もうちょっと基礎体力がついてきたらみんなにもやらせてあげようかな?)」
「は? なに、スロージョグって?」
「え? だって、水の中ですしやっぱりゆっくりとしか……まさか!」
「おい、どうしたなのは」

「スロージョグ? 何それ、美味しいの?」的な反応を示す兼一。
なのははそんな兼一の様子を見て思い違いにいち早く気付き、怖れ慄く。
ただし、達人と言う人種への耐性の低いヴィータはいぶかしむ様な表情を浮かべる事しかできず、なんとなく予想のついた翔は深々と溜息をついていた。

「兼一さん、まさかとは思いますけどペースを落としたりは……?」
「え? そんなことしたら修業にならないじゃないか」
「やっぱり……」
「おい、どういう事だよ」
「兼一さんの走り込ってね、少しでもスピードを緩めると鞭で叩かれるんだ、馬みたいに」
「……………………………マジかよ」

ヴィータも想像がついたのだろう。
本当に鞭を打たれたのかは定かではないが、似たような方法で一切の緩みを許さなかったに違いない事が。

そして、翔は理解した。
何故先ほど、「海」と言う単語が出た時点でギンガが大人しく壁を下りて行ったのかを。
一見すると壁上りの方がハードだが、兼一の足腰を重視する傾向は性癖の領域だ。
恐らく、その内容も走り込みだけでは済むまい。
ただでさえ脚に力が入らない状態だったのだ、下手をすると今度こそ海に帰っていたかもしれない。
それはまぁ、ギンガでなくても回れ右をするだろう。
だからこそ、ヴィータが内心でこう呻いたのも仕方がない。

(限度ってもんを知らねぇのか、こいつは)

ギンガとて、兼一に弟子入りする前は水の中での訓練も積んできた。
そのギンガでさえあの有様となってしまうような訓練。
普通に考えれば、度が過ぎているどころの話ではない。

本音を言えば今すぐにでもとめた方がいいとヴィータは思う。
しかし、一度信じると言ってしまった手前、さすがに昨日の今日で翻すわけにもいかない。
少なくとも、ギンガもなのはもまだ兼一を信じているのだから。
とそんなヴィータの内心を余所に、なのはは視界の端で何かを捉えそちらに顔を向けていた。

「あ、みんな来たみたいだね。じゃ、兼一さん」
「うん。ギンガも降りたみたいだし、上るまでちょっと待ってもらえる?」
「大丈夫ですよ。まだ時間まで少しありますから」
「ごめんね」

やってくるのは、部隊長であるはやてやライトニング分隊分隊長のフェイトを始め、兼一とも共に戦う事になるであろうフォワードメンバー達。他にもシャマルやリイン、なぜかヴァイスなどの姿もある。
どうやら観客と言うか野次馬と言うか、そう言う感じらしい。
とそこで、まだちゃんとした形での面識を持った事のなかったはやてが話しかける。

「どうも挨拶が遅れまして、機動六課部隊長の八神はやてです。はじめまして…やないんですよね、確か」
「あ、いえ、こちらこそ。白浜兼一二等陸士です」
「ええですよ、別に敬語やなくても。白浜さんの方が年上なんですし」
「いや、さすがにそう言うわけには……」
「そですか?」

なのはとは昔の付き合いがあるので抵抗はないが、さすがにほぼ初対面に近い上司にタメ口をきく度胸は兼一にはない。まぁ、この先親しくなれば話は別かもしれないが。
とはいえ、兼一としてはむしろ問題は他にある。

「あの、アヴェニス一士」
「なんだ?」
「いやぁ、昨日の今日なのにまたやるんですか?」

溜め息交じりに、どこか疲れた様子で確認する兼一。
その視線の先には、デバイスこそ構えていないが僅かに腰を落としたコルト。
見る者が見ればわかる事だが、早々に臨戦態勢である。

「昨日と違いしっかり休んで体調は万全だ」
「いえ、そういう事じゃなくてですね……」

大方、今度は万全の状態との差を知りたいと言ったところか。
懲りないと言うか熱心と言うか…その飽くなき闘争心は称賛に値するのだが、それを向けられる本人からすると傍迷惑極まりない。
ギンガや翔の場合は稽古の延長だが、これは違う。
そう簡単にやられるつもりはないとはいえ、相手は遠慮仮借なくやる気なだけに扱いに困る。

(長老みたいに連続足払いをした程度で諦めてくれるような人じゃないしなぁ……)

良くも悪くも、とにかくこの男はガッツの塊だ。
その方向性さえもう少し違えば、純粋に応援できるのにと嘆息してしまう。

《またやるのですか、あなたは……》
「ババァも概ねこんな感じだったろうが」
《そんな事は……有りましたね》
『あったのかよ!?』
《何と言うか、弟子は叩いて伸ばせと言う方針の方で……日に一度は完膚なきまでにサーを叩きのめしていたものです》
「しかも自分から積極的に不意打ちしやがるからな、あのクソババァ」

つまり、コルトの人格形成の責任の一端はその師にあると言う事か。
常在戦場と言えば聞こえはいいが、しょっちゅう師から不意打ちされるのでは彼も堪った物ではなかっただろう。
それはまぁ、多少性格が歪むのも無理はない。コルトの場合、多少で済ませていいか疑問だが……。

《そう言えば、弟子になって間もない頃は何度も逃げ出してましたよね。
その度にマスターと探しに行って、街中で折檻、屋敷に連行したものです》
「待て待て! そもそもババァが無理矢理弟子にしやがったんじゃねぇか! 普通避けるだろ、そこは!!」
《ええ、良く憶えています。小汚い小僧のサーに、『教えてやるから有り難く思いな、クソガキ』と仰られたのですよね。ああ、あの時のマスターは本当に輝いておりました》

何故だろう、こう聞くとコルトがすごくまともに思えてくる。
どうも、弟子入りは本人の意思とは関係なしの強制だったと言うのだからとんでもない話だ。
そう言えばウィンダムも頑固老人と言っていたが、これはそんな生易しいものではない。
それはまぁ、コルトでなくても逃げるだろう。

「とにかくやるぞ」
《しょーのない人です。申し訳ない白浜殿、こんなのに目を付けられたご自分の不幸を嘆いてください》
(それは、何の救いにもならないんじゃ……)

等と思っている間にも、コルトはウィンダムを起動。
その手に握るや否や、鋭い踏み込みと共に杖を薙ぐ。

「はぁ……」

ウィンダムの言う通り、鋼はもう嘆いて溜息をつくより他にない。
全く以って、なんと言う不条理。
こんな理不尽、未だかつて………………山ほど体験してきた事を思い出し若干鬱になる。

(考えてみれば、有無を言わせず不意打ちしてこないだけまだマシなんだよね)

過去の襲撃者達に比べれば、まだコルトの方が良識がある。
かなり歪であるとはいえ、コルトのこれはいわば胸を借りようとしている様なものだ。

そんな事を考えながら自分を慰めつつも、兼一の身体は淀みなく動く。
コルトの一撃を最小限の動きで回避、切り返すよりも早く懐へと踏み込み衣服を掴んだ。

「よっと」

軽い、実に軽い掛け声とともに兼一の両腕が縦横無尽に流れた。
その間も兼一の脚は止まることなく進み、気付けばコルトのすぐ横を通り過ぎる。
だがこの時、既に勝負は決していた。

「なんだ、これは!?」
「馬家、縛札衣」

『馬家 縛札衣(ばけ ばくさつい)』。相手の着衣を剥ぎ、これを利用して身動きを取れなくさせる捕縛の技。
服を用いて無傷で制す活人拳の極みの一つでもあるが……あまり女性には使えない技でもある。
実際、師父剣星と違い兼一はこれを女性に使った事はない。
本当は捕縛と言う事を考えると対女性向きの技なのだが、その性質上セクハラ野郎の烙印を押されてしまう。
妻子有る身として、その烙印はなんとしてでも避けねばならない。特に、美羽にこの技を女性に使った事を知られれば、確実に白い目で見られるのだから当然だ。美羽亡き今でも、弟子や息子にそんな目で見られたくはない。
しかし、師父の神経の図太さを密かに尊敬してしまうのは男の性か……。

とはいえ、前日のギンガとコルトの模擬戦でもそうだったが、基本的に身動きを封じられてしまえば勝負あり。
抜けだすまでの間が僅かなものであろうと、その間は無防備な状態を晒すことになる。
そうなれば、煮るなり焼くなり思うがまま。
それを理解しているからこそ、縛られたコルトも大人しくしていた。
まあ、それだけが理由ではないかもしれないが……。

「服を剥ぐだと? けったいな技を……っ! まさか、男を裸に剥くのが趣味なのか、アンタ」
『ええ!?』
「いや、あの、そんな誤解を招くような事は言わないでくださいよ!?」

今のコルトは、上着で両腕を、ズボンで両足を縛られている。
その為、身につけているのは上下の肌着のみ。早い話、下半身は下着のみだ。
故に、実は二人の背後で女性陣から黄色い悲鳴が上がっていたりする。
その上、男性陣は僅かに兼一から距離を取りっているときた。
それはまぁ、誤解を招くような事は言わないでほしいだろう。
ちなみに、誰とは言わないが若干名の女性陣がコルトの裸体をしげしげと見ていたりするのだが、思い切り余談である。

「冗談だ」
(冗談言うんだ、この人)

正直、あまり遊びのない性格なので、冗談を口にするという事自体が意外でならない兼一。
あるいは、単にはぐらかしただけかもしれないが、定かではない。
しかし、問題と言うのは畳みかける物。何が言いたいかと言うと、兼一に熱い視線を向ける人物が一人。

「兼一さん」
「なんです、部隊長?」
「先生と呼ばせてください!!」
「なんで!?」

眼を爛々と輝かせ、熱い口調で懇願するのははやて。
その源泉はわからないが、熱意だけは本物と分かる。

「いや、ナカジマ三佐が私の師匠ですんで、それやったら先生かなぁと」
「いえ、聞いているのはそんな事じゃなくて、なんでそんな風に呼ぶのかと……」
「なんでってそら……………………今の技が大きなお友達の夢やからや!!」
「はいぃ!?」

はやての言っている意味がさっぱりわからず、困惑一色の兼一。
そんな彼に、はやてはちょっと背伸びをしながら耳元に口を寄せヒソヒソと小声で話しかける。

「いや、ここだけの話、自慢やないんやけど私…ちょう胸にはうるさくてな」
(もしかして、そっちの趣味の人なのかな?)
「あ、くれぐれも勘違いせんといてほしいんやけど、別にレズとちゃうで。至ってノーマルや。
ただ、ちょう胸も好きなだけの、普通の女の子やから」

本人が言うのだからそうなのかもしれないが、イマイチ信憑性に欠ける。
というか、諸々の発言内容を考えると信じられた物ではない。
そもそもはやては、弱冠19歳にして二佐の地位にある六課一の超エリート。
にもかかわらずその正体がこれとは……。
108にいた時の前情報だと、地位や能力を鼻にかけない気さくな人物と聞いた。
だが、これはフランクとかそういう問題ではないだろう。

「せやけどな、最近……」
「最近?」
「一つの事に拘るっちゅうのも狭量かなぁと」
「つまり、どういうことでしょう?」
「つまり、そろそろ新しい世界に挑戦してみようかとおもっとった所だったんや!!
 そのタイミングでこの出会い! これは、世界が私に新しい世界の扉を開けと囁いとるに違いない!!
 そう、これは運命や!!」

世界に吠える様に力説するはやて。一瞬、その力強さに『そうかもしれない』と思わされた事を不覚に思う兼一。
同時に、きっと彼女はこの技を教えた師父、剣星と自分以上の友達になれる。
根拠も理由もなく、ただ確固たる確信だけが兼一の胸に芽生えていた。
とはいえ、それとこれとはまた別の問題で……

「でもお断りします」
「なんやて!?」
「いえ、そんな悪用する気満々の人に教えるわけには……」
「悪用とちゃう! 新しい世界への扉を開く、これは世界への挑戦や!!
 女に会っては服を剥ぎ、男に会っては服を剥ぐ。まぁ、剥いだ後は胸部マッサージしたり観察したりと色々やけど……とにかく、これはロマンなんや! 兼一さんなら、わかってくれると期待してます」
「わかる様なわからない様な、若干心ひかれる部分がある気もしないでもありませんが…………いくら力説してもダメな物はダメです」

兼一の言葉にはやては打ちひしがれ、その背後からは喝采が上がる。
別に、はやてとて無差別にそんな事をするとは考えにくい。
実際、今の趣味である胸部マッサージにしても、見知った仲の相手にしかしていない。

しかし、何事も何がきっかけになるはかわからないもの。
もしかすると、これがきっかけとなって取れてはいけないタガが取れてしまうかもしれないのだ。
それはまぁ、皆が兼一の英断を称賛するのも当然だろう。
そもそも、兼一からするとそんな事より気になる事がある。

(なんだろ、さっきから視線を感じる。殺気、じゃないんだけど…妙なプレッシャーが)

何と言うかこう、おどろおどろしいと言うか、ドロドロしていると言うか、強い感情を感じる兼一。
だが、結局のところそれだけ。特にこれと言って危機意識は煽られないからこそ、かえって困ってしまう。
ちなみに、そんな事を思っている間にも、定期的に岩を蹴落としているのだから見上げたものだ。
いかなる時も、弟子の修業に手は抜かないらしい。まぁそれはそれとして、視線の主はと言うと……

「うぅ~、うぅ~、うぅ~……」
「なにやってるの、フェイトちゃん?」
「し、しーっ! 静かにしてなのは、気付かれちゃうよ!!」
(どうして気付かれないと思えるんだろう?)

なのはの背中に隠れ、兼一に対しどこか怨みがましい視線を送りながら小声で叫ぶフェイト。
テンパルと冷静な思考力はなりを潜め、周りが見えなくなるのは昔からの悪癖だ。
だからまぁ、いい加減平常時とのギャップをなんとかして欲しいとは思うが、いつもの事と思えばいつもの事。
ただ、周りから向けられる「何やってんだこの人」的な白い目にも気付かないのはどうだろうと思うなのは。
執務官試験と言う超のつく難関試験をクリアしたエリートなのに、どうしてこう身内の事になると暴走してしまうのだろうか。海の若手トップエース、金の閃光の二つ名が泣いている。

「あの人、なのはの古い知り合い…なんだよね?」
「あ、うん。そうだけど……」
「なのはは、どこにもいかないよね? エリオみたいに、あの人に乗り換えたりしないよね?」
「えっと、何を言ってるのかよく分からないんだけど……」
「キャロも籠絡されそうだし、なのはまでとられたら私、私……」
「籠絡って……」

まるで、捨てられそうな子犬の様な瞳でなのはを見上げるフェイト。
保護欲をかきたてられなくもないが、それ以上に意味不明な言動に首をかしげたくなってくる。
と、そんな不毛なやり取りをしているうちに、件の二人、エリオとキャロが笑顔で兼一の下に駆けて行く。
その様子を見て、フェイトから迸る陰鬱な情念が5割増した。

「「兼一さん!」」
「兄さまにキャロ姉さま!」

駆けて来る二人に気付き、翔もまた嬉しそうに二人を呼ぶ。
どうも、一人っ子だった事と幼さのせいもあるのか、翔の中では優しくしてくれる年長者は、ほぼ無条件に「姉さま」か「兄さま」と言う呼び名になるらしい。ただし、十代半ばまで限定で。
さっきまでのお子様お断りなやり取りなど即座に脳のゴミ箱に捨て去り、兼一は二人に笑顔を向ける。

「ああ、二人とも。朝はありがとうね、翔の面倒見てもらっちゃって」
「あ、いえ、そんな全然」
「私達も、早朝の訓練が始まる時にアイナさんにお願いしちゃいましたから」
「それに、僕達も楽しかったですし。ね、キャロ?」
「うん!」

どうやら、朝翔が二人と一緒にいたのは兼一から頼まれてのことだったらしい。
修業の段階が上がった事で、さらに起床時間が早まったのは良いが、さすがに5歳の子どもに早起きさせ過ぎるのも発育上よくない。そんな考えもあり、起きて食事をするまでの間翔の面倒を頼んでいたのだろう。
同時に、兼一は二人の昨日までとの変化に気付く。

「あれ? 二人とも、昨日まで丁寧語で話してなかったっけ?」
「あ、その…翔と一緒にいたらなんだか不思議と話が弾んで」
「気付いたらこんな感じで…やっぱり直した方がいいでしょうか?」
「同い年でパートナーなんでしょ? なら、別に気にしなくていいんじゃないかな?
 仲が良いに越した事はないと思うよ」
「そう、ですよね!」
「フェイトさんも『なるべく仲良くして欲しい』って言ってましたし……」

どうやらエリオと兼一の時と同じように、翔がいい具合に橋渡しになったおかげの様だ。
別に狙ったわけではなかったのだが、結果的に良い方向に行って兼一の顔にも笑顔が浮かぶ。
だが、それを見て心中穏やかではいられない人もいるわけで。

「いいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいなぁ~!!!」
「フェイトちゃん、そんなに気になるなら、どうやって打ち解けたか直接聞いてみたら?」
「で、でも……」
「でも?」
「どう聞いたらいいかわからないし、話した事もない人だから……恥ずかしくて」
(その羞恥心を別の所にも持ってほしいっていうのは贅沢なのかな?)

正直、客観的にみると今のフェイトの方がよっぽど恥ずかしいと思うのだが。
昔に比べれば内気な所も治ってきたが、それでも根本的な所はまだの様だ。

さらに重さの増した視線はさすがに居心地が悪く、思わず兼一は肩を振るわせる。
そんな兼一に、妙に立ち直りの早いはやてが気分を切り替えて問いかけた。

「どうかしはったんですか、先生?」
「ですから、技を教える気はありませんから先生はやめてください。
ただ、なんかこう…肩に何かがのしかかってくるような情念を感じて……」
「あぁ、あんま気にせんほうが良いと思いますよ」
「何か知ってるんですか?」
「まぁなんちゅうか…………疲れますからスルーするのが一番ですって」
「はぁ……」

何か釈然としないものを感じつつも、原因はわかってもいまいち理由がわからない兼一はうなずくしかない。
フェイトとも事実上の初対面。あんな怨みがましい目で見られる理由が、兼一にはさっぱりわからないのだ。
まぁ、当然と言えば当然ではあるのだが。

しかも、それとは別にもう一つ妙な視線を感じる。
チラチラと、まるでこちらの様子をうかがうかのような落ち着きのない視線。

「まぁ、そっちは良いとして……シグナム二尉はどうしたんですか?」
「むしろ、理由を聞きたいのはこっちなんやけど……昨日から様子がおかしいし、模擬戦ができなかっただけやなさそうなんですよね」

集合場所に集まってからと言うもの、挙動不審のシグナム。
兼一の方を横目でチラチラと見ては、難しい顔をして唸っている。
かと思うと、唐突に髪を梳いたり自分の顔をぺたぺたと触りだす。はっきり言って、この十年一度も見た事のないシグナムがそこにはいた。
シグナムが守護騎士筆頭としての権威を乱用し、ヴィータに口封じをしているのでその原因ははやても知らない。

「昨日、何かあったんですか?」
「う~ん……女性は殴らないって言ったのがそんなに気に障ったんでしょうか?」
「いや、あれはそう言う感じやないですね。もっとこう別の……」
「まるで、自分のキャラクターを再確認しようとしてるような感じですね」

はやての言葉を引き継ぐ形で、横合いからシャマルが口を出す。
長い付き合いのシャマルとしても、あんなシグナムは初めて見る。

「何て言うか、はやてちゃんと一緒に暮らし始めた時みたいなんですよね。戸惑ってるって言うか」
「普段とギャップがあって、なんだか今日のシグナムは可愛いです!」
「ああ、言われてみれば確かに」
「まさか十年を過ぎて新たな発見があるとはなぁ、家族っちゅうのは深いもんや」

リインの発言を受けて、何か得心が言った様子のシャマルとはやて。
常に凛とし可憐などの言葉とは無縁、と思っていたシグナムだが、今の戸惑う様は可愛いの一言である。
実際隊舎の中を歩いていても、そのどこか物憂げな表情に振り向いた男女は数知れない。
しかし、ああ言うタイプに慣れており、なおかつあの手の人種を数多く知る兼一からすればそうは思わないわけで……。

「そうですかね? いつも通りの方が可愛らしい方だと思うんですけど」
『は?』
「あの、どうかしました?」
「すいません、兼一さん。もしかして昨日、シグナムに同じこと言いました?」
「? 同じ事?」
「せやから、可愛いとかそういうの」
「はぁ、言いましたけど?」
「なんでまた?」
「え? だって、シグナム二尉って部隊長やなのはちゃん達と同じくらいですよね?
 女の子なんですから、そりゃ可愛くて当然じゃありませんか?」

その言葉を聞き、はやて達の目が点になった。
続いて三人は、吹き出しそうになる自分を必死に抑え込む。

「ぷ、ぷぷ…お、女の子、シグナムが女の子……!」
「た、確かに、確かにそうなのかもしれませんけど……くく、く」
「あははははは! お、おなかが痛いですぅ!?」

あまりに自分達が持つイメージからかけ離れたその言葉に、笑いがこみあげてくるのを止められない。
兼一の台詞を聞いた瞬間、セーラー服やブレザー、あるいはワンピース等々、可愛らしい装いに身を包んだシグナムの姿が脳裏をよぎる。似合わないとは言わない、だがあまりにもイメージから外れている。
特にイメージ上のシグナムが、戸惑ったり羞恥から顔を赤らめていたりするものだから、破壊力はさらに増す。
ちなみに、シグナムは今精神的にそれどころではないので気付いていない。

「せ、せやったら兼一さん、例えばメイド服とかゴスロリとか、似合うと思います?」
「え? ああ、似合いそうですよねぇ」

笑いをこらえながらの問いに、兼一は至極真面目な顔で応える。
はやてを始め、シャマルやリインも笑ってこそいるがおおむねその意見には賛成だ。
普段の彼女なら絶対に着ないだろうし、イメージもあって着せようと思わなかったのが今になって惜しいと思う。
ただ、その理由は些かならず不純だったが。

(なんで、なんで今まで思いつかなかったんや! こんな、こんなおもろそうな事!!
 あの技と良いシグナムの事と良い、この人もしや天然のネタの宝庫!?)
(み、見たい、物凄く見たいわ! きっと凄く嫌がるだろうけど、だからこそ見てみたい!!)
(お、お腹がよじれるですぅ!)
(何を悶えてるんだろう、三人とも?)

シグナムに続いて挙動不審な三人に、兼一はどこか冷めた視線を送っている。
だが、この時の彼はまだ知らない。
自分の不用意な発言が、シグナムに「羞恥」と言う名の苦行を課すことになろうとは。

「はぁ~、久しぶりに思いっきり笑ったわぁ……」
「何か笑うような事ありましたか?」
「ああ、気にせんといてください。兼一さんがそうやから、これは意味があるんで」
「?」

はやての言っている意味がわからず、首をかしげる兼一。
とそこで、それまでエリオやキャロとじゃれていた翔がこれまで一言も発さぬティアナ達に気付く。

「どうしたの? ティア姉さま、スゥ姉さま」
「あ、いやその、うん……」
「ねぇ翔、ギン姉っていつもこんな調子なの?」

二人が立つのは、ビルの縁。つまり、その眼下には今まさに壁をよじ登るギンガの姿。
その額には滝のような汗が浮かび、「なんてことやらせてんだこの人は」という顔をしている。

「ん~、今日はいつもよりきついよ」
「そ、そう……」
「朝といい今といい、良くこんな……」
「うん! 時々死にそうになるけど、お薬使えばすぐ元気♪」
「「どんな薬!?」」

薬と聞き、何かヤバい物を連想する二人。
まぁ無理もないだろう。一連の訓練を見ると、「死にそう」と言うのが冗談に聞こえない。
ならば、死にそうな状態から復活できる薬とは、いったいどんなヤバい物なのか。
下手をすると、末端価格云千万とか云億とかそういう領域に達する非合法なものと言う気がして来る二人。
そんな二人に、兼一は手を振ってその嫌な可能性をにこやかに否定する。

「いやいや、自然由来の昔ながらの薬だよ。もちろんちゃんと合法」

とんでもない匂いを放ち、死人も生き返ると言う秘伝の漢方だが。
果たして、原材料さえ怪しいそれは本当に合法なのだろうか。
しかしそこで、ティアナの発言になのはが食いつく。

「ねぇティアナ」
「なんでしょう?」
「朝といいって、もしかして朝の訓練見たの?」
「あ、その、ちょっと早く目が覚めたので、外に出たら偶々……」

見てしまった、という事なのだろう。
その時の事を思い出したのか、ティアナの顔が引きつり蒼白になる。
何しろその内容ときたら……

「ぞわぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁ!?」
「遅い! カンナツノザヤウミウシにも置いてかれるぞ!!」
「あいた!?」

一喝されるや否や、尋常ではない衝撃がギンガの額を打つ。
やったのはデコピン、だがやる人間が達人級だとその程度ですらシャレにならない威力を持つ。

ただ、兼一の下に弟子入りして早二ヶ月。
もういい加減この手のやり取りにも慣れてきた余裕からか、思わずギンガは突っ込んだ。

「ってかなんですか、カンナツノザヤウミウシって!?」
「無駄口叩く前に、いいから走る! ヤマトホシヒトデの方が幾らか俊敏だぞ!!」
「ヒトデ以下!? って、はぅあ!?」

追いうちをかける様にもう一発デコピン。
並々ならぬその衝撃に脳が揺れ視界が歪むも、それでもギンガのペースは落ちない。
これもまた、まさしく慣れの成果であろう。

そんな、傍から見るとリアクションに困るやり取りを繰り返す師弟。
だがちょうどこの時、遠方からそれを見る人影がある。

早朝、気持ちのいい朝にもかかわらず、前日の事もあってどこか心に雲の掛っていたティアナはなんとなく表に出ていた。特に理由もなく海辺に出ると、そこには今はあまり会いたくない人物の姿。
しかし、そんな事を思う間もなく、真っ先に思ったのはこの一言だった。

(んな無茶な……)

腰まで海に浸かった状態で、水を掻き分けての全力疾走。
後先など考えない。今出せる最高速度のまま、ギンガは汗と共に白い飛沫を撒き散らして突き進む。
その背中には兼一を担ぎ、あまつさえ胴体からは一本の鎖が海中に伸びている。
海面に反射してその先に何があるかは分からない。はてさて、鉄球を引いていた事に気付かなかったのは、幸運なのか不運なのか……。

その後朝の訓練が始まるまでの間、しばしギンガの修業を見学する。
だが、その間見た光景は、どれもこれも常軌を逸していた。

「じゃ、その状態で蹴り百本いってみよう」

百本と聞けば穏やかな数字に聞こえる。しかし実際には違う。
というか、問題なのはギンガが身を置くその「状態」。
何しろ彼女は、今まさに腰まで砂に埋められている状態なのだから。

「ど、どうしろってんですか!?」
「え? だから、蹴りあげるんだってば」

さも当然、とばかりにのたまう兼一。その手には、蹴り上げた砂を埋め直す為のスコップまである。
しかし、重い砂に腰まで埋まった状態でそんなことできるわけがない、と普通は思いそうなものだが。
如何にアンチェインナックルを修めているとはいえ、水と砂では質量が違いすぎる。
砂中にあっては、そもそも足を持ち上げる事自体一苦労。
これでは、「はじめは脱力して途中はゆっくり、インパクトに向けて加速」も何もあったものではない。
ましてや、魔法を封じて身体能力のみでやれなど正気を疑う。

とはいえ、幾ら文句を言っても撤回する様な男ではない。
その事をよく知るギンガは、どこか絶望的な顔つきのまま言われた通り蹴りを放つ。

「くっ、重い!」

日頃の鍛錬の賜物か、思いの外脚の上がるギンガ。
日夜ひたすら足腰を鍛えに鍛えているのは伊達ではないらしい。
ただし、その隣では……

「ぬりゃ!!」

いつの間にか自分も砂の中に入り、平然と砂を蹴り上げる師の姿。
しかも、一蹴りで巻き上げられる砂の量が尋常ではない。
たった一回で兼一の半身を埋めていた砂は吹き飛ばされてしまった。

「とまぁ、こんな具合に一蹴りで出られるようになったら合格かな」
(何十年後の話ですか、それは……)

ギンガにしてもティアナにしても、それを見た瞬間に自信等木っ端微塵に消滅してしまったのは言うまでもない。
で、それが終われば今度はどこからか調達してきた小舟に乗り込む。
兼一の手にはなぜか丸っこい岩が二つ。それを船の中に積み上げ……

「じゃ、これに乗って」
「はぁ、とと……」

ただでさえ揺れる船、その上さらにバランスの悪い丸っこい岩に乗っているのだ。
普通に立つだけでもかなりのバランス感覚と、岩を掴みコントロールする足腰及び体幹の力を要する。

「で、これでどうするんですか、師匠?」
「その状態で型打ちを一通り千いってみようか」
「この状態でですか!?」
「慣れてきたら海中ね」

こんなバランスの悪い状態で型打ちなど、最早曲芸の領域だろう。
しかも、いずれは海の中で同じ事をやると言う。
今のままでもバランスが悪いと言うのに、水に濡れて滑りやすくなればさらに姿勢を維持するのが難しくなる。

「いいかい、ギンガ。戦いって言うのは、時と場所を選ばない。
 いつか、水の中みたいに足場の悪い所でも戦わなきゃならないときが必ず来る。
 足場に関係なく十全な力を発揮できるようにする、これはその修業だよ」

何を意図しているのかはわかった。
ギンガの戦闘スタイル上バランス感覚は最重要項目の一つだし、改めて足腰を鍛え直そうと言う腹なのだろう。

「………………」
「あ、ちなみに、もし落ちたら隊舎十周だから。もちろん海中を」
「もうヤダ、この人……」
「どうしたの?」
「今まさに後悔してる所です!!」

そんなわけで、コルトにリベンジする前に自分が壊れてしまう気しかしないギンガだった。
しかし、そんな師弟の様子を遠目に見ていたティアナの心は暗い。

「これが、あの人たちの日常だって言うの?」

思わず口を突いたのは、劣等感に満ちた呟き。
今日まで必死になって努力してきた。才能豊かで優秀な相棒に追い縋り、自身の夢を叶える為に。
特別な才能や突出した魔力がなくともやっていける、兄と自分の魔法は無力じゃない。
そう信じ、一日たりとも休むことなく努力してきたはずなのに、その努力が無意味に思えるような事をする二人。
自分がして来たことなど、努力でも何でもないのだと言われた気がした。

ヴィータは言った、「達人とは神童と呼ばれる程の才能が無限の努力の果てに辿り着けるかどうかの領域だ」と。
天賦の才能があってそれでは、才能のない者がいくら努力した所でその領域には届かないのではないだろうか。
そもそも、才能のある者だけが挑める領域というのがあるのかもしれない。
そんな、今まで必死に否定し続けてきた事柄が、イヤでも脳裏をよぎった。

(違う! 私の努力にはちゃんと意味がある! 練習は、努力は絶対に裏切らない!
 そうじゃなかったら、私は……)

なのはの問いに、普段は押し殺している不安が顔をのぞかせる。
それを辛うじて抑え込み、なんとか外面を整えるティアナ。
なのははそんなティアナを少々心配そうに見やる。

だが、その事を深く考える前に、いつの間にか壁を登り切っていたギンガがようやく合流を果たした。
コンクリートの床に手を突き、肩を上下させて荒い息を突くギンガ。
そして、ようやく役者がそろった所でなのはが口を開く。

「さて、みんな集まった所で簡単に模擬戦のルール説明をしますね」
「あ、ちょっと待ってなのはちゃん」
「ありゃ? ど、どうかしました、兼一さん?」

始まって早々に話の腰を折られ、微妙にこけるなのは。
しかし兼一の方を見てみると、そこには非常に怪訝そうな表情を浮かべている。

「相手のザフィーラさんがまだ来てないみたいなんだけど……」

きょろきょろとあたりを見回し、首を傾げる兼一。
なのはの性格上、人が集まり切っていないのに話を進めるとは考えにくい。
だが、ザフィーラと思しき人物の影が見当たらないのも事実。
まだ面識はないが、なのはが兼一の主義を慮って組んだカードなら、確実に成人男性かそれに近い年だろう。
見た所、ヴァイス以外にもそれくらいの年齢の男性はいるが、誰も彼も観戦気分の野次馬。
これから自分が戦うと言う、ある種の緊張感や気の高ぶりはなく、気組を練っている様子もない。
そんな兼一に、なのはは一瞬「何を言ってるんだろう」と不思議そうな顔をし、続いてその理由を理解した。

「あ、そっか、そういうことか」
「えっと、何がそう言う事なの?」
「いえ、ザフィーラならもういますよ、そこに」
「へ?」

なのはが示す先にいるのは、やけに体格のいい青と白の毛並みが見事な狼。
赤い瞳は力強い光を宿し、その額には翠の宝石が輝き、口元からは立派な牙が生えていた。
てっきり人間だと思っていたのだろう、少し驚いた様子で手を打つ兼一。
早い話が、伝えた情報が足りなかった為に起きた認識の齟齬である。
リーゼ達の事もあってこの手の存在の事はもう知っているし、腕が立つ者もいる事は承知の上。
どんな相手なのかやや不安だった兼一も、実物を見て少し安心する。

「ああ、使い魔の方だったんですね」
「まぁ、確かにそんなものなんですが…厳密に言うと……」
「守護獣だ」
「え! ザフィーラって、しゃべれたの!?」
「び、びっくりしたぁ……」
「きゅく~」

どうも、ザフィーラはしゃべれないと勝手に思い込んでいたお子様二人。
元来寡黙であまり口数の多くないザフィーラなので、仕方ないと言えばそうだが……。
フェイトの使い魔、アルフは良くしゃべるのに何故二人は気付かなかったのやら。

「すみません、ご挨拶が遅れて。白浜兼一です」
「ヴォルケンリッター、盾の守護獣ザフィーラだ」
「よろしくお願いします、ザフィーラさん」
「敬称と丁寧語は不要だ。気易く読んでくれて構わん」
「そうですか?」
「どうも座りが悪くてな。守護獣や使い魔にそんな話し方をするのは一般的ではない」
「まぁ、エリオ君やキャロちゃんもそうみたいですね」
「特に階級なども持っていない。畏まる理由もないのだ、普通に話してくれれば有り難い」
(そう言えば、リーゼさん達もそんな事を言ってたような……)

思い返して見ると、リーゼ達からも基本敬称や丁寧語はいらないと言われた気がする。
ただ、グレアムの使い魔であり見た目に反しかなりの年月を生きている事や、外見が妙齢の女性という事もあり結局兼一から敬称や丁寧語は抜けなかったが。

「その、この辺りは性分みたいなものなので……」
「まぁ、今すぐとは言わん。ゆっくり慣れてくれ」
「ありがとうございます。僕の事は兼一で構いませんので」
「そうさせてもらう」

何か共感するものでもあったのか、交えた言葉は少ないながらザフィーラの口元に笑みが浮かぶ。
ザフィーラにはシグナムの様なバトルマニアの気はない。
ただ彼は、恐らくヴォルケンリッター内で最も肉体の鍛錬に重きを置いた者。
十年前、肝心な所で仲間を守れなかった事を悔い、日夜その身を強く鍛えてきた。

そんな彼にとって、ある意味この一戦は僥倖だったのだろう。
達人相手に、今の自分の力と技がどこまで通用するのか、それを知ることができるから。

(さすがに、達人相手に技で勝ると自惚れる気はないがな)

純粋な身体能力で敵う筈もないが、その差は自己強化で補う事ができる。
己が肉体を統制することに特化する達人相手に、繊細な技術では及ばないだろう。
しかし、そこは今日までの戦闘経験の蓄積と、魔法というアドバンテージを駆使すればいい。
なにしろ、夜天の書の歴史は優に千年を超えるのだから。まぁ、千年以上の間常に稼働し続けていたわけでもないので、実際には千年の蓄積と言うわけではない。ただし、それでもその実働時間は長く、また活動時間の大半を蒐集に伴う戦闘に当ててきた以上、その蓄積は生半可な物ではないだろう。
もちろん勝敗はやってみなければわからないが、差を埋め得るだけの物はある。
むしろ、決定的なアドバンテージが“二つ”ある事を考慮するなら……。

「それじゃ、今度こそ内容を確認しますね。飛行有り、その他バインドやケージなど諸々の魔法も有りで、寸止めは無しの制限時間15分の一本勝負、いいですか?」
「ああ」
「うん」

最終確認をするなのはに対し、二人はそれぞれ言葉少なに同意する。
元より、前日のうちになのはから通達されていた事だ。
それに、兼一の力量を測る上でもできる限り実戦に近い方が良いに決まっている。
故に、ザフィーラへの制限がほとんどないのは必然だった。

「それと二人とも、くれぐれも、くれぐれも怪我のない様に。
 二人だとホントにシャレにならないんで」
「わかってるよ、なのはちゃん」
「そう何度も念を押すな」
「なら、いいんですけどね……」

とはいえ、なのはが必要以上に念を押すのも当然の事。
そもそも一武術家でしかない兼一には非殺傷設定などないし、ベルカ系の攻撃は魔力ダメージ以外に物理ダメージも伴いやすい。つまり、どちらも相手に怪我を負わせる可能性の高いスタイル。
一応二人ともその辺は配慮する筈だが、万が一という事もあるだろう。
兼一とザフィーラの実力がどの程度の拮抗するか、あるいは差があるかわからないなら万全を期す必要がある。
だからこそ試合時間を短めに設定し、二人がヒートアップし過ぎる前に終わらせられるように配慮したのだ。
まぁ、こんな物は気休めかもしれないが……限界ギリギリまでやると危険なので、この辺りが妥当だろう。

「あと、魔力を持たない人に魔力ダメージは決定的だし、ザフィーラは魔力ダメージは少なめでお願い。
 幸い、兼一さんは確かすごくタフだったはずだから」
「了解した」

およそ、これが唯一と言っていいザフィーラにかけられた制限。
魔力を持たない兼一にとって、最弱クラスの魔力ダメージでも決定打になり得る。
魔力ダメージによる昏倒とは、魔力値の枯渇と身体的衝撃による一種のショック状態だ。生身で戦いぬいてきた兼一にとって、生半可な身体的ダメージでは意識を手放すことなどあるまい。
ただ、これが魔力値の枯渇となるとその限りではないだろう。
この模擬戦の最大目的を考えれば、些細な一撃で気絶されては本末転倒だ。
その意味において、なのはがこの制限だけは残したのも当然である。
同時に、彼女もまた達人という人種を甘く見ている証左でもあるが。

「あ、それならお構いなく」
「はい?」
「それは、どういう事だ?」
「いえ、魔力ダメージに関しても特に制限はなくて良いかなぁと」
「でも、兼一さんリンカーコアすらないんですよね。そんな状態で魔力ダメージを受けたら……」
「まぁ、その心配ももっともだとは思うんだけどね。とりあえず、論より証拠かな。ギンガ」

なのはの危惧に同意しつつも、相変わらずそんな物は必要ないという態度の兼一。
彼はそのまま弟子を呼び、続いて自身の頬を指差す。
それだけでギンガは師の意図を理解し、いつの間にかリボルバーナックルを装着した拳を構える。

「これは、賭けの対象外ですよね?」
「別にカウントしても良いけど?」
「いりません。自力で入れなければ意味がありませんから」
「うん、それでこそだ」
「それじゃ、いきますよ」
「って、ギン姉何を!?」
「リボルバー…シュート!」

構えた拳から、兼一の頬目掛けてナックルスピナーの回転によって生じた衝撃波が飛ぶ。
それはまっすぐ兼一目掛け奔り、その顔に突き刺さった。

『ああ!?』

一様に上がる驚きの声。誰もが「模擬戦の前に何やってんだ!?」と思った事だろう。
実際、衝撃波の直撃をもろに受けた兼一の頭がその威力を物語るように傾き…………すぐに元の位置に戻された。

『え!?』
「いやぁ、何度受けても結構効くなぁ」
「な、なんで……」
「魔力ダメージによる昏倒や気絶って言っても、結局は一種のショック状態でしょ?
 覚悟して歯を食いしばれば、ある程度は意識を繋ぎとめられるよ」

考えてみれば、兼一からすると意識が飛ぶ経験など数えきれない。
どんな種類のダメージであれ、彼にとってその感覚は馴染み深い物。
だからこそ、飛びそうになる意識を繋ぎとめ、引きずり戻す技術にも長ける。
まぁ、元も子もない事を言ってしまうと単なる根性論なのだが……。

「嘘でしょ……?」
「まぁ、鍛え方が違うから」

なんとなく、その一言だけで全て納得してしまえるのだから恐ろしい。
いや、修業時代の美羽でも成人男性が一時間は指一本動かせないような電撃を受けて平然と立ち上がっていた。その事を考えると、マスタークラスなら常人を10人ショック死させ得るような電撃でも耐えきるだろうが。
その範疇と考えれば、納得できなくもなく……。

「何度か試してみたけど、とりあえずよほどの大技じゃない限りは大丈夫だと思うよ。
 いちいち意識が飛びそうになるからちょっと大変だけど」
(そう言う問題か!?)

六課内ではそれなりに耐性がある方のなのはですら、内心の叫びを抑えるので精一杯。
まさか、ここまで常識の通じない相手だったとは……常識の枠が可哀そうとはよく言った物である。
何はともあれ、これで最後に課せられていたザフィーラへの制限も解除される事だろう。
その意味では、余計な加減をする必要がなくなった分やりやすくなった、のかもしれない。






あとがき

どうもすみません。ホントはここでザフィーラ戦をやってしまうつもりだったのに、やりたい事が後から後から出てきてしまい、結局模擬戦手前で終了。
次こそ、次こそ本当にザフィーラ戦です。
兼一には色々と不利な要素があるのですが、その一つである魔力ダメージについてはこんな理由で解消。まぁ、作中でも書いたとおりに根性論ですけどね。
でも、彼らならその根性論でなんとかできてしまいそうだから凄まじい。
残るザフィーラのアドバンテージである飛行にしても、逆鬼や長老の事を考えると……。
まだまだ達人の世界は深いと言う事ですねぇ、どんだけ深いんだか。



[25730] BATTLE 19「守護の拳」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/09/07 03:05

改めて思い知った達人と言う人種の人外ぶりに頭痛を憶え、頭に手をやるなのは。
他の面々はそんなものではないのだが、割と耐性がある分だけこれでも被害は軽微な方なのだが。
というか、一々この程度の事で思考を停止させていては身が持たない事をよく知っているのだ。

故に立ち直りも早く、彼女の思考はすでにこの先の事に向けられていた。
なにより、いい加減時間も押しているので話を進めたいところ。

「そ、それじゃそろそろ始めようと思いますけど、いいですか二人とも?」
「あ、うん」
「かまわん」

返事をするや否や、二人は申し合わせたわけでもないながら、揃ってビルの縁へと足を運ぶ。
同時に、ザフィーラの蒼い身体を淡い光が包んだ。
すると、光の幕越しに見えるその輪郭が緩んでいく。
歩きながらも輪郭は緩やかに溶けて行き、徐々に別の輪郭へと変化する。

前後に長かった体は縮み、反対に翔の身長ほどだった体高が急激に伸び、瞬く間に兼一の身長を越えた。
気付けば横幅と厚みも増しており、ただ高いだけではない、がっちりとした体躯が見てとれる。
やがて輪郭の変化が落ち着くと、それに伴い身体を包む光も霧散していく。

光が消えれば、そこには白髪と褐色の肌が眩しい、全身を無駄のない野生動物の様な筋肉で覆った偉丈夫が姿を現す。纏う衣服に袖はなく、代わりに丈の長い功夫服に似た蒼い衣装。鍛え抜かれた四肢には白銀の防具、白髪からは蒼い獣の耳がのぞき、切れ長の赤い瞳には強い意思の光が宿っている。

『はぁ~……』

あまり使い魔や守護獣の変身する姿を見た事のない面々(主に翔など)は、その変化に感嘆の声を漏らす。
だが、当のザフィーラはあまり気にした素振りも見せない。
既に思考が目前に迫る戦闘に向けられているのだろう。
その顔には適度な緊張感と、静かな闘争心が秘められている。
ビルの床を蹴ると、その屈強な身体は重力に反し浮き上がり、慣れた様子で空を滑るように飛んでいく。

対して兼一は、飛び立ったザフィーラの行く先を眼で追いながら、自らもビルの縁に脚をかける。
眼下に広がる遠い地面を視界に納めながら軽く息を吐くと、その背に声がかけられた。

「あの…師匠!」
「どうしたんだいギンガ、そんなに緊張して。これから戦うのは君じゃないのに」

どこか緊張で張りつめた声音の愛弟子に、おどけた様子で応じる兼一。
その顔には余裕があり、確かな自信に溢れていた。

「その……頑張ってください。ご武運を」
「父様、頑張って!」
「うん、行ってくるよ」

今の彼にとって、まさに最愛とも言える二人からの激励。
それに柔和な笑みで応え、兼一は何もない空中に一歩を踏み出す。

ザフィーラと違い、重力に従い落下を開始する比較的小柄な体。
そのまま落ちても受け身を取る自信はあるが、戦う前からあまり心配させる物ではない。
そんな配慮からか、流れる景色を見ながら兼一はすぐ後ろにある壁を蹴る。

すると、その反動で景色の流れは縦から斜めに変化した、垂直落下から斜め前方へ。
しかしすぐに目の前に向かいのビルの壁が迫り、身体を反転させながら同じ要領で壁を蹴る。
それを幾度か繰り返し、ジグザグに二つのビルの間を跳ねて行く。

耳を澄ませば、頭上からは僅かなどよめきが届く。
それに微かに苦笑を浮かべながら、気付けばすでに地面は眼の前。
危なげなく着地すると、兼一は心の赴くままにコンクリートジャングルの中を歩きだした。



BATTLE 19「守護の拳」



曲がり角を曲がれば、ビルの屋上からは死角。
当然ながら先ほどまで感じていた視線も感じなくなる。
音のない静かな路地を歩きながらもなんの気配もしない所からすると、サーチャーの類も後を追いかけて来てはいないらしい。常人では気付かないだろうが、達人級の鋭敏な感覚なら間違いない。

そうして路地を歩きながら、兼一は入念に自身の装備をチェックする。
白い道着の襟を整え、厚手の布で作られた黒い帯を締め直し、紐状のバンテージを慣れた仕草で巻いて行く。最早目を閉じていてもできるほどに染み着いた一連の動作は、どこまでも穏やかで淀みがない。
歩く度に僅かに愛用の鎖帷子が擦れる冷たく静かな音は、どこか心地よくすらある。
最後に師から賜った手甲を身に付け、準備は完了。

どれもこれも、長年愛用した品。
空手と柔術の道着、ムエタイのバンテージ、カンフーパンツ、しぐれのおさがりである鎖帷子、そして風林寺家謹製の手甲。まさに、梁山泊の一番弟子にふさわしい装いだ。
青春を共に戦い、血と汗を吸い、幾多の苦難を乗り越えてきた。
汚れや傷の一つ一つ、その全てが修業と戦いの証であり、大切な宝物だ。
こうして袖を通して戦いに臨もうとすると、若かりし日々を思い出す。

(……………………………………やめよう。わざわざ戦う前に鬱になる必要はないし)

思いだしそうになって、首を振ってやめた。
何が悲しくて、わざわざ戦う前にナーバスにならなければならないのか。

とはいえ、普通なら戦いを前にした意気込み等が顔に浮かぶものだが、兼一にその様子はない。
ビルを跳び下りた時同様、その顔に浮かんでいるのは柔和な笑みだけ。
だがそこで、兼一は一切表情を変えずに深々と溜息をついた。

「はぁ~……」

表情に変化はない、雰囲気もまた同様だ。
しかしそうであるにもかかわらず、その溜息が酷く重く聞こえるのは気のせいだろうか。
一端立ち止まり、キョロキョロとその場から周囲の様子を確認。
誰もおらず、追い掛けてくる何かもない事を確かめる。
そして兼一はゆっくりと右手を鳩尾に添えると、再度深々と溜息をついた。

「はぁ~……………………………………胃が重い」

口からこぼれたのは、先ほどとはうって変わって弱々しい呟き。
その顔にはすでに先ほどまでの余裕の表れの様な柔和な笑みはなく、むしろ顔を蒼くして憂鬱そうですらある。

「ううう、やっぱり駄目だ。緊張して気持ち悪くなってきた……」

まるで吐き気を堪える様に、左手を口元に添えた。
いい加減そっちの世界にもどっぷり漬かり、勇気をコントロールする術も心得てはいる。

が、それとこれとはまた別の問題。
勇気を奮い立たせ、必要以上に恐怖に震える事はない。
しかし、だからと言って別に緊張しないわけではないのだ。

場数を踏んで慣れてはいるし、いざ戦いが始まってしまえば平気なのだが、問題はそれまでの間。
どうにも、ジリジリと戦いが始まるまでの待ち時間は慣れない。
何と言うか、緊張で胃がキリキリと痛むような思いなのである。
脚が竦み、体が震え、怖気づいていた頃に比べれば格段に進歩しているのだが……それでも、きっと今の彼はなんというか……些か情けない顔をしているに違いない。

「こんな所、ギンガや翔には絶対見せられないや……」

先ほどまでの柔和な笑みも頼もしい返事も、全ては弟子達を失望させないために必死に取り繕った成果。
はっきり言ってしまえばザフィーラが変身するあたり、いやそれ以前から心のうちではガタプル状態だったのだ。

武術に身を捧げて十数年。
一番上達した事の一つは、間違いなく外面を整える技術である。実に情けない話だが。

(二人とも、僕の事を誇りに思ってくれてるみたいだし、ガッカリさせられないんだよねぇ……)

自業自得…と言うのもおかしな話だが、兼一は二人の前では理想的な武術家としてふるまうよう努力してきた。
その中には、当然修業中の態度なども含まれる。
まぁ、実は細々と情けない所を見せているのだが、それは横に置いておく。
とにかくその結果として、二人は兼一が心技体に優れた武術家と信じて疑っていない。別に間違っているわけでもないので、詐欺と言うわけではないだろう。

時折、過去を含めた本当の自分を明かせればどんなに楽か、とは思わなくもない。
ただその辺りは、いくつになっても変わらない男の子の意地である。
大切な弟子達の前では……そんな、下らないと言えば実に下らない見栄。
だが、わかっていても捨てられないのがバカな男の性でもある。

「ええい、いっそホントのところを正直に白状するか!?
 でもなんて? 実は良く修業がきつくて逃げたとか、戦う度に怖気づいてたと言えと?
 言えるわけないじゃないか、そんなこと~~~~~~!!」

誰もいない事をいいことに、久しぶりに情けないほど取り乱して叫ぶ兼一。
まぁそんなわけで、実はあまり自分の過去を兼一は二人にも話していない。
正確には、“過去の自分”をあまり話していないのだ。
恥ずかしいエピソードやカッコ悪いエピソード、あるいは情けない話には事欠かないだけに、できれば二人には知られたくない。他人からすれば何をそんなに嫌がるのかと思わなくもないが、親戚からされる「小さい頃は良くおねしょしたよね」的な話と同域の恥ずかしさを感じていると思えば理解しやすいだろう。

「どーすんの? どーすんのよ!? じぇろにも~!?」

見事なまでの八つ当たりで、手近な街灯や壁への破壊活動を始める兼一。
ただ、このしばらく後に彼は後悔する。
いっそのこと、全部赤裸々にカミングアウトしとけばよかったと。



  *  *  *  *  *



路地裏で兼一がそんな事をしているとは露知らず、観戦者達は開戦の時を待つ。
ただし、別に静かに待っている必要もその理由もないわけで……。

「せやけど、こうして改めて実物を見ると、意外と華奢やなぁ」
「なにがですか、はやてちゃん?」
「いや、兼一さんがな、思ってたよりも細かったなぁと……」

形の良い顎に指を当て、思い返す様にして語るはやて。
実際、彼女の手元にあった資料には一般的な証明写真しか添付されていなかった。故に、実物はもっとこう、如何にもな筋骨隆々な姿を想像していただけに、少々肩透かしを食らったような印象なのだ。

「恭也さんとそう変わらない様に思うですけど?」
「うん、まぁそれはそうなんやけど……でもほら、元々の身長も頭一つ分位ちゃうし。
 そもそも恭也さんは武器で、兼一さんは拳や。せやから、単純比較するのもどうかなぁと」
「まぁ、確かにそうですね」

どちらにしても筋力が重要な要素であることには変わらない。
だが、概ね格闘系の試合には体重による「階級」と言うものが存在する、柔道然り、ボクシング然りだ。
相撲にはないが、その代わりに正式な入門には厳しい体重及び身長の規定がある。
体格が良ければ体重が重くなるのは当然であり、体格が良い程備える事の出来る筋肉の量、一撃の重さが増すのも道理。体重による階級と言うのは、より試合の公平性を高めるために開発されたルール。つまり、一般的に見れば些細に思える体重差でも、格闘の世界においては大きな差が出ることの証左でもある。

それに対し、剣道やフェンシングなどにはそういったものがない。
剣道と剣術だとまた話が変わってくるのだが、とにかく武器の世界においては格闘の世界ほど体格や体重の差に神経質ではない事が伺える。
そんな違いを考慮すれば、兼一と恭也の体格を比較するのは適切とは言い難い。
そもそも、はやての言う通り元々の身長にだいぶ差があるのだ。

「まぁ、達人なんやからどうせ滅法強いんやろうし、技で捌いてまうんやろうけど……」
「けど?」
「ザフィーラと兼一さん、かなり体格差があるやん。
腕回りとか胸板とかもザフィーラの方が逞しい位やし、やっぱりその辺は分が悪そうやなぁと」
「あぁ、確かにそうですねぇ……」

はやてが言う通り、二人の体格は階級に置き換えると一つ二つの差では済まない。
達人に一般常識が当てはまらない事ははやても承知しているが、どうしても長年に渡って染み着いた常識がある。
はっきり言って、恵まれた体格によるパワーやタフネス、四肢の長さから来るリーチの差は拭えないと思う。
その上、パワーやタフネスは魔法で水増しできるし、ザフィーラにも少ないながら遠距離系の魔法がある。
小柄な分、小回りや敏捷性では兼一の方が有利かもしれないが、やはり全体的に分が悪そうに見えてしまうのだ。

「フェイトさんはどう思いますですか?」
「え? そうだね、私も概ねはやてに賛成かな。
 見た感じ、白浜陸士はパワーより速さ重視みたいに見えるし。ただ……」
「「ただ?」」
「上腕とか首とか、ちょっとシャレにならない発達の仕方をしているように見えるのが気になって……」

確かに、一見した限り細身の兼一はスピード重視に鍛えているように見える。
しかしフェイトの言う通り、僅かにのぞく首筋やバンテージと道着の間に垣間見える上腕が尋常ではない。

ついさっきまでの動揺はどこへやらと言った様子だが、普段はどれだけダメに見えてもそこはそれ経験豊富な執務官である。如何に動揺していたとしても、戦いの空気に触れればスイッチが切り替わるのは当然。
余計な事は頭の隅に追いやり、目前の事態に集中して先ほどまでの情けない姿などおくびにも出さない。
戦いの場に会って、迷いや余計な思考は命取りである事を彼女達は良く知っている。
実際に戦うのは自分ではないが、それでもこの空気だけでスイッチを切り替えるには十分。
彼女達はプロフェッショナル、この程度のコントロールさえできない程未熟ではない。
これはシグナムにも言える事で、先ほどまで挙動不審の生きた見本だった彼女も、既に本来の……騎士の顔を取り戻していた。

「まぁ、白浜陸士が細身なのは事実だからね。
やっぱり技とスピードの陸士と、力と魔法のザフィーラの勝負になるんじゃないかな?」

実際にはそう単純な話ではない事はフェイトもわかっている。
ただ、今彼女の手元にある情報だけを見ると、このように判断するしかない。
何しろ、ザフィーラと違って身体能力の水増しなどできない以上、外見からの予測を裏切る可能性は低い。

だがこれは、あくまでも「低い」と言うだけの話。
この場には、兼一の身体の秘密を知る者がいる。
フェイト達の会話が聞こえたのか、その内の一人がとてつもなく怪訝そうな表情を浮かべた。

「え? 師匠が、細い…ですか?」
「どうかしたの、ギンガ?」
「あ、いえ…今、ものすごく信じられない単語が聴こえた気がして……。
 すみません、フェイトさん。今、師匠の事を『細い』って言いました?」
「あ、うん、言ったけど?」
「実際細いやん、兼一さん」
「ですです」
「あ~、まぁ確かに『細く』はあるんですけど……」
「「「?」」」

何かに悩むかのように、腕を組んでウンウン唸るギンガ。
その周りでは、妙に顔を蒼くした新人達がプルプルと震えている。

「どないしたん、みんな?」
「顔色が悪いみたいですけど、風邪なら早く休んだ方が良いですよ?」
「どうしたの、エリオとキャロまで!? 風邪、風邪なの!? ちょっと待って、今薬を……」

普段と違う部下達の様子に、心配そうにしているはやてとリイン。
その後ろでは、すっかり子煩悩モードに戻ってしまったフェイトが、懐から無数の顆粒剤や錠剤、あるいは湿布や包帯から絆創膏まで引っ張り出している。正直、いったいあの服のどこにそんなに隠していたのか不思議なくらいだ。彼女の両脇には医療道具の小さな山が出来ており、富山の薬売りでもやれそうなレベルである。

「あ~、大丈夫だよ、フェイトちゃん。別に、風邪とかじゃないから」
「そ、そうなの? でも、念のためシャマルに見てもらって、それに検査とかレントゲンとかも……」
「少し落ち着けって、どうしておめぇはそう極端なんだ」
「で、でもヴィータ、風邪はこじらせたら命にかかわるんだよ!?」
「良いから落ち着けっての。顔色が悪いのは、単に昨日の事を思い出しただけなんだしよ」

頭痛を抑える様に頭に手をやりながら、溜め息をつくヴィータ。
これだけ言われても安心できないのか、相変わらずフェイトはオロオロワタワタしているが、それ以上は誰も取り合わない。
これ以上言葉を重ねても意味はなく、ちゃんと事実を事実として告げるしかないと経験からわかっているのだ。

「昨日? 昨日何があったですか?」
「言わなかったっけか? 確認がてらちょっとあいつにガジェットと模擬戦やらせてみたんだよ」
「ああ、そう言えばそんな事言うてたなぁ。せやけど、瞬殺だったって言うとらんかった?」

昨日シグナムが走り去った後、今後主に戦う事になるガジェットとの模擬戦が行われた。
敵性兵器とはいえ、模擬戦に使っているのはあくまでも訓練用のレプリカ。
仮に攻撃を受けても大怪我にはつながらないよう調整してあるし、すぐに準備できるので兼一の都合さえよければその場でできる。そんなわけで、ザフィーラとの組手に先駆けてその場でちゃっちゃとやったわけだ。

それは何も兼一に限った話ではなく、ギンガとしばらくして意識を取り戻したコルトも同じ。
もちろん、コルトの性格も考慮してそれぞれバラバラにやったわけだが。

ただまぁはやての言う通り、これと言って見せ場らしい見せ場もなく三者三様のやり方で撃破してしまった。
別にそれ自体は驚くに値しない。と言うか予想通り過ぎる。

「うん、二十体位相手をしてもらったんだけど、5分もかからなかったかなぁ」
「まぁ、それ自体は予想通りやな」

形式としてはスバル達の様な追跡戦ではなく、兼一に全ガジェットが向かってくる方式。
数がそれほど多くないのは、あまり増やしても意味がないから。
何しろ、ある程度の距離を置いて兼一の周囲を取り囲んだとしても、そこに並べる数には限度がある。
また、その後ろに並んだ所で、攻撃できるのは味方の背中だけ。
その上から攻撃すればいいかもしれないが、それもいずれは限度が訪れる。
まさかドームの様に、とにかく大きく広がり際限なく積み重なるわけにもいかない。

早い話、あまり数を増やしても、攻撃に参加できない分は単純に「あまり」でしかないのだ。
一機潰されれば、「あまり」がその穴を埋めるだけ。兼一からしてみると、潰し損ねても潰しても状況はあまり変わらない。相変わらず、攻撃してくる数は一定のままなのだから。

延々続ければ兼一のスタミナや集中力等の持続力が分かるが、それには恐ろしく時間がかかることが見込まれる。
さすがにそう言った事は別の機会を設けた方が良いし、肝心の新人達の底上げの時間を圧迫するのも問題だ。
兼一とガジェットの模擬戦は、あくまでもなのは達の予想の裏付け以上の意味はない。
そんな諸々の事情もあり、二十体程度で落ちついたのだが……問題なのはその撃破の仕方だった。

「何ていうか、アレだね。千切っては投げ、千切っては投げって感じかな?」
「んな、紙細工やないんやから」
「そう思うでしょ? でもね……」
「実際問題、ガジェットの攻撃はかすりもしねぇし、反対にアイツの攻撃は面白い様に当たってたんだよなぁ。
 それも貫手が装甲を貫通するわ、側面叩いたら反対側が吹っ飛ぶわ、蹴ったら真っ二つにされるわだぜ。
 そりゃこいつらが蒼くなるのも当然だって」

自分達がアレだけてこずったガジェットを、まるでおもちゃの様に壊す生身の技の数々。
なのは達から説明は受けていたし、ギンガやコルトを軽くあしらう所も見ていたが、それでも顔色をなくすには十分すぎる光景だった。
昨日は戻ったのが遅かった為にその映像まではチェックしていなかったはやてだが、それを聞いて頬が引きつるのを自覚する。

「挙句の果てに、殴られたやつは空の彼方に消えるとか、どういうパワーしてんだっつうの」
「師匠、ああ見えてちょっとシャレにならないパワーがありますからね。
確か、戦車もひっくり返せるって言ってたような……」
「戦車が何トンあると思ってんねん……」

正直、『オイオイ』としか言いようのない非常識さである。
戦車ともなれば、その重量は優に50トンを超えるのだ。
はっきり言って、いったいどれ程のパワーがあればそんな物をひっくり返せるのか甚だ疑問である。

だがまぁ、確かにそれなら「細い」と言う言葉は不適切の極みかもしれない。
同時にそれは、パワーではザフィーラが有利という見解を思い切り覆されたと言う事でもあるわけだが。

とはいえ、別に単純な力や速さで勝負は決まる物ではない。
それこそ、力や速さだけでなく技を含めて勝っていても、負けるかもしれないのが勝負の世界。
なら、表面的な情報ではなく、組手の過程と結果をこそ見守るべきなのだろう。

「でもほんとなんですか? とてもあの細腕のそんなパワーがある様には見ないですよ?」
「師匠、瞬発力と持久力を兼ね備えた中間筋肉に全身を造り変えてますし、漢方で内臓まで鍛え上げてますから……」
「そう言えば108で検査した時のデータだと、骨密度や赤血球の数も常人の数十倍、細身だけど体重は80キロオーバーだったかしら?」
「血の一滴、骨の髄まで改造人間かい!?」
「摂理に反するのも大概にしてほしいですねぇ……」

ギンガとシャマルのコメントに、ツッコミを入れるはやてと呆れるリイン。
まぁ、実際問題として何で出来てるのか心底不思議な身体の持ち主ではあるのだが……。

しかし、まずい事にこの場には「改造人間」や「摂理に反する」と言う言葉に、過敏に反応する者達がいる。
それは特異な生まれを同じくするフェイトやエリオであり、その身に重い秘密を持つスバル。
自分達の失言とも言えない様な失言に気付き、はやてとリインは慌てて口を閉ざす。

だが、時すでに遅し。余人では気付かないほど僅かに三人の身体は強張り、口は硬く引きしめられていた。
なのはやティアナもそんな親友たちの様子の変化に気付き、どこか気遣わしげな視線を向ける。
彼女達は知っているのだ、三人がそんな反応を示すその理由を。
できるなら今すぐにでも声をかけてやりたいが、あまり人前で口にするような話題でもない。
迂闊に口にできないからこそ、事情を知る面々も口を開く事が出来ずにいる。

(しもた~!! 何か、何か話題を変えんと!?)

はやてもまた三人の事情を知るだけに、自身の失言を激しく悔いる。
彼女は氏素性などで人を判断しない。だからこそ、三人の秘密についてもいい意味で過剰に意識してはいないのだが、今回はそれが仇になった。
場の空気が見る間に重くなっていく中、なんとか話を逸らそうと話題を探す。
そんな中、翔だけは突然重苦しくなった周りの様子を不思議そうに眺めている。

「? 姉さま、みんなどうしたの?」
「ああ、えっと~、ちょっとその……」

就学年齢にも達していない様な子どもに空気を読めと言う方が無理難題だが、だからと言って詳しく説明するわけにもいかず困るギンガ。
助けを求める様に周りに視線を送るが、誰も援護してはくれない。
正直、誰一人としてそんな余裕も機転も聞かない状態なのだ。

しかし、そこではやては発見した。
眼をやるのは空中に展開されたモニターの一つ。
そこに映るのは、ザフィーラにやや遅れ、丁度都合よく指定されたエリア到着した兼一の姿。

「お、おお! 兼一さんも到着したみたいやし、そろそろ始まるかなぁ?」

テンパっているからか、用意された原稿を読む様に棒読みのはやて。
しかし、場の空気を変えたいのはこの場に入る全員の総意。
多少の苦しさは感じつつも、はやてに乗っかってまずはリインとギンガが話題を変えに掛かる。

「ああ、ホントですねぇ! ほらほら、翔も見てください、お父さんが映ってるですよ!」
「え? どこどこ? どこにいるの、父様?」
「ほら、右から二番目の……」
「あ、父様だぁ!」
(よかった、翔が子どもでホントに良かった……)

お子様なだけあり、あっさり話を逸らされてくれる翔。
それに便乗する形で、他の面々も動き出した。

「え、エリオ君? 兼一さんの試合が始まるし、その……」
「ぁ……うん。大丈夫だよ、キャロ。ちゃんと…応援しないとね」
「う、うん♪」
「ほら、フェイトちゃんもそんな顔してるとエリオとキャロが心配するよ」
「お前も今は隊長なのだ、あまり情けない顔をするな」
「そう、ですね。すみません、シグナム。なのはも、ありがとう」
「ふん」
「にゃははは……」
「ったく、らしくもなく凹んでんじゃないわよ。いい加減しゃんとしなさいよね、ヴィータ副隊長が見てるわよ」
「スバル、なんなら気合入れてやろうか? うっかり手元が狂っちまうかもしれねぇけどよ」
「あ、いえ、もう大丈夫です! ですから、グラーフアイゼンを振りかぶるのはやめてください!!」

重苦しさはまだ残っているが、なんとか話題を逸らすことには成功した一同。
それぞれに胸の奥に複雑な感情を仕舞い込み、空中モニターに視線を移す。

そこには、無言で二人は向かい合う二人の姿。
勝負を前に語り合う言葉はなく、語るなら拳で語れと言ったところか。
距離は幾分開いており、双方ともに初手で仕留めるにかかるのは難しい。
ある程度間合いを詰めてからが本番か。

勝負を目前にした緊張感が上手く作用したのだろう。
二人の様子をギンガと翔は食い入るように、なのは以下隊長陣は静かに、新人達は画面越しに伝わる緊張感から息苦しそうにモニターを見つめている。
そこで、サーチャーや録画装置などの管理を担当しているシャーリーが口を開いた。

「なのはさん、そろそろ始めないんですか?」

それは、本当に何気ない一言。
両者が向かい合い臨戦態勢に入っているにもかかわらず、一向に開始を宣言しないなのはへの疑問。
だがそれに返ってきたのは、なのはではなくシグナムからの言葉だった。

「違う」
「え?」
「既に、始まっている」

モニターから目を離さずシグナムは語る。
戦いとは何も「よーいドン」で行われるとは限らない。実戦経験が豊富な者同士であればなおの事だ。
向かいあった瞬間、あるいは戦う事が決まったその時、既に戦いは始まっている。
それを豊富な実戦経験を持つ隊長達は理解し、感じ取っていた。

いや、それはギンガやコルトにも言える事だろう。隊長達ほどではないにしても、二人も局員としてのキャリアはそれなりのものであり、高い実力の持ち主たちだ。
新人達もまた前途有望な面々。経験でこそ劣るが、感じ取る物はあった。
息苦しい程に張りつめた空気と、当事者でもないのにのしかかる重々しいプレッシャーを。
とはいえ、新人達にはその原因まではわからないのだが……。

「些細なきっかけ一つで爆発する火薬庫、と言うのが妥当な表現か」
「実際、いつ均衡が崩れても不思議じゃねぇからな」
「ああ。互いに隙を探り、手を読み、流れを掌握しようと腐心している。
 一見静かだが、その実恐ろしく複雑に入り組んだ攻防だ」

新人達には見えていないものが、シグナムやヴィータには見えているのだろう。
それはなのはやフェイトにも言える事で、四人の眼は僅かな変化も見落とさんとばかりに見開かれている。

「なのは、どれぐらい見える?」
「ざっと数えて…………90、ううん100は超えてると思う。フェイトちゃんは?」
「私もそれくらいだと思う。
同時にこれだけの攻防を処理するなんて、さすがと言うかなんというか……本当に常識を無視してるよ」
「ホントに」

彼女達も十年のキャリアを持つ超一流の戦闘魔導師。
動きを先読みし、行われている駆け引きを見抜くくらい訳はない。
兼一がマルチタスクを習得しているのかは知らないが、修得していても容易に処理できる情報量ではないのだ。
正直、なのは達でも本当に自分が全て読み取れているのか自身を持てない程なのだから。
が、生憎とこの場にいる全員にそんな高度な真似ができるわけではない。

「おい、さっきから何の話をしてや…いるのですか?」
「ん? なんだ、見えないのかアヴェニス」
「あの、私もなんの話をしてるのかさっぱりなんですが……」
「ふむ……」

どうやら、新人達だけではなくギンガやコルトにも見えてはいないらしい。
シグナムは顎に指をやって僅かに思案すると、慎重に表現を選びながら説明する。

「噛み砕いて言ってしまえば、互いに攻守の軌道を先読みし、牽制し合っているのだ。
 お前達もやっている事だろう?」
「そう言えば、良く師匠が言ってました。武術は極めるほどに陣取り合戦に近くなっていくと……」
「そういや、ババアもそんな事言ってやがったな。だが、『見えない』と言うのはどういう意味だ…ですか?」
「どうって言われても、ねぇ?」
「そのままの意味で、『こうきたらこうしよう』って言うのが見えるだけだよ?」

さも当たり前の様に言うなのはとフェイトだが、幾ら目を凝らしてもギンガとコルトには全く見えない。
同様に、新人達もわからないなりになんとかそれを見つけようとするも、首をかしげるばかり。
さすがにこれは、新人達にはまだハードルが高すぎると言うものだろう。
未だ緊奏にも至っていない身では、技撃軌道を視認するなど身の程知らずですらあるのだから。
とそこで、新人達より数段先にいるギンガとコルトは話が別だ。

「ギンガは心を静めてみろ。そうだな…………………アヴェニスと戦った時に使ったあの技だ」
「流水制空圏、ですか?」
「そう言う名の技なのか? まぁ名前は何でもいいが、とにかくやってみろ。
 アヴェニスは逆だ。昨日教わった事を思い返せ」
「…………………了解」

シグナムのアドバイスに従い、二人はそれぞれ別のアプローチで意識を集中していく。
ギンガは呼気と共に深く心を静め、コルトは一息に上限まで気を昂ぶらせる。
恐らく、昨日までの二人では幾らやっても見抜けなかっただろう。
だが、実戦に勝る修業はない。それが、拮抗した実力の者同士なら尚の事だ。
伯仲した実力を持つ者同士がぶつかり合い、実力を高め合うのは良くある事。

それを証明するように、徐々に二人の眼にはそれまで見えていなかった何かが、ぼんやりと浮かび上がり始めた。
まだまだうっすらと頼りないそれだが、しかし確かにその眼に二人の描く攻防を映し出す。
二人はそれに身震いし、それを見てとったシグナムは僅かに笑みを浮かべながら問うた。

「どうだ?」
「これが、皆さんの…師匠達の世界……」
「だが、100だと? とてもそんな数がある様には見えねぇぞ」
「そりゃ単純にお前らの読みが粗ぇだけだ」
「そう言う事だ、まだまだ精進が足らんな」

実際、ヴィータやシグナムの言う通りなのだろう。なのは達には見えて、未熟な自分達には見えない。
それが今の彼らの間にある力量の差であり、二人には半分も見抜けない攻防を密かに繰り広げていた二人との差でもある。自分達が歩む道の果てしなさを実感すると共に、二人は少しでも追い縋ろうと目前の戦いに意識を集中する。

(私に見えるのは精々五分の一程度だけど……コルトは、どうなのかな?
 昨日は負けちゃったし、もしかしたら私より見えてる?)
(昨日今日ようやく手綱を握れるようになった俺じゃ、ムカつく話だが読み合いは分が悪いかもしれねぇな……)

チラリと、二人はたがいに盗み見る様に相手の顔をうかがう。
そこで偶然にも眼が合い、二人は揃って大急ぎで眼を逸らした。

(むぅ、負けは負け。今は彼の方が私より先を行ってるのは認めるしかないわ。でも……)
(だが、分が悪いなら……)
(そうそう負けっぱなしでいられるもんですか!!)
(上等だ、ひっくり返してやろうじゃねぇか!!)

互いに対抗心をメラメラ燃やし、無言のうちに競う様にしてモニターを二人は注視する。
そんな二人の様子を、少し離れた所で見る隊長陣の表情はどこか微笑ましい。

「にゃははは、二人とも火花散らしてるねぇ」
「良い傾向じゃねぇか。やっぱ競わせた方が成長も早ぇしよ」
「そうだな。大分タイプは違うが、昔の高町とテスタロッサを見ているようでもある」
「ですね。私となのはも、何かに付けて競い合ったものですから」

風林寺隼人曰く「武術家は、自分の命を本気で狙う者が出来て一人前」。
さすがにそれは行き過ぎにしても、やはり競い合えるライバル(好敵手)と言うのはいいものだ。
隊長達は、競う様にして互いの成長を促進させるギンガとコルトを見てその事を再確認している。
同時に、なのはは新人達へのフォローも忘れない。

「スバル、ティアナ、エリオ、キャロ」
「「「「は、はい!」」」」
「みんなにはまだ何を言ってるかわからないかもしれないけど、大丈夫。
焦らなくても、もう少し強くなれば段々わかってくるよ。だから今は、とにかく一瞬も見落とさないようによく見る事。見る事も、大事な練習であり経験だからね、これも勉強だよ」

なのはの言葉は、恐らく非の打ちどころのない正論だ。
しかし、誰も彼もがその正論を疑うことなく信じて進めるわけではない。
むしろ大抵の場合において、誰もが一度は「本当にできるのか」と疑い、焦り、不安にかられる。
だが、なのはにはそんな経験がほとんどない。魔法や戦技の習得において、大きな壁にぶつかり躓いた経験が絶対的に少ないから。

無論、彼女とて一度も挫折を味わったことがないわけではない。
いや、挫折と言うのであれば人一倍大きな挫折を経験している。
それでもこの時なのはは、教え子の一人がその胸の内に「本当にできるようになるのだろうか」という恐れを抱えている事に、気付く事が出来なかった。



  *  *  *  *  *



観戦者達の間でそんなやり取りがなされている間も、兼一とザフィーラの睨み合いは続く。
別に二人とて、好き好んでにらみ合いを続けているわけではない。
しかし、今の二人はそうする事しかできなかった。
それというのも……

(長老の言う通り、魔導師の相手はやり辛いなぁ。
 格闘型でも僕よりだいぶ制空圏が広いんだもの。これじゃ迂闊に近づけないや)
(まったく、本当にこれが丸腰の男の制空圏か? 下手な格闘型よりよほど巨大ではないか。
こちらの方が広いが、私では外からの牽制は効果が薄い。踏み入るとなれば、こちらも相応の覚悟がいるな)

ザフィーラの制空圏は兼一のそれより優に二回り以上大きい。その為、間合いに入れば一方的に攻撃にさらされることになる。その利点を活かし、間合いに入れば距離を置きながら攻め立て様とザフィーラが牽制している為に、兼一は迂闊に踏み込めない。
逆に、ザフィーラの本分は肉弾戦、元より遠距離攻撃で仕留めるのは難しい。かと言って下手に達人の間合いに踏み込むのは危険。その為、出来るなら外からの牽制で隙を作りたいのだが、兼一がそれを丁寧に潰し隙を見せないので彼も下手に動けない。
つまり、間合いの利がザフィーラにある為に兼一は迂闊に踏み込めず、思う様に隙を作れない為にザフィーラもまた攻めあぐねている、と言う状態なのだ。

とはいえ、いつまでもそれでは千日手となってしまう。
先に動いた方が負ける、と言う状態ではないにしても、互いに出方をうかがっているからこその硬直状態。
それを崩したのは………………………意外にも兼一だった。

(虎穴に入らずん場虎児を得ず、か。間合いに差がある以上、消極的になってたら主導権を持って行かれる。
弟子と息子が見てるんだ。時には、多少強引に行く事も必要か)
(空気が変わったな、来るか?)

ムエタイ基本の型である竦めた肩が特徴的なタンガード・ムエイを解き、別の構えを取る。
しかもそれだけでは飽き足らず、さらにはジリジリとにじり寄り間合いを詰め始めたのだ。
それを画面越しに見てとった弟子が、小さく驚きの声を漏らした。

「……珍しい」
「どうしたの、ギン姉?」
「師匠が、天地上下の構えを取るなんて……」

それは空手の型の一つ。片手を天に、もう片手を地に向ける威圧・殲滅の構え。
ギンガの言う通り、攻守で言えば「防御」に重点を置く傾向が強い兼一にしては珍しい構えだ。
だがそれは、何も兼一のスタイルや性格的な部分だけでなく、この選択に対しても言えることだった。

「見た所、典型的な攻めの構えの様だな」
「来ないなら自分から踏み込むという意思表示……ううん、どちらかと言えば挑発でしょうか?
同じ踏み込むにしても、定石ならここは守りを固める所なんですし……」
「実際、この状況はザフィーラからすると願ったりかなったりだからな…餌としては魅力的だろう」
「だよなぁ。自分の間合いに捉えるまでは徹底的に守り抜いて、そこから…ってのが普通だろ。
 それをしねぇって事は、多少の被弾は覚悟の上…むしろ、間合いに飛び込ませようって考えかもな」
「あるいは、ザフィーラを揺さぶるのが狙いかもしれない。明らかに誘ってるし」
「ふむ、可能性としてはありうるか……」

兼一の変化を見てとり、なのはを除く隊長陣はそれぞれその意図を考察する。
なにしろ、兼一が防御ではなく攻めの構えを取った意味は大きい。
ザフィーラとしてはどうやって兼一に隙を作らせるかが悩み所だっただけに、守りを固められるよりこちらの方が都合は良い。隙も作りやすいし、そうすれば一気に間合いを詰め本命で畳みかけることもできる。

しかし、同時にそれが兼一の狙いである事にも気付いているのだろう。
兼一の耐久力の高さは先ほどのパフォーマンスで周知の事実。
おそらく、「隙あり」と見てザフィーラが直接攻撃に出る事を待っているのだろう。
守りを固めて追い掛けても、ザフィーラはひたすら距離を取ればいいのだ。そう、丁度「逃げ水」の様に。
だが、六課内では割と兼一をよく知る方のなのはとしては、それだけだとどこか釈然としない。

(でも、そういうのって兼一さんのイメージじゃないんだけどなぁ……)

なのはとて、兼一とそれほど深い付き合いがあるわけではない。
故に、兼一らしくないと思ってもそれは単に自分が知らない一面、と考える事ができる事は承知している。
しかし、それでも彼女の感性は中々それを受け入れられないでいた。
とそこで、スバルは小声で隣に立つ相棒に話しかける。

「ねぇティア」
「なによ」
「今兼一さん、サーチャーの方見なかった?」
「はぁ? 幾ら兼一さんが強くても、この状況で余所見なんてしないでしょ。
 私には見えないけど、隊長達が言うには今とんでもない駆け引きしてる最中なんでしょ、あの人」
「うん、私もそう思うんだけど……」
「エリオとキャロは?」
「あ、いえ……」
「私も特には……」
「でしょ。だいたい、今は脇道に逸れてる場合じゃないでしょうが。
アンタが逸れるのは自由だけど、私達まで巻き込まないでよね」
「う、うん、ごめん」

一見邪険に扱っているようではあるが、その実「余計なこと考えてないでよく見ろ」という忠告だ。
スバルもそれに同意し、口を閉ざしてモニターに視線を送る。
だが、なのは達はティアナ達とは違う感想を持っていた。
一瞬の出来事で新人の中ではスバル以外気付かなかったようだが、隊長達は見逃していない。

(ああ、そう言う事なんだ)
「ふっ、愛されてるなギンガ」
「は? それは、どういう事でしょう?」
「おい、シグナム」
「わかっている。余計な事を言う様な野暮はせんさ」
「あの、フェイトさん?」
「ああ…ごめんね。私の口からはちょっと……」
(つまり、ギンガや翔に少しでも色々な戦いを見せてあげたい親心、か)

兼一が、敢えて彼にしては珍しい戦法を選んだ最大の理由。それはこの一点に尽きるのだろう。
敢えて強引に突き進むのも、ザフィーラに揺さぶりをかけるのも目的の内ではある筈だ。
兵法などの苦手な兼一だが、数多の経験から身についたものは存在する。
が、最大の目的はやはり弟子達に「見せる」ため。
そんな純粋な弟子への愛情が根幹にあるのだ、それを他者が洩らすのは野暮と言うものだろう。

とはいえ、まだギンガも翔もその事には気付いていない。
隊長達はただただ静かに微笑み、口にするのはささやかな助言のみ。

「良く視ろ、刹那も眼を離すな、我等から言えるのはそれだけだ。
 そして、それこそが今お前が師の想いと信頼に応えられる唯一の事と知れ」
「はぁ……」

そんなやり取りをするうちに、気付けばあと半歩でザフィーラの制空圏と言う所まで迫っていた。
同時に、それまでのスリ足から、小さくとも大きな意味を持つ一歩を踏み出す。
だが、兼一の足が地に着くその直前……

(十中八九誘いだが……良いだろう。その策もろとも、打ち砕いてくれる!!)

先にザフィーラが仕掛ける、放つのは数少ない遠距離仕様の『烈鋼牙』。
本来は射撃系などの魔法に対するカウンターに用いるものだが、単体でも使用は可能だ。
左右の拳に一発ずつ宿る白い魔力光の輝き。その内、右拳で突きを放つと共に宿る光を飛ばす。

狙いは兼一が降ろそうとしている足の直下。
初撃で相手のリズムを崩し、あわよくば脚にダメージを与える。
続いて、左拳に残した二撃目で体を崩し、その隙をついて間合いを詰めて渾身の蹴りを放つ連携。
それがザフィーラの構想だったわけだが、予定というのは頭の中では完璧なもの。
しかし、それをいざ現実にしようとすると思うようにはいかない。

「っ!?」

驚き僅かに息をのんだのは兼一…………ではなく、ザフィーラの方。
ゴンッと言う音と共に魔力弾が着弾したが、そこに兼一の脚はない。
それどころか、兼一の身体自体が着弾地点より一歩以上後ろにある。

(誘いとわかってはいたが、まさか進むと見せかけて下がるか!?)

柔術ならではの、重心を錯覚させる膝使いによるフェイントである。
さすがにそれは予想外だったが、ザフィーラとて歴戦の勇。
即座に左拳に宿した烈鋼牙の狙いを変更、後退した兼一自身に向けて放つ。

(こんな苦し紛れでは足止めにもならんだろう……だが、そうそう思い通りにはさせん!!)

ザフィーラが狙いを変えるまでの刹那、その間に兼一は好機とばかりに力強く大地を蹴っていた。
正面から衝突しようとする兼一と烈鋼牙。
それに対し兼一は腕をコロの原理で回転させ、烈鋼牙のベクトルを逸らす。

太極拳特有の優れた身法「化剄」である。それにより軌道を変化させ、速度を緩めることなく回避。
そのまま一気にザフィーラを間合いに捉えようとするが、それには及ばない。
なぜなら、烈鋼牙を回避した時既に、ザフィーラが兼一の目前にまで迫っていたのだから。

(速い!)

おそらく烈鋼牙で視界を制限し、死角を縫う形で接近したのだ。
通常ならここで一撃は覚悟しなければならないだろう。
だが、兼一とて伊達に達人ではない。
彼の鋭敏な危機感知能力は、魔力弾の影から迫る危機に警鐘を鳴らしてくれていた。

「おおおおおお!!」
「シッ!」

目前にまで迫るザフィーラの突きを回避しながら反転し背後を取る。
回転の勢いを利用して放つのはムエタイの「ソーク・クラブ(回転肘打ち)」。
しかしそれは、ザフィーラが前方に身を投げ出した事で空振り終わった。

だが両者ともにその程度では立ち止まらない。
ザフィーラは着地と同時に右足を軸に切り返し、兼一もまた再度ザフィーラへと疾駆する。

「ちぇすとぉ!!」
「ぜりゃあ!!」

接敵し、互いに放つのは息も突かせぬ突きの連打。
同時にそれは、並の者の眼には影さえ映らぬほどの高速の拳。
その悉くを時に捌き、時に受け、あるいはいなし、または弾く。
兼一は化剄や回し受けを駆使し、ザフィーラは受け止めるバリアと弾いて逸らすシールドを使いわける。
繰り出される拳撃は一瞬のうちに数十を超え、中には……

「がぁっ!?」

フックに近い一撃を下段に払い、払った手の鶴頭がそのままザフィーラの鳩尾に突き刺さる。
『弧突き』と呼ばれる、空手の基本的な返し技だ。

バリアジャケット越しとは言え、急所である鳩尾への強烈な一撃にザフィーラの息が詰まる。
その隙を逃さず畳みかけようとする兼一だが、ザフィーラも負けてはいない。
渾身の力でアスファルトを踏み砕かれた事で、狙いがずれた兼一の回し蹴りが空を切った。
そこへ、全身の捻転を使った裏拳が迫る。

「へあ!!」
「くっ!?」

首を打つ衝撃を、歯を食いしばって堪える。
普通なら首が折れてしまいかねない一撃だが、兼一の首を折るには至らなかった。
強靭かつしなやかに鍛え上げられた首が衝撃を吸収したのだ。
とはいえ、さすがに魔力ダメージの影響は皆無ではなく、一瞬意識が遠のきかける。
だが、それを繋ぎとめ彼はその場に踏みとどまった。

そこへザフィーラが追撃を仕掛けるも、即座に立て直した兼一もまた反撃にでる。
豪速の鉄拳が空中で交差し、互いの頬に突き刺さった。

しかし、口元から血をにじませながらも二人は止まらない。
強烈な踏み込みが大地を揺るがせ、基本に忠実な何の変哲もない中段蹴りを繰り出す。
そうして真正面から衝突した蹴りは、周囲に爆音を轟かせた。

稀に鉄壁にも等しい守りが抜かれる事もあるが、二人の手を緩めるには至らない。
しかも、兼一の拳圧とザフィーラの魔力の余波が周囲を徹底的に破壊し尽くす始末。
知らない者がその光景を目の当たりにすれば、突然の嵐か、戦争でも始まったのかと錯覚しかねないだろう。

いや、例え知っていたとしても、二人の動きをほとんど追えない者ならそう思うに違いない。
なにしろ、丁度新人達がそんな感じなのだから。

「ティア! 今二人の立ち位置が入れ替わってなかった!?」
「そんな事より、道路が爆発したわよ!?」
「あ、あは、あははは……アスファルトが宙を舞ってるよ、フリード……」
「いったいなにがどうなってるんですか!?」
「ザフィーラが魔力弾を目くらましに接近して攻撃したんだけど、陸士は回避しながら反撃。
 それをさらにザフィーラが避けた時にすれ違ったから、それで入れ替わって見えたんだね。
 で、二人がもう一度間合いを詰めて突きの応酬を始めた余波で、周りが吹き飛んでるんだけど……わかる?」
((((さっぱりわかりません!))))

悲鳴じみたエリオの問いに、できる限り噛み砕いて解説するフェイト。
ただし、何が起こっているか説明されても眼が追い付かないのだから理解などできる筈もなし。

そうしている間にも二人は縦横無尽に動き回り、その攻防は拡大の一途をたどる。
隊長達はその恐ろしく高度なやり取りに感嘆し、ギンガやコルトは二人の動きを追い掛けようとするだけで精一杯。息をすることすら忘れ、死にもの狂いで追ってもなお追いきれない。
が、辛うじて何かが見えるからこそ、二人の意識はより一層モニターへと集中していく。
正直、今の二人の耳には新人達の声すら届いていなかった。

とそこで、拮抗していたかに見えた攻防に変化が起こる。
顔面へと迫る拳を兼一が左腕で弾く。すると、ザフィーラはそのまま身体ごとぶつかり、弾かれた腕を兼一の首に絡める。そうして兼一の動きを封じ、身長差を活かした強烈な頭突きへとつなげたのだ。

「取った!」
「いいえ、取られたのはあなたの方だ!」
「ぬ……」

柔術家にとって、この程度は取られた内に入らない。
頭突きよりわずかに先んじ、体を入れ替えザフィーラに背を向ける。
そして器用な事に、自身の手は使わず、首に掛かったザフィーラの腕を軸に投げへと持って行く。

「せい!!」
「なんの!!」

突然の浮遊感にも動じず、兼一の首にかけていた腕を離し地面に落とす前に投げから脱出するザフィーラ。
彼は宙で反転すると、着地と同時に大地を蹴って再度兼一に迫る。

しかも、今度は突きではなく熊手打ちの様に五指を立てていた。
その指の先端には僅かな輝きが宿り、ただの熊手ではない事は自明。
目前に迫る脅威を前に、兼一もまた打って出る。

「迎門鉄臂ぃ!!」

アッパー気味の突きと膝蹴りが、迫りくるザフィーラを迎撃する。
心意六合拳の一手。突き上げと膝蹴りを同時に行う技「迎門鉄臂(げいもんてっぴ)」。
だが、当のザフィーラはその直前で強引に停止。止まる為に踏み込んだ足はアスファルトを砕き、薄皮一枚の所を兼一の拳と膝が通り過ぎて行く。
そしてザフィーラは、僅かに距離のあいたその場で腕を振り下ろす。
兼一は反射的に頭上で両腕を交差させ防ごうとするも……

(これは…マズイ!?)

背筋を走る怖気。右腕の軌跡を追う様に爪状の魔力が前方の空間を薙ぎ払う。
描かれたのは、下手な刃物とは比べ物にならない程鋭利な五条の斬閃。
アスファルトの地面には深々と五本の爪痕が刻まれ、その威力を物語っている。
しかし、ザフィーラの油断なくその先を見据えていた。

「仕留めるには至らずとも、手傷くらいはと期待していたのだがな」
「いえ、素晴らしくも恐ろしい威力です。まともに受けたらと思うとゾッとしますよ」
「そうか。ならば次こそ、この爪牙で捉えて見せよう。
(まったく、なんという反応速度だ。あそこで手を変えやり過ごすとは。あまつさえ……)」

右の熊手自体は止められても、それに付随する魔力による爪撃までは防げない。
そう判断した兼一は、咄嗟に防御ではなく身を屈めることによる回避を選択した。
しかも、それだけでは飽き足らず……

(なんと言う凄まじい柔軟性と脚力か。よもや、あの体勢からこれほどの蹴りを……)

ザフィーラのコメカミから、僅かに赤い雫が滴り落ちる。
前屈に近い形で身を屈めた体勢のまま、左足を軸に右足を大きく振り上げた踵による蹴り。
そんな無理のある体勢で、これほどの威力を持たせるなど尋常ではない。
まさか、防御を力づくで破ってくるとは……。

だが、何も驚いているのは彼だけではない。
それまで呼吸も忘れて注視していたギンガは、身体に溜め込んでいた息を大きく吐き出し呟く。

「す、すごい……と言うか、速すぎて全然参考にならない……」
「厳密に言うと、速いって言うのとはちょっと違うんだよねぇ……いや、確かに普通に速いんだけど」
「え?」
「ま、速度“だけ”ならフェイト隊長の方が速いしな」
「でも今見た感じだと、実際やるとなれば翻弄する…ってわけにはいかないよ、きっと」

思わずこぼれた言葉に、なのはとヴィータ、そしてフェイトが口々に着眼点が違うと言う。
その上、フェイトの方が早いのにそのスピードで翻弄するのは難しいと言われても意味がわからない。
なにしろ、高速機動および高速戦闘に特化しているフェイトの基本戦術は、そのスピードで翻弄することにある。
最高速度で拮抗しているならともかく、上回る相手を翻弄できない理由がわからないのだ。
だから、ティアナがその理由を問うたのも当然の話。

「フェイトさんの方が速いんですよね、それなら……」
「いや、ここで重要なのは速度ではなく極限まで無駄をそぎ落としたその身のこなしだ。
最高速度の不利を最短最小の動作で埋め、互角のタイムに持ち込む。
達人と言う連中は、そう言う事ができるほど洗練された技術の持ち主だ」

実際にはそこに洞察力や判断力、あるいは勘などの様々な要素も絡んでくる。
追跡戦等ならともかく、真っ向から打ち合う限り一方的に出遅れると言う事はない。

「でも、フェイトさんだって一線級の魔導師ですし……」
「ああ、気を悪くせんといてな。エリオやキャロにとってフェイトちゃんは大切な人やし、そう思うのも当然や。
でも、シグナムも別にフェイトちゃんの動きが粗いって言いたいわけじゃないんよ。
 ただなんちゅうか、ミッド式にしてもベルカ式にしても、兼一さん達に比べればやれることが多い。
それは長所なんやけど、必ずしもそれだけとは限らんのよ」
「はぁ……」
「そうだね。私達はできる事が多い、それはつまり戦術の幅が広いって事でもあるんだけど、白浜二士はその幅が私達に比べればどうしても限定されるんだ」

何しろ、距離の離れた敵に対して兼一はまず手の届く距離まで近づくしかない。
フェイト達なら複数の選択肢がある状況でも、兼一には「一つしかない」ないし「限られている」状況と言うのは存外多い。そして、多様な選択肢の中から、その状況において最適なものを選択するのが魔導師の戦いであり、限られた選択肢を最大限に活かすのが武術家の戦い方だ。

「でもね、限定されているからこそ、一つ一つの技術の深度が恐ろしく深い。
 器用貧乏じゃないけど、色々できる分あの人たちに比べれば突き詰め切れてないのは否めないんだ。
 まぁ、そこは戦術の幅の広さと相殺なわけだけど……」

フェイトの言う通り、「技術の深さ」においては達人に一日の長があるだろう。
だがそれは「浅く広く」か「狭く深く」か、と言うだけに過ぎない。どちらが優れているかではなく、単にそういう「方向性」と言うだけの話。
「静」と「動」、どちらの属性が優れているかなど論ずるに値しないのと同じだ。ただ、敢えて言うならば浅く広い方が色々できる分「便利」だし、武装局員に求められる能力としてはこちらの方が優先順位は高いだろうが。
というか、そもそも彼女らの技術は別に浅いわけではないので、「広くて深い」魔導師と「狭いが極端に深い」達人、と言うのが正しい。さすがに達人ほど一つ一つを掘り下げられてはいないと言うだけなのだから。
ただそれも、人によりけりではあるのだが……。
とそこで、モニターに映るザフィーラが苦笑を浮かべる。

「それにしても、どうやらこの拳もそう捨てたものではようだな。十年の鍛錬は、とりあえず実を結んだか」
「謙遜はよしてください。直接拳を交えて確信しました、あなたの技は達人の域にある。
何より……重い、とても重い拳でした。こんな重い拳を受けたのは、本当に久しぶりです」
「そうか…そうか」

その言葉に、噛みしめる様に呟くザフィーラの口元に笑みが浮かぶ。
最後の夜天の王、八神はやてと出会って十年。
この十年、ザフィーラはひたすらにその技を、牙を磨き続けてきた。
全ては優しい主と仲間達を守る為、先に逝った同胞から託された願いの為。
使命でも役割でもなく『自身がそうしたい』と想ったが故に、『守る為の拳』に恥じぬ大切なものを守り抜く力を欲した。

また、最初から完成された戦士であった守護騎士達には「未熟な時期」がない。
同時に、歴代の主達の大半は彼らに自由な時間を許さず、蒐集と戦闘に時間のほとんどを費やしてきた。
故に、はやてと出会うまで研鑽に本腰を入れた経験は皆無に近く、だからこそ日々の研鑽は新鮮かつ充実した時間だった。

そうして十年間、休むことなく地道に練り上げた力と技。
それはついに、目指した域に届いたのだ。
多様性に富んだ技術を持ち、若いなのは達が未だ届かぬ域に。

「世事は要らん…と言いたいところだが、いかんな。どうやら、そこまで無欲ではないらしい。
その賛辞、有り難く頂戴するとしよう。勝利と共にな」
「ハハ、それはできませんね。弟子が見ているんですから、花は持たせてもらいますよ」
「それはこちらの台詞だ。主の御前、無様は晒せん」

緊迫した空気の中、二人はまるで親しい友人の様に笑みを浮かべる。
胸中に抱くのは、言葉にできぬ共感。自分も相手も、宿すのは守る為の拳。
二人はそれを言葉ではなく拳を通して理解した。そして、理解したその事実が嬉しくてたまらない。
純粋に称賛し、尊敬できる相手との邂逅と勝負を、二人は心から喜んでいた。

「いっそ拳だけで打ちあうのも爽快だろう…だが、この身は拳士ではなく守護の獣。そんな私が力を、技を、魔法を封じるのは貴殿に対して無礼だろう。故に、出し惜しみはせぬ! 行くぞ!!」
(さっきまでの魔法とは違う? だとしたら、どこだ、どこから?)

先ほどまでの魔法と違い、ザフィーラに目立った変化はない。
ただ彼の足元に、澄んだ白色のベルカ式魔法陣が浮かぶだけ。
魔法を発動しようとしているのか、それとも既に発動しているのか。
どちらかは分からないが、その時に備え………それは間もなく来た。

「『鋼の軛』!!」
(来る。場所は……下!!)

ザフィーラが叫ぶと同時に天高く跳躍する。
すると、先ほどまで兼一がいた場所からザフィーラの魔力光と同色の棘が飛び出した。
それも一本や二本ではない。数えるのも億劫になる様な数の棘が地面から霜柱の様に突きだし、大地を針の山へと変えて行く。

それも、その長さたるや短い物でも十メートルを超える。
警戒し思い切り跳躍していなければ、今頃兼一は串刺しになっていた事だろう。

(危ない危ない。どんな魔法かわからないけど、触るのはやめた方が良さそうかな?)

特に根拠があるわけではないが、外したと言うのに出しっぱなしにしている所が気にかかる。
丁度いい足場や遮蔽物になるだけに、それを残している事が不可解なのだ。
なにより、アレに触れるのは彼の「弱者の勘」が忌避していた。

そうしている間に、兼一は手近なビルの壁面に着地。
壁を掴みザフィーラに視線を向けるが、すぐにまた跳躍した。
すると、ビルの壁面にまたしても棘が生える。

(場所はお構いなし、か。これじゃ、おちおち立ち止まることもできない。
 まいったなぁ…空中戦は苦手なんだけど……)

とにかく一瞬たりとも足を止めることなく、ビルの間を飛び跳ね続ける兼一。
さすがにむざむざやられるほど鈍重ではないが、状況が良くないのは明らか。

現実的にも比喩的にも、彼は翼を持つ鳥ではない。正直、空は彼の居場所ではないのだ。
陸に打ち上げられた鮫、海に沈んだ鷹、空に放り出された獅子に何ができる。
幸い兼一は獣ではなく、空中戦に対応した技もある。故にやってやれない事はないだろう。

だが、本分と言う意味ならやはり地に足を付けた状態が本領。
だと言うのに、眼下には足の踏み場もないほど突き出た棘の数々。
ザフィーラも多少無理をしているのか、視界の端に捉えた時は僅かに息を切らしているように見えた。
しかし、そんな事は気休めにもならない。演技かもしれないし、すぐに回復する程度の疲労かもしれないのだ。
その上、着地するとすぐに棘が飛び出してくるし、長さが長さなので半端な回避ができない。それも……

(誘導…されてるよね)

罠…と言うよりもフィールド設定の一環だろう。
自分にとって有利で相手にとってやり辛い条件に持ち込む、兵法の基本中の基本。
ザフィーラに空戦能力があるのは初めからわかっていた事。つまり、この場は彼の領域なのだ。
出来ればすぐにでも地面に降りたいところだが、この有様では。

その上、じきにビルの壁も棘で埋め尽くされるやもしれない。
となれば選択肢は二つ、場所を変えるか棘にあえて触れるか。

触れずに済むなら未知の代物に触れるのは避けたいところなので、場所を変えるのが妥当。
しかし、それは相手も百も承知だろう。
となると対抗策を練っている筈なので、嫌でも触らなければならなくなる。

だが、そんな兼一の覚悟は杞憂に終わる。
棘の出現が治まり、今度はその表面に無数のヒビが走っていく。
もちろん兼一は触れていないので、これは相手の意図によるもの。
そこで、兼一の脳裏にいやな想像がよぎる。

(あ~、これってもしかして、ガラスみたいに……)

砕いて撒き散らそうとか、そういう話なのかと推測する。
そして、その想像は兼一が何度目かになる跳躍をした時に的中するのだった。

「テオラァァァアァ!!」

ザフィーラの一声と共に、無数の破片が舞い散り渦を巻く。それは白刃の竜巻。
前から、下から、上から、横から。縦横無尽に鋭い破片が襲い掛かる。

「っ!」

それらを回し受けの要領で前方から迫る破片を払う。
人の腕から生じたとは思えない、突風とも呼べる風が巻き起こった。
すると、数メートル先の破片すらも払い散らしていく。

しかし、それが全方向からとなると話は別。
人間の腕が二本である以上、防ぎきれないものが出てしまうのは致し方ない。
と、普通なら考える。ダメージを覚悟し、それを最小限にして耐える。それが常識的な見解だ。
だが、その定律に収まらない存在こそが達人。

(焦るな、思い出せ! 今まで身を置いて、見てきた戦いの数々を。打開するヒントは必ずある!)

この方法では防ぎきれないと見切りをつけ、別の方法を模索する。
脳裏には過去十数年分の戦いの記憶が駆け巡り…………やがて、それを見つけた。

(あれは……あった!)

幸いなことに、必要な物は自身のすぐ後ろに迫ってきている。
背後に迫るもの、それは剥き出しになっているコンクリートの壁。
兼一はそこに背を預ける事で、死角を減らすと同時に背後からの破片の飛来を封じたのだ。

本来、それだけでは再度鋼の軛が出現すれば危ういだろう。しかし、兼一に限ってはその心配は不要。
秘密は、中国拳法にある「聴剄(ちょうけい)」という技法。元来これは、肌から伝わる微細な振動で相手の動きを先読みする技法なのだが、兼一レベルになるとそれでは済まない。
肌で聴くのは風の流れと大地の声。人が、物が動けば空気が動き、動いた空気は風となる。あるいは人が歩き、地の底で何かが蠢けば大地は揺れる。そこから動きを予知し、鋼の軛を回避できるからこその手段。

背に伝わるのは、冷たく堅いコンクリートの感触。そこに不自然な振動はない。
背後の心配がなくなっただけでも遥かにやりやすくなる。
兼一は身体の前面だけに迫る軛の欠片を捌きつつ、更なる一手を打つ。

「ぬりゃぁ!!!」

蹴撃一閃。渾身の力で振り抜いた右足の延長上、そこには信じ難い光景が広がっている。
先ほどまで軛の破片を帯びて荒れ狂っていた風は、既にない。
無残にも蹴り裂かれ、その先には無機質なビル群が姿を現している。
それはさながら、海を割ったモーゼの如き所業。

真の達人ともなれば、蹴りでプールの水を蹴り割ることすら可能。
ましてや白浜兼一と言う武術家の真骨頂は足と腰。
その脚力を以ってすれば、人工的に起こされた一時的な竜巻を蹴り割ることも不可能ではない。

とはいえ、一時的に蹴り裂いた所で相手は所詮風。それも、尋常ならざる速度で動くそれだ。
瞬く間に…とはいかずとも、やがて蹴り裂かれた個所は埋まり、元のあるべき姿を取り戻す。

しかし、僅かな時間でも兼一にとっては充分。
彼はその間に竜巻からの安全圏である屋上に退避する。
が、そうは問屋が卸さない。

「やっぱり、そう来るよね……」

ビルの壁面を駆け上がりつつ呟くと、足元から異音が漏れる。
現れるのは先ほどまでと同じ白い棘。
だが、その時既に兼一の脚はビルの壁を離れている。
跳躍し屋上を目指すが、頭上より裂帛の気迫が叩きつけられた。

「おおおおお!!」

振り仰げば、そこには白刃の竜巻を突き破ってきたザフィーラの姿。
自身の前方にシールドを張った上での、強烈な蹴り。

一眼で迂闊な防御は命取りとなる事を直感する。
しかし回避しようにも、そこは鳥ならぬ身では自由などない空中。
観客達もクリーンヒットを確信したそれを、兼一は真っ向勝負で受け止める。

「秘技…真拳白浜捕りぃ!!!」
「無駄だ! その程度で止まりはせん!!」

蹴り足を両手で挟みこもうとする兼一だが、強固なシールドがそれを阻む。
踏ん張りが利かない為に全力とは言い難いが、それでも万力に等しい力をかけている。
それでもなお、ひび割れるような音を立てながらも「盾の守護獣」のシールドは屈さない。

なんとか蹴りの直撃は防げたが、それでもこのまま地面に叩き付けられればただでは済むまい。
また、掌を覆うバンテージがシールドとの摩擦により焦げる匂いが鼻につく。
だが、兼一の本当の狙いはここからだった。

「しっ!!」

両手で蹴りを防ぎつつ己を捨てて流れに身を任せる。
太極拳の極意の一つ、「捨己従人」。日本の古武術では流水などとも呼ばれる、相手の力に逆らわない事で活路を見出す技法である。これを応用し、兼一は丹田を中心に後方へ回転。
同時に神業的な流れの誘導により蹴りの軌道は外され、兼一の真上を通過する。

しかし、それだけでは終わらない。
回転の勢いを利用し、そのままザフィーラの頭部を蹴りつけた。だが……

(防がれた……この人、やっぱり守りが上手い。でも!)

それを辛うじて手甲でガードするザフィーラ。
兼一はそんな事お構いなしに足を振り抜き、ガードその物を蹴り潰す。

「ふんっ!!」
「ぬぉ!?」

腕と言うクッション越しでも、放ったのが兼一ならその威力は尋常ではない。
一瞬朦朧とする意識、揺れる視界。
しかし、クッションを挟んだ蹴りで沈んでいては「盾の守護獣」は名乗れない。
蹴り飛ばされながらも体勢を立て直し、展開した魔法陣を蹴って切り返す。

「じぇあ!!」

放たれたのは、熊手打ちからの五本の爪撃。
兼一はその側面に捻りきった拳を入れ、一気に捻り上げの筋肉のパンプと螺旋の力で最小にして最速の払いを行う。刀を持った敵と戦う為編み出された、古流空手真髄の技の一つ「白刃流し」。
本来は払うと同時に攻撃する技なのだが、さすがに間合いの差は大きく拳が届かない。
また、爪撃の鋭さも並々ならぬものがあり、兼一自身は無傷だが道着とバンテージの一部が飛散する。

だが、ザフィーラの攻め手はまだ尽きていない。
片手分の爪撃は防がれた。しかし、彼にはもう一本腕がある。

(直接じゃ届かない。それなら……!!)

振るわれる腕と共に迫りくる五本の爪撃。
とはいえ、危険なのはあくまで爪撃。熊手そのものは通常のそれと大差ない。
それを見抜いた兼一は、辛うじて手の届いたザフィーラの腕を抑え、それを支えとして利用し引き寄せる。
そして、もう片方の手で渾身の突きを放った。

(狙いは……頭か!?)
(あ……これはダメだ!)

急遽頭を守るべくバリアを展開するザフィーラ。
ザフィーラの守りは堅く、万全のそれは兼一でも破壊するのに難儀する。
だが、この様な構成の粗い即席のバリアなら破ることも可能。
そう予想したザフィーラは来る衝撃に備え覚悟を決め、同時に、自由な右腕から出力した魔力刃を横薙ぎに払う。
しかし、その衝撃は来ない。それどころか……

(あの土壇場で、拳を引いただと!?)

バリアを目前にした所で兼一は拳を引き、代わりに膝でザフィーラの横っ腹を蹴る。
絶妙なタイミングのフェイントに反応が遅れ、その身体は大きく弾き飛ばされた。
横薙ぎに払われた魔力刃はと言えば、兼一の手甲に防がれその身には届かずに終わる。

ここまでの攻防で高度が下がっていたのだろう。
二人は鋼の軛の消え去った地面に着地する。
気付けばすでに荒れ狂う竜巻は消えていた。

とはいえ、バリアジャケットを纏うザフィーラは無傷だが、兼一の体には幾本かの破片が刺さっている。
兼一はそれらを振り落とし、先の攻防を述懐した。

(手甲越しとは言え……今のは効いた。
まぁ、この程度で済んで幸運と言えば幸運か。正直、この手甲がなかったら危なかったし。
 そこは純粋に長老に感謝なんだけど…………ホント、何で出来てるんだろ、この手甲)

身体の奥に宿った重さに耐えながら、チラリと横目で自身の両腕を覆う手甲を見やる。
そこには、鋭利な魔力刃を受け止めたにしては無傷に等しい手甲。
かつては達人の斬撃すら受け止めた、若かりし日の一影九拳が長、一影も使った手甲だ。とんでもない業物だとは思っていたし、敵からそう指摘された事も数多ある。が、今日ほどその事を強く意識した事はない。

無理矢理流れを変えた為、危うく遅れかけた防御。
辛うじて間に合うも、捌く事もいなす事も出来ず、これはさすがに…と思ったのだが。
まさか、ほぼ無傷で耐えきるとは。前々から思ってはいたが、甚だ材質が気になる代物である。
そして、兼一がそんな事を考えているのと時を同じくして、ザフィーラもまた思索を巡らしていた。

(一見すれば繊細に流れを変えたようにも見えるが、アレにはどこか無理があった。
 そうでなければあの膝、碌に防御もせずに受けてこの程度のダメージで済む筈がない。だが……)

その理由が、ザフィーラにはわからない。
しかし、それも無理からぬこと。先ほど兼一が使おうとしたのは、普段彼が使う技とは一線を画す技。
技の名は、「ルーシー・ハーン(仙者飛撃)」。飛び上がり片方の手で相手の攻撃の抑制に加えてそれを支えとして利用し、もう片方の手で突きを入れる、その応用である。

これだけならば特に問題はないのだが、問題なのはこの技の種別。
それは「空手」でも「柔術」でも「中国拳法」でも「超技百八つ」でもない。
敢えて言うなら「ムエタイ」だが、「ムエタイ」であって「ムエタイ」ではない技。
その区分は「ムエボーラン」や「パフユッ」と呼ばれる「古式ムエタイ」に属するもの。

元々、ムエタイは白兵戦用に創られた実戦武術。
時代を重ね一国の国技へと昇華されたが、元をただせば殺傷のみを目的とした殺人拳。
兼一なら上手く加減し「殺人ムエタイ」を「活人ムエタイ」とする事も可能だろう。

だが、彼の弟子達はそうはいかない。未熟な彼らが使えば、強力な技であるが故に相手の命を脅かす。
かつて兼一も、師より「今の君には必要ない」と伝授を許されない時期があった。
それと同様に「今はまだ見せるべきではない」と考え、故に拳を引いたのだ。
全ては、弟子の成長と未来を案じればこそ……。

そして、戦いは最終局面を迎える。
恐らく時間も残り少ない。
折角の血沸き肉躍る相手との勝負だ。どうせなら、「引き分け」などと言う灰色で終わらせたくはない。
言葉にせずとも、相手がそう思っている事が二人にはわかっていた。

「……そろそろ、ですね」
「ああ、決着を付けるとしよう」

張り詰める空気。両者は互いに威嚇するように気当たりをぶつけ合い、その余波が大気を振るわせた。
モニター越しでも伝わるその息苦しさに、皆が固唾をのんで見守り、額に汗をにじませる。
そして、先に動いたのはザフィーラだった。

「いざ!!」

その一声と共に、腕を折りたたみ肩から突進をかけるザフィーラ。
仕掛けるは、全面にシールドを展開してのシールドダッシュ。
一見粗雑にして短絡的。だが、その速度、体躯、重量から繰り出される突撃は交通事故に等しい。
元来小柄な兼一にとっては、この様な体格差を活かした攻撃は特に厄介である。

また、全身全霊を注いで構築されたシールドは鉄壁を誇り、その速度も相まってあらゆる障害を弾くだろう。
攻撃、あるいは防御するならそれごと圧倒的な圧力の下に撥ね、蹂躙し、轢き潰す。
一見荒っぽく見えるが、単純であるからこそ強力、厄介極まりない。

故に兼一に許される選択肢は非常に限定される。
その中で兼一が選択したのは…………回避だった。

(ここに来て選択を誤ったか、白浜!)

回避先は空。大地を蹴って跳び上がった兼一を見て、一瞬ザフィーラは胸中でそうこぼす。
ザフィーラが飛べないならともかく、飛べる敵を相手にわざわざ飛び上がるなど愚策中の愚策。
それも、先ほどまでの様に足場となるビルに飛び移っていないなら尚更だ。
しかし、だからこそザフィーラはそんな考えを即座に首を振って否定する。

(いや、奴に限ってそれはない。ならば、何かしらの考えがあるのだろう)

今までの攻防で、そんな初歩的なミスを犯すような相手ではない事を痛いほど理解している。
ならば、確かな勝算があった上での選択なのだろう。
それが何かまではザフィーラにも読めないが……

(見せてみろ、受けて立とうではないか!!)

慎重になって足踏みする気はない。それどころか、突進の軌道を無理矢理変えて兼一を追う。
有りっ丈の魔力を拳に乗せ、渾身の一撃を期する

だがそこで、ザフィーラは信じ難い光景を眼にした。
思うように動く事も出来ない空中で、後は落下するしかない筈の兼一が、突如ザフィーラ目掛けて蹴りかかってきたのだ。

その名も「空中三角飛び(くうちゅうさんかくとび)」。
宙を蹴って恣意的に攻撃の軌道を転換する、達人だからこそ可能とする非常識極まりない技である。
とはいえ、所詮は宙を蹴って跳んでいるだけ。
さすがに飛行魔法ほどの自由度はなく、だからこそ「ここぞ」と言う時の為のとっておきだ。
しかし、ザフィーラもまた今更受けに回ってはならぬと覚悟し、かまわず渾身の一撃を繰り出した。

「「ぜりゃあ!!」」

拳と蹴りが交錯する。
重い拳はガードを崩すもその身には届かず、鋭い蹴りはバリアジャケットと薄皮を裂くに留まった。
だが、だからこそ二人ともまだ戦える。

今にも衣服同士が触れそうな距離で、既に二人は次なる一手を講じていた。
蒼き狼は擦れ違い様に顎に肘、鳩尾に膝を放つ。
しかしそれを、一人多国籍軍は相手の首と胴体に回した手を引き寄せる事で対処する。

「ごふっ!」

密着する事で打点を殺し、肘や膝に力が乗りきる前に敢えて受ける。
そうする事でダメージを最小限にとどめたのだ。
そして同時に、ここからが兼一の狙いでもある。

(これは投げ、関節……いや、締め技か!?)

左腕をザフィーラの首に回しながら右腕を掴み、その右腕で相手の脇を取って抱え込む。
回した左腕の関節で頸動脈を絞め、落としにかかる。
それは惚れ惚れするほどに完璧な締め。普通なら、どうやっても脱出しえない形。
しかし、それも相手が魔法を駆使するとなると話が別だ。

(見事な締め技だ。正確にして完璧、これはどうあがいても抜けられん。
 だが、締め技の欠点…それは効果が出るまでに時間を要する事だ!)

四肢の抵抗を封じた以上、相手が“武術家”なら兼一の勝利は確定だろう。
しかし、ザフィーラの本分は武術家ではない。また、仮に四肢を封じた所で彼の全てを封じたわけではない。

手も足も出ずとも、魔法は使える。それを使おうとする意識と源となる魔力さえ残っているのなら。
だいぶ消耗しているがガス欠と言うわけではなく、ザフィーラの意識が落ちるまでまだ余地がある。
右腕に魔力を集め、掌を兼一に向けた。あとは、ここから放つだけ。

魔力ダメージを受けても兼一は意識を繋ぎとめられるが、それは「耐えられる」と言うだけの話。
僅かに意識が飛びかける事はどうにもならず、一瞬技のかかりが甘くなるだろう。

(緩むのは一瞬に過ぎまい。だが、私ならその間に……)

抜けだせる。と、そこまで考えた所で異変に気づく。
それまで落下により下から上に流れていた周りの景色、その方向が変わった。
頭上から響く、裂帛の気合と共に。

「ぬりゃあああああああああ!!」
「こ、これ…は……」

旋回する景色、遠心力に従い下半身へと追いやられる血液。
自身に何が起こっているか理解する間もなく、ザフィーラの意識は闇に落ちた。



  *  *  *  *  *



気付くと、視界は青と白で埋め尽くされていた。

「………………っは!?」

弾かれたように身を起こし、状況を理解しようと辺りを見回すザフィーラ。
そこへ、耳に馴染んだ幼い少女の声が入り込み。

「おぉ、目ぇ覚めたか?」
「ヴィー…タ。私は……」

声のした方へ首を回せば、そこには陸士制服を纏った赤毛の少女。
彼女はどこか気遣わしげに、同時に「ふむ」と値踏み…と言うよりも様子を見る眼でザフィーラを見ている。
とそこで、ザフィーラも直前の記憶を思い出し、何が起こったのかを理解した。

「そうか、私は負けたのか」
「ああ…まぁそういうこった」

『いい勝負だった』とは言わない。敗者への慰めなど虚しく、相手を惨めにさせるだけだから。
しかし、そうなると今度はなんと声をかけたものかわからなくなる。
どこか気不味い沈黙が二人の間に降り、ヴィータは所在なさげに視線を逸らす。
はやて達を呼ぼうか迷うが、なんとなくそんな気にはならずにいた所で、ザフィーラが口を開いた。

「……悔しいな」
「あ?」
「やはり、負けると言うのは悔しいものだ」

自身の掌を見つめながら、どこか寂しげに、悲しげに呟く。
敗因を上げるとなればいろいろ浮かぶが、詮無い事だ。何を言った所で負け惜しみにしかならない。
ただ、全力を賭した勝負に敗れた、今はその事実とこの感情が全てだった。
だが、もし一つはっきりさせたい事があるとすれば……

「それが、どうやって負けたかわからんとなると…尚更な」
「憶えてねぇのか?」
「締め技を受けた、そこまでは憶えている。だが……」

そこから先の記憶がない。締め技から脱出する為の算段はついていたし、それをしくじったとも思えない。
おそらく、予想外の何かしらの手段で脱出を阻止され、締め落とされたのだろうとは思う。
その手段が、ザフィーラには思いだせないしわからなかった。

もしかしたら実は脱出し、その後の攻防で敗れたのかもしれない。
格闘の世界では記憶が飛ぶなど珍しくもないし、頭を打たれて記憶が飛んだ可能性もあるが……。
そしてその答えは、新たに歩み寄ってきた人物からもたらされた。

「暗外旋風締め、というそうだ」
「それが、私が敗れた技か」
「ああ。急速な回転を加え、強いGでブラックアウト状態にしてからコンマ一秒で締め落とす技らしい」
「ったく、空戦魔導師は高速からの急旋回なんかもやるし、バリアジャケット自体にそういうのを防止するフィールドが含まれてるんだぜ。それを振り切るなんて、どんな非常識だよ」
「まったくだ。効果が出るまでに時間を要するという弱点を克服した、恐ろしくも見事な技だ」

それを聞き、ザフィーラの胸のうちに何かが落ちた。
もしかしたらそれは、実感だったのかもしれない。
状況や前後の記憶から推測した現実に、ようやく実感が伴ったのだろう。

「主は?」
「今は高町達とあちらで話しておられる」
「リインもな。最初はおめぇのそばにいるって聞かなかったんだけどよ、シャマルがうまく誘導してくれた」
「そうか、シャマルには感謝しなくてはな。今は………………主に顔向けできん」

はやての事だ、恐らくは健闘を労い励ましてくれた事だろう。
それは純粋に嬉しくはあるのだが、できるならそれは後に回したい。
敗戦のショックで泣けるほど若くはないが、それでも沈み込む気持ちまではどうにもならない。
彼の矜持として、そんな姿は見せたくなかった。

「それで戦ってみてどうだった、白浜は?」
「たった今負けた男にそれを聞くか?」
「なんだ、優しく慰めてほしかったのか?」
「バカを言え。子どもでもあるまいに……」
「ああ、私もそう言うのは柄ではない」

珍しく軽口をたたき合う、守護騎士における堅物二枚看板。
まぁ、これがシグナムなりの気の使い方なのだろう。
とはいえ、別に先の話題への興味が全くないと言えば嘘になるが。

「で、どうだった?」
「……強いな」
「「……」」
「だが、ただ強いのではなく、なんと言うべきか……上手く底を測れん男だった」

言葉を選びながら、拳を交えた瞬間の事を思い返す。
予想通りに強く、予想外の強さ。それが、実際に拳を交えたザフィーラの感想だった。

「そうだな……タイプ的には、高町に近いものがあるように感じた」
「なのはと同じタイプか。って事は……」
「ああ、極限の真剣勝負か……」
「守る誰かがいてこそ本領を発揮する、か」

それが、実際に拳を交えたザフィーラの感想だった。
そして、それが意味する所は……

「つまり、やつはまだ全力ではなかった、と言う事だな」
「恐らくな。本気ではあったのだろうが、全てを出しつくしていたとは思えん」

だからこそ、どうにも力の底が計りにくい。
本人は今出せる力を出しつくしていたつもりかもしれない。
だが、それでもなお出しきれていない力が秘められていたようにザフィーラは感じていた。

「なにしろ、拳を交える度に技は鋭さを増し、危うくなるほどに一打の重みが増した。
 追い詰められてからが、奴の本領なのだろうよ」
「スロースターター、だというのか?」
「おいおい、達人のくせにまだんな致命的な弱点抱えてんのかよ」
「ああ、実に信じ難い話だが、アレだけの腕を持ちながら奴は初手から全力を出す事が苦手らしい……」

普通ならそんな弱点を抱えていればいつか一撃必殺の技を持った敵に殺されそうなものである。
しかし兼一は、卓越した守りの巧さでその弱点を補う。
エンジンに火がつくまでの間、いかなる必殺技をも凌ぎ切ることで弱点を克服したのだ。
あまりにも変則的ではあるが、これこそが兼一が彼なりに出した解。

「ところで……」
「あ? どうしたよ」
「アレは、何をやっているのだ?」

ザフィーラが示す方向、そこには兼一の姿。
その向かいには、ギンガやコルト、新人達の姿もある。

「ああ、気当たりの体験だとよ」
「? どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。お前が気絶している間に、ギンガが白浜の弟子になった時の話が出てな。
 そこで気当たりで人を倒したと言う事を聞き……」
「突拍子がなさ過ぎて信じられねぇから、じゃあ試しにやってみようってなったんだよ」

なんとなくだが、言いだしたのはティアナかコルトではないかと予想するザフィーラ。
彼らの知る範囲の達人にそんなマネが出来た人物はいないが、出来ても不思議はないとも思う。
そんな事を考えている間に、突如視線の先で動きがあった。

「梁!!」

見れば、道着を脱ぎ上半身をはだける兼一。
露わになった上半身は、上腕同様異常なまでに発達している。

「山!!!」

腰付近に両手を持っていき「かめは○波」的に構えている。
そして、続く光景は色々常軌を逸していた。

「波!!!!」
『わきゃぁぁあぁぁぁぁぁ!?』

諸手で放つ熊手打ち、それと共に大気が破裂し『ドッパァン』と言う音が轟く。
それを受けて吹っ飛ぶティアナやスバル、エリオにキャロ。
もちろん、兼一自身は4人に指一本触れていない。

何ともまぁ、非常識と言う言葉を使う気すら失せる光景である。
周りを見れば、何をしているのかと不思議そうにしていた見物人(主にヴァイスやリインなど)が、「なんじゃこりゃぁ!?」「か○はめ波ですぅ!?」と叫び、いい感じに場は阿鼻叫喚と化していた。
それを見て、どこか苦悶に満ちた表情を浮かべるヴィータとシグナム。

「おい、なんか出たぞ……」
「達人の技は、ついに『波』をも可能にしたか……」
「い、いや、落ち着け。おそらく、拳圧の風と気当たりだろう」

まぁ、どちらにせよ人が吹っ飛んでいる事に違いはないが。
無敵超人が誇る超技百八つの一つ、必殺技ならぬ否殺技「梁山波(りょうざんぱ)」。
拳圧によって生じた突風と気当たりによって、遠く離れた多数の敵を圧倒する技。
指一本触れていないので、精々転倒程度の怪我しかしない優れモノである。
気当たりを受け流す訓練をした者には通じないが、そうでない相手には非常に有効な技だ。

ちなみに、何故「睨み倒し」ではなく「梁山波」なのかと言うと、睨み倒しで制圧するのは色々とショックが大きそうと言う配慮である。あまり差がある様には思えないが。
で、それをやった張本人はと言うと。
なにやらどこか満足げに微笑みを浮かべ、感心したようにしきりにうなずいている。

「いやぁ、成長したね。修業を始めた頃に比べたら見違えたよ」
「ど、どうも」
「……」

兼一の視線の先にいるのは、なんとか踏みとどまったと言う様子のギンガとコルト。
二人とも膝が笑ってはいるが、倒れる事もしゃがみこむことない。

「じゃあ、次は全力で……」
「え、ちょ…待っ!?」

どうやら、アレでもまだ加減していたらしい。
ギンガとしては今でも一杯一杯なので、なんとか師を止めようと声を上げる。
しかし、それを最後まで言い切る前に、隣に立つ男の声が耳に入る。

「なんだ、やめるのかナカジマ陸曹。お、俺はまだまだ余裕だぞ」

やや声が震えている気がするのは気のせいか。
だが、どちらにせよそんな事を言われては黙っていられない。
どこかから「カッチーン!」という澄んだ音が漏れ、ギンガの額に青筋が浮かぶ。
安い挑発だとは分かっているのだが、ここで引き下がっては女が廃る。

「師匠!」
「え、なに?」
「どうぞ、思いっきりやってください!!」
「え? いいの?」
「はい、ドンと来いです!!」

最早引き返せない現実に震えるギンガだが、それはコルトも同じ事。
こいつより先に屈してなるものかと、チキンレース染みた意地の張り合いが続くのだった。






あとがき

はい、ちょっとばかしお久しぶりです。思いの外出来上がるまで時間がかかってしまいました。
出来はみなさんに評価してもらうとして、なんとか兼一とザフィーラの試合も一段落。
次に日常編っぽいのをやって、それから最初の事件を予定

ちなみに、ザフィーラの使用魔法などについては、Battle of Acesを参考にしております。



[25730] BATTLE 20「機動六課の穏やかな一日」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/09/07 23:49

カーテンの隙間から刺し込む陽光。
それを受けて、布に包まった小さな固まりが動く。

「んに…? ふわぁ~」

目を覚ますと、そこにはだいぶ見慣れてきた二段ベッドの二段目の底があった。
もぞもぞとベッドから抜けだし、なにとはなしに時計を確認する。

白浜翔の朝は早い。
というか、基本的に老人と子どもの朝は大概早い。

だが、翔に割り当てられたベッドには、寝る時まで傍にいてくれた人物の姿はない。
大方、気配を消してこっそり抜け出したのだろう。
一抹の寂しさもないと言えば嘘になるが、いい加減慣れた。

周りからは「子どもの内はしっかり寝ておきなさい」と言われてもいる。
しかし、その手の事を言われる度に、翔は「ム~ッ」と剥れるのだが。
そのため、目下彼の一番の願いは「早く大きくなりたい」だったりする。

そんな彼が朝起きて最初にする事は、顔を洗う事でも着替える事でもない。ましてや鍛錬などもってのほか。
翔は壁際にある日当たりの良い棚の前に立ち、一枚の写真立てに手を合わせて呟く。

「おはようございます、母様」

会った事もない、想い出すらない母への挨拶。
別に父からそうする様に言われたわけではない。
ただ、父がしている所を見てマネするうちに身についた習慣だった。
だがそれでも、これこそが母を知らない翔にとって、唯一と言っていい母との時間なのかもしれない。
まぁ、まだ幼い彼にそんな自覚があるのかは定かではないが。

その後、二段ベッドの上に眠るエリオを起こし、身支度を整えた二人はエントランスへと移る。
特別なもののない、当たり前になりつつ朝だ。
二人はそのまま一端玄関を出ると、それぞれジョウロを持って水を汲みに行く。

機動六課は託児所でもなければ保育園でもないし、当然福祉施設でもない。
そのため、本来一般の子どもでしかない翔がいるのは色々と問題がある。
だが、さすがに就学年齢にも達していない子どもを親元から話すのは忍びない。と言う事で、部隊長のはやてが「どうせ一人しかいないから」と、いくつかの条件の下で大目に見てくれているのだ。

とはいえ、日中は仕事があってあまりかまってはいられないし、そうなると翔の行き場がない。
そこで兼一が考えたのが、翔にもその仕事を手伝わせることだった。
まぁそうは言っても、そう難しい事をさせているわけではない。
それは花壇への水やりであり、雑草取りであり、そう言った極々簡単な仕事。

気付けば翔が担当する花壇が決まり、そこに水やりをするのが朝の日課となっていた。
エリオが一緒なのは、朝の訓練までまだ時間もあって弟分が心配だからだろう。

「じゃ、こっちは僕がやるから翔はそっちね」
「はーい♪」

というか、いつの間にかエリオの花壇まで決まっていたりするのは何故なのか。
まぁ、本人が割と楽しんでいるようなので問題はないのだが。
そこへ、二人にやや遅れてスバルにティアナ、さらにキャロとフリードが玄関から出てくる。

「あ、二人ともやってるねぇ~」
「ん? なんだ、アンタ達今朝もやってたの。毎朝毎朝よくやるわねぇ、訓練だってあるってのに」
「おはようエリオ君、翔も」
「「おはようございます」」

エリオはもちろんだが、翔もまたティアナ達とは別に修業しているのはすでに周知の事実。
それもその内容たるや、5歳時にさせるものとは思えないような代物だ。
ティアナが呆れるのも無理からぬことだろう。
アレだけハードにやっていて、なおかつ朝早くから花壇の手入れをしているのだから。

「きゅくる~」
「むふ~、フリードもおはよ~!」
「すっかり仲良しだねぇ」
「下手するとアンタ達より親密なんじゃないの?」
「「あ、あははは……」」

キャロの傍を離れ、翔の頭に抱きつくフリード。翔もそれが嫌ではないらしく、上機嫌に受け止めている。
普通、子どもは動物などに遠慮なくぶつかり過ぎて敬遠されがちになりそうなものなのだが、翔にその様子はない。それが功を奏したようで、フリードは割と翔の頭の上にいる事が多い。居心地が良いのだろうか?
なにはともあれ、両者の仲の良さはパートナーであるキャロから見ても羨ましくなるほどである。

一頻りじゃれ合って満足したのか、翔の頭に乗ってくつろぐフリード。
翔はフリードを落とさないようバランスを取る。

「そう言えば翔、ギン姉は?」

屈んで視線を合わせながら尋ねると、翔は海の方を指さす。
チラリとエリオの方を見れば、そこにあるのは曖昧な苦笑い。
それから一同が翔の指差す方向に視線を向けると、丁度いいタイミングで遥か彼方より切実な叫びが……

「うきゃぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!?」
「さっきあっちから悲鳴が聞こえたよ」
「うん、今聞こえた」

場を満すのは『ああ、またか』と言う諦観。
もうこのパターンにも慣れてきた所だ、一々取り乱していては時間がもったいない。
なので、とりあえずギンガの冥福だけは祈っておく。別に死んだわけではないのだが。

「じゃあ、アヴェニス一士は?」
「? ……ん~ん」

続くキャロの問いに、翔は首を傾げて「わからない」と意思表示。
面識のあったスバルとティアナ、あるいは同室のエリオやそこから派生するキャロなどに比べ、翔とコルトに繋がりは薄い。元々人付き合いが悪い上、子ども嫌いなのか一目見ると方向転換してしまうのも原因だろう。
そのため翔からすると、コルトは「時々見かける、みんなと一緒にいる人」くらいの認識だ。

「別にいいでしょ。まだ部屋で寝てるか、どうせ一人で勝手にやってるんだから」
「まぁ、そうなんだろうけど……」

ティアナのだいぶ刺々しい物言いに、スバルはやや首をすくめながらその表情をうかがう。
そこには、不機嫌と言うにはいささか険しい表情が浮かんでいた。

「なによ?」
「えっと、ティアってコルトさんの事、嫌い…なの?」
「少なくとも、好意を持てる事はしてないでしょ」
「その、まぁ……」

実際、コルトは徹底的に六課メンバーと距離を置きたがり、交流らしき交流はない。
食事も一人でとるし、事務処理や訓練も黙々とこなす。
そんなわけで滅多に話もしないし、しても事務的な話で終始する。
なのはなどは雑談などを通して打ち解けようとするも、適当に理由をつけて逃げられてしまうのでそれもかなわない。そのため、彼と会話らしきものをできるのは、シグナムとギンガ、あとは兼一くらいと言う有様だ

ただ、それだけなら「好きでも嫌いでもない」というのが妥当だろう。
事実、六課内でも今のところはそんな風に見られている。
なのに、ティアナの言動や表情からは敵意と言うほどではないにしても、似たような感情が見て取れた。
まさか、「地上本部からのスパイ」と言う冗談を本気にしているのだろうか、と思う位に。
だが、それを確かめる前に皆の背後から声が掛かる。

「よぉ、今日も元気か新人ども」
「あ、ヴァイス陸曹」
『おはようございます』
「おう、おはようさん。チビ竜とチビ助もな」

言いながら、少々乱暴に翔の肩を叩く。
が、面白くないのは「チビ」と呼ばれた翔である。

「きゅく~」
「うん、ヴァイスおじさ……」
「お兄さんだ」
「おじ……」
「お兄さんだ」
「お……」
「お兄さん、だよな?」

いっそ大人げない程に言い募るヴァイス。
まぁ、二十代でおじさん呼ばわりされたくないのはわかるが、正直これはどうか。
とそこで、一連のやり取りを見ていたエリオが疑問を口にする。

「そういえば、ヴァイス陸曹っておいくつなんですか?」
「あん? ああ、二十……」

そこまで言った所で、突然黙りこむヴァイス。
何やら思案するようにぶつぶつと呟いていたかと思うと、殊更に爽やかな笑顔を浮かべてこう言った。

「永遠の18歳だ!!」

わざとらしく白い歯を輝かせ、サムズアップするアホが一人。
付き合いの良いスバルはそれに曖昧な笑みを浮かべるが、その相方はそこまで優しくない。
極寒にも等しい白い目で見やり、冷酷な言葉を紡ぐ。

「なに痛い事言ってるんですか?」
「く、冗談のわからねぇ奴め……」
「冗談にしてももっと何かないんですか?」
「チクショウ! 見るな、そんな目で俺を見るな!!」
「だったら言わなきゃいいじゃないですか」
「ああ、たった今激しく後悔してる所だよ!!」

軽い冗談で言ったつもりの一言で、まさかここまで軽蔑されるとは思っていなかったのだろう。
不可視の刃と化した視線から逃れる様に、ティアナに背を向けるヴァイス。
しかし、そんなやり取りも長くは続かない。

「え? ヴァイス陸曹って18歳なんですか!?」
「なのはさん達より若かったんですね。あ、いえ、別に老けてるとかそういう事じゃなくて……」
「ふぇ~」
「きゅく~」
「いや、そんなマジに取られても困るんだけどよ」
「どうするんですか? いたいけな子どもをだまして……」
「お、俺だってこんな真面目に信じるとは思わなかったんだって!?」
「そんなつもりじゃなかった、犯罪者の常套句ですよね。恥ずかしくないんですか?」
「お前俺になんか恨みでもあんのか!?」

まぁ、ここまでネチネチとやってくれれば、それはそれである意味付き合いが良いと言えるかもしれない。
ティアナとて、別段ヴァイスに思う所があるわけではなく、単に先の冗談に付き合っているだけだ。
少々悪乗りしている感は否めないが……。

とはいえ、当のヴァイスからするとちょっとした冗談であまりイジメてほしくはない。
なんとか話を逸らそうと忙しなく視線を動かし、彼は花壇の一角に目をとめた。

「ん? チビ助、そういやそいつ少しは大きくなったのか?」

そう言ってヴァイスが指差したのは、周りに比べて著しく成長の遅い芽。
他はどんどん伸びているのに、それだけが「ポツン」と取り残されている。

「ユキダルマキング?」
「そうそう、そいつ」
「ん~ん、全然おっきくならないの」

父からは、「僕は手を出さないから、小まめに手入れをしてあげなさい」「それと毎日必ず様子を報告する事」と言われていた。どんな意図があるかまでは分からないが、翔はその言葉に従い甲斐甲斐しく世話をしている。
しかしその甲斐もなく、ユキダルマキング(地球産洋ランの一種)に目立った変化は見られない。
そのため、正直少しばかり「他のと植え替えた方が良いんじゃないかな?」と思いだしている今日この頃である。
まぁ、子どもと言うものは大概せっかちなので、仕方がないと言えば仕方がないのだが。

ただ、これは兼一なりの情操教育と心の修業を兼ねたものなのだが、その意図に気付いた者は今のところいない。
だからだろう、思わずこんな言葉が零れてしまったのは。

「どこの世界にもいるのかもね、いくら手をかけても思う様に成長しない奴って……」
「え? ティア、何か言った?」

間近にいたスバルでも聞き取れない程に微かな呟き。
その内容を確認しようとするも、ティアナはそれに答えることなく足を進めていた。

「別に。ほら、早くいかないと遅刻するわよ」
「う、うん!」

どこか引っかかるものを感じつつも、ティアナの後を追うスバル。
普段とどこか様子の違う二人にエリオとキャロは首を傾げるが、時間が差し迫っているのも事実。
とりあえずスバル同様、疑問はいったん棚上げにして頭の片隅へと追いやることとなる。

「ほれ、おめぇらも早く行きな。
なのはさんやフェイトさんは滅多に怒らねぇけど、ヴィータ副隊長やシグナム姐さんにばれたら怖ぇぞぉ」
「はい! 行こ、エリオ君」
「うん。じゃあ翔、行ってくるね」
「ん、いってらっしゃ~い!」
「んじゃ、俺はのんびり行くとしますかね」

元気よく手を振りながら皆の背を見送る翔と彼に手を振り返すエリオとキャロ、それにスバル。
そんな彼らの姿を、エントランスの掃除をしているアイナが微笑ましそうに見守っていた。



BATTLE 20「機動六課の穏やかな一日」



場所は変わって食堂。
時刻は七時を回り、今がまさに書き入れ時。
早朝の訓練を終えたフォワード陣をはじめとする職員達で賑わっている。
その中には無論、白浜親子も含まれていた。

「いやぁ、それにしてもみんな……………………………良く食べるよねぇ」
「おお~~~♪」

苦笑いを浮かべる父と、瞳を輝かせながら目を見張る子。
そんな親子の視線の先には、うず高く盛られたピラフの山。
明らかに十人前を超える量を誇るその山が、合わせて三つ。
今から大食い大会か宴会でも開くのかと思うような光景だが、それは違う。

なんと、この山一つで一人分なのである。
ではそれを貪っているのは、力士の様な巨漢なのかと言えば、これまた違う。
それどころか、この山を切り崩しせっせと胃に修めているのは小柄な少年と細身の美少女姉妹だった。

「え~そうかな~、これ位普通だよね?」
「はい、いつも僕はこれ位ですけど?」

揃って首を傾げるスバルとエリオ。二人からすればそうなのかもしれないが、断じて「普通」ではない。
そんな事は周囲から向けられる視線からわかりそうなものだが、どうやら気付いていないらしい。
なにしろ、指摘されてもなお二人の食のペースに衰えがみられない。実に『ガツガツ』と言う表現がよく似合う。

まぁあれだ、まだまだ二人揃って色気より食い気なのだろう。
十歳のエリオは仕方ないが、自分の相棒はいい加減その辺りを自覚すべきだとティアナは思う。

「アンタねぇ…頭は花畑でも見た目は良いんだから、少しは体裁ってものを考えなさいよ。
 いつまでも『残念美人』のままでいいと思ってんの?」
「? とりあえず、なんか酷い事を言われたのはわかった」
「はぁ~、まったく……」

残念美人、それは訓練校時代から影で囁かれてきた別称だ。
顔よし、スタイルよし、気立てよし、成績よしと、およそ欠点らしい欠点のないスバル。
その為彼女に好意を寄せる男は決して少なくなかったのだが、未だかつて告白に踏み切った者はいなかった。

無理もない。外見と中身は良いのだが、如何せん問題なのはその食欲。
どれだけ彼女に熱を入れた男でも、彼女の食事風景を見ればその淡い気持ちを断念してしまう。
早い話が夢とか幻想とかが纏めて瓦解し、ドン引きしてしまうのである。
丁度、今まさに何とも言えない表情のキャロの様に。

「み、みなさんすごく……いえ、かなり召し上がりますよね」
「別に食べるな、何て言わないけど、少しはギンガさんを見習いなさいよね」

前衛組のカロリー消費が激しい事はティアナも承知しているので、別にそこまで無体な事を言う気はない。
スバルとは数年の付き合いになるが、腹部などの肉付きに変化がない所を見ると、一応摂取と消費のバランスは取れているらしい。
とはいえ、もう子どもではないのだからあまりがっつくものではないとも思う。
食べるにしても、せめて今も楚々とした所作で食べるギンガを見習ってほしい。

(そう言えばギンガさん、何か前より綺麗になったと言うか……)

以前から美人ではあったのだが、それに磨きがかかったように思う。
化粧や服飾に変化があったわけではないが、些細な表情や仕草にそれを感じていた。
例えばそう、静々とおしとやかに食事を口へ運ぶ様子などは、以前よりも洗練されている。
それはまるで、誰かに見られている事を強く意識している様な……。
まぁだからと言って、相変わらず人並み外れて食べていることに変わりはないのだが。
ただ、それと同域の食事量の人間からすると、見え方もまた違ってくる。

「そう言えばギン姉、最近あんまり食べないよね?」
「ああ、うん。そうね、ちょっと減ってるかも……」
「「それでですか!?」」

大声と、一気に立ち上がった反動で倒れた椅子がけたたましい音を立てる。
その様子に、周囲からは「なんだ、なんだ?」と奇異の視線が集中した。
冷静さを取り戻した二人は顔を真っ赤にしながら椅子を戻し、そこに座り直す。

だがやはり、ティアナやキャロからすると二人の食事量に大差はないように見える。
しかし、当の本人達からすると差を感じるらしい。

「具合でも悪いんですか? ちゃんと食べないと身体が持ちませんよ?
 特にギンガさんは兼一さんの……」
「具合…というか、体調は悪くないわ。むしろ、良いぐらいだと思う。
 食欲もあるんだけど、以前ほど食べようって気にならないのよね」

以前であれば「物足りない」と思ったであろう食事量。
だが、今はそれで充分満腹になるし、普段の生活や訓練でも特に不都合は感じない。
それどころか、ここ数カ月は非常に体調が良い位だった。その事に関して、思い当たる節があるとすれば……

「一応師匠からは軽い食事制限はされてるけど……」
「え? そうなの?」
「うん。って言っても、栄養バランスの指示がある位よ。
 アレは食べるなとか間食禁止とか、あとは食べ過ぎるなって言うのもないし」
「そう言えば、兼一さんもスバル達と違って食べる量は私やキャロより少し多い位ですよね」

言って、ティアナは兼一や翔の前に並ぶさらに目を移す。
その言葉通り、成人男性としてはやや多め位な程度。

ティアナやキャロ自身、普段の訓練の事もあって割と健啖家だ。
少なくとも、一般人よりは良く食べる。ただ、ギンガ達とは比べ物にならないだけで。

「そうだね。まぁ、僕は割と燃費が良いから」
「そうなんですか?」
「中国拳法だと、内功って言って内臓を鍛える修業は当たり前だしね」
「それって、もしかしてギンガさんもなんですか?」
「うん、後は翔もね」

つまり、ギンガの食事量の変化は修業の成果の一端と言う事なのだろう。
今はまだそれほど顕著ではないが、時間が立てばより燃費が良くなり、必要な摂取量も減るかもしれない。
ただし、当の本人はそんな事までは知らなかったようで……

「い、いつの間に……もしかして、あの薬とかも?」
「それもあるけど、ゲンヤさんの所にいた時は僕が食事担当だったでしょ?」
「まぁ、確かにほとんど師匠任せでしたけど……」

厳密に言うと、兼一が「これからは僕が食事を担当します」と宣言し、すっかり台所を占拠してしまったのだ。
とはいえ、ゲンヤやギンガからすると、忙しい身の上なので有り難くこそあれ、文句を言う理由もなかったのだが。

「中国じゃ『医食同源』なんて言葉もある位だし、身体作りの基本はまず食事と生活習慣。修業は三番目さ。
 まずはそこからしっかりしないと、どんな修業も意味がないよ。むしろ、身体を壊す原因になりかねないし。
 いや、いっそ食事や生活習慣も含めて修業と言うべきかな?」
『はぁ……』

そもそも「医食同源」とは、病気を治療するのも日常の食事をするのも、共に生命を養い健康を保つために欠く事が出来ないもので、源は同じだと言う考えの事を指す。
また、その考えから生まれたのが漢方薬の材料を使った薬膳である。
兼一が提供してきた食事も似た様なもので、薬よりもこちらに重きを置いている位だった。
ちなみに、こっそり調理担当の面々と話を付け、六課の食事も染め上げているのは上層部だけの秘密である。

「まぁとりあえず……病気とかのせいじゃないならいいんじゃない?」
「だね」

医食同源やらなんやらは良く分からないが、健康に問題がないのなら別に良いだろう。
詳しい事は兼一ほどの知識を持たないスバル達にはわからないし、口出ししても仕方がない。
別名、「諦めの境地」。達人と関わっていくためには必須のスキルだが、早くも彼女達は身に付けたようだ。
とそこで、それまで黙っていた翔が兼一の裾を引っ張る。

「ねぇ父様、『いんたーみどるちゃんぴおんしっぷ』ってなに?」
「え?」
「ほら、あれ」

言って指差したのは、食堂に備え付けられたTV。流されているのは朝のニュース番組だ。
ニュースを介した宣伝なのか、何やら熱い口調で「インターミドルの参加申請も来月に迫っており……」だの「今年も白熱した戦いが……」だのと語り合っている。
他にやるものがないのかと思わなくもないが、陰鬱なニュースが多いよりはましだろう。

とはいえ、まだミッドに来て日の浅い兼一にはいったい何の話題なのかよく分からない。
しかし、ミッド暮らし…というか、管理世界出身者たちからするとそうではなかった。

「ああ。もう4月も終わりだし、そんな時期なのよね」
「だねぇ、訓練でバタバタしててすっかり忘れてた♪」

月日が経つのは早いと、若いくせに年よりくさい事を言うスターズコンビ。
まぁ、それだけ密度の濃い時間だったと言う事でもあるのだろうが……。

「私はないんですけど、みなさんは出た事あるんですか?」
「えっと、僕もないかな」
「私はあるけど、スバルとティアナはなかったわよね?」
「うん。私はそもそも魔法を覚えてすぐに訓練校に入っちゃったし」
「訓練校はああいう空気がありますし、その後は災害担当でしたから……」

訓練校の生徒が出場禁止な理由は単純明快、訓練生を出すとメンツにかかわるからだ。
大会と言う開かれた場に出ると言う事は、管理局の看板を背負い、同時に局員の質を示すと言う事になる。
そのため、あまり情けない結果など出されては色々問題が生じてしまう。
例えば犯罪者に舐められて抑止力としての効果が薄まったり、あるいは市民に要らぬ不安を植え付けてしまったりだ。そんなわけで管理局自体は特に出場に制限を設けていないが、それなりに実力と実績がある者でなければ出場できないという風潮がある。
当然、未熟以前の訓練生たちの間では、自分達が出ては不味いという空気が醸成されていた。

まぁ、それなら訓練校を出て、力量に自信がある者なら出てしまえばいい。
とはいえ、犯罪や事件に休日も平日もない以上、大会当日が休日とは限らない。
そのため、配属される部署によっては大会のスケジュールに合わせられない者も多い。
ティアナとスバルに出場経験がないのは、そんな諸々の事情からである。

しかしこうも置いてきぼりにされると、白浜親子としては途方に暮れるしかない。
だがそこで、近くのテーブルで聞き耳を立てていた通称「メカオタ眼鏡」こと、シャーリーが唐突に顔を出す。

「お答えしましょう!!」
「わっ、びっくりした!? どうしたんですか、いきなり大声出して?」
「どうしたの、シャーリーさん?」
「ふっふっふ、迷える子羊を放置していたら、この眼鏡が廃るってなもんですよ。
 その疑問、六課の解説役であるこのシャリオ・フィニーノがズバッと解決しちゃいましょう!!」
「はぁ……」

珍しく出番を捥ぎ取った事が嬉しいのか、テンションがおかしいシャーリー。
というか、いつ解説役などに収まったのだろう。眼鏡キャラだからだろうか?

「インターミドルと言うのはですね、『DSAA(ディメンション・スポーツ・アクティビティ・アソシエイション)公式魔法戦競技会』の事です。
 出場可能年齢、10歳~19歳。個人計測ライフポイントを使用し、限りなく実戦に近いスタイルで行う魔法戦競技。選考会から始まって、『ノービスクラス』『エリートクラス』を経て地区代表を決め、さらに『都市本戦』『都市選抜』、そして『世界代表戦』が行われます。ここまで行って優勝すれば、文句なしの『次元世界最強の10代男子・女子』でしょうね」
「はぁ、さすがというかなんというか…スケールの大きい話ですねぇ」

正直、地球という惑星の極東は日本と言う小さな島国で育った兼一には、あまりにも話が大きすぎて実感がわき難い。精々が、インターハイを全管理世界規模でやってる、位の認識だ。
まぁ、別に間違ってはいないのだが。

「ああ、その、わざわざ説明してもらってちゃってありがとう」
「どういたしまして。それで、もう質問はありませんか? ないようでしたら、私はこれで!」
「? もう行っちゃうの?」
「ふっふっふ、いい翔? 解説が終わったら潔く去る、それが解説役の美学!!」
「ふ~ん」

良く分からないが、何やら変なこだわりがあるらしい。
兼一にもさっぱり理解はできなかったが、颯爽と去っていくシャーリーはどこか生き生きとしている。
たぶん、新島の『悪の美学』と似た様なものなのだろう。

「そう言えば師匠って、そういう大会とか出た事あるんですか?」
「え? あるよ」
「へぇ~…ってあるんですか!?」
「う、うん」

予想以上のギンガの驚き具合に、どこかおずおずとした様子の兼一。
なんだか今日は驚いてばっかりである。
まぁそんな日もあるのだろうが、そこへ騒ぎを聞き付けたヴィータがやってきた。

「ったく、何騒いでんだおめぇらは。別に食事中に話をすんのは良いけどよ、少しは場所を考えろ」
『すみません』

一部の隙もない正論に、兼一をはじめしょんぼりと謝罪する面々。
とはいえ、先ほどの話題に関して、ヴィータもまた全く興味がないわけではない。

「まぁそれはそれとして、なんか面白い話してたよな。白浜がどうとか」
「兼一さんがインターミドルみたいな大会に出た事があると聞いて、その……」
「ああ、みなまで言うな。気持ちは大体分かる。
 しっかし、おめぇみたいのが出て大丈夫だったのかよ?」

どこか言いにくそうにしているティアナの言葉を先取りする形で共感を示すヴィータ。
実際問題として、こんな人外が出ては真っ当な大会なら確実に台無しになってしまう。
兼一とて初めから強かったわけではないにしても、そう言う領域を目指す者と普通の格闘技者では、やはり毛色が違いすぎるのも事実なのだから。
しかし、そこは同類を集めてしまえばクリアできる問題でもある。

「いや、むしろ問題だったのは運営側と言いますか、場外と言いますか……」
「は?」
「ま、まぁインターミドルって言うのと似た様なものですよ。
 二十歳未満の武術家のみで行われる、実戦武術家の登竜門的大会でしたから」

今思えば、後にも先にも兼一が出場した大会などこれだけだった。
只なんと言うか、あまり大きな声で言えない大会だったのも事実。
まさか、「毎年何名か死者が出る」とか、「優勝者には世界的栄光が与えられる、ただし裏の」とかなんて言える筈もなく……

「一応武器の使用はありで、最大五人まで出られるチーム戦でしたね。
 大会って言う括りだと、出場した事のある大会はそれ位ですけど」

『リングで戦った経験』と言う所まで範囲を広げるなら、地下格闘場も含まれるだろう。
ただ、あれは賭け試合と言うあまり褒められたものではないので、あまり公言できるものではない。
特に今の兼一は管理局員、つまり一種の公務員である。
そんな人間が賭け試合に出ていたと言うのは色々と問題なので、口を噤んでおくのが吉だ。

「チーム戦ねぇ…で、結果はどうだったんだ? やっぱり余裕で優勝か?」
「いえ、全然余裕なんてありませんでしたけど……一応は」
「ま、順当な所だろうな」
(むしろ、死んでてもおかしくないんだよね、僕)

実際、あの大会中に何度命の危機に晒された事やら。
1回戦もそうだったが、特に2回戦と決勝がヤバかった。
その上、三度に及ぶ命懸けの戦いを僅か二日の間に行うという強行軍。
ついでに言うなら、試合以外の場でも色々ヤバかったりした。
はっきり言って、インターミドルの平和さがうらやまし過ぎる、そんな大会だったのである。

「っと、そろそろ時間もヤべぇな。あたしはもう行くけど、あんまりのんびりしてんなよ」
『あ、はい!』

そうして結局、あまり詳しい事を離す事もなくその場は解散と相成った。
エリオやスバル、それにギンガ辺りは非常に話の続きが気になる様だったが、兼一としては話したものかどうか悩む。色々と、デリケートな部分もあるだけに。



  *  *  *  *  *



燦々と照りつける太陽の下で行われるそれは、ある意味で実に対照的な光景だった。
地面に付き立つ二本の柱。それに向けて、大小二つの影が突きや蹴りを打ちこんでいる。

「せいっ!!」
「せい!」

片や怪獣の行進を思わせる「ゴォンッ!」という重厚な打撃音。
片や聴き手にも清々しさを覚えさせる「パシン」という軽快な打撃音。

「フンッ!!」
「たぁ!」

片や、巨大な鉄骨を撓ませる非常識なまでに重い蹴り。
片や、ごくごく一般的な巻藁を僅かに揺らす軽い蹴り。

「エイッ!!」
「やぁ!」

とはいえ、機動六課に所属する者たちからすれば、それは最早見慣れた光景。
父が子に自身の持つ技術を教えると言う、微笑ましいと言って差し支えない場面である。
ただまぁ、父親のやっている事がやっている事なので、これを見て微笑む事の出来る者は少ないだろうが。

「ハッ!!」
「は!」

本来この時間、兼一は通常の業務をこなしていなければならない。
だが、彼を戦力として数える以上、相応の訓練時間の保証は半ば以上部隊の義務。
というわけで、この時間帯は兼一もまた自身の稽古に集中できる時間なのだ。

ちなみに一番弟子はというと、兼一ではカバーしきれない部分を教わりに行っている。
しかし、兼一の弟子は一人ではないのだ。
故に自身も稽古をする傍ら、もう一人の弟子である息子への指導も怠らない。

「ほら、そんなに突き手の肩を出さない! そんなに出すと、捕られて投げられてしまうよ!」
「う、うん!」
「金的には常に注意を払う! そこに受けたら一巻の終わりだ!」
「はい!」

父からの指摘に威勢良く返事を返す息子。
その顔は実に生き生きとしており、この時間がどれだけ充実しているかを如実に物語っていた。

「精が出るな、白浜」
「あ、ワン君!」
「翔、ちゃんと名前で呼びなさい。失礼だよ」

ザフィーラの外見上仕方のない事かもしれないが、人語によるコミュニケーションのできる相手にそれはどうか。
なにより、翔とザフィーラでは色々と年季が違う。
親しくするのは良いが、あまり馴れ馴れしい態度でも礼を失するだろうという配慮であった。

「あ、はい……」
「あまり気にするな。まぁ、確かにその呼び名は勘弁してもらいたいところではあるが」
「どうもすいません。ところで、こちらには何が御用でも?」
「なに、単なる見回りだ。心地よい響きが聞こえてな、少し寄ってみたに過ぎん」
「そうでしたか。どうです、ザフィーラさんもご一緒に」
「ふむ……」

望外の提案に思案にふけるザフィーラ。
折角の親子の時間を邪魔しては悪いと思うのだが、同時にその提案には心惹かれるものがある。
実際、この三人で並んで巻藁を突くと言うのは、決して珍しい光景ではない。
あの模擬戦以来打ち溶けたらしく、翔を抜きにしてもこの二人で意見をぶつけ合う事は多い。
ザフィーラは優れた使い手からの意見を聴けるし、兼一も優れた魔法の使い手からの意見を聴ける。
どちらにとっても非常に有益かつ有意義な関係が、自然と出来上がっていた。

「そうだな…折角だ、好意に甘えさせてもらおう」
「そうですか。それじゃ……」

言って、今度はザフィーラの分の巻藁(鉄骨)を取りに行こうとする兼一。
だが、そんな兼一にザフィーラが待ったをかける。

「いや、道具の用意くらい自分でやる。お前達はそのまま続けてくれ」
「え、でも……」
「まったく、どうもお前は人が好過ぎるな。少しは他人にやらせる事を覚えてはどうだ?」
「あ、あははは、どうもそう言うのは苦手で……」
「まぁ、それがお前の美徳と言えば美徳なのだがな」

その性格も相まって、兼一は他人に支持を出すのを苦手としている。
修業ならばある程度メリハリがつくのだが、そこから一歩外れると中々上手くいかない。
なんというか、「自分がやればいいのだから」とつい考えてしまうのだ。

「そう言えば、先ほど向こうの様子も見てきたが、また無茶な事をさせているな」
「そうですかね?」

人型になって鉄骨を運ぶザフィーラと、相変わらず巻藁を突く兼一。
翔は大人同士の難しい会話には入っていけないながら、巻藁を突きながらその話を聞く。

「まったく、目隠しをした状態で誘導弾を避け続けろとは、どう考えても無茶だろう」

制空圏か、あるいは空気の流れを肌で感じる修業なのか。
いずれにしろ、無茶であることは事実。
なのは達の能力を信用しているにしても、それは変わらない。
ただし、兼一からするとこの程度の無茶は序の口だったりするわけで。

「でも、僕が若い頃は光の入らない地下に三日ほど監禁されましたけど?」
「む……」
「常にあらゆる方向から攻撃されるように機械が仕組まれてましたし、師匠達もしょっちゅう『食事だぞ~』って嘘言って襲って来たりしたものですが……」
「それは犯罪の域だ」

溜め息交じりに頭を抑えるザフィーラ。
いい加減慣れたつもりだったが、兼一の師匠達の無茶さ加減は兼一を一回り以上上回るのだ。
とそこへ、何やら軽い足取りで誰かがやってくるのを二人は感じ取った。

「誰か来るな。これは……」
「ああ、エリオ君ですね」

まだ視界にも収めていないと言うのに、いったいどれだけ鋭敏な感覚をしているのやら。
で、待つこと数秒。先の兼一の予告通り、やってきたのはエリオだった。

「兼一さん、ちょっと良いですか?」
「やぁ、どうしたんだい、そんなに急いで」
「その、ちょっと兼一さんに相談したい事がありまして」

少々気恥ずかしげにしながらも、自身のデバイスであるストラーダを抱えるエリオ。
その様子からして、内容はおおよそ見当がつく。
ただ、なぜそこで自分なのかが疑問を覚える兼一であった。

「それってやっぱり、槍術の事?」
「あ、はい!」
「でも、それならアヴェニス一士の方がよくないかな? 彼、一応槍術の心得もあるわけだし」
「それが、その…僕もはじめはそのつもりだったんですが……」

答えるエリオの様子はどこかしょんぼりとしており、思うようにいかなかったのは明らか。
大方、これと言ってアドバイスを貰う事も出来ず、追い返されたと言ったところだろう。

「何か言われたりでもした?」
「その…一言『知るか』と」

なんともまぁ、実にシンプルかつ断定的な拒否表明である。
ここまで来るといっそ清々しくもあるが、当のエリオはそれどころではない。
彼もコルトがそういうタイプだと知ってはいたが、根が真面目な分上手く受け流せなかったのだろう。

「後は黙々と素振りや型の練習をしていて……」

無言の圧力に屈し、その場を後にしたと言うなのだろう
まぁ、無言で不機嫌オーラを撒き散らす男の傍にいにくいのも無理はないか。
兼一としてはその事に若干思う所がないわけではないのだが、とりあえずそれは横に置いておく。

「でもそれなら、シグナムさんかヴィータ副隊長に聞いた方がよくないかな?」
「いえ、そのシグナム副隊長から少し違う視点の人にも聞いてもたらどうか、と」
「ああ、そういうこと」

確かにシグナムの言う通り、兼一とシグナム達では視点がだいぶ異なる。
徒手格闘術の歴史とは、ある意味如何にして武器を制するかの歴史でもあるのだから。

「そう言う事なら……そうだなぁ、これは僕の師匠の受け売りなんだけど」
「はい」
「武器の一つの究極は武器を己の身体の一部にする事、更なる至高は己と武器が一つになる境地。つまり、武器に頼り過ぎちゃいけないって事かな」
「武器を身体の一部にすると言うのはシグナム副隊長からも『基本にして究極だ』って聞きましたけど、頼り過ぎちゃいけないって言うのは……?」
「武器は強力な力だよ。実際、武器を持った人と武器を持たない人なら、基本的に武器を持った人の方が有利だし。武器使いの間でも、素手の武術を軽視する風潮はあるしね」
「はぁ……」

兼一の言わんとしている事がなんとなくわかりかけてくる。
武器使いが武器を使うのは当たり前にしても、武器があるから強いと言う考えになってはいけない。
そういう、心構えについて説いているのだろう。

「でもね、それはある意味武器に依存しているとも言えるんだ。それだと心に隙が生まれてしまう。
武器があると言う自信が過信に、過信が慢心に変わる。これで勝てると思うかい?」
「いいえ」
「そうだね。師匠が常々言っていたよ、武器の主になる前にまず自分の主になれって。これは魔法にも言える事だと僕は思う。だから、まずは自分の主になる為に、自分の事を知ることから始めると良い」

それはつまり、未だエリオはその段階にいると言う事。より実践的な技術よりも、まずそこから。
わかっているつもりだったが、エリオは自分自身の未熟を改めて痛感させられる。

「とはいえ、あまり心構えばっかりでもアレだね。
こんな事はシグナムさん達も口を酸っぱくして言ってるだろうし……」
「いえ、その……」
「エリオ君って結構突きや突進を多用するよね。
 無手の場合なんかはリーチで劣る分どうやって懐に入るかが問題なんだけど、相手が勝手に突っ込んで来てくれるのは有り難いかな。カウンターも取りやすくなるし。
 かと言って、まだ身体の出来てないエリオ君が長柄の武器を振り回すと体が流れやすい」
「はい」
「それなら、その流れを上手く利用することも考えた方が良い。
 力の流し方を身に付ければ、だいぶやりやすくなると思うよ。
 そうだね、具体的には……」

そのまま軽く講釈を始める兼一。
彼自身は武器使いではない。だが、対武器戦の為に武器に関する知識も深く、様々な武器使いと戦った経験がある。それらを利用し、有効と思われる具体的な訓練や注意点を並べているのだ。

実際、長柄の武器は長大な間合いを持って敵を制するのが常道。
今のエリオは体格の小ささと持ち前のスピードもあって、高速の刺突や突進に傾倒しがちである。
それがいけないと断じるわけではないにしても、もう少し薙ぎや払いも用いた方が良いのは事実。
少し機転の効く者なら、狙い球を決めてカウンターを合わせに来る程度は普通にやるだろう。
できるなら、神妙そうな面持ちで自分のアドバイスを聞く少年が命を落とすような事態は、来てほしくない。

「あの、ありがとうございました。その、凄く参考になりました」
「どういたしまして。また何かあったら遠慮なく聞いてくれていいからね。
 僕にできる範囲なら、幾らでも手伝うから」
「はい! ありがとうございます!」

エリオのレベルに合わせてまだあまり高度な事は教えていないが、それでも充足感がえられたのだろう。
来た当初の沈んだ様子はなくなってきている。
だからだろうか、エリオは何かを振り払う様に尋ねてきた。

「あの、兼一さん!」
「ん、どうしたのそんなに緊張して?」
「その僕は…………強く、なれますか?」
「え?」
「大切な、人がいるんです。たくさん心配をかけて、たくさん優しくしてもらって……今の僕がいるのは、その人のおかげなんです。だから今度は、僕がその人を助けられるようになりたくて。
 いえ、その人だけじゃなくて……」

『周りにいる、大切な人達を守れるように強くなりたい』と、エリオは噛みしめる様にして語る。
同時に、『でも今の僕は自分の身を守れるかどうかすらわからない程弱いから』という思いが、その眼の奥に見て取れた。
強くなりたいと言う思い、だけど弱い自分と言う現実。その板挟みに合い、彼は今揺れているのだろう。
そんな悩める若人に対し、兼一が見せた反応は……

「ぷ、ぷくくく…ご、ごめん、ね…ちょっと、笑いが……」
「わ、笑わなくたっていいじゃないですか! そりゃ、身の程知らずだと思いますけど……」

必死に笑いを堪える兼一と、それを見てあからさまに落ち込むエリオ。
だが兼一が笑っているのは、別にエリオの願いが達成不可能と思うからではない。

「いや、ごめんごめん。ほら、そんなに怒らないで……」
「怒ってませんよ」
「だからごめんね。何ていうか、ちょっと懐かしくてさ」
「え? 懐かしい、ですか?」
「うん。僕もね、若い頃にずいぶん悩んだものだよ」

それは嘘偽りのない、白浜兼一の本心。
彼からすれば、先のエリオの告白は酷く懐かしいものだ。
良く似た事を、かつて兼一も師に相談した事があった。
あの時逆鬼は爆笑したが、今ならその気持ちが分かる。

「誰かを守るっていうのは、とても難しい事だ。
 その人を守るのもそうだけど、それで自分が死んだら意味がない。それは、自分の死を大切な人に背負わせるって言う事だからね。守ると口にする人は、自分の事もちゃんと守らないといけないんだ」
「僕は、なれるでしょうか。大切な人を守って、自分も守れるように」

歩んできた道のりの遠さを感じさせる、しみじみとした懐古。
それがどれだけ長く、困難で、険しい道のりだったのかはエリオにもわからない。
だが、兼一がそうであると言うのなら、自分もそうで在りたいと思う。
だからこそ尋ねた『なれるだろうか』と言う問いに、兼一はこう答えた。

「さあ?」
「さ、さあって!? ちょっと、真面目に答えてくださいよ!」
「でもねぇ、こういうのはやり続ければできるようになる、って言うものでもないし」
「そ、それは……」
「例え一生を捧げてもできないかもしれない。これはそういう道だよ」

冷徹かもしれないが、兼一の言っている事は紛れもない事実だ。
強く願えば願いがかなうとは限らない。諦めなければ夢が実現するかもわからない。
しかし……

「やってできるかは分からないけど、やらなければ可能性はゼロだ。
 未来のことなんてわからないし、才能は成功を約束してはくれないよ。
逆に言えばその夢が、願いがかなわないとも言いきれないんだけどね」
「……」
「エリオ君、君は大切な人を守れる自分になりたいんだろう?
 それは、できると思うからやるのかい?」

ある意味それは、本質であり根幹を突いた指摘だったかもしれない。
できるからやるのか、それはつまりできないのならやらないと言う事。
エリオの願いがそういう類のものなのかと問われれば……

「…………違います! できるとかできないとかじゃなくて、ただ…力になりたいんです。
 僕じゃたいして力になれないかもしれないけど、それでも……!!」
「なら、それでいいじゃないか」
「え?」
「この世に『できる』も『できない』もないよ。正しくは、『出来た』と『出来なかった』だ。
 そして、それをはっきりさせる方法は一つ。やって…やり切る、それだけ」

それは、白浜兼一と言う男の生き様そのものだったのかもしれない。
本来、「できる」「できない」で言えば、彼は大抵の物事において「できない」側の人間だ。
にもかかわらず、彼はやって…やり切り、その果てに達人へと至った。
才能は成功を約束してはくれないが、非才は失敗の決定打にはならない。
それを、白浜兼一と言う男は誰よりもよく知っていた。

「できるかどうか、兼一さんにもわからないんですよね」
「うん」
「できないかどうかも、わからないんですよね」
「そうだね。それを決めていいのは、多分…本当に努力した人だけなんじゃないかな」
「……………………酷いですよ兼一さん。そんな事言われちゃったら、やるしかないじゃないですか」

どこか憑き物が落ちた様に、晴れ晴れとしたと言うよりも肩の力が抜けた様子のエリオ。
それは諦めたと言うよりも、できるかできないかで悩んでいる自分がバカバカしくなったから。
兼一の言う通り、幾ら悩んだ所で答えなど出ない。
この命題に関しては、答えとは出すものではなく作るもの。
頭の中で思考していては決して形にならないそれは、まず一歩を踏み出すことが肝要。
その果てに振り返った道程こそが、彼の求める答えなのだから。
逆鬼の様に上手くやれたかは分からないが、少しでもエリオの重荷を軽く出来た事に兼一もまた安堵する。

「あ、それと」
「え?」
「折角だし、もう一度アヴェニス一士の所に行ってみたらどうかな」
「でも、あまりお邪魔になっても……」
「見る事も修行だよ。杖術と槍術にはつながるものもあるし、見るだけでも得る物はある筈さ。
 アヴェニス一士も、別に『見るな』とは言わなかったんでしょ? 邪魔にならない様に見ていれば問題ないよ」
「は、はい……」

そうして、エリオは少し怪訝そうな面持ちで戻って行った。
その様子を見送ってすぐ、ザフィーラは少々心配そうな声音で兼一に問う。

「大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「アヴェニスの事だ。アレは気難しいと言うのとはタイプが違うぞ」
「そうですね。彼、どちらかと言うと不器用で口下手なだけの様ですから」

兼一のその言葉に、ザフィーラは少し信じられない様な顔をする。
何と言うか、あながち間違ってもいないとは思うのだが、そんな可愛らしい表現で済ませても良いのだろうか。
そんな心情が、その表情から見てとれる。

「でも彼、最初にエリオ君が話を聞きに行った時、突っぱねてすぐに練習を始めたって言ってましたよね」
「ああ、そう言っていたな」
「それってつまり、『口ではうまく言えないから見て参考にしろ』って事じゃないですかね?」

確かにその様な解釈の余地はある。
正直、コルトのあの性格を考えると善意に解釈し過ぎではないかと、ザフィーラは思うのだが……。

「まぁ、そう解釈できなくもないが、そうなのか?」
「どうでしょうね。ただ僕は、そんな気がするんですけど」
「お前は、つくづく人が好過ぎる」
「かもしれません。でも、一応根拠の様なものはあるんですよ」

そうして兼一は数日前の出来事を思い出す。
ある日の深夜。如何に一定時間の訓練を保証されているとはいえ、仕事や弟子達の指導もあっては「満足に」とは言い難い。そこで、皆が寝静まった頃に密かに修業しようと表に出てきた時の事。
そこには先客がおり、その様子を鋭敏な語感が捉えてしまった。

《まったく、サーはいつになったらまともな敬語を話せる様になるのでしょうね?
 仮にもマスターの弟子なのですから、あまり無礼が過ぎるとマスターの沽券にかかわると言うのに……》
「クソババァの沽券なんぞ知ったこっちゃねぇが……一応は努力してるぞ」

まぁ確かに、言い間違いは多々あれど、なんとか敬語らしきものを使おうとしている様子は見られる。
それを努力と評するのなら、全くしていないとは言えないかもしれない。
ただ、コルトとの付き合いも長いウィンダムからすると、そんなのは笑止千万なのだが。

《……》
「なにか言いたい事でもあるのか」
《いえ、これはまたしょうもないウソをつくなと……》
「あん?」
《サーは昔から変な所で義理堅いですからね。大方、最後までマスターに反発していた手前、他の方に大人しく敬語を使うわけにはいかないとでも思っているのでしょう》
「んなわけあるか。確かにババァが死ぬまで敬語なんぞ使わなかったが、これはその時の癖だ」
《まあ、そう言う事にしておきましょう》

コルトの言い分としては「師を相手にタメ口でばかり話していたので、目上の相手に対して条件反射的に同様のしゃべりになってしまうのを、辛うじて直している」と言う事らしい。
何ともまぁ……よくもこんな拙い言い訳で自分を騙せるものである。

「とまぁ、こんな事がありまして……」
「素直になる機会を逸した子ども、か。確かに、不器用ではある」
「でしょう?」
「だが、だからと言ってお前の推測が正しいとは限らんぞ。
 エリオがまた追い返された時はどうするつもりなのだ?」
「まぁ、その時はその時と言う事で」

速い話、成り行きに任せてみようと言う事だろう。
そんな感じでどこまでも悠長な兼一に、ザフィーラとしては天を仰いで呆れるしかないのであった。



  *  *  *  *  *



時刻は三時過ぎ。場所は怪我人病人でも来ない限り、基本的には割と暇な医務室。
まぁ、医務室が盛況と言うのも、それはそれで不景気な話なのだが。
そんなわけでこの部屋の主の立場からすると、暇を持て余すと言うのはとりあえず平和の証拠だったりする。

が、だからと言って暇で暇で仕方ないと言うのも困りものだ。
暇だからと言って部屋を空けるわけにはいかず、かと言ってTVを見て食っちゃ寝していると言うのも、なんと言うか体裁が悪い。
速い話、持て余すほどに暇な癖に、その暇を消化する方法がほとんどないのだ。
そう、普段であれば。

室内を満たすのは、弛緩とはまた違うどこか穏やかな空気。
シャカシャカと言う小気味よい撹拌音をBGMに、2名の男女が何故かある畳に正座して座っている。

そして、一人の男が竹製の泡だて器(正式には茶筅)で黒塗りの陶器の椀の中身をかき回す。
間もなくそれを終えた男は、どこか恭しい所作でその椀を差し出した。
受け取った女性は無言のままそれに口を付け、一口含んで喉を鳴らして一言。

「はぁ~、和みますねぇ」
「そうですねぇ」

さながら縁側で日向ぼっこするネコの如く、目を細めて和む二人。
その空気は、まるで集会所に集うご老人の様。
ちなみに、男性の傍らでは一人の幼児が文字通りネコのように丸くなって昼寝の真っ最中。

「すみませんシャマル先生、お布団お借りしちゃって」
「いえいえ、子どもは食べて寝て遊ぶのが仕事ですから。
 私こそ、すっかりごちそうになっちゃって。っと、結構なお手前でした」
「お粗末さまです」

椀を下ろし、丁寧に頭を下げるシャマルと返礼する兼一。
基本的に両者とものほほんとした穏やかな気性な為、実にそう言った所作が良く似合う。

「でも、ちょっと驚きました」
「何がですか?」
「兼一さん、武術だけじゃなくてお茶の心得もおありなんですもの」
「あははは、師匠の一人がお茶も嗜んでいまして、その影響ですよ」

お茶と言っても、別に日本茶や紅茶の事ではない。
二人が飲んでいるのは抹茶、つまりこれは一応茶道の形式に則ったお茶会なのだ。
まぁ、参加者は僅か二名だが。
ちなみに、兼一は割と本格的にお茶の修業をさせられた事もあるのだが、余談である。
さらに余談だが、茶道の心得の事を「茶気」と呼んだりする。

「ですけど、よく茶器なんてお持ちでしたね。今時、一般家庭で持ってる所なんてほとんどありませんよ」
「以前から興味はあったんですがその事を桃子さんが覚えていらして、古い一式をいただいたんです。
でも、忙しくてなかなか……」
「そうでしたか。ですが、桃子さんからいただいた茶器で僕がお茶を点てると言うのも、なんだか不思議な縁を感じますねぇ」
「ほんとうに……」

この二人の間だけ、時間の流れ方が違う。
何と言うか、ひどくゆっくりしているのだ。時計の秒針が刻む「チッチッチ」と言う音ですら、どこかこの雰囲気を強めるアクセントと化している程に。

「あの、兼一さん?」
「はい?」
「もしご迷惑じゃなければ、お時間がある時にでもお茶を教えていただけませんか?
 折角の道具を眠らせておくのも、可哀そうですし」
「まぁ、僕でよければ……」
「お願いしますね、“先生”」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

冗談めかすシャマルに対し、困ったような表情を浮かべながらも笑顔の兼一。
まぁ先生は言いすぎにしても、そう言われて悪い気はしないのだろう。

「でも、やっぱり正式にやるとなるとだいぶ違うんですよね?」
「ええ、今日のは略式なんてものじゃありませんでしたから。
まぁ僕としては、あまり肩肘張らずに楽しむ事が一番だと思うんですけど……」

とそこで、密室である筈の医務室に風が吹き抜ける。
二人は揃ってそちらに顔を向けると、そこにはどこか具合の悪そうな女性局員に肩を貸すギンガの姿。
ただ心なしか、僅かにギンガの目つきと声音に険が籠っている気がするのだが……。

「何やってるんですか師匠、シャマル先生も」
「ええと、お茶…かな?」
「そんな事は見ればわかります!」
「そ、そう……」

ギンガが不機嫌なのはわかるのだが、その原因がわからない。
もしかすると、本人もよく分かっていないかもしれない。
言えるのは、その妙な迫力に兼一が気圧されていると言う事だけ。
しかし、いつまでもそんな問答をしていては埒が明かない。

「それでギンガ、いったいどうしたの?」
「あ、ちょっとアルトが気分が悪いそうで……」
「ぁぅ~」
「あらあら……悪いんだけど、ベッドに運んでもらえる?」
「はい」

ギンガに頼んでアルトを運んでもらい、シャマルはその間に診察の準備を始める。
また、診察となると服を肌蹴たりすることもあるので、さっさと医務室から出ていく兼一。
だが、気持ちよく寝ている所を起こすのも忍びなく、翔は相変わらずスヤスヤと医務室で昼寝中。
そんなわけで、父としてそのまま医務室を後にするわけにもいかず、兼一は医務室の壁に背を預けた。
すると、アルトをベッドに運んだギンガもそれに倣う。

そのまま沈黙が流れること数秒。
別に空気が重いわけではないが、なんとはなしに兼一は口を開く。

「大丈夫かな、アルトちゃん。見た感じ、少し顔色が悪かったけど……」
「大丈夫じゃないでしょうか? 部隊設立後のドタバタも落ち着いてきて、少し気が緩んだのかもしれませんし」
「ああ、なるほど……」

機動六課が正式に稼働し始めて、そろそろ一月が経とうとしている。
稼働後間もなくはあれやこれやと事務組も非常にバタバタしていたが、それもようやく一段落ついてきた。
大方、一息ついた事でそれまでの疲れが噴出したのだろう。
落ち着くまでの間は割と残業なども多かったようなので、無理もない。

「となると、しばらくはチラホラと体調を崩す人も出てくるかもね」
「ええ。グリフィス準陸尉も体調管理に気を配る様に仰ってましたから、あまりそうはならないと良いんですけど」
「みんな若いから、ついつい無茶をしちゃうのかもね」
「そう、ですね。私も、アルトの事があるまではあまり気にしてませんでしたから」

季節の節目や一仕事終えて気の緩んだ時などは、体の免疫が低下しやすい。
若手や若者が多くを占めるこの部隊では、そういう類の気配りができる者はあまり多くない。
そういう意味では、「若さに頼った油断」アルトが体調を崩した一番の原因はこれかもしれない。

「まぁ、そう言うのも含めて若さなんだけど……ああ、でもそういう事なら……」
「?」

何か思う所でもあるのか、天井を仰いで思案する兼一。
この、ある意味非常にアンバランスな部隊において、兼一はどちらかと言えばベテランの部類に入る。
それは別に局員としてと言う事ではなく、人生の、あるいは社会人としてのベテランと言うこと。
兼一自身まだベテランなどと言える様な年齢ではないが、それでも部隊内では割と年長者。
ならば、年少者達に対する気配りもまた彼の仕事と言える。

と、そうこうしているうちに診察が終わったのか、医務室の戸が開く。
そこからシャマルが顔を出し、診察が終わったので入って良い旨を伝えた。
二人が再度医務室に入って眼にしたのは、ベッドに軽く横になって休むアルトの姿。
兼一はあまり面識はないが、それでも時折顔を合わせる同僚。
その健康状態が気にならないと言えば嘘になる。

「どうでした、シャマル先生」
「ちょっと疲れが出ただけですから、大事はありませんよ。
 ただ、今日はゆっくり休んでおいた方が良いと思いますけど」

その言葉を聞き、一安心という様子の師弟。
ただ、そこで兼一はおもむろにポケットを漁り小瓶を引っ張り出した。

「あぁ、有った有った」
「なんですか、それ?」
「師匠、それはまさか……」
「うん、今朝使った漢方の余り。
 シャマル先生、折角ですし使ってみます?」

誰に、とは言うまでもない。
今この場でそういうものが必要な人間は一人しかいないのだから。
ちなみにこの薬、秘伝の調合法で作られた薬で、ギンガも度々お世話になっている(曰く付きの)代物である。
まぁ、兼一やギンガが身を持って効果と安全性を証明しているので、使用に問題はないだろうが。

「一応、死人も蘇る、なんて言われてるものなんですけど」
「あぁ、良いですね!」

その提案に、「パンッ!」と手を打って賛同するシャマル。
市販の薬や栄養ドリンクでもよいのだろうが、兼一の漢方の薬効はその比ではない。
ならば、その力を借りられると言うのはありがたい限りだった。
ただ、それを飲む側としてはそう思えるとは限らない。

「ちょ、待ってください! なんだか勝手に話が進んでますけど…それって確か、ギンガさんが動かなくなった時にダバダバ飲ませてる奴ですよね!?」
「え? あ、うん。そうだけど?」
「そうだけど? じゃありませんよ!」

ギンガが倒れる度に怪しい薬を飲まされ復活している、というのは既に六課内では有名な話だ。
はっきり言って、そんな不審極まる薬など御免被りたいと皆が思っている。
噂に尾ひれがついているのは否めないが、それでなくても怪しい事に変わりはない。
事実兼一自身、原材料を聞かれると頻繁に「知らない方が良いよ」といって黙秘するのだ。
これでは、噂が悪化していくのも当然の話である。

「と、とにかくですね! 私はもう大丈夫ですからこれで失礼しま―――す!!!」

大急ぎで身を起こし、中々の速度で医務室を脱出するアルト。
何がどう大丈夫なのかは定かではないが、脱兎の如く逃走できるのなら問題はあるまい。

「逃げられちゃった」
「逃げられちゃいましたね」
(良かったねアルト。できるなら私も逃げ出したい……)

どこか寂しそうな様子の兼一とシャマル。
そんな二人にうすら寒いものを感じながらも、ギンガは同僚の脱出を喜ぶ。
何しろ、自分の場合は逃げようとしても確実に捕まってしまうのだから。
ならせめて、同僚の脱走成功くらいは喜びたい。
が、二人の不穏な会話は終わらない。

「ところでシャマル先生、今こんな薬を調合している所なんですが……試してみませんか?」
「これは……なるほど。これを使えばみんな病気知らずで万々歳ですね」
「でしょう?」
「ですね」
「「ふっふっふっふっふ……」」
(みんな逃げて、すっごい逃げて!!)

二人からすれば、心から皆の健康を心配しての相談なのだろう。
だが、到底そうと感じられないのはいかなる魔法によるものなのか。
ギンガが涙目になりながら胸中で叫ぶのも、無理からぬことだろう。



  *  *  *  *  *



その日の業務を終え寮へ戻る道中。
翔は一足早く仕事を終えたギンガに預け、兼一は偶々一緒になったなのはやヴィータと歩いていた。
このメンツが揃っての話題と言えば、当然その日の訓練や今後の予定などが中心。
だが、別にそれ以外のことに話が及ばないわけではない。例えば……

「そういやなのは」
「なに?」
「最近ユーノのとこいけてねぇんだろ、大丈夫なのかアイツ?」

最近あまり会う機会のない、幼馴染の話とか。
とはいえ、そもそも兼一にはその「ユーノ」とやらの情報がさっぱりない。
なので、少々不思議そうにしながら黙って話を聞く。

「うん。一応アルフにも気にかけてくれるようお願いしてあるしね」
「つってもよ、アイツだって家の手伝いもあるだろ。さすがにユーノの事までは面倒見切れねぇんじゃねぇか?」
「でも、他に頼めそうな人なんていないし……」
「まぁ、あたしらん中で一番ユーノと接点が多いのはアイツだけどよ」
「あ、それとアルフからは毎日ユーノ君の様子とか教えてもらってるから、何かあったらすぐわかるし」
「んな事までしてたのか、お前ら」
「だってユーノ君、ほっとくとすぐに家の事とか手を抜いちゃうんだよ。
 ご飯だってビタミン剤とか栄養ドリンクで済ませちゃうし、部屋は物置兼寝る所、位にしか考えてないんだもん」
「アイツ、基本的にまめな癖に自分の事となると不精だからな」

ここまで聞けば、どうやら共通の知り合いの生活状況に関わる話をしている事はわかる。
また、なのはの口ぶりなどを考えると、かなり親しい間柄でもあるらしい。
それこそ、単なる「友人」以上の物がある様な……。
そう思っていた所で、意外に気配りの出来るヴィータが兼一に向き直る。

「っと、わりぃな。内輪ネタになっちまって」
「あ、いえ、それは良いんですけど……どなたなんですか、そのユーノさんって」
「あ、兼一さんは会ったことないんですよね」
「名前はユーノ・スクライア。無限書庫の司書長やってる、なのはの魔法の師匠だな」
「へぇ~、司書長って事はかなり偉いんですか?」

生憎、局に入って日の浅い兼一に無限書庫に関する知識はない。
本局では「名物」の一つにも数えられる施設なのだが、これは仕方ないだろう。

「まぁな。つーかクロノ提督とかは別にしても、あたしらの中で一番出世したんじゃねぇか?
 無限書庫の司書長は、実質提督クラスだしよ」

はやてですら、今年に入ってようやく一部隊の部隊長。
ユーノはそのだいぶ前から一つの部署の長を任されている。無限書庫の重要性と規模を考えれば、まぁその位の地位はあってしかるべきだろう。ただ、ユーノの年齢や無限書庫自体が活用され出してあまり年月を経ていない事、前線ではなく後方における資料探しが主な仕事と言うもあり、やや軽んじられやすい部分はあるが。

「へぇ、凄い人なんだ」
「はい、ユーノ君はホントにすごいですよ。私にはちょっと、あんな真似はできませんし」
「まぁ、今のところアイツの代わりになる奴はいねぇな。
あたしやなのはなんて、探せば幾らでも代わりはいるけどよ」

兼一の呟きに対し、なのはは我が事のように嬉しそうにユーノの事を話す。
基本的に負けず嫌いのヴィータもまた、その点に関しては素直に認める所。
実際、なのは達ほどの能力を有する戦闘魔導師は希少だが、結局は希少と言うだけで他にいないわけではない。
仮になのはやヴィータが欠けたとしても、その穴を埋める事自体は不可能ではないのだ。

だが、ユーノ・スクライアは違う。
ただでさえ高い地位の人間の穴を埋めるのは大変だと言うのに、その人物の能力自体が非常に優れているとなると話は別。こと、無限書庫と言う施設において、ユーノほどの能力を発揮できる者はいない。
何しろ、彼が風邪をひくと無限書庫の機能が30%低下し、「管理局が風邪をひく」という冗談が生まれるほどなのだから、その能力の高さと重要性は推して知るべし。

また、なのはがユーノの事を話す時の様子は、明らかに普段と異なる。
傍から見ると、それはまるで……

「もしかして、なのはちゃんその人のこと好き?」
「え? やだな兼一さん、当たり前じゃないですか。ユーノ君は大事な幼馴染で親友ですよ」
「あ、いや、そう言う事じゃなくて……」

意図したとおりに伝わらず、困惑する兼一。
その横では、「ああ、またか」と言わんばかりに頭を抱えるヴィータ。
彼女は痛む頭を抑えながら、兼一の腕を引っ張る。

「おい、白浜ちょっとこっち来い!」
「え? あ、はい」
「なのははそこにいろよ。いいな、絶対聞くんじゃねぇぞ!」
「? う、うん」

ヴィータの行動の意味がわからず首を傾げるなのは。
そんななのはは無視し、ヴィータは小声で話す。

「用件はわかるな?」
「まぁ、なんとなくは。なのはちゃん……というか、そのユーノさんとの事ですよね?」

さすがに、この状況で勘違いできるほど兼一も鈍くはない。
というか、これで勘違いできる者がいるとすれば唐変木にも程がある。

「ああ。おめぇも思った通り、なのははユーノの奴に気がある。自覚の有無はともかくな。
 ユーノの奴もまんざらじゃねぇ…つーか、告白こそしてねぇがアイツはちゃんと自分の気持ちを自覚してる。まぁ、そんかわし昔色々あったせいで抑え込んじまってるんだが……」
(あれぇ? なんだかそんな話を、どこかで聞いた様な……)

そりゃ憶えがあって当然である。何しろそれは、丁度高校時代の兼一と美羽の関係なのだ。
美羽を好いてはいてもその事をはっきりと口にできずにいた兼一と、無自覚な好意を兼一に抱いていた美羽。
兼一の部分をユーノに、美羽の部分をなのはに置き換えればそのまま二人の関係の説明になる。

「ちなみにそれは、みんな知ってるんですか?」
「なげぇ付き合いの奴はみんな知ってる。両想いなのに気付いてないのは本人達だけだ」
「それは、また……」

つまり、周囲から見ればバレバレな程にお互いに思い合っていながら、本人達はきれいさっぱり気付いていないと言う事だ。二人揃って、あまりにも鈍すぎる。
まぁ、兼一もあまり人の事を言えた義理ではないのだが、それでも頬が引きつるのは抑えようがない。

「つーか、暇さえありゃ実家にも顔をださねぇでユーノの部屋に入り浸ってるのにあり得ねぇだろ、普通」
「そうなんですか?」
「ユーノの奴はアレで不精者だからな。
忙しくてほとんど無限書庫と司書長室に缶詰なせいもあるが、放っておくとアイツの部屋あっという間に埃塗れだし、服を洗濯もしねぇで使いまわす、挙句の果てに飯も滅茶苦茶適当に済ませるぞ。いざとなれば点滴でいいや、と思ってる節もあるからな」

そこまで行くと逆に凄いが、健康的で文化的な生活とは到底言えない。
生活環境と言う意味では、ユーノ・スクライアのそれはとっくに破綻していなければおかしいのだ。
それが曲がりなりにも保たれているのは、ひとえになのはのおかげである。

「それをなのはが休日の度に掃除して、洗濯物を畳み、日持ちするもんやら弁当やらを作ってやってるんだ。
 アイツに聞けば食器や書籍の在り処どころか、下着や季節ものの在り処もわかるぞ」
「マジですか?」
「マジなんだよ、これが。それどころか、最近じゃ司書長室にまで手を出してるらしいしな。
 はっきり言って、ユーノの生活はなのはがいなくなったら成立しねぇ」

何しろ、家主以上にその空間を熟知しているのだから、生半可なことではない。
そして、逆に言うとなのはからユーノの世話を取ると、ほとんど何も残らなかったりする。

「なのはちゃん、趣味ってあるんですか?」
「ユーノ、後は訓練(砲撃)だな。それ以外なら夜まで爆睡だ」
(ワーカーホリックのお父さんじゃないんだから…いいのかな? 二十歳前の女の子がそんな有様で……)

いやまぁ、恋と仕事に生きていると言えばそれはそれで充実していなくもないが……。
というか、趣味の欄に個人名をかける時点で色々おかしい。
だがここで、突如ヴィータの肩が激しく震え出し、背後から怒りのオーラが立ち登る。

「そこまでやっておきながらアイツときたら! ユーノの事を突っ込むと……………『え? ユーノ君は友達だよ?』だぞ!! どこの世界にんな甲斐甲斐しく通い妻やる友達がいるんだよ!!!
 ユーノはユーノで、なのはが『親切』で世話してると思ってんだぞ!!
 鈍いにもほどがあんだろうが!! 頭おかしいだろ、絶対!!!」
「ヴィータ副隊長、シー! 声、声大きすぎますから!?」

ついにブチ切れて気炎を上げ怒鳴り散らすヴィータと、それを必死になだめる兼一。
当のなのははと言えば、ポケーッとした顔で「何話してるんだろう?」と思っている。

「ハァハァハァ、ハァ…悪ぃ、つい熱くなっちまった」
「いえ、お気持ちはわからないでもありませんから……」
「もう何年もこんな具合であたしらももどかしい……つーか、いい加減頭きてなんとかくっつけようとしてるんだが……」

皆まで言わずともわかる。大方、二人揃って尽くスルーしているのだろう。
本人達に悪気がないとは、周りの努力を嘲笑うかの如く受け流されては腹も立つ…を通り越して無力感でいっぱいだ。
あのフェイトですら「早くくっついちゃえばいいのに」と溜息をつくほどである。

「でだ、ちょっと第三者の意見を聞きてぇんだけどよ」
「まぁ、それは構いませんが。その前に、ユーノさんはどうして自分の気持ちを抑え込んじゃってるんですか?
 彼が自分の気持ちに素直になるだけでもだいぶ変わると思うんですけど……」
「正論だが……聞き難い事をズバッと聞くよな、おめぇ。
 普通、聞くにしてももう少し遠回しに聞くだろ」
(うぅ、どうして僕って奴は……!?)

心のウィークポイントを的確に突いてしまうのか。
ヴィータも関わりのある事らしく、その肩は震えている。
本人としては怒りを爆発させたいところなのだが、アドバイスを求めたのは他ならぬ自分。
ならば、どれだけ頭にきても怒鳴るわけにはいかない。

「まぁいい、理由の一つは今みたいな状態が長く続き過ぎちまって変に安定しちまったからだ」
「ああ、今の関係を壊したくないっていうアレですね」
「おう。もう一つ、つーかこっちが一番厄介なんだが……」

あまり、気安く話していいような話題ではない。
少なくとも、今はまだ過去を暴きたてるほど切羽詰まっていないのだから。

「確かおめぇ、道場の一人娘と結婚したんだろ?
 だったら何かねぇのかよ、道場の娘と結婚する秘伝の技とか」
「ないですよ、そんなの……」

言いつつ、眼が泳ぐ兼一。
かつて兼一もまた、田中勤に似た様な事を聞いたものである。
あの時の彼と同じ立場になって、ようやく何とアホな事を聞いたのだろうと思ったらしい。
とそこへ、突如廊下の曲がり角から何かが飛び出した。

「あ」
「え?」
「ん?」

三者三様の呟きが口から漏れ、飛び出した何かを視界に修める。
それもそのはず、それだけそこに現れたのは意外な人物だったのだから。

「お前達は!?」
「ってシグナム、さん?」
「えっと、どうしたんですかそんなに慌てて……」

そう、「ドドドドド!」と言うけたたましい音を立てて走るのは、ライトニング分隊副隊長のシグナム。
普段ならば「廊下を走るな!」と真っ先に注意するタイプの筈の彼女が、なぜか今は全力疾走の真っ最中。
高い位置で結わえたポニーテールは激しく揺れ、その顔には明らかな焦燥が浮かんでいる。
だがそんな事よりもまず目についたのは、ある意味において中々にショッキングなその姿。

「つーか、なんつーかっこしてんだよおめぇ」
「言うな! と言うか見るな!!」

呆れ返ったヴィータの指摘に、シグナムは自分の体を抱きしめながら背を向ける。
無理もない。何しろ今の彼女は普段着ている茶色の陸士制服でもなければ、主より賜った騎士甲冑でもないのだから。

むしろ、そう言った真面目な格好とは真逆。
今彼女の上半身を包むのは……………………………何故か体操着。ついでに平仮名で「やがみ しぐなむ」の名札付き。
しかもややサイズが小さめらしく、豊かな胸は窮屈そうに体操着を押し上げ、代わりにチラチラとへそが見える。
なんというか、非常に眼のやり場に困る格好だ。

「これにはやむにやまれぬ事情があってだな……」
「どういう事情があればんなエロいかっこする事になんだよ」
「ヴィ、ヴィータちゃん…たぶん、私達の知らない深い理由があるんだよ、きっと」
「くっ、今はその優しさですら痛い……!」

屈辱と羞恥に顔を赤くするシグナムを不憫に思ったのか、なんとかとりなそうとするなのは。
ただし、ヴィータの視線はどこまで言っても冷たく、後一歩で軽蔑の域に達しようとしていた。
そんな視線に耐えられなくなったのか、唐突にシグナムは兼一を睨む。

「……ええい、元はと言えば白浜! 全てお前のせいなのだぞ!!」
「って僕ですか!?」

思わぬ形の飛び火に、驚愕を露わにする兼一。
彼からすれば、シグナムの格好と自分に何の因果関係があるのかさっぱりなのだ。
まぁ、普通この状況でその因果関係を見抜けと言う方が無理難題なのだが。

「お前があの時余計な事を言わなければ……!」
「あの、あの時ってどの時でしょう?」
「む!? そ、それは……だな。い、以前、私の事を、その……」
「?」

よほど言い辛い事なのか、珍しく指先をゴニョゴニョと弄りながら口ごもるシグナム。
その顔は先ほどよりもさらに赤くなり、今にも湯気が出そうな有様だ。

「だから……か、かわ…かわ……」
(川?)
「……お、女の口からそんな事を言わせるな! 察しろ!!」

『んな無茶な』とは思っても言えない兼一。
はっきり言うと上半身体操着、下半身タイトスカートというチグハグな格好で睨まれても全然恐ろしくない。
が、顔を真っ赤にして瞳を潤ませている姿を見ると、思わず口を噤んでしまうのだ。
しかしそこで、真の元凶が現れた。

「ふっふっふ、いけない子やなぁ。まだ試着の最中に逃げ出すやなんて……烈火の将の名が泣くでぇ」
「ひっ!?」
(シグナムがこんな反応するってどんだけだよ……)

何かのトラウマでも植え付けられたのか、ガクガクと震えだす。
まぁ、シグナムにこんな事を出来る人間は限られているし、そもそも先の口調から誰が犯人かは推理するまでもない。

「というか、なにやってるのはやてちゃん?」
「おお、ヴィータになのはちゃんやんか! シグナムを捕まえてくれたんか?」
「いや、つかまえたっつーか、まぁそういう事になるのか?」
「離せ! 離してくれヴィータ!! 後生だ、頼む~!!!」

実際、なんとか逃げ出そうとするシグナムの脚を掴んでいるのはヴィータだ。
ナリこそこんなだが、六課でも指折りのパワーの持ち主。この程度は造作もない。
いや、シグナムが錯乱して魔法を使えなくなっているからでもあるのだが。

「というか、八神部隊長。その手に持っているのはいったい……」
「ん? 見ての通り……………ブルマや!」
「いや、それは見ればわかるんですけど」

右手に持つそれを指摘され、はやてはビローンと伸ばして掲げて見せた。
だがそんなのは言われなくてもわかる。今問題にしたいのは、その用途だ。
何故に機動六課部隊長ともあろう人物が、ブルマ片手に部下を追跡していたのか。
全く以って意味不明に過ぎる状況である。

「いやぁ、ちょうシグナムに穿いてもらおうかと思ってな」
「シグナムさんに?」
「そ、それはまた何と言いますか……」
「滅茶苦茶犯罪っぽいよな」

想像してみてほしい。出る所はとても出て、引っ込む所はとても引っ込んでいる。そんなメリハリの利いた肉体を持つ彼女が体操着とブルマを身に纏う。何と言うか、どこぞの水商売系のお店を連想してしまう格好である。
理由も意図も定かではないが、それはシグナムが嫌がるのも無理はない。

「恥じらいに染まる凛々しい顔立ち、はち切れんばかりに引っ張られる小さめの体操着とブルマ…………それがええねん!!」
「「「はぁ……」」」

何やら力強く断言するはやてだが、三人は全く共感できない。
その後ろでは、怯えた小動物の様な顔でシグナムが震えている。

「でも、なんでまたいきなり……」
「ほら、兼一さんがシグナムの事『可愛い』って言うたやろ?」
「はい、まぁ……」
「せやからこうして、シグナムの新しい魅力を模索してみることにしたんや!!」
「ですが、よりにもよってなんでこんなニッチな方向に走るのですか!!」

ようやく少し気力を取り戻したのか、涙目になって反論するシグナム。
百歩譲って新しい魅力を探るのは良いとしても、幾らなんでもこれは勘弁してほしいだろう。
特に彼女の様な堅物なら尚更。まぁ、だからこそはやてはこれを選んだのだろうが。

「ええ~、でも男の人はこういうの好きやろ?」
「え”!? あ、その…え~っと……」

いきなり話を振られ、返答に窮する兼一。
まごう事なき「イロモノ」だとは思う。だが、この格好に惹かれるものが全くないかと言えば……否だ。
既婚者であり子持ちである身とはいえ、彼もまだ二十代の男。
正直、この色々パッツンパッツンなシグナムにはついつい視線が向いてしまう。
これにさらに地球ではほぼ絶滅したと言っても良いブルマを+されるとなると……。

しかしそこで気付く。
先ほどから突き刺さる、非常に冷めた視線に。

「「…………」」
(ま、マズイ!? なんかすごい白い目で見られてる!!)

きっと、「あ、この人(こいつ)こういうのが好きなんだなぁ~」と思われているのだろう。
本能の部分で否定できない所はあるが、大人として、一児の父として、嘘でも否定しなければならない場面がある。そして、今の状況こそがそれだった。

「や、やだなぁ……僕、こういうのはちょっと……」
『へぇ~~~』
(うぅ、全然信じてくれてない……)

生来の嘘の下手さが仇となり、全く信用を勝ち取れない兼一。
ちなみにこの数日後、どこからか漏れたこの一件を聞きつけたギンガが『ブ、ブルマが良いんですか?』と、少し顔を赤らめながらモジモジと上目遣いで訪ねてきたのは、全くの余談である。

「でもほら、はやてちゃん。シグナムさんも嫌がってるし……」
「せめてさ、廊下とか人目のある所はやめた方が良いと思うぜ」
「むぅ、しゃーないな」

さて、これはいったいどちらの意見に従ったのやら。
もし前者を考慮していなかった場合、また同じような目にシグナムは合うのだろうが。
これは余談だが、はやての自室にはいつの間にか自分が着る分以外の良く分からない衣装が急増しているのだが、その用途は全くの不明である。

「すまんな高町、ヴィータ、恩に着る。白浜は見損なったが」
「はい、生まれてきてごめんなさい……」
「ええやないのシグナム。男の人やったらこんなん当然やで♪」
「はやてちゃんが言うと……」
「ああ、なんか生々しいよな」
「そういえば、近々スク水とバニーさんの衣装が来るんやけど、なのはちゃんやヴィータも着てみるか? 」
「「すみません、勘弁してください」」

二人揃って即詫びをいれる。どちらの衣装にしても、あまりにも恥ずかし過ぎる。
ヴィータならスク水でも違和感はなさそうだが、彼女のプライドが許さないのだろう。

「ん~、でも勿体無いなぁ……。兼一さんもちょう赤くなっとったし、好感触やったんやけど」
「む……」
「アレなら、男の人の何かにヒビを入れる位できそうやったのになぁ」
「(ピクッ)」
(ふふ~ん、まんざら興味がないわけでもなさそうやなぁ♪
 上手くすれば、案外ノリノリになるかもしれへんで、これは)

実際、先ほどからチラチラとシグナムの視線がブルマに向いている。
少しは自分の女としての魅力を磨く事に意識が向きだした証拠だろう。
はやての場合、かなりおかしな方向に持って行こうとしているようだが。
一応家族の魅力を引き出してやりたいと言う善意もあるだけに、中々に始末に負えない。とりあえず、「兼一さんに感謝やなぁ」と思いつつ、「次は何を着せたろうかなぁ」とほくそ笑むはやてであった。



  *  *  *  *  *



その日の深夜。
外周りで帰りの遅くなったフェイトが寮に戻ると、当然ながらほとんどの明かりは消えていた。
だがつまりそれは、僅かに明かりが灯っている事を意味する。
例えば、共有スペースであるエントランスとか。

「あれ? まだ誰かいるのかな?」

自動ドアをくぐりながら、不思議そうに呟くフェイト。
役職柄外周りが多いため、フェイトは帰りが遅くなることも多い。
皆が寝静まった頃に戻る事もあり、その頃になるとエントランスも最小限の明かりしかない。

しかし今日は違った。
基本的にはうすらぼんやりとした明かりしかないのだが、ある一点にはっきりとした明かりがある。
出入り口から見えるのは後ろ姿だけだが、誰かが卓上ライトを持ちこんでいるらしい。
エントランスに微かに響くのは『カリカリカリ』と言う断続的な音。
その人物は椅子に腰かけた状態で、黙々とテーブルに向かっている。

何をしているのかは定かではないし、まさかこの場所で不審者と言う事もあるまい。
だが、状況と明るさなどからイヤでも不気味さを感じてしまう。
フェイトは一つ深呼吸をし、意を決してその人物に声をかけようとする。
しかし、フェイトが声をかけるより先にその人物がフェイトに気付いた。

「? ハラオウン隊長?」
「って、白浜二士?」

振り向いたのは、フェイトからすると色々と対応に困る人物。
自分がいくら望んでも届かない場所にあっさりと居場所を確保し、命よりも大切な二人を誑かす(本人主観)男。
あまりにもうらやまし過ぎて、影でハンカチを噛んだ事数知れず。
だが本当は、エリオやキャロの事を色々気にかけてもらっているので、実はかなり感謝もしている相手だった。

「こんな時間に何をなさってるんですか?」
「いや、ちょっと勉強を……」
(勉強? って、なんの?)

相手は武術家なので、修業とかなら納得できるのだが……。
まだミッド語に不自由な部分があるかもしれないので、もしかしたら語学の勉強かもしれない。
あるいは、何かの資格でも取ろうとしているのか。
まぁいずれにせよ、夜中まで勉強していると聞けば好感が湧く。同時に、その内容に対する興味も。

「いったいなんの……」

好奇心を抑えられず、相手に対する諸々の蟠りや複雑な感情も、いまだけは棚上げする。
そして本人に了解を取った上で、横から使っている教材をのぞき見る。

「これって魔法の初級教本…ですか?」
「ええ、まぁ。お恥ずかしながら……」

兼一が読んでいたのは、フェイトもずいぶん昔に使った事のある魔法初心者用の教材。
当時とでは内容にやや違いはあるが、根幹はそれほど変わらないのでタイトルを見ずとも一目でわかった。

それを見てフェイトの胸に湧き上がったのは懐かしさと疑問。
懐かしさは、極短期間でその内容を修めた事を褒めてくれた家庭教師との思い出がよみがえったから。
疑問は、リンカーコアすらない兼一がなんでまたこんなものを読んでいるかわからなかったから。

なのはから本好きと聞いていたし、単なる好奇心からかもしれない。
だがそれにしては、辞書まで用意して思い切り熟読する気満々。
はっきり言って、興味や好奇心だけとは考えにくい。

「でも、なんでまたこんなものを?」
「その……やっぱり、なのはちゃんに頼りっ切りってわけにもいきませんので……」

フェイト・テスタロッサ・ハラオウンは非常に聡明な女性である。
彼女はどこか気恥ずかしそうに言う兼一の僅かな言葉から、その意図を正確に推察した。

「もしかして、ギンガの指導の為に?」
「魔法に無知なのは……この際しょうがないと思うんです。今までそんなもの全然知りませんでしたし、僕自身全く使えませんから。たぶん、あまり詳しく知らなくても恥にはならないとも思います。
 どんな魔法があって、戦う時にどう対処すればいいか、それだけ知ってればいいわけですしね。
 でも、僕はギンガの師です。あの子を鍛え、導く責任があります。魔法の事が良く分からないからと言って、そっちの方を丸投げ……って言うのも無責任じゃないですか」
「それで、ですか? でも……」
「仰りたい事はわかっているつもりです。生まれつき目の見えない人に色が理解できない様に、魔法を使えない僕がいくら勉強しても本当の意味でそれを理解する事はできないでしょう。きっと、それほど上手く指導もしてあげられないんだと思います。
 でもだからと言って、見て見ぬふりは……できません」

六課にいるうちはなのはがいるから良いとしても、六課を離れれば必然なのはとも別れる。
ギンガならば限度と節度を守って魔法を磨くのだろうが、「使えない」からと言って放置してはいけないと兼一は思う。
全くの門外漢なのでどこまで力になれるかは分からないが、それでもできる限りのことはしてやりたいのが親心。
その為には、基礎的な所から正しい知識と理解を身に付けなければならない。
この調子ではいつになるかわかったものではないが、基礎の大切さは魔法も武術も変わらないのだ。
ならば、一見遠回りに思えても一番の初歩から学んでいかなければならない。

(この本も辞書も、あちこち擦り切れてる。
 白浜二士は魔法に出会ってまだ半年も経ってない筈なのに……)

とても数ヶ月使っただけとは思えないそのくたびれ具合に、フェイトは思わず圧倒される。
進度は御世辞にも早いとは言えないが、いったいどれほど繰り返しページをめくり、読んできたのだろう。
魔法の天才であるフェイトなら短期間で理解できる事でも、魔法の使えない兼一には理解が難しい。
そもそも「魔法を使う」と言う感覚そのものを持たない彼には、本質的に理解できないかもしれない。
魔法は理数系に近いとも言われるし、どちらかと言えば文系の兼一にはなおのことハードルが高い。

だが兼一は、その差をなんとか埋めようと必死にその内容を頭に叩きこんで来たのだ。
もしかしたら、教本の内容を一語一句寸分違わず暗唱できるかもしれない。
手垢で汚れ、もう何年も使いこまれたかのような教本を見ると、そんな事を思わずにはいられなかった。

(なのはやギンガが、尊敬するわけだよね……)

苦手な分野と言うのは、誰しも敬遠したがるものだ。
フェイト自身、海鳴時代には国語の勉強に四苦八苦しただけに少しは理解できる。
兼一からすれば、魔法と言うのは対処するならともかく勉強の対象としては最悪の相性と言っていい筈。
その難度たるや、フェイトが国語に悪戦苦闘していた時の比ではない。

ならば、その大の苦手分野にここまで真摯に向き合えると言うのは、それだけで尊敬に値する。
それも、その動機はたった一人の弟子の為。
これを無駄な努力と嘲笑う人がいるとすれば、それはまごう事なき人でなしだ。
そしてフェイトは、頑張った人はそれだけ報われてほしいと思うし、その力になりたいと思う。
だからだろう。気付いた時には、フェイトは思わずある申し出をしていた。

「あの、もしよかったらなんですけど……少し教えて差し上げましょうか?」
「え? い、いいんですか? でも、ハラオウン隊長はお忙しいでしょうし……」
「は、はい。ですから、あまり時間は取れないかもしれませんけど、それでもよろしければ……」
「………」

思わぬフェイトの進言に、言葉を失う兼一。
さすがに、今まで教本だけを頼りにやってきた、と言うわけではない。
108にいた時は同僚達にも多々相談したし、それどころか家では恥を忍んで弟子であるギンガにも質問した。
今では、ギンガのみならず新人達やヴァイス、なのはを頼ることもある。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。無知は罪ではないが、知ろうと努力しない事は罪である。
可愛い弟子の力になれるのなら、多少の恥など何程の物か。

とはいえ、それは結局のところ「わからない事を聞く」と言う事。
基本的には自力での学習であり、教師の様に勉強を見てもらうと言うのとは違う。
さすがに仕事があり忙しい人達ばかりなので、そこまでしてもらうのは悪いと思った。
だからこそ今日まで兼一は自力で学び、どうしてもわからない時だけ人を頼ったのだ。

しかし、フェイトが勉強を見てくれると言うのであれば、それは大きな意味を持つ。
あまり長い時間は付き合えないかもしれないが、それでも教本の内容をよりわかりやすく噛み砕いて教えてもらえれば、理解の速度は格段に速まるだろう。
ある意味、教師の仕事は理解しやすい様に作られた教材の内容を、より理解しやすく解説し、学習の速度を速めることにある。
期間限定でも、僅かな時間でも、そうしてもらえるならどれほど助かる事か。

確かにその申し出はうれしい。
だが、ただでさえ忙しいフェイトにそんな雑事を頼むなど……。

「いえ、やっぱりダメですよ」
「え? わ、私じゃいけませんか?」

兼一のメリットを考えれば否はないと思っていただけに、フェイトはあからさまに動揺する。
『なにか嫌われる様な事でもしただろうか』と思い、ないとは言い切れない自分に気付き凹む。

「あ、いえ、別にハラオウン隊長に不満があるとかじゃなくてですね」
「そ、そうなんですか? でも、それなら……」
「ですが、フェイト隊長はお忙しいですし、こんな瑣末な事で時間を割いていただくわけにはいきません。
 これは結局僕の問題ですし、御手を煩わせる様な事では……」

そこまで言った所でフェイトの眉間にしわが生まれ、目に険が籠る。
なるほど、一瞬勘違いしたが兼一の言わんとする事はわかった。
教わる自分の事ではなく、教える相手の事を慮ってくれたのだろう。
その配慮は嬉しいのだが、今口にした言葉は聞き捨てならない。

「瑣末なんて事はありません! 教え子の為に必死に勉強してるんでしょう? なら、もっと胸を張ってください! 遠慮なんてしないでください!」
「え? え? え?」
「陸士の想いと努力はとても立派だと思います。私はそのお手伝いをしたいと思ったんです。
 迷惑だったり邪魔だったりするのならともかく、そうじゃないなら素直に受け取ってください」
「で、ですが……」
「どうしても遠慮するんですか? それなら……」

一呼吸置きへその下、丹田に力を込める。
そして、とっておきの一言を口にした。

「いつもエリオやキャロがお世話になっている御礼、ならどうですか?
 本来、二人の面倒をみるのは陸士の仕事ではありませんし、お給料にもつながりません。
つまり善意のボランティアです。私が勉強をお手伝いするのと同じなんですから、これでイーブンです」
「そ、そういう問題なんですか?」
「む、強情ですね。なら……私の相談に乗ってください」
「相談?」
「えっと…その……どうやってエリオ達と打ち溶けたのか、とか。
 二人とも、どこか私に対して硬い所がありますし……」

顔を真っ赤にして俯きながら恥じらうフェイト。
本当はここまで言うつもりはなかったのだが、勢い余ってついうっかり非常に気になっていた事を聞いてしまったのだ。
そんなフェイトの様子を呆然と眺めていた兼一だったが、溜め息を一つつくと観念したように諸手を上げた。

「わかりました。僕はハラオウン隊長の相談に乗って、ハラオウン隊長は僕の勉強を見てくださる。
そういう取引、なんですね?」
「そ、そうです! わ、わかればいいんです、わかれば!!」

慌てた様子でまくしたてるフェイトに、苦笑を洩らす兼一。
よくよく考えてみれば、あまり頑固に断るとフェイトの顔が立たない。
上司を立てるという観点で考えれば、適当な所で受けるべきだったのだ。

「それと、私の事はフェイトでいいです。相談相手に他人行儀にされるのは嫌ですから」
「わかりました。でも、それなら僕の事も兼一でお願いしますよ、フェイト隊長。
 相談相手とはいえ上司なんですから、これ位は良いですよね?」
「ま、まぁ仕方がありませんね。では、今後はよろしくお願いします、兼一さん」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。
 一応とはいえ一児の父ですから、少しは御力になれると思いますよ」

そこまで言った所で二人の眼が合い、それぞれ小さく笑いを零す。
その後はもう遅いと言う事もあり、軽く今後の打ち合わせを行い、主に夜に相談と勉強を行う事で合意し、解散となった。ついでに、兼一にはフェイトからいくらかの宿題も出されたが。

まぁ、そんな感じで今日も今日とて何事もなし。
今の所、機動六課は概ね平和なのであった。






あとがき

はい、ちょっと久しぶりの日常編でございました。
まぁ、小ネタの寄せ集めみたいなものですけど。正直、やりたい事が多くて絞るのに苦労した話でしたね。
本編中で入れる場所がなかったのですが、兼一がエントランスで勉強していたのは、お子様二人を起こさないようにと言う配慮です。
とりあえず、これでおおむね兼一は六課のほぼ全員と交流を持ちました。友好的でないのはコルトくらいですけど。しかし、彼は情報を出せば出すほど丸みを帯びて行きますね、人格的に。まぁ、予定通りと言えば予定通りなんですけど、「子どもっぽく」なってきたのは吉と出るか凶と出るか……。

さて、次回はいよいよ事件発生です。
と言っても、基本的には消化試合みたいなものですが、一応ひねりの様なものは加える予定。



[25730] BATTLE 21「初陣」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/10/08 01:52

薄汚れた廃墟を思わせる、至る所に経年劣化によるヒビの走るビル群。
しかしそこに人気がないと言うわけではなく、同時に静けさとも無縁だった。
なぜならその一角で、今日もまた機動六課が誇る戦技教導官『高町なのは』の下、期待の新人達は今日も今日とてハードな訓練に明け暮れているのだから。

舞い上がる砂塵、飛び交う魔力弾、響き渡る衝突音と交わされる声。
立て続けに起こるそれらが、行われている訓練の激しさを物語っている。

そして、キャロのサポートを受けたエリオの渾身の一撃と共に、一際大きな音と煙が発生した。
エリオが煙から弾き飛ばされながらも、体勢を立て直し近場のビルに着地する。

「うわぁぁぁぁあ……くぅ!?」
「エリオ!!」
「外した?」

エリオの身を案じるスバルと、先の一撃が不発に終わったのではと危惧するティアナ。
今彼らがしている訓練は、5分間なのはの攻撃を捌き切るか、あるいはその間に一撃入れるまで何度でも繰り返される。既にボロボロのあり様の新人達としては、5分間もなのはの攻撃をしのぎ切る自信は皆無。ならば何としてでも一撃入れるしかないのだが、何度も繰り返せばそれだけ体力を消耗し一撃入れる可能性は下がる一方。
彼らとしては、1回で何としてでもクリアするより他はなく、これが不発に終わればかなり不味い事態であろう。

成功か、失敗か。今できる中では会心の一撃だったが、上手くいったかは分からない。
新人達四人は煙が晴れるのを息をのんで待ち、やがて風と共にこれと言った傷のないなのはが姿を現す。
その光景に一瞬落胆を覚える新人達。
だが、なのはの顔に浮かぶのは微笑み、彼女は自身の愛機レイジングハートと共に頷き合う。

《Misson complete》
「お見事、ミッションコンプリート」

告げられた結果は合格。
しかし、やはりなのはにはこれと言って傷らしきものはない。
直接打ち込んだエリオですら合格と言う結果を信じられず、思わず聞き返していた。

「本当ですか!?」
「ほら、ちゃんとバリアを抜いて、ジャケットまで通ったよ」

そう言ってなのはが指差すのは、左わきの当たり。
確かにそこにはうっすらとだが汚れの様なものがあり、彼女の言葉が偽りでない事を教えてくれる。
皆はようやく合格と言う事実に実感がわいたのか、各々の顔に喜色が浮かぶ。

「じゃ、今朝はここまで。一端集合しよ」
「「「「はい!」」」」

なのはは地上に降り、バリアジャケットを解除した。
指示に従い新人達が自身の周りに集合するのを待ち、なのはは彼らに優しく言葉をかける。

「さて、みんなもチーム戦にだいぶ慣れてきたね」
「「「「ありがとうございます!」」」」
「ティアナの指揮も筋が通ってきたね。指揮官訓練、受けてみる?」
「い、いやぁあの…戦闘訓練だけで一杯一杯です」

上司の提案に、少々引き気味になりながらも遠慮するティアナ。
そんな相棒の様子に、スバルは苦笑気味の声を漏らす。
とそこで、キャロの足元にいたフリードがきょろきょろと首を動かしていた。

「きゅくる?」
「え? フリード、どうしたの?」
「なんか、焦げ臭い様な?」

フリードに続き、エリオもその異変に気付く。
皆がその出所を探す中、それを見つけたのはティアナだった。

「あぁ!? スバル、アンタのローラー!」
「え? わ、わぁ、やばぁ!?」

言われてみれば、スバルの足元からは僅かな黒煙となにかの回路がショートする様な音。
スバルは大急ぎでローラを脱ぎ、それを抱え上げる。

「あちゃ~…しまったぁ、無茶させちゃったぁ」
「オーバーヒートかな? 後でメンテスタッフに見てもらおう」
「はい」
「ティアナのアンカーガンも結構厳しい?」
「ぁ、はい。だましだましです……」

実際、先ほども弾詰まりの様な事が起きていたし、あまりいい状態とは言えないだろう。
二人の表情は明らかに気落ちしており、色々と不安がある様子が伺えた。
なのはもまた思う所があるのか、上を向いて思案にふけている。

「そう言えばギンガさんも、パーツの損耗が激しくてそろそろ新調した方が良いかもって言ってましたっけ……」
「あ、ギン姉も?」
「ま、ギンガさんは…っていうか、兼一さんはかなり無茶させてるみたいだし、当然と言えば当然だけどね」

一応スバルも二人のところに押しかけて、ギンガと共に整備をし、意見を交わす事は多い。
が、やはりその辺りの事情に関しては、やはり同室のキャロの方が詳しいらしい。
まぁ、夜遅くまでギンガが整備のために起きている所を見ているのだから、当たり前かもしれないが。
とそこで、それまで何か考えていたなのはが意を決したように皆の顔を見る。

「みんな、訓練にも慣れてきたし、そろそろ実戦用の新デバイスに切り替えかなぁ……」
「新…」
「デバイス…?」
「うん。スバルとギンガのは少し手間取ってたんだけど、最近ようやく完成したからね。
 近々とは思ってたんだけど……」

自作のデバイスも限界にきているようだし、タイミングとしては丁度いいという事なのだろう。
どのみち、今のデバイスでは彼らの力を最大限に引き出せているとは言い難いのだから。

「まぁ、そういうわけだから、後でちょっと時間を貰うよ。
 そうそう、ギンガとコルトにも連絡しておかなきゃいけないんだけど……」
「ああああああああ~」
「あ、ギン姉また飛んでる……」
「今は…無理そうだね」

視線の先はとあるビルの屋上。
また危なっかしい所でやっているようだが、どうせ怪我らしい怪我などさせないのだろう。
というか、今回飛んでいる人影は一つではない。

「今日は、アヴェニス一士も一緒ですね」
「また襲い掛かったんでしょうか?」
「完全に返り討ちになってるみたいだけどね。ほんとこりないわね、アイツも」
「しょうがないから、二人には後で知らせるって事で」
「「「「……はい」」」」



BATTLE 21「初陣」



三人にはとりあえず先に戻る旨を伝え、六課隊舎に戻る道中。
なのはと新人達は軽い雑談に興じていた。

「そういえば、スバルとエリオは良く兼一さんに話を聞きに行ってるんだよね?」
「あ、はい」
「色々と教えてもらっています」
「お兄ちゃんともよく試合してたし、対武器戦の経験も豊富だからね」

実際、ギンガと同じスタイルのスバルはもちろん、エリオとしても兼一からのアドバイスはためになる事が多い。
技術的な話から心構え、あるいは思想的な話など。これまでの一ヶ月少々の間に交わされた話題は多岐に渡る。
それこそ、戦いや武術とはまったく関係のない雑談まで。
しかし、当然そうではない人間もいるわけで……。

「そう言えば、キャロとティアはあんまりそういう話してないの?」
「えっと、私はその……」
「しょうがないでしょ。使うデバイスが銃型って言っても、やっぱり普通の銃とじゃ勝手が違うし。
 かと言って、兼一さんに魔法の事を聞いても仕方ないんだから」

対魔法戦ならいざ知らず、魔法そのものを兼一に聞いても意味がないと言えば確かにそうだ。
何しろ単純な知識量だけを問うたとしても、兼一のそれは新人達に遠く及ばない。
それはキャロも似た様なもので、魔法によるサポートがメインの彼女からすると、兼一にいったい何を聞けばいいのかさっぱり、と言う部分があるのだろう。

「私も、普通のお話とかはしますけど、あまりそう言ったお話は……」
「まぁ、それはそうなのかな」
(……案外、そうでもないと思うんだけどね)

エリオの呟きに、なのはは声には出さずに思う。
確かにエリオやスバルと比べると、ティアナやキャロが兼一から学ぶ事は多くないかもしれない。
だが、いずれは二人も自身の属性を選ぶ時が来る。そうなれば、静の極みに近い所にいる兼一の助言は大きな意味を持つ筈だ。場合によっては、直接兼一に預けるのも一案だと思う。
それでなくても、一人の戦闘技能者としてのキャリアが段違いなのだから、畑違いでも学ぶ事は多い。

なので、いっそのこと兼一に学びに行くように指示する事も考えないわけではない。
が、今のところは「希望者が自発的に聞きに行く」という形を取っている。
それというのも、基礎を固め直している段階であまり先の事ばかり気にし過ぎるのもよくない。
実際兼一には、助言を求められても基礎的な部分の話に重きを置くよう頼んである。

まぁいずれは本格的に新人達の面倒も見てもらう時が来るだろう。
しかしその時になっても、恐らく全員纏めて預けると言う事は滅多にない筈だ。
なにしろ兼一の教え方は、あまり一度に大勢の面倒をみると言う事に向かない。
なのはの家族や梁山泊を見てもわかるが、彼らのやり方は一人の武を徹底的に掘り下げると言う物。
教える人数を絞り、完全管理かそれに近い状態の下で行うのが望ましい類である。
さすがに全員纏めて面倒を見てもらうのは、色々な意味で上手くないだろう。
と、そんな事を考えていると、なのはの眼に何やら珍妙な光景が飛び込んできた。

「あれって……」
「ザフィーラ、ですよね?」
「うん、どうかしたのかな?」

スバルとティアナの問いに、なのはも首をかしげる。
眼に映るのは、自分達目掛けて駆けてくるザフィーラ。
何か急ぎの用でもあるのかと思ったが、すぐにそれを否定する。
なにせ、もし急ぎの用があるのなら、念話で伝えれば済むだけだ。

だがそこで、ある事に気付く。ザフィーラの青い毛並みの中からはみ出す黒い何か。
ザフィーラに黒い毛などなかった筈だが、と首をかしげていると、ザフィーラはなのは達のすぐ目の前で停止した。そして、その黒い何かが唐突に動くと、そこにあったのは満面の笑顔を振りまく幼い人の顔。

『って、翔?』
「おかえり~♪」

どうやら、ザフィーラの背中にしがみついてここまで運んでもらったらしい。
まだ小さい翔だからできる事だし、大型の動物に乗って走りまわると言うのは一種の夢だろう。
事実、エリオやキャロなどは少しばかり羨ましそうにしていたり……。

「でも、なんでまたザフィーラの背中に?」
「乗せてくれたの~」
「まぁ、何だ。ああもせがまれると断りづらくてな……」

寡黙ではあるが人の良い彼らしく、翔の頼みを断り切れなかったらしい。
元々子どもに好かれる性質でもあるので、ある意味当然の結果かもしれないが。
しかしこの分だと、いずれ彼は翔の乗り物にされてしまうのではなかろうか。

そんななのはの危惧は正しかったのか、その後もザフィーラに跨ってみなと移動する翔。
ザフィーラもすっかり乗り物に徹してしまったらしく、その後積極的に会話に参加してくる事はない。

「それじゃ、父様と姉さまはまだ終わらないの?」
「うん」
「先に戻ってご飯食べててって」
「そっかぁ……」

エリオやキャロの言葉に、少し残念そうにションボリする翔。
彼としては父や姉と一緒に食べたかったのだろう。
特にギンガは普段忙しくしているので、最近はあまり翔にかまってやれていない。
我儘を言って困らせる事が滅多にない翔ではあるが、別に寂しいという感情がないわけではないのだ。

「翔はどうする? 先に私達と食べる?」

そんな翔の気持ちは分かるが、かと言って一人待たせるのも忍びない。
だが、自分達も色々予定があるので一緒に待つのも難しいだけに、スバルとしてはこういうしかない。
そんなスバルの問いに、翔は少し悩んだ後こう答えた。

「う~…待つ!」
「……そっか」

敢えて意思確認はせず、少し寂しげな笑みを浮かべながら翔の頭を撫でるスバル。
翔の顔を見れば、彼が前言を撤回する気がない事はわかる。
やはり、彼にとっては父や姉の存在は特別なのだろう。
自分がそうではない事には少し寂しい気はするが、こればかりは仕方がない、そんな笑みだった。

「えっと、そう言う事だからザフィーラ……」
「わかっている。こちらは任せてお前達は気にせず先に行け」
「ごめんね」
「気にするな。これも守護の獣の務めだ」
(あれ? そんな役目ってあったっけ?)

ザフィーラの言に首をかしげながらも、とりあえずは感謝しておくなのは。
そのまま彼らは分かれ、翔を乗せたザフィーラは訓練場に、なのは達は隊舎へと向かった。
その後、なのは達は出掛けるフェイトとはやてに出会うのだが、それはまた別の話。



  *  *  *  *  *



それからしばらく経った機動六課隊舎の一室。
新型デバイス支給の為に集められた新人組およびギンガとコルト…………そして何故か兼一。
皆は一様に最新技術の粋を結集して作られた真新しいデバイスに目を輝かせている。
あのコルトですら、非常に興味深そうに自分の相棒を観察していた。

そんな面々を尻目に、開発にも参加したリインとシャーリーは意気揚々と喋りまくっている。
曰く、これらは六課の前線メンバーとメカニックスタッフの技術と経験の粋を集めた最新型。
曰く、部隊の目的に合わせると共に、皆の個性に合わせた文句なしに最高の期待。
曰く、ただの武器や道具と思わず大切に、だが性能の限界まで使いきってほしい。
曰く、すぐにでも使えるが、何段階かの出力リミッターがかけられている等だ。
そのまま話は隊長達自身にもかけられている出力リミッターや、スバルやギンガと言ったちょっとした特殊例にも話が及んでいた。

「ぁ、スバルとギンガさんの方は、リボルバーナックルとのシンクロ機能も上手く設定できてます」
「っ! ホントですか!」
「持ち運びが楽になる様に、収納と瞬間装着の機能も付けときましたよ」
「あ、ありがとうございます!」

リボルバーナックルは重い上に色々かさばるので、携帯性と言う点では非常に不便だった。
しかし今回、その辺りが改善されたと聞いて互いに微笑みあう仲良し姉妹。
シャーリーとしても、その笑顔を見ると苦労した甲斐があったと言わんばかりに喜んでいる。
とそこで、もう一人の特殊例であるコルトにリインが話を振った。

「ウィンダムも中身はだいぶ新式になっていますから、前よりだいぶ使いやすくなってると思うですよ」
「ども」

ウィンダムはコルトの師の代から使っているデバイスだけあり、かなり年季のいった代物だ。
コルト自身色々手を入れてはいたようだが、さすがにその道のプロと管理局の最新技術には到底及ばない。
御蔭様で、このほどすっかり新品同様にリニューアルと相成ったわけだ。
コルトとしてもそれが嬉しくないわけではないらしく、努めて仏頂面を維持してはいるが、僅かに口角が引くついていたりする。口数が普段以上に少ないのも、それを悟られたくないからだろう。

「でも、カートリッジシステムを入れなくてホントに良かったですか?」
「制御が甘くなる位なら多少の出力不足は気にしな…しませんので」
「はぁ、そうですか」
「それに、出力が足りないのは今に始まった事じゃ…ありませんから。
 その辺りはなんとでもなる」

十年前に比べれば、インテリジェントデバイスにカートリッジシステムを乗せるのもそう珍しくはない。
いくつかのサンプルやデータから、安定させる方法が確立された成果である。
コルトも出力不足が弱点なのは承知しているが、それを道具で補うという方法はあまり気が乗らないらしい。

「勿体無いと思うんですけど……」
「まあまあ、本人がそう言うんだから仕方がないよ。
 デバイスに頼りきりになりたくない、って言うのもわからないではないからね」
「……」

とりなす様にして口を挟むなのはに対し、コルトは一瞥をくれただけで特に何も言わない。
なのはの言っている事が別に的外れと言うわけではないからだろう。

まぁ、とりあえず皆各々に満足のいく相棒を得られたのなら良い事だ。
ただ、これまでは静観していたが、兼一としてはなのはにどうしても聞いておきたい事があった。

「ねぇ、なのはちゃん」
「はい?」
「やっぱり…僕もこれ、持たなくちゃダメ?」

そう言って眼の高さまで持ち上げたのは、一見すると普通のアナログ腕時計。
だがその実、これまた時空管理局の最新技術が惜しげもなく注ぎ込まれた逸品である。

愛用のバッジを使っていないのは、色々と思い入れのある物に手を入れたくなかったからだ。
ただその代わりといってはなんだが、文字盤が兼一のトレードマークでもある例のバッジと同じ柄をしているあたり、中々に芸が細かいと言えよう。
まあ、それはともかくとして、兼一からの問いに対するなのはの答えは決まっている。

「ダメです」
「どうしても?」
「どうしても! です」
「う~ん……」
「やっぱり、気が乗りませんか?」

困惑気味に問いかけられるも、兼一は腕を組んで唸るばかり。
確かにこういうものがあると便利なのは事実なのだが、あまりそういうものに頼りきりになるのもどうか。
なにより、防具が万全過ぎると心に隙が生まれそうで怖い。少々お調子者な面があるのは本人も自覚する所なだけに、その辺りが心配だったりする。

「でも、さすがに現場に出るのに帷子と手甲だけ、ってわけにはいきませんよ。
 体は帷子が守ってくれてるとは言え、さすがに直撃を受けたら危ないですし、頭なんて防具すらないじゃないですか」
「う”……」

一つ一つが日本刀と同じ製法で作られた鎖帷子とはいえ、次元世界水準の兵器の直撃は不味い。
実際、かつてしぐれの鎖帷子も弾けた事があるし、直撃しても絶対安全とは言い切れない。
当たらなければいい話ではあるが、絶対に当たらないと断言できる根拠もない。
特に兼一の場合、誰かを庇って被弾することなど大いにありうる。
その意味で言えば、なのはの危惧は至極当然の物なだけに、兼一としても反論の余地がないのだ。

「なにより、私達には部下の命を守る努力と、必要と思われる装備を持たせる義務があります。
 幸い、技術部の方で兼一さん向きの装備を開発してる事ですし……」
「それが、これ?」
「はいです! AMFをはじめとした対魔力結合不可状況装備の一つ、電池式の防護服です!」
「と言っても、これ自体は別に防護服を生成するわけじゃありません。あくまでも、装備者の周りに身を守る為の疑似フィールドを展開するためのものです。
 でも、これならとりあえず動きを阻害される心配もありませんから、兼一さんに向いてると思うんですよ」

なのはの言葉が示す通り、兼一があまり防護服の類を必要以上に付けたがらない理由の一つがこれだ。
ガチガチに固めれば確かに身の安全は保たれるかもしれないが、その分動きの邪魔になる。
そう言うのは兼一としても好ましくないのだが、これならとりあえずその問題は解消される。
となると、兼一としてはますます断り辛くなるわけで……。

「確かにまだいくつか課題もあって、その解決に必要なデータの蓄積が不十分な関係からまだ正式採用はされてません。でも、バッテリーの耐用時間はまずまずですし、強度も実用レベルには問題ありませんから」

なんでも、なのは達とコネのある技術部の人間が手掛けてくれたそうなのだが、正式採用には間に合いそうにないのだと言う。管理局自体の腰の重さもあって、中々本腰を入れてくれないのも原因だとか。
魔導技術全盛の時代だけに、そこから外れた技術にはまだあまり目を向けてくれないらしい。

かと言って、折角実用レベルにある物を持たせないとなると、それはそれで周りから叩かれてしまうのが今の彼女らの立場。
その上、兼一も今は一局員である以上、上の命令には従わねばならない。ましてやそれが、理不尽とか横暴とか言う類の命令でないのなら尚更だ。
いや、兼一に持たせればデータの蓄積にも丁度いいと言うのは否定しないが……。

(まぁ、場合によっては外しちゃえばいいわけだし……)
(どのみち、命令したとしても強制力なんてたかが知れてるんだよね。
 兼一さんがその気になれば外しちゃえるんだから、せめて普段持ち歩くくらいはしてもらわないと……)

実を言えば、なのはも兼一が戦闘時にこれを常に使用することにそれほど期待はしていない。
生真面目で義理がたい兼一の事だから、基本的には自分達の顔を立てて指示には従ってくれるだろう。
しかし、その義理から逸脱した状況が発生すれば話は別。例えば、彼の武人としての誇りや在り方が優先される状況が発生すれば、彼はきっとそれを外す。
なのはとしては、その可能性は決して低くないと思うからこそ頭が痛く、思わず重いため息が漏れてしまう。

だが同時に、それを絶対にさせない方法と言うのも思いつかない。
まさか、無理に外そうとしない様にトラップを仕込む、なんてわけにもいかないのだから。
そんな感じでそれぞれ色々と思う所はあるわけだが、兼一とていい年をした大人。
さすがに十も年下の少女を相手に意地を張り続けるのも大人気なく、相手が自分の身の安全を考えてくれている以上、その顔を立てないというのも格好がつかない。

それになのは達には悪いが、要はこの防護服とやらがその性能を発揮しない様に立ちまわればいいのだ。
先ほど当たらないと断言はできないと言ったが、当たらないよう努力する事はできる。
盾を持っていたとしても、使わなければ本人からすればないのと同じ。
それも、その盾がほとんど動きを阻害しないとなれば、お荷物にすらならないのだから。

「うん。まぁ、仕方ないよね」

その言葉を聞き、シャーリーとリイン、そしてなのはが深々と安堵の息を漏らしたのも当然であろう。
ただ、折角説得が成功したと言う傍から早速新たな問題が浮上するあたり、今日は厄日か何かだろう。

「ぁ、このアラートって!」
「一級警戒態勢!?」

それまで沈黙していたモニター群は、突如として赤い画面に切り替わる。
同時に室内もまた赤い光に染まり、けたたましい警報音が鳴り響いた。
その意味するところはつまり、機動六課設立初となる出動命令である。



  *  *  *  *  *



場所は変わって現場へと向かうヘリの中。向かう先は山岳地帯を移動中のリニアレール。
副隊長二人は交代部隊と共に出動中の為今回の作戦行動には参加せず、外周りをしていたフェイトは現場での合流となる為ヘリには同乗していない。
それでも新デバイス受領の場にいたメンバーのうち、シャーリーを除いた全員が乗っているのだからそれなりの人数ではあるが。

窓を除けば眼下には深い緑、すぐ横にはまだ雪の残った山々。
いよいよ現場が近づいてきた証拠であり、なのははこれからの動きを確認する。

「それじゃ、最終確認。今のところ重要貨物室までは到達してないみたいだけど、多分それも時間の問題。ここからは時間との勝負になる。あんまりゆっくりはしていられないよ」
「それに今入った情報ですと空から飛行型、崖の上や麓にもガジェットが集まってきているようです」
「うん、空は私とフェイト隊長で抑える。その間に、みんなはリニアレールの前後に乗り移って両側からガジェットを排除しつつ、中央に向かい七両目重要貨物室の目標を確保。
スターズの二人にはリイン、ライトニングの二人には兼一さんがついてください」
「うん」
「はいです!」
「あの、私達は?」
「ギンガとコルトは崖の上と麓に降りて、集まってきているガジェットをお願い。
 私とフェイト隊長も空が終わり次第支援に入るから、無理はしないでね」
「「了解」」

初陣となるスターズやライトニングだけでやらせるのにはやはり不安があるし、この辺りが無難な所だろう。
ギンガやコルトは経験も豊富だし、元より遊撃扱いだ。こういう役割が本来の立ち位置と言える。
そうして一通りの指示を出し終えたなのはは、そのまま操縦席へ向かった。

「ヴァイス君!」
「ウッス! なのはさん、お願いします」

皆まで言わずともわかるとばかりに、手早くメインハッチを解放するヴァイス。
なのははメインハッチへと向かうと、最後に皆を振り返って声をかける。

「じゃ、出てくるけど、みんなも頑張ってズバッとやっつけちゃお」
『はい!』

威勢良く返事をする新人達。だがその中にあってただ一人、キャロはどこか沈んだ面持ちでいる。
その事に気付いたなのはは、キャロへと歩み寄りその頬にそっと触れた。

「キャロ。大丈夫、そんなに緊張しなくても」
「ぁ」
「離れてても通信で繋がってる。一人じゃないから…ピンチの時は助け合えるし。
キャロの魔法は、みんなを守ってあげられる優しくて強い力なんだから。ね?」

僅かに頬を紅潮させながら、なのはの言葉に耳を傾けるキャロ。
しかしそれでも不安を払拭しきれないのか、その顔はどこか頼りない。
なのはもそんなキャロの心を少しでも軽くしてやりたいのだが、考え込む時間も惜しい。
そこでふと、なのはは兼一へと話を振った。

「兼一さんからは、何かありませんか? なんかこう…勇気の出る一言とか」
「え? そうだなぁ……まぁ、人間いつかは……」
「はい?」
「いや、何でもない。忘れて」

『人間いつかは死ぬわけだし』と言おうと思って、寸での所でやめた。
昔美羽に言われた事だが、全然全く勇気が出なかった事を思い出したからだろう。
ただ、その代わりと言ってはなんだが、キャロの頭に手を乗せこう言った。

「う~ん、キャロちゃんがなにでそんなに悩んでいるか僕は知らないけど……まぁアレだね。難しいことは、とりあえず―――――――――――――ぶっ壊してから考えよう!」
『え、ええ!?』

『良いのかそれで』と言わんばかりの反応。
ただそれを聞いたなのはは「ああ、こう言う所もそっちの色に染まっちゃったんだ」と思い、溜息しか出ない。
なんというか、どこぞの死神や鬼の様な台詞である。まったく、いったい誰に似たのやら。

「で、でも!」
「ほら、そんなに肩肘張らないで。良いんだよ、失敗しちゃっても」
「え?」

失敗しても良い、それは今までどこに行っても言われた事のない言葉だった。
それもそうだ。普通、失敗などしないに越した事はないし、キャロの場合その失敗が高くつく事が多い。
だから、『失敗してはいけない』『ちゃんとやらなくちゃいけない』『そうじゃないと、また居場所を無くしてしまう』そんな恐怖が、彼女の中にはあった。
そしてその恐れが、キャロの身体を固くしている原因でもある。

しかし、そうして身体を強張らせるキャロの姿は、兼一には痛ましく映った。
まだ十歳でしかない子どもが、ここまで思い詰めると言うのは見ていて辛い。
子どもと言うのは、もっと気楽に、無条件に希望を持っていられる大切な時代なのに。

「誰でもはじめから上手くやれるわけがないし、なんのかんの言ってもまだ二人は子どもだ。
何かやっちゃったとしても、その時は頼っていいんだよ。その為に、大人(僕達)がいるんだから」
「……ぁ」
「エリオ君もそうだけど、二人はちょっと頑張り過ぎだよ。肩の力を抜いて、気楽に行こう。
 もしもの時は、ちゃんと守るから。ね?」

微笑みかける兼一と、少し気の抜けた様な表情のキャロ。
そんな二人の様子を見て、なのははキャリアの差と言うものを痛感する。
戦士としてではなく、一人の人間としてのキャリアの差。
未だ二十歳にも満たない彼女ではどうやっても持ち合わせようのない、「大人の余裕」が少々眩しかった。

「それじゃ兼一さん、後はお願いします」
「うん。なのはちゃんも、気をつけてね」

兼一に掛かると、エースオブエースですら子ども扱いだ。
まぁ、実際になのはが子どものころから知っているわけだし、彼にとっては今でも『かわいい女の子』という認識が残っているのも当然なのだろうが。
その事に苦笑しながらも、最近は子ども扱いする人もいない為にどこか新鮮な気がしてくる。
それを意識すると、エースや隊長としての重責が少しだけ軽くなった気がした。

「……はい。スターズ1、行きます!」

そうしてなのはは大空へと身を躍らせ、バリアジャケットを身に纏う。
やがてフェイトと合流すると、二人は息の合ったコンビネーションで次々と空のガジェット群を撃破。
空には、桜色と金色の線が幾本も刻まれ、次々と爆発と言う名の花火を咲かせていく。

その後、残されたメンツで細かな打ち合わせへと移る。
と言っても、先ほどなのはが行っていた事の確認がほとんどだったが。

「というわけで、スターズかライトニング。先に到達した方がレリックを確保。ちょっとした競争ですね。
それと私は管制を担当するですから、あまりスターズのサポートはできないかもしれませんが、大丈夫ですか?」
「「はい!」」
「ギンガ達の方は、担当は決まったですか?」
「はい、ウイングロードがあるので私が上を。
コルト…アヴェニス一士はこのまま麓の森に降りてガジェットの掃討に当たります」

ファーストネームで呼んだ瞬間睨みつけてくるコルトには溜息をもらしつつ、訂正するギンガ。
一応彼女の方が階級は上なので、指示には従うようだがその辺りを妥協する気はないらしい。

「了解です! それじゃ、ギンガ達は私達が降りた後にそれぞれ持ち場に移動してください。
ではみんな、いつもの練習通りに頑張るですよ!」
『はい!』

そうしている間にもヘリは移動を続け、やがて降下ポイントへと到着する。
そして降下の準備が整ったところで、ヴァイスの檄が飛んだ。

「さぁて新人ども、隊長さん達が空を抑えてくれてるおかげで、安全無事に降下ポイントに到着だ。
 準備は良いか!」
「「はい!」」
「スターズ3、スバル・ナカジマ」
「スターズ4、ティアナ・ランスター」
「「行きます!!」」

先に降下を開始したのは前部を担当する事になったスターズとリイン。
二人は臆することなくリニアレールへと飛び降り、着地するまでの間にバリアジャケットを展開する。
リインも空を滑る様にしてその後を追う。
後部へと到着すれば、次はライトニングの番だ。

「次、ライトニング! チビども、気ぃつけてな」
「「はい!」」

ヴァイスの叱咤に、威勢よく返す二人。
だがその実、キャロの顔はまだどこか浮かない。
なのはや兼一の励ましは確かに心に響いた。しかし、何年もかけて培われた物はそう簡単には変わらないのだろう。
その背中を兼一はどこか心配そうに見つめていたが、そこでエリオが手を差し伸べた。

「一緒に降りようか」
「ぇ…………うん!」
「ライトニング3、エリオ・モンディアル!」
「ライトニング4、キャロ・ル・ルシエとフリードリヒ!」
「きゅく」
「「行きます!!」」

二人は手を取り合い、揃って空に身を躍らせた。
それを見送った兼一もまた、リニアレールに降下すべくハッチの縁に足をかける。

「じゃ、僕も行くとしようか」
「兼一!」
「え?」
「しっかり面倒見てやれよ」
「うん、ヴァイス君もありがとね」
「おう、行って来い!」

そうして、兼一もまたハッチから一歩踏み出し落下を開始する。
落下の間にエリオとキャロはバリアジャケットを展開、同時に浮遊の魔法を使い落下速度を調整する。
飛行と違い、物体を浮かせるのは比較的容易な魔法だ。
が、そんな二人の傍を何かがとんでもない速度で通り過ぎた。

「キャロ、今のってもしかして!?」
「兼一さん!?」

ちゃんと目視できたわけではないが、一瞬視界の端を通り過ぎた感じだとまず間違いない。
そういえば、兼一はパラシュートも付けていなかったし、魔法などもってのほか。
如何に達人とは言え、あの速度で墜落すれば不味いのではないか。

しかし、今更二人にできる事はない。
やがて『ドゴーン』というかなり重々しい衝突音が響くと、眼下には穴のあいたリニアレールの屋根。
二人は有るかもしれない可能性に一瞬顔を青くする。
だが、先ほど支給された電池式防護服を使用していれば大丈夫な筈。
それを希望に二人は着地し、すぐさま兼一が空けた穴を覗き込む。

「兼一さーん!」
「大丈夫ですかー!」

リニアレールの内部で反響する二人の呼びかけ。
しかし返事が返ってくる事はなく、二人が意を決して飛び込もうとしたところで、穴の縁を掴む手が現れた。

「あいたたた、失敗失敗」
「け、兼一さん……」
「よかった、無事だったんですね」
「ごめんね、心配させちゃって。でも、受け身は取ったから大丈夫だよ」

そういう問題なのだろうか、とは思わないでもないが二人ともそんな事に突っ込む余力はない。
普通、あの高さから落下して無事なのも異常だが、衣服にこれと言って傷がないのも異常だ。
というか、それ以前の問題として……

「って、なんで制服のままなんですか!?」
「さっき電池式防護服の端末もらいましたよね!? あれ、どうしたんですか!!」
「え? ………………あ、忘れてた」

こう言った物を使う習慣がそもそもない為か、どうやらすっかり失念していたらしい。
『なのはちゃんに怒られる』と、慌てた様子で右腕に撒いた腕時計を弄っているが、一向に起動する様子はない。
それを見かねたのか、エリオがどこか疲れた様子で教えてくれる。

「あの、別にスイッチとか入れなくても、命令すれば勝手にやってくれますよ」
「え、そうなの!? そう言えばみんなのデバイスもそうだよね、便利だなぁ……」
「あ、あの…本当に急いだ方が良いと思うんですけど……」
「あ、そうだね。えっと、それじゃ『ジャケット・オン』…でいいのかな?」

やはり使い慣れてないせいで、どうにもおっかなびっくりな様子の兼一。
なんとも締まらない話だが、それでも支給された端末は起動し兼一の身体を光が包む。
光が消え去った頃には、その衣装はいつぞや身に付けていた道着や手甲に変わっていた。
どうやら、なのは達の方で瞬間装着の設定もしてくれていたらしい。
ちなみに、この間にリインによるバリアジャケットの解説がされていたのだが、エリオ達はすっかり聞き逃してしまった。

というか、そもそも今はそんな事を気にかけていられるような状況ではない。
兼一が這い出してくるのと前後して、エリオ達の背後で異音が響く。
振り向いた時には、隣の車両の屋根を突き破ったガジェットⅠ型が攻撃態勢に入っていた。
そして、機体正面に配置された黄色いセンサー状の射撃装置から光線が放たれようとした時、二人のすぐそばを一陣の風が吹き抜ける。

「ひゅっ!」

軽い跳躍と共にガジェットの頭上を取ると、突き手を逆の手で支えながら打ち下ろす。
中国拳法の一手、「撃襠捶(げきとうすい)」。
その一撃は深々とガジェットの装甲に突き刺さり、周辺を見るも無残に破壊した。

兼一は手応えから仕留めた事を確信すると、即座に飛び退く。
すると、間もなく配線や基板がショートし、ガジェットは爆砕した。

だがまだそれで終わりではなく、何機ものガジェットが這い出て来る。
一人で全て撃破することなど容易いし、実際先ほど中に落ちてしまった一両目にいたガジェットはあらかた兼一が撃破していた。

しかし、それでは二人の成長に繋がらない。
あくまでも自分はほどほどに、二人が危なくなった時にはフォローするのが役目。
ならば、二人にもしっかりやってもらわなければならない。

「二人とも切り替えて! まだ来るよ!」
「あ、はい!」
「フリード!」
「きゅくー!」

エリオはストラードを持ち直し、キャロはフリードに目配せする。
二人の体勢が整った事を感じ取った兼一は、一気にガジェットとの間合いを詰めた。

「吽っ!!」

一声と共に、兼一の剛腕が横薙ぎに振るわれ、上腕の部分全体で打撃を与える。
「腕刀」と呼ばれる技により弾き飛ばされたガジェット達は、リニアレールの外へと放り出された。

「フリード、ブラストフレア!」
「きゅく!」
「いくよ、ストラーダ!」

フリードから放たれた炎弾がガジェットを炎に包む。
また、エリオはソニックムーブで宙に放り出されたガジェットにとりつく、その場でストラーダを数閃。
エリオが再度リニアレールに飛び移ると、数か所を輪切りにされたガジェット数機が爆発した。

「ダメだよ、二人とも。ここはもう戦場、一瞬の油断が命取りになるんだから」
「……はい」
「ごめんなさい」
「…きゅくる」

やんわりと注意する兼一に対し、二人と一匹はしょんぼりとうなだれる。
そんな子ども達に苦笑を浮かべながら、兼一は二人の背を軽く押す。

「わかってくれたのならもういいよ。
さ、まだまだ敵は多い。気負わずに行こう」
「「は、はい!」」



  *  *  *  *  *



時を同じくして、リニアレール前部。
こちらも、とりあえずは順調に事を運んでいた。

「スバル、そっちは?」
「こっちは大体オッケー。
 さすがに新型だよね、アレだけやっつけたのに全然余裕」
「あんま浮かれてると、足元すくわれるわよ」
「ぁ、ごめん」

目標に向けて車両の前部から進攻を続けるスバルとティアナ。
さすがにこれまでの訓練データをもとに調整されただけあり、ぶっつけ本番で使っても違和感がない。
それどころかかつてない程に調子が良い。

「でも、エリオとキャロは大丈夫かな?」
「大丈夫でしょ、何かあっても兼一さんがいるんだし」
「うん、そうだよね」
(それに、いざとなればあの人一人でも蹴りをつけられるんだから……)

まぁ、スバルの心配もわからないでもない。
自分達はこれまでにも戦場ではないとはいえ、災害現場と言う危険な現場でやってきた経験がある。
しかし二人の場合、こういった危険な現場と言うのは初めての経験だ。
ヘリの中でのキャロの様子もおかしかったし、気負いや緊張で普段通り動けるかは心配だ。

だがそれも、白浜兼一と言う自分達とは比べ物にならない戦闘能力を持つ人間がいるのでは意味がない。
むしろ、自分達は余計なことなど考えずに、自分達の心配をするべきである事もわかっていたが。

「ほら、車両の停止はリイン曹長がやってくれてるんだから、その邪魔をさせないのが私達の仕事。
 一端合流して、一体ずつ打ち洩らさない様に潰していくわよ」
「うん!」

そうしてリインが陣取る車両の手前で合流する二人。
とそこで、まるで重機が何かを破壊するかのような音が響いてきた。

「ティア、今のってもしかして……」
「あっちも派手にやってるわね。ここまで聞こえるってどんだけよ」
「じゃあやっぱり、アヴェニス一士の『ケイローン』?」
「それ以外にここまで派手な音がする魔法もそうないでしょ。
 なのはさんたちなら持ってるだろうけど」

ケイローンとは、コルトが使用する物質加速魔法の名称である。
直接岩などを加速して打ちだすその性質上、着弾時にかなり大きな音がするのが特徴だ。
それが立て続けに聞こえてくる事を考えると、どうやらかなり盛大にやっているらしい。

「アイツ、雑魚は一網打尽にしたがる所があるし。
 どうせ今頃はバカスカとケイローンを打ちまくってるんでしょ」
「あ、あはは…確かにアヴェニス一士、雑魚の相手はめんどくさいって言ってたもんね」

コルトの基本戦術は、ミッド式を使いながらもその性質上あまり多数を一度に相手取る事には向かない。
まぁ、ウィンダムで殴ったり突いたり、あるいは斬ったりするか、それでなければアリアドネで高速するのが基本である。それだと確かに多数の敵を一度に相手にするとなると面倒な部分はあるだろう。

その為か、訓練でもコルトはガジェットを相手取る際にはケイローンを多用することが多い。
確かに、比較的大きめの岩塊を使えばまとめて粉砕できるので便利だが、アレは大味過ぎる。
実際、使う度に訓練場に設定された廃棄都市等への被害がバカにならない。
本番であれば場所くらいわきまえるだろうが、それでもアレは雑魚を相手にする時はそういう事を好む。

「でもそれって、それだけたくさん来てるって事だよね」
「だったら何?」
「あ、うん。大丈夫かなぁって……やっぱりたくさんいるのは危ないし」
「……ふぅん」

あまり交流が持ててはいなくても、同じ部隊の仲間である事に変わりはない。
その観点で言えば、スバルの心配は仲間を案じるごく当然の物だろう。
まぁ、相手が相手なので、ティアナの様な気のない反応が返ってくるのも無理からぬことではあるが。
本人も、スバルがそんな心配をしていたと知れば一笑に付すか、あるいは軽く無視することだろう。

「ギン姉もそうだけど、一人だったら誰もカバーしてくれないでしょ?」
「まぁ、そりゃあね。でも、アイツの場合は自業自得でしょ。むしろ、私はギンガさんに同情するわ。アイツが少しでも協力的になれば、もうちょっと安全に立ちまわれるでしょうに」
「それは、まぁ……」

今回の状況では難しいだろうが、違う状況なら二人で協力できればリスクが下がるのは自明。
しかしコルトの性格上それは難しいし、下手に一緒に戦うとケイローンやアリアドネの巻き添えを食いかねない。
一度ならず訓練中に二人を組ませた事があるが、本当にそういう危ない場面があったのだ。
人でも物で、アレはあまり周囲への被害を気にしないし、配慮にも乏しい。
確かにこれでは、ティアナがギンガに同情するのも無理はないだろう。

「それで、結局あんたはなにが言いたいわけ?」
「えっと、その、何ていうか……アヴェニス一士にも知ってもらいたいかなって」
「……?」
「肩を並べて戦える仲間とか、背中を預け合える相棒とか。そういう人がいると、一人の時よりもずっと勇気と力がわいてくるんだって。
 私も、ティアがいてくれるから突っ込んで行けるんだしね」

その言葉を聞いた途端、ティアナの顔が瞬く間に紅潮する。
スバルが恥ずかしげもなくそういう事を言える奴だとよく知っているティアナだが、時折不意をつかれるから心臓に悪い。ティアナは必死にスバルから赤くなった顔を隠し、なんとか平常心を取り戻そうと躍起になる。

(あ~も~! こいつはホントに、どうしてこう……!!)

こうやってスバルに不意打ちを食らうと、なぜか無性に腹立たしくなる。
だが、同時にスバルには感謝もしていた。
正直、ティアナにはコルトの在り方が眩しい時がある。
何があろうと、一人でなんとかしてしまおうとするその姿。
仲間を頼らないどころか、仲間の存在を無視するその姿勢が管理局員として正しくないと分かっていながらも、どこか惹かれる部分がある事は否定できない。
しかし、スバルがこうしてあけっぴろげな好意と信頼を示してくれると、『自分はこれでいい』『あんな風になる必要はない』と思えるから。

とはいえ、そんな事を真っ直ぐに言えるほどティアナは素直ではない。
結局、思っている事とは裏腹に、ついついぶっきらぼうな事しか言えないのだった。

「ほら、バカなこと言ってないでさっさと行くわよ!!」
「う、うん!」
(……ありがと。私も、アンタがいるから私でいられるんだと思うし)
「え、ティア、何か言った?」
「別に何でもないわよ!」
「そう?」

ティアナに怒鳴られるのは慣れっこのスバルなので、この程度ではびくともしない。
だがそこへ、突然通信が入った。

『スターズ1、ライトニング1、制空権獲得』
『ガジェットⅡ型、散開開始。追撃サポートに入ります』
『ライトニングF、8両目突入………………エンカウント、新型です!!』
「「え!?」」

本部からの通信に、二人は揃って驚きと不安の入り混じった声を漏らす。
兼一がいるとはいえ、全く性能がわからない相手と戦うからには通常以上の危険が付きまとう。
しかし、今の二人にできるのは、ただ仲間の無事を願う事だけだった。



  *  *  *  *  *



場面は戻ってリニアレール後部。
エリオとキャロの前には、新型のガジェットと思われる球形の比較的大型な機体。

それまで二人の後ろを守る形でガジェットの相手をしていた兼一も、二人を庇うべく前に出ようとする。
だがそれは、エリオとキャロの緊張の混じった声音で遮られた。

「あの、私達にやらせてください!」
「我儘だってわかってます。でも、守ってもらってばっかりじゃなくて、自分たちでやりたいんです!」

二人の切実な願いに、一瞬ためらいがちな表情を浮かべる兼一。
基本的な部分はⅠ型と同じだろうが、詳細な性能は不明。
正直、二人の安全を考えるならここは兼一が相手をすべきだ。

しかし、それが過保護だと言われれば否定できる材料もない。
ここは戦場、立つ者は望むと望まざるとにかかわらず相応のリスクを背負う。
そして、二人はそのリスクを背負う覚悟で六課に来たのだろうし、今もそのつもりで言っているのだろう。
その点で言えば、過保護も過ぎれば二人の覚悟を蔑ろにするという事になる。
かと言って、子どもを危険な目に合わせるのはどうかと言う倫理観もあるわけで……。

そこで兼一は、師達なら何と言うかを思い浮かべる。
まぁ、この時点で明らかに思い浮かべる相手を甚だ間違っているのだが。

(岬越寺師匠なら『獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすものだよ』って言うだろうなぁ。馬師父なら『中国のことわざでは「摩擦なく宝石を磨く事が出来ない様に、しれんなしに人は完成しない」と言うね』って言うんだろうなぁ。逆鬼師匠やアパチャイさんは考えるまでもないし、しぐれさんなら『なせば…なる』とか意味もなく自信たっぷりに言いそうだ。長老はどうせ『成り行き任せ大作戦じゃ!!』って言うな、うん)

つまり、要約してしまうと「とりあえずやらせちゃえ」と言う事なのだろう。
問題が起きた時はまぁ、その時に何とかすればいいや。
結局、そういう結論に至ったらしい。

「よし。がんばって、二人とも」
「きゅく!」
「あ、フリードもね」
「「はい!」」
「きゅく~」

兼一が二人の後ろに下がると、タイミングをはかっていたわけでもないだろうが、ガジェットはベルト状の腕を伸ばす。
二人はそれを跳び退いて回避、キャロは着地と同時にフリードに指示を飛ばす。

「フリード、ブラストフレア!」
「きゅくー」
「ファイア!!」

吐き出された炎弾は、真っ直ぐにガジェットの腕目掛けて飛んでいく。
しかし威力が足りないのか、それは容易く弾き返され斜め後ろの壁面に着弾し、黒煙を上げる。
その間にエリオは、自身の魔力変換資質により帯電させたストラーダで本体に斬りかかった。

「てやああぁぁぁぁぁ!!」

だがそれも、分厚い装甲に阻まれ通らない。
兼一は二人の背後で残ったガジェットを撃破しながら、その様子を見守っている。
しかし、ガジェットから強度のAMFが展開された。

AMFの効果により、魔法の大半を封じられた二人。
エリオは大型のガジェットを相手に圧倒的な不利に力比べに持ち込まれ、魔法を封じられてはキャロは支援もできない。

(これは、ちょっと不味いかな? そろそろ、代わった方が……)

正直、この様子ではそろそろ危ないと兼一でも思う。
実際問題として、魔法を封じられてしまえば二人は普通の子どもと大差がない。
二人とも訓練の甲斐あって年の割には腕も立つが、それではあの大型のガジェットの相手は苦しい。
故に、もうこれ以上は危険、選手交代が望ましいと考え兼一が一歩踏み出そうとしたところで、キャロがエリオにおずおずと声をかける。

「あ、あの!」
「くぅ……大丈夫! 任せて!!」
(そう…だね。任せると言ったのは僕だ。なら、信じないと。
 今手を出せば、二人の覚悟を踏み躙ってしまう)

今はまだ二人とも戦える。
いざとなれば二人の救出も不可能ではない以上、まだ手を出すべき時ではない。
兼一は踏み出しかけた足を引き、再度二人に背を向けガジェット達と向かい合う。

「ぜりゃあ!」

突きが、蹴りが、次々とガジェットへと突き刺さり、鋼鉄の機体が砕かれていく。
背後からはエリオの苦悶の声と、キャロの息をのむ音が聞こえてくる。
いても立ってもいられない自分をなんとか抑え、兼一は目の前のガジェットだけを相手取っていた。

しかし、やがて背後から無理矢理何かをこじ開けるような音がした所で、兼一は時間切れを悟る。
そこには、大型ガジェットの腕につかまったエリオの姿。
良く頑張ったが、力及ばなかったのだろう。
その小さな体は宙に投げ出されるが、兼一なら抱きとめ再度リニアレールに戻る位は容易い。

(よく、頑張ったよ、エリオ君。後は僕が……)

だが、そこで兼一は思いもよらぬ物を見た。
なんと、投げ出されたエリオを助けようと、キャロもまたリニアレールから飛んだのだ。
まさか比較的おとなしいキャロがそこまで思いきった行動に出るとは思わず、反応が僅かに遅れる。
そして、AMFの影響で魔法を封じられている今のキャロに、再度リニアレールに戻る事は不可能だ。

「いけない!」

なんとかキャロはエリオを抱きしめることには成功した。
だが物理法則に基づき、放物線を描いて落下を開始する二人。
兼一はそんな二人の後を追い、自身もまたリニアレールから飛び降りる。

崖を駆け降りながら二人を追う兼一。
かなりの高さの為、まだ二人が地面と激突するまでには間がある。
兼一の脚力なら、追いついた上で崖を蹴って二人をキャッチ、空中三角飛びでも使って崖に戻れば済む。
そう言う計算を立てていたのだが、通信機から聞こえてくるなのはの言葉はその意表をついた。

「発生源から離れれば、AMFも弱くなる。使えるよ、フルパフォーマンスの魔法が!」
「え? それってもしかし、て……」

自分がやってる事は、単なる取り越し苦労なのか。
そんな危惧が兼一の胸の内で芽生えた時、それは現実の物となる。

キャロを中心として、二人の周りをピンク色の光の球体が発生。
それと共に落下速度が落ち、二人は空中に浮遊する。
やがてその球体を、まるで卵の殻か繭を破る様にして巨大な何かが姿を現す。
それは、サイズこそ大違いだが、全体的なシルエットとしては良く見慣れたもので……。

「これ、フリード!?」

そう、そこにいたのは多しい雄叫びを上げる翼長10メートル以上の堂々たる白銀の飛竜。
まさかフリードがこんな姿になるとは思っておらず、その威容に僅かに圧倒される。
が、気付けば兼一はものの見事に二人と一匹を追い越し、崖下目掛けて疾走を続けていた。

「って、兼一さん!」
「何してるんですか!?」

二人を助けようとしたのだが、全く以っていらぬお節介だったらしい。
なにしろ二人はフリードの背に乗り、優雅な空の散歩状態。
兼一はとりあえずそれに安堵し、いよいよ地面が近づいてきた所で方向転換する。

「おぉっとと……」
「「…………」」

逆さ白頭鳥(さかさひよどり)を用い、非常識にも垂直の壁を駆け上がっていく兼一。
いつぞや、副隊長達が兼一が垂直の壁を駆け上がった事を思い出し、二人は顔をひきつらせる。

「まぁ、二人とも無事で何より。
 危ないと思ったんだけど、早とちりだったみたいだね」
「あ、はい」
「すみません、心配させちゃって」
「いや、それは良いんだけど……どうする?」
「「え?」」
「まだ、続けるかい?」
「「…………………………はい!!」」

追いついた所で交わされる意思確認。
だが、そんな事をする必要はなかったらしい。
二人の眼には、まだ諦めの色はない。
ならば、見守ると言った以上好きなようにやらせてやるべきだろう。

兼一は二人に先行する形でリニアレールへ追いつき、軽やかな動作で屋根に降り立つ。
眼下にはそれを追いかけるフリードの姿。
目の前には、大型のガジェットが屋根を突き破って姿を現しているが、それには手を出さない。
あくまでもアレを仕留めるのはエリオとキャロなのだから。

とはいえ、二人がやりきるまでの間、兼一とて遊んでいるつもりはない。
大型以外にも、まだのこったガジェットはそれなりにいる。
しかもそいつらときたら、フリードとその背にいる二人に狙いを定めているではないか。
これはさすがに見過ごすわけにはいかない。

「折角子どもたちが頑張っているんだ。
 そこに水を差すと言うなら、ちょっと手加減してあげられないなぁ」

一見すると朗らかな笑顔、だがその実何やら得体の知れない気配を放つ兼一。
その後の結末は、最早語るまでもないだろう……。



そうして、危ういながらも大型ガジェットを撃破したライトニングの二人。
しかし喜びもつかぬ間、難敵を倒して一安心した所で、ようやく周りを見る余裕ができてビックリ。
なにしろ、周囲には破壊し尽くされたガジェットの残骸で埋め尽くされているのだから。

「これってもしかして、兼一さんが?」
「キャロ、ガジェットの反応は……?」
「えっと……もうない、かな?」
「い、いつの間に……」

兼一の戦闘能力はある程度知っているつもりだったが、さすがの早技に驚きを隠せない。
自分達が大型と戦っているそう長くない時間の間に、これだけの数を撃滅していたのだから。

「あ、そっちも終わったみたいだね」
「これってやっぱり、兼一さんが?」
「うん、まあね。でも、リニアレールを壊さないように加減するのは難しいなぁ」
「これで加減、ですか?」
(やっぱり怪物だ、この人……)

今更かもしれないが、そのあまりの非常識さを再認識する。
五体を用いた直接攻撃しか攻撃手段がないと言うのにこれだけの早技ができるのだから、まぁ普通ではない。
しかも、本人としてはこれでも加減していると言うのだから……。

「所で二人とも、目の前の敵に集中するのは良いけど、少し周りを疎かにし過ぎ。
 今回は僕がいたけど、場合によっては背中を狙われていたかもしれないんだから、気をつけないと」
「「はい……」」

『僕は怒ってるんだよ』とばかりに腰に手をやって説教する兼一。
確かにサポートするのが兼一の役目だったが、それを当てにして戦っているようでは危なっかしくて仕方がない。
二人の成長の為にも、言うべき事は言っておかなければならないのだ。

「それとエリオ君、あのおっきいのを相手に力比べに持ち込まれたのはいただけない。
 君はまだ身体が出来てないんだから、狭い場所でももっと動きまわって攪乱しないとね」
「はい……」
「キャロちゃんはキャロちゃんで、もっとズバッと物を言った方が良い。
 君達はパートナー、対等の関係だ。相手の事を慮るのはいい事だけど、それで尻込みしてちゃいけないよ」
「はい……」

その後も次々と二人の問題点を指摘していく。
二人としても、反論の余地がないだけにうなだれて反省するしかない。

「まぁ、まだまだ言いたい事はあるけど、とにかく二人はまだまだだって事」
「「はい……」
「……………………………………でも、よく頑張ったね。エライよ、二人とも」

そう言って、兼一は腰にやっていた手を二人の頭に移す。
そのまま優しく、労いの想いを込めて撫でてやる。
二人は一瞬呆気にとられ、それからくすぐったそうにそれに身をゆだねた。

「「えへへ♪」」
「きゅくる~♪」

一頻り撫でてやったところで、二人の頭から手を離す。
二人はどこか名残惜しげだが、気恥ずかしくて口には出せない。
その代わり、エリオの口を突いたのはこんな言葉だった。

「あの、ギンガさんの方はまだ終わってないみたいですけど…いいんですか、手伝わなくて?」
「ああ…そうだね。気にならないと言ったらうそになるけど、弟子のケンカに師匠は出ないのがルールだから」
「そういうものなんですか」
「うん、そういうものなんだ」

別に覗く分には問題ないので、正直いくかどうかは悩みどころだ。
しかし、だからと言ってこちらを投げ出すわけにはいかない。
一応敵性兵器は全機撃破した筈だが、不測の事態と言うのはいつでもおこり得る。
子ども達を残していくわけにもいかないので、せめてスターズと合流してからとなるだろう。

そんな理由もあってスターズと合流すべく、重要貨物室に向かおうとする一向。
だがそこで、突如兼一がその足を止めた。

「どうかしたんですか、兼一さん?」
「きゅく?」
「あ、いや、何でもないよ。どうやら、気のせいだったみたいだ」
「「「?」」」
(いま、誰かに見られている気がしたんだけど……気のせいだったのかな?)

気配は探っているが、特にこれと言って不穏な気配はない。
もしかしたら、山の動物からの視線か何かだったかもしれない。
そう思う事にして、兼一はスターズとの合流を優先することにするのだった。






あとがき

とりあえず、今回は珍しく進行重視です。なので、少しばっかし拙速っぽいのが心配ですね。
流れ自体もほとんど原作どおりですし、そういう意味では面白みのない回だったかも。

言い訳させてもらうと、正直ここで兼一が派手に暴れても色々な意味で仕方ないんですよね。
そりゃそれが一番楽なんですけど、その場合新人達の経験になりませんし。
なので、結局今回の兼一は引率の親御さん的な立ち位置になり、あまり絡む事ができませんでした。

その代わりと言ってはなんですが、次回はこの話の裏です。
つまり、別行動を取っていたギンガの話ですね。
こちらはちょっとちがう展開を考えているので、ある意味こちらがメイン。
早めに出せるよう頑張ろうと思います。

まぁ実を言うと、一番心配なのは兼一に持たせた電池式の防護服なんですけど。
管理局のシステム的に持たせないと問題になるでしょうし、ただでさえ叩きどころ満載の六課。
そんな些細な事で叩かれるのは御免被りたいでしょうから、これ位は普通かなと。
それにあれですよ、結局は兼一があってもなくても同じなように立ちまわり、役立つ場面では何かしらの理由をつけてとっちゃえばいいんです。
あのアイテムは結局のところ「対外的にちゃんと安全には気を配ってる事をアピールする為の小道具」ですしね。



[25730] BATTLE 22「エンブレム」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/10/08 01:53

そこは、いずことも知れぬ閉ざされた一室。
照明は暗く、調度こそ整っているが、それがかえって無機質な印象を与える、そんな部屋。

常人ならば居心地の悪さすら感じそうなものなのだが、その主はそうと感じてはいない。
まぁ、その人物の趣味を反映して作られているのだから、それは当然なのだろう。
しかしその事実こそが、この部屋の主が『普通』から逸脱している事を証明するわけだが。

そんな部屋の主。紫紺の髪の白衣の男は、中空の大型モニターを注視している。
モニターに映っているのは、山岳地帯を走る列車とそれに取りつく機械群。中には崖上や崖下、あるいは空からも迫っている。
だが、その人物の視線を独占するのはそんな木偶どもではなく、それらを撃破する少年少女達。
その瞳は、まるで新しいおもちゃを手にした子どもの様だ。
だがそこで、唐突にモニターの一角に女性の顔が映し出された。

「このままでは彼女達に確保されてしまいますが、いかがいたしましょう。増援を送りますか?」
「ふむ…やめておこう。レリックは惜しいが……」

そこまで言ったところで、唐突にその人物は口を噤み、顎に指をやって思案に入る。
視線の先には、密林の中で機械兵器を次々破壊していく青い長髪の少女と灰色の髪の少年。

「いや、やはり頼めるかい」
「では、3機種合わせて百機ほど……」
「余興でそこまでやる必要はないさ。出すのは2機だけで良い」
「ですが、それでは……」

意味がないのではないか。
実際、映像を見る限り1機や2機増やした所で意味があるとは思えない。
何しろ、列車で戦っている面々ですら、一度に十数機の機械兵器を相手にしてもものともしていないのだ。

「ああ、だからその代わりに“アレ”を出そう。
 余興とは言え手を抜いては失礼だ。より楽しんでもらえるよう、少しくらいアクセントが欲しいじゃないか」
「よろしいのですか?」
「ヒントは出してあるし、他に何か気付いたとしてもタカが知れている。
研究の副産物とはいえ、アレも所詮はおもちゃだ。
おもちゃはおもちゃらしく、子ども達の遊び相手になるのが分相応だよ」
「承知しました。それならば目標はレリックではなく」
「ああ、あの二人に設定しておいてくれ。どのみち、リニアレールには彼がいる。
 大人の相手は、おもちゃには荷が勝ち過ぎるからね」

伝えるべき事を伝えると、恭しい一礼と共に女性の映ったモニターが閉ざされる。
続いて、部屋の主は別の誰かへの回線を開いた。

「私だ。面白そうな出しものが始まるのだが、そちらを切り上げて君もどうかね?
 連日おもちゃと遊んでばかりで、そろそろ飽きてきた頃だと思うのだが」

通信先の人物は、男の提案に諸手を上げて賛意を示す。
その声音は喜色に富み、新たな刺激への渇望を感じさせた。

そのまま2・3言葉を交わし、大急ぎで部屋に向かうと応えてその人物は通信を切る。
男はそんな相手の反応に「やれやれ」とばかりに肩をすくめながら、再度モニターへと視線を移す。

「それにしても、この案件は実にすばらしい。
生きて動いているプロジェクトFの残滓、タイプゼロ、そして…………………………達人級(マスタークラス)とその弟子、か。
管理世界には滅多にいない希少種にお目にかかれるとは、私も運が良い。
どれもこれも、私の研究にとって興味深い素材ばかりだ」

達人、それは管理世界ではまずめぐり合う事のない人種。
一般人はおろか、時空管理局内部でも知る物の少ない規格外の生き物。
何故この男がその存在を知っているのか、その理由は思いの外単純だった。

「それも彼は、かつて数多の次元犯罪者を怖れ慄かせた悪夢、あの『無敵超人』の縁者と言うじゃないか。
 できれば彼の詳細なデータが欲しいが……今は諦めるしかないのが口惜しいな。
 データを取るには、こちらも準備不足と言わざるを得ない」

その声音には言うほどの無念は感じられず、むしろその事も含めて諸手を挙げて歓迎している雰囲気すらあった。
なにしろ、その表情は先ほどまでと変わらぬ余裕と喜びに満ち満ちている。

だが、これでこの男がなぜ『達人』を知るのかが判明した。
『無敵超人』風林寺隼人はかつて、執務官長も務めたギル・グレアムと行動を共にしていた時期がある。
彼の尽力もありその存在を知る者はあまり多くないが、情報を完全に統制する事は出来なかった。
特に、裏社会におけるネットワーク内では、その存在は今なお語り継がれている。
長い時間を経て、大抵の者は眉唾物の都市伝説の類と思っているだろう。
しかし、中にはその真偽を確かめた者もいた。その全てが真相に辿り着いたわけではないが、中には辿り着いた者もいる。例えば、この男の様に。

「まぁ、今のところは彼女達のデータをとれる事で満足するとしよう。
 だが、おまけくらいは期待しても罰は当たらないかな?」



BATTLE 22「エンブレム」



リニアレールが走る山岳地帯の麓。
通常であれば深い緑に覆われ、山鳥のさえずりや草木が風に揺れる音が心に染入る筈の場所。
しかしそこは今、落雷の如き轟音と、まるで落石事故でも起きたかのような惨憺たる有様で埋め尽くされていた。

場を埋め尽くすのは、未だ火花を撒き散らし、所々で小規模な爆発を起こす徹底鉄器に破壊し尽くされた機械群。
その中にあって異彩を放つ黒い影。
適当に短く切られた灰色の髪の少年は、それら残骸を踏みしめる様にして立っていた。

身に纏うのは上着が長袖の詰襟、下は細身のズボンと頑丈そうなブーツ。
上下ともに色は黒で統一され、膝下まである裾を除けば、特徴らしい特徴に乏しいシンプルな衣装。
そのため、眉間に深い皺の刻まれた表情と相まって周囲に必要以上の威圧感を放っている。
所々に申し訳程度に銀の縁取りや装飾がなされているが、やはり全体的な印象を和らげるには至らない。
そんな彼、コルト・アヴェニスは手を包む黒の皮手袋を嵌め直しながら、苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。

「まったく、わらわらわらわらと数ばかり……鬱陶しい」

コルトは足元の残骸を踏み躙ると、手にした白銀の棒を軽く持ちあげる。
その先端から深緑の魔力刃が出力され、彼のデバイス『ウィンダム』は薙刀に似た形態を取った。
彼がそれを無造作に真横に一閃すると、目の前に迫っていたガジェットが輪切りにされる。
そのままそれは足元の残骸達へと仲間入りするが、コルトはそれに目もくれずに問うた。

「敵機の撃破を確認。視界内に敵影確認できず、残りは?」
《3時の方角、距離50、数は15。いかがなさいますか?》
「面倒臭い、投げるぞ」
《……Yes,sir》

コルトは出力していた魔力刃を消し、ウィンダムの先端でガジェットの残骸達を突く。
すると、彼の足元に深緑の魔法陣が展開され、続いていくつかの比較的原形をとどめたガジェットや、辺りに散らばっている岩に環状魔法陣が発生した。

環状魔法陣が一層輝きを増すと、それに伴いガジェットの残骸や岩が浮き上がる。
彼はウィンダムをある一点、視界を埋め尽くす森の一角に向けて小さく命じた。

「『ケイローン』全弾射出」

その呟きと共に、かなりの重量を誇る十数にも及ぶ砲弾が一斉に飛んだ、それもほぼ水平に。
当然、射線上にある森林は無残にもへし折られ、理不尽な自然破壊の結果として車でも通れそうな道が作られる。
自然愛護団体などが見ればもう抗議しそうな光景だが、コルトの顔には特に感慨らしきものはない。

「手応えはあり。確認のため着弾地点に向かう」
《了解。それにしても、もう少し自然を大切にしようとか思わないのですか?
 母なる大自然の恵みには大変お世話になっていると言うのに……》
「……」

その言葉に答える必要性を感じていないのか、コルトは無言のまま開かれた道を進む。
別に山も海も嫌いではないし、山籠りの経験もある。その際に生きて山を降りられたのは、豊富な食料のおかげもあった事は理解していた。
確かに自分の行いがその恩を仇で返しているという自覚はある。
が、それ以上に彼は今の状況が不満で仕方なかったのだ。

《そんなに嫌ですか、雑魚の相手をするのは》
「程度によるが、あんまり長続きすると飽きて来る。
 延々とつまらん作業を続けられるほど、俺は気が長くない」

そう、彼にとってこれは最早「戦闘」ではなく「作業」だった。しかも、この上ないほど退屈な。
『訓練』ならば同じ事を体力の限界まで続けられる、『戦闘』ならば決着がつくまで戦い続けられる。
しかし、退屈な作業を継続し続けると言うのは、ある程度を越えると嫌になってくるのは仕方がない。

同じ形、同じ性能、同じ戦術。
これで相手が強ければ話が別なのだが、油断さえしなければなんとでもなるからやっていられない。
黙々と何かに取り組む事は嫌いではない…と言うか好きな部類のコルトだが、さすがにこれにはうんざりしてきている。
はじめのうちは黙々と無表情に処理していたが、段々と飽きてきて、次第にストレスがたまってきた。

これで片手間に処理できれば、まだマシだったかもしれない。
だが、相手が魔導師にとって厄介なAMFを用いるだけあり、あまり油断するわけにもいかない。
その結果、気を引き締めつつもつまらない作業を続けると言う事になり、彼を先の様な乱雑な手段に駆り立てた。

「それに、あの方が効率が良い」
《まぁ、それはそうですがね……》

ケイローンを水平に打ったのは、何も大自然に対する八つ当たりではない。
斜め上に向けて放ち、放物線を描いて落とすとなるとどうしても攻撃範囲が『点』になる。
しかし、先の攻撃なら少なくとも真っ直ぐ進む分、攻撃範囲は『線』になるので効率的なのだ。
その上コルトの場合、さらに攻撃範囲を広げる工夫もしている。

「しかし、さすがに新式にしただけはあるな。前より切れ味が増してるじゃねぇか。この太さの樹木を安々とか」
《投網漁をする漁師の気分ですか?》
「だとしたら俺はそっちでも失格だな。獲物をコマ切れにする漁師がいるか」
《まぁ、ガジェット相手だとその切れ味も鈍るわけですが……》

コルトがやった事は割と単純だ。
ケイローンで射出する岩やガジェットの残骸との間に、高摩擦仕様のアリアドネを張り巡らせる。
仮に弾を避けようと、その間にいるのなら今度はアリアドネの餌食だ。
高い摩擦と弾の速度により、触れた森林やガジェット達は見るも無残に破壊される。
さすがにAMFがあるだけあり、ガジェットをコマ切れにするのは簡単ではないが。

と、そんなやり取りをしているうちに着弾地点に到達するコルト。
そこには、案の定というか肩透かしと言うか、一応予定通りに破壊し尽くされたガジェットの残骸の山。

《一網打尽…のようですね》
「つまらん。所詮は工業製品の延長か、どいつもこいつも同じで面白味がねぇ」
《工業製品、と言うのであれば、同じ性能の物を安定して出荷できてこそですよ》
「はぁ、いっそ……」

深々と溜息をつき、何かを言いかけ口を噤む。普通なら何を言ったのかわからず首をひねる所だろう。
しかし長い付き合いのウィンダムには、彼が言わんとした事がわかったらしい。

《ナカジマ陸曹を襲うのは感心しませんよ》
「わかってる、俺もそこまではやらねぇよ」
《それなら結構》

あの敗戦以来、コルトから見てもギンガは日を経るごとに腕を上げてきている。
自身も腕を上げているという自負はあるが、さすがに師の有無は大きいのか。
ただでさえ伯仲していた実力が、最近上回れてきている様な気がしている。

その事に焦りと悔しさを覚える半面、そんな感情を抱く事自体にゾクゾクする物も感じていた。
どう戦い、どう出し抜き、どう勝つか。それを考えるだけで鼓動が早まり、血が湧き立つ。
まるで、初めての恋に浮かれる子どもの様に……

(いや、その表現はさすがにねぇな。つーかキモイ)

一瞬頭に流れ込んできたイメージに、我が事ながら怖気が走るコルト。
腹部に何やら重いものを感じ、嘔吐を抑える様に口に手をやる。

《どうかしましたか?》
「いや、なんでもねぇ。
しかし、喧嘩吹っ掛けるとうるせぇのが多いし、かと言って模擬戦も許可が出ねぇ。ったく、どうするか……」

本来はあまり周りからの評価など気にしないコルトだが、それで謹慎処分となって訓練に出られないのは困る。
兼一への奇襲は黙認されているし、なのはから学ぶことも多い。
憶えをよくする努力をする気は更々ないが、あまり悪くなりすぎてはぶられるのは困るのだ。
ただでさえギンガとコルトは実力が伯仲している為、怪我に繋がる可能性が高いという理由で模擬戦は控えめ。
これ以上制限が掛かっては折角の良い環境が台無しだ。

とはいえ、ならばどうするかという代案も特に浮かばない。
そもそも後始末の様なものとは言え、戦闘中に変わりはないのだ。
仕方なくコルトは打ち洩らしがないかの確認に集中し、その問題をいったん棚上げにする。

《警報! 8時に駆動音!》
「ああ、確認してる。さっさとやるぞ」

ウィンダムに示された方向を向けば、そこには少々くたびれた印象のガジェットが4機。
コルトはウィンダムの先端に再度魔力刃を出力する。
しかし、今度の形態は薙刀ではなく「槍」。
先端に小さな穂先が出現すると、そのまま勢いよく距離のあるガジェット目掛けて突く。

「疾っ!!」

通常なら絶対に届かない距離だが、ウィンダムは急激にその長さを増しガジェットに迫る。
とはいえ、ガジェット4機分のAMFにより魔力刃の穂先が揺れた。
それに構うことなくウィンダムは突き進み、ガジェットのカメラへと突き刺さる。

「ぜりゃあ!!」

コルトはガジェットを突きさしたまま、思い切りウィンダムを横薙ぎに振るう。
その結果、真横にいた残るガジェットをも巻き込み、纏めて弾き飛ばす。
そして、ウィンダムを手元に戻すと再びケイローンを発動させた。
もちろん、その間には高摩擦仕様のアリアドネを展開した上で。

「ここも終わり、と。他には?」
《反応なし、こちらは終わったようです》
「そうか。なら、他が終わるまで一休みといくか」
《加勢にいかれないのですか? 普段なら獲物の横取りくらいは普通でしょうに》
「雑魚の相手はもう飽きたぞ、勘弁してくれ」

心の底から辟易したとばかりにガジェットの残骸の一つに腰かけ天を仰ぐ。
見れば、こちらよりも遥かに数が多いらしく、今もなお空では分隊長二人が盛大にガジェットとやり合っている。
と言っても、それはやはり一方的な殲滅で、コルトからすると良くもアレだけ相手にして飽きないものだと思う。
生真面目なのか、それとも話し相手がいるからなのか。まぁ、恐らくは前者だろうが。

短い付き合いの上にほとんど交流を持ってはいないが、あの二人の性格はおおむね把握した。
二人揃って…というか、六課自体が優等生の集まりなのだ、他に例を見ない程の。
どこの部隊にも程度の差はあれ問題児がいる筈だが、ここの場合は自分を除けば精々がヴァイス程度。

良い環境ではあるのだが、あまりにも優等生ばかりで居心地が悪い。
まぁ、居心地の良い部隊など今までなかったので、単に居心地の悪さの理由が違うだけの話。

(やる事をやるまでは我慢するしかねぇのはわかってたが……意外としんどいな、これは)
《しかし、本当にリニアレールにはいかれないのですか? あそこには、ランスター二士がいるのですよ。
 サーはやる事は早めに済ませる性質と理解していたのですが……》
「……多少距離があるとはいえ保護者同伴だ、行っても仕方ねぇだろ」
《確かに……》

仮に何か起こったとしても、どうせその保護者が出てきてそれでおしまいだ。
だから、今はまだその時ではない。行動に移すとすれば、アレや分隊長達がいない時が望ましい。
早々ないだろうが、それは単に待てばいいだけの話。

「借りは返すさ、いずれ必ずな」
《彼女としては、いい迷惑かもしれませんけどね。
 というか、彼女は知っているのでしょうか?》
「兄貴から聞いてるかもしれねぇが、俺の知った事か。つーか、今更だが野郎に妹がいたとはな……」
《本当に今更ですね。単にあなたの調査不足でしょうに》
「生憎、本人にしか興味がなかったんだよ」

実際、六課に来るまでコルトはティアナの存在など全く知らなかった。
ウィンダムの言う通り、それは単純にコルトの調査不足だったのだが……。
まぁ、そもそもそう言った興信所の様な仕事は彼の本分ではない。
あまり力も入れてなかったし、それは仕方がない。

だが、偶然にも異動の前に同僚の名を知る機会があり、暇つぶしで目を通した中で見つけたその名前。
彼と同じ姓と言う事で興味を持ち、まさかと思って調べてみればの大当たりだ。
あまり運など当てにした事などないし、特筆して運が良い部類でもない、悪いわけでもないが。
ただそんな自分の平々凡々な運に、あの時ばかりは静かに感謝したものだ。

その時の事を思い返したのか、コルトの口元が僅かにつり上がる。
しかしそこで彼は唐突に表情を引き締め、あらぬ方向に視線を向けた。

「……何かくるな。ウィンダム?」
《新手を確認。お喜びを、通常のガジェットとはだいぶ形態が違うようですよ》
「そいつは重畳。どこのどいつか知らねぇが、気の利いた事をしてくれるじゃねぇか」

それまでの思考はどこへやら。
コルトの頭はまだ見ぬ敵への関心で埋め尽くされ、ウィンダムを握る手に力が籠る。
彼は軽く唇を湿らせると、獰猛な表情を浮かべて腰を落とす。

そして敵が姿を現したその瞬間、コルトは残骸を踏み砕いて先手必勝とばかりにその敵へと襲いかかる。
さながらその姿は、血肉に飢えた獣の様だった。



  *  *  *  *  *



時を同じくして、山岳地帯の崖の上。
こちらでもまた、崖下の麓同様に中々派手な戦闘が繰り広げられていた。

「ちぇす!!」

ガジェットⅠ型の単眼を鋭い貫手が貫通した。
内部からはバチバチと回路がショートする音が漏れ、爆発が近い事をわかる。
青い長髪の少女、ギンガはそれが爆発するより前に近場にいたガジェット目掛けて投げつける。

2機のガジェットは鈍い音を立てて衝突し、折よく投げつけられた方は爆発。
それに巻き込まれてもう1機も連鎖的に爆発し沈黙した。

また、ギンガは同時に真横から迫っていたガジェットの触手を逆に掴む。
それを思い切り引っ張り、擦れ違いざまに拳で一撃。
さらに背後から迫っていた光線を、身体を傾ける事で回避。
その結果、回避した光線はギンガがたった今殴りつけたガジェットに命中し、そのボディーに風穴を開けた。
そして……

「ブリッツキャリバー!」
《Load cartridge》

新たに得た相棒「ブリッツキャリバー」はギンガの意図を汲み取り、カートリッジを撃発させる。
迸る魔力を拳に集中させ、左拳を覆うリボルバーナックルが唸りを上げた。
そのままギンガはその場で反転、右横より迫っていたガジェットに振り向きざまの裏拳を叩きこむ。

ガジェットの装甲は重い一撃によりひしゃげ、黒煙を吹いて活動を停止。
しかしその間に周囲を包囲され、今はまさに敵陣真っ只中。
ガジェット達はこの好機を逃すことなく、幾条もの光線を放つ。
ギンガはそれを左手の前に展開した「トライシールド」で防ぎ、その間にブリッツキャリバーが動いた。

「っ!」
《Wing Road》

足元から伸びた光の帯に乗り、ローラーブーツ型デバイスであるブリッツキャリバーは疾走する。
垂直にも等しい急勾配を駆け上がり、ガジェットの包囲網から脱出。
その際置き土産とばかりに放ったリボルバーシュートがガジェットの1機を撃破。

続いてウイングロードを蹴ったギンガは空中に身を躍らせ、高々と足を振り上げながら落下。
落下の勢いを利用し、そのまま一気にガジェットへと「踵落とし」を放つ。

「いやぁぁぁあぁ!!」

本人の自重と鍛え抜かれた脚力に加え、ただでさえ重いブリッツキャリバーに重力による加速。
これらの要素が合わさったその一撃は尋常な威力ではなく、それなりの大きさがあるガジェットを見事に蹴り潰すことに成功する。

そのままギンガは立ち上がりざまにガジェットを両手で挟み、真正面から「カウ・ロイ」へとつなげた。
強烈な膝により機能を停止したガジェットだが、ギンガはそれに目もくれずに払いのけ、その先にいる敵へ狙いを定める。

「ハッ!!」

一際深い踏み込みと同時に、左肘を外腕部へ捻る様にしながら突き上げた。
八極拳の代表的な肘技「裡門頂肘」である。

だが、機械仕掛けのガジェットといえどやられっぱなしでいるとは限らない。
ガジェット達は近づくのは危険と判断したのか、各々その赤いコード状の触手をギンガへと伸ばす。
触手を絡め、動きを封じてからと言う考えなのだろう。
しかしその瞬間、ギンガの右腕が再度閃いた。

手刀の一閃により切り刻まれる赤い触手。
ギンガはそれに構うことなく間合いを詰め、返す刀でガジェットを切り上げる。

「へあっ!」

猫手に曲げた手刀の反対側を利用した「背刀打ち」を受け、ガジェットが面白い様に弾き飛ばされる。
同時に、硬く握りしめられた左拳がガジェット達を殴りつけ、瞬く間に薙ぎ払われていく。

そうしてコルト同様、危なげなくガジェットⅠ型の群れを撃破したギンガ。
残存する敵がない事を確認した彼女は、仲間たちと合流するか悩んでいた。

「どうしようかしら?」
《加勢にはいかれないのですか?》
「う~ん、リニアレールは師匠がいるから行っても無駄だろうし、かといってコルトはねぇ……」

行ったところで、良くて邪魔者扱いされるのが関の山。
下手をするとこれ幸いとばかりに襲い掛かってきても不思議じゃない。
何しろ最近、コルトの視線には始めた模擬戦をする直前に感じた敵意がある。
いや、敵意ともまた微妙に違うのかもしれないが、まぁ似た様なものだ。

《判断がつかないのでしたら、上官に判断を仰ぐのもよろしいのでは?》

ブリッツキャリバーからの進言は実に模範的だ。
まぁ別に間違っているわけではないのだが、なにやら微笑ましいものを感じてしまう。
なるほど、確かにこれは生まれたばかりだ、と。

「そうね。でも、こんな事で手を煩わせたくないかな?」

新人ならいざ知らず、そこそこ経験を積んだのなら自分である程度判断しないと。
そういう能力もあると思ってくれたからこそ、部隊長は自分を遊撃要員にしてくれたのだと思う。
ならば、その信頼にこたえたい。

まぁどちらにせよ、なのはやフェイトを除けば自分は一番の高台にいる。
ならば、一端降りて様子を見てから判断しても良いだろう。
そう考えた所で、突如ブリッツキャリバーが警報を伝えた。

《マスター!》
「っ!?」

ブリッツキャリバーが警報を発するのとほぼ同時に、ギンガはある一点に向けて視線を向け、構えを取る。
理由はわからない。ただ、戦闘後間もない事もあって研ぎ澄まされた感覚が、何かを掴んだのだ。

(あれは……なに?)

森の奥から姿を現したのは、人のシルエットをした別の何か。
腕もある、足もある、胴体もあればやけに細長いが頭の様な物もある。
肌の露出はなく、代わりにその全身は銀と薄い青の金属製の装甲で覆われている。
まるで、ガジェットの装甲を鎧として人間が着たかのようだ。

また、眼がある筈の部分には黄色のカメラが一つ、背中からは赤いコードが触手の様に伸びている。
これらもまた、ガジェットと非常に酷似していると言えるだろう。

そのため、基本的な形は人間のそれなのだが、人間味と言うべきものがない。
しかし万が一にも人間の可能性も捨てきれない。
故にギンガは、小さくブリッツキャリバーに問うた。

「ブリッツキャリバー」
《解析終了。生命反応なし、またAMFの発生を感知。ガジェットと同様の機械兵器と思われます》
「そう」

相棒からの返事に、ギンガは小さくうなずく。
ガジェットには航空方もいるし、新型のガジェットと言うのであれば、今まさに師が一緒にいるライトニングも遭遇したという報告が来たばかり。ならば、さらに新型がいても別に不思議はない。

そして、だからこそ油断は禁物。
相手は一切の情報がない新型機。それも、これまでのガジェットとは明らかに趣が異なる。
ただでさえ性能がわからない上、第六感が警鐘を鳴らすこの趣の違いが何を意味するのかもわからない。
充分な警戒の下、細心の注意を払って対処すべきだ。
そうギンガが判断した矢先、それは動いた。

「――――――――」
「っ!?」

唐突に、一見すると何の前触れもないかのように動いたそれが放ったのは、一足飛びからの膝蹴り。
ギンガはそれを寸での所で回避し、敵機の行方を眼で追う。

(今のって、まさか……)

嫌な既視感が頭の中を席巻する。
先の一撃には、なんと言うか……嫌と言うほど見覚えがあった。
それはもう、夢に出るのではないかと言うほど記憶に刻みつけられた動きだ。

しかし、一度や二度なら単なる偶然と言う可能性もある。
それよりも、今ので確信した事の方が重要だ。

「……近接、格闘型」

通常のガジェットなら、あそこはまず先制として光線を放つ。
あるいは触手による牽制でもしてくるところだろう。
だが今回の相手は、そのどちらでもなく直接的な打撃を仕掛けてきた。

同時に納得する。
なるほど、確かにそれなら他のガジェットとは趣が異なって当然だ。
打撃を仕掛けるのなら、当然四肢のある…つまり、人間の形を模した方が効率的。
人外の形をした上で、それに相応しい打撃による戦闘法をプログラミングするという方法もあるが、あまり最適とは言えない。
一々そんなものを開発するくらいなら、既存の格闘技とそれを使う為の人間型の機会を作った方が遥かにマシ。
何しろ格闘技とは、長い年月の中で淘汰され、研磨された技術の結晶なのだから。

「格闘型の魔導師に、格闘型の機械兵器をぶつける…か。どこのだれか知らないけど、良い趣味してるわ」

ギンガはこの場にいない誰かに向け、彼女にしては珍しく皮肉気に小さく呟く。
その間に敵はどこか泰然とした態度でゆっくりとギンガの方へ振り向く。
その様は洗練されていながらも、第一印象と違いどこか人間臭い。
まるで実在する人間の情報をデータ化し、それを植え付けたかのように。

(って、あったっけ、そういう技術)

ギンガの脳裏に、とある違法研究の概要が浮かぶ。
彼女とも全くの無縁とは言えないあの技術は、そう言えば記憶を転写する事によって死者を蘇生しようという試みだった筈。その技術を用いれば、もしかしたら人間が持つ技術を機械に植え付けることもできるかもしれない。

しかし、今のギンガにはあまり悠長にその可能性について思考する余裕はなかった。
何しろその可能性が正しいのなら、相手は確かな技術を持つ格闘技者も同然。
先の一撃から推察するに、その技量はかなり高い。
ならば、油断などしている猶予はない。

「―――――――」
(来た!?)

今度は出会い頭の不意打ちなどではないが、駆け寄る様にして間合いを詰めて来る。
ギンガは一瞬どう対処するか悩み、すぐに腹をくくった。
自身の脳裏をよぎったある可能性が、本当に正しいのかどうかを確かめる為に。

「セイッ!」

相手に合わせる様にギンガも間合いを詰め、なんの変哲もない突きを放つ。
敵はそれを取り、そのまま身体を腕に沿って回転させ背後を回ると、首筋へと肘打ち。
ギンガの回避は間に合わず、吸い込まれるようにして肘が突き刺さった。

「――――――」

だが、その手応えがおかしい事に相手は気付いただろうか。
いや、気付いていようがいまいが同じ事。
ギンガの体は背後の敵へと預けられ、その瞬間大地が震えた。

「甘い!!」

強烈な震脚と共に、強烈な発剄が叩きこまれる。
八極拳の一手、「貼山靠(てんざんこう)」。
肩で体当たりし内部の勁と外部の打撃を同時に与える技だ。

ギンガは肘が突き刺さるその瞬間、首筋に小さなバリアを展開。
それにより直撃を防ぎ、逃れようのない密着状態へと持ち込んだのだ。とはいえ……

(くぅ…さすがにこれだけ密着すると、AMFの影響も大きい)

確かにバリアで粗方は防いだが、その衝撃の全てを殺しきるには足りなかったと見える。
密かに苦悶の表情を浮かべつつ、ギンガは大きく弾き飛ばされた敵に追撃をかけに行く。
しかしその敵は、軽く地面で一転すると即座に立ちあがり構えを取った。

(手応えがいまいちだと思ったら……コレのオリジナルになった人、やっぱり相当できる)

恐らく、寸での所で跳躍し威力を減殺したのだろう。
そんな相手の技量と、それを再現する機体の性能には正直舌を巻く。

だが、それほどの技量を持つ人物のデータが入った相手が悠長な戦いなど許す筈もなし。
ギンガが尚一層の警戒心を抱くのに対し、敵は更なる苛烈な攻撃に打って出る。

展開した制空圏を、強引に押しつぶそうとするかのような猛攻。
次々と放たれる突きが、蹴りが、肘が、膝がギンガの制空圏を犯していく。
幸い辛うじて直撃こそ防いでいるが、気付けば防ぐ両手に痺れを感じていた。

(強くて速くて、それに重い。何より動きに無駄がない。強敵ね、これは)

跳躍から叩きこまれる肘を十字受けで防ぎながら、ギンガは心が湧き立つのを自覚する。
強い相手と戦いたいと言うのは武術家の本能だ。
ギンガもその例に漏れず、劣勢でありながらもどこかでそれを喜んでいた。
同時に、敵のスタイルについても確信を得る。

「やっぱり…………ムエタイ使い」

幾度も攻撃を間近で見て、心を澄まし観察する事で得た確信。
道理で見覚えがある筈だ。何しろそれは、彼女も学ぶ武術。
どうして管理世界で跋扈する機械兵器に、管理外世界の武術家のデータが使われているかは分からない。
いや、達人と言う極みの存在を考えれば不思議ではないのだが……。

(とりあえず、達人級と言うほどの腕じゃないのは幸運ね。
正直、この性能に達人のデータが使われてたら勝てる気がしない)

まぁ、達人のデータなど早々手に入れられるようなものではないが……。
その意味で言えば、まだこのくらいの腕の持ち主ならやり様があるのかもしれない。
ただその代わりに、気になる事がある。

(だけどこのムエタイ、師匠が教えてくれるそれとはどこか異質。
 どれもこれも、本当に相手の命を刈りとる必殺の技ばかり。いったい、これは……)

いくら考えても答えは出ない。なぜならそれは、未だ彼女の知らぬものなのだから。
だがその間にも、敵の猛攻は続く。
ある時は脳天を肘が叩き割りに、またある時は膝が顎をかちあげに。
師の教え通り、防御に重点を置くギンガだが、その守りも次第に苦しくなってきている。
一撃一撃の威力の重さは凄まじく、気を抜けば容易く防御をぶち抜かれてしまいそうだ。

しかしギンガとて、一方的にやられているつもりもない。
必殺の技の連続な分、どうしても繋ぎと速度に甘さが出る。
手数を多くすれば威力が薄れ、威力が上がれば手数が落ちるのは道理。
ギンガは意を決し、その繋ぎ目に割りこむべく動いた。

「ふぅ~……」

取るのは八卦掌は「托槍掌(たくそうしょう)」の構え。
左手で顔を守り、右手を仰向けにして喉元へ突き出す。
敵はかまわず空いている顔の右側面へと肘を放った。

それを見越したギンガは、構えを逆に取る事で右手で顔を守る。
同時に突きだされた左手が敵の顎を打ち、さらに流れる様な連続技へと繋がっていく。

顎から金的、回りこんで後頭部へ手刀、脇腹に肘。
そして、最後に背中へと渾身の双掌打。

「はっ!」

手数を重視した分、どうしても威力は落ちる。
恐らく、これでは頑丈な装甲に決定打は入れられまい。
急所は狙っているが、機械兵器に急所もへったくれもないのだから。

だがそれでも、相手の流れを止める事は出来た。
ならばここからは、自分の流れで進めていく。

「腕、もらった!!」

人体の構造を模しているのなら、当然関節の形も同様の筈だ。
あまり稼働域を広げ過ぎると、今度は強度が落ちる可能性があった。
そう考えたギンガは、体勢の崩れた敵の右腕を取り、躊躇なくその腕を極める。

あと少し力を加えれば、人間ならば関節が外れるだろう。
手応えからして、これ以上は稼働域を外れる事も確信した。
機械相手に躊躇う理由もなく、ギンガはそのまま腕を破壊しに掛かる。

「――――――――」
「っ!? が、ぁ……!」

敵は関節を取られた状態で器用に身体を回転させ、鋼の踵がギンガの側頭部を打つ。
揺れる視界と共に一瞬力が緩み、その間に脱出を許してしまう。

「やっぱり、そう簡単にはいかないか……」

たたらを踏みながら、なんとか体勢を立て直すギンガ。
しかしその間に、敵もまた容赦なく追撃を仕掛けて来る。

目前まで迫る敵を突き離そうと、ギンガは苦し紛れに蹴りを放つ。
だが、逆にそれを取られ、そのまま側面に回り込みながら首を狙った肘打ちが入る。
首筋からは「ミシミシ」という危険な音が響き、ギンガの顔が苦悶に歪む。
しかし、コルトとの敗戦より激しさを増した修業は伊達ではない。

「こんな…ことでぇ!!」
「―――――――!?」

ギンガは首へと突き刺さった腕を反射的に掴む。
自分の指を相手の掌に引っ掛け、捻りながらやや持ち上げる事でバランスを崩し、梃子の原理で投げる。
柔術の中でも合気道に区分される技「四方投げ」だ。
ガジェットは咄嗟に近場の樹木へと触手を伸ばし体制を保持しようとするが、その動きはどこか鈍い。
その様子を眼の端で捉えながら、ギンガは敵を地面へと強烈に叩きつける。
ギンガはそのままトドメを刺すべく、真上から両肘落としを放った。



  *  *  *  *  *



場所は戻って、崖下は山岳地帯の麓。
こちらでもまた、崖上同様新たに確認された人の形を模した近接格闘型ガジェットとの戦闘が行われていた。

「ぐぅ……らぁ!!」

真上から叩きつけられた掌打をウィンダムで受け止め、渾身の力で撥ね退ける。
だがそれに一息つく間もなく、今度は身を屈めた状態からの肘打ちが脇腹目掛けて伸びてきていた。

回避するには体勢が悪い。
撥ね退ける為に伸びてしまった身体は、未だ飛び退く事も受けに回る事でもできない。
さらに言えば、このような限りなく無防備に近い状態で受ければ、威力の低い一撃でも危険。
それが、ついに深々とコルトの脇に突き刺さった。

「ごふっ!?」

肘の衝撃により僅かに浮き上がる体。追撃の回し蹴りが追い打ちをかけ、その身体を弾き飛ばす。
しかし意外な事に、かなりのダメージを受けた筈のコルトは崩れ落ちそうになりながらも、辛うじて姿勢を保つ。

「―――――――」
「ハァハァ、ったく今のは効いたぁ……。
にしても、自信を無くすぜ。高摩擦設定を使った筈なのによ、斬れたのがあの程度か……」

あの瞬間、コルトは防御ではなく攻撃を選んだ。
その証拠に、人型ガジェットの体表にはうっすらと何かが擦れた跡がある。
通常のガジェットでも速度次第ではちゃんと輪切りにできる筈のそれが、これが相手では僅かに切り傷を作るので精一杯。AMFが強いのか、それとも装甲が厚いのか。
いずれにせよ、かなり自信のあった筈の武器の効果が薄いと言うのは中々にショックだった。

だが、それこそがコルトが先の一撃を受けて立っていられる理由でもある。
攻撃を受けたと判断したガジェットの自己防衛機能が働いたからこそ、僅かに甘くなった踏み込み。
そうでなければ、沈んでいたのはコルトの方だったかもしれない。

《無闇に自然を破壊した罰があたったのでは?》
「罰? はっ、こんな罰なら大歓迎だな。
 つまらねぇ作業ばかりだと思って退屈してたところだ、最高じゃねぇか」
《額を割って血を流している人の言う事じゃありませんね》

ウィンダムの言う通り、コルトの額からは血が滴り落ちている。
いや、額からだけではない。口元には血の跡が見られ、バリアジャケットもところどころ破れている。

「雑魚相手に楽してても意味ねぇよ。
 一歩間違えば今までの全てが無意味になる、それくらいの緊張感こそが醍醐味だろ。
 こいつと比べちまえば、格上との模擬戦ですら味気ねぇ」
《バトルマニアを否定する割には、そう言うのが好きですよね》
「アイツらは戦うのが好きなんだろ。俺は単に、この緊張感を楽しむ様にしてるだけだ」

何とも微妙なニュアンスの違いだが、本人としては拘りでもあるのだろう。
恐らく、本人以外はだれにも理解できないだろうが。

とはいえ、そんなやり取りを黙って見ている道理などない。
放たれるのは、一見すると隙だらけにも見える大振りの一撃。
間合いを詰めながら、真上から振り下ろされるそれを受けることなく、コルトは飛び退く事で回避する。

それもその筈。何しろこの一撃、大きく振り下ろす分途轍もなく重い。
その事実を証明する様に、敵の放った掌打は木の根を粉砕し、深々とその手をめり込ませたのだから。

「ははは、こんなもんを見ちまうともう笑うっきゃねぇな!」

実際、まともに受ければ鎖骨くらい容易くへし折られかねない一撃だ。
速く重い上に、文字通りの意味での鋼の腕。
バリアジャケットがあるとはいえ、こんなものが直撃すればただでは済まないだろう。

しかし、そうして笑っている間にも敵は待ってはくれない。
腕を鞭の様に使い、再度腕が振り下ろされる。

「くっ!?」

コルトはそれを、ウィンダムを斜めに構える事でいなす。
だが、まだ反撃には出ない。一撃目を捌いても、二撃目となるもう一方の腕がある。
これをさらにギリギリまで引き付けながら杖で捌き、コルトは思い切り踏みこむ。

「らぁ!!」

動の気によりリミッターを外した上で放ったのは、全身の捻転を使った薙ぎ。
しかし、敵の技は技後のタメの姿勢がそのまま防御の構えになる。
これまでも、技の間隙を縫って攻めようとしてこれに阻まれてきた。
とはいえ、コルトとてこれまでイタズラに失敗を繰り返してきたわけではない。
小技ではこの構えを崩せないとなれば、力ずくで崩しに行く。その為の渾身……

だが、それを見越していたかのように敵は無理に受け止める事はせず、かいくぐってコルトの懐に入る。
そのまま両の掌を当て、足から送り出された力を背中で増幅させ放つ。
だがその瞬間、コルトの姿が視界から掻き消えた。
コルトの得意魔法の一つ、短距離瞬間移動である。

「―――――――!?」

ガジェットは即座に背面の触手を伸ばし、背後を警戒する。
恐らく、これまでにも何度か短距離瞬間移動を使用した事があるのだろう。
しかし、いくら待てどもコルトが現れる気配がない。
とそこで、そんなガジェットを嘲る様な声が森の中に木霊した。

「瞬間移動能力者が、死角を突くしか能がないわけねぇだろうが!」

その一声と共に、高速で伸びる杖の先端がガジェットの腹部に突き刺さる。
杖はさらに伸び、そのままガジェットを森の奥深くへと叩きこんだ。

やがて伸びた杖、ウィンダムは本来あるべき長さへと戻るべく縮んでいく。
その先には、当然のことながら深く腰を落としたコルトの姿。
短距離瞬間移動でコルトが飛んだ場所は、敵の上でもなければ後ろでもない。
相対的には、自信が元いた場所から数メートル後方。
幾度か繰り返した死角への転移は、この時の為の布石。
消えれば死角に現れる、というパターンを覚えさせ、ここぞと言う時でそれを裏切ったのだ。
とはいえ、コルト自身も決して無傷と言うわけではない。

「ちっ、肩をやられたか……」

見れば、コルトもまた右肩に傷を負っている。
渾身の一撃を受けたその瞬間、あちらの光線が肩を掠めたのだろう。
幸いにも貫通こそしなかったが、肩に焼けつくような痛みが広がっていた。

《ケイローンはよろしいのですか?》
「いらねぇよ、どうせあたらねぇし。
 知ってんだろ、あんなすばしっこいのに当てられるほど、俺のコントロールは良くねぇ」

元々、コルトの射撃系への適性は低い。それはその系統の魔法との相性が悪いだけでなく、どうにも「飛ばして当てる」という行為自体が苦手だからだ。
故に、コルトはケイローンにあまり頼る気はない。

《しかし、それでも手足をもぐ位は期待しても良いと思いますが?》
「あんま、壊したくねぇんだけどなぁ……」

コルトにしては、あまりにもらしくない呟き。
それは、長い付き合いのウィンダムにとっても意外な一言だった。

《は?》
「ま、起き上がってくるならそれはそれで問題ねぇよ。
 概ね、アレの弱点は把握した」

ウィンダムの疑問に答えることなく、コルトは自身の右肩を撫でる。
相手は機械、通常なら胴体を貫通していても不思議はない筈だ。
少なくとも、自分の存在に気付いてから光線を放つまでには、狙いをつけるだけの時間的余裕はあったように思う。
にもかかわらず、アレの狙いは外れて肩を掠めただけ。
つまり、そこに付けいる隙があると言う事だ。

「さあ、精々丁寧にぶっ壊すとしようか!!」



  *  *  *  *  *



仰向けに倒れた敵に向けた、トドメとしての両肘落とし。
だがそれがもう少しで届くと言う時、ギンガの視界で何かが閃いた。

「っ!?」

脳が思考するより早く、反射神経が勝手にギンガの身体を動かす。
勢いに乗った状態で、今更全身レベルでの回避は不可能。
しかし咄嗟に、ギンガは右の肘を引っ込め半身になって何かを回避した。
視界の端で捉えたそれは、ガジェットの攻撃手段として最もオーソドックスなそれ。

(光線!? このタイミングで!!)

これまで使ってこなかった事で警戒心が薄れてしまっていた攻撃。
さらに制空圏を磨くべく行われた修業の成果である研ぎ澄まされた感覚がなければ、今頃腹部に風穴があいていたかもしれない。
だがそんな事を考える間もなく、続いて脇腹に重い衝撃が走る。

「か…はっ!?」

衝撃の正体は、地面に背を預けた状態で放たれた蹴り。
反射的に避けた事で生まれた隙を狙い、狙い澄ました一撃が突き刺さったのだ。
しかし、相手に植え付けられたデータのレベルにしては威力が低い。
右肘は今更戻せないが、左肘はいまだ健在。
多少狙いはずれたが、ギンガはそのまま敵の真上から残る左肘を叩きつける。

「はぁっ!!!」

ダメージを無視した一撃は、見事ガジェットの右肩に打ちぬき破壊した。
本命が胴体だった事を思えば、満足のいく結果とは言い難い。
だがそれでも、相手に対して即座の回復が不能なダメージを与えられた事は大きい。
何より、ギンガもまたこの敵の欠点と言うべきものに気付いていた。

「そう。あなた、データの同期が上手くいっていないのね」

戦っているうちに感じていた違和感。
触手や光線と言った、ガジェットが本来持っている機構を使う時に感じた齟齬。

考えてみれば当然の話で、アレが実在する人間のデータを植え付けられたのなら、不自然が生じても何ら不思議はない。何しろ、普通の人間に触手などないし、光線だって撃てない。
データの元となった人物が魔導師ならいざ知らず、使う武術の事を考えると管理外世界の人間の可能性が高いだろう。また、ムエタイ自体がそういうものを使う事を前提とした技術ではないのだ。
故に、植え付けられたデータとは別に、触手や光線を使う為のプログラムを入れたと考えるべきだ。
となれば、そこにズレが生じるのはむしろ必然。

その為、触手や光線を使おうとすると僅かに動きが鈍る。
だからこそ、よほどの時以外にはそれらを使わず、格闘技のみを使用していたのだろう。
ならば話は簡単だ。要は、触手や光線を使う様に追い込み、それを使う際の隙を見逃さなければいい。

「まぁ、言うほど簡単じゃないんだろうけど……」

言うは易し、やるは難し。欠点はわかったが、それを突くとなると中々にキツイ。
そもそも、この機体に植え付けられたデータ自体が、かなりの腕の持ち主のデータ。
それを追いこもうと言うのだ、やはり生半可なことではない。

とはいえ、そんな弱音を吐いていると後が怖い。
ただでさえ限界ギリギリだと言うのに、これ以上修業がきつくなっては身体が持たないのだから。

「ちょっと無茶するかもしれないけど、付き合ってくれる? ブリッツキャリバー」
《もちろんです》
「よし、じゃ行ってみよう!」

その一言共に、ブリッツキャリバーが唸りを上げ一気に加速する。
敵もそれ応じる形で間合いを詰め、両者の拳が交錯。

互いの拳を頬を掠める形で回避するも、ガジェットの腕がギンガの首に回される。
そのまま首相撲の形に持ち込まれ、ガジェットは膝蹴りを放つ。

だが所詮は片腕。ホールドが甘く、ギンガは自ら前倒しになる事でこれをやり過ごす。
さらに身を屈めた体勢を利用し、残った足を取った。
ギンガは一気に身体を起こし、足をすくい上げる投げ「朽ち木倒し」へと持って行く。
しかし、取ったと思った足がそこで加速した。

「――――――――」
《上からもです、マスター!》
「っ!?」

見れば、空振りに終わった筈の脚が自分の膝を踏み台にし、取った筈の膝が顎目掛けて迫っていた。
その上、首相撲を外された腕もまた、肘を後頭部へと振り下ろしている。

(手を離して防御…ダメ、間に合わない!)

決定的に出遅れ、今からではどんな防御も間に合わない。
だがそこで、染み着いた動作が無意識のうちにギンガの身体を動かした。

ギンガは敢えて回避も防御もせず、前のめりに身体を投げだす。
その結果肘と膝の着弾地点がずれ、肘が背中を、膝はギンガの胸を打った。

辛うじて急所を外したが、それでも強烈な挟み打ち。
肺の中の空気が纏めて吐き出され、改めて吸い込む事が出来ない。
しかし、ギンガはそれでもなお歯を食いしばり、さらにさらに身体を前に出す。
同時に膝を踏み台にした足を取り、ついにそれが届いた。

「―――――――!」

敵の胸部に叩きこんだのは頭突き。
心意六合拳の技、「烏牛擺頭(うぎゅうはいとう)」。
そのまま一気に取った膝関節も持って行きたかったが、そちらは振り払われて断念する。

代わりに相手の肩と股間を掴み上げ、自分の肩まで乗せ「肩車」へと持ち込んだ。
それが外せないと判断すると、ガジェットは触手を伸ばす。
瞬く間の内に絡みついた触手がしめあげるが、ギンガが頭から地面に落とす方が早い。

「やああぁぁぁあぁぁ!!」

重厚な落下音と共に、ガジェットの頭部が地面に叩きつけられる。
その結果とったのは、先ほど四方投げにより投げられた時と同じ体勢。
ムエタイは立ち技であり、こうなれば使ってくるかなり限定される。

何より、機械はある一定パターンに沿って動くもの。
自身で思考するのではなく、与えられたプログラムによって動くからこそ生じるそれ。
ならば、同じ状態に持ち込めば同じ方法でその状況を打開しにかかる可能性が高い。
そして、そんなギンガの予想は的中する。

(来る!)

首筋に走る怖気。それに従いギンガは右手でシールドを展開。
それに刹那遅れ、光線はシールドに弾かれ四散した。
しかし、その一瞬の隙をついて身体を跳ね上げ起き上がるガジェット。

だがギンガはそれに動じることなく、起き上がったばかりのガジェットの腹部に拳を押し当てる。
気付いた時には、ガジェットの体はバインドによって拘束されていた。
AMFを用いれば脱出は難しくないだろう。だが、その前にケリを付けてしまえばいいだけの事。
やがてギンガの左腕の周りに環状の魔法陣が展開され、その拳が淡い光を放つ。

「悔しいけど、今の私じゃコレ一発であなたを倒す事はできない。
 だから、ちょっと小細工させてもらわよ!!」
「―――――――――――」
「ちぇりゃあ!!」

押しあてていた右拳を引き、代わりに淡い光を放つ左拳が繰り出される。
放つのは基本に忠実な惚れ惚れするような「正拳突き」。
それがガジェットの腹部に突き刺さると、青の魔力光が迸る。

淡い青の光の奔流はガジェットの胴体を呑み込み、跡形もなく消し飛した。
上下にちぎれたガジェットは、力なく地面にその身を横たえる。
僅かな時間痙攣するかのように四肢を蠢かせ、間もなく活動を停止。
それを確認した所で、ようやくギンガは深々と息をつき身体を後方へ倒す。

「はぁ~……なんとか、勝てたぁ」

天を仰ぎ、大の字になって地面に身体を預けるギンガ。
その顔には色濃い疲労が滲み、いつの間にかボロボロになっていたバリアジャケットが戦いの激しさを物語る。

《お疲れ様です》
「こっちこそ御苦労さま。初陣でいきなり無茶やらせちゃってごめんね」
《いえ、私はあなたの道具。あなたの思う様に使ってくだされば本望です》
「…………そっか。だけと、ちょっと違うかな。あなたは道具じゃなくて、もう私の一部。
この腕や足と同じね。だからやっぱり、ありがと」
《身体の一部に礼を言う事こそナンセンスでは?》
「そんな事ないわ。この腕もこの脚も、そしてあなたも…私の信頼通りに動いてくれた。
 だから私は勝てたんだし、最後まで付いてきてくれた事にはどれだけ感謝してもし足りない。
 私はまだまだ未熟で上手く使ってあげられないけど、だからこそそういう気持ちを大切にしたいの」
《良く分かりませんが…………今後も期待に添いたいと思います》
「ええ、私ももっとあなたを上手く使えるよう、頑張らないと……」

今回の勝利が、自分だけの実力によるものだとは思わない。
間違いなく、道具…この相棒に救われた面は大きいだろう。
それも含めて実力の内と言えばそうかもしれないが、もっともっとこの相棒の力を引き出してやりたいと思う。そうすれば、自分達はもっと良いコンビに慣れる筈だから。
同時に、ギンガはたったいま倒したばかりの敵に目を向ける。

(できれば、本物のあなたと戦ってみたかったかな。
 でも、その時はきっと……)

負けていたのは、自分だったのではないかと思う。
戦ってみて強く感じたが、一拳士としての格は相手の方が上だ。
少なくとも、一人のムエタイ家や武術家として比べたなら。
魔法を使えば話は別だが、あまりその仮定をする気にはならない。

勝てたのは、本当に単純に相手が機械だったから。
データをなぞる事しかできない機械で、結局は模倣の域を出なかったことが敗因。
全ての技の伝承が模倣から始まるとはいえ、その先に行かねばいつまでたっても猿真似のまま。
丁度今回の敵がそう。工夫し、発展させる事がなかったから勝てた。
本来は持っていない筈の武器や道具とのすり合わせが上手くいかなかったからこその結末。

(どこの誰のデータかは知らないけど、今回は命拾いしたってところかな……)

敵の攻撃は、まさしく一撃必殺の連続だった。
一瞬でも気を抜けば命がなかった事を思うと、本当にそうだったと思う。

「って、こんな所で休んでる場合じゃなかった! みんなは!?」

達成感をひとしきり味わった所で、ギンガは大慌てで起き上がりウイングロードを展開。
疲労と痛みでだるい身体に鞭を打ち、崖を一気に下りていく。
リニアレールの方へ辿り着いてみれば、そこには既にレリックの移送に入る妹とその親友。
ライトニングの方も、案の定無事らしい。

師はとりあえず子ども達に付いているらしく、ギンガはそのまま崖を下りコルトの様子を見に行く。
そして、そこでギンガが見たのは、中々に派手な光景だった。

「かなり盛大にやり合ってると思ったら……」

あのガジェットが出現する前は、かなり派手な音が響いていた。
目の前には、それを裏付けるかのように落石現場の様な光景が広がっている。
それに伴いなぎ倒されたり切り刻まれたりした木々も多い。

周囲の事などあまり気にしない性質だとは思っていたが、ここまでやるかとも思う。
ギンガも多少は木々を倒したりしているのであまり大きな声で注意できないが、自然破壊もほどほどにしろと言いたい。
正直、この周囲を顧みない暴れっぷりには頭が痛む。

とそんな戦闘跡を移動しながらコルトを探す事しばし。
やがて発見したコルトの姿は、ギンガの予想を悪い意味で裏切った。

「って、あなた! なんでそんなボロボロなの!?」
「あ? アンタか……別に、かなり強いのとやり合っただけだ」
「あなたねぇ…そんな有様で、何を悠長に……」

愛想が良くないとはいえ、それでも同じ部隊の仲間。
それが額や肩などに血痕を残し、バリアジャケットが何か所も破けていれば心配にもなる。
しかしそこで、ギンガはある可能性に思い当たった。

「強いのって……まさか、そっちにも出たの?」
「ってことはそっちもか。ほら、今はそこに転がってるぞ」

コルトが視線で示す先を追えば、そこには先ほどギンガも戦ったのと同じ形態のガジェット。
違いがあるとすれば、ギンガの方が片腕と胴体を破壊したのに対し、コルトの方は片腕と片足を捥ぎ取られた姿であること。どちらにしても、人間だったらかなりのスプラッタである。
しかしそこで、ギンガはある事に気付く。

(あれ? なんか、コルトがやったにしてはやけに破損が少ない様な……)

コルトの性格上、やるからには徹底的に叩き潰している筈だ。
何しろ、道中で見かけたガジェットの破損の度合いを見ればそれは明らか。
それでなくてもコルトのボロボロ具合を見るに、相当な激戦だった事が伺える。
にもかかわらず、それにしてはやけにこのガジェットは破損の度合いが小さい。
これだと、よほど丁寧にやらなければこうはならないのではないだろうかと思うほどに。

「腕を鞭みたいに使ったかと思えば、密着距離での肘や掌打。
 かなり楽しめたぜ。あんたが使うのと似たような技もあったが、ありゃどういうことだろうな」
(機体毎に植え付けられたデータが違う? だとしたら、いったい何種類のパターンがあるのやら……これは、急いで師匠達と相談した方が良いかもしれないわね)

明らかに異なる自身とコルトが戦った機体の戦闘スタイル。
それはつまり、最低でも二種類以上のパターンがある事を示している。
ギンガやコルトはなんとか勝てたが、新人たちだと手に余るだろう。
となれば、なんとか対策を立てなければならない。

「で?」
「え?」
「そっちはどうだったんだ?」
「あ、ああ、こっちは……」

珍しくコルトから振られた話に、ギンガは戸惑いながらも答えていく。
そう言えば戦闘後の昂ぶった状態だと、普段なら言い直す筈の部分すら良い直そうとしないなぁと、割とどうでもいい事を考えながら。

「ふん、アンタがやったのはムエタイとか言うのを使うのか」
「ええ、多分ね。ただ、どこか異質と言う……」
「それで。そいつはどうしたんだ?」
「え? いまは崖の上に放置してるわ。
上下で真っ二つにしちゃったし、爆発するかもしれないから危ないでしょ?」
「ちっ、雑な事しやがって……勿体ねぇ」
「は?」

普段どれだけアレな言葉遣いをしていても、コルトは暴言を吐く事はほとんどない。
にもかかわらず、今回はさらっと出てきたものだから一瞬目を丸くするギンガ。

「折角フィニーノにでも直させて使おうと思ってたのによ……」
「あ、ああ。そういうこと」

そこまで言われて、ようやくギンガはコルトの言わんとした事が理解できた。
つまりコルトは、アレを修復して練習台にしようと考えていたのだろう。
確かに使われているデータのレベルの高さを考えると、アレを相手に打ち合うのは良い練習になるだろう。
戦闘中はそれどころではなかったが、今ならその有用性が理解できる。
だからこそ、今更ながら「ちょっともったいない事をしたかもしれない」と思ってしまう。

しかし、そこでギンガは気付く。
なんでコルトがこれほどにボロボロなのか、その理由に。

「もしかしてあなた、壊し過ぎないようにする為にそんな怪我をしたの?」
「別に、どうでもいいだろ」
(あぁ~、全くこの人は……)

まさか、自分がボロボロになってまでそんな事に固執するとは。
確かに良い練習台になる事には賛同するが、それで危ない目にあっては本末転倒だ。
そう思い、この際だからいい加減注意してやろうと思い口を開く。
だがそれは、コルトの意外な言葉によって勢いを失ってしまう。

「あなたねぇ! 少しは自分がどれだけに周りに心配をかけてるか自覚しな……」
「それで、アンタが降りて来たって事は向こうも終わったんだろ。ラン…連中はどうしてる?」
「え? 今はスバルとティアナがレリックの移送をしてるわ。
 みんな怪我らしい怪我もないし、とりあえずは大成功って言っていいと思うけど……」
「そうか、ならいい」
「もしかして、気になる?」
「別に」

顔をそむけ、空を見上げて表情を見せようとしないコルト。
しかしギンガは、彼にも少しは「気遣い」というものがあると感じ安堵する。
上手くやっていけるか心配だったが、そういう気配りが少しでもできるなら……。

「ふ~ん、そうなんだ」
「んだ、そのムカつく眼は」
「べつに、何でもないわよ」
「ちっ!」
(さっきランスターって言いかけてたみたいだったし、ティアナの事が気になるのかしら?
 へぇ~、ふぅ~ん…コルトがティアナをねぇ……)

本人に聞かれでもしたら、本気で殺されかねない事を勝手に想像するギンガ。
彼女も恋愛経験などほとんど皆無なので、何もできないだろうが興味はある。
速い話、典型的な野次馬根性丸出しなのだ。

(でも、ティアナも結構気が強いし、これは中々前途多難かも……)
「何を考えてんのかしらねぇが、気色悪ぃな。俺は先に行くぞ!」
「って、気色悪いっていくらなんでもひどいでしょ!?」
「んな事は鏡で自分のツラを見てから言え!」

そう吐き捨て、コルトはアリアドネや展開した魔法陣を足場に崖を登っていく。
ちなみに、ちゃっかり自身が倒した格闘型ガジェットを背負って。
どうやら、本気でシャーリーに修復させるつもりでいるらしい。
ギンガはそんなコルトを慌てた様子で追い掛けながら、ふとその戦利品に目を向けた。

(そういえば、アレ文字見たいだけどなんて書いてあるのかしら?
 私と戦ってた方にも書いてあったし……)

兼一に学んでいるとはいえ、ギンガはあまり日本語には明るくない。
故に、彼女がガジェット達の胸に刻まれたその文字の意味を理解できなかったのは仕方がないだろう。

しかし、もしそれをなのはやフェイトなど地球で暮らしていた面々が見ていたなら、その意味を解説してくれていただろうが、なぜそんなものが書かれているのか首を傾げた筈だ。
故に、その文字の意味を真に理解できる者は六課に一人だけ。
そして、そこにはこう書かれていた。

「炎」と「月」と。



  *  *  *  *  *



場所は再度いずことも知れぬ部屋へと移る。
そこで事の顛末を見届けた白衣の男は、予想通りの結末に肩を竦めていた。

「0型、二機共撃破を確認しました」
「やれやれ、スポンサーの依頼で作ってはみたが、やはりこんなものか」
「使用されたデータは確実に今の彼女達を上回っていた筈ですが……」

通信越しの女性は、どこか釈然としない様子で呟く。
データ上はあの機体の方が優れていた筈。にもかかわらず、結果は敗北。
それが納得いかないとばかりに。しかし、白衣の男はそれに首を振る。

「ふむ、私に言わせれば善戦した方だと思うよ。
如何に優れたデータを入れ、優れた性能を持たせた所でアレが単なる機械の限界さ。
元来、あの技術は人間が人間と戦うために編み出された物。
人の形を取り繕ったところで、所詮鉄の塊が人になる事はできない。
生命ならではの輝きなくば、それを真に活かす事はできないという証拠さ。
そういう意味では、アレは君達の価値を裏付ける結果とも言えるかもしれないね」
「なるほど……」

女性は白衣の男の言葉に感銘を受けたかのように、深くうなずく。
自分達はただの道具や機械ではない。偉大なる父の作品である、それを証明する材料の一つ。
今回の事を、そう言うものだと受け止めているのだろう。

「だから私は彼らに言った筈なのだがな。
 所詮は機械、人に近づく事はできても人にはなれないと」
「確か、かつて海で武を振るった彼の人物を再現できれば世界の安定につながる筈、と言う事でしたか」
「気持ちはわからないでもないのだがね。確かに再現できればこの上ない。
 しかし、あの御仁に遥かに劣るアレらのデータですらあの有様だ。仮にあの御仁のデータが手に入ったとしても、万分の…イヤ、億分の一でも再現できれば奇跡だろう」
「研究の過程で得たノウハウと、なんとか手に入れたデータがあっても思うような成果が出ませんでしたから」
「ああ。つまりは、私の言った事を裏付けるだけに終わったと言う事さ。
 まぁ、そんな事とは無関係にあのデータには興味があったので別にかまわんがね。
 ただ、弱点を補うためにああいった道具を装備させろとは、全く以って彼らには機微を察する感性と美学がなくて困る」

白衣の男としては、アレらにああ言った武装を付けるのは本意ではなかった。
スポンサーの意向なので、仕方なく付けただけに過ぎない。
今のところは、スポンサーにそれなりに配慮しなければならないから。
しかし、それにしてもアレは無粋に過ぎると思う。

「アレがなければ、もう少しやれたかもしれんと言うのに。君はどう思うかね?」
「え? なんですか?」
「まったく、あなたはもう少し人の話を聞きなさい」
「あははは…………ごめんなさい!」
「…………ふぅ」

白衣の男が話を振ったのは、やけに高い所に腰かけ足をぶらぶらさせる人影。
彼はどこか憎めない仕草で手を合わせ謝るが、女性は溜息をつくばかりでそれ以上言及はしない。

「いやいや、かまわないよ。それより、あの二人はどうだい。君の眼鏡にかなうかな?」
「そんな! そんなこと言ったら二人に失礼ですよ!!」
「では、気に入ったかい?」
「はい! でもあの、今から行っちゃダメですか?」
「ふむ……今はやめておこう。
 今日は、彼女らの事を知れただけでよしてしてくれないかな?」
「はぁ~い……」
「安心したまえ。いずれ、近いうちにあわせてあげるよ」
「ホントですか! 約束ですよ」
「ああ、約束だ。それまではすまないが、当分はあのおもちゃで我慢してくれたまえ」

そう言って、白衣の男が視線を向けるのは先ほどギンガやコルトが戦ったガジェットの同型機。
あまり気乗りしないで作ったものだが、あの子の遊び相手としてはそれなりだった。
だがそれも、最近は少々苦しくなってきている。
その意味でも、あの子にはそろそろ新しい遊び相手が欲しいところだ。

「ギンガ・ナカジマさんに、コルト・アヴェニス君かぁ。
 二人とも、こっちに来て友達になってくれないかなぁ?」
「なれるさ。君たちなら、きっといい友達にね。
 そう、命をかけて磨き合う、そんな関係に。
 フフフ………アハハハハハハハハハ!!」






あとがき

なにやら、オリキャラやらオリジナル兵器やらのオンパレードでございます。
オリキャラの本格的な出番はもう少し先ですが、ある意味徐々に人間関係が複雑化していく予定です。
ティアナとコルトの事もありますしね。

オリジナルの兵器ですが、名称は面倒なんで0型に。
まぁ、他のガジェットとは開発コンセプトが違うので、通常のナンバリングとは別と言う感じです。
というか、ガジェットと言う呼び名も型番も、前部管理局が勝手に付けたものなんですけどね、元々は。
「炎」とか「月」とかに関しては、次回で補足じゃないですけど触れることにしますので、それまでお待ちください。
まぁあれですよ、長老が暴れてた時点でそれに目を付ける人はいて当然なんですよね。
ちなみに、ああいうのを思いついたのはForceのほうで出てきたラプターが根幹です。あのマッドサイエンティストなら、これ位作ってしまいそうだなぁと。



[25730] BATTLE 23「武の世界」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/10/08 01:54

初出動から数時間後の機動六課。
先の戦闘の資料を提出し終えたフォワード陣は隊舎の一角、とある会議室に集められていた。

そこに居並ぶ部隊長であるはやてとその副官とも言うべきリイン、さらに各分隊長及び副隊長。
他にも医務官のシャマルや無官のザフィーラ、そして白浜兼一の姿もある。
錚々たる面々の表情は一様に厳しく、新人達は緊張の色を隠せない。

そしてその議題は、もちろん先の戦闘で現れた2種類の新型機。
球形の大型ガジェットと戦ったライトニング、格闘技を用いる人型ガジェットと戦ったギンガとコルト。
彼らはそれぞれまとめた資料を読み上げ仲間達に注意を促す。

大型機はAMFの強度及び領域がそれまでの物より強力で、その形状から砲撃が通りにくい事。
人型機はAMFの領域こそ狭いがその分強度が高く、またかなり高い技術を持つ人物のデータを用いていると思われる事など。
終始手を組んで静かに聞いていたはやては、4名が報告を終えた所で重々しく口を開く。

「つまり大型機…とりあえず最初に確認されたタイプを『Ⅰ型』、飛行型を『Ⅱ型』と呼称しとる事やし、その例に倣って暫定的に『Ⅲ型』とでも呼ぶとして……」
『……』
「こいつは基本的に今までと同じやり方で対処できる、っちゅうことでええか? エリオ、キャロ」
「あ、はい!」
「攻撃と防御も、基本的な所はこれまでのガジェットと変わりませんでしたから」

光線や触手を使った攻撃、守りを装甲とAMFに頼っている所などは既存のガジェットと同じ。
違いがあるとすれば砲撃が効き難い事、そして大型化した分全体的な性能が上昇している位。
確かにそれならば、基本的な対処の仕方はこれまでとあまり変わらない。
やる事の規模と出力こそ上がるが、同時にそれだけでしかないとも言える。
それが、実際にⅢ型と戦った二人の意見だった。

「高町教導官の意見は?」
「私も二人と同意見です。ただ、データを見てもかなり頑丈な事が伺えるので、今のフォワード陣だと倒すのは手間ですね。Ⅰ型ならもう単独でも対処できますが、Ⅲ型は最低二人以上のチームで対処するのが望ましいかと」

実際、フリードさえいればキャロでもⅠ型数機程度なら大過なく対処できるだろう。
だからと言って、単独行動はまだ早いので絶対させるつもりはないが。
そもそも、成長してきたとはいえ4人ともまだまだ穴だらけ、と言うのが上層部の判断。
その穴を埋めるためにも、単独でやり合うのはよろしくない。

「まぁ、今も不測の事態に備えて基本単独行動はなしやから、その辺は問題ないな。
 とりあえず4人は常に集団行動を心がけて、もし単独で敵と遭遇した時は至急近くの仲間と合流や、ええな?」
『はい!』

遭遇するのがⅠ型でも、基本的にその方針は変わらない。
弱くても数が多ければ新人達では危ういし、前回の様にⅢ型が突然現れる事もある。
何があっても大丈夫なようにする為のチーム、ならばそれを徹底するのは当然だ。
強いて変更する点を上げるなら、今後は採取したデータから再現したⅢ型との模擬戦もやっていく事位だろう。

「さて、そうなってくると問題なんは……」
「あの人型機…ですね」
「うん。アレばっかりは今までと勝手がちゃうし、一層慎重にやってかんと……フェイト執務官、現状で何かわかった事は?」
「アヴェニス一士が比較的損傷の少ない機体を確保してくれたので、それを現在フィニーノ一士が解析にあたっています。ですが、詳細を解析するには少し時間がかかりそうです」
「さよか……。せやったらしばらくは報告が上がるのを待つとして、とりあえずいつまでも『人型機』っちゅうわけにもいかんし、なんや呼称が必要やな」
「んなの、ⅠⅡⅢと来たんだからⅣで良いんじゃねぇの?」
「う~ん、ちょう他と開発コンセプトがちゃう感じやし、別扱いしたいところなんやけど」
「なら、0型とかで良いんじゃねぇか。あんまこだわる様な事でもねぇし……」
「まぁ、その辺が妥当やね。とりあえずナカジマ陸曹が戦ったのを0-1型、アヴェニス一士が戦った方を0-2型と呼んどこか」

事実、趣がだいぶ異なる上に植え付けられたデータによって戦い方も大きく異なるあの機体。
はやての言う通り、通常とは別の区分けにした方が良いと言うのは皆も同意する所だ。
とはいえ、ヴィータの言う通りあまりこだわる様な事でもなし。
わかりやすく通常の番号の流れから外し、ついでに『0-○』とでもナンバリングしておけばいい。
もし何かわかった時には、もっと別の呼称を考えれば良いだけの事。
実際、このすぐ後にアレらの機体には六課独自の暗号名がつけられることになる。
とそこで、報告を終えた後黙りこんでいたギンガが口を開いた。

「あの、よろしいでしょうか?」
「ん? なんか気付いた事があったら気にせんと言ってええで」
「ありがとうございます。師匠…白浜二士にお聞きしたい事がありまして……」

ここは一応公式の場と言う事で、『師匠』という呼び名を控えるギンガ。
まぁ、その辺りはみんなやっている使いわけなので別にいい。
そもそも、問題とすべきなのはギンガが兼一に何を聞こうとしているかだ。

「私が戦ったアレは、確かにムエタイを使っていました。
 でも、私があなたから学ぶそれとはどこか異質で……あれはいったい、何だったんですか?」

それまで兼一とギンガの間を行き来していた皆の視線が、兼一へと集中する。
これまで一言も発さなかった兼一だが、ここにきて深くため息をつく。
戦闘記録の映像を見たその瞬間、兼一はアレが何なのかを理解した。正確には、アレが何をやっているのかを。
まだギンガに教えるには早いと思う。だが今後アレらと戦っていくことになるのなら、出し惜しみは弟子の命にかかわりかねないだろう。
となれば、速いとか遅いとか言っていられる状況ではない。
そうして兼一は、再度深いため息をついてから重い口を開いた。

「アレは……………………古式ムエタイだよ」



BATTLE 23「武の世界」



『古式…ムエタイ?』

兼一の一言に、隊長達も含めて皆一様に首をかしげた。
地球で暮らしていた面々なら、ムエタイという名前くらいなら聞いた事がある。
だが、古式ムエタイという名称に聞き覚えのある者はいない。
いや、なんとなくの想像はつくが、それだけでしかないとも言える。

「ギン姉、知ってる?」
「……」

隣に立つスバルからの問いに、ギンガは無言のまま首を振って否定する。
白浜兼一と言う武術家の弟子になってしばらく経つが、今まで一度も聞いた事のない名称だ。

「古式ムエタイと言うのは『ムエボーラン』や『パフユッ』とも呼ばれる、言わばムエタイの原型だよ。
 そもそもムエタイは白兵戦用に作られた実戦武術だからね、その原型ともなれば当然……」

強力な技も数多く存在する、ということだ。
しかし、だとすれば一つ疑問が浮かぶ。

「あの、そんなにすごい技がたくさんあるんだったら、なんで今までギンガさんに教えなかったんですか?」
「……」

疑問を率直にぶつけてきたのはティアナ。
まぁ、彼女の疑問も最も。強力な技を学べば、それだけギンガも強くなれる。
武装局員の任務には危険がつきものだし、腕を上げればそれだけ生存確率も上がるだろう。
だと言うのに、それをしないと言うのはおかしいと考えるのが当然だ。

もちろん、兼一とていずれは教えるつもりだった。だが、今はその時ではない。
とそこで、それまで狼形態のまま座っていたザフィーラが口を開いた。

「教えるには時期尚早だった、と言う事だろう。
映像を見る限り恐ろしく殺傷性が高く、急所への攻撃どころか致命傷狙いの技が多い。
あんなもの、下手に人に当てれば死ぬぞ」
『っ!?』

その言葉に息をのむフォワード陣。
強力な技とは、つまりそれだけ効率的に人体を破壊できると言う事。
使い手の腕が悪ければ、最悪の『事故』の可能性も必然大きくなる。
まぁ、もしその使い手と教える側の人間がそう言う道を進もうとしているなら、話は別なのだが。

「ザフィーラさんの言う通り。今でこそムエタイは一国の国技へと昇華されているけど、その原型である古式ムエタイは殺傷のみを目的とした殺人拳。下手に当てれば死んでしまうし、上手く当てれば殺す事ができる、そういう技なんだ。
ギンガ、僕は君を弟子に取った時、まず何を教えた?」
「……武術は、人を活かしてこそ。人を守り、活かす。そこに武術の真髄はあると」
「そう。武術は本来、弱者が強者から身を守る為に編み出された護身の業、活人拳こそが武術の原点だ。
 だからこそ、あの技は今のギンガには必要ない。そう思ったから、敢えて教えてこなかったんだ」

今のギンガの腕では、敵を『殺してしまう』かもしれないから。
一般的なミッド式の使い手と違い、肉弾による直接攻撃を行うギンガにはその可能性がある。
だがそこで、エリオは気付く。果たして兼一は、この技を使う事が出来るのか否かと言う問題に。

「あの、兼一さんはこの技を……」
「使えるよ、一応ね。僕もムエタイ家の端くれ、嗜みとして失伝しない様に教わったんだ。
 でも、使った事はあまりないかな。教わったのもそれなりに腕を磨いてからだったし……何より」

文字通り必殺の技の宝庫であるだけに、使いどころが難しかった。
下手に当てれば死んでしまう、それが枷となり兼一ですらほとんどこの技を使った事がない。
それほどまでに、古式ムエタイの技は危険なのだ。

「じゃあ、これからもギンガさんには教えないんですか?」
「いつかは教えようと思う。でも、それはいまじゃない」

控えめなキャロの問いに、兼一は意識的に毅然とした態度をとって答える。
この際だ、自分の意思と方針ははっきりと示しておいた方が良いと考えたから。

「当面は古式ムエタイ以外…そもそもムエタイ自体ですら、ギンガにはまだまだ学ばなければならない事がたくさんあるんだ。それらを修めてからでも遅いと言う事はないよ、僕もそうだった」

物事には順序と言うものがあり、簡単なものから複雑なものへと進んで行くのが正しい流れ。
その意味で言えば、強力な技は後から学ぶというのは当然の事。
殺人拳の者の様に、殺すことを前提として技を磨いているわけではない以上、それがあるべき流れなのだ。
ただ、そんな兼一の考えに特に感銘を受けた様子もなく、コルトが口を挟む。

「アンタの育成方針はこの際どうでもいい。俺には関係ない事だし、知った事でもない。
 だが、一つ聞かせろ。俺が戦った0-2型、あれが使ってたのはなんて技だ?
 ナカジマ陸曹が使うのと同じような技も使ってたし、アンタならなんか知ってんだろ?」

実際、兼一の育成方針等全く興味がないのだろう。賛同する気はないが、同じように否定する気もない。
とにかくギンガを強くしてくれるのなら文句はないし、どんな過程を経ようと知った事ではないのだから。
そんなコルトに兼一は気を悪くした風もなく、思い出す様に画面の一つを指差す。

「ああ、これは八極拳と劈掛拳だね」
「……なんだ、そりゃ?」
「あっ、思い出した! 八極拳は私もやってるけど、確か接近戦に特化し過ぎるから他の武術と合わせて学んで補完するって……」
「そう、その良く一緒に学ぶ武術の一つが劈掛拳。遠心力を利用した鞭の様な鋭さと重さの打撃が特徴の武術だ。『放長撃遠』の言葉が示す通り、遠い間合いでの戦いを得意としていて、曲線的な歩法を使い相手の側面や後ろに回り込むのも得意だね。
 劈掛拳は他にも蟷螂拳を学ぶこともあるけど、この人は八極拳みたいだ」
「うんちくはいいが、使い手と戦った事は?」
「…………あるよ」

コルトの問いに、兼一は少しだけためらいがちに答える。
それに何か気付いたかのように眉を僅かに動かすコルトだが、追求する様な事はしない。
その代わり、彼は視線を兼一からはやてへと移し……

「それで、こちらへの対策はどう…いかがなさるおつもりですか、部隊長?」
「……ま、よう知っとる人がいるんやから、対策はお願いしてもええですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「高町教導官は?」
「私も問題ありません。
できれば、白浜二士の訓練はもう少し後にしたかったんですけど、仕方ないですね。
白浜二士と資料を纏めて、早いうちに動こうと思います」
「ん、じゃあそれでお願いするわ」

肩を竦めながら二人に問うと、両者ともに了承の意を示す。
なのはとしては、もう少しみんなが頑丈になってからにしたかったがそうも言っていられない。
ギンガやコルトですらやっと倒せたくらいの相手だ、新人たちだと非常に危険。
早いうちに対策を講じて行かなければならない。

「他にはない? ないんやったらもう暗くなっとるし、これで解散にしたいんやけど……」

実際、窓の外は夜の帳が下りている。
戦闘後なのでゆっくり休ませてやりたかったが、新型機が出たとあっては早いうちに周知した方が良い。そう言う事で、こうしてやや遅くまで残ってもらった。
しかしそれが終わったのなら、明日に響かない様はやく休ませてやるのも部隊長の務め。
とそこで、それまでずっと聴き手に回っていたシャマルが手を上げる。

「あ、ちょっと良いですか?」
「なんや、シャマル?」
「ギンガとアヴェニス君、今回の戦闘で怪我しちゃってるじゃないですか。
 大事はありませんでしたけど、それほど軽くもないので……」
「ちょう休ませたい、っちゅうことか。どないやろ、お二人としては?」

確かに、新人達は怪我らしい怪我もなく、問題なのは疲労だけ。
連日の訓練で体力も増し、回復魔法もあるから後に響く事はあるまい。

だが、ギンガとコルトの場合はかなりの苦戦を強いられただけあって、肉体へのダメージも相応。
医者であり皆の体調管理が仕事のシャマルとしては、完治までとはいかなくても、少しちゃんとした休みを取らせてやりたい所。
それでなくても、二人は新人たち以上のハードメニューをこなしているのだ。
特にギンガの場合、師がアレなので尚更。

「私は良いと思いますよ。怪我が悪化しても大変だし、兼一さんはどうです?」

なのはは過去の苦い経験があるだけに、シャマルの提案に異を唱えるつもりはない。
自分の事ならいくらでも無茶できてしまうとは言え、過去の事はちゃんと懲りている。
ましてやそれが他人の事なら、彼女はちゃんと常識的な判断と言うものができるのだ。

ミッドの医療技術はとんでもないし、魔法も併用すれば治りも早い。
傷自体もそれほど深くはないので、数日のうちにほぼ完治させる事が出来るだろう。
治癒をかけっぱなしにしておけば、一日もあれば完治とはいかなくても復帰できる筈。
なら、その間くらい休ませても良いと思う。それだけの働きをした二人なのだから。
まぁ、実際には報告書等もあるので、午前はデスクワークにあて、午後に休ませるのが妥当か。

ただ、そこで問題になってくるのが無茶の権化の存在。
アレの事だ、このくらい傷の内に入らないとまた無茶をさせる可能性がある。
そんなアレをどう説得するか隊長達は考えを巡らしていたのだが、出てきた答えは意外なものだった。

「そうですね、僕も良いと思いますよ」
『え”!?』

皆の口から揃って発せられる『信じられない』と言わんばかりの声と注がれる視線。
あのコルトですら、目を丸くして口を半開きにしている。
それだけ、皆にとってこの返事は意外なものだった。
しかし、それは本人からすると非常に不本意なもので……

「…………………なんですか、その『え”』っていうのは?」
「ああ、いや…なんちゅうかその……」
「な、何でもないですよ、何でも! ねぇ、フェイトちゃん!!」
「う、うん! 全然全く、他意なんて微塵もありませんよ!!」
(ま、いつもいつもアレだからなぁ……)
(信じろ、と言うのが無茶な話だとなぜ思わん?)

明らかに動揺する部隊長と分隊長、口には出さないが失礼な事を考える副隊長。
まぁ、ヴィータの考える通り、普段の行いからの正当な反応なのだから仕方がない。
新人達も一様に夢かどうか確認する様に自分の頬をつねっていることからも、それが伺える。

「あの、兼一さん。念の為に言いますけど、ギンガを休ませるんですよ?
 休ませるって言うのはですね、修業とかしないでゆっくりと……」
「いや、そんな事言われなくてもわかってますよ」
「十分とか一時間とかじゃ、全然休んだことにはならないですよ?」
「ま、まぁ確かに『ちょっと』と言って似た様な事はしてますけど……今回はちゃんと休ませますから」
「わかっているとは思うが、修業していないからと言って重り付けて生活させるのは休むとは言わん。それはわかっているか?」
「あの、僕をなんだと思ってるんですか?」
「「…………」」

拷問と書いて修業と読む地獄からの使者、とは思っていても言わないシャマルとリイン、そしてザフィーラ。
だが、三人の考えもあながち間違ってはいない。過去兼一は、休みを与えられた際に修業こそしなかったが、ダンベルを腕に括りつけられた事がある。
それと同じ事をしないとは言えないのだ、三人は知らない事だが。
しかし、兼一の返事に誰が一番驚いたかと言えば、それは愛弟子のギンガに他ならない。

「あ、あの…ホントにお休みなんですか?
 だ、だって弟子入りして今日まで休みなんて一日も……」
(うわぁ、なかったんだぁ……)

と、同情的な視線を向ける一同。
あの地獄の修業を毎日、それも3カ月以上休みなしで。
それはもう、いつ死んでもおかしくないのではないだろうか。

「実を言うとね、あのレベルの修業を休みなくやらせるのは無茶だなぁとは思ってたんだ。
 だからその内ガス欠になるだろうし、そこで休みをあげるつもりだったんだけど、意外と保っちゃうからタイミングを外しちゃってさ」
「は?」
「だからまぁ、今日まで良く頑張ったし、そのご褒美って事で」

それはつまり、無茶とわかった上で無茶をさせてみたら、予想外にも耐えてしまうので限界が来るまで続けてみたら今日になってしまったと、そう言う事なのだろう。
あまりにもあまりな現実に、立ちくらみを覚えるギンガ。
耐えられた事は純粋に喜ぶべきだが、耐えられたからこそ休みがなかったと思うと複雑だ。

「ま、何はともあれ明日はゆっくりと休んで、羽を伸ばすと良いよ」
「あ、ありがとうございます……」
「ゆっくり休んで怪我を治して、そしたらまた修行だ。
 手強い相手もいる様だし、ますます気合が入るよね。
 それなのに怪我なんてしてたら、むしろ大変なことになっちゃうよ」
(治りたくない……)

今この時ほど、ギンガは切実にそう思った事はない。
この口ぶりだと、さらに修業がきつくなるのは明らかなのだから。
しかしまぁ、何はともあれ明日一日、ギンガとコルトに休みを与えられる事が、これで決定したのであった。



そうしてフォワード陣が退出した後。
会議室に残された隊長陣とシャマルにザフィーラ、そして兼一。
彼らは先ほどまで以上に険しい表情で、先の戦闘映像を見つめている。
そして、唐突にシグナムが口を開いた。

「何か隠しているな、白浜」
「…………わかりますか?」
「お前は取り繕うのは上手いが、反面嘘が下手だ。
 アヴェニスに八極拳と劈掛拳の使い手と戦った事があるかと問われた時、嘘をついただろう。
 いや、嘘とも言えんのかも知れんが、それでも全てを語らなかったな」

コルトの問いに対して答えるまでの、一瞬のタイムラグ。
その際に垣間見えた、ただ戦った事があるだけとは思えない複雑な何か。
それにシグナムは目ざとく気付いていた。いや、気付いていたと言うのなら、それは……

「おそらく、ギンガも気付いていたな。気付いていた上で敢えて聞かなかったのだろう。
 信じて師を待つ、良い弟子を持ったものだ」

口の端を持ち上げ、僅かに笑うシグナム。
それに対し兼一は、頭をかきながら照れるばかり。
とはいえ、それで誤魔化されてくれる相手でもない。
兼一としても、子ども達の前では話すべきか迷ったがこの面々には話しておくべきだと思う。
だが兼一がその事に触れるより前に、なのはがどこか躊躇いがちに口を開いた。

「ちょっと、良いかな?」
「どないしたん、なのはちゃん?」
「実は少し気になる事があるんだ」

気になる事、と聞いて一声に全員の注目がなのはに集まる。
当のなのははどこか自信なさげに、同時に記憶の糸をたどるような表情。
しかし彼女は意を決し、画面上の一点。0-1型と名付けられたそれの胸部を指差す。

「これ……」
「漢字、だよね」
「『炎』か。確かにその字に相応しい激しい攻めの姿勢だ。
 だが、問題なのはそこではなく……」
「なんでガジェットに漢字が書かれてるのか、だよな」

なのはの示すそれを見て、各々呟きを漏らすフェイトにシグナム、そしてヴィータ。
それはフォワード陣には「調査中」と言う事で秘した情報。
別に教えてもよかったのだが、教えたからと言って特に意味があるとは思えない。
また、0-1型の『炎』と違い0-2型に書かれた『月』という漢字との関連性は不明。
なので、『炎』が実は何を意味するかもよく分かっていない。
なら、何かわかってから教えた方が良いとの判断だ。
ただ、『月』に関してこれと言って思う所のないなのはだが、『炎』の方には他にも気付いた事があった。

「これね、ちょっと見覚えがあるんだ……」
「ホントなの、なのは!?」
「マジかよ! どこだ、どこでだ!!」

何かの手がかりかと思い、なのはに詰め寄るフェイトとヴィータ。
だがなのはの表情は浮かないもので、本当は話すべきかすら迷っている事が伺える。

「その……………………………お兄ちゃんの部屋」
『は?』
「だから、お兄ちゃんの部屋なの! 昔、ああいうのがあったなぁって!」

なのはの告白を聞き、皆一様に肩透かしを食らった様な表情を浮かべている。
無理もない。確かに使っている技は地球の物だが、恭也との関連性が見えてこない。
なのはも知っているのはそれだけなので、それ以上言える事はないのだ。
言える事があるとすれば、それは……

「お兄ちゃんが持ってたメダルみたいなものがあって、それとよく似てるなぁって……」
「それって、字体がって事ですか?」
「うろ覚えなんだけど、字体も似てると思う」
「『も』ということは、この縁取りみたいなのも?」
「はい」

リインとシャマルの問いに、なのはは自信なさそうにうなずく。
文字が描かれているのは左胸。その周りには、まるで炎を象徴するかのような縁取り。
そのデザインが、かつて兄の部屋で目にしたそれと酷似している様に思う。
とはいえ、なにぶんずいぶん古い記憶の話だ。
なのはとしても『そんな気がする』だけで、確固とした自信があるわけではない。

「月の方は丸い縁取りだけど、こっちに見覚えは?」
「ううん」

念の為と言わんばかりのフェイトの問いへの答えは否定。
そちらには全然全く見覚えがない。
折角の手がかりかと思ったが、これではないも同然だ。
一応恭也と連絡を取っておくべきかと思った所で、おもむろに兼一が口を開く。

「あ、そっか。恭也君はコーキンと戦った事があるんだっけ……」
「ぇ…あの、兼一さんも知っとるんですか?」
「うん、僕も持ってるし」
『はい!?』
『なに!?』

兼一の言葉に色めきたつ面々。
恭也と連絡を取るべきかと思った所で、同じものを持つ人物がもう一人。
ならば、わざわざそんな手間をかける必要もない。

「せやったら、アレが何なのかも……」
「知ってますよ。とても、よく」

どこか遠い目をしながら、兼一は噛みしめるようにして言葉を紡ぐ。
それは、兼一にとって懐かしき青春の記憶の一つを象徴するもの。

「古式ムエタイを使って、炎のエンブレム、それにあの拳筋。
 間違いなく、0-1型に使われているのは『ティーラウィット・コーキン』のデータです」
「知り合い……とは違うようだな。とすれば…ライバルか?」
「ええ。修業時代から何度も拳を交えた、ライバルの一人ですよ」

シグナムの問いに、兼一は確信を持って答える。
忘れる筈がない、間違える筈がない。かつて、一度自分を殺したあの拳筋を。

「獅王神…ナラシンハとも呼ばれたムエタイ使い。
 一影九拳が一人、拳帝肘皇アーガード・ジャム・サイの一番弟子にして後継者です」
「なんなんだよ、その…一影九拳っつうのは?」

ヴィータの問いに対し、さてどこから説明したものかと迷う兼一。
闇の事を話すとなると、かなり話が長くなる。
だが、そこで首を振った。どうせだ、いっそちゃんとした知ってもらった方が良い。
どの程度あの組織が関与しているかは分からないが、もしもの時の為に。

「一影九拳の話をするには、まず『闇』について話さなければなりませんね」
『…………』

この場合、沈黙は了承の意。
兼一もそれを理解し、静かに自身の知る事を語り始めた。

「闇の詳しい成立ちについては僕にもわかりません。ただ、今の形になったのは第二次大戦後とされ、多くの達人が戦争で亡くなり、文化としての武術の失伝を防ぐべく創られたと聞きます」
「それだけ聞くと、一種の文化保護団体って感じですよね」
「ええ、あながちそれも間違ってはいません。ただ、普通の保護団体と大きく違う点がありました。
 それが……」

兼一はシャマルの問いに答えてから、一端そこで言葉を止め大きく息を吸う。
それからゆっくりと、闇の本質を紡いでいく。

「彼らは殺法を重視していたと言う事です」
「殺法だと? つまり、闇とはその名が示す通り……」
「はい。彼らは武におけるもっとも重要な資質を『非情』と唱え、如何に効率的に敵を破壊するか…活人という原点ではなく、武の果てを追求してきた存在です。その為ならば、殺人すら厭いません」
「ただ技を磨き、伝承するだけならば問題はないのだがな。
 いや、確かに使わぬ技術は錆朽ちて行くのみか。
その意味で言えば当然なのだろうが……」

過去の経歴もあるだけに、あまり人の事を言えないと思うのか、シグナムの語気はあまり強くない。
とはいえ、技の探究のための殺人と言うのは認めたくはなかった。

兼一としても、殺法の伝承そのものを否定する気はない。
殺法とて武術の一側面だし、追求していけば如何に効率的に敵を破壊するかに行きつくのもわかる。
だがそれも、使い手次第。使う者によっては、殺法でも人を活かす事ができる。
事実、兼一は殺法を多く含む古式ムエタイも伝承しているが、それを活人拳として振るう。

「つーかよ、そんな連中ほったらかにしてていいのかよ?」
「闇は政財界とのパイプも太く、政治的影響力や資金力が凄いんですよ。
 死者が出ても明るみに出ることなく各国は黙認、文字通りの闇です。
 まぁ、今はさすがに以前ほどの影響力はありませんけど」
「そうなんですか?」
「十数年前にちょっと色々ありまして、以前に比べれば幾らか勢力は衰えてますね」

ヴィータとリインの問いに答えながら、それでも完全にその影響力が消えたわけではない事も含ませた。
それは正しく伝わったようで、皆は難しい顔をしている。
それだけ強大な組織なら、確かに完全に潰えさせるのは難しい。
信奉者も未だ多いので、こればかりは仕方がないのだが。

「とりあえずその事は置いておきましょう。
 重要なのはこの後です。闇はその性質上、二つの派閥に分かれます。
 それが徒手空拳を旨とする『無手組』と、武器戦闘を旨とする『武器組』です」
「もしかしてその二つって、仲悪いん?」
「…はい。同じ闇ではあるんですが、思想の違いから基本的に疎遠ですね。利害が一致すれば共闘しますし、中には相手方にパイプを持つ人もいる様ですけど」
「ふ~ん、派閥争いっちゅうのはどこでもあるんやなぁ……」
「ですね。まぁそれはともかく、その無手組の最高幹部、それが『一影九拳』です」

そんな組織の最高幹部となれば、当然組織内に置いて最も優れた使い手の集まりと言う事。
出なければ周りが認めない。
何しろ、武術家同士の間における権威とは、即ち本人の実力のみが物を言う。
その事を、皆は言われずとも理解していた。
何しろ、程度の差はあれ武装隊などにもそういう空気と言うか風潮は確かに存在する。

「それで、この機体のデータの元になったのが、その内の一人のお弟子さんなんですか?」
「ええ、間違いありません。
 一影九拳は一人に一つその人を象徴するエンブレムを持ち、それを弟子にも持たせます。
 そして、アーガードさんとコーキンのエンブレムが……」
「炎、なんですね。でも、なんでお兄ちゃんと兼一さんがそれを持ってるんですか?」
「彼らはこれを時に決闘状として、時に敗北の証として相手に渡すんだ。
 次戦う時、相手を殺してそのエンブレムを奪い返すと言う誓いを込めて」

何ともまぁ、物騒極まりない誓いもあったものである。
何しろそれを持っている間、半永久的に命を狙われ続けると言う事なのだから。
とそこで、フェイトがちょっとした興味からある事を尋ねる。

「ちなみに兼一さん、そのエンブレムっていくつ持ってるんですか?
 一影九拳っていう人達が一人ずつ弟子を持ってたら、軽く十はある筈ですけど」
「………………………………まぁ、半分以上は」

どこか黄昏た様子で肩を落とす兼一と、彼に痛ましい視線を向ける面々。
そんなおっかない連中の弟子の半分以上に命を狙われるなんて……。
それはなんというか、あまりにも酷い。
ちょっとした好奇心で聞いてしまった事を後悔しながら、言葉が見つからないフェイトはなんとか話題を転じに掛かる。

「で、でもそれなら兼一さんはほとんどの一影九拳とその関係者を知ってるんですよね」
「え? まぁ、一応ほぼ全員と面識はありますけど……」
「だ、だったらこの『月』の人もわかりますか?」
「あぁ~、一応『月』のエンブレムの人も知ってますけど……」

そこまで言って、途端に歯切れが悪くなる。
無理もない話だが、知っているどころの間柄ではないのだ。
何しろ、師匠は自分の師父の実の兄、弟子は親友にして妹の旦那。
これではなんというかその……非常に言いにくい。
だが、別にそれだけが理由と言うわけではないのだ。

「じゃあ、この人の事も知ってるんですね!」
「それが……知らないんですよ」
「え? 知らないん、ですか? でも、面識があるって……」
「確かによく知ってます。『月』のエンブレムの一影九拳『拳豪鬼神』も、そのYOMIも」
『YOMI?』
「あ、YOMIというのは無手組の弟子育成機関で、一種の下部組織ですね。
 一影九拳の弟子が幹部を務めてるんですけど」
「はぁ……でも、だったら知ってるんじゃないんですか?」
「はい。でも、この機体のデータの元になったのはその人じゃありません。
 確かに彼も八極拳と劈掛拳を使いますが、拳筋が違うんですよ」

そう、0-2型の使う拳筋は兼一も見た事がない。
彼の拳筋を兼一が見間違う筈がない、なのでアレは彼ではないのだ。
だと言うのに、『月』のエンブレムを付けているのが腑に落ちない。
兼一としてもそれが悩み所だったのだが、リインやシャマルの問いにより思考が横道にそれる。

「というか、どうやってそんな所の人達のデータを手に入れたんですかね?」
「違うわ、リインちゃん。むしろ気になるのは、どうして弟子のデータなのかよ。
 普通、どうせならより強い人のデータを欲しがるはずなのに……」

言われてみれば確かにその通りで、これを作った者は何故一影九拳のデータを入れなかったのか。
手に入らなかったというのはわかる。だが、それならなぜYOMIのデータは手に入ったのだろう。
その違いはいったい何なのか、闇に関する知識の乏しい六課の面々にはわからない。
だがそこで、兼一は昔聞いたある事を思い出していた。

(そういえば、昔闇は研究機関と協力して積極的にYOMIのデータを取ってたって聞いた事がある。
 きっとこのデータはその時取ったもの。それなら、コーキンのデータが古いのも頷ける)

実際、画面に映し出されている0-1型…コーキンのデータを入れた機体の技は甘い。
恐らく、兼一と出会った頃とそう大差ない頃のデータだろう。
まぁ、そうでなければ応用力に欠ける機械とは言え、ギンガがあの程度の傷で済む筈がない。
その事を正直に皆に話すと、シグナムがある疑問を示す。

「だとすれば奇妙だな」
「え? あの、どういう事ですか?」
「YOMIのデータを取っていたのはわかった。恐らく、これらを作った者はどういう手段かは分からんが、それを入手したのだろう。研究機関の人間に紛れ込んだのか、あるいは機関員を買収したのか、それとも闇と結託していたのかはわからんがな。
 だが、だからこそ疑問なのだ。どうしてこいつを作った奴は、もっと後のデータを入れなかった?」

その方が性能が良いのは言うまでもない。
機体が再現しきれないからという可能性もあるが、そもそもこのデータでも再現しきれているとは言い難いのだ。その可能性はあまり高くない。
だとすれば可能性は一つ、入れなかったのではなく入れられなかった。
そもそもデータが手に入らなくなったのではないか。

「白浜、闇の勢力が衰えたのは十数年前と言ったな」
「はい」
「このデータの元となった男、コーキンとやらのデータはそれより前か後か?」
「たぶん、同じくらいの頃だと思いますけど……」
「なら、辻褄が合いますね。
その頃を境に影響力が薄れてしまって、満足のいくデータ収集ができなくなったんでしょう」
「そやね。同時に、それなら闇と結託してた可能性は消える。
 多分、どこかの研究機関を利用して、そこで必要なデータを取るのを誤魔化してたんやな」

フェイトやはやても合点がいくとばかりに静かにうなずく。
人一人のこれほど詳細なデータ採取は、今の地球の技術ではできない。
取るとなれば、管理世界の機材が必要。とはいえ、そんな物を使えばきっとばれる。

しかし、木を隠すなら森の中。
通常のデータ採取にかこつければ、上手く誤魔化す事ができるかもしれない。
そして、研究機関が離れてしまった為に隠れ蓑がなくなったからこそ、この時期までのデータしか入れられなかったのだろう。

そして、兼一はその推測を聞いた事である事を思い出す。
あの時期にあった、一つの出来事を。

「そう言えば、あの頃YOMIの交代劇がありました。
 前任者の事は良く知りませんけど、確か同じ中国拳法使いと聞いた事があります」

それはつまり、0-2型にはその前任者のデータが使われているのだろう。
丁度久遠の落日や勢力が衰える前後だった事もあるし、彼やその師がそう言う事に協力的とは考え難い。
故に、これらを作った者の手元には前任者のデータまでしかなかったのだ。

「なるほどな。確かにそれなら知らねぇのも当然か」
「ですね」

何しろ、兼一自身は面識どころか名前も知らない相手。
すっかりその存在を忘れていても無理はない。

ただ、これでいくつかわかった事がある。
アレらの機体に使われているデータはYOMIと呼ばれた面々の物。それも、ある一時期までの。
その数は恐らく最低十、兼一の話では一影九拳の弟子以外にも弟子がいるそうなので、数はもっと多いだろう。
その全てに対策を練るのは現実的ではないが、最も厄介と思われる十人分の対策ならまだ何とか。

「ちゅうわけで、申し訳ないんやけど兼一さんにはその対策をお願いできますか?
 なのはちゃんとヴィータはサポートをお願いな」
「「「はい(おう)」」」

三人の了承の返事を聞き、機嫌良く微笑むはやて。
とそこで、リインがある疑問を呈する。

「というか、なんで兼一さんはそんなに闇の事に詳しいんですか?」

その瞬間、場の空気が凍りついた。
ついつい流してしまっていたが、兼一の闇の事情への精通具合は尋常ではない。
聞けば元々かなり強大な組織であり、多少勢力が衰えても充分危険なそれ。
にもかかわらず、兼一はやけにその情報に詳しい。
それを疑問に思うのはある意味当然。
なのははなんとなく事情がわかっていそうな素振りだが、やはり詳しくない。

「そもそも、なんでそんなにYOMIの人と戦ってたのですか?」
「う~ん、それが梁山泊は活人拳の象徴みたいな所でして」
『ふむふむ』
「そんな所が最強を名乗って、それも武術界全体がそれを認めてたものですから、闇の殺人拳こそが最強と言う事を証明する為に、ある時抗争に発展したんですよ」
「でも、それでしたら兼一さんのお師匠さんだけの問題じゃありません?」

リインに続き、シャマルも問う。
確かに、それだけなら問題は師匠達同士の話。
だが、それだけで済まないから世の中は大変なのだ。

「それが、闇が掲げる大義名分である伝承において、弟子は非常に重要な意味を持ちます。
 技を究めるだけでなく、それを受け継ぐ弟子を育成できる事もまた優れた武術家の証ですから」
「つまり、自分で師を破り、弟子に敵の弟子を倒させる事で最強を証明すると言う事か」
「はい。それで、梁山泊の弟子は僕だけでしたから……」

狙いが、兼一一人に集中したと言うわけだ。
その事情を理解した皆は、うなだれる兼一に同情の視線を向ける。
何が悲しくて、そんな裏世界の大組織に命を狙われねばならないのか。

とはいえ、このままだと場の空気がよろしくない。
そこで、ザフィーラは苦しいと自覚しながらも唐突に話題を変える。
本来、こういうのは彼の役目ではない筈だが……。

「ところで白浜、お前が戦ったYOMIとやらは、一影九拳になったのか?」
「え? あ、ああ、風の噂で何人か代替わりしたという話は聞きましたよ。
全員ではないらしいですけど」

何しろ、一影九拳は武術家として最強クラスの実力者たち。
以下にその弟子たちとは言え、そう簡単には跡目を継げるものではない。

「そうか」
「はい」

悲しい事に、普段寡黙な人物がやってもこういう事はあまり話が続かないらしい。
そこで会話は途切れ、「さてどうしたものか」と言う空気が流れる。
まぁ、空気を変える事は出来たのでいいのだが……とそこで、唐突にはやてが動く。
彼女は兼一のすぐそばにやってくると、こう切り出した。

「なぁ兼一さん、実は前々から聞いてみたかったんやけど……」
「はい?」
「ヤールギュレシの達人ておるん?」
「よ、良く知ってますね、そんなの……」
「で、おるんですか?」
「いえ、今のところ聴いた事はないですけど……」
「そですか」

兼一の返答に、どこかしょんぼりした様子のはやて。
他の面々はなにを言ってるのかわからないらしく、シグナムですら小首をかしげていた。
そんな中、リインははやての目の前へと飛んでいき尋ねる。

「はやてちゃんはやてちゃん、ヤールギュレシってなんですか?」
「ん? ほうほう、聴きたいかリイン?」

リインの質問に、はやてはどこか邪悪な笑みを浮かべる。
兼一とリインを除く面々は悟った、「セクハラする気だ」と。

「ヤールギュレシっちゅうのはな、トルコの国技とされる650年を越える歴史を持つ伝統格闘技や」
「へぇ、すごいんですねぇ。でも、はやてちゃんなんでそんなに詳しいですか?」
「ふふふ、人間好きなものには詳しくなるんよ」
「好きなんですか? ヤールギュレシ」
「見るのも大好きやけど、ホンマはやるのも大好きや!!
 ただ、格闘技は相手がおらんと意味ない。
せやけど、周りに誰もやってくれそうな人がおらんかったから、結局今まで秘密になってたんや」
「それは、とてもかなしいですねぇ……」
「うんうん、リインはええ子やなぁ」
「それで、どんな格闘技なんですか?」
「ん? それはな……」

待ってましたとばかりに瞳を輝かせるはやて。
リインは無垢な瞳で見つめているが、他は違う。
リインの為にも止めるべきだと思うのだが、止めようとして止まる相手ではない。
それを理解し達観した、諦めの色が見て取れる。

「ぶっちゃけてまうと……トルコ式オイルレスリングや!!!」
「オイル…レスリング?」
「知らん、オイルレスリング? 深夜番組とかで、全身に油を塗りたくった二人がぐんつぼぐれつ……」

実際には、別にそんな卑猥なものではなく、れっきとした伝統格闘技なのだが……。
何故かはやてが言うと、恐ろしく生々しくもエロく聞こえるのはなぜか。
はやての語るヤールギュレシ像に顔を赤くし震えるリインと、それがつぼにはまったのかドンドン表現がエスカレートするはやて。はっきり言って、トルコという国そのものに切腹すべき悪行である。
いやまぁ、日本でテレビに映るそれは、ほとんど深夜帯やお笑い路線でしか使われないので、ある意味仕方がないのかもしれないが……。

その後も執拗に、それこそリインが耳をふさいで「イヤーイヤー!!」と叫んでも、念話を使って卑猥な表現を駆使し続けるはやて。その顔は実に生き生きとしている。
やがてリインは、頭から湯気を上げながらゆでダコ状態になって思考停止した。
そこまでいたいけな彼女を追いやった張本人はと言えば、「いやいや、リインもウブなお子様やなぁ」と爽やかに汗をぬぐう。正直、やってる事は言葉のセクハラ以外の何物でもなかったが。

何しろ、この場にはその手の事に免疫のない者も多い。
つまり、なのはとかフェイトもそれが耳に入ってしまい、「うわぁ」と真っ赤になって頭を揺らしている。はやて的には『大成功』と言う気分なのだろうが。

一武人として、兼一ははやてに怒るべきなのかもしれない。
だが、もうここまで来るとそんな気も失せて来る。
それは他の面々も似た様なものらしくは、ただただ深いため息をつく。
というか、兼一としては他に気になる事があるのだ。
なので、とりあえず手近な所にいたシグナムに声をかける。

「あの、シグナムさん」
「言っておくが、ヤールギュレシとやらならやらんぞ」
「やられても困ります」
「そうか。で、なんだ?」

とりあえずお互いに一安心し、話しを戻す。
見れば、兼一の表情は今日見せた中で一番真剣なものとなっていた。

「身体能力のデータを取るとかって言うのは理解できるんですけど、技術とか拳筋はそれでコピーできるようなものじゃありません。
 でも、あの機体はそれをしていました。なら、人の記憶とかそういうのを移す技術があるんですか?」
「…………」

至極当然なその疑問に、シグナムは沈黙を貫く。
それは何よりも明確な肯定の証なのだが、やはりそれだけで済ませられるものではない。
彼は武人、自分のものではないとはいえ、データを取れば技を再現できてしまうと言うその事実に、何か思う所があるのかもしれない。

ならばちゃんと説明してやるのが仲間だとは思うが、シグナムにはためらいがある。
それは、彼女の視界の端にある長い金髪の女性の存在。
フェイトはそれまで赤面していた筈の顔を、うってかわって蒼白に変えている。
他の面々もどこかその表情には緊張が潜み、場の空気は硬い。
はやてとリインですら、先ほどまでのじゃれ合いをやめてこちらを注視している。
それに気付いていないとは思えないのだが、兼一は相変わらずシグナムを見つめていた。

「どうなんですか?」
「……プロジェクトFと言うものを知っているか?」
『っ!?』

いつまでも隠し通せるものではないと観念し、その名を告げるシグナム。
その瞬間、場は騒然とし皆が息をのむ。
シグナムの眼には、兼一の斜め後ろ、死角となる場所で肩を震わせるフェイトとそれを支えるなのはの姿が映っている。
同時に、そのなのはからシグナムへと念話が飛ぶ。

『シグナムさん!?』
『わかっている、余計な事は言わん。だが、完全に黙秘と言うわけにもいかんだろう』
『……それは、そうですけど』

どの道、その存在と概要を眼にすることはできる。
隠した所で、兼一がその気なら知られてしまう。
そもそも、本当に問題なのはそこではないのだ。

「それで、知っているのか?」
「……いえ」
「そうか、ならばちょうどいい機会なのかも知れんな。
 プロジェクトFと言うのは、率直に言ってしまえば『記憶転写型クローン』を作り出す研究だ」
「記憶の転写、ですか?」
「ああ。クローン技術自体は地球にもあるだろう? だがクローンはクローン、本人ではない。
当然だな。同じ遺伝子でも、生みだされた命はまっさら、その人物が持っているものを持っていないのだから」

何を、などと問う必要はない。
これまでの話の流れから、それを予想できないほど兼一はバカではない。
と言うより、人一倍本を読み、その中にはSFの類も多かった兼一には、ある意味すぐに思いいたった。
いつだったか、同じような話を読んだ事がある。

「だから、ですか?」
「そうだ、だからだ。生み出されたクローンにオリジナルとなった人物の記憶を転写すれば、全く同じ人物を生みだせる、つまり死者を蘇らせられる。なにしろ肉体の設計図である遺伝子も、人格を形作る記憶も同じなのだから。そう考えた者がいて、それを研究し、実行した。そういう話だ」

結果は、言うまでもない。
そんな都合よくいくのなら、もっと世界的に普及している筈だ。
成功はしたが倫理的問題から禁止されているか、未だコストが高過ぎて普及に至らない可能性もある。
だが、兼一にはそうは思えない。

「人造魔導師同様、れっきとした違法研究だ。バレれば豚箱行きでも、縋る人間はいる。
 っと、人造魔導師は知っているか?
 外科的な処置・調整によって強力な魔力や魔法行使能力を持たせる技術だ。まぁ、こちらも成功率が高くない上に倫理的な問題から禁忌とされているがな」
「はぁ……」

地球から来たばかりの人間としては、あまり実感がわかないかもしれないとシグナムは思う。
しかし、こちらでやっていくためには必要な知識だ。
違法研究とは言え、それに手を伸ばす者がいないわけではないから。

「話しが逸れたな。
とにかく大切な者を失い、その喪失に耐えられず、儚い希望に縋る者達がいると言う事だ。
他はダメでも、自分の時は上手くいくかもしれない、そんな可能性に縋る気持ちは分かるがな……」

シグナムもまた、かつてかけがえのない同胞を失った。
彼女はその結末を嘆いてはいなかったのかもしれないが、それでも悲しむ主を見て感じたのだ。
失われた物を求める人達と同じ気持ちを。

「これを用いれば、あの機体の様なことも可能かもしれん。
 まぁ、やる者は良くも悪くも相当頭と心のネジが飛んでいると思うがな」

他者の記憶を保存し、それを転写する。
確かにその技術があれば、機械兵器にその記憶を転写する事でこの様な結果を生み出せる可能性はあるだろう。
人間の記憶を構成するのは、言葉や知識を司る「意味記憶」、運動の慣れなどを司る「手続記憶」、想い出を司る「エピソード記憶」の三種。
記憶喪失の人間が言葉をしゃべれなくなる事はないし、歩けなくなる事もない。
意味記憶や手続記憶を失えば話は別だし、そういう実例もあるが、一般的な記憶喪失とはエピソード記憶の喪失を意味する。

話しが逸れた。
三種の記憶のうち、機械兵器に武術を使わせるのに必要なのは手続記憶のみ。
それだけを抽出すればいいわけだが、言うほど簡単ではない。
記憶が三種ある事はわかっているが、どうやって分ければいいかが問題。
それ以前に、人の記憶をそうやって者のように扱う精神構造がまず普通ではないのだ。
シグナムの言う通り、実現した者はその技術を開発できた頭脳の飛びぬけ具合において常軌を逸し、記憶を物の様に捉える精神構造も常軌を逸している。

「そう言う事が出来て、やりそうな研究者には私も心当たりがある。
 と言っても、そいつに関しては他に詳しい奴がいるが……」
「はぁ……」
「一つ聞くが、闇人とやらがこの事を知った場合、その相手をどうすると思う?」
「…………」

管理局的には、彼の人物を死なせるわけにはいかない。
捕まえて、然るべき手続きを経て、受けるべき罰を受けさせるのが理想。
その意味において、闇人による殺害と言うのは避けたい可能性だ。

「人によるとは思いますが……あまり興味を持たないかもしれませんよ?」
「そうなのか? 私としては、自身とその技術や伝統への冒涜と考えるかと思ったのだが……」
「そう考える人もいるでしょうが、あまり多くはないんじゃないですかね。
 実際、コーキンのデータを使ってもアレですよ」

所詮は薄汚い鉄屑。血肉の通わない玩具に真の武術を再現することなど不可能。
その現実が証明されただけに過ぎず、むしろ嘲笑の種にしかならない可能性がある。
無論、それは不快に思わないと言う事ではないので、首謀者に然るべき罰を与える可能性は拭えない。
その場合、まず標的となるのは作った技術者ではなくそれを指示した誰かだろうが。

(問題なのは、首謀者と実行者が同一である可能性が高い事だが、気を揉んでも仕方がないか……)

とにかく、闇がその事に気付くことなく、仮に気付いても手が伸びる前に捕縛する。
別に今とて手を抜いているわけではないので、やり方も姿勢も変えるわけではない。
そういう意味で言えば、もどかしくもあり安心もしたと言ったところか。

やがて、いくつかの確認事項を終えて最後に残った面々も解散する。
そのまま隊舎に戻る者、最後に一仕事していく者など、種類は色々。
その中で、兼一とフェイトは隊舎に戻る派だった。

二人は別に申し合わせたわけでもなく、単に帰り道が同じと言うだけで道中を同じくする。
その途中、フェイトはずっと抱き続けていた疑問をぶつけた。

「ぁ、あの!」
「はい?」
「兼一さんは、さっきの話を聞いてどう思いましたか?」
「さっきの話と言うと……」
「プロジェクトFの…ことです」

プロジェクトF、それはフェイトにとって大きな重い意味を持つ単語。
それは、決して彼女と切り離す事が出来ないもの。なぜなら彼女の名は……。

よく見ればフェイトの体は震え、その手は真っ白になる程硬く握りしめられている。
詳しい事情を知らない兼一でも、何かしら因縁がある事はうかがえた。
何しろ今の彼女は、まるで雨に打たれる捨てられた子犬の様だから。

(兼一さんは奥さんを亡くしてる。だったら……)

あの可能性に縋りたくなるのではないだろうか。
他は失敗でも、自分の時は上手くいくかもしれないと言う可能性に。
失われた物を取り戻したいと言う気持ちなら、フェイトも知っている。
彼女もまた、大切な人…母を失った事があるから。

だが、あの技術と深い因縁のあるフェイトはそれを望んだ事はない。
あったかもしれないが、明確に意識した事はなかった。
それと因縁深い自分だからこそ、そんな物は望んではならないと固く禁じてきたから。

(望んでしまうのは、きっと仕方がない。でも……!)

他人が望む事を否定できるほど、フェイトは偉くない。
しかし、きっとそれを望む人、望んでいる人と自分達は相容れないだろうと思う。
生みだされた側と、生みだそうとする側は。

同時に兼一の答え次第で、フェイト達との関係に一つのラインが引かれる。
線の内側に入れるか、入れないか。それが決まるのだ。
その技術を求めるか、あるいはその技術によって生まれた者を認められない人は線の外側。
フェイトが何をするでもなく、その人の方から離れていく。それを彼女は良く知っていた。

この十年何度も繰り返し、実際これが境界となり離れた人がいるから。
親しいと思っていた人が、考えの違いや自分の素性を知った事から冷たい視線を向ける。
その恐ろしさを、辛さをフェイトは誰よりもよく知っていた。
エリオは兼一を親しい年上以上に慕っている、それこそ実の父親の様に。
だからこそ、そんな思いを幼い被保護者にさせたくはない。

ギンガの事もあるし、その可能性は低いと思う。
しかし、ギンガがまだ話していないと言う可能性もある。
まだ聞いていなかった事を、いま何よりも深く後悔していた。
だがもし、答えがYesであるのなら……

(この人は、ここにいるべきじゃない……)

その可能性を考えると、心が冷たく閉ざされていく事を自覚する。
いつか、自分だけではなくエリオやスバル……何よりギンガを深く傷つけるだろう。
ギンガが兼一に対し、深い親愛の情を抱いている事には、フェイトもなんとなく気付いていた。
それが恋愛感情なのかまでは、そもそも恋愛をした事がない彼女には判断がつかないが。

それでも、それだけ強く純粋な思いを抱くギンガの心に、傷を負わせる存在は許すわけにはいかない。
自分はこの部隊における、そういう生まれの者達の最年長者。
ならば、自分が皆を守らなければならないと思えばこそ。

「どう、なんですか?」

躊躇いがちに、表情が凍りつくのを隠す様に俯きながらフェイトは再度問う。
返事はない。いくら待てども返事がない。
時間の感覚があやふやで、一分経ったのか一時間経ったのかすらわからない。
もしかしたら十秒経っていないのかもしれないが、それでもそれは永遠に等しかった。
そうして、スカートを握る手が離され愛機に向かって伸びそうになった所で、兼一が口を開く。

「叶うなら、もう一度美羽さんと会いたいと、そう思います」
(あぁ、やっぱりこの人も…そうなんだ)

仕方がない事なのだとは思う。
その愛を否定する事はできない。だが、その果てに生みだされた者はそれに同調できない。
彼の眼にはきっと、その悲願の果ての「失敗作」としか映らないから。

結論は出た。ならばあとは行動に移すだけ。
大切な家族を傷つける者をフェイトは許さない。
ならば、やる事ははっきりしている。
しかし、そう思った所で兼一の顔に一抹の寂しさがよぎった。

「でも、きっとそれは望んじゃいけない事なんですよね」
「ぇ?」
「失敗したら、望んだ方も望まれた方も不幸です。望んだ側は大切な人だったからこそその違いに絶望するでしょうし、望まれた側はどうやっても望まれた人にはなれない事に苦しむでしょう。
だって、もうその人は望まれた人とは別の人だから」

それは、実際にフェイトにとっても身に覚えのある事実。
母は姉を望んだ。しかし、自分はどうやっても姉にはなれなかった。
姿形は同じでも、性格が、利き手が、能力があまりにも違いすぎたから。
母はそれに絶望し、自分を人形として見限った。
その事を自分は知らなかったが、どう努力しても姉にはなれなかった事はわかる。
兼一の言う事は、まさしくフェイト自身の身に降りかかった現実そのもの。

「僕は、あまり頭の良い方じゃないんで偉そうなことは言えませんけど、それくらいはわかるつもりです。なにより僕は……武人ですから。例え確実に成功するとしても、それは望んじゃいけないんです」
「どういう…事ですか」
「僕は何度も命を賭けて戦いました。信念の為、守らなきゃいけない人の為、色々な物の為に。
 でも、もし死んでも生き返れるとしたら……命をかける意味って、何なんでしょうね?」

そう語る兼一の表情は深い悲しみに染まっている。
本当は望みたい、だが望めない。
そんな感情の板挟みにあい、それでも望めない事を彼はわかっていた。

「命は一つ、だからこそ計る事の出来ない重さと価値があるんじゃないでしょうか。
 もし生き返れるとしたら、それは生き返る為に必要なコストこそが命の重さであり価値になります。
 じゃあ、そんな命を賭けたとして、意味は……あるんでしょうか?」

意味はあるだろう、そのコストの分だけ。
しかし、そこに以前ほどの重みがあるとは、兼一にはどうしても思えない。
そして、そんな重さのない命を賭けて、何がなせるのだろうか。

医術によって死の淵から引き戻すのとは違う。
それは死と言う一つの断絶の後、それをなかった事にしてしまうと言う事。
すなわち、「何のために死んだのか」という意味が失われるのだ。

「美羽さんは命と引き換えに翔をこの世界に産み落としました。
 それなのに、その命の価値を蔑ろにすることなんて、僕にはできません」

奴は、己が命を盾に美羽の命をこの世に繋ぎとめた。
美羽は命を対価に我が子をこの世に残した、彼女の母もだ。
彼らの死があったからこそ、為し得た成果、未来がある。
命を引き換えにしたその大業。それを軽視する事は、兼一にはできない。
何度も命を賭けて戦ってきた彼だからこそ、その意味を損なう事を許すわけにはいかない。

「できるなら翔を一目美羽さんと合わせてあげたいんですけどね。
 でもそんな事をしたら、きっと愛想を尽かされちゃいますから……」
「ぅ…ぁ……」

上手く開いてくれない口を、声を為してくれない声帯を、フェイトはもどかしく思う。
言わなければならない事があり、謝らなければならない事がある筈なのに。
勝手な思い込みをしてしまった事、試す様な事をしてしまった事。
何より、今までの誰とも違う、悲しい笑顔を浮かべながら確固たる意思を持ってそう語る彼に、言いたい事がある筈なのに。

「僕は僕が武人である限り、美羽さんが武人であったからこそ、それを望む事はできません。
 それに、僕は活人の拳士です。死んでも生き返れるなんて思ってしまったら、この拳と鍛えてくれた師匠達はいったい何だったんだ、と言う事になってしまいますよ」
「……なら、その技術で生まれた命を、あなたはどう思うんですか?」

本当は、そんな事が言いたかったわけではない。
だが、気付けばこの言葉が口をついていた。

兼一の意思には胸を打たれた。
その意思は気高く、何よりも尊いと思う。
きっと何を捨ててでも願いたい望みを、彼は自分と愛する人の生き方の為に否定する。
それはたぶん、言葉にするほど簡単なことではない筈だ。
その程度の事、その横顔を見ればわかる。

もしかしたら、だからこそ聴きたかったのかもしれない。
それほどまでに命に対して潔癖な彼だからこそ、そんな技術によって生み出された命をどう思うか。

「人の命を弄ぶような研究を、僕は肯定する事はできません。
 でも、だからと言ってその研究によって生まれた命を否定したくはありません。
 人は、生まれを選べません。富裕層に生まれた人、貧困層に生まれた人、戦地で生まれた人、平和な土地で生まれた人、色々な人がいて、これもその内の一つじゃないですか?
 なら、その人にだって普通に生きて幸せになる権利があると思います」
「……」
「その研究を否定すると言う事はその存在、ひいてはそれによって生まれた命も否定するって考えることもできるかもしれません。でも、命を弄ぶ研究を否定しておいて、それによって生まれた尊い一つの命を否定したら、それこそ矛盾しませんか?」

おそらく、どちらも理論としては成り立ち、同時に隙があるのだろう。
なら、結局はどちらが正しいかではなく、自分ならどう考えるかだ。
兼一はそこで後者を選び、研究は否定しておいて命は肯定すると言う方を選んだ。
いい所取りの、酷く我儘で身勝手かもしれない考え。
それでも、白浜兼一がお人好したる由縁がここにある。
活人の道とは、見方によってはどうしようもなく我儘な道ある事を、彼は知っていたから。

全てを聞き終えたフェイトの顔に浮かぶのは微笑み。
気負いはなく、当然無理もない柔らかな笑顔。目尻に浮かぶ涙すら、それを引き立てる。
見る者を魅了し、兼一でも一瞬目を離せない輝きが宿っていた。

「……そう、ですね。私も、そう思います」
「そうですか。ところで、結局これってなんの質問だったんですか?」
「それは…………………………秘密です♪」

一度は正直に答えようと思って、フェイトは兼一の口元に指をやり軽く触れてはぐらかす。
先ほどやきもきさせた仕返しであり、ちょっとした意地悪だ。

「え…ええ!? ちょ、ずるくないですか?」
「女なんて、男性からしたらズルイ生き物ですよ。逆もそうらしいって、私も今日知りましたけど。
 でも兼一さんは、とっくにご存知かと思ってました」

気付けば静流の様な微笑みは、いつの間にかいたずらっぽい笑顔へ変わっていた。
何年経っても相変わらず心の機微と言うものに疎い兼一には、その笑顔の意味がわからない。
相手を困らせてみたい、そんな幼い好意が。

「頑張って考えてみてくださいね。あってたら、その時は教えてあげますよ」
(え? それって意味がないんじゃ……)

はじめのうちは家族の事でやきもちを焼いた。
だがその努力する姿に、全てを包み込むようで、同時に分け隔てのない優しさにいつしか好感を持つようになった十も年上の相手。つい数時間前までとは違う感情が、ほんの少しだけ芽生えつつある。

それが何なのか、フェイトにはまだわからない。
しかし、胸の内に芽生えた温かさは…………どこか心地よかった。

長い金糸の髪を翻し、フェイトは兼一を置き去りにするように歩みを早める。
自身の背を追い、足早に駆けて来る足音に微笑みを浮かべながら。



  *  *  *  *  *



一夜明けて、昼過ぎのミッドチルダのとある駅前。
そこにはベンチに腰掛け、息を整える長い青髪の少女の姿。

ギンガは降って湧いた一日限りの休みに、隊舎からほど近い繁華街へとやって来ていた。
まぁそれでも、割と町から外れたとこにある六課なので、かなりの距離があるのだが。
とはいえ、本人としては外出するつもりではなかったのだ。
だが、寮の自室に突然シャマルが押し掛け……

「どうせ暇だから訓練しようとか考えてるんでしょ。
 それじゃ折角のお休みが意味ないわ。
というわけで、今から外に遊びに行って来てなさい♪」

と言う次第で、あれよあれよという間に寮から追い出されてしまったのだ。
それも、監視役とばかりに翔まで付けて。
折角の休みだし満喫するのは悪くない。それも、可愛い弟分との時間ともなれば尚更だ。

ただ、3ヶ月に及ぶ修業漬けの毎日により、身体を動かさないと落ち着かない自分がいるのも確か。
なるほど、これではシャマルに追い出されるのも無理はない。
ギンガもなんとなく自覚しているので、シャマルの読みには舌を巻く。
しかし、そのお付きである筈の翔の姿が見えない。
それもその筈。何しろ今彼は、姉弟子より大事な任務を仰せつかっている。

「さ、さすがに、ここまで走ってくるのはきつい…かな?」

ようやく息が整いしゃべれるようになったのか、ギンガは喘ぐように天を仰ぎながら呟く。
六課からここまで、普通なら乗り物を使う様な距離がある。
だがギンガは、その全てを己が脚のみで踏破した。翔を担いで。
日頃の鍛錬の成果だが、きつい物はきつい。

というか、なんでそんな事をする羽目になったかと言えば、原因は翔にある。
子どもとは無邪気な物で、だからこそ余計な事を言ってしまう。
それも、父親がアレだ。引き継がなくてもいい物まで引き継いでいるのかもしれない。
なにしろ六課を出立する際、偶々居合わせたリインが見送ってくれたのだが……。
そんな彼女に向けて翔は一言。

「なんだか、リインさんのしゃべり方って○ラちゃんみた~い」

あの瞬間、リインの背中に落雷を見た気がする。
本来彼女は凍結資質持ちの筈だが、それでも確かに雷鳴が聞こえた。
地球にいた時間などたかが知れているギンガには翔の言った「タ○ちゃん」の意味はわからない。
しかし、それを聞いた時のリインは肩を震わせ……。

「言ったですね。言ってはいけない事を言ってしまったですねぇ―――――――――――――!!」

と激怒。それにビビったギンガは、翔を抱きかかえて一目散に逃走。
翔はなにが楽しいのか「キャハハハハハ♪」とご機嫌に笑っていたが……。
もしかすると翔は、父の「相手の逆鱗に触れる才能」を引き継いだのかもしれない。

「それは…………まずいわね」

正直、弟分の将来が心配だ。
あの才能は、あまり社会生活に役立たない。それどころか、マイナスになりかねないのだ。
よくもあんなものを抱えて、師は真っ当な社会生活を送れたと思う。
聞けば友人も多いようだし、どんな魔法のおかげやら……。
というか、ギンガとしては他にも色々心配な事が翔には多い。

「そういえばあの子、どこまで行ってるのかしら?」

そう言って、ギンガは疲労の残る体に鞭打って立ち上がる。
まったく、これではなんのための休みかわからない。

とはいえ、師から預かった子ども。それに何かあっては申し訳が立たない。
以前の事もあるし、念には念を入れた方が良いだろう。
息を切らす自分に、「飲み物買ってくる!」と気を使って駆けだしたのを見送ったのが不味かったのだろうか。

「変な所で不器用だし、道に迷ってないと良いんだけど……」

何と言うか、翔は肉体的なスペックが異常に高い半面、翔はかなり不器用な所がある。
あるいは、どこか抜けていると言うか天然と言うか、率直にドジと言うべきか。
それも、最近はそれに拍車がかかっている気がする。

体を動かすセンスは抜群なのだが、他がてんでダメ。
掃除をしようとするとむしろ散らかるし、割と頻繁に皿を割るなど当たり前。
天真爛漫にはしゃぐことも多いが、それはそれであぶなっかしい。
なにしろ、勢い余って植え込みに突っ込む事もあるくらいなのだから。

本来あの子ならそんなドジは踏まない筈だが、幼い段階で武術漬けの毎日になった反動かもしれない。
何というか、武術に関わっていない時は基本的にぼ~っとしている事が増えた。

「ホント、大丈夫かしら、あの子……」

冷や汗を流しながら、ギンガは足早に翔の姿を探す。
以前はあまりなかったが、最近になって増えた事を思うとあの可能性の信憑性は増すばかり。
とすると、迷子になったと言う可能性も……

「凄く、ありうるわね……」

ちなみに、ギンガがそんな事を考えていたその時。
翔が何をしていたかと言えば……

「あ、見つけた!」

どうすればこれだけ時間がかかるのか定かではないが、ようやく発見した自販機の前。
翔は頼まれた物を探し、それを発見。
背伸びしながら小銭を入れようとする。だがその瞬間、喜劇は起こった。

「え? あ~~~~……そっちじゃないのに~~~~~」

人の波に飲まれ、目的地から流されてしまう翔。
彼が姉と合流するのには、さらに長い時間を要するのだった。
つまり、ギンガの想定はまだまだ甘かったと言う事。

で、そんな感じにいずことも知れぬ地へ流された翔を必死に探すギンガ。
探し始めること数分。彼女は今、非常に面倒くさい足止めを食っていた。

「ねぇねぇ、君ヒマ?」
「一人じゃつまんないでしょ? 俺達が優しくエスコートしたげるからさぁ、一緒においでよ~!」
「そーそー、向こうに車とめてあるからさ、もっと楽しい所で遊ぼうぜ!」
(あーもー、この忙しい時に!!)

腕を掴まれ、馴れ馴れしく肩へと延びる手を払いながら苛立つギンガ。
速く翔を探さなければならないのに、そう言う時に限って入るお邪魔虫が三匹。
はっきり言って、今のギンガは彼らをボロ雑巾にしてしまいたい程苛立っている。
が、武装局員がそれをやるのは不味いと言う事がわかる程度には理性が残っているのは幸運か不運か。
とりあえず、そのせいで踏ん切りがつかないので、余計にいら立っているのは間違いない。

とはいえ、未だ実力行使に踏み切るには足らない。
已む無く、ギンガはやんわりと、だが言葉尻に棘をふんだんに含ませながら拒絶の意を表す。
が、無神経な男たちには通用しない。

「すみません、連れを探しているものですから」
「いーじゃんいーじゃん、そんなの気にしないでさ~!」
「あ、その子も女の子? もしかして君と同じくらい美人?」
「なら俺達も頑張っちゃおっかなぁ~!」

お世辞にもあまり品性が良いとは言えな男たちの反応に、ただひたすらに辟易するギンガ。
何より不快なのが、服越しとは言え触れる男たちの手の感触。
下心がにじみ出ているのか、ただ触れているだけで怖気が走る。
その上、払っても払っても懲りずに延ばされてくるのだから鬱陶しい。

正直、実力行使とはいかずとも、いい加減力づくで振り払いたくなってくる。
一応何度か忠告はした。ならば、怪我をしない範囲は自己責任。
そう決断したギンガが体に力を込める瞬間、何者かがの襟を引っ張った。

「ほらほら、女の子が嫌がってるんだからやめときなよ、君達。
 そんなんじゃかえって印象を悪くするってどうしてわからないかなぁ?
 女の子はデリケートなんだから、優しく礼を守って接さないとダメだよ」

片手に付き一人ずつ、計二人の男の襟が後ろから引かれる。
いや、引かれるどころの話ではない。

「う、うわぁ―――――――!?」
「は、離せこの野郎!!」

男たちの脚は地面から一瞬浮きあがり、続いて即座に落下。
運動不足なのか咄嗟の事に反応できず、無様に尻もちをつく。

だが、問題はそこではない。
魔力の発動を感じなかったことからすると、襟を掴んだ人物は、素の腕力で人間二人を持ちあげたのだ。
一瞬の事ではあったが、それが単に首を絞めない為の配慮である事にギンガは気付いている。

振り向けば、そこにはギンガよりだいぶ背の高い、180cmを越える男の影。
しかしその顔立ち静観ながらはどこか幼さを残しており、年がそう変わらない事も伺える。
彼はギンガに軽くウィンクすると、残る一人に向き直った。

「それで、君はどうする?」
「ひっ…!?」

別に、少年が何かをしたわけではない。
だが、男はその眼を見た瞬間小さく呻き、一目散に逃げ出した。
残る尻もちをついた二人もそれに倣い、ほうほうの体で逃げる。
少年はそれに肩を竦め、一瞥もくれることなく言った。

「やれやれ、この辺りの人はマナーがなってないのかな?
 女の子は大事にしなさいって教わったとおもうんだけど」
「あの、ありがとうございます」
「いやいや、可愛い女の子にいいところを見せたかっただけだよ。
 ま、そんな必要もなかったみたいだけど……」

言った瞬間、一瞬細まる少年の眼。
それが、一瞬冷たく光った気がしてギンガの身体が強張る。
しかし少年はそんな事を気にした素振りもなく、どこまでも爽やかかつ朗らかに話す。

「それで、急いでるみたいだったけどいいの?」
「そうだ、翔! すみません、ちょっと人を探してるので、これで失礼します!」
「うん、それは良いんだけど……もしかしてあの子がそう?」

そう言って少年が指し示した先には、手を振って駆けよってくる翔の姿。
どこか服装がくたびれた様子だが、怪我らしい怪我はない事に安堵するギンガ。
少年は、「うんうん、見つかってよかったね」とにこやかに頷いている。
ただ目の前まで来た所で、翔の背中に誰かの腕がぶつかりバランスが崩れた。

「あ!?」
「って、翔!」

傾く小さな体と、なんとか支えようと伸ばされる手。
だが咄嗟の事にギンガの手は間に合わず、翔の体は地面と激突……する事はなかった。
寸での所で風の様に差し出された逞しい腕により、抱え上げられる翔。
少年は翔を眼の高さまで持ち上げ、にこやかに注意する。

「ほら、ちゃんと気をつけないとダメだよ、僕」
「………………ふぁい」

驚いているのか、翔はどこか間の抜けた返事を返す。
ギンガもはじめは呆然とし、続いて現実を認識。
慌てた様子で少年へと向き直り、深々と頭を下げた。

「す、すみません! 一度ならず二度までお世話になってしまって……ほら、翔も」
「う、うん。お兄さん、ありがとう」
「アハハハ、だから気にしなくていいってば。困った時はお互い様だよ」

翔をギンガに返しながら、手を振って応える少年。
とそこで、唐突に目つきが変わる。
それを見てとったギンガは一瞬警戒し、少年の動きを注視する。そして……

「じゃ、探し人も見つかった事だし、今からお茶しない?」
「って、ここにきてナンパですか!?」
「え? だって、元からそのつもりでこの辺ウロウロしてたし」

すぐに肩透かしを食う破目になるのだった。
しかも、ツッコミを入れても開き直ってあっけらかんとする始末。
何と言うか、良くも悪くも暖簾に腕押しと言う言葉がよく似合う。

とはいえ、ギンガとしても恩人である少年の誘いは中々無碍にできない。
それも、よく見れば相手はかなりの美系。ちゃんと礼節も守っているし、爽やかな所は好印象。
正直、あまり悪い気はしないと言うのがホントのところ。
実際、外からも視線を感じるし、少年に熱い視線を向ける女性もいる事が伺える。
だが、ギンガの反応は明瞭な謝絶だった。

「折角のお話ですけど、ごめんなさい」
「ありゃ?」
「そ、それにですね、この子…………………うちの子なんです!!」
「はえ?」

そう言ってギンガが少年に向けて押し出す様にして掲げるのは、それまで抱いていた翔。
翔はなにが起こっているのかよく分からないらしく、キョトンとした顔で首をかしげる。

にしても、もう少し表現の仕方はなかったのか。
これだとまるで、『この子は私の子です』と言っているようにも受け取れる。
いや、ナンパを断る口実と考えれば狙っているのかもしれないが、それはそれでどうなのだろう。

普通ならもう少し粘るなり、ツッコミを入れるなりする所。
しかし、少年から返ってきた答えもまたさっぱりしたものだった。

「そっか、それじゃ仕方ないね」
「そ、そうです! 残念ながら仕方ないんです!」

最早自分でも何を言ってるかよく分かってないらしいギンガ。
ちなみに、翔はぬいぐるみの如く力を抜いて宙ぶらりんのまま。
そんな翔の頭を軽くなでると、少年はあっさりと引き下がり背を向ける。

「じゃ、またいずれ。ね、僕」

それだけ言って、少年は去って行った。
ギンガは翔を下ろし、先の言葉を反芻する。

「あれ? もしかして、また会おうって事だったのかな?」
「ん」

なにが「ん」なのかよく分からないが、翔も同じ印象を受けたらしい。
だが、名前も知らずにどうやってまた会うのやら……。

とはいえ、考えても仕方がない。
二人は気を取り直し、手を繋いで繁華街へと繰り出していくのだった。

視点は移り、意外とあっさり引き下がった少年の方。
彼は適当に繁華街をぶらつき、あまり人気のない一角に辿り着く。
そこには、古ぼけたコートにフードを被った小柄な人影。
彼はその人影に近づき声をかけた。

「や、元気にしてたかい?」

少年の声を聞き、小さな人影…無表情な少女が振り向く。
だが、かえってきたのはそんな少女には不釣り合いな威勢のいい声だった。

「って、あ! お前、またでやがったな!!」
「酷いなぁ、そんな虫みたいに」

もちろん、声の主はフードの少女ではない。
声の主はそのフードの影から顔を出す、赤い髪の小人。
少年は小人の言葉に苦笑を浮かべている。
そんな少年へ向け、ようやく少女は口を開いた。

「何…してるの?」
「いや、ちょっと行きずりの女の子とお茶しようと思ったんだけど、ふられちゃった♪」

特に残念そうな素振りも見せず、肩を竦める少年。
そんな彼を見て、小人は溜め息交じりに呟く。

「相変わらず軽いよなぁ、お前。ホントにアイツらの仲間か?」
「ホントに酷いなぁ、僕は単に今を楽しんでるだけなのに……そう言えば、ゼストさんは?」
「今は、別行動中」
「そっか、じゃあ今から遊びに行かない?」

脈絡も何もない唐突な申し出。
小人的には、せめてもう少し話しを連続させてほしいところだ。
だが、少女はその意味が理解できないのか、首をかしげて問う。

「どうして?」
「どうしてって、それは……」

少女の問いに、少年は腕を組んで思案する。
理由、理由と何度か呟き、ようやく思い至ったのか景気よく手を叩く。

「久しぶりに会った友達との友情を深めようと思って」
「それだけ?」
「それだけ」
「つーか、お前とルールーの間に友情なんかあんのかよ!」
「まぁまぁ、それを確認するためにも行こうよ。アギトにもおごるからさ」
「え、ホントか! って、んなもんじゃあたしは釣られねぇからな!!」
「わかってるってば」
「でも、私……」
「ほらほら、根を詰め過ぎてもよくないよ。遊ぶ時はパァッと遊ぶ。
短い人生、花の命はさらに短い。明日死ぬかもしれない命なら、今を楽しまなきゃ!」

そう言って、少年はやや強引に少女の手を引く。
しかし、少女としては気がかりが他にもある。
と言うか、その気がかりと言うのはこの少年の事でもあるのだが。

「もしかして、また勝手に研究所から抜けだしたの? ドクターに怒られるよ?」
「気にしなーい気にしなーい! さあ、今日は夜通し遊び通そうか、ルー!」
「って、ルールーに夜更かしさせんな!! 旦那に言い付けるぞ!!」
「ごめんごめん。じゃ、夜通し遊び通すつもりで!」
「何が違うんだよ!!」

そうして、大中小の三人組はミッドの繁華街へと繰り出していく。
ちなみに、この後も大と小のコンビは細々と漫才を繰り広げるのだが……それは余談である。



  *  *  *  *  *



場所は移って機動六課隊員寮。
その男子棟の一室では、一人の少年が昼間っから不健康に籠っている。
で、その部屋の扉の丁度真ん前に機動六課部隊長八神はやては立っていた。

「突撃! 隣のベッド下――――――――♪」
「何やってるですか、はやてちゃん?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれたなリイン」
「それは、この状況じゃ私がつっこむしかないですから」

何しろ、真昼間の隊員寮に人気などある筈もなく。
恐らく、寮内にいるのもこの二人くらいなら、バカ騒ぎしてるのもこの二人だけだろう。

「というか、なんでベッド下なんですか?」
「ん? そら、男の子のお宝の隠し場所の定番だからに決まってるやん」
「なんのお宝かは聞きません。リインは成長するのです!」

昨日酷い目にあっただけに、どうやら下ネタ系と考えているようだ。
まぁ、思い切り大当たりなので特に問題はないが。
とはいえ、やはりはやての方が一枚上手なわけで……

「ほうほう、リインも成長したなぁ」
「はいです! 今日のリインは一味違うのです! 断じて何年も成長しない○ラちゃんとは違うのです!」
「そうかそうか。で、お宝と聞いて何を思い浮かべたん?」
「それは……………………………………きゅう」
「アハハハ、まだまだ子どもやなぁ!」

どうやら、はやての問いかけで思い浮かべてしまったらしく、湯気を出して倒れるリイン。
それを見て愉快痛快に笑うはやて。
とりあえずアレだ。「はいです」とか言ってるうちは、タ○ちゃんと大差ない気もする。
とそこで、唐突に目の前の扉があけ放たれた。

「人の部屋の前でごちゃごちゃうるせぇ!! 用があるならさっさとしやがれ、鬱陶しい!!」
「や、アヴェニス一士、大人しく謹慎しとるか?」
「…………………………俺が貰ったのは謹慎じゃなくて休暇だ…ったと記憶してますが、部隊長殿」
「キミにとっては大差ないんとちゃう? 訓練禁止な時点で」

反論の余地がないのか、特に何も言わないコルト。
本当はコルトも追い出されかけたのだが、ギンガと違い彼は断固として動かなかった。
その代わり、「訓練しなきゃいいんだ…でしょ」と言って部屋に引きこもったのである。
部屋の中で出来ることなどたかが知れているし、それならばと言う事で良しとされたのだ。

ではやては、そんな部下が何をしているのか気になって様子を見に来たのである。
まぁ、部屋の中を荒らす気が全くないと言えば嘘になるが。

「とりあえず、お邪魔するで!」
「許す前から踏み込んで何言いやがりますか」
「アハハハ、そんなん気にしたら負けや!」
「すみませんすみません!」

はやてに代わり、必死になって頭を下げるリイン。
如何に上司と部下とは言え、プライベート空間に堂々と踏み込むのはいかがなものか。
と思っているのは実はリインだけで、別にコルトは気にしていなかったりする。
何しろ、彼としては別に見られて困る者など微塵もないからだ。
彼の同居人なら話は別かもしれないが。

「お! 早速エロ本発見!」
「侵入五秒でですか!?」

発見場所はベッドの裏。その後も、次々と出るは出るは。
机や箪笥の引き出しの二重底に隠された本、あるいは他の本に偽装した中に入った映像媒体。

「ほうほう。なるほど……ええ趣味しとるやないか」
「なんでそんなに見つけられるですか?」
「そんなん主婦の勘や。ヘソクリもエロも、基本的な隠し場所は同じやで」
「家探しが目的なら、さっさと済ませて帰れ…帰ってくれませんかね」
「まぁ、それも目的なんやけど…………ちなみにどれがアヴェニス一士の?」
「全てヴァイス陸曹のだが、それが何か?」
「え?」

見れば、コルトには恥ずかしい秘蔵の品を暴かれた羞恥心はない。
どこまでも無関心なその瞳には、確かに信じられるものがあった。

「ほんま?」
「嘘を言って何になる…んですか?」
「ほれ」
「ちょ、はやてちゃん!」

唐突にエロ本の一つを広げるはやて。
リインは必死に見ないようにしつつ、その実指の隙間から覗いている。
が、コルトは相変わらずの無表情。
どこまでも白けきった視線で、はやてが広げたエロ本を見つめている。

「なんも思わんの?」
「裸だ…ですね」
「それだけ?」
「それ以外に何を言えと? ああ、女の裸」

それはまぁ、見たままの事実を言えばそう言う事になるだろう。
しかし、幾らなんでも反応が薄過ぎる。
この年頃ならもっとこう、楽しい反応を期待していただけに肩透かしを食うはやて。

「興味ないん?」
「性欲と言う意味でなら、あ…ります。俺も男なので」
「ぶっちゃけるなぁ」
「隠しても仕方がない…でしょう」
「そらそうやけど、持ってないのに?」
「そもそも、そんな物にうつつを抜かすより、優先する事があるだけだ…です」

自己申告ではないわけではないらしいが、それより重要な事があると言う。
コルトの性格上、それが何かは考えるまでもない。

だがそこで、リインがあるものに気付く。
それは、コルトの者と思しき机とその周囲に散在する物体。

「ボトル、ですね?」
「せやなぁ……しかもお酒の。アヴェニス一士、未成年の飲酒は禁止やし、それを局員がやるのは不味いで。
 それも、こんな一杯。やるならこっそりやらな」
「別に飲んでる訳じゃない…ありません」
「へ? せやったらこれは……」
「はやてちゃん、中見てください中!!」
「中?」

リインに言われて、ボトルの中を覗き込むはやて。
そこには、細部までディティールに凝った帆船の姿。

「もしかしてこれ、全部ボトルシップ?」
「それが何か?」
「趣味なん?」
「ああ」

見れば、机の上には非常に細かい帆船のパーツと思しき数々。
ボトルの口も非常に小さいので、かなりパーツを細かく分解して内部で組み立てているのがわかる。

(ルキノと趣味が合う………事はないな)

何しろ、あちらは艦船マニア。新旧の次元航行艦とかが好み。
それに対し、コルトが作っているのは帆船だ。詳しい事はわからないが、これで趣味が合うとは思えない。

まぁ、これだけ細かい作業をやれるのは純粋に凄いと思うが。
というか、部屋にこもっていたのはひたすらこれを作る為だとすると……

(なんや、暗いなぁ……)

と、素人は思ってしまう。
ただ、一人で黙々と何かに打ち込むと言うのは、はやてのイメージするコルトの性格とも合致する。
そういう意味で言えば、確かに彼らしい趣味と言えなくもなく。

だが、そこでふっとはやては気付く。
今作っているものとは違う他のボトルが、やけにぞんざいに扱われている事に。

「なぁ、アヴェニス一士」
「なんだ…ですか? 用が終わったのなら早く出て行け…行ってください」

どうやら少々いらつき始めていたらしく、普段以上に棘が多い。
もしかすると、早く趣味に打ち込みたいのかもしれない。
そうだとしたら、少し悪い事をしている気がしてくる。
しかし、その前に聞いておきたい事があった。

「これ、もっとちゃんと飾らんの?」
「そんな数をどこに飾れと?」
「まぁ、確かに……」

何しろ、ざっと数えて二十近くある。
コルトの言う通り、この量を飾るとなるとこの部屋には置き場所がない。

「でも、それやったら寮でも隊舎でも飾ればええやん。許可なら出すよ」

何しろ、これだけ立派な作品だ。
充分鑑賞に値するし、できれば部隊長室にも欲しかったりする。
自分で作る事が出来ないからこそ惹かれる、そう言うものは存外多い。

「欲しいなら……ご自由に。どうせ近々処分する予定だ…ったので」
「ええの?」
「出来あがった物に興味はない…ありません」

なるほど、確かにそれなら扱いが妙にぞんざいなのも頷ける。
物や作品に対する愛着が薄いのか、作るのが重要なのであって完成品に興味はないらしい。

「せやったらもらってくけど、返せっちゅうても返さんよ?」
「良いから早く出て…行ってくださいよ」
「ほな、ありがとな」
「失礼しましたです」

とりあえず両手で抱えられるだけ抱えると、はやてとリインは去って行った。
ちなみに、これにより放置されていた作品の約半数が引き取られたことになる。
また、これ以後も頻繁にはやては作品を引き取りに強襲し、その度に六課に飾られる作品は増えるのだった。
で、ようやく静かになった室内で、コルトは分厚い眼鏡をかけ机に向かいながら呟く。

「結局、何がしたかったんだ、あの連中は」

当然、その問いに答える声はなく、彼の呟きは虚空に消えて行った。
ところで、部屋を出たはやて達だが……

「お、ヴァイス君やん。どないしたん、こんな所で」
「むしろ、それは俺の台詞じゃないっすか? ここ、男子棟っすよ」
「ですね」
「いやな、ちょうアヴェニス一士の様子を見に来たんやけど……」
「で、それをかっぱらってきたと」
「そうそう…ってちゃうわ! 盗んだんとちゃう、もらったんや!」
「厄介払いの為に押し付けられた感は否めませんが」

それが二人を追い出す為か、それとも作品にとられていたスペースを広げる為かは定かではない。
あるいは、一挙両得と言う可能性もあるが。
そんなはやて達の返答に、ヴァイスは合点がいったとばかりに頷く。

「あいつ、確かに出来あがったもんの扱いがぞんざいですからね」
「うん、私もちょうびっくりした。良い出来やと思うんやけどなぁ……」
「リインにはちょうどいいサイズです。まぁ、中に入れないんですけど」
「元々そういうもんじゃないっすからね」
「よく作ってるん?」
「まぁ、部屋にいる時は寝るか作るかっすから」
「「はぁ~……」」

まさかその二択とは思っていなかったらしく、感心していいのか呆れればいいのかと言う反応の二人。
まぁ、ヴァイスとしてはちゃんと飾られるようなので何よりと言ったところか。
彼から見てもいい出来なので、勿体無いと思っていた所だ。
ただ、いつまでもそんな事を思っている事は出来なかった。

「とりあえず、私らは行くわ。ヴァイス君もさぼりはほどほどにしとき」
「別に俺はサボる為に戻ったわけじゃないんですけどね………………今回は」
「今回は、じゃなくていつでもサボっちゃいけないんですよ!!」
「冗談すよ、冗談」
「大丈夫やて、リイン。なんせ私らには、ヴァイス君のお宝っちゅう切り札がある」
「は? あの、部隊長? そりゃ、どういう事っすか?」
「ん? あんまサボってばっかおると、秘蔵のお宝暴露してしまうで、ってだけの事や。
 例えば、ヴァイス君は年下好み。好きなコスプレはナースと……」
「ちょ、マジッすか!?」
「本気と書いてマジや!! しっかり働き、ヴァイス陸曹!!」
「か、勘弁してくださいよ――――――――――!!!」

脱兎のごとく逃げるはやてと、その肩にしがみつくリイン。
ヴァイスは必死に追うが、結局捕まえるには至らない。
以後、彼は「いったい他に何が見つかったのか」を、悶々と悩むことになるのだったとさ。






あとがき

フェイトとのフラグが立った………のかな?
ギンガ一人じゃさみしいと言う事でしたし、手始めはこんな所。まぁ、これも微妙な感じですけど。

それと、翔の基本路線は武術と園芸以外ポンコツで。
美羽や兼一みたいに家事はできません。そんなことしたらしぐれやアパチャイみたいな事になります。
そういう感じのキャラにしていきたいですね。

さて、次回はいよいよ海鳴出張編。
とりあえず、ケンイチからのキャラを何人か出す予定です。



[25730] BATTLE 24「帰郷」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/10/10 16:29

唐突だが、遺失物管理部機動六課と言う部隊は異常だ。それも色々な意味で。
まず上げられるのがその人材の豊富さ。総合とは言えSSランクを有する部隊長『八神はやて』以下、上層部はオーバーSかニアSランク。シャマルやザフィーラ、あるいはリインもまたAA+からA+と高ランク。それで言えばギンガもAランクであり、コルトはランクこそ低いがギンガとタメを張れる実力の持ち主。他の隊員達にした所で、若手揃いではあるが軒並み未来のエリート揃い。その上、あまり知る者はいないが『達人』などと言う常軌を逸した生き物まで擁しているときた。
次にその年齢層、はっきり言ってこの部隊は若すぎる。部隊長及び分隊長ですら二十歳前で、中心メンバーのほとんどが十代。二十代でそこそこ、三十代となればチラホラいる程度。それ以上の年齢の者はいない。中堅なしの若手のみで運営される部隊、それが機動六課だ。まぁ、実際には上層部などには入局十年以上のキャリアがあるので、『若者』ではあっても『若手』ばかりとは言えないのかもしれないが。
最後に、その後ろ盾の厚さ。筆頭にフェイトの義兄でもある本局次元航行部隊提督『クロノ・ハラオウン』、同じくフェイトの義母『リンディ・ハラオウン』統括官。さらに、聖王教会の騎士にして管理局の理事官も務める『カリム・グラシア』。また、表立ってこそいないが『伝説』と称される三提督まで一枚噛んでいると来た。

ただ、そんな背景があるからこそ無視できないものがある。
例えば、後ろ盾になってくれている聖王教会からの依頼とか。

「えっと、確か異世界でのロストロギア関連の任務で出張なんだよね?」
「はい。聖王教会からの依頼らしいですよ」
「でもさ、管理局と聖王教会ってところが深く関わってるのはわかったけど、それって政教分離的にどうなの?」
「そんなこと私に聞かれても……」
「まぁ、こっちにはこっちの事情があるのかな? よくわかんないけど。
でも、やっぱり危ないかもしれないんだよね」
「はい。確定ではありませんけど、危険はあるかもしれません」

屋上ヘリポート。集合場所に指定されたそこで、一足先に来ていた師弟は困り果てていた。
その原因は別に危険な任務に臆しているとかそういう事ではない。問題なのは、二人の足元。

「連れて行っちゃ、まずいよね?」
「そりゃまずいですよ」
「…………………………」

敢えて視線を逸らす為に上を向いていた二人だが、チラリと足元を見やる。
そこには、父のズボンと姉のワンピースの裾をガッチリとつかむ小さな手。
その身を包むのはシャツとパーカー、それに短パン。
特に凝っていたり高そうだったりするものではないが、年相応で可愛らしいのでそれはいい。
ちなみに、兼一はジーンズを履いている以外はほぼ翔とお揃い、ギンガは落ち着いた青地のワンピースである。

閑話休題。
問題なのは、普段は純真無垢なつぶらな瞳が、今日は強い決意を湛えた瞳で見上げていること。
それもほんの僅かどころではない怒気が籠っている。

「翔、僕とギンガはこれからお仕事でお出かけしなきゃいけないんだけど……」
「僕も行く!!」
「で、でもね、もしかしたら危ない事があるかもしれないし、翔はお留守番してた方が……」
「行くったら行くったら行くの―――――――――――――――――――!!!」
「「はぁ~……」」

さっきから何度繰り返したかわからない堂々巡りの問答に、いい加減疲れたため息をつく二人。
基本的に聞きわけの言い翔だが、所詮は幼児。いつでも大人しく言う事を聞くとは限らない。

それも今回は間が悪かった。
今日兼一は街に買い出しに出かける予定でおり、それに翔もついて行く筈だったのである。
だがそれが、唐突に持ちこまれた派遣任務でお流れ。
短い時間とは言え、久々の父との外出に心躍らせていた翔に与えた衝撃は思いのほか大きかった。
見ての通り、すっかりへそを曲げて珍しく駄々っ子モードに突入している。
しかも、両親に似たのか変な所で意思が強いと来た。一度頑固になると梃子でも動かない。

先ほどから方々手を尽くして説得しているのだが、「一緒に行く」「絶対に手を離さない」の一点張りで、妥協の余地はなし。これがもっとのっぴきならない緊急事態とかなら、二人も無理矢理にでも翔を引き離しただろう。
しかし、あいにく今回はそういう雰囲気ではない。
危険はあくまでも「あるかも知れない」レベル。わからない事が多過ぎて強く出られないのだ。
もしかすると、翔もその辺りを感じ取っているからこその我儘なのかもしれない。

「―――――――っ! ―――――――っ!」
「困ったねぇ……」
「困りましたねぇ……」

声ならぬ声による抗議の嵐。翔はポカポカと父と姉を叩き、『怒ってるんだぞ』とアピール。
まぁ、傍から見れば実に微笑ましくもかわいらしい光景なのだが、本人達は本当に困り果てている。

「あ、ギン姉! 兼一さん!」
「あれ、二人とも早いですね…って、何してるんですか?」
「ぁ、スバル、ティアナ…………………これは、その」

私服姿で現れたティアナとスバル。
二人は兼一達の姿を発見するや、早速怪訝な面持ちになる。
無理もない。保護者二人は揃って弱り果て、翔が頬を膨らませているのだから。

「翔が、一緒に行くって聞かなくて……」
「え? でもそれって……」
「いくらなんでも……」

無理だろう、と言うのは言葉にするまでもないが、二人は翔の眼を見て悟る。
相手は子ども、理屈が通れば世話はない。
特にティアナの場合、スバルの驚異的な我儘に振り回されてきただけに理解は速かった。
そこへ、続々と集合する前線メンバー達。

「スバルさん、ティアさん! 遅くなりました」
「大丈夫だよ、まだ時間あるし。っていうか……」
「今、かなり厄介な問題が発生中なのよね」
「はい? ぁ、兼一さんとギンガさんもいらっしゃったんですね…って、なんで翔が?」

ティアナの溜め息交じりの言葉に首をかしげるも、その後ろの三人に気付くキャロ。
見送りにしては様子がおかしい事に彼女も気付いたのだろう。
とはいえ、兼一達としても改めて事情を説明する気になれない。
ただただ曖昧な苦笑いを浮かべ、誤魔化す様に乾いた笑い声を洩らすだけ。

見れば、エリオ達の後ろにははやてにヴィータ、シグナムやシャマル、それにリインの姿もある。
それどころかなのはとフェイト、最後に僅かに遅れてコルトまで。
つまり、今回出動する面々が勢ぞろいした事を意味する。
ちなみに、ザフィーラは番犬らしくお留守番だが。

そして、当然ながら集まった面々は一様に様子がおかしい翔の事を気にかける。
若干一名、幼い愛らしさに胸を打たれ悶絶している人物がいるが、それはどうでもいい。
そんな中、完全に翔の存在を無視している者がいるとすれば、なぜか黒いジャージ姿のコルトくらいだろう。

「って、アンタ私服で来いって言われてなんでよりにもよってジャージ?」
「私服だ」
「それにしても、もうちょっとあるでしょ。
っていうか、正直そんな格好の奴が一緒だと恥ずかしいんだけど」
「知るか」
「アンタねぇ!」

上司に事情を説明する保護者二人を尻目に、何やら口論まがいの事を始めるティアナとコルト。
正確には、会話を成立させる気も服装を改める気もないコルトに、ティアナが怒っているだけだが。

「やめとけ」
「でも、ヴァイス陸曹! 別にちょっと行って着替える位……」

止めに入ったのは、ヘリパイロットのヴァイス。
コルトと同室の彼の顔には、非常に濃い諦めの色が見て取れる。

「気持ちはわかるが、こいつもふざけてる訳じゃねぇんだよ」
「は?」
「こいつ、ジャージしか持ってねぇんだわ」
『え”!?』

予想外の事実に、思わず目を丸くする新人達。
見れば、僅かに離れた場所で相談している年長者達も驚きの眼差しでこちらを見ている。
ある意味当然か。ファッションに興味があって当然の年齢の筈なのに……と言うか、それ以前にここまで無頓着な者も珍しい。あのシグナムですら、さすがに信じられない者を見る目で見ているほど。

「色違いならあるんだけどな。黒よりの灰色とか紺とか」
「…………それなら陸曹のを貸せば……すみません」
「いいって、別に」

持っていないなら貸せばいい、と思ったティアナだがすぐに改める。
あの男の事だ、そんなお節介など死んでも受け取らないだろう。
ヴァイスも一応申し出はしたらしいが、ノータイムで拒否されたのが容易に想像できる。

「言うだけ無駄、って事ですね」
「そういうこった、マジになる方が損するぞ」
「よく分かりました。陸曹の苦労も」
「ありがとよ」

何事も諦めが肝心、距離を取って他人のふりをすれば害はないと諦めるのが利口と言うものだ。
そうこうしているうちに年長組も翔の件は決着を見たらしい。
子どもの相手に長じるフェイトが奮闘したのかもしれない。
とりあえずなのはとフェイトに呼ばれ、新人達はヘリの前に集合。
そして、皆を乗せたヘリは機動六課を飛び立ったのだった。



BATTLE 24「帰郷」



転送ポートを経由し、移動することしばし。
任務先の異世界……というか、隊長達にとってはもろに故郷である地球、それも日本、さらには海鳴市。
作為があるとしか思えないそこに、機動六課前線メンバーは降り立った。
ちなみに、はやて及び副隊長とシャマルはよる所があるので別行動。

視界に映るのは、ミッドとほとんど変わらない風景。空は青く、太陽も一つ、山と水と自然の匂いもそっくり。
フリードはこの環境が気に入ったのか、上機嫌に皆の上を跳び回っている。
すぐそばには湖とコテージ。できればのどかな空気を楽しみたいところなのだが、そういうわけにもいかない。
特に、大きくなった通称「ちっちゃい上司」、まぁそれでも小さいのだが…彼女は特に。

「ひゃ、ひゃめるです、ひょ~~~!!」
「キャハハハハ♪」
「あ、そこは引っ張っちゃダメです!! そんなことしてもリインの体は伸びません~!」
「リインさん……」
「すっかり、遊ばれてるね」

助けるでもなく、微妙な表情でつぶやくキャロとエリオ。
その視線の先には、髪の毛やらほっぺたやらを引っ張られて涙目のリイン。
犯人はだれか……など考えるまでもなく、一緒に付いてきた翔である。
大きくなったリインが面白いのか、もっと大きくなれとばかりに引っ張りまくっている。
とそこで、意図しない翔の手がリインの背中や首筋、わきの下を撫でた。

「ひゃん!?」
「? っ! コチョコチョコチョコチョコチョコチョ!」
「っ、きゃははははははははははははは!! た、助けてください―――――!?」
「まぁ、見てる分には微笑ましいわよね」
「リイン曹長的には、多分それどころじゃないんだろうけど」
「わかってるなら助けるです――――――!!」

傍から見れば、十歳くらいの女の子が五歳ほどの男の子の面倒を見ているようにも見える。
まぁ、実際には一方的におもちゃにされているわけだが。
助けなければとはティアナとスバルも、と言うかコルトを除く全員が思っているのだが、誰も手を出さない。
なんと言うか…………………………割と面白い。

「でも、よかったんでしょうか。翔を連れてきちゃって……」
「ま、まぁ、ここは危険な世界ってわけじゃないし、ロストロギアにさえ近づけなければ……」
「それはそうですけど……あんまり我儘を聞くのもよくないですし……」
(なんだかギンガ、最近言う事が所帯じみてきたなぁ)

遊ぶ翔と遊ばれるリインを横目に、ギンガとフェイトは困惑顔でヒソヒソ話。
別に翔は「行くな」と言っていたのではなく「連れて行け」と主張していただけ。
行き先の治安はよく分かっているし、危険があるとすればあくまでもロストロギア。
ならそこから離しておけば問題ないと言う事で、はやての一存で許可したのだ。
翔も地球出身だし、少しくらい里帰りさせてやりたいと思ったのかもしれない。
その気持ちは分かるし、兼一には「今日は親として翔を守る事を優先」との指示も出された。

一応対外的には、休暇で里帰りをしていた白浜親子と偶々出張先がぶつかった、ことになっている。
なので特に問題はないのだろうが、ギンガとしては翔の教育的にどうかと言う思いが強い。
なんというか、考え方がだいぶ母親っぽくなっている気がしないでもない。

ところで、その親は何をしているのか。
探して見ると、街の方を向いて何やら難しい顔をしている。

「どうしたんですか、兼一さん?」
「あ、なのはちゃん。いや、恭也君と美由希ちゃんが帰ってるのかなぁって」
「へ? お兄ちゃんとお姉ちゃんがですか?」

突然何を言い出すのか、と言わばかりに怪訝な顔をするなのは。
同時に、聞き捨てならない単語に反応する新人達+1。
ここがなのは達の故郷と言う話は道中聞いていたが、それでもどこか実感が薄かったのかもしれない。

「なんでそんな事を?
 お兄ちゃんは忍さんとドイツですし、お姉ちゃんも香港ですからあんまり帰ってこれないと思いますけど」
「うん。でも間違いなく、達人級が3人以上。もしかしたら4人いるかもしれないんだよね」
『達人級が4人!?』

新人及びギンガが揃って声を上げた。コルトですら、眉を吊り上げて興味深そうに聞き耳を立てている。
何しろこれは、彼らにとって非常に衝撃の大きい情報だ。
弱い者でも生身のまま魔導士と真っ向勝負できる怪物が4人以上。兼一の話では弱い者なら自分達でも勝てるらしいが、それでも生身の人間としては異常な戦力だ。

なのはの家族にもいると聞いているが、わかっていても驚きを禁じ得ない。
というか、知っている達人が兼一しかいないので、ついそれを基準にしてしまうのだから仕方がないだろう。
まぁあのメンツの場合、別にそれを基準に考えても間違いではないが。

「そんな人が4人もいるなら、私たちいらないんじゃ……」
「で、でもスバルさん! 兼一さんは封印処理とかできませんし」

確かにいらないかもしれないが、エリオの言う通り適切に処理するなら魔導師の方が向いているのは間違いない。
まぁ、放っておいても勝手に解決しそうと言う現実に変化はないが。
いや、この街には超能力者とか霊能力者もいる。達人には無理でも、彼らなら対処できるかもしれない。
というか、忍者に吸血鬼に人狼、はてはロボットや妖怪までいる。むしろ、対処できない事態と言う物の方が少ないくらいだろうが。

「っていうか、なんでいることが分かるんですか?」
「え? 気」
「き?」
「うん。途轍もない、だけど覚えのある気の波動が感じられるから、多分」
「……キャロ、なんか感じる?」
「全然わかりません」

試しにキャロに話を振るティアナだが、返ってきた答えはやはり否。
魔導師や魔導騎士が使う魔力感知の様なものなのかもしれないが、さっぱりわからない。
というか、そもそも「気」と言う概念になじみがないのだから当然か。
で、悩む新人達とは別に、高町家の家族構成を知るフェイトとリインがその4人の内訳を考える。

「士郎さんに、恭也さんと美由希さんで3人。でも後は……」
「美沙斗さんもいるかもしれないですね」
「あぁ、確かに」
「あの、どなたなんですか、その人?」
「御神美沙斗さん、なのはの叔母さんだよ。美由希さんは同じ職場で働いてるから、一緒に帰ってきてるのかも」
「だとしたら、世界で4人しかいない御神の剣士勢揃いです♪」

ギンガの問いに、とりあえずさわり程度に答える。
正直、高町家は高町家で色々家庭事情が複雑なので、話し出すと割と長く、その上重い。
実は御神流派元々暗殺剣で、それが原因で4人を残して他の御神の剣士は皆爆弾テロで亡くなってるとか、実はなのはと美由希の関係は姉妹ではなく従姉妹とか、美沙斗が美由希の実の母親で幼い美由希を兄であるなのはの父に預けて復讐の旅に出たとか。そんな話はさすがにできない、プライベートにもかかわるし。

「そう言えばギンガさんは来た事あるんですよね?」
「前に一度師匠達を送ってきた時にね。って言っても、海鳴は通っただけよ。
 まぁ、あの時は達人がそんな何人もいる街とは思わなかったけど……」
「兼一さんが住んでた所って近いの?」
「近くもなく、遠くもなくってところかしら。電車でいくつか先だし」
「へぇ~」

とは、ナカジマ姉妹とティアナの会話。
スバルなどとしては一度見に行ってみたいと思わなくもないのだろう。
まぁ、若干怖いもの見たさ、お化け屋敷や絶叫系のアトラクションに乗る心境なのだが。

「でも、今日はお仕事だしね。さすがに梁山泊に寄っていく訳には……って車?」

と、遠方から響く車の駆動音の方へ視線を向ける兼一。
皆もやや遅れてそれに気付き、等しくそちらを見た。
さりげなくスバルとティアナが「自動車」が存在している事実に感心しているが、さすがに失礼である。
いったい彼女達は、文化レベルBというものをどの程度のものと思っていたのやら。
まさか、石器時代を想像していたわけではあるまいに。

まぁそれはともかく、やってきた車はなのは達の手前に停車。
勢いよく扉を開くと、陽光を凝縮した様な明るい金髪をショートにした闊達そうな美人が飛び出してきた。

「なのは! フェイト!」
「アリサちゃん」
「アリサ」
「なによもう、ご無沙汰だったじゃない」
「にゃはは、ごめんごめん」
「色々、忙しくて」
「私だって忙しいわよ、なんたって大学生なんだから」
「アリサさん、こんにちはです!」
「リイン、久しぶり」
「はいです!」

どうやら「アリサ」と呼ばれた女性となのは達は知り合いらしく、和気藹藹と旧交を温める。
その姿はどこにでもいる普通の少女のそれで、あまりそう言った姿、イメージのないティアナやスバルなどはどこか茫然とそれを眺めていた。
また、エリオやキャロも知らない人物らしく、誰なのか聞きたそうにしながら踏ん切りがつかないでいる。
それに気付いたフェイトは、皆に向かってアリサの紹介を始めた。

「紹介するね。私となのは、はやての友達で幼馴染」
「アリサ・バニングスです、よろし……」
「や、アリサちゃん久しぶり」

フォワード陣の後ろから、にこやかにあいさつする兼一。
その瞬間、それまで親友との再会に満面の笑顔を浮かべていたアリサの顔が歪んだ。

「…………………げぇ」
(うわ、凄く嫌そうな顔……)

満場一致で看破されるアリサの心。
まぁ、仕方がない。実際、本当に疑いようもない位にげんなりした顔をしているのだから。
むしろ、これを見て「再会を喜んでいる」と思った人は、眼科が脳外科に行った方が良い。

「話しは聞いてたけど…アレ、ホントだったんだ」
「あ、アリサちゃん……」
「アリサ、アリサは兼一さんの事知ってるの?」
「あ~、一応ね。ほら、私とすずかの家ってああいう所でしょ。その関係でね」
「ああ」

月村家とバニングス家は頭に『蝶』…ではなく『超』のつくお金持ち。
その成功や発展を妬んでの脅迫及び誘拐など、その手の実力行使に晒されることも多かった。
一応ボディーガードや警備員を雇ったりはしていたが、それでは手に負えない時もある。

そう言う時に頼りになります、梁山泊。
と言うわけで、望むと望まざるとにかかわらず、アリサは兼一ともかかわることになった。
その際に何があったのかは知らないが、アリサの中では兼一も梁山泊の師匠達と同じ「変人」判定がついているらしい。

ただ、他の面々はそんな事情などもちろん知らない。
なので、一同を代表しギンガが問うた。

「リイン曹長、その『すずか』さんというのは……」
「アリサさんと同じ、はやてちゃん達の親友です!
 お二人とも御実家がお金持ちですから、昔からいろいろ大変だったみたいですよ」
『へぇ~』
「ちなみに、なのはさんのお兄さんとすずかさんのお姉さんは結婚してるので、なのはさんにとっては親戚でもあるわけですね」
「なんというか、すごいですね」

とは、事情を聞いたティアナの弁。
実際、高町家と月村家の繋がりは一際深いと言っていいだろう。

ちなみに、先ほどからずっと影の薄い翔とコルトだが、少し離れたところで何故かにらめっこ状態。
じ~っと下から見上げる翔と、「どっかいけ」と言わんばかりに睨みつけるコルト。
しかし逆鬼の強面で耐性のある翔は、その程度で怯みはしない。
結果、翔は不思議そうにコルトの顔を見つめるばかりで膠着状態に陥っていた。

とまぁ、外野がそんな他愛もないことをしていたその時。
アリサは深々と溜息をつき、兼一に向けてこう言った。

「まぁ、なんか今更な感じになりましたけど……お久しぶりです」
「そうだね。なのはちゃんと会った時も思ったけど、アリサちゃんも益々美人になって。
 なんていうか、月日の流れを感じるなぁ。僕も年を取るわけだよ」
「言うほどの年齢じゃないじゃないでしょ」
「まぁ、そうなんだけど、気分的に」

親しいと言えるほどの関係ではないのか、どこか素っ気ないアリサの対応。
いや、彼女がこういう態度を取るのには別の訳がある。

「とりあえず、一ついいですか?」
「え?」
「あの宇宙人、いい加減なんとかしてくれません?」
「ああ、アレ?」
「そう、アレ」
(アレ? って言うか宇宙人?)

固有名詞を徹底的に排除した会話に、首をかしげる一応。
なのはだけは意味がわかっているのだが、苦笑いを浮かべるだけ。
二人の話題となっている人物を知るだけに、そういう表情しか浮かんでこないのだ。

「そんな事言われてもねぇ…僕ももう連合から離れてるし」
「アレの親友でしょ、なんとかしてよ、あのバカ!」
「え? 親友って誰が?」
「あなた以外にいないじゃない! 友達の言う事なら少しは……」
「友達? 友達じゃないよぉ~、アレは悪友。
ついでに言うと、アイツは人間じゃないから誰が何を言っても心を入れ替えるなんてありえないしね」
(どこのだれか知らないけど、酷い言われよう……)

会った事もない宇宙人(仮)の、あまりの扱いの酷さに同情を禁じ得ない面々。
しかしすぐに思い直す。あのお人好し大王にここまで言わせるような相手だ、もしや自業自得なのではないかと。

「あの、さっきから宇宙人と言ってますけど、どんな人なんですか?」

聴くのはティアナで、聞かれたのはなのは。
こっそりと耳打ちされ、なのははなんと答えたものかと微妙な表情。
とはいえ、外見的特徴くらいなら簡単だ。

「耳がこんなとんがってて、眼はつりあがってるかな? で、おかっぱ頭で頭から触覚が生えてて、舌の先が二股にわれてるんだけど……」

次々と列挙されていく宇宙人(仮)の特徴。
それを聞いて、皆は思った。アリサと兼一の評価が、実に妥当なものである事を。
少なくとも、外見的特徴はだいぶ人間離れしている。

「情報歪めていい様に利用しようとするし」
「うん、それ昔から」
「文句言っても口八丁で丸めこむし」
「それも昔から」
「挙句の果てに、人の事を道具か何かとしか思ってないのよ!」
「初めて会った頃からそうだったなぁ」
「………………………よくあんなのの友達やってられますね」
「縁なら何度も切ろうとしたよ……だけど、アイツが自分の駒を手放すわけないじゃないか」
「確かに……」

苦虫を万単位で噛み潰したような表情の二人。
あの宇宙人に苦杯や煮え湯を飲まされた事数知れず。
性格は最悪だが、これで無能ならよかった。しかし性質の悪い事に、あの男はこの上なく有能な策士。
おかげで、今日までどれだけの迷惑を被ってきた事か……。
そんな二人の話を聞き、フェイトがその人物像を総括する。

「それってつまり、悪魔みたいな人って事?」
「みたいって言うか、完全に『悪魔』よ、アレは」
「最低最悪にして卑怯千万。性根がひん曲がっている上に、骨と魂の芯まで腐った男。疫病神と貧乏神と死神が泣きながら裸足で逃げ出す大害虫。宇宙人の皮を被った悪魔、それが奴だよ。間違いない」
『そこまで言いますか!?』
「いいかい、みんなもくれぐれもかかわっちゃいけない。
関わったら最後、いい様に利用された揚句に骨までしゃぶりつくされるから」

なんだかよく分からないが、下手な…どころか大抵の犯罪者より関わってはいけない相手らしい事はわかった。
というか、考えてみると名前すら聞いていないのだが……二人曰く「知ったら不幸になる」との事。
名前を聞くだけで呪われるとか、いったいどれほどの災厄なのやら。
もしかして、地球が管理外なのは達人を始めそんな人外がいるからなのではないか。
皆の脳裏に、そんな嫌な可能性が頭をよぎるのであった。



  *  *  *  *  *



その後、とりあえずアリサと別れた一向。
チームを4つに分け、それぞれバラバラに市街を探索。
副隊長は後で合流し、リインはスターズと行動しながら中距離探査。
後は各所にサーチャーとセンサーを設置し、結果を待つと言う方針だ。

まぁ、こういう探しものは足と数が基本。
数は人数が限られているので、そこはサーチャーとセンサーをばらまいて補う。

で、チーム分けとなれば当然分隊ごとに分けることになる。
スターズ、ライトニング、全体統括のロングアーチ、そしてその他。
本来兼一はギンガやコルトと一緒に、その他として単独でセンサーやサーチャーの散布に当たるべきなのだが、今回は翔が一緒なのでそちらにつきっきり。
そんなわけで、現在白浜親子は合流してきたはやてやシャマルと先のコテージにいた。

「すみません、八神部隊長。翔の我儘を聞いてもらっちゃって」
「ええですって。翔も偶には日本の空気を吸いたいやろうし」
「それに、折角のお父さんとのお出かけを潰しちゃったんですもの、これ位の穴埋めは良いじゃないですか。ね、翔?」
「んふふ~♪」

管制や通信などに精を出す傍ら、そんな雑談をする大人たち。
翔はシャマルに頭を撫でてもらいながら、気持ち良さそうに猫の様に目を細めている。

「みなさん、ちょっと翔を甘やかし過ぎですよ……」
「まぁまぁ、ええやないですか。可愛いんやし」
「そうですよ。翔は良い子ですし、偶には我儘を言ったっていいじゃないですか。ねぇ~」
「うん!」
「はぁ~、まったくもぅ……」

その年齢もあり、翔は今や機動六課の2大マスコットの一角。
親として息子が愛されているのは嬉しい限りだが、甘やかしてばかりは良くない。
そうは思うのだが、あまり聞き入れてもらえないのが現状だったりする。

「ほら翔も、二人ともお仕事中なんだからあんまり邪魔しない。こっちにおいで」
「ぶぅ~」

溜め息交じりの兼一と、それではつまらないとばかりに口をとがらせる翔。
はやてとシャマルとしてはそんな微笑ましい光景がおかしくて仕方がないらしく、クツクツと笑いを堪えていた。
『別に気にしない』とも言おうと思ったのだが、それを言うとまた兼一が渋い顔をするのが目に見えている。
なので、とりあえずここは兼一の顔を立てて何も言わずにいたのだが……。

「じゃあ、何するの?」
「折角湖がある事だし泳ぐ……にはちょっと冷たいか」

泳げない事はないだろうが、急な出張だったのでそんな準備はない。
あとやれる事があるとすれば、修業か森の中を散策する位。
とそこまで考えた所で、ある事を思い出して手を叩く。

「そうだ。もし聞こえる範囲にいれば……」
『?』

言うと、兼一は森の方を向く。
その行動の意味がわからず、揃って首をかしげる三人。
だが、頭に疑問符を浮かべる三人を無視し、兼一は大きくも小さくもない声で森へと呼び掛けた。

「お~い、もし近くにいるなら出てきてくれないかな?」
「誰に話してるんでしょう?」
「ここって確か、アリサちゃん家の土地の筈やけど……」

だとすると、コテージを含めたこの辺りの管理をしている人を呼んだのかもしれない。
何しろ、この湖とコテージを中心とした森の大半がバニングス家の土地。
充分に広いその敷地を管理する人間がいても不思議ではない。
また、兼一は以前からアリサとも顔見知りだからその可能性はある。
が、それにしては些かならず親し過ぎる呼びかけの様な……。

そのまま、待つこと数分。
皆が兼一の言葉の意味を測りかねていると、森の方から『ガサガサ』という何かを掻き分ける音。
全員が揃ってそちらを向くと、そこからのっそりと巨大な黄色と黒の縞々の巨体が……。

「って、トラ――――――――――――!?」
「なんで! なんで日本の森の中からトラが出て来んねん!?」
「そもそも日本にトラっていましたっけ!?」
「そら動物園とかならおるやろうけど、野生のトラなんているわけないやん!!」

そもそも、日本はトラの生息地ではない。
なのではやてが言う通り、日本に『野生』のトラがいる等あり得ないのだ。
いるとすれば、それは動物園から逃げ出して野生化した場合くらいか。

本来トラなどものともしない戦力を持つ二人だが、さすがにインパクトが大きかったらしい。
面白い位に慌てふためき、ワーワーギャーギャーと叫ぶばかり。
がそこで、翔がトラに向かってトテトテと駆けて行くのを発見。

「あかん、翔!!」
「こっち、早くこっちに!!」
「わぁ~、おっきい~」
「そんな悠長なこと言うとる場合かぁ~~!?」

危機感の欠片もない翔の反応に、全身全霊の突っ込みを入れるはやて。
しかし、そんなものでネコ科の大型肉食獣が止まる筈もなし。
優に体重300キロは超えていそうなトラは、口を開きながらゆっくりと翔に顔を近づけ……。

「シャマル!」
「はい! クラールヴィント!」

今まさに翔の頭にかぶりつこうとするトラを止めるべく、デバイスを起動する二人。
だが幼い子どもを守ろうとするそれは、その親の手によって阻まれた。

「あの、二人とも。気持ちはわかりますけど、物騒な事はやめましょうよ」
「止めないでください、兼一さん! というか、なんでそんな平然としてるんですか!!」
「そです! このままやと、翔がトラの餌食に……!」

デバイスを持つ手をやんわりと掴まれた二人。
どこまでも必死な表情の二人に対し、兼一は苦笑を浮かべている。
二人の懸念は最もなのだが、事情を知る身としてはそんな表情しか浮かばないのだ。

「ああ、その辺は大丈夫ですよ」
「何を根拠に……」
「だって、ほら」

兼一が指し示す先にあるもの。
それは、二人が全く予想もしなかった光景だった。

「キャハハハハハハハハ♪ くすぐったいよ~」
「ゴロゴロガオ~ン♪」
「「う、うっそ~ん……」」

べろべろと翔の顔をなめまくるトラと、それを笑って受け止める翔。
幾ら子どもでも、あの巨体を恐れない胆力は凄まじい。
ではなく、どこからどう見てもトラに間違いないあの生き物が、何故にまるで猫の様な仕草なのか。

「ど、どういう事ですか?」
「いやまぁ、驚くのも無理はないですけどね」
「あれ、トラですよね?」
「はい、名前はメーオ。師匠のペットなんですよ」
「ペット!?」
「トラをですか!?」

苦笑しながら事実を告げてみれば、案の定目を白黒させる二人。
生き物としての危険性で言えば、竜であり火を吐くフリードの方がよっぽど危険な気もするが、アレは普段の状態が状態だ。
外見的には、やはりトラ…メーオの方が危険に見える。
それを考えれば、目の前の事実を中々受け止められないのも無理はない。

「トラをペットにするなんて、さすが兼一さんのお師匠さんや……」
「どういう意味なのか凄く聞きたいですけど……いいです。
まぁ、本人は未だに猫だと思ってるみたいですけどね」
「トラと猫って……普通、間違えませんよ?」
「すずかちゃんとこのにゃんこの中にトラがまじっとったら、絶対気付くで」
「でも、ほんとなんですよ。メーオって名前も、タイ語で『猫』って意味ですし」

つまり、トラと猫を同列に扱っているとかではなく、完全に猫として認識していると言う事だ。
一応他の師匠達はトラと認識した上で猫と同列に扱っていたので、あまり差がないと言えばそんな気もするが。
とはいえ、さすがにその感覚のズレには頭を抱える二人。

「でも、あのトラが兼一さんのお師匠さんのペットなら、なんでこんな所に……?」
「以前は梁山泊で飼ってたんですけど、あの大きさですからね。
 さすがに庭で飼うのは無理があったので、丁度仕事で知り合ったアリサちゃんの御両親に頼んで……」

場所を貸してもらったと言う事だ。
敷地の外には囲いもあるし、メーオには厳重に囲いから出ない様に言ってある。
幸いメーオは利口なトラなので、言い付けは守っているらしく騒動にはなっていない。
まぁ、そうでなければとっくの昔に動物園に送られるか射殺されているだろうが。
ちなみに、食費と食料の調達はちゃんと梁山泊持ちである。

「しかしまぁ、これでようやく納得がいったわ」
「何がですか?」
「アリサちゃん、兼一さんの顔見てものすんごい嫌そうな顔しとったらしいやん」
「……あぁ、それはまぁ、無理もないですよね」

幾ら土地があろうと、トラなど押し付けられては嫌な顔の一つもするのは仕方がない。
翔とのやり取りを見る限り、かなり懐っこい様だが……それはたいした救いにはなるまい。

この日、はやては心の底からアリサに同情し、同時に不安を覚えた。
いつか自分も、アリサが被ったのと同等かそれ以上の何かに見舞われるのではないか、と。



  *  *  *  *  *



ちなみにその頃、なのはの両親が経営する喫茶翠屋。
任務とは言え、久しぶりの里帰り。
折角なので家族に元気な姿を見せたいし、自分も元気な姿を見たいと思うのは人情。
顔を見せるついでにお土産でもと、スバルとティアナ及びリインを伴って、なのはは翠屋の扉をくぐった。

「おかーさん、ただいまぁ!」
「なのはぁ、おかえり!」

扉を開くと、間もなく駆け寄ってくるなのはと同じ長い栗色の髪をしたエプロン姿の女性。
パッと見の年齢は、高く見積もって二十代後半。
しかし、今現在目前で繰り広げられているなのはとの様子を見るに、この人が彼女の母親らしい。
あまりの若々しさに、新人二人は空いた口が塞がらない。

(お母さん、若っ!?)
(ほんとだ……)
「桃子さん、お久しぶりです♪」
「リインちゃん、久しぶりぃ!」

そんな二人を尻目に、リインもまた久しぶりのなのはの母親「桃子」との再会を喜んでいる。
その間にも、ぞくぞくと店の奥から姿を荒らす人々。

一人は背の高い黒髪の男性、こちらも若い。
さらにその後ろには、長い黒髪を三つ編みにした眼鏡美人、こちらはさらに若い。

「おぉ、なのは。帰ってきたな!」
「おかえり、なのは」
「お父さん、お姉ちゃん」
「「あ……」」

憧れであり、目標であり、身近にいても雲の上の様な人の家族と、そんな人たちに見せる素の表情。
その様子にどこか圧倒された様子の二人。
ただただ呆然とする事しかできない二人だが、なのはは気付いた様子もなく紹介する。

「あ、この子たち私の生徒」
「ああ、こんにちは。いらっしゃい」

なのはの紹介に、どこか感慨深そうな表情を浮かべるその父。
スバルは緊張の為か、声を上ずらせながら返事をする。

「は、はい!」
「こんにちは」

スバルと違い、辛うじて平静を装うティアナ。
だが、スバル同様その眼はチラチラとなのはの家族へと向けられている。

「でも、お姉ちゃん帰ってたんだ」
「まぁね。大きな仕事が一段落したから、母さんに『しばらく休んでこい』って追い出されちゃった」
「あはは、そっかぁ」
(お母さんに追い出された?)
(のに、なんでお店のお手伝い?)

いまいちなのはの姉の言っている意味がわからず、首を傾げる二人。
事情を知らない二人からすると、彼女の言は前後で矛盾しているように聞こえる。
が、当の家族一同は特にそれに違和感がないようなので、尚の事首をひねるばかりだ。

「じゃあ、美沙斗さんは?」
「まだ香港だけど、もう少ししたら帰ってくるよ」
「そっかぁ、じゃあ今日は会えそうにないかな。じゃあ、お兄ちゃんは帰ってる?」
「? ううん。帰ってくるって話は聞いてないけど……どうしたの?」
「あ、ちょっと気になって」

そう言って、笑って誤魔化すなのは。
兼一の感覚が正しければ、この街にはあと一人か二人は達人がいる筈。
他にも当てがないわけではないので、他の人たちだろうと結論したのだ。
例えば、さざなみ寮の住人や元住人達とか。

と、そこでなのは思い出す。
翔の面倒もあるし、出張中に私用の為だけに動くわけにはいかない。
なので、もし翠屋に寄る事があったらよろしく言っておいてほしいと頼まれていたのだ。

「あのね、ちょっといいかな……」
「あ、そうだ。なのは、こっち!」
「にゃにゃ!?」

が、それを言おうとしたところで突然姉に腕を引かれる。
身体能力では天地の開きがあるので、なのはにそれに抗う術はない。

「ど、どうしたの!?」
「ちょっとね、今日は珍しいお客さんが来てるんだ。
 折角だし、なのはも挨拶していきなよ」
「へ? …………………あ!」

連れて行かれたのは、奥まったテーブル席。
見れば、そこにはなぜ今まで気付かなかったのか不思議なほどの存在感を放つ大小の二人組がいた。

そこでなのはは理解する。
兼一の感覚が正しかった事と、彼が感じた気の波動の正体を。




  *  *  *  *  *



で、場所は戻って湖畔のコテージ。
少々早めではあるが、そろそろ日も陰り始め夕食時だ。
現地協力者…この場合、なのは達の幼馴染兼親友であるアリサとすずかになるが、彼女らが差し入れをしてくれた。コテージの倉庫に入っていたバーベキューセットを引っ張りだし、調理に掛かるはやてと兼一。

諸般の事情により、シャマルと翔は見学。
意味合いは違えど、この二人が調理に関わるのは非常に危険だ。
同列に扱われ、シャマルが不機嫌になったのはどうでもいい事だが。

ちなみに、すずかはそれほど兼一……というか梁山泊や新白連合への抵抗感が高くはないのか、アリサと違い中々友好的な再会を果たした事を追記する。
さらに言うと、メーオはすずかから肉のおすそ分けを貰い、頭を撫でてもらって機嫌良く森の中へと帰って行った。特殊な血筋の彼女からすると、達人たち同様メーオは猫と同列なのだろうか。

まぁ、それはいい。ここまでなら特に問題もなく時間が過ぎて行っていた。
しかし、市街に探索兼センサーやサーチャーの設置に出ていた面々が戻ってきた所で状況は一変。
より正確には、やや遅れてやってきた自称「お姉ちゃんズ」、なのはの義姉「美由希」とフェイトの義姉「エイミィ」、おまけでフェイトの使い魔…改め、ハラオウン家の使い魔「アルフ」の到着と共にだ。

運転席からエイミィ、助手席からは美由希と彼女に抱えられたアルフ。
そして、何故かその後ろから姿を現したのは……

「やぁ、アパチャイだよ!!」
『デカッ!?』

2mを優に超える褐色の肌の巨人。
通常なら威圧感満載の体躯なのだが、その顔には愛嬌のある人なつっこい笑顔。
とはいえ、やはり外見が外見だけに、一瞬ビクリと身体を震わせた面々。
だが、そんな皆を余所にアパチャイへと駆けよる二人がいた。

「って、アパチャイさん! どうしてここに……」
「あ、アパのおじ様、ひさしぶりぃ~」
「アパ! ギンガと翔も久しぶりよ!!」
「ん? 確かこいつ、恭也さんの結婚式の写真に写ってた……」
「ギンガ、彼はもしや……」
「あ、はい。師匠のムエタイの師匠のアパチャイ・ホパチャイさんです」

副隊長達の質問への答えに、皆が「あぁ」と思いだしたように手を打つ。
そう言えば、以前確認のために見せてもらった写真に写っていた。
兼一と違い、見た目からしてキャラが濃いので忘れたくても忘れられない。
と、そこでアパチャイの視線がある一点で止まった。

「あ、なのはも久しぶりよぉ!!」
「うん、ホント久しぶりぃ!」

なのはへと駆けよるアパチャイと、それに満面の笑顔を返すなのは。
だが、次の瞬間皆の目が点になった。

何しろ、なのはを抱き上げたと思ったら、そのままポンポンと何mも真上に放り投げてはキャッチ。
それを何度も繰り返し、なのはも特に抵抗せずに為すがままだ。

「ええっと、良い人…みたいだね」
「そ、そうみたいね」

なのはを尊敬する新人達としては、中々ショッキングな光景だ。
思わず顔をひきつらせ、そんなコメントをしてしまうのも無理はない。
そこではたと気付く。折角の師との再会だと言うのに、兼一はどうしたのだろうかと。

「そういえば、兼一さんは?」
「あれ、さっきまでそこに……」

気になったエリオとキャロが周囲を見渡すと、すぐに兼一の姿は発見できた。
ただし、ちょっとおかしな状態で。

「うきょー! 女の子がいっぱいねぇ!!!」
「やめてください、師父! アンタ突撃して何する気ですか!?」
「そんなの決まってるね! そこに山(胸)が、谷(尻)がある。
 なら、やることなんて四千年前から一つしかないね!」
「元とは言え鳳凰武侠連盟の最高責任者でしょ!
梁山泊と中国拳法の品位をどれだけ下げれば気が済むんですか!?」
「ふっ、真に価値のある物の為には何物も恐れない、それが漢の生き様というものね!
 それがわからないとは、兼ちゃんもまだまだね」
「それっぽい事言っててもやろうとしてる事はセクハラでしょうが!!」

帽子を被った髭の小柄な男に掴みかかり、なんとか抑え込もうとする兼一。
見た目からは想像もできない筋力を持つ兼一が相手となれば、振り払う事は不可能に近い。
仮にできても、生半可なことではない筈なのだが……。

「邪魔ね――――――――!!」
「ああ、もう! ホントこのオッサンはエロが絡むと!!」

なんと、体格で一回り以上小柄な男は兼一の妨害などものともせずに突き進む。
とはいえ、兼一は弟子や子ども達を守る役目を自らに課している。
たとえそれがセクハラであろうとも、と言うかセクハラなど以ての外だ。
ならば、やる事は決まっている。

「アパチャイさん! 美由希ちゃん!」
「あぱ!」
「はい!」

兼一の求めに応じ、小柄な男…剣星へと駆けより取り押さえに掛かる二人。
そうして、達人三人がかりでようやく剣星の侵攻は止まった。
地面に組伏された剣星は、未練がましそうに指をワキワキさせながら、まるでこの世の終わりの様に涙する。

「な、なんで邪魔するね―――――――――!?
 そこに、そこにパラダイスがあると言うのにね!!」
「「邪魔するに決まってるでしょうが!!」」

こうして兼一は、師や旧友との再会を喜ぶ間もなく疲れ果てることになったわけで。
ちなみに他の面々が唖然としていた中、コルトは冷ややかな目で「バカがバカ同士、バカな事をやってる」という目でこの師弟を見ていたのだが……これではそう見られても仕方がない。

その後、剣星は美由希が持ち歩いている鋼糸でグルグル巻きにされ拘束。
だが全く懲りていないようで、隙あらば抜け出そうと虎視眈眈。
しかし、さすがに兼一と美由希の二人がかりで監視されていてはそれも難しいらしい。
一応、今のところは大人しくしている。

初対面となる面々は努めてそれを意識の外へと追いやり、とりあえず初対面同士で自己紹介。
それにはもちろんアパチャイや剣星も含まれる。

「やぁ、アパチャイだよ!」
「アパチャイさん、それもうやりましたから」
「あぱ?」

そもそも、これでは碌に自己紹介にすらなっていない。
とは言えアパチャイにこれ以上を期待しても仕方なく、代わりに兼一が紹介する。

「えっと、こちら僕のムエタイの師匠のアパチャイ・ホパチャイさん」
「よろしくよ!」

返って来た反応はどこか呆気にとられた様な少々まばらな拍手。
アパチャイはそれを気にした様子もなく、にこにこと満面の笑顔を浮かべている。

「で、こっちの変態が中国拳法の師父で……」
「何を言うね、兼ちゃん! エロは生命の象徴ね! おいちゃんはただ魂の咆哮に正直なだけね!!」
「……聴いての通り、趣味はセクハラと盗撮だから、みんなくれぐれも注意するように」
『は、はぁ……』

その紹介の仕方もどうかとは思うのだが、一面の事実だけにどうしようもない。
だがまぁ、場の男女比率を考えれば当然。それも、その美人度たるや尋常ではないのだから。
ただ、相手は曲がりなりにも師。そんな事を言っていると……

「兼ちゃん、おいちゃんは悲しいね。あの頃は師弟を越えた友情があった筈なのに、昔の兼ちゃんはどこに行ってしまったね。あの日、胸に宿し共有したと思った情熱、それを兼ちゃんは忘れてしまったね」

涙ながらに過去を振り返り嘆く剣星。
言っている意味はわからないが、きっととても大切な何かがあったのだろう。
その姿は周囲の同情を引くには十分で、それまで冷ややかだった視線が僅かに緩む。
まぁ、実際にはそんな上等なものではないのだが。

「そう! あの日、共にしぐれどんの罠をくぐり抜け! その先に待つ美羽の」
「ワー! ワー!! ワー!!!」

語りの途中、突如大声を上げる兼一。
それにかき消され、その続きは皆の耳には届かなかった。

「父様?」
「どうしたんですか、師匠?」
「な、なんでもないよ! 師父、ちょっとこっちへ!」

剣星の肩に腕を回し、少々強引に連行する。
もちろん、息子と弟子への愛想笑いは忘れない。
皆、いったい何をしているのかと首を傾げる中、兼一は剣星に詰め寄る。

「いったいどういうつもりですか?」
「いや、兼ちゃんの昔の武勇伝を聞かせてあげようかと思ってね。
 師と共に数々の苦難を退ける、まさに美談ね」
「あ、あなたって人は……!」

確かに、字面だけ追えば美談に見える。
しかし、その実態を知る当の本人としては、隠蔽したい恥部だ。
それもこの場には弟子や息子など、自分を尊敬してくれている人が多数。
知られれば、彼らから軽蔑のまなざしを向けられる事は必至だ。
ならば、する事は一つ。

「要求はなんです?」

声をひそめ、ぼそぼそと剣星の耳に小声で話しかける。
剣星はそれに対し、長い眉毛に隠れた目を光らせた。

「なぁに、ちょっとおいちゃんの行動の自由を保障してくれればそれでいいね。
 安心するね、ギンちゃんには何もしないと誓うね」
「僕に、みんなを売れと?」
「別に怪我をさせるわけじゃないね。それに、弟子と息子の尊敬と比べれば安いものね」

確かに、言ってしまえば所詮はセクハラ。
昔の若さ故の過ちを知られる事に比べれば、何程の物か。
だが、このお人好しがどんな理由であろうと仲間を売る筈がない。
それも、皆を実の子どもや妹の様に思っているのなら尚更。

「師父、僕の信念は信じた正義を貫く事。この拳は、大切な人達を守る為の拳です」
「それは、交渉決裂と言う事かね?」
「弟子はいずれ師を越えるものですよ」
「よく言ったね! なら、おいちゃんを越えてみるが良いね、我が(ウォー)弟子(ディーズ)!!」
「積年の恨み、今こそ!!」

そうして、突如始まる無駄にレベルの高い師弟喧嘩。
蹴りが湖を割り、拳が地を穿ち、激しい動きが突風を生む。
外野からすると突然脈絡もなく始まったそれを見て、ヴィータが一言。

「いきなり何始めてんだ、アイツら?」
「しかし、さすがは白浜の師だ。勉強になる」
「いやまぁ、そりゃそうなんだろうけどよ……」

シグナムの言は正しいのだが、それで済ませていいのだろうか。
正直、状況の変化に付いていけない。
それは他の面々にも言える事で、大半が呆然とそれを見やっていた。
だがそんな中、コルトがいち早く我に返る。

「白浜の野郎を見た時も思ったが、あのおっさんもとんでもねぇな」
「え? アンタなんか言った?」
「別に。だが、それならあっちのおっさんもそうって事だよな」
「そう言う事になるんでしょうね…って、ちょっとアンタどこ行くのよ!」

制止しようとするティアナを無視し、歩を進めるコルト。
気付けばいつの間にかウィンダムをその手に握り、向かう先は身長2mを超す褐色の巨人。
その無謀を止める者はおらず、ウィンダムを握る手に自然力が籠る。

一歩一歩、踏みしめるようにして近づくコルト。
巨人、アパチャイは兼一達の方を向き、未だコルトに気付く様子はない。
一足飛びで襲いかかれる、その距離まで近づいたところでコルトの中で抑え込まれていた「気」を解放しようとした、その瞬間……

「アパァ!」
「ぶほっ!?」

振り向きざまに放たれた蹴りが、コルトの身体を蹴り飛ばす。
まるで小石の様に吹っ飛んでいくコルトに気付き、皆の視線がそちらに映る。
それは兼一や剣星も例外ではなく、二人はいったん手を止めてそれを眼で追った。

「お~……」
「『お~』じゃないですよ! 何やってんですかアパチャイさん!」
「癖よ!」
「あちゃ~…あの子、後ろからアパチャイに殺気を向けようとしたね?
 最近の子は怖いもの知らずねぇ……」

何が悪かったかと言えば、相手が悪かった。
もし兼一や剣星、あるいは美由希相手にそれをしていたならこうはならなかっただろう。
だが、相手はアパチャイ。幼い頃から命懸けの裏ムエタイのリングで戦い続け、全力攻撃が条件反射の域に達した彼だからこそのこの結果。

その間にもコルトの体はコテージに激突、同時に爆砕。
辛うじて半壊にとどめたが、閑静なコテージは見るも無残な有様と相成った。

「あ、アヴェニス一士!!」
「も、もしかして死んじゃったんじゃ……」

あまりの激突の勢いとその結果に、顔を青くして震えるライトニングの二人。
バリアジャケットを着ていたとしても、あの一撃を受けては命が危ない。
二人だけでなく、その場にいるほぼ全員がそう思っていた。

「いや、多分死んではいないはず」
「ですね。アパチャイさん、ギリギリのところで手加減しましたし」
『ホントですか!?』

兼一と美由希の言葉に、食いつくように反応する面々。
そんな皆をなだめるように、剣星が言葉を重ねる。

「そうね。昔のアパチャイの蹴りなら死んでただろうけど、幸い今のアパチャイは手加減を覚えてるね。
 その意味では、あの子は兼ちゃんに救われたとも言えるね」
「そうよ! アパチャイ、ちゃんとテッカメンしたよ!」
「手加減ですよ、アパチャイさん」

兼一の突っ込みに、みんなは思った。『覚えてないじゃん!?』と。
まぁそれでも、昔はホントに比喩ではなく「手加減」と言う言葉そのものを知らなかったので、それに比べれば遥かにマシなのだが。

「とはいえ、アパチャイの蹴りをまともに食らったならちょこっと心配ね。
 兼ちゃん、あの子の治療をするから一時休戦ね」
「はい。僕も手伝いします」
「あ、私も行きます!」

剣星に続き、コルトの治療へ向かう兼一とシャマル。
その後ろでは、アリサが『だから関わりたくないのよ、この連中とは』と言わんばかりに頭を抱えていたとか。

コルトの状態は、アパチャイの絶妙な手加減もあって骨折などの重傷は特になし。
だが、さすがにコテージと激突した事で全身に切り傷打ち身が数知れず。
とはいえ、そこは過去白浜兼一を改造した張本人の一角。
怪しい漢方と針を駆使し、さらにはシャマルの治癒魔法も使った治療により、怪我は全治一週間程度で済んだ。

その後、とりあえずコルトの治療を終え、彼を安静にしたところで食事を再開。
はじめのうちは微妙な空気が流れたが、次第にそれもなくなり、皆くつろぎながら思い思いに時を過ごす。
その中には、アパチャイと大食い競争をするエリオの姿もあった。

「兼一さんがあんまり食べないからこっちの人達もそうかと思ったけど……」
「アパチャイさん、エリオ君達に負けず劣らず召し上がられる方なんですね」

本当にちゃんと噛んでいるかさえ怪しいその速度に、若干引き気味のティアナとキャロ。
その足元では、フリードがおこぼれの肉を嬉しそうに貪っている。

やがて空腹を満たしたらしいエリオ。
その食事量は、アパチャイの分と合わせると優に30人前を越える。
が、エリオが満腹になっても、アパチャイは紙皿を手に食事を取りに行く。
それに唖然としたキャロは、思わず尋ねていた。

「ま、まだ食べるんですか?」
「あぱ? 違うよ、これはみんなの分よ」
「みんなって……」

言って、辺りを見回すが概ね皆食事を終え雑談に入っている。
では、アパチャイの言うみんなとは誰かと言うと……

「ピーヒョロロロ~♪」

野菜や肉の山盛りになった紙皿を手に、指笛を鳴らすアパチャイ。
新人四人がそれに首をかしげていると、森の方からガサガサと言う物音。
そして、徐々に彼らは姿を現しアパチャイの下へと集って行く。

『わぁ……』
「ほら、みんなも食べるよ」

集まってきたのは、大小さまざまな動物たち。
小さいものはリスやネズミに小鳥、大きなものはネコやイヌまで。
それぞれが喧嘩をする事もなく、アパチャイの手や紙皿から好みの食事に口を付けている。

「キャロも、こういうことできるんじゃないの?」
「できますけど、でも……」
「でも?」
「何て言うか、凄いなぁって」
「ふ~ん……」

ティアナの問いに、キャロは驚きを露わに答える。
上手く言葉にはできないが、アパチャイのそれは自分とはどこか違うように感じていた。
召喚魔導師にとって、鳥獣使役は割と当たり前のスキルだ。
当然彼女もできるのだが、アパチャイは魔導師ではない。だからこその、「凄い」なのだろう。

「あの、触っても良いですか?」
「……良いって言ってるよ。優しくしてあげれば大丈夫よ」
「あ、はい」

どうやらアパチャイは、すっかりエリオの心も掴んだらしい。
見れば、キャロも混ぜてほしそうにしていた。
ティアナはそんなキャロの背を軽く押してやる。

「って、あれ? そう言えばスバルは?」

視点は変わって剣星。
相変わらず兼一と美由希の二人がかりで監視されているが、特に気にした風はない。
はやての料理に舌鼓を打ちつつ、一番弟子の近況に耳を傾けていた。

「じゃあ、兼ちゃんは闇が何か関わっているかもしれないと考えているのかね?」
「はい、あまり可能性は高くないと思うんですけど」
「まぁ、連中の性質を考えると確かにそうね」
「美由希ちゃんは、最近の闇については?」
「いえ、特に目立った動きはないと思いますけど……」

仕事柄、裏社会とのつながりの深い美由希だが、彼女も特に思い当たる節はないらしい。
まぁ、闇が絡んで来ないならそれに越した事はないのだが。

「話は変わりますけど、どうして師父がこちらに?」
「ん? ちょっと生薬の買い付けにね。そのついでに、翠屋に寄ってみたら丁度なのはちゃんが来てね。
 聞けば、兼ちゃん達も来てると言うじゃないかね」
「でも、普段は岬越寺師匠と一緒ですよね?」
「秋雨どんは所用で出てるね。確か、知り合いから美術品の修復を頼まれたとか」
「なるほど」
「ちなみに、長老は東にぶらっと、しぐれどんは刀狩りの真っ最中ね」
「ああ、そうでしたか。それなら……」

無理に戻らないで正解だったかもしれない。
何しろ、無理に戻っても誰もいないのだから。
とそこへ、それまで遠巻きに様子をうかがっていた人影がはやてやってくる。

「どもです、兼一さん。お話の邪魔をしてもうてすみません」
「いえ、それは別に……」
「ところで、そちらが兼一さんの先生なんですよね?」
「あ、はい」
「おいちゃんに何か用かね?」
「はい。馬先生に、折り入ってお願いが」

とても、とても真剣な表情で剣星と向き合うはやて。
その眼には不退転の決意の光を宿し、その「お願い」に何かある事が伺えた。

「ほう、お願いかね? 可愛い女の子のお願いなら何でも聞いちゃうね」
「ありがとうございます。実は……」
「実は?」
「……………………弟子にしてください!!」
「「はい?」」

突然の申し出に、呆気にとられる兼一と美由希。
はやてが格闘技を覚える事自体は別にいい。
向いていなスキルではあるが、趣味あるいは運動の一環としてやるのはありだろう。
だが、この男に教わると言う事はその域を遥かに超える。
それがわからないはやてではない筈だからこそ、二人は首をかしげているのだ。

「先ほどのお手並み、感服しました! 私も自分の技には自信がありました、ですがそれが井の中の蛙やと思い知ったんです! 是非、弟子に!!」
「ねぇ、はやてちゃん?」
「なんですか、美由希さん?」
「えっと、なんの話?」

相手が剣星なので、はじめは武術の話かと思った。
しかし、それだと前後の言葉に違和感がある。
はやてが自信を持つと言った「技」、それと武術はまず重ならない筈。
相手がシャマルなら、まだ鍼灸や漢方の技術で教えを乞おうとするのはわかる。
では、はやてが教わりたいと言う技とはいったい……。

「それは……………………この手や!」
「「て?」」
「そう! さっき兼一さん達に捕まった時の、指の一見大胆ながら滑らかかつ繊細な指捌き!
 乳揉み道の者として、あれはまさに理想的やった……」

しみじみと、まるで尊いものでも回想するように語るはやて。
二人には何を言っているか全くわからないが、どうやら相当感銘を受けたらしい。

「ほほう、おいちゃんの手技の深さが分かるとは、お嬢ちゃんも相当やるようね」
「いえいえ、まだまだ至らない所ばかりの若輩者です。それを、今日思い知りました」
「そんな事はないね。自分の未熟さを知る、それだけでも充分大したものね」

何か通じる者でもあるのか、二人の間には早速親しい友人の様な空気が生まれている。
本人達からすれば、偉大な先達と将来有望な後輩と言ったところなのかもしれないが。

「あれ? 部隊長、何してるんですか?」
「おお、スバル! ええ所に来た!」
「え?」
「確か、ギンちゃんの妹の……」
「あ、はい! スバル・ナカジマです」
「先生、実はこのスバルも、中々ええものを持ってまして……」
「ほほぅ、確かに将来が楽しみね」

言いつつ、剣星が視線を向けるのはスバルの胸部。
いやまぁ、ギンガの妹なら将来有望なのは確かだが。
しかし、今はやてが言っているのはその事ではない。
もちろん、その事に全く触れていないわけではないが。

「いえ、確かにそっちの成長も期待しとるんですが……スバルも日頃から技を磨いてるんですわ」
「おお! ちなみに、誰で練習してるのかね?」
「ティアです! 今はまだみなさんほどじゃないですけど、いつかきっと追いつくって信じてるんです!
というか、私が育てて見せます!!」
「いやぁ、その使命感はようわかるわ。私も昔は、みんなの健全なバストアップに貢献しようと頑張ったもんや」
「うんうん、美しい友情ね」

目の端に涙を浮かべ、それをぬぐいながら感動する剣星。
ちなみにこの瞬間なのはとフェイト、さらにアリサ、ついでにティアナが「んなわけあるか!!」と誰もいない空間に突っ込みを入れたのだが、この会話との因果関係は不明である。

「ふふふ、エロに性別も年齢も関係ないということね。
もっとエロくなれば世界は平和になると思うけど、君達はどう思うね?」
「いや、全く。世界はもっとエロくあるべきです。エロなくして人類の繁栄はないんやから」
「はい! 胸を揉むくらい軽いスキンシップですよね!」
「うんうん、師弟と言わず、君達とは言い友になれそうね」
「「光栄です!」」

互いに手を握り合い、友情を確認す三二人。
その後もエロ談議に花を咲かせ、「胸だけに拘るのは狭量でしょうか?」「胸、お尻、太股、みんないいものね。優劣を付けるなど女体への冒涜ね」「ふ、深いですね……」「実は、最近はコスプレに凝ってるんですが……」「いいですよね、コスプレ」「うん、それならチャイナドレスは外せないね」等々。余人からすればかなりどうでもいい事で盛り上がっている。

「ふっ、その若さでその見識、おいちゃんの若い頃を思い出すね。
 兼ちゃんには期待してたんだけど、こっちの後継者にはなってくれなくて残念に思ったものね。
 でも、こんな所で若い後を継ぐ子に出会えるとは、今日は素晴らしい日ね」
「ありがとうございます、先生!」
「私は、まだまだお二人には全然及びませんけど…これからもがんばります!」
「うん、その意気ね。それに、スバルちゃんも自信を持つね。スバルちゃんは技が粗いけど将来性は抜群、はやてちゃんも熟練の域に入ろうとしているね。
だけど、それに慢心せず日々の練磨を怠らないことね。エロは、一日にしてならずね!!」
「「へへぇ!!」」
((え? 今、いい事言ったの!?))

全く理解できない三人のやり取りに、すっかり置いてけぼりを食う兼一と美由希であった。
とりあえず、ここに子ども達がいなかったのが不幸中の幸いだろう。



そうして交流会を兼ねた夕食も終わりに近づいた頃。
思いの外回復の早かったコルトは目を覚ます。
所々に包帯やシップ、絆創膏が張られている自分の状態と周囲の状況を確認し、前後の記憶から現状を分析。
今の状況を理解した彼が一つため息をつくと、横合いから声が掛かった。

「おや、どうやら起きたようだね」
「っ!?」
「そんなに警戒しなくても、別に何もしやしないね」

そこにいたのは、紙皿と箸を手にした剣星。
気配を消していたのか、その存在に気付かなかったコルトは飛び跳ねる様にして立ち上がり距離を取る。
無理に動いた事で痛みが走り、僅かに表情を歪めた。しかし、それでも剣星への警戒は緩まない。
そんな彼に剣星は手を振って警戒を解くよう促し、その手に持った物を差し出す。

「ほら、そろそろお腹が減る頃じゃないかね?
 挑んでくるのは別にかまわないけど、腹が減っては戦は出来ぬ。まずは腹ごしらえね」
「…………ちっ!」

舌打ちと共に、ひったくる様にして紙皿を取るコルト。
剣星の言は、結局のところ腹が減っていようが膨れていようが関係なく、コルトなど敵ではないと言う事でもある。攻撃してくるかもしれない相手に他意なしに食事を勧めると言う事は、そう言う事だ。
それだけの差がある事はコルトも承知しているが、面白くはないのだろう。

「ふん!」
「やれやれ、兼ちゃんの言う通りちょっと困った子ね」
「………………………………」

剣星の言葉に答えず、そっぽを向いて食事を口へ運ぶコルト。
剣星もまたそれに気を悪くした風もなく、彼の横に腰を下ろした。

「どっこいしょ」
「って、おい! なんで横に座る」
「君は、あっちに混ざらないのかね?」
「…………」
「そんなに、あそこは居心地が悪いのかね?」
「………………だとしたら、なんだってんだ?」

沈黙に耐えきれなくなったのか、ようやく答えるコルト。
そんなにコルトに、剣星はどこか悲しげな目を向ける。
それが、コルトには無性に苛立たしく感じた。

「おいちゃんには、兄がいるね」
「あ?」
「兄さんは昔、人を殺めておいちゃん達…家族の元を去って行った。
 だけど兄さんは言ってたね、人を殺したから去ったのではない、元から居場所がなかったのだと」
「…………」

居場所がない、その言葉にはコルトも共感を覚える。
居場所がないのか、捨てたのか、あるいは……それはわからない。
だが、その感覚には共感できるものがあったのは確かだった。

「でも、そんな事はなかった筈ね」
「なんだと?」
「少なくとも、おいちゃんは兄さんと共に過ごす時間が好きだったね。
 共に技を磨き、共に語らう。兄さんは口下手だったけど、それでも楽しかったね。
 だからこそ、兄さんが消えた時は本当に悲しかったね」
「…………」
「誰かがそこにいてほしいと思ってくれるなら、そこはちゃんとその人の居場所ね。
 君にも、そういう人はいる筈ね。君、家族は?」
「………………いる」

おそらく、前線メンバーの中ではコルトは家族に恵まれている部類の筈だ。
少なくとも、天涯孤独のティアナや母のいないスバル、故郷を追われたキャロや本局の施設で育ったエリオよりは。とりあえず生まれた時からいる家族、両親や姉は生きているのだから。

「家族は嫌いかね?」
「……………別に」

そう、別に好きでも嫌いでもない。
家族は揃っているし、みんな人として決定的な欠点や短所があるわけでもなかった。
ごく普通の中流家庭で、ごく平凡な人達。

ただ、反りが合わなかっただけ。
だから、師と出会うまでは家に居着かず、その後は師の下での鍛錬に励んだ。
管理局に入ってからもそれは変わらず、寮に入って家に帰った事はない。
風雨をしのぐ為の寝床、それだけの為の場所だった。

なのはと美由希の姿を見て、複雑な思いがなかったと言えば嘘になるだろう。
同じ家族でも、仲睦まじい家族もいれば、憎み合う家族もいるし、嫌う事も出来ずに疎遠になる家族もいる。
スバル達辺りに知られれば「家族は仲良くしないと」とでも言われそうだが、煩わしいのでいくら聞かれても教えてはいない。

「なら今の職場は、同僚はどうかね?」
「…………やりがいは、ある」

居心地の良し悪しで言えば、やはりいいとは言えないだろう。
和気藹藹とした空気は苦手だし、入っていきたいとも思えない。
だが、環境としては悪くないのも事実。彼の人生の中では、師の下に次いで「我慢できる場所」だ。
少なくとも、彼はそう思っている。

「あの子たちは、君を仲間だと思ってる筈ね」
「思うのは勝手だ。俺がどう思うのかもな」
「確かにそのとおりね。だけど、君が望めばあの子たちはいつでも君の居場所になってくれる筈ね。
 それは、覚えておいた方が良いね」

少なくとも、剣星の知る限りでも兼一となのはは確実だ。
ならば、彼さえ少しでも歩み寄れば……。

「孤高の道の果てには何もないね、それでもその道を行く気かね?」
「別に、何かが欲しくて選んだ道じゃねぇ」

食事を終え、もうこれ以上話す事はないとばかりにその場を離れるコルト。
剣星は帽子を抑え、軽くため息をつく。

彼の言葉は、コルトの心には届かなかった。
それは剣星の言葉が軽いとかではなく、彼の立ち位置の問題であり、時期の問題。
同じ言葉でも、効果的に作用する立ち位置と、その時期がある。
立ち位置が異なれば上手く響かないし、時期が違えば空振りに終わるだろう。
今回は、その両方を外していた。

かつて、兄「槍月」が自分達の元を去るその少し前。
その頃の兄と、どこか似た空気を彼は纏っていた。
だからこそ心配して声をかけてみたのだが、失敗に終わったらしい。

「あの子を導くのは、おいちゃんじゃなかったという事かね。なら……」

いつか、取り返しのつかなくなる前に出会ってほしいと思う。
既に出会っているのなら、早くとは言わない。ただ、間に合う内に導いてほしい。
取り返しのつかなくなるその前に。

そうして剣星が兼一達の所へ戻ってみると、状況は中々に面白い事になっていた。
何しろ、それぞれ刃物や銃器で武装した黒服の集団が当たりを囲んでいたのだから。

「手を上げろ! 抵抗しやがったらぶっ放すぞ、ガキども!!」

威嚇射撃として上空に向けて一発。
とはいえ、この場にいるメンツのほとんどが荒事の専門家。
すずかやアリサなど、そちらの方面が不得手な者もいるが、彼女らは彼女らでこういう状況には慣れっこだ。
何しろ、割と誘拐などの犯罪に晒されることも多い家だっただけに。

故に、取り乱したり恐怖に震えたりする者はいない。
その代わりに、皆は一様に警戒心や敵意を黒服達に向けている。
ただその中にあって、例外が少々。
例えば、たった今やってきた剣星だったり、アパチャイだったり。

「おら、オッサン。手を上げろってのが聴こえねぇのか!」
「ほっほっ。そんな豆鉄砲向けられてもねぇ……とりあえず落ち着くね」
「アパパパ♪」
「笑ってんじゃねぇよ、木偶の坊! 頭悪そうなツラしやがって!! 頭だけじゃなくて目も悪いのか!!」
「……今の、ちょっと傷ついたよ。アパチャイ、頭悪くなんかないよーだ。
むつかしい日本語だってとっても上手になったんだから」

心ない一言にショックを受け、いじけて地面に「の」の字を書きだすアパチャイ。
はっきり言って、銃を前にしているにしては異常なまでの緊張感のなさである。
まぁ、このメンツでは仕方ないと言えば仕方ないのだが。

「主、ここは我らが……」
「あかんよ、シグナム。管理外世界、それも現地の人間相手に魔法は御法度や」

相手が魔導師やロストロギアならともかく、どんな理由があろうと現地の人間に魔法は不味い。
幸い、こちらには達人が複数。なら、特に被害を出さずに鎮圧することも不可能ではない筈。
それならば今はやてがすべきは部下達の制止であり、魔法を使わない事を徹底する事だ。
もちろん、フリードには姿を隠してもらう事も忘れない。

(みんな、絶対に手ぇ出したらあかんよ。ええな?)
『……はい』
(せやけど、この人達の狙いは……)

突然トラックで乗り付け、瞬く間の内に周囲を囲った黒服。
暴力には通じているようだが、軍人や警察の様に訓練が行き届いているようには見えない。
真っ先に狙いとして浮かぶのは、そういう連中に狙われやすいすずかやアリサなのだが……。

「ようやく見つけたぞ! 化け物女!」

品なく怒鳴るのは壮年の強面。
その銃口で示すのは…………………美由希だった。

「誰が化け物ですか!!」
「ほほぅ、重火器で武装したうちの連中50人を無傷で叩き潰した奴が化け物じゃねぇとぬかすか?」
「う…そ、それはまぁ…その……」

まぁ確かに、それだけやれば充分化け物の部類だ。
美由希としては反論したいところかもしれないが、説得力はあまりない。

とはいえ、あまり美由希の深い事情を知らないティアナなどとしては、なぜ目の敵にされているか不思議な所。
少なくとも、彼女の眼には美由希は温厚な女性くらいにしか映らないのだから。

「あの、美由希さんって……」
「ああ、美由希さん、私達と似たような仕事してるから」
「そうなんですか?」
「うん。こっちの世界の武装警察というか、なんと言うか……そう言う所の所属なんだ」
「じゃあ、アレって……」
「たぶん、その関係で怨みを買ったとかそういう事だと思う」

戸惑いがちに問いかけるティアナに、できるだけ噛み砕いて説明するフェイト。
彼女もあまり深く知っているわけではないが、実力主義で、かなり過激な組織とは聞いている。

「てめぇに組織を潰された恨み、晴らさせてもらうぞ!
 なにしろ、今日はこの前の倍の100人! 銃に爆弾もたんまりある!
それも、てめぇの周りには守らなきゃいけねぇ奴らもいるときた。
幾ら化け物みたいな女でも、これならさすがに勝ち目はねぇだろ!!」
(え? 100人って……それだけ?)
(アイツ、自殺願望でもあるのかしら?)

すずかとアリサの二人は、男が提示した今の状況に目を丸くする。
はっきり言って、このメンツにケンカを売るには戦力不足も甚だしい。
なのは達魔導師組を除いても達人が四人。それも、うち二人は正真正銘の梁山泊の豪傑だ。
これをなんとかするなら、最低でもその百倍の戦力は必要なのではないだろうか。
そもそも、この戦力では美由希一人すら殺せるか怪しい所。
なので、美由希が思わずこんな事を呟いたのも仕方がない。

「う~ん、100人かぁ…………今日の御礼参りはちょっとしょぼいかなぁ?」
『これでしょぼいんですか!?』

あまりにも場馴れした、その上とんでもない発言に驚く新人達。
それを見たすずかとアリサは「ああ、まだ耐性ができてないんだ」と憐れむ。
この人種と付き合うには、この程度では驚いていられない事を、あの子たちはまだ理解していないのだ。

「あぱ、ならアパチャイがやるよ!」
「アパチャイだとやり過ぎるかもしれないし、おいちゃんがやっても良いね」
「良いですよ。これは私の問題ですし、ちゃんと私が始末をつけますから」
「なら、じゃんけんで決めるよ!」
『よ、余裕だ……』
「てめぇら、状況わかってんのか!!!」

普通に考えれば状況が分かっていないとしか思えないやり取り。
だが、それもこのメンツなら許される。
むしろ、こうなってくると怒鳴り散らす男が哀れでならない。
どれだけすごんでみたところで、男の結末など既に決定しているのだから。
とそこで、辺りを囲む黒服の中の一人がある事に気付いた。

「アパチャイ? まさか、裏ムエタイ界の死神! アパチャイ・ホパチャイか!?」
「なにぃ!? なら、あっちは馬剣星!?」
「ふざけんな!? 梁山泊がいるなんて聞いてねぇぞ!!」
「逃げろぉ!! 物理的に地獄に落とされちまうぞ!!!」

まるで、クモの子を散らす様に逃げまどう黒服達。
彼らはあっという間にその場を離脱し、残されたのは先ほどの壮年の男とガタイの良い長身の黒服一人。
実に見事な撤退であった。

「………………………………………」

いっそ涙を誘う位唖然とした表情で固まる男。
まさか、絶対の自信を持って集めた部下が、戦いもせずにいなくなるとは……。

「あの連中、裏の世界じゃ超のつく有名人だしね。当然っちゃあ当然よ」
「うん。梁山泊って言ったら、基本的にどの組織でも接触禁止が原則だもんね」
「触れたら大爆発…っていうか、関わった瞬間に壊滅決定だしね」
(うわぁ……)

六課も何かと異常な部隊だが、そう言う事を聞かされるとそうでもない気がしてくるから不思議だ。
あの男は犯罪者なのだろうが、それでもこの状況と巡り合わせには同情してしまう。

そんな何とも言葉をかけづらい空気の中、男に声がかけられる。
だがそれは、男のすぐ横合いから。

「所詮屑の下に集まるのは屑か」
「っ! そうだ、まだお前がいた! ここは退くぞ、一端引いて今度こそ!」
「黙れ、最早貴様に用などないわ」
「は? おぶっ!?」

残された黒服は、裏拳で男の顔を殴り飛ばされる。男の体は面白いように数度バウンドして停止。
一撃で意識を刈りとられたのか、その身体はピクリとも動かない。

「香港警防小隊長『高町美由希』殿とお見受けする」
「確かに私は高町美由希ですけど」
「我が名は黄伯雲、東方で十指に入ると謳われた武器使いとお会いできて光栄だ」

言って、男は手に持っていた長物の布を剥ぐ。
そこから出てきたのは、長い柄の先端に歪曲した刃と言う形状の見事な大刀。

「薙刀…いえ、関刀ですか」
「然り。彼の関羽も用いた青龍偃月刀だ。用件は、おわかりだろう」
「ええ、まぁ。こういう仕事ですからね。
兼一さんも剣星さんも、それにアパチャイさんも手は出さないでください」
「話しが速くて助かる。私が求めるは、貴殿との尋常の勝負。
 梁山泊の首にも興味はあるが、此度の目的はあくまでも貴殿だ。
 恨みはないが、その首を頂戴したい」

宣言すると同時に、強烈な気当たりが叩きつけられる。
腕を上げる為、名を上げる為に強者を求める武人は多い。
特に武器の世界はいつでも首の取り合い。中でも、香港警防で活躍する美由希の首は大人気だ。

「なるほど、気を隠すのがお上手ですね。
 それと、さっきの発言は訂正します。達人級がいるのなら、今日の御礼参りはかなり気合が入ってますね」
「ああ、そういえば御礼参りだったな、これは。危うく忘れる所だった」

苦笑するように、黄と名乗った男の肩がふるえる。
元々、御礼参り自体はそれほど興味がないのだろう。
強者を探していた所に丁度いい話があって参加した、その程度と言ったところか。

そうして、大刀を構えた男は深く腰を落とす。
かまえはやや下段、下からの斬り上げを狙っているように見える。

「ずいぶんとまた、真っ正直な構えを……」
「小細工は好かん。乾坤一擲、初撃に全てをかけるのが我が流儀なれば」

それだけ、自分の力量に自信があると言う事なのだろう。
駆け引きを蔑ろにしているのではなく、あらゆる駆け引きを叩き潰す、その意気の表れだ。
だが美由希はその愚直さに、真っ正直さに好感を覚えた。

初撃を流し、その隙をつく自信はある。
相手の武器は大型だけに、渾身の一撃の後には隙が生じるだろう。
その点、美由希の武器は小回りが利く。その隙をつくのにはうってつけだ。しかし……

「さすがに、それは野暮かな……」
「む?」
「なら私も、受けて立ちましょう」

美由希が腰の後ろに手をやると、「パチン」という音が鳴る。
同時に、彼女の足元に二本の何かがスカートの中から落下。
見れば、それは黒塗りの二本の小太刀。
恐らく、常に肌身離さず携帯する為、そこに隠していたのだろう。

美由希は小太刀を抜き、腰だめに構えて深く腰を落とす。
狙いは突き。だがその構えは、男の構えとどこか似た印象を見る者に与える。

「まさか、真っ向から受けてもらえるとはな。………………かたじけない」
「あなたみたいな人、嫌いじゃありませんから。
 それに、妹や友人の教え子やお弟子さんもいますからね。
 真の武器の技でも、見せてあげようかなぁと」

本来なら、秘技や奥義をひけらかすようなまねはすべきではない。
しかし、この技は別だ。この技を会得できたのは、兼一と出会えたからこそ。
彼が紹介してくれたある人物との出会い、それがあったからこそ習得できた業。
生みの両親も、育ての父も習得できなかった奥義の極み。
その恩義に報いるべく、彼の弟子にこれを見せることに迷いはない。

「ギンガ、翔。それにみんな、君達は運が良い」
「師匠?」
「父様?」
「アレが、真の武器使いの技だ。よく見て、学びなさい」

それは最早技ではない。
『武器を身体の一部』とし、さらに『武器と一つ』となる事で至れる境地。
世界を見渡しても、使える者など数えるほどしかいない。そんな技を見る事ができるのだ。
いったいそれをどれだけ理解しているかは分からないが、それでもギンガ達は目に全神経を集中する。
そして美由希と黄、二人の間を一陣の風が吹き抜いたその瞬間、二人は動いた。

「おおおおおおおおおお!!」
「……………!」

交錯する影。
黄の右下からの斬り上げは、あまりの鋭さにより発生した鎌鼬で延長線上に斬閃を刻む。
おそらく、たとえ風圧でも充分な殺傷力を秘めている筈だ。

それに引き換え、美由希がはなった突きは静かだった。
強く風を裂いた印象はない。気付けばそこにあり、いったいいつ動いたのか判然としない程。
ただ一瞬、手に持つ刀と彼女が同化して見えたのは錯覚か、それとも……。

いずれにせよ、決着はすでに付いている。
大気を割る斬撃と、それとは対照的なあまりにも静かな刺突。
その激突が生みだした結果は、実に顕著だった。

「うっ……ぐはぁ!!」
「…………ふぅ」

刃の中ほどから真っ二つに折られた青龍偃月刀の先端が宙を回る。
また、黄の胴には血の滲む箇所が一つ。鋭利な刃物で刺され、貫かれた傷だ。
その割には出血が少ないように見えるが、普通に考えれば十分すぎる致命傷の筈。だと言うのに……

「武器を折られ、身体を貫かれた。生きてはいても、続ける気には……なれんな」

胴を貫かれながら、黄は致命傷を負ったとは思えない動作で立ち上がる。
彼はそのまま美由希に背を向け、傷を抑えて一歩を踏み出した。

「腕を磨き直して出直すとしよう。失礼する」

敗者にかける言葉はない。
美由希も、もちろん観戦していた面々も何も言わない。
そうして、黄の姿が見えなくなった所で、ようやくキャロが口を開いた。

「あの、あの人治療しなくて大丈夫なんでしょうか?」
「ああ、その心配はないね。ちゃんと、隙間を縫ってたからね」
「隙間、ですか?」
「そうね。体幹部分は確かに内臓や血管、神経がいっぱいで切られたら致命傷ね。
 でも、美由希ちゃんくらいならそれらを避けて通すことも可能ね」

あの一瞬で行われた超絶技巧に、空いた口が塞がらない。
シグナムですら、その精緻を極めた技術に戦慄を覚える。
果たして、自分にそんなまねができるのか。できるとして、あの速度で可能なのか。
正直、自信はない。こと、繊細な技術においては後塵を拝するしかないと自覚しているのだ。

「じゃあ、あの技は……」
「小太刀二刀御神流斬式・奥義の極み『閃』。他流では、『心刃合錬斬』なんて呼んだりもするね。
 武器に頼るのではなく身体の一部とし、さらに武器と一つになる、そう言う技」

美由希の言葉から、かつてシグナムや兼一から聞かされた口伝を思い出すエリオ。
心構えの一種と思っていたそれを体現する技と、それを会得した剣士。
兼一が「武器の極みの技」と言ったその真の意味を、ようやく彼は理解した。

力も速さも超えた境地の太刀筋、それが閃。
同時に、心刃合錬斬とは刀と己を一つにして斬りかかる剣身一体の剣技である。
武器使いとして、剣士として最終的に行きつく先は同じと言う事なのか。
名称こそ違うが、この二つはその本質を同じくする。

義父「士郎」や実母「美沙斗」ですらたどり着けなかった境地。
故に至るには独学で会得するしかないと思っていたその技を、恭也と美由希はしぐれから学んでいた。

「それにしても、結構余裕だった?」
「まさか。正直、ちょっとヒヤッとしましたよ」

逆に言えば、それだけの実力差があったとも言えるのかもしれないが。
何しろ、結局は「ヒヤッとした」だけとも言えるのだから。

「そりゃしぐれさんなら余裕だったかもしれませんけど、さすがにしぐれさんには及ばな……っ!?」

そこまで言いかけた所で、美由希がある事に気付く。
強敵との戦いに集中するあまり、つい失念してしまったその存在。
先ほどまで意識を失って転がっていた筈の男は起き上がり、こちらに向けて何かを投げた。
その正体は……

「爆弾!」

導火線を切る……いや、そんな単純な構造ではないだろう。大体、導火線自体が見当たらないのだ。
あまり強い刺激を与えても、その場で爆発しないとは言い切れない。
魔導師勢にしても、場所が制約となり一瞬躊躇してしまっていた。

「みんな、伏せて!!」
「兼ちゃん!」
「はい!!」

兼一の指示に従い、咄嗟に伏せる面々。
同時に、兼一は師に向けて蹴りを放ち、剣星の身体が爆弾めがけて飛ぶ。
彼はそれを優しく掴み、続いて全力で空高く投擲した。

直後に起こる爆発。
かなりの火力を有していたらしいそれは、かなり高い位置にあってもかなりの余波を生む。
幸い、辛うじて怪我人こそ出る事はなかったが、それでも舞い上がった土埃などで皆汚れだらけのあり様。

まぁ、そんなものは結局風呂にでも入れば解決する事だ。
だから、問題だったのは……

「みんな、大丈夫かよ!」
「僕達は、なんとか」
「翔も大丈夫です」

キャロの上に覆いかぶさる様にして守ったエリオと、同様に翔を守ったギンガが答える。
しかし、突如アパチャイの顔が強張る。
その視線の先には、先の爆発の余波を受けたと思しき小鳥の姿。

「……おろろろろろろろろろ!!!!」
『ビクッ!?』
「やばだばどぅ―――――――――――!!!」

叫ぶと同時にいずこかへと跳躍するアパチャイ。
その姿は瞬く間に見えなくなり、皆はその豹変ぶりに唖然としていた。

「あいや~」
「怒らせてはならないものを怒らせてしまいましたねぇ」
「そう言えばさっきの人は………逃げたみたいですね」
「無駄なのにね」
「「ですね」」

本来、美由希が片を付けるべき事なのかもしれないが、最早彼女に出番はない。
今日、御礼参りにやってきた連中は、逃げた者も含めて壊滅することになるだろう。
なぜなら、彼らは「死神」を怒らせてしまったのだから。
アレに目を付けられれば、たとえ地球の裏、次元世界の果てに逃げても追ってくるだろう。

とりあえず、巻き添えを食った哀れな小鳥を治療し、アパチャイの帰りを待つ。
数秒後、この世のものとは思えぬ悲鳴が上がるのだった。



  *  *  *  *  *



場所は変わって海鳴市内のスーパー銭湯。
先の爆発のおかげで汚れに汚れた事もあり、風呂に入ってさっぱりしようと言うのは自然な流れ。
ただ、あのコテージには風呂はなく、さすがに湖で水浴びという季節でもない。
何より、そんな事をしているとどこぞのエロ親父が何をするかわかったものではないだろう。

一応まだ任務中ではあるが、サーチャーからの連絡を待つのはどこにいても同じ。
デバイスさえ持っていればいいわけだし、同時にデバイスさえあればすぐに戦闘態勢に入れる。
なので、別に銭湯に行っても何も問題はない。

まぁ、問題があったとすれば、あのナリのヴィータが「大人」と主張するくらいか。
どうも、どっからどう見てもエリオやキャロより年下と言う自覚は薄いらしい。
その点、アルフはよく開き直っていると言える、潔い事だ。

ああ、あと些細な問題がもう一つ。
キャロやフェイトを始め、揃いもそろってエリオと翔を女湯に誘う事。

「ほら、注意書きに『女湯への男児入浴は、11歳以下のお子様のみでお願いします』って。エリオ君、十歳」
「ぃ…ええ!? でも、キャロ…その、ええっと……」
「折角だし、エリオも一緒に入ろうよ。エリオと一緒のお風呂は久しぶりだし」
「フェイトさんまで!?」

他の面々の反応も似た様なもの。
まぁ、エリオの事を『男』として認識していないからこそだが。
その点において、エリオと翔は同列と言えるかもしれない。
なにしろ、翔は翔でギンガに誘われているのだから。
ただ、その影でこそこそと女湯へ向かう変態が一人。

「二人だけじゃ心配だし、おいちゃんも一緒に行ってあげるかね」
「師父はこっちです!」
「ああ~、兼ちゃんのいけずぅ~」
「まったく、弟子の弟子に色目を使わないでください!」
「別にギンちゃんが目当てなわけじゃないね! おいちゃんはただ、この世の桃源郷に挑むだけね!」
「どちらにせよ性質が悪い事に変わりはありません!」
「じゃ、じゃあ、僕は兼一さん達と入りますから! それじゃ!」
「あ、僕も~」

まるでどころか、文字通り逃げ出す様にして兼一の後を追うエリオとそれに付いて行く翔。
ギンガはどこか寂しそうにそれを見送り、フェイトは怨みがましい視線を兼一達の背に送るのだった。

しかし、その時は誰も気づかなかった。
男湯へと潜入する、桃色の髪をした小さな影の存在に。



「さて、それじゃまずは軽く身体を洗おうか。特に僕たちは泥だらけだし」
「「は~い」」
「……はい」

元気よくお返事するお子様二人と、どこかガックリと消沈した様子のエリオの声。
無理もない。ようやくキャロとフェイトの「お願い」攻撃を振り切ったと思ったら、今度はキャロの方が突撃してきたのだから。

「じゃ、エリオ君が僕の前でその前に翔。キャロちゃんは僕の背中をお願い」
「「「はい」」」

ちなみにこの布陣、キャロの存在に狼狽しまくりのエリオに配慮しての物。
この段階で既に真っ赤になっていると言うのに、キャロに洗わせたりキャロを洗ったりしたら確実にオーバーヒートする。せめて、少しでも落ち着かせる為に前後を男で固めたと言うわけである。

「それと、アヴェニス一士も何かわからない事があったら……って、もういないし」

どこまでも単独行動が好きらしく、気付いた時にはすでに影も形もない。
浴場に入って一歩で行方をくらませるとは、中々の穏行だ。
とはいえ、兼一としてもあまりコルトの事ばかりを気にかけてはいられない。何しろ、一番の問題児は別にいる。

「あと…………………師父はくれぐれも普通にお風呂に入ってくださいね」
「………………………なんのことかね?」
「今日は子ども達もいるんですよ! あまり恥ずかしい真似はしないでください! もう遅い気もしますけど……」
「そうね、もう手遅れね! だから、後は突っ走るだけね!」
「開き直らないでください!! アパチャイさん、これちゃんと見張っといてくださいね」
「アパ! アパチャイに任せれば万事休すよ!」
「万事オーケーでお願いします、心の底から」

人はいれども頼りになる者のなんと少ない事か……この状況を一言で言い表すなら「孤立無援」。
ある意味、今兼一は何よりも過酷な戦場にいるのかもしれない。



   *  *  *  *  *



ところ変わって女湯。

「うははは、なんちゅかもう…………堪らんなぁ~」
「はやて、とりあえずその笑いやめなさい、おっさん臭いわよ」
「む、失敬やなアリサちゃん。花の19歳に向かって」
「だから、どっからどう見ても19の女が浮かべる笑いじゃないでしょうが。
 私達はアンタのそれには慣れてるから良いけど、あの子たちが見たら引くわよ」

アリサの言う通り、はやての表情はまるで下卑たオッサンの様。
正直、女性が……それも二十歳前の乙女の表情では断じてない。
彼女を尊敬しているスバル…は微妙だが、ティアナが見たら色々とショックが大きいだろう。

いや、仮にこの笑みをやめたとしても、この手がある限り同じ事か。
何しろ、アリサに注意されている間も間断なく、まるで別の意思を持っているかの様に動き続けているのだから。

「ぁ、ん…ちょ、はやてちゃん」
「ふぁ、こんな…ところで……んぅ」
「ほほぅ、それは場所を改めればええちゅうことか? そう言う事なんか?」

なのはとフェイト、二人の反応に気をよくしたのか、さらに激しさを増すはやての指先。
外野ではスバルが「おお! さすが部隊長!!」と感動し、それを後ろから見ていたティアナは「いっそ殺してでもこいつを止めるべきか」悩んでいる。
つまり、アリサの危惧は既に意味をなくしていたのだ。

「なぁ、いい加減止めた方がよくねぇか?」
「なら止めてくれ。私はもう諦めた」
「安心してええで、あとでシグナムとヴィータもちゃぁんと揉んだるからなぁ!」
「「ああ~……」」

はやての事は従者として慕っているし、家族として愛してもいる。
が、本当にこればかりは頭が痛い二人。

「はやてちゃん、楽しそう……」
「最近は忙しくてあんまりセクハラ出来てませんから、ストレスがたまってたんでしょうね」
「なぁ、シャマル。かなりヤバい事言ってるって自覚あるか?」
「あら、別にあれくらいいいじゃないの。アルフもやってもらったら?」
「遠慮しとく。つーか、トップがセクハラ上司で大丈夫なのか、機動六課?」
「はやてちゃんのはセクハラじゃないよ。女の子同士の、楽しいスキンシップ、ですよねシャマルさん」
「はい♪」
「そりゃ本人は楽しいだろうけどさ……」

シャマルとすずかの会話に、呆れて溜息しか出ない。
とりあえず、今被害を被っているなのはとフェイトはそれほど楽しそうには見えない。
で、そんな若い衆を見守りながら、それを横目に身体を洗う年長者二人はと言うと……。

「いやぁ、みんな若いねぇ」
「エイミィ、一応私たちまだ二十代だよ」
「でも、カレルとリエラの友達からしたら、私はもうおばさんだけどねぇ……」
「それは、同い年の私もおばさんって事?」

確かにエイミィの言う通りなのかもしれないが、未婚の二十代でおばさんはきつい。
少なくとも、三十路を越えるまではその呼称はご遠慮願いたい美由希。

「そんな事言うなら、美由希ちゃんも結婚すればいいじゃん」
「……エイミィ、誰も彼もが相手がいるわけじゃないんだよ?
 エイミィとかほのかの方が珍しいんだから。それに、私だって別に遅いわけじゃないし」
「でも、最近同級生で結婚する人が多いんだよね」
「お願い、言わないで。結構焦ってるんだから」
「ははは、ごめんごめん」

エイミィに悪気はないのだろうが、それでもとんと相手ができない美由希へのダメージは大きい。
間違いなく美人なのだが、その家事能力の低さと戦闘能力の高さが原因なのだろうか。

「まぁ、なのはちゃんはなのはちゃんでリーチが掛かったまま、一向に上がれないわけだけど……どっちが先になるのかなぁ?」
「うぅ、なのはには負けたくないなぁ…でも、なのはにはユーノ君がいるし……」
「というか、下手するとリーチで終わっちゃうかもだよ。本人、リーチが掛かってる事に気付いてないし」
「……それはそれで、ちょっと心配」
「可愛い妹には、ちゃんと幸せになってほしいもんねぇ」
「ホントに。お姉ちゃんを心配させるのもほどほどにしてほしいよ」
「全く」

仕事一辺倒で、どうにも色恋に疎い妹達。
その上、二人揃ってシスコンの兄がいる。恋愛や結婚となると、人一倍障害が大きいのだ。
なのはは相手がいるだけマシだが、フェイトには本当に頑張ってほしいと思う。

ちなみにこの二人、もちろん兼一とフェイトが夜な夜な勉強会を開いている事など知らない。
まぁ、別に後ろ暗い事はしていないので、知られたからどうという事でもないだろうが。

とそこで、唐突に背後を振り返る美由希。
そこにいたのは兼一が弟子取った少女の姿。

「たしか、ギンガだよね。兼一さんのお弟子さんの」
「あ、はい」
「ふ~ん」

まじまじと、上から下までギンガの身体を観察する美由希。
その視線に若干の居心地の悪さを感じるギンガだが、美由希の顔に浮かぶ笑みに戸惑いも覚える。

「あの、なにか?」
「ああ、ごめんね。何ていうか………兼一さんらしい鍛え方をしてるなぁって」
「え?」
「相当念入りに、しつこい位基礎をやってきたでしょ」
「わ、わかるんですか!?」
「まぁ、身体つきとか身のこなしとか見ればそれなりにね」

服越しだとさすがにわかりにくいが、これだけはっきり見えれば彼女には一目瞭然。
なにより、兼一の修業風景を知る彼女としては、彼がやりそうな事もいくらか想像がつく。

「まだ弟子を取る気はないつもりなんだけど、あれを見ちゃうとちょっと羨ましくなっちゃうかなぁ」
「あれ?」
「兼一さんがギンガを見る目がさ、凄く優しいんだよね。
 なんていうか、大事な宝物を見るみたいに。よっぽどギンガが大切なんだと思うよ」
「そ、そうですか……///」

美由希の発言に、顔を赤くして恥じらうギンガ。
兼一が自身に向ける愛情が、あくまでも師弟愛であり親子の情のそれに近い事はわかっている。
それでも嬉しいと感じるのは確かだ。まぁ、僅かにそれ以外の物がないことに不満を感じないでもないが。
そのまま二・三言葉を交わし、ギンガは湯船の方へと向かう。
それと行き違う形で、トテトテと駆け寄ってきたのはリイン。

「あ、美由希さん、エイミィさん」
「おお、リイン。ほら、こっち来なよ。頭洗ってあげるから」
「むぅ! エイミィさん、もうリインは子どもじゃないんですよ! 頭くらい自分で洗えますぅ!」
「あははは、まぁ良いじゃん。久しぶりに洗わせてよ、リインの髪ってきれいだからさ」
「そ、そうですか?」
「そうそう」
「じゃ、じゃあしょうがないですね。特別に洗わせてあげるのです!」
(エイミィの口が上手いのか、それともリインがちょろいのか……)

恐らく両方なのだろうが。
だが、エイミィの膝にちょこんと座ったところで、リインがある事に気付く。

「美由希さん、何してるですか?」
「ん? ちょっとね、用心しておこうかなと」
「用心、ですか?」

美由希の手元には、これでもかとばかりに石鹸やシャンプーを溶かした混合液。
彼女はそれを念入りにかき混ぜ、さらに石鹸を塊で、シャンプーをボトルで投入していく。
最早、水に石鹸やシャンプーが溶けているのか、あるいはせっけんとシャンプーの混合液を水で割っているのか判別がつかないレベルだ。

「うん。たぶん、そろそろ……」

そこまで言ったところで、突然浴場内に響き渡る「パンッ」と言う小気味よい音。
瞬間、美由希は混合液の入った桶を掴み、渾身の力でその中身をぶちまけた。
狙いは男湯と女湯の境界となる壁の上。
僅かな隙間のあるそこへ、針に糸を通す正確さで混合液が飛んだ。
混合液は何かと衝突し、続いて壁の向こうから落下音が響く。そして……

「ぎゃぁぁぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁ!?
 眼が、眼がぁぁぁぁぁあっぁぁぁっぁ~~~~~~!?」
「え? 今のって……」
「馬、先生ですね」
「馬さんがいる時にお風呂に入る時は気をつけないとね、いつ覗かれるかわかったもんじゃないし」



  *  *  *  *  *



そんな感じで、色々とすったもんだはあった物のとりあえず風呂から上がった面々。
結局翔とエリオはあの後女湯に入ったようだが、翔は特に気にすることなく、エリオも気恥ずかしそうにしながらもなんとか無事帰還。
翔は疲れたのか、今は兼一の背中でスヤスヤと夢の中だ。

そして、丁度その時ケリュケイオンとクラールヴィントにサーチャーからの反応が入った。
場所は河川敷。
シャマルとリイン、それにはやてがティアナの幻術で姿を隠しながら、結界及び管制と探査を担当。
白浜親子と現地住民一同を除き現場に急行しようとしたのだが……

「アパチャイ、軽くいってぶっ壊してこようか?」
「いいですから。というか、高い物なので壊しちゃダメです」
「ほら、早くいくと良いね。アパチャイはちゃんと抑えとくからね」
『は、はぁ……』

促されるまま、ロストロギアを追って移動を始める六課の面々。
翔を背負った兼一は、他の面々と共に先のコテージへと戻る。

「ま、何はともあれ兼ちゃんもギンちゃんも、それに翔も元気そうで何よりね」
「はい。長老や岬越寺師匠、しぐれさんにもよろしく伝えてください」

その道中、皆の数歩後ろを歩きながら言葉を交わす師弟。
話の内容は機動六課での出来事や、梁山泊の近況など。
だがそこで、唐突に剣星は話題を転じる。

「兼ちゃん。ちゃんと、あの子たちを支えてあげるね」
「え?」
「特にあのちっちゃい子二人は、親の愛情に飢えているように見えたね。
 兼ちゃんはあの子たちの親にはなれないかもしれないけど、それでも親代わりにはなれるね。
 あのフェイトちゃんと言う子が母親代わりなら、向こうでの父親代わりは兼ちゃんの仕事ね。
 幸い、二人とも兼ちゃんの事が好きみたいだしね」

先ほど、風呂の前に身体を洗いあった時キャロは言った。「こうしてると、なんだか兼一さんお父さんみたいですね」と。キャロがその能力の高さから一族を放逐された事は兼一も知っている。
色々言いたい事はあるが、その場にいない者に何を言っても仕方がない。
エリオの事情はまだ詳しく知らないが、彼も本局の施設で育ったとか。
剣星の言う通り、確かに二人は親の愛に飢えているだろう。
その全てを補ってやれるとは思わないし、フェイトほどの事が出来るとは思わない。
それでも、剣星の言う通りできる限り支えてやりたいと思う。

(そう言えばエリオ君、『師父』って言葉をちょっと気にしてたような……)

師父とは、つまり『師匠』同じ意味の言葉。
だが、その字面からは「師匠」以外に「父」という意味も含まれる。
以前その事を話した時、エリオが少々興味を引かれた様子だったのを思い出す。

「他にも癖や事情のありそうな子が多かったし、中々面白そうな所みたいね」
「まぁ、確かに」
「特に、あのコルトと言う子と、ティアナちゃん。あの二人は要注意ね」
「……」
「二人とも、ちょっと危うい所があるね」

それは、兼一もわかっていた事だ。
コルトはあからさまなのでわかりやすいが、ティアナも密かに危うい所がある。
彼女は克己心が強い。それは良い事なのだが、それがかえって自分を追い詰めている節がある。
それが転じて、ただ力だけを求める様になってはしまわないか。
兼一としては、それが心配の種の一つ。

「わかっている…つもりです」
「ならいいね。兼ちゃんは兼ちゃんが良いと思うようにすればいいね。
まぁ、ティアナちゃんは特別な才能はなさそうだけど、その分兼ちゃんと気が合うかもね。
 あ、でも兼ちゃんよりずっと筋は良さそうだし、そうでもないのかね?」
「どうでしょう?」

兼一としては、ティアナには若干避けられている気がしないでもない。
その理由がさっぱりなので、彼としては首をひねるしかないのだが。

「……」
「空気が変わったね。この様子だと、あっちも終わったようだし、そろそろお別れかね」
「そうみたいですね。今度はちゃんと休暇を取って帰ってきますよ」
「ギンちゃんや翔の成長と、土産話を楽しみにさせてもらうね」
「はい、必ず」

こうして、再会と出会いに満ちた機動六課の出張任務は終わりを告げた。
この日の再会と出会いが、各々の心にどのような影響を与えたのか。
それとも何の影響も与えなかったのか、それはまだだれにもわからない。






あとがき

相も変わらずどうにも短くまとめられません。
切ろうと思えば切れるのですが、なんかおさまりが悪いので切りたくないんですよね。
とりあえず、戦闘シーンやら風呂場のシーンはひたすらシンプルに。
今回のメインは戦闘じゃありませんし、風呂場は色々な人がやった分どうにもアイディアが……。

さて、次回は今のうちにやっておきたい日常編。その後、前半の山場の入り口アグスタですね。
あらかじめ言っておくと、ティアナをめぐって兼一となのはがバトル、って事にだけはなりません。
鍵を握るのは兼一……と言うよりも、アイツですね、アイツ。うん。



[25730] BATTLE 25「前夜」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/10/18 01:15

森林地帯へと設定された機動六課訓練場。
緑に溢れた視覚に優しいその場所で、今日も今日とて一人の少女の絶叫がこだまする。

「あああああああ! 滑るぅ~~~!!!」

ギンガが握っているのは投げられ地蔵の脚。
両手に一体ずつ地蔵を掴み、それを大きく旋回させる。
物が物なので尋常ではない風切り音がするのだが、妙に光沢があるのは気のせいか。
しかし、そんな事を気にする余裕など与えられる筈もなく、ギンガに向けて叱責が飛ぶ。

「ほら、握りが甘くなってる! ちゃんと掴んでないと……」
「あぁっ!? すっぽ抜けた!?」

ギンガの右手から離れ、水平に飛ぶ投げられ地蔵。
重量にして数十キロを超えるそれだ、もし人に当たれば大惨事。
そして、その飛ぶ先には先ほどギンガを叱責した師の姿。

「ほら、こういう事になる」

目前まで迫った投げられ地蔵の頭を鷲掴みにし、ゆっくりと地面に下ろす兼一。
それを見て、ほっと一息つくギンガ。心配するまでもない相手とわかっていても、感情は別だ。

「………はぁ。あの、ごめんなさい」
「うん、一応みんなと離れたところでやってるけど、少し危ないからね」
(少し、じゃないよね、どう考えても)
「しっかり掴んで、絶対に離さない事。当然、僕がいない時もこれは無し。いいね?」
「……はい」

師からの厳しい言葉に、若干うなだれるギンガ。
兼一がいればすっぽ抜けてもリカバリーが効くが、いない者には何もできない。
効果的な修業ではあるのだが、危ない物は危ないので、ちゃんと師の監視下でやるのが望ましいのだ。

「じゃ、続きだ。ほら」
「っと!」

兼一は一端地面に下ろした投げられ地蔵を弟子へと投げ、ギンガはその足を掴んで再度旋回を開始する。
ギンガの額には弾の汗が浮かび、両腕はその負荷からプルプルと震えていた。
そろそろ限界が近いのだろうが、常に限界を越えてこその梁山泊式。

ギンガの格闘スタイルは、足技より手技を主体とする。
特に、突きにおいて重要となるのは腕もそうだが背中の筋肉。
これはその両方を鍛える為の修業。

とはいえ、下半身は武術家の基礎中の基礎なのでもちろん徹底的に鍛えている。
が、弟子の長所を伸ばすのも当然。

「それにしても師匠!」
「ん? どうかした?」
「なんで油なんて塗ってるんですか!!」
「だって、その方が修業になるし」
「た、確かにきついんですけど……」
「ほら、無駄口叩かない!」
「は、はい!」

そう、投げられ地蔵に妙な光沢がある理由、それは油が塗られているから。
先日、はやてより「ヤーレギュレシ」というトルコのオイルレスリングの話題が出た。
その際思い出した事なのだが、アレは全身に油を塗りたくるその性質上、非常に摩擦係数が小さい。
レスリングと言うだけあり投げ技も多いのだが、摩擦が小さい状態での投げ技には尋常ではない力がいる。
なら、普段の修業でもその点を利用すればいい修業になると考えた結果がこれだった。
ギンガの様子を見るに、とりあえず今のところは功を奏しているらしい。

(さて、これが終わったら地蔵を担いで坂上り。それから……ああ、サンポススンデサガレバジゴクもいいな。
 折角、岬越寺師匠に送ってもらったのを組んでくれたんだし)

ギンガの修業を見守りつつ、この後の修業メニューを思い返す。
らしいと言えばらしい話だが、その八割は基礎。
もちろん、坂上りとサンポススンデサガレバジゴクの際には脚にたっぷりと油を塗るつもりでいる。
そうなると、滑る足元を掴む為に足の指が鍛えられるし、踏ん張る為に足全体に負荷がかかると言う次第だ。
どうも味をしめたらしく、最近の兼一のマイブームは油らしい。
ちなみに、嬉々として組んだのはシャーリーの仕業である。

(それにしても、中々上手くいかないなぁ……)

最近、ある技に関する上達が見られない弟子の現状に悩む。
人に何かを教えると言うのは、存外難しい物。
人一倍苦労して技を覚えてきた分、基本的に兼一はどこかで躓いても適切なアドバイスができる方だ。
しかし、それでも兼一の指導歴の浅さは埋めきれない。
元々要領も悪く、あまり器用ではないのだ。

その上、その技と言うのが『流水制空圏』なのだから無理もないだろう。
無敵超人が誇る百八つの超技の一つ、修得が困難なのは必然。
とりわけ、兼一もあの技を習得したのは死闘の中での事。
原理も極意も理解し、言葉で説明できるとしても叩きこむのは難しい。

制空圏を薄皮一枚まで絞り、相手の動きを流れで読む、それが流水制空圏。
だが、それではまだ不完全。
流水制空圏の完成形は、目の光から相手の心を読み、相手を自分の流れに乗せてしまう事にある。
今のギンガは第2段階「相手の動きと一つになる」まではできるのだが、中々その神髄たる第3段階へと至れない。それが、目下のところ兼一の最大の悩みである。
とそこで、少々離れたところから火柱が上がった。

「ああ、シグナムさんもやってるなぁ……」
「アヴェニス、死んでませんかね?」
「まぁ、その辺は大丈夫でしょ。仮にシグナムさんが手加減があんまり得意じゃなかったとしても、非殺傷設定があるわけだしね」

新人達が個別スキルに入ったのと時を同じくして、コルトの訓練にも変化が生じた。
アレの性格上、実戦に近い訓練を積むのが最適と判断し、とにかく六課上層部との模擬戦の機会を増やしたのだ。で、今日の担当はシグナムだったと言う事。
普段あまり訓練に参加できない事を少々気にしていたのか、最近のシグナムは生き生きしてきた。
なので、ギンガとしてはむしろやり過ぎないかどうかが心配になってくる今日この頃である。

「ギンガもやってもらう?」
「あ、あははは……師匠との修業だけで精一杯ですよ」
(ま、あの技の修業の時は手伝ってもらうつもりだけど)
「何か言いました?」
「いや、何でもないよ」

別に兼一一人でも教えられるのだが、その技を教えるにはシグナムなどの協力があった方が良い。
実際、兼一自身も技を教わったのとは別の師にその稽古をつけてもらっていた。

「そう言えば、突然みんなとの組手が増えましたけど、アレってなんなんですか?」
「まぁ、みんな投げ技とか関節技の経験がないからね。ちょっと経験を積ませようって話になってさ」
「はぁ……」

恐らく、ギンガも薄々その意図には気付いている筈だ。
以前戦った、中国拳法やムエタイを使う自律行動する人型機械兵器。
皆との組手が、その対策の一環である事に。

ギンガは兼一より空手と柔術、中国拳法にムエタイを習っている。
一人でYOMI四人分の武術をカバーできるので、対策訓練の相手にはもってこい。
兼一だと力の差があり過ぎるので、実力が近い者とやる方が訓練になると言う考えもある。
ギンガ自身、いつも兼一ばかりではなく、別の誰かを相手に技を試すのは良い練習になるのだ。
もちろん他の武術に関しても対策は練っているが、不慣れな投げや関節、締めへの対策が急務。
そう考えてのギンガとの組手である。
ちなみに兼一も参加しているのだが、みんなからはちょっと恐れられていたりするとかしないとか。

「さて、そろそろ次の修業に移ろうか」
「はい!」
「うん。じゃ、まずは……」



BATTLE 25「前夜」



時刻は昼過ぎ。
昼食を終え、書類仕事にも一段落ついたギンガは師を探して寮を彷徨っていた。

目的はもちろん、修業を付けてもらう為。
ギンガ自身、流水制空圏を完全な物にしたいという焦りがないわけではないのだ。
思うようにいかない事へ、師の期待に応えられない不甲斐なさへの、そう言った様々な物がないまぜになった焦りが。

「おっかしいなぁ……師匠、どこにいるんだろう?」

いくら探せど姿は見えず。
兼一がいそうな所はだいたい見当がついているのだが、全てを見て回っても見つからない。
同様に、大抵は兼一と一緒にいる翔の姿もだ。

「もしかして……どこかに出かけてる?」

外出の場合には連絡が入る筈だが、急ぎの用の場合はそれが行き届かない事もある。
いくら探しても見つからないのなら、その可能性が高いだろう。
とはいえ、いくら急ぎでも上司への報告くらいはしている筈。
そんなわけで、寮を出て部隊の総元締めに直接聴きに行こうとする。
が、丁度寮を出たギンガの前に現れる思わぬ障害。

「あら、ギンガ、いい所に!」
「え? アイナさん?」

そこにいたのは、両手に大荷物を抱えた寮長のアイナ・トライン。
あまり普段一緒にいる事がないので忘れがちだが、そう言えば彼女も兼一の上司の筈。
それを思い出したギンガだが、それを聞く前にその荷物を押し付けられた。

「丁度よかったわ。これ、お願いね」
「へ? なにを…って、洗濯物…ですか?」
「ええ。今日は天気が良いからよく渇いたわ」

額に浮かんだ爽やかな汗をぬぐう。
六課は前線に出る者こそあまり多くないが、それでも一部隊。人数はそれなりの物。
そのほとんどが寮住まいなので、必然的に洗濯物の量も相当な物になる。

で、それを洗って干すのはバックヤード陣の仕事だ。
何しろ、個別にやるより纏めてやってしまった方が水道代、洗剤代、時間、全てにおいて効率的。
というわけで、別にアイナが洗濯物を手渡ししてくる事自体は不思議でもなんでもない。
時間がある時、今回の様にたまたまた洗濯物を取り込んだ所へ通りがかった時にはよくある事だ。
なので、それは良いのだが……

「あのこれ、私のじゃないですよね?」

そう。今ギンガの手元にあるのは、どう見てもギンガの物ではない。
というか、間違いなく男物。つまり、スバルやティアナ、キャロの分ですらない。
同じ女子寮の分を渡されるのならわかるのだが、何故男子寮の分を……

「ええ。それ、兼一さんと翔、それにエリオ君の分よ」
「ああ、そうでしたか。道理で小さいのも混ざってると思ったら……って師匠のですか!?」

さらっと渡された情報に、一瞬普通に頷くが、ギンガの表情は訳を理解した途端に驚きに染まる。
別に兼一の洗濯物が珍しいわけではない。が、大なり小なり気になる男の物となれば話が別。
108にいる間は、ギンガが年頃と言う事もあり別々に洗濯していたので触れる危機はなかったのだが、まさかこんな所でいきなりそれを受け取ることになろうとは……。

「で、でもそんな! いきなり渡されても…その、困ります!」
「ごめんなさいね。でも、今ちょっとたてこんでて……お願い!
 部屋の前にカゴごと置いててくれれば良いから!」
「あ、ちょっと……」

引きとめる間もなく、そそくさとその場を後にするアイナ。
確かに、男が女子寮に入るのには山ほど制限が掛かっているが、その逆は特にない。
なので、別にギンガが男子寮に入って兼一達の部屋の前にこれを置いてくる事は簡単だ。

そう、簡単な筈。なのに、ギンガはカゴに入った洗濯物に目を落とし途方に暮れる。
やる事はわかっている、その為の手順など考えるまでもない。
にもかかわらず、頭が働いてくれずに呆然と立ち尽くす。

とはいえ、いつまでもそうしてはいられない。
何より、ギンガの僅かに残った冷静な部分が彼女を動かす。

「と、とりあえず、部屋の前においてくればいいのよね。そう、それだけ。それだけ……」

誰に言い聞かせるでもなく、そんな事をぶつぶつと呟くギンガ。
彼女はどこか頼りない足取りで男子寮へと入り、目的の部屋を目指す。
日中と言う事もあり、当然ながら寮内に人影はない。

よく手入れのされた白い壁が陽光を照り返し、床を踏む靴音が朗々と響いていた。
どこか現実感のないその状況に、ぼんやりと思考力がマヒしていく。

気付けば兼一達の部屋の前。
ギンガは軽くその扉に手をかけ、特に意味もなくドアノブを回してみる。

「……やっぱり、開かない…か」

何故そんな事をしたのか、それはギンガ自身にもわからない。
開かないと言う事実を残念に思ったのか、それとも安堵したのかすら。
ギンガはその場で小さくため息をつく。

「まったく、何やってるのかな、私」

呆れたように天井を仰ぎ、肩の力を抜く。
自分で自分の事がよく分からないが、どうも調子がおかしい事はわかった。
今思い返せば、ここに来るまでやけに心臓が早く脈打っていた気がする。
何に緊張していたのか、何を期待していたのか。本当にわからないことだらけだった。

ギンガはなんとはなしに廊下に人がいない事を確認。
続いて視線を落とし、抱えたカゴを見る。
どうやら、一番上にあるのが兼一の分らしい。

「少しくらい……いいよね?」

何が少しなのか、何が良いのか。それを考える能力は今のギンガにはない。
ただ、吸い込まれるように顔を近づけ……軽く埋めた。
そのままゆっくりと息を吸い……

「あれ? ギンガ、こんな所でなにしているの?」
「ひゃい!?」

込もうとしたところで、誰もいない筈の真横から声が掛かった。
ギンガは反射的に顔を話し、カゴを廊下に叩きつけるようにして下ろす。
僅かに惜しむ気持ちが胸の奥に芽生えるが、無意識のうちに押し殺すことで忘れ去る。
これは、まだ自覚してはいけない感情だから。

とはいえ、その顔は真っ赤に染まり、肩は小刻みに震え動揺を露わにしている。
声がした方へ顔を向ければ、そこにいたのは本来あり得ない筈の人物。

「な、なのはさん?」
「うん」
「こ、ここここここれは、そそそその…ぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁなんと言いますか……」
「もしかして、ギンガもアイナさんに何か頼まれた?」
「そ、そうです! そうなんです!! せ、洗濯物を頼まれまして!!」
「そ、そう?」
「そうなんです!!!」

その問いに、これぞ天の救いとばかりに食いつき必死に主張するギンガ。
なのははそんならしくないギンガに呆然とし、ポカーンと間抜け面を晒している。

「私もね、みんなへの手紙を頼まれちゃって……」

基本的に、六課職員への手紙は隊舎にまとめて送られてくる。
まぁ手紙と言っても、このご時世なので知人からと言うものはほぼ皆無。
大半がダイレクトメールだったり、保険会社やカード会社からの明細の類だ。

(何ていうかアイナさん、肝が据わってるなぁ……)

正直、あの『高町なのは』に雑用を押し付けられるその図太さは凄まじい。
大抵の者は尻込みしてしまうだろうに、アイナにそんな様子はない。
暇そうにしていれば部隊長だろうが神だろうが使う、彼女はそんな女性らしい。

「でもここにいるって事は、それ兼一さんの洗濯物?」
(ここはスルーしてくださいよ! いつもは師匠並みかそれ以上に鈍いのに!?)

テンパっているからか、割と失礼な事を考えてしまう。もちろん自覚はない。
しかし、色恋沙汰にはとんと疎いなのはだが、どういうわけか今日に限って妙な所で目ざといのはどういう事なのだろう。

「そういえばさっきのギンガ、やけに洗濯物に顔が近かったような……」
「っ!?」
「ううん、むしろ……」
(ああ~、詮索しないで! 思いだそうとしないでください~!!)

というか、そもそも綺麗さっぱり忘れて以降一切気にしないでほしい。
そんな切実なギンガの願いだが、どうやらそれは聞き入れてもらえなかったようだ。
なのはは詳細を思い返し、そこでようやくその意味を理解した。実に鈍い。

「ぁ、もしかして………そう言う事?」
「ど…どういう事でしょう? 私にはさっぱりなんのことやら……」
(眼がものすごい泳いで汗びっしょりなのに、それで誤魔化してるつもりなのかな?)

挙句にチワワの如く、あるいは油の切れたロボットの様に震えているのだから。絶対に何かあるのは間違いない。
それこそ、“あの”なのはですら勘づくほどに今のギンガは挙動不審なのだ。

そして、幾ら鈍くてもなのはとて年頃の乙女。
正直、色恋沙汰には疎くとも人並みに興味はある。

「へぇ~、ギンガが兼一さんをねぇ~」
「で、ですから何の事ですか!? わ、私は別に師匠の事なんて……」
「何とも思ってない?」
「も、もちろん武術家として、弟子としては尊敬してます!」
「それだけ?」
「………………」

なのはには珍しい、ニヤニヤとした笑み。
その眼は好奇心に満ち溢れ、ただで返してくれるとは思えない。
だが、ギンガとて手札はある。直接の面識はないが、なのはにもそういう相手がいる事は知っているのだ。

「と、所でなのはさん。スクライア司書長とは最近どうなんですか?」
「え? そうだねぇ、様子を身に行けないからちょっと心配かな?
 アルフが時々見てくれてるけど、ちゃんとした物食べてるかとか、部屋の掃除はしてるかなとか。
 でも、ギンガってユーノ君と知り合いだったっけ?」
「あ、いえ。ちょっと小耳に挟んだ事がありまして。やっぱり、会えないとさびしいですか?」
「まぁね。だって十年来の友達だもん」

ギンガが言葉の裏に隠した意図を軽く笑ってスルーするなのは。
起死回生の一手の筈が、完全に空振りに終わって肩を落とすギンガ。
今ならわかる。なぜフェイト達が頭を抱えているのか、その心境が。
まったく、幾ら大切な友達でもそんな甲斐甲斐しく心配する等普通ではない。
それは間違いなく、友情ではなく愛情レベルな事はギンガでもわかる。
自分の事には気付かないのに、人の事には気付く。全く以って迷惑千万である。

「でも、相手が兼一さんとなると……………………大変だよ?」
「え?」
「知ってる? 最近、シャマル先生と一緒によくお茶会してるんだよ」
「そ、それは…一応」
「それに、少し前から夜中フェイトちゃんに勉強見てもらってるみたいだし」
「そうなんですか!?」
「二人とも満更じゃないかも…っていうのは、はやてちゃん情報だけどね」

思ってもみない情報に、狼狽を露わに顔を青ざめる。
シャマルの事は知っていたが、まさかフェイトまでとは……。
それも、はやての言う事が正しければ……それを思うと心中穏やかではいられない。

二人ともとても魅力的な女性だ。
はっきり言って、特技が「殴り合い」という自分とは比べ物にならない、と本人は思っている。
正直、兼一と並んだところを想像すると「釣り合いが取れない」と失礼な事を思う自分もいるが、人の趣味など千差万別。同性愛やデブ専等の事を考えれば、遥かに万人に理解されやすいだろう。
なにしろ、「釣り合いが取れない」と言うのであれば、翔の母である美羽からしてそうなのだから。
なら、充分にあり得るであろう可能性である。少なくとも、ギンガにはそう思えた。

(わぁ……結構あてずっぽうだったんだけど、もしかして当たり?
 だとしたら……みんな私の事をみくびり過ぎなの! 鈍い鈍いって、私そんなに鈍くないもん!)

コロコロと顔色を変えるギンガを興味深そうに見つめながら、友人たちへの不満を漏らす。
とはいえ、「あてずっぽう」な時点で充分過ぎるほど鈍い事に、本人は気付いていない。

「シグナムさんも兼一さんの前だとちょっと様子がおかしい時があるし……大変だね」
「うぅ、べ、別にそういうわけじゃ……」
(まぁ、あんまりイジメちゃかわいそうか。
 人の恋路にちょっかいかけるのも気が引けるし、ちゃんと見守ってあげないとね)

つまりそれは、野次馬根性丸出しで観察を続けると言うのと同義である。
もちろん、当の本人は善意の行為と疑ってはいない。
まぁ、基本的に他人の色恋など楽しみの種でしかないので、仕方がないと言えば仕方がないが。

「だけど、それでなくても前途多難だからねぇ」
「はい?」
「こっちにはね『結婚は人生の墓場』なんて言葉があるんだ。
 それで言うと、兼一さんはもうお墓の中。そこから引っ張り出すのは大変だよ」

亡き妻への想いを大事にするのは尊い。
美羽を知るなのはとしても、そのままでいてほしいと言う思いがないわけではなかった。

だが客観的に見て、それが正しいのかどうか、それはわからない。
新たな伴侶を得るのも一つの未来だろうし、たった一人を想い続けるのも正しい筈だ。
若いなのはにはわからない、あるいは幾ら年を取ってもわからないかもしれない。
これは、そういう命題なのだから。

「まぁ、私からは『がんばれ』としか言えないよ。もし、フェイトちゃんやシャマル先生、シグナムさんもそうだったとしても、言える事はそれだけ。どっちが良いかわからない私には、手も口も出せないから」
「…………」

なのはの言葉に、ギンガは沈黙をもって答えるしかない。
なにしろ、何が正しいかなどギンガにもわからないのだから。



  *  *  *  *  *



で、本人のあずかり知らぬ所で話題の人となった兼一は、どこで何をしているのか。
それは、先日出張任務があって行けなかった街への買い出し。
あのドタバタで忘れかけていたのだが、ふと思い出したので急遽行動に移した次第。

そんなわけで、以前の約束を守る意味で翔も一緒。
なのだが、今日はそこにさらに一名追加されている。

「へぇ、部隊長の誕生日ってもうすぐなんですか?」
「はい。なので、そろそろ見つくろっておこうかなと」
「そうでしたか。じゃあ、僕も何か用意した方が良いですかね」
「あ、きっとはやてちゃんも喜んでくれますよ」
「でも、どうにも昔からそういうセンスがなくて……手伝ってもらえませんか?」
「そうですねぇ………まぁ、アドバイスくらいでしたら」
「お願いします、シャマル先生」

元々おっとりとした気性の持ち主同士、和やかな雰囲気で歩く三人。
翔は兼一に手を引かれ、ご機嫌な様子で満面の笑みを浮かべている。

「でも、ごめんなさい」
「え?」
「ほら、あのお茶会……」
「ああ……」

シャマルの言葉に、少々困った様子の兼一。
本来はシャマルに軽く茶道の手解きをしていただけのそれが、いつの間にか話が広まり、気付けばかなりの大所帯になりつつある。
どうも良い気分転換になると言う事で、男女を問わずに人気が出てきてしまったのだ。

今回の買い出しも、その材料をそろえる意味合いがある。
本来管理外世界の物品などあまりない筈だが、ミッドには多種多様な人種が入り乱れる関係から、様々な世界の品も揃う。場所さえ把握していれば、およそここで揃えられないものはない。
少なくとも、「管理」と言う単語がつく世界の物なら。
何しろ、ミッドには和風の居酒屋まであるのだ。

「まぁ、ああいう文化が浸透してくれるのは良い事だと思いますよ」
「それはそうなんでしょうけど……」
「それに、やっぱり大勢いた方が楽しいですしね」
(私としては、静かに二人でって言うのもよかったんですけど……)

そんなシャマルの呟きに、兼一が気付く様子はない。
ちょっとした思い付きから始まったお茶会だったのだが、茶を点てる兼一の姿と空気はどこか静謐な印象を見る者に与え、シャマルはそんな時間が気に入っていた。
兼一の言う通り、大勢の方が楽しいと言うのは基本的に賛成だ。
だが、人が多くなるとあの空気が維持されない。
シャマルとしては、それはそれで惜しむ気持ちがある。

「シャマル先生、どうしたの?」
「え? ぁ、何でもないのよ。心配してくれてありがとう」

そんなシャマルの様子に気付いたのか、翔が心配そうに見上げて来ていた。
シャマルはそんな彼の頭を撫でながら、優しく笑いかけてやる。
すると、翔は父の手を離し、その小さな両手でシャマルの手を優しく包む。

特に、何か意味があっての行為ではないだろう。
単に、シャマルが少しでも元気になるならと思っただけ。
人の温もりは、ただそれだけで人の心を穏やかにする作用がある。

「ありがとう、もう大丈夫よ」
「ホントに?」
「ええ、本当。翔のおかげで、とっても元気になっちゃった♪」
「うん♪」

だが、それでも翔がシャマルの手を離す事はない。
彼は片手でシャマルと手をつないだまま、改めて空いた手で父と手を繋ぎ歩き始める。
丁度、翔を間に二人が並んで歩く形で。
シャマルはその状態に若干顔を赤くしながら、少しだけ嬉しそうにほほ笑む。
すると、それを見ていた翔もつられて笑い、二人は顔を見合わせて笑顔を向け合う。

そして、二人のやり取りを微笑ましそうに見守る兼一。
はじめは自分の我儘、弟子の為に異世界へと渡る事に躊躇いがあった。
しかし、今はそれでよかったと思える。
確かに、それまであった人間関係をほぼ白紙にする事になり、翔にはさびしい思いをさせたかもしれない。
だが、新しい人間関係を築き、その人達が翔の心を満たしてくれている。
その事に安堵し、感謝し、同時に嬉しく思う。

とそこで、シャマルの肩がすぐ傍をすれ違う女性と僅かに触れる。
見れば、それは実に仲睦まじい様子の老夫婦。シャマルと老女は軽く会釈をしてそのまま離れていく。
しかし、この喧騒の中では決して聞こえない筈のやり取りを、なぜかシャマルの耳は拾っていた。

「仲のよさそうなご家族でしたね、お爺さん」
「ああ、若い頃を思い出すな」
(え? 家族って、家族って……そう言う事!?)

空いた片手で緩みそうになる頬を必死に抑える。
つまり、あの二人はシャマルを翔の親と勘違いしたのだ。
設定年齢的には21歳のシャマルなので、それには少々言いたい事がある。
が、別の視点でものを見ると、彼らはシャマルと兼一を夫婦と思ったと言う事だ。

(わー♪ わー♪ 私と兼一さんが、その……夫婦?
 周りから見ると、そういう風に見えるのかしら?)

思い返して見ると、今日は一向に誰からも声を掛けられない。
大抵、繁華街などを歩いていると言い寄ってくる男の一人や二人はいる筈なのだが……。
偶然かも知れないが、もしかすると他の者達もそう勘違いしたからちょっかいをかけないのかもしれない。
それは、なんと言うか……………………悪い気はしなかった。

「どうしたのかな? シャマル先生」
「さあ?」

ちなみに、白浜親子がシャマルの緩みまくった顔を不思議そうに見ていた事に、彼女は最後まで気付かなかった。
それが幸運なのか、それとも不運なのか。それはきっと、誰にもわからない。



やがて、三人はミッドでも話題の大型デパートへと入る。
もちろん、地球などと言う辺境独特の品物がこんな所にある筈がない。
故に、ここは兼一目当てのものではなく、シャマルのお目当てを求めて。
とはいえ、それも微妙に違うと言うか……

「ドレスですか?」
「はい。次の任務が、とあるホテルで行われるオークションの人員警護と会場警備で。
 ああいうところは中に入るとなるとドレスコードが厳しいですから、そのために」

まぁ、確かにオークション会場内で制服やバリアジャケット姿なら浮く。
警備や警護をするのなら、そこに溶け込める服装が望ましいだろう。
兼一自身、そういう仕事の経験もあるだけにその辺りは理解できる。
実際、彼もその際にはタキシードや燕尾服等の礼服に身を包んだ。もちろん貸衣装だったが。

さらに言うと、結局ボロボロにしてお店の人に大層怒られ、ケチってはいけないと学習した。
なので、今は一応ちゃんと仕事用に持っている。

「でも、みんなエリートなんですし、そう言うの位持っていそうですけど?」
「まぁ、持ってはいますよ。でも……」
「でも?」
「折角ですし、新しいのでビシッと決めたいじゃないですか!!」
「はぁ……」

それでなくとも、三人とも身長はともかく他の部分は未だ成長中。
いや、はやては割と微妙なのだが、折角誕生日が近いのだ。
プレゼントも兼ねて、ちょっと奮発してやりたいとかそういう事なのだろう。

「それで、どんな配置なんですか?」
「新人達とギンガにコルトが会場周辺で、隊長さん達が会場内の警備ですね。
 で、私が管制を、副隊長とリインにザフィーラがさらに外を担当します。
 兼一さんには……」
「あの子たちですね」
「はい」

兼一は会場に残り、不測の事態に備えて新人達やギンガにコルトの補佐。
まぁ、これまでとそう変わらない布陣と言ったところか。
ただ、仮にも兼一はちゃんとした警備の仕事の経験がある。
その立場から言わせてもらうと……

「でも、なのはちゃん達に警備ですか?」
「ああ……」

そこを突っ込むと、あからさまにシャマルが顔を逸らせる。
どうやら、その辺りの事は彼女もわかっていたらしい。

「はっきり言って、不向きにも程がありません?」
「そ、それは……」
「いえ、部隊長は良いですよ。総責任者が安々と出張るのも問題ですし。
 だけど、なのはちゃんやフェイト隊長が会場内の警備なんてしたら……」

警備なのだから、基本的に受け身。攻められない限りは自分からは何もできないだろう。
一応外を守る面々もいるし、まず内部に入られる事はない。
が、万が一の事があるかもしれないからこその会場内警備。
その万が一が起きた時どうなるか。

「あの二人だと、会場ふっ飛ばしちゃいますよ?」

そう。あの二人に会場の警備をさせると言うのは、戦車か戦闘機を配備するのと同義。
一発でも砲撃を放とうものなら、確実に全て台無しになってしまう。
誘導弾と言う手もあるが、人でごった返す会場内ではやり辛いことこの上ない。
なにより、限定された空間ではなのはとフェイトの能力が活かせない。
あの二人は、広々とした空間で火力、あるいは機動力を存分に奮えてこそ活きるのだ。
その程度の事は、兼一でもわかる。

「そ、そうなんですけど……」
「どうせなら外は二人に任せて、副隊長達を中にした方がよくありません?」
「うぅ~」

シグナムやヴィータの場合、使う武器が武器なのでまだ向いている。
接近戦では、基本的に銃よりナイフが優れているのと同じだ。
大砲を部屋の中で使う等愚の骨頂、小回りの効く剣やハンマーの方が良いに決まっている。

シャマルとしては、これを口実に隊長達におめかしさせてやりたかったのだろう。
どうせ、もし防衛ラインが突破されそうになったら、その時は隊長達も外に出て来る。
元より、彼女とて二人が会場警備に向いていない事は承知の上だ。
とはいえ、正論で来られては強く出られない。

その上、改めて兼一が上に具申してはどうにもならなかった。
こうしてシャマルの思惑も虚しく、当日の配置場所の変更は決定される事となる。



  *  *  *  *  *



場面は戻って機動六課。
兼一は早速先ほどのやり取りを通信ではやてに報告。
配置の変更を具申すると、はやてもそれを了承した。

で、もう少ししたら戻る事を伝えた後。
今部隊長室には、はやての他に大小二つの影。

「ちゅうわけで、今度の任務ではシグナムとヴィータに会場警備を任せることになったから、二人ともそのつもりでな」
「はい」
「おう」
「それでなんやけど、二人って確かああいう所に入れる衣装とかもっとらんかったやんか。
 その辺、どうするつもりなん?」

なにしろ、守護騎士たちには少々込み入った過去がある。
そのおかげか、まずそう言った場に招かれる事はなかった。
なので、二人には格式ばった場に来て行く礼服の類…この場合はドレスなどは持っていない。
まぁ、二人ともそう言った物にあまり興味がないのもあるかもしれないが。

「そうだなぁ…そう言う事ならシャマルにでも見繕ってもらって、早いとこ揃えなきゃいけねぇかな?」
「別に貸衣装でかまわんだろう。いざとなれば結局騎士甲冑になるのだ、わざわざ余計な出費をするまでもない」
「ああ、それもそうか。あってもどうせ着やしねぇし」

予想通りと言うべきか、案の定手軽に済ませようとする二人。
確かに、絶対になくてはならないと言うわけでもないし、貸衣装でも特に問題はない。
だが、それでは満足できない人物がここに一人。

「はぁ…まぁ、そうなるとは思うとったけどな……」
「いかがなさいました、主?」
「どうしたんだよ、はやて」
「全く、二人とも素材はええんやからちゃんとおめかしせなあかんで、勿体無い」
「ですが、オークションまであまり日もありません」
「そうだぜ。今から買いに行けるほど暇もねぇしよ」

何しろ二人とも副隊長だ。当然ながらそれに見合った仕事量がある。
つまり、忙しくてそんな物を買いに行く余裕などないのだ。
まぁ、シャマルにでも頼んで買ってきてもらえばいいだけの話ではあるので、決して無理ではないだろう。
しかし、はやてはそんな必要はないと言う。

「その辺は心配いらんで。こんなこともあろうかと!!」

突然机の下をガサガサと探り始めるはやて。
それを見た二人は、言いしれない不安が忍び寄る足音を聞いた。

「なぁ、シグナム」
「なんだ?」
「あたしさ、すっげぇヤな予感すんだけど……気のせいかな? つーか、気のせいであってほしいんだけど」
「奇遇だな、私も丁度逃げようかと思っていた所だ」
「逃げるか?」
「そうするとしよう」

逃げない者は確かに勇気があるだろう、だが時には逃げる事にこそ勇気が必要だ。
大切なのは、今はどちらを選ぶべきなのか見極める事。
逃げれば良いと言うものではない。逃げなければいいと言うものでもない。
逃げるべき時と逃げるべきではない時を見極め、それを実行する勇気を持つ者。
それが真の戦士であり騎士、本物の勇者なのだ。

そして、二人は歴戦の騎士にして勇者。
誇りに囚われ、その境界を見誤る事はしない。逃げるべき時に逃げる、それは恥などではないのだから。
故に、今は逃げるべき時と判断した以上、二人の行動は早かった。
何かを探すはやてに背を向け、一目散に扉へと向かう。だが!

「これは……結界か!」

誰が張った物か、そんな事は考えるまでもない。
二人が逃げる事を考慮し、あらかじめ展開していたに違いない。
考えてみれば、二人が動いているのにあくまでも探し物を続けている時点で気付くべきだったのだ。
逃げようとしているのに追わないと言う事は、逃げられない自信があると言う事。

しかし、それ以上に特筆すべきは二人に気付かせずに結界を展開したその手際。
頭の隅で主の成長を喜びたい気持ちはある。だが、今はそれどころではない。

「どけ、シグナム! 一気にぶちぬく、グラーフアイゼン!!」
《Jawohl》

素早くデバイスを展開し、思い切り振りかぶるヴィータ。
しかし、結界に阻まれ、強行突破を決断し、デバイスを展開、そして実行に移す。
そこに至るまでの一秒程度の僅かなタイムラグ。それが明暗を分けた。

「あかんなぁ……副隊長ともあろう二人が、隊の施設を壊すんは問題やで」
「う、動けねぇ…バインドかよ!」
「く、全ては主の掌の上だったと言う事か……」

何かを振ると言う動作には、どうしても避けられない停止の瞬間がある。
体を捻り、それを元に戻そうとするその瞬間。人間の体は、一瞬だが停止する。

はやてはその瞬間を見極めバインドをかけた。
如何にヴィータが優れたパワーの持ち主でも、この体勢では思うように力が出せない。
結界の破壊に気を取られ、はやてが探し物の最中である事に油断した結果だ。
いや、そうなるように仕組んだはやてが上手だったと言う事か。

「安心しぃ、今回は別に変な物を着せよう言うんやないから」
「お言葉ですが………………信じられません」
「今までシグナムにやらせてた事考えろよ! 信用なんかできるか!!」
「悲しいわぁ……家族は信頼し合うもんやで」
「この状況で主が何をお考えになるか、それがわかっていますから。
 むしろ、主ならそうなさると“信じる”からこそです」

はやての言葉は信じていない。だが、はやてが何をするかは信じている。
これもまた、一つの信頼の形だろう。

「でもなぁ、今回はいつもと違って公共の場に出るんや。
 さすがに、そこでけったいな物は着せられへんて」
「む……」
「確かに、そう言えばそうだよな」

言われてみれば、確かにその通りだ。
オークションともなれば、当然の衆目の目に晒される。
普段は身内の間でのみだから問題はなかったが、それが多くの人の目に晒されるとなれば話は別。
おかしな格好をさせれば、六課の評判を落とすだけでは済まなくなる。

そんな事になれば、地上本部からの風当たりが強くなるだけでは済まない。
付け入る隙を与えることになるかもしれないし、本局からの覚えも悪くなる。
また、後ろ盾になってくれた人達にも迷惑がかかるだろう。
最悪、六課の運営そのものに多大な支障を生むかもしれない。それがわからないはやてではなかった。

「申し訳ありませんでした、主はやて。御無礼をお許しください」
「ごめん、はやてもちゃんと考えてくれてたんだよな。
 あたしらじゃ上手く選べそうにないし、はやてに任せて良いか?」
「うん、任された! ちゃ~んと二人に似合うのをコーディネイトしたるからなぁ~」
「まぁ、あまりきわどい物でさえなければ……」
「大丈夫やて。その辺は穏やかなもんやから」

そうして、二人は大人しくはやてが提供してくれる衣装を着る覚悟を決める。
が、二人はわかっていなかった。
確かにはやてとて時と場合くらいはわきまえる。

しかし、今はそのわきまえるべき時でも場合でもない。
それはあくまでもオークション当日。
いまはまだ、充分遊んでいい時なのだから。



故に、この結果はある意味必然だった。
二人ははやてが渡した衣装を受け取り、それに着替える。
その結果に、二人は自分達の見通しの甘さを心底呪った。

「主、これは……」
「え? ドレスやで、れっきとした」

何かを抑え、同時に絞り出す様にして問うシグナム。
はやてはしてやったりと言う顔で笑いを堪えながら、同時に会心の悪戯が成功したことに満足している。
なにしろ、いまシグナムの身を包んでいるのは、あまり一般的なドレスとは言い難い。
まぁ、確かに注文通りきわどくはないのだが……。

「これは確か、メイド服と言うものではありませんでしたか?」
「うん、ノエルさんやファリンさんが着とったのとはちょうデザインがちゃうけどな」

そう、今シグナムが着ているのは一般的に「メイド服」と呼ばれる衣装。
頭にはレースのついたカチューシャを付け、真っ白のエプロンに袖の長い黒のワンピース。
救いがあるとすれば、なんちゃってではなくかなり本格的な仕様な事くらいか。

「ドレス…ではなかったのですか?」

正直、最近散々着せ替え人形にされた影響からか、シグナムの中で意識改革の様なものが起こりつつある。
とはいえ、別にそれは前向きな物ではない、むしろどちらかと言えば後ろ向きだろう。
体操服とかレオタードとかスク水とか、そういう恥ずかしい格好をさせられる位なら、普通に可愛い格好、女性らしさを強調した格好の方が遥かにマシ、そういう風に思う様になっただけ。

だが、その甲斐あってかドレスと聞いて若干興味を引かれるようになったのも事実。
なのに、ふたを開けてみればこの有様だ。もうコスプレは勘弁してほしいのに、またコスプレ。
シグナムが受けた精神的ダメージは、思いの外大きかった。

「え? でも、これもドレスやで」
「メイド服がですか?」
「うん。それ…エプロン“ドレス”」
「あ”あ”~~~~~!」

それは盲点とばかりに、頭を抱えて唸るシグナム。
彼女がメイド服を着ると、その怜悧な美貌と刀剣の如き鋭い雰囲気もあって、「できるメイドさん」に見える。
そんな彼女が頭を抱えて唸る姿は、中々に面白い。
で、今の衣装に忸怩たる思いがあるのはなにもシグナムだけではない。

「それでさ、はやて。なんだよこのヒラヒラ」
「? 騎士甲冑もそんなもんやろ?」
「いや、いつもより十割増しじゃん……」

確かにヴィータの騎士甲冑も似た様なものかもしれないが、これには機能性の欠片もない。
典型的なゴスロリ、それも黒。普段とは比べ物にならないフリル全開の衣装は、見る者からすれば可愛らしく映るだろう。しかし、来ている本人としては動き辛い上に慣れない色合いもあって、気恥ずかしさが先に立つ。

まさか、こんな恰好で人前に出ろと言うのか。
それを思うと、ヴィータも途轍もなく気が重くなるのを自覚する。
正直、その小さな胸の中は羞恥心に任せて暴れ回りたい衝動で一杯だ。

「じゃ、早速なのはちゃんとフェイトちゃんに感想を……」
「ちょっと待て、はやて! なんでよりによってなのはなんだよ!!」
「お許しください、主! テスタロッサだけは……!!」

ヴィータとシグナムにとっては、家族を除けば特に繋がりの深い二人だ。
きっと二人の事だから温かい言葉をかけてくれるだろう。
いや、もしかしたら本心から似合っていると言うかもしれない。
だが、二人にとってはそんな物は何の救いにもならないのだ。
むしろ、逆にみじめな気持になるとしか思えない。

「う~ん、それなら…ヴァイス君とかスバル達とか…………」
「「…………」」

それはそれで嫌なのか、揃って顔を青ざめさせる二人。
はやてはそんな二人の百面相が楽しくて仕方ないらしく、零れんばかりの笑顔。

まぁ、このネタでいじる機会はまだあるだろうし、今日のところはこの辺りでやめることにする。
そう、はやてはそのつもりだった。
しかしその瞬間、突然部隊長室の扉が開く。

「すみません、部隊長。ただ今戻りました…………あれ?」
「っ!? し、白浜!?」

驚きの声はシグナムの物。
そう言えば、戻ったら今度の任務の事で話したいから顔を出すように言っておいたことを思い出す。

だが、驚いたのは兼一も同じ。
別にシグナムやヴィータがいるのはいい。
しかし、何故この二人がこんな恰好をしているのか理解が及ばないのだ。

「ええっと……」

なんとも言えない沈黙が場を満たす。
いや、ヴィータはまだいい方か。彼女の場合、単に溜め息交じりに「間の悪い奴」と呆れているだけ。
はやてははやてで、思わぬ闖入者に驚きこそしたが新たなファクターの登場にワクワクした眼をしている。

問題なのはシグナムだ。
いったいどんな表情をすればいいのかすら判然とせず、魚の様に口をパクパクさせるだけ。
てっきりヴィータやはやてなどは羞恥を露わに爆発するかと思っていたのだが、その様子がない。
むしろ、そのせいでこの後に何が起こるか予想が付けられないのだ。

そして、そんな場の空気を理解していないのか、シグナムの恰好をマジマジと見ていた兼一が口を開く。
状況は良く分からないが、あまり見ない格好をしているならそれに関するコメントをすべき、と。
そんな、彼なりに必死に気を使っての事だった。

「あぁ……とてもよく似合ってらっしゃると思いますよ」
「む…そ、そうか」
((あれ?))

思わぬシグナムのしおらしい反応に、肩透かしを食らう二人。
いつものシグナムなら、強気な態度で「世事は要らん」とか「そんな事はない」と否定しそうな物なのだが。
だが、兼一の方は相変わらずその事がよく分かっていないらしく、的外れにもとってつけたようにヴィータの恰好を褒める。

「あ、ヴィータ副隊長も可愛らしいですよ」
「あ、ああ。ありがとよ」

シグナムの様子がおかしいせいか、ヴィータも調子が狂う。
本当に、今日のシグナムはいったいどうしたと言うのか。

「でも、どうしたんですか、その格好?」
「や、やはりおかしいか? まぁ、私の様な武骨な者にこんな恰好をしても違和感しかないのは当然だが……」
(……ちょっと残念そうに見えるんは、気のせい?)

顔を逸らしながら、どこか気弱げにつぶやくシグナム。
十年来の家族だが、はやてですら見た事のない表情。
あのシグナムが、質実剛健にして謹厳実直を絵に描いた様なシグナムがだ。

「まぁ、ちょっと見ない服だったので物珍しかったのは本当ですけど……結構違和感がない気もしますよ」

何と言うかこう、先ほどシャマルと次の任務に付いて話しただけに、オークション会場で働くメイドさんとしてイメージしてみると、そう違和感は覚えない。
むしろ、てきぱきと仕事をこなし、有事の際には陣頭に立って出席者を守る。
そんな華やかでありながらもカッコイイメイドさんが浮かぶ。

「な、なるほど。お前は嘘が下手だからな、そのお前が言うのなら悪くないのかもしれん」
「シグナム、本気かよ?」

いやまぁ、確かにそれはそれでありかもしれないとはヴィータも思う。
元々はやての従者の様な事もしているし、参加者ではなく主催者側に紛れ込む事で有益な事もあるかもしれない。
だが、あのシグナムがそれを本気にすると言うのが信じ難い。
それははやてにしても同じ事。
弄って遊ぶ為のチョイスだったのが、まさかこんなことになろうとは……。

「ま、まぁ一つの案だ。まだオークションまで時間もある、じっくり考えれば良い。
 さぁ、行くぞヴィータ。まだまだ仕事は山積みだ、そろそろ戻らねばな」
「おいおい! せめて着替えてから……」

そうして、シグナムはヴィータを引きずる様にして部隊長室を後にする。
その表情が、若干上機嫌そうに見えたのは、何かの錯覚か。
いずれにしろ、これがいわゆる「塞翁が馬」と言う奴なのだろう。



  *  *  *  *  *



時は移ろい夕刻。
本日の業務も一段落し、そろそろオフシフト。
後は手持ちの書類の決裁を貰うだけと言うところで、ギンガは目当てではない部屋の前で歩みを止めていた。

見上げると、そこには「医務室」の札。
別にギンガはこの部屋に用などない。
用などないのだが……

「ぁ…兼一さん」
「大丈夫、力を抜いて」
「は、はい……ふぁ!」
「どうかな?」
「そ、その……気持ち、良いです」

とか聞こえてきて、どうして素通りできようか。
漏れ聞こえて来る声音には嫌と言うほど覚えがある。
尊敬する師と上司。兼一とフェイトの声だ。
しかも、兼一の声は落ち着いているのに対し、フェイトの声は違う。
何と言うか、妙に艶っぽいと言うか熱っぽいと言うか……。
正直、同性であってもつい頬を赤らめてしまう、そんな色気がある。

「あ、ああああああの二人、こ、こんな所で何を!?」

あまりに予想外の事態に、碌に頭が回らない。
そこでふと思い出す。日中、なのはから聞いたあの話を。

「まさか……まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか、そう言う事なの!!!」

何がまさかで、何がそういう事なのかよく理解できないながら、際限なく妄想が暴走する。
医務室、夜の帳がおりようとする時間帯、最近親密度を増した二人。
それらの情報が、益々ギンガの冷静さを削り落していく。
だがそこで、すっかりテンパったギンガにさらに追い打ちがかかる。

「へぇ、そうやるんですねぇ~」
「しゃ、シャマル先生! そこは……!?」
「いいのよ、フェイトちゃん。緊張しないで、ね?」

興味津々と言った様子のシャマルの声と、怪しい会話。
二人がかりでフェイトに何かしている、それは間違いない。では、それは……?

(さ、三人でいったい何を……!?)

手に持っていた書類が床に「バサリ」と落ちた事など気付かない、気付く余裕がない。
今のギンガには、境界線の様に立ちはだかる医務室の扉と、その奥から漏れ聞こえる声と物音が全て。
最早、普段の冷静さも状況判断能力も見る影もない。
あるのはただ、これを捨て置く事などできないと言う胸の奥に湧いた黒い炎のうずきだけ。
が、そこへ偶々通りが掛かる4…いや、5つの影。

「あれ? ギン姉、そんな所でなにしてるの?」
「す、スバル! それに……」

そこにいたのは、仲良く連れ立って歩く新人四人組。
四人は四人とも、普段と様子の違うギンガに怪訝そうな視線を向けている。

同時に、ギンガは気付く。
この奥で為されている何か、それは子ども達には聞かせてはならない。

「エリオ、キャロ!! 耳閉じて、聞いちゃダメ!!」
「え……」
「あの、ギンガさん?」
「良いから、二人にはまだ早いから!!!」
「「は、はい!!」」

何が何やらよく分からないながら、ギンガの指示に従い掌で耳をふさぐ二人。
そこで、いよいよもって様子のおかしいギンガにティアナが問う。

「あの、ほんとにどうしたんですか? なんだか、汗びっしょりですし具合でも悪いんじゃ……」
「そ、それは……」
「それに、いきなりチビッコ達に耳を塞ぐように言ったりして、何かあるんですか?」
「あ、あわわわわわ……」
「ギンガさん?」
「ギン姉?」

このままでは二人も医務室の変事に気付いてしまう、それは不味い。
何が不味いのかよく分からないが、とにかく不味いと言う事だけは悟る。
スバルはともかくティアナは鋭い。あと少し近づけば気付くかもしれない。
それは、きっと良くない事だ。

(どうする? 今からでも追い返す? でも、そんなことしたら……)

逆に怪しまれる。
ならば、みんなを連れてこの場を離れるか。全て聞かなかった事にして。

(そんなこと、できるわけないじゃない!!)

追い返すこともできない。聞かなかったふりなど以ての外。
それなら、最早ギンガに許された選択肢は一つ。
もし、もし本当に妄想通りだとしたら気不味いことこの上ない。
だが、最早それ以外に手がないのだ。

(そう、もうこれしかない。これしかないから、仕方がないの!!)

ギンガはそんな言い訳と、胸を焦がす炎を後押しに医務室の扉に手をかける。
そして思い切り息を吸い、扉を砕かんばかりの勢いで開け放った。

「な、何やってるんですか、こんな所で!!」

顔を羞恥で真っ赤にしながら怒鳴るギンガ。
しかし、そこで目にしたのは全く予想外の光景。

ベッドにうつ伏せになったフェイトと、その傍らに立つ兼一とシャマル。
フェイトの背にはワイシャツの上から真っ白のタオルがかけられ、兼一の手には細長い金属の棒…いや、針。
そして、シャマルはバインダーに挟んだ紙にペンで何かを書きこんでいた。

「ど、どうしたの、ギンガ?」

眼を白黒させ、びっくりした様子の兼一。
それはフェイトやシャマルも同様で、先ほどまであった筈の怪しい雰囲気など微塵もない。

「…………………………あれ?」

ギンガの顔からは赤みが急速に消え失せ、漏れたのは間の抜けた声。
扉の前で硬直するギンガを余所に、隙間からなかを覗き込むスバルにエリオ、そしてキャロ。

「あ、シャマル先生に兼一さん」
「って、フェイトさんまで」
「あの、何をなさってるんですか?」

皆の質問に、兼一は一端手元に視線をやる。
そして、答えた。

「なにって……………………針」


その後、しばし事の次第を説明する。
どうも連日の遅くまでの捜査でフェイトが疲れている様子だった。
それに気付いたシャマルが、そう言えば兼一は鍼灸や指圧等の心得がある事を思い出す。
栄養ドリンクの類もあるにはあるが、あまりそれに頼り過ぎるのもどうか。
シャマル自身そちらの方面にも関心があったので、勉強も兼ねて兼一に頼んだと言う次第である。

「あの、マッサージはまだ分かるんですけど、針を刺したり火のついたのなんて乗せたりして大丈夫なんですか?」
「あ、うん。特に痛かったり熱かったりはなかったかな。むしろ、気持ちよかった位だし」

ティアナの質問に、フェイトは身体の具合を確かめながら答えた。
痛いどころか、気持ちよすぎて眠りそうになった位だ。その上身体の調子もずっと良くなっている。

「鍼灸って言うのはそういうものだよ。痛みが引き、力が漲る。馬師父直伝の技さ」
『へぇ~』
「私もいい勉強になりました」

感嘆の声を漏らす子ども達と、満足げにうなずくシャマル。
その傍ら、一人早とちりで暴走したギンガは気恥ずかしそうに小さくなっている。
何を勘違いしたかは言っていない、何しろ恥ずかし過ぎる。

(あ~も~、私のバカバカバカ……うぅ)

数分前の自分をぶん殴って言ってやりたい、もっと冷静になれと。
よくよく考えれば、医務室でそんないかがわしい事をする等まずあり得ない。
その上3人とか、いったい何を勘違いしていたのだろうと。
なにより、なのはも言っていたではないか。今の兼一は、相手を女性として見る事はあっても異性、つまりそう言うものの対象として見る事がないと。

「で、ギンガはどうしたの?」
『さあ?』

というか、兼一の針や灸、それにマッサージならギンガも受けた事がある。
整体では途轍もなく痛い事をする場合もあるが、不必要に痛がらせる事はしない。
むしろ、基本的にはリラックスできるよう心地よい力加減を心がけている。
身を持ってそれを知っているのに、この有様。
穴があれば入りたい気分だ。自分で掘った墓穴ならあるが、それはさすがに……。

とりあえず、兼一をはじめみんなはその事を理解していない。
救いと言えば、それだけが救いだった。



  *  *  *  *  *



同日夜半、人の気配などない廃棄都市区画の一角。
その一部が、ある時唐突に崩壊した。
同時に、そこから粉塵を突き破る様にして飛び出て来る人影。

「がはっ!?」

壁に叩きつけられると同時に、苦悶の声が漏れた。
それを追う形で屈強な人影が現れ、叩きつけられた人物を叱責するでもなく睨む。

「……」
「わかってますよ。ここ一番で大振りになるのは悪い癖だって言うんでしょ」

膝に手をやる事で身体を支えながら立ち上がる少年。
そんな彼の言葉に、男は無言のまま首肯する事で肯定した。
元々寡黙な人物なのか、厳めしい顔は微動だにしない。

「おー、おー、良くやるよなぁ、毎回毎回。なぁ、ルールー」
「うん。怪我しないか、少し…心配」
「その心配は無用だろう。怪我をさせん程度には加減している」
「マジ? アレで加減してんの旦那?」
「ああ」

そんな二人を見守る紫の髪の少女と赤い髪の小人、そしてどこか厭世的な雰囲気を纏う男。
三人は眼下で繰り広げられる、鍛錬と言うには激し過ぎるそれを見ていた。
だが、そこで唐突に男はその場で背後を振りかえる。
見れば、そこには短い青い髪をした中性的な背の高い女性の姿。

「あまり背後から忍び寄るな。反射的に体が動くかもしれんぞ」
「ご自分の身体の反射を御せない程未熟ではないでしょう、騎士ゼスト」
「さてな。それで、アレの迎えか?」
「はい。どうやら、丁度良い頃合いの様ですね」

言うと、女はそのまま宙に身を躍らせ落下する。
やがて二人の前に降り立つと、彼女はその片割れ…屈強な男に恭しく頭を垂れた。

「愚弟への御指導、ありがとうございます。ドクターに変わり、御礼申し上げます」
「あ、やっほートーレ!」
「やっほーではない。お前も頭くらい下げんか」
「は~い。ありがとうございました、先生」

トーレと呼ばれた女は少年の頭を掴むと、強引に頭を下げさせる。
しかし、それでも少年はどこか軽い調子のまま。
トーレはそんな少年に呆れた様子でため息をつく。

「まったく、この方はお前など容易く殺せる実力をお持ちなのだぞ。だと言うのに……」
「別にいいじゃない、こうしてちゃんと生きてるんだしね」
「はぁ……愚弟の御無礼、どうかご容赦を」

頭を抱えるトーレに向け、男は気にしてはいないとばかりに首を振る。
見た目は厳めしいが、別段そこまで礼儀にうるさくもなく、些細な事は気にしないようだ。

「それでは、今宵はこれで失礼いたします。何か伝言は?」
「……契約が果たされるなら、それ以上に求めるものはない」
「もちろん、契約は必ず守ります。それが、取引ですから」

男と彼女らの間に交わされた契約。
その一つの対価として、彼は少年に教えを授けてきた。
別にそれだけが理由と言うわけではないが、対価としてそう決まっている。
彼は少年に教えを授け、トーレ達はその代わりに……それが契約だ。

「では」
「……」

必要な確認を終え、その場を後にするトーレと少年。
そこで、少年はトーレに向けて問いかける。

「そう言えばさ、トーレ。機動六課ってのは、今度あのホテルで任務なんだよね?」
「そうらしいな。だからなんだ?」
「僕も行っちゃダメ?」
「お前は……少しは自重しろ」
「ええ~、どうせその内顔見せするんだしさ、別にいいでしょ~」
「なら、そう言う事はドクターに聞け。私が決められる事ではない」

どうせ、自分が言ったところで聞くような奴ではない。
ならと言う事で、自分達の生みの親に全てを押し付ける。
これを割と好きに行動させているのは彼だ。なら、その責任を取ってもらうのが筋だろう。

そうして、少年とトーレは男の視界から姿を消した。
転移魔法を使ったのだろう。気配を探っても、その残滓があるだけ。

正直、彼らの後を付けてアジトへの潜入を企てた事がないわけではない。
まぁそれも、転移魔法を用いた移動をされてはかなわなかったが。
上で見守っていた少女達に聞けば、わかるかもしれない。

しかし、彼は別にその事に固執する気はない。後を追えない事も惜しんではいない。
どうせ、あの件に関する黒幕は彼ではないのだ。
データをかすめ取ったのは彼の手の者だし、彼自身それに興味はあっただろう。
だが、別にそんな物が欲しければくれてやっても良いと言うのが彼の考えであり、他の連中も同様だった。
実際、そのデータを用いた兵器の出来などあの程度。一々腹を立てるのも馬鹿らしいと言うのが総意だ。

ただ、あの少年の事はなんとも複雑な心境になるが。
だが、もし殺すならあの男にその情報をリークした黒幕だ。
黒幕に近づくには、あの男の協力は欠かせない。
それを交渉材料に、彼は自らの命をチップに交渉し、勝ちとった。
好意等持てないが、その胆力だけは評価に値するだろう。

なにより、再会の日も近い。
その機会を与えてくれるであろうことには、感謝しても良いと思う。



「師匠?」
「あ、なんでもないよ。さ、次は五行拳をいってみよう」
「はい!」

突然天を仰いだ師をいぶかしむギンガだが、すぐに普段の様子を取り戻したようで疑問を棚上げにした。
そのまま形意拳の基本とも言える5種類の単式拳『五行拳』の稽古に入る。
学び始めて僅か数ヶ月とは思えないその練度に、兼一は心中で嬉しく思う。
だが同時に、先ほど感じた何かを反芻する。

(これは……………覚悟を決めておいた方が良いかな?)

当の本人である兼一ですら判然としないが、なぜかそう思わせるなにか。
覚悟を決め、命をかけて戦う事等過去幾度もあった。
故に、別にその事にとりわけ感慨の様なものはない。
恐怖もある、緊張もある。だが、それらは同時に慣れ親しんだものでもあったから。
強いて言うなら、ようやく「戻ってきた」という実感がわいたと言う事か。

しかし、そこで眼前で鍛錬に励む弟子に視線を移す。
自分の教えを素直に守り、愚直なまでに心身を磨く可愛い一番弟子。
命をかけて戦うと言う事は、覚悟を決めると言う事は、死ぬかもしれないと言う事。

自分より強い者など、兼一はたくさん知っている。
故に、百戦百勝とはそう簡単にいかない事も承知の上。
負ければ死ぬかもしれない、負けるつもりで戦う気など更々ないが、その可能性は確かにある。

なら、生きていられるうちに教えられる限りの事を教えるべきだ。
技だけではない、心も含めて。

「よし、それじゃ今日は……」






あとがき

今回は割と早めに投稿できました。
ほのぼのとした日常と、ラストでちょっと次回への示唆。というか、これだと兼一の死亡フラグっぽい。
前回の戦闘では無双しましたが、次はそうはいきません。色々と波乱が起こる事になります。

ところで、やっぱりどう考えてもなのはとフェイトに会場内の警備なんて向きませんよね。
絶対シグナム達と配置が逆だと思うのですよ。
シグナム達だって決して得意ではないでしょうけど、なのはたちなんて全然能力を活かせないんですから。
少なくともあの二人よりずっとマシだと思うのです。



[25730] BATTLE 26「天賦と凡庸」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/11/13 23:27

ティアナ・ランスターには夢がある。
それは、今は亡き唯一の肉親であり、彼女の誇りであった兄の夢。
借りものかもしれないが、それでも何としてでもかなえなければならない夢。

彼女の兄はとても優秀な人で、執務官志望のエリートと言って差し支えない一等空尉だった。
だがティアナが十歳の頃、逃走する違法魔導師の追跡中に交戦し殉職。
享年は21歳。あまりにも早く、若過ぎる死だった。

幸い遺族年金を残してくれたので、ティアナ一人が慎ましく生きる分には問題ない。
少なくとも、ティアナが大人になるまで生活には困らないだろう。
しかし、ティアナはそんな物より兄に帰ってきてほしかった。

あるいは、それだけならティアナは兄の死を悼みながらも、別の人生を生きていたかもしれない。
きっかけになったのは、兄の上司の言葉。
彼は言った、『犯人を追いつめながらも取り逃がすなんて、首都航空隊の魔導士としてあるまじき失態だ。たとえ死んでも取り押さえるべきだった』と、あるいは直接的に『任務を失敗する様な役立たずは……』など。
その意図が奈辺にあるとしても、十歳の少女に与えた影響は大きく、傷は深かった。

そして彼女は決意した、証明する事を。
兄の魔法は弱くない、この魔法で兄の夢をかなえる、兄は決して役立たずなどではなかったと。
それこそが、残された自分にできる…否、自分だけにできる事なのだと信じて。



だが、最近になってその気持ちが揺れている。
今更兄の夢を引き継ぐことをためらっているわけではない。
原因は、自分自身。

将来を嘱望された天才と、若手たちの憧れであるエリートと、歴戦の勇士たちが集う部隊。
そこに招かれた事は、純粋に光栄で自分の力を認めてもらえた喜びがあった。

しかし、その中に身を置く程に実感する現実。
任務はそれなりに上手くやれているが、特筆すべき点はない。
日々の訓練でも、周りの仲間たちほどの成長は感じられない。

同時に、知れば知るほどに理解せざるを得ない差。
隊長格は軒並みオーバーS。副隊長でもニアSランク。
他の隊員達も、前線から管制まで未来のエリート揃い。
僅か十歳にしてBランクを取った少年と、レアで希少な技能を持つ少女。
危なっかしくはあっても、潜在能力と可能性の塊の相棒。
人格面には問題があるが、それを補って余りある実力を示す男。
その中にあって、凡人は自分だけ。

それを悔しくは思うが、そんな事は関係ないと言い聞かせてきた。
立ち止まるわけにはいかない。
兄の魔法は、決して弱くないと証明する為に。

だが、アレを見るとどうしても揺れてしまう。
魔力の欠片もなく、何かしらのレアスキルを持つでもなく、その身一つで隊長達と対等な力を誇る彼。
肉体とそれを運用する技術と言う、誰でも修得可能なそれを極めた男。
魔法より遥かに劣る筈の力で、魔法を凌駕する怪物の存在。
ある意味、一つの究極とも言えるそれ。
いったいどれほどの才があれば、そんな事が可能になるのか見当もつかない。

同時に、そんな彼に認められた良き先輩。
自分が足踏みしている中、メキメキと力を付けていくその姿に……惨めさを覚えた。
彼女がそれに見合うだけの努力をしている事は知っている。
恐らく、自分より……それどころか六課のだれよりも努力しているのは疑いようもない。

だからこそ、ティアナは揺れるのだろう。
努力すれば、才能の差等覆せると信じて必死で頑張ってきた。
なのに、そんな自分より遥かに努力している、比べ物にならない才能の持ち主。
才能で劣り、努力で劣る。なら、自分はどうすればいいのか。

同じくらい努力する? そんな事は当たり前だ。才能で劣るのなら、努力で補うしかない。
しかし、どれだけ努力しても、努力している上に才能がある人にはかなわないのではないか。
そんな弱気が、彼女の心の中でジワジワと勢力を強めていく。

極めつけが、彼の子どもだ。
見てしまったのだ、僅か五歳にしてその才能の片鱗を。
若干五歳という年齢でありながら、まるで風を斬る羽の如く軽やかに宙を舞う幼子。
天才と凡人、生まれながらにして決められた地位を、選ばれた者とそうでない者の差を嫌でも実感させられた。
アレは、はじめからそこへと至る事を定められた存在なのだと。
凡人では、いくら望めど辿り着く事はないと突き付けられた様な気がした。

それを必死に否定し、努力すればなんとかなると言い聞かせる。
だが、一度鎌首をもたげた疑念は中々払拭できない。

しかし、あるいはだからこそ、彼女は気付いていなかった。
焦りにより狭まった視野が、彼女に真実を写さない。
仮に写しても、今の彼女にそれを理解し、信じる余裕はすでになくなっていた。

この部隊にあってただ一人の凡人である筈の自分。
だが、そんな自分と比べてもなお劣る無才の存在を。
その存在そのものが、文字通り彼女の信じる道の果ての具現だとは露ほども知らずに……。



BATTLE 26「天賦と凡庸」



ホテル・アグスタ、骨董美術品オークション。
その会場警備と人員警護、それが今回の機動六課の任務。

取引許可の出ているロストロギアも複数出品されるため、それらに反応してガジェットが集まってくるかもしれない。また、この手の大型オークションは密輸取引の隠れ蓑にされる事もある。
そんな諸々の事情が絡み合い、今回機動六課が警備に呼ばれたのだ。

ヘリでの移動の道中になされた説明を要約するなら、そんなところだろう。
またその中で、これまでの捜査からガジェット・ドローンの製作者にしてレリックの収集者として、違法研究で広域指名手配されている次元犯罪者「ジェイル・スカリエッティ」が浮かび上がった事。
その捜査は執務官であり、六課の捜査担当のフェイト主に担当し、捜査官でもあるギンガがその補佐について進めていくことが確認された。

配置は先日変更された通り、はやてと副隊長二人が会場内の警備。
シャマルが前線の管制を担当し、残りは隊長二人の指示の下に会場周辺の警備に当たっている。
で、その部隊長のお伴の二人だが……

「ま、こんなもんか」

赤を基調としたドレスを身に纏い、普段は三つ編みにしている髪を解いているヴィータに特に気負った様子はない。
むしろ、先日のごてごてしたゴスロリに比べれば遥かに穏やかなその格好に安堵すらしているらしい。
若干子どもっぽいドレスな事に不満があるようだが、まだマシと思っているのだろう。
客観的に見れば、「お人形」の様で可愛らしい限りなのだが。

「むぅ、やはり慣れんな。なんというか………………色々心許ない。
 これなら、あのメイド服とやらの方がまだ……」
「いや、アレはさすがにやめとけって……」

そんなヴィータに対し、髪を下ろし、生地が薄く肩や胸元の露出したアダルトなマゼンタのイブニングドレスで着飾ったシグナムは、やけに落ち着きがない。
まぁ確かに、布の面積と厚さはメイド服とは比べ物にならないので、気持ちは分からなくもないが。
とはいえ、これがパーティならともかく、オークション会場にメイドがいても浮くだけだ。
一応お客にまぎれる為にドレスを着ているのだから、それでは本末転倒である。

「いやいや、シグナムも似合おうとるよ」
「そ、そうでしょうか?」
「そんなん周りの反応を見れば一目瞭然やん」

そんなシグナムを励ますのは、こちらも二人同様に瀟洒な白のドレスを着たはやて。
セットされた髪と薄い化粧、さらには透明のストールやクロスのピアスが見る者に普段と異なる印象を与える。

周囲に目を配れば、礼服姿の男性たちからの熱い視線が無数。
はやてやヴィータにももちろん向けられているのだが、その中心はやはりシグナムだ。
彼女としては慣れない服装と空気、何よりその視線に居心地の悪さを感じてしまう。
だが、はやては逆に自慢の家族への正当な評価に満足げだ。
ただ、やはり女三人だけでこんな場にいるものではないとも思ってしまう。

「とはいえ、エスコート役の一人もなしやと、ジロジロ見られてちょう落ち着かんなぁ。
 やっぱり、兼一さんも会場内の警備に回すべきやったかも……」
「しょうがねぇだろ。アイツ、フォワード達の保護者自認してるし」
「まぁ、私ら三人……ちゅうか、シグナムとヴィータだけでも会場内の警備には十分やからええんやけどね。
 むしろ、これ以上は過剰戦力やし」

実際、たいして広くもない会場内の警備に戦力を集中し過ぎるのも問題だ。
広域型のはやては除外するとしても、シグナムとヴィータ、この二人だけでも会場内の警備に割く戦力としてはおつりがくる。

元より、理想はホテルへ入れずに外で食い止める事。
ギンガやコルト、それに新人達。さらには能力リミッターがあるとは言え、高位魔導師のなのはやフェイト。それに魔法や武器を使わずに戦える兼一と言う隠し札がいる以上、滅多な事で突破されはしないだろう。
そんな万が一に備える意味としては、この辺りが妥当な線だ。

「ご安心ください、主はやて。我らがいる限り、主に不埒な輩は近づけません」
「あたしらがしっかりガードすっから、大船に乗ったつもりでいろよ」
「そやね。エスコート役はおらんけど、私には頼りになる騎士様がおったんやった。
 せやったら、二人ともよろしくな♪」
「おう!」
「僭越ながら、お供させていただきます」

シグナムははやてが差し出した手を恭しく取る。
彼女はその手を引き、衆目を集めながらも会場へと入っていった。



  *  *  *  *  *



で、先ほど話題になっていた兼一だが……彼はいま愛弟子をひきつれ、制服姿でホテル内を歩いていた。
別に物珍しいからではない。いや、確かに一流ホテルらしく、内装は落ち着いているが贅を凝らしているので、見る所は多々あるのだが、別にそれは目的ではない。

事前に渡された見取り図から得た内部構造への理解を、実際にホテル内をチェックする事で補強するためだ。
避難経路、攻めるならどこから攻めるか、どこに死角がありどんな遮蔽物があるか、あるいは高い視点からの周囲の立地の観察など、やれる事は多々ある。
制服を着ているのも、『警備をしている』とアピールすることによる参加者へ安心感を与える立派な仕事だ。

「警備はかなり厳重みたいですね」
「まぁ、オークションって言ったら参加者は基本各界のセレブだから。
 その人達に何かあったら大変だ、警備に力が籠るのも当然だよ」
「そうですね」

実際、もし何かあればホテルの評判と沽券にかかわる。
襲われるかもしれない事が事前に分かっているなら、それ相応の準備はして当然。
その一環が六課への依頼だが、それに満足せずに万全を期そうとした事が伺える。

「それで、師匠は今回も?」
「いつもと同じさ。弟子の喧嘩に師匠は出ない、それが武人のルールだよ」
「あれが喧嘩、ですか?」

正直、ギンガとしてはアレを喧嘩と呼ぶその神経が未だに信じられずにいる。
確かに彼女達が身を置く戦いは、一度に複数の敵を相手取るのも当たり前、これといったルールもない。
端的に情報を羅列すれば、確かに喧嘩と大差ないとも言える。
しかし、一歩間違えば命が危うい戦場を喧嘩と呼ぶのはどうか……。

「いやいや、喧嘩をバカにしちゃいけないよ。
 アレだって、時と場合によっては命をかける事もあるんだ。
 何しろ、僕も昔は喧嘩で殺されそうになった事もあるし」
「え…ええ!?」

別に、ギンガは喧嘩で殺されそうになった事を驚いているわけではない。
なにしろ、ルールのない路上だからこその危険性があるのは事実。
その為、喧嘩だからと言って安易に考えてはいけない事はギンガにも理解できる。

故に、彼女が驚いたのはもっと別の事。
この「温厚篤実」を絵に描いた様な師が、路上で喧嘩などしていた事が信じられない。
むしろ、喧嘩などで拳を振るうものではないと、決してそんな事はした事がないと思いこんでいた。

「ああ、ギンガは真面目だから路上での喧嘩なんてした事はなかったかな?」
「は、はぁ……」
「アレはアレで中々深いものだよ。ああいう場所だからこそ身につけられるものもある。
 喧嘩を推奨するわけじゃないけど、そういうのも経験かもしれないね」

決闘には決闘の、戦場には戦場の、路上には路上の味がある。
そのため、案外路上での喧嘩の経験が生きて来る場面と言うのもあるだろう。

しかし、管理局員であるギンガに路上での喧嘩など御法度なので、多分その経験を積む事は出来ない。
それを、兼一は少しばかり惜しむ。
何事も経験だ。兼一自身、根柢の部分には若かりし頃の路上での喧嘩の日々が確かに根付いている。
師の中には「ケンカ100段」などと言う異名を持つ人もいるし、存外喧嘩と言うのはバカにできないのだ。

「でも、師匠が…喧嘩……」

戸惑い気味に呟く弟子に苦笑しながらも、兼一はホテル内のチェックは続ける。
そんな師弟が交差路へ差し掛かったとこで、横手から声が掛かった。

「ああ、お久しぶりです、先生」
「「え?」」

二人が揃って振り向くと、そこには緑色の長髪と白いスーツが目立つ美男子と、質素ながら身なりの良い蜂蜜色の長めの髪を首の後ろで括った柔和な顔立ちの美青年。
声をかけてきたのは緑の髪の男らしく、こちらに軽く手を振りながら歩み寄ってくる。
そのやや後ろにいる青年は、どこか困惑気味な表情だ。
だが、兼一にはその男に見覚えがあった。

「あ! 確か、アコース査察官」
「ええ、覚えていただけて光栄です」
「は、はい……」

覚えていたと言うか、同性の側からしてもこんな美男子を忘れるのは難しい。
特に、初めて会った時に彼と交わした会話の内容がないようであり、彼の愚痴には共感を覚えたから。

「ですが、なんですか、その『先生』というのは?」
「いえ、六課でのご活躍は伺っていますから。
優れた技術や深い知識を持つ方には、それ相応の敬意を払うのが当然でしょう?」

一応は本心なのだろうが、どこか捉えどころのない雰囲気がヴェロッサにはある。
そのせいで、兼一としてもその言葉をどう受け取っていいか判断が付けにくい。
確かに兼一は武術界においてそれなりに権威のある身だが、やはりこういう扱いは慣れない。

特に、ここ数年は武術界から離れていただけに、その勇名もかすれ気味だ。
先日出張で地球に行った際、師や古い友人と違い彼はほぼ眼中に入っていなかったことからもそれがわかる。

「あの、アコース査察官? そちらの方は……」
「ああ、失礼しました、ユーノ先生。こちら、機動六課所属の……」

背後の青年に紹介するように、その間に立つヴェロッサ。
兼一とギンガは改めて青年へと目をやり、その容貌を失礼にならない程度に観察する。
色白で線が細く、骨太さなどとは無縁の顔立ち。どこかのんびりとした穏やかな物腰は、見る人によっては安心感を与えるかもしれない。身体は華奢で、荒事とは無縁に映る。
オークションの参加者か、そんなところだろう。

「白浜兼一二等陸士です」
「ギンガ・ナカジマ陸曹であります!」
「あ、どうも。ユーノ・スクライアです。今日は出品物の鑑定と解説をさせていただく事になっています」

その名を聞き、兼一とギンガはそろって顔を見合わせる。
なぜならそれは、二人にもこれまでに幾度か耳にした事のある名前だから。

「でも、その年で陸曹ですか。優秀なんですね」
「あ、ありがとうございます。
あの、失礼かもしれませんが、もしかして無限書庫の司書長のユーノ・スクライアさんでしょうか?」
「若輩の身に過分な肩書だとは思うけど、一応……」

その肩書に見合わず、やけに腰の低いユーノ。
この若さにして一部門の長、それならもう少し居丈高でも許される筈なのだが……彼にそんな様子は微塵もない。
どれだけ低く見積もってもゲンヤやはやてと同格か、それ以上の地位がある重要人物。
にもかかわらず、彼からすれば下っ端の筈の二人にもこれだ。
確か「局員待遇の民間学者」の様な立場の筈だが、それでもこれは腰が低い。

「何が一応なものですか。ユーノ先生は無限書庫を実動可能なレベルにまで築き上げた最大の功労者じゃありませんか。局の内外でもその功績は認められているんです、もっと胸を張ってくださいよ」
「ど、どうもそう言うのは苦手で……」

ヴェロッサの言う通り、管理局内におけるユーノの評価は高い。
彼が現れるまで、物置同然だった巨大データベースを今の形にしたのが彼だ。
無限書庫の効率的運用により、一体どれだけの恩恵があった事か。
それを鑑みれば、むしろ今でも彼への評価は低いと言わざるを得ない。

しかし、本人からするとそれは自分の身に余ると感じるらしいが。
とはいえ、どこかに多様な部分のある兼一は謙遜するユーノに、どこか共感を覚えた。
本人が認識する自分からかけ離れて、皆が抱く偶像の大きさを重荷に感じる。
それは、かつて悪友がねじ曲げた情報を流布され苦労した経験のある兼一だからこそ、わかる感覚だったかもしれない。

「でも、管理局から警備の人員が来るとは聞いていましたが、まさか機動六課だったとは……」
「おや? ユーノ先生はご存知ではありませんでしたか」
(((あ、この人わかってて黙ってたな……)))

どこか愉快そうなヴェロッサの表情に、その事を看破する三人。
きっと、彼は全てわかった上でどちらにもその事を教えていなかったのだろう。
兼一達も主要な参列者の情報は聞き及んでいる。だが、その中にユーノの名はなかった。
まぁ確かに、絶対に必要な情報と言うわけではないし、そもそも彼は正確には参列者ではない。
それに、彼は戦闘能力こそ高くはないが優れた結界魔導師でもある。
なら、別に警護対象としての順位はそれほど高くないのだろうが……関係者の多い六課に教えなかったり、六課の事を教えなかったのは、皆の驚く顔が見たかったからだろう事は想像に難くない。

「でも、と言う事はなのはやフェイトも?」
「はい。それに、八神部隊長や守護騎士のみなさんもいらっしゃってます。
 部隊長と副隊長達はもう会場に入っていますが、他のみなさんはホテルの中かその周辺です。
お会いになられますか?」

かなり上の立場の相手に若干緊張しながら、ギンガは申し出る。
なにしろ、六課内でなのはとユーノが事実上の恋人同士なのは周知の事実。
知らぬは本人ばかりなり、と言うのが実情だ。

任務中ではあるが、少し会うくらいはかまわないだろう。
それに、最近は新人達のへの教導で忙しく、なのはは全くユーノと会えていない。
これ位は、普段忙しくしている上司への部下の密かなる配慮の範疇だ。だが……

「ああ…いや、みんな忙しいだろうし邪魔しちゃ悪いから」
「え? でも……」
「まぁ、もし時間があればオークションの後に会えるかもしれないしね」

苦笑気味に、ユーノはギンガの申し出を謝絶する。
確かに、もしかすればオークションの後に会えるかもしれない。
その可能性は決して低くはないが、絶対ではないのだ。
それこそ、もしかしたらどちらかが急いでこの場を離れなければならなくなることもありうる。
なら、会える時に会っておくべきな筈なのに……。

そんなユーノにギンガは僅かに表情を曇らせ、ヴェロッサは困ったように溜息をつく。
恐らく、彼もタイミングを見計らってそうするつもりだったのだろう。
だが、これではそのたくらみも上手くいくかどうか。
しかし、そんな中にあって一人兼一が動いた。

「スクライア司書長、ちょっと良いですか?」
「え?」
「ギンガ、君はアコース査察官を頼む」
「え? ちょ、師匠! どちらに!?」
「すぐ済むから、ちょっとだけ」

困惑するユーノの手を取り、物影へと引っ張っていく兼一。
ギンガは訳が分からず引きとめようとするが、兼一はそのままそそくさと行ってしまう。

「……さて、それじゃちょっとそこで話しでもしようか」
「は、はぁ……」

ヴェロッサは何かを理解したのか、一つ頷いてギンガの肩に手を回す。
ギンガがそれを寸での所で軽く避けると、彼は小さく「残念」と零す。
だが、顔には言葉と違いそんな様子はない。恐らく、彼なりの処世術かポーズの様な物なのだろう。
ギンガはそう理解することにして、とりあえず師が戻るまで適当に時間を潰すことにした。

そして、兼一に引っ張られていったユーノは、相変わらず訳がわからない様子だ。
なのはのメールから、古い知り合いに会ったこと、それが兼一である事は知っている。
しかし、結局それだけであり、これと言って関連もつながりもない兼一が自分に何か用なのかわからないのだ。

「あの、何かご用でしょうか?」
「ああ、いきなりすみません。でも、すぐ済みますから」

ユーノにあまり時間はないかもしれないが、それでも次いつ会えるかわからない。
ならば、今のうちに兼一はユーノと離さなければならなかった。
何しろ、先日の任務で再会した友人からの頼みごともある。
なのはとユーノ、二人の関係に力を貸してほしいと頼まれたから。
何ができるかは分からないが、友人の頼み。なら、できる限りの事はする、それが白浜兼一という男だ。

「スクライア司書長」
「あ、ユーノで良いですよ。正式には僕は局員じゃありませんし」
「ああ、ならユーノ君で」
「はい、それでお願いします」

ユーノにこれといった階級はなく、あるのは役職だけ。
正規の局員でないとなれば、まぁこれ位は良いだろう。
それに、これから話す事は局員とかそういうのとは別の話。
少しでも心に届かせる為に必要なら、尚更だ。

「君は、なのはちゃんの事をどう思ってるの?」
「え?」

いきなりの質問に、ユーノは訳がわからないといった表情。
実際、兼一自身もう少しうまい聞き方はないかと思う。
だが時間もないし、彼は元から遠回しな話は得意ではないのだ。

「なのはの事、ですか?」
「うん。十歳の頃からの幼馴染で、魔法の先生なんでしょ。
 それで、君は彼女をどんな風に見てるのかなって」
「はぁ…そうですね……恩人で、大事な友達…でしょうか?」

それだけ、とは敢えて聞かない。
まだ言葉の続きがありそうだし、彼がよくそういう風に言っていると言う事は聞いていた。

「あとは、エース・オブ・エースとかそういうのは置いておくとしても……………なのはにはいつまでも、元気に空を飛んでほしいかなって」

そこに秘められるのは、深い深い後悔と悲しみ、そして重すぎる自責の念。
一瞬たりとも離すことなくユーノの瞳を見る兼一は、その眼の奥からそれらの感情を見てとった。
真に流水制空圏を会得した者は、時に相手の心の深いところまでも覗き見てしまう。
今回は意図して深く覗こうとしたのだ、これ位はわかって当然。

「なのはには、他のどんな場所よりも……青い空がよく似合いますから」

噛みしめるように、吐き出すように語るユーノの口は、そこで閉ざされた。
なのはをそこへと誘うきっかけを作ったのは自分。同時に、彼女に落ちる危険を作ったのも自分。
兼一は彼らの深い事情など知らない。故に、そんな彼の気持ちまでは読み切れない。
わかるのは、彼が酷く自分の事を責めている事と、様々な感情の絡みあいから気後れしている事だ。

だからこそ、兼一は「やっぱり」と思う。
ユーノと言葉を交わし始めて間もなく感じていた、ある感覚。
それが間違っていなかったという確信を、今の僅かな言葉から得ていた。

「何ていうか…………………君は、昔の僕とどこか似ているよ」
「え?」

兼一はかつて、大切な人のすぐそばに居ながら彼女を守る事が出来なかった。
幸い、最終的に彼女を取り戻す事は出来たが、守れなかったことへの自責の念は今でもよく覚えている。
不甲斐ない自分を殴る事にこの拳を使った時、それを止めてくれたのは悪友だった。『殴りたいなら数万回でも俺様が殴ってやる。だが、お前の拳はそんなくだらねぇことに使う為に鍛えたんじゃねぇだろーが』と。
あの時、その言葉にどれほど救われたかわからない。決して言葉にはしないが、確かにあの悪友に救われた。

兼一はユーノの詳しい事情など知らない。
だがそれでも、ユーノがかつての自分と酷似した自責を背負っている事はわかる。
違いがあるとすれば、兼一は既にそれに決着をつけ、ユーノは決着をつけられていない事。

(きっと彼は……守れなかった事を悔いている。同時に、守る力がない事も)

ユーノの事情を知らない様に、その詳しい能力も兼一は知らない。
しかし、兼一の洞察力はユーノの瞳からそれすらも読み取った。
守りたいと思いながらも、守る為に必要な力が不足していることへの悔しさを。
自分より遥かに強い女性に恋し、その人を守りたいと願いながらもかなわない自分への憤りを。
そんな所が、益々かつての自分と似ていると思う。

「ユーノ君、覚えておくと良い。
どれだけ強くしなやかで、綺麗な翼を持つ鳥にとっても…………空は決して味方じゃない」
「え?」
「むしろ、空という場所そのものが敵なんだ。羽を休める事も、気を抜く事も許されない。
 些細なきっかけで地に落ち命を落とすかもしれない、そんな場所。
 常に心を張りつめなければいけない、それが空だ。鳥たちはそんな場所を飛んでいる」

飛ぶ事をやめてしまえば、羽ばたく力が弱れば、地面に向かって真っ逆さまに落ちるのみ。
どれほど優美に飛んでみたところで、その現実は変わらない。
忘れがちだが、空は決して空を飛ぶ者を祝福しているわけではないのだ。

「僕には空を飛ぶ翼はなかった。でもね、そんな僕にもできる事はあったんだ。落ちそうになる心を支え、多くの危険にさらされる命の盾になる。弱くても、それくらいはできるんだよ。
強いから必要ないとか、弱いから守れないなんていうのはただの思い込みだ」
「あの……」
「特に君はまだ若い。頭の良い君には難しいかもしれないけど、時には後先考えずにバカになるのも良いものだよ。僕の師匠は『若いうちの無謀は買ってでもせよ』なんて言ってたけど、若いうちはそれくらいが丁度いい」

諦めるにはまだ早い。直接会って、兼一は確信した。
これほどなのはを大事に思う彼なら、きっとできる。
自分の弱さを知りながら、それでもなお諦めきれていないのなら充分だから。

「あなたは、僕に何をさせたいんですか?」
「…………君が君の夢をかなえる事、かな?」
「師匠! そろそろ……」
「ああ、今いくよ」

弟子の呼ぶ声に応え、兼一はユーノに背を向ける。
きっと、今のユーノの心中は酷く揺れている筈だ。
今のやり方こそが、自分にできる最善だと納得させた心が。

別に、そのやり方ではいけないと言うわけではない。
もし、ユーノが本当に心の底から納得していたのなら何も言う事はなかった。
だが、兼一は確かに見たのだ。その瞳の奥に燻ぶるものを。

あくまでも兼一はそれを拾い上げ、その為に必要と思う物を提示しただけだ。
それにどう向き合うかは、ユーノが決める事。
ただできれば、彼には夢をかなえてほしいと思う。
もう自分には、その夢をかなえる事は出来ないから。



  *  *  *  *  *



それからしばらくして。
ホテル屋上で周辺に感知魔法を展開していたシャマルが、真っ先に異変に気付く。

「クラールヴィントのセンサーに反応。みんな、来たわよ!」

念話や通信を通し、六課部隊員たちに詳細な情報を伝達する。
ロングアーチからの情報も合わせれば、集まってきているのはガジェットⅠ型とⅢ型の混成。
今のところ、0型の機影は見当たらない。

「前線各員へ、状況は広域防御戦です。
ロングアーチ1の総合管制と合わせて、わたし、シャマルが現場指揮を行います」

今ある情報と状況の中から、シャマルは指揮系統を再度明確にしていく。
元より守護騎士の参謀役であり、隊長達からの信任の厚い彼女だ。
今更文句や不満を抱く者はおらず、みな黙ってその言葉に耳を傾ける。
とそこで、シャマルの背後の扉が勢いよく開かれた。

「シャマル先生」
「すみません、遅くなりました!」
「兼一さん、ギンガ。大丈夫、今からそれぞれの配置を指示するから、その通りに」
「「はい」」
「アヴェニス君は?」
「彼なら、そこに」

兼一が視線を向ければ、そこには丁度移動してきたコルトの姿。
ギンガとコルトは元々遊撃だし、兼一も皆のフォローが主な役目という意味では似た様な物。
全体を見渡せ、どこに移動するにも丁度いい中央に集まるのははじめから決めていた事だ。

「なのはちゃんとフェイトちゃんはザフィーラと迎撃に。
 スターズF及びライトニングFはホテル前に防衛ラインを設置。三人の撃ち洩らしへの対処を。
そちらの指揮はティアナ、お願いできる?」
『はい! シャマル先生、私も状況を見たいんです。前線のモニターもらえませんか?』
「了解、クロスミラージュに直結するわ。クラールヴィント、お願いね」
《ja》

シャマルの仕事は全体の指揮だ。
その為、各戦場にはそれぞれに指揮官を立てるのが望ましい。
直接戦場に立ち、状況を把握できる者に分けて言った方が効率的なのは言うまでもない。

「ギンガ達は待機。ガジェットは正面に集中してるけど、ちょっとあからさま過ぎるわ。
もしかしたら別方向からも来るかもしれない、0型の姿がないのも気になる。あなた達はそれに備えて」
「はい!」
「ちっ……」

当面は相手がいない事が不満なのだろう、小さく舌打ちするコルト。
見ればなのはとフェイト、それにザフィーラが飛び立って行くのが見える。
大半は三人が処理するだろうが、それでも打ち洩らしがないとは限らない。
それに対処するための新人たちであり、更なる不測の事態が起こった時にそれに対処する役目を負うのがギンガとコルトだ。

「兼一さんは臨機応変に……」
「わかっています。危なそうな所へフォローに入ればいいんですよね、お節介にならない程度に」
「お願いします」

兼一としては、弟子や子ども達の戦いに干渉する気はない。
だが、放任と放置が同義ではないのも事実。
そこを見極め、必要な時に必要な手助けを行うのが大人の役目だ。
ただ、果たしてそんな悠長な事を言っていられるかどうか……。

(…………………………嫌な感じがする。これは、ちょっと何かあるかもしれないな)

具体的に何がどうというわけではないが、無数の死闘を経て研ぎ澄まされた兼一の直感が告げている。
杞憂に終わればいいが、そうでないなら相応の覚悟がいるかもしれない。そう思わせる何か。

兼一は眼を閉じ、深く呼吸しながら気組を練る。
何が起きても対処できるように、少しでも早く全力を出せるように。
なにしろ、スロースターターは彼の致命的な欠点の一つだ。それが大きく影響しないとも限らない。
なら、少しでもその時間を減らす努力をすべきだから。

そんな師の姿を見て、ギンガはそれに倣う様に瞑目する。
コルトはつまらなさそうに床を一蹴りし、近くの壁に寄り掛かり、その時とやらが来るのを待った。



  *  *  *  *  *



その頃、ホテル・アグスタから程良く離れた森の中。
少し遠くへ眼をやれば桃色と金色、そして白色の光が閃き、続いていくつもの爆煙が上がっているのが見える。
そんな場所で、一組の親子にも見える二人組が宙に浮かぶモニターで誰かと話していた。

「ごきげんよう、騎士ゼスト、ルーテシア」
「ごきげんよう」
「なんの用だ?」

感情を感じさせないルーテシアと呼ばれた少女と、不快感を隠そうともしないゼストと呼ばれた男。
だが、モニター越しに話す白衣の男、機動六課が追うジェイル・スカリエッティは平然としたままだ。

「冷たいね。近くで状況を見ているんだろう?
 あのホテルにレリックはなさそうなんだが、実験材料として興味深い骨董が一つあるんだ。
少し協力してはくれないかね? 君たちなら、実に造作もない事なんだが」
「断る。レリックが絡まぬ限り、互いに不可侵を守ると決めた筈だ。
なにより、お前には我等を使わずとも……」
「確かに、あの子たちならできるだろう。だが、さすがに今はまだ早い。
 時期的にも、準備的にもね。その点、ルーテシアなら姿を見られる心配はない。
もちろん、相応の謝礼も出すし、何より危険な目には合わせないと約束する。頼まれてはくれないかな?」

ゼストの説得は早々にあきらめ、ルーテシアの懐柔に掛かる。
彼女は僅かに黙考し、それを承諾した。

「いいよ」
「優しいな、ありがとう。今度ぜひ、お茶とお菓子でもおごらせてくれ。
 君のデバイス、アスクレピオスに私が欲しい物のデータは送ったよ」
「うん。じゃ、ごきげんよう、ドクター」
「ああ、ごきげんよう。吉報を待っている」

スカリエッティはそこで通信を切ろうとするが、そうはならなかった。
なぜなら二人の背後、森の奥からゆっくりと誰かが姿を現したから。
ゼストとルーテシアは一瞬警戒を露わに振り向くが、その人物が誰かを認識して警戒を解く。

「……………………………アノニマート?」
「や! それ、僕にも手伝わせてよ、ルー」

出てきたのは、以前ギンガと翔の前に姿を現したカジュアルな服装の長身の青年。
スカリエッティは青年の姿を見るや、少々あきれたように呟いた。

「まったく、姿が見えないと思えば、いつの間にそんな所に」
「あ、ごめんなさい、先生。勝手に出てきちゃって」

咎められたと思ったのか、青年は慌てた様子で手を合わせて頭を下げる。
だが、その声音には申し訳なさこそあるが、後ろめたさはない。
悪気がないとは言え、無断で出てきた事を悪いとは思っているのだろう。
だが、ルーテシアへの協力の申し出を取り下げる気はない事も伺える。

「いや、それは構わんよ。それで、行きたいのかい?」
「はい、是非! もう我慢できなくって、早く会いたくて仕方ないんですよ!」
「……………………………………………仕方がないな、好きにするといい」
「やった! ありがとうございます、先生!」

しばしその眼を見つめていたスカリエッティだが、最後は頭を振ってそれを了承した。
だが、さすがに無条件でとはいかない。
本来、ここで姿を見せるのは予定外の事なのだから。

「ただし」
「はい?」
「あくまでも今回の目的はお使いだ。それが終わり次第、すぐに帰ってくる事。もちろん、あまり夢中になってもいけないよ。それと、直接姿を見せるなら君一人では心配だ。
誰か……そうだな、セインにでも同行してもらおうか」
「あ、それなら大丈夫ですよ。ね、先生」
「ん? ああ、なるほど。あなたもご一緒でしたか」

彼の視線の先には、気によりかかる一人の男。
スカリエッティはそれを見て、アノニマートと呼ばれた少年の言葉を理解する。
なるほど、確かにこれなら誰かに同行してもらう必要はあるまい。
何より、おかげで必要以上に手札を晒さずに済む。

「相変わらず、あれには甘いのだな」
「彼は特別だよ。他の娘たちと違って、あの子は私の下にいるだけでは完成しない。
 そんなあの子を必要以上に繋ぎとめても、むしろ逆効果だ。なにより、契約の事もあるからね」
「お前が、良くそれを受け入れたものだ」
「人としてのあらゆる英知の結晶、それがあの子だ。そして、娘たちとは別の形の私の作品。
 その完成の為なら、この程度は惜しくもない」

スカリエッティの言葉をどの程度信じたかは分からないが、それ以上はゼストも何も言わない。
そんな二人を気にした素振りもなく、アノニマートの顔は喜色に満ちていた。

「ああ、やっと会えるんだ。うぅ~!」
「やれやれ。それで、会いに行くと言ってもどうするつもりか、プランはあるのかい?
 さすがに、あの三人を相手に真っ正直に行っても素直に通してもらえるとは思えないが。
何より、最後の最後には彼もいる」
「ええ、それは……」

スカリエッティの問いに、アノニマートは表情を改める。
彼なりに考えたその方法に若干の修正を加え、スカリエッティはそれを了承した。
同時に、ルーテシアによって召喚された小さな虫たちがガジェット目掛けて飛んでいく。
ここで、戦況に大きな変化が訪れる事となる。



  *  *  *  *  *



ホテル周辺の森林地帯。
ガジェット達を迎撃するその最前線で、今まさに敵を蹴散らしていたなのは、フェイト、ザフィーラの三人。
だが、シャマルやロングアーチからもたらされた巨大な召喚魔法が使用されていると言う報。
それから間もなく、三人も異変に気付く事となる。

「バルディッシュ!」
《Haken Saber》
「はぁっ!!」

大鎌型の魔力刃を出力したバルディッシュを大きく振りかぶり、フェイトは勢いよく振り抜く。
魔力刃はバルディッシュから切り離され、回転しながらガジェット達へと向かう。
本来ならAMFの影響を無視し、容易く鋼鉄の装甲を切り裂く一閃。
しかしそれは、瞬間的に出力を増したAMFと、Ⅲ型の頑強なアームによって弾かれた。

「え?」

それまでのガジェットには見られなかった的確な対処。
驚きに目を見開くフェイトだが、その隙にガジェットから散発的な光線が発射された。
それを回避しつつ、フェイトはプラズマランサーを放ち一端距離を取る。

同時に、なのはが上空から放つ誘導弾も、ガジェット達はのらりくらりと回避するようになっていた。
そんななのはの下へ、上空へと飛び上がったフェイトが合流する。

「動きが変わった?」
「今までのガジェットとは全然違う。多分これが……」

先ほど反応のあった召喚魔法の主の魔法の効果。
これまでは単に「処理」の対象でしかなかったガジェット達。
だがここまで動きが変わったのなら話は別。
今の二人は、ガジェットを気を引き締めて当たるべき「敵」と認識した。

そこへ、二人の下へ届く念話。
その主は、別の場所でガジェットを迎撃していたザフィーラからのもの。

『どうする、誰かラインまで下がるか?』

敵に召喚士がいるとなれば、新人達のところへ回りこまれる恐れがあった。
あそこには、新人達の他にもギンガやコルト、さらには兼一も控えている。
そういう意味ではフォローは手厚いし、戻るべきか否か、そこをはっきりさせるためだ。

「…………なのはは一端戻って。もし必要なら私も戻る」
「そうだね。兼一さんもいるし、大丈夫だとは思うけど……」
「うん。もし向こうが兼一さんの事をわかった上で策を練っているなら、油断はできない」

なのはだけで足りないなら、その時は六課最速のフェイトも向かう。
彼女なら、いざとなれば短時間でラインまで戻ることが可能だから。

『では急げ! ここは我々が抑える!』
「うん。二人とも、気をつけて!」

重厚なザフィーラの声に背を押され、なのははホテルへと引き返そうと踵を返す。
しかしその瞬間、並び立つなのはとフェイトの周囲を何かが覆い、閉鎖した。

「フェイトちゃん、これって!?」
「結界。それも、かなり頑丈な……!」

周囲の気配が変わった瞬間、二人は即座に看破した。
自分達を覆う結界の強度が、彼女達をしてそれなりに本腰を入れねば砕けない代物である事を。

同時に、一瞬動きが止まった二人の視界の端を黒い二つの影が通り過ぎる。
二人は咄嗟にそれに反応し、考える間もなく反射的に愛機を掲げた。
次に感じたのは、愛機を握る手へと伝わる強烈な衝撃。

「「くぁっ!?」」

意表を突かれた事で踏ん張りが効かない。
二人は真上から受けた衝撃により、真っ逆さまに森へと落下していく。
辛うじて地面に叩きつけられる前に体勢を立て直した二人が自分達を攻撃した影へと眼を向けると、そこには重力に引かれて落ちて来る二人の人間の姿。

「女子どもと思えば、存外良い反応をするじゃないか」
「ああ。所詮魔法など児戯に同じと思っていたが、なかなかどうして……」

普通の人間なら大怪我必至の高度からの墜落。
にもかかわらず、二人は動じた様子もなくなのは達への評価を改める。
そのまま二人は難なく着地を決め、なのは達へと向き直った。

見れば、先ほどまで彼女達を覆っていた結界は確かにその規模を小さくしている。
これでは、たとえ飛び上がってもたいした高度は取れない。
高度を稼ぐには、いったんこの結界そのものを破壊せねばならないだろう。

「こんな所まで来てガキの相手。正直、気が乗らなかったのだがな」
「全くだ。しかし、エース・オブ・エースの呼び名は伊達ではないということらしい」
「なのは、この人達……」

対峙した瞬間に感じたのは、あるべき物が感じられないという違和感。
しかし、それがないのなら答えは一つ。
あの高さから平然と着地し、いまなお隙が見いだせない。
身近にいる同じ存在がいるせいか、二人の脳裏には同じ可能性が導き出されていた。

「……最悪だね。本当に、なんでこんな所に……」

二人も達人がいて、その相手をせねばならないのか。
限定された空間での達人との戦いなど、最悪以外の何物でもない。
身体能力なら引けは取らないだろう。だが、こと戦技の深さに関しては比較するのもバカバカしい。

見れば、相手はどちらも徒手空拳。戦うなら近接は避け、可能な限り距離を取るべき相手だ。
にもかかわらず、結界によって阻まれそれは叶わない。
かと言って、結界を破壊しようとする瞬間の隙を見逃してくれる筈もなかろう。
見た所二人とも魔力はなさそうだし、別のだれかか、何らかの道具を用いて結界を維持している筈。
戦いながらそれを見つけ出すとなれば、それはそれで手間がかかる。
万全の状態ならいざ知らず、能力リミッターがあるこの状況では……。

「異変はロングアーチも気付いてる筈だけど……」
「ザフィーラに新人達の支援は……望めないね」

何しろ、いまだこの周囲には多数のガジェット達が蠢いている。
なら、その対応に当たる事ができるのはザフィーラだけ。
そして、彼はその場を放棄して新人達の下へ向かう事は出来ない。
彼が防波堤となり敵を減らさなければ、全ての敵が新人達の下へ雪崩込んでしまう。
防衛地点となるホテルの真ん前で、全ての敵を迎え撃つリスクを負う事は出来ない。

故に、二人がすべきことは一つ。一刻も早くこの場を離れる事。
可能なら、目の前の危険な敵を排除した上で。

「やるしかないね」
「うん。多少強引でも、押し通らないと」

相手が達人となれば、最悪力尽くでリミッターを外すことも視野に入れなければならない。
また、お互いが相当な負傷を負う事も。

「私が盾になる。フェイトちゃんはなんとか結界の破壊を」
「…………………………わかった。けど、あまり無茶はしないで」
「しないで済むなら、したくないんだけどね……」

本来は中・後衛のなのはだが、それも時と場合による。
最優先事項は結界の破壊。倒すにしても離脱するにしても、全てはそれからだ。

相手がそんな隙を与えてくれないのなら、隙を作るしかない。
その為には、防御性能の高いなのはが盾となり、速度に長けるフェイトが結界を破壊する以外にないのだ。
フェイトもそれがわかっているからこそ、異論を挟む事はしない。たとえ、どれだけ心が苦しくても。
そうして二人は覚悟を決め、それぞれに愛機を構えた。



  *  *  *  *  *



時を同じくして、ホテル屋上。
全体の指揮を担い周囲に探知の魔法を展開するシャマルと、ホテルの正面に立ち敵と同じ召喚魔導師であるキャロが異変に気付いたのはほぼ同時だった。

「来る!」
『遠隔召喚、来ます!』

二人が反応すると同時に、ホテルの正面と背面に発生する紫の魔法陣。
正面にはⅠ型とⅢ型の混成部隊。背面には、数こそ少ないが0型が五機。
正面は新人達に任せれば良いとはいえ、問題は背面のガジェット。
とはいえ、この状況もまた想定の範疇。

「二人とも、お願い!」
「はい!」
「了解」

詳細など口にするまでもない。
それまで待機していたギンガとコルトは、揃って新人たちとは逆…ホテルの裏へと飛び降りる。
シャマルがそれを最後まで見届ける事はなく、その間に彼女はロングアーチとの通信に切り替えていた。

『シャーリー、状況は?』
『スターズ1及びライトニング1、結界に囚われ状況不明。
 ザフィーラがなんとか森林のガジェットは抑えていますが……』

さすがに数が多く、戦線を支えるので精一杯といったところか。
辛うじて一定ラインより先に敵は進ませていないが、それ以上は望めまい。むしろ、ここはさすがと言うべきか。

『リインちゃんはまだ?』
『ホテルへ戻ろうとしていますが、召喚されたと思われる銀色の虫に阻まれ……』
(今はまだ新人達もなんとか抑えてくれてる。
いざとなれば兼一さんがいるけど……その場合ギンガ達の方が手薄になっちゃう)

とりあえずガジェットの侵攻は抑えられているが、それもいつまで保つか。
なのは達の方も状況がわからない以上、最悪の展開も予想しなければならない。
ならその場合、兼一をどこに振り分けるべきか……前か、後ろか、それとも森か。
そんな決めあぐねるシャマルの下へ、ホテルの中から念話が入る。

『シャマル、あたしも出る! リインと白浜の野郎でホテルを守って、あたしがザフィーラの援護に行けば……』
『いや、部隊長としてそれは許可できん。ヴィータとシグナムは、このまま会場内の警備や』
『はやて!』
『抑えろ、ヴィータ。主の御命令だ』
『でもよ!』

確かに、ヴィータが加勢すればだいぶ外の状況は楽になるだろう。
だが、部隊長であるはやてはそれに待ったをかける。

『みんなが心配なんは私も同じや。せやけど、ここでヴィータが外れたら、どうやって中の人達を守るん?』
『状況から見て、派手に動き過ぎてる。陽動の可能性は捨てきれないわ』
『それは……』

ヴィータが会場内の警備から外れれば、会場内を守るのははやてとシグナムだけになる。
一応ホテルの方でも警備はつけているようだが、AMF環境下で戦える人材がどれだけいるか。
おそらく、実質的に戦力として数えられるのは六課のメンバーだけだ。

確かに会場内の警備にはあの三人がいれば十分だろうが、とにかくお客の数が多い。
ヴィータが離れれば、戦力ではなく数が足りなくなってしまう。

『そう言う事や。この際、ガジェットが何を狙ってるかなんてどうでもええねん。
 何か欲しいもんがあるなら、そんなもんくれてやればええ』
『はやて……』
『その代わり、お客の身の安全は何としてでも守る。これは絶対や』

はやては指揮官であり、六課の責任者だ。
彼女は時に部下に対して「死ね」と命じ、時に部下を切り捨てる非情な判断が求められる。
多数の民間人の安全と危険な現場に立つ部下達。比べる事等出来る筈もないが、決めなければならない。
それを物語る様に、はやての声には苦悩が滲んでいる。

『安心しぃ。最悪、私が出て纏めて薙ぎ払う。ま、ホンマに最後の手段やけど……』

ヴィータやシグナムが動けば会場内の警備が手薄になる。なら、選べる手段はこれだけだ
とはいえ、本来総責任者であるはやてが下手に動く事は出来ない。だから最後の手段。
それでも部隊長として褒められたものではないが、大切な部下を切り捨てる気などはやてにはない。

彼女は広域型。はやてがその気になれば、周囲のガジェットを纏めて破壊できる。
まぁその場合、魔力ダメージに設定しても新人達を巻き込んでしまう可能性があるが、それでも見捨てるよりはマシだ。

『…………………わかった』
『ごめんな』
『はやてが謝る事じゃねぇよ。はやてだって苦しいんだ、ならあたしだって我慢する』

上層部による協議はそこで決着がつき、シャマルは再度状況の把握に努めた。
耳を澄ませば、ホテルを挟んだ正面と裏から断続的に爆発音が聞こえて来る。
どうやら、両方とも今のところは問題なく対処できているらしい。

リインが戻るまでなんとかなれば、後は二人をそれぞれに正面と裏に配置すればいい。
隊長達やザフィーラの事は心配だが、あの三人の力量はシャマルもよく知る所。
きっと大丈夫と自らに言い聞かせ、そこでシャマルはふっと横へと視線を移す。
すると、そこにはギンガ達が戦うホテルの裏を向き、厳しい表情の兼一がいた。

「兼一さん?」
「……すみません、シャマル先生」
「え? って、どこへ!?」
「ギンガ達の方が気にかかります。僕も向こうへ」
「待……なにか、あるんですね?」

一瞬引きとめようとし、思い直す。
確かに兼一は甘い男だし、弟子であるギンガの事を心配しているのは本当だろう。
しかし、この状況で弟子の身だけを案じる男でもない。
彼にとっては、ギンガも新人達も、それどころか隊長達すら守るべき子ども達なのだ。

「すみません」
「……わかりました。行ってください、こっちはなんとかしますから」
「……」
「そんな顔しないでくださいよ。私は元々参謀役ですし、なんとかやりくりして見せますから」

やむを得ないとはいえ、申し訳なさそうな兼一の背を押す。
詳しい事はまだ分からないが、今は彼の思うようにさせるのが最善。
それを、彼女の勘が告げていたのかもしれない。

「……ありがとうございます」
「気をつけて、くださいね」
「わかってますよ」

シャマルを安心させるように微笑み、兼一はギンガ達の後を追って屋上から身を躍らせる。
だが、ホテルからの落下を開始したその時には、兼一の顔からは先ほどの微笑みは既に消え失せていた。

(この気配は、まさか……)

もしそうだとすれば、兼一も相応に覚悟を決めねばならない。
それだけ手強く、危険な、よく見知った相手の気配がする。
同時に、久しく忘れていた死闘の予感に肌が粟立ち、四肢が震える。

何故奴がここにいるのか、何故ガジェット達に加勢する様な事をするのか。
わからないことだらけだが、情報が少な過ぎて答えなど出る筈もない。
むしろ、今重要なのは……

(陽動か……)

気配を消していれば、もっと接近する事も出来た筈。
それどころか、自身の存在をアピールする様なこの気配。

策と言う物にも色々な種類があり、最も厄介な物の一つが『わかっていてもかからざるを得ない』策。
陽動だろうと辺りはついているのだが、兼一にはこれ以外の選択肢がない。
何しろ、今この場にいる戦力でアレの相手を出来るのは兼一だけなのだから。

故に、陽動を無視し本命を迎え撃つ事が出来ない。
一応、通信機越しに陽動であろうことは伝えるが、果たして……。



  *  *  *  *  *



場面は移り、兼一が向かったホテルの裏手とは逆側、ホテルの正面。
そこで防衛ラインを築き戦っていた新人達にも異変が起ころうとしていた。

以前と違い、飛躍的に動きの良くなったガジェット達。
新人達は苦戦を強いられ、思う様に攻撃が当たらない。
それどころか、攻撃が当たっても撃破に繋がらない場合すらある。
その事に誰よりも苛立ち、焦っているのがティアナだった。

「くっ……」

放った弾丸は尽く回避され、空を切るばかり。
アレほど練習したにもかかわらず、結果に繋がらない現実。
焦ってはいけないと分かっていながら、目に映るそれがさらに焦りを助長する。

ミサイルポッドを装備したⅠ型からミサイルが放たれ、それを叩き落とす。
しかし正面に意識を向け過ぎたのか、死角となる木の影からガジェットが姿を現した事に気付かない。
代わりに、それにいち早く気付いた小さな同僚から危険を知らせる声が飛んだ。

「ティアさん!」
「っ!」

ティアナはその場から大きく跳び退き、放たれた光線を回避。
着地と同時に、お返しとばかりに魔力弾を放つが、装甲に亀裂を入れるだけに留まり撃破には至らない。

(こんな、こんな筈じゃないのに……!)

回避に回った事も、撃破出来なかった事も。
全て、なのはの教えからは程遠い。なのはは言った「精密射撃型は、一々避けたり受けたりしてたら仕事にならない」と、「足を止めて視野を広く保つ」、それが射撃型の基本であると。

にもかかわらず、今の自分はどうか。
敵の接近に気付かず、回避に回り攻撃の手が途切れてしまった。
挙句の果てに、当てた筈の一撃は意味をなしていない。
あそこは、なのはなら確実に落としていた筈だ。
それどころか、そもそも受けに回る事もなかっただろうに。

『みんな、あまり無茶はしないで。
 とにかく、防衛ラインの維持を最優先に!』
「はい!」

はやる気持ちを見透かしたかのような、シャマルの指示。
彼女達の役割を考えれば、無理に全滅を狙う必要はなく、とにかくこの場を守り通す事が最優先。
スバルは素直に自分を戒めるが、ティアナはそうは思えなかった。

「守ってばかりじゃ行き詰まります! ちゃんと全機落とせますから!」

通信越しに、シャーリーから懸念の声が届いた。
だがその心配が、さらにティアナの苛立ちに拍車をかける。
その心配がまるで、自分にはできないと言われている様な気がしたから。

「毎日朝晩練習してるんです! この位……!!」

自分と相棒のツートップ、何度も繰り返し練習した連携で一気に仕留める。
しかし、クロスミラージュにカートリッジを装填し、続いてライトニングの二人を一端後ろに下がらせるべく指示を飛ばそうとしたその時、突如ガジェット達が後退を始めた。

「「え?」」
「ティア、これ……」
(どういうこと、なんでガジェットが……)

その意図がわからず、困惑を浮かべる四人。
可能性としては目的を達成した場合だが、未だ防衛ラインは割られていない。
なら、諦めたのか……。
そうティアナが考えた所で、ガジェット達の後ろから一人の青年が姿を現す。
先ほどルーテシア達と合流した、アノニマートだ。

「ああ、みんな御苦労さま。おっかないのは先生がなんとかしてくれるから、こっちは任せて、もう下がってくれていいよ」

アノニマートは手近なガジェットの装甲を労う様に一撫でし、後退するように指示する。
すると、ガジェット達は大人しくそれに従い森の中へと下がっていった。

「さて、と。ごめんね、なんかまだるっこしい手を使ってさ。
 できれば、あの人にはまだ顔を見られたくなくてね」

朗らかな笑顔を浮かべながら、アノニマートはティアナ達へと歩み寄る。
あの男に顔を見られれば、恐らく必ず自分の前に現れる筈だ。
それはそれで興味深かったのだが、それでは目当ての二人と話しができるか怪しくなる。
なので、こうしてこちらに来られない状況が出来あがるまで、姿を隠していたのだ。

しかし、アノニマートの事情等ティアナ達の知った事ではない。
どこのだれかは分からないが、明らかにガジェットやその黒幕との繋がりがあると思われる人物。
なら、ティアナ達がすべきことなど決まっている。
アノニマートの話など無視し、彼を確保する以外にない。

「手を上げなさい。あなたを重要参考人として連行します」
「ん~、それって任意?」
「大人しく来てもらえないなら、力尽くになるわ」
「へぇ……力尽く、ねぇ?」

クロスミラージュの銃口を向け、要求を突き付けるティアナ。
アノニマートはそれに不敵な微笑みを返す。
まるで、「できるものならどうぞ」と言わんばかりに。

ティアナもそれに気付いたのか、彼女の眉間に深い皺が刻まれる。
侮られている、その感覚への不快感が垣間見える表情だ。
だが、ティアナはなんとか平静を保ち、言葉を続ける。

「詳しい話は後で聞かせてもらうわ。あなたの言う『先生』が誰なのか、ガジェットとその後ろにいる誰かとのつながりも含めて、洗いざらいね」
「あれ? もしかして、まだ気付いてない?
 おっかしぃなぁ……確か、ヒントは出してた筈なんだけど……」
「あんなあからさまなプレート、ミスリードを狙ってる可能性もある。信用できるわけがないわ」
「ああ、なるほど。確かに……」

何が面白いのか、アノニマートはクツクツと笑いを零す。
フェイト達が抱いた当然の警戒を嘲笑う様に。

「あ~あ、だからあざと過ぎるって言ったのに…まぁ、いいや」
「それは、黒幕はジェイル・スカリエッティで間違いないって事かしら?」
「うん、そうだよ」
「なら、その調子で全部話してもらいたいものね」
「別にいいけど……」
「やっぱり大人しく捕まってはくれないか。行くわよ!」
「オッケー、相棒!!」
「「はい!!」」

拳を握りしめた瞬間、アノニマートの雰囲気が一変した。
四人はお互いにフォローし合える配置に付き、何が起こっても対処できるよう警戒レベルを上げる。
一瞬たりとも眼を離さない四人。だが……

「僕を捕まえられたら…ね!」

その一言共に、アノニマートの姿が視界から掻き消える。
感じたのは風。まるで、すぐ傍を突風が吹きぬけたかのような感触だけ。
しかし、ティアナとキャロの視線の先では、背後の木に叩きつけられる二人の姿が映し出されていた。
そして、一端は消えたかに見えたアノニマートが、気付けば先ほどと同じ場所に姿を現す。

「「がっ!?」」
「スバルさん、エリオ君!」
(スバルとエリオが、反応できなかった……!?)

前衛であり、タイプこそ違えど速度に長ける二人を容易く殴り飛ばしたのだ。
しかも、ポジションの関係上二人より離れた場所に立つティアナ達にも、その影を追えない速さで。
速い、あまりにも速すぎる。だが、決して対応できない程ではない。
相手がフェイトだったなら、何が起きたか理解する間もなく意識を刈りとられていたのは想像に難くない。それに比べれば、まだ……。

「へぇ~、良い勘してるねぇ。ちょっとビックリ」
「くぅ…行ける、エリオ?」
「は、はい!」
「キャロ、二人にブースト! 前衛が追いつけないと話にならない!」
「はい! ケリュケイオン、スピードブースト!」
《Boost up. Acceleration》

キャロの手元から発せられた光がスバルとエリオへと飛び、二人を包む。
アノニマートはそれを阻むことなく、ニコニコと笑みを浮かべながら傍観を決め込んでいる。
それを見てとったティアナは、忌々しそうにアノニマートを睨む。

「ずいぶん余裕じゃないの」
「え? 違うよぉ~。ただ、折角面白くなりそうなんだから、邪魔するのも無粋じゃない?」
「それが余裕だってのよ! それなら、思い切り後悔させてやろうじゃない!」
「いいね、楽しみにしてる」

何と言われても、アノニマートは態度を改める様子はない。
それどころか、ブーストが完了しても動く素振りすらない。その代わりに……

「ああ、そうだ。そう言えば自己紹介がまだだったっけ。
 自己紹介と挨拶は人間関係の基本だもんね。これを忘れちゃいけない、うんうん」

一人で腕を組み、勝手に納得する始末。
そのあまりに場違いな発言は、ある意味最高の挑発と言えるだろう。
何しろ、「お前達相手に警戒する必要すらない」と言っている様な物なのだから。
だが、アノニマートはその事を意識している様子もなく、相変わらずの緩い態度で名乗りを上げる。

「はじめまして、僕の名前はアノニマート。
 ナンバーズ『番外』、名無しのアノニマートだよ」
「ナン…バーズ?」
「あ、そっちはまだ知らないんだっけ。まぁ、その内わかるよ。でも今は秘密♪」
「口が軽いついでに、なんの事なのか教えてくれないかしら?」
「え~……いいよ」
『いいのかよ!?』

少しでも情報を引き出そうと思っての言葉だったのだが、それほど期待していたわけではない。
にもかかわらず、返ってきたのはまさかの了承。

「おしゃべりは好きだからね。
良いかい? アノニマートって言うのは、とある国の言葉で『名無し』とか『無名』って意味なんだ。
 ナンバーズはその言葉通り、それぞれに数字関連の名前がつけられているんだけど、その中にあっての『名無し』、転じて『数字を持たない者』。だから僕は『番外』なんだ。
 まぁ、この辺りは僕がみんなとちょ~っと違うコンセプトなのもあるんだけどねぇ~」

『でも、あんまりこの名前好きじゃないんだ』と、聞いてもいない事までぺらぺらとまくしたてるアノニマート。
それに四人は僅かに唖然とするが、良くその中身を分析すると、重要な情報がほとんど含まれていないことが分かる。わかった事と言えば、スカリエッティの配下にナンバーズと呼ばれる者達が複数いる事だけだ。数も質も不明、ただ口が軽いだけの男ではない。
その後も、アノニマートはさして重要ではない情報を嬉々として喋りまくる。
やがてそれも一段落ついたのか、満足気に四人に問いかけてきた。

「どうかな、わかってもらえた?」
「ええ、アンタにはしっかり尋問するしかないって事がね!」
「おっと!」

最早付き合っていられないとばかりに放たれる魔力弾。
アノニマートは何気ない動作で首を傾けそれを回避するが、それは囮。
既に左右をスバルとエリオが挟んでいる。
二人は挟撃する形でアノニマートに迫り、そこでまたも敵の姿を見失った。

「え!?」
「そんな!?」
「アハハハ、中々良い攻めだ! うん、やっぱり筋が良い!」
「っ! そこ!!」

瞬間移動の様に背後に現れたアノニマートに、振り向き様に蹴りを放つスバル。
だがそれは難なく回避され、逆に蹴り足に手を添えて来る。
そのまま勢いをコントロールされ、ほとんど力を使わずに投げられた。

「きゃっ!?」
「スバルさん!」

エリオはスバルを助けるべくストラーダを手に突進するが、アノニマートはスバルに追い打ちをかける事なく跳躍。
続いてティアナの魔力弾とフリードの炎弾が迫るも、その隙間を掻い潜っていく。

「ここで殺しちゃうのは勿体無いね、君たちともいい友達になれそうだ。
 もっと修業して、強くなったら遊ぼうよ」
「ふざけるな!!」

幾ら攻め立てても余裕綽々のまま回避を続けるアノニマートに、怒りを露わにするティアナ。
四対一と言う状況にありながら、自分達を敵とすら見ていないその態度が許せなかった。
いや、本当に許せないのは、そのふざけた態度を崩すことすらできない自分自身か。

「エリオ、スバル!!」

ティアナの一声と共に、幻術魔法「フェイク・シルエット」により突如その数を増す二人。
十数人にまで増えた二人はアノニマートを囲むように周囲を動きまわる。

「へぇ……これが幻術かぁ、僕の目も騙すなんてやるねぇ」
「その余裕、いつまでも持つかしらね!」
「まぁ、どこかに本物がいるんだし、適当にやってればその内当たるでしょ」

その言葉通り、手当たり次第に手近な所にいる二人を時に殴り、時に蹴りを入れていく。
だが、当然ながらその悉くが偽物。しかし、アノニマートは特に悔しがる素振りもなく、むしろいつ当たりを引くかわからない状況を楽しんでいる。

ティアナを狙えば早いことくらいわかっているだろうに、それでも敢えて狙ってこない。
その事には腹が立つが、ティアナはなんとかそれを押し殺す。
今はやりたいようにやらせればいい、思い切り吠え面をかかせて、そこで溜飲を下げればいいのだから。

「ハズレ。これもハズレ、ああこっちもか。う~ん、中々当たらないなぁ」

突きや蹴りの激しさとは逆に、どこまでもアノニマートはゲーム感覚で呑気なまま。
しかし、彼は一つ勘違いをしている。
幻影を生み出すだけが幻術ではない。時には、幻で姿を覆い隠すのも幻術だ。

十人目となるスバルの鳩尾への拳。
またも幻影を引いた様で、手応えはなく打たれたスバルの姿が緩んでいく。
だが、その瞬間アノニマートの腕を何かが捉えた。

「って、あれ?」
「キャロ、今!」
「はい! 練鉄召喚、アルケミックチェーン!!」

突如として姿を露わしアノニマートを捕まえたスバルの呼び声と共に、その足元に魔法陣が出現する。
現れたのはピンク色の魔力光を帯びた鎖。それはまるで生きた蛇のように身を揺らし、やがてアノニマートの身体を幾重にも包み込んでいく。
なんとか左腕だけは拘束を免れたが、脚は雁字搦め、右腕もほとんどの自由を失っている。

「お、おお……」
「アサルトコンビネーション…行くよ、エリオ!」
「はい、スバルさん!」
《Explosion》
《Load cartridge》

それぞれにカートリッジを一発ずつロードし、魔力を迸らせる二人。
唸りを上げるリボルバーナックルと、帯電するストラーダによる同時攻撃だ。

「「うぅおおおおおおおおおおお!!」」
「あっちゃ~、これはちょっとヤバいかも……」
「「ストライク…ドライバー!!!」

あまりの威力に舞い上がる爆煙と粉塵。
離れた所にいるティアナとキャロでさえ生じた突風の煽りを受け、粉塵から目を守っている。
少なくとも、この四人の中では最大級の攻撃力をもつ連携だ。
たとえ倒せなかったとしても、相応のダメージは免れない。

「やった!」
「アルケミックチェーンの手応えは変わりません」

それはつまり、未だアノニマートはアルケミックチェーンに囚われたままと言う事。
なら、確実にかなりのダメージを入れた筈。
しかし、そんなティアナの予想は粉塵がはれると共に打ち消されることとなる。

「嘘……でしょ」
「エリオ君!」

粉塵が晴れ、姿を現したのはそこにいて然るべき三人。
だが、その状態が想像と異なる。
アノニマートは僅かに動くその右手がスバルの拳を受け止めている。
それだけではなく、唯一拘束を免れた左腕を目一杯に伸ばし、エリオの顎に掌底を入れていた。

「くぅ~、危ない危ない。
 いや~、効いた。二つの意味で両手が痺れたよ」
「あ、か……」

痺れを払う様にアノニマートは両手を振る。
同時に、顎への一撃で脳を揺らされたのか、その場で崩れ落ちるエリオ。
スバルも拳を引こうとするが、幾ら引いてもアノニマートの手は万力の如く掴んだ拳を離さない。

しかし、そんなこと以上にスバルを動揺させるのは先ほど間近で見た光景。
拳を止められたのはまだいい。チャンスにかまけ、決して防げない場所を打たなかった自分の失策だ。
問題なのは、ストラーダの捌き方とエリオへのカウンター。
何とこの男は、直撃の寸前に左腕を回転させていなし、そのままストラーダを道案内に滑らせるようにして掌打を叩きこんだのだ。
ほとんど身動きできない状態で、攻撃と防御の両方を完全に両立して見せた技量。
今の自分では到底届かない領域の技がスバルに与えた影響は、思いの外大きかった。

眼を見開き、身体を硬直させるスバル。
だがそこへ、ティアナからの指示が飛んだ。

「キャロ、エリオを転送して一緒に下がりなさい!」
「は、はい!」
「ここからは私とスバルのツートップで行く! 行けるわね、スバル!!」
「う、うん!」

ティアナの叱咤によって我に戻ったスバルが再度拳を引くと、今度はあっさりとそれは離された。
スバルがそのまま一端ティアナの傍に戻ると、代わりにアノニマートの足元に出現する蒼い光。
それは、近代ベルカ式を露わす魔法陣だった。
バインド破壊をかけているのか、アルケミックチェーンに徐々に亀裂が入っていく。

「あ、ちょっと待ってね。僕、こういうのって苦手でさぁ、少し時間がかかるんだよねぇ。
 っていうか、身体強化以外はてんでなんだけど」
「どうするの、ティア?」
「待ってやる義理はないわ。今のうちに畳みかける!」

何しろあのスピードだ、受けに回ればジリ貧。
アルケミックチェーンで動きを制限されているなら、その間に叩くしかない。

「でも、正直……」

拳を当てる、その自信がない。それがスバルの本音だった。
エリオと連携してすらあの結果だ、彼女がそう考えてしまうのも無理はない。
そんな事はティアナとてわかっている。こと白兵戦技において、あの男は自分達の遥か上にいる。
勝機を見出すのなら遠距離攻撃だ。

「わかってる。砲撃の準備はしてるけど、まだ時間がかかるわ。私が言いたい事、わかるわね?」

なのはと違い、ティアナに抜き打ちで強力な砲撃を放つ出力はない。
しかし、発動に必要なチャージの時間さえあれば可能。
真っ正直に打って当たってくれる相手ではないだろうし、もう幻術を使ったトリックも効果は薄い。
だがそれでも、勝つ為の方策はこれしかない。

「大丈夫、ティアナらできるよ! あたし、信じてるから」
「うっさい! そんな事言ってる暇があるならさっさと行きなさい!」
「うん!」

相棒を信じ、スバルは再度アノニマートへ接敵する。
鎖はまだアノニマートの身体をなんとか拘束しているが、油断はできない。
この敵なら、この状態から攻撃してきても不思議ではないのだ。
そして、そんなスバルの予感を裏付ける様に、アノニマートは全身に力を入れる。

「すぅ……………………………フン!!」

一喝と共に、砕け散るアルケミックチェーン。
ある程度ヒビさえ入ってしまえば、あとは力尽く。
本人の言を信じるなら身体強化を最も得手としているようだが、それでも馬鹿げているとしか言えないパワーだ。

しかし、スバルの後ろには守るべき仲間が、信じる相棒がいる。
なら、ここで引き下がる事などする筈もない。

「うおりゃああああぁぁぁ!!!」
「ヒュ~♪ 友達を信じて挑む、良いねぇ~、友情だねぇ~。うん、ちょっと羨ましいぞ」

スバルの猛攻を両手で危なげなく捌きながら、口笛を吹く。
侮られていることへの怒りはあるが、それだけの実力がある事もわかっていた。
スバルは怒りを糧に回転を上げ、息もつかせぬよう攻め立てる。

大技は狙わない、そんな隙を見せれば一巻の終わりだ。
とにかく手数を増やし、一秒でも長く食い下がる。

「あ~、でも砲撃とかはちょっと勘弁かなぁ。あれ、受け流すのがしんどいんだよねぇ。
 というわけで、意気込んでるとこ悪いんだけど、狙いは外させてもらうよ」

言うや否や、スバルに背を向けティアナへと向かうアノニマート。
確かに、わざわざ砲撃をチャージしている敵を放置する事はない。
むしろ、タメの時間は狙い時でもある以上、これは常套手段だ。
当然、スバルもマッハキャリバーを走らせその後を追う。だが……

「素直なのは美徳だけどさ……ダメだよ、こんなに手に引っかかっちゃ!」
「ごふっ!?」

それまで一直線にティアナに向かっていたアノニマートは突如転身し、擦れ違い様に膝蹴りを叩きこむ。
自分自身の機動力を逆手に取られた一撃に、たたらを踏みながら息を詰まらせるスバル。
そこへ、側転宙返りをしながらスバルの足を取り、さらには鳩尾に膝を当て、そのまま回転しながら首を極めてエビ反りに持っていく。

「さて、こんな密着距離で、どうやって砲撃を撃つつもりなのかな?
 まぁ友達ごとって言うのも、それはそれで良いかもしれないけど……」
「くっ……」

口ではなんと言おうと、訓練校に入って以来の相棒、親友だ。
スバルは眼で必死に「撃て」と訴えているが、逆の立場でスバルにできる筈がない様に、ティアナにスバルごと敵を撃つ事など出来ない。

「この体勢なら、窒息させるのも首の骨を折るのも簡単だけど……」
「スバル! スバルから離れなさい! 本当に撃つわよ!!」
「いいや、君は撃てないよ」

ティアナの目の前には、既に大きく膨張した魔力の塊がある。
その気になれば、すぐにでも砲撃は可能だ。
しかし、幾ら脅してもアノニマートが動じる様子はない。
彼にもわかっているのだ、ティアナが決して撃てる筈がない事が。

「まぁ、ちょっと待ってなよ。もうすぐ落ちるからさ」
「……」

何とかアノニマートの高速から逃れようともがくスバルだが、徐々にその力が弱くなっていく。
首にまわされた腕で頸動脈を圧迫され、意識が薄れつつあるのだろう。
やがて先の言葉通り、間もなくスバルの身体からは完全に力が抜け落ちた。
そして、アノニマートはスバルを解放して立ちあがる。

「はい、おしまい。ああ、安心していいよ。意識がなくなっただけで、まだ殺しちゃいない。
 さっきも言ったと思うけど、殺すには勿体無い子達ばかりだからね」
「そう………なら、こいつもくれてやるわ! ファントム…ブレイザ―――――――――!!!」

放たれるのは、通常の魔力弾とは比べ物にならないサイズの橙色の魔力の塊。
それは真っ直ぐにアノニマート目掛けて突き進み、進路上にある全てを呑み込み炸裂した。

「あ、当たった……」
「へぇ、結構威力あるんだ。避けておいて正解だったかな?」
「っ!? アンタ、いつ……」
「え? やっぱり危ないから、大急ぎで避けただけだよぉ~」

声のする方を見れば、いつの間にかティアナの傍らに立つアノニマートの姿。
彼は服に付いた汚れを落としながら、当たり前の様に答える。
ティアナは弾かれたように飛び退く。
だが、アノニマートがそれを追う様子はない。
それどころか、ティアナを見る彼の眼にあったのは憐憫の情。

「もうやめなよ」
「なんですって? 好き勝手やって、何を……!」
「君の友達は、みんな実に筋がいい。だけど、君は違う。悪い事は言わない、もうやめた方が良いよ。
だって君――――――――――――――――――――――――――才能ないし」

最後の一言共に、クロスミラージュを構えるティアナの肩がビクリと震える。
それは今、彼女が最も聞きたくない言葉だ。

「別に、戦場に立つなって言ってるんじゃないんだ。ただ、それぞれ分相応ってものがある、わかるでしょ?
 いずれ、君の友達は君を置いて遥か先へと進んでいく。でも、君はいつかついていけなくなる。
 君達の部隊の戦いも、もっと激しさを増す筈だ。だから……」

紡がれるアノニマートの言葉に、ティアナは息をするのも忘れて硬直していた。
クロスミラージュを持つ手が小刻みに震え、胸の奥で形容しがたい熱が芽生える。
しかし、どうしてかそれを表に出す事が出来ない。
だがそこで、ティアナの背後から幼い声が飛ぶ。

「ティアさん、避けて!」
「っ!」
「お?」

ティアナはその声に弾かれた様に真横に飛び、先ほどまでティアナがいた場所を巨大な炎が通り過ぎる。
振り返れば、そこには本来の姿を取り戻したフリード。

「キャロ、こんな所で!」
「でも、もうこれしかありません!」

本来、こんな場所でフリードの力を開放すべきではない。
フリードの力は強力な分、周りに与える影響と被害が大きいのだ。
なのは達ほどの精密なコントロールができるならともかく、今のキャロでは。
しかし、同時にキャロの言う通り、最早前衛は全滅。
こうなれば、フリードの力を開放すべきではないなどと言っていられない。

「あっちゃ~、これじゃ落ち着いて話もできやしない。
 才能があるっていうのも、時と場合かなぁ……」
「キャロ、下がって! こいつは……!」

アノニマートの意図を察し、キャロに指示を飛ばすティアナ。
だが時すでに遅く、気付いた時には既にアノニマートはフリードの目の前にいた。

「ちょっとごめんよ」
「きゃっ!?」

ここまで近づかれてしまえば、かえって巨体が仇となる。
焔を吐く事も出来ず、キャロが背にいる為に身を捩って振り落とす事も出来ない。
また、ティアナが支援しようにもフリードの巨体が陰になって姿を目視できなくては不可能だ。
ティアナは急ぎ場所を変えようとするが、その間にアノニマートはキャロとの距離を詰める。

「じゃ、おやすみ」
「ぁ……」

なんとか迎え撃とうとするキャロだが、元々フルバックの彼女に接近したアノニマートに対応できる力はない。
キャロが動こうとした瞬間を狙って間合いを詰め、アノニマートの掌打がキャロの意識を刈りとる。
それに伴い、フリードも普段の小さな姿へと戻ってしまった。
アノニマートは抱えていたキャロを地面に下ろし、再度話を続けるべくティアナへと歩み寄る。

「さて、どこまで話したっけ………ああ、そうそう。
 だから、足を引っ張る様になる前に異動した方が良いよ。君が、仲間を大切に思うのなら尚更ね」
「…………う」
「イカロスって知ってる? 鳥でもないのに空を飛ぼうとして、結局は落っこちて死んだ愚か者の事だよ。
 君はまさにそれだ。地を這う君が、いくら望んだところで、頑張った所で鳥にはなれない。それどころか、逆に死期を早める事になる」
「…………がう」
「世界は残酷だ、はじめからいるべき場所が決めれていて、それが覆る事はない。
 あったとしても、そんなのは……」
「……違う」
「ん?」
「違う違う違う違う!! 
私は、私はここでもやっていける! 一流の隊長達とだって、どんな危険な戦いだって!
 私の、ランスターの弾丸は、ちゃんと敵を撃ち抜ける!!!」

叫ぶと同時に、左右のクロスミラージュがカートリッジを二発ずつ、計四発ロードする。
それに伴い、彼女の足元には普段以上の輝きを放つミッド式の魔法陣が浮かび上がった。

「あれ? もしかして怒らせちゃった? あっちゃぁ……どうも経験が浅くて、そういう機微に疎いんだよなぁ。
言い方が悪かったかもしれないや、ごめんね。傷つけるつもりはなかったんだよ、ホントに」

本当に悪いと思っているのか、両手を合わせて頭を下げるアノニマート。
彼としては、本心からティアナに忠告したのだ。
この道を進めば命がない。なら、そうなる前に引き返せと。

(先生からも極力殺すなって言われてるし……弱い者いじめは流儀じゃないんだよなぁ……)

スカリエッティからの指示もあるし、何より技を叩きこんでくれた者の薫陶のおかげか。
彼は弱者との戦いを好まない、命を奪うとなれば尚更。
戦うべきは、殺すべきは、自身も命を賭けて戦うに足る強者だ。
殺害という結果は、彼なりの強大な敵への敬意の表し方。

今回の様に、つい将来性の高い相手の力を見定めたくて戦ってしまう事はあるが、その場合には先に期待して殺す事はしない。
そんな彼にとって、ティアナは正直興味の薄い相手。
命をかけて戦うほどの力もなく、将来的にそうなる可能性も低い。
捨て置いても問題のない路傍の石ころ、それが彼のティアナへの認識。
いっそひと思いにと言うのも、彼としてはあまり気乗りしない。

「ああ~、一応言っておくけど……あんまり無茶するもんじゃないよ?」
「だまれ!!」

時間経過と共に輝きを増す魔法陣。
やがて、ティアナの周囲には約15にも及ぶ高密度の魔力弾が形成される。
ティアナはクロスミラージュを構え直し、それらを解き放った。

「クロスファイアー…………………シュ―――――――――ト!!!」

一斉に解き放たれ、アノニマート目掛けて疾駆する魔力弾。
アノニマートはそれらを危なげなく回避していくが、ある時その眼が大きく見開かれた。

「あ、ヤバッ!」
「っ!」

アノニマートに続き、ティアナも異変に気付いた。
彼女が放った弾丸のうちの一発が、意図しない方向へと流れていく。
自身の制御能力を越えた魔力を使用した反動で、あまくなった弾丸の操作。
その行く先には……

「スバル!?」

地に伏し、動く様子のないかけがえのない相棒。
勢いのついた弾丸は最早引きもどせない。同様に、今から撃ち落とそうにもあの弾速と距離では無理だ。
ティアナの表情が悲痛に歪み、声ならぬ悲鳴が上がる。
だが、最悪の未来予想図が現実になる事はなかった。

「ほら、言わんこっちゃない。ダメだよ、友達を巻き込んじゃ」

スバルを救ったのは外でもない、敵である筈のアノニマート。
彼はその速力を発揮し魔力弾へと追いつき、なんとティアナの渾身の魔力弾を鷲掴みにしたのだ。

弾殻を壊さずに受け止める。真正古代ベルカの術者なら理論上可能とされる高難度技法。
高位の達人でも純粋な力加減で可能とするが、アノニマートにそこまでの技量はない。
彼の場合、自身の魔力で弾殻をコーティングした上で掴んでいる。
まぁそれでも、近代ベルカ式の使い手としては破格の技術だが。

「全く、折角の友達候補をこんな下らない事で壊されちゃたまらないよ。
 先生にも怒られるし、間に合わなかったらどうするつもりだったのやら。
 君、その辺わかってんの!」
「あ…ぁ……」

ここにきて、ようやく笑顔以外の表情…怒りを見せるアノニマート。
しかし、ティアナはそんなものは眼に入らない様子で、ただただ動揺を露わにしている。
よりにもよって、自分の手で仲間を撃ってしまった事が、よほどショックだったのだろう。
ましてや、自分が撃ちそうになった相棒を救ったのは敵なのだから。

「やれやれ、何て無様な……だから君みたいな人は戦場に立つべきじゃないって言ってるんだ。
 ほら、これ…返すよ」

放心状態のティアナへ向け、アノニマートは無造作に掴んだ魔力弾を投げ返す。
今のティアナにそれを避ける意思も、撃ち落とす気概もない。

この瞬間、確かに彼女の心は折れていた。
どんな状況であろうと敵を撃ち抜くランスターの弾丸が、守る為にある筈のこの力が仲間を撃ったと言う事実。
その現実が重くのしかかり、敵ではなく自分の行いによって心が折れている。

ティアナのそんな心情など斟酌することなく、魔力弾は無情にも着弾。
その身体はまるで命無き人形の様に弾き飛ばされ、地面を転がっていく。
だが、ボロボロになっても彼女の中に残った何かがその身体を突き動かす。
緩慢な動作で身体を起こすティアナだが、その姿がアノニマートの中に強い苛立ちを植え付ける。

「…………そうか、虫はひと思いにって言うのは、こういう感覚なのか」

自身の中に芽生えた苛立ちの意味を理解した瞬間、アノニマートの瞳から感情が消えうせる。
どこまでも冷たく、酷薄にして非情な眼差し。
あるのは、ただ明確なティアナへの殺意だけ。

「まぁ、そんなになっても立ち上がろうとする気概はたいしたものだよ。
 そんな相手に手を抜き続けるのも失礼なんだろうし、その意味ではきっちり殺すのが礼儀か……」

しかし、言うほどティアナを見るアノニマートの目に敬意の類がある様には見えない。
むしろ、その瞳に宿るのは鬱陶しい虫けらを見る様な侮蔑すら宿っている。

「でも、こっちとしては無様過ぎて見ていられないんだ。
 まぁ、苦しまないように殺してあげるから、迷わず逝きなよ」

アノニマートはゆっくりと手を貫手の形へ変え、大きく引き絞る。
狙いは心臓、彼の貫手では胴体を貫通とはいかないが、それでも充分致命傷を狙える。
そして、大地を蹴ったアノニマートは一本の矢と化してティアナを貫きに行く。

だが、ティアナの胸へ貫手が刺さろうとした瞬間、その間に割って入る黒い影。
アノニマートの貫手はその影に阻まれ、硬い何かによって防がれた。

「あれ?」
「ったく、様子がおかしいと思って獲物を諦めてまで来てみれば、なんだそのザマは……」

現れた人影は、背後のティアナを一瞥して吐き捨てる。心の底からの侮蔑をこめて。
しかし、続いてアノニマートへと視線を移すとその眼に獰猛な光が灯る。

「まぁ、代わり以上の得物がいるんだ。その辺は大目に見てやるか。
 その情けねぇツラも、ようやくケリがつくと思えば我慢できるってもんだしな」

人影は手に持った杖でアノニマートを振り払い、深く腰を落として杖を構える。
まるで、ティアナを守る様に。
普通なら何もおかしくはない光景。だが、それをやる人間がこの男では違和感が際立つ。
なにしろ、機動六課において唯一仲間意識と無縁な男なのだから。

「さて―――――――――――――――――――――――――――――借りは返したぞ、ランスター」






あとがき

さて、ついに前半の山場の入り口でございます
武術の世界とかオリキャラが絡んできた事で、色々と変化してますけどね。
まぁ、アグスタ自体はあくまでも入り口であり、コルトはその一部でしかないわけですけど。

とりあえず、次回のはじめでなんでホテルの裏手にいる筈のコルトが出しゃばってきているのかはわかります。
同時に、できればアノニマートの詳しい情報とか、ギンガや兼一の事も出したいですね。
とはいえ、アノニマートの事はもう考えるまでもなくだいたいどんな人かわかりそうですが。

そして、できれば次、最悪次の次でアグスタはケリの予定。あくまでも予定なので、どうなるかは不明ですが。
しかし、当方のティアナは今のところ徹底的に情けない事になってますね。
まぁ、その辺も追々挽回していくつもりですが……。とりあえず、昔の兼一に比べれば…ねぇ?

ちなみに、最近なんだか闘忠丸を書きたくて困ってます。
あとがきのおまけにでも書きたいんですが、実は何も決まっていないも同然。
というか、ケンイチから闘忠丸のみ出演で「リリなの」と絡ませるとすればどうすればいいのやら。
でもやりたいし、どないしよう……。



[25730] BATTLE 27「友」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/11/22 01:00

それは、とある少年の話。
これと言って将来への展望もなく、ただ意味もなく力を振るう少年がいた。
力の使い道など考えた事もない。手にした力でしたい事も特にない。

そんな少年に訪れた、二つの転機。
一つ目は、師との出会いだ。

碌に学校にもいかず、家にも帰らず、野良犬の様に街を徘徊していた時。
偶々肩がぶつかったと言うだけの理由で始めた喧嘩。
相手は少数とはいえ複数、対して少年は一人。多勢に無勢だったがかまわず喧嘩を買った。
双方ともに故郷では煙たがられる不良だったので、誰もが見て見ぬふり。

結果は少年の勝利。
ただし、華麗さや余裕などとは無縁。
それは、単に負けん気と根性だけで掴んだ勝利だった。
相手も自分も同じくらいボロボロ。審判でもいれば「引き分け」と判定するであろう無様さ。

それでも、少年にとってはいつもの事。
だが、その日は「いつも」と違った。

いつもの様にいつの間にか顔見知りになっていた局員に追われ、身を隠した廃屋。
誰もいないと思ったボロボロの屋敷から姿を現した老婆。
老婆は手に持った杖で少年の頭を強かに打ち……

「勝手に人様の家で何してんだい、このクソガキ!」

と一喝。そのまま近くの警防署に引き渡されるかと思ったのだが、そうはならなかった。
あろうことか、老婆は少年の襟首を掴んで庭の真ん中まで引きずっていき、こう言ったのだ。

「丁度いい。折角だから草むしりでもしていきな」
「はぁ!? なんで俺がんなことしなきゃいけねぇんだよ、ババァ!! ぐがっ!?」

再び頭に走る衝撃。
見れば、今度は杖ではなくゲンコツで頭を殴られた事がわかった。

「口のきき方に気を付けな、ガキ。あたしはこの家の家主。で、アンタはこの家のおかげで難を逃れた。
 その礼をするのが筋ってもんさ」
「知った事か! 草むしりでもなんでも、やりたきゃ自分でやれ!」

そのまま、売り言葉に買い言葉で喧嘩に突入。
結果は…………無傷の老婆とボロ雑巾になった少年と言う形。
だが、どれだけボロボロになっても、少年は一向に負けを認めようとはしない。

「ま…まだ…ま、だ……」
「ふむ、負けん気だけは人一倍さね。若い若い。
 ま、その負けん気と度胸は買ってやろうかね」

何がおかしいのか、愉快そうに笑いながら老婆は少年の意識を刈りとった。
さすがに、意識を失ってまで「負けていない」と主張はできない。
意識を取り戻した少年は、渋々老婆の命令に従い草むしりに勤しんだ。

翌日。前日同様街を徘徊していると、三度頭に衝撃。
頭を抑えつつ振り向けば、そこには昨日良い様にこき使った老婆の姿。

「ったく、いくら待てども来ないと思ったら、こんな所をほっつき歩いてたのかい」
「なんのようだ、ババァ」
「草むしりだよ」
「はぁ!? それなら昨日終わっただろうが!」
「バカを言うんじゃないよ。あんなもんじゃ、うちの庭の半分も終わっちゃいないさね」

実際、荒れ果ててこそいたが屋敷はバカみたいに広く、少年がやった分は半分にも満たなかった。
昨日は遅くなったから切り上げただけで、まだ終わっていないからやれと言うのが老婆の主張。
当然少年は反発したのだが、前日同様叩きのめされて連行。
そのまま強制的に草むしりをさせられた。

その後も、事あるごとに雑用を押し付ける老婆。曰く、「丁度家政夫が欲しかった」らしい。
今となっては真意は定かではないが、どれだけ逃げても見つけ出し、とりあえずボコられて連行。
已む無く言われるがままに雑用をさせられた。

そんな事が一月ほど続いたある日の事。
まだ日が落ちるまでまだいくらか時間を残した所でその日の雑用を終えると、老婆がこんな事を言い出した。

「ふむ、やりゃできるじゃないか。
 その働きに免じて、駄賃くらいはやろうかね」

言ってる内容は超上から目線。
別に好きでやってる訳じゃないと声を大にして主張しても、老婆は右から左に聞き流す。

「ほれ」
「なんだよ、この棒っきれ」
「良いから持ちな。アンタの喧嘩は無様過ぎて見るに堪えないんだよ」
「ほっとけ、てめぇには関係ねぇだろ」
「確かに関係ないね。ま、薄汚い野良犬への慈悲だよ。
 あたしが教える事なんて滅多にないんだ、有り難く思いな」
「この、クソババァ……!」
「悔しかったら、アタシに一撃でも入れてみな。やり方くらいは教えてやるよ。
 幸い、アンタは頭も態度も悪いけど筋だけは悪くないからね。涙を浮かべて感謝しな、クソガキ」
「誰がするか!!」

そうして始まった、雑用の後の修業の日々。
決められた時間までに来なければ、どこであろうとお構いなしに捕縛し連行される。
その後、修業雑用を問わず何をやるにしてもまず一戦。負けた方は勝者の言う事を何でも一つ聞くというルール。
特に取り決めたわけではないが、いつの間にかそれが暗黙の了解となっていた。
当然ながら少年は負け続きで、良い様にこき使われ、されるがままに技を叩きこまれる。

気付けば、一応「師弟」という間柄が定着していた。
相変わらず、少年は徹底的にしに反発し、老婆は少年を丁稚扱いしていたが。
それでも、少年は何も言われなくても老婆の家に入り浸るようになり、街で喧嘩をする事は格段に減った。
代わりに、まともにやっては勝てないので、老婆に不意打ちを仕掛けては返り討ちにあうのが日常と化していたが。まぁ、老婆は老婆で「気を抜くな」と不意打ちを仕掛けてきたので、この点に関してはお互い様かもしれない。

これが一つ目。
そして、そんな日々がしばらく続いたある日、二つ目の転機が訪れた。
いつもの如く師の下でボロ雑巾にされ、買い出しを仰せつかって外に出た時。

師は「叩いて伸ばす」方針らしく、怪我をしない程度に痛めつける。
その力加減は絶妙で、とりあえず事故など起こさずお使いを済ませる程度の体力は残されていた。

しかし、その日は運が悪かった。
以前、まだ街中を徘徊していた頃にのした不良の一団。その御礼参り。
それ自体はまぁ、割とつつがなく撃退できた。
師の教えは本物だったらしく、疲労困憊の体ながらほぼ無傷で撃退できたのだから大したものだろう。
少年も、不承不承ながらその成果は認めるしかなかった。

とはいえ、それでも完全に無傷とはいかなかったのが災いしたのだろう。
体に蓄積したダメージが噴出し、僅かに立ち眩みを覚える。
少年は歩道から車道へと踏み出し、そこへ迫る一台のトラック。

反応が遅れ、防御も回避も間に合わない。
それはトラックも同じで、ブレーキの甲高い音が響いてはいても減速する気配はなかった。
最早覆しようのない、抗いようのない結末が迫る。
その時少年が思ったのは、あまりにも呆気ない終わりではなく……

(ちっ、遅れるとババァが五月蠅ぇってのに……)

と言うものだった。
目をつぶる事はしない。目をつぶったからと言ってトラックが消えるわけではないからだ。
だが、トラックが鼻先まで迫ったその瞬間、トラックを含めた周りの景色が真横にずれた。

真横に倒れた視界。服越しに伝わる硬い地面の感触。そして、胴から伝わる人肌のぬくもり。
それを認識した時、少年に聞き覚えのない男の声が掛かった。

「おい、大丈夫か!」

その声に導かれ顔を上げると、そこには茶色の髪をした整った青年の顔。
ようやく、少年は自分がその青年に助けられた事を理解する。

助けられた以上、礼を言うのが筋。その程度は少年とて理解している。
しかし、少年はどこまでも素直になれない性分だった。
だから、口をついたのは心にもない憎まれ口。

「別に、助けてくれなんて頼んだ覚えはねぇ」

無礼で恩知らずである事はわかっていた。
そんな自分に嫌気がさしたが、それでも言ってしまう難儀な性分。
所が、青年は特に少年の言葉を不快に思った様子もなく、苦笑を浮かべていた。

「そいつは悪かった。君も男だ、自分のことくらい自分で守れるもんな」
「…………当たり前だ」
「それじゃ、今回の事は貸しって事にしとくか。じゃあな、車には気をつけろよ」

少年の強がりをどう受け取ったのかは分からないが、青年は少年に背を向けて去っていく。
もしかしたら、彼はあくまでも少年の自尊心の為に言っただけかもしれない。

だが、少年はその言葉を本気にした。
『貸し』ができたのなら必ず返せ。そう、彼は師に教わっていたから。

「待てよ! アンタ、名前は……」
「ん?」
「名前だよ、名前! 名前もわからねぇんじゃ、借りの返しようがねぇだろ!」
「ああ、そうか。俺の名前はティーダ、ティーダ・ランスターだ。君は?」
「コルト…アヴェニス」
「そうか、じゃあなコルト。気長に待ってるから、そのうち返してくれ」

それから、少年は少し変わった。
それまで何の興味も持たなかった勉学に取り組む様になり、それまでの遅れを取り戻すべく猛勉強を始めたのだ。
師はそれを見て首を傾げ、続いて尋ねた。

「いったいどういう風の吹きまわしだい? バカのアンタが勉強なんて」
「別に。借りを返すにはこれが手っ取り早いと思っただけだ」

服装から、相手が管理局の人間と言う事はわかった。
なら、局に入ってしまうのが手っ取り早いと考えたのだろう。
同じ部隊にでも所属できれば、借りを返す機会くらいはある筈だから。

まぁ、それまで碌に学校にもいかずにいたので、当然かなり苦労したが。
おかげで、管理局入りを志すようになって実際に訓練校に入るまで、かなりの時間を必要としたほどだ。
しかし、後日少年は知った。自分が借りを作った男、ティーダ・ランスターが死んだ事を。

「で、どうするつもりなんだい?」
「………………」
「借りを返す筈の奴は死んだ。なら、チャラって事にもできると思うがね」
「……借りは返す、これは絶対だ」
「どうやって? 返す奴はもういないんだよ」
「知るか。そんな事は入ってから考える」
「ま、バカらしい答えかね。とりあえず、踏み倒さなかっただけ上出来だよ」

やがて時は経ち、ようやく陸士訓練校の入試に合格。
時を同じくして師が亡くなっても、彼はその考えを変えはしなかった。

とりあえず管理局に身を置き、借りの返し方を考え、何年かけてもそれをなす。
見つからなければ継続して、局に身を置くつもりだった。
管理局の中は窮屈で居心地が良いとは思わなかったが、借りを返せずにいるよりはマシだから。

そこで、出会った。
かつて自分を助けたあの青年と同じ名前の少女。

だから気にかけた。アレは彼に借りを返す現状で唯一の方法。
一度命を救われた、ならば命を救う事でそれを返す。本人がいないなら、その妹で。
それでようやく貸し借りはチャラ。そして、この日コルトはようやく目的を達したのだ。



BATTLE 27「友」



場所はホテルの裏手。
すぐ目の前には手付かずの大自然、後方には機能性を重視した白亜の建造物がそびえたつ。

よく知る気に呼ばれ現れた兼一は、ホテルを囲む白亜の塀の上からギンガとコルトの闘いを見守っていた。
既に二人は0型の弱点も攻略法も承知の上。
その格闘スキルは厄介だが、対策も叩きこまれている。
御蔭で早々に2機撃破したようだが、やはり元のデータがデータだ。
そう簡単にやらせてはくれないらしい。

「あっちはボリス、それにレイチェルさん……雷薙さんもか」

となれば、最も厄介なのは酔八仙拳を操る雷薙のデータが入ったエンブレムのない機体か。
何しろ、主要なYOMIの対策をたたき込むので精一杯。
さすがに幹部級以外の対策までは手が回らなかった。

特に地躺拳独特の低空攻撃や、酔八仙拳の捉えどころのない動きはやり辛いだろう。
実際、それを相手取るコルトは中々に苦戦を強いられている。
もし、コルトに少しでもギンガと共闘する意思があれば、多少は楽になるだろうに……。

「手を出して、蹴散らすのは簡単だ。でも……」

弟子や子どもの戦いに、果たして手を出すべきかどうか。
武人としてなら手を出すのはお門違いなのだが、これが陽動なら話しが複雑になる。
ここは兼一が受け持ち、二人には敵の本命を対処させるべきではないか。
何しろ0型だけならまだしも、その後に控えるアレの相手は二人には荷が勝ち過ぎる。
本命の方も対処できない可能性は捨てきれないが、そんな事を言い出すときりがない。
その辺りを悩む事も策のうちだとすれば、かなり嫌らしい策を練るものだ。

だが、策士ではない彼の読みはまだ甘かったのかもしれない。
恐らく、後に控えるそれが出てきてから策は動きだすと思っていた。
しかし、実際には既に策は動き始めていたのだ。

『きゃっ!?』

通信機越しに漏れてきたのは、反対側…ホテルの正面で防衛ラインを敷く新人達の一人、キャロの声。
モニターを出していないため正確な状況はわからないが、何かが起こったのは明白。
その事にはギンガやコルトも気付いたらしく、ギンガの動きが一瞬鈍り、対処できた一撃をもらってしまう。

「コルト、向こうで何か起きた! 急いでケリをつけないと……!」

ギンガは「鋼」にエンブレムを持つ機体に双掌打を打ちつつコルトに叫ぶ。
本格的に焦っているらしく、コルトの事をファーストネームで呼んでいることからもそれが伺える。
だが、普段なら即刻訂正するコルトも、特にその事に反応を示さない。
どうやら、今の彼もそんな事を気にしていられる状況ではないようだ。
しかし、そこで再度向こう側の音声が三人の下へ届く。

『違う違う違う違う!! 
私は、私はここでもやっていける! 一流の隊長達とだって、どんな危険な戦いだって!
 私の、ランスターの弾丸は、ちゃんと敵を撃ち抜ける!!!』
「ちっ! あのアマ、何をやってやがる!」

聞こえてきたのはティアナの悲痛な叫び。
コルトはそれに舌打ちすると、短距離瞬間移動で一端距離を取った。そして……

「しゃーねーか……こいつらはくれてやる。あんま壊すんじゃねぇぞ!」

再度転移し、完全にその場から姿を消してしまう。
それに唖然としたのはギンガだ。確かに「急ぐべきだ」とは言ったが、まさか丸投げしようとは。
しかも、あのコルトが目前の敵を無視して。というか、それ以前の問題として……

「って、あなたが消えてどうするの!!
 纏めて一網打尽にするのはあなたの担当でしょうが!!!」

虚しくこだまするギンガの怒声。
だが、その間にも敵の攻勢が緩む事はなく、むしろギンガ一人になった事で全ての攻撃が集中する。
その対応に追われ、間もなくギンガには文句を言う余裕すらなくなった。

しかし、彼女が怒鳴ったのも無理はない。
近代ベルカ式の使い手であり、打撃系のフロントアタッカーであるギンガに、一度に複数の敵を攻撃する方法はほぼないに等しい。あっても、仕留めるには弱過ぎる。
その点では、まがりなりにもミッド式の使い手であり、ケイローンと言う射撃系魔法があるコルトの方が遥かに向いているのだ。

そのコルトが、まさかギンガに全てを押し付けて雲隠れしようとは……。
てっきり、一端距離を取ったのはケイローンを使うためだと思ったのに。

いや、行き先はわかっている。というか、行く先など一つしかない。
あのコルトが新人達の危機に動いたことは驚きだが、仲間意識が芽生えたかもしれないと思えば嬉しくもある。
が、それとこれとは話が別だ。

まぁ、いないのに文句を言っても仕方がないし、とにかくやるべき事は一つ。
文句は、あとで思い切り言ってやればいい。何より、今はそれどころではない。
叫んでいる間にも、三機の0型は標的をギンガに絞って集まってきていた。

『――――――』
「ひゅっ!」

三機それぞれから放たれる初撃を、ギンガは身を捩って回避。
その後も、三方を包囲されながらも器用に追撃を捌いていく。

幸い、0型は連携など考慮していないらしく、動き自体はてんでバラバラ。
まぁ、そうでなければさすがに三対一で全てを捌き切るなど不可能だったろうが……。
とはいえ、だからと言って時間をかけて倒すのでは遅い。

(向こうの様子も気になる、悠長にはしていられない! 急がないと!!)

しかし、ギンガに一度に複数の相手を纏めて倒すことに向かない。
やるなら一機ずつ、手際良く潰していくべきだ。

ギンガは包囲する三機の中から「氷」の機体に狙いを絞り、チャンスを待つ。
エンブレムのない機体は捉え所がなく、「鋼」は動きが不必要に派手で逆にやり辛い。
その点「氷」は合理的で無駄がない分、動きに惑わされることが少ないという判断だ。

(……ここ!)
「―――――――――――――」
「はぁぁぁぁぁぁ!!!」

連携を度外視して好き勝手に動く三機の間隙を縫い、渾身の後ろ回し蹴りが「氷」を弾く。
ギンガはその後を追って畳みかけ、同様に残る二機もその後を追う。

ウィングロードを走り、ギンガの貫手が「氷」の肩へと伸びる。
敵はそれを腕で払うも、間もなく影から現れた左拳が払った腕を砕いた。

だが、機械である敵は動じた素振りも見せず、砕かれた腕で殴りかかってくる。
ギンガはそれを左手に展開したバリアで防御。
しかしそれは囮、無くなった腕で殴りかかった分詰められた間合い。
『氷』はそれを利用し、近距離からの頭突きへと持って行く。

「っ!?」

ギンガはそれを反射的に右掌で抑える事で受け止めた。
古流空手の口伝の一つに「夫婦手(めおとで)」と言う技法がある。両の手をつかず離れず同時に動かす手法で、前後の手がそれぞれ攻撃と防御の両方を担う技術だ。

そのままギンガは左手を右腕の肘に添え、思い切り押し上げる。
すると、密着距離でありながら片手分の面積に両手の力が乗り、「氷」の首が大きく揺らぐ。
『馬式 裡肘託塔(ばしき りちゅうたくとう)』という、馬剣星の隠し技の一つ。

ギンガはトドメを指そうと拳を振り上げるが、その動きが止まる。
見れば、いつの間にか残された敵の腕がギンガの襟を掴んでいた。

「しまっ……!?」

た、と言う前に、敵は器用に片腕でギンガを投げる。
危うく地面に叩き落とされそうになるが、片手だった分握りが甘い。

《Wing road》

ウィングロードを再度展開、ブリッツキャリバーを唸らせ振りほどきながら離脱。
その瞬間、ギンガの首筋が突如ざわめく。
咄嗟に喉元にシールドを展開し腕でガードすると、硬い衝突音が響いた。

そこにいたのは、斜め下から飛びかかり、両腕を交差し喉元を鋏の様に挟みこもうとする「鋼」。
防御が僅かに遅ければ、危うく首に多大なダメージを負っていた事だろう。

とはいえ、この距離は彼女としても望む所。
ギンガはその場でバインドを展開。この相手ならAMFもあって間もなく引き千切るだろう。
しかし、一瞬でも間があれば十分。

シールドを解除し、ガードした腕も解いて交差された敵の腕を取る。
そのまま背負い投げへと持って行くが地面まで距離がある以上、着地なり受け身は取られる筈だ。
その意味では、劇的な効果は期待できない。そう、これだけなら。

見れば、頭上には重力の力を借りたエンブレムを持たない機体の姿。
それはギンガ目掛けて空中からの落下を利用した足刀蹴りを放ってくる。
だが、丁度その間へ滑り込む様に投げられる「鋼」。
「空側踹腿(トンコン・ツーチュアイトゥイ)」と呼ばれるそれは今更方向転換もかなわず、吸い込まれるようにして「鋼」の背に突き刺さる。
結果的に、「鋼」はギンガではなく味方の攻撃によって半ばから真っ二つにされた。

「残り…2機!」

その内の一機も、今は標的を捉え損ねたことにより落下の最中。
戻ってくる前にもう一機を仕留められれば、だいぶ楽になる。

探す必要はない。
何しろ、既に「氷」は間近まで迫り攻撃態勢にある。
しかし、ギンガに言わせれば単独でここにいる事自体が失策。
やはり、人間ほど柔軟に物事を判断し技術を応用できないのは、この機体の決定的な弱点だ。

目前まで迫る重い突き。
ギンガはそれを敢えて避ける事も受けることもせず、棒立ちのまま。
だが、それがギンガのすぐ目の前まで来たところで異変が起こる。

異変の正体は「消失」。
脚場であったウィングロードが消え、両者は重力に引かれて落下を開始する。
0型にも多少の浮遊能力はあるようで、「氷」は落下速度を緩やかにしつつ体勢を立て直す。

しかし、その間にギンガはウィングロードを展開。
頭上を取り、ウィングロードから飛び降りて両の肘を落とす。

「いやぁ!!」

「飛翔猿臂落とし(ひしょうえんぴおとし)」。
本来は空中三角飛びを利用するのだが、代わりにウィングロードを用いた頭上からの両肘落とし。
さすがに全体重と重力による加速を用いた一撃は防ぎきれず、残された腕で防ぎながらも勢いよく地面へと落下する。

落下の衝撃により舞い上がる土埃。
土埃が晴れると、そこには見事なまでにひしゃげた「氷」の姿。
これで二機を撃破、残るは一機。

「次!」

残るは、先に落下したエンブレムを持たない機体。
ただ、アレは地面すれすれの低空攻撃を得手とする。
ここで気を抜けば、痛い目を見るだけでは済むまい。
そして、その事実を裏付けるように……

《警報、後ろです》

相棒からもたらされる警告。
ギンガが振り向き様に裏拳を放つと、手首を曲げた鶴頭の部分「酔盃手(すいはいしゅ)」がぶつかり合う。
両者は弾かれた様に一端距離を取るが、片足で立つ敵はユラユラと揺れてどこか頼りない。

だが、ギンガはそれを隙と見て攻めようとはしなかった。
横目で見たコルトとの戦いで、それが誘いでしかない事はすでにわかっている。

「時間が……ない」

ホテル正面からの通信はない。妨害されているのか、する余裕がないのかは分からない。
だからこそ、あまり悠長にもしていられないのだ。

多少無茶でも、ここは強引に押し進む。
覚悟を決めたギンガは、誘いと知りながら足取りのおぼつかないように見える敵へと向かう。

迫るギンガに、敵は軽く地面をけって跳躍。
ギンガの頭上を通り過ぎながら、空中で反転し後頭部に肘打ちを放つ。
「漢鐘離(かんしょうり)」という、酔八仙拳の技だ。

ギンガはそれをバリアだけで防御。
あまりの衝撃にバリアは砕け、回転により勢いのついた肘が首を襲う。
とはいえ、バリアを隔てた事で必倒の一撃には至らない。

なにより、元よりギンガはダメージなど覚悟の上。
その場で反転し、敵を正面に捉えたギンガはダメージと引き換えに溜めこんだ力を解放する。
全力で伸び上がったアッパー気味の拳が突き上げ、追い撃ちに敵の頭を抱え込み「カウ・ロイ(飛び膝蹴り)」で顔面を潰した。

「これで………終わり」

多少無茶をした分首にダメージを負ったが、それでも強く柔軟に鍛えられたおかげで覚悟したほどではない。
その事を純粋に師に感謝し、今度こそスバル達の下へ向かおうと振り向けば、そこには兼一の姿が。

「ぇ、師匠?」

何故ここに師がいるのか。訳が分からずギンガは頭に疑問符を浮かべる。
てっきり、とっくの昔にスバル達の援護に行っていると思っていたのに……。

だが、そんなギンガに兼一は褒める様に優しく微笑んだ後、すぐに表情を改め森の奥を睨む。
その表情は厳しく、尋常ならざる何かを感じさせた。
ギンガは聡い娘だ。明らかに普段と違うその雰囲気から、師がここに「いるしかない」事を看破する。

「なにか、いるんですね。それなら私も……」

スバル達の事はもちろん気にかかる。
しかし、果たして師だけを残してこの場を離れていいものか……。
僅かにそんな逡巡を見せる弟子に兼一は苦笑するが、すぐに表情を改めた。

「いや、大丈夫だよ。懐かしい友人が遠路遥々尋ねてきただけさ」
「え? 友達…師匠の?」
「ああ、しばらく会ってなかったけど、昔は何度も拳を交えた間柄だ」

嘘……ではないのだろう、とりあえずは。
その意味も理由もないし、特にこの男は取り繕うのは上手くても嘘が下手だ。
仮に嘘だとしても、つくならもう少しマシな嘘をつく筈。

とはいえ、ただの友人と言う事もありえない。
何しろ今は、紛れもない荒事の最中。
普通の友人なら時と場所を改めれば良いし、そもそも森の奥から来る理由がないのだ。

ならば、尚の事この場を離れるわけにはいかない。
自分がどの程度師の力になれるかわからないが、それでもいないよりはマシと信じたい。
ギンガは意を決しその場に残ろうとするが、兼一はギンガの肩に手を乗せ軽く引く。

「? 師匠……」
「スバルちゃん達が気になる、行ってあげなさい」
「でも!」

自分程度の実力で師の心配をするなどおこがましい事は承知の上。
だが、それで感情を納得させられれば世話はない。

それに、スバル達の下にはコルトが向かった。
性格はあんなだが、腕の方は信頼できる。
しかし、そんなギンガに兼一は首を横に振りホテルの正面を指差す。

「できれば、より高度な闘いを見せてあげたいんだけどね。
 だけど、向こうの風向きもよくないみたいだ」

故に、今はそんな悠長な事を言っていられる場合ではない。
速く行き、為すべき事を為すのが今のギンガの役目だから。

「弟子の闘いに師匠は出ない、弟子も師の闘いに出て行かない。
 それが武人のルールだ。そう、教えただろう?」
「…………」
「いきなさい」
「……………………………はい!」

兼一は尚も迷う弟子に苦笑しながら、軽くその背を押してやる。
それでようやくギンガも決心がつき、兼一に背を向けウィングロードを伸ばす。

できれば師の戦いを見届けたい。勉強になると言うだけではなく、もっと他の理由で。
だが、ギンガは状況が理解できないほど愚かではなかった。
ここにいてもできる事はないが、他ですべき事が残っている以上是非もない。
しかし、去り際にギンガは一瞬だけ振り向いて胸中で呟く。

(師匠……どうか、無事で)

何故そんな事を思ったのか、ギンガにもよく分からない。
並々ならぬ覚悟であの場に立つ師を見た瞬間、心の片隅に宿った重さ。
言いしれぬ不安を振り払う様に、ギンガは首を振って突き進む。
そして、その場に残った兼一は森に向かって呼びかけた。

「悪いね、時間を取らせて。僕の用はもう済んだ、そろそろ顔を見せてくれないか?」
「…………………ソーリー、話しを急かしてしまったか?」
「いや、そんな事はないよ」
「そうか、それを聞いて安心した。そして……久しいな、友よ。
ユーが武の世界に戻った事、嬉しく思う」
「ああ、ありがとう。久しぶりだね、イーサン」

兼一の呼びかけに応じ、森の奥深くから現れたのは、短い金髪のイーサンと呼ばれた屈強な大男。
左目にはうっすらと縦の傷跡があり、他にも所々に傷跡が見て取れる。
厳つい顔立ちと無数の傷跡のせいで、かなりの強面だ。
しかし、その割には纏う雰囲気は静かで、兼一を見る目も穏やかそのもの。
その瞳には、確かに古い友人との再会の喜びがあった。

「それで、あの少女がユーの弟子か?」
「ああ、自慢の一番弟子だよ」
「今の闘いぶりはミーも見た、良い弟子を持ったな。
素直で生真面目、同時に才気に溢れ、何よりも師を慕っている。
元は別のアーツ(技)を学んでいただろうに、一技一技からユーへの信頼が見て取れた」
「わかっているつもりだったけど、君にそう言ってもらえるとやっぱり嬉しいよ」

イーサンがギンガへの手放しの称賛を口にすると、すぐにこらえ切れなくなり破顔する兼一。
本人の言う通り、自慢の弟子を褒めてもらえた事が嬉しくて仕方がないのだろう。
二人の間に流れる空気は和やかで、本当に友との再会を喜びあっているように見えた。
とそこで、男は僅かな驚きを込めて話題を変える。

「だが、意外でもある」
「え?」
「てっきり、ユーはユーと同じくギフト(才能)に恵まれない者を好むと思っていたのだが……」
「まぁ、才能に恵まれない人への思い入れは人一倍だと思うけどね。
でも、才能と人格は別じゃないかな?」
「確かにな……」

白浜兼一は相手を才能で選ぶ様な男ではなく、人格…心のあり方を重視する。
幾度も拳を交え、個人的な交流もあるイーサンはその事をよく知っていた。
そういう意味では、才能のない者を選んで弟子に迎えるのだとしたら、それはそれで一種の選別。
自身の思い違いを理解したイーサンは、苦笑を浮かべて納得した。
そんな彼に向けて、今度は兼一が祝いの言葉を贈る。

「それと、御祝いが遅れてしまったね。
 今更かもしれないけど、一影九拳への就任…おめでとう」
「……やはり、知っていやがりましたか」
「風の噂でね。立場上諸手を上げて祝う、と言うわけにはいかないけど」
「ユーの立場はミーにも理解できる。気にしやがる事はない」

丁寧なのか口汚いのか、良く分からない言葉遣いのイーサン。
今は昔からの流れで日本語で話しているのだが、多少上達はしていても基本的な部分は相変わらずだ。

とはいえ、重要なのはそこではない。
重要なのは「一影九拳への就任」と言う言葉と、イーサンがそれを否定しなかった事実。
イーサン・スタンレイ、一影九拳が一人『拳を秘めたブラフマン』の異名を持つカラリパヤット使い『セロ・ラフマン』の一番弟子であり、いずれは『無』の称号と九拳の座を継ぐと目されたYOMI。
しかし、今は違う。彼は既にその座にあり、闇最強の十人の一角を担う者なのだ。

「まったく、なんだか浦島太郎の気分だ。数年の間に、すっかり置いて行かれた気がするよ」

呟き、兼一は与えられた端末を操作し道着を身につける。
しかし、肝心の防護フィールドを展開する時計を外し、投げ捨てた。

(……ごめんね、なのはちゃん)
「いいのか?」
「道具に頼れば心に隙が生まれる。君と戦うなら、その方がよほど危険だよ。
でも、わからないな。何故君がここにいる。闇は、ジェイル・スカリエッティと手を組んだのか?」
「その質問に対する答えは、ノー。ウィーは、ヒーとヒーの研究に興味がない」
「なら、なぜ?」
「これはミー個人の事情だ。この件に関わる者に、少々義理がある」
「義理? そうか、義理か」

どんな義理があるかは分からないが、実に彼らしい理由だと兼一は思う。
非情を旨とする闇にありながら、彼はどこか他の面々とは違った。
そんな彼だ、義理の為にこんな所までやってきたとしても納得できる。

「何より、ここにはユーがいる。
 そして、ミーとユーがこうして相対した以上する事は一つ」
「ああ」

頷き合い、それぞれに構えを取る二人。
兼一は肘をややまげて腕を前に突き出す防御の型『前羽の構え』。
対して、イーサンは胸の前で腕を交差させ、片足を大きく引いて体勢を落とす独特の構え。

張り詰める空気、ぶつかり合う気迫。
互いの気当たりの余波が木々を揺らし、近くの壁に亀裂を生む。
常人なら十秒と保たずに意識を失う程に強烈な圧力だが、さらに際限なくその密度を増していく。

「思えば、ミーは一度もユーに勝った事がなかったな」
「僕の記憶が正しければ、勝ったり負けたりだったと思うんだけどな」
「殺せなかった以上、それはミーの勝利ではない。
 だからこそ、今日こそは勝たせてもらう」
「生憎だけど、それはできないな。
 弟子と息子を路頭に迷わせるわけにはいかないんだ」

言葉を交わす間も緩むことなく激しさを増す気当たりの衝突。
しかし、どれほど天井知らずに思えても、いずれは限界が訪れる。
高まり続けた圧力は臨界を迎え、ついに――――――――――爆ぜた。

「ぬん!!!」
「おお!!!」



  *  *  *  *  *



僅かに時は遡り、ホテル正面の広々としたロータリー。
ガジェットの残骸が散乱し、三つの人影が倒れ伏す中、二人の男が対峙していた。
片や溢れんばかりの笑みを湛えた空色の髪の青年。片や敵意全開で眉間にしわを寄せる灰色の髪の青年。
そして灰色の髪の青年の後ろには、信じられない者を見る様に眼を見開いた燈色の髪の少女の姿。

「なんで、アンタが……」
「……」

少女の問いに、灰色の髪の青年…コルトは答えない。
代わりに、その表情に新たに「不機嫌」の色が浮かぶ。

助けたと言えば、確かに助けたことに変わりない。
ただ、過去を清算する丁度いい機会だから助けただけだ。
とはいえ、全て終わった事。わざわざ口にする意味もない。
しかし、それがコルトの都合に過ぎないのも事実だ。

「答えなさいよ! なんで、なんでよりによってアンタなんかに……!」
「ギャアギャア喚くな、鬱陶しい。別に好き好んでやったわけじゃねぇんだよ。こんな下らんマネ二度とするか!」

眼前の敵から目を離さずに吐き捨てた。
実際、「らしくない」マネをしている自覚はある。
仕方がないとは言え、他人を庇う等バカバカしいにもほどがあると言うのが彼の考えだ。
そんな事をする暇があれば、仲間がやられているうちに敵を攻撃するだろう。
たとえそれが、敵を討つ代わりに仲間もやられてしまうとしても。

何しろ、コルト自身過去の因縁がなければ確実にそうしていた。
だが、これで昔の借りは返した。なら、これ以上気にかける必要もその理由もない。

「お前らは邪魔だ、失せろ」
「なに、をっ!?」

言っているのか、と聞こうとしたところでティアナの身に異変が起こった。
コルトは振り向いてすらいないのに、胸のあたりを強く押され身体が大きく後方に弾き飛ばされる。
ティアナの身体は緩やかな放物線を描いて落下。
硬い地面の上を二度三度とバウンドし、転がる様にして壁際に寄せられた。

「ぁ…くぅ……」

気がつけば、自身の周りには倒れ伏した仲間が三人。
アリアドネかケイローンを応用し、仲間達を壁際に退避させたのだ。
身体の一点を押される様な感触があったことからすると、アリアドネを引っ掛けて放り投げたのだろう。
乱雑ではあるが、仲間を避難させたとすれば彼にしては珍しい部類に入る気遣いだ。
まぁ、本当に闘いの邪魔だからやった可能性もあるが……。

「か、勝手なことするんじゃないわよ! 私は、私はまだ……!」

インターバルを置いた事で精神を立て直したのか、立ち上がろうとするティアナ。
しかし、ティアナが手を伸ばそうとした瞬間、その手を押し返す堅い感触があった。

「これは……ケージ? いったい何の真似よ!」
「良いからそこにいろ。崩れかけた奴なんぞ足手纏いなんだよ、お前は……邪魔だ」
「……っ」

ティアナ達の前に展開されているのは、格子状に張り巡らされたアリアドネ。
その隙間を薄い魔力の膜が埋め、彼女達を閉じ込める檻と化している。
よく見れば、本来ギリギリ視認できるかどうかというアリアドネがかなりはっきりと見て取れた。
恐らく、かなり魔力を注いで太くしているのだろう。これだと破るのも一苦労だ。

(さて、これで邪魔される心配はなし…と)
「へぇ、いっが~い。君、結構優しかったんだね」
「あん?」
「だってさ、アレなら巻き込まれる心配もないし、みんな安全でしょ?
 いやぁ、もっと冷たい人かと思ってたんだけど…………うん、好感度アップ!」

何やらとてもいい笑顔でサムズアップするアノニマート。
それに対し、コルトは胡散臭いという様子を隠そうともしない。

「訳わけんねぇ……」
「あれ、違うの?」
「……」

呟きに対するアノニマートの問いに、コルトは答えない。
敵と言葉を交わす気はないし、そもそもおしゃべり自体面倒と思う性質だ。
それを示す様に、「話す言葉はない」とばかりにウィンダムを構える。

「え~、もっとしゃべろうよ~。コミュニケーションコミュニケーション~」

だが、アノニマートはそれでは不満らしく、身振り手振りで会話を求めて来る。
そんな相手の必死な様子に、コルトは心の底からの感情を込めて呟く。

「あ~、なんつーか……うぜぇ」
「酷っ!? 酷いよ~。僕、君と会うのをずっと楽しみにしてたんだよぉ~」
(そんなもんはてめぇの勝手だろ)

とは思っても、絶対に口にはしない。
何しろ一度でもまともに答えればそれは相手の思うつぼ。
こういう手合いには、相手にせずに勝手に始めるのが吉だ。
アノニマートが何か言っているが、そんな事は無視してコルトは一歩を踏み出す。

「ねぇ~、君と友達になり……」

その瞬間、コルトの姿がその場から掻き消える。
てっきり突っ込んでくると思っていたアノニマートは、一瞬その動きを停止した。
コルトはその間に彼の背後に現れ、手に持った杖を一閃する。

「っ!」
「ちぃ!」

アノニマートはそれを寸前で身体を横倒しにする事で回避。
それどころか……

「よっと」

身体を横倒しにしたまま、器用にアノニマートの拳がコルトの顔面へと伸びる。
武器を振るったばかりで、守りはがら空き。
そのまま吸い込まれるようにしてアノニマートの拳がコルトの頬に突き刺さる。

「へぇ……」

半歩深く踏み込む事でその狙いを外し、頬を掠める様にして拳は通り過ぎる。
さらに、戻した杖を持ちかえ、アノニマートの顔面目掛けてウィンダムを突き下ろす。

自重と魔力を乗せた一撃はアスファルトに突き刺さり、放射状のヒビを入れる。
しかし、コルトは狙った手応えがない事に歯がみした。
それもそのはず、確実に捕らえたと思った一撃は難なく回避されてしまったのだから。

「ひゅ~、危ない危ない。思ってた以上に戻りが速いねぇ~。嬉しい誤算だよ♪
 何より、あの転移魔法! いやぁ、一度見てなかったらヤバかったね、実際♪」
(速ぇな……)

コルトは僅かに血の滴る頬を拭いながら、回避先に立つアノニマートを見て心中で唸る。
おまけに攻撃は鋭いし、あの無理な体勢から反撃に転ずる柔軟性は充分脅威だ。
その上、一回見ただけで即座に短距離転移に対応して見せたのは驚きの一言。
普通、一度見ただけでああも鋭く反応できる物でもあるまいに。
やはりティアナなど助けず、さっさととりに行けばよかったと思う。

「それにそれに、仲間を『邪魔』って言い切る所も、余計な事はしゃべらないストイックな所もいいね。
好感度さらにアップ!!」
(こいつ、実は何でもいいんじゃねぇか……?)

さっきは仲間をかばったと勘違いして好感度が上がり、今度は切り捨てた事で好感度が上がった。
明らかに矛盾しているが、多分こいつは深く考えていない。
とりあえず、大抵の部分は「良い面」として解釈してしまう性格なのだろう。
まったく、うんざりする程に良い性格をしている。

(だが、強い。おそらく、今の段階では俺よりも……)

一瞬の交錯だったが、それでもわかる。が、それで武器を引く程ひよったつもりもない。
むしろその事実を認識し、コルトの瞳の奥に獰猛な光が灯った。
同時に、それを見てとったアノニマートの表情も怪しい物へと一変する。

「……へぇ、良い目をしてる。やっぱり君は、僕の思った通りの人だ、コルト君」
「……」
「まだだんまりか、残念。まぁいいや、それなら勝手に話すけど聞いてくれるかな?」
「…………ああ」

ここにきて、ようやくコルトからの返事が返る。
しかしもちろん、コルトはアノニマートの話に耳を傾ける気などない。

「こっちも勝手にやるけどな!!」

言うや否や、今度こそコルトは正面から間合いを詰めてアノニマートに挑みかかる。
初撃は胴へ向けての右切上げ。
見れば、その先端にはいつの間にか魔力刃が出力され、刀の形態を取っている。

アノニマートは僅かに間合いの外に対する事でやり過ごし、即座に間合いを詰めようと地面を蹴った。
だが斬撃に続き、ケイローンによって射出された無数の礫が襲い掛かり、足止めされる。
質量は軽いがとにかく数が多い、これでは間合いを詰める事は出来ない。

そしてコルトからすれば、足止めされた一瞬でも時間は充分。
逆に彼の方から間合いを詰め、袈裟斬りを放つ。もちろん、ケイローンによる礫のおまけつきで。

鋭い斬撃とその間を埋める礫による牽制。
上手く出来た波状攻撃により、一見するとコルトはアノニマートの反撃を封じているように見える。
しかしその実、それらを余裕綽々の様子で回避される現実にコルトは奥歯を噛みしめていた。

(掠りもしねぇか……なら!)

放つのは渾身の刺突。同時に、コルトの背後からそれまでの比ではない量の礫が放射状に放たれる。
チマチマやっていても埒が明かないのなら、回避できない程の範囲で放てばいい。
刺突と共に、礫の波濤がアノニマートを飲み込まんと襲いかかる。

「ほっ!」

軽い呼気と共に、高く跳躍して波濤を避ける。
その軽やかかつ優雅な所作は、ありもしない翼をその背に幻視させた。

だが、その程度はコルトにとっても予想の内。
彼は突き出した刀を引き、遥か間合いの外にいるアノニマート目掛け真下から逆風(切上)を放つ。

「ぅ…らぁ!!」

まるで重い何かを持ち上げるかのような声。
すると、たった今放った礫の波濤は軌道を変え、直角に折れ曲がり頭上のアノニマートへと殺到する。

自身をのみ込まんと迫る礫の波濤。
一つ一つは軽く共、これだけの速度、これだけの量ならただでは済むまい。
しかしその顎が目前に迫りながらも、アノニマートの表情を変えるには至らない。
彼は相変わらずの喜色に満ちた眼のまま、表情を綻ばせている。

そして、その表情のまま呑み込まれる直前、「ドン!」と言う音と共にアノニマートの姿が消失した。
残されたのは、中空に浮かぶ青色のベルカ式魔法陣のみ。
それは瞬く間に礫の波濤に呑み込まれ、無残にも粉々に砕かれていく。
だがコルトには、それを悠長に見続ける事など許されない。

「ほら、隙ありだよ!」

声は背後から、誰かなど問うまでもない。
展開した魔法陣を蹴り、コルトの背後を取ったアノニマートだ。

コルトも大急ぎで振り向こうとするが、あまりにも遅すぎた。
その無防備に晒された背中目掛け、アノニマートの貫手が迫る。
しかし、今度はアノニマートがコルトの姿を見失う。

(ったく、この瞬間移動ってのは厄介だなぁ。ま、消えた相手が出てくる場所なんて相場が決まって……)
「甘いんだよ、バカが!!」
「え、マジ!?」

真後ろに向け、ムエタイの回転肘打ち「ソーク・クラブ」を放とうとしたアノニマートの身体が凍りついた。
無理もない。背後に現れると思っていた敵が、予想を裏切り自分の視界の中に現れたのだから。

ただし距離が違う。先ほどまでいた地点からほんの僅かに先。
刀の間合いには少々遠いそこに、コルトは槍を手に現れた。

「フンッ!!」

予想外の出現場所に驚き、隙だらけの胸目掛けて放たれる刺突。
だが、アノニマートは「ソーク・クラブ」の勢いを利用し身体をさらに回転。
柄の横っ面を肘で打ちながら、その軌道を逸らすことに成功した。

否。それどころか、槍の切っ先が流れた隙に一気に間合いを詰めて来る。
如何にコルトといえど、この状態では防御が間に合わない。
今まさに拳が顔面に突き刺さろうとしたところで、なんとか転移が間に合い再度姿を消す。
しかし、ややアノニマートから離れた場所に再出現した時、頭上から声が響いた。

「見っけ、猛獣跳撃(スラガンハリマウ)!!」

見上げれば、そこにはさながら猛獣のように飛びかかってくるアノニマート。
瞬く間の間にその両手は首へと伸び、落下の勢いと自重を乗せて首を折りに掛かる。

「っと、あれ?」

なんとか技が掛かり切る前に転移に成功し難を逃れる。
だが、そこで一息つく事も許されない。
気付けば、既にコルトを発見したアノニマートがでたらめな速さで迫ってきている。

(速い、とにかくべらぼうに速い!)

通常戦闘の機動力では、到底コルトの及ぶところではない。
短距離瞬間移動を駆使する事で、なんとか対処が間に合うレベルだ。

幸いだったのは、そう言う事ができる人間が六課に多くいる事か。
兼一に喧嘩を吹っ掛け、シグナム相手に毎日打ち合っていた経験の賜物。
そうでなければ、とうの昔に沈んでいた事だろう。

しかし、その間にもアノニマートの猛追は緩まない。
消失と出現を繰り返しながら、体勢を立て直すべくアノニマートの追撃をかわしていく。
だが、それではいつまでたってもやられっぱなし、いずれ限界が来るのはわかりきっている。

動揺する思考を治め、呼吸を整えた所でコルトは転移をやめた。
アノニマートが迫るが、それでも動じることなく基本形態である杖に戻したウィンダムを地面に突き立てる。

すると、後一歩と言う所まで迫ったアノニマートの手前の大地から翠色の糸が天に向かって伸びた。
見れば、それはアノニマートの正面だけではない。彼を囲う様に、円形に糸が伸びていた。
それらは徐々にすぼまり、円錐形を形作って閉じる。同時にその隙間を薄い光が埋めていく。
丁度、ティアナ達を閉じ込めるケージの様に。

「ん~、なにこれ?」

アノニマートはそこでようやく足を止め、興味深そうにそれに触れる。
案の定、それは彼を閉じ込める事を目的として編まれた檻だ。
だが、この程度でアノニマートを捕まえておく事は出来ない。

即興で編んだからか、ティアナ達に使った物ほどの強度がないのだ。
アノニマートの余裕もそこに起因する。その気になればいつでも脱出できると分かっているのだ。
だからこそ、コルトが何をしようとしているのか興味深そうに待っている。

そして、その期待に答える様にコルトは再度杖の先端で地面を突く。
すると、アノニマートの足元の地面が隆起し、炸裂した。

やった事は単純明快。アノニマートの足元に魔力の塊を生成し圧縮、解放しただけ。
もちろんこんな大雑把な攻撃でダメージなど期待してはいない。
事実、アノニマートは足元の異変と共にケージを突き破って脱出している。

とは言え、元々たいした強度のない檻。
内側から生じた衝撃により崩壊し、その余波がアノニマートの動きを止めていた。
コルトはそこへ先制攻撃とばかりに躍りかかり、手に持った杖で下から振り上げる。
アノニマートもそれに気付き、僅か斜め間に踏み込む事で回避。
標的を外した杖はその勢い故に防御には間に合わない、かと思われた。

「っとぉ……!?」
「ちっ!」

突き上げと膝蹴りを同時に放つべく間合いを詰めたアノニマート。
だが、たった今通過したばかりの杖が、頭上から襲い掛かってくる。
予想外の切り返しの速さに回避が間に合わず、それを頭上で交差させた両腕で受け止めるアノニマート。

頭部への一撃を受け止めるべく掲げられた両腕、その重みを支える為に踏みしめられた両足。
つまり、その中間である胴ががら空きになっていると言う事でもある。
それに気付いたアノニマートは、ウィンダムを左に払いつつ空いた右腕を防御態勢に持って行く。

「遅ぇ!!」

コルトはその場で左足を軸に反転、強烈な回し蹴りがアノニマートの鳩尾に突き刺さった。
身体は大きく「く」の字に折れ曲がり、辛うじてその場に踏みとどまっている状態だ。

強さから来る余裕、それが仇になったのだろう。
もう少し慎重に対していれば、あるいは驕ることなく戦っていれば、こんなことにはならなかった筈だ。
だが、それを放ったコルトの顔は浮かない。

脚に伝わってきたのは、まるで分厚いゴムの塊を蹴ったかのような感触。
これでは、当たる寸前に思い描いたほどのダメージは期待できない。
いや、それはまだいい。一撃必倒とはいかずとも、相応のダメージを与えることができた筈。
問題なのは、アノニマートの右腕の行方。

「けへけへ……いやぁ、効いた効いた! でも、経穴(マルマン)は断たせてもらったよ」

ニヤリと、アノニマートは悪戯が成功した子どもの様な笑みを浮かべる。
コルトは見誤った。この敵は、安々と受けに回る様な殊勝な相手ではない。
それどころか渾身の一撃に攻撃をもって迎え撃つ、平然と捨て身になれる相手。
防御をする気など、はじめからなかったのだ。
事実、それを物語る様にアノニマートは拳から突き出した中指で、コルトの右足に深々と突き刺していた。

「つっ……」
「楔(キーラ)、って言ってわかるかな?
 その右足、もらった…よ!!」

慌てて鈍い痛みの走る右足を引くが、アノニマートはそれを許さない。
完全にフリーになった両腕で足を掴み、そのまま一息に捩じる。

「づっ!? …なろ!」

人体の構造上あり得ない方向に加わる力に、コルトの顔に苦悶が浮かぶ。
このままで右膝を破壊されかねない。
コルトは残る左足で大地を蹴り、身体を力のかかる方向へ回転させそれを防ぐ。

同時に、アノニマートの喉元へと伸びる杖。
危ういところで足を離し、バク転しながらそれを回避する。

「ちっちっち……う~ん、やっぱりそう簡単にはいかないか。
 それに、結構手癖が悪いんだねぇ」

言う程残念そうな様子は見せず、アノニマートは小首を傾げて微笑む。
見れば、その両手には螺旋を描く無数の細い傷跡。
手首まである袖もズタズタで、細く鋭利な刃物で切り付けられた事が伺える。

「確か、アリアドネだっけ? あんまり深くないとはいえ、結構痛いなぁ」

滴る血を舐めながら、アノニマートはどこか嬉しそうに感慨にふける。
同時に、コルトの異常に速い切り返しの秘密にも気付いていた。

「でも、御蔭でわかったよ。
やけに切り返しが速い時があると思ったら、魔力で織った糸の反発を利用してたんだねぇ~」

そう、それが正解。
あらかじめ高い伸縮性を持たせたアリアドネを柄に巻き付けておく。
打ち込む時には邪魔にならない様に反発力を下げ、切り返す際にそれを最大にして武器を押し返す。
そうする事で、最速の切り返しを可能にしていたのだ。
しかし、一人納得するアノニマートを無視し、コルトは苦々しさを隠そうともせずに口を開いた。

「てめぇ、何しやがった……」
「やぁ、やっと話しかけてくれた。嬉しいなぁ♪」
「何をしたと聞いてんだ!!」

怒鳴るコルトに先ほどまでの力強さはない。
なぜなら、右足は地面から僅かに浮き、代わりに右手に持った杖と左足で身体を支えているからだ。
その右足は僅かに震え、尋常ならざる事態が起きている事を教えてくれる。

(脚が、動かねぇ……)
「経穴は断った、って言わなかったっけ?」
「……」
「まぁ、わからないなら後で聞いてみると良いよ。聞けるなら、だけ……」
「コルト!」

何かを言いかけるアノニマートだが、少女の声がそれにかぶさる。
コルトとアノニマート、二人が揃ってそちらへ視線を向けると、そこにはウィングロードを滑り降りてくるギンガの姿。

「ちっ、小うるさいのが来やがった……」
「なっ、あなたねぇ!」

コルトの隣に着地するや否や食ってかかる。
まぁ、つい先ほど敵を押し付けられたのだから無理もないが。

「人に全部押し付けておいてその言い草は…って、どうしたのその足!?」

しかし、ギンガはすぐにコルトの異変に気付き顔色を変える。
性格と言動に問題があるとは言え、それでもコルトの実力はギンガも認める所。
そのコルトが利き足を引きずっているのだ、驚いて当然だし、仲間なのだから心配するのは当たり前だ。
だが、コルトにとってはそんな気遣いは邪魔物以外の何物でもない。

「関係ねぇよ、まだやれる」
「…………………その足で、何がやれるって言うの」
「まだ左足がある、腕もある、得物も魔力もある…充分だ」
「ふざけないで! あなたはみんなを連れて……」
「邪魔するっつーなら、先にアンタから殺すぞ」

左足一本で立ちながら、コルトはウィンダムをギンガに付きつける。
その眼は紛れもなく本気。もし割って入ろうものなら、本当にコルトはギンガに牙を剥く。

「あなた……」
「この戦いは俺の物だ。アイツら連れて引っ込んでろ!」

怒鳴り、苛立たしげにギンガを押しのける。
しかし、そんなものは結局コルトの都合でしかない。
コルトにはコルトの、ギンガにはギンガの都合がある。

もし、これが試合や決闘ならギンガも大人しく引き下がったかもしれない。
だが、これはそのどちらでもないし、何よりギンガは妹や友人達への仕打ちへの怒りもある。
コルトに何を言われた所で、引き下がれるわけがない。

「お~い、二人で話を進めないでよぉ~、蚊帳の外はさみしいよぉ~」
「「……」」
「やぁ、やっとこっちを見てくれたね。ちょっと久しぶり、ギンガ・ナカジマさん♪」
「そう、私の事も知ってるのね……」
「あれ、覚えてない? まぁ、ナンパ男の一人や二人、印象に残ってなくても仕方ないか。
 じゃあ、改めて自己紹介。僕の名前はアノニマート、よろしくね♪」
「ナンパ……ぁっ!」
「思い出して、もらえたかな?」

しばらく前、翔と一緒に市街へ出かけた時に出会いナンパしてきた男だ。
その時の事を思い出し、ギンガの表情に苦い物が浮かぶ。

「さて、自己紹介も済んだ所で…やろうか、ギンガさん?」
「待てよ」
「え?」
「てめぇの相手は俺だろうが」
「あなた、まだそんな事!」
「そうだよぉ~、足が動かないのにどうするのさぁ~」

実際、足が動かなくては戦いようがないだろう。片腕ならまだ何とかなっただろうが、脚はそうはいかない。
しかし、二人はまだ見誤っていたのかもしれない。
コルト・アヴェニスと言う男の執念を。

「誰の脚が」
「ん……」
「ぇ……」
「動かないって!!」

動かぬ筈の右足を振り上げ、力強く地面に叩きつけた。
コルトの足元には放射状のヒビが入り、その脚がいまだ健在である事を示している。

「あっれぇ? おっかしいなぁ……確かに経穴を断ったのに……」
「経穴? まさか、カラリパヤット!?」
「ピ~ンポ~ン! 正解で~す♪ さすがに良い先生に師事してるね、良く知ってる。
でも、ホントにどうやったの? 解穴した、っていう風でもないし」
「動かないなら動かせばいいだけだろうが、これで文句は言わせねぇぞ!」
「動かす……ああ、そう言う事」

コルトの言葉から、アノニマートは彼が何をしたのか理解する。
動かないのなら動かせばいい、その言葉の矛盾。
だが、それを可能にする技術が魔法には存在する。

「まさか、身体…自動操作?」

漏れた呟きはギンガの物。
魔法の中には、魔力を込めた物質を加工し、操作すると言う物がある。
それを応用し、自分自身の身体を魔法的に操作するのが身体自動操作だ。

「訂正しろ。身体操作系ではあるが、自動じゃねぇ」
「え?」
「だから、オートじゃなくてマニュアルだって言ってんだよ!
 つーか、あんな欠陥魔法使うわけがねぇだろうが」

実際、身体操作やそれに連なる自動反撃にはある欠点が存在する。
それは、技の取捨選択でタイムロスが起こりやすく、自動で技を出し切ってしまう為に柔軟性にも乏しい事。
しかし、それはあくまでも「あらかじめプログラムされた技を特定の状況下(攻撃、反撃など)で“自動”発動させる」からこそ起こる弊害に過ぎない。
なら話は簡単だ。そんな複雑かつ面倒な事はしないで、もっとシンプルにすればいい。

「筋肉なんぞ、所詮は伸縮するたんぱく質の塊だ。
 動かないのなら、別の伸縮する何かを取り付ければ良いだけだろうが」
「伸縮する何かって………まさか、アリアドネ!」

筋肉の基本的な性質とは、「緊張による収縮」と「弛緩による伸長」である。
人間の体に無数に備わる大小の筋肉は、一定の方向に「引く」事しかできない。
関節を伸ばす場合なら関節の外側から引き、曲げるなら内側が引く。ただそれだけの話。
ならば、その機能を代替できる何かを持っていれば、その機能を補う事も不可能ではない。

分類上、コルトのそれも身体操作系の魔法には違いないだろう。
しかし実体としてはアリアドネを各部に接続し、コルトの意思に合わせて筋肉の様に収縮と伸長を使いわけているだけに過ぎない。文字通り、「筋肉の代わり」でしかないのだ。『引く』と『緩める』という二つの機能しかないからこそ、タイムロスだの柔軟性に欠けるだのと言った欠点もない。そして、それ故のマニュアル操作。
まぁ、その為自動操作(オート)の恩恵も一切ないのだが……。

そんなコルトにギンガは唖然とし、アノニマートは天を仰ぐ。
やがてアノニマートは視線をコルトに戻すと、ゆっくりと手を差し出した。

「あぁ……君は本当に、期待以上だ。ねぇ、コルト君」
「……」
「友達に、なろうよ」

万感を込めた、真摯な申し出。
それまでの軽さなど微塵もなく、誰が聞いても本気を疑わない声音だ。
だが、それすらもコルトは一顧だにしない。

「はっ、お断りだ」
「……」
「気を使うのも気を使われるのも煩わしい。んな暇があれば、鍛錬に費やした方が遥かに有意義だ。
 いや、そもそもそんなものは不純物なんだよ。必要なのは敵だけだ、馴れ合いたいなら他をあたるんだな」
「コルト、あなた……」

コルトがそういう考えの持ち主である事は、ギンガもわかっているつもりだった。
この男は他人を顧みない。ただただ、乗り越えるべき敵だけを求めている。
わかっているつもりでも、こうしてはっきり言葉にされるとギンガの表情にも落胆の色が浮かぶ。

それは、心のどこかで少なからず期待していたから。
いつかはこの男も、自分達を仲間と思ってくれる日が来るのではないかと。
しかし互いに技を磨き合った時間は、この男の心に僅かな揺らぎさえも与えられなかった。
だがそんなギンガを尻目に、アノニマートは顔を手で覆いながら天を仰ぎ、狂ったように笑い出す。

「はは…はははははははは! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
「何がおかしい」
「いやいや、きっと、君ならそう言ってくれると思ったよ。
そう! 闘争の真髄は非情! 優れた技とは、即ち効率的な人体の破壊だ。それを鈍らせる情は正に不純物!
技を究め、最強へ至る道を阻害する邪魔物、それが情だ」
「違う! 心のない力は只の暴力よ! 私は、そんなもの……」

認めないと、声高々に活人拳の理念を否定するアノニマートに、ギンガは声を大にして反論する。
しかし、ことこの場に限ればその思想へは少数派だった。

「お前とも意見はあわねぇかと思ったが、その点に関しては同感だ。
敵を倒し、障害を砕く、その為の『力』。なら、そこに情の割りこむ余地なんぞねぇ」
「うん、つまり僕たちは志を同じくする同志って事だね♪
 なら、きっと友情も芽生えるさ!」

よほどコルトと意見があった事が嬉しいのか、アノニマートは諸手を上げて喜びを表現する。
コルトは相変わらずの仏頂面だが、ギンガは不安そうにコルトの顔をうかがう。
まさか、本当に彼はこの男の手を取ってしまうのだろうか。
それを「あり得ない」と否定する事が、ギンガにはどうしてもできない。

「ギンガさん、君もいつかきっとわかる時が来るよ。
 非情の拳、空なる心こそが武の真髄だってね。その時を僕は、気長に待つことにしよう。
さあコルト君、僕達は一足先に闇の果てに旅立とうじゃないか!」
「おいお前、人の話を聞いてなかったのか? 答えならさっき返しただろ、お断りだ」
「ありゃ?」
「お前の言う通り、余計な物の刺し挟まる余地のない純粋な“力”こそが俺の求める物だ。
だがな、だからこそ友『情』なんてバカバカしい。お前、言ってる事が矛盾してるぞ」
「え?」

よほどコルトの指摘が意外だったのか、呆けた表情を浮かべるアノニマート。
彼はその場で腕を組み「うんうん」唸りながら悩み始め、そして……

「……うん! 細かい事は気にしない!」

あっけらかんと、それまで悩んでいたのが嘘のように朗らかに言ってのけた。
正直、まさかここまで自分に都合の良い性格をしているとは思っていなかったらしい。
さすがのコルトも呆然とし、ギンガも状況を忘れて空いた口が塞がらない。

「でも、そっかぁ~、残念だなぁ~」
「話は終わりか? なら、いい加減……」
「ところでさ、そこ……………窮屈じゃない?」

いい加減痺れを切らし始めたコルトだが、そんな彼の機先を制しアノニマートは問いかける。
それを聞き、コルトの眉が僅かにつり上がった。

「そこは君の居場所じゃないって、気付いてるんでしょ?
 紹介してあげるよ、君の居場所を。より壮絶な闘いの場に連れいってあげる」

優しく微笑み、尚もアノニマートはコルトに手を差し伸べる。
まるで、コルトがその手を取る事を疑っていないかのように。

「なるほどな。確かにそいつは……………………悪くねぇ」

我が意を得たりと言わんばかりに、アノニマートは笑みを深める。
コルトはその手に導かれるように近づき、自らも手を差し出す。
ギンガはそれを引きとめようとするが、それよりも早くコルトが一歩手前で立ち止まり口を開いた。

「だが……」
「ん?」
「てめぇのそのニヤケ面が気にくわねぇ!」

言うや否や、コルトは左手に持ったウィンダムを一閃。
アノニマートは危ういところでそれを飛び退く事で回避する。

「わからないな、そこに愛着でも湧いたの?」
「はっ、それこそあり得ねぇな!」
「だったら、何故? こっちに来れば君の望む物は何でも……」
「それだ」
「え?」
「目的を達した以上、ようやく局ともおさらばできる。
 てめぇらに恵んでもらう気はねぇし、後は勝手に探すだけだ。
 てめぇの言う、より壮絶な闘いの場って奴をよ!!」

その宣言に、ギンガは複雑な表情を浮かべる。
コルトがその手を掴まなかった事には安堵したが、宣言の内容が問題だ。
彼をこのままにしてはいけない、以前から抱いていた危惧が徐々に大きくなるのを自覚していた。
だからこそ、今コルトに戦わせるわけにはいかない。

「……おい、さっさと下がれ。これは俺のもんだと言っただろうが」
「嫌よ」
「んだと?」
「その足、いくら動かせるって言っても普段通りとはいかないでしょ?」

ギンガの問いかけに、コルトは何も答えない。それはギンガの言葉が正しいから。
如何にアリアドネを外付けの筋肉として使っていると言っても、生身ほどのパフォーマンスは期待できない。
出力だけなら生身以上もいけるだろうが、代わりに精度が落ちる。
この相手に、その隙が命取りな事はコルトも承知していた。

「私がやるから、あなたこそ下がりなさい」
「それを、俺が聞くとでも思ってんのか」

睨み合い、険悪な空気を醸し出す二人。
ギンガとしてはコルトを戦わせるわけにはいかず、コルトはなにを言われても退く気がない。
全く意見のかみ合わない二人だが、そこへ横から状況が分かっていないとしか思えない呑気な声が上がる。

「イエ~イ♪ 僕ってばモッテモテ~!」
「違います!!」
「気色の悪い事ぬかすんじゃねぇ!!」
「……ごめんなさい」

二人揃っての叱責に、うって変わってションボリする。
何と言うか、いまいちどこまで本気で言っているかわかりにくい。
全て本気の様でもあるし、同時にポーズの様にも思える。

一つ言えるのは、どうにもペースを狂わされっぱなしと言う現実だ。
静の武術家としてこれではいけないとわかりつつ、それでも掻き乱されてしまう。

「ほらほら、時間も惜しいしそろそろ始めようよ。あっちはもう凄い事になってるしねぇ~」

言って、アノニマートが視線を向けるのはホテルの裏手。
ここからでは何も見えないが、しばらく前から断続的に轟音が轟いている。

「決められないなら、二人同時でもいいよぉ~」
「舐めやがって……」
「私達二人を同時に相手にして、勝てると思ってるの?」
「ん~、コルト君には連携する気なんてなさそうだし、結構なんとかなるかもよ」

アノニマートの言う通り、コルトに連携する意思がない以上下手をすると足の引っ張り合いにもなり得る。
その意味で言えば、彼の提案はそこまで無謀とは言えない。

「ま、さすがに分は悪いかもだけどね。だから、ちょ~っと裏技を使わせてもらうかもよん♪」
「「っ!!」」

言うや否や、二人の答えを待つことなくアノニマートは疾駆した。
有無を言わさぬ開戦に、二人は已む無く共闘を余儀なくされる。



  *  *  *  *  *



場所は戻ってホテルの裏手。
正面玄関と違い人の出入りも少ない場所だが、もちろんその作りに手抜きなどはない。
深い緑と近代的な建造物という相反する存在が調和するよう、緻密な計算により構成された空間。
その配慮は、普段一目に付かない場所にも及んでいる。

そんな高級ホテルの名に相応しい景観は今…………見るも無残な廃墟と化していた。

「ぬん!!」
「ちぇちぇちぇちぇすとぉぉお!!」

常人の眼には軌跡すら捕らえる事を許されない速度で動く二つの影。
唸りを上げて大地を砕く拳、大気を裂いて轟く蹴り。
一瞬の交錯の内に交わされる攻防は、優に40を超える。
同時にその一撃一撃は、並の魔導師を容易く絶命させる威力を備えていた。

強固な壁を紙細工の如く抉り、太くしなやかな木々を小枝の如く千切り飛ばす。
巻き込まれれば、その瞬間粉々になること間違いなしの破壊の嵐。

その嵐の中心に立つ二人。
兼一とイーサンはしかし、これほどの闘いを繰り広げてもなお無傷。

「……しまっ!?」

僅かに視界を横切った舗装された道の破片。
通常であればそれだけで終わる筈の出来事。
しかし、この域に達してしまえばたったそれだけの事が十分な隙となる。

一瞬だけ視界から消えたイーサンの姿。
相手は一影九拳にまで上り詰めた稀代の武人だ。
その隙を逃すことなくイーサンは接敵し、丸太の如き脚を振り上げる。

『マハーシヴァキック』。
柔軟性、瞬発力、脚力に秀でたカラリパヤットの蹴りは、ガードしても腕が砕ける程の威力を誇る。

コンマ一秒以下の反応の遅れが致命的。
既に回避も防御も間に合わないその状況で、兼一は諦めたかのように表情を緩めた。

「ひゅ……」
「ガァッ!」

舗装された大地を踏み砕きながら、兼一の身体に深々とイーサンの蹴りが突き刺さる。
その身体は天高く舞い上がり、放物線を描いて落下していく。

アレほどの一撃を、防御するどころか気を抜いて受ければ絶命は必至。
にもかかわらず、そのまま頭から地面に叩きつけられるかと思われた兼一は、その寸前に体勢を立て直して着地。
深く息をつくと、兼一は僅かに顔をしかめながら立ち上がる。

「あいちち…いや、今のは危なかった」
「相変わらずの、見事な流水。隠棲してもなお、武の練磨は怠りやがらなかったか」

どうやって絶命必死の一撃を受けて生存したのか、その秘密はイーサンの口にした「流水」と言う言葉。
日本の古武術の技法であり、太極拳の極意の一つ「捨己従人」同様、相手の力に逆らわないと言う事。
完全に己を捨て、脱力する事でイーサンの蹴りを受け流したのだ。
いや、それどころか……

「これでも梁山泊の一番弟子だよ。翔に伝える為とは別に、その名に相応しい武人であろうと僕なりに努力してきたつもりさ。でも、さすがは一影九拳。今のは入ると思ったんだけどな……」
「流水からのカウンターはユーの得意技でせう。
昔何度も痛い目を見た、プリケーション(警戒)するのは当然だ」

そう、イーサンに蹴りあげられる瞬間、兼一の体は一瞬大き「く」の字に折れ曲がった。
それを利用し、イーサンの脳天に頭突き放っていたのだ。
残念ながら、それを予期していたイーサンには防がれてしまったが。

「それは、その呼吸も含めてかい?」
「気付いていたか、さすがだな。流水制空圏にはヨーガの呼吸をもって対する、それがセオリー」

流水制空圏は目から相手の流れを知る技だが、その実全体から呼吸を読み取る技。
故に、ヨーガの呼吸によって呼吸を乱せば上手く作用しない。
だがそれも、兼一が未熟であった頃の話。

「侮るなよ、イーサン。昔ならいざ知らず、今の僕にそんな小細工は通用しない」

言って、兼一は深く心を静めていき、次第にその顔からは表情と言う物が消え失せる。
呼吸を乱すと言うのなら、その意図的に乱された呼吸も含めて呼んでしまえばいい。
兼一とて仮にも達人、そんな芸当も不可能ではない。

とはいえ、そんな事はイーサンとて承知の上。
彼は白浜兼一を好敵手として高く評価し、同時に一武人として尊敬してすらいる。
たとえ歩み道、胸に秘める思想は違えど、その思いには一片の疑問も曇りもない。

「侮ってなどいない。ミーはただ、最善を尽くしているだけだ。行くぞ、友よ!」
「っ!?」

イーサンは呟きと共に、深く息を吸う。
それを見てとり、兼一の警戒レベルが急上昇する。
彼自身も踏ん張り堪えるかのように深くスタンスをとった。
そして間もなく、ホテルアグスタに奇怪な声が響き渡る。

「……■■■■■■■■■■■■■■!!」
「くっ!?」

『真言秘儀(マントラタントラム)恐怖の真言(きょうふのマントラ)』。
人間に限らず、生き物は危険な物が発する音を恐れるよう作られている。
これは奇怪な発声により、脳を攻撃し恐怖心を揺さぶり起こす。
まともに聞いた者は錯乱状態に陥ってしまう、恐ろしい技だ。

しかしそれも、その恐怖を制することができる者には効果が薄い。
高位の達人相手には、目を見張るほどの効果は期待できないだろう。
もちろん、イーサンもそんな事は良く知っている。

「……しゃらくさい!!」

一声と共に、兼一は恐怖の真言を撥ね退ける。
だが、耐える為に一瞬でも動きが鈍れば、イーサンにとっては充分だった。

「くぁ!!」

撥ね退けるまでの一瞬の強張りを見逃さず、イーサンは肩を前面に押し出した『猪の型(ししのダデイブ)』で突撃する。
僅かに反応が遅れるも、辛うじて兼一はその突撃を受け止めた。
しかし、如何に兼一がその外見からは想像もつかない埒外の筋力を誇っているとしても、分が悪い。
体格と重量ではイーサンが勝っている上に、基本突撃技は重量が物を言う。
その上先手を取られたのだ、兼一といえどもその突撃を支え切る事は叶わない。
結果、兼一はイーサンに押し切られ、遥か後方…ホテルの壁へと叩きつけられた。

「ぐおっあ……」

とはいえ、兼一の耐久力の前では壁に叩きつけられた程度は屁でもない。
壁は木っ端微塵に粉砕されるも、兼一に与えたダメージは小さかった。だが……

(不味い! ホテルの中に……)

押し込まれてしまった、これは非常に良くない。
イーサンにホテルの利用者や従業員、あるいはオークション関係者を襲う意思はないだろう。
しかし、二人の闘いに巻き込まれる可能性が高まったのは事実。
そして、万が一にも巻き込まれればその人物の命はない。
この二人の闘いとは、つまりはそういうレベルなのだ。

故に兼一としては、できれば誰も巻き込まない様に屋外、それも人気のない裏手で戦い続けたかった。
何しろ誰かを守りながら戦える程、イーサンは生易しい相手ではないのだから。

ホテル内に突入した所で、ようやく兼一はイーサンの突撃を止める事に成功した。
だがその代償に、二人の周囲の調度品は跡形もなく砕け散り、足元の毛の長い絨毯は無残に引き裂かれてしまったが……。

(なんとか外に引っ張りださないと……正直、守りきれる自信はない)
「余裕だな、ミーを相手にしながら余所に気を回すか!!」

兼一の中に生じた僅かな弱気。
イーサンはそれを見逃さず、一気呵成に攻め立てる。

手の形は、人差し指を伸ばした一本貫手。
イーサンの武術はカラリパヤット、故に狙いは経穴。
左右の手から繰り出される怒涛の突きが、全身の経穴を狙って襲いかかる。

「「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」」

それに対し兼一は、両腕をコロの様に回転させる「化剄」によって猛攻を受け流す。
だが、受け身になってはジリ貧。それを証明するように、徐々に兼一の方が押され出した。
やがて、イーサンの突きが兼一に突き刺さると思ったその瞬間。

「むっ!?」
「前掃腿(ぜんそうたい)!」

その場でしゃがみこみ、足払いをかける。
とはいえ、足払いとは名ばかり。下手をしなくても足の骨が砕ける様な一撃は、最早足払いではない。
しかし、イーサンはそれを見事に耐えきり、僅かにバランスを崩すだけにとどめていた。

だが、それでも一瞬とは言えイーサンの猛攻がやんだのも事実。
兼一は一気に飛び上がる様にして立ち上がり、拳による顎打ちと膝蹴りを同時に放つ。
中国拳法の一手、「鷂子栽肩(ようしさいけん)」だ。

しかしそれを、イーサンは驚異の柔軟性を発揮しのけぞる様にして回避。
カラリパヤットは油を用いた修業により、柔らかく強靭な肉体を養う、その成果。

狙い澄ました反撃をかわされ、勢い余って兼一は天井すれすれまで飛び上がってしまう。
結果、伸び切った身体はイーサンの完全に晒され、両の指が兼一の胴体に突き刺さった。
その瞬間、イーサンの眼が大きく驚愕に見開かれる。

「この感触……内臓上げ」

感じたのは違和感。あるべき物がある場所に無い、その正体が空手秘伝の技「内臓上げ」。
特殊な呼吸法で重要な内蔵器官をあばらの中へ押し上げたのだ。

「だが、甘い。ミーが突いたのはユーの内臓ではない、経穴だ!」
「知ってるよ…はぁ!!」

兼一は腹にイーサンの指が刺さったまま、空中に浮いた状態で肘を振り下ろす。
古式ムエタイの技、『ガーンラバー・ラームマスーン・クワン・カン(爆ぜる斧を撃ち振る雷神)』。
イーサンは咄嗟に防御しようとするが、兼一の腹に刺さった指が抜けない。
チンクチによって腹筋を絞め、抜けなくしたのだ。

回避しようにも指が抜けず、間合いの外に逃れる事は不可能。
しかしそこでイーサンは、後ろではなく前に出た。

宙に浮いた兼一の体に密着し、その懐に入る。
ここまで近づかれては、ガーンラバー・ラームマスーン・クワン・カンの威力も殺されてしまう。
兼一の上腕を肩で受け止め、その際に腹筋が緩んだのかイーサンの指が抜けた。
彼は密着体勢のまま投げに入り、兼一の身体を天井に叩きつける。

「ぐぁ!?」

真上に放り投げられた兼一は天井を突き破って上階へ。
即座に体勢を立て直しつつ、経穴を突かれた事によって鈍った身体を戻すべく解穴。
それと前後してイーサンも天井を突き破って表れた。

「場所を移そう。ここでやるとホテル側に迷惑だ」

そんな兼一の言葉に、イーサンは無言のまま疾駆する。
兼一の発言から、彼が一端外に退避すると踏んだのだ。
実際、この状況下では兼一にとっての気がかりが多過ぎる。
その意味では妥当な判断だが、同時にイーサンにとっては狙い目。
背後に追い縋り、追撃をかけようと言うのだろう。
だが、そんなイーサンの思惑は外される。

「場所を移そうって、言っただろ?」

背を見せることなく、兼一は両腕をダラリと下げたままイーサンの方を向いている。
そして、その肩が僅かに動かされた瞬間。
兼一の姿が逆さになった。

「なに…これは!?」

否、逆さになったのは兼一ではなくイーサンの方。
イーサンは突然その場で飛び上がり、兼一をまたいで反対側に落下していく。
同時に、兼一は落下するイーサンに「ソーク・クラブ(回転肘打ち)」を放つ。
イーサンはそれを両腕を交差して受け止めた。

だがそこは踏ん張る事かなわない空中。
イーサンの身体はそのまま弾き飛ばされ、今度は逆に彼の方が壁を突き破って屋外へと放り出された。

兼一もその後を追い、崩壊した壁から外に出る。
するとそこには、既に体勢を立て直したイーサンの姿。
しかし、今度の彼は積極的に攻めてこようとはしない。

「真・呼吸投げ………マスターしていたか」
「腕を上げたのは君だけじゃない、ってことさ」

『真・呼吸投げ(しん・こきゅうなげ)』、それは岬越寺流柔術究極奥義の一つ。
気当たりによる反射を逆手にとり、相手の体を崩すように誘導し、手を使わずに相手を投げる技。
ただし、その為には敵に優れた危機回避能力が求められる為、相手が真の達人でなければ使えないと言う性質も併せ持つが……。

「そうだな、ユーも腕を上げている」

言って、イーサンが視線を送るのは兼一の右腕。
そこには、小刻みに震える右腕とそれを抑える左腕。

(何て奴だ、今の一瞬で経穴を断つなんて……)

いつやったかなど考えるまでもない。
真・呼吸投げを使う時に腕の違和感はなかった。
ならば、ソーク・クラブを放ったあの時にやられたのだ。

しかし、言うほど簡単ではない。
動く的、それも自らを攻撃してくる対象の経穴を断つなど……。

解穴の法は兼一も一通り修得しているので、それ自体は問題ではない。
片腕のハンデは大きいので、今まさに解穴した所だ。
問題なのは、そんな些細なことではなく……

(まいったな。まさか、ここまで……)

腕を上げていようとは。
相手は一影九拳、一筋縄ではいかない相手とは承知していた筈だ。
それでもなお、かつてのライバルの成長には兼一も驚嘆する。

わかってはいた。覚悟もしていた。
いつかツケを払う事も含めて、全てを承知の上で彼はこの生き方を選んだ。
だからこそ……

「負けるわけにはいかない、な」
「む?」
「行くよ、イーサン。僕の5年と君の5年は、まだ測り切っていないだろう?」

吹っ切れたかのように、兼一は清々しい笑みを浮かべる。
元々、兼一はいつでも挑戦者だ。
少し強くなったからと言って、増長してしまうのは悪い癖と自らを戒める。

兼一の5年とイーサンの5年では、まるで種類が違う。
しかし、だからと言ってその質で劣っていたとは思わない。

「だぁぁあぁぁあぁ!!」

先ほどまでと違い、今度は兼一の方からうって出る。
初撃は中国拳法の「鷹抓把(ようそうは)」。
頭突き、肩、膝を同時に放つ突撃技で、真っ直ぐイーサンへと向かって行く。

対するイーサンは、それを半身になって回避。
兼一は即座に切り返し、空手の「山突き(やまづき)」を放つ。

「ぬぉっ!」
「まだまだぁ!!」

両の拳はイーサンによって受け止められるが、兼一は尚も前に出る。
イーサンも押し切られてなる物かと踏ん張ると、兼一はその瞬間狙って反転。
そのままイーサンを背負い、思い切り投げた。

「ぜりゃぁ!!」

主導権を渡すまいと、とにかく先手を打ち続ける。
空中で体勢を立て直すイーサンに対し、兼一も跳躍。
『ティーカオ(飛び膝蹴り)』を放つが、さすがにそう簡単にクリーンヒットはさせてもらえない。
受け止め、弾き、二人は少しの間を空けて着地する。

「どうだい。僕の5年も、中々馬鹿にできないだろう?」
「ふっ」

寡黙で、あまり表情を変える事のないイーサンにも笑みが浮かぶ。
かつての友が、時を経てもなおあの頃のまま立ちふさがる事を喜ぶように。

終わりが近い。
後は只、互いに全身全霊を費やした力と技、そして心をぶつけ合うのみ。

兼一の狙いは単純かつ純粋な突き。ただし、彼が最も信頼するあの突きだ。
最早何億回打ったかわからないそれに、必勝を期する。

対する、イーサンは一本指貫手。
どこを狙っているかまでは定かではないが、経穴を断っての一撃必殺が狙いだろう。

そして――――――――――――二人は真っ向から衝突した。

「さあ、決着を付けよう!!」
「See you again! 白浜!!」






あとがき

はい。そんなわけで、次回冒頭で兼一対イーサンは決着です。
というか、アレですね。達人戦はものすごく大変。
だって、私の妄想力では再現しきれる気がしないから……。
あとはイーサンの口調かな? 正直、色々悩みました。
とりあえず、「まぁ頑張ったんじゃないの?」と思っていただけたら幸いです。



[25730] BATTLE 28「無拍子」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/11/23 23:40

風が吹く。
たった二人の人間の手で破壊し尽くされ、廃墟と化した空間に一陣の風が吹き抜ける。
風は砂塵を舞い上げ、雲間から燦々と降り注ぐ陽光が一つの終わりを告げた。

数瞬前まで場を席巻していた破壊の嵐は過ぎ去り、痛い程の静寂に取って代わられる。
木々のざわめきが、落下する白亜の人工物の破片の立てる音がやけに大きい。

それまでの喧騒が夢か幻のようだ。
だが違う。つい先ほどまであった出来事は、全て現実。夢幻でも陽炎でもない。

それを証明するように、廃墟の中心には一つの塊が存在している。
否、遠目には塊に見えるそれは、肩がぶつかりそうなほどに密着した二人の人間だ。

片や、短い金の髪と全身を屈強な筋肉の鎧で覆った巨漢。
片や、そこから頭数個分は背の低い黒髪の青年。
つい先刻まで破壊の権化そのものだった二人は、うって変わって彫像の如く不動。

動かない。どれだけ待てども動かない。
まるで、そこだけ時の流れが止まってしまったかのように。
しかし、もしそれが動かないのではなく「動けない」のだとしたら……。

見れば、互いの拳がそれぞれの肉体に深々と突き刺さっている。
巨漢の拳は青年の胸に、青年の拳も巨漢の胸に。
ここまでの闘いを知る者がいたなら、抜き通していない事を不思議に思ったかもしれない。
それだけ、二人の闘いは壮絶だった。

長く、重く、静かな静寂のひと時。
だがそれも、やがて終わりの時が訪れる。

先に動いたのは――――――――――――――――――――――――――――巨漢の方だった。
重々しい物音と共に、イーサンはその場に膝を突く。

「ごっ……」

同時に、口からあふれ出る血液。
内臓に手酷い痛手を受けたのだろう。

イーサンは震える右手を口元にやり、数度咳き込む。
その度に指の隙間から血が滴るも、次第にその量が減っていく。
ダメージは深刻だが、命にかかわる程ではないようだ。

よく見ると、その人差し指には彼の物とは別の赤い命の水が付着している。
拳が突き刺さっていたと思われたが、実際には突きだされた人差し指だったようだ。

イーサンは静かに呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がる。
そして、未だ目の前に立ち続ける古き好敵手に告げた。

「この勝負――――――――――――――――ユーの敗北だ」

再び、砂塵を帯びた一陣の風が二人の間を駆け抜けた。
風は二人の健闘を讃える様に、慈しむ様に、優しくその身体を撫でていく。

青年、白浜兼一は答えない、動かない。
胸元から一条の血の筋を流しながら、彼の時は止まり続けている。

「ユーは強い。今日まで死闘の末に屠って来た強敵達と比較してもなお、抜きん出て。
 正直、ここまで追い込まれるとは思いやがりませんでした。だが……」

そこで、イーサンは言葉を切って一端瞑目する。
まるで、何かを惜しむ様に。

「長きに渡る隠棲が、ユーの成長を遅らせた」

それは、覆しようのない現実。
技の冴えは昔の比ではない。
その膂力は時を経てさらに凄味を増している。
心に至っては、むしろ圧倒されるものすらあった。

事実、末席とは言え一影九拳に名を連ねる彼とここまで戦える者はそういない。
しかし、それでも兼一の拳は勝利に届かなかった。

兼一が武術界から離れた期間は、およそ5年。
それだけの長い時間、兼一は武侠の世界から離れて生きてきた。
もちろん兼一も武の練磨を怠りはしなかったが……

「ミーはその間もミッションを続け、実戦を重ねてきた。
 ユーが武の世界に戻って数ヶ月、5年のブランク(空白)を埋めるには足らなかったのでせう」

陳腐だが、実戦に勝る修業はない。
その実戦を積み重ね続けてきたイーサンと、そこから離れた兼一。
二人の間に差が生じるのは、ある意味必然だったのだろう。

ましてや、兼一は翔が生まれてからと言う物、常に彼に隠れて修業を積んできた。
故に時間は限られてしまうし、あまり修業を激しくし過ぎても翔に不信感を与えてしまう。
その結果が……これだった。

もちろん、その時間が無意味だったわけではない。
人として、親として、兼一にとってかけがえのない時間だった。
その日々が兼一の心に与えた影響はバカにできるものではない。

実際、イーサンの見立てではもっと余裕のある形で決着はつく筈だった。
にもかかわらず、これ程のダメージを受けている。
それはまさに、イーサンにとって良くも悪くも誤算だった。
だが、それでも厳然たる事実として、兼一は負けたのだ。

「惜しくはあった。しかし、今のユーでは一影九拳に及ばない。
 新参のミーにすら勝てないのでは、ゼイ(彼ら)を退ける事はインポッシブル(不可能)だろう。
無拍子でもなおミーを倒しきれなかった事が、それを証明している」

無拍子、それは『一人多国籍軍』白浜兼一だけに許された必殺の突き。
空手、中国拳法、ムエタイの突きの要訣を混ぜ、そして柔術の体捌きで放つ秘技だ。
四種の武術を身に付けた兼一だからこそ可能なそれは、密着状態からノーモーションで最大パワー・スピードでの突きを放つことを可能とする。
数多の死闘をこの技で制してきた、まさに兼一が最も信頼する技。

そして激突の瞬間、兼一は決死の覚悟でそれを放った。
イーサンもそれを察知し左腕で防御したが、そのガードをぶち破って無拍子は突き刺さったのだ。

いや、もし左腕でガードしていなければ、それこそ結果は変わっていたかもしれない。
ほんの僅かとはいえ防御された事で威力が、速度が落ちたのだ。

その結果イーサンの突きが先に届き、兼一の心臓の経穴を断ったのだ。
刹那の差で心臓が止まり、故に必倒の一撃は必倒に至らなかった。
引き換えに、左腕を持って行かれてしまったが…相手が相手。これ位は安いとイーサンは思う。

しかし、心臓が止まっていながらも兼一は倒れない。
そんな彼の横を、イーサンは瞑目して通り抜ける。
闘いは決した、これ以上彼の身体を破壊するのは忍びないと言わんばかりに。
さて、それは敬意か、あるいは情けか、それとも……。

だがイーサンがその場を離れようとしたところで、やや離れた所から誰かが駆けて来る。
それは、翠と白を基調とした騎士甲冑に身を包むシャマルだった。

「兼一さん!」

シャマルの役割はロングアーチと連携しての全体の管制及び指揮。
何らかの方法で兼一の異変に気付いたのだろう。
ロータリーの方も気がかりではあるが、それでも差し迫った命の危機はこちらにある。

走り寄ろうとするシャマルだったが、イーサンの姿を発見しその足が止まった。
兼一へと向かうには、イーサンの傍を通り抜けねばならない。

しかし、イーサンは兼一を倒した張本人、安々と通らせてもらえる筈もなし。
そこで彼女は、足を止めた瞬間にその両手を一閃させた。

放たれたのは翠と蒼、二色の鋭角な宝石が二つずつ、計四つ。
四つの宝石はそれぞれが複雑な軌道を描きながら、イーサンめがけて殺到する。

「っ!?」
「流星錘…いや、ペンデュラムか。練度は悪くないが……」

相手は一影九拳、その全てを一息に片手で掴むことなど造作もない。
だが、元来シャマルは後方支援が主であり、直接的な戦闘能力には乏しい。
その事を誰よりも熟知しているのは、他ならぬシャマル自身。

相手は兼一を倒したかもしれない相手。
そんな相手に、自分が真っ向から挑んで勝てるとはハナから思っていない。
しかし、勝てなくとも出し抜く事はできる。

「クラールヴィント!!」
《ja》

シャマルの一声と共に、兼一の足元に翠のベルカ式魔法陣が出現。
瞬く間のうちに彼の身体は光に包まれていくが、その点に関してはシャマル自身もまた同様だ。
徐々に翠の光は光度を増していき、やがて二人の姿は跡形もなく消失した。

「良い判断をしやがります。ユーは、相変わらず仲間に恵まれているな」

追撃しようと思えばできない事もなかった。
消えるまでの一瞬でも、イーサンにとっては充分過ぎる時間だ。

だが、元よりイーサンにこれ以上兼一の身体を破壊する意思はなく、シャマルにも戦闘の意思はなかった。
潔く撤退する女の背を追って仕留める拳は、生憎と持ち合わせていないのだから。

「See you again.友よ」

言って、イーサンはその場から姿を消す。
目指すは、彼の教え子と兼一の弟子が立ち会っているであろうロータリー。
彼には、それを見届ける責務がる。



その時、ホテルアグスタの屋上。
イーサンから兼一を連れて離脱したシャマルは、まず兼一の容体を知って顔を悲痛に歪めた。

無理もない。肉体的な損傷はまだしも、呼吸と心拍が止まっているのだ。
脳自体には酸素を蓄える能力がなく、呼吸が止まってから4~6分で低酸素による不可逆的な状態に陥るとされている。そのため、一刻も早く脳に酸素を送る必要がある。

達人と言う埒外の生き物に、どの程度この常識が通用するかは不明。
だが、一刻を争う事に変わりはない。

そしてシャマルは医務官であり、守護騎士にあっては癒しと補助が本領。
故に、懸命に兼一の心肺蘇生処置を行っていた。

「AED(自動体外式除細動器)は効果なし。あとは、あとできる事は……!!」

教科書に忠実な人工呼吸と心臓マッサージを施しながら、シャマルは知識の引き出しを漁っていた。
ロングアーチには既にこの事態は伝え、至急の応援を求めてある。
応援に先んじて蘇生できたとしても、彼を設備の整った場所に搬送する必要があるからだ。

しかし、シャマルの表情の険しさはそれ以上の物を感じさせる。
正しい筈なのに、本当にこの処置で良いのか、そんな不安が脳裏をよぎっているのだ。
だが、シャマルにはこれ以外にできる事がない。
彼女は必死に不安を振り払いながら、今自分にできる最善を為す。

「ダメ! 死んじゃダメ、兼一さん! あなたは、こんな所で死んじゃいけない!!
 翔が、ギンガが、みんながあなたを待ってるんです!! だから、だから逝っちゃダメ!!」

唇を合わせて兼一の肺に息を吹き込み、続いて心臓マッサージへと移る。
同時に、目に涙を浮かべながらシャマルは必死に呼びかけるのだった。



BATTLE 28「無拍子」



ホテル正面のロータリーで交錯する、三つの光。
青い光を放つ二つは一所に留まる事なく、縦横無尽に高速で動きまわり、残る深緑の光は消失と出現を繰り返す。
その軌跡は複雑に絡み合い、断続的に重い打撃音を響かせていた。

「ちゃあああああああ!!」
「……しっ!」

嵐の様な怒涛の突きを最小限の動きで回避し、ギンガはアノニマートのすぐ傍をすり抜ける。
擦れ違う形になった二人はその場で反転し、互いの肘が正面からぶつかり合った。

二人の力は一瞬拮抗するも、やがてギンガは押し切られ僅かに後退する。
アノニマートはそのままギンガに追撃をかけようとするが、そこで彼の後背にコルトが姿を現した。

「……」

大声を上げながら不意打ちをする者はいない。
コルトは無言のままウィンダムを突き出し、アノニマートの背中を狙う。
だが、杖の一撃がその身に触れる寸前、アノニマートは驚異的な身体のしなりを見せてそれをやり過ごした。

「はぁっ!」

回避の為に体勢の崩れたアノニマート目掛け、鋼の拳が伸びて来る。
立て続けの攻勢で、彼の機動力を以ってしても回避は間に合わない。

「ぐっ!?」

辛うじて腕でガードするが、重い一撃がガードした腕を痺れさせる。
また、不十分体勢では踏ん張りもきかず、アノニマートの身体が宙に浮きあがった。
コルトはその隙を見逃さず、一足飛びで間合いを詰める。

放つのは、大上段からの唐竹。
深く強烈な踏み込みにより、威力と速度は申し分なし。
しかしそれを、アノニマートは自らも間合いを詰める事で打点を殺した。

もちろんそれだけでは終わらない。
アノニマートは右拳をコルトの鳩尾の数センチ手前で構え、震脚を轟かせながら最小の動作から渾身の突きを放つ……

「リボルバー……シュート!」

寸前、横合いから飛んできた魔力弾の防御に気を裂き、僅かに動作が鈍った。
その間にコルトは杖を切り返し、触れ合えそうなほど近いアノニマートを押し返す。

同時に、タイミングを合わせて今度はギンガの方から接近。
再度コルトに接敵しようとするアノニマートとの間合いを詰め、勢いをそのままに肩から突撃を仕掛ける。

それに対し、アノニマートは受けに回ることなく自らもまた前に出た。
互いに放つのは中国拳法で言う所の「靠撃(はいげき)」。
二人は正面から衝突するが、助走距離のあったギンガの方が有利。
競り負けたアノニマートだが、そこへコルトも追撃をかける。

ウィンダムを大きく振るった瞬間、アノニマートの視界に黒い影がよぎった。
見れば、そこには人の背丈ほどはありそうな巨大なコンクリートの塊。
周りにはうっすらと翠色の光が巻き付き、その光はウィンダムの先端から伸びている。
アリアドネを利用した、即席のモーニングスターと言ったところか。

「お………っらぁ!!」

豪快な風切り音を立てながら、巨岩がアノニマートへと迫る。
このままいけば、アノニマートの身体はギンガと巨岩で挟みこまれるだろう。
そうなれば、如何にアノニマートといえどただでは済むまい。

だがそれは見方を変えれば、アノニマートと密着しているギンガにも迫っているという事。
確かにアノニマートを仕留められる可能性が高いが、その為にはギンガも多大なダメージを受ける。
しかし、コルトにそれを気にした素振りは見られない。
ハナから二人纏めて薙ぎ払う腹積もりと言ったところか。

宣告口にした、「邪魔をするならお前からやる」と言うのは本気だったらしい。
厳密にはギンガは足手纏いにも邪魔にもなっていないが、仕留めるチャンスを棒に振る気はないようだ。

ギンガもその事に気付き、一瞬逡巡する。
アノニマートを逃すかもしれないが離脱するべきか。
それとも、このままアノニマートの動きを封じて諸共この一撃を受けるか。
勇猛と蛮勇は違う。悪戯に自分の身を危険に晒せばいいというものではない事を、彼女は良く知っていた。

その事を踏まえた上でギンガは小さく息を吐き――――――――――――――――覚悟を決める。
この敵は強い。ここで逃せば、次はいつチャンスが来るかわからない。
多少の無茶はやむを得ない、彼女はそう判断した。

だが、そこに至るまでの一瞬の躊躇が明暗を分ける。
僅かに動きが鈍った瞬間を見逃さず、アノニマートは自ら後ろ向きに倒れた。
同時に襟を取り、片足をギンガの下腹に押し当て「巴投げ」の形で投げる。

「しまっ!?」

途中で襟を手放した事で、ギンガの身体は宙を浮き巨岩の上を飛び越えた。
しかし、所詮はそこまで。アノニマートがどんな意思で、こんな行動に出たにせよ、ここで手詰まり。
仮に本気でギンガを助けたのだとしても、彼自身の救いにはならない。

巴投げはその性質上、一端地面に背を預ける形になる。
勢いを利用して起き上がったとしても、既に手遅れだ。
眼前に迫る巨岩を回避する術はないし、今更どんな防御をしても充分には程遠い。
だがそこで、アノニマートは思いもよらない行動に出る。

本来なら何を置いてもまず起き上がり、来るべき事態に対処しなければならない場面。
そこで彼は、起き上がる事を放棄した。

敢えてその場で倒れ伏したまま、微動だにしない。
やがて巨岩はアノニマートの間近まで迫り、その数ミリ上を素通りした。
巨岩は慣性の法則に従い、アリアドネを引きちぎってあらぬ方向へと飛んでいく。

「怖っ、マジ怖っ! いてて、鼻擦れちゃったよぉ~」

言いながら、アノニマートは鼻を抑えながら立ち上がる。
理屈としては単純だ。アノニマートは巨岩が迫る中、単発式の極初歩的な魔力弾を巨岩の底で炸裂させた。
そうする事で巨岩を僅かに浮き上がらせ、動くにつれ徐々にその隙間は大きくなる。
そこへ自らの身体を滑り込ませたのだ。

とはいえ、言うほど簡単にできる事ではない。
有るとわかっていても、そこに入り込もうなどとは普通考えない筈だ。
実際、もう少し隙間が狭ければアノニマートの身体の正面部分は、かなりの範囲で抉られていただろう。

ギンガのみならず、コルトですら思わず動く事を忘れてしまう程に、その驚きは大きい。
だが、それを為した張本人はと言うと、あまりとんでもない事をしたという意識はないらしい。

「いやいや、さすがに無理心中は勘弁かなぁ……。
 まぁ、女の子の盾になって死ぬって言うのも中々ロマンがあって憧れるんだけどね。
 ただ、さすがに二度ネタはどうかと思うんだ、実際。僕としても、僕は僕でありたいと思うわけで……」

何を言っているのかは二人にはよく分からないが、アノニマートなりに何か思う所があるらしい。
とそこで、アノニマートはギンガとコルトに視線を向ける。

「でも………うん、思っていた以上に分が悪いね。正直、これは困ったぞぉ~」

相変わらず、言ってる内容はどうにも胡散臭くて信用できない。
本当に困っているのかどうか、あるいは本当に分が悪いと思っているのか。その全てが疑わしい。
しかし、一応彼は彼なりに本気でそう思っているのだ。

(思いの外連携してる…っていうよりも、ギンガさんが上手くやってるってことかな?)

先のギンガもろとも攻撃したことからもわかる通り、やはりコルトに共闘という考えはない。
が、そこはそれ、代わりにギンガがコルトに合わせている。
御蔭で、なんとか辛うじて二人は互いの足を引っ張り合う事は避けられていた。

そもそも、流水制空圏の第一段階とは「相手の流れに合わせる」技。
これを応用すれば、味方の動きに合わせて形だけでも共闘するくらいはできる。
そのギンガの献身が、なんとか状況を二人に有利な物へと持って行っていた。

だが、そうとわかればアノニマートにも考えがある。
あまりやりたくはないのだが、普通にやっていては分が悪い。

「と言うわけで、ちょこっと………裏技、いっちゃうよぉ~」

その言葉と共に、アノニマートの雰囲気が一変する。
これまでのどこか緩んだ雰囲気はなりを潜め、代わりにコルトを上回る獰猛な気配にとって代わられた。

ユラリと、凄絶な笑みを浮かべながらアノニマートはコルトの方を向く。
ギンガ同様不穏な気配を感じ取ったコルトは、一切の油断なく杖を構える。
そして気付いた時、アノニマートはコルトの眼前まで迫っていた。

「っ!?」
「キェイ!!」

転移する間もなく、首をへし折らんばかりのラリアットがコルト目掛けて放たれた。
コルトは辛うじて防御態勢を取り、ウィンダムで受け止める。
しかし、それまでの比ではないでたらめな怪力により、その身体は面白い様に後方へ薙ぎ払われてしまう。

ギンガは慌ててそのフォローに入ろうとするが、それより早くアノニマートが追撃をかける。
接近し、間合いに捉えると同時に放たれる「ティーカオ(飛び膝蹴り)」。
ガードもろとも押し潰され、コルトの身体は白亜の壁に叩きこまれてしまう。

そこでようやく追いついてきたギンガは、ナックルスピナーから発生した衝撃波を乗せ、背後から渾身の正拳突きを放つ。
だが、アノニマートはその一撃を脇腹に潜り込みながら回避。
懐に入ると共に、強力な廻し肘打ちを叩きこむ。

「ぐっ!?」

流水制空圏のおかげか、なんとか皮一枚掠める形で回避に成功するギンガ。
とはいえ、ここまで深く入り込まれたのはむしろ好都合。
ギンガはその場でアノニマートの首を抱え込み、首相撲の姿勢に持って行く。

密着状態からの「カウ・ロイ(膝蹴り)」。
この状態ではもはや逃れる術はないかと思われたそれは、強引な力技で破られた。

「熊手連破!!」

指の第一関節を折り曲げる熊手による、息もつかせぬ連打。
両腕を首にまわしていた為、ギンガにそれを防ぐ術はない。
鋼の五指が幾度もギンガの身体に突き刺さり、その顔を苦痛に歪めていく。

しかし、日頃の修業によりギンガの耐久力は格段に跳ね上がっている。
彼女はアノニマートの指が深々と突き刺さった瞬間を見計らい、その腕を両腕で抱え込む。
同時にバインドを展開、アノニマートの身体を徹底的に拘束した。

「コルト、今!!」

呼びかけに応じる様に、ウィンダムを薙刀へと変形させたコルトが斬りかかる。
片腕どころか全身を封じられ、今のアノニマートに防ぐ術も回避する術もない。

だがアノニマートはその悉くを引きちぎり、空いた左腕で制空圏を築く。
薙刀が制空圏に触れた瞬間、まるで拒絶されたかのようにウィンダムはあらぬ方向に弾かれた。
それどころか、指が突き刺さったままのギンガの身体を強引に持ち上げ、コルト目掛けて投擲する。

「おおおおおお!!」
「きゃっ!?」
「ちぃっ!?」

二人の身体は正面から衝突し、もんどりうって地を転がっていく。
さらにそこへ、跳躍と共に空中に展開した魔法陣を蹴り、アノニマートが両拳を突き出して降って来る。

「ディエゴティカダウンバースト!!」
(不味い、早く流水制空圏を……)
「調子に…乗るんじゃねぇ!!」

流水制空圏を築くギンガと、薙刀を一気に斬り上げ迎撃しようとするコルト。
しかしそれらは、全体重と落下の威力を乗せた拳の前に容易く破られた。

アノニマートはそこで一端距離を取り、二人の様子を観察する。
そこには、重いダメージに膝をつく二人の姿。

「へぇ、まだ倒れないんだ。タフだねぇ~」
(そんな…流水制空圏が、こんな簡単に……)

数撃は持ち堪える事が出来たが、完全に破られてしまったその事実にギンガの精神は大きく揺らぐ。
自らのそれが不完全である事は承知しているが、それでもだ。

コルトもまた、抱いている感想は似た様な物。
先ほどまではなんとかついていけた敵の動きが、今はまるで付いていけなかった。
動きの速さ、一撃の重み、ここの技の精度、その全てがこれまでの比ではない。

「何が起きたかわからない、って顔してるね」
「なんだ、聞いたら教えてくれるってのか?」

アノニマートの軽口に対し、コルトは杖で身体を支え、睨みつける様にして問う。
答えなど期待してはいないが、それでも何らかの策を講じる時間が欲しい。
無策で挑むには、今感じた戦力差は絶望的すぎる。

「静動轟一、って聞いたことない?」

アノニマートの言葉に対し、二人は揃って眉をしかめる。
どうやら、二人ともその言葉に心当たりはない様だ。

「ふ~ん、コルト君はともかくギンガさんなら知ってるかと思ったんだけど……もしかしてあの人、教えてない? まぁ、あの人が教えようとしないのもわからないではないんだけどねぇ~」

アノニマートからの問いかけに対し、ギンガは無言。
師がこの男の使う技を知っている事への驚きはないし、同様に技の存在を知らされなかった事への不信感もない。ギンガは兼一に全幅の信頼を寄せている。
彼があえて教えなかったのなら、知る必要がないか、まだ知るには早いと判断したのだろう。

実際、あの技はどこか危うい。
一瞬捉えたアノニマートの眼から、ギンガは直感的にその危険を感じ取っていたから。
だが、この一言はさすがに予想外だった。

「何しろこの技、白浜兼一の幼馴染を再起不能にした技だし」
「なんですって!?」
「だからね、この技は彼の幼馴染を実験台にして開発された技なんだよ。
 しかも、その幼馴染がこの技を使った相手が彼自身。
 あの人としては、色々嫌な思い出の多い技だろうからねぇ~。教えたがらないのも当然かなぁ~って」

あくまでもにこやかに、先ほどまでの凶悪な雰囲気が幻の様な調子でアノニマートは語る。
しかしその内容は不穏そのもの。
技をかけられた側が重傷を負う事は、強力な技ならあり得ない事ではない。
だが、技をかけた側が再起不能になるなど聞いた事がなかった。

「なんで、そんな危ない技を……下手をしたら、あなただって!」
「そこら辺は大丈夫~…とは言い切れないけど、用法用量はちゃ~んと弁えてるよ~。
 朝宮龍斗とかのおかげで、その辺はもうだいぶ分かってるからね。
 長時間使わなければ、とりあえず問題はないんだよ」

事実、朝宮龍斗の犠牲により静動轟一は一定の完成を見た。
『長時間使ってはならない』という、その条件は彼を犠牲に見出したのだ。

その事実に、ギンガは不快感をあらわにする。
殺人拳など以ての外だが、これはそれ以上に性質が悪い。
弟子を犠牲にし、使う者に時限爆弾を持たせるような技など認められない。
少なくとも、彼女の師ならば絶対にそんな事はしない筈だ。

だからこそ、何故兼一がこの技の存在を教えなかったのか、その訳をギンガは理解する。
しかし、そんなギンガを余所にコルトは平然とした様子でその意味を分析していた。

「それはつまり、要は限界が来るまで粘ればてめぇは勝手に自滅するって事だな」
「うん、そうだよぉ~。でもぉ~、僕にはあんまり当てはまらないかなぁ~?」
「なに?」
「ふふ~、そこから先は…ヒ・ミ・ツ♪ さあ、おしゃべりも良いけど……そろそろ続きといこう!!」

静動轟一の神髄とは、即ち静"と"動"という相反する二つの気を同時に発動させることにある。
これにより、一時的に強力且つ正確無比な攻撃を繰り出す事を可能とするのだ。
だがそれは、「密閉された瓶の中で火薬を爆発させ続ける」と表現されるように心身への負担は凄まじいという弊害も併せ持つ。
数分で肉体は限界に達し、使いすぎれば再起不能や廃人化の恐れもある危険極まりない技、それが静動轟一。

それを“拳聖”緒方一神斎は使用時間に制限を設ける事で実用化した。
しかしそれでも、この技が「短期決戦」以外に使えないと言う事実に変化はない。

そこで発案された、第二のアプローチ。それが『密閉させた瓶の中で火薬を爆発させ続ける』のでは器が保たないと言うのなら、『爆発を要所要所に限定すれば良い』というもの。
例えば動き出す瞬間、初撃やトドメの瞬間など、“ここぞ”と言う時だけ使う。

そうする事で容れ物へのダメージを最小限にとどめ、使用時間を引き延ばしているのがアノニマートだ。
元より基本ポテンシャルでは二人を上回っているだけに、初速や初撃の威力を引き上げるだけでも十分と言うのもあるだろう。その分、本来のそれより全体的なポテンシャルの向上は望めないが、より安定して闘えるという強みがある。
故に、アノニマートの限界時間は本来のそれより幾分長い。

「えああああああああ!!」

大地を蹴って疾駆してくるアノニマートに、ギンガもまた前羽の構えで打って出る。
速い相手には懐に入って先手を封じる、それが兼一の教えだ。
その教えを忠実に守り、ギンガは怒涛の突きを掻き分けて距離を詰めていく。
同時に、コルトもギンガ同様前に出る。

アノニマートのオリジナルは抜き手を好んだが、彼は違うらしい。
放つのは巌の如き拳の乱打。二人は初撃をなんとか受け止めるも、その後は良い様に貰ってしまう。

しかし、アノニマートの静動轟一は一瞬だけの物。
初撃さえ防げれば、よほどの隙を見せない限り残りの攻め手が直接致命打に繋がる可能性は低い。
それを二人は、直感的に理解していたのかもしれない。

(へぇ…守る所はしっかり守ってる。二人とも、守りどころの見極めが上手いねぇ~)

伊達に、日々遥か格上に徹底的に叩きのめされてはいない。
絶対に、なんとしてでも守り抜かなければならない局面を察知することにかけては、二人とも既にかなりのレベルにある。この状況はその成果だった。

「があっ!」
「おっと」

怒涛の連撃を掻い潜り、コルトが杖を真横へ一閃させる。
アノニマートはそれを飛び上がって回避、そのまま蹴りを放つ。
コルトは辛うじて杖を盾にそれを防ぐが、あまりの威力に身体が流れた。
だがその陰から、右の抜き手を構えるギンガが姿を現す。

「抜き手かい? いいね、あんまり使いたくないけどそれは前の僕の得意技なんだ」

言いながら、アノニマートもまた抜き手を構える。
二人の抜き手が正面からぶつかり合い、勝ったのは……………アノニマートだった。

「ぐはっ!?」

『人越拳 ねじり抜き手(じんえつけん ねじりぬきて)』。
人体を突き破るほどの威力を誇る、強い回転を加えた抜き手。
まさに彼が言った通り、アノニマートのオリジナルが得意とした技だ。

強烈な回転によりギンガの抜き手は弾かれ、導かれるようにギンガの身体に突き刺さる。
ギンガの身体は、僅かに赤い雫を撒き散らしながら後方に向けて吹き飛ばされていく。
これでは仕留め切れていないと判断したのか後を追おうとするアノニマート。
しかし、そこへ礫の散弾が飛来し足を止める。

「おっとっと……」

横合いから飛んでくる礫を、彼は回し受けで捌いて行く。
だが、いつまでたっても散弾が収まる気配はない。
そこでアノニマートは、カラリパヤットにおいて、『蛇の型(へびのダデイブ)』と呼ばれる両手の手刀を合わせた形で身体を小さくまとめ、突撃を仕掛ける。

散弾に晒される面積を小さくした事で、ダメージは最小限に。
しかも、散弾の流れをさかのぼっていけば、そこにはコルトがいる。
アノニマートは流れを道標に、一気に間合いを詰めていく。

しかし、この選択には一つの欠点がある。
礫の散弾に晒される関係上、どうしても視界が悪い。
いる事はわかっていても、正確な距離が掴みづらいのだ。

コルトはそれを利用し、自らも敢えて礫の散弾に身を晒し前に出る。
捨て身とも言える行動だが、それによりアノニマートの想定よりも二人の間合いは急速に詰まっていく。
そして、それを把握していたコルトは自らの制空圏に捉えた瞬間、最小限の動作で杖を薙ぐ。

自分より速い相手に威力重視の大振りは悪手。
動きは最小限に、回転を上げて手数を増やす。
それでようやく追い縋れるスピードの持ち主、それがアノニマートだ。

コルトはその考えに基づき、アリアドネも併用しながら連打を放つ。
先手を取った事で、守りに回っている今が好機。
だが、いくら打ち込もうともアノニマートはその悉くを捌き続ける。
元々気の長い方ではないコルトだけに、彼は徐々に焦れていく。

逸る気持ちを抑えるコルトだが、その視界に一瞬ギンガの影がよぎる。
場所はアノニマートの背後。コルトが足止めしているうちに、挟み撃ちにしようという算段なのだろう。
利用された事は業腹ながら、コルトも贅沢は言っていられない。
渋々諦め、ギンガが来る瞬間に合わせて渾身の一撃を打ちこむべく、力を練る。

しかし、そんな一瞬の変化をアノニマートは見逃さない。
薙ぎ払われた杖を足で絡め取り、そのまま地面に倒れ込んでもう一方の膝で顎を蹴りつける。

「がっ!?」

コマンドサンボの『シエルプ・イ・モラット(鎌と鉄槌)』だ。
そのまま杖を持ち変え、アノニマートはウィンダムをへし折りにかかる。
だがそれが実現される前に、ギンガがムエタイのローキック「テッ・ラーン」でそれを止めた。

アノニマートは飛び跳ねる様にしてギンガの一撃をかわし、同時に二人に置き土産とばかりに数撃入れて距離を取る。
ギンガは僅かにたたらを踏みながらも踏みとどまり、コルトは脳を揺らされた頭を叩きながら立ち上がった。

「うんうん、二人とも良い執念だ。そうこなくっちゃね~」

あくまでも余裕の表情のアノニマートに、二人は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。
なんとか致命打だけは防いでいるが、状況はジリ貧。
アノニマートの言う通り、一向に限界を迎える様子がないのが何よりも堪える。

とそこで、それまでニコニコと笑みを浮かべながら二人を見ていたアノニマートが、突然視線を転じた。
その様は隙だらけで、あまりにも無防備過ぎる。余裕があるとか、そういう次元の問題ではない。
毒気を抜かれた二人は、いぶかしむ様にアノニマートの視線を追う。

視線の向かう先は、ホテル入口の屋根の上。
そこには短い金髪と筋骨隆々の肉体が特徴的な巨漢の姿があった。

「先生?」
「……」

アノニマートの問いかけに、先生と呼ばれた男、イーサンは無言のまま。
しかし、二人の間ではそれで充分だったらしく、アノニマートは僅かに肩を竦める。

「なんだ、静かになったと思ったら……もう終わってたんですね」
「っ!?」

その言葉の意味を、ギンガは即座に理解する。
兼一はホテルの裏手で誰か、彼の古い知り合いと闘うと言っていた。
耳を澄ませば、先ほどまで裏手から轟いていた轟音は既にない。
それが意味する者は決着。そして、にもかかわらず兼一が姿を現さず、その相手だけが姿を現したとなれば、その結果はつまり……。

「なら、一人多国籍軍は死にましたか?」

必死に否定していたその単語を、アノニマートはなんの気なしに言葉に乗せる。
イーサンはそれに対し肯定も否定も返さず、ただ瞑目する事で返事とした。
よく見れば、彼の指先にはまだうっすらと赤い雫の跡が……。

それを認識した瞬間、ギンガの視界が歪む。頭の中がぐちゃぐちゃになり、考えがまとまらない。
それに反し、胸の奥から沸々と煮えたぎる何かが沸き上がってきた。
熱はやがて脳へと達し、脳髄の隅から隅まで灼熱させる。
歪んだ視界は赤く染まり、全身が小刻みに震え、吐いた息は火傷しそうな程に熱く、心臓が早鐘を打つ。

ギンガはその場で、僅かに残った理性を総動員し兼一との通信回線を開く。
しかし、幾ら呼びかけても返事は返ってこない。
とそこで、アノニマートの手元に一つのモニターが出現する。

「あ~、ホントに死んでますね~」

そこには、力なく倒れ伏す兼一と必死に心肺蘇生を行うシャマルの姿が映し出されている。
どこから撮っているのかは定かではないが、確かにそこには見間違いようのない現実があった。

「見た所、経穴を断って心臓を止めたってところか。
 とすると、解穴しない限り普通の心肺蘇生も意味はないかな?
 残念、一度会ってみたい人だったんだけどな……」

その声音には、今までとは違う真摯な響きがあった。
アノニマートは本心から、兼一と会えなくなった事を惜しんでいる。
だが、今のギンガにそれを正しく認識する事は出来なかった。

わからない。わからないわからないわからないわからないわからない…わからない。
自分で自分がわからない。ただ、真っ赤に染まった視界の中でイーサンへと視線が釘付けになる。
眼を離せない。意識を離せない。別の何かを見る余裕も、考える余地も既にない。
認識できるのは、師を殺したと言う男への抑えようもない激情だけ。

静の武術家として、一時の激情に身を任せるなど愚かな事だ。
しかし、理性で感情の全てを抑え込むには未だギンガは若く、未熟過ぎた。

「あ…ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

絶叫に続き、ギンガは涙を湛えた瞳のまま爆ぜる様にしてイーサンめがけて疾駆する。
既に彼女の眼にはコルトもアノニマートも映っていない。
あるのは只、大切な人の死への悲哀と、尊敬する師にして初めての焦がれる異性を殺した敵への憤怒、そして憎悪。

怒りに燃える心はさらに燃え上がり、初めて芽生えた憎悪を御する術はない。
ギンガは生まれて初めて、その拳に「殺意」を乗せる。

「おおっとっと、ダメダメ。君の相手は僕でしょ?
 そりゃね、先生を殺されて怒るのはわかるけどさ」

肩をすくめながら、アノニマートはギンガの前に立ちふさがる。
だが、ギンガはそれに構うことなく強引にアノニマートを押し退けて突き進む。

「退きなさい!」
「いや、だからさぁ~」
「退け――――――――――――――!!」

突き出される拳に対し、ギンガは防御すらしない。
攻撃を喰らってもお構いなしに、ギンガはイーサンめがけて疾走する。
とはいえ、それをアノニマートが黙って見送る理由もなく。

「悪いとは思うんだけどね、勝負の最中に余所見は失礼だよ」
「ああ、てめぇこそ余所見してんじゃねぇよ!!!」
「え…がっ!?」

尚も追い縋ろうとするアノニマートの横手から姿を現したのはコルト。
彼はその場で反転し、杖による薙ぎと回し蹴りの二弾攻撃でアノニマートを弾き飛ばす。

不意をつかれた事でギンガとの間に距離が開く。
そこにコルトはアノニマートの進路を阻み、ギンガを庇うような位置取りで滑り込んだ。

「これでようやくサシでやれるんだ。好きにやらせてやればいいじゃねぇか」
「そりゃね、タイマンは僕としても歓迎だけど……さすがにそれじゃ分が悪いよ?」

実際、普通に闘ってもコルト一人ではアノニマートの相手は手に余る。
二人がかりでようやく優勢、静動轟一を使われたなら二人でやっと持ち堪えられる位。
その意味では、彼一人で闘うのは無謀の類であろう。そう、ついさっきまでなら……。

「なぁに、そうでもねぇさ」
「ん?」
「やり方は大体わかった。なら、俺も同じ事をすればいいだけの話だろ?」

言った瞬間、コルトの雰囲気がアノニマートのそれに酷似したものに変わる。
それを見て、アノニマートは驚きに満ちた目でコルトを見た。

「こいつはビックリ。まさか、静動轟一をやるとはねぇ~。
 あ、でも…これって下地があれば案外……」

何しろ、最初にこの技を使った朝宮龍斗は特に教わったわけでもなく静動轟一を発動させた。
もちろんそうなるように育てられた結果ではあるが、逆に言えばそう育っていればいつ使える様になったとしてもおかしくないと言う事。
元々、コルトにはその素質が、精神的素養があった。それが、アノニマートとの闘いの中でやり方を覚えたのだとしたら……あり得ない話ではない。

「凝縮された気を一気に開放するのが静動轟一。とはいえ、まさかいきなりやってのけるとはねぇ~。
君は本当に、いつもいい意味で僕の期待を裏切ってくれるよ」
「ふん。だが、これで条件は対等だ。それでも不満か?」
「まさか。静動轟一同士の対決なんて魅力的な組み合わせ、ほっぽり出せるわけないじゃないか」

アノニマートはギンガを追う事をやめ、目の前に立つコルトに集中する。
静動轟一の使い手同士の闘いは、アノニマートにとっても、彼のオリジナルにとっても初めての経験だ。
無視してしまうには、それはあまりにも惜しい。

何より、静動轟一を使えるようになったばかりのコルトでは、彼の様な加減やコントロールは無理だろう。
となれば、加減も容赦も一切抜きの、全力の静動轟一の相手をしなければならなくなる。
それは、アノニマートにとっても決して気を抜いて闘える状況ではない。

事実、彼の顔には既にそれまでの余裕はなくなっている。
代わりにその表に浮かぶのは、強い闘志に満ちた真剣な面差だけ。

「ちっ、やっぱり今までのは仮面かよ。どうりで胡散臭ぇと思ったぜ」
「酷いな。少しだけキャラ作りしてる部分はあるけど、今までのも紛れもない本心だよ。
 君と友達になりたいっていうのなんて、心の底から本気なんだから」

実際、アノニマートは口調や態度こそ意識的にああいう形に変えているが、内容そのものは紛れもない彼の本音だ。その口調や態度についても、普段の彼から大きくかけ離れているわけでもない。
ただ、ほんの僅かに意識して軽い調子を装っているだけの話。
まぁそんなこと、コルトの知った事ではないのだが。

「知った事か。そのまま、化けの皮を全部剥いでやるよ!」

言って、コルトは大地を踏み砕きながらアノニマート目掛けてウィンダムを振り上げる。
アノニマートもまた静動轟一のギアを上げて疾駆した。
静動轟一対静動轟一。ここにきて、ようやく二人は互角の闘いを始める。



そして、無謀にもイーサンへと飛びかかったギンガはどうなったのか。
本来なら、イーサン相手にギンガに勝ち目などない。
一合と渡り合うことなく、瞬く間の内にその命を断たれる事だろう。

本来であれば、それがあるべき結末。
しかし、イーサンからしてもギンガは今殺すには惜しい人材だ。
必要でもないのに弟子クラスの者を殺すのは彼の流儀ではないし、弟子の闘いに師が出るつもりもない。
彼には、ギンガに対しなんの恨みも敵意もないのだから。

故に、イーサンはその場で不動を貫き、指一本をギンガに対して動かさない。
ギンガの突きも蹴りも、あらゆる魔法が彼の身体をすり抜ける。

誰の目にも明らかな、圧倒的と言うのもバカバカしい程の力の差。
だが、それでもギンガは止まらない。
力の差がある事など承知の上。否、そんなものは元より問題ではない。
勝てるか勝てないかではない。倒せるか倒せないかでもない。
大切な者を奪われて、黙り立ち止まることなど彼女には出来なかった。

「あああああああああああああああああ!!!」

しかし、精神論でどうにかなるほどその差は甘くはない。
如何にギンガが望んでも、どれほど捨て身で挑もうと、その拳がイーサンに届く事はないのだから。
そんなギンガに対し、イーサンは言葉にはせずに思う。

(師の為に命を捨てるか。良い弟子を持ったな、友よ)

感情に流されて戦う様は、確かに静の武術家としては愚かかもしれない。
だが、それは想いの強さの裏返しでもある。
とはいえ、この状態が良い傾向であるとはイーサンも思わない。

「ストップ!
 今のユーではミーに触れることすらできない。その程度のことすらわからない程未熟ではない筈だ。
 白浜の弟子よ」

ギンガの眼前に手をかざし、イーサンは彼女を諌める。
確かにギンガの心意気は買うが、所詮はそれだけ。
涙をこぼしながら拳を振るう子どもの相手と言うのは、正直気が乗らないと言うのが本音だ。
なにより、今のギンガの拳は彼のライバルのそれからは程遠い。

「ユーは一体ヒーから何を学んだ? そんな無様な拳が、白浜兼一の教えか?
………………だとすれば、ミーはヒーを買い被っていやがったと言う事か、ラメント(残念)だ」

その瞬間、ギンガの身体は時を止めた。
それまで炎の様に猛り狂っていた様は一転し、道に迷った子どもの用に頼りないものに変わる。
足を止め、ギンガはゆっくりと自身の両手に視線を落とす。

無様と言われた、よりにもよって敵に。
それどころか、お前の師の教えはこんな物かと見下されたのだ、仇である筈の男に。

しかし、確かにその通りだと思う自分も存在する。
この拳は人を活かす為の拳。その拳が、今は殺意と憎悪に塗れている。
これが、無様でなくていったい何だと言うのか。
師の教えを貶め、拳を汚したのは他ならぬ自分自身。

「良いかい、本当に怒りに燃えた時にこそ心を鎮めるんだ。
 激情に飲まれれば、心の闇が開いてしまう。これを肝に銘じ、感情は深く秘めて闘いなさい」

反芻するのは師の教え。今のギンガは、到底その教えを守っているとは言い難い。
その事を、僅かに冷静さを取り戻したギンガは受け止めるしかなかった。

同時に、それが引き金となり見る見るうちに熱が冷めていく。
自分のしでかした事に、しようとしていた事に、愕然とするあまり。

ギンガは深く息をつき、激情を深く呑み込んでイーサンに対して背を向ける。
悔しいが、今の自分ではこの男に対して勝ち目がない。闘おうとするなら、それは単なる自殺も同然。

それに、この男に闘う意思はなく、動く意思もない事はすでにわかっている。
なら、敢えて藪を突く事もない。もし動くのなら、その時はそれに合わせて動けばいい。
と言うより、本当にそれしかイーサンに対しては対応のしようがないのだ。

その事を、取り戻した冷静さと理性でギンガは正しく認識した。
今自分が闘うべきは、イーサンではなくアノニマートの方なのだと。
とはいえ、もう一度彼の顔を見ればまた激情に支配されてしまうかもしれない。
故に、決して顔を合わせない様に背を向けアノニマートへと向かう。
そんなギンガに向け、イーサンは小さく称賛の言葉を零す。

「エクセレント、さすがは白浜が見込んだ弟子だ」

その顔に浮かぶのは笑み。
友の見る目に曇りはなく、その弟子は確かに彼の教えを正しく受け止めている。
その事が、イーサンは我が事のように嬉しかった。



  *  *  *  *  *



「あ…ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

遠方より響く、一人の少女の絶叫。
そこには悲哀が、憤怒が、憎悪が、虚無が、無数の激情が混ざり合っていた。
聞く者の胸を痛ませるその声を聞き、シャマルは思わず顔を上げる。

「っ! ギンガ……?」

何が起こったのか、彼女に知る術はない。
だがそれでも、何かが起きている事は明白。
今すぐ支援に向かうべきなのかもしれないが、彼女の眼前には兼一が横たわっている。
それを見捨てて、この場を離れることなど……。
しかしその瞬間、シャマルはあり得ないものを見る。

「え、ウソ……」

心臓が、呼吸が止まっている者が動ける道理はない。
なのに、彼女の眼前で兼一の腕がゆっくりと上がっていく。
シャマルは信じ難い光景に硬直し、呼吸も忘れてその様を瞳に移す。
そして、その腕は高々と掲げられた所で、指先を立てて自らの胴体に突き立てられた。

「かはぁっ!」

同時に、呼吸と心拍が戻り、兼一は勢いよく新鮮な空気を肺に取り入れた。
兼一は勢いよく上半身を起こし、周囲の様子を確認する。

「け、兼一さん…生きて……」

感極まった様子で、眼に涙を浮かべながらシャマルは肩を震わせる。
まさか、自力で心肺蘇生をしてしまうとは思わなかったが、生きているのならとりあえずはよし。
しかし、そんな彼女に対し、つい先ほどまで死にかけていた兼一は、あっけらかんとのたまう。

「え? やだなぁ、シャマル先生。心臓が止まった位じゃ人は死にませんよ?」

アハハハ、と笑いながら手を振る兼一と、その笑えない内容に顔の引きつるシャマル。
正直、「そこは死んでおくべきじゃ」と思わないでもないが、それはそれで死ぬのを望んでいるみたいなので言わない。
まあ、実際には兼一も内心では「あ~~~~~~~~~~~~、死ぬかと思った」と思っているのだが。

「そうだ、ギンガ達は!」
「い、今はホテルの正面で……って、何するつもりですか!?」
「あの子たちが心配です、僕も行きます」
「ちょ、今の今まで心臓が止まってた人が何言ってるんですか!?」
「僕の師匠の中には、本当に死んでも生き返って僕を守ってくれた人がいます。
 僕はその人達の弟子で、ギンガの師です。心臓が止まった位で立ち止まるわけにはいかないんですよ」

言って、兼一はシャマルの制止を振り払って歩みを進める。
だが、さすがにその足取りは重く、普段の力強さは見る影もない。

「ああ、もう! 本当に困った人ばっかりなんだから!!」

シャマルは兼一の後を追い、彼に肩を貸す形でその身体を横から支える。
兼一は僅かに驚いた様子で眼を見開くが、すぐに小さく「ありがとうございます」と呟いて前を向いた。



  *  *  *  *  *



ギンガがいるべき戦場に戻った時、既に闘いは決していた。
元より、静動轟一の使い手同士の闘いに長期戦はない。
そして、元の戦力で劣り、たった今静動轟一を身に付けたばかりのコルトの敗北は、ある意味必然だったのだろう。

「ハァハァハァ、ハァハァハァハァ……やぁ、早かったね」

アノニマートはギンガの存在に気付き、荒い息を整えながらそちらに視線を向ける。
足元にはボロボロになって横たわるコルトの姿。

その姿に、ギンガは自らの愚かさを噛みしめる。
あの時、自分が暴走しなければ彼一人に闘いを押し付けたりはしなかったのに。

「コルト……」
「てめぇ、なんで…戻ってきやがった……」

動かぬ身体で、コルトはギンガを地べたから睨みつける。
彼にはわからない。彼女が向かって行ったのは憎い敵。
ギンガ達の心の有り様にはあまり共感を持てないコルトだが、その憎しみや敵意は理解できた。
にもかかわらず、彼女は途中で拳を引き戻ってきたのだ。
その理由が、コルトにはどうしてもわからない。幾らかなわないとはいえ、何故拳を引けるのか。

「ごめん、私の我儘で押し付けちゃって。ここからは、私がやる」

ギンガの言葉に対し、コルトの返事はない。
彼からすれば、謝られる理由自体が理解できないのだろう。
ただ視線を逸らすだけ。動かぬ身体では、「これは俺の獲物だ」と主張する事も出来ないから。

(雰囲気が、変わったかな?)

舞い戻ったギンガに対し、アノニマートはそんな印象を受けた。
具体的にどこが変わったとは言い辛いのだが、全体的に今までにない落ち着きの様な物がある。

(静動轟一もそろそろ限界だし、早めにケリをつけるか)

何にせよ、今となっては彼にもあまり時間は残されていない。
かつてのそれより幾分効率的な運用ができるようになったとはいえ、その負担が大きいのは事実。
特に、コルトとの戦いでかなりの消耗を強いられた。
今のアノニマートに、悠長に闘っていられる余裕はない。
何しろ、そろそろミッション完了の時間も迫ってきている。

「悪いけど、こっちも時間がないんだ。早めに、終わりにしよう!!」

出し惜しみなし。静動轟一からの、全体重に突進力を乗せた順突き。
それはアノニマートの思い描く通りの軌跡を描き、真っ直ぐにギンガ目掛けて伸びていく。

パワー、スピード、技量、その全てにおいてアノニマートはギンガを上回っていた。
この一撃、ギンガには受け止めて耐え忍のが限界。
先の闘いからそれを把握していたアノニマートの予想は……ここに覆る。

「っ!?」

風に揺れる柳の葉の如く、ギンガはアノニマートの一撃を緩やかな動作で回避する。
と同時に、ギンガはさりげない動作で一歩踏み込み、アノニマートの脛へと蹴りを放つ。

八極の一手「斧刃脚(ふじんきゃく)」。
予想外の事態にアノニマートはバランスを崩し、僅かにその上半身が揺らぐ。

アノニマートは蹴られた方と逆の脚で大地を蹴り、一端ギンガから距離を取ろうとする。
だが、そんな不十分な体勢からの移動ではいつもの速度は出ない。
ギンガはそれを読んでいるかのようにぴったりと張り付き、アノニマートの手を捉え、手首の関節を捩じって「小手返し」に持って行く。

アノニマートはその流れに逆らわず、敢えて自ら跳躍しギンガの手を振りほどきながら着地。
着地と同時に地を蹴り、手刀の構えで両腕を交差しギンガ目掛けて飛び込んでいく。

それも、寸での所で掻い潜られてしまい不発に終わる。
しかし、ここまではアノニマートの予定通り。彼は左足を軸に反転し、裏拳を放つ。
だがそこにはギンガの姿はなく、代わりにアノニマートの軸足が蹴り払われた。

放たれたのは、しゃがみこんで足払いを掛ける「前掃腿(ぜんそうたい)」。
ギンガはしゃがみこんだ姿勢から立ち上がりながら、左手の甲に右手を添える。
そして、そのまま立ち上がる勢いを利用して、両手による掌打を叩きこんだ。

「ぐぉっ!?」

狙い澄ましての一撃に、アノニマートの身体が大きく後方に飛ばされた。
危ういところでアノニマートは着地を決めるが、その眼には確かな警戒心が宿る。

(まいったね、どうも。
力を吸い取られる様に技をかけられるこの感じ…まさか、ここにきて流水制空圏完成、か)

ギンガはイーサンと対峙した時、怒りも憎しみも、全てを深く呑み込み静の気を練った。
それまで出来なかった技が、些細なきっかけ一つで出来るようになると言うのは珍しい事ではない。
流水制空圏は静の極みの技。
元よりギンガの下地は充分、静の気をよく練る事でついにそこに至ったのだ。
即ち、ここにきてギンガは、コルトとは別の形でアノニマートに並んだのである。

流水制空圏を会得した者特有の、深く重い闘争心を宿した眼。
アノニマートはそれを、どこか複雑な思いで見る。
あれこそは、前の自分が敗れた眼だ。それを前に、これを乗り越える喜びに身を震わせる。

アノニマートはイーサンの教えを受けし者。
その中には無論、流水制空圏に対する術も含まれている。

「困ったなぁ……今回は顔見せのつもりだったのに。
 二人とも、そんな事言ってられる相手じゃなくなっちゃうんだもん」

言葉を紡ぎながらも、アノニマートは油断なく構えながらギンガとの間合いをゆっくりと詰める。
相手が真に流水制空圏を会得した者なら、迂闊に攻め込む事は出来ない。
慎重に、最大限の警戒心を持って当たるべきだ。

同時にそれは、今までのアノニマートにはなかった物。
いつでも余裕綽々で、相手を侮りがちな所は彼の欠点の一つだった。
しかし、一皮むけたのはなにもギンガだけではない。
アノニマートもまた、この闘いを通じて自らの欠点を克服していた。
コルトとの戦いを経て不必要な余裕を捨て、ギンガとの戦いで慎重さを得たのだから。

「そう、それがあなたの素顔なの」
「コルト君もそんな事言ってたけど、どっちも僕なんだけどなぁ。
 まぁ、前の僕と違う僕になろうと色々キャラ作りしてるのは事実なんだけどさ」
「前の、僕?」

意味深なその内容に、僅かにギンガは眉間にしわを寄せる。
情報が少なくて考察のしようがないが、それはとても重要な意味合いを持っているように感じた。

「つまらない私事の話だよ。あの人ならともかく、君が気にする様な事じゃないさ。そんな事より……」

アノニマートは静かに一歩分前に出た。
その意を察し、ギンガもまた前に出る。
互いに武人。事ここに至っては交わすべきは言葉ではなく、鍛え上げたその拳。
二人はその場で静かににらみ合い…自然、技撃軌道戦が展開される。

(右で突けば掴み取ってそのまま組み伏せ、左を出せば払って密着状態からの肘……)
(蹴りは軸足を刈りとって投げ、なら……!)

イーサンや兼一が見れば、その読みの粗さに微笑ましささえ覚えそうな拙い駆け引き。
だがそれでも、当事者二人は真剣そのもの。
先手の取り合いの中、先に活路を見出したのは……アノニマートだった。

静動轟一による獰猛な気配を撒き散らし、両手からの熊手のラッシュを放つ。
ギンガもまたそれにタイミングを合わせ、僅かに遅れて仕掛けた。

手数のコルトに対し、ギンガは反対に右手を前に、左手を大きく引いた必倒の一撃を構える。
死に手とした右手で熊手を防ぎ、左の重砲で仕留める腹積もり。

放たれる無数の熊手を、ギンガは最小限の動作と右手の防御で掻い潜る。
あまりの手数に全てをいなしきる事は叶わないが、決定的な物だけは防いでいく。
そして、左の重砲の間合いに捉えた所で、ギンガはその拳を躊躇うことなく振り抜いた。

「おおおおおおおおおおおお!!!」

防御する間もなく、アノニマートの胴体に突き刺さる鋼の拳。
アノニマートの身体は「く」の字に折れ曲がり、その口角からは血が滲む。
しかし、それでもアノニマートは倒れない。

「っ、どうして!」
「どんな一撃でもさ、覚悟を決めれば一発くらいは耐えられるってことだよ」

アノニマートの狙いは、ハナから連打による封殺ではない。
それはあくまでも囮であり、本命は捨て身になる事でギンガを捕まえる事にあった。
故に、ここからが本当の意味でのアノニマートのターン。

彼はギンガの両肩を抱え込み、身体を大きくのけぞらせて揺り戻す。
叩きつけるのは頭突き。ギンガは急ぎ距離を取ろうとするが逃れられない。
小さな血飛沫があがり、ギンガの頭からは赤い雫が滴り落ちる。

強烈な衝撃に眩暈を覚え、僅かにギンガの肩から力が抜けた。
その瞬間を見計らい、アノニマートはギンガの片足を踏み台に、もう一方の足で膝蹴りをすると同時に、両肘を後頭部へ叩き落す。
古式ムエタイの一手、「ハック・コー・エラワン(白神象の首折り)」。

仕留めるには十分すぎる威力を持った一撃。
その一撃を放ったアノニマートの手には、確かな手応えが……ない。

(まさか、今のを!?)

視線を転じると、そこにはたたらを踏む形で僅かに「ハック・コー・エラワン(白神象の首折り)」の間合いから逃れたギンガの姿。
気付けばその眼はアノニマートのしっかりと見据え、その奥の奥まで読み取らんと澄み渡っている。

アノニマートはその瞳を振り払わんと、宙に浮いた姿勢のまま前蹴りを出す。
ギンガはそれを僅かに斜め前に出る事で回避。
そこで放った右の抜き手が、深々とアノニマートの腹部に突き刺さった。

だがそこへ、天高く振り上げられた逆足が叩き落とされ、重力の力を借りた踵落としが繰り出される。
ギンガは両腕を総動員して受け止めようとするが、右の抜き手が戻せない。
腹筋を締めあげられ、右手が抜けなくなったのだ。

已む無く左腕とシールドで受け止めるが、あまりの威力にガードは崩され、踵落としが脳天を打つ。
断続的に打ちこまれた頭部への打撃により、意識が朦朧とする。

ダメージの限界を認め、アノニマートがトドメを指しに来た。
放つのは喉もとへの抜き手。既に驕りはなく、確実に仕留める為の一手。
しかし、ギンガの足元がおぼつかなくなっていたことが幸いした。
ユラリとよろめきながら、前のめりに倒れる事で僅かに狙いを外し、抜き手は空振りに終わる。

その代わり、ギンガの身体はアノニマートの身体に預けられる形となった。
こうなっては、最早次なる攻撃を回避も防御もかなわない。
アノニマートは空振りに終わった抜き手を引き戻し、今度こそをギンガを打ちとるべく拳を握る。
だがこの瞬間、はっきりしない意識の中で、ギンガの脳裏に幾度も繰り返された日常がよぎった。

(えっと…師匠は、何て言ってたんだっけ……)

この数ヶ月の間に教わった事は無数にある。
その中で、何度も何度も耳にタコができる程に繰り返し叩き込まれたのは、流水制空圏の極意などではなく……極々基本的な、四種の武術の要訣。
それらが脈絡もなく、なんの整理もされていない形で脳裏を駆け巡る。
やがて染み着いた動作が身体を動かし、ゆっくりとその動作を再現するべく動きだす。
ただし、四種の要訣を同時に。

一見矛盾する概念も、今のギンガの思考力では理解が及ばない。
彼女は入り混じった記憶に突き動かされるまま、夫婦手に似た構えを取る。
肘を直角に曲げ、両の拳を前に出した独特の構え。
彼女はその姿勢のまま、忠実に四種の要訣を再現する。

――――――――――引き手と突き手は同時に動き
――――――――――脳のリミッターは外し、力は突き出す方向にだけ
――――――――――平行四辺形を潰す動きで体重を乗せ
――――――――――敵のさらに先に目標があると思って、敵を打ち抜く気で
―――――――――――――――――――――――――――――――――――打つ!!!!

「…………って、あれ?」

ギンガがはっきりと意識を取り戻した時、全ては終わっていた。
突き出された拳は、今まで打ったどれとも似て非なる型。

しかし、嫌な感じはしない。
それどころか、拳に残った僅かな手応えは今まで感じたどの瞬間よりも心地よい。
今までにない、最高の一撃を打てた。前後の記憶があやふやな中、それだけは確信している。

視線を転じれば、拳の延長線上には大の字になって微動だにしないアノニマートの姿。
ギンガはいつの間にこんなことになったのかわけがわからず、呆然と眼を白黒させる。
そして、唯一離れた所から事の次第を見守っていたイーサンは、感嘆を込めて呟いた。

「まさか、無拍子を仕込んでいたか……」

ギンガに自覚はないだろうが、彼女が今放ったのは紛れもなく“一人多国籍軍”白浜兼一の必殺技。
空手・中国拳法・ムエタイの突きの要訣を混ぜ、柔術の体捌きで放つ彼の完全オリジナル。
四種の武術を学び、その基本を着実に抑えた彼だけに許された秘技の筈。

だが、それもギンガだけは例外だ。何せ彼女は、その兼一に手解きを受けたのだから。
イーサンは知らぬ事だが、兼一はギンガに対し「どんな形でも一撃入れたらとっておきを教える」と言っていた。しかしその実、彼は着々と弟子の中に「とっておき」の為に必要な土台を築いていたのだ。
無拍子は膨大な基礎の上に成り立った技。
兼一はギンガに自身同様、膨大な基礎修業を課す事で、自らの秘伝の技もまた授けていたのである。

「く…がはっ……さ、さすがは一人多国籍軍の秘技。これは…きついなぁ」

痛む腹を抑え、笑う膝を支えながらなんとか膝立ちするアノニマート。
本来は一撃必倒の無拍子も、しかと認識して打つのと、そうでないのとでは大きく威力が異なる。
何しろ彼女のそれは、まだまだ荒削りでようやくその形を為したばかりなのだから。

「師匠の秘技? 今のが……」
「な、なんだ…知ってて、打ったわけじゃないのか」

アノニマートはさらに膝に力を入れ、なんとか立ち上がろうとする。
しかし、口角からは血が零れ、幾ら力を入れても身体がいう事を聞いてくれない。

「やめなさい! その身体じゃもう!」
「それは、聞けないなぁ~。
この技で負けたりしたら、僕は前の僕から何も変わってないってことなんだからさぁ~」

アノニマートにどの様な拘りがあるのか、それはギンガにはわからない。
だが彼は、ここで倒れる事だけは絶対にできないと動かぬ身体に活を入れる。
ここで倒れれば、自分の存在価値が失われるとばかりに。

「使ったら、やっぱり先生に怒られるかなぁ? でも………………しょうがないか」
「あなた、なにを……」
「行くよ。本当のホントにとっておき、Iエ……【ピー!ピー!】」

アノニマートの声にかぶさる形で、彼の懐から電子音が響く。
一瞬アノニマートの体は硬直するが、すぐにそれを振り払い彼は再度何かをしようとする。
しかしそれより速く、イーサンが歩み寄りその肩に手を置いた。

「ミッションコンプリート、退くぞ」
「ま、まだ僕は…闘えますよ」
「その身体で何ができる。この敗北はユーの増長が招いた結末だ。
なにより、ユーのスキル(能力)はまだパーフェクト(完全)な仕上がりではない。
決着は、心おきなく闘えるようになってからにしやがりなさい」
「くっ……う~う~! はぁ……わかりました」

しばし不服そうに唸っていたアノニマートだったが、やがて観念したのかうなだれて承服した。
と同時に、イーサンはあらぬ方向へと視線を送り、僅かに笑みを浮かべる。

「格上相手にも不撓不屈のスピリット(精神)で挑み、勝利をもぎ取る様はユーを彷彿とさせやがったぞ。
 やはり、弟子は師に似るものらしい。なぁ、白浜」

最後の単語に、ギンガは思わずイーサンの視線を追って後方を見やる。
そこにはイーサンの語る通り、シャマルに付き添われた兼一の姿が。
その姿を見止めるや否や、ギンガの目一杯に涙が浮かぶ。生きていた、その事実だけで胸が一杯になる。

「師、匠……師匠!」

ギンガは疲労困憊な事も忘れ、一目散に兼一へと駆けていく。
そのままその胸に飛び込むと、泣きながらその身体にしがみつき、彼が生きている事を実感する。
兼一はそんなギンガの頭を優しく撫で、労う様に背を軽く叩く。
心配するなと、自分は確かに生きていると伝える様に。

「ごめんよ、心配かけちゃったね」
「…………」

ようやく紡がれたのは、いつもと変わらない優しい声音による謝罪。
ギンガは何も言葉にできず、ただただ無言で頷き返す。

とそこで、兼一の視線がある一点で止まる。
それに気付き僅かにいぶかしむギンガだが、師の表情からただならぬものを感じて言葉が紡げない。
代わりに、兼一は信じられないものを見るような面持ちのまま、ゆっくりと口を開く。

「君は……!?」
「なんだ、もうずいぶん昔の事で忘れているかと思えば、しっかり覚えてるんだ。
 お会いできて光栄ですよ、一人多国籍軍殿。それとも、この顔なら虫と呼んだ方が良かったかな?」

今までのどの時とも違った様子で、アノニマートは慇懃無礼に兼一に語りかける。
まるで、旧知の間柄であるかのような語り口。
だが同時に、イーサンのそれとは違い友好的とは言い難いものがある。
そんな彼に向け、兼一は厳かに問うた。

「君は………………誰だい?」
「「だぁっ!?」」

思わぬ問いかけに、ギンガとアノニマートが揃ってずっこける。
まさか、あれだけ引っ張っておいてそれはないだろう。
ギンガでさえそう思うのだが、事実として兼一はアノニマートの顔を凝視したままだ。
本当に、まるで彼に対して心当たりがない様に。

それはさすがにギンガもアノニマートが哀れと言うか、兼一に酷いという印象を持たざるを得ない。
当のアノニマートと言えば、こめかみを抑えながらどこか感情を抑えた口ぶりで言葉を紡ぐ。

「……ま、まぁ確かに昔の事ですけどね。
 でも、あなたにとって叶翔と言う人間は………その程度だったってことですか」
「え? 叶…翔?」

それは、彼の息子と同じ響きの名前。
息子に同じ名前を付ける様な相手を、本当にこのお人好しが忘れるだろうか。

「いや、叶翔の事を忘れることなんてありえないよ。
 恋敵にしてライバル、今思い出してもムカつく奴だけど、忘れることなんてありえない」

ならいったい、どうしてそんな相手と同じ名前を息子に付けたのか。
非常にその辺りが気になるギンガだが、口が挟める雰囲気ではない。
なにしろ、今まさにさらに込み入った話をしているのだから。

「なら、僕に『誰?』と聞く必要はないんじゃありません?」
「確かに、君は叶翔と顔立ちがよく似ている。でも、それだけだ。
 彼と君では、その眼から受ける印象はだいぶ違うよ」

そう言う兼一の瞳は、どこか優しい。
まるで、なにかに安堵する様な、そんな眼差しだ。

「はははは…なるほど、あなたは本当に聞いていた通りの人だ」
「一つ、聞かせてくれないか。君に、大切な人はいるかい?」
「ええ。愛する家族が、全部で13人。一人所用で空けてますけど、中々にぎやかで楽しいですよ。
 当面の目標は、友達を増やす事ですかね」
「そうか…よかった」

彼は叶翔ではない。どれほど似ていても、別の人間だ。
それを、兼一は眼の奥の光から理解していた。
叶翔の眼には壮絶な孤独が宿っていたが、彼には違うものが見て取れる。
家族の事を語る時、その眼には確かに親愛の情が宿っていた。

兼一にとっては、本当にそれで十分。
彼がどういう存在で、どう生まれたのかもどうでもいい。
いつぞや聞いたプロジェクトFとやらが関係しているのかもしれないが、それすら興味はない。
叶翔の血を継ぐ者がいて、彼は叶翔と別の道を歩いている。それだけで十分だから。
しかし、一つだけ確認しておきたい事はある。

「イーサン! 人越拳神は、あの人はこの事は?」
「知っている。いる事については何も言わない、誰にも言わせない。それがヒーのスタンスだ」

一影九拳が一人、「人越拳神」本郷晶は叶翔の師にして彼の親も同然であった人物。
その彼もまた、この少年を叶翔のコピーとしてではなく、一人の人間として見てくれている。
だからこそその心境もまた複雑なのだろうが、それでも存在を否定しないでくれる事が嬉しかった。

「だけど、知らなかったな。君と叶翔が親しかったなんて」
「いや、別段ヒーと親しくしていたわけではないでござるます」
「そうなのか?」
「だが、それでもミーとヒーは、道を同じくする同胞だった。少なくとも、ミーはそう思っている」

なるほど、それは君らしいと兼一は思う。
特別なつながりはないかもしれないが、それでも彼にとっては充分気にかけるに値する義理なのだろう。

「死なせるなよ?」
「オフコース(もちろん)」

兼一の言葉に、言われるまでもないとイーサンは応える。
とそこで、おもむろにイーサンが話題を変えた。

「しかし、そのしぶとさは相変わらずでせう。今回も、ミーの勝利とはいかなかったか」
「何を言ってるんだい。一時とは言え心臓まで止められたんだ、紛れもない君の勝ちだろ」
「ユーは生きている。ならばこの勝負は、ドロー(流れ)だ」
「(ピキッ)…………………」
「(しら~)…………………」

意見が折り合わず、睨み合いを始める二人。見れば、眼からは何やらうっすらと怪光線が漏れ出している。
その間にも空気は加速度的に悪化していき、兼一の腕の中にいたギンガの顔が青ざめていく。

「し、ししょう?」
「どうしても譲らない気だね?」
「それが事実だ」

ゴゴゴゴゴゴ、と不穏な気配が満ちていく。見れば、兼一の額には青筋が浮かんでいる。
正直、第三者であるギンガに言わせてもらうと「変な喧嘩」にしか映らない。
だがやがてそれは臨界に達し、ついに爆発した。

「よし、じゃあ今度こそ決着を付けようじゃないか!」
「望む所で候」
「わ――――――――――! 何する気ですか兼一さん!」
「離してください、シャマル先生! このわからず屋に、思い知らせてやらなきゃならないんです!」
「あなたさっきまで心臓止まってたんですよ、少しは自重してください!!」
「師匠、抑えて―――――――!!」

さっきまでのしんみりした雰囲気はどこへやら、一転していがみ合いを始める二人。
兼一はシャマルのバインドでグルグル巻きにされ、それでも抑えきれるか怪しいのでギンガも今度は掴みかかる様にして抑え込む。この程度で多少なりとも動きを制限されている辺り、本調子からは程遠いのは明らか。
そんな状態で無茶するなと、二人は必死に兼一を押しとどめる。

「怪我人と闘うのは気が向かん。そろそろ撤退するぞ、アノニマート」
「は~い、先生。でも、逃がす気なさそうですよ、あの人たち」

動けないアノニマートを抱え、その場を離脱しようとするイーサン。
しかしアノニマートがさす先には、それぞれにデバイスを構える二人の女性。
なのはとフェイト、バリアジャケットは所々痛んでいるが、それでも二人はイーサン達に油断なくデバイスを向けて警告する。

「抵抗はやめてください、あなた達を確保します」
「その怪我で逃げるのは無理ですよ」
「ほぅ、あの二人を振り切りやがりましたか。だが……」

確かに手負いではあるが、こんな小娘に捕まる程ではない。
イーサンが静かに息を吸うと、それに気付いたアノニマートの顔色が変わる。

「わっ、先生ちょっと待って! 僕近い、すっごく近いですから!?」

慌てて重い両腕を動かし、懐から取り出した耳栓を入れた。
なのは達はいったいイーサンが何をする気なのかと警戒しながら、何が起きても対処できるよう一定の距離を開けて様子を見る。
まさかそれが、悪手であることなどとは気付かずに。
唯一この場でイーサンが何をするか理解した兼一は、警告を発する。

「みんな、耳をふさいで! 早く!!」
「真言秘儀……………■■■■■■■■■■!」
「この体調でどこまでやれるか…………あ”ぁっ!!!」

イーサンの恐怖の真言(マントラ)に合わせる形で、兼一もまたその声帯から人間離れした声量を吐きだす。
恐怖の真言は、その性質上バリアジャケットをはじめとした防御魔法では防げない。
音響兵器と呼ぶには音量が小さく、ただの特殊な音波でしかないからだ。
対処法は三つ、耐えるか、アノニマートの様に耳をふさぐか、あるいはかき消すか。

兼一一人なら最初の一つでなんとでもなる。
しかし、この場にいる全員にそれが適応できるわけではない。
故に、兼一は有りっ丈の肺活量を用い渾身の一喝を放ったのだ。
それこそ音響兵器じみたその大音量は、イーサンの放った奇怪な音波の大半を塗りつぶす。
だが、さすがに全てとはいかない。僅かに残ったそれは皆の心身に小さくない影響を与え、一瞬身体が硬直する。

「なに、この音……?」
「か、身体が言う事を……!」

その隙を逃さず、アノニマートを抱えたイーサンはその場を離脱。
なのは達が心身を立て直し、追おうとした時にはすでに遅かった。

「フェイトちゃん!」
「ダメ、索敵範囲から抜けられた。これじゃ、もう……」

森の中に紛れてしまえば、イーサン達を追うのは至難を極めるだろう。
二人は無駄と知りつつ、何か手掛かりはないかと捜索に回ろうとする。
しかしその前に、二人の眼前で兼一が再び力なく崩れ落ちた。

『兼一さん!?』

つい先ほど心臓が動き出したばかりの所で、無茶をした反動だ。
恐怖の真言の大半を塗りつぶす大音量を発するには、兼一の体に蓄積したダメージは大き過ぎたのである。
それでなくても、ついさっきまで死にかけていた人間が平然と動いているのが異常なのだ。

二人は已む無く捜索を断念し、兼一を安心して休める場所に移送させる。
同様に、負傷した新人達、及びギンガとコルトも休ませ、代わりに彼女らが周囲の警戒に当たるのだった。



  *  *  *  *  *



ホテルアグスタより、それなりの距離を空けた森林地帯。
そこで機動六課から身を隠しながら、先の戦闘の一部始終を傍観していた三人。

本来なら、見つかる危険を減らすべく早々に退却すべきだろう。
その事を理解していながらも、彼らは闘いが終結した今もそこに留まっている。

理由は単純。彼らは、闘いを終えた二人が戻ってくるのを待っているのだ。
アギトはスカリエッティやナンバーズ達の事はあまり信用していない。その中にはアノニマートの事も含まれる。
それはゼストも同様なのだが、彼は一武人としてイーサンに対しては一定の敬意と信頼を抱いていた。

「戻ったか」

それまで静かに瞑目していたゼストが目を開け、ある一点に視線を送る。
アギトやルーテシアもそれに倣ってその方角を向くと、イーサンと彼に担がれたアノニマートが姿を露わした。

「やっほー。お待たせ、ルー」
「うん。おかえり、アノニマート」

普段と比べ、どこかアノニマートの声色には覇気が欠けている。
静動合一の使い過ぎと無拍子のダメージのせいもあるだろう。実際、担がれているのはそれが原因だ。
だが、それだけとは思えない何かをルーテシアは感じ取っていた。

「……どうか、した?」
「ははは、優しいなぁ、ルーは。
 大丈夫…って言いたいけど、正直…ちょっと凹み気味。
 はじめはそうでもなかったんだけどね、じわじわと効いてきた」

首を傾げて問うルーテシアに、アノニマートは空虚な笑顔で応じる。
それは、ルーテシアやアギトも初めて見る表情。
どんな時でも上機嫌、笑顔を崩す事のない彼が見せた弱さ。
そんな彼にアギトはいぶかしむ様な視線を向け、ルーテシアは僅かに表情を曇らせる。

「なんだよ、らしくねぇな。そんな情けないツラしやがって、調子が狂うだろ」
「酷いなぁ…僕だって人間だよ? 偶にはこういう時もあるさ」
「でも、本当にどうしたの?」
「うん。何ていうか…………………負けるのって、こんなに悔しんだなぁって」

天を仰ぎ、アノニマートは溜め息交じりに呟く。
修業を通して、イーサンやその配下の達人相手に叩きのめされた事は幾度もあった。
しかし、それと今回の敗北では全く意味が異なる。

これまで彼を打ちのめしてきたのは、年齢やキャリア…ありとあらゆる面で自身の上を行く存在。

だが、今回は違う。
たとえ2対1であろうと、ギンガもコルトも彼と同世代であり、同じようなステージにいる使い手。
そんな相手と闘って負けたのは、今回が初めてだった。

「僕ってさ、あんまり『勝ちたい』って思った事……ないんだよね」

実際、アノニマートにとって勝つ事が当たり前だった。
少なくとも自分と同じくらいの年代、レベルの相手と闘って今日まで彼は負けた事がない。
最高レベルの肉体、オリジナルから引き継いだ記憶と技術、一影九拳の一人が指導者と言う事実。
これだけ揃っていれば、敗北が稀な事態と言うのも当然だ。

故に、『勝利』と言うものに対する飢えがない。
『強さ』への渇望はあっても、勝利への執着が希薄だった。
それはいい意味で作用し、いつでも自然体で戦う事ができる彼の長所の一つ。だが……

「ああ、本当に…負けるのって……………悔しいなぁ」

今日、初めて彼は敗北を知った。
その味は想像していたよりも苦く、同時に沸々と心が煮えたぎる。
ああしていれば、こうしていれば、思い返す度に後悔ばかりが溢れてきて止まらない。

自分で思っていた程、あの二人との闘いには余裕など存在しなかったのだ。
イーサンは言った、「ユーは増長している。それは心の隙となり、致命的なミスにつながるだろう」と。
まさしく、彼の言った通りだった。

しかし、全てが手遅れ。結果は既に、アノニマートの敗北と言う形で出てしまっている。
今更何を言ったところで、何を思ったところでその結果は覆らない。
だからこそ、彼は生まれて初めて強く思う。

「勝ちたいな……今度こそ」

それは、とても不思議な感覚だった。
勝ちたい、小さく呟くだけで心が強く脈動し、身体がうずく。
今すぐにでも修業を始めたいと、今度は決して負けてなる物かと。
心と体が訴えているかのように。そしてその感覚は、今までにない充実感を与えてくれた。

そんなアノニマートに、イーサンはどこか温かな視線を向ける。
正式に弟子にとったわけではないとはいえ、義理あって教えを授けた相手だ。
それが一皮剥けた事実は、彼にとっても喜ばしい。

「上機嫌の所すまんが、管理局に見つかっては面倒だ。先にこの場を離れるぞ、行けるか?」
「ノープロブレム、動く分には問題ない」
「よし。アギト、ルーテシア、行くぞ」
「うん」
「おう!」

とはいえ、魔法を使えば局のセンサーに感知される恐れがあるので、飛行や転送魔法は使えない。
アノニマートは引き続きイーサンが担ぎ、ルーテシアはゼストが抱きかかえ、その肩にアギトも腰かける。

二人の巨漢は揃って大地を蹴り、森の奥深くへと突き進む。
やがてホテルの姿が見えなくなる程に距離をとった所で、二人はようやく足を止めて二人を下ろす。

「ルーテシア、治療を頼めるか?」
「うん」
「ごめんねぇ、ルーテシア」
「世話になる、サンキュー」

イーサンとアノニマート。二人の足元に紫の魔法陣が浮かび、その光が二人の身体を癒していく。
とそこで、ルーテシアの召喚獣であるインゼンクトを通して一部始終を見ていたアギトが、渋い顔でアノニマートに苦言を呈する。

「にしてもよ。お前、幾らなんでもアレは酷過ぎんじゃねぇか?」
「へ?」
「だから、局のオレンジ頭だよ。さすがにアレは、あたしでもちょっと可哀そうだと思っちまったし……」

アギトが言っているのは、アノニマートがティアナに言った。
『いくら望んだところで、頑張った所で才能の差は覆らない』と。
あの時のティアナの悲壮な表情は、あまり局に良い印象を持っていないアギトですら、同情してしまう程に痛々しかった。

「そんな事言われてもねぇ…一応、心配して言ったんだよ?」
「いや、どっからどう見てもいじめてるようにしか見えねぇって」
「でもさ、アギト。才能の差って、そう簡単に覆ると思う?」
「う…それは……」

言い方はともかく、確かにアノニマートの言にも一理あるとはアギトも思う。
才能は絶対ではないが、これを覆すのは生半可なことではない。
ましてや、「努力する天才」に凡人が追い付くとなれば尚の事……。
何しろ、そう簡単に覆らないからこその「才能の壁」であり、天才と凡人の断絶なのだから。

「じゃあ、アレか? アイツは凡人だから、闘いの場になんか出ちゃいけねぇってことか?」
「そうは言わないよ。闘うかどうかは本人の意思だし、闘うなら差別する気はないし。
 でもね、戦場だっていろいろあるんだ。わざわざこっちの領域に来る事もないでしょ。
 それはさぁ、ほら……命を無駄に散らすようなものだよ」
「むぅ~~~~……」

どこか釈然としないものを感じながらも、上手い反論が浮かばずアギトは黙りこむ。
不本意ながら、アギトもアノニマートとの付き合いはそれなりにある。
御蔭で、彼の人となりもそれなりに理解していた。

何と言うか、アノニマートはこれで割と優しい所がある。
ルーテシアにも色々配慮してるし、それはアギトやゼストに対しても同様だ。
ただ、それがどうにもズレていると言うか、なんと言うか……。

「結構優秀そうだし、見合った戦場で闘う分には良い線行くと思うんだ。
 無理し過ぎてる所にはちょっとイラッとしちゃったけど、一途に頑張ってる所は好きだしねぇ~」
(こいつ、ホント節操無いよな……)

基本、アノニマートは誰かを嫌う事が少ない。
と言うよりも、大抵の部分は「いい所」として無理矢理にでも解釈しようとしている節がある。

それは彼のオリジナルとなった人物の記憶によるところが大きい。
叶翔は壮絶な孤独の人生を生きた人物だ。もちろん彼の周りにも少なからず彼を理解し、あるいは慕い、あるいは包み込んでくれる人たちがいた。だが、その数は決して多くなかったのも事実。

アノニマートはそんな彼の記憶の一部を継承しているのだ。
だからこそ、彼はできる限り相手を好きになるよう努力する。
好いてもらう為には好きになる事が大切、と考えているからだ。
まぁ、別に間違ってはいないのだが、やっぱりどこかズレているのがこの男らしいとも言えるだろう。

ちなみに以前、非情を旨とする殺人拳のくせに敵まで好きになってどうする、と聞いた事がある。
その際、アノニマートはあっけらかんとこう言った。

「え? 敵だから好きになっちゃいけないなんて寂しいでしょ? 良いんじゃないかな、好きなら好きでさ。
 ま、殺る時にきっちりけじめをつければ問題ないよ」

敵だからと言って憎む理由はないし、好きになってはいけない道理もない。
だがそれは、相手がだれであろうと、どんな感情を抱いていようと、敵であれば殺すと言う事。
その辺り、非情な殺人拳の使い手らしいと言えるだろう。
故に、コルトの指摘した「矛盾」はアノニマートにとっては矛盾していない。

「だからね、人間やっぱり分相応が一番なんだよ。その方が、幸せになれる可能性も高いんだしさ」
「まぁ、そうなのかもしれねぇけどよぉ……」
「ま、分をわきまえない大馬鹿じゃなきゃ開けない扉って言うのがあるのも、確かなんだけどね」
「あ?」

アノニマートの小さな呟きを聞き逃さず、アギトは彼の顔を凝視する。
今口にしたその内容は、先ほどから言っている「分相応」とは真逆のものだった。

「それ、どういう事だよ?」
「うん。これは例外中の例外なんだけど、いるんだよ」
「だから、なにがだよ?」
「才能の差をひっくり返した大馬鹿者が」

頭をかきながら、そっぽを向きつつアノニマートは答えた。
その答えがよほど意外だったのか、アギトは眼を大きく見開いてアノニマートを凝視する。

「なんだよ、それならあんなこと言う事ねぇじゃねぇか」
「でもねぇ、これはホントに究極クラスの例外なんだよ?
 それこそ60億~70億分の1くらいの」

その確率の低さに、アギトは空いた口が塞がらない。
だが実を言うと、これですら控えめな数字なのだ。
何しろこれは、あくまでも地球と言う一つの世界に限定した話。
もしこれを次元世界全体規模でみた場合、さらに確率は下がる。
なぜならアノニマートが知る限り、その例外は世界に一人しかいないのだから。

「そりゃね、諦めないで努力すれば可能性はあるよ。でもそれは、天文学的な数字なんだ。
 だからまぁ、ほぼ確実に失敗するんだよ。それが挫折するだけならいいさ、別に挑戦するのは自由だし。
 でも、こういう業界だからね。失敗は死に直結するし、やめとく方が利口だと思うよ」

アノニマートに言わせれば、リスクとの釣り合いが取れないのだ。
ほぼ確実に負ける賭けに、命をかけるなど正気の沙汰ではない。
そんな事をしなくても、普通に分相応に生きていれば幸せになれる。
幸せの定義は人それぞれだが、一般的な意味での幸福を得る可能性はこちらの方が遥かに高いのは事実。

自殺同然の賭けに出る愚者と、堅実に幸福になろうとする賢者。
これはそういう図式だ。そしてアノニマートとしては、極力賢者になる事をお勧めする。

だからティアナにもああいう物言いをした。彼女を深く傷つけたが、それでもアレは彼なりの配慮なのだ。
失敗し、命を落とすと分かっている賭けに出る事はない。
彼女なら、分相応に生きれば客観的には充分幸せと言える人生を送れるだろう。
わざわざそれを棒に振る必要もないのだ。
少なくとも、出会ったばかりの他人が無責任に賭けの方へ背中を押すよりかはマシだから。

「やめといた方が良いとは思うし、僕は誰に対してもそう言うよ。
 でも、最後に決めるのはやっぱり本人なんだよねぇ。
 どうしても諦めきれなくて、ほぼ確実に失敗する賭けに出て扉を開くならそれも良いんじゃないかな?
 そしてもし億が一、兆が一の賭けに勝ったとしたら、僕はそんな人が……」

一番怖い、と。言葉にはせず、胸の中だけでアノニマートは呟く。
誰よりも険しく、苦難ばかりの道を踏破しきったとしたら、その人はきっとだれよりも強いから。
あの時は途中で遮られてしまったが、これがティアナに言いかけていた彼の本心の全てだった。
まぁ、下手な希望を持たせない様に、あまり多くを語る気もなかったので構わないのだが……。

そんな事より、今回の一件でアノニマートは一つの手応えを感じていた。
コルト・アヴェニス。今回は突っぱねられたが、それでも僅かな手応えを彼は感じていた。
アノニマートにとっては、ティアナよりもそちらの方がよほど重要なのだから。

そんなアノニマート達からやや離れたところでは、ゼストがイーサンへと話しかけている。
内容としては、やはり先ほど闘っていた兼一にまつわるもの。

「しかし、お前にここまでの深手を負わせる者がいるとはな……」

その声音には、隠しきれない驚嘆の念が浮かんでいる。
実際、イーサン相手にあそこまで戦える者などそうはいない。
その意味では、ゼストの驚きも当然と言えるだろう。
だが、そんなゼストにイーサンは静かに首を振る。

「ノー、アレでは不十分だ」
「なに?」
「ヒーは、もっと強くならねばならない。ミーに深手を負わせた程度で満足してはならないのでせう」

もし何かが違っていれば、兼一が武の世界から離れる事もなかっただろう。
そうであれば、彼とイーサンの実力は文字通り伯仲し、結果は逆だったかもしれない。
ゼストはてっきり、差の開いてしまったライバルに「早く追いついてこい」と言っているのかと思った。

しかし、どうもそういう感じではない。
いぶかしむゼストに対し、イーサンはゆっくりと隠された心中を吐露する。

「守る為には、力が必要だ。だが、今のヒーにはそれが不足していやがるのです」
「お前とここまで闘えれば、充分だと思うが?」
「並の相手なら、確かに。しかし、ヒーの息子のギフト(才能)がそれを許さない。
 今はまだそのバリュー(価値)を知られていないが、いつその時が来るか分からない」

かつての美羽がそうであったように、その資質が故に邪な思惑を抱く者に狙われる危険が翔にはある。
イーサンが危惧しているのはそれだ。生半可な相手なら今の兼一でも問題なく退けられるだろう。
だが、いつか拳魔邪神の様な実力者が現れたら。今の兼一では、恐らく守りきれない。

それを、彼なりに伝える為に、決着をつけるには時期早々と知っていながらイーサンは敢えて友の前に立った。
結果は予想以上だったが、それでも足りない。兼一は、もっともっと強くならなければならないのだ。
他ならぬ、彼と彼の息子の為に。

「お前の思惑はわかった。だが、それで殺してしまっては本末転倒ではないのか?
 蘇生したからよかったようなものの、失敗したらどうするつもりだ」
「ふっ、ヒーはミーのベスト(最高の)ライバルでござるますよ」
「……そうか」

つまり、あの程度で死ぬなどあり得ないと、そう言いたいのだろう。
まぁ、実際にはイーサンの立場の問題もある。
殺人拳である彼にとって、倒すと言う事は殺すと言う事。トドメを指さずに見逃すわけにはいかない。
かと言って、今の段階で兼一を殺すのは本意ではなかった。
どうせなら、兼一もまた頂に立った時に雌雄を決したい。

そこで、あんな回りくどい手段に出たのだろう。
一時とはいえ心臓を止めてしまえば、さすがに文句は出にくい。
何しろ、そこから蘇生するなど普通はあり得ないのだから。

しかし、それでもたいした信頼だと思うし、それに応えた相手もとんでもない。
だが、そんな二人がゼストは少々うらやましく思う。
敵対していながらも、この二人は確かな信頼によって結ばれている。

だが自分達はどうなのだろう。今の自分には、ここまで友を信じる事はできそうにない。
その事実が、彼の心を重くした。






あとがき

さあ、これにてアグスタ編は終了。
兼一が負けたのは、まぁある意味当然でしょうね。元々同格だった相手と、5年近くも実戦から離れた状態で闘えば、勝つ方が奇跡的ですって。なので、今の彼の位置づけは「限りなく一影九拳クラスに近いけど、後一歩及ばない」くらいです。魔法と言う今までにない環境で己を磨き、早いとこ追いつくべし、ってところでしょうか。
感覚的には、手加減できず力の流れを変えられなかった頃のアパチャイとかが一番近いかも。多分、兼一と出会う前の彼では、アーガード相手に相討つ事は出来なかったでしょうからね。厳密には、それとも若干違うんですが、わかりやすい例がないのでこの辺で勘弁してください。

で、イーサンがこっちにいるのは叶翔への義理があるからで、今回出張ってきたのは兼一に「今のままだと守れないぞ」と、彼の立場上可能なラインで警告する為でした。
なので、今後イーサンが積極的に表に出て来る事はありません。
まぁ、全く出番がないわけでもないんですけどね。

そして、次回からはいよいよSts前半の山場に突入。
アノニマートとかのせいで、原作以上に精神的に追い詰められているティアナはどうなるのか。
ついに悪魔降臨。ホント、どうしてくれましょうね、この悪魔。



[25730] BATTLE 29「悪魔、降臨す」
Name: やみなべ◆33f06a11 ID:1963cf14
Date: 2011/11/24 23:11

ホテルアグスタでの一件が終結してから幾らかの時を置いて、機動六課隊舎前。
再度倒れた後、割とピンシャンした様子で意識を取り戻した兼一だが、シャマルの権限でそのまま設備の整った病院へ連行された。

本人は「もう大丈夫」と言って憚らなかったが、そんなものは一度心停止していた人間の戯言。
シャマルは一切聞く耳持たず、はやてからの命令もあって病院で検査を受けて帰ってきた所だ。

本当は一日入院を勧められたのだが、検査結果自体は多少の負傷はあっても健康そのもの。
医師達は一様に化け物でも見るような眼で兼一の事を見つつ、さすがに引きとめる事は出来なかった。
まぁ、兼一に言わせればこれでも充分調子を落としているのだが……。

(やっぱり動きが鈍いな。本調子まで半日ってところか……)

全身に重くのしかかる倦怠感。脳から神経、神経から筋肉への指令の伝達も平時よりコンマ数秒鈍い。
常人なら、長期入院が必要なレベルだろう。とはいえ、兼一の回復力なら半日あれば十分。
しかし、それもこれも全ては……。

(イーサンが上手くやってくれたから…か)

兼一は才能はあれだが、頭は悪い方ではない。
その上、相手は長い付き合いの友人でありライバルだ。
彼が何を想いあの場に立ち、完全な形でのトドメを指さなかったのか。
その理由を、兼一はしかと理解している。

何しろ他の誰かならいざ知らず、修業時代の兼一を知る者なら、心臓を止めた位で終わったとは思わない。
あの頃を知る彼が心臓を止めただけで良しとしたからには、必ず理由がある筈なのだ。

友人の心配りが嬉しくもあり、そんな気遣いをさせてしまった事が申し訳なく……何より、ライバルに差を付けられた現実が悔しくてたまらない。
同時に、彼には守らなければならない者達がいる。
臨死の中、彼を蘇生させた最後の一押しは可愛い愛弟子のただならぬ絶叫だった。

あの時の事を思い出すと、兼一は自らが背負っているものの重さと尊さを再認識する。
強くならなければならない。友の心遣いに応える為、自らの信念を貫く為、全てを授けてくれた師の想いに応える為、何よりも…………大切な者達を守る為に。
兼一に発破をかける事がイーサンの目的であった事を考えれば、それは見事に功を奏したと言えるだろう。
とそこへ、隊舎から大小二つの人影が姿を現した。

「うおっ! ホントに帰ってきやがった!?」

兼一の姿を発見するや、だいぶ失礼な事を言ってくる赤毛の少女。
だが、彼女の反応も無理はない。
普通、ついさっき死にかけた人間が、こんな短い時間で退院してくるなど性質の悪い冗談にしか思えないだろう。
一応連絡は受けていたようだが、半信半疑……と言うよりも、あり得ないと思っていた筈だ。

「あ、なのはちゃん、ヴィータ副隊長。ただいま戻りました」
「お、おう……つーか、身体は丈夫なのか? 心臓、止まってたんだろ?」
「ええ、また止まっちゃいました」
「また!?」

普通、心停止に「また」などと言う単語は付属しない。
そんな事を何度も繰り返してきたとしたら、この男は本当に人間なのか疑わしく思えて来る。
『実はこいつ、ゾンビとかフランケンシュタインとかの類じゃね?』的な眼で睨むヴィータ。
しかしそこへ、今度はなのはの方から更なる爆弾が投げ込まれた。

「でも、結構久しぶりなんじゃありませんか? 昔は修業中、お兄ちゃんたちと一緒に何度も臨死体験してたみたいですけど。まぁ、平然と歩いて帰ってくるあたり、兼一さんらしい気もしますが……」
「らしいのかよ!?」
「ほんとにねぇ。あんまりにも久しぶりだから、危うく川を渡る所だったよ」
(シャレになんねぇっての。つーか、んな軽く言うことか……)

まるで世間話でもするような気軽さに、ヴィータは頭を抱えてうずくまる。
なのはとの付き合いは長いが、まさかこんなずれた一面があったとは……。
いやまぁ、若干ずれた所のある奴とは思っていたのだけれども、まさかここまでとは思わなかった。

「やっぱり、適度に臨死にも慣れておかないと、かえって危ないよね」
(人としてどうなんだよ、それ……)
「幾ら心臓が止まった位じゃ死なないからって、少し油断してたかも」
「いや、そこは死んどけよ、人として……」
「何か言いました、副隊長?」
「いや、何でもねぇ。気にすんな」

もう一々リアクションするのも面倒になったのか、疲れ切った様子で手を振るヴィータ。
その小さな背中には哀愁が漂い、肩には重い重い疲労がのしかかっている。

「あ、そうだ。なのはちゃん、ギンガがどこにいるかわかる? ちょっと話があるんだけど」
「え? ギンガなら、今は医務室でシャマル先生に診てもらってる筈ですけど……」
「妙に回復が早くてビビってたな、アイツ」
「そっか。じゃあ、丁度いいし薬も持って行こうかな。早めにメンテナンスもしてあげたいし」
(そういや、こいつが育ててんだもんな。そりゃ回復が早くて当然か……)

兼一は必要な道具を揃える為、隊舎から寮へと行き先を変更する。
その背中を、ヴィータはなんとも言い難い微妙な表情で見送るのだった。



BATTLE 29「悪魔、降臨す」



一通りの道具を揃えた兼一は、ギンガがいるらしい医務室へと足を運ぶ。
道中、フェイトやシグナムと遭遇し、ヴィータとよく似た眼差しで見られたのは御愛嬌。
二人はまだ兼一の状態が気になるのか、結局医務室まで付いてきてしまった。
で、医務室の扉を開けた兼一は開口一番……

「ギンガ、傷の具合はどうだい?」

まるで、お見舞いにでも来た第三者の様な口ぶり。
本来、今回の任務で一番ダメージが大きかった筈の人間がいうことではない。
実際、兼一の背後に立つフェイトとシグナムは「まず自分の心配をしろ」と言わんばかりの眼だ。

「え…し、師匠!? もう体は大丈夫なんですか!?」
「何言ってるんだい、ちょっと死にかけた位で大げさな……」
『充分大事です(だ)!!』

前後の4人からの一斉放火。
しかし兼一は動じた素振りもなく、スタスタとギンガのベッドへと移動する。

「とりあえず…………………………これを飲みなさい」
「…………なんか、凄い色と匂いですけど……何が入ってるんですか…?」
「昔の偉い人は言った、無知は時に救いだと」
「それ絶対嘘ですよね!?」

眼を逸らしながら、素知らぬ顔で下手な嘘をつく兼一。
益々その中身に不安を覚えたギンガはなんとか逃れようと暴れ出すが、そんな事は兼一が許さない。
彼は都合よく後ろに立っている人物に協力を仰ぐ。

「シグナムさん、ちょ~っと抑えててもらえます?」
「……まぁ、なんだ。諦めろ、ギンガ。
 ちゃんとお前の事を心配してくれての事だ、有り難く飲んでおけ」
「鼻をつまみながらいっても説得力がありませ………ゴボゴボッ!?」

シグナムに抑え込まれ、されるがままに薬を流しこまれるギンガ。
全てを飲み切った時、ギンガは悶え苦しむ事もなく沈黙していた。
代わりに、彼女の口から抜け出たエクトプラズマが悶え苦しんでいるように見えるのは……気のせいだろう。
その間に兼一は手早くギンガの身体を触診し、慣れた手つきでメンテナンスを施していく。
とそこで、兼一はギンガの隣のベッドに視線を移して問うた。

「一士も飲みます?」
「いらん」

そこには、ギンガ同様ベッドの住人となったコルトの姿。
付け焼刃の静動轟一の反作用は当然大きく、彼の肉体はすでに限界に達していた。

「静動轟一を使ったそうですね」
「だからなんだ」
「あれは……使っちゃいけない。あの技は、敵と一緒に自らも滅ぼす血塗られた技です。だから……」
「余計な御世話だ。アンタには関係ねぇ」

予想通りと言うべきか、コルトは兼一の話に耳を貸す気はない。
仮にいくら言い募った所で、根本的な所で兼一がコルトに静動轟一の使用をやめさせることはできないだろう。
なにせ、最終的な決定権はコルト自身にあり、兼一が何を言おうともそれを無視してしまえば終わりなのだから。
やれる事があるとすれば、物理的に使えない様にしてしまう事なのだが……それも現実的ではない。
ならせめて……

「診せてください。少しはマシになると思いますから」

見た所、コルトの症状は龍斗の様に致命的な段階には至っていない。
肉体と精神の崩壊が始まるか否か、それくらいの段階で済んだ。
今ならまだ、比較的に早く回復できるだろう。

さすがにコルトも回復を早める事には反対しないのか、あるいは兼一の声音に有無を言わせぬものを感じたのか。
とりあえずは、唯々諾々と兼一に身を委ねる。
ちなみに、その後ろではシャマルやシグナム、それにフェイトがその手際を興味深そうに見ているのだった。

そうして一通りの処置を終えた所で、兼一は再度ギンガの隣に腰を下ろす。
なんとか復活したギンガも、神妙な空気に晒されて居住まいを正した。

「ギンガ。しばらくの間、君に謹慎を命じる。
 当然その間、一切の武も禁止だ。拳を作ってもいけない。いいね」
「っ!」

行動範囲は隊舎と寮の間のみ。職務においても一切の訓練は不可、自主練など以ての外。
それが、兼一が下したギンガへの罰則だった。

「ちょ、兼一さん!」

さすがにそれは厳し過ぎると、慌てて仲裁に入ろうとするフェイト。
ギンガは良く頑張った。格上の相手を退け、流水制空圏を完成させ、今まで出来なかった技も会得したのだ。
しかも、聞けばその技は兼一の必殺技と言うではないか。
それは、目覚ましいという言葉では到底足りないレベルの飛躍的な成長。
てっきりそれを褒めてやるのだと思っていただけに、フェイトの驚きは大きい。
だがそれを兼一は片手で制し、シグナムもまたフェイトの肩を抑える形で制止した。

「理由は、わかっているね?」
「…………はい」

兼一の問いかけに、ギンガは小さく弱々しい声音で頷いた。
そう、理由はわかっている。
なにしろそれは、イーサンにも言われた事だから。

「僕が君に教えたのは、活人拳。人を活かす為の拳だ。
『殺すな』『殺されるな』、常々そう教えてきたつもりだよ。
 なのに、憎しみに飲まれその拳に殺意を乗せるとは…………何事だ!!」

それまでの静かな口調から一転し、部屋全体を振るわせる一喝が皆の耳朶を打つ。
兼一らしからぬ強い語調と怒気に、フェイトは身体を竦ませる。
温厚篤実が服を着て歩いている様な兼一が発する叱責は、第三者のフェイトですら圧倒された。
ならば、じかにそれに晒されているギンガへの影響はいかほどのものだろう。

「あまつさえ、一影九拳に闘いを挑むなんて………僕を倒した男に、君が勝てる道理があるものか!
 相手がイーサンだったからよかった物の、僕と修業している君にはそれがわかっていた筈だろう!
 君のやった事は、無謀ですらない自殺も同然の愚行だ!!
 その事を肝に銘じ、自分自身をよく見つめ直しなさい、以上」

言って、兼一はパイプイスから立ち上がって医務室を後にする。
フェイトはギンガの言葉すら聞かずに立ち去る兼一の後を慌てて追い、シグナムも数歩遅れてついて行く。

残されたギンガは布団を握りしめ、僅かに頭を垂れ肩を震わせる。
ここまで怒られたのは、兼一の下に弟子入りして初めてだろう。
今回の事がギンガに与えたショックは思いの外大きいらしい。
そんなギンガの傍らに立つシャマルからは、その表情と心の内を見る事は出来なかった。



「兼一さん!」

兼一の後を追っていたフェイトは、駆け足でその背に追いつき兼一を呼び止めた。
彼の言わんとする事はフェイトにもわかる。だが、さすがにアレはきつく言い過ぎなのではないか。
優しいと同時に甘い所のあるフェイトには、どうしてもそう思えてならなかった。

「あの、お気持ちは分かるつもりです。でも、あれは幾らなんでも言いすぎじゃ……!」
「待て、テスタロッサ」

そんなフェイトに、シグナムが歩み寄りながら再度制止した。
フェイトはシグナムの方を振り向きながら、何故止めるのかと反駁しようとする。

「でも、シグナム!」
「白浜にも考えあっての事だろう。それを聞いてからでも遅くはあるまい」
「…………はい」

フェイトとしても、兼一が怒りにまかせて叱責したとは思わない。
ならば、確かに彼女の言う通りまずその意図が奈辺にあるかを確認すべきだ。
その事を反芻し、心を落ち着けてフェイトは再度兼一に言葉を投げかける。

「兼一さんのお怒りはごもっともだと思います。それに対する叱責と、罰があるのも当然でしょう。
 でも、ギンガが今回の任務で大きく成長したのも事実です。なら……」
「ええ。ギンガは今回、とてもよく頑張ったと思います。
 身を呈してアヴェニス一士と共闘したのは、たいしたものでしょう」

共闘の意思のない相手に対し、ギンガは命を賭すことで彼をサポートした。
その行動は、『命を懸けて人を守る』事と同じ位に尊い。
一連の彼女の仲間への献身は、此度の任務で見せた彼女の成長は、再度ギンガ・ナカジマと言う少女への兼一の評価を高めた。
思った通り、ギンガは心が強い。それでこそ、兼一が師達から授かった物を伝えるに相応しいと。

「それに、イーサンの助言があったとは言え、我を忘れるほどの感情を飲み込んで見事に静の気を練り、真の流水制空圏も会得しました。それどころか、無拍子まで見せてくれた事は……正直、師として感無量ですよ」
「だったら……!」

もっとその事を評価し、ちゃんと褒めてやるべきなのではないか。
一切褒める事もなく、ただ叱りつけて罰するべきではないと、フェイトは言外に語る。

「でも、ギンガが一時とは言え殺人拳に手を染めそうになった事は事実。
 どんな形であれ、ここで褒めるのはあの子の為になりません」

褒めてやりたい気持ちは兼一にも無論ある。
しかし、今のギンガに必要なのは彼女が犯しかけた過ちを正す事。
そう考えたからこそ兼一は敢えて褒めず、叱責するだけにとどめ……そして、時間を与えた。

「今は己を見つめ直し、心を整理する為の時間が必要でしょうから」

こう言われてしまっては、最早フェイトに言える事はない。
兼一の叱責は怒りからではなく、一から十まで弟子の事を想ってのもの。
つい身内には甘くなってしまいがちな所を多少なり自覚しているフェイトにとって、それはむしろ見習うべき点として映った。

「今夜は付き合うぞ。そうだな、ザフィーラも呼んで飲むとするか。
お前の弟子であり、我らの部下の成長を祝してな」
「いいですね」
「もちろん、お前の奢りだが」
「あははは……まぁ、仕方ありませんね」

シグナム達ほどの高給取りではない身には痛い出費だが、今はそんな事も気にならない。
同時に、フェイトはシグナムが最初から全てわかっていたのに対し、兼一の想いを測り切れていなかった未熟な自分を恥じた。人生と言う名のキャリアにおいて、彼女は二人に大きく劣る。
その事を強く実感し、エリートだのエースだのと持ち上げられた所で、所詮自分はまだ二十歳にも満たない小娘なのだと戒めるのだった。



  *  *  *  *  *



明くる日の早朝。
兼一は酒はあまり強くないが、アルコールを分解する肝臓は驚異的に強い。
おかげで、景気よく飲みまくり酔い潰れておきながら、二日酔いになる事もなく寮の中を歩いていた。
シグナムとザフィーラは程度の差はあれ二日酔いで苦しんでいるかもしれないが…彼には無縁の話だ。

前日言い渡した通り、当分はギンガの修業はない。
その間は集中的に翔を鍛えることになるので、その修業メニューを考える。
同時に、謹慎を解いた後にはギンガの修業も段階を上げ、今までより数倍増しにするつもりだが。
何しろ、叶翔の血を継ぎイーサンが鍛えている子だ。こちらも全力で掛からねばなるまい。

ただ、あまり弟子の事にばかり集中してもいられないのが現状だ。
今回の事で、自分自身もまた一から鍛え直す必要性を痛感したのだから。
まぁ、それはそれで昔を思い出して中々に充実しているとも言えるのだが。

ちなみに、今が早朝でなければ恐らく寮内は騒然としていた事だろう。
なにせこの男、現在進行形で天地逆転状態。
師に倣い、足の指の鍛錬とばかりに天井の僅かな凹凸を掴んで歩いているのだ。
さらにその両手には、それぞれ大サイズの投げられ地蔵。

誰も見ていないから良い様な物の、誰かに見つかればあっという間に騒ぎになる。
それどころか、下手をすると怪しげな怪談へと発展しかねない。
そんな自分の状態を自覚しているのかいないのか……。
とそこで、ふっと視線を移した窓の外に兼一は良く見知った人影を発見する。

「アレは……………………アヴェニス一士」

早朝訓練にしても早過ぎる時間にもかかわらず、出歩いているコルト。
正直、静動轟一を発現させたと聞いて、兼一は今まで以上の不安を彼に抱いている。
元から危ういところのある子だったが、いよいよもって眼が離せない。

「…………ちょっと、追ってみるかな」

何をするつもりかは分からないが、気にかけておいた方がいいと判断し、兼一は開け放った窓からその後を追う。
一端気配を消せば、弟子クラスでしかないコルトに兼一の気配を感知する事は不可能。
一切怪しまれる事なく、付かず離れずの距離を保って尾行を続ける。

やがて、コルトが向かったのは機動六課裏の林。
恐らく、そこで訓練を始めるつもりなのだろう。

別に、兼一としてもコルトに対しあまり過剰に口出しする気はない。
だが、昨日の事もあるし、まだ静動轟一の影響も抜け切っていないのだ。
もし危ないマネをするようなら、強引にでも止めようとコルトの姿を注視する。
しかし、そんな兼一の危惧は杞憂に終わった。

「あれは……」

コルトの進行方向、そこから感じる人の気配。
相変わらずコルトへの注意を外すことなく、兼一はそちらにも意識を裂く。
そこには、周囲に十ほどの光球を浮遊させ、射撃の型の練習をするティアナの姿。

コルトはティアナの姿が辛うじて見える位の場所で木に背を預け、何を言うでもなくそれを見る。
兼一もそれに倣い、コルトからさらに離れた場所からティアナの様子を見守った。

(悪くはない。昨日の闘いのダメージも、もうそれほど残ってはいないみたいだ)

ギンガやコルトに比べて、ティアナ達が受けたダメージはたいしたものではない。
おかげで、今のティアナの動き自体は普段のそれと大差ないだろう。
動きのキレも、昨日の敗北の悔しさからか、普段より鋭さを増している位だ。だが……

「動き自体は悪くない。でも………良くないな」

一目見てわかった。今のティアナは、ただ「力」そのものを欲している。
その為に我武者羅に、何もかもをかなぐり捨てる勢いで打ちこんでいるのだ。

努力することの尊さを、誰よりも兼一はよく知っている。
だからこそ、今のティアナが良くない傾向にある事にも気付いていた。
しかしそれは、何も兼一だけに限った事ではない。

「何を血迷ったのか知らんが…無意味な事をやってやがるな、あのアマは……」

小さな、木々のざわめきに埋もれてしまいそうなほどに小さな呟き。
だが、兼一の人間離れした聴覚は正確にその呟きを捉えていた。
出所は、木に身体を預けたままのコルト。
ティアナの練習をひとしきり見物した彼は、結局彼女になにも声をかけることなくそれだけ言って踵を返す。

言い方は乱暴だが、その意味を兼一は正確に理解する。
別に、コルトはティアナが努力する事や頑張る事を無意味と言っているのではない。
問題なのは、その方向性。

「俺のマネをして、いったいなんのつもりなのやら……」

今のティアナがやっているのは、まさしくコルトのやり方そのもの。
同時にそんなものは、今まで彼女が積み上げてきた努力とは真逆の方向性だ。
ティアナにはティアナの、コルトにはコルトのやり方がある。
だからこそ、ティアナが自分と同じ事をしても意味がないと言う事を彼は理解していた。
もし、彼女が彼の同類になると言うのなら、話しは別なのだが……。

「訳わかんねぇ……」
《機械の私に人間の感情の機微はわかりませんよ》
「別にお前に言ったんじゃねぇよ、黙ってろ」

コルトのぼやきにウィンダムが返すが、彼はそれをバッサリと切って捨てる。
そもそも、彼のぼやきはティアナに向けられたものではない。
ティアナが宗旨替えし、自分の同類になると言うのならまだ理解はできる。
単に、自分と同じかそれと酷似した思考に変化したと言うだけの話。
自分と似ているのだから、きっかけはともかくその中身自体は手に取るように分かる。

わからないのは、何故ここまでティアナの後をつけてきてしまったのか。
そんな、自分自身の心の動きが理解できない。

昨日の事で借りは返した。最早、コルトにとってティアナはなんの興味も価値もない有象無象の一人と同じ。
今更、何故そんなどうでもいい女の様子を見ていたのか、その理由がわからない。
しかしそこでコルトは突然足を止め、こんな事を言い出した。

「で、いつまで隠れてる気だ、保護者」

それに驚いたのは兼一だ。周りには他に気配がないし、彼は兼一に向けて声をかけたのだろう。
だが、今のコルトのレベルで隠された兼一の気配を見抜くなど不可能な筈なのに……。
と思ったら、結構その理由はあてずっぽうだった。

「……………いねぇのか? あの甘ちゃん共の事だ、てっきり一人くらいは様子を見てると思ったんだが……」

当てが外れたとばかりに、今度こそコルトはその場を後にする。
しかし、その勘がドンピシャで大当たりだった事を、彼は知らない。

「ビックリした。良い勘してるなぁ……」

樹の影で、兼一は一人息をつく。
まさか弟子クラスに見破られる程鈍ったのかと不安になったが、そうではなかったのは一安心だ。

だが、それはそれとしてティアナは放置できない。
兼一自身にも覚えがある。敗戦のショックもあって、今のティアナは非常に危うい状態だ。
それこそ、コルトと同じ位に。兼一にもそんな時があったからこそ、手遅れになる前になんとかしたい。
できればなのはたちとも相談したかったが、正すのなら早いに越した事はないだろう。
時が経てば経つ程に自体は悪化していく。故に、兼一はとりあえず行動に移す事を選択した。

「朝から精が出るね、ティアナちゃん」
「兼一…さん」

頃合いを見計らい、兼一はティアナへと声をかける。
殊更気配を消していたわけではないし、それどころか少し前からティアナにも見える位置に立っていた。
それでもティアナは、今の今まで気付かなかった様子で僅かに驚きの表情を浮かべている。
ここからも、周りが見えない程に集中していた…と言うよりも、見る余裕をなくしている事が伺えた。

「見てたんですか?」
「少し前からね。でも、そろそろ切り上げた方がよくないかな。
 もうじき、なのはちゃんの訓練が始まるよ」
「ぁ、もうそんな時間。ありがとうございました、失礼します」

律義に頭を下げ、ティアナは駆け足でその場を後にしようとする。
そんなティアナに向け、兼一は彼なりに助言を投げかけた。

「頑張るのは良いけど、ちょっと根を詰め過ぎじゃないかな?
 もう少し、肩の力を抜いた方がいいと思うけど」
「あなたがそれを言いますか」
「まぁ、確かにね……」

実際なのはよりも、それどころか今のティアナよりも無茶な事をやらせているのが兼一だ。
ある意味、その助言を兼一が言うのはある意味身の程知らずと言えるだろう。
兼一もその辺りは自覚しているのか、ティアナの指摘に苦笑を浮かべている。

「でもね、我武者羅にやればいいってものでもないよ。
 一人で無茶してると怪我にもつながるし、動きのズレも意識し辛いからね。
 僕も昔は遅くまで一人で修業したりしたものだけど、いつも師匠が隠れて見てくれていたものさ」
「…………」
「あ、別に一人でやるなって言うわけじゃないよ。強い人は、一人稽古が上手いものだからね。
 とはいえ、やらなきゃ上手くならないんだから、それ自体は良いと思うし」
「結局、何が言いたいんですか?」

中々繊細な問題だけに、兼一も言葉を選ぶ。
それがかえって話を回りくどくしてしまい、ティアナをいら立たせている。
自分の欠点を理解しているからこそ、直球を避けようとしているのだが……上手くいかない。

「ええっと…そうだね。何て言ったらいいか……」
「無理な詰め込みは避けろと、昨日ヴァイス陸曹には言われました」
「……」
「でも、詰め込んで練習しないと、上手くなんないんです。みんなやギンガさんと違って、覚えが悪いですから」

そんな事は兼一の方がよく分かっている位だろう。何しろそれは、兼一自身もやっていた事だ。
生憎と、要領よく効率的に覚えられるほどの才能が彼にはなかった。
だからこそ、ひたすら繰り返し魂にまで武を沁み込ませる。それが白浜兼一の方法論。
ティアナの言っている事はそれとなんら変わらない。
故に、その点に関して兼一は頷くしかないのだが、それとは別に一つ訂正を入れる。

「そんな事は、ないと思うんだけどな。ティアナちゃんは……筋はそこそこ良いと思うし」
「慰め…のつもりなら結構です。自分が凡人な事くらい、自分でわかってますから」
「あ、いや、別にそんなつもりは……というか、君も大概自分を追いこむ天才だよね。
そりゃ、みんなが才能の塊みたいなのは事実だけど……あれ?」

もしかして僕、また不味い事言った? とばかりに兼一の顔が硬直させた。
なぜなら、ティアナは顔を俯かせ、僅かに垣間見える表情が強張っている。
梁山泊の師匠連同様、兼一はそう言った事は必要以上にストレートだ。

兼一の場合は言われ慣れている御蔭で最早劣等感を抱く事もないが、ティアナは違う。
わかってはいても、その事実は彼女の中の暗い部分を刺激する。

「ほ、ほら! さっき言った通り、才能が足りないならその分努力すればいんだしさ!
 だ、大丈夫! 覚えが悪くても、全然進歩しないって事はないよ!
 ちょっと周りに比べて成長が遅いだけで!!」

逆効果に次ぐ逆効果。
兼一としては必死に昔の自分を振り返って言っているのだが、あまりにストレートすぎてティアナの心に突き刺さる。そんな事は、今まで何度も自分自身に繰り返し言い聞かせてきた事だ。
そうして、何度も挫けそうになりながら、必死に綺麗な理想論を信じてきたが……現実はどうか。

仲間達と同じ事をしていては、追い縋っていく事は出来ない。ならばと人一倍努力してきたが、スバルはもちろんエリオやキャロにも置いて行かれそうな危機感が拭えなかった。
その挙句の……ミスショット。しかも、そのミスをカバーしたのは敵。
それも、自身とは比べ物にならない程の才能を、当たり前の様に振るう強者。

抗う事が出来なかった自分が惨めで、親友を撃ってしまった自分が情けなくて、ティアナの心を追い詰める。
その上、アノニマートの言った残酷な現実と、それを覆せなかった弱い自分。
今の彼女には、綺麗な理想論は己を苛む呪いでしかない。

「そ、それにさ!
 才能は自慢できなくても、ティアナちゃんは凄く努力できるっていう長所があるじゃないか!
 簡単な事だけど、中々できる事じゃないよ!」

そもそも、「才能が自慢できない」と言っている時点でどうなのか。
昔から言われ慣れてしまったせいか、どうもその言葉が与える影響を察する感性が鈍い。
というか「“そこそこ“筋が良い」とか「周りよりちょっと成長が遅いだけ」とか言われても、全然励まされないのだが……。

「な…にが………って言……ですか」
「え?」
「あなたみたいな天才に、何が分かるって言うんですか!!」

ついに我慢の限界に達し、ティアナは顔を上げて怒鳴った。
その眼は今にも泣き出しそうな程に潤み、硬く握りしめられた拳が震えている。

「生身のまま魔導師を蹴散らして、どんな無茶も平然とやってのける!
 あなたみたいな天才に、凡人の何が分かるっていうんですか!!
 努力すればとか、才能がなくてもとか……気安く言わないで!!!」

腕で溢れだしそうな涙を拭い、ティアナは兼一の肩にぶつかりそうになりながらその横を駆け抜ける。
実際、第三者から見れば兼一は才能の塊と映るだろう。その身一つで魔導士と真っ向から渡り合い、重火器で武装した敵を無手のまま制圧する。それが天才でなくて、いったいなんだと言うのか。

故に彼女が勘違いしてしまうのも当然の話。
兼一が本当は才能の欠片もないなどと、信じられる要素が全くないのだ。
仮に今ここで兼一が彼女を引きとめ、「自分は凡人だ」と語った所で信憑性など絶無。
では、兼一がティアナをそのまま素通りさせたのはそれがわかっていたからかと言うと…………違う。

「天才って…………………………………僕が?
 うわぁ、そんな事言われたのはじめてだ」

彼自身、その単語にどう反応していいのかわからず呆然とたたずんでいる。
なんのことはない。兼一は、生まれてはじめて言われたその単語に放心していたのだ。
たとえそれが盛大な勘違いでも、言われ慣れない単語が与えた影響は大きかったらしい。

「はっ!? そうだ、ぼうっとしてる場合じゃない! ティアナちゃん!」

やや遅れて本来の目的を思い出し、振り向いた時にはすでに手遅れ。
ティアナの姿は林のどこにもなく、兼一は見事に機を逸してしまったのだった。



  *  *  *  *  *



数日後の機動六課会議室。
意図しなかったとはいえ、結果的に兼一が大きくティアナを追い詰めてしまった日からしばし。
機動六課内のある会議室に、上層部及びシャーリーや兼一が集められていた。

「さて、みんなに集まってもらったんは外でもない。
 2・3問題が発生してな、みんなの意見を聞かせてもらいたいんや」

切り出したのは、招集をかけた部隊長のはやて。
彼女は自らの胸の前で両手を組み、厳かに言葉を紡ぐ。

「一つ目は…………これや」

言って、懐から取り出したのは白い封筒。
その真中には、書いた人物の性格を現す様に少々汚い字で「退職届」と書かれている。
今こんなものを書く人物がいるとすれば、それは一人しかいないわけで……。

「先日、コルトがこれを出しに来てな」

やはり、案の定コルトが書いた物だったようだ。
先の戦闘でも、「ようやく局とおさらばできる」と言っていたが、あれは本気だったと言うことか。

「一応口八丁でなんとか言い包めて、とりあえず私の方で預かっとくちゅう形で納得はしてもらった。
 でも、あの様子やといつ行方をくらますかわかったもんやないな」
「受理されようがされまいがお構いなし、って事ですね」
「うん」

シャマルの問いに、はやては疲れた様子で頷く。
この時期に局を辞めるとは、はやての立場からすれば迷惑千万以外の何物でもない。
コルトにはコルトの事情や思惑があるのだろうが、それははやても同じ事。
なんとか説得したとはいえ、それも予断を許さない状態に変わりはない。

「でも、どうやって言い包めたですか、はやてちゃん」
「ああ、良くあいつが言う事聞いたよな」
「まぁ、そこはな。この前のアノニマートっちゅうのに負けた借りは返さんのか、とか。どうせ借りを返すんやったら私らと一緒の方がチャンスがあるで、とか…色々な」

コルトは、やられっぱなしで良しとする様な可愛い性格の持ち主ではない。
その性格を逆手に取り、彼の闘争心を煽って言い包めたのだろう。

「なんで、当分はコルトの様子も要注意や。今いなくなられると、戦力的にも困る。
 何よりあの性格や。下手すると、今度は私らがあの子を捕まえなならん事になる。
 それは……………できれば避けたいやろ?」

何が悲しくて、仮にも元同僚を捕まえなければならないのか。
しかも、その予想が割とリアルだから困りもの。
その点は全会一致の様子で、皆困り果てた様子で頷き返す。

「で、二つ目。こっちはこっちで厄介かつ繊細な問題でな。
 みんなも気付いとるかもしれへんけど……ティアナの事や」
『あぁ……』

隊長陣や兼一など、ほぼ全員が一様に溜息を洩らす。
程度の差はあれ、皆何かしら心当たりがあるのだろう。同時に、その問題の解決が酷く難しい事も。

「この件に関しては、私よりなのはちゃんの方がええやろ。お願いできるか?」
「うん。ホテルアグスタでの任務以来、ティアナの様子がおかしいのはみんな気付いていると思うの。
 ヴァイス君たちからも、ちょっとティアナの自主練習が行き過ぎてるんじゃないかって、心配する声がチラホラ上がってるんだ」

若い魔導師なら、強くなりたいと思うのは当然。
多少の無茶は、まぁだれもがしている事なのでとやかく言うことではない。
だが、ティアナのそれは以前から時々行き過ぎている部分があった。
それが最近、さらに拍車がかかってきている。

ティアナを無茶に駆り立てる、根源的な原因はすでに皆の知るところだ。
拍車をかけている原因も、前回の戦闘記録やデバイスに残ったデータなどを解析すれば一目瞭然。

「原因は、やはり焦りか」
「ですね。前から、ティアナはちょっと周りに色々引け目を感じていたみたいですし」

シグナムの呟きに、なのはは苦い表情で頷く。
以前はまだそれほどではなかったのだが、あの一件以来急激にその状態が進行している。

もちろん、なのはとて今までただ何もせず見ていたわけではない。
ティアナがそう言う思いを持っていたのは知っていたし、それをほぐす様に言葉を懸けてきたつもりだ。
しかし、今のところそれが功を奏しているとは到底思えない。
それどころか、最近はかえってティアナの心を頑なにしてしまっている気がする。
なのはもそれに気付き、今は極力そう言った言葉を控える様にしていた。

「多少の無茶は…私達がちゃんと監督してればいいかと思ってたんだけど、最近は本当にその範疇を越えてる。
 フェイトちゃんも外周りの帰り、深夜にティアナが練習してるのを見てるし」
「うん。正直、あれは頑張ってるって言うよりも鬼気迫ってるって感じが強いと思う」
「多少張りつめてるくらいならまだしも……不味いよな。
 切れた時が怖ぇし、それが任務中とかだったらと思うとゾッとする」
「だね」

嫌な想像に僅かに肩を震わせるヴィータと、それに同意するなのは。
引っ張り過ぎた糸はやがて限界に達し切れる。硬さは時に柔軟性を欠き、脆さに繋がる。
今のティアナは、そういう状態だ。

「良く話し合うにしても、ちゃんと準備が必要ですよね。人選にしても持っていき方にしても。
 下手な事をすると、余計に悪化させちゃいますし」

不安そうに語るシャマルの言葉に、兼一が僅かに居心地悪そうにする。
それは正に、数日前に彼がやってしまった大失敗そのもの。
早いうちに軌道修正すべきと思って声をかけたが、完全に裏目に出てしまった。

もちろんその事を兼一はなのは達に伝えたし、兼一の意図も皆は理解してくれた。
が、それでもやっぱり今の兼一は非常に肩身が狭いのである。
別に、シャマルとてあてこする為に言ったのではないが、結果的にこれはそういう状態だった。

「だとしたら、適任は誰なんでしょう?」
「ヴァイスはどうなのだ? あれは元とは言えティアナと同じ銃型のデバイスを使っていた。
狙撃手では畑が違うだろうが、まだ効果的かもしれん。
ティアナが才覚の差に悩んでいるのなら、その意味でも適任かと思うが……」
「ああ、それダメ。かなり早い段階でアイツも口を挟んだみたいだけど、撃沈しちまった。
 あの様子だと、もう一回チャレンジしても難しそうだな。
今じゃ、顔合わせても最低限のやり取りしかしねぇし」
「そうか……」

リインの問いにシグナムが応えるが、それもヴィータに否定されてしまう。
今の六課で一番彼女の心中を理解できそうな人物だったのだが、それが無理となると……。

「あの、なら私が……」
「いやぁ、フェイトちゃんやとむしろ逆効果やろ」
「はい」
「だな」
「ですね」
「そ、そうかな?」

控えめに手を上げるフェイトだが、それはあっという間に八神家一同からダメ出しを喰らってしまう。
彼女としては、優しく気をほぐす様にして話せばと言う考えがあったのだが……。
だがそれは、現状において認識が甘いと言わざるを得ない。

「ええか、フェイトちゃん。ティアナが思い詰めとる原因の一つは、才能や。
 で、フェイトちゃんもなのはちゃんも、はっきり言って才能が極彩色で額縁付きで呼吸してるようなもんなんやで? そんなフェイトちゃんが今のティアナに対応してみぃ、十中八九『同情』や『憐憫』で『可哀そうなティアナ』を『完全無欠なフェイトちゃん』が『助けてあげる』構図になってまうんや」
「わ、私はそんなつもりは……!」
「フェイトちゃんにその気がなくても、ティアナにはそう映る可能性が高いっちゅう話なんよ」

フェイトは確かに優しいが、今のティアナはその優しさを素直に受け止められる精神状態ではない。
鬱屈した感情に捻じ曲げられ、彼女を追い詰める一因にしかなるまい。
それはフェイトに限らず、他の面々でも同じ事。
だからこそ、彼女達は自分から動く事が出来ずにいるのだ。

上層部の中での適任は、間違いなく彼女と一番接点の多いなのは。
それでも、彼女の話に素直に耳を傾けるにはどんな形であれ、鬱屈したものをなんとかせねばならない。
まずそこをなんとかしない事には、ヴァイスの時同様言っても聞きはしないだろう。
どんな正論も励ましも、壁に阻まれ心に届かなければ意味がない。
故に、その壁を取り除く方法こそが目下最大の障害であり、本件最大の敵なのだ。

「となると、やっぱりもう一度兼一さんにお願いするしかないのかなぁ……」
「でも、兼一さんは一回失敗しちゃってるよ。逆効果なんじゃ……」
「うん。でも、やっぱり全く才能の欠片もない兼一さんが一番だと思うし」

なのはがフェイトの言葉にそう返した瞬間、場の空気が凍りついた。
なにか、今彼女は絶対にあり得ないことを口走らなかっただろうか。
同席しているシャーリー等は、とんでもないレベルで崩れきった顔を晒している。
だがそこで、いち早く石化から解放されたシグナムが得心がいったとばかりに頷く。

「まさかまさかとは思っていたが、やはり白浜に……………………才能はなかったか」
「たぶんそうなんじゃねぇかとは思ってたけど、やっぱりか」
「え!? お二人的には納得なんですか!?」

未だにその内容が信じられないようで、シャーリーはシグナムとヴィータの言葉に動揺を露わにする。
それはまぁ、高位魔導士と生身で真っ向勝負できるような人間に才能がないなんて、普通は信じられない。
ただし、ある程度才能を見抜く目を持っていれば、一応はそうでもないようだが。

「そんな気はしてたんだけど、でもあんなに強いし自信はなかったんだよね。はやては?」
「私も大体そんな感じや」
「私も正直、何かの冗談かと……」
「ふぇ~~~~~~、ですぅ」

守護騎士一同やフェイトなどは、相応の力量と経験があるだけに才覚を見抜く目を持っている。
はやてもまた上に立つ者として、人を見る目があったからこそだろう。
ただ、経験の浅いリインはそうではなかったようで、ポカ~ンと大口を開けているが。
ちなみになのはの場合は、眼は持っているのだがそれ以前に知識として知っていたのが大きい。

「あの、なのはさんはどうして……」
「私の場合は、子どもの頃にお父さんたちがそんな話をしてたから、ね」
「そんなに信じられませんかね? 師匠達からは口を揃えて『才能ない』って連呼されてたんですけど」
「むしろ、才能がないのにどうしてそこまで……」
「努力しましたから。まぁ、良い師と良い友、後は良いライバルがいたおかげですかね」

他に要因を上げるとしたら、兼一に努力する才能と強い心があったからか。
いずれにせよ、一般的な意味での才能の恩恵など一切ない。
それが、白浜兼一と言う武術家の有り様であり道程なのである。

「まぁ、それやったらやっぱり兼一さんにお願いするのが妥当かもしれへんね」
「でも僕、この前大失敗しちゃいましたよ?」
「それなんよねぇ……」

それさえなければ兼一に一任し、全員でバックアップすればいいだけの話だったのだが……。
今さらではあるが、あの失敗が痛い。
まさか、昔の兼一の時の様な無茶な策は使えないし……。
と言うかあの場合、失敗したらどうするのかと言う部分がすっぽり抜け落ちている。
さすがにそんな穴だらけな策は提案できないだろう。

「せやけど他に適任もおらんし、これで行くしかなさそうや。
 細部に関しては、また改めて詰めていくとして…………問題の三つ目、ええか?」

はやてが一同を見回すと、それぞれ頷き返す。
兼一としては不安いっぱいなのだが、はやての言う通り他に適任もいそうにない。
いい加減腹を括り、やれる限りの事をやるしかないのだろう。

「三つ目は……………………これや!!」

言って、はやてがデスクに叩きつけたのは、一枚の書類。
何やら色々ごちゃごちゃ書かれているが、そこに書かれている内容を大雑把に纏めるとこうなる。『先日の戦闘行為で発生した被害の修繕費用及び壊れた品々の賠償については、本局と地上本部はビタ一文も出さないから、ぜ~んぶそっちで持ってね♪』と。
本来この手の請求は、大体本局か地上本部の方から出してもらえる筈なのだが……というか、一々部隊レベルの予算から出していては、あっという間に破綻してしまう。

「はやてちゃん、これは……」
「なんや知らんが、本局も地上本部も、それどころか聖王教会まで素通りしてうち(六課)に請求が回ってきてなぁ……」

リインの問いに、暗い笑みを浮かべるはやて。
主だった所は森林部やロータリーの破壊に対する補償なのだが、問題なのはその他。
ホテルの裏手にて闘い、その最中にホテルに突入。その際に壊されまくった調度品の賠償額がシャレにならない。
高級ホテルだけあり、調度品の価格も相応にバカ高いのである。

「兼一さんが、それはもう景気よく壊しまくってくれたおかげでなぁ……」
「う”!?」
「いやいや、別に責めてるのと違うんよ? 相手は一影九拳っちゅう、最強クラスの武術家や。
 兼一さん自身危うく死ぬ所やったんやし、他のだれかやったらほんまに死んどったかもしれへん。
 それに比べれば大したことないし、お客やホテルのスタッフにも被害はなし。
 この程度で済んで万々歳やから、兼一さんを責めるのなんてお門違いに決まってるやん」
「はぅ!?」

言ってる内容は兼一を擁護するものなのだが、とてもそうは聞こえない。
はやての言葉が進むにつれ、兼一の身体がどんどん小さくなる。
やむを得なかったとは言え、事実は事実。
兼一達の闘いが多くの被害を与え、その請求が六課に来たのは覆しようもない。
本来は襲ってきた側に請求しろと言いたいが、大人しく払う筈もない様な連中だからああいう事をしたのであって……。そもそも、居所がわからないので請求の使用もないのだが。

ちなみに、なんで六課に直で請求が来たかと言うと、犯人は地上本部中将のヒゲダルマ。
本局嫌い、聖王教会嫌いの彼は、当然その息の掛った六課も嫌い。はやてなど特に。
そこで、お前達が許可を出した新部隊はこの体たらくだぞ、とアピールし付け入る隙を作る為、このような小細工を施したのである。もちろん、嫌がらせの意味が全くないとは言わない。

それはともかく、正直兼一の給料では到底補填できる額ではないのも事実。
さて、どうなるのやらと思ったところで、六課全体に放送が掛かった。

「ぴんぽんぱんぽ~ん。白浜陸士、白浜陸士。お客様がお見えです、至急一階受付までお越しください」
『お客?』

何やら妙な空気が蔓延しつつあった会議室だが、その放送と共に何かが緩む。
しばしの沈黙の後、はやては気分を切り替える様に息をついた。

「はぁ……なんやわからんけど、お呼びやで兼一さん」
「あ、はい。すみません、席を外させていただきいます」
「まぁ、話の内容はここまでやし、とりあえずみんなも解散っちゅうことで。
 ティアナに関しては兼一さん中心にみんなでサポート、コルトは各々よく注意するように。
 で、請求に関しては……………………まぁ、なんとかしてみるわ」

こうして会議は一端終了。
呼び出しを受けた兼一は、急ぎ会議室を後にして受付へと向かう。
他の皆はそれぞれ持ち場に戻り、各々の仕事に取り掛かる…筈なのだが、実際にはなぜか兼一の後に付いてくる。

「あの、どうしたんですか?」
「いや、お前の客というのがどんな奴なのかとな」
「あ、あははは……私も、ちょっと気になって」

振り返りながら問う兼一に、シグナムとシャマルがそんな答えを返す。
他の面々も想いは同じ様で、何やら曖昧な笑みを浮かべていた。
兼一はそんな皆に溜め息をつきつつ、気にしたら負けだとばかりに歩みを進める。

まぁ実際、兼一の客というのは気になるだろう。
彼自身、客の心当たりがない。こちらの世界で兼一と縁のある人物と言えば、まずは108の面々。
後はヴェロッサやユーノくらいか。しかし、彼らなら事前に連絡くらいはしてくるだろう。
事前の連絡もなしに突然にと言うと、兼一も首をかしげるばかりだ。

やがて、兼一は呼び出しを受けた受付に辿り着く。
そこには、なぜか集まっている新人たち及び翔とギンガ。
そして、兼一が姿を現した所でそれまで受け付け傍の椅子に腰かけていた人物が立ちあがった。

「よぅ、兼一! イーサンに負けたらしいじゃねぇか!」

開口一番、敗北の傷を抉ってきたのは人間離れした容姿の地球外野郎。
おかっぱに切りそろえられた黒髪とそこから覗く二本の触覚、異常に尖った長い耳、誰が見ても一目瞭然な悪人面。放つオーラは禍々しく、「ケケケケ」という声は悪魔の笑いの様だ。
それもその筈、何せこいつは宇宙人の皮を被った悪魔。人間の常識など通用する筈がない。
そんな悪友に向け、兼一は無言で歩み寄るや否や胸倉を掴んで問い質す。

「何を企んでる、宇宙人? お前の事だ、どうせ邪な事を考えているんだろう。
 僕はこの際置いておくとしても、ここの子達をお前の邪悪な策略に巻き込むな」
「ウヒャヒャヒャ! 久しぶりに会っていきなりそれか?」
「お前だって似たようなもんだろうが!!」

普段の兼一からは想像もつかない程に、乱暴なやり取り。
その場に居合わせた面々は、呆然とその様を見やるのみ。
ただ、この場には兼一の他にもう一人、このナマモノに憶えがあった。

「えっと、新島さん?」
「おぅ、高町の小娘じゃねぇか、久しぶりだな」
『なのはさんに小娘!?』

正直、エースオブエースの勇名が広く浸透しているこの世界にあって、彼女をそう呼べる者などほとんどいない。
しかし、この男はそんなものを気にする様な殊勝な性格ではなかった。

「あのガキが、しばらく見ねぇ間に偉くなったじゃねぇか」
「は、はぁ……どうも」
「なのはちゃん、アレ誰や?」
「なのはの知り合い?」

曖昧な会釈をするなのはに、幼馴染二人が横から小さく問いかける。
ヴィータなどは不快感を露わに新島を睨んでいるが、彼は全く恐れ入った様子を見せない。
まぁ、実際に彼の胆力はかなりの物なので、当然かもしれないが。

「おめぇ、なのはとどういう知り合いだよ」
「ま、お前らよりも古い付き合いとだけ言っておこうか、チビ助」
「んだと……!」
「抑えろ、ヴィータ」

新島の人を小バカにした態度に、ヴィータが青筋を浮かべて詰め寄ろうとする。
が、それを羽交い絞めにする事で制止するシグナム。
何と言うか、真面目に取り合うと損をする、そんな直感が働いたのかもしれない。
もしそうだとすれば、彼女の勘は大当たりと言えるだろう。
で、なのは達の方はと言えば……

「新島春男さん。兼一さんの……悪友? で、新白連合の総督さん」
「総督っちゅうことは……トップやんか!?」
「あ、あの人(?)が!?」

一応二人も全く知らなかったわけではないが、やはり実物はだいぶ違う。
話しや映像で見るより、実物は遥かに妖怪染みていた。
その感想はシグナム達も同じ様で、観察する様な眼で彼を見る。

「……………まぁいい。で、ホントに何し来た?」

そんなやり取りが後ろでされていたからか、何かを諦めたように新島の胸倉を離す。
実際、わからないことだらけだ。この男の事だからこんな所に現れたのも、今更驚きはしない。
だが、その目的がさっぱりだ。もちろん、ただ旧交を温める為だけにやってくるような奴ではない。
こいつの事だから、絶対何か企んでる。それも、他人を良い様に利用して。

新島への信頼の全てに懸けて、兼一はその推測を確信していた。
で、そんな兼一に対する、新島の答えがこれだ。

「あぁ? そんなの……………………………………………負けたお前を笑う為に決まってんだろうがぁ!!」

『ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!』『ヒャ――――――――ハハハハハハハハハハハハハ!!!』『ケケケケケケケケケケケケケケ!!!』と、七転八倒する勢いで笑い転げる新島。
その笑い声は、ある意味黒板をひっかく音に匹敵する不快感を兼一にもたらした。
兼一は拳を握りしめ、ブルブルと肩を震わせる。
やがて、何かが限界に達したのか勢いよく顔を上げた。

「悶虐陣破壊地獄!!!」
「ぐぺっ!?」

一瞬の交錯。気付いた時には、新島の身体は生命活動に必要な最低・最小限の機能だけを残して、完全に破壊し尽くされていた。
余人には何が起こったかわからない、そんな早技。
一つ確かなのは、新島の全身が軟体動物の様にグニャグニャになっている事だけ。

「おいおい、死んじまったんじゃねぇか?」
「白浜、確かにこの男は不快だったが、幾らなんでもこれは……」

あまりに凄惨な有様に、さすがにヴィータとシグナムも正視できない。
それほどまでに、今の新島の状態は悲惨そのもの。
新人達等、最早完全に心と身体が固まってしまっている。

「け、兼一さん…幾らなんでもその技は……」
「なのは、知ってるの?」
「昔、兼一さんの先生が見せてくれたんだけど、確か……『人が死なない必殺技』って言って、死にはしないらしいんだけど……」
「いや、これはむしろ死んだ方がマシな技やろ…絶対」

その名も『悶虐陣破壊地獄(もんぎゃくじんはかいじごく)』。
『哲学する柔術家』岬越寺秋雨の人を殺さないための必殺技だ。投げ、当身、関節技を同時に仕掛ける繊細な技であると同時に、単に「死なないだけ」で他のあらゆる責め苦が実現された恐ろしい技である。

はっきり言おう、こんなものを人間に使ってはいけない。
まぁ、相手は人間ではないので、その意味では問題ないかもしれないが。
だがしかし、兼一はさらにここへ追い打ちをかける。

「ギンガ、投げられ地蔵! 翔は鎖!!」
「は、はい!」
「う、うん!」

それまで呆然としていた二人に指示を出し、続いて兼一はなのはの方を向き直る。
今の彼は持っていないが、なのはなら持っているかもしれない物を求めて。

「なのはちゃん、那美さんのお守りって今持ってる?」
「え? あ、はい」
「ちょっと貸して」

なのはからなんの変哲もないお守りを受け取った兼一は、それを動かない新島に押し当てる。
すると、あら不思議。新島の身体から煙が立ち上り、悶え苦しみ始めたではないか。
それを見たフェイトは、さすがに新島の事が心配になってなのはに問う。

「な、なのは、これって……」
「ああ。新島さん、教会とか神社に行くと具合が悪くなる体質で、仏具とか御守りも苦手らしいんだ」
「ほんまに魔物か、この人?」

そんなはやての呟きを余所に、兼一は投げられ地蔵を鎖で新島に徹底的に括りつけていく。
そして、もう生き物なんだか鎖の塊なんだか分からなくなった所で、渾身の力を持って……投げた。

「どっっっっっせい!!!」
『ええ――――――――――――――!?』

百キロを優に超えるその塊は、兼一の一投で天高く舞い上がっていく。
向かう先は海。それなりの距離があるが、兼一のパワーを以ってすれば造作もない。

鎖の塊は放物線を描いて落下を開始、やがて海面に盛大な音と水飛沫を立てて着水した。
当然、鉄と石の塊に人間が付属したかのようなそれに浮力などほとんどなく、瞬く間に海底へと沈んでいく。
で、それを為した人物は爽やかに汗を拭ってのたまった。

「ふぅ、悪魔は去った」
「ちょっと―――――――――――――!!」
「は、早く助けない! あれじゃ死んじゃいますよ!?」
「何やってんですか、兼一さん!!」

ようやく意識を取り戻したキャロとスバル、そしてエリオは大慌てで兼一を非難する。
良識人たちからすれば、兼一のやった事は最早殺人も同然だ。
にも関わらず、それをやった本人は清々しい笑顔。
これで慌てるなと言う方が無理な話。

むしろ兼一としては、これでもやりたりない位だ。
なにしろあの男の事だから、どうせ……

「まっさか~、あの程度で死ぬならとっくの昔に殺してるよ?
 ちょっと時間稼ぎをするのが良いとこじゃないかな、あの程度じゃ」
「あ、あれだけやって……時間稼ぎ?」
「人間ですか、あの人……」
「というか、死んでないんですか?」
「ま、この逃亡の天才を殺すにゃ、ちょいと足りねぇな」
『へぇ~………って、いつの間に!?』

気がつけば新人達の背後に立っていたのは、先ほど海に沈められた筈の新島春男その人。
脱出してここまで来たとしたら、異常な早さである。
しかし、良く見るとそれにしては全然濡れていない。

「相変わらずの早技だな。いつの間に抜け出した」
「鎖で縛られるちょいと前にな。丁度いい所に身代わりがいたんで、そいつと入れ替わってもらった」
「身代わり……………まさか!?」

兼一が慌てて周囲を見渡すと、そこにはいるべき人がいない。
そう、ついさっきまでいたのに空気扱いだったザフィーラが、今度こそ影も形もないのだ。

「ザフィーラ――――――――――――!?」
「やべぇ、どうするよシグナム!?」
「急ぐぞ、まだ間に合うかもしれん! シャマルは治療の準備だ」
「わ、わかったわ!!」
「ザフィーラ、死んじゃダメですぅ!?」

こうして場はあっという間に騒然となり、新島の来訪は有耶無耶になる。
ちなみに、辛うじてザフィーラは救出されるも、しばらく彼は水を徹底的に嫌がるのだった。



 *  *  *  *  *


その後、機動六課のとある一室。
ドタバタ騒ぎこそあったが、とりあえずそちらも終結。
一応その場は解散され、今部屋には兼一と新島、あとはやてがいる。
なんではやてまでいるかと言えば、兼一が立ち会いを求めたから。

この男は性格こそあれだが、能力はある。
今の兼一達にはティアナの問題に対して明確な答えを出せていない。
つまり、この男の穢れきった頭脳に頼らなければならない程、彼らは追い詰められていると言う事だ。

「しかしお前、連合はどうした? トップが離れて大丈夫なのか?」
「問題ねぇ。俺様がいなくてもある程度回る様仕込んであるからな。
 よほどの事がねぇ限りはなんとかなる、それが組織ってもんだ」

まあ実際、規模の小さかった昔ならいざ知らず、規模を拡大した今新島がいなくてもある程度組織は回る。
そうでなければ、組織としてあまりにも脆過ぎるからだ。
もちろん新島でなければ対処できない事態はあるが、そんなものは極稀。
それさえなければ、とりあえずしばらくは問題ない。

「あの、横からスイマセン。そもそも、どうやってミッドまで来たんですか?
 普通、地球からこっちへの移動手段なんてないですよ?」
「あ? 地球在住の管理局関係者……つーか、ハラオウン家の連中と話をつけただけだが、それがどうした?」
「あ、相変わらず手回しの良い奴め……どうやって説得したのやら」

新島の手際の良さは今に始まった事ではないが、さすがに兼一も呆れるばかり。
はやてに至っては、まるでその方法が思いつかず頭を抱えてしまう。

「で、まさかお前一人で来たわけじゃないんだろ?」
「当たり前だろ。護衛も付けずにこんな所まで来るかよ。
 っと…そーか、そろそろあいつも呼んでやらなきゃな」

言って、新島は自らの懐から何かを取り出す。
それは、吹き込み口のついた鍵盤楽器。
小学校ではだれもが一度は演奏した事があるであろうその楽器の名は……………「ピアニカ」。

「へ? ピアニカ? また、懐かしいものを……」
「やっぱりあの人か。部隊長、言っても無駄でしょうが一応言っておきます…驚かないでください」
「は? それは、どういう……」
「聞け! 俺様の魂のピアニカを!!! ピィ~~~~ヒョロロロロ~♪」

朗々と響きわたるピアニカの音色。
音は空気の振動。例え密室であろうとも、窓や壁を伝って中の振動は外部にも伝わる。
即ち、中で奏でられた音色は外にも漏れていくと言う事



同時刻、練習場へ向かう途中の海辺。
練習場へと向かおうとしていた新人達は、そこであるものを発見した。

「……フリード?」
「どうしたの、キャロ?」
「フリードが、あれ何かなって……」

キャロが指差すのは、海面に浮き上がる僅かな気泡。
キャロの周りには新人達が集まり、眼を細めてその気泡を注視する。
とそこで、突如海が巨大な水柱が発生した。

「な、何これ、ティア~!?」
「知るわけないでしょ、このバカ!?」

突然の事態に、訳も分からず叫ぶ年長者二人。
もちろんそれは年少者二人も同じ事。
そんな四人の頭上には、打ち上げられた海水が豪雨の如く降り注ぐ。
何が起こったかわからず、その場で意味のない大声によるやり取りはしばし続く。
そして豪雨が止んだ時、彼らの眼に飛び込んできたのは……自分達の方へ飛んでくる、全身びしょ濡れの帽子をかぶった男の姿。

「呼んでいる、あのお方が呼んでいる~!! ラララ~~~~~♪」
『え?』
「デリカート(優雅)な海の歌声を聴くのに没頭してしまいました。
 今参りますぞ、我が麗しの魔王よ!!」

呆然とする濡れ鼠と化した四人と一匹は完全に眼中になく、男は訳の分からない事を叫びながら疾走する。
結局、最初から最後まで彼らには何が起こったのか全く分からないまま……。



場所は戻って兼一達の部屋。
そこは場所的には四階なのだが、新島の演奏が終わると同時にそれはあらわれた。

「プピ♪」
「で、それがどないしはったんです…「ジークフリート、総督のピアニカの音色に誘われ、プレスト(極めて速く)に参上いたしましたぁ!!」くわぁ――――――――――――――!?」

突如窓の外に現れた、全身海水塗れ、海藻やら魚介類やらを帯びた変人。
はやてが訳の分からない叫び声を上げたのも無理はない。
兼一とて、慣れていなければ似たような反応を示した事だろう。

「なんやなんや!? 舟幽霊でも召喚したんか!?」
「お待たせいたしました、我が親愛なる魔王よ」
「ふふふ、さすがに速いなジークフリート」
「って、こっちガン無視!?」

はやての事など、まるで背景の様にさらっと流す二人。
で、ジークは新島への挨拶を終えると、兼一の方を向き直り……

「兼一氏もお久しぶりでございます~! ラ~ラララ~♪」
「ジークさんもお変わりない様で」
「昔からこうなんですか!?」
「浮かぶ、浮かびますよ~! 兼一氏、あなたとの再会のメロディーが~!!」
「ええ、全然変わってません」

その場で突如作曲を始めるジークだが、慣れている兼一は全く動じない。
が、初めて出会うタイプの人種に、はやては既に許容量が限界だ。
いったい自分、この人にどう対応すればいいのか。
そもそも、全く見向きもされていないのだが……。

「質問してもええですか?」
「どうぞ」
「あの人、誰ですか?」
「僕の古い友人で、新白の幹部、『不死身の作曲家』の異名で知られる変則カウンターの達人、ジークフリートさんです。あ、本名は九弦院響って言うんですけど」
「は、はぁ……ご職業は?」
「武術家兼音楽家です。基本、作曲から楽器の演奏、歌や指揮まで何でもいける人でして……。
知りません? ウィーン交響楽団で最年少の指揮者になった日本人って、以前話題になったんですが……」
「あの人なんですか!?」

どうやらそのニュースははやても知っていたらしく、思わぬ有名人にかなりびっくりしている。
まぁ、そんな人がこんな変人とは思いもしなかったのだろうが。

「で、なんで海藻塗れ?」
「大方、ついさっきまで海の中にでもいたんでしょう」
「なんですか、それ?」
「あの人のやることに、一々理由を求めない方が良いですよ。どうせ僕達にはわかりませんから。
 昔は、脈絡もなくミサイルをかわしながら空から降ってきた事もありますし」
「は、はぁ……」
「まあ、理解し辛いかもしれませんが気のいい人ですから。ただ……」
「ただ?」
「作曲を妨害されると激怒するので、それだけは気をつけてください」

はやては兼一の助言を、刺激を与えれば爆発するニトログリセリンと解釈した。
まぁ、こと音楽にかけては正解そのものなのだが。
というか、いったいこの人の事はどう皆に説明したものか……。

「でも、本当に久しぶりですね、ジークさん」
「はい。私もこの日を一日千秋の思いで待ち望んでおりました。
 今私の胸は、デリチオーソ(甘美)なメロディーで満たされております!」

兼一の眼を見ながら話しつつ、その手は羽ペンを持ったまま休むことなく五線譜紙の上を走り続ける。
どうやら、今では音楽の脳と日常生活の脳が完全に切り離されているらしい。

「ところで、息子さんはどちらに?」
「翔なら、今は寮の方だと思いますけど……」
「後ほど会わせていただきたいのです、ラッラ~♪」
「はぁ、どうせだから弟子と一緒に紹介するつもりでしたし」
「おお~、ありがとうございます~♪ あれから五年、さぞかし大きくなっている事でしょう~♪」

そんな二人の会話を、はやては何とも微妙な表情で見ている。
正直、今の彼女には兼一の様に平然とこの人物と会話できる自信が全くない。

「実はな、今回はジークの方から行くって言いだしてよ」
「珍しいな。お前に同行する事はあっても、その逆は中々ないだろ」
「まぁな。ま、俺様自身用があったのは事実なんだが……」

つまり、今回の来訪はジークの用事に新島が乗っかる形で実現したと言う事。
普段は完全逆なだけに、これはとても珍しい。
となると、ジークの用事とはいったい……。

「つーか、こいつ最近暇さえあれば他の連中の所にも頻繁に顔を出してるんだわ」
「え?」
「そうなのです。来年には選考会が開かれますが、私には弟子がおりません。
 そこで、私はだれを推薦するか、それを決めるべく皆の弟子に会うことにしたのです」

ここまで聞いて、ようやく兼一もジークの意図を理解した。
彼は、現状唯一隊長陣の中で弟子をとっていない。
その理由は彼に弟子をとる気がないから…ではなく、誰も彼の教えに付いていけないから。

あの計画は、新白連合の全隊長共通の弟子を選出するもの。
それはつまり、ジークの弟子を選ぶという一面を持つ。
となれば、その条件には当然「ジークの教えに付いていける」事が含まれる。
故に、それを見極める為、ジークは各隊長達の間を渡り歩いてきたのだ。
そして、その最後の一人が遠く異世界に移った兼一とその弟子だった。

「なるほど」
「というわけで、しばらく滞在させていただきますが……よろしいですかぁ~♪」
「ち、近い! 近いです! ちゅうか、怖い!!
 ええです、いくらでもいてくれはってええですから!!」

滞在の許可を取るべく、はやてに詰め寄るジーク。
その異様な雰囲気に気圧され、はやてはあっという間に許可を出してしまう。

「ま、お前らにとっても悪い話じゃねぇ。
 長くはねぇが、その間ジークにガキ共を鍛えてもらうのもいいんじゃねぇか?
 技はともかく、経験を積むって意味じゃ良いと思うぜ」
「はぁ、それは確かに……」

それは何も、新人達だけに限った話ではない。
例えばシグナムやザフィーラなどにとっても、ジークとの組手の機会は得難いものだろう。
そういう意味では、彼らの滞在は六課にとっても旨味がある。

「お前にしては不気味に良心的だな。何を要求する気だ」
「そんな兼一さん、見た目は確かに悪魔みたいやけど、友達の好意なんやから……」
「こいつに限って善意だけなんてありえません。必ず裏があります。
 古い付き合いだからこそ、僕は裏があると信じてるんです」
(嫌な信頼や……)
「ま、実際その通りなんだがな。さすが相棒、よくわかってんじゃねぇか」
「昔散々利用されたからな。お前が何をする気かは読めないが、何か企んでいる事だけはわかる」
(なるほど、アリサちゃんが嫌がっとったんもようわかるわ)

以前帰郷した折、幼馴染が蛇蝎の如く毛嫌いしていた理由がなんとなくわかった。
確かにこれは、できればお近づきになりたくない人物である。

「まぁ、安心しろ。俺様も取引の鉄則は心得てる。
 見返りは貰うが、こっちもそれ相応のものは返すぜ。
 で、相棒。何か悩んでいる様子だが、ここは一つ俺様が策を授けてやろうじゃねぇか」
「くっ……お前のただれた策に頼らなければならないなんて……」
(そこまで悔しそうにせんでも……)

心底自分の不甲斐なさを悔いる様に、兼一は奥歯を噛みしめる。
とはいえ、今となっては新島を頼るほかないのも事実。
兼一はプライドをかなぐり捨て、已む無く新島に事情を説明した。

「なるほどなるほど。よし、策が練れたぞ」
「早いな」
「俺様の手に掛かればこの程度朝飯前よ。ま、念の為本人からも情報は収集しておくがな。
 だが、大筋は決まった」
「ほんまに、大丈夫なんですか?」
「一応こいつは、うちの師匠達からも『策士の才がある』何て言われてた奴ですから、多分……」
「任せとけ、お前らに策士の妙技って奴を見せてやるよ。
 なにせ、この人知を超えた驚異の生命体、新島大明神様が直々に知恵を授けてやるんだからな」

新島は自信に満ち溢れた顔でほくそ笑む。
その笑みやあまりにも邪悪で、安心感よりも不安が先に立つ。
しかし、任せた以上は信じるしかない。
たとえそれが、例によって例の如く無茶な策だったとしても。

「ま、お前らの言う通り確かに少々繊細な問題だ。
 面倒だが、いくつかステップを踏むことになる。まず第一のステップは……!!」

こうして新島立案の下、策は動きだした。



  *  *  *  *  *



翌日、練習場は一種異様な空気で包まれていた。
それもその筈、なにせその日になって突然スターズの二人にある指示が言い渡されたのだから。

「「模擬戦、ですか?」」
「う、うん」

言い渡した本人、なのはもどこか戸惑い気味。
何しろこれは、別に彼女が決定した事ではない。
その背後で暗躍する、宇宙人がやらせている事なのだから。

「えっと、なのはさんとですか?」
(さすがに、まだ時間が足りない。スバルとやってるあれも、まだなのはさん相手に使えるレベルじゃ……)

ティアナとスバルは、ここ数日なのは達に隠れて新しい連携などを試していた。
他にも技数を増やしたり、新しい戦術を組んだりなど、その内容は多岐にわたる。

が、さすがに始めてからの時間が短すぎた。
今の段階では、とても実戦や模擬戦で使えるレベルではない。
が、そんなティアナの想いを余所に、なのははスバルの問いを否定する。

「ううん、私じゃなくて……」
「俺様だ!」
「「え……」」

二人の眼前に立つのは、偉そうにふんぞり返る宇宙人。
今は実際に偉いのだが、そんな事は関係ない。

「俺様とお前らの二対一だ。安心しな、俺様は兼一と違って達人ってわけじゃねぇからよ」
「なんの冗談ですか?」

そのあまりにもあんまりな事実に、さすがにティアナも不機嫌を隠せない。
見た所兼一同様全く魔力を感じないし、本人曰く達人でもないときた。
その上で二対一。はっきり言って、自分達をなめているとしか思えない。
ティアナでなくても、なのはに非難がましい視線を送ってしまうだろう。

「ああ…何と言うか……」
「聞くところによると、お前はそのガキ共のリーダー役らしいじゃねぇか」
「……だから、なんですか?」
「有り難く思え。そんなお前に俺様御自ら教えを授けてやろうってんだ」

恩着せがましいにもほどがある上に、とんでもないレベルでの上から目線のもの言い。
ティアナの中の不快指数は、加速度的に上昇していく。

「そんな事、誰も……」
「あれ、もしかして逃げちゃうのかにゃ~? ま、自信がないならやめとけやめとけ。
 魔法だかなんだか知らねぇが、所詮はそんなもんって事だろ?
 どした、寒いのか? 震えてるぞ? 具合が悪いって便利な言い訳だと思わね?」

頼んでないと言おうとしたところで、畳みかける様にぶつけられる嘲りの連続。
『洗脳話術』。相手に反論する間も与えずに追いこむ、新島の十八番だ。
まぁ、正直もう少し穏便にできないのかとは切に思う。

「やって………やろうじゃないの!!!」
「てぃ、ティア?」
「なのはさん、やります。早く始めましょう」
「う、うん……」

明らかにティアナの眼が据わっている。
果たして、本当にこれで良いのか。なのはは激しく不安にかられるのだった。

「えっと、ルールは二つ。一つ、戦闘不能になるかギブアップしたら終了。もう一つが、新島さんにはサポーターとしてキャロが付くから」
「え、私ですか?」
「うん。さすがに二対一で、その上新島さんは魔法も使えないし、それじゃ利過ぎるからね。
 ただ、キャロ自身は直接的に模擬戦には参加しないで、新島さんの指示に従って魔法を使うだけ。その回数も三回までの制限付き。問題ない?」
「「「はい」」」

もちろん、その中にフリードは含まれない。
あくまでも、キャロ自身が直接的にティアナ達に干渉できる魔法だけに限定される。
これでも十分すぎる位不利なのだが、新島にとってはそれで充分。むしろおつりがくる。

「じゃ、他に質問はない?」
「あの……」
「なに、エリオ?」
「模擬戦とは別なんですが、なんで兼一さん…………………あんなにボロボロなんですか?」

視線の先には、エリオが言った通りいい具合にボロボロになった兼一の姿。
昨日まではそんな事はなかった筈なのに、一晩でいったい何があったのか。
そもそも、昨日の晩は兼一が帰ってこなかったような……。

「実は……」
「実は?」
「一晩中ジークさんと組手をしててねぇ」
「え、ええ!? 一晩中ですか!?」
「うん。はじめはそんなつもりじゃなかったんだけど、気付いたら朝になっててさぁ」
(んな、無茶な……)

というのが、事の真相。
今の兼一に足りないのは、何はともあれ実戦。
それを補うに当たり、ジークフリートとの組手は最高の練習だった。
が、つい調子に乗り過ぎて、気付けば朝になっていたと言うのだから無茶が過ぎる。

「で、そのジークさんは?」
「今は向こうで翔の修業を見てくれてるわ。元から翔に会う為に来てたらしいし、丁度いいからって」

とは、ヒソヒソと情報を交換するナカジマ姉妹。
一晩中戦っておいて、兼一もそうだがあっちはあっちで元気なものだ。

「あ、それとティアナちゃん。念のために言っておくけど……」
「わかってますよ、ちゃんと手加減……」
「しない方が良いよ、マジで」
「……っ、大丈夫です!!」
「あ、ティア待って!」

兼一の心配を侮辱されたと取ったのか、ティアナは足早にその場を後にする。
その後ろ姿を、兼一は「やれやれ」と言った様子で見送った。

正直な話、新島相手に油断は禁物。どんな形であれ、あれはその油断を突いてくるだろう。
最終的には、釈迦の掌の猿状態で操られてしまうから。
そうして、ティアナ達が去った所でキャロが控えめに新島に尋ねる。

「あの、新島さん。私はなにをすれば……」
「え? いや、何もしなくていいぞ」
「ええ!?」

だが、かえってきたのはこんな答え。
まさかの返事に、キャロは眼を向いて驚く。

「元から、おめぇに何かさせるつもりなんてねぇのよ」
「そ、それはどういう……」
「ああ、なるほど。魔法を使えない新島さんに、魔法を使えるキャロが三回だけ手助けするって聞けば、そっちを警戒するのが当然や」
「ですね。新島さんの狙いは、ティアナ達の意識を自分から反らす事ですか」
「正解だ。ちったぁ策のなんたるかが分かる奴もいるみてぇだな」
「これでも夜天の王やからな」
「これでも夜天の騎士、その参謀ですから」

狡いと言えば狡いその策に、はやてとシャマルは呆れたように呟く。
しかしこの男、昔から落とし穴とか死んだフリとか、そう言う作戦が大好きなのだ。
なので、狡いと非難してもきっと気にしないだろう。

事実狡くはあるのだが、同時に効果的でもある。
特に、一連の挑発もあってまったくティアナは精神的罠に気付いていない。

だが、この二人でも気付いていない策の裏側にある狙い。
それは、魔法を使うと見せかけて一切使わず敗れた時のティアナに与える影響の度合い。
しかし、それはまだ語らない。物事には、順序と言う物があるのだから。

「その名も、Z(実は)・M(魔法なんて)・T(使わないんだな)作戦だぁ!」
『変な名前……』
「相変わらずネーミングセンスってものがないな、お前は。ゴロも悪いし」
「ほっとけ」

兼一の指摘に、珍しく不貞腐れた様に返す新島。
どうやら、この点だけは彼も多少なりと気にしていたらしい。



ちなみにその頃、翔とジークはなにをしていたのか。
場所は隊員寮前の広場。そこで二人は……………………盛大に回っていた。

「回るのです! もっとフリオーソ(熱狂的)に!! よりテンペストーソ(嵐の様に激しく)に!!! ラララ~♪」
「は、はい! ジーク先生!」

軸をぶらさず、ただ一点に立ったまま激しく回転する大小のコンビ。
それを見て、アイナは思った。『この子、このままで大丈夫なのだろうか』と。
確かに、激しく成長環境的に問題がありそうなのは、誰にも否定できないだろう。



……場面を戻そう。
新島も所定の位置へ移動し、兼一達は当初からいたそこでモニターを注視している。

「あの、師匠。今更かもしれませんが、新島さんに勝ち目ってあるんですか?」
「ん~……」

ようやく謹慎の解けたギンガの問いに、兼一は難しい顔で唸る。
はっきり言ってしまえば、兼一にはどうやって勝つかわからない。
だが、勝つかどうかと聞かれれば「必ず勝つ」と思う。

あの男が勝つと言った、ならそれは絶対だ。
ましてや負ける事など想像もできない。
なにしろ、このルールならダメージを受けなければ負ける事はないのだから。

「一つ言えるのは、二人の攻撃があいつに触れる事はないってことかな」
「え?」
「奴は逃亡最速の男だ。
逃げ足百メートル走、同障害物走、同フルマラソン。これらがあれば、全ての競技で確実に金を取るだろうね」
「そんなに…… 速いんですか?」
「速い。というか、僕は未だかつて逃げるあいつを捕まえられた事がない」
「師匠でも!?」

兼一のその一言に驚いたのは、何もギンガだけではない。
他の面々も一様に驚愕の表情を浮かべ、信じられない面持ちだ。

しかし、兼一のその予言は現実となる。
いや、兼一は殊更予言したつもりはない。ただ彼は、事実を事実のまま口にしたのだから。
それが、模擬戦開始のサイレンと共に証明される。

「クロスファイヤー……シュート!!」

初撃はティアナの誘導弾。
燈色の光球が、複雑な軌道を描いて新島に殺到する。

それに対し、新島は颯爽と背を向けてクラウチングスタートの体勢。
間もなく、彼の中で静かな号砲が上がった。

「Z・M・T作戦、Go!!」

宣言するや否や、とんでもない速度で新島が加速する。
迫る魔力弾の全てを振り切り、魔力弾に僅かに遅れて距離を詰めて来るスバルさえも置き去りに、残されたのは………濛々と立ち込める土埃のみ。
まさか最初から逃げに入るとは思っていなかったようで、僅かな時間呆然自失する二人。
が、すぐに我に返って叫んだ。

「って、偉そうなこと言っておいていきなり逃げ!?」
「つか早っ! なんなのあの人!?」
「や~い、のろま~! 百合百合コンビ~! ここまでおいで~!」
「……ああもう! とにかく追うわよ!!」
「お、おう!」

どうやら早速ペースを乱されたようで、二人は慌ててその後を追う。
この時点で、既に新島の術中に嵌っているとは思いもせずに……。

「あ~、早速新島のペースに巻き込まれてるなぁ……大丈夫かな、二人とも?」
「それにしても速すぎますよ……ホントに武術の経験ないんですか、あの人?」
「ないよ」

兼一の言う通り、確かにあの速度は常軌を逸している。
師の最高速度を知らないギンガだが、少なくとも自分よりは速い事を確信していた。
また、ヴィータやシグナムなどはもっと別の大きな疑問に頭を悩ませる。

「まぁ、どう見てもそういう経験のある奴の動きじゃねぇよな」
「と言うより、どう見ても非効率的な走り方だ。
なのに、なぜあの速度を出せる、維持できる……わからん。さっぱりわからん!」

その上バテる様子は全くなし。
あの『ダバダバダバダバ!』とか『ヒャ―――――ハハハハ!』とかいう奇怪な笑い声が、特殊な呼吸法とでも思っていないと納得できない。無理にそう思っても、納得できない……というか、したくないものがあるのだが。
本当に、徹頭徹尾訳の分からない男である。

「あれ? でも、なのは。段々、新島さんと二人の距離が縮んできてるよ」
「うん。さすがにあのペースを維持するのは難しいのかな?」
「いや、むしろ維持できてた方が不思議なんやけど……」

なのはも新島との面識はあるが、付き合いとなるとないに等しい。
ああいう生き物だとは聞いていたが、さすがに色々手持ちの情報には不足があるようだ。

「いや、あれは多分……」

しかし、新島をよく知る兼一にはその意味が分かる。
あれはペースが落ちているのではなく、敢えて落としているのだ。
何かの誘いか、あるいはもっと別の狙いがあるのか。そこまではさすがにわからないが。

「あ、スバルさんの手が!」
「捕まえた!!」

モニターには、今まさに新島の後ろ襟に手を伸ばすスバルの姿。
その手はしかと新島の襟を掴み、力の限り引き倒す……ところで、すっぽ抜けた。

「ポウッ!」
「ぇ、嘘!?」
「ヒャッハ―――――! 新島式脱皮術を甘く見るんじゃねぇ、小娘!!」

新島は理解不能の体捌きで掴まれた服を脱ぎ捨てている。
てっきり捉えたと思ったスバルは、予想外の事態に前のめりに倒れてしまった。
とそこへ、遥か後方より無数の魔力弾が飛来する。
距離があってさすがにまだ新島には追い付けないが、それで充分。

「スバル! こっちで追い込むから、アンタは先周り。行けるわね!」
「うん!」

ティアナの指示に従い、体勢を立て直したスバルは新島の進行方向とは別の方向へウイングロードを展開する。
相棒が示したのは、ここから斜めに数ブロック先の袋小路だ。
しかし、それすらも新島には読まれている。

「へっ、この様子だと俺様を罠にはめるつもりらしいが……」

まだまだ甘い。新島は既にこのフィールドの構造を把握している。
彼の脳裏に描き出された詳細な地図を見れば、ティアナの目論見は一目瞭然だった。

だが、敢えてここはその策に乗る。
ティアナに誘導されるまま、袋小路へと進む新島。
そして、ついに彼は三方を壁に覆われた路地に追い込まれた。

「もう逃げられませんよ!」
「ここでギブアップすれば、怪我をしなくて済みますが?」
「ケケケ、ちょいと気が早ぇんじゃねぇか? まだ俺様はピンピンしてるぜ」
「それなら!」

絶体絶命であるにもかかわらず、状況をわきまえずに挑発する新島に対し、ティアナは魔力弾を放つ。
回避不可能な光球の乱舞。だがそれも、逃亡最速の男を捉えるには至らない。

「なんのぉ! 新島式『無影八艘飛び(むえいはっそうとび)』!!」

新島は時にうねうねと体をくねらせ、時に異常な敏捷性で光球の乱舞を掻い潜る。
その上で、彼が逃げ込んだのは……スバルの背中。
目前には迫る魔力弾。すなわち、スバルを盾にするつもりなのだ。

「え、ちょっ!?」
「スバル、シールド!」
「う、うん!」
「ヒャハハハ! 俺様を捕まえようなんざ百年早いんだよぉ!」

スバルが魔力弾を受け止めてる間に、新島はあっという間にその場から姿を消す。
全く以って、呆れ果てるばかりの逃げ足の速さである。

その後も、三人のやり取りに大きな変化はない。
逃げる新島と追うスターズ。だが、幾ら追っても追いつけず、何度追い詰めてもその悉くが抜けられる。
また、徐々に新島の身体を包む衣装はその数を減らし、追う側をなんとも言えない気分にさせた。
いったい自分達はなにをしているのだろうと言う、物悲しい気分に。

「キャ――――! 変態が、変態が追ってくるよぉ~!」
「「誰が変態だ!!」」

それはまぁ、逃げる男の服を剥きながら追い掛けるとなれば、年頃の少女には少々酷だろう。
挙句の果てにこの言われようだ、無理もない。

しかし、そんな不毛な追いかけっこにもやがて終りの時がやってくる。
ただしそれは、鬼が獲物を捕まえるのとは別の形で。

突如なんの前触れもなく足を止める新島。
追っていた二人も自然足を止め、逃がさぬよう警戒する。
迂闊に飛び込めば逃がしてしまう、ここまでのやり取りで嫌と言うほど思い知らされた事だ。

「もう逃げないんですか?」
「散々百合だの何だのと言ってくれて……もう謝っても許さないわよ!!」
「べっつに~……」

睨みつけるティアナに対し、新島はあくまで息一つ切らさずに余裕の表情。
だが、そこで彼は硬く拳を握り、近場の壁に叩きつけた。

「準備が出来たからな。逃げる必要がねぇんだよ」
「なにを……」
「スバル、上!」
「っ!?」
「ほれほれ、早く逃げないと埋まっちまうぞ~」

上空から降ってくるのは、無数の瓦礫。
見れば、新島が殴った壁には亀裂があり、それは延々と二人の横に立つビルの上までつながっている。
そしてその先には、崩れ去ったビルの壁面。

「どうやら知らなかったみてぇだが、ここは昨日から兼一とジークの奴がやり合ったフィールドをそのまま利用してるんだよ。御蔭で、辺り一面破損だらけ。ちょいと仕込みをしてやれば、小さな衝撃一つでこの有様よ」

仕込み自体は事前に施したものではない。全て、たった今逃げながら仕込んだものだ。
恐るべき早技による即席トラップ。
それもこの量では、全てを蹴散らす事も出来ない。

「くっ、やられた……」
「ティア、そこから抜けられる!」

スバルが示したのは、僅かに残された罠の隙。
二人は急ぎ脱出するが、それすらも新島の掌の内の事。

「甘ぇな。罠を張る時は、わざと逃げ道を用意しておくものだぜ。そうすりゃ、選択の幅を狭められるからな。
 覚えておけ、ガキ共。あからさまな逃げ道は死路だ、ほれ」
「っ、これって……」

気軽に新島から投げ渡される、歪な楕円形の物体。
正体は『閃光弾』。バリアジャケットといえど光までは防げない。
眩い光が二人の視界を焼き尽くし、人間の最大の情報源である視覚を封じた。

「さて、見えない眼でどうやって逃げるんだ?」

二人に届いたのは新島の底意地の悪い声だけ。
だが、それだけでも見えぬ眼にはありありと新島の嘲笑が描き出されていた。

しかし、二人にそれに反発していられる時間はない。
先ほど新島が打ちつけた拳を引き金に起こった崩壊はまだ収まっておらず、連鎖的に二人の周囲が崩れていく。
雨霰と降り注ぐ瓦礫。どちらに逃げるかも定まらないその状況の中、二人は武骨な雨に呑み込まれていった。

「敗因は、俺様とフィールドへの警戒を怠った事だ。
 魔法をちらつかせればそっちに目が行くと思ったが、大当たりだったな」

思うがままに事が運び、上機嫌に哄笑を上げる新島。
だがそこで、一陣の風と共に濛々と立ち込めた粉塵が払われる。
するとそこには、ギリギリのところで瓦礫の雨から逃れたティアナの姿。

「ほう……」

ティアナの姿を認め、新島は僅かに感嘆の声を漏らす。
スバルが思い切り突き飛ばして逃がしたと言ったところか。
将を守る為に兵が盾となるのは当然の事。その意味では、スバルは見事役目を果たしたと言えるだろう。

「たいした献身だが、本人は生き埋めで戦線離脱。
さて、いったいお前はこの先どうするつもりだ?」
「っ……! やるわよ、スバルの為に勝たなきゃいけないのよ!」
「一か八かの突撃思考か。だが……」

歯ぎしりと共に、新島にクロスミラージュを突きつけるティアナ。
しかし彼女が引き金を引く前に、足元で何かが炸裂した。

「ああ、言い忘れてたが、さっきすれ違った時にカートリッジっつーのをあるだけ掏らせてもらったぜ。
 確か、あれには魔力が詰まってるんだろ?
俺に魔法は使えねぇから実感がわかねぇが、そんなもんが足元で大量に爆発したらどうなるのかねぇ」
「……」
「って、聞いてねぇか。お~い、終わったぞぉ~」

思いもしない、完全に無防備だった場所への攻撃。
それは容易くティアナの意識を刈りとり、模擬戦を終結させた。

結果は無傷の新島と、良い様に踊らされた二人と言う惨憺たるもの。
見事なまでに、格の違いを見せつける結末だった。



  *  *  *  *  *



その日の深夜。
ティアナはまたも一人遅くまで自主練に励む。

ホテルアグスタに続き、先の模擬戦でも何もできずに負けた。
その悔しさを振り払う様に、ティアナはひたすら訓練に没頭する。
とそこへ、不躾な声が彼女の背に掛かった。

「よぉ、何やってんだ小娘」
「……」

新島の姿を認めるや、即座に顔を背けるティアナ。
良い様に踊らされたせいもあるが、それ以上にこの相手は好きになれない。

「無視か。ま、かまわねぇがな。
 ところで、お前は良く頑張ってるそうだが…強く願えば夢は叶うとか、諦めなければ才能の差も覆せるとか、本気で信じてる口か?」
「だったら、なんですか……」
「いや、別に何を信じるのもお前の自由だぜ。ただな、俺様はそんなものは嘘だと思ってるってだけだ」

その言葉に、ティアナの表情が歪む。
新島はそれを見てとると、ティアナにはわからない様に僅かに口元を邪悪に歪め、さらに言い募る。
これが、第二のステップだから。

「どんなに努力しようと、必要なものが不足していればかなわない。それが現実だ。
 誰のせいでもなく、全ては足りないそいつの責任なんだよ。わかるか?」
「そんな事、今更……!」

言われなくてもわかってる。
だから、その足りない分を補うためにティアナは死にもの狂いで努力しているのだ。

「ふっ……話は変わるが、俺様は昔『人間分類学』ってもんを研究してた。こいつは言うなれば、人間は全て生まれ持った『分』によって決まるっつー考えだ。人の上に立つ人間、社会の最下層にへばりつく人間、そう言うのははじめから決まっていると俺様は信じて“きた”わけだ」
「…………」
「その分類上、お前は良いとこ『秀才』ってとこか。
がんばればそれなりに何でもやれるが、これはっつーもんがない。ま、所謂器用貧乏だな」

それは、ティアナ自身もわかっている事。
努力すればある程度のところまではできる、しかしその先には至れない。
それが、今のティアナが置かれている状況だ。

「やめとけやめとけ、才能のない奴が必要以上に無理しても苦しいだけ。
今のお前は、なるべくしてなったもんだ。受け入れちまった方が楽だぞ」
「うるさい!」
「おお、怖っ……ま、気の済むまでやればいいさ。
 ああ、そうそう。一応言っておくとな、コマとしての自分の役割を正しく認識した上で運用する。
それが優れたリーダーの第一歩だぜぇ~」

言うだけ言って、新島は足早にティアナの前から消える。
残されたのは、幼子の様に足元を見つめて涙を堪える少女だけ。

「私は、絶対に……諦めない! 絶対に、こんな所で……!!」

語調に反し、そこに込められた感情には弱さが垣間見える。
追い詰められて追い詰められて、ティアナの心はすでに限界が近づきつつあった。
すべては、新島の思惑通りに……。



で、散々ティアナを追い詰めた新島はどうしたのか。
隊舎の前まで戻ると、そこには険しい顔つきで居並ぶ隊長陣と兼一の姿。
兼一は新島を発見すると、一気に駆け寄り感情のおもむくままに掴みかかった。

「にぃ~じぃ~まぁ~! おまい…そん…こん…ぶぁ…ぶぁかちんがぁ~!!」
「おいおい相棒、呂律が回ってないぞ。ちょっと落ち着けって。ほら、深呼吸深呼吸。
 一児の父が、鬼みたいな顔をするもんじゃねぇぞ」

新島はそれに動じた風もなく、軽い調子で兼一の肩を叩く。
兼一はなんとか怒りを抑え、どうにかこうにか呼吸を整えた。
そして、再度新島を怒鳴りつける。

「新島、貴様ぁ――――――――――――!! 余計に追い詰めてどうする――――――――!!
『俺に任せておけ』って自信満々に言うから信じて見れば、なんてことしてくれたんだ、この最低星人!!!」
「いやぁ、そんな褒めるなって。照れちまうじゃねぇか」
「褒めてる訳あるか―――――――――――!!! ああもう、お前の口車に乗った僕がバカだった!!」

それは他の面々も同じ事らしく、兼一が真っ先にヒートアップした事でなんとか自制が効いているが、一瞬兼一が遅れれば他のだれかが同じ事をしていただろう。
実際、それぞれの手には既にデバイスがあり、ビリビリと怒りの気配が伝わってくる。
もし答えを間違えれば、その瞬間新島の命はない。
にもかかわらず、新島は余裕に満ちた様子でこう言った。

「そう言うなって、これでも考えあっての事なんだからよ。
策はまだ始まったばかり、答えを急ぐもんじゃねぇぞ、兼一」
「お前、何を悠長に…………どういう意味だ、それ?」
「やれやれ。あんま策ってのは、声高に説明するもんじゃねぇんだがな」
「そこまで言うんなら、納得のいく説明をしてもらおうじゃねぇか」
「わかっているだろうが……内容によっては容赦せんぞ」

呆れたように肩を竦める新島に対し、ヴィータとシグナムがそれぞれ愛機を突きつける。
場合によっては、その場で攻撃すると言う意思の表れだ。

「その前に良い事を教えてやる。一流の策士は人の心の動きを読むもんだ。
だが、超一流の策士は………その動きすらも操っちまうもんなんだぜ」
「貴様がそうだと?」
「奥ゆかしい俺様は敢えて『そうだ』とは言わん。が、全ては結果が教えてくれるだろうよ」

そうして彼は、己が策の全容を語る。
新島春男…最低最悪にして卑怯千万、骨の髄まで腐った上に、他人を自分の駒としか考えない宇宙人の皮を被った悪魔。疫病神をも裸足で逃げ出す大害虫…とはその一番の悪友の評。
だが、彼は同時にこうも評した。

「でも、心の底から残念なことに…アイツの人を操る能力だけは……本物だ」

その自らが評した悪友の真価を、兼一はそこで知ることとなる。
全ては、この稀代の策士の掌の上なのだから。






あとがき

はい、今回は凄く速く書けました。
何と言うか、久しぶりにとても楽しく書けたおかげですね。

しかし、大半の方は前回のあとがきで「悪魔」と書いたら、やっぱりなのはの方を連想したご様子。
すみません、悪魔は悪魔でも白さの欠片もない悪魔でした。
一応山場には突入しましたが、ここはまだ登りの半分位。次回で登り切って下れればと思います。

ちなみに、新島が最後にティアナを追い詰める為にかなりひどい事を言っていますが、一応それらは「俺様は信じて“きた”」が示す通り、過去形です。兼一の成長を見てきた事で、認識を改めています。
そこを、あえてわかり辛い形で言ってるだけですので、そこだけはご理解ください。


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